荻野洋一の『母よ、』評:痛覚にうったえかける、最も現代的な映画

【リアルサウンドより】  人はいったい何を求めて映画を見に行くのだろう? 娯楽か、暇つぶしか、それとも人付き合いか。結論から言えば、なんだっていいわけだが、時に人は、楽しむためにではなく、もがき苦しむために映画を見に行くことがある。たとえば、イタリアの映画作家ナンニ・モレッティの新作『母よ、』がそうだ。お断りしておかなければならないのは、ストレスの解消にも、楽しい気分にもならないことだ。それどころか、よりストレスを自家薬籠中のものとするために見る映画だと言っていい。この映画の作者であるナンニ・モレッティが立派なコメディ作家であり、この『母よ、』にもどこか風刺喜劇のユーモアさえ漂わせているにもかかわらずだ。  では、そんな映画を見る必要があるのか? ──その答えは「ある」であり、いや現代ではますますその必要性が高まってさえいる。私たち観客は、この映画によってストレスを直視することを求められる。ふだん使わない筋肉を使うよう強いられる。というのも、私たちは自分たちの生活の中で、直視しなければならないストレスを見て見ぬふりをしているからだし、甘受しなければならない苛酷な現実から目をそらしているからだ。
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 イタリアの首都ローマの各所で撮影された、わずか1時間半あまりのこの映画は、工場を解雇された大勢の従業員たちのデモ行進に、公安部隊が放水して応戦するシーンから始まる。さすがはキャリアを通じて反権力をかかげ、右派のシルヴィオ・ベルルスコーニ政権とも激しく対立し続けたナンニ・モレッティ監督の面目躍如とも言うべきホットな幕の開け方だ、などと感心していると、女性の「ストップ!」というかけ声が聞こえて、それが合図となってデモも放水もしゅんと止んでしまう。映画のロケ撮影だったのである。集団のアクションにストップをかけた監督の女性こそ、本作の主人公マルゲリータ(マルゲリータ・ブイ)であるわけだが、彼女の撮影現場がどうやらあまりうまく行っていないらしいことは、部外者である私たち観客にもすぐにわかる。社会派の女性映画作家として鳴らした彼女の創作活動は、どうやら曲がり角に来ているようだ。彼女はその現実にさいなまれる。  だが彼女は、それ以上の問題を抱えている。母親の心臓病が悪化し、医者は死の日が遠くないことを覚悟せよ、彼女と彼女の兄(ナンニ・モレッティ自身によって演じられている)に告知する。日に日に弱っていく母親(ジュリア・ラッツァリーニ)。  彼女のもうひとつの問題──それは中学生の娘のことだ。離婚した元夫のもとで暮らしているらしい娘は最近、恋をし、悩んでいたが、マルゲリータは娘から悩みを相談されなかった。自分にも厳しいが、他人にも厳しく当たるマルゲリータのことを、周囲の者は多かれ少なかれ敬遠しているのだ。
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 私たち観客は、映画の上映時間のあいだじゅう、このマルゲリータという女性映画監督のアイデンティティ・クライシスにお付き合いしなければならない。痛い。にがい。ヒリヒリする。しかし、痛覚にうったえかけるこの映画は、最も現代的な映画である。つまり、すっかり生きにくくなった現代に必要な映画だからである。主人公の問題、母の問題、兄の、娘の、撮影スタッフの、俳優たちの問題。高額なギャランティでアメリカから招いた脳天気なイタリア系移民の俳優(ジョン・タトゥーロ)とマルゲリータは最初そりが合わなかったが、このアメリカ人スターにも彼なりに向き合い続けている問題があることがわかってくる。  それら複数の問題は、互いにからみ合い、問題の宇宙を形成している。そしてこの宇宙の中に私たち観客もまた、どっぷりと浸かっていることに気づくはずだ。危機のもとに置かれおののき続ける彼女は私たちのことであり、母親の看病のために仕事さえ辞めてしまう兄──彼も私たちである。そして最終的には、記憶が薄れ、衰弱し、死にゆく母親さえも、私たち自身の肖像にほかならない。  人間なんて、生まれて成長して、しばらく悩んだり楽しんだりしたら、もう死期が近づいてくる。実に短く、はかないものだ。でもそこには、記憶があり、愛(や憎しみさえ)があり、そして、敬意があるとき、そのはかないとも思える人間の一生が、ほのかに輝くのがわかる。
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 主人公の母親は、高校のラテン語教師だった。「ラテン語文法なんて学んで、なんの役に立つの?」と問いかける中学生の孫娘にむけて、ラテン語を学ぶことの大切さを優しく説いてみせることが、この年老いた女性の最後の仕事だ。高校の卒業生たちが母の家に何人も訪ねてきて、元ラテン語教師への敬愛の念をしゃべっていく。「先生は、私たちにとっても母だったんです」と卒業生たちが語るのを聴くのは、非常に感動的だ。この時、母親が、他人の言葉を通して、娘や息子とのあいだに築いていたものとは異なる宇宙をかいま見せているからだ。  だからといって、この映画がいっさいのストレスから解放されるわけではないことは、文頭にも書いたとおりである。あらゆる問題はまだそこにあり続け、登場人物はそれをひとつひとつ解決に努める必要がある。それはちょうど、この映画を見るために劇場に入る前に私たち観客が、ありとあらゆる問題を抱えていて、上映が終わって席を立った瞬間からふたたびそれらの問題のもとへと戻っていくのと同じように──。  人生が問題への対処の中にこそ存在すること、そしてその対処の中に真の美があることを、この『母よ、』というイタリア映画は語り、そして私たちを後押しし、私たちと共にあろうとする。  本作はフランスの映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」誌選出によるベストテンの1位を獲得した。「カイエ・デュ・シネマ」はゴダール、トリュフォー、ロメール、リヴェットら若手の映画評論家が1950年代から健筆を振るい、やがて彼らが映画作家としてデビューし、ヌーヴェルヴァーグ運動の温床となった伝説的な映画雑誌である。ナンニ・モレッティに対する「カイエ・デュ・シネマ」の支持は一貫して熱く、『親愛なる日記』(1993)、『息子の部屋』(2001)に次いで3度目の1位獲得である。
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 筆者自身、「カイエ・デュ・シネマ」の日本版(1990〜2001)の編集委員をつとめていたという浅からぬ縁もあって、「カイエ」1位作品ということで本作の試写にいささか鼻息荒く駆けつけたのだが、本作はそんな筆者の鼻息の滑稽さをも包み込み、人間的な、あまりにも人間的な、ストレスと感情のもつれ合いを力強く、いっさいの無駄なく、画面に焼きつけていた。 ■荻野洋一 番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映画論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。(ブログTwitter) ■公開情報 『母よ、』 3月12日(土)、Bunkamuraル・シネマ、新宿シネマカリテほかにて全国公開 監督:ナンニ・モレッティ 出演:マルゲリータ・ブイ、ジョン・タトゥーロ、ナンニ・モレッティ (c) Sacher Film . Fandango . Le Pacte . ARTE France Cinéma 2015 配給:キノフィルムズ 公式サイト:http://www.hahayo-movie.com/

