トム・ハーディー主演『ウォーリアー』が、スポーツ映画の金字塔である理由

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『ウォーリアー(DVD)』(ギャガ)

【リアルサウンドより】  映画『ウォーリアー』は2011年に全米公開されたヒューマンドラマの傑作だ。評論家から絶賛され、主要キャストの1人ニック・ノルティも、アカデミー助演男優賞にノミネートされた。日本では残念ながら今年数年遅れでDVD&Blu-rayスルーとなったが、新宿の劇場で1週間の限定上映が行われ、熱狂的な盛り上がりを受けて上映は2週間に延長された。いったい何故、本作は多くの人にとっての特別な1本になりえたのか?  本作のストーリーはシンプルだ。生き別れた兄弟が、最強の男を決める総合格闘技のトーナメントで対戦相手として再会する。イラクの戦場から生還した孤独な弟は、対戦相手を一瞬でKOする打撃中心のパワー型だ。一方、妻子のために戦う兄は、一瞬の隙を逃さず関節技を極めるテクニック型。生き様もファイトスタイルも正反対の兄弟の対決に、2人を捨て、その罪に苦しみ続ける父親が絡んでくる。ストーリーは王道で、意表を突く展開や、 奇をてらった演出はない。だが本作は間違いなく、『ロッキー』『レスラー』にも匹敵するスポーツ映画の金字塔として、長く語り継がれることになるだろう。  本作を名作の域にまで高めているのは、ギャヴィン・オコナー監督の手腕による部分が大きい。同監督は過去にも『ミラクル』ではスポーツを、『プライド&グローリー』では兄弟のドラマを描いている。この2本で培った経験と、その堅実かつ丁寧な演出によって、本作は名作の域に達しているのだ。  また、トム・ハーディー、ジョエル・エドガートン、ニック・ノルティらの見事な演技も素晴らしい。『マッドマックス・怒りのデスロード』の主演で知られるトム・ハーディーの、繊細な演技は圧巻だ。筋骨隆々でありながら、拭い去れない影を抱えた悲劇的なヒーロー像は、たまらなく魅力的である。  もちろん、作品の随所で見られるド迫力の格闘シーンは、アクション映画の快感に満ちている。流れるような動きで敵を制圧するトム・ハーディーには圧倒され、ギリギリで関節技を極めるジョエル・エドガートンには手に汗を握ることになるだろう。格闘シークエンスは、いずれもキャラクターの感情が爆発する場として機能しており、単に身体能力を見せるだけに留まらず、人間ドラマとしての意味合いも併せ持つ。文字通り拳で語るのだ  そして、本作の魅力を語る上で欠かすことのできない特徴が2つある。  1つ目は、登場人物たち自身が、自分の気持ちが整理できていないことだ。怒っているのか? 悲しんでいるのか? 過去とどう向き合うべきか? 彼らは悩み続ける。そして言葉にできない想いを抱えたまま、リングへと上がっていくのだ。本作はそんな複雑な感情が入り乱れるドラマを、真正面から丁寧に紡いでいく。自分の気持ちが分からなくなった経験がある人ならば、必ず彼らを身近に感じることができるはずだ。総合格闘技という特殊な世界をモチーフにしながら、描かれているのは誰もが抱える普遍的な苦悩だ。  2つ目は、そのように複雑な感情を描いておきながら、説明描写及び説明シーンが極めて少ないことだ。登場人物は皆、重い過去を背負っている。その過去を描く回想シーンがあってもいいものだが、本作にはそういったシーンは皆無であり、常に一定の距離を置いた視点が貫かれる。極端に説明を排したストイックな語り口で描くことで、押し付けがましさをなくし、さらに肉体的な痛みを伴う格闘技をモチーフとすることで、彼らの切実さに説得力を持たせることにも成功している。  言葉にならない感情を抱えた者たちのドラマ。当然、人によって解釈が異なることもあるだろう。10人いれば10人通りの『ウォーリアー』がある。兄が主人公だと思う人もいれば、弟こそ、いや父親こそ主人公だと思う人もいるだろうし、全キャラクターを俯瞰して楽しむこともできる。兄弟の物語でもあり、アメリカンドリームの物語でもある。格闘映画であり、人間ドラマでもある。物語を楽しむ切り口は無数にあり、いわば、観客は自分だけの「俺の『ウォーリアー』」を楽しむことができるのだ。この切り口の豊かさこそ、本作が熱狂的に支持される最大の理由であろう。  しかも、本作はどの切り口から入っても、その見立てが否定されることはない。この映画は「こうあるべき」という説教型の作品ではないからだ。「こういうことがあった」という物語を提示するだけであり、そこにある唯一の主張は「人は対話をすることができる」という当たり前のことだ。それを前述のように徹底的にストイックな語り口で描いたバランス感覚は見事と言うほかない。  圧倒的な完成度でもって、人生に迷ったことのある多くの人を勇気づけてくれる映画であり、同時に多様な切り口を持つ「語りたくなる映画」でもある。鑑賞後には、きっと誰かと「俺の『ウォーリアー』」を語り合うことになるだろう。間違いなく今年最高の映画の1本である。必見だ。 ■加藤ヨシキ ライター。1986年生まれ。暴力的な映画が主な守備範囲です。 『別冊映画秘宝 90年代狂い咲きVシネマ地獄』に記事を数本書いています。 ■作品情報 『ウォーリアー』 DVD&Blu-ray発売中 Blu-ray:¥4,800(税抜) DVD:¥3,800(税抜) 監督・脚本・原案・製作:ギャヴィン・オコナー 脚本:アンソニー・タムバキス 脚本・原案:クリフ・ドーフマン 撮影監督:マサノブ・タカヤナギ 編集:ジョン・ギルロイ 音楽:マーク・アイシャム 公式サイト:http://dvd.gaga.ne.jp/warrior/

