無礼講的な対話関係がつくり出す異文化交流の宴『吉田照美 飛べ!サルバドール』

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文化放送『吉田照美 飛べ!サルバドール』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  吉田照美はすぐムキになる。ムキになるから面白い。  人は物事を真に受けたとき、ムキになる。何事も、いったん真に受けなければ面白くもなんともない。真面目な話は互いが真に受けることで意義ある議論になり、冗談は相手が真に受けることで初めて冗談になる。つまりその場が面白くなるかどうかは、目の前の相手をムキにさせられるかどうかにかかっている。そこに初めて、単なる「会話」を越えた「対話」が生まれるからだ。  この4月から始まった番組『吉田照美 飛べ!サルバドール』(文化放送 月~金曜15:30~17:50)で、早朝から夕方へと活動の場を移した吉田が生き生きとしている。その理由は、もちろん単純に朝と夕方における自身の体調やテンションの違いや、聴取者層の違い、またそれに伴って求められる役割の違い等の環境的要因が考えられる。しかし一番の要因は、この番組がパーソナリティーの吉田を中心とする、全方位的な対話構造によって成り立っているという点にあるだろう。つまりは番組全体が、吉田をムキにさせる方向へと徹底的に最適化されているのである。  『飛べサル』は「日本だけのジョーシキにとらわれない なんでもありの情熱バラエティー」というコンセプトのもと、スイス出身で政治家マニアの春香クリスティーン、ハーバード大卒芸人の「パックン」ことパトリック・ハーラン、エジプト出身で歯に衣着せぬTwitter発言が話題のフィフィなど、曜日ごとに多国籍なコメンテーターを迎え、彼らと吉田との文化を越えた意見交換を軸に構成されている。成長環境や価値観を越えた意見交換というのは、共感を前提とする「会話」ではなく、前提を必要としない率直な「対話」を自然と生む構図であり、日本人にとって思いがけぬ意見がポンポン飛び出してくる面白さがある。  だが、対話といっても構える必要はまったくない。政治の話もあれば、「日本人のカブトムシ好きは異常。アメリカでは飼わない」とか「スイスの学校には校歌がない」なんて日常レベルのカルチャーショックも、吉田がここぞとばかり的確に掘り下げる質問攻撃に導き出されてきたりして、対話とは硬軟問わず「違和感との出会い」であり「発見のプロセス」であるということをあらためて痛感させられる。  以上のように、『飛べサル』における外見的に最も明快な対話構造はこの「国籍を越えた意見交換の場」という部分にあるのだが、実はさらに重要な対話関係が、それとは別の場所にある。それは、番組アシスタントを務める女子アナウンサー・室照美の存在である。北陸放送から今年文化放送に入社したばかりの彼女は、品のあるトーンを保ちながらも吉田に対しコンスタントに意外性のあるコメントを返す。そのナチュラルなセンスと肝の据わりっぷりは、間違いなく吉田をムキにさせる相手としてふさわしい逸材である。  たとえば毛量の話題になった際には、「でも62歳にしてはいっぱい生えてると思います」と非情な条件つきの褒め言葉をやさしい口調で投げかけ、吉田の絵が三軌展で受賞したという事実を前に「また絵が高くなりますね!」と邪心のないトーンで明るく言い放つ。かと思えば、「何か好きなブランドとかあったら言っといたほうがいい。誰かくれるとも限らないから」というフリに対し、「ミュウミュウのバッグが欲しいです」と即答。その鮮やかな答えを受け、すっかり他人事だと思って油断して「みんな聴きましたか?」と喜んでいる吉田に、「照美さんに言ってるんですよ!」と急角度の切り返しでたじろがせるその当意即妙っぷり。時にかなり厳しくツッコんでいく吉田のスタンスに対し、対等あるいは一枚上手の答えを返す彼女の存在は、早くも番組を盛り上げていく重要な装置として機能している。もちろんそんな答えを呼び込む吉田の、「誰かくれるとも限らないから」という魔性の誘い水が、対話の取っかかりとして見事に効いているのだが。  さらにこの番組には「飛び出せ!子ザル」という、若手リポーターに番組の街頭宣伝をさせるコーナーがあり、ここでの吉田は、後輩アナウンサーらに無理難題を言いつける「無茶ブリの鬼」と化す。しかし、リポーター側も時に反抗心を露わにし、泣き言を言ったりフリを無視したり、時には吉田からの指示を遮断するためイヤホンを外すなどといった暴挙に出たりもする。