
保坂和志さん
小説家・保坂和志氏が4月に大和書房から『考える練習』を出版した。「考える」ことをテーマにした本だが、わかりやすい「ノウハウ」を教えるようなものではないという。では、無数の情報が氾濫する現代において「考える」とはどういうことなのか? 保坂氏にじっくりとお話をうかがった。
――『考える練習』(大和書房)が発刊されたということで、文学論から人生論までざっくばらんにお聞きできればと思います。保坂さんは、小説のほかにも、評論やエッセイなど、幅広く出版されていますが、新刊『考える練習』は、保坂さんにとって、ジャンルとしてどのような位置づけにあたるとお考えですか?
保坂 だいたい小説と評論、エッセイを分ける必要なんてなくてさ。そのときに言われる小説っていうのは、いわゆる絵空事という意味が一番強いんだよね。そこでいう絵空事って、いわゆるミステリー小説みたいなもんでしょ? でもミステリー小説なんていうのは、小説のなかの傍流であってさ。本当は、フィクションだから絵空事を書いていいという話ではないわけ。もともとはリアルであるためのひとつの方法が小説とかフィクション全体だったわけで、たとえばギリシャ悲劇や日本の神話は全部フィクションの形をとっているけど、それはリアルであるためにそうしているんだよ。
フィクションの起源というのは、たぶん夢なんだ。夢って荒唐無稽であることは確かなんだけど、人はリアルなものしか夢に見ないんだよね。夢の表面ですでにリアルなものと、何回か変換されてリアルなものと、夢にもいろいろな種類があるけれど、真実しか夢に見ないんだよ。だから夢はすごい。
そういうふうに考えると、それぞれの人が自分にとって一番リアリティのある形で書いているというだけのことなので、だとしたら小説もエッセイも評論も同じことなんだよね。たしかに評論というと、直接的にナマな形で社会問題を取り扱うこともあるけど、すべての評論がそういう形ではない。たとえば柄谷行人や蓮實重彦はナマな形ではないよね。
哲学の本もナマな形ではないけれど、そこで何かを言いたいわけで、本を読んで、その後、本に惹かれるようになるというのは、若いころに本を読んでガーンと衝撃を受けたからで、そういった衝撃を受けるというのは、そこになんらかのリアリティがあるわけ。それは評論で感じたりエッセイで感じたり、人それぞれなんだけど。
だから区別をつける必要はないし、いま一部で読まれてるフェルナンド・ペソアの『不穏の書、断章』(平凡社)『不安の書』(新思索社)という本があるんだけど、内容は覚書とか日記の断片形式で、これが小説なのか、なんなのかということは考える必要はない。いわゆる小説らしい小説、お話をつくるのに向いてる人っていうのは、日記やエッセイを書くような形で書き始めても、それがだんだんと夢のようなありえない展開に自然となる。そうじゃない人はもっとナマな形で出る。違いはそれだけ。だから元々ある未分化なエネルギーがどんな形を取るか、ということだけだと思うんだよね。
■いまの小説は「模範解答」を書いているだけ
保坂 いまのミステリー小説っていうのは、ゲームやパズルをつくるようなもので、ある流儀の中で書いてるだけなんだけど、ミステリー作家にしてみれば、なんらかのリアリティがあるわけだよ。じゃあ、パズルとかゲームがぜんぜんリアルじゃないかというと、そうでもないんだ。
中学生の頃なんだけど、パズルの本ばっかり買ってたんだよね。科学パズルとか歴史パズルとか、そんなようなやつ。歴史を題材にとって、このときにこうなったのはなぜか? 科学でいうと、鳥かごの鳥が一瞬、体重がゼログラムになったのはなぜか? っていう問題なんかがあってね。中学生の僕にとっては、パズルの形式で何かを問われることが、一番面白かった。
つまり僕が言いたいのは、リアリティがあるから面白いんじゃなくて、面白いものにリアリティがあるということなんだよね。
だいたい小説についての評論を書く人はそこを間違っていて、リアリティがあるから面白いっていうんだけど、それは解決済みの問題でしょ。だけどそうじゃなくて、この文章はなんかわかんないけど面白いっていう、その「面白い」と感じさせるところにリアリティがあるんだ。でもそこをちゃんと考えるような評論家がほとんどいなくて、リアルだから面白いって、逆に考えてしまっているんだよ。
小説の外にリアルなものがあって、小説を取り巻く社会のリアルなものを小説に持ち込めば面白いということしか考えないわけ。
たとえば、いま流行っている小説には、地域格差があって、ワーキングプアがいて……みたいなことが書いてある。そういう現実に起こっている社会の問題を小説に詰めこめば、これがリアルだ、面白いっていうことになっているんだ。本当はそうじゃなくてさ。この居心地の悪さってなんなんだとか、そういうまだ問題として形を与えられてないことが自然と出てくるはずなんだけどね。社会を見ようと思ったら。
だから小説家の多くは、模範解答を書いているだけなんだよ。で、読む方も批評するほうも、模範解答だから褒める、みたいなさ。読むほうも、この面白さはなんなのかと説明できると思うと、安心して面白がるんだ。でも面白さがなんなのか言えない、おぼつかなくて確信が持てないとなると、これは自分ひとりが面白がっているのか? と考えこんでしまうっていうことがある。
■素人のカラオケはうまいほどつまらない
――小説を書く時とエッセイを書く時の区別はどうお考えですか?
