しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 大人の世界では近ごろ頻繁に「ソリューション」なんて言葉がもっともらしく連呼されているが、解決以前にまず「そこにどんな本質的問題があるのか」を見出せなければ話にならない。答えの前には必ず疑問があり、質問がある。そういう意味では「ソリューション」より、「クエスチョン」のほうが偉大だ。今年で30年目を迎える長寿番組『夏休み子ども科学電話相談』(NHKラジオ第1 月~金曜8:05~11:45)をいい大人が聴いていると、つくづくそう思わされる。子どもは「気づき」の天才だ。 いまやネット上であらゆる解決手段が見つかる(本当にそれが解決なのかは別にして)時代だが、この番組は子どもたちと生電話をつなぎ、各分野の専門家の先生方が答えるという古典的スタイルを貫いている。生放送で、相手が子ども、その上表情が見えないという不確定要素の多いこの状況は、自由度の高いラジオの世界でも今どき稀少であり、サプライズ発生率の高さと対話のスリルという意味では、むしろ先鋭的ですらある。 子どもたちの質問の面白さは、何よりもその「角度」にある。見えている世界が同じでも、眺める角度を変えると世界はまったくの別物になる。そしてその想定外の角度は、多くの場合「前提となる知識がない」ことによって生まれている。無知は時にクリエイティブな発想を生む。たとえば6歳の女の子は、「どうして亀は鳴かないんですか?」と質問する。鳴くことよりも、鳴かないことを不思議に思うという発想は、彼女の中に「動物はすべて鳴くものだ」という、知識に基づかない独自の前提条件があることを意味している。「鳴かない動物もいる」と彼女がすでに知っていたら、きっとこんなユニークな質問は出てこないだろう。 加えて子どものすごさは、やはりその発想の異様なストレートさにある。ある少女が発した「ビワの木に砂糖水をあげたら、ビワの実は甘くなりますか?」という問いには、「そういえば、なんでそうじゃないんだろう?」と思わせる不思議な説得力がある。「甘いものを育てるために、甘いものをやる」というのは至極当たり前の発想に思えるが、どうやらそうではなく普通の水をやるべきだということは、みんななんとなく知っている。常識として知ってはいるが、しかし本質的にわかってやっているわけではない。「知っていることを習慣的にやっている」というだけの場面が、人間の生活には少なくない。子どもが真正面に捉えている視野が、大人にとっては死角であるということも珍しくない。この質問には、「知る」ことを「わかる」ことだと勘違いしている大人に警告を発するような、真っすぐな破壊力がある。もちろん質問した本人にそんな意図は微塵もない、というところが微笑ましいのだが。 ほかにも「猿は熱中症にならないのか?」という心優しい問いかけから、「家にあるもので雲を作りたいが、どうすれば作れるのか」という未来の科学者の質問、そして「むかし人間は猿だったと聞いたが、なぜ今いる動物の猿は人間にならなかったのか?」という『猿の惑星』さながらの壮大なクエスチョンに至るまで、大人の価値観に揺さぶりをかけるような鋭い質問が次々と繰り出されてゆく。その一方で、子どもらしい部分も随所に炸裂していて、そんなユルさも番組の大きな魅力になっている。 聴いていてまずドキッとするのは、突如としてすべてに興味を失う瞬間が子どもたちに訪れることで、解答者の先生の口から知らない専門用語が出てくると、彼らは最初の元気な挨拶がまるで別人であったかのように、あからさまにトーンダウンする。そうなると手練の先生方でも状況を立て直すのは難しく、いくら噛み砕いて説明しても、帰ってくるのはとても自分から質問したとは思えない生返事の連続で、しかも話が長くなると子どもがスタミナ切れを起こすという地獄の悪循環が待っている。 もちろん、会話が噛み合わないなんてのは日常茶飯事で、先生が子どもに質問を返すと子どもが突如黙り込んで放送事故寸前になるというのもすっかり定番の事態だ。しかしこれは考えてみれば当たり前のことで、知識レベルも年齢もかけ離れている者同士の間に通用する共通言語を見出すのはひどく難しい。先生方には「専門用語を使わずに専門領域を解説する」という難問が常に課されており、結局のところ最後は理屈ではなく、感覚的に通じ合えるかどうかにかかっている部分もある。考えてみればむしろ、専門用語や共通理解を前提とした普段の我々の対話のほうが例外であって、対話とは本来、共通項という甘えの存在しない場所から立ち上げていくべきものなのかもしれない。 しかし、そういう子どもたちの素直でビビッドな反応は聴いていて本当に楽しく、ラジオという映像のないメディアだと余計に声のトーンや呼吸が如実に伝わるから、ここには普段の大人同士の対話ではあり得ない妙なスリルがあって、一度聴くとどうにも癖になる。しばらく聴いていると、「この子いま先生の質問に焦って『知ってる』って答えたけど、本当は知らないな」なんて知ったかぶりも声のトーンで見抜けるようになってきて、まるでサッカーの試合でも見るように、局面ごとの変化をいちいち楽しめるようになってくる。もちろんそんな楽しみ方は邪道なのかもしれないが、子どもが本来持つ素直さがもたらす想定外の反応は、大人が提示する計画的な「ソリューション」とはまったく別の自由な角度を、いつも我々に突きつけてくる。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからNHK『夏休み 子ども科学電話相談』
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キュウリから原発まで語り尽くす、硬軟自在の吉川ワールド『D.N.A.ロックの殿堂~吉川晃司 Samurai Rock~』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 いま最も格好いい歳の重ね方をしている男のひとりが、吉川晃司だろう。ミュージシャンとしての活躍はもちろん、大河ドラマ『八重の桜』(NHK)の西郷隆盛役から『チョコモナカジャンボ』のCMに至るまで、ある種、ムチャ振りとも思えるキャラクターすら演じてみせる吉川の振れ幅と懐の深さは、ちょっと驚異的ですらある。そしてこの「幅」と「深さ」の両立こそが、吉川の魅力の真髄である。穴を深く掘るには幅が必要であり、幅を保つには深く根差した揺るがぬ軸が必要だ。 『D.N.A.ロックの殿堂~吉川晃司 Samurai Rock~』(JFN系 FM秋田 毎月第4月曜20:00~20:55ほか)は、まさにそんな吉川の「幅」と「深さ」を同時に感じられるラジオ番組である。残念ながら関東では放送されていないが、ポッドキャストで聴くことができる。 番組を聴いてまず驚くのが、その話題の振れ幅の大きさである。「今年はキュウリが大豊作で、毎朝2本ずつ収穫しております」といった趣味の家庭菜園の話や、飼っているメダカやウーパールーパーの話、そして音楽やドラマなど仕事の話はもちろん、震災以降は原発、TPP、消費増税やアベノミクス等の政治的話題に至るまで、吉川のトークは硬軟分け隔てなく自在に展開する。