『コウノドリ』『オトナ女子』『おかしの家』・・・・・・この秋スタートする連続ドラマへの期待

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『コウノドリ』公式サイト

【リアルサウンドより】  早いもので、もう10月。そろそろ秋クールのドラマの予告編もスタートし、その内容が分かってきた頃。さて、今クールは、何を観ましょうか? ということで、ここではこの秋注目のドラマを、独断と偏見のもと、いくつかピックアップして紹介していきたいと思います。  まずはやはり、10月16日(金)22時からスタートする『コウノドリ』(TBS)でしょう。意外にも今回が連続ドラマ初主演となる綾野剛が、産婦人科医/謎の天才ピアニスト・鴻鳥サクラを演じる、医療系ヒューマン・ドラマです。原作は、鈴ノ木ユウの同名漫画(週刊『モーニング』(講談社)で連載中)。髪型を漫画に寄せるなど、気合い十分の綾野はもちろん、その部下である新人産科医役を松岡茉優が、サクラの同期でありライバルでもある産科医役を星野源が演じるほか、大森南朋、吉田羊らが脇を支えるなど、キャスティングも盤石の布陣です。『ゲゲゲの女房』(2010年)、『八重の桜』(2013年)などNHK作品で知られる脚本家・山本むつみが、この人気漫画をどのように連続ドラマ化していくのか、非常に気になるところです。  同じく、漫画原作ものとしては、12日(月)21時からスタートする石原さとみ、山下智久主演の「月9」ドラマ『5→9〜私に恋したお坊さん〜』(フジテレビ)も、気になるところです。月刊『Cheese!』(小学館)で連載中の相原実貴による人気漫画『5時から9時まで』を原作とする本作。前クールの『恋仲』で純愛路線に戻したようにも思える「月9」枠ですが、「東京版『セックス・アンド・ザ・シティ』⁉︎」という謳い文句の漫画のドラマ化だけに、やはりそれなりのシーンも用意されているのでしょうか。現在乗りに乗っている石原さとみの体当たり演技に期待します。それにしても、この『5→9』というタイトルは、果たしてアリなのでしょうか。  さらに、漫画原作と言えば、窪田正孝の熱演が話題となった『デスノート』と同枠で、『エンジェル・ハート』(11日(日)22時30分〜/日テレ)がスタートします。『キャッツ・アイ』、『シティーハンター』などで知られる北条司の人気漫画を実写ドラマ化する本作。“シティーハンター”冴羽獠役を上川隆也が演じることはもとより、その実質的な主人公・香瑩(シャンイン)役を、連ドラ初ヒロインとなる三吉彩花が演じることにも注目です。根強いファンのいる漫画だけに、その仕上がりには賛否両論、さまざまな意見が噴出することでしょうが、前クールの『デスノート』がそうであったように、それを覆すパンチ力のある展開を期待します。  漫画原作が続きましたが、テレビドラマの王道と言えば、やはり人気脚本家によるオリジナル作品です。たとえば、7日(水)22時よりスタートする『偽装の夫婦』(日テレ)。これは、『女王の教室』(2005年)や『家政婦のミタ』(2011年)など、数々のヒット作を生み出してきた脚本家・遊川和彦が、久しぶりに天海祐希とタッグを組むことで話題のドラマです。固く心を閉ざした人嫌いの主人公(天海祐希)が、とある事情によって、かつて愛した男(沢村一樹)と「偽装結婚」する……そんなトリッキーな物語。何かと物議を醸すことの多い遊川作品ですが、柴咲コウが主演した1月期の『○○妻』の評判が必ずしも芳しいものではなかっただけに、ここらでひとつ再起を願いたいものです。  篠原涼子が2年半ぶりの連ドラ主演を果たす『オトナ女子』(15日(木)22時〜/フジテレビ)。このドラマの脚本を手掛けるのは、『結婚できない男』(2006年)や『梅ちゃん先生』(2012年)などで知られる脚本家・尾崎将也です。主演の篠原をはじめ、吉瀬美智子、鈴木砂羽ら、アラフォー女子で固められたキャスト陣は、本作でどんなドタバタ劇を披露してくれるのでしょうか。しかし、“オトナ女子”というタイトルは……こちらも何かと物議を醸す作品になりそうです。そう、物議と言えば、『昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜』(2014年)のセンセーションも記憶に新しい脚本家・井上由美子が、「遺産相続」をテーマに描くオリジナル作『遺産争続』(22日(木)21時〜/テレ朝)というのもあります。向井理と榮倉奈々演じる新婚夫婦を取り囲む、金の亡者たる親類縁者たち……家族は支え合うものから争うものへ。何やら怖そうなドラマですね。  そのほか気になるものとしては、錦戸亮が現代にタイムスリップしてきた武市半平太を演じる『サムライせんせい』(23日(金)23時15分〜/テレ朝)。ちょんまげ姿の錦戸亮と言えば、『ちょんまげぷりん』(2010年/監督:中村義洋)が即座に思い起こされますが、今回もまた大胆な設定が目を引くドラマだけに、そのユーモアとシリアスのバランス感が、きっと鍵となることでしょう。それにしても、錦戸君はちょんまげ姿が似合いますね。ちなみに、ジャニーズ主演作品としては、Kis-My-Ft2の玉森裕太が主演する『青春ハレルヤ〜大人の悪を許さない!〜』(10月15日(木)23時59分〜/日テレ)にも注目が集まっているようです。そして、EXILEのHIROが企画・プロデュースするドラマ『HiGH&LOW〜THE STORY OF S.W.O.R.D.〜』(21日(水)25時29分〜/日テレ)も見逃せません。こちらも何かと話題になりそうです。EXILEらの所属事務所であるLDHと日本テレビがタッグを組んだ、総合エンタテインメント・プロジェクト「HiGH & LOW」の第一弾作品となる本作は、来年7月公開の映画を軸として、今後さまざまなメディア・コンテンツが連動していく予定とのことですが、いったいどうなることでしょう。  ところで最後、個人的に最も注目しているドラマを一本、ご紹介いたします。TBSが新設する新しいドラマ枠「水ドラ‼︎」で放送される、オダギリジョー主演、尾野真千子、勝地涼、八千草薫共演のドラマ『おかしの家』(21日(水)23時53分からスタート/TBS)です。キャストの豪華さはもちろん、『舟を編む』(2013年)、『ぼくたちの家族』(2014年)などで知られる映画監督・石井裕也が、自ら脚本・演出を手がける作品として、本作は大きな注目を集めています。東京の下町にある小さな駄菓子屋で繰り広げられる人間模様を描くというその内容もさることながら、「これ、ほとんど映画じゃないの?」というキャスティング&スタッフィングに、早くも期待が募ります。  とまあ、いろいろ書き連ねてきましたが、実際問題フタを開けてみるまで分からないのが連続ドラマの醍醐味だったりもします。気になるものは随時フォローしていくつもりなので、そちらのほうもお楽しみに。 (文=麦倉正樹)

ホームドラマとドキュメンタリーの融合ーー『2030かなたの家族』が描く“変容”とは?

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『2030かなたの家族』公式サイト

【リアルサウンドより】  テレビドラマというのは実に雑多な映像表現で、平気でいろんなものを取り込んでいく。例えば、未来から来た時空ジャーナリストが、歴史上の出来事をドキュメンタリータッチで実況中継する『タイムスクープハンター』や、有名人の家族の歴史を徹底取材してドラマ化する『ファミリーヒストリー』。  近年、NHKは、こういった情報バラエティやドキュメンタリーの要素を取り込んだドラマと言い難いドラマに力を入れているのだが、壮大な試みとして注目されたのが『NHKスペシャルNEXT WORLD私たちの未来』だ。医療やロボット工学の発展によって、未来がどのようなものになるのかを、綿密な取材に基づいたドキュメンタリーとドラマの二本立てで放送し、多くの視聴者を圧倒した。  今回取り上げる『2030かなたの家族』は、その未来シリーズの間接的続編とでも言うようなドラマだ。10月3日(土)に放送されるドキュメンタリー『2030年家族がなくなる』と連動した、2030年の日本を描いた、ある家族の物語である。  ドラマはロボットメンテナンスの仕事をしている板倉掛(瑛太)を狂言回しにして、近未来の日本とそこで暮らす人々の姿を描いていく。掛の妹の絵美衣(連沸美沙子)はグローバル企業に務め、海外赴任をしている。父親の透(利重豊)は、かつて自分が開発に関わっていた過疎化したニュータウンで今も暮らしながら、街の再生を夢見ている。離婚した母親の佳子(小林聡美)は、75歳以上の住人だけが暮らす街自体が高級老人ホームのような「永遠シティ」の運営に関わっている。祖父母も佳子の口利きで、シティ内の仕事をしながら、この街で暮らしている。絵美衣の海外転勤をきっかけに、バラバラに暮らしていた家族。しかし掛は、ルームメイトだった女性から、「あなたの子どもがほしい」と言われたことをきっかけに、自分の家族と向き合うようになり、やがてお互いが抱えている孤独に気づいていく……。  本作の見どころは二つ。一つは精密にシミュレーションされた近未来の都市の描写。かつて核家族が暮らし、戦後社会の新しい家族像の象徴だった郊外のニュータウンは、2020年の東京オリンピック以降、人口が減少しており、逆に都心には人口が戻ってきている。75歳以上の人々だけが暮らしている「永遠シティ」では、「高齢者」という言葉が禁句とされており、人々はゼグウェイで移動し、健康管理のための機械を身につけている。小型ロボットといったSF的なガジェットが当たり前に登場する近未来の描写は、ダラダラ見ているだけでも楽しめる。  もう一つの見どころは、これだけ近未来のディテールを重ねたSF作品でありながら、本作がホームドラマであるということだ。1940年にテレビの試験放送で流された、すき焼きを囲む母子家庭の姿を描いた『夕餉前』以降、日本のテレビドラマは常にホームドラマと共にあった。家族という枠組みが盤石なものとしてあったからこそ、家族の崩壊や、家族の暗部を描いた『岸辺のアルバム』(TBS系)や『阿修羅のごとく』(NHK)といった傑作も生まれた。舞台こそ近未来だが、本作もまた、そんなホームドラマの伝統の上に存在する作品だ。  脚本を担当した井上由美子は、昨年話題となった不倫を題材にしたドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』(フジテレビ系)を筆頭とする硬質な社会派エンターテイメントを得意とする作家だ。山田太一や向田邦子の影響を強く受けている彼女が書いた本作は、さながらSF版『岸部のアルバム』とでもいうような作品である。  会社を辞めて夫と離婚し、音信不通となっていた妹の絵美衣は、身寄りのない孤児やシングルマザーといった社会的弱者(劇中では「無敵の人」と表現される)と共に廃校で暮らしていた。そこは、あらゆる弱者が共に生きられる独自のコミュニティで、そこで暮らす子どもたちから絵美衣は、ママと呼ばれていた。煩わしいものとして家族を退け、夫とも離婚した絵美衣がたどり着いたのは社会的弱者による独自の経済圏を持つ疑似家族だった。しかし、そんな共同体も、一人の若者の反発によってあっけなく崩壊する。  掛が開発に関わった相談相手となるロボットを筆頭に、旧来の家族を埋め合わせる「新しい家族のかたち」が近未来のテクノロジーを通して語られる。しかし、どれも完全ではない。かといって、昔ながらの家族に戻ることもできない。ラストは再び家族が集まり、掛の子ども時代のように花見をするのだが、彼らが戻っていくのは、それぞれの日常だ。だが、本作は家族という概念自体は否定しない。どれだけ自由になっても、人間は家族から離れることができない。しかし、家族の形は時代によって変容していく。テレビ電話で話すだけの夫婦も家族、ロボットも家族。旧来の家族像とは違う多様な姿に変容しながらも、家族という器は続いていく。   その姿は、様々なジャンルを吸収してグロテスクに変容していくテレビドラマと、うり二つである。 ■成馬零一 76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。

