『劇場霊』が切り拓くJホラーの新境地ーー不条理性に根ざした恐怖演出を読み解く

【リアルサウンドより】  もはや、Jホラーはホラー映画というジャンルのひとつに留まるものではなく、日本映画のスタイルとして確立されている。基本的には98年の『リング』『らせん』から始まる正月第二弾興行の二本立てとして始まり、02年に『仄暗い水の底から』や03年の『呪怨』と続き、04年から始まったJホラーシアターにつながるというのが王道ルートであろう。とはいえ、Jホラーシアターが始まってからは、それまでのような大ブームが巻き起こらず、かえってホラーが苦手という観客を増やしてしまった印象もある。しかしそれは、日本人が最も怖れているものを描き出すことに成功したともいえるのではないか。  Jホラーに具体的な定義はないものの、これまでのホラー映画にあったような、ショッカー描写やグロテスクを極力排除して、どこか湿っぽい不気味さと、かつ何故襲われるのかが判らない不条理さを、ある種の因縁にも似た物語に乗せて描くそのスタイルは、日本古来の、まるでラフカディオ・ハーンの『怪談』まで遡っているかのような純然たる「恐怖」を追求しようとしている点で共通している。それは、死者の哀しい欲求が生者にとって恐怖としてしか捉えられないというパラドックスによって生み出されるドラマであり、ある意味では日本の宗教観に似ている。これをハリウッドでリメイクしたところで、到底再現のしようがなかったことは言うまでもない。ホラー映画ほど、その国の宗教観が反映されている映画はないのである。
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 そもそも、怪談的な恐怖というものは科学的に証明しようがない。心霊スポットや幽霊がいるといった情報によってもたらされる先入観から、脳が錯覚を引き起こしているものであって、それによって体験する、恐怖感や気味の悪さというものは、映像として具現化することは極めて難しい。それゆえ、映画でそれを実現するとき、必然的に目に見える物体(=幽霊などの恐怖の対象物)を置く必要性が出てくる。それが『リング』の貞子や『呪怨』の伽倻子のように登場人物に迫ってくるようなアメリカ的な方法論で恐怖を生み出すこともあれば、『死国』の莎代里のように日本の文化に素直に即したタイプのときもある。もっとも、それらは単なる記号でしかなく、『劇場霊』においては一体の人形がその役割を担った。  人形師の男が作り出した一体の人形によって、彼の娘が変死する場面からこの映画は始まる。彼はその人形を破壊するが、残ってしまった頭部だけが、巡り巡って20年先の、ある舞台演劇の小道具として採用されてしまうことから始まる惨劇を、これまでのJホラーの形式を踏襲しながらも、どこかヨーロッパ製ホラー映画のにおいを漂わせながら描き出している。舞台のために劇場に集まった、若く美しい女性たちに代替品の身体で迫る人形が放ち続ける絶望的な欲求は、ジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』を想起させ、またクライマックスで訪れる壁に移る影から恐怖の接近を予感させる演出はカール・テオドール・ドライエルの『吸血鬼』そのものである。
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 もっとも、この映画で驚嘆すべき点はそれだけではない。『劇場霊』がどういう映画か説明して、と言われたとき、おそらく「人形が動く映画」という単純明快なプロットでしか説明ができないのである。これは『呪怨』が「ある家に関わった人たちが襲われる映画」として説明できるほど単純でありながらも、突き詰めてしまえばあまりにも長い物語として説明しなくてはならないことに対して、徹底的な無駄を排除したことである。島崎遥香演じる主人公が女優を志した動機や、事件が起こっても中止されない舞台の重要さなどは、決して明確に描かれることなく、ただ舞台のヒロイン争いがあって、人形が動くという最低限度の設定のみで映画を動かしているのである。もちろん、何故人形の頭が巡り巡ってきたのかの説明も、不条理のままなのである。
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 この不条理性から生まれるホラー映画の定理となると、やはり根底に小中理論(脚本家・小中千昭が著書『ホラー映画の魅力』で解説した、恐怖を生み出すための表現論)の存在を感じることができよう。そもそも人形は動かないという先入観を逸脱し、それが動くという極めてシンプルな方法論で生み出される恐怖の描き方を始め、多くのホラー映画が多用してきた、単なるサプライズでしかないショッカー描写を一切使わないことで、より基礎的な恐怖描写を追求しているのである。また、クライマックスでの舞台上における襲撃シーンは極めて異様な光景に映り、生きた殺人鬼ではなくあくまでも心霊であるはずの人形が、大勢の人間の前に姿を表すという、もはや情報の統一を超越した画期的な恐怖演出であった。
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 もちろん主人公を演じる島崎遥香のホラークイーンとしての才も存分に楽しめる。中田秀夫監督は前々作『クロユリ団地』でAKB48卒業後の前田敦子を主演に配したが、再びAKB48のメンバーでホラー映画を作ると聞いたときは、少々不安な気持ちもあった。しかし、いざ出来上がった作品を見てみれば、そんな不安など軽く吹き飛ばされるのだ。そもそもAKB48関連のドラマの出演が主で、演技キャリアは浅いものの、グループ内でも努力家と知られている彼女だけあって、台詞読み自体には課題は残るが、普段の冷たい視線と恐怖シーンの表情とのギャップや、クライマックスでの決め台詞には、彼女を推しメンにしているファンでなくとも魅力的に映るであろう。かの大所帯グループの中でも群を抜いて、女優として輝ける素質を持った逸材である。 ■久保田和馬 映画ライター。1989年生まれ。現在、監督業準備中。好きな映画監督は、アラン・レネ、アンドレ・カイヤット、ジャン=ガブリエル・アルビコッコ、ルイス・ブニュエル、ロベール・ブレッソンなど。Twitter ■公開情報 『劇場霊』 2015年11月21日(土)全国ロードショー 監督:中田秀夫 『女優霊』(’96)、『リング』(’98)、『クロユリ団地』(’13) 製作:『劇場霊』製作委員会 脚本:加藤淳也、三宅隆太 出演:島崎遥香、足立梨花、高田里穂、町田啓太、中村育二、小市慢太郎 配給:松竹株式会社 撮影:2014年9月8日~10月15日 公式サイト:www.gekijourei.jp (C)2015『劇場霊』製作委員会

水曜深夜に出現した“心のオアシス”ーー『おかしの家』の面白さと中毒性に迫る

【リアルサウンドより】  オダギリジョー主演の深夜ドラマ『おかしの家』が、静かな人気を集めている。というか、何を隠そう、筆者も毎週観るのを楽しみにしている者のひとりである。しかし、正直な話、その面白さに最初は気がつかなかった。なぜか? 本稿ではその理由と、このドラマが持つ面白さ、そしてその中毒性について書いてみたいと思う。  TBSが10月期より新設したドラマ枠「水ドラ!!」。そのシリーズ第一作としてスタートした本作の注目度は、事前段階では、かなり高いものだった。(参考:『コウノドリ』『オトナ女子』『おかしの家』・・・・・・この秋スタートする連続ドラマへの期待)。まず、「深夜帯ならではのエッジの効いた企画への挑戦や、TBSの次世代クリエイターの発掘と育成を目的に創設」されたという、「水ドラ!!」枠のコンセプトに対する注目と期待。そして、その記念すべき第一作を託されたのが、史上最年少でブルーリボン賞を受賞、『舟を編む』(2013年)で日本アカデミー賞最優秀作品賞に輝いた若手監督・石井裕也という事実。これを見逃す手は、どう考えてもないだろう。  とはいえ、他のドラマがいっせいにスタートするなか、やや遅れて始まった(10月21日~)本作の内容は、少々意外なものだった。もっと言うならば、なかなかどうして結構地味なものだった。これのどこか「深夜帯ならではのエッジの効いた企画」なのだろう? 第一話を観終えたあと、正直そう思ったものである。しかし、第三話を終えた現在、自分がこのドラマを観ることを毎週楽しみにしていることに気づいてしまったのだ。そんな『おかしの家』の内容は、ある意味とてもシンプルなものとなっている。  物語の舞台となるのは、東京の下町にある駄菓子屋「さくらや」。両親を早くに亡くした主人公・太郎(オダギリジョー)は、祖母・明子(八千草薫)が営む「さくやら」の店主をしながら、その裏庭に集まって来る常連客たち……太郎の幼馴染である三枝(勝地涼)、後輩の金田(前野朋哉)、近所で銭湯を経営する島崎(嶋田久作)と、駄菓子を食べつつおしゃべりしながら日がな一日過ごしている。そんな、都会の「エアポケット」のような「さくらや」に、毎回意外な人物が訪れる……というのが、このドラマの基本的な構造だ。  本作のヒロインである、太郎のかつての同級生・礼子(尾野真千子)もまた、本作の初回で、そんなふうにして登場した。離婚を機に、息子を連れて地元に帰って来た礼子。その彼女も含めた「さくらや」の面々のもとに、第二回では、今や年収一億のIT社長となった同級生・武田(藤原竜也)がやって来る。そして、第三回では、「さくらや」を訪れこそしないものの、太郎たちの小学校時代の同級生だった女の子・清美(黒川芽以)の現在が話題となる。  しかし、「恋と恐怖」、「意味」、「後悔」……それぞれのエピソードにつけられた副題は、思いのほかシリアスだ。そう、実はこのドラマ、その見た目ほど、お気楽な話ではないのだ。シングルマザーを取り巻く現状に疲弊しつつある礼子、30歳を過ぎても脚本家の夢をあきらめきれない三枝、実は元ひきこもりであるという金田。そして、主人公である太郎は、実は深夜の工事現場バイトをしながら、日々の生活費を稼いでいるのだった。陽だまりのように温かなトーンの画面とは裏腹に、このドラマで描きだされる「30代の現実」は、なかなかにして甘くない。  このドラマは毎回、太郎のこんな独白からスタートする。「この駄菓子屋はいずれ確実に潰れる。売り上げは月に4万円程度。諸々の経費を引いた純利益は……恥ずかしくて言えない。でも、この駄菓子屋が、ただ無意味で無駄なものとは、どうしても思えない」。彼は、自らを取り巻くシビアな「現実」を、十分に理解している。そして、その「現実」に対して、彼なりのやり方で抗おうとしているのだ。しかし、そのやり方は、具体的にはまだ分からない。太郎は、自分の周囲にいる人間たちとの交流を通じて、さまざまことに思いをめぐらせながら、自分にとって「本当に大切なこと」を見つけ出してゆく。それは恐らく、他の登場人物たちにとっても同じことなのだろう。  そこで、ひとつ大きなテーマとなっているのは、「おとな/こども」の問題である。人は何をもって「おとな」になるのか。「こども」時代とは、本当に楽しいだけの時代だったのか。そして、そのふたつを繋ぐものとは、果たして何なのか。このドラマが、再会した小学校時代の同級生たちが、いたずらに過去を懐かしむような、いわゆる「ノスタルジーもの」ではないのは、この点からも明らかだろう。そして、毎回それらのことに思いをめぐらせながら、このドラマはある曲とともに静かに終了する。RCサクセションの知られざる名曲「空がまた暗くなる」だ。「テーマソング」とは言い得て妙。実は、この曲こそが、本作のテーマを何よりも雄弁に語っているのだった。〈おとなだろ 勇気を出せよ〉、〈おとなだろ 知ってるはずさ〉……今は亡き忌野清志郎が、あの独特な歌声で、聴く者を諭すように、励ますように歌い上げるこの曲のメッセージは、ある意味とても明快だ。〈Yeah 勇気をだせよ〉。  「こども/おとな」。言葉にするのは簡単だけど、「こども時代」にだって痛みはあったし、もちろんいろいろ厳しいけれど、「おとな」だって何も悪いことばかりじゃない。それぞれの登場人物たちが、自らの過去に、夢に、痛みに改めて向き合いながら、「本当に大切なもの」とは何なのかに思いをめぐらせ、それぞれの「現実」と折り合いをつけてゆく物語。それが『おかしの家』なのだ。監督・石井裕也が、脚本・演出にも名を連ねていることをはじめ、陽光差し込む温かな画面設計、細やかなカット割り、ていねいに作られた「さくらや」の美術、要所要所で効果的に響く音楽、そして何よりもオダギリジョーをはじめとする役者たちのアンサンブルなど、このドラマで注目すべき点は数多い。もちろん、「さくらや」の存続、太郎と礼子の恋の行方など、連続ドラマとしての面白さだって一応ある。しかし、基本は一話完結の物語。というか、本作の最大の魅力は、『おかしの家』という作品世界に没入しながら、登場人物たちともども、観る者がそれぞれに思いをめぐらせることができる点にあるのだ。  ウィークデイのど真ん中、水曜日の深夜に立ち現れる、「心のオアシス」としての『おかしの家』。劇中の台詞にもあるように、それは見ようによっては、ある意味「ぬるま湯」なのかもしれない。しかし、熱くも冷たくない「ぬるま湯」だからこそ、冷静に考えられる「思い」だって、きっとあるはずなのだ。けっして派手さはないけれど、昨今のドラマ界にあって、逆説的にエッジィな試みを行っているようにも思える『おかしの家』……やはり、これを見逃す手は、どう考えてもないだろう。 (文=麦倉正樹)