そして、放送初回冒頭で吉川が「自分なりの価値観を話していければ」と語ったように、ジャンケンでグーでもチョキでもパーでもない何かを堂々と繰り出してくるような、吉川独自の価値観があらゆる箇所で思わぬ角度から提示される。 たとえば正月の放送で吉川は、おみくじでは「凶」が好きだと語った。3年連続で「凶」を引いたがいずれも当たり年だった、とのことだが、「俺は名前に『吉』がついてるから、あんまり『吉』がめでたくない。普段からあるから別にいらない」という。なんだかものすごい屁理屈にも思えるが不思議と説得力があって、何より面白い。既存の価値観をそのまま受け入れるのではなく、新たな角度から自分流に解釈するのが吉川流である。彼は「知識をいかに知恵に変換するか」が大事だと語る。「知識は己の身体に一回入れてから頭に戻さないと、知恵には変わらない」と。 またある時は、豪雨の中、ずぶ濡れの人に自分の差している傘を貸してあげるべきだったかどうかと今も悩んでいるというリスナーのメールに対し、吉川は意外な答えを述べる。そのずぶ濡れの人は、雨に打たれることで、何かを洗い流して帰りたかったのかもしれない、と。もちろん、それが正解かどうかは永遠にわからないが、非常に想像力豊かで詩的な発想であり、思い悩む相談者の心も少なからず軽くなったのではないだろうか。 一方で震災や原発について語る際には、「臭いものにはフタをする」この国の政治体質に真っ向から異を唱え、後世に汚名を残すなと警鐘を鳴らす。そしてもちろん、自らも被災地のために具体的な行動を起こしている。 そんな吉川独特の価値観の根底には、彼が歴史から学んだ骨太な人生観がある。吉川は「亡くなったときに初めて人間がひとり完成する」と語り、「死ぬ直前まで夢の途中。旅の途中」だと断言する。さらには、「『人生折り返し地点』という言葉が好きじゃない。折り返してどうすんだよ」と市井の価値観を覆しにかかる。彼が番組内で口にする「朱に交わっても赤にならない」「長いものには巻かれず巻き返せ」「石橋は泳いで渡れ」といった言葉も、吉川が歴史から学び自ら実践してきたこと、あるいは自ら実践したことの答えを歴史の中に見出したものだろう。そしてどんなに真面目なことを語っても、そこにユーモアがあるというのがまさに吉川晃司である。 そもそも価値観というものは、わざわざ振りかぶって提示するものではなく、その人の根底に常に横たわっているものだから、硬軟問わずどんな話題においても必ず見え隠れするはずのものなのだが、それがメディアに乗っかって表れてくるシーンは、残念ながらあまり多くはない。局や番組側の事情によってフィルターをかけられているか、語り手自らがフィルターをかけて過剰防衛しているか、あるいは自分なりの価値観なんてものが語り手に最初からないか。しかしパーソナリティーの価値観が明確にあり、周囲が無駄なフィルターをかけなければ、番組は確実に面白いものになる。もちろんその人選と環境整備が何より難しいのだが、それがラジオ本来の魅力であり、昨今の演出過剰なエンタテインメントが見失いがちな本質でもあるだろう。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからiTunes Storeより
同僚アナとノーガードで打ち合う、本音トークの地下闘技場『田中みな実 あったかタイム』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 ある女性のキャラクターを語るとき、その言動が「天然」か「ぶりっ子」かという判断を、人は無意識のうちに下している。存在を丸ごと全肯定することに喜びを覚える一部の寛容なアイドル・ファンでない限り、そのキャラクターが作為的であるか否かというのは、好き嫌いの決定的な判断材料になり得る。たとえばTBSアナウンサーの田中みな実は、今のところ明らかに後者と見られているだろう。「週刊文春」(文藝春秋)の「嫌いな女子アナ」アンケート二連覇という実績が、それを如実に物語っている。 では、田中はどこまで本物のぶりっ子なのか? いや「本物のぶりっ子」は「人として偽物」ということになるので紛らわしいのだが、「本音のメディア」といわれるラジオであれば、きっとその真偽が明らかになるはずである。 彼女のラジオ番組『田中みな実 あったかタイム』(TBSラジオ 毎週土曜18:30~19:00)は、どういうわけか、いま最も緊張感あふれるラジオ番組のひとつである。すでに番組タイトルからして十二分にきな臭いが、その異様に牧歌的な番組名は、結果としてむしろ内容の危うさを際立てるために存在している。そしてここで言う「緊張感」や「危うさ」とは、シンプルに「リアリティー」や「面白さ」と言い換えることも可能で、実はこの番組、「真正面から本音をぶつけ合う」という、非常にラジオ的な根本原理で回っているのである。 とはいえ番組の基本構造は、会社の同僚であるTBSアナウンサーをゲストに呼んで語り合う「あったかトーク」というコーナーを中心に、その前後に彼女の一人しゃべりを配した、至ってシンプルなもの。アナウンサー同士、しかも同じ会社の社員同士のトークとなると、互いに保身前提で全方位的に気を遣うような、いかにも生ぬるい内容を想像してしまうが、実際にはむしろその逆。同じ職場であるという互いの距離の近さを利用したノーガードの近接格闘の様相で、遠慮会釈なく踏み込んだステップから喜怒哀楽、さまざまなパンチが繰り出される。 たとえば、後輩アナウンサーの小林悠を迎えた回では、小林の趣味である「仏像好き」「ダム好き」を「作戦」だと田中が激しく追及。「美人が親近感を持ってもらうためのかわいさアピール」とまで言ってのけ、しまいには「なんか嫌なことあった? だからダムとか見て、気持ち解放されちゃってんじゃないの?」と勝手に心配までし始めるという怒濤の展開。しかし、必ずしも田中の一方的な攻勢ではなく、田中が「あざとさを感じる」と小林を評すれば、「あなたにあざといと言われたくないです」と、後輩の小林も返す刀で激しく切りつける。 また、先輩アナウンサーの駒田健吾を迎えた回では、「距離がある感じ」「苦手なタイプのアナウンサー」と番組冒頭から田中への苦手意識を表明していた駒田が、トークが進むにつれ田中からのダメ出しにロープ際へと追い込まれてゆき、「(TBS社屋に)田中さんと会わなくて済む動線がほしい」という、本気でそう思ってなければ絶対に出てこない究極の一言が駒田の口からリリースされるに至る。 いやもちろん、同僚だからこそここまで言っても大丈夫、という意識はところどころ垣間見えるし、互いの声のトーンからはユーモアも少なからず感じられる。しかし一方で、本気であり本音であるというのも、そのフレーズの端々から如実に伝わってくる。 だが何よりすごいのは、相手にこれだけ厳しいセリフを、面と向かって言わせてしまう田中のキャラクターである。