SMエンターテインメント発、EXOは“演技ドル”新時代を拓くか? 出演作の役柄から考察

【リアルサウンドより】  演技ドルとは、演技をするアイドルのこと。JYJのパク・ユチョン、ZE:Aのイム・シワン、元MBLAQのイ・ジュン、2PMのジュノ、BIGBANGのT.O.Pなどがその代表格だと言われている。  以前、「JYJのユチョン、BIGBANGのT.O.P、ZE:Aのシワン…“演技ドル”の活躍に見る韓国映画の変化」という記事を書いたが、演技ドルにも新勢力が現れつつある。東方神起の所属するSMエンターテインメントのEXOのメンバーたちである。この秋以降は、そのEXOのチャンヨルが出演する『チャンス商会』と、D.O.ことド・ギョンス(上記メイン写真)が出演する『明日へ』が日本で公開されることが決定している。  EXOのソロでの演技活動は、2014年から始まる。スホがドラマ『総理と私』にカメオ出演したほか、7月にはD.O.がドラマ『大丈夫、愛だ』にレギュラー出演。D.O.は、最初は主人公の小説家を先生と慕う明るい小説化志望の高校生として登場するが、その後はとことんまで追い詰められながらも感情を爆発させる役を演じ切り、ファンはもちろんのこと、評論家から俳優仲間にまで、「D.O.の演技力は凄い」と認識されることとなった。  続いてD.O.は、本名のド・ギョンス名義で2014年11月に、先述した映画『明日へ』に出演。日本でも2015年11月6日に公開される本作は、2007年に韓国で大型スーパーの従業員が店を長期間占領した実際の出来事を原案に、労働者が置かれる過酷な状況を描いている。この中でド・ギョンスは、スーパーを占拠する労働組合のリーダーを務めるソニの息子役を演じている。貧困で修学旅行に行くお金もなく、母親に黙ってバイトをする中で生まれた溝が、ド・ギョンスの経験を通して次第に埋まっていく様子が描かれている。この二作のD.O./ド・ギョンスの演技が話題となったことが、EXOの演技進出に拍車をかけたのではないだろうか。  2015年4月にはチャンヨルが映画『チャンス商会』に出演。頑固者のおじいちゃんと引っ越してきた花屋の店主との恋を描いた感動作は現在、日本でも公開中で、おじいちゃんとおばあちゃんカップルのデートを見守る心優しき青年役をチャンヨルが演じている。
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チャンヨル

 2015年は、次々とメンバーの映画進出が続く。ベクヒョンが学園アクション『トッコ』に出演し、シウミンが映画『キム・ソンダル』で詐欺師を演じた。またスホは映画『グローリーデイ』に出演し、10月に始まる釜山国際映画祭で公開されることが決まっている。
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D.O.ことド・ギョンス

 もちろん、演技ドルの名前をほしいままにしているD.O.は2015年も俳優として引っ張りだこだ。6月にはドラマ『君を覚えている』にカメオ出演、危険人物というこれまた難しい役を演じた。また、映画『純情』への出演も決まっているほか、チョ・ジョンソクと兄弟を演じる『兄貴』の撮影もスタートし、2016年に公開予定だ。  また、中国人メンバーであるレイが、中国で11月公開の映画『前任攻略2』に特別出演するほか、チャン・ツィイーが制作を手掛けることでも話題の映画『从天儿降』に主演することも決定している。SMエンターテインメントは中国のメディアアジアと業務提携もしていることもあり、今後も海外進出は続くだろう。  だが、これまでのことを考えると、SMエンターテインメントは “演技ドル”後発の事務所のようにも見えた。国内でもトップのSMのアイドル達は、そのキラキラした特性がある故に、ファンタジックなラブ・コメディの主役を演じたり、カメオ出演で話題を集めるコースが求められ、その役柄が限定されているように感じたのだ。  しかし、D.O.が『大丈夫、愛だ』で「誰しももろくて弱い」というテーマのもと、自身も深く傷ついたキャラクターを演じ、また映画『明日へ』では、非正規労働者の貧困と過酷な状況の中で生きる高校生を演じたことで、よりリアリティのある作品にも挑戦できる人材がSMにも存在するということを知らしめた。  現在の“演技ドル”は主役でなくても演技さえうまければ十分に注目される。また、韓国では、ドラマ界も映画界も、非正規労働者の問題など、社会的なテーマの作品が増えている。演技をするアイドルたちも、そんな新たな需要の中で、次々と才能を開花させていくのではないだろうか。 ■西森路代 ライター。1972年生まれ。大学卒業後、地方テレビ局のOLを経て上京。派遣、編集プロダクション、ラジオディレクターを経てフリーランスライターに。アジアのエンターテイメントと女子、人気について主に執筆。共著に「女子会2.0」がある。また、TBS RADIO 文化系トークラジオ Lifeにも出演している。 ■公開情報 『チャンス商会~初恋を探して~』 9月25日(金)よりTOHOシネマズ新宿ほか全国順次ロードショー 監督:カン・ジェギュ 出演:パク・クニョン、ユン・ヨジョン、チョ・ジヌン、ハン・ジミン、チャンヨル(EXO) 配給:CJ Entertainment Japan (C)2015 CJ E&M Corporation, All Rights Reserved 公式サイト:http://jangsumart.jp/ 『明日へ』 11月6日(金)よりTOHOシネマズ新宿ほか全国順次ロードショー 監督:プ・ジヨン 脚本:キム・ギョンチャン 製作:シム・ジェミョン キャスト:ヨム・ジョンア、キム・ヨンエ、キム・ガンウ、ムン・ジョンヒ、チョン・ウヒ、ド・ギョンス(EXO) 配給:ハーク 配給協力:アークエンタテイメント (C)2014 MYUNG FILMS All Rights Reserved. 公式サイト:www.ashitae-movie.com

宮台真司の『野火』『日本のいちばん長い日』評:戦争を描いた非戦争映画が伝えるもの

【リアルサウンド】  7月25日公開の『野火』(塚本晋也監督)、8月8日公開の『日本のいちばん長い日』(原田眞人監督)、そして10月1日に公開される『ドローン・オブ・ウォー』(アンドリュー・ニコル監督)と、最近で戦争を扱った良作が多いので、これらをまとめて取り上げたいと思います。合わせて、『野火』に重なる『シン・レッド・ライン』(1999年/テレンス・マリック監督)、『日本のいちばん長い日』と重なる『終戦のエンペラー』(2013年/ピーター・ウェーバー監督)なども見ていきたい。 (※メイン写真は『日本のいちばん長い日』のもの)

『野火』と『シン・レッド・ライン』の共通モチーフ

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『野火』場面写真

 戦争に関する映画がいわゆる“戦争映画”になる場合と、そうならない場合があります。戦争映画になるケースは、わかりやすく言うと、多かれ少なかれ「敵/味方」という構図があって、味方に英雄が存在するというヒーローものになります。これは実はプロパガンダ映画に近い構図です。僕が小さいときにハマっていたテレビシリーズ『コンバット』が戦争映画的な作品の典型です。ところが最近、そういった戦争映画的なものとは、異なる作品が増えています。  例えばテレンス・マリック監督『シン・レッド・ライン』(1999年)。日本軍がほぼ全滅した、オーストラリアに隣接するガダルカナル島が舞台です。戦争映画というより「戦場におかれた人間が何を体験するのか」にフォーカスしています。基本構造は単純で“時間”がモチーフです。戦争で藻掻き苦しむ「ヒトの時間」とは別に、「ワニの時間」があり、「鳥の時間」があり――と他の生き物の時間が描かれ、同じヒトでも「原住民の時間」が全く別に流れて、それらがパラレルワールドのように交わらないことが描かれます。  そのことで、「同じ時空を共有するはずなのに、なぜ文明的人間の時空というレイヤーでだけ馬鹿げた悲惨が生じているか」という具合に、理不尽さの体験を観客に突きつけます。こうした時間構造から映し出される理不尽さの体験には、敵も味方も関係ありませんから、米兵の体験と同じく日本兵の体験も描かれます。ジム・カヴィーゼル演じる主人公が所属する部隊のリーダーがキリスト教徒で、「神よ、私が皆を裏切らないように、どうか私を見ていて下さい」と神に祈るシーンがあることも見逃せないポイントです。  塚本晋也監督『野火』(2015年)も似ています。映画は「兵隊に流れる時間」と別に、それと交わらない「現地人に流れる時間」「ジャングルに流れる時間」を描き、別世界に流れる時間に意識を飛ばすことで苦境を耐えるという主人公の実存を示します。こうして観客は「そもそも人間社会(を流れる時間)を生きる必然性があるか」と問われます。社会を生きるからこそ人間の時間に属して戦争に駆り出され、英雄のゲームや悲惨のゲーム──戦争映画的なもの──に巻き込まれる。ならば、社会を生きるのを諦めればいいではないか、と。  『シン・レッド・ライン』は、社会をベタに生きるのを免れるべく、「宗教性の次元を生きよ」と推奨します。『野火』は、大岡昇平の原作に即して、「狂ってしまえばよい」と推奨します。だからこそ『野火』においては、普通であれば戦場における悪役として描かれるはずの、リリー・フランキーが演じた横暴で狂暴な兵隊・安田などが、悪役ではなく「所詮は主人公の同類」として描かれています。戦場においては英雄も悪役もない、それは非戦場が夢想する虚構だ──。クリント・イーストウッドの映画にも共通するモチーフです。

