大震災の被害に遭ったのは人間だけじゃない! 被災地に取り残されたペットと家畜の過酷な現状

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『犬と猫と人間と2』の宍戸大裕監督(画像左)と飯田基晴プロデューサー。
物いわぬ被災動物たちの現状を取材して回った。
 動物たちの命の大切さを知ってもらえる映画を作ってほしい。ドキュメンタリー映画を撮る飯田基晴監督は“猫おばあちゃん”こと稲葉恵子さんから頼まれ、ペットブームに沸く日本で犬や猫たちがどのような状況に置かれているのかを取材し、4年がかりで『犬と猫と人間と』(09)を完成させた。飼い主が手放した犬や猫たちの多くは各自治体が設けた保護施設で殺処分に遭い、その数は年間30万頭以上にも及ぶことに言及した同作は、単館上映ながら大きな反響を呼んだ。前作から4年、第2弾となる『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』が公開される。サブタイトルにあるように、2011年3月に起きた東日本大震災によって被災地で暮らしていたペットたちはどのような状況に陥ったのか、さらには福島第一原発事故によって警戒区域に残されたペットや家畜たちはどうなったのかを追っている。今回、飯田監督はプロデュースに回り、宮城県在住の若手映像作家・宍戸大裕監督がカメラを手に1年8カ月にわたって被災地を訪ね歩いた。宮城から上京した宍戸監督には『犬と猫と人間と2』の撮影の裏側を、そして飯田プロデューサーには前作で取り上げたペットの殺処分問題がその後どうなったかについても語ってもらった。 ──前作『犬と猫と人間と』は、当サイトでも大変な反響がありました。飯田さんは中学校で動物たちの命の大切さを考える授業を行うなど、映画の公開後も様々な活動を続けていますね。 飯田 映画の作り手がそこまでやる必要があるのか分かりませんが、子どもたちと一緒に考えることは自分にとっても大切だと思うんです。最初に稲葉さんに頼まれたときに「大人にも子どもにも命の大切さを教えてほしい」と言われました。『犬と猫と人間と』は各地で上映会が開かれましたが、上映時間が118分ということもあり、子どもたちに気軽に観てもらうのは難しかった。そこで再構成した20分のダイジェスト版を作り、学校の授業などで活用してもらっています。学校で「犬や猫の命について考えてみよう」と問い掛けると、自分で考えることができる子は「じゃあ、犬や猫以外の動物はどうなの?」と思うかもしれません。ペットとして飼う犬や猫の命と、牛や豚の命はどこが違うの? と。僕が授業をするときは、そんなことも子どもたちと話し合っていますが、大人でも答えられない問いです。また結果として、今回は犬と猫だけではなく、福島の警戒区域に残された牛たちについても触れています。
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福島市にある動物シェルター「SORA」の代表・菅野利枝さん。
警戒区域で保護された犬30匹、猫20匹前後の世話をしている。
──宍戸監督は学生時代に飯田さんからドキュメンタリー製作のレクチャーを受けたそうですが、最初から『犬と猫と人間と』の続編を作ろうという意識でカメラを回し始めたわけではなかった? 宍戸 そうですね、最初から映画にしようと考えていたわけではないですね。震災までは東京の北千住で暮らしていたんですが、実家のある宮城がどんな状況なのか心配で2011年3月19日に帰郷し、そのときからカメラを回し始めました。地元の人たちが生きている姿をとにかく映像として記録しようと思ったんです。でも、被災した方たちにカメラを向けることができなかった。カメラを向けたら、何か言葉を掛けなくちゃいけない。『犬と猫と人間と2』の冒頭で全壊した家の前に佇んでいた男性に「ご実家ですか?」と僕が話し掛けて無視される様子が映っていますが、被災地の真っただ中で、まともに取材することができなかったんです。 飯田 被災地の現実に、自分なりに向き合おうとしたわけだよね。意気込みはあっても、実際に被災した人にカメラはそうそう向けられない。 宍戸 被災地を回って3日間は何も撮れませんでしたが、石巻で一匹の猫が瓦礫だらけになった商店街を横切るのに気づいて、慌ててカメラで追ったんです。そのとき「いい画が撮れた?」と声を掛けてきたのが、お好み焼き屋のご主人・小暮榮一さん。震災前から野良猫に餌をあげていた小暮さんから話し掛けられたことで、ようやく落ち着いてカメラを回せるようになったんです。その後、飯田さんから動物愛護団体「アニマルクラブ石巻」の様子を見てきてほしいと電話で頼まれ、アニマルクラブを通して被災動物たちの実情を知りました。そこで被災地が復興していく様子、震災を生き延びた動物たち、それに復興に大きな影響をもたらしている原発事故問題を、ひとつの作品にできないか考えるようになったんです。 飯田 僕も最初は宍戸くんの撮った映像が、映画になるとまでは考えてなかった。被災地の動物たちの状況が分かればいいなくらいに思っていた。ドキュメンタリー作品は、実際にどんな人に出会っていくか次第で全然変わってくるもの。アニマルクラブ石巻の代表・阿部智子さんに会うことは僕から頼んだわけだけど、宍戸くんは「飯田監督の弟子ですが……」なんて自己紹介しながら取材してたよね。僕は弟子なんか取った覚えは全然ないのに(笑)。 宍戸 すみません。阿部さんが施設内の片付けで忙しそうにしていたので、「何か言わなきゃ」と、咄嗟に出てしまった言葉なんです(苦笑)。