森川葵、『監獄学園─プリズンスクール─』で見せる暴力的な演技はなぜ魅力的なのか?

【リアルサウンドより】  過激なエロス描写が多いことから、実写化不可能と言われていたTBSドラマ『監獄学園─プリズンスクール─』。共学化されたばかりの元女子高・私立八光学園に入学した5名の男子生徒が、入学早々に女子風呂を覗いた罪によって、校内にある監獄(懲罰棟)へと投獄され、そこから労働や体罰を強いられる受刑者のような学園生活が始まるという物語。そんな生活から抜け出そうとする男子生徒VS監獄を監視する組織・裏生徒会、お互いに知略と暴力をフル活用した攻防戦がコメディタッチで描かれる。  今回ここで紹介する森川葵が演じるのは、普段はゆるふわ系なのに、キレると得意の空手を駆使して男子生徒をボコボコに打ちのめすという、可愛さとサディスティックな一面を持ち合わせたブロンド美女・緑川花。第2話では、共演の男性陣にハイキックを浴びせたり、主人公(中川大志)のズボンを無理やり脱がせるなどのえげつない行為に及んでいる。しかし、森川自身の小柄であどけなさが残るビジュアルと、緑川花の天真爛漫なキャラクターが合わさると、どんな酷い行為も中和してしまい、結果として「この娘になら酷いことをされてもいい!」といった類の心境になってしまう。思い起こしてみると、暴力的だけど可愛らしく魅力的な女性キャラクターは、これまで多くのドラマや映画に登場してきた。たとえば、映画『愛のむきだし』の満島ひかりや、ドラマ『みんな!エスパーだよ!』の夏帆など、みんなその外見とは似つかわしくない暴力で、男たちの心と身体をノックアウトしてきた。彼女たちと同じような魅力を、森川に感じている男性は少なくないはずだ。  彼女が個性的な役を演じているのは今回だけではない。過去の出演作をみると、『乾き。』では薬漬けの女子高生役、『おんなのこきらい』では拒食症を患う性格最悪な美人OL役など、一癖も二癖もある役柄を演じている。そして、そんなキャラクターにあわせて髪型がころころと変わるところも彼女の特徴のひとつ。髪色から長さまで、本人だと気付けないくらいガラッと変わることからカメレオン女優とも言われている。身近に感じられる愛嬌がありながらも、透明感のあるイノセンスな雰囲気をあわせ持つ森川だからこそ、個性の強い髪型も似合ってしまうのだろう。  元セブンティーンの専属モデルということもあり、人の目を惹きつける容姿に注目されがちなのだが、もちろん役者としても高評価を受けており、実力派若手女優として名前が挙がることも少なくない。過去のインタビューでは、「“森川葵”でいくんじゃなくていろいろな“人”になれる女優になりたい」(参考:MANTANWEB『森川葵:話題の注目女優 主演映画で髪バッサリも「坊主にできて、ラッキー」』)と発言している森川。そこからは、”演じるのではなく、役そのものになりきる”といった、女優としての芯がしっかりと定まっているような印象を受ける。そんな役者気質が備わっているからこそ、役柄やビジュアルにとらわれない演技ができるのだろう。  本日(11月10日)放送される第3話以降、ますます男子生徒と裏生徒会の戦いが盛り上がっていくことが予想される。原作の際どい描写がどこまで表現されるのかは未知数だが、今後の展開によっては森川葵の新境地がみられかもしれない。 (文=泉夏音)

韓国ノワールはなぜ匂い立つほどリアルなのか? 菊地成孔が『無頼漢 渇いた罪』を解説

【リアルサウンドより】  連載タイトルこそ非ロマンス語圏を総て平等に扱うかの如き謳い方になっていますが、正直な所、僕の守備範囲は圧倒的に韓国で、これは新宿歌舞伎町からリトルコリア(厳密にはリトル明洞)を挟むボーダーの上に10年以上も住んでいた。という事もありますが、やはり文化的に、映画のみならず、韓国のサブカルチャーは強烈で、目が離せません。  とはいえ、もうK-POPの波も凪ぎ、韓国料理というのも10年も喰うと飽き飽きしてくるものでして、現在ワタシが韓国から得ている物は、テレビドラマ(見る物の90%が韓国産です)と映画(アジア映画では日本と韓国映画しか観ません)とヒップホップ(米5、韓国3、日2、といった配分)です。  ワタシはナショナリストではありませんので、日韓の映画や音楽のどちらが優れているか?という比較に、愛国心的、或はその逆の、隣国への反発心といったファクター、バイアスがまったくかかりませんので、無心に比較しています(因みに台湾は今、韓流のコピーに大忙しですが、コピー期としての魅力に欠けるので評価しません。それは、台湾という国に対する物とは全く関係ありません)。  その上で、ついつい国産よりも韓国産に手が出てしまうのは、いろいろなメディアで書いるように、僕個人がSNSやゲームやマンガやアニメやアイドルカルチャーを一切嗜まないので、単純に「ジャパンクールの現状」への適応力が低いだけだと思っています。これはエクスプレインでもエクスキューズでもディフェンスでもなく、ジャパンクールは素晴らしい文化なのではないか?と予想していますし、薄々実感しています。  そうした者にとって、「漏れ伝わって来て、知らないでも無い」ぐらいのジャパンクールよりも、現前にある、韓流の「実質」は物凄く、机の上から平然と落とす事が出来ません。それはきっと、昭和の方が長く生きた年寄りの感覚かもしれません。  とはいえ僕は韓流大好きの韓流ATMで、日本のアイドルや映画なんかクソだね。とかでは全くありません。毎回書いている、日本の「空虚」に対し、韓国は「実質」がみっしり詰まっているんですが、このみっしり感が重くて毎回胸焼けを起こしていますし、韓国のアイドルや女優に、特定の信心を持っていたりもしません(名前も憶えていない程です)。  こういうことをくだくだと説明する事が無粋なのは良くわかっているのですが、ネットの世界というのは、この問題に関して、この位説明しておかないと、自分以外の人々にまで面倒がかかってしまうと脅かされたので(笑)、敢えて今回、本文の前で自分の立ち位置を明確にしてみました。実際は連載をお読み頂ければ説明せずともご理解頂けると当たり前に思っていたのですが、手間のかかる世の中になりました。

韓国ノワール(ノワールのリアリティが生きている国)

