熱狂的『PEANUTS』ファン田中宗一郎は、映画『I LOVE スヌーピー』をこう観た

【リアルサウンドより】  リアルサウンド映画部オープンのタイミングでマーベル映画とアメコミについてその深い見識を披露してくれた田中宗一郎氏が再び登場、今回は現在公開中の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』について語ってくれた。(参考:田中宗一郎が語る、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』とアメコミ映画の現在)  元『SNOOZER』編集長、現在は『the sign magazine』クリエイティブ・ディレクター、CLUB SNOOZERの主宰者である田中宗一郎氏。彼は知る人ぞ知る筋金入りの『ピーナッツ』ファンで、それが高じてファッションブランドDIGAWELとコラボレーションしてTシャツの制作にもかかわっている(これが、世のあらゆるスヌーピーTシャツの中で圧倒的に最高のかわいさとクオリティなのだ)。ディープなファンからライトなファンまで世界中に数億人いる『ピーナッツ』ファンの間で、概ね好意的な支持を取り付けている映画『I LOVE スヌーピー』だが、そんな本作を田中宗一郎氏どのように観たのか? また、彼はどうしてそこまで強く『ピーナッツ』の原作の世界に長年惹かれてきたのか? 誰もが知ってるようで実はあまり知らない『ピーナッツ』の世界へのヤング・パーソンズ・ガイドとしても打ってつけの記事となったので、是非じっくり読んでみてください。(宇野維正)

本音を言うと、ウェス・アンダーソンに監督してほしかった

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——まずは、長年の『ピーナッツ』ファンとして、今回の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』はいかがでした? 田中宗一郎(以下、田中):『ピーナッツ』を動画にすること、ましてや3DのCGで表現するというのはそもそもハードルがとても高いことで。日曜版(見開き版)もあるけど、基本は4コマ漫画なわけじゃない? コマ割りも限られているし、演劇の書き割りみたいに、ほぼ真正面からだけでとらえたショットで描かれた絵が原作なわけだから。60年代から断続的に作られてきたアニメーション版も、そこに関してはずっと苦労してきたところなんだけど、今回の映画はちゃんとその先を見せてくれた。本音の本音を言うと、例えば、ウェス・アンダーソンのアニメーション映画『ファンタスティック Mr.FOX』みたいな、真正面からとらえたカメラの制約を逆手に取るような映画的なダイナミズムというか、工夫も欲しかった気もしないでもないんだけど。でも、技術的には満足のいく仕上がりになっていたと思う。 ——今回の作品のキャラクターの絵柄はどう思いました? 『ピーナッツ』は時代ごとに絵柄が変わってきているわけですが、タナソウさんは『ピーナッツ』のTシャツの制作にもかかわるなど、その変化にはかなりのこだわりを持ってますよね? 田中:どの時期の絵柄をモチーフにすることで、すべてのファンを納得させるのか?っていうのは、今作を作る上での大きな課題だったはずで。作者のチャールズ・M・シュルツの筆に一番脂がのっていたのは60年代から70年代なんだけど、彼は途中からペンを持つ右手が震えるようになって、80年代になると線がガタガタになっていって、90年代にはデッサンも狂っていく。その描線が完全に崩れ出す直前、80年代冒頭のもっとも円熟していた時期の絵柄が今作のベースになってるんだよね。過去に作られてきたアニメーション版は、アニメーション用に新たな作画を起こしているような感じだったんだけど、今回の場合は、原作の絵柄のタッチをすごく大事にしていて、その点はすごく成功していたんじゃないかな。 ——時代ごとの変化について、もうちょっと詳しく教えてもらえますか? 田中:『ピーナッツ』って1950年から50年の歴史があるんだけど、おおまかに言うとディケイドごとに変わってきてるんだよね。50年代の時点で、主要キャラクターと有名なストーリーラインは一通り出揃っていて。60年代以降になると、ペパーミント・パティとか、マーシーみたいに新たな主要キャラクターが出てきて、ストーリーに当時の時代性が反映されるようになってくる。シュルツという人は、基本的にはリベラルなんだけど、保守的なところもある人で、彼が60年代、70年代と劇的に変化していくアメリカ社会をどんな風に見ているのかっていう視点が作品に入ってきた。80年代はそれまでのストーリーやキャラクターのヴァリエーションが増えていきつつも、ある種の円熟期。で、90年代に入ると、またガラッと変わる。それまで4コマだったのが、3コマになったり、2コマになったり、1コマになったりして、これまでは描いてこなかった、D-デイ(戦争の記念日)をモチーフにした作品があったり。スヌーピーが兵士の格好をして、そこにコメントが添えてあるだけの1コマの作品とか。個人的には90年代の作品にはそんなに惹かれないんだけど。例えば、チャーリーとスヌーピーの関係性とかね。もともとスヌーピーは世界で自分が世界で一番偉いと思っているから、チャーリーのことを飼い主だとも思ってないし、彼のことをRound Head Boy(頭の丸い少年)って呼んでて、飼い主の名前さえ覚えていなかった。でも、90年代には、スヌーピーがチャーリーの膝にのって寝てるとか、そういう描写が出てくる。これってファンからすると、かなりの驚きだったんですよ。でも、いつの時代の『ピーナッツ』が一番いいかっていうのは一概には言えなくて、それぞれの魅力がある。ただ、シュルツの筆のタッチだけで言うなら、60年代から70年代半ば過ぎまでが絶妙だったと思う。まあ、でも、やっぱり内容的にも、その15年くらいがベストかもしれない。今はその時期の日本語対訳版がまったく手に入らないのがすごく残念なんだけど。

「恋愛感情とは身勝手なもの」という一貫したテーマ

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——でも、今回の『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』は80年代の頭のあたりの絵柄がベースになっているわけですよね? そこに不満はなかったんですか? 田中:いや、そこは最適なチョイスだったと思う。フォルム的には一番完成度の高い時期だし。この時期のキャラクターが一番かわいい。70年代に入るとシュルツはキャタクターをいろんな角度から描き出すようになってきて、そこではいろんな変わった表情やフォルムが出てくるんだけど、それをアニメーションで表現しようとするのは至難の業だったと思うしね。それと、今回の映画には、これまで作られてきたアニメーション作品への直接的なオマージュもあって、過去のピーナツ作品全般に対して全方位的に敬意を払っている。これは本当に偉い。ダンスのシーンがあるでしょ? あそこに使われてる音楽は以前のアニメーション・シリーズのサウンドトラックを手掛けていたジャズ・ピアニストのヴィンス・ガラルディの音楽がそのまま使われていて、サリーやバイオレットの踊りの動きもそのままなんですよ。このヴィンス・ガラルディの作品はリイシューされた時もPitchforkで8点台取ってたりして、かなりの名盤なんだけど。だから、こういう俺みたいなハードコア・ファンからすると、不満だの、文句を言い出せばキリがないんだけど、そもそも、いろんな時代の、いろんなファンが何億人もいるわけだから、その期待をすべて満たさなきゃいけない。そんな不可能に近いことを目指したわけだから、それはそれは大変だったと思うよ。 ——原作の解釈という点からは、どう思いましたか? 田中:『ピーナッツ』の原作に対しては、いろんな視点があって。日本では、それこそ自己啓発系の本みたいな角度からキャラクターの発言をまとめたような本も出てたりするし。50〜60年代には海外でフロイト的な精神分析の題材にされることも多かった。あと有名なのは、シェークスピアの作品と同じように、それぞれのキャラクターにはシュルツの性格の多面性が反映されているっていう話で。いずれにせよ、アーカイヴは膨大だし、どんな切り取り方も出来る。でも、一つの長編作品にまとめるとなると、どうしても最大公約数的なものにならざるをえない。これも致し方なかったんじゃないかな。今回のメイン・プロットになっている「赤毛の女の子」の話も、60年代、70年代、90年代と断続的に描かれてきたもっとも有名なストーリーラインの一つだしね。 ——あの「赤毛の女の子」は、原作でも映画のように教室に転校生として現れるんですか? 田中:どうだったかな? いや、確かそうじゃなかったはず。チャーリーは床屋さんの息子で。おそらく移民二世だよね。で、はっきりとは言明されてないんだけど、父子家庭なんだよ。だから、いつも学校のランチタイムではピーナツバターを塗っただけのサンドイッチを一人でベンチで食べてる。で、その時に校内で彼女のことを発見する。だけど、「赤毛の女の子」の存在は原作では決して絵で描かれることがないんだよね。 ——そうなんだ! 田中:90年代に入ってから、チャーリーが彼女をプロム・ダンスに誘おうと切磋琢磨する話があって。でも、最終的には彼女とダンスを踊っていたのはスヌーピーだった、って話があるんだけど、そこでもシルエットでしか描かれていない。何故かというと、そもそも赤毛の女の子というのは、チャーリーの理想の投影であって、決してかなうことのない夢の象徴だから、具体的なフォルムを持っちゃいけないんですよ。「恋愛感情というものは常に身勝手なもの」というテーマは、『ピーナッツ』ではずっと描かれていて、ペパーミント・パティとマーシーの二人はチャーリーのことが好きなんだけど、それぞれ彼のことをチャック、チャールズって呼ぶんだ。名前を間違えていたり、自分だけの呼び名で呼んでる。つまり、自分の身勝手なイメージを彼に投影してるだけ。だからこそ、チャーリーはそれをわかっていて、彼女たち二人を相手にしないんだけど、自分もまた赤毛の女の子には都合のいい理想を投影していることには気付かないんだよね。それはさておき、そうした映画向けの改変は、スヌーピーの撃墜王のエピソードだとか、他にもたくさんあって。今回の映画ではチャーリーの妹のサリーを除いて、主要キャラクターのほぼ全員がクラスメイトという設定なんだけど、原作ではチャーリー、シャーミー、バイオレット、パティよりもルーシーは年下で、それよりもライナスは年下。パティとフランクリンとマーシーは隣町の学校の子に通ってる。でも、主要なキャラクターをおおかた登場させるためには、それも苦肉の策だったんだと思う。 ——なるほど。あと、観ていて一番違和感があったのはスヌーピーの恋人役のフィフィ。突然出てきた印象があるし、全然かわいくない(笑)。 田中:あれは映画用のキャラクターだから仕方がない(笑)。原作には出てこ ないキャラクターで、1980年に作られたアニメーション『Life Is a Circus, Charlie Brown』にチラッと出てきたんだけど、その時はスヌーピーの恋人役でもなかったし、絵柄もまったく違う。それにそもそもスヌーピーって完全なプレイボーイ属性で、撃墜王の時もフランスの酒場でルート・ビールを飲みながらウェイトレスをナンパするのがお約束の描写だから、一途に恋人を追いかけてるっていう時点で、原作原理主義的からすると、う〜んって感じ(笑)。

