竹野内豊のコミカルな魅力から探る、「アラフォー俳優」サバイバルの条件

【リアルサウンドより】  福山雅治、西島秀俊、伊藤英明、大森南朋、大泉洋、加瀬亮、長谷川博己、堺雅人など、現在、アラフォー俳優が映画やドラマにひっぱりだこだ。そんな中、同じ世代の俳優の中では比較的ブレイクの早かった竹野内豊は現在、若い頃とは違う魅力が増してきているように思う。競合が少ないようで、実は多いアラフォー俳優の中で、竹野内豊はいかに戦っているのだろうか。  8月22日に公開の映画『at Home』主演の竹野内豊は、一見、良きパパに見えるのだが、実は幸せそうなその家族は偽装家族で、竹野内は偽装パパを演じているのだった。しかも、家族全員が泥棒や結婚詐欺など、犯罪で生計を立てているとわかる、衝撃的なシーンから映画は始まる。しかし、なぜこの家族がこの形になっていったのかが徐々にわかっていくと、竹野内演じる父親の温かさが見えてくるのだ。  竹野内と言えば、1997年の『ビーチボーイズ』で反町隆史と共演して一世を風靡したがことが記憶に残っている人も多いだろう。しかし、44歳になった今ではすっかり渋みのある俳優のひとりとなっている。また、現在はそこにコミカルな味も加わった。世間にそんなイメージが広まったのは、JT「Roots アロマボトルシリーズ」のCMではなかっただろうか。  例えば、竹野内演じる部長が商談に成功し、社に颯爽と戻って部下に報告しようとするも、スーツの袖がドアノブにひっかかってしまったというものや、契約が取れて戻ってきた部下に握手を求めるが、タイミングを逃してしまい、非常階段で拗ねてしまったり......というエピソードがあり、見ているものを笑わせる。部長らしくかっこよくしようとすればするほど、ドジな姿をさらしてしまい、そして部長なのに簡単に凹んでしまう。竹野内の同世代が、若いころに描いていたような大人にはなれなかったことを表しているようにも感じられた。
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(C)映画『at Home』製作委員会

 このCMの始まった2011年には、『大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇』で初めてコメディ映画にも挑戦している。この映画は、ひょんなきっかけから地獄を旅行することになった新婚夫婦が、その道中で、あるきょうだいに出会い、家族のような感情を抱いていく姿を描いたものである。疑似家族的な感情を描いたという意味では、『at Home』にもつながるが、鈴木福や橋本愛が顔を青く塗って登場するという今考えると不思議な、お宝的な作品でもある。そして、この作品での、竹野内の、おおげさな演技はしないが、なんとなく笑えるキャラクターは、今につながっているように見えた。  そのトボけた魅力は、2014年のドラマ『素敵な選TAXI』で満開となった。渋くてかっこいい風貌の大人の男が、ひょうひょうとしているだけで、もうどこかコミカルに見えてしまう。無理に笑わせようとしない竹野内の抑えた演技が、逆に笑いを誘うのだ。  40代になると、丹精な顔立ちの俳優は、イケメンであるがゆえにコミカルな存在になってしまうことがある。『結婚できない男』や『テルマエ・ロマエ』の阿部寛を考えるとわかりやすいだろうか。仲村トオルもまた、40歳を過ぎて、ケラリーノ・サントロヴィッチの作品『怪奇恋愛作戦』や舞台などでトボけた味わいのある演技を披露している。  イケメンとくくられる俳優たちは、30代が正念場と言われているのを聞いたことがある。10代から20代前半にはドラマや舞台でも青春群像劇が多く需要があるが、30代になると群像劇がぐっと減る。また、顔が整っているぶん凡庸に見えて、個性が見ているものに伝わりづらいということもあるだろう。しかし、40代になると、その年齢までイケメンとして存在していることが世間的に珍しいことになり、それが個性として受け止められることもある。そして、普通にしていればしているほど、それが"おかしみ"として伝わってくるのかもしれない。 ■西森路代 ライター。1972年生まれ。大学卒業後、地方テレビ局のOLを経て上京。派遣、編集プロダクション、ラジオディレクターを経てフリーランスライターに。アジアのエンターテイメントと女子、人気について主に執筆。共著に「女子会2.0」がある。また、TBS RADIO 文化系トークラジオ Lifeにも出演している。 ■公開情報 『at Home』 8月22日ロードショー 公式サイト

有村架純に続くブレイクなるか? 『忘れ雪』出演の"あまちゃん女優"大野いとの可能性

 放映から2年も経って、まだ『あまちゃん』の話をするのもどこか憚られるものがあるが、出演した若手役者が軒並みブレイクしていることを考えると、ひとつのジャンルとして成立してしまったことは否定できない。  この「あまちゃん女優」というジャンルの中では、最近何かと話題の能年玲奈はもちろんのこと、橋本愛と有村架純が多く語られるが、2015年になると東京編で登場した女優が順々にブレイクし始めるのである。  『問題のあるレストラン』(2015年)で好演を見せ、バラエティでもその存在感を発揮する松岡茉優、夏ドラマ『デスノート』のニア役でさらなる注目を期待される優希美青。  そして、まだ今ひとつブレイクと呼べるほど弾け切れていないが、この先少なからず「あまちゃん女優」の一人として語られるであろう逸材がいる。それが大野いとだ。  個人的には、ようやく注目されるようになったか、と少し親目線(年齢的には近所のお兄さんみたいな目線か)で見てしまうわけだが、そんな嬉しさも反面、ついに見つかってしまったか、という口惜しさも少なからずある。  14歳のときにスカウトされ、『Seventeen』(集英社)のモデルとしてデビューした彼女は、翌年には人気漫画『高校デビュー』の映画版の主演に抜擢され、華々しくスクリーンデビューを果たす。と、理想的なシンデレラストーリーのように思わせておいて、その年に発表された「スポーツ報知蛇いちご賞」の〝最低〟新人賞を獲得してしまうのである。その理由は極めて明確である。彼女は、誰がどう見ても台詞読みが下手すぎたのだ。起伏のない、俗に言う「棒読み」というものである。  それでも公開当時、女子中高生しかいない劇場でこの映画を観た筆者が驚愕したのは、ヒロインの棒読みでもなければ、上映中に劇場中から鳴り止まない携帯電話の着信音でもない。まったくの新人女優が、演技において最も難しいとされる喜劇を、しかもこんな軽調なスラップスティックコメディを全身で演じきっていたのだ。とにかく大げさな表情の作り込みと動作、「この映画は私のものだ!」と言わんばかりに放たれる勢いに、天才的なコメディエンヌの誕生を予感させられるものの、やはりどうしても彼女が喋ると少々我に還ってしまう。  とはいえ、映画デビューから数年の間に7本の映画に出演と、コンスタントに続いていくのは、少なからず彼女の演技ポテンシャルが認められているからに違いない。だからと言って、一向に台詞回しは上手くはならないのだが、ここまで来るとさすがに観慣れてくるし、何より演じるキャラクターの幅広さがそれをカバーしているのだ。  2作目の映画となった三池崇史の『愛と誠』(2012年)では、オリジナル版(『続・愛と誠』)で多岐川裕美が演じたスケバン・高原由紀を演じ、劇中で藤圭子の「夢は夜ひらく」を歌う。デビュー作とは一転して、終始無表情のミステリアスな役を演じ、イメージを一新したと思いきや、続く福山桜子の『愛を歌うより俺に溺れろ!』(2012年)では男装バンドを率いる女子高の王子を演じ、再び少女漫画映画のヒロインに戻る。  そうして映画やテレビドラマ、感動作から喜劇、サスペンスと、彼女の演技は間違いなく成長しているのだけれど、やはり台詞が気にかかって仕方がない。  そんな折、今年の初夏に公開されたSABUの『天の茶助』は画期的であった。後天的に声を失い、最後まで台詞が回ってこないヒロインという、一見すると非常に難しい役を演じなくてはならない上、相手が当代きっての演技派、松山ケンイチときたら、こんなにも都合の悪い話があるだろうか。しかし彼女は、表情と所作だけで理想的なヒロイン・新城ユリを演じきってしまったのだ。たしかに少しばかり瞬きが多い気がするし、繊細な喜劇演技はまだまだ改良の余地が残る印象を受ける。  それでも、劇中で車に跳ね飛ばされる直前、天使役の松山ケンイチと路上で衝突してゆっくり立ち上がる一連の動きだけで、この映画における理想的なヒロイン像を超越して、正真正銘の天使のようにスクリーン上に君臨した。
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『忘れ雪』場面写真