秘密と嘘だらけの一家がなぜ共感を呼ぶのか? 『クーパー家の晩餐会』が描く家族のかたち

【リアルサウンドより】  近年、日本において一般的とされる“家族像”はそのかたちを変えつつある。電通ダイバーシティ・ラボ(以下、DDL)堀込理恵氏によると、厚生労働省が規定する、父母に子どもふたりの『標準家族』は減少傾向で、家族の事情に合わせて構成された“ユニット”のような家族形態が増えているという。この要因として、核家族化、少子高齢化に加えて、非婚や晩婚化、さらに離婚件数の増加などが挙げられている。(*1)  こうした昨今の日本の家族像は、アメリカの家族像に近づいている。サントリーによる家族に関する国際調査によると、アメリカの1996年の人口1000人当たりの離婚率は4.3と、他の先進諸国と比べても群を抜いて高い。反面、離婚により得られる夫婦間の満足度も高いとされる。そして夫婦が離婚しても、親子の関係が断絶されるわけではなく、子どもが自立した後も、感謝祭やクリスマスなどには集まるケースが少なくないという。たとえ一緒に住んでいなくても、家族としてのコミュニケーションは続くのだ。さらに、養子を積極的に迎える背景もあり、アメリカ人にとっての家族とは、血縁に規定されるものだけではなく、それぞれの事情に合わせて自らつくり上げていく傾向があるとされている。(*2)  近年、家族像を描いた映画には、邦洋を問わず、こうした背景を踏まえたリアリティのある作品が目立つ。国内のドラマでいえば『家族ノカタチ』や『お義父さんと呼ばせて』などの作品が、映画でいえば『海街diary』や『転々』などが、新たな家族像を描いている。海外映画では、ジェシー・ネルソン監督の最新作、『クーパー家の晩餐会』もそのひとつだろう。
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 知的障害を持つ父親と一人娘ルーシーとの日々を描いた代表作『I am Sam アイ・アム・サム』(脚本・製作・監督/2001年)をはじめ、妻を亡くした父娘と愛情溢れる陽気な家政婦との物語『コリーナ・コリーナ』(脚本・製作/1994年)、別れた夫の新しい恋人と余命わずかな元妻が織りなすハートフルロマン『グッドナイト・ムーン』(共同脚本/1998年)、結婚15年目を迎え、試験的に別居生活に踏み切った夫婦のラブ・ストーリー『ストーリー・オブ・ラブ』(共同脚本・製作/1999年)など、ネルソン監督はこれまで特殊な関係における“家族の絆”を描いてきたが、本作ではよりリアリティのある“どこにでもいるような家族”をモチーフにしている。しかし、この“どこにでもいるような家族”の面々は、それぞれに現代的な問題を抱えており、一筋縄ではいかない。  クーパー家の妻、シャーロット(ダイアン・キートン)は、とっくに子どもたちは巣立ち、孫がいても未だ母親という役割から卒業できない。40年連れ添った夫サム(ジョン・グッドマン)は、妻と第二の人生を歩むべく、前向きな気持ちでいるが、シャーロットは乗り気ではなく、孫にとっての祖父母、子どもにとっての両親という役割を演じるだけ。顔を合わせれば喧嘩が絶えず、とうとう2人は密かに離婚を決意する。夫妻は事実をひた隠しながらクーパー家最後の一家団らんのために、クリスマスに家族と晩餐会の約束をした。年月を重ねるほどに複雑になっていく家族関係と、年に1度のクリスマスという一家団らん。大人だからこそ本音を隠し、各々の体裁のために奔走するクーパー家の人々を中心に物語は展開していく。ここには、すでに崩壊しつつも家族であり続けようとする、昨今のアメリカの家族像が伺える。
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 ネルソン監督は、クーパー家の人物を描くにあたって、ひとりひとりのキャラクターにいま起きている出来事とともに、個々が抱える過去の重みが伝わるようにフラッシュバックの手法を取り入れ、観客が内面を感じ取れるような作品にしたという。たとえば、医師と不倫中の娘・エレノア(オリヴィア・ワイルド)も、リストラされ失業中の息子ハンク(エド・ヘルムズ)も、母・シャーロットは無邪気な子どもの頃の姿と重ねて捉えている。シャーロットの父で元教師のバッキー(アラン・アーキー)が、ダイナーのウエイトレス・ルビー(アマンダ・セイフライド)に想いを告げるシーンでは、青年時代のバッキーがオーバーラップし、その心象風景を浮き彫りにする。姉・シャーロットへのプレゼント代を惜しみ、万引きで逮捕されたエマ(マリサ・トメイ)に対してさえも、姉に憧れつづけた幼少の姿を重ねることで、羨ましさが嫉妬心へと変わったというバックボーンを描き、観客が同情できる余地を残している。  家族の全員が一見すると正しいとは言えない行いをしているのだが、しかし共感を抱けるように描かれているのは、監督が「家族の中で誰も間違っている人はいない」ことを伝えたかったからだという。ライフサイクルも価値観も異なる人間同士が、家族として歩み寄るためには、監督が伝えるようにそれぞれの立ち位置に理解を示すことが必要不可欠だろう。  しかし、それだけでうまくいくほど、人間関係というものは単純ではない。家族だから言えることもあるし、言えないこともある。本音をひた隠して集い合い、表面上の団らんを取り繕う家族の姿を通じて、本作は改めて「家族とはなにか」を問いかけてくるのだ。ユーモラスな作風に笑いつつも決して他人事には感じられないのは、本作で描かれる家族の問題が、アメリカのものだけではないからである。 <参考文献> *1:GQ今、あらためて問う“家族”の定義 *2:サントリー 家族に関する国際調査 アメリカの家族  ■内藤裕子 ライター。2004年より雑誌の編集、WEB企画、商品企画をメインに、イベント企画、総務、人事、広報を経てクリエイターのマネージメントに携わる。現在看護師として働く傍ら、写真関連のUstreamの企画構成にも携わる。 ■公開情報 『クーパー家の晩餐会』 2月19日(金) TOHOシネマズ シャンテ他にて全国順次ロードショー 監督:ジェシー・ネルソン 出演:ダイアン・キートン、ジョン・グッドマン、アマンダ・セイフライド、オリヴィア・ワイルド、アラン・アーキン、エド・ヘルムズ、マリサ・トメイ、ジューン・スキッブ、ジェイク・レイシー 配給:ギャガ (c) 2015 CBS Films Inc. All Rights Reserved.

Netflixが打ち出す中国戦略ーー『ソード・オブ・デスティニー』の狙いを読む

【リアルサウンドより】  2月26日からNetflixオリジナル映画『ソード・オブ・デスティニー』の配信が全世界でスタートした。同作はアカデミー賞4部門を受賞し200億円以上の興行収入を叩き出した武侠(※)アクション『グリーン・デスティニー』の続編である。※中華圏の武術時代劇の一種 前作が興行・賞レースともに大成功を収めた作品だけに、Netflixでの独占配信が注目を集めるのは当然のこと。  しかし、それ以上に注目すべきは、同作が中国資本(中国電影集団)が入った初のNetflixオリジナル映画という点である。勘のいい方はお気づきだろう、『ソード・オブ・デスティニー』は拡大する中国市場と世界の潜在視聴者を同時に狙った作品なのである。前作のアクション監督で、『マトリックス』以降抜群の知名度を誇るユエン・ウーピンがメガホンをとり、ハリウッドでも活躍するミシェール・ヨーがメインキャストとして再登板、さらには『ローグ・ワン: ア・スター・ウォーズ・ストーリー(原題)』で世界制覇に乗り出した‶宇宙最強″のカンフースター、ドニー・イェンの参戦からも、その狙いは明らかだ。  また、同作はNetflixが劇場公開と配信を同時に行う第二弾作品でもある。第一弾の『ビースト・オブ・ノー・ネーション』が北米劇場チェーンに上映拒否されたことは記憶に新しいが、『ソード・オブ・デスティニー』も同様にIMAXシアター12館での小規模スタート。しかし、こちらは中国で存分に成果を上げているのである。

世界戦略のため生み出された‶ウエスタン武侠アクション″

 Netflixのサービス対象である約190の国と地域に含まれていない中国では、同作は劇場のみで2月19日から公開された。同時期公開の『美人魚』が2週間で興収約466億円の異常なヒットを記録したため首位こそ逃したものの、『ソード・オブ・デスティニー』も公開直後の週末累計興収では2位の好成績でスタートしている。その後も日別で3位圏内を維持し、1週間で約35億円の累計興収を記録。製作費が約68億円とのことなので、このまま順調に推移すれば劇場だけで半分程度の予算は回収できるはずだ。  前作の興収200億円と比べればかなり厳しい数字に見えるが、Netflixにとってはそうでもない。なぜなら、同社のオリジナル映画・ドラマ製作の主な目的は劇場での回収ではなく、新規登録者の獲得とコンテンツの確保にあるからである。例えば、Netflixオリジナルドラマ『ハウス・オブ・カード 野望の階段』は約100億円を投じて製作され、結果300万人の新規会員を獲得。2017年にはシーズン5が放送される好調ぶりだ。Netflixは2016年の制作予算に約6000億円を確保し、コンテンツの制作に重きを置くことも発表している。  また、前作の言語が全編北京語だったのに対し、同作の言語は英語。制作陣も中華圏出身者がほとんどを占めていた前作から、アメリカ、オーストラリア、イギリス、ベトナムなど多様な人種のスタッフへと変更。ロケーションの一部はオーストラリアだ。くわえてウーピン監督は完成披露会見で、世界展開のために西部劇と武侠アクションを融合させたことも明言している。つまり、『ソード・オブ・デスティニー』は当初から中国以外の視聴者を獲得するための‶ウエスタン武侠アクション″を目指していたのである。

『マルコ・ポーロ』と『ソード・オブ・デスティニー』で積み重ねられるデータ

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(C) Netflix. All Rights Reserved.

 この方法論は、同じ製作総指揮=ワインスタイン兄弟、脚本=ジョン・フスコのNetflixオリジナルドラマ『マルコ・ポーロ』の成功にもとづいたものである可能性が高い。同ドラマは、シルクロードを舞台に、冒険家マルコ・ポーロや盲目の中国僧、そしてフビライ・ハーンとその一族が、全編英語セリフでカンフーアクションを繰り広げる国籍不明のカンフー活劇だ。こちらは90億円の予算で製作され、今夏にはシーズン2が配信される人気ぶり。一方の『ソード・オブ・デスティニー』も、ドニーさん演じる‶サイレントウルフ″をはじめ‶フライングブレード″‶サンダーフィスト″‶亀のマー″などいかにも欧米人が考えたアツい二つ名を持つ武侠たちが大活躍。アクションの濃度は違うものの、非常に似通ったテイストなのである。  『ソード・オブ・デスティニー』のアメリカナイズドされた作風は前作と比べて興行的に伸び悩む原因になっているのかもしれない。しかし、これを中国でのサービス開始に向けた第一歩と考えれば、Netflixにとっては成功といえるのではないか。昨年には、Netflixは中国ネットコンテンツ配信業最大手のWASUと交渉していることが報じられたばかり。2015年5月までで、中国のインターネット利用者数は約6億7,000万人(世界銀行調べ)である。仮にこの1%でも視聴すれば、毎月数百億円の視聴料がNetflixの懐に転がり込むことになる。しかも、この収益は劇場と利益を折半する必要がないのである。同作で得たデータを検閲対策やローカライズに活かせば、視聴者のパーセンテージはさらに上がることだろう。ドニー・イェンをキャストに据えた同作は、まさに‶宇宙最強″への一手なのである。 ■藤本 洋輔 京都育ちの映画好きのライター。趣味はボルダリングとパルクール(休止中)。 TRASH-UP!! などで主にアクション映画について書いています。Twitter ■ドラマ情報 『ソード・オブ・デスティニー』 Netflixにて好評ストリーミング中 (C) Netflix. All Rights Reserved. Netflix:https://www.netflix.com/jp/

中島裕翔、中島健人、山田涼介……ジャニーズの“ラブシーン”はどう描かれてきたか?