世界で最も有名なアンチ・ヒーロー、チャーリー・ブラウン

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——そもそも、タナソウさんはどうしてそこまで『ピーナッツ』を愛して止まないのか、その理由を教えてもらえますか? 田中:チャーリー・ブラウンっていうのは、多分、世界で最初に現れた、そして、間違いなく世界で一番有名なアンチ・ヒーローなんだよね。 ——おぉ。 田中:で、スヌーピーっていうのは、チャーリーとの対比として存在する、『ピーナッツ』世界の中で唯一完全無欠のスーパーマンなの。ただ、スヌーピーには一つだけ決定的な欠点があって、それは彼が犬だということ。で、彼自身はそれをずっと受け入れることが出来ない。だからこそ、彼は撃墜王だの、世界一有能な弁護士だの、いろんな妄想に浸るヴィジョナリーなんだけど。ほら、映画の中でもスヌーピーがルーシーにキスをすると、ルーシーが「犬のバイキンが伝染る!」って騒ぐシーンがあるじゃない? ——普通に見ると「ルーシー、ヒドい」って思います(笑)。 田中:でも、スヌーピーからすると、「犬? このボクが?」って感じで、まったく理解できないわけ。でも、ビーグル犬であることを除けば、スヌーピーは万能でさ。どんなスポーツも得意だし、彼得意の妄想の世界では、第一次世界大戦の撃墜王であり、ディケンズの『二都物語』を引用する小説家であり、“ジョー・クール”って名前の、ビートニクから影響を受けて白いタートルネックを着て『市民ケーン』を20数回観たのが自慢のシネフィルでもある。 ——原作では、チャーリーとスヌーピーは、共依存関係にはまったくないんですよね。 田中:そう。個々のキャラクターが共依存関係にないというのは、『ピーナッツ』を語る上での一番のポイントだと思う。『ピーナッツ』のキャラクターっていうのは、全員が欠点だらけで。まあ、絵柄がかわいらしいから、わかりずらいんだけど、実はリンチの『ツイン・ピークス』とか、コーエン兄弟の『ファーゴ』みたいな世界観なんですよ。アメリカの田舎町にありがちな、閉ざされた世界特有の変人だらけ。で、主要キャラクターが10人いるとしたら、それぞれのキャラクターの1対9の関係がきっちりと描かれていて、その関係性から、それぞれの短所と長所が見えてくる。でも、だからといって誰もそこで具体的に支え合うことはなくて、常にキャラクター同士が相手の欠点を口汚く罵りあってる。ホント容赦ない関係なの(笑)。でも、そうやって、それぞれのキャラクターが抱えている欠点や問題を相対化することで、笑い飛ばそうとしてる。そうすることで、ある意味、問題を無化させているんだよね。つまり、共依存関係のまったく真逆にある。 ——あぁ、もっとも心に響くのは、そこの部分なんですね。もっとわかりやすく、カウンターカルチャー的なスタンスから『ピーナッツ』を支持しているのかと思ってました。 田中:60年代後半に、アメリカの大学生たちが『指輪物語』のガンダルフ、『スター・トレック』のミスター・スポック、『ピーナッツ』のスヌーピーを大統領にしようって面白半分に運動したって有名なエピソードがあって、その話は大好きなんだけど、『ピーナツ』の中でカウンターカルチャーを表象しているのは、さっきも言ったようにビートニクに心酔していたりするスヌーピーであり、それこそウッドストック・フェスティバルからそのまま名前をとったウッドストックくらいなんだよね。50年代初期からのキャラクター、パティやバイオレットなんて、旧態然としたヴィクトリア王朝的っていうか、ピューリタン的価値観の持ち主だったりするし。 ——え? ウッドストックって、あのウッドストックだったんだ!? だって、原作ではウッドストック・フェスティバルが開催されるよりもずっと前から出てきましたよね。 田中:うん。でも、69年以前は名前がなくて、日本語版の谷川俊太郎の翻訳では「ヌケサク鳥」って呼ばれてたの。 ——あぁ、そうだった! 田中:もともとウッドストックは「ヌケサク鳥」であり、間抜けなキャラクターという位置付けだった。だから、そのキャラクターに後からウッドストックという名前を付けたシュルツは、決してカウンターカルチャーに対して無条件に肯定的だったわけじゃない。スヌーピーの“ジョー・クール”のキャラクターにしても、むしろ当時のアメリカの若者たちの風俗をからかっている部分の方が強かった。ルーシーの「ガミガミ屋」っていう属性は、おそらく当時のウーマンリブ運動に対する保守的な視点からの観察が元になってるはずだし。だから、『ピーナッツ』という作品を楽しむ上でもっとも重要なのは、シュルツの極めて相対的な視点だと思う。それぞれ欠点を持った変人奇人たちが、互いを傷つけ合いながら、なんとか共存しているところ。それって『モンティ・パイソン』とか、イーストウッド映画『グラン・トリノ』の中で、長年の親友同士であるポーランド系移民の主人公とイタリア系移民の床屋が互いに差別用語を使って罵りあうシーンを思い出すんだけど。でも、あれって最高に幸福なシーンでしょ? 『ピーナッツ』のキャラクターには、サリーのような反抗者もいれば、ライナスみたいなアンチ・クライストもいるし、黒人のフランクリンのような順応主義者もいるし、チボーみたいな女性蔑視者もいる。世の中のほとんどの作品って、どこかに作者の思想性が投影されているものだと思うんだけど、『ピーナッツ』には何かに寄ったところがないんだよね。だから、どんな立場の受け手もアクセスできる。で、自分にとってそれは、ある種、「理想のアメリカ合衆国」のコンセプトそのものなんだよね。

キンクスや村上春樹の世界に通じる、厭世観と諦念とシニシズム

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——なるほど。「みんながみんな違ってて、それでいい」「むしろ、その方がいい」っていうことに対する共感ということですね。 田中:うん、まあ。ただ実際は、誰もが愚かで、誰もが罪深くて、誰もが残酷だっていう事実を笑い飛ばしながら、それを受け入れる知恵と寛容さ、みたいなニュアンスかもしれないけど。あと、もう一つ大きいのは、これは手塚治虫作品に惹かれる理由にも近いんだけど、根っこの部分で厭世的で、シニシズムがベースにあるところ。 ——あぁ。 田中:それを象徴するエピソードとして、ルーシーがまだ赤ん坊の、ライナスの下の弟リランを初めて屋外に連れて行って、「これが世界よ!」って言う話があるんだけど。最後のコマでリランがこう言うんですよ。「これが?」って(笑)。あと、これは今回の映画のネタバレになっちゃうけど、最後にチャーリーが報われるじゃない? 原作原理主義者としては、あそこにはやっぱり「う〜ん」と唸らずにはいられなかった。さっきも話したけど原作ではチャーリーは彼女に話しかけることさえ出来ないままだったから。赤毛の女の子をずっと家の外からストーキングしていて、雪の中で足が凍って動けなくなったり。でも、そういう「報われなさ」を笑い飛ばしてあげるのが『ピーナッツ』なんだよね。チャーリーというのは、所謂アメリカン・ドリームの影にいた人たちへの慈愛の眼差しから生まれたはずなの。報われないまま、それでも精一杯生きた人たちっていうか。あと多いのは、キャラクターの非道さを描いて、そのキャラクターがヒドい目に合うっていう類いの話。特にスヌーピーがそういう役割なんだけど。だから、全体的な世界観としては、常にシニカルだし、厭世的だし、それぞれのキャラクターは欠点だらけの変人だし、世の中のあらゆる価値観に対して、どこまでも容赦なく批判的なんだよね。ただ、ちゃんと最後には笑い飛ばしてあげるっていう慈愛と寛容さがある。 ——なるほど。 田中:だから、実のところ、日本人に好まれる「努力が報われる話」だったり、「欠点も含めて自分を肯定してくれる話」だったりとは真逆の世界観なんですよ。今回の映画の字幕だと、チャーリーの「僕はダメ人間で、赤毛の女の子は特別なんだ」ってセリフがあるんだけど、でも、英語では「I‘m Nothing,She’s Something」って言ってるのね。日本語の字幕だと、なんだかチャーリーはただのダメな人なんだけど、実際はもっと枯れたキャラクターでさ。ロックの世界でもキンクスのレイ・デイヴィスみたいに、若い頃から老人みたいな諦念を抱えた人っているでしょ? 村上春樹の初期三部作の「僕」みたいなさ。 ——「やれやれ」ってやつですね。 田中:そうそう。チャーリーの決め台詞の一つに「Good Grief…」ってのがあるんだけど、それを谷川俊太郎は「やれやれ」と訳していた。 ——おぉ。そこが村上春樹の「やれやれ」のルーツなのではないかという説、どこかで読んだことがある! 田中:例えば、今回の映画にも出てくる「凧食いの木」っていうのは、チャーリーが凧を上げようとしても必ず失敗するっていう自分自身の能力のなさ、才能のなさを受け入れられないことを擬人化したキャラクターなんだけど、基本的には、彼は「絶対に報われない」、「絶対に勝てない」という自分自身と世界の関係を受け入れて、なんとか折り合いをつけようとしている。だから、実は凄まじくタフなキャラクターなんですよ。誰にも真似できない。それに対し、スヌーピーは、どんなことでも簡単にこなせてしまう究極のスーパーマンなんだけど、自分自身が犬であるという現実だけは受け入れられない。その一点において、彼はチャーリーにだけは100%敵わない。つまり、『ピーナッツ』という作品はチャーリー・ブラウンという特異なキャラクターによって、20世紀後半の50年間を費やして、アメリカの光と影の両方をきちんと描き続け、ヒーローという概念を再定義し続けた。それこそが『ピーナッツ』の独自性であり、先見性なんだと思う。 (取材・文=宇野維正) ■公開情報 『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』 公開中 監督:スティーブ・マーティノ   配給:20世紀フォックス映画 吹替声優:鈴木福、芦田愛菜、小林星蘭、谷花音 (c)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation.All Rights Reserved. PEANUTS(c)Peanuts Worldwide LLC 公式サイト公式facebook公式Twitter公式Instagram