 とさて、今回紹介する『無頼漢 渇いた罪』もそうですが、韓国映画も、他国と違わず、いわゆるヤクザ映画韓国ノワールといったジャンルは非常に盛んで、例えば数年前にチェ・ミンシクとハ・ジョンウが共演した『悪いやつら』(2012)という映画がありました。  これは、盧泰愚(ノ・テウ)政権が、88年のソウルオリンピックに際して急進的に行ったソウル市の浄化/近代化(現在の「韓流」の下地はほとんどこの時に準備されています)の、言わば総仕上げとして、90年代に入り、ソウル市内における、暴力団殲滅宣言と、それに対する暴力団の抵抗を描いた、戦争映画とも言える半実録もので、韓国版『仁義なき戦い』とも言え、韓国ではかなりヒットしました。  また、これはつい最近まで公開されていた作品ですが、イ・ソンギュンとチョ・ジヌンが出演した『最後まで行く(クッカジカンダ)』という映画があり、刑事とヤクザが一対一で戦う、いわゆるタイマン映画ですが、名だたる韓国内の賞レースで受賞しています。  前回書いた通り、日本のヤクザ映画だと、でかい声と怖い顔で、笑ってしまうほど威嚇した後に、ノータイムでドスかピストルが出てきて、そんなもんが出てきてしまえばもうその段階で「死ぬまでの時間を引き延ばす」事以外できなくなります。  これまた前回書いた、「暴力というリアル」の無化ですよね。古いアメリカの西部劇もそうで、撃ち合いになったら、時間つぶしがスタートするので、ダレるかダレないかは作品によって違うとしても、リアルの牽引力が霧散してしまいます。  その点、韓流ノワールは、決定的な殺傷武器が出てくるまでが長く、前述の「最後まで行く」のタイマンシーンで使用されるのは何とダイアル式の黒電話(それを引き抜いて、マウントをとって何度も何度も顔を打ち付けると、みるみる腫れ上がって行く)や、どの会社にもある、金属製の書類ケースや、トイレの便器(「便器に顔を突っ込む」などという流暢な使い方ではなく、便器を固定した鈍器と捕らえ、顔やら腰やらに打ち付けるのです)だったりして、リアルの牽引力がハンパないです。  後述しますが、本作は前述の2作と違い、カンヌ狙いの芸術志向なんですが、それでも、「そうとう強い悪役」を、マンションの一室に追い込んだ警察のうち、主人公である若くて良い男は最新式の、特殊セラミックみたいなので出来た、見るからに当たったら痛そうな細い警棒を、シューとかいって延ばしますし、先輩である壮年でデブの刑事は、何と金属バットを手にして突入に臨みます。その時の台詞が「相当手強いぞ、気を抜くな」というんですが、そのトーンに全く緊張感がなく、「今日は暑いからコート要らないよ」ぐらいの感じで、リアリティに震え上がります(北野バイオレンス映画みたいに「敢えて逆に行く」みたいな感覚とは全く違います)。  とはいえ、この『無頼漢』のリアルは、こうした暴力シーンだけではありません。もう、映画が始まって、画面が立ち上がった瞬間の、半スラム的な公団の屋上に猫が一匹いて、それが主人公と入れ替わりに画面から見切れるんですが、まったくわざとらしくなく、緩く斜めに設置されたカメラも、おそらくフィルター無しの、明け方の濃密なブルーの画面も、震え上がる程の美しさで「こらカンヌが喜ぶわ」としかいいようがありません。  韓国はスゴく変わった国なんです。ソウルでは、明洞というところが日本でいう原宿なんですが、明洞からちょっと車を走らせると、あっという間にスラムがあって、米軍の基地もある。地下鉄には明洞ですら北からの毒ガス攻撃に備えた防毒マスクが備えてあったりしますし。韓国には、日本がクールジャパン化される以前の前近代的な昭和の感じがまだ残ってるんですね。文化だけだと日本やアメリカと肩を並べるくらいなのに、経済的には破綻している。  IMFの監査が2回もあった国なんて他にはないわけです。「IFMの監査が入ると外資が逃げる。その隙に南北の紛争が起こりそうだというデマを流して、死の商人たち=大抵アメリカが韓国の経済ごと乗っ取ろうとする」という設定のドラマや映画もあるぐらいです。この設定はまったくアクロバティックではありません。  つまり、韓国映画の娯楽としての実質の強さが年々ものすごいことになっていることと、そしてインド映画の娯楽としての実質の強さが年々下がっているのは、貧困の有無だと思います。インドも地方に行ったら、気を失うぐらい酷い貧困がある訳ですが、ボンベイとソウルでは経済的な発展に於いて桁が違います。ヤクザ映画と一口に言っても、一作一作にコンセプトの違いがあって、豊かである。というのは、ゲトーもスラムも殆どない日本では臨むべきも無い豊かさです。  ヤクザ映画に金は付きものですが、韓国にはどうしても貧困の問題があるから、描かれ方が懇切丁寧でリアルなんです。日本のヤクザ映画だと、あっという間にパーティーグッズみたいな札束が出てきて、「はいこれは歌舞伎の世界ですよ」という風にリアルが吹っ飛んでしまう。  本作では、主人公の刑事が、もうひとりの主人公(実際は主人公は女性で、三角関係になるんだけど)である犯人を逮捕するに際し、みせしめのために、奴を半身不随にしろと、内部から命令されます。「足を撃つだけだ。殺さなくて良い。あいつを一生歩けなくすれば良いんだ。わかったな」。  それだけでもリアルだなあと思うんですが、そのミッションの対価が5万円なんです(笑)。  「韓国映画の犯罪映画は、金のやり取りがきめ細かい」というのは憶えておいて下さい。パーティーグッズの札束は出て来ません。  それでいて画面はもう、東欧かユーラシアの平原かという位の美しさで、実際に行ったら悪臭で吐き気がするのは解り切っているスラムのリアルと、「画面が美しい=空気が澄んでいる」感を、無理なく見事に両立させた斬新な感覚には脱帽です。高い場所に動けば動く程、空気がきれいで、悪臭と毒性が渦巻いているのは地表近くなのだ。と、まるでSF映画みたいですが。  ストーリーも、さっき挙げた『悪いやつら』や『最後まで行く』に比べると、ぜんぜん小さい話で、ヤクザの話というよりも、どちらかというと愛の話で、まあ女性映画なんですよ。  前回書いたように、今の日本映画の構造的上限だと、任侠物の主人公が女性だった場合、女性の男性化、つまり「鬼流院設定」を組み込まずにはいられない訳ですが(これの、見事なポストモダンが、早くも80年代に『セーラー服と機関銃』で達成されていたのは、ジャパンクールの先駆としても映画史に残る事は指摘するまでもないでしょう)、昔の日本映画には、「女の生き様映画」が「任侠映画」と合成された作品はいっぱいあったんですが。今「女の生き様映画」ちゅうのは(以下略)。  韓国は何せ兵役と儒教があるガチのマッチョ社会だから、まだまだ「女の生き様」+「任侠」が成り立つんですが、「あーんな古くさいもの、韓国人しか喜ばないよ」と仰るあなたは、ナショナリストの愚民とは決して言いませんが、先入観99%、イマジネーション1%で生きている、つまり人生を大変もったいなく過ごされている方なので、悪い事は言いませんので、是非本作を観て下さい。

(またしても)カンヌ対策の話

 何か、この連載、通奏テーマがあるみたいになっちゃいますが、本作は「カンヌ対策バッチリ映画」なんですよね(笑)。実際、「ある視点」の方に出品されてます。  以前、ホウ・シャオシェン監督の『黒衣の刺客』を紹介しましたが、そのときにカンヌ映画祭で賞を受賞するための傾向と対策のようなものがこの世には存在するんだ、という話をしました。  いわば、相撲部屋が太った子を探してくるように、カンヌが賞を与えたいような、カンヌのブランドに合った人をカンヌが探してくるのか、それとも作品側からカンヌを獲りにいっているのか、あるいはそれらの双方向的な理由なのかは分かりませんけど、米国のアカデミー賞には、まだ幅があるんですよ。  1950~60年代の頃は米国アカデミーの作品賞というのは受賞作に軽い一貫性がありました。初期はハリウッドがイチオシするスターの売り出し系とか、中期はアングロサクソンとかユダヤ系の人が作るような社会派のドラマとか、単に質の高い恋愛ドラマなどです。  それが今は結構何でもありになってしまって。というより「アメリカ映画」のジャンルが広がり続けているので、昔のようなブランディングに安閑としていられないのでしょう。  それに対して、カンヌはさすがフランスというか、まだメゾンのブランドを守る力学が萎えていません。  ホウ・シャオシェンは画面にとても中国とは思えない密林や原生林を出すことで、カンヌの「ヨーロッパ以外の森のイメージに弱い」という傾向の対策をし、河瀬直美監督の諸作品との類似性を指摘しましたが、本作もガッチガチのカンヌ向けですね。  なにせこのチョン・ドヨンは“カンヌの女王”と呼ばれていて、出演した作品はだいたいカンヌに出品されて、本人は審査員までやってるという。簡単に言えば、「韓国人で、女優である河瀬直美さん」ですよね。要するに、アジア人である自分が、フランス人から見たらどういう魅力持っているのか(ただエロいとか、綺麗とか、そういう意味ではありませんよ決して)ということを、客観的に熟知しているといいますか。河瀬と違うのは、テレビドラマや、カンヌ向きでない映画にも出ていて、コメディエンヌも、見も凍るサイコキラーも、普通の女の哀れも何でも出来る、オールラウンダーということですかね。  ただ、やや戯れた言い方をすれば、お二方とも「カンヌ顔」なんです。もっというと「カンヌ体」でもあります。ルーシー・リューはハリウッド顔のハリウッドバディですが、カンヌ顔ではない。  他にも女性監督も女優も山ほどいる中で、彼女等だけが賞を獲るということですから。善くも悪くも、賞というものは、そういう物です。  このチョン・ドヨンという人は、オフショットではニコニコしていてさばけた普通のオバさんなんですけど、映画に出ると神がかるんです。本作でも最初は「このオバさん、ちょっとキツいなー」っていう感じなんですが、刑事役のキム・ナムギルが、チョン・ドヨンを好きになっていく過程に、こっちも完全にシンクロしちゃって(笑)、途中からもう、この人が、好きも嫌いも、とにかく一回セックスしないと収まらない。というぐらいの性欲を喚起します(ホントに)。  でも、この映画が徹頭徹尾、ベタでゲスにならないよう、格調を保っているのは素晴らしく、(まあそれもカンヌ対策だろと言われれば、100%ノーとは言えませんが)、いやあよく出来てるなと思ったのは、サービスシーンである全裸が、最初に出ちゃうところです。
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裸体の意味

 この人の最大の見せ場=剰余価値である全裸というのを、観客が「ああ、この人の裸を見たいな。見たい。ああ、見たい」って思わせて、ピークで脱ぐんじゃ、ストリップになっちゃう。  「いやあこんな、眉毛の無い、幸の薄そうな、何喰ってるか解んないような、頭も軽くおかしそうな女の裸なんか見たくねえよ」という段階で、ドッカーンと全裸シーン(寝ている)が来ます。  スラムみたいな安アパートの一室で、絶対あんな毛布かけたくないわ。という不潔感漂う毛布と布団で、中年2人がセックス後に寝てるんですよ。ところが美しくもなんともないはずなのに、2人を銃を持って上から見下ろしている刑事の目線シーンが本当に美しい。  まるでフランシス・ベーコンとかエリック・フィッシェルの作品のような、モダンアートの中のエロティックでリアルなペインティング作品みたいに格調高いんです。2人とも体の美しさがスゴくて。これもやっぱり日本人が見せ付けられないもののひとつで。  アイドルの体は締まってるかもしれないけど、ダンスレッスンによって作られた体だから、よしんば脱いでもアスリート体型でしょうし、日本人俳優の男の体も兵役を通ってないから、やっぱジム体であって、それがアクトは言いません、それが日本なんですね。兵役で鍛えられた体っていうのは、殺傷訓練の痕跡を残しますから、韓国男は、老いも若きも全員がヤクザ役の第一関門を通過しているとも言えます。しつこいようですが、これを逆手に取った智将が、北野武監督でしょう。  『無頼漢』は社会的なメッセージは何もないし、物語の枠だけを抽出したら、Vシネマの、しかも軽めの切ない奴ですよ。身を持ちくずした女がいて、捜査中の刑事も惚れてしまう。そして自分に対して金の工面ばっかしてるが、明らかに彼女を愛している逃亡中の犯人が恋人で、どうしてもその男のことが好きだと。刑事も女のことが好きだし、犯罪者と警官との三角関係になって、結局最後はどっちも死んでしまうという。  Vシネを誹謗する気はさらさらありませんが、こんなストーリー、Vシネでやったら、主人公3人、リアルさゼロにまで下げないと演じられない筈です。

もし「日本ノワール」のリアリティを追求するとしたら?