 そんな彼女の出演映画はこの後も続く。まずは秋に公開するハン・サンヒの『忘れ雪』。子供の頃に結婚を約束した相手を想い続ける女性を演じ、台詞量は多いものの、ペットと戯れて見せる笑顔など、自然体の彼女の表情を見ることができる。ハン・サンヒ監督といえば、『初雪の恋 ヴァージン・スノー』でブレイク途上だった宮崎あおいをヒロインに迎えている女優選びの名人。劇中での大野いとの台詞の中に、彼女の出演作を想起させる台詞が出てくることから、そこで彼女を見つけ出して抜擢したと考えると、なかなか面白い。  また来年にはアジア圏の名監督に愛される音楽家・半野喜弘の初監督作のヒロインも待機しており、日本を飛び出してアジア圏でも注目されるチャンスを秘めている。  大野いとが、「あまちゃん女優」という冠を払いのけ、ひとりの女優「大野いと」として語られる日が近付いているのだ。 ◼️久保田和馬 映画ライター。1989年生まれ。現在、監督業準備中。好きな映画監督は、アラン・レネ、アンドレ・カイヤット、ジャン=ガブリエル・アルビコッコ、ルイス・ブニュエル、ロベール・ブレッソンなど。Twitter ■公開情報 『忘れ雪』 2015年秋公開予定 公式サイト

『インサイド・ヘッド』のインサイド "狂気の情報量"を投入する米国アニメに迫る

【リアルサウンドより】

宮﨑駿を魅了した、ピクサー監督の奇想と愛情

 先日、宮﨑駿が、あるアニメーション映画の試写を鑑賞直後、立ち上がって拍手したという。その作品は細田守監督の『バケモノの子』......ではなく、ピクサー・アニメーション・スタジオ新作『インサイド・ヘッド』であった。『バケモノの子』で、バケモノの精神を少年が受け継ぐ物語が、ややもすると「アニメ界のバケモノ宮﨑駿の魂を受け継ぐのは自分である」という宣言に見えるほど、細田監督が自作で宮崎作品へのラブコールを繰り返してきたのと同様、『インサイド・ヘッド』のピート・ドクター監督も、『カールじいさんの空飛ぶ家』の空中戦などにおいて、同様に宮崎作品からの影響を熱く表現してみせている。巷では「ポスト宮崎待望論」がささやかれるが、近年の見事なピクサー作品を観ると、日本のアニメーション監督に限定して考える必要はないかもしれないと感じる。  『インサイド・ヘッド』で目を引くのは、頭の中をひとつの世界として戯画化する挑戦だ。ヨロコビ、イカリ、ムカムカなど5つの感情が、それぞれ擬人化したキャラクターとして現れ、それらが脳の持ち主である人間の行動をコントロールし、ピンボールのように流れ込んでくる個々の記憶を整理し、巨大な図書館の棚のような脳内のひだに格納していく。映画は、少女ライリーが直面する現実の物語と、脳内の物語が、それぞれに干渉し合いながら進行し、その両面が描かれる。ピクサー作品のなかで最も個性的なコンセプトの作品といえるだろう。  ピクサー内部でも「天才」と名高いブラッド・バード監督が実写作品に移行するなか、主要スタッフ、監督としてピクサーでアニメーション表現を追及し続けてきたピート・ドクターは、ジョン・ラセターやバードと比較すると、テーマや演出においては、個性がやや弱い印象がある。だが、彼の持ち味は、モンスターの会社や、風船で空を飛ぶ家など、物語を生み出す上での突飛な発想力だといえる。ピートは、瞑想室のような薄暗いプライヴェート・オフィスで独創的な案をひねり出す。
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(C)2015 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

 物語のなかで、都会に引っ越し、生まれ住んだ家や友達と離れた悲しみを無理に抑圧しようとしたライリーは、転校初日、教室のみんなに挨拶をしながら思わず涙を溢れさせてしまう。それは脳内では、悲しみの感情を司るカナシミの、無意識の行動としても描かれる。ライリーを不幸にするだけの存在だと思われていたカナシミだが、ヨロコビとともに脳内を冒険するなかで、他人の傷ついた心に寄り添い共感する特別な能力を持っているということが分かってくる。ライリーは、脳内の感情たちとともに、世界の実像に触れ成長していく。  ピート・ドクターは、監督作『モンスターズ・インク』の少女を、自身の小さな娘をモデルに、『インサイド・ヘッド』でも思春期に入った娘の心理からインスピレーションを得ている。それが少女の心理や、その親の感情表現に、より深い実感を与えていることは言うまでもない。完成まで5年と、ピクサー作品としても例外的に長期製作になったことから分かるように、この難物の企画を、それでも完成し得たのは、奇想と実直を併せ持つピート・ドクターならではといえる。  脳の構造と精神分析的な知識を散りばめた物語は、小さな子供の観客には難し過ぎるかもしれない。けれども、現実世界がそうであるように、子供たちは作品世界の全てを理解する必要はない。脳内世界の住人の謎や、精神の奥底への畏怖や美しさは、子供たちの心の奥に、咀嚼できない体験として、そのままゴツンと残り続けるだろう。そして、脳のしわのなかに潜んでいた、あのイマジナリー・フレンドのように、いつか再会できる日が来るかもしれない。
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アメリカ製劇場アニメの狂気の情報量

 ピクサーの映像表現は、新作の度に大幅に更新されるが、本作においても、数作前のピクサー作品と比較にならないほど、さらに繊細に鬼気迫る完成度に達している。カラフルに彩られ、漫画的軽やかさに満ちた脳内世界に対し、彩度が抑えられ、ひんやりとした質感でライリーを追った現実世界のパートは、日常シーンが多く見逃しがちになるが、例えばライリーが自己紹介する教室の、生徒たちが思い思いに行動する描写など、目を凝らすと気が遠くなるほどの情報が画面にあふれ、従来の作品であれば大スペクタルになり得る表現が、多くのシーンで当たり前に炸裂していることが分かる。  作品づくりへの愛情や、ピクサーを立ち上げたジョン・ラセターの信念に裏打ちされていることはもちろんだが、この狂気のような情報量を投入する理由は、ライバルとなるスタジオの存在も大きい。今夏は、アニメ作品だけでも イルミネーション・エンターテインメントの『ミニオンズ』、アードマン・アニメーションズの『ひつじのショーン バック・トゥ・ザ・ホーム』など強敵が立ちふさがる。同じくジョン・ラセターが製作の最高責任者として統括する同系列のスタジオとはいえ、CGアニメーションの祖・ピクサーとして、ディズニーに負けたくないという想いもあるだろう。  その戦いは、CGの限界に挑んだ豪華な映像だけにとどまらない。ピクサーでは脚本づくりのため、制作者、監督、ストーリー・アーティスト、各部門のスタッフによる、ときに数年に及ぶ脚本会議によって、ストーリーをブラッシュアップさせてゆく方法をとっている。これはラセターがピクサーで確立したストーリー作成法であり、今では『アナと雪の女王』などディズニー映画も、ラセターが製作責任者になったことで、この「ピクサー流」で進行されている。シナリオの弱い部分について「こうした方がいい」と鑑賞後に言い合ったりするのは、映画好きにとっても楽しい儀式だ。だがピクサー作品においては、大多数が考えるだろう脚本上の致命的な問題点は、すでに脚本会議で克服されている場合が多い。  『ミニオンズ』もそうであるように、近年のアメリカ製アニメ大作の脚本は、大量のギャグを含めた案を休まず次々に投入する。CGなど表に出る部分だけでなく、脚本でも加速競争が過熱し、熾烈な総力戦が展開されるのである。この異常にスピーディなテンポの作品に慣れてしまうと、カンフーの達人にでもなったように、日本の一般的なアニメ作品が、まるでスローモーションのように見え、物足りなくなってしまう。