末端もデタラメ、頂点もデタラメ

 一方、原田眞人監督『日本のいちばん長い日』(2015年)は、『シン・レッド・ライン』と『野火』が、否定的にせよ肯定的にせよ、せいぜいが軍曹くらいまでの「末端」の、戦場におけるデタラメぶりを描くのに対し、本作は参謀本部や御前会議のような「最上層部」の、「末端」に勝るとも劣らないデタラメぶりを描きます。そこが昨年公開されたピーター・ウェーバー『終戦のエンペラー』(2014年)と重なります。『野火』と『日本のいちばん長い日』は、対照的に見えて、共通して戦争(という人間の時間)の茶番を描きます。  『日本のいちばん長い日』は、1967年に一度映画化され、1980年にテレビドラマ化(TBS系『歴史の涙』)もされました。本作はそれらと少し違います。過去の作品は無条件降伏を阻止しようとする将校らが皇居を占拠した宮城反逆事件をメインに描いたサスペンスですが、本作は天皇の御振る舞いを綿密に描くことで、陛下のあまりのマトモさに比べて、参謀本部や御前会議に陣取る首相以下各大臣のデタラメぶりが浮き彫りになるという仕掛けになっています。  デタラメな指導陣ですが、阿南惟幾陸相と鈴木貫太郎首相だけが肯定的に描かれます。阿南は陸軍の尊厳護持と陛下への尊崇との間で板挟みになった境界的存在。鈴木貫太郎首相もクソ連中を宥め賺して陛下の御意向に沿うべく苦心した境界的存在。共通します。実は境界的存在を擁護するのが原田監督流。鈴木首相を演じた山崎努の凄い演技を見ると、史実的な「耳の遠さ」も詐病かと疑うほど(笑)。いずれにせよ、余程のタヌキか強烈な矜持を持つ者でなければ、指導者層の余りのクソぶりゆえに自分を保てないことが描かれます。

天皇戦争責任論を一掃した作品群

 『終戦のエンペラー』と『いちばん長い日』は噛み合います。『終戦のエンペラー』は天皇の戦争責任が3点で成り立たないとします。第一に、12月8日開戦3カ月前に明治天皇の御製短歌を引用し御前会議で開戦反対意思を表明されたこと。第二に、陛下が意志を表明されたから総玉砕を回避できたこと。第三に、終戦後のマッカーサー拝謁が周囲の反対を排けて独断でなされたこと。マッカーサー回顧録には陛下が他の者に罪はないから私を処刑せよと述べたとあり、これでアメリカの天皇処刑論が一掃されて国体が護持されました。  しかし、第二の終戦の詔勅については、敗戦を決断できるぐらいなら、開戦を回避できただろうとして、やはり天皇の責任を問う議論があります。これについて原田監督の『いちばん長い日』は、陛下による終戦の決断が、天皇単独で出来うるものでは到底なく、鈴木貫太郎首相や阿南陸軍大臣らの「タヌキの大芝居」を通じてようやく可能になったことを、原作に即してちゃんと描いています。というわけで、この二つの映画を見れば、天皇の戦争責任論が完全に粉砕されているのが分かるでしょう。  『終戦のエンペラー』と同じく今回の『いちばん長い日』もまた、天皇主義者の僕としては納得の行く描き方をしていて、満足です。『終戦のエンペラー』もソクーロフ監督『太陽』(2005年)も日本映画ではありませんから、日本映画としては殆ど初めてじゃないでしょうか。これまで大東亜戦争における陛下の役割とは何だったのかについて、日本の映画は明確に描いて来なかったのです。昨年『終戦のエンペラー』を見たときも、僕はどうして日本がこれを描けないのかと憤慨していました。その意味で良かったです。

一方的な感情移入を排する原田流

 ちなみに僕は、原田眞人監督と『バウンス ko GALS』(1997年)のプロモーションでお会いし、一時期交流していたことがあります。彼の作品はたいてい見ていますか、原田監督の資質が最もよく表れているのが『狗神 INUGAMI』(2001年)という作品でしょうか。これを観たとき、この監督は本当にすごいと思いました。そして、『一番長い日』では、彼が『狗神』で見せた演出方法を完全に踏襲しているのです。一口で言えば“一方的な感情移入”を排除しようとするのです。  『狗神』は狗神筋が存在する高知の山深い尾峰の村での悲劇を描きます。オカルト映画としては異色で、オカルト映画に見えて、実際オカルト現象は一切映し出されません。村では「壺の中に狗神が見えれば狗神筋」だとされ、「狗神が見える」と称する人たちが登場します。しかし、映像に登場する壺の中はただ真っ暗。「狗神が見える」と称する人たちの体験に相応する現実があるのかどうかには触れません。怪異を体験したと称する人が描かれても、怪異現象自体は決して描かれないのです。  これはスタンリー・キューブリック監督の名作『シャイニング』(1980年)に通じる描き方です。『シャイニング』でも、主人公を含めた登場人物たちが経験する怪異な体験について、それに相応する現実があるかどうかはやはり描かれません。ラストシーンで主人公のジャック・ニコルソンが「All work and no Play makes Jack a dull boy」という文章を原稿用紙にただ打ち込み続けているという描写がありますが、それも悪魔憑きによるものなのかどうかについては描かれません。  カール・グスタフ・ユングは、「神秘体験の存在は、神秘現象の存在を意味しない」という有名な言葉を残しました。神秘体験は催眠誘導などで簡単に引き起こせるので、そのことを知らないと、オウム信者がそうだったように「似非グル」に心酔しがちです。ことほどさように「体験と現実との間に必ずしもリンクがない」という発想は近代的です。そうした発想を原田監督はお持ちです。そうした彼の感性が『いちばん長い日』でも発揮されています。宮城反逆事件を起こした将校たちの描かれ方が典型です。

宮城反逆事件の将校らの描かれ方

 普通ならば「過激派」的な悪役イメージを配当されがちですが、原田監督の『いちばん長い日』は違う。ある種の観客には十分に共感できる描き方をしています。これは倫理的に正しい。国民の多くは二・二六事件の青年将校が好きで、『実録・阿部定』(1975年)や『愛のコリーダ』(1976年)など映画で何度も描かれています。宮城反逆事件の青年将校と二・二六の青年将校との間に、あるいは多くの国民が大好きな赤穂浪士との間に、さしたる違いはない。みな純粋無垢な反逆者です。そのことが何を意味するのでしょうか。  かつては丸山眞男、最近は宗教学者の島薗進氏が仰るように、天皇制ファシズムを主導したのが統制派つまり軍エリートだったという説は間違いで、むしろ庶民の共感を背景としたノンエリート層の皇道派が主導的でした。天皇を支配の道具とみなしつつ国民には天皇を天孫と崇めさせる天皇機関説的なエリート層を大衆から見ると、イケ好かないインテリどもの天皇利用だと感じられたのです。そうした庶民の憤激を背景に、蓑田胸喜・国士舘専門学校教授のような連中が、東京帝国大学のリベラルな教授たちを追放していきます。  東京裁判で、戦争責任は専らA級戦犯にあるとする「手打ち」になり、天皇と国民から戦争責任が免じられました。国民が悪くなかったという話は元々はネタなのに、やがてベタになりました。でも、庶民もヤバイ。というか、庶民がヤバイ。現に二・二六事件の青年将校を応援したがるメンタリティが、陸軍内部の反逆である宮城事件に直結する。原田監督はそれを意識するから、否定的にも肯定的にも描きません。狗神がいるのかいないのか言及しないのと同じように、何が本当に正しいのか言及しない。とても正しい演出です。  前回『バケモノの子』を論じて、言語と言語以前という二項図式があることを言いました。(参考:宮台真司の『バケモノの子』評:言葉ならざる親子の関係を描く、細田守監督の慧眼)渋谷(人間界)は言語が優位な世界。澁天街(バケモノ界)は言語以前的なものが優位な世界。親子関係はそもそもは言語以前的な感情が中心を占めるべき関係じゃなかったのか──と。最近の映画には、言語と言語以前、理性と感情といった二項図式を使うものが目立ちます。『いちばん長い日』でも、天皇の佇まい、阿南陸軍相の佇まい、畑中少佐の佇まいなどが丹念に描かれます。そのことが僕たちに、ある投げかけをしています

概念言語と言語以前の微妙な関係

 阿南一家のあり方、阿南陸相と陛下との心の通い合い、狡猾な東条英機とピュアな畑中少佐の対比などから、「古い人たちの人間関係や古い人の佇まいは、いいものだな」と感じさせます。オーラが感染するのです。僕たちはこうして言語以前的な感情に動機づけられるのですが、しかし、その感情が概念言語によって水路づけられてしまうので、ミソもクソも一緒になりがちなのです。例えば、阿南陸相と幕僚たちが「ともに陸軍幹部」ということになり、「東条英機と畑中少佐が同じ尊皇主義者」ということになってしまいます。  イデオロギーつまり概念言語の如何を以てヒトを分ける仕方とは別に、他者を感染させる力をもつ立派な存在かどうかでヒトを分ける仕方もあります。玄洋社の遠山満は、左右のイデオロギーを問わず、コイツは立派だと判断すれば食客にしました。そのように、ヒトの立派さや情念や心意気への感染を良しとする構えが、ただの保守と区別されて、右翼的=主意主義的と見做されてきた歴史があります。映画でも、暴発した若手将校はただのキチガイとしては描かれていません。しかしそこにこそ、これから述べる悲劇があります。  例えば、僕が誰かの情念や心意気に感染したとして、その誰かが抱くイデオロギーが愚昧であれば、僕は愚昧なイデオロギーに引き回されます。逆に、イデオロギーが愚昧だったにせよ、情念や心意気への感染自体が間違っていたわけではありません。しかし、情念や心意気への感染を、イデオロギーの正しさと取り違えると、悲劇がもたらされます。概念言語と言語以前のものとの間に、こうした微妙な関係があります。だから、かつての京都学派のように、言語以前的なものへの注目を切口に、愚昧な全体主義を呼び出せます。