【リアルサウンドより】  ジャニーズの俳優にとって、さわやかさや可愛らしさ、あるいは瑞々しさといったイメージと同じくらい重要なのが“色気”だ。それは歌声や歌詞の内容、佇まいなどにも表れるが、時にはコンサートでセクシーな衣装を身に纏ったり、グラビアで裸体を披露したりといった直接的な表現もなされ、ファンたちを刺激的に挑発する。そして、映画やドラマなどでは“ラブシーン”を披露することもある。しかしながら、アイドルは清純さや貞潔さも同時に求められるため、その表現には絶妙なさじ加減も必要かもしれない。そこで本稿では、今年1月に公開された映画『ピンクとグレー』を中心に、ジャニーズのラブシーンの描かれ方を掘り下げたい。  二人の役者の数奇な運命を描いた映画『ピンクとグレー』では、役者として人気を博しながら人生に苦悩する主人公・白木蓮吾をHey!Say!JUMPの中島裕翔が演じ、主人公の幼なじみサリーを演じる夏帆と濃厚なベッドシーンに挑戦した。原作は、ジャニーズ唯一の小説家として活動しているNEWSの加藤シゲアキ。加藤の初めての映像化作品であることと、公開前から中島裕翔のラブシーンがあると噂されていたため、ジャニーズファンの間でも大きな反響を呼んだ。女優・杏と共演した『デート 〜恋とはどんなものかしら〜』(フジテレビ)でキスシーンを経験していた中島だが、夏帆とのベッドシーンについてはファンから賛否両論の声が上がったようだ。  『ピンクとグレー』の原作にもラブシーンを想起させる描写があり、それが映画でもそのまま再現されている。本作のラブシーンは、白木蓮吾が抱える孤独ややり場のない気持ちがピークに達していることを表現するための演出だった。中島と夏帆の匂い立つような生々しいラブシーンは、原作の持つ情念や焦燥感を伝えるうえで非常に効果的だった。加藤シゲアキは、4作目の著書『傘を持たない蟻たちは』で『ピンクとグレー』よりさらに過激な性描写をしている。2015年6月1日に放送された『NEWS ZERO』(日本テレビ)で、嵐の櫻井翔に性描写の必要性を問われた加藤は「書きたい物語に必要だっただけ」と回答し、「ジャニーズだからこその制限は必要ない」とも語っていた。ファンにとっては刺激が強すぎる面もあったようだが、その作品を描くうえで必要不可欠な要素であれば、過激なラブシーンも厭わないというジャニーズの姿勢が垣間見れる回答であり、彼らがドラマや映画といった作品に対して一俳優として真摯に向き合っていることが伺える。  ティーンに人気の学園恋愛漫画を実写化した『黒崎くんの言いなりになんてならない』では、SexyZoneの中島健人がドSの腹黒王子・黒崎晴人を演じ、小松菜奈扮する赤羽由宇を相手に”エロキュン”と称したラブシーンを披露している。中島はすでにキャバクラを舞台にした連続ドラマ『黒服物語』(テレビ朝日)で、ヒロインである佐々木希とのベッドシーンに挑戦しているため、比較的コミカルな雰囲気だった本作のラブシーンは好意的に見られているようだ。ファンの多くが10代ということもあり、やはりファンタジーを感じさせる可愛らしいラブシーンの方が、彼らとの相性は良いのかもしれない。  3月25日に公開される『暗殺教室~卒業編~』では、主人公の潮田渚を演じるHey!Say!JUMPの山田涼介が初めてキスシーンに臨んでいるようだ。『QLAP!』2016年3月号(音楽と人)のインタビューで山田は「茅野(山本舞香)とのアレは、ストーリー上、無の境地というか。そういう気持ちで演技をしたシーンでもないし……」と発言しているが、それは照れ隠しだけでなく、ファンへの配慮があったのかもしれない。初めてのラブシーンはやはり、慎重にならざるを得ないのだろう。  過去のラブシーンに目を向けると、池袋を舞台にカラーギャングの抗争を描いたドラマ『池袋ウエストゲートパーク』(TBS)でTOKIOの長瀬智也は小雪と濃厚なキスシーンを披露し、暴力団事務所に潜入する警察官が主人公の映画『土竜の唄 潜入捜査官 REIJI』で生田斗真が仲里依紗とベッドシーンに臨んでいる。さらに、ショコラティエ男子の恋愛模様を描いたドラマ『失恋ショコラティエ』(フジテレビ)では、嵐・松本潤が水原希子と入浴シーンまで披露している。現在演技派として評価されているジャニーズは過去に濃厚なラブシーンを経験しているケースが多く、役者として新たなステージ進むためのステップといえるかもしれない。また、10代から活躍するジャニーズたちは、ラブシーンを通して“大人”のイメージを獲得できるのも、重要なポイントだろう。  アイドルであるジャニーズにとっては、ひとつの挑戦といえるラブシーンだが、だからこそ多くの注目を集めるし、そこで得られるものは少なくないはずだ。今後、彼らはどんなラブシーンで物語に華を添え、我々を刺激してくれるのだろうか。 (文=小島由女) ■公開情報 『黒崎くんの言いなりになんてならない』 公開中 出演:中島健人、小松菜奈、千葉雄大、高月彩良、岸 優太、 監督:月川 翔 脚本:松田裕子 主題歌:「Make my day」Sexy Zone(PONY CANYON) 原作:マキノ『黒崎くんの言いなりになんてならない』(講談社「別冊フレンド」連載中) 企画製作:日本テレビ放送網  制作プロダクション:日活  制作協力:AOI Pro.  配給:ショウゲート (C)「黒崎くんの言いなりになんてならない」製作委員会  (C)マキノ/講談社 公式サイト:http://kurosakikun-movie.com/

『ハウス・オブ・カード』全シーズン、遂に解禁! Netflixが示したコンテンツホルダーのあるべき姿

【リアルサウンドより】  昨年9月に日本でサービスをスタートさせたNetflix。数々のオリジナル作品をはじめとする充実したラインナップ、快適なインターフェイス、視聴者に最適な作品をリコメンドする優れたアルゴリズムなどなど、その圧倒的実力は確実に日本のユーザーに浸透してきているが、一つだけ大きな問題を抱えていた。2013年に本国で配信が開始されて以来、エミー賞、ゴールデングローブ賞など数々の賞に輝き、「ブレイキング・バッド」(AMC製作。現在Netflixでも全シーズン配信中)とともに2010年代の新たな世界的ドラマブームを牽引してきた、Netflixオリジナル作品の中でも最大の目玉であったはずの『ハウス・オブ・カード』がそのラインナップに入っていなかったのだ。  そもそも、日本の外国映画/海外ドラマ・ファンの多くがNetflixという会社の名前を初めて意識するようになったのは、『ハウス・オブ・カード』がきっかけだった。今から5年前の2011年、デヴィッド・フィンチャー監督が『セブン』以来の盟友ケヴィン・スペイシーを起用した新作でテレビドラマ界に参入を発表。今でこそハリウッドのトップ・ディレクターやトップ・アクターを起用したテレビドラマは珍しいことではなくなったが、その決定的な流れを作ったのが、映像界にたくさんの信奉者がいるこのフィンチャーの決断だった。そしてもう一つ。そこでフィンチャーが選んだのが既存のネットワーク局やケーブル局ではなく、新興の映像配信サービスであるNetflixであったことは、本格的にテレビがネット配信の時代に入った歴史的転換点として世界的に大きなニュースとなった。  2013年2月にシーズン1(エピソード1と2はフィンチャー自らが監督。その後は現在までエグゼクティブ・プロデューサーを務めている)が配信されると、その圧倒的なおもしろさとフィンチャー基準の超絶映像クオリティはもとより、配信開始日に最終話まですべてのエピソードが配信されたことによって、部屋にずっと引きこもって最後まで見る人が続出したことも話題となった。これも、Netflixでは今やお馴染みのやり方だが、当時は人々の視聴スタイルに革命をもたらした大事件だったのだ。  ところで、当時まだNetflixが参入してなかった日本で、我々(というか自分)はどのように『ハウス・オブ・カード』と接してきたのか? 今振り返ると涙ぐましい話だが、本国での配信開始から半年以上遅れてBSの有料映画専門局でシーズン1の放送が決定して、毎週新しいエピソードの放送を首を長くして待つというオールドスクールな視聴スタイルを強いられた時は、それでも狂喜乱舞したものだった。翌年ソフトで発売された時も「デヴィッド・フィンチャー完全監修パッケージ仕様」という言葉に踊らされて即座に入手した。同じパターンで、シーズン2も約半年遅れの放送、その後ソフトでもリリースされた。それが2014年秋のこと。しかし、そこから約1年半、シーズン1と2の再放送や他のサービス会社での配信などはあったものの、新しい動きはピタリと止まってしまった。2015年2月には、世界中でシーズン3が配信されていたにもかかわらずだ。  細かい権利関係などの話は複雑なので省略するが、要するに、2015年に入ってNetflixの日本参入が決定した時点で、それまで『ハウス・オブ・カード』の世界配給の権利を持っていたSONY PICTURES TELEVISION(日本ではソニー・ピクチャーズエンタテインメント)がシーズン3の日本での放送やソフトのリリースを丸々1年間、塩漬けにしてしまっていたのだ。そこにはいろいろな大人の事情がからんでいるのだろうし、テレビ部門においては支社でしかない日本のソニー・ピクチャーズエンタテインメントではどうにもならない理由があったのかもしれない。しかし、だ。同社は『ブレイキング・バッド』でもまったく同じように3年間以上(!)にもわたって権利を塩漬けしていたのだ。日本でも海外ドラマのファンは着々と増え続けているが、それが現時点まで爆発的には増加していない元凶の一つがそこにあったと指摘せざるを得ない。ネットで情報があっという間に世界同時に共有される現代において、このようなコンテンツの塩漬けは熱心な映画/ドラマ・ファンからの不信と憤りを買うだけだということを、各コンテンツホルダーはそろそろ理解するべきだろう。  2016年3月4日は、世界中が待ち望んでいた『ハウス・オブ・カード』シーズン4の配信開始日だった。Netflixのサービスが日本で始まってから、新しいシーズンの初めての解禁日。きっと何か動きがあるに違いないと期待していたが、日本のNetflixはその期待をはるかに超える最善の対応をしてくれた。シーズン4、全エピソード全世界同時配信。さらには、これまで日本ではどこでも見ることのできなかったシーズン3を含む、シーズン1からシーズン4までの全シーズンを同時配信。シーズン4の世界同時配信は予定通りだったとはいえ、Netflixオリジナル作品にもかかわらず本国での配信時期の都合で権利を持っていなかったシーズン3までの配信を実現するには、様々な困難な調整が必要だったに違いない。今回、Netflixはコンテンツホルダーとしての矜持を、これ以上ないかたちで真摯に示してくれた。 ■宇野維正 音楽・映画ジャーナリスト。「リアルサウンド映画部」主筆。「MUSICA」「クイック・ジャパン」「装苑」「GLOW」「NAVI CARS」ほかで批評/コラム/対談を連載中。著書『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書)発売中。Twitter ■作品情報 『ハウス・オブ・カード 野望の階段』 監督:デヴィッド・フィンチャー 出演:ケヴィン・スペイシー、ロビン・ライト、ケイト・マーラほか Netflix:https://www.netflix.com/jp/ (C)Netflix. All Rights Reserved.