これはある意味、「ゲストから本音を引き出す力」という、アナウンサーに不可欠な能力といっていいだろう。「引き出す」というよりは「火をつける」に近いが、結果として対話が盛り上がり、聴き手を惹きつけているのは間違いない。 では、田中はなぜ相手の本音を引き出すことができるのか? それは、彼女が非常にストレートな発想を持ち、なおかつそれに自覚的だからだろう。 通常、素直でストレートな思考回路を持っている人間は、そのことに意外と自覚的でない場合が多い。それを世間では「天然」と呼ぶのかもしれず、いい意味でも悪い意味でも「空気が読めない」という表現が当てはまる。反対に、空気を読み真っすぐな思考を隠し通すことで何者かを演じ続けるのが「ぶりっ子」ということになるだろうか。 しかし番組を聴いていて驚くのは、時に語られる彼女の自己分析が、恐ろしく的確であるように思えることだ。「上昇志向の塊」「野心家」「頑固」「0か100かみたいな人間」「すぐ顔に出る」「意外と自分に自信がない」「奥ゆかしさや遠回りする感じが足りない」「社交的に見えて、まったく心を開いていない。開けない。開くのが怖い」―世評とほぼ変わらぬその自己分析からは、予想外の客観性が見て取れる。そして、世間で言われていることに自覚があるからこそ、相手に何を言われても受け止めることができるし、相手にも同等のパンチを受け止めることを要求する。いかにも帰国子女っぽいコミュニケーション術だといえるかもしれないが、「何者かを演じている」わけではないのは確かだろう。少なくともこの番組において彼女は、どちらかというと本当のことを言い過ぎている。 つまり田中は、「天然」でも「ぶりっ子」でもない。「天然」にしては自分を知りすぎているし、「ぶりっ子」にしては脇が甘すぎる。しかし、目の前の相手につい思ったことを口走ってしまうそのストレートな言動が、複雑怪奇な世の中とたびたび衝突することは容易に想像できるし、そんな他者との衝突こそがこの番組の面白さになっている。ラジオを聴くことで、多くの人にとってその印象が大きく変わるアナウンサーの一人だろう。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからTBSラジオ『田中みな実 あったかタイム』
信玄とノムさんを融合させる松村邦洋至高の技が、歴史への扉を開く『DJ日本史』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 歴史とはつまり「ワイドショー」であり、四次元版「すべらない話」である。数年に一度レベルの衝撃的事件という「点」の連続によって歴史という「線」は成立しているが、つまるところ個々の「点」は当然のことながら生々しい人間ドラマであって、単なる客観的事実の連続ではない。そんな人間臭い歴史のエンタテインメント性を如実に感じさせてくれる番組が、『DJ日本史』(NHKラジオ第1 隔週月曜21:05~21:55)である。 番組MCを務めるのは、大河ドラマ狂であり日本史通として知られる松村邦洋と、江戸文化歴史検定一級を持つ「お江戸ル」の堀口茉純の2人。松村に関しては、テレビ(特に『電波少年』)におけるイジられキャラのイメージが強いが、ラジオの世界では『オールナイトニッポン』のパーソナリティーを担当していたこともあり、そのしゃべりの評価は高い。そしてこの番組はまさに、松村の芸人としての確かな力量をベースに作られている。 しかし『DJ日本史』という番組名であるからには、DJは「日本史に登場する人物」でなければならない。ここで松村の、稀有な特殊能力が生きてくる。松村といえばビートたけしなどのモノマネ芸でおなじみだが、彼のモノマネには、二つの大きな特徴がある。一つは「発言の方向性までマネる」という技で、何を質問されても「本人が言いそうな答えをアドリブで返す」という能力を持っている。そしてもう一つは「モノマネのモノマネをする」というスタイルであり、この二つの能力が、松村の「偉人モノマネ」を可能にしている。 番組内の要所要所で松村は、歴史上の偉人になりすましてフリートークを繰り広げる。彼のモノマネが似ているあまり、つい普通に受け入れてしまいそうになるのだが、そこで行われていることは、実のところ、とんでもなく複雑怪奇なことなのである。なぜなら聴き手である我々は、それら歴史上の人物本人のしゃべりを、まったく聴いたことがないからだ。それなのに彼のモノマネは間違いなく面白いし、似ているとさえ感じるのである。これは一体どういうことなのか? この偉人モノマネにも、二種類の型がある。一つ目のパターンは、「大河ドラマで徳川家康の役をやっていた津川雅彦のマネをする」というような、「モノマネのモノマネ」というスタイルである。松村は津川のモノマネを得意としている上、無類の大河ドラマ好きでもあるので、「徳川家康役の津川雅彦」のマネができるという図式が自然と成り立つ。これならばセリフもドラマ内のものが使えるため、聴き手のイメージも、ドラマ内の津川を通じて徳川家康に到達することができる。 これだけでも十分に変則的なスタイルなのだが、問題はニつ目のパターンで、こちらははるかにスタートからゴールまでの経路がねじれている。たとえば松村は野村克也の口調で、武田信玄のマネをする。本人は信玄だと言っているのだが、そのボヤき口調は完全にノムさんのものだ。確かに「智将」というイメージは共通しているが、もちろんノムさんが信玄役をやったことなどない。信玄にボヤく印象もない。しかしその発言内容からは、それぞれの息子の名前が「勝頼」と「克則」で似ていて、ともに同程度に期待外れだったという共通点が、細い糸のように浮かび上がってくる。するとそのボヤき口調までが、不思議と徐々に信玄のものであるように思えてくるのである。これはちょっと異様な体験であり、ある種の発明であるといってもいいだろう。 松村は同様に、ビートたけしの口調で聖徳太子のマネをし、在原業平に出川哲朗口調で「ヤバイよヤバイよ!」と言わせ、足利義昭の口からは「信長神の子不思議な子」というノムさんが田中将大を評した名ゼリフが飛び出す(つまりノムさんは、信玄にも義昭にもなる)。こうなるともう完全にカオスの様相だが、しかしモノマネにはなぜか、「マネされた本人に突如として親近感が湧く」という効能があるのも事実。おかげでその後、素に戻った松村と堀口によって語られる歴史上のエピソードが、抵抗なくすんなりと入ってくるようになる。 歴史をエンタテインメントとして楽しむには、キャラクターを入口とするのが最もスムーズであり、大河ドラマや歴史小説、あるいは『信長の野望』や『戦国BASARA』のようなゲームから入る人も多いが、一瞬にしてキャラクターに入り込めるという意味では、この番組で繰り広げられる松村のモノマネ芸は、歴史への入口として最適かもしれない。 そして実は、この松村のモノマネ芸自体にも興味深い歴史がある。彼はまず、2004年に糸井重里の『ザ・チャノミバ Tea for us.』(TBSラジオ)という番組でこの偉人モノマネ芸を披露。