概念言語はミソもクソも一緒くた

 京都大学で人類進化論を研究しておられる山極寿一先生は、人間の始まりは言葉でも火でもなく「共同保育」を行うようになったことだとします。猿は四肢が手ですが、ヒトは下肢が足に戻ったので、赤子が母親に常時つかまれず、仰向けに寝かされます。母親は赤子を置いて遠くに出かけられます。赤子は母親を呼ぶために泣きます。母親以外の周囲も駆けつけてあやせます。赤子は笑顔で報償を返します。こうした経緯で母親以外が育児に関わる可能性が開かれ、共同保育につながります。  ヒトは下肢が足になったので、物を持って遠くに狩猟採集に出かけられます。それに必要な皮下脂肪を蓄えるべく満腹反応が遅れるようになります。遠くで狩猟採集してもその場で食べずに共同保育の場に持ち帰るようになりますが、可能にしたのが共感能力です。つまり「自分が空腹であるように家族や仲間も空腹なはずだ」などと他者に生じている反応を自らに引き起こす力です。こうしたことに加えて、山極先生はヒトが戦争をするようになったのは言葉のせいだとします。  現存する原初的な部族を見ても分かるように、とりわけ女をめぐる争いが部族間抗争に発展しがちなものの、ジェノサイド(全面殺戮)は起こりません。基本的にメンツの争いなので、互いのメンツが立つよう抗争を収束させるための知恵が蓄積されてきました。ところが、4万年余り前から言葉を使うようになって、ミソもクソも一緒くたに全て敵のせいにできるようになります。それゆえ、言語以前的な感染力──感染する力やさせる力──が、概念言語に水路づけられるようになり、暴走しがちになったのだと。  ロゴス中心主義的な西欧文明が一部を失った言語以前的なものへの鋭敏ぶりは、断固として擁護されるべきですが、そうであるにせよ、そうした言語以前的なものへの鋭敏ぶりが、概念言語によるデタラメな構築物に向けて動員されてきた歴史もあります。その意味で、言語以前的なものを擁護しつつ否定し、否定しつつ擁護するのが合理的です。原田監督は、英米で大学教育を受けて来られたのもあってか、『日本のいちばん長い日』では、日本的なものを「擁護しつつも距離をとり、距離をとりつつ擁護する」立場をとっておられます。  そういうことも踏まえ、後編では主に『ドローン・オブ・ウォー』について話しましょう。 (取材=神谷弘一) ■宮台真司 社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter ■公開情報 『日本のいちばん長い日』 公開中 役所広司 本木雅弘 松坂桃李 堤真一 山﨑努 監督・脚本:原田眞人 原作:半藤一利「日本のいちばん長い日 決定版」(文春文庫刊) 配給:アスミック・エース、松竹 ©2015「日本のいちばん長い日」製作委員会 『野火』 公開中 原作:大岡昇平「野火」 出演:塚本晋也、リリー・フランキー、中村達也、森優作 監督・脚本・編集・撮影・製作:塚本晋也 製作年:2014年 製作:日本 上映時間:87分 PG12 配給:海獣シアター

スティーブ・ジョブズ伝記映画を巡り、ティム・クックとアーロン・ソーキンが舌戦

【リアルサウンドより】  ダニー・ボイル監督のスティーブ・ジョブズ伝記映画『Steve Jobs』について、アップルCEOのティム・クックが批判的な態度を見せていることに対し、劇作家・脚本家のアーロン・ソーキンがコメントした。『Hollywood Reporter』など 、米各メディアが報じている。(参考:Aaron Sorkin Rips Apple's Tim Cook Over 'Steve Jobs' Critique: "You've Got a Lot of Nerve")  ティム・クックは先日出演した「ザ・レイト・ショー・ウィズ・スティーヴン・コルベア」で、スティーブ・ジョブズ伝記映画について問われ、ジョブズの自伝やドキュメンタリー作品『Steve Jobs: The Man In The Machine』(原題)などは読んだり、観たりしていないとしつつ、「多くの人々が彼を利用しようとしていて、私はそれが本当に嫌です」とコメントしていた。  アーロン・ソーキンはこれに対し「誰もこの映画で儲けようとは考えていない」とコメントしつつ、「ティム・クック氏は、内容を決めつける前に、ちゃんと映画を観るべきである」と続けた。  さらに、「もし、あなた(ティム・クック)が中国の電話組み立て工場で1時間17セントで子供たちを雇っていたのなら、“映画監督らが(ジョブス)を利用しようとしている”などとは言えないはずだ」と皮肉った。  映画『Steve Jobs』は、10月9日に米国で公開される。 (文=編集部)

川島なお美、女優としての仕事とその人柄ーー岡田惠和作品ではコメディのセンスも

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川島なお美オフィシャルブログ「『なおはん』のほっこり日和

【リアルサウンドより】  女優・川島なお美が胆管がんのため、24日に逝去した。享年54歳だった。昨年1月にがんが発覚し、摘出手術を受けたが、術後は抗がん剤や放射線治療を一切受けずに、免疫療法を向上させる食事療法や運動を実践してきたという。最後まで女優として生き、再び舞台に立つことを願ったうえでの選択だったとのことだ。  川島なお美は1979年、青山学院大学文学部在学中に女子大生アイドルとして芸能界デビュー。ラジオ番組『ミスDJリクエストパレード』(1981年、文化放送)のDJや、テレビ番組『お笑いマンガ道場』(1982年、中京テレビ)などへの出演で人気を博した。90年代半ばには、テレビドラマ『イグアナの娘』(1996年、テレビ朝日)や『失楽園』(1997年、読売テレビ)といった作品で女優としても評価を高めていく。ドラマ評論家の成馬零一氏は、女優としての川島なお美を次のように評している。 「川島さんの一般的な代表作というと、やはり渡辺淳一さん原作の『失楽園』が挙げられますが、個人的にはその前後に出演した『イグアナの娘』や『可愛いだけじゃダメかしら?』など、岡田惠和さんが脚本を手がけた作品の演技が印象に残っています。『イグアナの娘』では、娘を愛することができない母親・青島ゆりこをシリアスに演じて評価されましたし、コメディタッチの青春ドラマ『可愛いだけじゃダメかしら?』では、地味な女性教師を演じ、上品でかわいらしい笑いを生み出していました。特に後者では、コメディ女優としての才覚が発揮されていて、個人的にも好きでしたね。また、『家なき子2』や任侠ものの映画では、冷酷なイメージの女性も演じ、女優としての幅広さを見せていました。色気のある大人の女性というイメージだけではなく、実は笑いのセンスも持っていて、様々な役柄に挑戦できる女優だったという印象です」  また、タレントとしての振る舞いにも、独特のユーモアが感じられたという。 「当時、毒舌コラムで人気だったナンシー関さん(1962年~2002年)は、川島さんからある日突然、ワインが送られてきたというエピソードを披露しています。ナンシー関さんは川島なお美さんのこともたびたびネタにしていたのですが、川島さんはそれに対して怒るのではなく、大好きなワインで返答したんですね。ナンシー関さんが「このワインは挑戦状なのか? 懐柔策なのか?」とみんなで議論した。と、面白おかしく書いていたのをすごく覚えています。後に川島さんは『評伝ナンシー関』(著・横田増生)の中で、ナンシー関のコラムに対して「愛情の裏返しと解釈していた」、ワインを送った理由については「感謝をこめたラブレターに等しいものでした」とコメントしています。どこまで本音だったのかは、今となってはわかりませんが、彼女自身のキャラクターを踏まえた、とても気の利いた返答だなぁ。と、感じたものです。自分が世間から、どのように見られているのかに対し、とても自覚的で、しかもそれをプラスに転じることができるのも、川島さんの強みであり、表に立つひとならではの振る舞いだったのではないでしょうか」  「私の血はワインが流れている」などの名言でも、世の中を楽しませてきた川島なお美。最後まで女優としての人生を全うした彼女の冥福を祈りたい。 (文=編集部)