保坂 小説やエッセイに区別はないと言いながらも、本人としては小説を書くときの呼吸みたいものがある。エッセイというのは何かを言うための説明なんだよ。すごい遠回りだったりするけどね。ところが小説は、最後にたどりつくべき最終地点までの道のりがすごく遠くてかまわないし、書いてるうちに最終地点のことは気にならなくなってきちゃう。だからいま書いてる前面だけが気になるというか。どこか外へ出るために山や地中に穴を掘ってるんだけど、穴を掘っているうちに、掘っていること自体に集中しちゃうっていうイメージが一番わかりやすいかな。
――書いている数行先は予想できないということですか?
保坂 少し先まで考えていても、途中で道がずれるということはよくあるよ。この場面でこういう会話をさせようとかと思って場面をつくっても、そこにたどり着くころにはもう自分では飽きてるんだよね。だから、この場面でこれを書こう、ということはたえず頭をよぎってるんだけど、まあ書かないだろうなと思いながら書いてるんだよね。
――小説が小説たりえるための条件とはなんですか?
保坂 横浜出身のMay J.って女の子の歌手がいるんだけど、彼女はカラオケがめちゃくちゃうまいの。最近は1音1音原曲のメロディと照合して点数を出すカラオケがあるらしくて、テレビでそのカラオケ使ってMay J.が歌うと、たとえば宇多田ヒカルのメロディラインを完璧にトレースできたりする。それですごく感心したんだけど、すぐ飽きるんだよね。
というのは、宇多田ヒカルはたまたまそう歌った、ということなんだ。その歌にするためにね。本人が感じたように歌った、ということなんだけど、それを真似しても、真似するというのは違うんだ。それは歌じゃなくて、あくまでカラオケでしかないわけ。歌がうまいっていうのは、カラオケのようにトレースできる能力のことじゃないからさ。たしかにうまいんだけど、面白みがない。だいたい素人のカラオケって、うまいほどつまらないよね。May J.のカラオケもそれに近いものがあるね。
小説も同じことで、宇多田ヒカルの曲をきれいにトレースできても、それは小説にはならないんだよ。
■お金を選んでも、どうせ途中で裏切られる
──この本(『考える練習』)で、お金中心の考え方から抜け出すということをおっしゃられていますが、ここに同席している編集者の川又は「家賃を払うのはおかしいことだし、払いたくない」と思っているそうです。
川又(編集) しゃしゃり出てきてすみません! それで、だからあるとき大家さんに、「なんで家賃払わなければいけないんですか?」と聞いたら、「それは法律で決まっているからだよ」という説明をされて、それには納得できなかったので、部屋を引き払ったんです。いかにお金のしがらみからいかに抜け出すか? その実践をしようと思っていますが、何かアドバイスがあれば教えていただけますか?