その翌年、糸井の働きかけにより、『ほぼ織田信長のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)が実現し、その放送は一部ラジオリスナーの間で伝説化。そしてさらにしばしの時を経て、11年には『JUNK 爆笑問題カーボーイ』(TBSラジオ)内でこの芸が、再び大々的にフィーチャーされることになる。その際、爆笑問題の2人が松村のモノマネに大爆笑し続ける様子が非常に印象的だった。 そんな紆余曲折の末、いまNHKという場所で、その絶品のモノマネ芸はようやく定位置を得た。さまざまな識者に引き立てられ、計3つの局を渡り歩きながら力をつけてゆくそのプロセスは、まるで主君を替えつつも家を守り抜く戦国武将のようでもある。『DJ日本史』とは、そんなたくましい芸をきっかけに日本史への入口を切り拓いてくれる、斬新な歴史エンタテインメント番組である。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからNHKラジオ第1『DJ日本史』
「わからない」を楽しむ先に真実が見える、ふかわりょうの思考遊戯場『ROCKETMAN SHOW』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 今、ふかわりょうが面白い。『ひるおび!』(TBS系)や『5時に夢中!』(TOKYO MX)における彼の話術は、その独自の角度と不可思議な「間」において、他と一線を画する妙な存在感を放っている。特に後者においては、マツコ・デラックスや岡本夏生といった猛獣系コメンテーター陣に急所を噛まれつつもなお餌をやり続けるような、過去に類を見ぬ勇敢かつ斬新な司会者像を作り上げており、番組全体に異様な緊張感をもたらしている。 いや、もちろんふかわりょうは、最初から面白かった。登場時の、無表情で踊りながら攻撃的なフレーズを放つあるあるネタも絶大なインパクトを放っていたし、その後はこの『ROCKETMAN SHOW』(J-WAVE 毎週土曜25:00~29:00)という番組が、7年にわたり彼の実力を証明し続けてきた。ただその一方で、テレビの中のふかわは、シュールなネタを武器に切り込むキャラクターから、いつの間にか天然系イジられキャラへと変貌していった。それは『内村プロデュース』(テレビ朝日系)など、先輩芸人に囲まれる状況の中で自然と後輩キャラが根づいていった結果であるともいえるし、やはりネタよりもキャラを求められる昨今のバラエティ事情によるところが大きかったともいえる。 つまりふかわは、アウェイに弱かった。しかしこれは彼だけでなく、多くの若手・中堅芸人が共通して抱える問題である。芸人にとって自分のネタをやっている時間は、自らの世界観に周囲を巻き込めるという意味でホームだが、彼らの出演する多くのバラエティ番組は、すでにある状況に自らを合わせなければならないという意味で完全にアウェイである。すなわち、今の芸人の基本はアウェイなのである。 そんな過酷な状況に置かれている芸人にとって、自らがパーソナリティーを務めるラジオ番組というのは、単独ライブ以外ではほとんど唯一といっていい絶対的なホームになり得る。『ROCKETMAN SHOW』は、まさしくホームのふかわりょうを余すところなく堪能できる解放区である。「ROCKETMAN」という名称がふかわの音楽活動時の名義であること(先日自身のブログで、この名義を封印することが発表された)、そして放送局がFMであることから、音楽を主体とする番組であると思われかねないが、この番組の本質は間違いなくふかわの、わからないことと真摯に向き合い続ける粘り強い「語り」にある。 特にふかわの、今という時代と一般の感覚でフラットに接する姿勢は、芸人のラジオとしては珍しいといえるだろう。「スマホが奪ったもの」をメールテーマに掲げ、利便性の裏に眠る失われた豊かさをリスナーとともに考える。「あなたにとってテレビとは!?」というテーマを軸に、時代によって役割が変わってしまったかもしれない「今のテレビ」についてじっくりと語る。それも芸能人・業界人目線ではなく、あくまでリスナーと同じユーザー目線でリアルに語られる。そこでは、そもそもが「あるあるネタ」を出発点としている彼らしい観察眼が存分に発揮されるが、ラジオならではの長尺のしゃべりになると、あるある的なひとことの行間や裏側に隠されていた真理が浮かび上がってくるのが面白い。 たとえばふかわは、「自転車の車輪にテニスボール挟んでたの、あれなんだったの?」と、あるある的な疑問をまず投げかける。それに対し、この番組でふかわの相方役を務める放送作家の平松政俊(この人のふかわに対する是々非々っぷりは絶妙)が「あれはもう格好つけです」となんとなく断言。その言葉に呼応し、車輪のスポークにジャラジャラしたプラスチックの輪っかをつけるのが流行っていたこともついでに思い出しつつ、ふかわは「自転車に乗るという高揚感が昔と今では違う」というところにまで思考を飛躍させることで、「時代による価値観の違い」という根本的な地点にまで一気に到達する。ふとした笑い話がいつの間にやら思いがけぬ真実を炙りだす、というのはラジオにおけるトークの醍醐味であり、それはテレビで求められがちな短いコメントではなく、長尺のしゃべりの過程で湧き上がってくる思考のうねりがあってこそ可能になるものだが、この番組にはそうした思考のグルーヴが常に渦巻いている。 その思考の渦の根底にあるのは、ふかわ自身が番組内でよく口にする「『わからない』を楽しむ」という姿勢だろう。彼はいつだって、結論を急がない。答えを出すために問題を意図的に単純化したり、説明を楽にするために不純物を切り捨てて簡略化したりすることなく、むしろそこに多様性と新たな角度を見出し、より問題を複雑化させた状態で話を終えることが多い。その証拠に、彼の話のラストには、「難しいところだよね」「何が正しいかわからないよね」等の、不安定な言葉がフワッと置かれることが少なくない。だがそれは決して、その時点で考えることを投げ出した結果ではなく、そもそも彼が、いくら考えても結論の出ない話題を好んで題材として選んでいるからである。すでにわかりきっていることなど面白くないし、考える必要もない。そして人生について重要なことは、先人たちがいくら考えても結論の出なかったことばかりである。結論よりも考えるプロセスの楽しさを伝えるというのは、まさにラジオの本領でもある。 そんなふかわりょうが、ラジオで練り上げた思考のグルーヴを武器に、アウェイの地で異彩を放ち始めている。こんなに痛快なことはない。もちろんテレビという場で広大な自由が与えられることは滅多にあるものではないが、少ないスペースでも個人技を発揮できる体幹の強さは、間違いなくこの『ROCKETMAN SHOW』というホームの地で粘り強く培われてきたものだ。ホームでの地道な活動が、アウェイの地を引き寄せる。そしてアウェイの地も、やがてホームに感じられるようになっていく。理想論に思えるかもしれないが、それ以外に本領を発揮する方策はないだろう。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから『ROCKETMAN SHOW』(J-WAVE)