このコーナーは、そうやってムキになった結果として思いがけぬ言動が飛び出すことでそれぞれのキャラクターが立ってくるという、いわばキャラ開発のための仕組みにもなっており、吉田は自分自身だけでなく、相手をムキにさせる能力にも長けている。そして互いが熱くなったところで初めて熱湯を掛け合うように対等な、無礼講的な笑いが生み出される。  こういった対話的な構造にあふれた番組づくりの基盤には、そもそもスタッフとパーソナリティー間の対話的な信頼関係が必要不可欠である。両者が生ぬるく支え合うような関係ではなく、互いに相手を出し抜いてやろうと常に狙っているような緊張感のある対話が、ここでは番組という作品を通じてとり交わされている。そして何よりもまずそういう空気をつくり出すのが、ずっと一線を張ってきたラジオパーソナリティーとしての吉田の根本的な強みであり、『飛べサル』は結果として吉田照美でなければ成立し得ない番組になっている。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) 「逆にラジオ」過去記事はこちらから

無礼講的な対話関係がつくり出す異文化交流の宴『吉田照美 飛べ!サルバドール』

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文化放送『吉田照美 飛べ!サルバドール』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  吉田照美はすぐムキになる。ムキになるから面白い。  人は物事を真に受けたとき、ムキになる。何事も、いったん真に受けなければ面白くもなんともない。真面目な話は互いが真に受けることで意義ある議論になり、冗談は相手が真に受けることで初めて冗談になる。つまりその場が面白くなるかどうかは、目の前の相手をムキにさせられるかどうかにかかっている。そこに初めて、単なる「会話」を越えた「対話」が生まれるからだ。  この4月から始まった番組『吉田照美 飛べ!サルバドール』(文化放送 月~金曜15:30~17:50)で、早朝から夕方へと活動の場を移した吉田が生き生きとしている。その理由は、もちろん単純に朝と夕方における自身の体調やテンションの違いや、聴取者層の違い、またそれに伴って求められる役割の違い等の環境的要因が考えられる。しかし一番の要因は、この番組がパーソナリティーの吉田を中心とする、全方位的な対話構造によって成り立っているという点にあるだろう。つまりは番組全体が、吉田をムキにさせる方向へと徹底的に最適化されているのである。  『飛べサル』は「日本だけのジョーシキにとらわれない なんでもありの情熱バラエティー」というコンセプトのもと、スイス出身で政治家マニアの春香クリスティーン、ハーバード大卒芸人の「パックン」ことパトリック・ハーラン、エジプト出身で歯に衣着せぬTwitter発言が話題のフィフィなど、曜日ごとに多国籍なコメンテーターを迎え、彼らと吉田との文化を越えた意見交換を軸に構成されている。成長環境や価値観を越えた意見交換というのは、共感を前提とする「会話」ではなく、前提を必要としない率直な「対話」を自然と生む構図であり、日本人にとって思いがけぬ意見がポンポン飛び出してくる面白さがある。  だが、対話といっても構える必要はまったくない。政治の話もあれば、「日本人のカブトムシ好きは異常。アメリカでは飼わない」とか「スイスの学校には校歌がない」なんて日常レベルのカルチャーショックも、吉田がここぞとばかり的確に掘り下げる質問攻撃に導き出されてきたりして、対話とは硬軟問わず「違和感との出会い」であり「発見のプロセス」であるということをあらためて痛感させられる。  以上のように、『飛べサル』における外見的に最も明快な対話構造はこの「国籍を越えた意見交換の場」という部分にあるのだが、実はさらに重要な対話関係が、それとは別の場所にある。それは、番組アシスタントを務める女子アナウンサー・室照美の存在である。北陸放送から今年文化放送に入社したばかりの彼女は、品のあるトーンを保ちながらも吉田に対しコンスタントに意外性のあるコメントを返す。そのナチュラルなセンスと肝の据わりっぷりは、間違いなく吉田をムキにさせる相手としてふさわしい逸材である。  たとえば毛量の話題になった際には、「でも62歳にしてはいっぱい生えてると思います」と非情な条件つきの褒め言葉をやさしい口調で投げかけ、吉田の絵が三軌展で受賞したという事実を前に「また絵が高くなりますね!」と邪心のないトーンで明るく言い放つ。かと思えば、「何か好きなブランドとかあったら言っといたほうがいい。