古典喜劇へと回帰するアニメーションの舞台

 この、次々にユーモアを繰り出す作劇は、アメリカ映画においては、かつて「スクリューボール・コメディ」と呼ばれた、洒脱なコメディ・ジャンルを想起させる。それは、アメリカのアニメーションが本質的に喜劇として作られているからであろう。ハリウッドで成功したエルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダーという、演出家、脚本家でもあるアイディアマンは、ひとつの映画の中に大量の案を詰め込み、ハワード・ホークス監督はハイスピードの演出が連続する一連の喜劇を生み出した。日本においては川島雄三監督が代表的だ。  スクリューボール・コメディの源流は、「ヴォードヴィル」と呼ばれるパリの舞台喜劇である。そこでは、比較的ナンセンスギャグの少ない『インサイド・ヘッド』のような感動させる作品も同ジャンルとして扱われる。かつてチャップリンやバスター・キートン、ハロルド・ロイドなどサイレント期の喜劇スターたちは、芸人として様々なコメディ表現を映画に持ち込んだが、とくに好評を博したのが「スラップスティック」という、大げさな身振りや活劇で観客を沸かせる方法であり、これをそのまま継承したのが、ジャッキー・チェンやトム・クルーズのスタント・アクションである。  ハリウッド映画は、商業的に、より多くの観客に好まれる、映像的なスラップスティック的価値観に傾き、ヴォードヴィル風作品は、一部例外を除き、映画よりむしろTVが主戦場になっていったといえるだろう。TVで生まれた「ザ・シンプソンズ」は、ブラックなギャグが限界量まで連打され続けるコメディとして、アメリカの象徴的アニメーションになっているし、TV演出家であった『ブライズメイズ』のポール・フェイグなど、スクリューボール的感覚を映画に逆輸入した監督もいる。CGによってときに実写を乗り越える圧倒的リアリティを獲得したことで、米国製アニメーションは、このような、かつての洗練された質の高いコメディ表現を「映画」の世界にふたたび蘇らせることのできる、一大フィールドを得たといえる。  この圧倒的な質と情報量を持つ大作に、他国のスタジオが対抗するとき、映像や脚本を、「余韻」「情緒」という曖昧な「芸術性」でごまかすことは、もう難しくなってきているのではと感じる。英国のアードマン・スタジオのように、粘土の手作り感を強調し伝統工芸化することで、CGに対する生存戦略を選び取ったように、日本で主流の手描きアニメーションに必要なのは、ドローイングの魅力の追求であるように思う。また脚本においても、かつてガレージ・カンパニーであったピクサーのように、『インサイド・ヘッド』などの独創的発想を生み出すことや、脚本の整合性強化へ向け、手立てを打つことはできるはずである。  しかし、ピクサー流の会議による脚本づくりが、唯一の正しい道というわけでもない。ひとりで脚本を練り上げることは、思い込みに引っ張られもするが、それだけに常識をはずれた強い推進力を得ることもある。実際、宮﨑駿は多くの監督作品において、絵コンテを描きながらひとりで物語を作り出してきたのである。『バケモノの子』では、細田監督が初の単独脚本に挑んだが、彼が目指し挑戦するのは、紛れもなくこの強い作家性による作品づくりの道であろう。そして、その先には強烈な作家性を持つ「天才」ブラッド・バードもいるはずである。 ■小野寺系(k.onodera) 映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト ■公開情報 『インサイド・ヘッド』 公開中 公式サイト

朝ドラ『まれ』出演中の清水富美加がぶっちゃけトーク「オーディションは計算してやりました」

【リアルサウンドより】
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清水富美加公式ページ(レプロエンタテインメント)より

 朝の連続テレビ小説『まれ』(NHK)にヒロインの親友役として出演中の清水富美加が10日、『しゃべくり007』(日本テレビ)に出演。"芸人が共演したくなる若手女優NO.1"という触れ込みで登場し、事務所のオーディションにキャラを作って挑んだことなどをあけすけに話し、観客の笑いを誘った。  14歳でデビューし、女優業だけでなくコントや音楽番組のMCにも挑戦する20歳の清水。芸能界入りのきっかけは、友人と渋谷に遊びに行った際に事務所のオーディション告知イベントを見たことだったという。司会のくりぃむしちゅー・上田晋也に「それで受けて、すんなり入ったわけだ?」と訊かれると、素直に認める清水。「でも(オーディションの際は)けっこう計算してやりました。中学2年生にしては。正直、中学生のとき、すごいモテてたんですね」と言うと、「気持ちいいね! なかなか自分でそういうこと言う人いないもんね」と上田が賞賛し、会場も爆笑した。「自分でもかわいいと思ってた?」と訊かれると「そのときは勘違いして思ってました。でも......」と切り返し、"オーディション突破術"が明かされた。  オーディションでは「すでにオーラがある人とか、すごいおっぱいが大きいおねえさんとか」が並んでおり、「自分はアカだらけのブスだ」「普通にやっても受からない」と考えた清水は、わざとマイクに頭をぶつけたり、最後の一言ではミュージシャン・DAIGOのように気だるい口調で「グランプリください」と言い放ったりと工夫した。その甲斐あって"グッドキャラクター賞"を受賞し、所属が決定したのだそうだ。  清水のぶっちゃけトークはまだまだ続く。朝ドラ『まれ』に出演するにあたってヒロインオーディションを受けたことについて、「最初はヒロインしかやりたくないくらいの気持ちで、かなり"ギンギン"で。朝ドラのヒロインなんて、言ってしまえばわかりやすく売れるじゃないですか。売れたかったんです」。周囲に対しても"オラオラ"モードで、「一生懸命がんばります」といった挨拶をしている他の女優に対し、「一生懸命がんばるとか当たり前だから。ハイハイ、そういう感じね」と闘志を燃やしていた。結果、オーディションは落ちてしまったが、親友役で打診がくることに。はじめは「ヒロイン本当にやりたかったので」と迷ったが、父に相談したところ「主役を張れる器じゃない」「修行してこい」と言われ、出演を決めたという。  悔しさ混じりで決まった朝ドラ出演だったが、ヒロイン・土屋太鳳について妬むような気持ちは「まったくなかったです」。「いつ死んでも天国に行くくらい、すっごい良い子なんですよ」と話し、「勝手に殺すな!」と上田にツッコまれていた。土屋は多忙を極めるスケジュールでも、常に笑顔で現場入りするのだという。  話題は変わって『HK 変態仮面』(2013年)に出演したときのエピソードに。主演をつとめた鈴木亮平の水着は面積が少なく、足を広げるようなポーズを構えたときには、「ちょっと待って。一回しまいまーす」というハプニングもあったそうだ。清水自身も水着を着て「イヤイヤイヤーン」「ウッフーン」と言わなくてはならず、「恥ずかしくて、殻を破れなくて。私の中では、そこは今でも早送り」と恥じらいが残っていると話した。  今年公開した映画では、初めてキスシーンを演じた。初めは恥ずかしかったが、現場に入ったら「よっしゃ。映画とるぞ」と覚悟が決まり、再び"ギンギン"モードになったという。ここで、清水の背後に座っていたネプチューン・原田泰造がいやらしい笑顔を浮かべるというハプニングが発生。しかし清水は笑って交わすという大人の対応を見せた。  後半では、清水の好みのタイプである"ジャンピングボーイ"というスタッフとのLINEのやりとりを公開するというコーナーに。「ホルモンって最高ですね」など雑談を繰り広げていたが、"延々と肉の話を続ける""途中で唐突に「おえ~~~~~~。」と送信する"など不思議な面も多く、会場を笑わせた。  お笑い芸人相手に堂々と振る舞い、トーク力を発揮した清水。22日には24時間テレビドラマスペシャル『母さん、俺は大丈夫』への出演が決まっており、女優として今後が期待されるが、バラエティでの活躍も予感させる番組だった。 (文=岩倉マコ)

窪田正孝、菅田将暉……連ドラ出演中の売れっ子若手俳優は、"理想の寄り添い男子"だ

【リアルサウンドより】  映画界ではすでに監督やプロデューサー、評論家たちからその実力が高く評価されている窪田正孝(26)と菅田将暉(22)が、この7月クール、〈民放〉の〈ゴールデンタイム〉で〈連ドラ〉の初主演を果たした。窪田は『デスノート』(日本テレビ)で、名前を書き込んだ人を死に至らしめるノートを手にした青年を演じる。そして菅田は『民王』(テレビ朝日)で、総理大臣の父と中身が入れ替わるモラトリアムの息子を演じている。どちらもいわゆるファンタジーだが、二人の特性を活かしながら現代日本を描き出す作品となっている。  窪田は06年に深夜の連ドラ、菅田は09年のライダーと、彼らのデビューはそれぞれ主演というポジションだったが、それらはいわゆる若手育成枠。その後も知る人ぞ知る存在として、深夜ドラマから映画まで、役の大小や作品のジャンルにこだわらず地道に経験を積んできたため、二人とも出演本数がとにかく多い。そして、NHKの朝ドラに出演し、一般的な認知度が高まった。
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『デスノート』(日本テレビ)公式サイトより

