水道橋博士を激怒させたダイノジ・大谷ノブ彦の“ホントの評判”って?

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吉本興業公式サイトより
 お笑いコンビ・ダイノジの大谷ノブ彦が、お笑い芸人の水道橋博士ともめている。トラブルとなったのは、水道橋博士が編集長を務める有料メールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」の連載をめぐってのこと。  連載執筆陣の1人である大谷は7月30日に自身のTwitterで、同メルマガの連載を2カ月休むとツイート。だが、編集長の水道橋博士は休載について事前に聞いておらず、「相談もなく2ヶ月休載とか勝手に発表される。これは困るというより、もはや付き合いきれないレベルなので、ダイノジ大谷くんとの契約は打ち切ります」とリプライ。さらに博士は、「昔から彼の自己愛と自意識は常に自分の方が『上』なんだよ。それがどれほど失礼なのかは気がつかない。誰に対しても」と、苦言を呈した。 「博士は以前、大谷の著書に帯推薦文を寄せたことがあったのですが、大谷側が博士に無断でそれを改ざんしてしまい、『先輩の帯文を勝手に書き換えるのか!』と憤慨して、大谷との関係を一時期絶っていました。自己愛と自意識ウンヌンという博士の苦言は、こうしたことも指しているのでしょう。その後、メルマガの連載を依頼するまでに関係は復活しましたが、ここにきて2度目の決裂となりました」(お笑いライター)  パーソナリティを務めていた『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)では、リスナーに自身を“ボス”と呼ばせたり、お笑いナシで洋楽ロックやハロー!プロジェクトなどについて熱く語る大谷には、かねてから「うっとうしい」「面倒くさい」といった評判がつきまとっている。自他ともに認める嫌われキャラだ。  そんな大谷の素顔を、後輩芸人が匿名を条件に明かす。 「大谷さんは、よくも悪くもウラオモテのない人。先輩だろうが後輩だろうが、おかしいと思えば容赦なくかみつくし、逆に自分が間違っていると気づけば、素直に謝ったりします。たいしたことでもないのに、涙を浮かべながら後輩に謝罪しているのを見たことがありますね。そうした一本気なところは誰もが認めているんですが、ちょっと判断基準というか、怒ったり喜んだりするポイントがほかの人とズレている感じで、そういうところが扱いづらいと思われる原因だと思います」(同)  今回のトラブルで、大谷は今月1日になってネット生配信中に博士に電話謝罪を試みるも、博士はロケ中だったようで電話に出ず、結局、カメラに向かって「ほんとにすみませんでした」と頭を下げるにとどまっている。