 日本で、ノワールもので、リアルさを表現するとしたら、渋谷〜六本木を仕切っている人と、渋谷で遊んでいる人たちとの対比を描くしか無い。歌舞伎町はテーマパークですから。  でも、「渋谷がロスみたいに映ってるリアルなJノワール」なんて作れないし、作ってほしくもないですよね。アンチクールジャパンの動きはいっぱいあるけど、「渋谷の任侠映画」は洒落にないならないでしょう。そもそも取材が出来ない。  『無頼漢』は、善くも悪くも全部リアルで、画面の立ち上げから、リアルさに誘導され切ってるから、もう。刑事が張り込みで、ちょっとコンビニまで行って変な弁当を買って食うとか、月9のドラマでやられたりしたらどうでもいいようなシーンが(リアルじゃない世界に、リアルっぽいシーンを突っ込む悲劇)、ものすごく匂いたつような感じで迫って来るし、すべてのシーンにおいて、1秒も緩みがないんです。

俳優がプライヴェートに見えない盤石さ

 主人公だけでなく、チンピラから親分まで登場人物達は全員大変リアルで、それでいて1番悪いやつは姿を現さないというところもリアルです。韓国ドラマを何本か観て韓国が好きな人だったら、知らない出演者はいないですよ。例えば、情報屋で出演している卑屈なヤツは、テレビドラマに年中出ている人です。日本でいえば、一時期の竹中直人さんくらい出演しています。  でも、知らない人が観たら、嫌な情報屋にしか見えないと思います。そういうリアリティがものスゴい。竹中直人さんが5、6本に越境して、全然違う役をやっても、竹中直人さんにしか見えないというケース(この呪縛から逃れる為、竹中サンはモビットのCM一本やりの、渥美清型を選択されているので、話が少々古いですが)の真逆をいっているというか。  逆に、日本ではリアリティがあったらダメなんですよね。全部があの俳優さんということになっていて、半分舞台裏を見ながらテレビドラマを見ているようなところが、これまたジャパンクール。  文句を言っているのではなくて、独特な文化の発達を遂げているんですよ。最初からメイキングとか舞台裏を見ながら、本編を見ているという感じですよね。  韓国なんか、日本以上にメイキングを見せるし、アイドルのリアリティショーとかいっぱいあるんです。舞台裏を見せまくり。でも、本編を見ている間は、舞台裏のことを絶対感じさせてはいけないという倫理が働いている。

唯一のフェイク

 日韓の文化対比の話が長くなったので『無頼漢』に戻しますが、一カ所だけフェイクだな、って思ったのが、さっきの「セックス後に寝ている2人を刑事が起こす(女は起きない)。主人公は、正義と倫理の人なので、犯人の足を撃たずにベランダから飛び降りさせることで、足を骨折させて、ミッションを半分だけ遂行しようとする。というシーンがあります。  そんで、全裸で3階から飛び降りて、足を押さえてもんどりうっているので、てっきり骨折したのかと思ったんだけど、下に降りたらものすごく強くて(笑)、明らかにUFC型の擬闘で、まず立ち技で顔面を殴り合って、坐ったらチョークを決めるっていうのは逮捕術としても、ヤクザの喧嘩の仕方としてもどうかな?UFCの定着度が日本より遥かに高いのは知っているけど、、、、という感じでした。  それでも、チョークを決められた主人公は、何とサミングで脱出するの(笑)、サミングは、指を相手の目や鼻の孔に突っ込むという、どの格闘技でも禁じられている、一番エグいスキルです。これを、刑事が犯人に行う。

音楽ハンパないです

 と、最後に、1番圧倒的にものすごいのが音楽。ハンパじゃないです。こんな映画っていったら失礼だけど、これくらいのストーリーだったら、適当な仕事で何とかなるんですよ。どよーんとした音楽と、愛のテーマみたいな音楽と、緊張感が高まるような音楽の3つを用意しておけば、一丁あがり。  この映画ではチョ・ヨンウクっていう人が音楽を担当しているんだけど。プレスには『オールド・ボーイ』『ラブストーリー』『親切なクムジャさん』などで「音楽が映画にどれだけ影響を与えることができるのかを証明した」と書いてあります。それくらい、このアンダースコアはすごくて。音楽家として申し上げますけど、2ステージくらい違うというか、フランス映画よりもスゴいと思います。  音楽のジャンルでいうと、ニュークラシックって言うんですが。芸大を卒業して、オーケストレーションができるからといって、テレビドラマ用にチャラくて簡単な分かりやすい曲を作るというのが、今までのオリジナルサウンドトラックの平均だったんです。それが最近はベートーベンなどのクラシックを勉強してきたような人たちが、惜しげもなく商業プロダクツにその能力を乗せてしまうと。例えば、渋谷慶一郎さんは現代音楽家だけど、初音ミクのオペラもやるというように、現代音楽のテーマが大きくポップな方向へ舵をとりだした。そういった現代音楽側の事情と、それをアダプトしようとしているテレビドラマや映画の事情がうまく合致したんです。  クラシック音楽の教育をしっかり受けた人が、クラシックの交響曲を書くのではなくて、かといってポップスの人の手伝いをするわけでもなくて、クラシックの作曲家として、ポピュラリティのある音楽を作るというのが、世界的にすごく流行してきています(この話に御興味が涌いた方は、『密会』というドラマを観てください。極点だから)。  そういう水準は、ブラジルとかアルメニアとかチェコだと、あたかもいそうじゃないですか。だけどそういう人が韓国にいるというイメージは、あまりないですよね。韓国の音楽はまだまだ大味でしょ、どうせ辛子とキムチでしょ(笑)って思われがちなんですけども、それがとんでもない話で。最初から響きがヤバくて、それもパリがヒーヒー言いながら喜んじゃうくらいで、ちゃんとヨーロッパ対応ができている。  と、今回は『木屋町 DARUMA』と『無頼漢 渇いた罪』という、日本と韓国の裏の世界を扱った映画をあえて対比してみようと思って選んでみました。Kムービーなんかどうせ暗いんだろと思わずに、皆さんにも2つの映画を並べて観て欲しいです。そうすると、日本という国と、韓国という国が、どれだけ違うのかということが、嫌というほど分かると思います。日本のヤクザ映画がカンヌに招待されるようなことは、まずないですから。『アウトレイジ』がトロント国際映画祭に出品されたのも、あれはトロントの町おこしですから(笑)。たいした権威はないですよ。 ■公開情報 『無頼漢 渇いた罪』 シネマート新宿ほかにて公開中 出演:チョン・ドヨン、キム・ナムギル、クァク・ドウォン、パク・ソンウン 監督・脚本:オ・スンウク 音楽:チョ・ヨンウク 2015年/韓国/カラー/韓国語/119分 原題:무뢰한  英題:The Shameless 配給:ファインフィルムズ (C)2015 CJ CGV Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED 公式サイト:http://www.finefilms.co.jp/buraikan/

食人ブームの真打『グリーン・インフェルノ』に見る、イーライ・ロス監督の恐怖の原点

【リアルサウンドより】    人が人を食う…「食人」は文明社会最大のタブーのひとつであり、それゆえにフィクションにおいてキャッチーな題材である。食人は見る者を惹きつけるフックとして、昨今の人気ドラマや超大作映画でよく見かける。超A級の予算でゾンビ映画が作られ、トップスターによる食人ドラマが制作される昨今の状況を省みれば、むしろ食人モノは昔よりカジュアル(?)になったとも言えるだろう。
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(c)2013 Worldview Entertainment Capital LLC & Dragonfly EntertainmentInc.

 そんなちょっとした食人ブームの真打が、本作『グリーン・インフェルノ』だ。過激かつ傲慢な環境保護活動を行う若者たちが、ひょんなことからジャングルで食人族に捕まってしまい、1人ずつ食われていく…。これ以上ないほどシンプルな粗筋ながら、ショッキングなシーンと素晴らしいユーモア、そして様々なツイストを加えて最後まで飽きさせない。怖いシーンは本当に怖く、爆笑させるシーンは本当に爆笑させる。このバランス感覚は、さすが『ホステル』で知られる残酷映画の若き雄であるイーライ・ロス監督、見事な手腕といえるだろう。
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 本作の見どころと言えば、人間が生きながらにして文字通り食肉加工されるショッキングなシーンや、どこか牧歌的でユーモラスな食人族の描写、往年の食人族映画へのさりげないオマージュなど、枚挙にいとまがない。しかし、それらは既に多くのメディアで語り尽くされている点であろうから、今回は敢えて詳しくは言及しない。その代わり、本稿では劇中で存在感を発揮するあるキャラクターを通して、イーライ・ロスが作り出す恐怖の源流に迫ってみたい。
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 本作には、「大義を達成する為なら、手段は問われない」という危険な思想を持った大学の環境保護サークルが登場する。主人公はこのサークルと出会った為に、緑の地獄=グリーン・インフェルノに向かうことになるわけだが、このサークルのリーダーであるアレハンドロ(アリエル・レビ)こそ、実はもう1人の主人公と言っていいだろう。アレハンドロはカリスマ性溢れる男であり、主人公は崇高な思想と、高い行動力を持つ彼に魅了されていく。しかし、話が進むにつれて、徐々に「彼がただの善良な理想家ではないのではないか?」という違和感が高まっていく。そして、彼らが食人族に捕まる段になると、彼が単なる悪人であることが露呈する。しかし、物語はここで終わらない。そこから監禁生活が進むにつれて、アレハンドロが単なる悪人を超えた、とんでもない異常者であることが判明するのだ。明日には生きたまま食われるかもしれないという切迫した状況の中、アレハンドロが「ストレス解消だ」と、ある行為を始めるシーンは、筆者としては本作最大の見どころだと断言しよう。そして、このアレハンドロというキャラクターの扱いにこそ、ロス監督の作家性、そしてロス監督が演出する恐怖の源流があると言える。
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 我々はフィクションにおいて、「善い人」が「善い目」に、「悪い人」が「悪い目」に遭うことを期待しがちだ。因果応報、勧善懲悪、そこにはカタルシスがある。しかし、ロス監督はそこを意図的に外してくるのだ。ロス監督のスタンス、それは端的に言うならば「人間、死ぬ時は死ぬし、生きる時は生きる。運があるかどうかであって、そこに本人が善良であるかどうかは関係ない」というものだ。これは現実では当たり前のことである。どれだけ善良に生きていても、不幸には見舞われる。逆に悪の限りを尽くしていても、特に何事もなく平和に…むしろ充実した人生を過ごす人間もいる。因果応報は現実では機能しない。このことは、誰もがそうは分かっていても、そう思いたくない本当の意味で残酷な事実だ。
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 しかし、ロス監督はその点を容赦なく描いてくる。この点こそ、ロス監督の映画の恐怖の原点であろう。多くの人間が抱える「善良に生きよう」という当たり前のことを揺さぶって来るのだ。『ホステル』の運よく脱出する被害者たちも、特別善良な人間だったわけではない。単に運が良かっただけだ。このロス監督のドライな視点は、本作『グリーン・インフェルノ』でも一貫している。最後の最後に用意された大ドンデン返しこそ、ロスの真骨頂だと言えるだろう。人間、生きるときは生きるし、死ぬときは死ぬのである。そこに道徳や人間性による補正は一切入らない。この点を容赦なく描くから、ロスの映画はシッカリと恐ろしく、どれだけユーモラスなシーンを入れながらも、完全なギャグにはならずに「ホラー」として成立しているのだ。  そして、この洒落にならないほど重いスタンスを持っていながら、それを絶妙なバランス感覚によってエンターテイメントとして成立させてしまうからこそ、ロスは残酷映画の雄になりえたのであろう。『グリーン・インフェルノ』は、そんなロスの手腕がキラリと光る快作である。 ■加藤ヨシキ ライター。1986年生まれ。暴力的な映画が主な守備範囲です。 『別冊映画秘宝 90年代狂い咲きVシネマ地獄』に記事を数本書いています。 ■公開情報 『グリーン・インフェルノ』 11月28日(土)新宿武蔵野館ほか全国公開 監督:イーライ・ロス 脚本:イーライ・ロス、ギレルモ・アドエド 出演:ロレンツァ・イッツォ、アリエル・レビ、アーロン・バーンズ、カービー・ブリス・ブラントン、スカイ・フェレイラほか 配給:ポニーキャニオン 2013/アメリカ・チリ/101分/シネスコ/デジタル/R-18+ 原題:The Green Inferno (c)2013 Worldview Entertainment Capital LLC & Dragonfly EntertainmentInc. 公式サイト:http://green-inferno.jp/