 窪田の武器は、「弱者に寄り添うキャラクター」を演じたときの爆発力だ。2011年9月に公開された『僕たちは世界を変えることができない』(深作健太監督)で演じた、カンボジアに小学校を作る大学生役で、ブルーハーツの「青空」を号泣しながら絶唱する姿ですべてをかっさらってしまった。翌12年の『ふがいない僕は空を見た』(タナダユキ監督)では、その日食うものにも困窮するほどの貧しい家庭から脱出しようともがく高校生役を、そんな経験はないはずなのに、当事者が身を切るかのように熱演した。14年のドラマ『Nのために』では、榮倉奈々が演じる貧しさから抜けだそうとする主人公を常に見守る幼なじみ役を好演。そして15年の『予告犯』(中村義洋監督)では、主人公たちの犯罪チームに手を貸すワープアのキーパーソンを演じ、少ない出演シーンながらやはり強烈な印象を残した。  これらの作品に共通するテーマは、現代日本でも深刻な問題となっている貧困や格差社会だ。00年代までは、バブルが崩壊しようが、景気が悪かろうが、映画もドラマもJ-POPも「頑張れ!」と闇雲にポジティブなエールを贈ってきたが、震災後はいよいよそんな空元気が通用しなくなり、自ずと映画やドラマが描くテーマやキャラクター、そこに求められる役者にも変化が生じた。窪田は先述した役柄を演じることで、社会の底辺にいる人の存在を静かに、しかしくっきりと浮かび上がらせ、観客に力を与えることができる。女性客にとっては理想の寄り添い男子なのだ。
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『民王』(テレビ朝日)公式サイトより

 一方、菅田将暉は2013年に二十歳で主演した『共喰い』(青山真治監督)で一気に本格派に踊り出る。下関の寂れた川辺という閉塞した環境から脱出するイメージすら持てず、父親の人生を踏襲することに怯える貧しい10代の少年役で、濡れ場にも挑戦した。『そこのみにて光輝く』(呉美保)では、函館のやはり海辺の街で、自分の不幸な境遇にすら気づいていないような姉思いのヤンキー上がりのチンピラ未満を、汚した歯をむき出しに演じ、絶賛を浴びた。  誤解を恐れずに言うと、菅田は「アホキャラ」がとてつもなく上手い。『泣くな、はらちゃん』(2013年)で演じた、姉の大切なものをことごとく捨てたり売り飛ばしたりするニートの役も、「民王」の一流大学の学生ながら〈未曾有〉を〈みぞうゆう〉と読んでしまう総理大臣の息子役も、いわゆる学も常識もない。だからこそ、今の日本がただの惰性でキープしているものや、みんなが気付かないふりをしている嘘や幻想を突拍子もない角度から指摘して、「これ、いらねんじゃね?」とあっさりと手放すことができる。上から目線で正しいことを言うのではなく、「可愛いアホキャラだけど意外と鋭いこと言うじゃん」という存在。菅田は「社会をぶっ壊してくれるのはこういうヤツなんじゃないか?」と思わせるトリックスターに、命を吹き込むことができる俳優なのだ。  最新劇場公開作でも、二人はその魅力を存分に発揮している。窪田が『ロマンス』(タナダユキ監督/8月29日公開)で演じる主人公の彼氏役は、仕事から帰ってきた彼女にベッドから「お金貸して。1万円でも1000円でもいいから」とのたまうダメンズだが、一人で過ごすよりはこのコに寄り添ってもらいたいと思うのはわかる。そして、『ピースオブケイク』(田口トモロヲ監督/9月5日公開)で菅田が演じているのは、失恋して傷ついているヒロインにルール無用で付け入ろうとするバイト仲間役。その欲望を隠さない眼差しが羨ましくすらある。  当たり前だが、映画やドラマの作り手は、社会情勢を敏感に察知する。『踊る大捜査線』や『海猿』『HERO』のように、ハンサムで頼りがいのあるスター俳優が演じるヒーローたちが「頑張れ!」と応援する作品がある一方で、震災後は社会の片隅に生きる者に焦点を当てる作品が増えてきた。窪田正孝と菅田将暉はそういった作品にリアリティを与える俳優として、ますます欠かせない存在になっていくだろう。 ■須永貴子 インタビュアー、ライター。映画を中心に、俳優や監督、お笑い芸人、アイドル、企業家から市井の人までインタビュー仕事多数。『NYLON JAPAN』『Men's EX』『Quick Japan』などに執筆。3年半にわたり取材と構成を担当した小出恵介の対談集『俺の同級生』(宝島社)が7月に書籍化。

なぜ人々はスパイ映画を好むのか? 『M:i5』『キングスマン』からジャンルの魅力を探る

【リアルサウンドより】  スパイ映画は古くより勧善懲悪のエンターテインメントとして、あるいは国際情勢を背景としたサスペンスとしてその歴史を刻んできた。奇しくも今年は映画界にとって 恰好の"スパイ年"。ビッグ・タイトルが続々と封切りを迎える。我々はなぜこれほどスパイ映画に魅了されるのか。先陣を切って公開される『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』(2015年/公開中)と『キングスマン』(2014年/9月11日公開)という対照的な二作にそのジャンルの魅力を探ってみよう。

60年代から続く老舗スパイ

 トム・クルーズが製作と主演を兼任し、96年に始動させたこの映画シリーズも今回で第5作目。結論からいくと『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』は、鑑賞した誰もが「シリーズ最高傑作!」と親指を立てたくなる破格のクオリティに仕上がった。  そもそも前身となるTVシリーズ「スパイ大作戦」が誕生したのが1966年。当時は『007』シリーズが冷戦の膠着状態に大きな風穴を空け社会現象を巻き起こした頃である。その影響を受けて『007』に類似したスーパー・エージェント物、あるいはそのアンチテーゼとも言うべきリアルなスパイ物も多数誕生した。しかし「スパイ大作戦」だけは違った。それらの枠組みとは一線を画し、特殊技能を持ったメンバーがチームとなってミッションに挑むという全く新しいスタイルを築き上げたのである(64年のクライム・コメディ『トプカピ』に着想を得たとも言われる)。
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『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』/(C)2015 Paramount Pictures. All Rights Reserved.

シリーズ最高傑作の誕生

 なぜ最新作『ローグ・ネイション』はスパイ映画として最高なのか。理由は3つある。まず何よりもトムのスタントなしのアクションがあまりに凄いのだ。軍用機にしがみつく彼の姿を予告編等で見かけた人も多いと思うが、あれはスタントなしでぜんぶ自分でやってのけている。しかも撮影の都合上、離発着を8回も繰り返したのだとか。その役者根性、ただごとではない。もはや役柄以上にトムという人間そのものがスーパー・エージェント化している逆転現象がここに見て取れる。  そして、物語のドライヴ&ツイスト感も魅力的だ。ウィーン、カサブランカ、ロンドンを股にかけたワールドワイドなミッションが視野を拡げたかと思えば、専門性や特殊技術に富んだディテール感が作品をグッと引き締める。ここに「騙し、騙され」のプロットが炸裂することでスパイ物ならではのストイックさに更なる磨きがかかる。  また、メンバーの描き方も大きな見どころとなる。今回は米国極秘諜報機関IMFの解散を受け、はじめは主人公イーサンがたったひとりで奮闘するのだが、そこにいつもの仲間が次々と集結してくる。さすがトムの厚い信頼を得たクリストファー・マッカリー(監督、脚本)、各々のキャラを最大限活かしながらそこに熱いバイブスを巻き起こす術を知っている。この笑いと友情のコンビネーションもまさにシリーズ最強。  従来の持ち味をただ踏襲するだけではマンネリズムに陥ってしまう。その点、『ミッション:インポッシブル』はかくも確実に「前作越え」の結果を出すからこそ、老舗シリーズである以上に、なおも記録を更新し続ける生涯現役選手たりえるのだろう。そこにスパイ物としての唯一無二の魅力、そしてブランド力を感じずにいられない。

スーパー・エージェントの元祖とは?