「笑いなき芸人ラジオ」という前代未聞の問題作『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』

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ダイノジ大谷のオールナイトニッポン
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  パーソナリティー本人も繰り返しその言葉を口にするように、とにかく「熱い」ラジオである。だが、「熱さ」と「面白さ」は、必ずしも直結するものではない。すべてはその熱がどう生まれ、どう使われるかによる。そして熱さとは、すなわち危うさでもある。 『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』(ニッポン放送 毎週水曜深夜1:00~3:00)は、この4月改編の目玉のひとつである。芸歴を重ねた中堅芸人が、2月に放送された『オールナイトニッポンR』ただ一回を経て『ANN』1部のレギュラーを任されるというのは、大谷自身が「2部でも大抜擢」と言うほどの快挙である。ではなぜそれほどの厚遇を、彼は受けることになったのか。それは一重に、番組のコンセプトが非常にわかりやすく、狙いが定まっていたからだろう。  この番組が掲げているコンセプトは、「洋楽で世界を変えるラジオ番組」。そしてその根底にある武器は、パーソナリティーが好きなものを語る「熱量」である。この2つの要素はいずれも、本来の芸人ラジオにはちょうど欠けている部分だろう。前者に関しては、当然だが芸人のラジオは音楽評論家のラジオではないので、芸人ラジオとしては新たな試みに映る。そして後者の「熱量」に関しては、皮肉にもちょうど裏番組を担当する南海キャンディーズ山里亮太は、時に好きなアイドルについて熱く語ることがあるが、その中には必ず自分自身をも冷笑する冷めた視点が所々登場し、その熱は自虐的な笑いへと昇華される。つまり、芸人ラジオの中で珍しく熱さを感じさせる山里のラジオであっても、結果として熱さ一辺倒ではなく、主観的な熱さと客観的な冷静さの間から笑いが生まれる構造になっている。  だが『ANN』における大谷のトークには、その笑いという要素が、まったくといっていいほど登場しない。むしろ笑いを省くことで熱量をキープしている節があり、結果として芸人のラジオに期待すべき最大の長所が失われている。つまり「洋楽」と「熱量」という、ほかの芸人とかぶらない要素を生かすために、芸人本来の武器であるところの「笑い」を、芸人がすっかり手放してしまっているのである。  もちろん、裏番組の『JUNK』が世の中を冷たく笑う姿勢(というか、笑いとは本来そういうものである)で勝利している中で、そこに対するカウンターとして、別の武器を持って戦いたくなる気持ちは理解できる。誰もが希望を欲しがっている世の中で、音楽を通じて希望を熱く語るというのは、企画書的には完璧なプランであるように思える。だが、熱さとはつまり押しつけがましさでもあり、パーソナリティーが希望を語れば聴き手も希望的な気分に、熱く語れば聴き手も熱い気分になれるというわけではない。パーソナリティーとリスナーの関係とは、いやそれ以前に人間同士の関係とは、そこまで単純な反応で出来上がっているものではない。そのやり方が通用するならば、この世から熱血教師の言うことをきかない生徒は誰ひとりいなくなり、一瞬にして世界に平和が訪れるはずだ。  たしかに、リスナーに自らを「ボス」と呼ばせ、ラジオの向こうに「キミ」「お前ら」「10代のみんな」と話しかけ、母子家庭で母親が心中を常に考えていたという自らの不遇な少年時代を前向きに語り、「夢中になれるものを見つけてほしい」「世界を変える」「世界をひっくり返す」という刺激の強いポジティブ・ワードを連発する大谷のスタンスは、一部の若者を扇情するだろう。だがその裏には、「夢を持て」と言われても夢なんて信用できず、親や教師が押しつけてくる非現実的な希望的観測など聴きたくもないという人間がたくさんいる。そしてそういった、世の中と相容れない気持ちを抱えた人間が深夜ラジオのリスナーには特に多く、だからこそビートたけしや伊集院光をはじめ、深夜の芸人ラジオは一般社会に向けて放たれるその毒により、数多のリスナーを獲得してきた。  もちろん彼らが放ってきた毒は、実のところわざと斜に構えて気張った毒でもなんでもなく、本当は鋭利な「真実」でしかない。世の中というのは本来的に童話『裸の王様』のような構造になっていて、本当のことを口にするとそれが自動的に毒舌になってしまうという、避けがたい「ねじれ」を持っている。ビートたけしが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といって愛されたのは、それが前向きな言葉だからではなく、むしろ親や教師が絶対に言わないはずの、反社会的でありながら世の中の真実を射抜く言葉であったからだ。そしてたけしがそうやって真実=毒を吐くことで、世間に「本当のことを言ってもいいんだ」という自由な空気が広がっていく。笑いというのはそうやって逆説的に人の気持ちを動かして世の中の風通しを良くする力を間違いなく持っていて、それは単にポジティブな言葉でポジティブな世界を作ろうとするよりもはるかに説得力がある。  大谷は、番組初回冒頭からビートたけしへのリスペクトを表明していた。無論、だからといってたけしと同じことをしても意味はないが、とことんまで笑いにこだわり続ける姿勢がなければ、芸人としてラジオをやる意味はないのではないか。どんなに無名な洋楽アーティストの話であっても、音楽評論家の視点で、音楽評論の言葉で語るのではなく、芸人ならではの切り口と言葉で笑いに昇華してみせる――そこまでいけば本当に誰もやっていない境地にたどり着けるはずだが、誰もやっていないということは、つまり恐ろしく難しいということでもある。しかし、それくらいの覚悟がなければ、コンセプトありきで洋楽を持ち出すべきではない。今後、この番組内で笑いと音楽評論が結びつくことがあるのかどうか。そもそもそんな気など現時点ではないのだろうが、やるならそこを目指して突っ走ってほしいというのが、芸人ラジオを愛する者としての切なる願いである。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) 「逆にラジオ」過去記事はこちらから