日本のノワール映画は“エグいジャパンクール”ーー菊地成孔が『木屋町 DARUMA』を読み解く

【リアルサウンドより】

ノワール映画もジャパンクール

 今回、取り上げる作品の一作目『木屋町 DARUMA』に関して、最初に本作の大きな構造を俯瞰すると、この物語は、川の流れる木屋町という綺麗な町の裏側に、実は異様な世界があって、主人公たちは最終的にその川に殺され落ちて浄化されていく……という構造になっています。この川はガンジス川と同じで、いろいろな汚れや悲惨な人生も飲み込んで流れていくもので、川による浄化。は、この作品の重要なモチーフだと思います。僕はあまり京都に詳しくはないので、実際の木屋町の様子はわからないのですが、映像を観る限りは素敵な観光の街という印象です。  しかし本作は、典型的な、しかし、一般映画界では数少なくなってしまった日本のノワール映画です。単純にヤクザ映画というより、社会の底辺にある黒い世界を描いた物ですが、日本には「Vシネ」という、一種の特別枠があるし『仁義なき戦い』といったクラシックまで持ち出さずとも、最近でも『龍が如く』『ミナミの帝王』のような、アイコン的作品もあるので、一種のジャンル・カルチャーですよね。好きな人は好き。といった。  とはいえ本作は「それモンの好きモン集合」というだけの志の映画ではない。よしんば、原作者が、よしんば監督が、よしんば映画全体がそのつもりだとしても、本作全体の志はそれを逸脱しています。  一言で言うと、四谷怪談あたりをオリジンとする「日本のエグい映画」と言う事が出来るでしょう。エグさの中には「やりすぎ」「(故に?)空虚」といった、極めて日本式のスタイルであって、一種のジャパンクールとも言えるかもしれない。考え方次第ですが、Jホラーなども「やりすぎ」と「空虚」は基底部に横たわっています。  ギャングスターの映画でも、ラブストーリーにしても、日・韓・米・欧ではぜんぜん違う。今回、後編で取り上げる韓国映画の『無頼漢 渇いた罪』は、完全な韓国ノワールですが、R指定にも関わらずカンヌ国際映画祭に出品されているくらいだから、もう、欧州が認めるアートフィルムな訳ですよね。  それに対して、『木屋町 DARUMA』は前述の「エグいジャパンクール」という意味では、かなり凄まじく、「やりすぎ」も「空虚」もしっかり根を下ろしています。  日本人というのはもともと、外見はあまりえげつなくない人たちですよね。旅行で東南アジアのリゾートとかに行って楽しく遊ぼうとすると、ゲットーがあったりスラムがあったりして、そこまでいかなくとも、物売りや物乞いがあって、OLさんが震え上がっちゃう。  なんだかんだ言ったって、日本は清潔だし治安もいいですし、基本的には、清潔で優しく、はんなりとしている。一方で韓国だと、普通にソウルを歩いていても、昔の日本のように怖い人がいる感じで、闇社会というのが身近にあるんですね。米軍が都心部にあるかないか?というのは大きいですね。  とはいえ日本にも当然闇社会というのはある。ただ、アンダーグラウンドに潜行してしまって、東京ではほとんど見えないくらいになっている。僕は歌舞伎町に11年住んでいて、どちらかというと夜中に歩き回るタイプで、観光地とかセーフティな所にはあまり行かない生活をしていましたが、任侠の方々に真っ向から遭遇、接触した経験は11年間で10回以下だったと思います。これがアムステルダムやハンブルグの歓楽街なら、もっと頻繁に会うと思うんですよ。日本は、平和で治安が良い。ただ、「平和」と「治安」の定義はシンプルではないけれども。  だからこそこういう、ヤクザモノ、しかもゲテモノぎりぎりの素材を扱うノワールを描こうとすると、力が入りすぎてしまうのでしょう。誰が観てもカリカチュアがすごすぎて、例えば竹内力さんみたいな見るからに恐ろしい記号的なヤクザがいろんな作品に出て来たりして、要するに「リアルじゃない」訳です。古い言葉ですが、パロディにどんどん近づいて行く。

「リアル」な黒社会。を日本は映画に出来るか?

「リアル」「フェイク」「アンリアル」「ファンタジー」といった現実感との位相は、映画のみならず、あらゆる虚構の基底部を決定する重要な同一性ですが、最近、山口組系のもめ事がテレビのニュースで、ほんのちょっとだけ流れて、実際の関係者が、ほんのちょっとだけ写りましたが、その「リアル」さには、本当に惚れ惚れします。日本にもまだ本物はちゃんといるのだ。本当に、これは任侠礼讃とかいったシンプルな話ではなく「日本の役者の顔つき」の話なんです。  かつて、日本も不潔で荒んでいた60〜70年代には、『仁義なき戦い』などのクラシックスがあって、そこに出てくる菅原文太さんたちの顔つきはリアルだった訳です。しつこいようですが、『仁義なき戦い』だけをどうこう言ってるんじゃありません。リアルの話なのね。『アウトレイジ』っていうのは、良い意味でそこを完全に見切っちゃって、パロディとしての「悪の顔」をいっぱいならべて、さあお楽しみください。あれが日本でヤクザ映画を作る上限でしょう。「フェイク」とか「アンリアル」とかでもない、あれは完全なファンタジーです。  これは悲観論でも楽観論でもないけれども、今の日本の娯楽映画で「リアル」を描こうとすると、オタクの映画にならざるを得ない。たとえば最近では『バクマン』とかね。同じ大根さんの『モテキ』でも何でも良いけど、オタクを描いていくというのが、良くも悪くも今の日本のリアリズムのマジョリティであって、ジャパンクールのメインコンテンツですよね。  後はフェイクになるか、アンリアルになるか、ファンタジーになるか、いずれにせよ「リアル」という強度は、ある程度捨てて、作品の立ち位置を「リアル」以外に設定し、ベストを尽くさないといけない。「ダメな映画」というのは、非常にシンプルに、それが出来ていない映画です。  オタクや引きこもりが一人も出てこなくても、スマホもゲームも画面に一切映らなくとも、良質でリアルな日本映画もあるわけだけど、気楽に見れる娯楽作品としてマーケットの規模も違う。マンガ原作で、アイドルが出る。こんなもん純度100%のリアルなジャパンクールなんですが、『るろうに剣心』みたいな傑作を生む可能性もあるし、駄作も死屍累々でしょう。  さて、その反動として地下でマグマ化したものがドワーと噴出する瞬間があって、『木屋町 DARUMA』のような作品が作られるのだと思いますが、冒頭に書いた通り、これは批判でも礼讃でもなく、『木屋町 DARUMA』が、もしジャパンクールのアンチだと自己規定していたとしても、ガチガチのジャパンクールだという事です。それがこの作品の総てだと言っても良い、  四肢欠損者の人生を描いた映画というと、若松孝二監督の『キャタピラー』(2010年)が思い出されるわけですが、というか、それ以外思いつきませんが(笑)、あれはジャパンクールじゃない。あれは時折出てくる「和式グランギニョル」というか、グランギニョルというのはフランスの残酷劇の事です。寺島しのぶさんは名誉フランス人ですから、グランギニョルの主役に適役です。え?他の和式グランギニョル?「佐川君からの手紙」とかね。映画になったっけあれ?(笑) まあ、なってないとしても(笑)。それこそ「東京グランギニョル」という劇団を率いていた飴屋さんの「ライチなんとかクラブ(飴屋さんスンマセン・笑・怖くてタイトルが憶えられない)」なども、そのジャンルに入るかどうか問われますね。  それに比べると『木屋町 DARUMA』は、ぜんぜんジャパンクール。近松門左衛門から腹切り女浄瑠璃から花園神社の蛇のみ女から『実話ナックルズ』から『神様の言うとおり』までを貫く伝統の中にあります。  「ちょっと待ってくれよ。こっちゃあ、男の世界を描いてんだよ。マンガ原作の学園ものと一緒にしないでくれよ」と言われるかもしれません。御説ごもっとも、それはその通りなんだけれども、前述の、「やりすぎ」と「空虚」が、「男の世界」「その美しさ」を描こうとするあまり、自走的に行き過ぎちゃってるんですよね。実話物で、男の世界を描こうとしても、気がつくとジャパンクールになる可能性がある、というより、あくまでワタシ個人は、ですが、歌舞伎や浄瑠璃や神話の類いもジャパンクールに含んでいるので、カテゴリーが広過ぎるかもしれませんが。  「やりすぎ」が往々にして引き起こす効果の一つですが、「笑ってしまう」という状態も引き起こします。<借金取りが四肢を欠損者を債務者の家に住まわせる事で、気も狂わんばかりの状態に陥れ、金を取り立てる>というのは、もう、ストーリーだけでも、ちょっと吹いてしまう方もいるかもしれないし、震え上がってしまう方もいるかもしれない。とはいえ、「やりすぎ」ないのであれば、それによる笑いは絶対に起こりません。  そしてこの物語は「リアル」であることを「実際に実話を元にした原作なんだから」の一点突破で行こうとするんですが、これはやや無理で、厳密には4層に別れます。 1)「誰の身にも起こりうる虚構」 2)「誰の身にも起こりうる実話」 3)「いやあオレには関係ないよこんな話。という虚構」 4)「いやあオレには関係ないよこんな話。という実話」  です。宮沢りえさんの『紙の月』が(1)の代表(相当な取材をしていますが)だとして、以下(2)はいっぱいありますよね。幸せなカップルの片方ががんで死ぬとか。(3)もいっぱいあります。『スター・ウォーズ』とか(笑)。  『木屋町 DARUMA』は(4)なんです。だから、観客がリアリティに誘導されない。「へえ、こんな凄い事も世の中にはあるんだね。こわー」と思うばかりで、作品が訴える物か、勢い「やりすぎ」と「空虚(自分との関係なさ)」に偏ります(前回からしつこく書いていますが「空虚」は、悪事ではないです)。  