誰かくれないとも限らないから」というフリに対し、「ミュウミュウのバッグが欲しいです」と即答。その鮮やかな答えを受け、すっかり他人事だと思って油断して「みんな聴きましたか?」と喜んでいる吉田に、「照美さんに言ってるんですよ!」と急角度の切り返しでたじろがせるその当意即妙っぷり。時にかなり厳しくツッコんでいく吉田のスタンスに対し、対等あるいは一枚上手の答えを返す彼女の存在は、早くも番組を盛り上げていく重要な装置として機能している。もちろんそんな答えを呼び込む吉田の、「誰かくれないとも限らないから」という魔性の誘い水が、対話の取っかかりとして見事に効いているのだが。  さらにこの番組には「飛び出せ!子ザル」という、若手リポーターに番組の街頭宣伝をさせるコーナーがあり、ここでの吉田は、後輩アナウンサーらに無理難題を言いつける「無茶ブリの鬼」と化す。しかし、リポーター側も時に反抗心を露わにし、泣き言を言ったりフリを無視したり、時には吉田からの指示を遮断するためイヤホンを外すなどといった暴挙に出たりもする。このコーナーは、そうやってムキになった結果として思いがけぬ言動が飛び出すことでそれぞれのキャラクターが立ってくるという、いわばキャラ開発のための仕組みにもなっており、吉田は自分自身だけでなく、相手をムキにさせる能力にも長けている。そして互いが熱くなったところで初めて熱湯を掛け合うように対等な、無礼講的な笑いが生み出される。  こういった対話的な構造にあふれた番組づくりの基盤には、そもそもスタッフとパーソナリティー間の対話的な信頼関係が必要不可欠である。両者が生ぬるく支え合うような関係ではなく、互いに相手を出し抜いてやろうと常に狙っているような緊張感のある対話が、ここでは番組という作品を通じてとり交わされている。そして何よりもまずそういう空気をつくり出すのが、ずっと一線を張ってきたラジオパーソナリティーとしての吉田の根本的な強みであり、『飛べサル』は結果として吉田照美でなければ成立し得ない番組になっている。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) 「逆にラジオ」過去記事はこちらから

ふとした思いつきをねじれた笑いに変える、短絡思考の魔術『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』

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『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  あの柔らかな物腰の語り口に騙されてはいけない。メガネが2人並んでるからといって、安易に信用したり説得力を感じてる場合じゃない。むしろその信用ならない安直な物言いこそが、いま最も信用できるねじれた笑いを生み出している。『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』(TBSラジオ 毎週木曜深夜1:00~3:00)とは、シンプルな入口から招き入れた聴衆を、複雑怪奇な出口へと誘う魔性のラジオ番組である。  まず何よりもおぎやはぎ最大の魅力は、そのあまりに純度の高い「短絡思考」にある。「短絡」というと聞こえが悪いかもしれないが、笑いが一般的な価値観を壊す機能を持つ以上、短絡的な発想はその強力な武器になり得る。たとえば、世にばっこする変態おじさんを「変なおじさん」と名付けキャラクター化した志村けんも、タモリに「昼メガネ」とあえて表層イメージのみであだ名をつける有吉弘行も、そのまんますぎて誰も通れなかった道を発見し、それを勇気を持って提示することで破壊的な笑いを生み出してきた。  そもそもが、小木と矢作で「おぎやはぎ」である。コンビ名からしてそのスタンスは徹底されている。そんな彼らの担当する番組名が、2人ともメガネをかけているから『メガネびいき』である。ちなみに小木は、ちょうど奈歩夫人との熱愛発覚直後に始まったこの番組の第1回で「結婚すべきか否か」をリスナーに問い、「結婚したほうが(奥さん以外の女性に)モテる」という意見に心を揺さぶられて結婚したと公言している。もちろんそこまで単純な話ではないだろうし、実際に結婚してみたら思ったほどモテなかったと嘆いてもいるのだが、放送第2回で早速入籍を発表するというスピード感も含め、聴き手としてはあまりの早計さに衝撃を受けつつ、グッと心を掴まれた記憶がある。  ほかにもAKB48に対する発言など、主に小木の率直すぎる物言いが話題になりがちな番組ではあるが、一方でスペシャルウィークにおける斬新な企画の数々も、この番組の大きな魅力である。  