朝ドラ『まれ』はなぜ批判されたのか? 映像と脚本からその真価を検証

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『まれ』公式サイトより

【リアルサウンドより】  NHKの連続テレビ小説(以下、朝ドラ)は、近年もっとも注目されているドラマ枠だ。それだけに毎回、激しい賛否が巻き起こるのだが、今週最終回を向かえる『まれ』は、主に物語のわかりにくさと登場人物の一貫性のない行動が、激しい批判にさらされた朝ドラだった。  しかし、『まれ』は本当に不出来な作品だったのだろうか? そして何故、これほどまでに批判されたのか? 映像面と脚本面から総括してみたい。  『まれ』は、能登で暮らす夢嫌いの少女・津村希(土屋太鳳)が、パティシエ(菓子職人)を目指す物語だ。物語は1994年からはじまり、2000年代を経て、2015年の現在に辿り着く。『ごちそうさん』『花子とアン』、『マッサン』と戦前・戦中・戦後(昭和)という時代を描く物語が三作続いた朝ドラだが、2013年の『あまちゃん』以来、久々に登場した現代が舞台の作品だ。  『まれ』で秀逸なのは、パソコンや携帯電話などといった00年代以降、誰もが安価で使えるようになったデジタル機器の描写である。例えば、希の弟子である沢沙耶(飯豊まりえ)は、希が菓子を作る場面をスマートフォンで動画撮影する。おそらくこの場面は、若い人ほど当たり前の行為として受けとめただろう。実際、こういう形で動画撮影を利用することは多い。しかし少し前だったら、もっと異様なシーンとして映ったはずだ。  これはあくまで一例だが、こういったデジタル機器の扱いから見える現代の切り抜き方が実に秀逸なのだ。これは劇中の映像にも強く反映されている。  『まれ』を見ていてもっとも驚いたのは小型カメラを駆使していると思われる映像だ。特にそれは室内のシーンにおいて発揮されており、ホームドラマではやり尽くされた食卓を家族が囲む場面も、レイアウトに凝った躍動感のある映像となっている。  こういった斬新な映像はNHKドラマの伝統で、『あまちゃん』でもすでに試みられていたものだ。しかし『あまちゃん』の映像が、斬新であるがゆえに作り手の意図を超えて、強い意味を持ちすぎていたのに対し、『まれ』の映像は女子高生がスマホで撮影したような気軽さがあり、その気負いのなさが、より現代的に感じる。  つまり、かわいい女の子が最先端の映像で綺麗に撮られているという意味において優れたアイドルドラマだった。というのが、『まれ』に対する最大の評価だ。  では、物語面ではどうだったのか?  朝ドラは、週6日×15分×6か月という長きにわたって放送されるために登場人物も多く描かれる要素も多岐にわたっているが、ほとんどの作品は女の一生を描いたものとなっている。  『まれ』も幼少期からはじまり、学生時代、就職、恋愛、結婚、出産といった、女性が人生で出会う様々な出来事が描かれている。  近年では様々な女性が登場しているが、朝ドラヒロインは基本的には明るくまじめな優等生だ。希も「夢嫌い」と口では言いながらも、パティシエという夢に向かっていく。  ただ、希の行動は紆余曲折が激しく、公務員をやめてパティシエになったかと思ったら、結婚相手の都合で仕事をやめて女将の修行をしたり、自分の店をはじめたかと思ったら、妊娠して産休に入ったりと、すべての行動が行き当たりばったりに見える。また、本来丁寧に描くべき場面を省略してしまうので、一話だけ抜き出すと、実に中途半端な作品に感じてしまう。  これが脚本上の狙いなのか、力量不足による構成力の不備なのかが、わからないため、多くの視聴者は序盤でイライラしてしまい、その印象が最後まで払拭できなかったことが『まれ』に対する批判の根底にあるのだろう。  実は、僕も当初は脚本を評価しておらず「お話はダメだが太鳳ちゃんがかわいいからOK」という、やや消極的な動機でドラマを見ていた。  そのため、録画で2~3週分をまとめてみるということを繰り返していたのだが、まとまった話数を連続で見ると、中途半端に見えた脚本が、実は入念に伏線を張ったドラマだとわかってくる。同時に行き当たりばったりにみえた一見わかりにくい人物描写こそが、脚本の篠﨑絵里子が描きたかった「人間の奥行き」だと気付かされる。  例えば、希の師匠となる池畑大悟(小日向文世)は最初から最後まで口が悪く、希に対して辛辣だ、しかし、ずっと見続けていると辛辣な口調の裏側にある弟子としての希への期待や思いやりが透けて見えてくる。それは他の登場人物も同様で、最後の一か月となる9月の放送では、今まで散りばめてきた人物描写の伏線を回収している。  その意味でも実に見事な脚本である。しかし、その力量が一般視聴者に理解されなかったのは、朝ドラというフォーマットの限界ではないかと思う。  近年の朝ドラは、『純と愛』の遊川和彦、『あまちゃん』の宮藤官九郎、『ごちそうさん』の森下佳子といった民放ドラマで活躍した脚本家を積極的に起用することで、15分の中に民放ドラマ一時間分の密度を持ち込むようになってきた。  『まれ』も、また物語の密度が濃く展開が速いのだが、人物や物語の一貫性がないように見えてしまう副作用が生まれてしまった。  朝ドラは毎日放送されているため、即座に感想がSNSに書き込まれて盛り上がる。しかし、その弊害として脚本家が起承転結でいうと承や転として書いた話が、結として受け止められてしまうことが多い。  篠﨑の脚本は、6か月を通して起承転結を組み立てたものだ。しかし、物語が終わってから語られる映画とは違い、リアルタイムの視線に常にさらされ続けているために全体を通しての評価が語られにくいのが、テレビドラマの難しさである。 ■成馬零一 76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。

速水健朗が考察する、『進撃の巨人 後篇』で描かれた「壁」の意味

【リアルサウンドより】  劇場版『進撃の巨人』前篇(「ATTACK ON TITAN」)は、謎の巨人たちが壁の外から侵入してきて人類の日常を破壊する怪獣映画だった。  これが近未来なのか、過去なのか、そのどちらでもない架空の場所なのか、始めはその世界観を推測しながら観ることになる。  人々が市場でものを売り買いしている場面からは、市場経済が機能していることがわかり、人々が逃げ込む宗教施設が存在するということからは、宗教も存在するということがわかる。巨人に立ち向かう軍隊と、敵に対抗する技術(起動装置)も存在する。壊れた壁の修復という作戦遂行のために集められた新米兵士たちは、出稼ぎ、口減らし、孤児、シングルマザーであったりと、それぞれに訳ありだが、その理由は前近代的なものと現代的なものが混ざっていておもしろい。こうした具合に、世界観の細かい部分が次第に見えてくる。  ただし、前篇はあくまでもグロテスクな巨人が人を喰らう怪獣、または巨大ゾンビ映画だった。特撮やアクション、グロテスク描写などが好きであれば、どうやら楽しめる内容であるようだ。「どうやら」という注釈付きの評価をするのは、僕個人は、その手の映画が苦手だからである。  それが、後篇になると打って変わり、壁の内部の闘争が描かれるようになる。前篇が正統派怪獣映画だとすると、後篇は、人間対人間の闘争が描かれるポリティカル・サスペンスだ。内容の変化に伴い、読み解くべき要素が急に増える。  巨人の襲撃に遭った人類は、3重の壁を築き、その中で限られた資源を分け合って生きることになった。かつてばらばらだった人間社会は、巨人という共通の敵ができることでひとつの共同体として結束する。  人々の争いの種なんて知れている。人種、宗教、国境を巡る紛争、経済イデオロギーの対立などだ。それらを巡る争いは、築かれた壁の内側では消失する。人々は限られた土地、食糧、資源を分け合って生きるようになった。つまり、この世界ではそれらを平等に分配する機能を持った中央集権的な政府が存在し、それはうまく機能している。
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 後篇の冒頭で登場する言葉「特定知識保護法」は、書物を所有できなくするための法律のようだ。人々は、100年かけて書物をこの世から葬った。この世界の文明は、巨人によって滅ぼされたのではなく、壁の中で人間が、自主努力で捨てたのである。「知識、科学、技術」は、人のいがみ合いや争いの元であるとされた。政府はこれらを法と権力で規制した。  権力への不満は、外敵である巨人への恐怖心に向かうことでごまかされている。実際、こうした外敵をつくり、不満をそらすやり方は、一党支配、独裁制の国ではよく用いられるものだ。  こうした壁の内側の統治状況が理解できたところで、その中央政府の政治体制にたてつくクーデターの物語が始まる。  そのリーダーは、前篇では巨人との戦いにおける最大の功労者として登場したシキシマ隊長(長谷川博己)である。彼は、巨人という外敵を利用して自らの権力の正統性を付与するというマッチポンプの構造を告発し、反旗を翻す。それが後篇の物語だ。 「狼を怖がって柵の中にいるのは家畜」  つまり、壁とは巨人から身を守るためのものではなく、家畜の自由を奪うための檻である。それに気がついているシキシマは、主人公エレン(三浦春馬)にそれを説き、自ら率いる反乱軍に誘うのだ。  主人公のエレンは、この世界のマッチポンプの有り様に関しては、多くの知識を有していない。ただ、壁の外にある世界に関心を持つ、自由への憧れを秘めた存在である。   本来、共闘が可能なはずのシキシマとエレンだが、二人は対立する。シキシマは、内側の壁を破壊し、巨人たちを内部に引き込むことで、政権の崩壊を目論んでいる。家畜を目覚めさせるためには、多くの犠牲が必要であると考えているのだ。一方、エレンはそういったエリートの傲慢さが許せないのだろう。二人は、対立する。また、互いの間にいる女・ミカサ(水原希子)の存在も、いがみ合いの素となっている。「壁の破壊」を「コロニー落とし」に「ミカサ」に「ララァ」 を代入すると、もしかしたら理解の助けになるかも知れないが、まあ余計なお世話だろう。
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 まだ物語が続いている原作とは別の形で、「巨人とは何か?」という謎に答えを出さなくてはいけなかったという「劇場版」の制作環境において、「壁」の内部における人間同士の政治を本筋にした本作は、ここまではかなり成功しているように思える。   その成功は、「壁」を多重に解釈することで生み出されている。第一義には、巨人対策のための防壁。だがそれは、文明の発達を妨げる壁となり、エレンのような若者たちにとっては、好奇心を押しとどめる檻でもあった。そして、権力側にとっては、恐怖を煽り人心をコントロールするための道具が壁なのだ。巨人から の防備という名目の壁によって市民の自由を奪い、家畜化したのだ。  前篇が巨人の映画であるなら、後篇は壁の映画だ。壁を多重に描くことで、権力構造と描くべきドラマがいくつも生まれた。ここまでは成功している本作だが、その先は残念ながらポリティカル・サスペンスとして成功しているとは思えなかった。   壁の映画であればこそ、その組織や権力の有り様を、きちんと描く必要があったのではないか。例えば、権力の存在が、クバル(國村隼)が長官を演じる軍隊組織という形でしか描かれない。僕としては、壁の最も内側で生活している人々(他の人々よりも、やや裕福だったり?)の生活や、そこに建っているであろう政府の建造物が見たかった。そういった描写を通じて統治のスタイルや思想が伝わってくるような映画(『ブレードランナー』とか『ロボコップ』など)が好きだからだ。  権力と壁。この対比を考える上で、思い浮かべるのは村上春樹がエルサレム賞を受賞した際の「卵と壁」のスピーチだ。「もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ」と(春樹は、このスピーチを分離のための巨大な壁を建築した国家イスラエルで行った)。おそらく、シキシマの隠れ家として登場する「白い部屋」は、春樹の代表作『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で描かれたパラレルワールドを意識して描かれたものだろう。この場面の持つ意味も、いまいち伝わりづらかった。  物語としては、シキシマのクーデターが、エレンたちの活躍でごく初期にあっさりつぶれてしまうことも疑問だった。これによってシキシマのカリスマ性や思想性にも疑問符が付いてしまった。このクーデターは、もっと物語の中核に置かれるべきだった。  まあこれは、巨人同士のバトルなんていらないよねという『進撃の巨人』を観に行く人間としては、やや特殊な部類の人間の批評でしかないが。  人と壁を巡る物語。登場人物の心の中にも、心の壁が築かれている。エレン視点では、壁の向こう側を見つけようとする青春ドラマ。シキシマ視点では、自分の中の壁に気づく「自分探し」のドラマだ。ミカサの中の壁が描かれなかったことは悔やまれる。  こうした「壁」の解釈で見えてくるものが違ってくる。観る人がどれだけ壁の意味を見つけられるか。「バカの壁」を試すような作品でもある。 ■速水健朗 コラムニスト、ライター。著書『フード左翼とフード右翼』『1995年』ほか。メディア出演『TIME LINE』(TOKYO FM隔週火曜)、『あしたのコンパス』(フジテレビ「ホウドウキョク24」月曜)、『シューイチ』(日本テレビ)、『文化系トークラジオLife』ほか。 ■公開情報 『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』 全国東宝系にて超大型ロードショー 原作:諫山創(講談社「別冊少年マガジン」連載中) 監督:樋口真嗣 特撮監督:尾上克郎 脚本:渡辺雄介 町山智浩 音楽:鷺巣詩郎 扮装統括:柘植伊佐夫 出演:三浦春馬 長谷川博己 水原希子 本郷奏多 三浦貴大 桜庭ななみ  松尾諭 渡部秀 水崎綾女 武田梨奈 / 石原さとみ / ピエール瀧 國村隼 (C)2015 映画「進撃の巨人」製作委員会 (C)諫山創/講談社 公式サイト→http://shingeki-seyo.com/ 公式Facebook→https://www.facebook.com/shingekimovie 公式Twitter→https://twitter.com/shingeki_movie