『ヘイトフル・エイト』は何を告発するのか? タランティーノ最高傑作が描くアメリカの闇

【リアルサウンドより】  「恐らく、これは俺の最高傑作と言えるだろう」   南北戦争終結後のアメリカ、冬の山岳地帯の山小屋を舞台にした密室殺人ミステリー西部劇『ヘイトフル・エイト』 についての、タランティーノ監督自身の発言である。この変則的とも思われる題材の作品が、なぜ彼の「最高傑作」と言えるのだろうか。  クエンティン・タランティーノは弱冠31歳にして撮った『パルプ・フィクション』で、カンヌ映画祭最高賞(パルム・ドール)を獲得し、「映画界の寵児」と呼ばれた、紛れもない天才監督である。いわゆるB級映画を中心とした、自分の愛する映画作品の引用を駆使し、時系列を組み換えながら構成する『パルプ・フィクション』が、まずフランスで大きく評価されたというのは必然的かもしれない。既製品を利用し、全く別の意味に昇華させてしまう芸術分野の手法を、最も的確に映画作品で成功させ、タランティーノ自身もファンだというジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』がそうであるように、この作品は、いまだに同時代や後進の映像作家達が、程度の差こそあれ、嫌でもその作風を意識せざるを得ないという呪縛を作り上げたのである。  『パルプ・フィクション』一作によって、アートフィルムの頂点を極めたタランティーノだが、それ以降、その突出した作風は段階的に抑えられていき、最も実験的だった『デス・プルーフ』が興行的に失敗すると、『イングロリアス・バスターズ』、『ジャンゴ 繋がれざる者』などで、映画に対する俯瞰的なスタイルを弱め、今まで引用していたはずのB級作品そのものに接近していったといえるだろう。本作『ヘイトフル・エイト』でも、既製の楽曲ばかりをコラージュするのでなく、マカロニ・ウエスタン音楽の「本物」の巨匠でもあるエンニオ・モリコーネに、オリジナルスコアを依頼している。タランティーノは若い頃に、サム・ペキンパー監督の『ワイルドバンチ』、ジョン・ブアマン監督の『脱出』という二本立てを観て衝撃を受けたという。このような鮮烈な劇場体験が、彼の原点にあるのだ。そこに描かれた、研ぎ澄まされた緊迫感とヴァイオレンス、アメリカ社会に対する問題意識など、映画本来の興奮へのあこがれが、本格派に進もうとする彼を突き動かしてきたといえるだろう。
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 ゴダール同様、自宅に映画館並みの上映設備を所有しているタランティーノは、『ヘイトフル・エイト』で、さらなる「映画ならでは」の興奮を求めて、映画の上映形式が最も爛熟した時代にさかのぼろうとする。それが"Ultra Panavision 70"という、今までに10作しか撮られていないという、視界全てを席巻する規格の使用である。しかし本作の、舞台劇のような密室でのシーンばかりの撮影に、そのような大掛かりな撮影方法が必要だったのかという声は多い。  この形式で撮られた1962年の超大作に『西部開拓史』という、当代一流の映画監督達や出演陣を集結させた、西部劇映画最大の作品がある。この映画は未曾有のスケールで、アメリカの大地と山河を、人々の生活と冒険を、そして南北戦争の情景を、ときに美しく、ときに残酷に写しとっている。本作『ヘイトフル・エイト』の劇中では、舞台となる室内を、北軍側と南軍側に分けて地名に見立てるシーンがある。それに呼応するかのように、70mmで撮られる室内の映像は、小さなセットを撮っているはずなのに、フォーカス外の極端な映像のボケと横長の画面によって、凄まじいまでの遠近感を感じる映像になっている。まさに『西部開拓史』の大地や山河のようにである。つまり、ここでの山小屋の室内は、セリフの上で「アメリカ」として表現され、またアメリカそのものとして撮影されているということが理解できる。カメラが部屋の一方に向くたびに、アメリカのひとつの風景を描いているということになるのだ。そしてアメリカに様々な人種や立場が存在するように、室内では、黒人を忌み嫌う南部の白人、その南部人をあざ笑う北軍側の元軍人など、複数の人種や立場に置かれた罪深い者達が、互いを偏見の目で見つめ、敵意をぶつけ合い、武器を奪い合い、つかの間交流をするのである。
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美術監督・種田陽平によるミニーの紳士服飾店図面(c)Copyright MMXV Visiona Romantica, Inc. All rights reserved.

 本作の山小屋を構築する横軸が「アメリカの地理」であるならば、縦軸は「アメリカの歴史」になるだろう。いつにも増してスーパーバッドな役柄のサミュエル・L・ジャクソンが、二挺拳銃による「無情撃ち」を披露し、血や肉を飛び散らせる銃撃シーンは、爽快感を超えてスプラッター的である。そこで起こる暴力的な出来事は、そのままアメリカで起こった、陰惨な暴力と復讐の歴史として描かれ、次第に明かされていく事件の真相部分では、先住民を迫害し土地を奪ったという、アメリカ合衆国のそもそものルーツまで暗示している。『ヘイトフル・エイト』が描いたものは、腐りきったアメリカの状況そのものであり、腐りきった暴力の歴史そのものである。ナチスドイツや奴隷商人達を批判してきたタランティーノは、今までの演出スタイルを応用し、ここではアメリカ全てをひっくるめて告発しているということになるだろう。こんな描き方で、アメリカの恥部を大きく語りきってしまう途方も無い娯楽作品が、かつてあっただろうか。ここに至って、タランティーノが本作を「最高傑作」と表現する意味が理解できてくる。  なかでも凄まじいのは女性に対する暴力だ。賞金稼ぎと手錠で繋がれ、ことあるごとに殴られ続ける賞金首の女の姿は、男性優位社会のなかで結婚制度により男に繋がれなければならなかった、自主性を剥奪される女性の歴史の比喩となっているだろう。また、古い価値観の映画や文学のなかで、女は、男の都合良い目線による隷属的な存在として、もしくは男を悪の道に誘う悪魔として描かれてきた。だが、彼女はどんなに虐げられようと絶対に媚びようとしない。罪の無い者を殺戮してきたであろう悪党だが、悪党なりに尊厳を守りきるという痛快さを見せる。本作では、背後の美術を利用して、彼女の背に翼が生え、天使のように見える象徴的な姿が一瞬、映される。あらゆる陰惨な仕打ちが与えられ、悪魔として扱われた女であるからこそ、彼女は演出の中で祝福され、浄化されるのである。『ヘイトフル・エイト』が、悪魔的に絶望と退廃を描きながら、どこか暖かさを感じるのは、このような優しいまなざしが存在するからだ。  最後に、劇中に登場する「リンカーンの手紙」について考えたい。20世紀アメリカで黒人文学の先駆者として知られ、「ブラックパワー」という言葉を作った黒人作家、リチャード・ライトは、ミシシッピの公立図書館で本を借りるとき、白人が書いたように見せかけた自作の紹介文を図書館司書にいちいち渡して、本を借りていたという。この「白人による紹介文」は、ある時代まで、アメリカのごく一部の黒人にとっての生きる知恵だった。本作に登場する手紙の中で捏造されるリンカーンの高潔な人物像は、真実の姿ではないのかもしれない。だが、キリストの人物像が分からなくとも、その教義が人々に信仰されているように、ここでのリンカーンの慈愛に満ちた人間性は、それが勝手に理想化された姿であるからこそ、アメリカという、血にまみれた地獄の窯のなかで最後に残った、かすかな希望として輝くのである。(小野寺系(k.onodera))

清水尋也、濱田龍臣……勢いのある“現役高校生”のイケメン俳優たち

【リアルサウンドより】  山崎賢人や野村周平、菅田将暉など、現在第一線で活躍しているイケメン俳優の多くは、そのキャリアを中高生の頃から開始している。成長過程の初々しい少年たちは、芸能界で数年磨かれた後に、20代でひとつのピークを迎えるのだ。そこで本稿では、明日の映画・ドラマ界を担う現役高校生のイケメン俳優にスポットを当て、それぞれの魅力を探りたい。