なぜ少女は“おじさん”に恋い焦がれるのか 姫乃たまが『友だちのパパが好き』を考察

【リアルサウンドより】  この映画は危ないな、と、思いました。  『友だちのパパが好き』という、少女コミックのようなタイトルのこの映画は、ロベルト・シューマン(友だちのパパが好き、ならぬ、師匠の娘が好きになって、結婚するのに苦労した末、精神を病んで投身自殺した作曲家)の、幻想的で暗鬱としたピアノ曲「予言の鳥」とともに蠢き始めます。
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 少し変わり者の親友・マヤを持つ妙子の生活は、「妙子の父親が好き」というマヤの突飛な告白から、徐々に、しかし確実に変化していきます。笑い飛ばす母親の隣で、呆れているだけの妙子でしたが、事態は次第に「私がいうのも変だけど、あの人、奥さんいるからね?」と、トンチンカンな釘を刺さなければならないほど、混乱していきました。  肝心のパパはひどく魅力的です。しかし、あからさまに魅力的でないところが、この映画を危険なものにしています。若い女性がおじさんを好きというと、必ず訝しがられます。人々はその好意に理由を求め、納得できる答えが出ないと、経済的余裕や背徳感など、適当な理由を付けます。ファザコンや、父親の愛情不足を疑うのもよくあることです。しかし、好意の理由は、そんなに理解しやすいものではありません。
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 パパはとても普通のサラリーマンで、世間的なモテるおじさん像からはかけ離れています。しかし、近くに寄ってみると、実は愛人がいて、さらに娘の親友からの好意もだらしなく受け取るような男でした。しかし、その、実はワルいところが魅力なわけでもありません。さらには、娘にも妻にも愛人にもマヤに対しても、女性との大事な話し合いを先延ばしにして避けるという短所まであります。それでもパパは魅力的です。  何が彼の魅力なのか。それは序盤のとあるシーンに凝縮されていました。急に現れたマヤが、パパの帰路に付いていくシーンのことです。不意にスマートフォンで2ショット撮影してきた娘の親友に、ぎこちなく接しながら「本当に載せるの、フェイスブックに? いいけど……つまんないでしょう(俺との写真載せても)」と、何気なく口にするのです。
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 現実でモテるおじさんというのは、意外とこういう人だと思われます。本当に普通で、押しが強くなくて。卑屈になっているわけでも、下心のせいで紳士に振舞っているわけでもない、自然な態度が若い女性の気を惹くのです。  この映画が危ないのは、パパのわかりづらい魅力が、妙子の好青年な彼氏と対照的に映っているところでしょう。妙子の彼氏は年齢も近く、きちんと母親にも挨拶の出来る好青年です。しかし、冷静な彼女に、自分のことを好きか問う子供じみた態度は、あまりに健全で、そして余裕がなく映ります。
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 なぜ、パパはだらしないくせにモテるのか。うっすらと、悔しくすらなります。しかし、モテるからだらしないのであり、だらしないからモテるのでしょう。一度惹かれた若い女の子にとって、愛人がいることも、若い自分に手を出すことも、すべてのだらしなさが、可愛さや、余裕や、ギャップとして脳内変換されます。この映画ではさらに、山内ケンジ監督が独特の演出で、悲しみと滑稽さの間にパパの魅力を自然と打ち出してきます。
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 マヤの好意は一瞬も怯むことがなく、ひとりでいる時も、親友のパパとの2ショット写真を映し出したスマートフォンで自分の体を慰めます。股に押し当てたケータイに、親友からの着信があれば、なんの衒いもなく通話する、その怯まなさ。好きになってはいけない人を好きになることは、幻想的で暗鬱としています。 ■姫乃たま(ひめの たま) 地下アイドル/ライター。1993年2月12日、下北沢生まれ、エロ本育ち。アイドルファンよりも、生きるのが苦手な人へ向けて活動している、地下アイドル界の隙間産業。16才よりフリーランスで地下アイドル活動を始め、ライブイベントへ精力的に出演するかたわら、ライター業ではアイドルとアダルトを中心に幅広い分野を手掛ける。そのほか司会、DJ、モデルなど活動内容は多岐にわたる。著書に『潜行~地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー社)がある。 ウェブサイト:http://himeeeno.wix.com/tama Twitter:https://twitter.com/Himeeeno ■公開情報 『友だちのパパが好き』 12月19日より東京・ユーロスペースほか全国ロードショー 監督:山内ケンジ 出演:吹越満、岸井ゆきの、安藤輪子、石橋けい、平岩紙 配給:SPOTTED PRODUCTIONS ©2015 GEEK PICTURES 公式サイト:http://tomodachinopapa.com/

“最後の昼ドラ“が見せる究極の愛憎劇ーー『新・牡丹と薔薇』と脚本家・中島丈博の凄味とは

【リアルサウンドより】  52年の歴史があるフジテレビの昼ドラ枠(13時30分~14時)が、2016年の3月で終了する。昼ドラは、かつてはTBS系の「愛の劇場」など、他局でも放送されていたが、現在はフジテレビだけとなっていた。今後のことはわからないが、これで日本のテレビから「昼ドラ」の歴史に一度幕が引かれることになる。  そんな中、現在放送中の昼ドラが『新・牡丹と薔薇』だ。  本作は2004年にヒットした中島丈博が脚本を書いた『牡丹と薔薇』(フジテレビ系)のセルフリメイクにあたる作品。ストーリーは小日向ぼたん(黛英里佳)と小日向美輪子(逢沢りな)という血のつながらない姉妹を中心に展開される男と女の愛憎劇だ。物語や時代背景は違うのだが、ぼたんというヒロインが登場し、彼女の出生の秘密と男と女のドロドロ、ぼたんに屈折した感情を見せるお嬢様キャラの妹などといった『牡丹と薔薇』のエッセンスは引き継がれている。  ただでさえ視聴者から軽く見られているテレビドラマの中でも、もっとも辺境に位置するドラマ枠が昼ドラだ。役者の演技は大袈裟で物語は極端なことばかりが起こる下世話で通俗極まりない映像空間で真面目に見ている視聴者は、ほとんどいない。しかしそんな状況を逆手にとって、好き勝手やってきたのが02年の『真珠夫人』以降の東海テレビ制作の中島丈博・脚本のドラマだった。  次から次へと繰り返される愛憎劇にはさみこまれる「役立たずのブタ」という台詞や「たわしコロッケ」や「牛革の財布で作ったステーキ」を食べさせるといった極端なシチュエーション(『新・牡丹と薔薇』では愛の証明として金魚を食べるシーンが登場する)の連鎖で物語を紡いでいく中島ドラマは、前後のつながりやお話としての完成度を放り投げてでも、その瞬間さえ面白ければいいという極端なスタンスが受けて、ネタドラマとして人気を博した。2000年代における昼ドラとは基本的に、東海テレビが制作した中島ドラマだったと言っても過言ではない。  今のテレビドラマは連続テレビ小説(朝ドラ)の一人勝ちという状態が続いている。放送形態だけを考えるなら、30分一話を週5回放送する昼ドラの形式は朝ドラにもっとも近いものだ。だから、何かのきっかけで昼ドラの人気が爆発してもおかしくないと思っていた。中でも中島ドラマのネタ消費できる部分は、SNSを使ってみんなで消費することが前提となった情報環境の元では、有利に働くのではないかと思っていたのだが、そううまくはいかなかったようだ。  このままだと最後の中島ドラマとなってもおかしくない本作だが、どうしても気になってしまうのは、なぜ、中島は昼ドラという場所を自らの居場所にしたのかということだ。  中島丈博は1935年生まれ。自伝的作品である『祭りの準備』の脚本や『郷愁』の監督としても知られ、日活ロマンポルノの脚本を多く手掛けていた。90年代後半には渡辺淳一の『失楽園』のドラマ版の脚本も手掛けているほか、『炎立つ』や『元禄繚乱』(ともにNHK)などの大河ドラマも手掛けており、キャリアだけみれば大御所の脚本家だと言える。  そんな重厚なキャリアと00年代以降の昼ドラ路線は一見別物に見えるが、性欲を通して男と女の愛憎劇を書いてきたという意味において中島にとっては同じものなのかもしれない。また、『新・牡丹と薔薇』の冒頭は、ぼたんと美輪子の母親である眞澄が高校生の時に妊娠してしまうところからはじまるのだが、愛と性の問題が家族の歴史につながっていくことも中島作品の特徴といえる。いうなれば、男と女の愛憎が親子の因縁にまで絡んでいく重厚な歴史劇こそが中島作品の本質だが、このような古臭いドラマが成立する場所など存在しないことは本人が一番わかっているのだろう。  そんな中で、結果的に昼ドラだけが、中島の作家性の受け皿と成りえた。もちろん、その受け入れられ方は、徹底的にネタとして消費される世界だ。その意味で客観的に見れば悲しい撤退戦と見えなくもない。だが、『新・牡丹と薔薇』を見ているとネタとして消費されることが、中島の作家性を弱めたとは思えない。むしろ昼ドラを書きつづけることでしかたどり着けない場所に到達しようとしているのではないだろうか。  例えば第10話では、吉田多摩留(戸塚純貴)と美輪子がお互いに激しい愛情をぶつけ合い、やがて肉体関係を結ぶことになる。その時に多摩留は「人を好きになると悲しくなる」と言うのだが、この台詞には不覚にも感動してしまった。もっとも次の回になると多摩留の言う「悲しい」が、ただの性欲だとわかり美輪子は幻滅して、距離を置こうとして、やがて多摩留はストーカーになってしまうのだが、ここには男と女の愛憎劇が、しっかり描かれている。  おそらく中島にとって人間の愛憎と滑稽さは表裏一体の切り離せないものなのだろう。だからネタ的に消費される昼ドラの馬鹿々々しさがあればあるほど、中島の書く愛憎劇は深みを増していくのだ。 ■成馬零一 76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。