無礼講的な対話関係がつくり出す異文化交流の宴『吉田照美 飛べ!サルバドール』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 吉田照美はすぐムキになる。ムキになるから面白い。 人は物事を真に受けたとき、ムキになる。何事も、いったん真に受けなければ面白くもなんともない。真面目な話は互いが真に受けることで意義ある議論になり、冗談は相手が真に受けることで初めて冗談になる。つまりその場が面白くなるかどうかは、目の前の相手をムキにさせられるかどうかにかかっている。そこに初めて、単なる「会話」を越えた「対話」が生まれるからだ。 この4月から始まった番組『吉田照美 飛べ!サルバドール』(文化放送 月~金曜15:30~17:50)で、早朝から夕方へと活動の場を移した吉田が生き生きとしている。その理由は、もちろん単純に朝と夕方における自身の体調やテンションの違いや、聴取者層の違い、またそれに伴って求められる役割の違い等の環境的要因が考えられる。しかし一番の要因は、この番組がパーソナリティーの吉田を中心とする、全方位的な対話構造によって成り立っているという点にあるだろう。つまりは番組全体が、吉田をムキにさせる方向へと徹底的に最適化されているのである。 『飛べサル』は「日本だけのジョーシキにとらわれない なんでもありの情熱バラエティー」というコンセプトのもと、スイス出身で政治家マニアの春香クリスティーン、ハーバード大卒芸人の「パックン」ことパトリック・ハーラン、エジプト出身で歯に衣着せぬTwitter発言が話題のフィフィなど、曜日ごとに多国籍なコメンテーターを迎え、彼らと吉田との文化を越えた意見交換を軸に構成されている。成長環境や価値観を越えた意見交換というのは、共感を前提とする「会話」ではなく、前提を必要としない率直な「対話」を自然と生む構図であり、日本人にとって思いがけぬ意見がポンポン飛び出してくる面白さがある。 だが、対話といっても構える必要はまったくない。政治の話もあれば、「日本人のカブトムシ好きは異常。アメリカでは飼わない」とか「スイスの学校には校歌がない」なんて日常レベルのカルチャーショックも、吉田がここぞとばかり的確に掘り下げる質問攻撃に導き出されてきたりして、対話とは硬軟問わず「違和感との出会い」であり「発見のプロセス」であるということをあらためて痛感させられる。 以上のように、『飛べサル』における外見的に最も明快な対話構造はこの「国籍を越えた意見交換の場」という部分にあるのだが、実はさらに重要な対話関係が、それとは別の場所にある。それは、番組アシスタントを務める女子アナウンサー・室照美の存在である。北陸放送から今年文化放送に入社したばかりの彼女は、品のあるトーンを保ちながらも吉田に対しコンスタントに意外性のあるコメントを返す。そのナチュラルなセンスと肝の据わりっぷりは、間違いなく吉田をムキにさせる相手としてふさわしい逸材である。 たとえば毛量の話題になった際には、「でも62歳にしてはいっぱい生えてると思います」と非情な条件つきの褒め言葉をやさしい口調で投げかけ、吉田の絵が三軌展で受賞したという事実を前に「また絵が高くなりますね!」と邪心のないトーンで明るく言い放つ。かと思えば、「何か好きなブランドとかあったら言っといたほうがいい。誰かくれるとも限らないから」というフリに対し、「ミュウミュウのバッグが欲しいです」と即答。その鮮やかな答えを受け、すっかり他人事だと思って油断して「みんな聴きましたか?」と喜んでいる吉田に、「照美さんに言ってるんですよ!」と急角度の切り返しでたじろがせるその当意即妙っぷり。時にかなり厳しくツッコんでいく吉田のスタンスに対し、対等あるいは一枚上手の答えを返す彼女の存在は、早くも番組を盛り上げていく重要な装置として機能している。もちろんそんな答えを呼び込む吉田の、「誰かくれるとも限らないから」という魔性の誘い水が、対話の取っかかりとして見事に効いているのだが。 さらにこの番組には「飛び出せ!子ザル」という、若手リポーターに番組の街頭宣伝をさせるコーナーがあり、ここでの吉田は、後輩アナウンサーらに無理難題を言いつける「無茶ブリの鬼」と化す。しかし、リポーター側も時に反抗心を露わにし、泣き言を言ったりフリを無視したり、時には吉田からの指示を遮断するためイヤホンを外すなどといった暴挙に出たりもする。このコーナーは、そうやってムキになった結果として思いがけぬ言動が飛び出すことでそれぞれのキャラクターが立ってくるという、いわばキャラ開発のための仕組みにもなっており、吉田は自分自身だけでなく、相手をムキにさせる能力にも長けている。そして互いが熱くなったところで初めて熱湯を掛け合うように対等な、無礼講的な笑いが生み出される。 こういった対話的な構造にあふれた番組づくりの基盤には、そもそもスタッフとパーソナリティー間の対話的な信頼関係が必要不可欠である。両者が生ぬるく支え合うような関係ではなく、互いに相手を出し抜いてやろうと常に狙っているような緊張感のある対話が、ここでは番組という作品を通じてとり交わされている。そして何よりもまずそういう空気をつくり出すのが、ずっと一線を張ってきたラジオパーソナリティーとしての吉田の根本的な強みであり、『飛べサル』は結果として吉田照美でなければ成立し得ない番組になっている。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから文化放送『吉田照美 飛べ!サルバドール』
無礼講的な対話関係がつくり出す異文化交流の宴『吉田照美 飛べ!サルバドール』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 吉田照美はすぐムキになる。ムキになるから面白い。 人は物事を真に受けたとき、ムキになる。何事も、いったん真に受けなければ面白くもなんともない。真面目な話は互いが真に受けることで意義ある議論になり、冗談は相手が真に受けることで初めて冗談になる。つまりその場が面白くなるかどうかは、目の前の相手をムキにさせられるかどうかにかかっている。そこに初めて、単なる「会話」を越えた「対話」が生まれるからだ。 この4月から始まった番組『吉田照美 飛べ!サルバドール』(文化放送 月~金曜15:30~17:50)で、早朝から夕方へと活動の場を移した吉田が生き生きとしている。その理由は、もちろん単純に朝と夕方における自身の体調やテンションの違いや、聴取者層の違い、またそれに伴って求められる役割の違い等の環境的要因が考えられる。しかし一番の要因は、この番組がパーソナリティーの吉田を中心とする、全方位的な対話構造によって成り立っているという点にあるだろう。つまりは番組全体が、吉田をムキにさせる方向へと徹底的に最適化されているのである。 