中川大志

 現役高校生俳優の中でも頭ひとつ抜けた活躍を見せている中川大志。2009年、人物ドキュメンタリードラマ『わたしが子どもだったころ』(NHK)で俳優・沢村一樹の幼少時代を演じたことから役者としてのキャリアをスタート。その後、当時社会現象にもなったドラマ『家政婦のミタ』(日本テレビ)で、松嶋菜々子扮する三田灯が家政婦として勤める阿須田家の長男役を演じ、一躍注目を集める。等身大の学生役はもちろん、2015年はPCゲーム原作のホラー映画『青鬼 ver2.0』ではクリーチャー青鬼と戦うクールな高校生・ひろし役、コミック原作のドラマ『監獄学園-プリズンスクール-』(TBS)ではスケベだが類稀なるリーダーシップを持つ高校生・藤野清志役、三谷幸喜が手掛ける大河ドラマ『真田丸』(NHK)では豊臣秀吉の息子・秀頼役を演じるなど、リアリティのある役からコミカルな役まで、幅広く演じている。『青鬼 ver2.0』出演の際に受けたインタビューでは、目指す演技について、「“ウソじゃない演技”ですかね。芝居することって基本的には“ウソ”なんですけど、台本にあるセリフや動きをどれだけ真実味のあるものにできるかって、すごく大事だと思うんです」(参考:中川大志インタビュー『目指すのは“ウソじゃない演技”』)と語る中川。芝居に対する真摯な姿勢は、いずれ実力派として評価されることにつながるのではないか。2016年には、アニメ化もされた大ヒット少年漫画『四月は君の嘘』で、主人公の親友・渡亮太役を演じることが決まっている。

清水尋也

 現在16歳の清水尋也は、競技かるたを題材にした青春映画『ちはやふる』に出演が決まっている。主人公の綾瀬千早(広瀬すず)と敵対する競技かるた部の部長であり、毒舌が特徴の須藤暁人役を演じる。清水尋也を一躍有名にした作品といえば、高校を舞台としたサスペンス映画『乾き。』だ。壮絶ないじめにあうボク役を務め、主人公の加奈子(小松菜奈)の影響で精神が壊れていく男子生徒を熱演した。一方、同く学校が舞台で校内裁判を題材にした映画『ソロモン偽証』ではクラスメイトをいじめる問題児役を好演し、その演技の振り幅の大きさを高く評価された。前述した中川大志とは対照的に、心に狂気を宿す役や内省的な役を演じることで役者としての存在感を示すタイプで、現在ブレイク中の俳優でいうと、染谷将太のようなポジションを狙えそうだ。

濱田龍臣

 坂本龍馬が主人公の大河ドラマ『龍馬伝』(NHK)で福山雅治扮する坂本龍馬の幼少期を演じた濱田龍臣。トイレ掃除製品「豆ピカ」のCMや嵐の大野智が主演を務めたドラマ『怪物くん』(日本テレビ)の市川ヒロシ役など、愛くるしい演技でお茶の間に癒しを与えていた印象だが、現在15歳で2016年の4月には高校入学を控えている。端正で甘めのビジュアルはそのままに、所属事務所発表の身長は175cmと長身で、千葉雄大や向井理が並ぶクリーミー系イケメン俳優の資質も備えている。子役卒業後もコンスタントにドラマや映画に出演するものの、まだ脚光を浴びる作品には出会えていないようだが、これまでに培った演技力と天性のビジュアルを活かし、今後は学校を舞台とする作品への出演が増えていくのではないだろうか。

北村匠海

 ダンスロックバンド「DISH//」のメンバーの北村匠海は、歌手でありながら俳優としての活動も精力的に行っている現役高校生のひとりだ。小栗旬主演の『信長協奏曲』(フジテレビ)、橋本環奈主演の『セーラー服と機関銃-卒業-』の出演に続き、水田伸生監督作『あやしい彼女』では、主演の多部未華子扮する大鳥節子(瀬山カツ)の孫・瀬山翼役を務め、バンドマンとして多部と一緒に歌を披露している。若者たちの欲望と狂気を描く映画『ディストラクション・ベイビーズ』では、柳楽優弥、菅田将暉、村上虹郎、池松壮亮ら注目株に並び、北村が健二役として抜擢された。黒猫チェルシーの渡辺大知やドラマーの中村達也、RIZEの金子ノブアキなど、アーティストでありながら俳優としても活躍する例は多い。その独特のオーラでカリスマ的な人気を獲得する日も近そうだ。  ほかにも、萩原利久や井上稀翔、福山康平など、現役高校生ながら活躍中の俳優は少なくない。彼らが大役を射止め、スクリーンで輝く日を待ちたい。 (文=泉夏音)

ディカプリオ、悲願のアカデミー主演男優賞を手にした理由 “逆境”と“家族愛”で新境地へ

【リアルサウンドより】  かつて「アカデミー賞が欲しくない俳優なんかいない」と豪語したレオナルド・ディカプリオが、自身5度目のノミネートにして遂に『レヴェナント:蘇りし者』でアカデミー賞主演男優賞に輝いた。  本年のアカデミー賞主演部門にノミネートされた俳優陣が、それぞれ演じた役柄の多くに共通している点に、“逆境”そして“家族愛”という事が挙げられる。  昨年の覇者で、本年も『リリーのすべて』で女装姿(保守的と言われるアカデミー会員たちだが、なぜか女装や男装の俳優を選出することには抵抗が無い)を披露し、世間の逆境に耐えた役柄を演じたエディ・レッドメインや、一人ぼっちで火星に取り残されたパイロットという逆境に耐えた『オデッセイ』のマット・デイモン。ハリウッドのレッド・パージによって、脚本家生命を断たれた名脚本家ダルトン・トランボを演じたブライアン・クランストンもその逆境に苦悩する姿を『Trumbo/トランボ』で披露した。アップルの創設者スティーブ・ジョブズを熱演した『スティーブ・ジョブズ』のマイケル・ファスベンダーも、周りのスタッフとの軋轢に耐え、成功していく中で、実の娘との確執に悩む姿を好演した。どの男優が選出されてもおかしくない状況で、見事に勝ち残ったのがディカプリオだったのである。  主演女優賞では女性同士の同性愛を描いた『キャロル』のケイト・ブランシェットが有力とされていたが、やはり保守的なアカデミー会員は『ルーム』のブリー・ラーソンを選んだ。7年間にわたり監禁されていた母子の数奇な人生を描いた同作で、ラーソンが演じた母親が逆境に耐える姿を体当たりで演技した事が、正当に評価された結果となった。  また助演女優賞には、世界で初めて女性に性別移行した男性を描く『リリーのすべて』で、夫を献身的に支える妻を演じたアリシア・ヴィカンダーを選出。助演男優賞は『クリード チャンプを継ぐ男』のシルベスター・スタローンを落とし、下馬評通り他の映画賞を席巻していた『ブリッジ・オブ・スパイ』のマーク・ライランスが獲得という結果に終わった。ボイコット運動を呼んだ人種差別問題や、LGBTを描いた作品を冷遇してきたことから、非難を浴びていたアカデミー会員が、サプライズや一つの作品に独占させず、全体的にバランスの良い順当で無難な結果を選んだのかもしれない。  そんな今年のアカデミー賞で、ディカプリオに初のオスカーをもたらした『レヴェナント:蘇りし者』は、野生の熊に襲われ重傷を負ったまま、仲間に見捨てられ、極寒の荒野を彷徨った実在の男の復讐劇であり、アメリカ建国の歴史の中でも重要な実話として広く知られている。そして同じ題材がリチャード・C・サラフィアン監督によって『荒野に生きる』として過去に一度映画化もされていた。  今回の映画化に際しては、愛する息子を無下に殺された父という設定を新たに加え、愛するものを奪われた父親の復讐という、実話以上に過酷な設定を加えているのが特徴で、単なるリメイク作品とは一線を画している。  冒頭から、ネイティヴ・アメリカンとの凄まじい戦闘シーンをほぼワンカットでまとめ上げるという驚異の映像を作り上げたアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督の確かな演出と、自然光だけで全編を撮影し撮影賞に輝いたエマニュエル・ルベツキの見事な映像美。そこから生まれた、アカデミー賞に相応しい壮大なスケールで描かれたシンプルなストーリーは、主人公の置かれた逆境を更に際立たせた。  凶暴な熊の襲撃により喉を切り裂かれ、言葉もまともに発せず、文字通りボロ雑巾のようになりながらも、裏切り者の仲間を追い詰めていくディカプリオの鬼気迫る姿。加えて、ネイティブ・アメリカンの妻を亡くし、愛する息子を仲間に惨殺され、守るべき家族を守り切れなかった哀しみを帯びた感情の爆発が、いつもはアカデミー賞を意識するあまり過剰になりがちな演技と見事に合致し、初のアカデミー主演男優賞受賞に繋がったのだ。  若干19歳で初めてオスカーにノミネートされ、それをきっかけに破竹の勢いでハリウッドスターへの階段を上っていったディカプリオが、これまでアカデミー賞から冷遇されてきた理由、それはやはり賞を意識しすぎた点にあると思う。
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(c)2016 Twentieth Century Fox