写真家・映画監督アントン・コービンが語るJ・ディーン そしてボノやプリンスとの思い出

【リアルサウンドより】  U2、デペッシュ・モード、ニルヴァーナ、デヴィッド・ボウイ、トム・ウェイツ、ジョニ・ミッチェル……ロック好きにとって、アントン・コービンというフォトグラファーは特別な存在である。彼の写真(多くの作品でジャケットにも使われている)は、何十年にもわたってそのアーティストの「生きた」イメージそのものとなってきた。そして、彼は「ロック出身」フォトグラファーとして、マイルス・ディヴィスと、クリント・イーストウッドと、ロバート・デ・ニーロと、同じような方法論によって素晴らしい作品を残してきた。  そんな彼がジョイ・ディジョンのイアン・カーティスを描いた『コントロール』で映画監督デビューした時は、モノクロの画面の美しさと作品の完成度に感心したものの、それはあくまでも彼のフォトグラファーとしての仕事の延長上にあるものだと思っていた。ところが。その後、彼はジョージ・クルーニーとの『ラスト・ターゲット』、フィリップ・シーモア・ホフマンとの『誰よりも狙われた男』と、着実に映画監督として独立したキャリアを積み上げていく。そこでは、もはや「写真家アントン・コービン」の痕跡は、注意深く観ないと気付かないほどであった。  新作『ディーン、君がいた瞬間』は、主人公の一人が早逝したアーティスト(アクター)であるということ、もう一人がその男を撮ったフォトグラファーであること、という点において、「映画作家アントン・コービン」の作品であると同時に、久々に「写真家アントン・コービン」の気配を強く感じさせる作品だ。個人的にも念願だった彼との対面インタビューは、事前の予想とはまったく違ってやたらと「(笑)」が多い楽しい時間となったが、ポートレイト写真家論としても、とても興味深いものとなった。(宇野維正)

ジェームズ・ディーンは当時の若者の「声」を代弁していた

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——まずは原題の「LIFE」について訊かせてください。このタイトルにしたのは、アメリカの「LIFE」誌に掲載されたジェームズ・ディーンの有名な一連のポートレイト、その時のフォトセッションが本作のクライマックスの一つとなっているのが直接的な理由だと思いますが、それだけが理由じゃないですよね? アントン・コービン(以下、コービン):この作品で描きたかったのは、一人の人間の「人生」がどのようにして他の人間の「人生」に影響を与えるか、ということだった。それと、この作品ではジェームズ・ディーンの「死」を描いてはいないけれど、観客は本作で描かれた日々の直後に彼が交通事故で死ぬことを知っている。描かれていない「死」の存在を、作品を観ている最中にも感じずにはいられないと思うんだ。だから、そこで「死」の反対側にある「生」という言葉をタイトルにしたかった。 ——日本における死後のジェームズ・ディーンは、チャールズ・チャップリンやマリリン・モンローやエルヴィス・プレスリーと並ぶ、ある時代の「アメリカ」を象徴するベタなポップ・アイコンで、言ってしまえば消費され尽くされたイメージであり、あまりクールなものとして捉えられてこなかったという実感があります。あなたの生まれたオランダ、あるいはフォトグラファーとしての仕事の拠点となったイギリスでは、次世代からはどのような存在として映っていたのでしょうか? コービン:オランダやイギリスでどういう存在だったかは人によると思うけれど、チャップリンやモンローが特定の作品、特定の映像と結びつけられて記憶されていたのとは違って、ジェームズ・ディーンは名前だけが一人歩きしているような存在だったように思う。名前はみんなが知っているけれど、実際の人物についてはあまり語られていない、というような。もしかしたら、日本ではちょっと違っていたのかもしれないけど、僕が彼の出演していた作品を初めてちゃんと観たのは名前を初めて知ってからずっと経ってから、完全に大人になってからだった。 ——個人的に、ジェームズ・ディーンをクールな存在として捉え直したのは、80年代後半にザ・スミスが彼の写真をシングルのジャケットにした時でした。 コービン:「Bigmouth Strikes Again」(笑)。そうだね。でも、自分にとってはザ・スミスがトルーマン・カポーティやテレンス・スタンプなんかと並んで彼のイメージを採用したのは驚きではなかった。イギリスでは、当時そこまでジェームズ・ディーンのイメージは氾濫してなかったんだ。むしろ、今の方がそのイメージが盛んに消費されている気がするね。そもそも、1955年にジェームズ・ディーンが出てきた時は、みんな彼のことを若者たちの「声」を代弁する存在として受け止めたんじゃないかな。当時、彼のような反抗的で無軌道な存在はとても珍しかった。 ——あぁ、カウンターカルチャーの始まりみたいな? コービン:そう。1945年に戦争が終わって、そこから10年経っていたけど、当時はまだ若者の「声」を代弁するような存在がカルチャーの中になかった。そこに現れたのが、ジャズの新しい動きであり、その後のロックンロールであり、その空気を象徴していた役者がマーロン・ブランドとジェームズ・ディーンだったんじゃないかな。 ——なるほど。ジェームズ・ディーンの受け止められ方の違いは、同時代にカウンターカルチャーのあった国と、それをポップカルチャーとして輸入した国の違いかもしれませんね。この作品にはジェームズ・ディーンの他にもう一人主人公がいて、それは彼の写真を撮ったフォトグラファーのデニス・ストックで、作品の中で彼は27歳。誰もがあなたがフォトグラファーであることと、作中でフォトグラファーの仕事を描いていることを結びつけると思うのですが、自分が27歳の頃を振り返って、何か思い出すことはありますか? コービン:もう、かなり昔の話だね(笑)。そうだな、当時よく考えていたのは、被写体と信頼関係を結ぶことができると、他のフォトグラファーには入り込めないところまで入ることができて、そこで写真を撮ることができるということだった。まさに、この作品におけるデニスとジェームズのような関係を、自分も20代の頃にU2、デペッシュ・モード、トム・ウェイツ、マイケル・スタイプ(REM)たちと結ぶことができた。彼らとは本当に長い時間を過ごしてきたし、ある意味でファミリーの一員のような存在として彼らに受け入れてもらえた。信じられないような素晴らしい経験をたくさんしてきたよ。そうじゃない経験もあったけどね(笑)。