菊地成孔が読み解く、カンヌ監督賞受賞作『黒衣の刺客』の“アンチポップ”な魅力

【リアルサウンドより】  韓流ドラマ以外は、日本映画が年間10本未満、アジア、中東、ロシア等々もせいぜい5本未満、アニメに至っては0本という菊地成孔が、低リテラシーのネット批評というけもの道を突き進む連載。第1回前編では、台湾の巨匠ホウ・シャオシェン監督の最新作『黒衣の刺客』を論じる。

「ホウ・シャオシェンは、えげつないほどゆっくり物語を進める」

 『黒衣の刺客』は公開を心待ちにしていた作品です。WOWOWで放送された、カンヌ国際映画祭の受賞式。オープニングでいろいろな国のグランプリ候補の映像が流れ、本作もそのなかにありました。ほんの一瞬だけ流れたアクションシーンが半端なくスゴくて、今流行のワイヤーやCG全く無しの、しかもミニマリズムだったんで、一発でヤラれてしまい、どうしても観たいと思ったんです。結論から言うと、これがめちゃめちゃいい映画だった。  とはいえこの映画は、ブルース・リーを代表とする“カンフー映画”ではなく、「武侠モノ」って言うんですが、中国の大衆小説の中の冒険物や、日本でいうところの「チャンバラ」みたいなモノです。アメリカだとパルプ・フィクションとか言いますよね、或はマーベル作品みたいな。中国では武侠モノの小説やコミックから、多くの作品が娯楽映画・ドラマ化されている。それを芸術家肌の監督がアーティスティックに撮る。ワイヤーアクションなどのド派手な演出はなく、アートとして表現しています。  このコンセプトの前例として、ウォン・カーウァイの『楽園の瑕』(1994年)が有名です。僕は大好きな作品ですが、公開当初はほとんど評価されていませんでした。    っていうか、世間一般に言われるのは、これがウォン・カーウァイのつまずきというか(笑)『欲望の翼』(1990年)『恋する惑星』(1994年)という名作連発で成功し、さあいよいよ巨大な資金を投じて、ローカルアーティストからインターナショナルアーティストへ。というポイントで「武侠モノを新解釈でやる」と。んでまあ、いろいろな意味でコケたと。確か、完成当初、すぐには日本では公開されなかった記憶がありますね。  <有名な武侠モノの主人公をポストモダン感覚でミックスした作品>ということで、世間の期待度は大変なものでした、それで多くの武侠モノ愛好家は『ルパン対ホームズ』(モーリス・ルブランによる小説。1908年に単行本化)のような作品になると期待していたんだけど、出来上がったら『エル・トポ』(1970年/アレハンドロ・ホドロフスキー監督)みたいな前衛的な内容になり、「やっちゃったな」という感じだったという(笑)。  豪華キャストに原作の権利料、製作期間もかけ巨額の資金を投入したにもかかわらず、大衆からそっぽを向かれてしまう……というのは、映画界ではそう珍しくない。ただ、『楽園の瑕』は後に再評価されており、デビット・リンチにおける『デューン/砂の惑星』(1994年)のように、ウォン・カーウァイにとってツイストした勲章となる作品になりました。よくある話ですが、今見返すと、全然解りずらくないし、さほど前衛的でもない。とても美しい映画で、ワタシも大好きです。  さて、『黒衣の刺客』のホウ・シャオシェン監督も、インタビューで「カンフーアクションやワイヤーアクションには関心がなく、黒澤明監督のサムライ映画の動き、背景に大自然が映るような部分に興味があった」という趣旨の発言をしており、最初からチャンラバ期待の大衆の方を、あんまり向いていない感じ。「どうなるんだろ?」と思ったんですが、カンヌでティーザー見たら、、、と話は冒頭に戻ります。  ただ、全編を通してみたら、“アンチポップ感”というか、まず、物語の速度がものすごくスローなんですよ。いまの映画は物語の速度感が上がっていて、ちょっとしたセリフでもすべて何かのフックになっていたり、時間が遅延されていく感覚がない。そこに来て、そもそもホウ・シャオシェンはゆっくり物語を進める人なんだけど、どんでん返しや複雑な人間関係のない、ストレートな活劇を、ものすごおおおくゆっくり進めるんで(笑)、テンポのよさを求める人には退屈に感じると思います。  しかしそこには、アジアではなく、アマゾン川流域ではないかというほどの、グロいぐらいの大自然が、5年以上かけたロケハンと撮影によって、奇跡的な美しさが切り取られていて、それが延々と続く。これが中国の底力というか。“アジアの大自然” “もう見慣れてしまったブルーレイの世界遺産”といったレベルから次の段階に上がっていて、自然の姿によって現実感が乖離するぐらいの巨大な力を感じました。しかも総てがとてつもない遠景で、主人公達が蟻みたいに並んでゆっくり動いている。1カ所だけ笑っちゃうようなワイヤーアクションがありましたが、あとは全部凄まじいリアリズムで構築されていて、かなり格調高いエンタメになっている。  ただ、ホウ・シャオシェン監督にはそんな意図はなかったと思いますが、これが “カンヌ(映画祭で受賞するための)対策”になっちゃってるんですよね。カンヌは “森”が描かれている作品の評価が高い。“ヨーロッパ以外の森に甘い” とも言えます。アニミズム(全てのものに霊魂が宿っているという考え)とくっついたりすると萌えてしまうというか、無条件で高得点をつけてしまうのではないかと。カンヌの常連である河瀬直美監督の作品がオーバーレイテッドされているとは決して言いませんが、2007年にグランプリを受賞した『殯の森』でも、奈良の森が出てきますし、殆どの作品に森とアニミズムが描かれます。いわゆる“カンヌ好き”の映画というものはあると思うんです。『黒衣の刺客』は衣装もスゴかったし、観る側としたら焦れるギリギリのライン――反近代的なスピード感も含めて、カンヌ対策にはなっていると思います。結果として、ですが。