『飛べサル』は「日本だけのジョーシキにとらわれない なんでもありの情熱バラエティー」というコンセプトのもと、スイス出身で政治家マニアの春香クリスティーン、ハーバード大卒芸人の「パックン」ことパトリック・ハーラン、エジプト出身で歯に衣着せぬTwitter発言が話題のフィフィなど、曜日ごとに多国籍なコメンテーターを迎え、彼らと吉田との文化を越えた意見交換を軸に構成されている。成長環境や価値観を越えた意見交換というのは、共感を前提とする「会話」ではなく、前提を必要としない率直な「対話」を自然と生む構図であり、日本人にとって思いがけぬ意見がポンポン飛び出してくる面白さがある。 だが、対話といっても構える必要はまったくない。政治の話もあれば、「日本人のカブトムシ好きは異常。アメリカでは飼わない」とか「スイスの学校には校歌がない」なんて日常レベルのカルチャーショックも、吉田がここぞとばかり的確に掘り下げる質問攻撃に導き出されてきたりして、対話とは硬軟問わず「違和感との出会い」であり「発見のプロセス」であるということをあらためて痛感させられる。 以上のように、『飛べサル』における外見的に最も明快な対話構造はこの「国籍を越えた意見交換の場」という部分にあるのだが、実はさらに重要な対話関係が、それとは別の場所にある。それは、番組アシスタントを務める女子アナウンサー・室照美の存在である。北陸放送から今年文化放送に入社したばかりの彼女は、品のあるトーンを保ちながらも吉田に対しコンスタントに意外性のあるコメントを返す。そのナチュラルなセンスと肝の据わりっぷりは、間違いなく吉田をムキにさせる相手としてふさわしい逸材である。 たとえば毛量の話題になった際には、「でも62歳にしてはいっぱい生えてると思います」と非情な条件つきの褒め言葉をやさしい口調で投げかけ、吉田の絵が三軌展で受賞したという事実を前に「また絵が高くなりますね!」と邪心のないトーンで明るく言い放つ。かと思えば、「何か好きなブランドとかあったら言っといたほうがいい。誰かくれないとも限らないから」というフリに対し、「ミュウミュウのバッグが欲しいです」と即答。その鮮やかな答えを受け、すっかり他人事だと思って油断して「みんな聴きましたか?」と喜んでいる吉田に、「照美さんに言ってるんですよ!」と急角度の切り返しでたじろがせるその当意即妙っぷり。時にかなり厳しくツッコんでいく吉田のスタンスに対し、対等あるいは一枚上手の答えを返す彼女の存在は、早くも番組を盛り上げていく重要な装置として機能している。もちろんそんな答えを呼び込む吉田の、「誰かくれないとも限らないから」という魔性の誘い水が、対話の取っかかりとして見事に効いているのだが。 さらにこの番組には「飛び出せ!子ザル」という、若手リポーターに番組の街頭宣伝をさせるコーナーがあり、ここでの吉田は、後輩アナウンサーらに無理難題を言いつける「無茶ブリの鬼」と化す。しかし、リポーター側も時に反抗心を露わにし、泣き言を言ったりフリを無視したり、時には吉田からの指示を遮断するためイヤホンを外すなどといった暴挙に出たりもする。このコーナーは、そうやってムキになった結果として思いがけぬ言動が飛び出すことでそれぞれのキャラクターが立ってくるという、いわばキャラ開発のための仕組みにもなっており、吉田は自分自身だけでなく、相手をムキにさせる能力にも長けている。そして互いが熱くなったところで初めて熱湯を掛け合うように対等な、無礼講的な笑いが生み出される。 こういった対話的な構造にあふれた番組づくりの基盤には、そもそもスタッフとパーソナリティー間の対話的な信頼関係が必要不可欠である。両者が生ぬるく支え合うような関係ではなく、互いに相手を出し抜いてやろうと常に狙っているような緊張感のある対話が、ここでは番組という作品を通じてとり交わされている。そして何よりもまずそういう空気をつくり出すのが、ずっと一線を張ってきたラジオパーソナリティーとしての吉田の根本的な強みであり、『飛べサル』は結果として吉田照美でなければ成立し得ない番組になっている。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから文化放送『吉田照美 飛べ!サルバドール』
ふとした思いつきをねじれた笑いに変える、短絡思考の魔術『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 あの柔らかな物腰の語り口に騙されてはいけない。メガネが2人並んでるからといって、安易に信用したり説得力を感じてる場合じゃない。むしろその信用ならない安直な物言いこそが、いま最も信用できるねじれた笑いを生み出している。『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』(TBSラジオ 毎週木曜深夜1:00~3:00)とは、シンプルな入口から招き入れた聴衆を、複雑怪奇な出口へと誘う魔性のラジオ番組である。 まず何よりもおぎやはぎ最大の魅力は、そのあまりに純度の高い「短絡思考」にある。「短絡」というと聞こえが悪いかもしれないが、笑いが一般的な価値観を壊す機能を持つ以上、短絡的な発想はその強力な武器になり得る。たとえば、世にばっこする変態おじさんを「変なおじさん」と名付けキャラクター化した志村けんも、タモリに「昼メガネ」とあえて表層イメージのみであだ名をつける有吉弘行も、そのまんますぎて誰も通れなかった道を発見し、それを勇気を持って提示することで破壊的な笑いを生み出してきた。 そもそもが、小木と矢作で「おぎやはぎ」である。コンビ名からしてそのスタンスは徹底されている。そんな彼らの担当する番組名が、2人ともメガネをかけているから『メガネびいき』である。ちなみに小木は、ちょうど奈歩夫人との熱愛発覚直後に始まったこの番組の第1回で「結婚すべきか否か」をリスナーに問い、「結婚したほうが(奥さん以外の女性に)モテる」という意見に心を揺さぶられて結婚したと公言している。もちろんそこまで単純な話ではないだろうし、実際に結婚してみたら思ったほどモテなかったと嘆いてもいるのだが、放送第2回で早速入籍を発表するというスピード感も含め、聴き手としてはあまりの早計さに衝撃を受けつつ、グッと心を掴まれた記憶がある。 ほかにもAKB48に対する発言など、主に小木の率直すぎる物言いが話題になりがちな番組ではあるが、一方でスペシャルウィークにおける斬新な企画の数々も、この番組の大きな魅力である。 矢作がチャーハン作りにハマっているという理由で、中華料理人の金萬福を呼んで番組中にチャーハンを作ることになったが、それだけでは数字が取れないというので深夜ラジオらしく単純に女性のあえぎ声をかぶせた結果、完全なるカオスが出現した「チャーハンとエロス、奇跡の融合スペシャル」。小木がYouTube上で偶然発見したと言い張るボーカロイド「オギ音ミク」と小木の義弟である森山直太朗の作曲バトルに、ブーム真っただ中のスギちゃんをなんとなく投入した結果、なぜか森山とスギちゃんの間に強烈なケミストリーが発生し、思いがけぬ感涙の名曲が生まれた「即興ソング対決」。