U2に初めて会った頃、彼らの音楽はあまり好きじゃなかった

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——アーティストから信頼を得るためのコツというのを、こっそり教えてもらえませんか? 自分も音楽ジャーナリストとして20年間仕事をしていますが、信頼関係を結ぶことができたアーティストもいれば、そうでなかったアーティストもたくさんいます(笑)。 コービン:まず、ジャーナリストとフォトグラファーでは、アーティストと結ぶ関係性の種類がまったく違うと思う。それはわかるよね? ——そうですね。わかります。 コービン:その上でアドバイスをするとしたら……うーん、でも、そういうのってとてもオーガニックなプロセスなんだよ。10人アーティストがいれば、10通りのプロセスがあるんだ。 ——それもわかります。 コービン:フォトグラファーにとって、そのアーティストの作品を自分が好きかどうかはあまり関係ないんだ。U2のメンバーと初めて会った時、彼らの作品はその前に聴いていたけど、正直に言うと、あまり好きじゃなかった。だから、彼らとその後何十年にもわたってあんなに親しくなるとは、当時は夢にも思わなかったよ(笑)。 ——それは衝撃的な告白ですね(笑)。 コービン:デペッシュ・モードにいたっては、はっきりと音楽的に嫌いだったからね(笑)。 ——(爆笑)。 コービン:それでも、人間的にウマが合って、そこで撮った写真がアーティストにとっても納得できるものになると、次の機会へとつながっていく。そして、そうした仕事の関係が続いていくことでそこに信頼関係も生まれてくる。……でも、その過程に何か法則のようなものがあったかと言うと、アーティストによってまったく違っていたとしか言いようがないね。 ——では、逆にまったく信頼関係を結ぶことができなかったアーティストやアクターというと、誰のことが思い浮かびますか? コービン:プリンスかな(笑)。 ——(笑)。 コービン:最初に会った時に大きな間違いを犯したので、もう二度と彼からは呼ばれなくなったよ。 ——そのエピソード、詳しく教えてください! コービン:撮影の前に自己紹介をすると、彼が僕の過去の作品を褒めてくれたんだ。でも、そこで彼が言っていた「僕の作品」は、他のフォトグラファーの作品だった。普通だったらそういう時は、相手の言葉を聞き流して「ありがとう」って言っておくべきなんだろうけど。 ——まして、相手はプリンスです(笑)。 コービン:そう、まして相手はプリンスだ。でも、僕は思わず言ってしまったんだ。「あ、あの作品は自分が撮った作品じゃありませんよ」って。それで、すべてが終わったよ(笑)。オランダ人はバカ正直なことで有名なんだよ。そして、僕はすごくオランダ人的な性格の持ち主ときている。 ——今日のここまでの発言からもわかります(笑)。 コービン:アメリカ人やイギリス人は「How Are You?」と挨拶されると、「Fine」と一言で返すだろ? でも、オランダ人はそう訊かれると、今の自分の体調や気分や悩みをとうとうと相手に話し始めるんだ。社交辞令というものが存在しない(笑)。その正直さが、時には相手と信頼関係を結ぶきっかけになるし、時にはそうして裏目に出ることがある。
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——逆に、アーティストと近すぎる存在になることによって、何か弊害のようなものが生じることはありましたか? 今作『ディーン、君がいた瞬間』におけるディーンとデニスの関係も、必ずしも理想的なものとしては描かれていませんでしたが。 コービン:うーん、どうだろう? 今、パッと思い浮かんだのは、15年前にオランダの美術館で自分の写真の展覧会を開いた時のことだな。地元だったし、とても大きな展覧会だったので、当時はまだ生きていた自分の両親もオープニングパーティーに招待したんだ。そのパーティーには、ボノも駆けつけてくれて、オープニングのスピーチを買って出てくれた。そのスピーチでボノは、自分の両親の目の前で「アントンに写真を撮ってもらうと、まるで彼とセックスをしているような気持ちになる。俺とアントンはこれまで20年間ずっとセックスをしてきた」って言ったんだ。多くのオランダ人の老人同様に僕の両親もあまり英語が得意ではなかったから、その言葉をそのまま受け止めて目を白黒させていたね。「えっ!? ウチの息子が!?」って(笑)。 ——(爆笑)。 コービン:まじめに答えると、アーティストと親しくなることで、特に弊害となるようなことは思い当たらないよ。僕はジャーナリストじゃなくてフォトグラファーだからね。ただ、一つ大事だと思うことは、写真を撮ってはいけないタイミングを察知すること。 ——それは勘を研ぎ澄ますということですか? あるいは経験によって培われるものですか? コービン:その両方だね。 ——最後の質問です。あなたはフォトグラファーとしてジョイ・ディヴィジョンやニルヴァーナとも仕事をしてきました。そして、映画監督としてのあなたの最初の作品はイアン・カーティスの最期の日々を描いた『コントロール』であり、今作もまたジェームズ・ディーンの最期の日々を描いた作品です。そこからは、「才能のピークにおける死」というテーマに取り憑かれている映画作家という一面を感じ取らずにはいられないのですが。 コービン:まず言っておかなくてはいけないのは、イアン・カーティスとカート・コバーンとジェームズ・ディーンの死は、それぞれまったく違うものだということだ。 ——そうですね。 コービン:その上で、若くして、それもキャリアのピークにあって死んでしまう人間の人生に、自分の興味が向いているというのは事実としてあると思う。ジェームズ・ディーンは早逝したことによって、マーロン・ブランドのように歳をとって太ることもなければ、つまらない作品にたくさん出ることもなかった。それが良かったことだとは絶対に言えないけれど、そうした側面というのはやはり見過ごせない事実としてある。 ——あなたの前作『誰よりも狙われた男』は、フィリップ・シーモア・ホフマンにとって撮影時期として最期の仕事になりました。 コービン:……そうだね。ある種の強烈な才能というのは、その強烈さゆえに、暗い場所へと引き込まれてしまうことがあるように思う。もちろん、何度も言うけど、「死」にはそれぞれの理由があって、それを一緒に語ることはできなけれどね。 ——あなたは今ちょうど60歳ですが、これからも長生きをしたいと思いますか? コービン:40歳を過ぎた後の人生は、すべてオマケみたいなものだと思ってきたよ。でも幸いなことに、自分はそのオマケの人生でやりたいことがまだまだたくさんあるんだ。 (取材・文=宇野維正)
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■公開情報 『ディーン、君がいた瞬間(とき)』 2015年12月19日(土)シネスイッチ銀座ほか、全国順次公開 監督:アントン・コービン 製作:イアン・カニング 音楽:オーウェン・パレット 出演:デイン・デハーン、ロバート・パティンソン、ジョエル・エドガートン、ベン・キングズレー、アレッサンドラ・マストロナルディ 原題:LIFE/2015年/カナダ・ドイツ・オーストラリア合作/112分/カラー/シネスコ/5.1chデジタル/字幕翻訳:佐藤恵子     配給:ギャガ Photo Credit:Caitlin Cronenberg, (C)See-Saw Films 公式サイト: http://dean.gaga.ne.jp

ジャニーズJr.・高田翔、なぜ演技で売れっ子に? “元気がないアイドル”の強み

【リアルサウンドより】
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 先日、最終回を迎えたフジテレビ『サイレーン 刑事×彼女×完全悪女』(毎週火曜22時から)と、読売テレビ『青春探偵ハルヤ』(毎週木曜23時59分から)の2本にレギュラー出演を果たしたジャニーズJr.の高田翔。グループとしてデビューこそしていないものの、高い演技力が評価され、2015年にはスペシャルドラマも合わせて5本に出演するなど、その活躍はデビュー組に引けを取らない。そんな高田翔はどういう特性を持った俳優なのか、過去の出演作などから掘り下げていきたい。  ジャニーズ事務所に入所する2007年までは別の芸能事務所に所属しており、劇団四季ミュージカル『ライオンキング』のヤングシンバ役を演じた経験を持つ高田。2008年には、あさのあつこ原作の野球を題材にした小説『バッテリー』のドラマ化にあたって、同事務所ですでにデビューを果たしている中山優馬がピッチャー役で主演をつとめる一方、高田は準主演としてキャッチャー役に起用されている。野球少年の役作りのため丸刈りにし、その後はジャニーズ恒例の運動会でもそのキャッチング力を見せつけた。以来、『ほんとうにあった怖い話』(2008)や『仮面ティーチャー』(2013)など、テレビドラマや映画、舞台への出演が続いている。ジャニーズタレントでありながら俳優一筋で活躍する姿は、先輩にあたる生田斗真を連想させることから、『第2の生田斗真』とも呼ばれ、注目を集めている。  2012年に出演した学園モノの連続ドラマ『GTO』では、IQが高い頭脳派の寡黙な生徒役を演じ、セリフが少ない分、表情に変化をつけて難しい役柄をものにしていた。学園ドラマということもあり、学生の視聴者が多く、若い世代にその存在を印象付けた作品といえよう。一方、2013年に出演した昼ドラ『天国の恋』では、髭面でしどけない雰囲気を醸し出し、年上女性を好む、人懐っこく単純な性格の青年を好演した。ラブシーンもこなしたことで、主婦層など大人の視聴者にも役者としての力量を示すきっかけとなった。この2作品が高田翔の演技力を広く知らしめたといって良いだろう。  そんな高田翔だが、ジャニーズ入所当初から演技のみで仕事をしてきたわけではない。過去には、若手のジャニーズグループや、ジャニーズJr.が出演する『ザ少年倶楽部』でダンスや歌を披露したり、滝沢秀明主演の舞台『滝沢革命』や『滝沢演舞城』、ジャニーズが主演を務め、ジャニーズJr.も多数出演しているミュージカル『PLAYZONE』にも出演経験がある。しかし、本人いわくダンスや歌はそれほど得意ではないようだ。2015年10月22日に放送された日本テレビ『ダウンタウンDX』にゲスト出演した際には、「踊りもやらず、バク転もしない」と話しており、「東京ドームは広くて、走るのがしんどい」と、ジャニーズらしからぬ発言もあった。MCを務めるダウンタウンの浜田雅功から「やめてしまえ! もうええわ!」と言われ、同じくゲスト出演していた小籔千豊からは「覇気がない!」と喝を入れられるほど、高田にはいわゆる“アイドルらしさ”が欠けているのだった。しかし、そんな”元気がない”姿が、いかにもジャニーズ的なギラギラ感とかけ離れているからこそ、ファンは親近感を覚えるようである。  さらに、ファンの間では雑誌などで見せるくしゃっとした笑顔も好評である。そんな笑顔が多く見られるのが、今季クールドラマで出演中の2作品だ。両作とも、明るくお調子者でおっちょこちょい、憎めないキャラクターを演じており、その特徴的な笑顔をたっぷりと堪能できる。似た雰囲気を持つ二役ではあるが、『サイレーン』では刑事役、『青春探偵ハルヤ』は学生役と明確な違いもある。『サイレーン』では個性的な刑事に囲まれる分、キャラクターを抑えて場面に馴染んでいるが、『青春探偵ハルヤ』では主役のハルヤ(玉森裕太 Kis-My-Ft2)の親友であり、ハルヤの探偵業にも加担するなど出演機会が多く、冷静で頭が良いハルヤとは対照的でキャラクターが引き立っている。最終回直前の第9話では、おばあちゃん想いで一途な一面も見せ、お調子者で臆病な普段とは一変、ハルヤとぶつかるシーンもあった。しかし、自分からカッとなったにも関わらずオロオロしてしまう様子や、言いたいことを言い放った途端、その場からドタバタと逃げ出してしまうなど、「こういう人、いる!」と思わせる要素が多数含まれており、共感した視聴者も多いはずだ。  ジャニーズらしからぬ肩の力が抜けた高田翔だからこそ、どこにでもいそうな似た雰囲気を持つ二役を、細かな違いで見事に演じ分けられるのだろう。また、物語をかき回す三枚目キャラは、あらゆる作品に必要なポジションでもある。高田が実力派の役者として、ジャニーズタレントの枠を越えた活躍を見せてくれる日は近そうだ。 (文=小島由女)