各キャストの演技について

 「やりすぎ」の体現者は、原作者もそうでしょうし、監督もそうでしょうが、まずはなんといっても俳優でしょう。  主演の遠藤憲一さんはそもそも濃厚な顔立ちなので、これまでの映画の中ではそれほどオーバーアクトをしてこなかったと思うんですよ。ちょっと睨みを利かせるだけで充分に怖いから。ところが今作では「俺がオーバーアクトしなけりゃ誰がやる」という勢いで、完全にアヴェレイジ突破の凄まじい怪演を見せている。  遠藤さんは役者としても、個人としても大変素晴らしい方だと信じた上で、ディスではなく断言しますが、遠藤さんは「グロテスクでエグい表情」をやってはいけないんです。何故か? 雨上がり決死隊の宮迫博之さんにシュミュラクラ(簡単に言うと「似ている」「見えてしまう」こと)を起こしてしまうからです。  目をひんむいてヨダレは流すは、糞尿は垂らすは、セクハラはするは、怒り狂うは……とにかくすごい迫力で、途中から宮迫さんとのオーバーラップと闘う事になりました。寺島進さん演じる債務者の家に文字通り「転がり」込んで、はいつくばり、のたうちまわり、傍若無人の限りを尽くす様は、世の中にこれほど悪質でグロテスクな借金取りの方法があるのかと驚くばかりで、しかもこれが実話ベースだというから衝撃的です。  しかし一方、これは演者同士のアンサンブルなのかも知れませんが、舎弟である坂本健太役を演じた三浦誠己さんは、非常に良かった(遠藤三が悪い訳ではない。悪いも良いも無い位凄まじいので)。彼はこの映画のもう一人の主人公ともいえる役柄で、キャリアの中で培った余裕が感じられる、素晴らしい演技を披露しています。単なる抑えた演技でもない、静かな中にあらゆる複雑な感情が(劇中、最も複雑な感情を持つのが彼であることは間違いありません。だって、どんな仕事よ)、少ない台詞と、軽妙と言って良い程の軽い動きの中で、雄弁に伝わって来ます。   氏を含め、脇を固める人たちはみんなすごく上手なのですが、ほとんどの人が『ガキ帝国』『岸和田少年愚連隊』などの大阪の不良映画でデビューして、その後もVシネ一本槍というタイプの役者さんなのも、本作の興味深いところです。井筒和幸監督の大きな業績と言えるのではないでしょうか。この作品がある限り『ゲロッパ!』は許す。としか言いようがありません。  ただ、主人公の旧友であり組長である古澤武志を演じた木村祐一さんに関しては、これははっきりと明確にディスりですが、もうシリアスな劇映画に出ないほうが良いんじゃないかと思いました。  周囲の人たちの演技が圧倒的に上手なのもあって、どうしても素人感が目立ってしまっています(すげえ主要な役ですし)。木村さんは、坊主で細目でヒゲも生やしている強面で、映画監督もしているし、お人柄も良さそうなので、ついつい、映画に出演させたら名脇役になるんじゃないか、と自動的に判断したのは、この制作チームの犯した致命的な失敗だと思います。  繰り返しますが、氏の、コントの作家やダウンタウンの側近としてのお笑い芸人としては、未だに才覚は薄れていないように思うので、そちらに集中されるのが得策ではないでしょうか。  吉本興業は、かつて映画産業に参入しようとして木村祐一さんや板尾創路さん等「作家も出来る芸人に、がんがん映画を撮らせる」という、映画界参入計画に頓挫し(まあ、まだ続いてるんですけどね沖縄で。と、これ以上書くと、当連載が実話ナックルズになりそうなので自粛しますが)、結果としてテレビタレントさんに映画の制作費を与えてしまったのですが、残念ながら惨憺たる物です。  映画の学校を出て、才能があり、映画を撮りたい一心でクラウドファウンディングを行っている人が数多くいる世界で、お笑い芸人に、出来高と関係なくポンと映画を撮らせ、上映するのはかなりの悪徳です。いまはネットで毎日いろんなニュースが出てくるから、過去のこともすぐに忘れてしまいがちですが、「木村祐一監督作品」の存在を我々は忘れてはいけません。  もうひとつの「やりすぎ」は、正に歌舞伎、「血糊の量と勢い」です。さっき近松の歌舞伎に例えたばっかりの口で言うのもなんですが、こういう映画は作っているうちにスタッフも興奮してトランス状態になってくるのでしょう。ラストに向け「これじゃ懐かしの80年代。スプラッター映画だよ」というほど血を噴きます。  債務者の娘である不幸な少女を演じた武田梨奈さんは、主人公2人を、鯨漁利用かと思われるほどの厚身の長刀で一気に(文字通り)串刺しにします。  その設定自体は素晴らしいんだけど、そのあとの血糊の扱いが、「ちょっとお(笑)」というぐらいやりすぎで、刺された男が口から溢れ出た血を彼女の顔に、グレートムタみたいに噴きかけるわ、シャワー状に吹き上げるわ、まったくリアルではありません。完全な大歌舞伎です。ラストに向けて、花火みたいにドカンドカンやりたくなってしまったのだと思います。  次回扱う、韓国ノワールの『無頼漢』なんて、出血シーンは100ミリリットルに満たないです。その代わり、犯人宅に突入する際、刑事が金属バッドを握ってたり、テキに馬乗りになって、ダイヤル式の黒電話で顔に青あざができるほど何度も何度もゴンゴン殴るのは、暴力として震え上がる程リアルだし、ホントに恐怖心を煽ります。  それに比べると本作のバイオレンスシーンは、これぞクールジャパン爆発といえるのかもしれません。せっかく「木屋町という京都の美しい街に流れる、清流に、地の底を這って来た男2人の、毒のような血が流れ、しかし、それも清流は清めて行く」という本当に素晴らしい設定があるのに、そのまえに笑っちゃってるので(笑)ちょっと残念でした。でも、しつこいようですが、それが歌舞伎かも知れないですね。  監督もキャストも「まさか映画館で上映出来るとは思ってなかった。こんな強烈な映画」と口を揃えるのですが、全然そうでもないです。「タイトルでさえ、マスメディアでは言えないんですから」なんて言ってるんですけど、別に「ダルマ(四肢欠損者)」をタイトルに入れる必要性もなし、ほかのタイトルにすれば、もっと広く訴えかけることができたかもしれない。志の高い良い映画なのだから、全国ロードショー目指しても良いと思いました。何せ、ジャパンクールなのだから。

「女子目線」の在処

 中間地点の重要点として「フェミニズム」という敵はもう無視出来ない。というテーゼを上げさせて頂きます。  『仁義なき戦い』『龍が如く』等々の20世紀ノワールクラシックスに対し、 21世紀のヤクザ映画を描くならば、もう課題はひとつだけとも言えます。これは関係各位、猛勉強して頂きたい所です。  この映画は“女子の目線“というものを極端に排しているけれど、まあ、それがない、このジャンルにそんなもんなかったんですから(「鬼流院花子」とか、ああいう「女ヤクザ」「姉さん映画」は、女子目線ではありません)。  そもそも女性は観なくても良いという前提です。マーケットを絞るのは悪事ではありませんが、広げるのも悪事ではない。「あの『マッドマックス』にシスターフッド/フェミニズム的視点が!!」と騒がしい昨今ですが、今作では、そんなもん知るかい。というアティテュードで、それならそれで潔い訳ですが、問題は、潔くてもダメなもんはダメということです。  本作の「女の目線なんか知るか」という潔さは、「狭量さ」にしか映りません。  この犠牲を、武田梨奈さんがひとりで背負っている印象で、実際に彼女は現場でも相当にしごかれたそうです。しごかれる事自体は彼女はまだ若手だからしょうがない部分もあるのでしょうけれど、この現場で、もっと「若い女の子の魅力も出していこう」という空気があったら、さらに間口の広い作品になった気がします。これは決して彼女が悪いということではなくて、映画の構造上、そういうポジションになってしまっているんですけど。全然可愛く撮れてないし、例の「やりすぎシリーズ」で、もう、聴いていて嫌になるほどエロくて汚い言葉を吐散らすんですが、痛々しさしかなく「女が墜ちて行くちゅうのはこんなもんじゃい」と言われたらそれっきりですが、そんなもんは古くさいバカな男のファンタジーで、まったく共感出来ません。  たとえば、『アウトレイジ』などは女性の観客も含めてそれなりの興行成績を達成しました。それは加瀬亮がヤクザになったということ、つまり一般的に女子が好きな俳優がヤクザになったという意外性が、映画の魅力のひとつになっていたということだと思うんです。そういうお楽しみを少し入れてあげると、もっと良い作品になったとは思います。ただ、お金もそれほど使えなかったでしょうし、少ない仲間でちゃんとスタッフを賄っていかなければいけなかったでしょうから、それで男同士でがんばっているうちに、ものすごくブラザーフッドというか、ホモソーシャル的な映画になってしまうのはしょうがない。この制作チームの志はちゃんと買うので、その辺も踏まえて今後も良作を作り続けてほしいものです。