 狂気じみた迫力の演技で圧倒させた『アビエイター』、言葉巧みに投資家をだまし、巨万の富を得た若き株式仲介人を軽妙に演じた『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』には共通している点がある。それは(アカデミー賞ノミネートに至らなかった出演作品にも共通することだが)ディカプリオの演技に力が入りすぎているという事だ。心の病を抱えた主人公を、眉間に皺を寄せながら演じた前者はともかく、後者に於いてはコメディ色の強いストーリーにも関わらず、演技に力が入りすぎている。上映時間の長さも観客の体力を消耗させたが、ディカプリオの演技の力み具合が、実話ベースのコメディとしての軽さを消し去ってしまった。  『レヴェナント:蘇えりし者』で“愛する息子を失った父親”という役柄を演じ、見事に俳優としての幅を広げる事に成功したディカプリオ。アカデミー賞を受賞したことが単純に俳優としての成功に繋がらないハリウッドで、今後どういう立ち振る舞いをみせていくのかが、彼に残された次の課題だ。 ■鶴巻忠弘 映画ライター 1969年生まれ。ノストラダムスの大予言を信じて1999年からフリーのライターとして活動開始。予言が外れた今も活動中。『2001年宇宙の旅』をテアトル東京のシネラマで観た事と、『ワイルドバンチ』70mm版をLAのシネラマドームで観た事を心の糧にしている残念な中年(苦笑)。 ■公開情報 『レヴェナント:蘇えりし者』 4月22日(金)TOHOシネマズ 日劇ほか 全国ロードショー 配給:20世紀フォックス映画 (c)2016 Twentieth Century Fox (c)Getty Images

菊地成孔の『知らない、ふたり』評:自他ともに認め「ない」が正解であろう、「日本のホン・サンス」の奇妙な意欲作

【リアルサウンドより】

あなたが褒めているつもりでも虐待に成り得る

 「集団的な期待」や「ラベリング」は、程度にもよりますが端的に虐待です。この虐待で、完全に破壊されてしまったのが、「映画監督としての松本人志」であることは言うまでもないでしょう。詳しくは拙著「ユングのサウンドトラック」をご参照くださると幸いです。  「ラベリング」は、よしんばそれが(1)客観的に正しく、(2)善意的な物であろうと、これも程度によりますが、虐待に成り得ります。最新作『グランドフィナーレ』が待機中のパオロ・ソレンティーノは世界中で「現代のフェリーニ」と称されまくっていますが、少なくとも『グランドフィナーレ』を『8 1/2』と比して観ようとする限り、46歳という「若造」の才能へは虐待が行われている。という事になります(恐ろしいのは、ソレンティーノ自身にも、「そっちにリーディングしたい色気」が若干認められ、これはつまり「虐待を欲しがる」という、凄まじい現代製だとも言えますが、別の機会に)。  ワタシは自分がアーティストでもあるのでよく解る、、、と書こうとしたのですが、ナンセンスでしたね。よしんばアーティストでなくとも、今や誰もがSNSで自分を発信し、批評され、批評し、というダンゴ状態の時代なので、集団的な虐待の話はどなたでも多少なりともご理解頂けると思います。  毎度毎度不勉強ながら(というか、それがこの連載のフォームなのですが)、ワタシはこの、若き日本人監督の事を存じあげませんでしたし、作品を拝見したのはこれが最初ですが、今泉監督の事を「日本のホン・サンス」と、たったの一度でも書いたり口にしたりした人々は、土下座して悔い改め、データが残っていたら即刻削除せよ、とまでは言わないものの、自分の迂闊さ、もしくは物を見る目が無いのに軽はずみに発言する習慣によって、若き(若くなくても)才能を虐待によって潰してしまう可能性がある事、そして、そのツケは自分にも回って来るのだという事をよく自覚して頂きたい。しつこいようですが、「貶してないんだからいいじゃん」「表現は自由だろ」は保育園児の倫理上限です。保育士は永遠にTL上に現れません。  「自他ともに認める」という日本語は非常に良く出来ていて、フロイドで言うならば「抵抗」という概念がある。正鵠を射抜く、正しい指摘こそ、人間をして必死の否定を導きますので、もし、今泉監督が実際にホン・サンスを敬愛していて、そう目されるべく日々努力しているとしても、あるいは全く逆に、「ホンサンス呼ばわりマジ勘弁して欲しいよな~」と、苦汁を飲む日々だとしても、「あなたは日本のホン・サンスだね」の答えはどちらも「ノー」になります。  問題は、ではフロイド的な抵抗と別に、実際問題、意識的にも無意識的にも今泉監督はホン・サンスなのか?という客観的事実ですが、ワタシの私見では、少なくとも本作『知らない、ふたり』を観る限りにおいては、今泉監督とホン・サンスは似ても似つかない、全く別の作風です(優劣ではなく)。  面識が無いのは言うまでもなく、インタビューした事も、インタビュー記事も読んだ事が無いまま(例によって、そんなもん検索すれば一発なのでしょうが、ワタシはワタシの流儀によって、それはしません)推測を書きますが、おそらく今泉監督は苦しんでいる筈です。

とはいえ、安易なラベリングをしないと落ち着かない、即ち愚者は、ちょっとのフックに引っかかるし、どんなもんでも餌にするので(あるいは自爆)

 でも、仕方が無い側面もあります。「<上手く行かない恋愛群像>を、淡々と撮る、人間の生態を昆虫のそれのように観察する系(エリック・ロメール直系)」と、紋切り型に切って落としてしまえば、「日本のホン・サンス」は簡単に誕生します。  しかも本作は、ホン・サンス2014年の作品『自由が丘で』と、鏡面構造を持っています(後述の通り、やや歪んだ鏡面ですが)。これが、「ラベリングに苦しみ抜いた果てに、突破的なヤケクソで、むしろラベリングへのミスリードを積極的にしてしまう」という、正にフロイド的な自爆でないことを祈ります。  『自由が丘で』は、ホン・サンスの熱烈なファンである日本人俳優、加瀬亮氏が主演し、氏が別れた恋人をさがしに韓国に渡る話で、設定上加瀬氏は韓国語を話しませんが、作品の中では、韓国語、日本語、英語が飛び交います(「ソウルに居着いたアメリカ人ヒッピーが英語で話していると、いきなり流暢な韓国語になる」という実に現代的なショックも入っています)。  一方『知らない、ふたり』では、3人の韓国人が東京で働いています。そして、作品中、やはり日本語と韓国語が飛び交います。テーマはどちらも恋愛で、どちらも日韓人の政治的、文化的な緊張のようなものは、まるでこの世に存在しないぐらいに描かれません。  とはいえ、しつこいようですが、ワタシには、ワタシの祈り虚しく、本作はホン・サンス扱いに嫌気がさした今泉監督が、苦しみ果て、自爆的にミスリードした、あるいは、「敢えて似た題材を扱う事で、むしろバイブスもロジックも全く違うのだということを際立たせようとした」のかも知れません。

と、その上で、正直書くのはマジ辛いのですが

 ワタシは本作から、ほとんど感動を受けませんでした。そして、その事に関して、申し訳なさと悲しみがあります。因にワタシは、ホン・サンスの熱狂的と言って良いファンで、ほぼ全作観ており、日本では全然セールスの低い彼の作品の旗ふり業さえもやっている身ですが、「こんなもんが(俺の大好きな)ホン・サンスと一緒にされてんのかよ。ざけんじゃねーよ」という意味では全くありません。この点は注意して下さい。  「申し訳なさ」も「悲しみ」も、どちらも、53歳であるワタシが、まだ30代であり、その事が等身大で作風に反映されていると思しき今泉監督の作品の芯が食えない、芯の食い方も解らないのではないか自分は?という、ジェネレイションギャップと、後は年齢とも無関係なセンスですね。何れにせよ「ああ、自分はこの映画とすれ違っているなあ」という思い、それは、皮肉にも、本作の登場人物達の恋のすれ違いに、ほぼ等身大ではないかと思われるほどです。  しかも、そうした状態を、売文業の糧として語らなくてはならないとき、これはワタシのみならず、どなただって「いやあ申し訳ないなあ」「いやあ悲しいなあ。歳くっちゃったのかなあ俺も」という感覚をお持ちに成る筈です。

スリップ(大変失礼)

 (ややスリップしますが、『セッション』のような映画は、ワタシと「すれ違い、理解しあえない」関係ではないのです。ワタシは奴(セッション)の事が、物凄くよくわかるのです。ああいったゲスな脱法ハーブをやべえやべえ言って喜ぶ重症者が山ほどいるであろうことを。なので、安心して楽しみながらボロカスに書ける訳です。それにしても「菊地はジャズミュージシャンとして、あの作品の音楽考証にケチ付けてるだけ(一般ユーザーには関係ない)」という、町山氏の(かなり)程度の低いランディングに疑問無く乗ってしまえる人々は文盲もしくは読解力に機能不全、もしくは町山氏を神格に置いているとしか思えず、事は(複合的に)結構深刻だと思っています)

申し訳なさと悲しみの再開

 ワタシにとっての『知らない、ふたり』は、「とうとう最後まで、良さが全然解らなかった」という点での、久々の巨大物件ともいえます。本当に申し訳ない。本当に悲しい。この事を、最初に正直に申し上げてから、本作に対し、可能な限りの誠意を尽くそうと思います。

そもそも、この作品のマーケットはどこにあるのか?(トップアイドルが出ているという事実により)