保坂 (笑)。いま同人誌が多いじゃない。そのなかで現代音楽をやっている一柳慧にインタビューしている「アラザル」という雑誌があって、あの人がいた50~60年代ニューヨークに、一生働かないと決めた人がいたらしいんだよ。アメリカ人で。その人は当たり屋みたいなことをしてお金をもらっていたっていうの。でもお金ってさ、お金のために働いてお金が入るとは限らないんだよね。好き勝手してお金が入ってくる人もいるんだよ。
たとえば25歳で就職して働き出すと、それから30~40年間、会社で働くことになる。いま社会に流布している考え方は安定志向で、将来的に安定した会社にというけれど、30年間も安定している会社なんてないよ。そんな長期間安定している業界自体がないんだよ。だから安定とか生涯賃金を計算して、好きでもない仕事に就くって、こんなバカげた話はないんだよね。お金を選ぶかしたいことを選ぶか、どっちにするかといってお金を選んでも、どうせ途中で裏切られるんだよ。だからしたいことをしたほうがいい。
川又(編集) したいことをしたい人は大勢いると思うんですけど、みんなそこに踏み切れない。踏み越えられない一線が見えてしまうような気がするんです。幻影かもしれないですけど……。
保坂 それは、そういうふうに社会が教育しているから。労働力確保のために。みんなよく働きたいとか働く権利とかいうけれど、それは自分がしたいことの範囲でしかないでしょ? いよいよ職がなくなって働きたいっていうけど、それは意味がちがうじゃん? 本当は働きたいんじゃなくて、給料がほしいってことじゃん?
うちの近所のスーパーにめちゃめちゃ感じのいい人がいるんだよ。レジを打ってる人なんだけど、みんながファンなの。お母さんに手を引っ張られた幼稚園児まで、その人の名前を呼びながら、手を振ってスーパーに入ってくるんだよ。レジを打ってるだけなのに、みんなを虜にするほど感じがいいんだよ。
それからうちは本棚の代わりにトランクルームを借りてるんだけど、その管理をしているおじさんは誰が出入りするときでも必ず挨拶するし、ヒマなときにはトランクルームの近くに花を植えてるんだよね。ほんとにちょっとしたスペースにさ。
そういうふうに、ルーティーンワークのなかに自分なりの工夫をしていると、気持ちをどんよりさせないよね。それはやっぱり自分の努力というか、根本的な生き方の問題なのかもしれないけどね。ただし、そういうふうにしていると、まちがいなく別の道が出てくるんだよ。労働時間をいかにお金のためじゃなくするか。自分で面白くするかということが大事なんだよね。お金の問題って、実際にはものすごく大変なんだけど、お金のために働く、というふうに考えるから大変になってしまうと思うんだよ。
一番大雑把な予想でいうと、近い将来にすべての労働人口は吸収しきれなくなって、働く場所はなくなると思う。じゃあ、働く場所がなくなったらどうするか? 限界集落に行って、農業をするしかないと思う。昔、仕事のない人は開拓団で北海道へ行ったり、ブラジルへ行ったりしていたんだよ。そして農業で自給自足に近い生活をしていた。でも、もしも自分はとてもじゃないけど農業はできないなと思ったら、根性を出して自分のやりたいことをやるしかないんだよ。
これまでは特にやりたいことがない人はサラリーマンをやれて、そういう時代が長く続いたから、企業に入るというのが「安定」ってイメージになっちゃったんだけど、もうそんな時代ではないんだよね。だからお金のためではなく、やりたいことをやる。そのためには根性出すしかないんだよ。工夫したりさ。休みだなんだのって言ってられないわけで、それができない人は農業やるしかないんだよ。がんばって身体使うしかないんだ。知恵を出せないやつ、頭で汗かけないやつは身体で汗かけ、というと一代で成り上がった経営者の社訓みたいだけどね。でも、それしかないんだよ。
ワーキング・プアとか雇い止めが大変だとかいってるくらいだったら、限界集落へ行って農業やったほうがいいんだよね。そういう農村へ行くと昔から農業してる人がたくさんいて、食い物だけはくれるよ。限界集落っていうのは、どういうところかっていうと、もともとは落武者がつくったんだよ。全部じゃないだろうけど、もともとの集落のそのまた奥に作ったような村なんだから、そういうところは多い。そういう屈強な人たちが切り開いた土地に十何代か二十何代か住んでて、最後は都市に人がとられて、いまは老人しか残ってないけど、もともとは屈強な人たちが切り開いた土地なんだ。だけど老人だけになったら、そんな村がやっていけるわけがないんでね。
ただしネットの前で何時間も時間がつぶせるような人間に、いきなりお前には農業しかないよと言われても彼らはできないわけで、これは大人の責任だと思う。だからこそ、これは社会問題なんだけどさ。だけどやっぱり「本も読みません、運動もしません。趣味はパソコンです」みたいな人たちに対して僕はフォローしきれないよ。僕が相手にしてるのは社会問題じゃないからさ。たとえば学校と戦うためにロックを聞いている。すこし前ならブルーハーツに反応するやつみたいな。彼らを一歩踏み出させることはするけど、それもわからないやつらのことはやっぱり僕は関係ないよ。そこまでいったらウソになるから。
■お金がある人はない人にあげらればいい
川又(編集) 社会を変えるための道具として革命があると思うんですが、保坂さんは革命を信じてらっしゃるんですか?