 ちなみに『007』や『ミッション〜』のようなスーパー・エージェントの歴史を遡るとどのような原点に辿りつくだろうか。映画の黎明期、スパイといえば「日常に忍び寄る恐怖」としての扱いが多かった。が、1928年にドイツの巨匠フリッツ・ラング監督が『スピオーネ』を誕生させる。一説にはこれが元祖とも言われている。  同作はサイレントながら、もう溜め息の出るほどの面白さ。なにしろ作品内に凄腕スパイ、諜報機関、コードネーム、悪の組織、さらにはツイストするプロット、ロマンス、アクションという現在の定番要素が全て揃っているのだ。ラング監督は20年代の時点で、スパイ物がありとあらゆる要素を内包し、最高のエンターテインメントとして成立しうる可能性にいち早く気付いていたのかもしれない。
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『キングスマン』/(C)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation

伝統と革新が紡ぐスタイリッシュな魅力

 話を戻そう。時にスパイ映画は、歴史にオマージュを捧げることで劇的進化、いや突然変異を遂げることがある。9月11日公開の『キングスマン』はまさにその典型と言っていい。  キングスマン、それはロンドンにある老舗高級テーラーに秘密の入口を持つスパイ機関のこと。第一次大戦以降たびたび世界を悪の脅威から救ってきたという彼らがこのたび新メンバーの募集を開始し、シングルマザーの家庭に育った一人の青年に白羽の矢が立つのだが......。  何よりも見どころは、オスカー俳優コリン・ファースがオーダーメイドのスーツを着こなし、主人公の青年を導く紳士スパイとして優雅に大暴れするシーンである。『キック・アス』シリーズのマシュー・ボーン監督が紡ぐガジェット満載のアクションはとにかくスタイリッシュかつ奇想天外な魅力がたっぷり。さらに「スーツとは?」「マナーとは?」という紳士教育の問いかけも備えており、スパイ物でありながら、若者の成長物語としても一級品となっている。
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『キングスマン』/(C)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation

60年代のエッセンスをギュッと凝縮

 また本作は、ヴォーン監督が幼少期にどっぷり浸かったスパイ物のエッセンスを凝縮させている。『007』はもちろん、『おしゃれ(秘)探偵』『0011ナポレオン・ソロ』『電撃フリント作戦』シリーズなど、オマージュを捧げられたスパイ物は枚挙に暇が無いほど。  また、キングスメンのボスとして60年代の『国際諜報局』シリーズにてジェームズ・ボンドに並ぶ人気を博したマイケル・ケインを起用しているのがニクい。当時彼が演じた"ハリー・パーマー"は、007のアンチテーゼとも言うべきリアルなサラリーマン・スパイだったが、『キングスマン』では彼にならってメンバー全員がスーツに黒ぶちメガネをかけているという凝りようなのだ。  こういった濃厚なオマージュと監督独自の強靭な創造性がケミストリーを巻き起こし、スパイ映画を全く新たな文脈で起動させようとする。そこに抗い難い面白さがある。こういった後代のクリエイターのジャンル愛の深さもまた、スパイ映画が色褪せない理由ではないだろうか。

バラエティに富んだスパイ映画大集結

 最後に、今年公開を迎える注目作も駆け足でご紹介しておこう。まずは『007』の影響を受けたTVシリーズ「0011ナポレオン・ソロ」が映画『コードネームU.N.C.L.E.』(11月4日公開)として復活する。マシュー・ヴォーンの盟友、ガイ・リッチー監督作なだけに、60年代を舞台にしたクールな映像センスと小気味いい語り口が期待できそう。  また、10月にはアメリカでスピルバーグ監督作『ブリッジ・オブ・スパイ』が封切られる(2016年に日本公開)。こちらは冷戦期、鉄のカーテンの向こう側に不時着したスパイの引き渡しをめぐって、大統領の密命を受けた弁護士がギリギリの駆け引きを繰り広げるというもの。  そして極めつけは12月4日公開『007/スペクター』だ。前作からの続投となるサム・メンデス監督が、シリーズお馴染みの悪の秘密結社"スペクター"を復活させることに注目が集まっている。2015年の大トリとして、さらにはスパイ映画を牽引してきた立役者の新たな一手としても、どんなスパイ像を魅せてくれるのか非常に楽しみでならない。 ■牛津厚信 映画ライター。明治大学政治経済学部を卒業後、某映画放送専門局の勤務を経てフリーランスに転身。現在、「映画.com」、「EYESCREAM」、「パーフェクトムービーガイド」など、さまざまな媒体で映画レビュー執筆やインタビュー記事を手掛ける。また、劇場用パンフレットへの寄稿も行っている。Twitter ■公開情報 『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』 公開中 公式サイト 『キングスマン』 9月11日公開 公式サイト ・メイン画像クレジット 『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』/(C)2015 Paramount Pictures. All Rights Reserved.

JYJのユチョン、BIGBANGのT.O.P、ZE:Aのシワン…"演技ドル"の活躍に見る韓国映画の変化

【リアルサウンド映画部より】  韓国では、演技をするアイドルのことを"演技ドル"と呼ぶ。その代表と言われているのが、JYJのパク・ユチョン、ZE:Aのイム・シワン、元MBLAQのイ・ジュン、2PMのジュノ、BIGBANGのT.O.Pなどだ。  この代表格の中でも、演技のタイプは異なる。キム・ギドクがプロデュースした映画『俳優は俳優だ』に主演し演技ドルと呼ばれるようになったイ・ジュンは、激しいラブシーンも厭わない姿が評価された。また、T.O.Pの場合は、『同窓生』や『タチャ~神の手』など、堂々と彼のカリスマ性で主演を張れる、華のある演技ドルだ。  しかし、昨今の演技ドルは、こうした体当たりの演技や、華のある演技をしている人よりも、アイドル性は封印して、作品の中で一個人として存在している人が「演技ドル」と呼ばれるように変わりつつあると思う。 例えば、ユチョンは長らくドラマの世界で活躍してその演技に定評があったが、スクリーンデビュー作となったポン・ジュノがプロデュースの映画『海にかかる霧』で、しがない船員を演じてさらに注目を集めた。主演とはいえ、彼をJYJのユチョンと知らずに映画を見た人からすると、アイドルとして活躍する姿は想像できず、韓国に住む普通の青年に見えたという声も多く聞かれた。  2014年に、非正規雇用の商社社員の悲喜こもごもを描き、韓国で社会現象にまでなったドラマ『未生~ミセン~』のシワンもまた、アイドルのキラキラ感は封印し、学歴なしで商社に入社して会社の理不尽さや派閥闘争に巻き込まれながらも成長する主人公を演じた。派手さはないし、ひょうひょうとしているように見えて、実は真摯に生きているいまどきの若者を誇張することなく演じていた。  この流れに、大手事務所のSMエンターテインメントも無関心ではない。もちろん、東方神起のユノにチャンミン、SUPER JUNIORのシウォンやドンヘなど、これまでにも俳優は排出しているが、彼らの多くは、アイドル性を作品に生かしてきたタイプだった。もちろん、それは韓国のドラマ界が彼らにその役割を求めていたからでもある。  しかし、今後はSUPER JUNIORのイェソンが、スーパーで働く非正規職解雇労働者の話『ソンゴッ(錐)』に出演することが報じられている。  この動きについて、社会学者のハン・トンヒョン氏は、韓国ドラマの世界にも、日本のような「雰囲気」のニーズが出てきているのではないかと語る。  確かにこれまでの韓国ドラマには、財閥の御曹司が出てきて、健気なヒロインと恋に落ちるというイメージが強かった。しかし、『未生~ミセン~』以降、リアリティ路線に変わっていくことは十分に考えられる。そうなると、派手さはないが、雰囲気のるアイドルが、あたかも自分の周りにいるような人として登場することが求められるようになるのは必然だろう。  日本でも、木村拓哉のように華のあるアイドルのカリスマ性がドラマを引っ張る時代もあったが、今ではメンバー全員がそれぞれにリアリティをもった役を演じている。草彅剛はドラマに主演するのがメンバーでは一番遅かったが、1997年の『いいひと』で「自分のまわりの人の幸せが自分の幸せ」という文字通りのいいひとを演じた。今では、アイドルがこうしたなんでもない身近な人物を演じることに驚きはないが、当時は新鮮な印象を持って受け止められていたと思う。  韓国でも、演技ドルに限らず、ドラマの方向性自体が変化を求められる時期に差し掛かっているのではないだろうか。例えば、シワンは、アイドルグループZE:Aの中ではセンターではない。しかし、センターではないアイドルが、どこにでもいそうな青年の機微を表現することが、今の演技ドルに求められる最新の形なのではないかと思える。
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『レッドカーペット』場面写真/(C)2014 Noori Pictures, All Rights Reserved

 今後、日本で公開される作品としては、映画『レッドカーペット』にも2PMのチャンソンが出演しているが、彼の役は、芸大を出てAVの世界に飛び込み、『市民ケーン』やダリウス・コンジは好きだが韓国の娯楽映画はちょっと......というシネフィルでサブカルな若者といったキャラクターである。このほか、同じく2PMのジュノが主演の『二十歳』も日本での公開が控えている。今後、演技ドルにどういう需要があるかを見ることで、韓国ドラマや映画の変化も見えてくるのだろう。 ■西森路代 ライター。1972年生まれ。大学卒業後、地方テレビ局のOLを経て上京。派遣、編集プロダクション、ラジオディレクターを経てフリーランスライターに。アジアのエンターテイメントと女子、人気について主に執筆。共著に「女子会2.0」がある。また、TBS RADIO 文化系トークラジオ Lifeにも出演している。 ■公開情報 『レッドカーペット』 配給:コムストック・グループ 8月15日(土)よりシネマート新宿ほかにて公開 公式サイト