ドイツの若き名匠が『消えた声が、その名を呼ぶ』で描く、“隠れた歴史”への壮大なる旅路

【リアルサウンドより】  今から10年前、英国のミニシアターでとんでもないドイツ映画と出会った。描かれるのはとにかく不器用で、凶暴で、歪(いびつ)な愛。なにしろハンブルクで始まった物語がいつしか国境を越え、イスタンブールにまで導かれていくのだ。この映画にとにかく度肝を抜かれ、すぐさまその担い手、ファティ・アキンについて調べ始めた。73年生まれ。俳優であり映画監督。トルコ系ドイツ人ーー。ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したその作品は、1年以上遅れて日本でも『愛より強く』というタイトルで公開された。続く彼の『そして、私たちは愛に帰る』(08)はカンヌ国際映画祭にて脚本賞を受賞。そして『ソウル・キッチン』(11)では、ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞を受賞。つまり彼は30代の若さでベルリン、カンヌ、ヴェネツィアにて名を馳せる存在となったわけだ。  そんな彼が、かつてない製作規模にて最新作を完成させた。それが『消えた声が、その名を呼ぶ』である。本作は<愛><死><悪>というテーマを扱った3部作の最終章という位置付けらしい。つまり<悪>についての物語。蓋を開けてみて、そのスケール、テーマ性、映画作家としての凄まじい執念に打ちのめされた。
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(c)Gordon Muhle/ bombero international

 物語の始まりは今から100年前のオスマン・トルコ。少数派のアルメニア人として生きる主人公ナザレットは、第一次大戦が始まるや兵士に連行されて強制労働に従事させられる。愛する妻や娘たちのことを想いながら、過酷な労働を耐え抜く毎日。力尽きた者が次々に倒れていく。そんな中で突如、殺戮が始まる。砂漠の真ん中で処刑人たちに首を切られ一団は虐殺されてしまうのである。このアルメニア人の虐殺に関しては犠牲者が100万とも150万とも言われており、のちにヒトラーがこの一連の流れをユダヤ人の虐殺の手本にしたとの説もあるほどだ。  本作の原題は“The Cut”という。主人公も他のアルメニア人と同様、首に刃を突き刺される。だが、処刑人は良心の呵責に苛まれて彼を絶命させることができず、密かに手当を施して彼を逃してくれる。彼は一命を取り留めた。ただし、その代わりに声を失った。また、愛する妻や娘たちは彼が不在のうちにどこか別の場所へ強制連行されてしまったらしい。引き裂かれる家族。民族。ナザレットにとって家族は最後の希望だった。彼は広大な砂漠地帯をさまよい、家族の消息を尋ね続けるのだがーー。
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(c)Gordon Muhle/ bombero international

 声を失う主人公は、虐殺の被害者たちの声なき声を象徴する存在と言える。前半部は虐殺までの道のりをあくまでナザレットの目線で描き続ける。そこまでの顛末もかなり衝撃的なのだが、そういった告発のみに止まることなく、いかにそれらを盛り込んで「物語」を形作るかが本作の一番の焦点。その意味で、むしろ圧倒されるのは後半部だ。そういえば、まだ平和だった頃の故郷で、主人公ナザレットと双子の娘たちは空を鶴が飛んでいくのを目にする。「あの鳥を見たものは、長い長い旅をする」。そこで交わされるセリフの通り、本作では想像を絶するほど壮大な旅が観客の心を翻弄し、鷲掴みにしていくのだ。
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 村から村へ。そして国境を超え、海を越え。その動線はシンプルだが、決して終わりが見えない。そして主人公が思いを口にしない(できない)分、身体全身が極めて強靭な反響装置となって、言葉を超えた感情表現が私たちの心に突き刺さってくる。旅の途中で彼がチャップリンの『キッド』の屋外上映を見るシーンがあるが、彼の存在にもまた、サイレント映画の主人公のような位置付けを付与されているのかもしれない。こういった対比構造がじわじわと発揮されていくのもこの映画の魅力だ。  本作にはこれまでのファティ・アキンが紡いできた、ミニマルな表現から脱した凄みが溢れている。確かに作品の緻密さという点では過去の二作の方が優れていると(個人的には)思う。だが今回はむしろ殻をぶち破り、壮大なスケールの物語を描くという新たな可能性を提示し得たところに大きな意味がある。何しろすべてが型破りだ。撮影はドイツ、キューバ、カナダ、ヨルダン、マルタと5カ国にまたがって行われ、すべて35mmフィルムで撮影。製作年数はトータルで7年に及んだ。
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 そして今回は様々な世界的巨匠たちも尽力を惜しまなかったようだ。マーティン・スコセッシやロマン・ポランスキー、そしてアルメニア系のカナダ人であるアトム・エゴヤン(彼が監督した『アララトの聖母』もアルメニア人の虐殺に関する作品だった)などの助言がどれだけファティ・アキンを勇気づけたことか。とりわけスコセッシからは、彼がかつて『レイジング・ブル』や『ミーン・ストリート』で組んだ脚本家であるマルディク・マーティン(彼もまたアルメニア系としての出自を持つ)を紹介してもらい、あまりに詰め込み過ぎだったオリジナルの脚本を交通整理し、ぎゅっと濃縮していく過程で大きな貢献を果たしてくれたという。  かくも国際プロジェクトとして一本の映画を成し遂げたトルコ系ドイツ人監督、ファティ・アキン。彼の歩んだ映画作りの道のりもまた、本作の主人公ナザレットの旅路とオーバーラップするものだったことは想像に難くない。そんな過酷な産みの苦しみを経験したことで、ストーリーテラーとしてのファティ・アキンがひと回りもふた回りも大きな存在になったような、そんな印象も受ける。
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(c)Gordon Muhle/ bombero international

 客席にいながらにして、壮大な旅路へといざなわれ、なおかつ猛烈な感情の嵐にさらされ、もしかすると劇場を出る頃には2時間前に比べて自分が10歳くらい年を取ったように思えるかもしれない。隠れた歴史を知る上でも興味深く、またこの旅路を自分の人生に重ねて見つめると何か底知れぬ力が湧いてくるのを覚える人もいるはず。とにもかくにも映画の持つパワーに圧倒される重厚作であること請け合いだ。 ■牛津厚信 映画ライター。明治大学政治経済学部を卒業後、某映画放送専門局の勤務を経てフリーランスに転身。現在、「映画.com」、「EYESCREAM」、「パーフェクトムービーガイド」など、さまざまな媒体で映画レビュー執筆やインタビュー記事を手掛ける。また、劇場用パンフレットへの寄稿も行っている。Twitter ■公開情報 『消えた声が、その名を呼ぶ』 12月26日(土)角川シネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか、全国順次ロードショー 監督・脚本:ファティ・アキン 共同脚本:マルディク・マーティン 出演:タハール・ラヒム、シモン・アブカリアン、マクラム・J・フーリ 原題:THE CUT 2014年/ドイツ・フランス・イタリア・ロシア・カナダ・ポーランド・トルコ/シネマスコープ/138分 提供:ビターズ・エンド、ハピネット、サードストリート 配給:ビターズ・エンド (c)Gordon Muhle/ bombero international 公式サイト:www.bitters.co.jp/kietakoe

なぜ『ナルコス』は数ある“麻薬モノ”の中で突出して面白いのか? 実録ゆえの説得力に迫る

【リアルサウンドより】  1991年、 コロンビア。その施設は、コロンビアの大都市メデジン市内に建っていた。室内は高級家具に彩られ、広大な敷地にはバー・カウンターにディスコ、サッカー場まで整備されていた。住人達はサッカーで汗を流し、パーティーで酒を楽しみ、結婚式まで楽しんだ。時にはメデシン市内へショッピングに出かけることもあった。    しかし…その施設「ラ・カテドラル」は、高級ホテルでもなければ、大金持ちの保養地でもなかった。ラ・カテドラルは、コロンビア政府の刑務所だった。しかし、パーティーを楽しむのは囚人たちであり、バーテンダーは刑務所の職員だった。コロンビアはもちろん法治国家である。このような無法は通常起きえない。なぜ、このような状況が成立したのか? それはラ・カテドラルに収監されていたのが、世界犯罪史上に残る麻薬王、パブロ・ エスコバルだったからだ。    「麻薬王」こう書くと、ただの麻薬の売人の親玉くらいに思うかもしれない。しかし、このラ・カテドラルに収監された時点で、パブロの組織は単なる麻薬組織の範疇を超えていた。彼らが犯した凶悪事件は、麻薬売買や抗争にとどまらず、政府施設や旅客機への爆破テロ、大統領候補の暗殺…など、枚挙にいとまがない。当時のコロンビアでパブロと対立することは、死を意味していたのである。  Netflixオリジナルのドラマ『ナルコス』は、文字通り巨悪と言うべき麻薬王パブロと、彼に挑む者たちの血みどろの対決を描いた作品だ。一応、「事実に着想を得た創作」となっているが、限りなく事実に近い…いわば「実録モノ」と言っていいだろう。    「実録」「実話に基づく」…こういう触れ込みの作品は非常に多い。それは「こんな話が本当にあったのか」という驚きを担保できるからだ。また、フィクション内の殺人と、ノンフィクション内の殺人では、その物語を聞いた時の印象も全く異なるだろう。一方で、実話をベースとすることには短所もある。端的に言うなら、ネタが割れてしまうことだ。パブロの物語もそうである。この対決がどういう結末を辿るのか? それはネットで検索すれば、すぐに知ることができる(マーク・ボウデン著『パブロを殺せ―史上最悪の麻薬王VSコロンビア、アメリカ特殊部隊』という、ノンフィクションの決定版も出ている。これは、事実上このドラマの原作と言ってもいいだろう)。しかし、物語の結末と過程を知ってもなお、本作の面白さは決して損なわれない。  熱い人間ドラマ、緊張感あふれるサスペンス、強烈なヴァイオレンス描写、そしてパブロと、バブロを追う者たち、さらにコロンビア政府にアメリカ政府と、さまざまな思惑が絡み合う濃密なストーリー…どれもが一級品だ。そして、こういった要素と、監督のジョゼ・パジーリャの演出手法が見事にマッチしている。ジョゼ監督は、ブラジルで記録的ヒットとなった傑作『エリートスクワッド』シリーズで知られる人物だ。緊張感のあるアクション描写もさることながら、元々ドキュメンタリー出身であり、情報整理の巧みさにも定評がある。事実、『エリートスクワッド』でも、人間ドラマ・アクション・サスペンスを描きつつ、スラム街の治安が悪化するシステムについて、極めて分かり易く説明するという離れ業をやってのけている。本作でも、ともすれば混乱しそうな複雑な物語を、ナレーションや、実際の映像を織り交ぜることによって、綺麗にまとめあげている。俯瞰視点からのナレーションで物語を語るのは、ドキュメンタリーの常とう手段であるし、これは『エリートスクワッド』でも見られた。まさにパジーリャの“得意技”だ。  近年は、ドラマ『ブレイキング・バッド』の大ヒットや、実際にメキシコで起きている麻薬戦争の影響によって、麻薬モノが増えている。しかし本作は、その中でも「実録」という強烈な個性と、その個性を最大限に活かす演出技術によって、一歩抜きんでた存在になっている。早くもシーズン2の制作が決定しており、今後はさらなるスケールアップと物語の加速は間違いない。数ある海外ドラマの中でも、注目作であると言えるだろう。 ■加藤ヨシキ ライター。1986年生まれ。暴力的な映画が主な守備範囲です。 『別冊映画秘宝 90年代狂い咲きVシネマ地獄』に記事を数本書いています。