そして先日のスペシャルウィークには、ラジオのレギュラー4本を抱えるサンドウィッチマンをゲストに迎え、ラジオ愛あふれるリスナーから寄せられた一通のメールをきっかけに発案された「アメリカよ!これがラジオだ!!」という究極のラジオを目指す企画を敢行した。 そこでおぎやはぎは「ラジオ愛」を「旧態依然としたありがちなラジオっぽさ」と定義した上で、やたらと現在時刻を読み上げる、ところどころ中継を挟む(なぜか狩野英孝の自宅から)、イントロに合わせて曲紹介を試みる(ほとんど失敗)、平日深夜なのに交通情報を入れる(矢作が柴田恭兵のモノマネで読んだためほぼ聴き取れず)等のいかにもラジオ的なフォーマットを次々とぶち込んだ結果、最終的にはリスナーから「本番中にそこそこキャリアのある芸人がラジオの練習してるだけ」というメールが届くほどのふざけっぷりを見せ、番組全体を典型的ラジオ番組のパロディとして仕立て上げる試みに成功した。 いずれの企画もきっかけ一発の単純な足し算から出発しているように見えるため、予告された時点ではどうにも先の見えない内容に聴き手は困惑させられる。だが、結果としてリスナーにとって想定外の面白さをコンスタントに生み出すその打率の高さは、スタッフによる仕掛けの精度の高さと、それを確実に生かすおぎやはぎの2人の現場対応力の賜物だろう。しかし逆にいえば、スタートがシンプルであるからこそ、その先の自由度が確保されているということでもあり、最初にゴールまで複雑に計算し尽くされているガチガチの企画であれば、予想外の面白さというのは生まれにくい。もちろん、どんな場面でも面白く料理できる芸人の腕前が前提になるのはいうまでもないが、ラジオの自由度を生かす方法論として非常に興味深い。 一見すると単純な足し算に見えたものが、メガネ越しに見ると掛け算に変わり思わぬ方向へと笑いを拡大させる。そんな笑いの増幅回路の出発点には、誰もが真っ先に排除してしまいがちな、きっかけとしての短絡思考がある。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』
「笑いなき芸人ラジオ」という前代未聞の問題作『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 パーソナリティー本人も繰り返しその言葉を口にするように、とにかく「熱い」ラジオである。だが、「熱さ」と「面白さ」は、必ずしも直結するものではない。すべてはその熱がどう生まれ、どう使われるかによる。そして熱さとは、すなわち危うさでもある。 『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』(ニッポン放送 毎週水曜深夜1:00~3:00)は、この4月改編の目玉のひとつである。芸歴を重ねた中堅芸人が、2月に放送された『オールナイトニッポンR』ただ一回を経て『ANN』1部のレギュラーを任されるというのは、大谷自身が「2部でも大抜擢」と言うほどの快挙である。ではなぜそれほどの厚遇を、彼は受けることになったのか。それは一重に、番組のコンセプトが非常にわかりやすく、狙いが定まっていたからだろう。 この番組が掲げているコンセプトは、「洋楽で世界を変えるラジオ番組」。そしてその根底にある武器は、パーソナリティーが好きなものを語る「熱量」である。この2つの要素はいずれも、本来の芸人ラジオにはちょうど欠けている部分だろう。前者に関しては、当然だが芸人のラジオは音楽評論家のラジオではないので、芸人ラジオとしては新たな試みに映る。そして後者の「熱量」に関しては、皮肉にもちょうど裏番組を担当する南海キャンディーズ山里亮太は、時に好きなアイドルについて熱く語ることがあるが、その中には必ず自分自身をも冷笑する冷めた視点が所々登場し、その熱は自虐的な笑いへと昇華される。つまり、芸人ラジオの中で珍しく熱さを感じさせる山里のラジオであっても、結果として熱さ一辺倒ではなく、主観的な熱さと客観的な冷静さの間から笑いが生まれる構造になっている。 だが『ANN』における大谷のトークには、その笑いという要素が、まったくといっていいほど登場しない。むしろ笑いを省くことで熱量をキープしている節があり、結果として芸人のラジオに期待すべき最大の長所が失われている。つまり「洋楽」と「熱量」という、ほかの芸人とかぶらない要素を生かすために、芸人本来の武器であるところの「笑い」を、芸人がすっかり手放してしまっているのである。 もちろん、裏番組の『JUNK』が世の中を冷たく笑う姿勢(というか、笑いとは本来そういうものである)で勝利している中で、そこに対するカウンターとして、別の武器を持って戦いたくなる気持ちは理解できる。誰もが希望を欲しがっている世の中で、音楽を通じて希望を熱く語るというのは、企画書的には完璧なプランであるように思える。だが、熱さとはつまり押しつけがましさでもあり、パーソナリティーが希望を語れば聴き手も希望的な気分に、熱く語れば聴き手も熱い気分になれるというわけではない。パーソナリティーとリスナーの関係とは、いやそれ以前に人間同士の関係とは、そこまで単純な反応で出来上がっているものではない。そのやり方が通用するならば、この世から熱血教師の言うことをきかない生徒は誰ひとりいなくなり、一瞬にして世界に平和が訪れるはずだ。 たしかに、リスナーに自らを「ボス」と呼ばせ、ラジオの向こうに「キミ」「お前ら」「10代のみんな」と話しかけ、母子家庭で母親が心中を常に考えていたという自らの不遇な少年時代を前向きに語り、「夢中になれるものを見つけてほしい」「世界を変える」「世界をひっくり返す」という刺激の強いポジティブ・ワードを連発する大谷のスタンスは、一部の若者を扇情するだろう。だがその裏には、「夢を持て」と言われても夢なんて信用できず、親や教師が押しつけてくる非現実的な希望的観測など聴きたくもないという人間がたくさんいる。そしてそういった、世の中と相容れない気持ちを抱えた人間が深夜ラジオのリスナーには特に多く、だからこそビートたけしや伊集院光をはじめ、深夜の芸人ラジオは一般社会に向けて放たれるその毒により、数多のリスナーを獲得してきた。 もちろん彼らが放ってきた毒は、実のところわざと斜に構えて気張った毒でもなんでもなく、本当は鋭利な「真実」でしかない。世の中というのは本来的に童話『裸の王様』のような構造になっていて、本当のことを口にするとそれが自動的に毒舌になってしまうという、避けがたい「ねじれ」を持っている。ビートたけしが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といって愛されたのは、それが前向きな言葉だからではなく、むしろ親や教師が絶対に言わないはずの、反社会的でありながら世の中の真実を射抜く言葉であったからだ。そしてたけしがそうやって真実=毒を吐くことで、世間に「本当のことを言ってもいいんだ」という自由な空気が広がっていく。