矢作がチャーハン作りにハマっているという理由で、中華料理人の金萬福を呼んで番組中にチャーハンを作ることになったが、それだけでは数字が取れないというので深夜ラジオらしく単純に女性のあえぎ声をかぶせた結果、完全なるカオスが出現した「チャーハンとエロス、奇跡の融合スペシャル」。小木がYouTube上で偶然発見したと言い張るボーカロイド「オギ音ミク」と小木の義弟である森山直太朗の作曲バトルに、ブーム真っただ中のスギちゃんをなんとなく投入した結果、なぜか森山とスギちゃんの間に強烈なケミストリーが発生し、思いがけぬ感涙の名曲が生まれた「即興ソング対決」。そして先日のスペシャルウィークには、ラジオのレギュラー4本を抱えるサンドウィッチマンをゲストに迎え、ラジオ愛あふれるリスナーから寄せられた一通のメールをきっかけに発案された「アメリカよ!これがラジオだ!!」という究極のラジオを目指す企画を敢行した。  そこでおぎやはぎは「ラジオ愛」を「旧態依然としたありがちなラジオっぽさ」と定義した上で、やたらと現在時刻を読み上げる、ところどころ中継を挟む(なぜか狩野英孝の自宅から)、イントロに合わせて曲紹介を試みる(ほとんど失敗)、平日深夜なのに交通情報を入れる(矢作が柴田恭兵のモノマネで読んだためほぼ聴き取れず)等のいかにもラジオ的なフォーマットを次々とぶち込んだ結果、最終的にはリスナーから「本番中にそこそこキャリアのある芸人がラジオの練習してるだけ」というメールが届くほどのふざけっぷりを見せ、番組全体を典型的ラジオ番組のパロディとして仕立て上げる試みに成功した。  いずれの企画もきっかけ一発の単純な足し算から出発しているように見えるため、予告された時点ではどうにも先の見えない内容に聴き手は困惑させられる。だが、結果としてリスナーにとって想定外の面白さをコンスタントに生み出すその打率の高さは、スタッフによる仕掛けの精度の高さと、それを確実に生かすおぎやはぎの2人の現場対応力の賜物だろう。しかし逆にいえば、スタートがシンプルであるからこそ、その先の自由度が確保されているということでもあり、最初にゴールまで複雑に計算し尽くされているガチガチの企画であれば、予想外の面白さというのは生まれにくい。もちろん、どんな場面でも面白く料理できる芸人の腕前が前提になるのはいうまでもないが、ラジオの自由度を生かす方法論として非常に興味深い。  一見すると単純な足し算に見えたものが、メガネ越しに見ると掛け算に変わり思わぬ方向へと笑いを拡大させる。そんな笑いの増幅回路の出発点には、誰もが真っ先に排除してしまいがちな、きっかけとしての短絡思考がある。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) 「逆にラジオ」過去記事はこちらから

「笑いなき芸人ラジオ」という前代未聞の問題作『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』

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ダイノジ大谷のオールナイトニッポン
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。  パーソナリティー本人も繰り返しその言葉を口にするように、とにかく「熱い」ラジオである。だが、「熱さ」と「面白さ」は、必ずしも直結するものではない。すべてはその熱がどう生まれ、どう使われるかによる。そして熱さとは、すなわち危うさでもある。 『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』(ニッポン放送 毎週水曜深夜1:00~3:00)は、この4月改編の目玉のひとつである。芸歴を重ねた中堅芸人が、2月に放送された『オールナイトニッポンR』ただ一回を経て『ANN』1部のレギュラーを任されるというのは、大谷自身が「2部でも大抜擢」と言うほどの快挙である。ではなぜそれほどの厚遇を、彼は受けることになったのか。それは一重に、番組のコンセプトが非常にわかりやすく、狙いが定まっていたからだろう。  この番組が掲げているコンセプトは、「洋楽で世界を変えるラジオ番組」。そしてその根底にある武器は、パーソナリティーが好きなものを語る「熱量」である。この2つの要素はいずれも、本来の芸人ラジオにはちょうど欠けている部分だろう。前者に関しては、当然だが芸人のラジオは音楽評論家のラジオではないので、芸人ラジオとしては新たな試みに映る。