「久しぶりにこれだけ黒澤明監督の影響を受けた映画を観た」

 ストーリーの進行もゆっくりなら、製作期間も長く、5年の歳月を費やしています。妻夫木聡さんが「台湾の有名映画監督の作品に出演します」と語ってからずいぶん時間が経った印象で、やっと公開されたと思ったら、セリフがほとんどなかった。しかも、日本で公開されたのは「日本オリジナル・ディレクターズカット」であり、海外版では妻夫木さんの出番はもっと少ないし、忽那汐里さんは出演すらしていない。いずれにしても、彼らが大活躍することはないので、そこをお楽しみにしているファンの方はガッカリするかもしれません。  しかし、妻夫木さんは非常にいい役を演じている。中国人同士の血なまぐさいお家騒動に紛れ込んだ遣唐使の役で、冷徹なアサシンの心を溶かす。かなりの“天使役”で、ストーリーの鍵は握っています。中国を舞台にしたチャンバラ映画でありながら遣唐使である日本人を天使役にするということは、やっぱり台湾映画だからできたのかなと思いますね。    いずれにしても、パンフレットを読んでも彼が演じる「鏡磨きの青年」がどんな過去を持ち、この話に登場する人物か劇場パンフレット以外にはまったく書かれていません(笑)。というか、全体的に説明が省かれた映画で、ストーリーは非常にシンプルであるものの、そうとう分かりにくい。馴染みのない固有名詞がたくさん出てくるし、遠景の撮影が多くてクローズアップが少ないから、主人公以外の女性の顔がなかなか判別できない。そういう“謎”が深みになっていて、ハリウッド的な、或は香港式のガチガチのエンタメにしない、というのがベーシックなコンセプトだとはいえ、これも辛い方には辛い点でしょう。  そんなこともあって、それほど多くの観客が入っていない、という話もある。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)も、アカデミー賞をはじめとする数々の映画賞を受賞しているのに、それほど興行収入は多くありませんでした。賞と批評と興収はまあ、そもそも100%の関係ではない、とはいえ、観客は、『セッション』(2014年/デミアン・チャゼル)に代表される毒々しかったり、萌え記号や刺激が強かったりする映画が観たい気分なんじゃないでしょうか。バブル末期で、かなりの前衛もお洒落なら喰える、という時代ですら前述の『楽園の瑕』はノーを喰らった。『黒衣の刺客』は、カンヌで念願の監督賞受賞しかし観客をガツガツ呼び込むには格調が高すぎた。まあ時代ですよね。  あとびっくりなのは「最近、ここまで黒澤明リスペクトな映画見てねえよ!!」というぐらいのリスペクトっぷりで、まあ、ホウ・シャオシェンはもう68歳で、この時代にここまで分かりやすい黒澤オマージュをするのは彼くらいの年齢でしかありえないのかも知れません。冒頭にある様に、これは本人がはっきりと発言している訳だから、言行一致な訳ですが、殺陣が『七人の侍』(1954年)の宮口精二さんの動きなんですよね。最小限の動きで、相手の攻撃をギリギリで躱す。ちなみに、宮口さんは黒澤監督に「殺陣なんてやった事ないから出来ない」と言って、黒澤に「僕の言うとおりに動いてくれればそれでいいので」と言われて、そのとおりに演じたところ、剣術の達人の様にしか見えない、あの演技が出来た。という有名な逸話があります。『黒衣の刺客』の切りあいのシーン――特に傾斜がかかった白樺並木で戦うシーンの激しく、かつ最小限のムーブしかしないミニマリズムは、『七人の侍』宮口さんが2人いて、鏡面で戦っている様な感じです。あと、女主人公の父親が、もう千秋実さんにしか見えない(笑)。  他にも『蜘蛛巣城』(1957年)で三船敏郎が実際に矢を撃たれた有名なシーンと、そうとう似たシーンもあり、「これ、日本まで来て、同じ城で撮ってないか?」というぐらいでした。何れにせよ、久しぶりにこれだけ黒澤明監督の影響を受けた映画を観たな、という感じ。宴会の群舞や、男性主人公の顔つき等も『隠し砦の三悪人』や『乱』を否が応でも想起させ、僕よりも映画に詳しい方が観たら、他にも多くの場面で同じことを感じると思います。  映画の引用問題は音楽におけるリスペクト/パクリ問題と似ていて、受け手のリテラシーによって見方がかわり、またどのネタを使うかというところで、制作者のセンスが問われるところ。本作については、黒澤映画の影響を堂々と見せ、それがまったくみっともなくない。リスペクトの良例だと思います。  さらに、本作は音楽が素晴らしく、カンヌ映画祭でも「最優秀映画サントラ賞」を受賞しています。私は不勉強で知らなかったんですが、音楽を担当したリン・チャン(林強)は台湾のロックシンガーで、日本でいうところの矢沢永吉さんのような人だそう。ただ、実際に彼が作った曲というのはごく一部で、それぞれの場面ではその国の民族音楽が使用されていました。日本を舞台にしたシーン、忽那汐里さんが巫女として踊るところでは、篳篥などを含めた、本格的な雅楽が演奏され、中国の国内でも田舎だ宮廷だ、宴席用だ、農作業用だと場面に応じて音楽を変えているのですが、衣装やセット、台詞等と同様に、音楽も時代考証ががしっかりとしており、本当に息を呑むような素晴しさです。坂本龍一さんが『ラスト・エンペラー』の音楽で中国楽器を使ったように、エキゾチックな雰囲気の曲をつくるのも、いわゆる“カンヌ対策“ということになるかもしれません。  ただ、これがリン・チャン氏の仕事かどうかは判然としません。たまに流れる、プログレ的なシンセの曲があるんですが、「あ、コレだけじゃないかな」と思ったりまします。というのは、絵に演奏シーンがある様なものではない、純然たるアンダースコア(劇伴)がこの曲だけだからなんですが。

「ホウ・シャオシェンはフェミニズムを強く意識している」

 また、これは同じく台湾人監督で、カンヌでは競い合う立場になったアン・リーに対する牽制なのかどうか、ホウ・シャオシェンはフェミニズムを強く意識しており、「男は生き物としてはつまらない、女性のほうが複雑で独特な感受性を持っていて、そういう面に自分は惹かれるんだ」という趣旨の発言もしています。確かに、『黒衣の刺客』に登場する男は総じてつまらない人間で、女性はキャラクターが豊かです。  アン・リーは2005年、ゲイをテーマにした『ブロークバック・マウンテン』をヒットさせ、その後には『ラスト、コーション』というポルノ映画ギリギリの際どい性描写で話題になりました。しかし、ホウ・シャオシェンはそういう方向には行かず、本作もまったくエロがない。師匠は女性はおばさんだし、女性の殺し屋だというのに殺しのシーンにエロがない。そして、女性性の象徴である大自然が描かれているということにおいて、フェミニスティックな志向が見られます。しかしながら、女性の顔が判別つかない時点でフェミニスティックな映画だとは言えないし、全体的にはサムライ映画を下敷きにしたマッチョな印象。今作では、ホウ・シャオシェンは黒澤リスペクとは見事に出来るが、フェミニズムを「理念としてはやりたいんだけど、実際はできない」ということが分かり、その部分にちょっとした好ましさも感じました。正直な感じですよね。誠実というか。  あらためてまとめると、『黒衣の刺客』はまったく“現代的なお楽しみ”がない娯楽映画で、女殺し屋が主人公のチャンバラという、オタクが喜びそうな設定を使いながら、まったく萌えさせない。だからといって現代人に対しての何らかのメッセージがあるわけでもない。娯楽小説をここまでアーティスティックにブロウアップして、さらにヨーロッパ人が喜びそうな要素が詰め込まれている。ケレン味なく誠実で、良くも悪くも“おじいさん”の仕事ですが、カンヌでの高い評価に今後、世界中のマーケットがどう反応していくか、気になるところです。「現代的なお楽しみ」だけで出来たパフェみたいな『キングスマン』みたいな映画と好対照で、とはいえ僕は『キングスマン』系の未来も若干行き詰まっていると感じているので、尚更ですね。 (取材・構成/編集部) ■公開情報 『黒衣の刺客』 監督:ホウ・シャオシェン 脚本:チュー・ティエンウェン、ホウ・シャオシェン 撮影:リー・ピンビン 出演:スー・チー、チャン・チェン、妻夫木聡、忽那汐里 原題:「刺客 聶隱娘」 英題:「THE ASSASSIN」 原作:「聶隱娘」/ハイ・ケイ 配給:松竹(株)メディア事業部 (C) 2015 Spot Films, Sil-Metropole Organisation Ltd, Central Motion Picture International Corp.