<正気>の人たちが形成する社会の底辺

 最後に、一番強調したいのは強調したいのは、こういう映画はすぐに「狂った映画」といった風なステレオタイプが口にされがちなんですが、実はこの作品は狂気ではなく、正気を描いている作品だということです。所謂、精神病的な狂人は一人も出て来ません。    設定こそアンダーグラウンドですが、出てくるキャラクターは全員が完全に正気で、寺島進さんなんかはだんだんと狂って行くんですが、追いつめられてるだけで、大して狂っていません。  現代的な狂気。たとえば『冷たい熱帯魚』の場合は、普段は熱帯魚屋として暮らしている善人が快楽殺人者であるし、『悪人』や『ヒミズ』の若くて美しい主人公たちは、狂おしい状況に身を置かれて、いわば狂気と正気の臨界的体験をこれでもかというほどに訴えかけてくるわけです。  この映画の主人公は身体こそ過酷な状況に陥っているものの、人間的には全然狂っていないわけで、むしろ屈強な精神を持っています。武田梨奈さんが演じる高校生だって、状況は悲惨だけれども、その“落ち方”も本当に狂っている感じではなくて、普通の昭和の女の落ち方です。人は殺すけど、殺す相手は間違えていないのだから、その行動は正気に基づいたもので、説明の付くものです。  いわば、正気の人たちが形成する社会でも、ちょっと裏に入ると、これだけのことが起こっている。その事を描いたのがこの映画の長所なのではないでしょうか。これは今に限った事ではありませんが「現代的な狂気をちょいと掘り下げてほい文芸作品一丁上がり」という映画が多過ぎるように思います。  『仁義なき戦い』の頃は、敗戦トラウマというのが横たわっていたからこそ、任侠というものが成り立ったのだと思います。しかし、いまはむしろ戦争へと向かっているわけで、いまの市井の人たちに敗戦トラウマはリアルではない。だから任侠というものがリアルやアンリアルという足場を失って、ファンタジックに一人歩きをしている。  最初に話しましたが、今年は山口組の揉め事もあって、組関連の何名かががテレビに映ったりしたんだけど、彼らは本当にいい顔をしてるんですよね。昔は、こういう顔をした日本人が、まだまだ地上にもいっぱいいたし、映画の俳優のなかにも、こういう人はいました。  でも、いまや彼らは完全にアンダーグランド化してしまって、現代の日本の悪い人というと、オタクをこじらせたりとか、あるいは精神的な病理があって狂気に陥っている人が浮かんでくる。お母さんたちが警戒しているのはヤクザではなく、自分の子供を狙う変態です。健康的な社会というのは、任侠社会というのが、一般の社会の脇にちゃんと寄り添っているのが、それを様々な方法で抑圧したから、行き場のなくした狂気が野に放たれてバランスを崩し、ロリコンやら快楽殺人者やらといった病理へと繋がったというのは、余りにステレオタイプな社会的病理の見方ですが、嘘偽りの類いとは言えないでしょう。  つまり、本作は「現代的な狂気」という「中身(病理的な実質)」があるので、「空虚」ではない、と仮説する事が出来ます。一見、空虚っぽく、真空っぽく見える「狂気」ですが、実際狂気の実質というのは、嵐のように激しい物です。  本作の「空虚さ」は、物語が、見るもの誰にも関係ない。という非現実感だけではなく、「現代的な狂気」という、ずっしりした実質がなく、正気がそろうだけで生まれて来る物語、という「空虚」さなのである。と仮説する事も出来ます。一般的に「ジャパンクール」と呼ばれる物の中に「狂気の登場人物」はいるでしょうか? 作者、ユーザー、そしてこの国の狂気はあるけれども。  様々な意味で懐かしさと志を感じましたし、ユーモアもあるし、それを支える井筒チルドレンの演技も素晴らしい。そういう意味では、好感の持てる作品でした。  ただ、余計なお世話かもしれませんが、まだ若い彼等が、「俺たちゃ男の世界で、オタクなんか関係ねえ」とかいった誤った自己既定から解き放たれ、更に出来うるならば、「女性性」を作品に組み込んだ時が、ネクストレヴェルでしょう。後編の韓国ノワール『無頼漢』で、その事を扱います。 ■公開情報 『木屋町DARUMA』 2015年10月3日(土)より渋谷シネパレスほか全国順次ロードショー キャスト:遠藤憲一、三浦誠己、武田梨奈、木下ほうか、寺島進、木村祐一 監督:榊英雄 (c)2014「木屋町DARUMA」製作委員会 公式サイト:http://kiyamachi-daruma.com/

坂口健太郎、千葉雄大、柳俊太郎……さらなる活躍が期待されるモデル出身の若手俳優5人

【リアルサウンドより】  現在、映画やドラマで活躍している人気俳優の中には、ファッションモデル出身者が少なくない。今季のドラマで言うと、『下町ロケット』の阿部寛、『相棒season14』の反町隆史が挙げられるほか、有名どころでは竹野内豊や大沢たかおも過去にファッションモデルとして活動していた。彼らの恵まれたルックスによる存在感は、多くの作品にとって大きな魅力のひとつとなっていることは、もはや疑うべきもないだろう。モデル出身者が演者としてキャリアを積めば、主役級の俳優として活躍することが可能なのだ。そこで今回は、今後の映画・ドラマシーンを牽引する存在になりうる、モデル出身の若手俳優を紹介していきたい。

塩顔男子の先駆け 坂口健太郎

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『コウノドリ』公式サイトより

 現在、TBSテレビ『コウノドリ』に新生児科の医師役として出演中の坂口健太郎は、ファッション誌『MEN’SNON-NO』のモデルとして活動しながら、2014年に映画『シャンティデイズ365日、幸せな呼吸』で俳優デビュー。『娚の一生』、『海街diary』、『俺物語!!』など、2015年だけで映画6本と民放の連続ドラマに出演しており、若手の中でも異例の早さでキャリアを積んでいる。「塩顔男子」の代表格として注目を集めたのちは、その穏やかで落ち着いたイメージを活かした役柄を次々とものにして、多くの視聴者を魅了してきた。2016年1月には、竹内結子と橋本愛が共演する、中村義洋監督のホラー映画『残穢-住んではいけない部屋-』への出演が決定。本作では、いままでのソフトな好青年というイメージとは違う、新たな一面が見られるかもしれない。

とにかく可愛らしい 千葉雄大

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『オトナ女子』公式サイトより

 サロンの人気スタッフや魅力的な読者モデルを輩出してきた雑誌『CHOKICHOKI』に、彗星のごとく登場し、瞬く間に雑誌を代表するモデルとなった千葉雄大。2010年に『天装戦隊ゴセイジャー』のゴセイレッド役でデビュー後、映画やドラマへの出演数を増やしながら、バラエティ番組『バイキング』にレギュラー出演するなど、多方面でキャリアを積んでいる。今季ドラマでは、40代女性の恋愛事情やライフスタイルにスポットをあてたフジテレビ『オトナ女子』に出演。いままでの配役よりは年齢が高い、沢田健太という28歳の中学教師役に抜擢されたものの、生徒の母親と恋に落ちるという設定は、多くの女性の母性本能をくすぐって止まないだろう。その可愛らしさからクリーミー系とも呼ばれる千葉雄大にとって、本領発揮といったところではないだろうか。

ネクスト個性派俳優 柳俊太郎

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『いつかティファニーで朝食を』公式サイトより

 切れ長の目やホリの深い顔立ち、一度見ると記憶に残るミステリアスなビジュアルを持つ柳俊太郎。前述した坂口健太郎と同じく『MEN'SNON-NO』出身だが、俳優デビューは2012年と坂口よりも早い。まだ代表作と言われるような作品への出演はないが、彼独自の雰囲気にあったキャラクターに巡りあえば、個性的な俳優として若手の中から頭ひとつ抜け出すポテンシャルを備えているように思う。日本テレビ『いつかティファニーで朝食を』に出演中。

ティーンズからの支持も厚い 山崎賢人

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『orange』公式サイトより

 山崎賢人といえば、平均視聴率が11.5%と話題になった『デスノート』(2015)で、主人公と対峙する探偵のL役を熱演していたことが印象に残っている。NHKの連続テレビ小説『まれ』(2015)では、一役で高校生から30代の父親までを演じるなど、難しい役どころをこなしていた。その一方、ティーンエイジャーからも厚い支持を受けており、『ヒロイン失格』(2015)、『orange』(2015)、『四月は君の嘘』(2016)、『オオカミ少女と黒王子』(2016)などの映画作品で、連続して男子高校生役に抜擢されている。現在21歳の山崎は、リアルな高校生と年齢が近い分、ほかの俳優よりも共感を生みやすいのではないだろうか。こんな先輩がいたらいいなという、夢を見させてくれるところが、ティーンを夢中にさせる一因なのかもしれない。

アクションもこなす万能タイプ 松坂桃李

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『サイレーン 刑事×彼女×完全悪女』公式サイトより

 フジテレビ系『サイレーン 刑事×彼女×完全悪女』では、謎の美女に翻弄されながらも、次々に起こる猟奇殺人の真相を暴こうと奮闘する刑事役を演じている。もともとは、ファッション雑誌『FINEBOYS』のモデルとして芸能活動を開始。その後、2009年に『侍戦隊シンケンジャー』で俳優デビューし、これまで正統派としてキャリアを積んできた。先に紹介している千葉雄大とは、役者としてほぼ同期に当たるのだが、千葉が『SUMMERNUDE』(2013)や『きょうは会社休みます』(2014)などの恋愛ドラマへの出演が多いのに対し、松坂は『ダンダリン労働基準監督官』(2013)や『軍師官兵衛』(2014)など、どちらかというと堅めな作品が多い。同じ戦隊ヒーローものからスタートしながらも、その後のキャリアに違いが生じたのは、実直そうなビジュアルはもちろん、激しいスタントも難なくこなせる身体能力の高さが、説得力を求められる役どころに適していたからかもしれない。今回の『サイレーン』のストーリーにしても、恋愛にスポットをあてながらも、サスペンスやアクションが含まれているからこそ、松坂桃李のキャラクターにハマっているのだろう。  流行を牽引するファッション誌からキャリアをスタートしたモデル俳優には、少なからずその時代に求められる理想の男性像が反映されている。今回、紹介した俳優たちは、冒頭で挙げたベテランたちと比較すると、どこか中性的で柔らかな印象を抱かせるタイプが多い。働く女性が増加した昨今、男性に対しても癒しや優しさを求める傾向があるのかもしれない。そんな彼らが俳優としてさらにキャリアを積んだとき、ドラマや映画業界にどんな影響を与えていくのか。その過程に注目すると、また違った視点で作品を楽しむことができるのではないだろうか。 (文=泉夏音)

バイオレンスに徹したEXILE『HiGH&LOW』 ドラマ要素を切り詰めて獲得したものは?