 実際におカネを出しているのは、クラウドファウンドでも制作委員会でもなく、何と日活で、そういう意味では「日活カラー」というか、まあこれは情報に影響されてしまっている効果かもしれませんが、微妙な「日活映画の匂い」が感じられなくもないのですが、これはやはり、登場する3人の韓国人が皆、大変なアイドルで、おいそれとは映画に出演して貰える様な人々ではないからでしょう。  何でもタコ壷化している現在、中でも大韓民国のカルチャーというのは、愛好家専用度が他の物のアヴェレイジを遥かに超えている「巨大で堅牢な閉鎖市場」であり、「<NU’EST>のメンバーは新人とはいえ韓国の大スターで、Facebook登録者も200万人突破している。日本で公演をしたら東京ドームに出るレベルの人たちです」と書いても、韓流タコ壷の外に居る方には「ふーん」「へー」という感じでしょう。  だから、考えようによっては、本作は、めちゃくちゃアイドル映画とも言える。韓国では所謂K-POPスターが映画やテレビドラマで達者な演技を見せる事が、日本より遥かに一般的だとはいえ、やはり「キスマイ(ジャニーズの)から3人が韓国の映画に、しかも、すげえ地味な恋愛群像劇に出た」と言われたら、ザワつくのは止められないですよね。  「アイドル映画」という指摘は、拡大解釈すれば、本作のそこかしこに証拠が散逸しています。NU’ESTの主要メンバーである彼等3人は、良く勉強し、カタコトではありますが日本語を話します。しかしそれ以上に、彼等を取り巻く4人の日本人のうち、3人は劇中で(様々な設定により)韓国語をしゃべります。韓国語を喋らない日本人は1人だけですが(ネタバレしない為に詳しい説明は省くとして)、その人の奥さんは韓国語の先生だからペラペラです。  NU’ESTペン(「ファン」のこと)が、様々な方法によって、本作を観たと、その時、字幕無しでもほとんどストーリーが追えるでしょう。  そしてこれが、どうしても「(アイドルである彼等への)接待」に見えてしまう。映画という世界で「接待」されるのは、超大物かアイドルだけです。加瀬亮さんは『自由が丘で』の中で、日本語による「接待」は(いうまでもなく)全く受けません。  そして、非常に美しいルックスの彼等に対し、例えばカメラが、全く素っ気なく、「まるで誰だか解らない様に」撮っていたとしたら、これはアイドル映画ではないな、、、という気概を感じるのですが、何カットか、まるでアイドル映画のパロディの様な「ボカしのかかったキラキラ画面に大アップ」がありますし、日本の安アパートの、せまいステンレス風呂に入るシーン、つまりサービスショットもあります。色気が出ちゃってる訳よね。  日韓双方のNU’ESTペン(=ファン)だけでも大変な人数です。本作は巨大マーケットによるほぼ無条件な興収を約束されているような物なのでしょうか?それとも、木村拓哉さんが、監督に惚れ込んで自ら志願して主演した、ウォン・カーウァイの『2046』のように、「そう簡単には行かないんだよね」物件なのでしょうか?実際はどうなんでしょう?全く読めないです。  既に1月から全国で縦断ロードショーしている最中ですが、作品を2回観、こうして書いているワタシも、今泉監督の意図も、それに対する観客の反応も全く推測がつきません。一番美形である「レオン(NU’ESTでは「キュート担当」)」は、毎日、手製の塩むすびを弁当として作り、公園で食べるのですが「ひー!レン様(微妙ですが、レンが本名で、レオンが訳名)のあのおむすび!匂いだけでも嗅ぎてーー!!一粒でも喰ったらキュン死するわ危険よ!!」と失神する人が続出するのでしょうか、或はワタシの様に「革製品のリフォームを仕事にしている(つまり、ワックスや靴墨を日常的に手のひらに塗っている)人の握る塩むすび。というのは、一見、吐きそうに成るけど、何かの象徴的表現なのだろうな」と思うシネフィルさんのがちょっと多かったりするのでしょうか?

下部構造の話(映画に於ける金の流れ)

 ストーリー的にはすごくシンプルで、何人かの人間をある狭い環境の中に置いて、そこでくっついたり離れたり、誰かが誰かを好きになったりすることを描いている。7人登場しているのに、あえてタイトルを『知らない、ふたり』としているのは、恋愛でタイマンになると、あっというまに、人はお互いを「知らない人」にしてしまう。そういうことを言っているのだと思います。  AはBを好きで、BはCを好きだけど、みんな気付かずに男と女がすれ違っていく、と。そういうのは、前述の「エリック・ロメール直系」ともいえ、よくある話で別に悪くないのですが、こんなに味も素っ気もない物語になるのかと、ちょっと唖然としてしまいました。  この作品を語るうえではどうしても避けて通れないので&本稿読者のホン・サンスに対するリテラシーを推測するに、比較してしまわざるを得ないのですが、役者の起用の仕方、とギャラのありかたを見てみます。ホン・サンスの映画というのは、韓国ではものすごい有名な俳優ばっかり出てきて、それを全員一律ノーギャラで起用する事で有名です。ホン・サンスの映画に出るのだったら、その名誉だけで十分ということですね。日本人俳優としては超一流である加瀬亮さんも、恐らくノーギャラです。  まあ、こんな監督は唯一無二なので、比較してちがうちがう言うのも詮無い話しですが、たとえば、本作の主要キャストの1人である青柳文子さんという方も、不勉強ながらワタシ本作ではじめて知ったんですけれど、青文字系のモデルで、トレンディな若い人というか、女優としての可能性をすごく持っている人ですよね。それから、木南晴夏さんは、舞台女優出身の実力派らしく、もう、全くプロフィール通りだ。といったオーラと演技です。  つまりこれは「<新進の俳優を、安く使う>という意味でホン・サンスと、経済性に於いて真逆である」と言えます。経済性は下部構造ですから、それが真逆なものは、上に乗っかる物もみんな真逆に成ります。ドキュメンタリータッチのカメラワーク淡々とした展開、機械的な反復、等々、ホン・サンスの図式的なブランディングはトレースされているのですが、全く味わいが違います。

またしても「日本の空虚」に関して

 簡単に言うと、ホン・サンスは物凄くゲスくて醜いルックスの人も、女神の様に美しい人も、共に心性は薄汚く哀れながら愛すべきものがあり、登場人物の年齢幅が広く、ウディ・アレンの作品に近いです。人生に対する諦めと、何とも言えない肯定がある。  「それは、<自由が丘で>対<知らない、ふたり>の対比じゃないよ。米韓と日本の比較だ」と指摘されるかもしれず、一方でそれはその通りなのですが、問題は、紛うかたなき日本人であるワタシが、「現代の日本風」に対して、全く味気を感じなかったという事です。  やはり、ワタシは老いさばらえてしまい、二十代の感覚に、世界遺産ですらある「旨味」を感じられなくなってしまったのか?テレビドラマ『恋仲』の、日本式の空虚は、笑いながら楽しめたワタシですが、本作では「空虚 × 空虚=ダブル空虚→さすがに無理」という感じになりました。  それは、あくまでワタシにとって「空虚ではない」筈の韓国人が、日本の空虚(コンビニがそれを象徴しています。韓国ドラマに出て来るコンビニは市場の様に生命感に溢れていますが、日本のドラマに出て来るコンビニは冥界の様に死の匂いがします。NU’ESTの中では「美形で知性担当」のミンヒョンは、コンビニのバイトをしていますが、「こんな所にいたら、ミンヒョン死んでしまうわ」と、ペンではないワタシまでもハラハラしてしまいました)の中に於かれた結果、空虚に飲み込まれてしまった、その空虚の強度にヤラれてしまった。という格好でしょう。

たったひとつの字幕&どっちつかず感

 レオンは後述するトラウマを背負っているのですが、それを映画のストーリーではなく、画面に出て来る字幕で一気に説明するというのも衝撃的です。「ははあ、要所要所で字幕で説明する手法が入るのか」と思いきや、何とそこしか字幕は出てこないというはかなり新しく、今泉監督の才気を感じました。「主人公のトラウマ」なんて、映画を駆動する最大の原動力なのに、いきなり寝起きのショットの脇に字で説明が出ちゃう。実に様々な解釈が可能です。  レオンは登場人物のひとりである荒川が下半身不随になった事故の原因は自分にあると考えていて、だから相当な重荷を抱えている。荒川の奥さんは韓国人に日本語を教える講師で、、、、と、ネタバレを気にしなければいけないような映画でもないのですが、とにかく人間関係は総て繋がっています。なのにこのトラウマ自体は、恋の空騒ぎの果て、最終的に、マンションの階段の入り口かなんかで女の人に隣に座ってもらって、優しい言葉をかけてもらうというかたちで、なんて言うか済まされちゃう。これはちょっと「空虚」とは違うテイストだと思いました。  一見すると何も起こらないと言われている小津安二郎の映画ですら、実は相当に中身があるわけです。「禅の境地」とか「日本人のシャイネス」とか紋切り型に切って落とす事は杜撰という物ですが、あれは日本映画の一種の伝統で、アンチ・ドラマチックに見せかけて、実はものすごくドラマチックなのは言うまでもありません。  しかしこの映画に関してはただひたすらに空虚で、しかも前述の通り、「アイドル映画じゃないよ」というメッセージが無いので、つまり二重否定的に「アイドル映画、、、、、、かもね」という、腹の据わりが悪い状態の中で空虚が続き、そのまま終わってしまうのです。この「どっちつかず感」が、多くの人々にとって快感であった場合、ワタシは今後、今泉監督の作品の批評を、自己責任を取る形で放棄します。