『 I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』が原作から紡ぐ、小さな幸福の物語

【リアルサウンドより】  いつも犬小屋の屋根の上に寝そべって小鳥とたわむれたり、タイプライターを打っている、かわいいビーグル犬、スヌーピー。日本ではとくにキャラクター・グッズとして店頭で目にすることが多いが、スヌーピーは、アメリカの新聞で、およそ四半世紀もの間連載されていた漫画「ピーナッツ」に登場するキャラクターのひとり(一匹)だ。  「ピーナッツ」は、スヌーピーの飼い主で、いつも人生に思い悩んでいるチャーリー・ブラウンを中心に、子供たちの世界の日常的な出来事を大人びたユーモアで描き、アメリカのみならず、連載終了後も世界中で長く愛され続けている漫画だ。ペンとインクによるザクザクとした描線によって表現される、ポップカルチャーと文学性が融合したシンプルで楽しい世界は、漫画作品のひとつの完成形といえるだろう。人気だけでなく、芸術的な意味でもアメリカ文化の至宝のひとつといえる「ピーナッツ」が、今回、35年ぶりに劇場用映画として製作された。それが、本作『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』である。邦題がちょっと長い。  しかし、ここまでの人気作でありながら、「ピーナッツ」は何故、あまり映画化されないのだろうか。今回は、その理由の裏側に迫りつつ、本作における新たな映画化への作り手の困難、そして作品の真価を探っていきたい。

3Dと2Dを融合する映像表現の試行錯誤

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 本作『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』は、原作者チャールズ・シュルツの息子、クレイグ・シュルツによる企画だ。彼は自分の子供や、彼の母親である、チャールズ・シュルツの妻ジーン・シュルツらと相談しながら脚本を書き上げている。この権利者ファミリーによる作品づくりの要請に応じたのが、20世紀フォックス・アニメーションだった。しかし、「ピーナッツ」は、子供たちの小さな世界を描くところが魅力であり、今までのTVアニメ版に名作があるように、TVのサイズがちょうどよく、小品に適している題材だ。はじめはチャールズ・シュルツもTVアニメとして企画を立てていたようである。  制作費獲得のため、映画作品として企画が拡大した本作は、劇場版としての価値を高めるため、全編CGを利用した「現代的な」ヴィジュアルでの作品づくりに挑戦することとなった。製作するのはフォックス傘下の、『アイス・エイジ』シリーズ、『ロボッツ』などを製作した、ブルー・スカイ・スタジオだ。監督は、『ホートン ふしぎな世界のダレダーレ』、『アイス・エイジ4 パイレーツ大冒険』のスティーヴ・マーティノである。  完成した映像は、試行錯誤の跡が感じられるものとなっていた。キャラクターは、ふわふわすべすべとした質感の3Dで描かれるが、表情は2Dで描かれている。これは、実際の製作を想像してみると当然の流れかもしれない。そもそも、漫画やTVアニメ版は、全てが手で描かれており、両目が顔の片側に描かれるなど、立体表現ではあり得ない漫画的な「嘘」が随所に見られる絵柄なのだ。従来の「ピーナッツ」のイメージを崩さないよう、この風合いを活かそうとすれば、部分的に2D的な手法を持ち込まざるを得ない。このことから、本作の映像は、リアリティと漫画的平面表現が混在するものとなっており、人によっては違和感を生じさせるかもしれない。だが、そこに配置される表情のパーツは、原作漫画以外にもTVアニメの各エピソードから取捨選択された、最良と思われるものを選んでおり、原作だけにとどまらない「ピーナッツ」の絵柄を、相当に研究し追求していることは間違いないだろう。

漫画、TV、舞台を総動員して描く「ピーナッツ」の本質

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 本作は、TVアニメ版と同様、大人向けな内容の原作漫画のエッセンスを幾分残しながら、より子供向けの内容にシフトしている。その特徴は、飛んだり跳ねたり、雪にもぐったり、爆笑するスヌーピーの激しい動きとして、アニメ的な「スラップスティック」(ドタバタ喜劇)表現が追加されていることでも分かる。また、アニメならではのダンスの動きの面白さが描かれているのもTVアニメ版同様である。なかでも、人気のある"A Charlie Brown Christmas"(「スヌーピーのメリークリスマス」)のかわいいダンスが、本作でCGにより完全再現されているのは、往年のファンにとって嬉しい驚きだ。  そして本作が特徴的なのは、スヌーピーの妄想世界が、ブルー・スカイ・スタジオが得意とする、CGによる大スペクタクルとして表現されている部分だろう。原作でも、スヌーピーは妄想の中で、医師、弁護士、小説家、プロゴルファーなど、いつも何かになりきっている。なかでもお気に入りなのは、第一次大戦の戦闘機乗りの英雄になるという妄想である。スヌーピーの兄スパイクは、いつも歩兵役として戦争ごっこに付き合わされ迷惑しているのだ。本作では、ここにTVアニメ"Life Is a Circus, Charlie Brown"(「スヌーピーのサーカス」)に登場した、まつ毛がチャーミングなプードル、フィフィがヒロインとして現れる。  本作の脚本の内容は、いかにも映画風のオリジナルストーリーを用意するのでなく、原作のエピソードを、いくつかのテーマに従って配置し、意味づけしていくという、原作を尊重するものになっている。また、漫画だけでなく、前述しているように多くのTVアニメ版にもオマージュを捧げており、今までの「ピーナッツ」を総動員する記念碑的な作品となっている。またその構成は、のちにアニメ化もされた、舞台のミュージカル作品「きみはいい人、チャーリー・ブラウン」に最も近いといえるだろう。  「ピーナッツ」の登場人物やスヌーピーを生身の人間が演じる舞台作品「きみはいい人、チャーリー・ブラウン」は、何をやってもうまく行かないチャーリー・ブラウンが、「赤毛の女の子」に熱烈に恋をして、色々なアプローチをしようとするものの、全てが裏目に出て、際限なく落ち込んでいくという、かなりネガティブなストーリーだ。しかし、チャーリーが神格化していた赤毛の女の子が落とした鉛筆に、彼女の歯型がついているのを発見し、「ああ、彼女も人間だったんだ!」と、非常に気持ちが楽になるという、ささやかな、あまりにもささやか過ぎる幸福がラストで描かれる。本作『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』では、さすがにもう少しポジティブな結末が用意されているが、基本的な流れは同じだ。このような、ひとりの人間のなかの「小さな物語」こそが「ピーナッツ」の本質だといえるだろう。チャールズ・シュルツも、この舞台作品を支持していた。  本作は、このように、ヴィジュアル面においても、脚本の面においても、過去作の要素をかき集めることで、原作の持つ本来の価値を減じさせず、「ピーナッツ」の本質から逸脱したものにしないような対抗策が講じられていることが理解できるのだ。

チャーリー・ブラウンという生き方

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 「小さな物語」こそが本質であると言ったように、「ピーナッツ」の世界では、大人は直接描かれず、彼ら子供たちの視点から社会が描かれている。オリジナルである漫画作品の愛らしい絵柄は子供にも人気があるが、その内容は逆に大人向けといっていいだろう。そこで描かれる登場人物たちは、作者のチャールズ・シュルツ本人の反映、もしくは彼の周囲の人間を基にしているといわれる。  何をやっても大抵うまくいかないチャーリー・ブラウンは、失敗体験の累積から、自らのレーゾンデートル(存在価値)に悩まされている。そして、勝ち気な妹のサリーや、親友のライナス、5セントで精神分析をするルーシーなどに相談をする。そのライナスも、哲学的思考を日々めぐらせてはいるが、その反面、幼少期から毛布が手放せないという精神的問題を抱え、女王然として自己中心的な性格のルーシーも、自己評価ほど周囲が価値を認めてくれず、ベートーヴェンを敬愛する小さな演奏家シュローダーが振り向いてくれないことに苛立ちを感じている。  このような不完全なキャラクターたちの交流で発生する摩擦は、チャールズ・シュルツ独自の人間観からきているが、鋭い洞察とユーモアや、幾分の偏見や皮肉がこめられた、この「小さなドラマ」は、たわいない漫画という「消費物」であることを超え、多くの読者の持つ個人的体験のドアをノックする。短所・長所を併せ持ったキャラクターたちが、とくに大きなことを成し遂げるわけでなく、チャーリー・ブラウンの凧が上手く上がらなかったりとか、晩ごはんがいつもより11秒遅れることにスヌーピーが抗議したりと、日常の本当に小さなことで思い悩み、逆にささいなことに幸せを見出したりすることが、読者に深い共感を与えるのだ。  そういった、英雄的や啓発的でないドラマを映画化することは困難だが、逆に言うなら、そのような作品づくりは、現代においてむしろ貴重だといえるだろう。子供の観客のみならず、大きな夢の実現や、客観的幸福の追求に疲弊する現代の観客にとって、「ピーナッツ」の世界は、ある意味で「救い」と呼べるようなものになっているのではないだろうか。  『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』は、しかし、ささやかながら個人の達成を描いてもいる。チャーリー・ブラウンのように、取り柄もなく、ぐじぐじと小さなことで落ち込みながらも、「できるだけ善良であろうとする姿勢」が、小さな小さな幸福を勝ち取るのだ。二元論的な、善と悪の戦いという定型がとりわけ支配的な、劇場用アニメーション作品が多いなかで、個人的実感を大切にする作品づくりは、今後のアニメーションのひとつの指針となり得るはずである。 ■小野寺系(k.onodera) 映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト ■公開情報 『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』 公開中 監督:スティーブ・マーティノ   配給:20世紀フォックス映画 吹替声優:鈴木福、芦田愛菜、小林星蘭、谷花音 (c)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation.All Rights Reserved. PEANUTS(c)Peanuts Worldwide LLC 公式サイト公式facebook公式Twitter公式Instagram