保坂 信じてるよ。20世紀の革命とは違うけど、それは自分がやらなきゃいけないとも思ってる。
川又(編集) いま、「革命」たるものはなんだと思いますか?
保坂 ひとつはNGOみたいなものだよね。政府とは別の集団を作ればいいわけでしょ? いろいろ考えたけどやっぱり年金払うっていう人がいてもいいと思うし、一方で年金は払わないという人がいてもいいと思うけど、でも払わない代わりにほかの何かはしないとね。困ってる人に対して何かをするというのは、自分を救うことでもあるんだよね。いま、困ってる人を助けるというのは別のシステムを作るということだから、結局、将来的に自分を救うことにもなるんだよ。だから蜘蛛の糸みたいに、自分ひとりが助かりたい、という発想をする人はポシャるよね。
年金が破綻するというのは、みんなが年金にお金を入れないからで、だとしたら国の働きを小さくして、他のところにお金を入れればいいんでさ。そのための仕組みを作っていけばいいんだよね。
少子化の問題も、ひとりの労働者が何人もの老人を支えなきゃいけなくなるというけど、昔はひとりで奥さんと子ども、自分以外を何人も養っていたんで、構造は同じことなんだ。本当はただたんに賃金が安くなったというだけで、問題をすり替えてるんだよ。
そもそも労働人口が減ることが問題なんだとしたら、移民を入れればいいんだよ。でも、移民受け入れの話なんてぜんぜん出てこなくてさ。本当は労働する場所がないんだよね。それなのに、労働場所もないのに少子化もへったくれもないじゃない! なんて話を僕がしても空しいね。ウソっぽいよね(笑)。
川又(編集) お金がある人はない人にあげればいいという考えもありますけど、いまの日本はそういう社会ではないですよね。お金を持っている人がひとりで抱え込んでるのはおかしいと思うんですが……。
保坂 たしかにその通り。おかしいと思う。タイ式ボクシングを習いにタイへ行ったら、タイが大好きになっちゃった人が書いた本があるんだけど、タイでは午後3時頃に仕事を終えて屋台で飲み食いを始めるんだって。で、その屋台ではお金のある人が全員をおごる。そして屋台のネタがなくなると、屋台のオヤジも店を閉めて、隣の屋台で飲み食いを始める。
川又(編集) なぜ日本はそういう社会にならないんですか?
保坂 ねえ。でも、なぜならないかと考えるより、自分で実践していったほうがいいと思うよ。
川又(編集) 個人的な話をさせていただくと、その実践として、僕は会社に行かずに生計を立てています。家賃も払いたくないので、友達のマンガ家夫婦の家へ転がり込んで、衣・食・住のうち食事と住居はその友人夫婦にお世話になっているんです。いわゆる、たかりってやつですね。
保坂 ははは(笑)。
川又(編集) そのことをまわりに話すと、それはおかしいって言われるんです。でも、僕と居候先の友人夫婦は何もおかしいとは思っていない。もちろんいまの社会からすればオルタナティブな生活のあり方なのかもしれませんが、もっとそういう暮らしをする人が増えればいいなと思います。
保坂 猫の暮らしと一緒だよね。つまり、川又さんは居候先の夫婦に対して、そこにいてもいいような、何かをしているわけなんだよ。僕もあなたが面白いと感じたからこの取材を受けた。僕のホームページを運営してる高瀬がぶんという人も一度も定職についたことがないんだけど、うちの奥さんなんかは、昔、大きい家には高瀬さんのような人が居たというんだよ。書生とか居候といわれながら。
高瀬さんも定職につかずに生きてこれたということは、存在自体がキュートなわけだよ。僕のホームページに来た人たちは何もしていない高瀬さんに憧れて、彼の家に遊びに行くんだよ。それで会うとたちまち気に入ってしまうという。
でもそれでいいんだよ。働くのがイヤな人とか長続きしない人でも、どこかキュートなところさえあれば、猫のように居候暮らしができるわけで。それでやってこれているんだから、それでいいんじゃないかな。
(構成=天川智也)
●保坂和志(ほさか・かずし)
1956年、山梨県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。93年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、95年『この人の閾(いき)』で芥川賞、97年『季節の記憶』で谷崎潤一郎賞、平林たい子文学賞を受賞。そのほか、『プレーンソング』『カンバセイション・ピース』『カフカ式練習帳』など著書多数。