笑いというのはそうやって逆説的に人の気持ちを動かして世の中の風通しを良くする力を間違いなく持っていて、それは単にポジティブな言葉でポジティブな世界を作ろうとするよりもはるかに説得力がある。 大谷は、番組初回冒頭からビートたけしへのリスペクトを表明していた。無論、だからといってたけしと同じことをしても意味はないが、とことんまで笑いにこだわり続ける姿勢がなければ、芸人としてラジオをやる意味はないのではないか。どんなに無名な洋楽アーティストの話であっても、音楽評論家の視点で、音楽評論の言葉で語るのではなく、芸人ならではの切り口と言葉で笑いに昇華してみせる――そこまでいけば本当に誰もやっていない境地にたどり着けるはずだが、誰もやっていないということは、つまり恐ろしく難しいということでもある。しかし、それくらいの覚悟がなければ、コンセプトありきで洋楽を持ち出すべきではない。今後、この番組内で笑いと音楽評論が結びつくことがあるのかどうか。そもそもそんな気など現時点ではないのだろうが、やるならそこを目指して突っ走ってほしいというのが、芸人ラジオを愛する者としての切なる願いである。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからダイノジ大谷のオールナイトニッポン
『JUNK』パーソナリティー全員を巻き込む剛腕・太田光の過剰性『爆笑問題の日曜サンデー』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 爆笑問題の太田光は「過剰の人」である。そしてその過剰性は、時に周囲をも巻き込む原動力となる。人はより過剰なものに反応することによってポテンシャルを引き出されるもので、理想的な場の中心には、必ず刺激的なモチベーターが必要になる。3月24日、『爆笑問題の日曜サンデー』(TBSラジオ 毎週日曜13:00~17:00)内の企画として催された「10周年突破記念! JUNK大集合!!」はまさに、そんな太田光の過剰性が空気を作り上げた場に、名だたる芸人たちの化学反応を呼び込む舞台となった。 この「JUNK大集合」という企画は、同局の深夜番組『JUNK』のパーソナリティーを全員集めて公開生放送を行うという、いわばお祭りである。2011年に行われた前回はエレ片のスケジュールが合わず欠席したが、2度目となる今回は伊集院光、爆笑問題、山里亮太、おぎやはぎ、バナナマン、エレ片と、初めて全パーソナリティーが勢揃いする形となった。だがメンツが揃えば、すなわち面白くなるという読みは明らかに早計で、「人数が多くなるとそれぞれの良さが消える」というのはテレビでよく見る光景である。 さらにいえば、深夜ラジオの魅力の一端はその密室的な空気にあり、各パーソナリティーがそれぞれの番組内でリスナーとの間に独自の世界観を作り上げているため、人を集めたからといって単純な足し算で笑いの量を見積もることはできない。リスナーとパーソナリティーの一対一の関係が基本となるラジオでは、スペシャルウィークに聴取率狙いのゲストをひとり呼ぶだけでも、その世界観があっけなく壊れ、途端につまらなくなってしまうというようなことが度々起こるのである。つまりこういった企画の中心には、自らの強力な世界観で全体を引っ張りつつも、各人の自由を許容する人材が求められる。 もちろん、爆笑問題の番組内企画という形式を取っている以上、番組のホストである爆笑問題の世界観に、他の芸人がゲストとして合わせていくのは当然といえば当然のなりゆきなのだが、合わせにいくと取れないというのが笑いの難しさでもある。理想はゲストがホストに話を合わせるのではなく、ホストがゲストの話を引き出すという形だが、これには「引き出す」というより、「こじ開ける」といったほうがいいくらいの強引さが必要だというのは、黒柳徹子が見事に証明している。タイプは違えど太田光の過剰性はまさに、この相手の心の扉をこじ開ける強引さに直結している。それは「相手の懐に飛び込む勇気」とも、「異様な好奇心」ともいえる。もちろん「デリカシーのなさ」と言い換えることも可能だが。 相方の田中裕二、TBSアナウンサーの江藤愛と共にステージに飛び出した太田光はまず、「爆笑問題の峯岸みなみと申します」とのっけからふざけきった自己紹介を披露し、オープニングトークにおける「潰れろ、ニッポン放送!」のひとことで、一瞬にしてその場に一般常識とは別個の世界観を築き上げる。「世界観」といえば聞こえはいいが、つまりは常識的な限界点を自ら真っ先に突破してみせることで、他の出演者にも観客にもリスナーにも、この場の自由を担保していることになる。小説の一行目や漫画の一コマ目と同じく、ラジオのオープニングトークには、その世界の枠組みを規定する機能がある。昼間の放送でありながら、太田のこのひとことで、発言の基準は深夜放送の枠組みへと一気にこじ開けられた。 その後、各曜日のパーソナリティーをステージに呼び込むと、太田は限界すれすれの質問を投げかけることで各人の魅力を次々と引き出してゆく。たとえばおぎやはぎ小木に対し、「お前、森山良子と結婚したんだっけ?」と真ん中高めに明らかな釣り球を投げつけ、小木の「誰があんなババアと」という期待以上の危険球を引き出す。また、ラジオ界におけるこの先の見通しについて伊集院光が「永(六輔)さんを待つ」と微妙にボカした言葉を発すると、太田はすぐさま「永さんの何を待つの?」と無慈悲に掘り下げ、「永さんの幸せを待つ」という伊集院の一見温かな(その実どす黒い)名答を導き出す。しかもそれだけでなく、続けて「『永六輔』から『永眠』になる」とまで言ってしまうのがまさに太田光の過剰性で、ここまでいくとさすがにいき過ぎにも思えるが、この過剰性が各芸人を刺激し、この場でしか生まれ得ない笑いを導き出していたのも間違いない。 このような太田の質問投球術は、まるで「強い球を投げないと強い球は返ってこない」と堅く信じているような剛腕っぷりで、しかし相手の実力が確かな場合に限り、それは真実である。問題はむしろ、こういった特殊な企画外には、その剛腕を存分に発揮する場があまりないように見える(発揮してもカットされてしまう)ことで、このように「場の空気を作る能力」を持った太田こそが、誰よりもそれを許してくれる「場」を求めているのではないか。『爆笑問題の検索ちゃん』や、その流れをくむ現在の『ストライクTV』(共にテレビ朝日系)あたりでも確認できるように、芸人・太田光はお気に入りの芸人に囲まれている場でこそ、その本領を遺憾なく発揮する。つまり自らが作り上げた場の中から、最も恩恵を受けているのも太田自身であり、「強く投げたボールを強く投げ返されることで、次にさらに強いボールを投げることができる」という、自らの過剰性をきっかけに周囲を巻き込んで発動する「過剰性のループ状態」こそが、太田光の笑いの真骨頂なのである。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからTBS RADIO|爆笑問題の日曜サンデー