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『HiGH&LOW』

【リアルサウンド映画部より】  『HiGH&LOW』は、EXILEのリーダーとしてEXILE TRIBEを束ねるLDHの代表取締役社長のHIROが総合プロデュースを務めるビッグプロジェクト。EXILE TRIBEをはじめ、窪田正孝、小泉今日子、ゴールデンボンバーといった豪華キャストが出演し、様々なメディアコンテンツで物語が展開されることが話題となっている。  来年7月には映画公開が決まっており、Huluでの特別版ドラマの配信、別冊少年チャンピオン&ヤングチャンピオンでの漫画連載、Instaguramでの写真の公開、そして劇中でかかっている音楽をまとめたオリジナルアルバムの発表と、イベントが目白押し。もちろんEXILE率いるLDHならではのライブツアーを予定している。  その中心に置かれているのが現在、日本テレビ系で放送中の深夜ドラマだ。  舞台は、かつて「ムゲン」というギャングチームと、「雨宮兄弟」という二人組のギャングが戦いを繰り広げていた、とある区域。ある事件をきっかけに突如「ムゲン」が解散し、「雨宮兄弟」も姿を消した。その後、「山王連合会」「White Rascals」「鬼邪高校」「RUDE BOYS」「達磨一家」という5つのチームがしのぎを削るようになった。  テレビドラマでは、おそらくクライマックスとなるであろう激しいギャングチーム同士の抗争が第一話で描かれており、そこから時間をさかのぼり、抗争のきっかけとなった鬼邪高校のチハル(佐藤大樹・EXILE)と山王連合会のヤマト(鈴木伸之・劇団EXILE)の出会いが二話では描かれている。  今後は各ギャング同士の激しい抗争が描かれることとなるのだろうが、この時点で何を置いても印象に残るのは、そのアクションシーンだ。  EXILEのPV『EXILE PRIDE~こんな世界を愛するため~』等の作品でMTV Video Music Awards Japan2014を受賞している映像ディレクター・久保茂昭が監督を務めているためか、どこを切ってもEXILE印といった感じのカッコいい映像で、特に不良が集団で殴りあっている場面などの、モブシーンの出来がすばらしい。  なんというか深夜ドラマとは思えなくくらい映像がゴージャスなのだ。  もちろん『クローズZERO』や『TOKYO TRIBE』等の映画からの影響は強くうかがえ、物語自体はヤンキーモノの変種でしかない。しかし、彩度を落とした暗めの映像で見せるPV的でありながら、暴力の香りがうかがえるアクション映像には、今までのEXILEドラマとは違う気迫のようなものを感じられる。  おそらく、ヤンキーモノ自体がかつてのヤクザ映画のような役割をはたしているのだろう。ナレーションと状況説明をあっさり済ませるとすぐに見せ場である抗争場面に画面をつないでいく極端な物語構成は深作欣二監督の映画『仁義なき戦い』シリーズを思わせる。  見ていて面白いのは、こちらが考えているテレビドラマらしさをどんどんと覆してくれるところだ。普通、物語というものは一人の主人公がいて、その人を中心に展開していくのだが、2話まで見ても正直、誰が物語の中心なのかが、よくわからない。あえて言うならば山王連合会のコブラ(岩田剛典・EXILE/三代目J Soul Brothers)とヤマトなのだろうが、窪田正孝や林遣都といった主演級の俳優がライバルチームのボスとして登場することから考えて、全員を均等に描くのかもしれない。おそらく各キャラクターに物語があるという作りなのだろう。  様々なジャンルを横断するメディアミックス的な作りや複数のキャラクターを並列的に描く展開は、漫画やアニメではかなり定番化しているが、EXILEというグループでそれを展開するというのが本作の面白いところだろう。今までにも漫画とアニメで展開した『エグザムライ』のような作品があったことから、HIROの中には、EXILEのメンバーのことを、漫画やアニメのキャラクターグッズのように売り出したいという狙いは当初からあったのかもしれない。  今までのEXILEドラマに不満だったのは、彼らの武器であるダンスで鍛えた身体能力の高さを生かし切れていなかったからだ。それはつまりエロスとバイオレンスが足りなかった、ということだ。EXILEの俳優は、外見的にはアウトローの危険な匂いを漂わせながらも、演じる物語は、よくある人情ドラマばかりだったために、どこか本領を出し切れていない感じがしていた。  それに対し『HiGH&LOW』は、ドラマパートが短く一話のうちに何回もビジュアル的な見せ場がある。そこに劇伴としてEXILEの歌が毎回かかるのだが、これがめちゃくちゃカッコよく、毎回30分のPVを観せられているような感じなのだ。  つまり、今まで無理して展開していたドラマ要素を極限まで切り捨てた結果、EXILEドラマという新しい映像文体を獲得しつつあるのだ。おそらく物語は、楽しく仲間同士でつるんでいただけなのに、いつしか組織同士の抗争に発展して暴力の連鎖となり、とりかえしのつかないことが起きてしまう、というヤンキーモノの定型をなぞるのだろう。この物語を、どれだけPV的なカッコよさだけで突き進めるかが今後の課題だ。下手にドラマらしさなど意識せずに、このまま突っ走ってほしい。 ■成馬零一 76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。

国内アニメ映画の勢力図が変わる!? 『ここさけ』興収10億突破が日本映画界にもたらすもの

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【リアルサウンド映画部より】  先週末の11月1日(日)は割引料金で映画が観られるファーストデー。通常、ファーストデーが週末に重なると全国のシネコンはいつにも増してごった返すものだが、先週末はそのような光景はほとんど見られなかったようだ。  2週連続の1位は三谷幸喜監督の『ギャラクシー街道』。週末2日間で動員15万6502人、興収1億8248万4300円。公開初週の先週末から比べて動員は22%減、興収は33%減。動員に比べて興収の落ちが激しい理由は日曜がファーストデーだったから。先週の当コラムでも触れたように、あまり評判の芳しくない本作だが、先週土曜にフジテレビ系がプライムタイムに放送した『THE 有頂天ホテル』の番宣効果もあったのか、2週目の極端な落ち込みはなんとか回避している。  2位と3位はいずれも新作。『PAN ネバーランド、夢のはじまり』は全国672スクリーンで動員12万1467人、興収1億5575万5100円。『俺物語!!』は全国292スクリーンで動員11万8921人、興収1億3795万4800円。いずれもヒットとは言い難い数字だが、こうして並べてみると『俺物語!!』の2倍以上の館数で公開された『PAN ネバーランド、夢のはじまり』の苦戦ぶりが際立つ。  外国映画を中心に空前の活況を呈した夏とは打って変わって、秋枯れ状態が続いている映画興行だが、そんな中で明るいニュースを一つ。9月19日に公開された『心が叫びたがってるんだ。』が、公開から8週目に入った先週末に興収10億円を突破。これは、監督に長井龍雪、脚本に岡田麿里、キャラクターデザインに田中将賀という同じスタッフによって制作され、2013年にスマッシュヒットを記録した『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』よりも12日も早い記録だという。  人気テレビアニメの映画版だった『あの花』に対して、『ここさけ』は完全オリジナル作品。その点を考慮すると、これは快挙と言うべきだろう。公開直後の瞬発力こそぼちぼちだったが、アニメ作品としての新鮮さと優れた内容が口コミで広がったのと、日本全国55回にも及ぶ舞台挨拶行脚が効いたようだ。オリジナル劇場用アニメ作品で興収10億突破となると、スタジオジブリが制作部門を休止させた今となっては、国内には細田守監督作品しか存在しない領域。自分も公開直後に劇場で『ここさけ』を観たが、子供連れやオタク層が中心の他のアニメ映画とは違って、観客のほとんどがいわゆるリア充系の10代20代の若者たちで、カップルがやたら多かったことに少なからず驚かされた。もし、このまま『ここさけ』チームがアニメ映画界の第二勢力として根付いていくことができたら、新たな観客層の開拓という意味でも、日本映画界&日本アニメ界全体にとって大きな刺激となるだろう。 ■宇野維正 音楽・映画ジャーナリスト。「リアルサウンド映画部」主筆。「MUSICA」「クイック・ジャパン」「装苑」「GLOW」「NAVI CARS」「ワールドサッカーダイジェスト」ほかで批評/コラム/対談を連載中。今冬、新潮新書より初の単著を上梓。Twitter

新垣結衣、白髪コスプレの破壊力ーー『掟上今日子の備忘録』人気の理由に迫る

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『掟上今日子の備忘録』公式サイト

【リアルサウンドより】  日本テレビ系で毎週土曜夜9時から放送されている『掟上今日子の備忘録』にて、主役の掟上今日子を務めている新垣結衣。4話放送の時点で平均視聴率11.5パーセントと、今季のドラマの中で好調な様子がうかがえる本作だが、その高視聴率に一役買っているのは、ドラマ開始前から注目を集めていた主人公のヴィジュアルだろう。アイコニックな白髪に大きな丸メガネ、身につけている服装に至るまで原作小説のイラストとまったく同じ姿をしている。そんな一見コスプレともとれる格好は、ファンの間で賛否両論の声を呼んだ。  新垣が演じる役どころは、1日ごとに記憶がリセットされるため、秘密厳守でどんな事件も1日で解決する“忘却探偵”掟上今日子(おきてがみきょうこ)。同作は、そんな彼女が毎回何かの犯人に間違われてしまう“史上最も運の悪い男”、岡田将生演じる隠館厄介(かくしだてやくすけ)の巻き込まれる事件を、天才的な推理力で解決していくミステリーとなっている。  新垣結衣といえば、『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』(2006)の高校生役や、『コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』(2008)のフライトドクター候補生役など、どちらかというと”清純”や”正統派”というクリーンなイメージが定着しているが、昨今出演する作品の傾向をみると、彼女のキャラが変化してきているように思える。例えば、漫画『らんま1/2』の同名ドラマ(2011)では天道あかね役として学生服姿を披露し、『リーガルハイ』(2012)ではナースや舞妓といったコスチュームにも挑戦した。その度にネットでは「新垣結衣のコスプレが可愛すぎる!」といった見出しの記事が溢れ、筆者もついクリックしてしまったものだった。そして、今回の『掟上今日子の備忘録』では、とうとう2次元からそのまま抜け出してきたような姿を見せている。数々のコスチュームに挑むうちに、いつの間にかリアルを越えた存在になってしまったかのように。  否定的な意見もちらほら見えた ヴィジュアル公開当初、筆者もまた白髪という部分に違和感を感じていたのだが、実際にドラマを見てみると予想に反して良い。一日で記憶がリセットされるという性質上、深い人間関係を築こうしないサバサバとした印象を受けるのだが、時折見せる無邪気な仕草や表情がたまらなく魅力的だ。一見すると、突拍子もないルックスだが、常に冷静な判断をくだし、的確な推理で難事件を解決していく掟上今日子のキャラクターと合わせてみると、絶妙なバランス感があり、実に説得力があるのだ。正統派の美少女でありながら、幅広い役柄で身につけたコミカルな一面を持つ新垣結衣だからこそ、こうした役柄を違和感なく演じられるのだろう。  毎回異なる、個性的なファッションにも注目だ。現在ドラマ公式サイトでは、”今日子さんの今日のファッション備忘録”というコンテンツで、各話ごとの衣装を紹介している。ファンタジックでありながらも、ディティールまでこだわったその衣装は、リアルでも真似したくなるようなオシャレさが漂っている。同世代の女性にとっては、憧れを抱く部分も多いのではないか。ちなみに、印象的な丸メガネは”THOM BROWNE. NEWYORK”というブランドのものらしい。  第3話で、学芸員や画家風のコスチュームを披露していた彼女は、次回11月7日に放送される第5話以降にどんな姿で登場するのか。さらに多様な姿を見せてくれることを楽しみに待ちたい。 (文=泉夏音)