「とはいえ」感ーー混乱が続く

 作品全体に、まったく野心がないわけではなくて、新しいものをやろうという気概はすごく感じます。そもそもの字幕の件、「何故か韓国のスーパーアイドルが」という基盤、等々の他にも、意欲的かな?と思える挿話、たとえば、ローソンのカゴが持てない潔癖症の中年女性が出てきます。ただ、「ああ、こういう人いるよなぁ」というリアルは感じないんですよ。この女性、このワンショットに出て来るだけなんですが。  それにそもそも、キレイな顔をした韓国人青年が片言の日本語で喋ったりすると、ピュアでかわいい人に見えますよね。要するにカタコト効果ですが、この映画ではそれを、最大限とまで言わないまでも、やっぱり使ってしまっている。そして、これってギリで人種差別的な表現だと思うんですよ。  同じ言語を喋る同じ国の人同士でも恋愛というのは難しくて、そこが切ないわけだけれど、ましてやこの映画では片言だから通じないよね、という風に映してしまっている。それは恋愛群像劇というよりも人種の問題じゃないの?とリードされてしまうのを避けられません。だって、唯一の日本人カップルの会話だけが異様にリアルなんですもの。これがもし「片言の韓国人女性3人と日本人男性3人の群像劇で、片言だから彼女たちはピュアでかわいい。カタコト効果は解っちゃいるけど」という風に映していたら、ギリでアウトですよね。でも、セーフだとしても、この文脈から言ったら、単なる程度の低い少女漫画だという事になってしまう。   「彼らは別に日本人と比べて特別ピュアなわけでもなく、普通の青年だ」と言う事は、作劇上ではきっちり描かれます。しかし、それを超えて、ある古典的な萌えが発生してしまうのを作品は止められていない。  というか、カタコト効果というのは、今では「腹ではピュアでもなんでもない普通の人間だと解ってるけど、どうしても生じてしまう感情」の事だ。という風に進化発達しているのだとしたら、これは新しい。しかし、コントロール出来ている様に見えません。とにかくどっちつかずに見えてしまう。ゲスいのか、高踏的なのか。

「あ、ひょっとして」感

 と、ここまで書いて、あ、ひょっとしてコレって「韓流を愛でる感覚=クールジャパンによって世界中から<カワイイ>扱いを受けている日本人だって、昔はフィリピン人を、今は韓国人を<純朴で可愛い>と思い込みたがる」に対する、痛烈かつクールな批評なのだろうか?だったら、もっと映画に面白さ=喰える感じ、が出そうな物です。これは、やりようによっては、相当面白いテーマに成り得るので。

「んー、でもなあ」感

 音楽に関しても、やっぱり不勉強でお恥ずかしいんですが、このアルプというユニットを知らなくて、プロフィールを読んだら、威勢の良い事がガンガン書いてあって、どんだけ実験的で先鋭的な凄いサウンドが鳴るのかと楽しみにしていたんですよ。でも正直、普通でした(笑)。学生にでも誰でもパっとできそうなミニマルミュージックに、リングモジュレーターとか倍音のちょっとしたノイズが入っているだけで、びっくりするような環境音楽だとか、これが恋愛映画に使われるわけ?というような音が流れるわけではなかった。  とまれ、やっぱり変わった風合いの映画だし、過去の映画と比較しようと思っても、召喚する作品も思いつかない。だから新しい映画ではあると思うけれど、結局ワタシは、申し訳なさと悲しさが吹っ切れないまま(書けば吹っ切れる。等と言う事は無いので、予めこれは、約束された悲しさなのですが)批評を終わる事にします。  本作が、日本のSNS世代以降の、感情表出不全というか、見た目は淡々としている恋愛模様を的確に描いて、小津映画などの系譜にあるジャパンシャイネスの斬新な傑作ということになったら、わたしの感覚が古いのでしょう。というか、ワタシは単に焼肉やビフテキの食べ過ぎなのかもしれません。「肉食系には向かない、スーパー草食系」とかなんとか、低能なまとめなんか絶対しませんけどね。NU’ESTと今泉監督双方の将来に期待します。 ■映画情報 『知らない、ふたり』 監督・脚本:今泉力哉 出演:レン、青柳文子、韓英恵、ミンヒョン、JR、芹澤興人、木南晴夏 製作:日活 ソネットエンタテインメント アリオラジャバン 配給:CAMDEN 日活 宣伝:CAMDEN 公式HP:http://shiranai.jp (c)2015 NIKKATSU, So-net Entertainment, Ariola Japan ソネットエンタテインメント アリオラジャバン

『ヘイトフル・エイト』に見る、タランティーノ監督のバイオレンス描写の変遷

【リアルサウンドより】  公開中の『ヘイトフル・エイト』からは、またしてもクエンティン・タランティーノの映画愛が余すことなく示された。『カーツーム』以来となるウルトラパナビジョンで構成される画面は、舞台となる密室の閉塞感を増す働きをし、さらに屋外のショットでは走る馬車の全体をフレームの中にすっぽりと収めることで、画面に無駄な部分が一ミリも存在しないのである。さらに、マカロニ・ウエスタン映画で知られる巨匠エンニオ・モリコーネを作曲家に迎え、プロダクション・デザインは『キル・ビルvol.1』以来とのタッグとなる日本人・種田陽平に任せることで、前作『ジャンゴ 繋がれざる者』以上に西部劇としての作り込みの巧みさを発揮した。  ただどうしても気になってしまうのは、R18+指定を受けるほどの凄惨な描写の数々。タランティーノの映画というと、やはりハードなバイオレンス映画というイメージが強く、これまではR15+(2009年以前の作品ではR-15表記)に留まっていたが、本作ではついにその限度を超えてしまった。(映倫の審査理由を確認すると、劇中に登場する男性のフルヌード描写も加味されているが、やはり刺激の強い殺傷描写と肉体損壊描写が考慮に入れられているのだ)
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 そもそも「暴力」というものを、映画で描く必要性がどの程度あるのか、突き詰めて考えると難しいところである。デビュー作となった『レザボア・ドッグス』は香港映画『友は風の彼方に』にオマージュを捧げた犯罪劇だ。宝石強盗を目論む男たちの、内部分裂を描き出した硬派なバイオレンスアクションで、日本でVHSが発売された時の副題が「仁義なき男たち」。つまりは深作欣二の『仁義なき戦い』に肖った作品としてリリースされている。このタランティーノという男、ほとんどの映画ファンが理解している通り、かなり筋金入りの映画オタクとして知られている。レンタルビデオ店で働いていた下積み時代に、数多くの映画を観て、その作家性を築き上げた。その中には、『仁義なき戦い』をはじめとした日本の任侠映画も数多く存在し、そこから受けた影響は計り知れないものがあると、彼の初期の諸作を見ると誰もが感じるであろう。  パルムドールに輝いた2作目の『パルプ・フィクション』でブルース・ウィリス演じる男が日本刀を振り回すシーンで「ケン・タカクラのようにやれ」と脚本に記されていた逸話がある。このような日本映画へのオマージュが最も集約されたのは、紛れもなく『キル・ビルvol.1』であり、クライマックスとなる青葉屋のシーンの大立ち回りから、エンドロールで流れる梶芽衣子の「怨み節」、さらに映画の冒頭に公開年の1月に亡くなった深作欣二への追悼テロップが流れるほどの徹底的な日本愛が捧げられていたのだ。  つまりその辺りまでの彼の作品の描く「暴力」というものは、これまでのアメリカの暴力映画、たとえばサム・ペキンパーやマーティン・スコセッシの描き出した世界とは、また少し違った種類のものであって、日本の任侠映画にあったような徹底した硬派な世界を前面に押し出して、それでいてあまり馴染みのない日本刀を武器に取り入れる。現代アメリカ映画としては一種のファンタジーのように見せ、時には目を背けたくなる暴力であってもそれは副次的なものとして捉えることができたのだ。  とはいえ、3作目の『ジャッキー・ブラウン』で往年の名作『コフィー』のパム・グリアーを主演に配し、オープニングからアメリカンニューシネマの名作『卒業』をオマージュした辺りから、着実に彼の作品のアメリカ映画への敬意が増していったように思える。その結果、描かれる暴力描写が銃器を使ったものに変わり、現実の世界に近づくことで、観客に暴力の恐怖を現実のものとして感じさせることになる。それが『キル・ビルvol.2』での、結婚式を銃によって破壊されるという悲惨な描写と、その顛末で描き出される親子愛によって、アメリカンバイオレンス映画の系譜を引き継ぐことへとつながるのだ。  そして、『デス・プルーフ』でグラインドハウス映画のジャンルに挑み、そこでスプラッター映画界の新星イーライ・ロスと組むことによって、より描かれる暴力の激しさが増す。アカデミー賞戦線に名乗りをあげるほどに高評価を獲得した『イングロリアス・バスターズ』ではドイツ占領下のフランスを舞台としているだけあって、数多くのドイツ映画や、ヨーロッパ映画へのオマージュが登場することによって、彼の映画オタクとしての引き出しの多さを体感することができるが、それと同時に直視できないほどの暴力描写が急増した。
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 前作の『ジャンゴ 繫がれざる者』では、おそらくタランティーノの待望であった西部劇への挑戦となり、その期待を裏切らない優秀な脚本によって長尺を感じさせず、激しい暴力描写は相変わらずあったものの、最近では数が少なくなった西部劇映画としての風格と、元来西部劇が備える娯楽性をしっかりと残していた。それを考えると、2作目の西部劇となる今回の『ヘイトフル・エイト』は映画としての出来栄えは文句の付けようがないのだが、前作以上の長尺と、息苦しい密室の中でまざまざと見せつけられる激しい暴力描写では、娯楽性が乏しく感じてしまう。もちろん、激しい暴力描写にこそ娯楽性を感じるという意見もあるだろうが、個人的には100分前後のタイトな作りで見せてくれた方がスマートであったようにも思える。  最近は2〜3年のペースで新作を発表しているタランティーノ。このペースだと次は2018年頃だろうか。あと2作品を撮ったら引退すると宣言している彼が、残りの2作品でどのような作品を生み出すのか注目したい。日本人としてはやはり、久しぶりに日本的なバイオレンス、やはり深作欣二の『県警対組織暴力』とか『狼と豚と人間』のような作品を作ってくれないだろうか、と願ってしまうのである。(久保田和馬)