松山ケンイチ、なぜ『珍遊記』主人公に? 漫画原作映画との相性を考察

【リアルサウンドより】  『デスノート』『デトロイト・メタル・シティー』『銭ゲバ』『ど根性ガエル』と、人気漫画原作の映画で、個性的なキャラクターの数々を演じてきた松山ケンイチ。そんな松山が、漫☆画太郎原作の人気漫画を実写化した映画『珍遊記』の主人公“山田太郎”を演じることが決定し、パンツ一丁という刺激的なビジュアルとともに、大きな話題となっている。  実写化するのが困難とされた作品でも、再現度の高い松山ケンイチの演技はこれまでも好評を得てきた。なぜ彼はそうした役作りをすることが可能なのか。テレビ解説者の木村隆志氏に聞いた。 「漫画原作映画は、キャラクターの個性が強い分、固定されたイメージのない役者が求められます。本人の個性と役がぶつかり合ってしまうと、見ている方としてはなかなか作品に入り込めませんから。その点で言うと、松山ケンイチさんには、いい意味で象徴的なイメージがありません。ビジュアルや内面も庶民派ですし、どちらかと言えば一般人が親近感を覚えやすいタイプといえます。こうした資質は、漫画原作の作品でキャスティングする上で大事なポイントです。実写化する上でもっとも高いハードルは、原作のファンをいかに納得させるかで、少年漫画の場合はとくに、男性に嫌われる人柄であってはいけません。松山さんは見た目や態度に気取ったところを感じないですし、むしろ友達になりたいと思えるような好人物です。骨太な一面もありますが、時折見せるとぼけた一面は可愛らしく、男性からも好意的に受け止められています。その分、アクの強いキャラクターとのギャップも印象的になり、役者としての魅力にも繋がっているのでしょう」  演技の面でも、漫画キャラクターに適した資質があるという。 「松山さんの演技は、ひとつひとつの動作の大きさが特徴的です。彼は身長が180cmくらいですが、作品によっては、より大きく見えたり、逆にすごく小さく見えたりします。『セクシーボイスアンドロボ』の須藤威一郎役や『ど根性ガエル』のひろし役を演じていた時はすごく小さな印象を受けましたが、逆に平清盛のような大男になることもできます。声と表情の強弱のつけ方や手の動き、体の使い方などで巧みに演じ分けているのでしょう。『デスノート』で演じたL役では、それが顕著にわかります。また、松山さんは、監督と密にコミュニケーションをとることでも有名です。『松山さんと仕事をするのは楽しい』という監督の発言もよく耳にします。ちょっとした仕草や体の角度などのアイデアは、自分から監督に提案できる方なので、単に漫画のキャラクターをコピーするだけに留まらない演技ができるのでは」  松山ケンイチのコメディセンスの高さも注目に値すると、同氏は続ける。 「『デトロイト・メタル・シティ』で見せた、芸人のような滑り芸からもわかるように、露骨に狙ってではなく飄々とボケることができるのも、彼が漫画原作に向いている要因のひとつです。このような演技は、どうしても二枚目なイメージがついてしまうイケメン系の俳優にはなかなかできないことですし、特に主演クラスの俳優でできる人は限られています。また、『珍遊記』ではビジュアルもかなり作り込んでくるはずですが、それが出落ちにならないところも、松山さんのすごいところ。一般的に漫画原作だと再現率の高さにばかり目が行きがちですが、それに負けないだけの中身を彼は作ってきます」  作画・ストーリーともに破綻した強烈な作風で、当時の少年たちに忘れがたいインパクトを与えた『珍遊記』。主人公の山田太郎は、ビジュアルも中身も相当に奇矯なキャラクターだったが、松山ケンイチなら原作ファンも納得の仕上がりを見せてくれるのではないか。 (文=編集部) ◼︎公開情報 『珍遊記』 2016年2月27日(土)より、新宿バルト9他にて全国ロードショー! 主演:松山ケンイチ 監督:山口雄大  原作:漫☆画太郎「珍遊記~太郎とゆかいな仲間たち~」(集英社刊) 脚本:おおかわら/松原 秀 企画・総合プロデューサー:紙谷 零 制作プロダクション:DLE 配給:東映 (C)漫☆画太郎/集英社・「珍遊記」製作委員会 公式サイト 公式twitter 公式facebook 公式Instagram

松山ケンイチ、なぜ『珍遊記』主人公に? 漫画原作映画との相性を考察

【リアルサウンドより】  『デスノート』『デトロイト・メタル・シティー』『銭ゲバ』『ど根性ガエル』と、人気漫画原作の映画で、個性的なキャラクターの数々を演じてきた松山ケンイチ。そんな松山が、漫☆画太郎原作の人気漫画を実写化した映画『珍遊記』の主人公“山田太郎”を演じることが決定し、パンツ一丁という刺激的なビジュアルとともに、大きな話題となっている。  実写化するのが困難とされた作品でも、再現度の高い松山ケンイチの演技はこれまでも好評を得てきた。なぜ彼はそうした役作りをすることが可能なのか。テレビ解説者の木村隆志氏に聞いた。 「漫画原作映画は、キャラクターの個性が強い分、固定されたイメージのない役者が求められます。本人の個性と役がぶつかり合ってしまうと、見ている方としてはなかなか作品に入り込めませんから。その点で言うと、松山ケンイチさんには、いい意味で象徴的なイメージがありません。ビジュアルや内面も庶民派ですし、どちらかと言えば一般人が親近感を覚えやすいタイプといえます。こうした資質は、漫画原作の作品でキャスティングする上で大事なポイントです。実写化する上でもっとも高いハードルは、原作のファンをいかに納得させるかで、少年漫画の場合はとくに、男性に嫌われる人柄であってはいけません。松山さんは見た目や態度に気取ったところを感じないですし、むしろ友達になりたいと思えるような好人物です。骨太な一面もありますが、時折見せるとぼけた一面は可愛らしく、男性からも好意的に受け止められています。その分、アクの強いキャラクターとのギャップも印象的になり、役者としての魅力にも繋がっているのでしょう」  演技の面でも、漫画キャラクターに適した資質があるという。 「松山さんの演技は、ひとつひとつの動作の大きさが特徴的です。彼は身長が180cmくらいですが、作品によっては、より大きく見えたり、逆にすごく小さく見えたりします。『セクシーボイスアンドロボ』の須藤威一郎役や『ど根性ガエル』のひろし役を演じていた時はすごく小さな印象を受けましたが、逆に平清盛のような大男になることもできます。声と表情の強弱のつけ方や手の動き、体の使い方などで巧みに演じ分けているのでしょう。『デスノート』で演じたL役では、それが顕著にわかります。また、松山さんは、監督と密にコミュニケーションをとることでも有名です。『松山さんと仕事をするのは楽しい』という監督の発言もよく耳にします。ちょっとした仕草や体の角度などのアイデアは、自分から監督に提案できる方なので、単に漫画のキャラクターをコピーするだけに留まらない演技ができるのでは」  松山ケンイチのコメディセンスの高さも注目に値すると、同氏は続ける。 「『デトロイト・メタル・シティ』で見せた、芸人のような滑り芸からもわかるように、露骨に狙ってではなく飄々とボケることができるのも、彼が漫画原作に向いている要因のひとつです。このような演技は、どうしても二枚目なイメージがついてしまうイケメン系の俳優にはなかなかできないことですし、特に主演クラスの俳優でできる人は限られています。また、『珍遊記』ではビジュアルもかなり作り込んでくるはずですが、それが出落ちにならないところも、松山さんのすごいところ。一般的に漫画原作だと再現率の高さにばかり目が行きがちですが、それに負けないだけの中身を彼は作ってきます」  作画・ストーリーともに破綻した強烈な作風で、当時の少年たちに忘れがたいインパクトを与えた『珍遊記』。主人公の山田太郎は、ビジュアルも中身も相当に奇矯なキャラクターだったが、松山ケンイチなら原作ファンも納得の仕上がりを見せてくれるのではないか。 (文=編集部) ◼︎公開情報 『珍遊記』 2016年2月27日(土)より、新宿バルト9他にて全国ロードショー! 主演:松山ケンイチ 監督:山口雄大  原作:漫☆画太郎「珍遊記~太郎とゆかいな仲間たち~」(集英社刊) 脚本:おおかわら/松原 秀 企画・総合プロデューサー:紙谷 零 制作プロダクション:DLE 配給:東映 (C)漫☆画太郎/集英社・「珍遊記」製作委員会 公式サイト 公式twitter 公式facebook 公式Instagram