宮台真司の『バケモノの子』評:言葉ならざる親子の関係を描く、細田守監督の慧眼

【リアルサウンド映画部より】

ポイントは「渋谷」と「渋天街」の対比

 細田守監督は、概念的に徹底的して物事を考え、シナリオに落とし込むタイプなのかもしれません。あるいは、実在の父親にかけてほしかった言葉がたくさんあったのかもしれない。シナリオには「言葉が多すぎる」ことを中心に、注文をつけたい部分があります。でも、この水準の映画はなかなか作れないと思います。いい映画だと思います。  本作のポイントは、現実を精確にトレースした「渋谷」と、バケモノ界の「渋天街」の対比にあります。「渋谷」はわれわれがよく知る看板にあふれ、文字に満ち満ちていますが、「渋天街」に入れば、文字がありません。そして主人公の九太(蓮)と熊徹の擬似的な親子関係はすべて、文字のない渋天街で行われます。  なぜ「文字に満ちた街」と「文字が一切ない街」を対比させたのか。僕がいろいろなところで書いているように、最近の若い人は「言葉にならない」ものを恐れる傾向が強い。統計データに従えば、この二十年間の、若い世代の性的退却は実に著しい。これも「言葉にならないもの」=エロス的なものを、忌避するからだと、僕は考えています。  性愛関係だけでなく、親子関係も、感情で動くエロス的なものです。精神分析家ジャック・ラカンの言い方では「想像的なもの」。つまり「言葉にならないもの」が多くを占めます。にもかかわらず、言葉にしがみつく人は、言葉の外側にある否定的メッセージを見ないようにします。だから、かえって潜在的不安が大きくなるのではないか──。  これはグレゴリー・ベイトソンに大きな影響を与えたR・D・レインという統合失調症の専門家が言っていたことです。言語以前的な世界を忌避して言語にしがみつくと、親子関係も性愛関係も不安定ゆえに怖いものになるのです。言葉を使って生活しながら「言葉の世界なんて本当はどうでもいい」というトーンをどう発するかがポイントです。  ヒトがチンパンジーから分岐して500万年くらいですが、音声言語を使い始めてからは5万年、文字言語を使い始めてからは大抵の地域で5千年以下。それに鑑みれば、僕らの心の動きは、基本的にエロス的なものの領域にあって、言葉の概念的な使用は「かさぶた」のようなものに過ぎないだろうと考えなければなりません。  かさぶたの下に血や肉がある。かさぶたに執着するのは血や肉を見ないこと。フランスの思想家ジョルジュ・バタイユはその血や肉を「呪われた部分」と表現しました。社会学者マックス・ウェーバーが言うように計算可能性を高めるべく文字言語に専ら傾斜した近代社会であっても、家族と性愛の世界は今でも言語外の感情に支配されるのです。  だから、近代社会では、人は家族の中で育つことで、概念的な言語世界(象徴的なもの)の外にある言語以前的なもの(想像的なもの)に免疫をつけていきます。古い社会では家族の外にもそうした免疫化の機制がありました。それが祝祭です。言葉は不完全で世界を覆えないから、原点に戻るために祝祭で「呪われた部分」を噴出させるのです。  ギリシャ史を遡ると、紀元前五世紀前半までのギリシャ----プラトン前期に当たる----までは、言葉の概念的使用への依存を、絶対神への依存と同様に、徹底的に却けて、かわりに、言葉にならない理不尽や不条理に心身を開くことを推奨してきました。ホメロスの叙事詩もソフォクレスのギリシャ悲劇も、そうした推奨に向けたメディアでした。  ところか、ペロポネソス戦争でアテネがスパルタに負け、状況が変わります。貨幣経済の浸透と共に奴隷がのし上がり、市民が金を奴隷に借りて甲冑を買って戦争に出かけるようになります。異邦人も増えて、市民の共通感覚や共同身体性が通用しなくなります。それゆえ、かつてと違い、言葉を概念的に使わなければ統治ができなくなりました。  ペロポネソス戦争後の後期プラトンも考えを変え、言葉の概念的な使用にこだわるようになって、イデア概念に行き着きます。非言語的な佇まいやオーラは極めて近接的で文脈依存的です。音声言語はそれに比べれば非近接的で非文脈依存的です。それでも音声言語は文字言語に比べればずっと近接的で文脈依存的です。そうした階梯があります。  プラトンが文字言語に専らの重きを置くようになったのは、統治において、文脈依存性や近接性をできるかぎり排除しなければならなくなったからです。ちなみに、前期プラトンの時代まで----初期ギリシャと言います----、教育も娯楽も布告も伝承もすべて、韻律と挙措を伴う音声言語で行われていました。今でいうラップに相当するでしょう。  哲学史家のエリック・A・ハブロックによれば、音声言語につきものの韻律と挙措は、記憶の内部化に向けたメソッドです。しかし近接性と文脈依存性が高い。複雑な社会ではこうした状況依存性から脱する必要があります。そのためには記憶を外部化しなければなりません。そうした記憶の外部化に向けたメソッドが文字言語なのだと言います。  翻って現在、資本主義・民主主義・国民国家が、両立しなくなりました。グローバル化(資本移動自由化)を背景に中間層が分解、格差化と貧困化が進んでいます。社会がダメになりつつあるのです。だからこそ、もともとのアテネのようなマイクロ・エリアで「言葉にならないもの」----共同体感覚----を復権することが課題になっています。  そんな中、「絆がないと、何かあったときに助からない」という損得勘定に由来する概念的な話をするバカがいます。これがまるでバカなのは、絆とは、助かりたいがゆえに追求する「手段」ではなく、何があっても助けるという「目的」だからです。言い換えれば、損得勘定の「自発性」を超えた、内から湧き上がる力の「内発性」だからです。  このバカこそ、言葉の概念的な使用への固着を示します。そうしたバカが蔓延しつつある時期に、細田監督が「親子」モチーフにこだわり、その関係を文字言語以前の何かとして見出したことが、素晴らしい。監督自身が前作『おおかみこどもの雨と雪』の公開後に父親になったということもあるのでしょうが、慧眼だと言うほかはありません。

脚本から透けて見えた、細田監督の"自信のなさ"

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 ただ惜しい点があります。今日的な大テーマとして「言葉にならないもの」を愛でているのに、言葉による説明が多過ぎることが、引っ掛かるのです。百秋坊や多々良などの舞台回し役が「ようやく熊徹も△△になって来たな」などと喋り過ぎですし、「心の闇」が爆発して突如ヒール(悪役)として登場する一郎彦も、描き方が概念的に過ぎます。  「心の闇」という言葉が連発されますが、概念的には分かるけれど、腑に落ちません。幼少期の一郎彦は、いじめられっ子だった九太を救ったいいヤツでしたが、ここまで変わってしまったのは、人間につきものの「心の闇」のせい。そんなバカな。言葉にならない感情的な思いの渦巻きを描かないで、「心の闇」が覚醒したなんて、バカげている。  生煮えの概念的言語でしか示せないものは、映画から省いた方がいいです。だってそれがテーマなんだからね。【幼少期の九太の引っ越し場面での「しろくじら」→女子高生・楓との交流場面での「白鯨」→「心の闇」が覚醒した一郎彦が変じた「白くじら」】という連想ゲームも、概念的過ぎて、まったく同じような意味で、バカげています。  楓が「説明」してくれます。エイハブ船長と白鯨との戦いは、実は自分自身との戦いなんだよと。エイハブ船長と同じように九太も一郎彦も「心の闇」を抱えていて、それとの戦いが「白くじら」との戦いとして象徴されているんだよ、という「説明」です。こんな「説明」で納得する大人はいませんし、まして子供には完全に意味不明でしょう。  生煮えな概念言語の"おかず"が溢れるのを見ると、脚本に自信がないのかもしれません。それは、彼自身の父親としての振る舞いへの自信のなさに由来するかもしれず、それはまた、彼と彼の父親との関係に由来するのかもしれません。原案は素晴らしいので、概念言語の"おかず"をきちんと省ける優秀な脚本家を立てるべきだったかもしれません。  とはいえ、熊徹の身体挙措を九太が完コピする場面を典型に、言語よりも身体性、象徴界よりも想像界、といった対比は随所に展開されていて、納得的です。女子高生・楓との出会いのエピソードについて「あんなものなくてもいい」という議論もなされていますが、これも「言葉/言葉にならないもの」というモチーフにうまく収まっています。  良家の娘である楓は進学校に通い、親にそれこそ概念的な意味で褒められるために日常を送るものの、誰とも気持ちを通じ合えたことがない。概念言語が支配する人の世で、そのことに疎外され、適応できない女の子が、まだ文字も読めない概念言語以前の九太と出会い、気持ちを通じ合うという展開は、非常に自然で、モチーフが一貫しています。  また、「九太と熊徹の会話が少なすぎる」という声もありますが、間違いです。他のキャラクターの言葉による説明が多すぎるからバランスが崩れているだけです。「言葉ならないもの」が互いの関係を支えているバケモノ界で、九太と熊徹がいつもべらべら喋っていたら、主題が壊れてしまいます。ことほどさように、批判の多くは的外れです。  作品全体の方向性は正しいです。だから、的外れな批判はもとより、「言葉にならないもの」を擁護する映画に言葉が多すぎるのは変だという批判も、それを言い立てて作品を貶めるほどのことじゃない。僕のおさなごたちは、もちろん「心の闇」うんぬんなんて完全にスルー、というか胸のところに展開するCGのことだと思っていましたから。  昔『崖の上のポニョ』を当時四歳だった長女と観たとき、僕は「ポニョは海で生きて来たのに、バケツの水道水に入れたら死んじゃないか」と突っ込みたくなったけれど、長女が通路に出てエンドロールの歌に合わせてブイブイ踊っているのを見て、別に細かいことはどうでもいいやと思い直したことがありました。今回もそれを思い出しました。