そして後者の「熱量」に関しては、皮肉にもちょうど裏番組を担当する南海キャンディーズ山里亮太は、時に好きなアイドルについて熱く語ることがあるが、その中には必ず自分自身をも冷笑する冷めた視点が所々登場し、その熱は自虐的な笑いへと昇華される。つまり、芸人ラジオの中で珍しく熱さを感じさせる山里のラジオであっても、結果として熱さ一辺倒ではなく、主観的な熱さと客観的な冷静さの間から笑いが生まれる構造になっている。  だが『ANN』における大谷のトークには、その笑いという要素が、まったくといっていいほど登場しない。むしろ笑いを省くことで熱量をキープしている節があり、結果として芸人のラジオに期待すべき最大の長所が失われている。つまり「洋楽」と「熱量」という、ほかの芸人とかぶらない要素を生かすために、芸人本来の武器であるところの「笑い」を、芸人がすっかり手放してしまっているのである。  もちろん、裏番組の『JUNK』が世の中を冷たく笑う姿勢(というか、笑いとは本来そういうものである)で勝利している中で、そこに対するカウンターとして、別の武器を持って戦いたくなる気持ちは理解できる。誰もが希望を欲しがっている世の中で、音楽を通じて希望を熱く語るというのは、企画書的には完璧なプランであるように思える。だが、熱さとはつまり押しつけがましさでもあり、パーソナリティーが希望を語れば聴き手も希望的な気分に、熱く語れば聴き手も熱い気分になれるというわけではない。パーソナリティーとリスナーの関係とは、いやそれ以前に人間同士の関係とは、そこまで単純な反応で出来上がっているものではない。そのやり方が通用するならば、この世から熱血教師の言うことをきかない生徒は誰ひとりいなくなり、一瞬にして世界に平和が訪れるはずだ。  たしかに、リスナーに自らを「ボス」と呼ばせ、ラジオの向こうに「キミ」「お前ら」「10代のみんな」と話しかけ、母子家庭で母親が心中を常に考えていたという自らの不遇な少年時代を前向きに語り、「夢中になれるものを見つけてほしい」「世界を変える」「世界をひっくり返す」という刺激の強いポジティブ・ワードを連発する大谷のスタンスは、一部の若者を扇情するだろう。だがその裏には、「夢を持て」と言われても夢なんて信用できず、親や教師が押しつけてくる非現実的な希望的観測など聴きたくもないという人間がたくさんいる。そしてそういった、世の中と相容れない気持ちを抱えた人間が深夜ラジオのリスナーには特に多く、だからこそビートたけしや伊集院光をはじめ、深夜の芸人ラジオは一般社会に向けて放たれるその毒により、数多のリスナーを獲得してきた。  もちろん彼らが放ってきた毒は、実のところわざと斜に構えて気張った毒でもなんでもなく、本当は鋭利な「真実」でしかない。世の中というのは本来的に童話『裸の王様』のような構造になっていて、本当のことを口にするとそれが自動的に毒舌になってしまうという、避けがたい「ねじれ」を持っている。ビートたけしが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といって愛されたのは、それが前向きな言葉だからではなく、むしろ親や教師が絶対に言わないはずの、反社会的でありながら世の中の真実を射抜く言葉であったからだ。そしてたけしがそうやって真実=毒を吐くことで、世間に「本当のことを言ってもいいんだ」という自由な空気が広がっていく。笑いというのはそうやって逆説的に人の気持ちを動かして世の中の風通しを良くする力を間違いなく持っていて、それは単にポジティブな言葉でポジティブな世界を作ろうとするよりもはるかに説得力がある。  大谷は、番組初回冒頭からビートたけしへのリスペクトを表明していた。無論、だからといってたけしと同じことをしても意味はないが、とことんまで笑いにこだわり続ける姿勢がなければ、芸人としてラジオをやる意味はないのではないか。どんなに無名な洋楽アーティストの話であっても、音楽評論家の視点で、音楽評論の言葉で語るのではなく、芸人ならではの切り口と言葉で笑いに昇華してみせる――そこまでいけば本当に誰もやっていない境地にたどり着けるはずだが、誰もやっていないということは、つまり恐ろしく難しいということでもある。しかし、それくらいの覚悟がなければ、コンセプトありきで洋楽を持ち出すべきではない。今後、この番組内で笑いと音楽評論が結びつくことがあるのかどうか。そもそもそんな気など現時点ではないのだろうが、やるならそこを目指して突っ走ってほしいというのが、芸人ラジオを愛する者としての切なる願いである。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) 「逆にラジオ」過去記事はこちらから