宮﨑駿には描けない人の絆=共同体感覚を描く、達人の領域

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 この映画を観たおさなごたちと、そのあと一緒に、渋谷の街を散歩しました。「麗郷」という台湾料理屋の裏辺りが、熊徹の家に続くと思しき坂の分岐路あたりでしょうか。おさなごたちは、スクリーンで観た風景に似ているので大喜びしていました。もっともあの辺はラブホ街なので、妻には「あんな場所を連れ回して」と怒られましたが(笑)。  そもそも、渋谷はかつて色街でした。1973年にパルコ開店に合わせて公園通りができるまで、そこは区役所通りと呼ばれる風俗街でした。スペイン坂終点のシネマライズも1980年頃までラブホテルで、丸井の裏もラブホ街でした。その意味で、渋谷はエロス的なものがむき出しの街で、拡張現実的にスキンがかぶさって今に至った印象があります。  そうした歴史を生きた僕からすれば、本作は、渋谷のスキンを剥ぎ取って見せたように感じます。もともと芝居街と色街を合わせて悪所と言います。眩暈やトランスが起こる場所という意味です。眩暈が起こるから日常の時空を前提とした概念言語は通用しない。その意味で、"文字のないバケモノの街"が「裏渋谷」だというのは妥当な設定です。  細田監督の実存に関係するのでしょうが、彼の作品に一貫しているのは、家族や恋人という絆の関係、この人のためなら死ねるという関係、あえて言えば宮﨑駿が描くのを不得意としていたものです。特に男の子と女の子の会話での微妙なニュアンスは宮﨑駿を逆さに振っても出て来ません。アニメーターには珍しいとても素晴らしいセンスです。  心理学者アルフレッド・アドラーが言う「共同体感覚」を描くことにかけては、達人の域だと言えます。その能力は、本作でも遺憾なく発揮されています。監督自身がそれをもっと強く自負すれば、不要な概念言語の"おかず"を付けなくても済んだのではないかと思います。まあ、自分のどこが優れているのかを自覚するのは難しいかもしれない。  その点では『おおかみこどもの雨と雪』の方が少し出来がよかった気がします。絆/共同体は危機を前にして際立ちます。そうした危機としては、本作のような「市街で暴れる鯨とのバトル」より、『おおかみこども』で描かれた「自然のなかの嵐」の方が、ナチュラルで説得的です。ゆえに見終わった後の余韻も前作の方がすっきりしています。  「市街のバトル」では「危機」が抽象的になって、作劇上の装置に過ぎないものに頽落します。「剣を収め、二度と戦わない」ことを象徴するラストも、ヤクザ映画やカンフー映画で描かれてきた、概念的なパッケージでした。素晴らしい作品でしたが、先ほどお話しした細田監督のポテンシャリティをより活かした次回作を、大いに期待します。  さて、同じく"父と子"というモチーフが登場する作品で非常に出来がよかったのが、『マッドマックス 怒りのデスロード』でも主役を演じたトム・ハーディが主役を演じる、リアルタイムサスペンス『オン・ザ・ハイウェイ』です。ミニマムで、特別なことを一切描いていない映画ですが、それゆえに素晴らしかった。(後編に続く) (取材=神谷弘一) ■宮台真司 社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter ■公開情報 『バケモノの子』 2015年7月11日より、全国東宝系にてロードショー 【声の出演・スタッフ】 役所広司/ ※宮崎あおい 染谷将太 広瀬すず/ 山路和弘 宮野真守 山口勝平 長塚圭史 麻生久美子 黒木華 諸星すみれ 大野百花/津川雅彦 リリー・フランキー 大泉洋 監督・脚本・原作:細田守 作画監督:山下高明 西田達三  美術監督:大森崇 高松洋平 西川洋一 音楽:高木正勝 (C)2015 THE BOY AND THE BEAST FILM PARTNERS 公式サイト

★STARGUiTARの新作が示した、マイペースで奔放なダンス・ミュージック

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【リアルサウンドより】  日本の、そして世界のクラブでEDMが席巻する近年。もちろんそれに呼応する音楽もあれば、独自路線を突き進むクラブミュージックも数多く存在する。AAA、西野カナ、倖田來未といったアーティストを手掛けつつ、ドープなトラックメイクも行ってきた“SiZK”が、2010年にスタートさせたソロ・プロジェクト・★STARGUiTARの最新作『Wherever I Am』がまさにそう。近年の時流などお構いなしに、奔放でマイペース、かつウィットの効いたクラブミュージックに仕上げてきた。  といっても、彼の音がポップスとしての強度を持ち始めたのはここ最近のこと。以前はループを多用したアッパーなダンスミュージックを展開しており、常に“新しい音“を提案する音楽作家・トラックメイカーとしての一面を強く打ち出していた。そんな★STARGUiTARに変化があったのは2014年9月。H ZETT M やMELTEN (JABBERLOOP, fox capture plan)、Hidetake Takayama、世武裕子、Schroeder-Headz、Chieko Kikuchi (KAGERO) といった、豪華なピアニスト陣が参加したコンセプトアルバム『Schrödinger's Scale』をリリースしたときから、明らかにメロディの作り方が変わった。  数々のピアニストと共演することにより、改めて鍵盤の楽しさや使い方を知った彼は、“ループミュージックからの脱出”を試みたようだ。最新作は前作と違い、ゲスト・ピアニストの参加は1曲のみ。その1曲も、前作に参加したMELTENが自身のバンドfox captured plan名義で参加したもの。すでに公開されているMVは、★STARGUiTARが同バンドの手練3人をコントロールするような映像に仕上がっており、生音の良さとエディットの快感が同居した楽曲に仕上がっている。

★STAR GUiTAR「The Curtain Rises feat. fox capture plan」Music Video

 また、「detour feat. LASTorder」は、★STARGUiTARの作ったであろう原型を、客演のLASTorderが徹底的に壊して刻んだ形跡が随所にみられるし、ほかにもジャジーヒップホップライクな「I Spell You」やFuture Baseのような音作りでしっかりトレンドを回収する「knowledge」など、クラブミュージックシーンの“次”を見据えた構成も目を引く。

★STAR GUiTAR「Be The Change You Wish」

 それでいて重すぎず、オーガニックなエレクトロサウンドにまとめ上げているあたりは、生来のポップセンスが効いているからだろう。事前に公開していたデモ版より、全体的にローを抑え目にしてメロディを立たせていることからも、1万枚のセールスを超えた前作を踏まえ、★STARGUiTARが本作をさらに多くのリスナーに届けようとしていることは明らかだ。  “シーンに迎合しない”という言葉は、ともすればポップであることを放棄するという意味合いを持つ。しかし、都会の喧騒から少し離れ、ヒップなやり方を提示する『Wherever I Am』のような作品であれば、この言葉のポジティブな面が感じられるのではないだろうか。 (文=中村拓海)
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★STARGUiTAR『Wherever I Am』

■リリース情報 『Wherever I Am』 発売:8月5日(iTunes Storeで一週間先行配信中) https://itunes.apple.com/jp/album/wherever-i-am/id1019058909?app=itunes&ign-mpt=uo%3D4 <収録内容> 1.Everyday is a new day 2.Be The Change You Wish 3.The Curtain Rises feat.fox capture plan 4.Journey to Nothing 5.I Spell You 6.detour feat.LASTorder 7.One more thing 8.knowledge 9.Mind Float 10.before dark 11.inherit

今あえて「シンガー・ソングライター」と呼びたい音楽家とは? 村尾泰郎が邦洋の6作品を紹介

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ジェシカ・プラット『オン・ユア・オウン・ラヴ・アゲイン』

【リアルサウンドより】  半世紀前ならシンガー・ソングライターは特別な存在だったが、最近ではミュージシャンが自分で曲を書いて演奏するのは当たり前に思われているかもしれない。場合によっては、プロデュースやミックスまで自分でこなすミュージシャンもいるくらいだ。そうしたミュージシャンが増えるなか、今もあえて「シンガー・ソングライター」と呼びたくなるのは、その言葉に特別な何かを感じるからだろう。その“何か”を感じさせてくれる作品を、6~7月の新作のなかから選んでみた。  まずはLA在住のジェシカ・プラットのセカンド・アルバム『オン・ユア・オウン・ラヴ・アゲイン』。ボニー“プリンス”ビリーやスモッグが所属するインディー・レーベル、ドラッグ・シティからリリースされた本作は、デビュー作『Jessica Pratt』同様、自宅のベッドルームでレコーディングされた。ギターの弾き語りなのも前作と同じだが、今回はオルガンやクラヴィネットが淡く彩りを加えている。そんななか、彼女が爪弾くギター、紡ぎ出すメロディーは不思議な心地良さがあって、その歌は煙草の煙みたいにゆらゆらと漂いながら夜の闇に吸い込まれていくようだ。鼻にかかった歌声も魅力的で、アシッド・フォーク的な気怠さのなかに可憐な表情を覗かせて、多重録音されたハーモニーもキュート。いま一番、ナマで聴いてみたいシンガーだ。  さらにもう一人、USインディー・シーンで注目を集めるアーティストを。エズラ・ファーマン『パーペチュアル・モーション・ピープル』は、まずジャケットに写し出されたエズラの女装姿に惹きつけられる。これは本人いわく「性的に不安定な」自分をありのままに表現したもの。彼の歌には社会から疎外されたアウトサイダーの怒りや共感に満ちているが、ドゥーワップやロカビリーなどオールディーズを独自に消化したサウンドは、エズラがリスペクトするアリエル・ピンクに通じるネジが外れたようなポップさ満載。ホーンが豪快に鳴り響くなか、エズラが噛みつくようにシャウトする。そこにはアレックス・チルトンに通じるヤサグレたアメリカーナ臭も漂っていて、次作はぜひ獄中のフィル・スペクターにプロデュースをお願いしたい。  新人が続いたので今度はベテランを。イギリス出身のマーティン・ニューウェルは、70年代からグラム~パンク~ニュー・ウェイヴをリアルタイムで体験しながら様々なバンドを渡り歩き、90年代以降はアンディ・パートリッジ(XTC)やルイ・フィリップのプロデュースのもとで良質なソロ・アルバムを発表した。ここ数年、彼が80年代に在籍した伝説のギター・ポップ・バンド、クリーナーズ・フロム・ヴィーナスの旧作が、マック・デマルコなどが所属するブルックリンのインディー・レーベル、キャプチュアード・トラックから立て続けに再発されたが、遂にソロ名義では8年振りの新作『Teatime Assortment』を完成させた。本作は架空の映画のサウンドトラックというコンセプトで全曲宅録。何と言っても魅力的なのは熟成されたソングライティングだ。牧歌的で、メランコリックで、ヒネリが効いていてと、英国気質に満ちたいぶし銀のポップス職人ぶりを発揮。たっぷり24曲、1時間に渡って“マーティン・ニューウェル劇場”が楽しめるので、聴き始める前に紅茶のクッキーの用意をお忘れなく。
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モッキー『キー・チェンジ』(WINDBELL)

 今度はちょっと毛色の変わったシンガー・ソングライター・アルバムを、続けて2枚紹介したい。カナダ出身のモッキーは、ラップやエレクトロなど様々なアプローチを披露する一方で、ファイストやジェーン・バーキンなど様々なアーティストのプロデュースを手掛ける多才な男。新作『キー・チェンジ』は、ドラム、ベース、ギター、フルートなどほとんどの楽器を一人で演奏していて、チリー・ゴンザレスやファイストなど同郷の古くからの友人達や、フライング・ロータスやカルロス・ニーニョの作品で注目を集めるLAの新進気鋭のアレンジャー、ミゲル・アトウッド・ファーガソンなど多彩なゲストが参加している。モッキーはインストとヴォーカル曲を織り交ぜながながら、ジャジーでソウルフルなサウンドを展開。シネマティックな世界を作り出す演出力、洗練されたアレンジにプロデューサーとしてのワザを発揮しつつ、その囁くような歌声やアルバムを包み込むパーソナルなフィーリングに、シンガー・ソングライター的ロマンティシズムを感じさせる作品だ。  そのモッキーと同じく、アルバムの世界観を強く感じさせるのが、PIZZICATO ONE『わたくしの二十世紀』だ。PIZZICATO ONEは元PIZZICATO FIVEの小西康陽のソロ・ユニットで本作は2作目となる。前作『11のとても悲しい歌』は海外のシンガーをフィーチャーした洋楽カヴァー集だったが、今作はUA、小泉今日子、西寺郷太(NONA REEVES)、YOU、甲田益也子、ムッシュかまやつなど、11人の日本人ヴォーカリストを招いたセルフ・カヴァー集だ。音数を切り詰めたアコースティックな演奏をバックに、くっきりと浮かび上がる言葉と歌声。その研ぎ澄まされたアレンジから、小西の書く歌に潜む“孤高の悲しみ”とでも呼びたくなるようなリリシズムに触れることができる。〈自分で歌っても、演奏もしていないのにシンガーソングライター・アルバム?〉とお叱りを受けるかもしれないが、すべての音、すべての歌声に〈小西康陽の魂〉が宿っていて、このアルバムを聞き終わった後に頭に浮かぶのは、スタジオで一人、頬杖をついている小西の後ろ姿。こういうシンガー・ソングライター・アルバムもある、と強くお薦めしたい。  そして最後は、広島在住の二階堂和美の最新シングル『伝える花』。インディー時代は知る人ぞ知る存在だったのが二階堂だが、2011年に『にじみ』という傑作を発表。それが高畑勲監督の耳にとまって2013年のジブリ映画『かぐや姫の物語』の主題歌「いのちの記憶」を歌うことになり、いっきに知名度もあがった。それ以来、2年振りの新曲となる「伝える花」は、RCC中国放送が企画する「被曝70年プロジェクト 未来」のテーマ曲として書き下ろされたもの。以前、彼女は原爆の悲しみを題材に「蝉にたくして」という曲を書いているが、その曲の胸を突くような悲しみに比べると、爆心地に咲いた花にほのかな希望を見出す「伝える花」は、一輪の花が静かに風に揺れているような穏やかさがある。そして、静かな語り口のなかに、悲しみ、怒り、祈りを、繊細なニュアンスで織り込む歌声の素晴らしさ。どんな曲も自分のすべてを開放して、彼女は歌そのものになる。だからこそ、この大きなテーマを歌った曲も“お高くとまってない”のだ。とはいえ、「いのちの記憶」「伝える花」と重厚な曲が続いたので、次回は彼女のエンターテイナーとしての魅力を発揮したポップな作品を期待したいところ。歌いたくて歌いたくて仕方ない! そんな彼女の歌が聴きたくて仕方ない。  というわけで、洋邦とりまぜて新作を紹介したが、どの作品もミュージシャンの息づかいが伝わってくるものばかり。歌を通じて歌い手と出会うこと、語り合うこと。それがシンガー・ソングライター作品を聴く楽しみであり、この6作はそんな楽しみを味あわせてくれるはずだ。 ■村尾泰郎 ロック/映画ライター。『ミュージック・マガジン』『CDジャーナル』『CULÉL』『OCEANS』などで音楽や映画について執筆中。『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』『はじまりのうた』『アメリカン・ハッスル』など映画パンフレットにも寄稿。監修を手掛けた書籍に『USオルタナティヴ・ロック 1978-1999』(シンコーミュージック)などがある。