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宮城県名取市在住の宍戸監督。「幸いにも自分の実家は無事でしたが、自分の故郷が
どう復興していくのか記録しなくてはと思ったんです」
──最初はなかなか取材が覚束なかった新人監督が、ペットたちを介することで被災者たちの心情に寄り添っていくようになる。動物たちを題材にしたドキュメンタリーですが、宍戸監督自身が成長していくセルフドキュメンタリー的な側面もありますね。 宍戸 自分ではセルフドキュメンタリーを作ろうなんて意識はなかったんですが、結果的にはそうなったかもしれません。僕としては取材先で出会った人たちの人柄に魅了されて、カメラで追い続けたという感じなんです。取材を続ける中で、足りない部分を少しずつ自分で考えて取材していくうちに、作品にまとまったという感じですね。 ■原発事故が招いた惨状。無言で語る動物たちの記録 ──津波被害の大きかった石巻で動物たちはどうなったのか、宍戸監督はペットを飼っていた被災者たちを取材するように。避難所や仮設住宅は、ペットの持ち込み禁止だったところが多かったと聞いています。 宍戸 避難所での生活が長引くようになり、話し合いによって棟ごとにペットOK、ペットNGと棲み分けがされるようになったんです。でも、避難所の中にはペットが認められず、仕方なく車の中でペットと一緒に寝泊まりしている方もいました。映画に登場する小野夫妻は、3,000人くらいの被災者が滞在した中学校で避難者のリーダーを務めていたんですが、ご自身が犬を飼っていたこともあり、早くから話し合いでペット持ち込みOKな教室を設けていました。ただ、教室の中で猫を放し飼いにしていたところ、夜中に猫が眠っている人たちの布団の上を走り回るので、夜間はケージに入れるなど、避難所ごとにルールが作られていったんです。話し合いで改善されていったように思います。 飯田 でも、ペットの持ち込みが認められるようになるまで、数カ月を要した避難所もあるわけだよね。避難所ごとに異なるのではなく、ペットと一緒に暮らしている社会として事前に考えておくべきだと思うよ。避難所が早くから受け入れることを決めていれば、救うこともできた命もあるわけだし、飼い主も苦しまずに済んだはず。福島の避難指示区域でもペットの避難を認めるか認めないかが地域によって異なり、多くのペットたちが取り残されることになってしまった。2013年になってから環境省がそれぞれの自治体に、ペットとの同行避難を原則とすると言い渡しました。中越地震が起きた新潟ではペットに対応できる避難所が作られた一方、いまだにペットを認めない自治体もある。震災を経験した地域だけ改善されるのではダメだと思う。被災地では何が起きたのか、きちんと見つめ、それを他人事にするのではなく、教訓として自分たちのもの、社会の共通認識にしていくことが大事でしょう。 ──自宅を失った上に、可愛がっていたペットたちを死なせてしまったことで、より深い傷を負った愛犬家、愛猫家たちが少なくなかったようですね。続いて宍戸監督は福島第一原発事故の避難指示区域へ。無人化した街に犬や猫たちの死骸が散在する光景は胸が痛みます。事故死、衰弱死した動物たちの痛ましさに加え、その動物たちを飼っていた家族も離散し、生活が営まれていた街そのものが崩壊してしまった恐ろしさを感じさせます。 宍戸 撮っていて自分も辛かったです。避難指示区域に残された犬や猫たちに水や餌を与えていたボランティアの岡田久子さんは、街の中心まで何度も入っていたので、もっと悲惨な光景を目撃していると思います。鎖でつながれた状態の犬の亡きがらに僕も触れたんですが、とても冷たく硬くなっていました。辛かったんだろうな、苦しかったんだろうなと、そのときは当たり前のことしか想像できませんでした。でもその後、残された牛たちが段々と弱って死んでいく様子を見たことで、より具体的にそのことを感じるようになりましたし、怒りも込み上げてきました。 ──その怒りは、誰に対するものでしょうか? 宍戸 原発事故を招いた東電や国の責任者への怒りですね。飼い主への怒りではないです。同時に自分への憤りも感じたんです。岡田さんから避難指示区域がどんな状況かは話してもらっていたんですが、実際に自分の目で見るまでは想像できなかった。動物たちの死体を見て、「なかったことにはできない」「彼らが存在した証しを残そう」と強く思いましたね。 (後編につづく/取材・構成=長野辰次) greqghg.jpg 『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』 監督・撮影・ナレーション/宍戸大裕 構成・編集・プロデューサー/飯田基晴 音楽/末森樹 製作/映像グループ ローポジション配給/東風 6月1日(土)より渋谷ユーロスペースほか全国順次ロードショー (c)宍戸大裕 http://inunekoningen2.com ●ししど・だいすけ 1982年宮城県仙台市生まれ、名取市在住。学生時代に飯田基晴主宰の映像サークル「風の集い」に参加し、映像製作を学ぶ。学生時代のドキュメンタリー作品に『高尾山 二十四年目の記憶』がある。福祉関係のNPO勤務を経て、現在は映像製作に携わる。本作で劇場デビューを果たす他、飯田監督の『逃げ遅れる人々 東日本大震災と障害者』(12)を共同取材した。 ●いいだ・もとはる 1973年神奈川県横浜市生まれ。新宿で野宿生活する“あしがらさん”の日常を追った『あしがらさん』(02)で劇場デビューを飾った。2006年に「映像グループ ローポジション」を仲間と共に設立。地域猫の世話をしていた稲葉恵子さんから依頼を受けた『犬と猫と人間と』(09)が反響を呼び、ダイジェスト版DVD『いぬとねことにんげんと』(11)も製作した。大震災時に東北沿岸部で犠牲になった障害者の割合が健常者の2.5倍だったことを伝える『逃げ遅れる人々 東日本大震災と障害者』(12)が現在DVDとしてリリース中。

【東日本大震災から2年】東北の人々が抱える「被災者」と「被災地」の呪縛

IMG_0405.jpg  東日本大震災から2年が経過し、日本中から緊張感が薄れつつある。こうした状況で、被災地や被災者にはこれまでにない圧力がかかっているという。それは一体どんなものなのか、その実態を探るべく、震災直後から取材を重ねてきた仙台出身のジャーナリスト・丸山佑介氏がレポートする。 ■明暗が分かれた震災後の生活から見えてくるもの  東日本大震災から2年が経過した被災地では、震災自体をすでに過去のこととして片付けようとする人もいれば、いまだに先に進めていない人も多くいる。これは無理からぬことで、震災に対しての思いが多種多様で個々人によって異なっている上に、被った損害、保険金や見舞金といった支給されるお金も、勤務先や居住地などさまざまな理由から差異が生じてしまっているからだ。その結果、被災した当事者間でも「明暗」がクッキリと分かれてしまっている。  現在、仮設住宅に暮らしている人は約32万人。そこにも格差がある。  大手メーカーの工場が林立する宮城県の沿岸部では、従業員が近所に家を購入するケースが多い。一戸建の住宅は沿岸部に近いエリア、マンションは内陸に位置していた。すでにおわかりであろうが、一戸建ての多くが津波で居住不可能なダメージを受けた一方で、内陸部のマンションには大きな被害はなかった。  ある大手メーカーでは、住宅が震災で被害を受けた社員たちに一律で見舞金を支給したが、ここで格差が出た。  支給された金額では、一戸建てはもちろん、マンションを購入する頭金にもならなかったのだ。しかも住宅ローンは返済し続けなければならず、結局行き場がなく賃貸アパートで暮らしているという。逆にマンションの場合には同じ場所で暮らせるため、震災前よりかえって家計が潤うことになった人たちもいるというのだ。  このような格差現象は被災地では珍しくない。震災前よりも豊かな生活を送る人もいれば、より厳しい生活を強いられる人もいる。そうした混在した状況こそが現実なのである。そして、ここに登場するすべての人が「被災者」と呼ばれている。ここに彼らを縛る圧力があるのだ。 ■東北沿岸部を覆う呪縛の空気  当然のことながら、「被災者」や「被災地」は、もとからあった呼び名ではない。そもそも被災地などという地名はないし、被災者などという人種も存在しない。震災発生後に自然発生的に呼ばれるようになったにすぎないのだ。  「被災地」は岩手、宮城、福島といった県境をまたぐ名称として使われていた。同様に、震災で被害を受けた人たちのことをまとめて呼んだ名称が「被災者」なのである。  ところが震災後1年が過ぎたあたりから、多くの住民たちが自ら「被災者」や「被災地」と称するようになった。それも県外の人間に対してではなく、地元の人間同士の会話でも使われるようになった。メディアが使う回数が増加するのに伴って、岩手、宮城、福島に暮らす人々も「被災者」「被災地」と自称するようになってきている。  統計をとっているわけではないのだが、震災当初や2012年度には自らを「被災者」「被災地」と言う人はそれほど多くなかった。ところが昨年ころから、筆者の友人や親族も使うようになっていった。一体なぜ、そのような言い方をするのだろうか? 石巻に住む知人に理由を聞いてみたところ、意外な答えがかえってきた。 「最初は抵抗あったけど、言いやすいし、みんながそう呼ぶからね」  ほかにも複数の知人に同じ質問をぶつけてみたが、一様に同じ答えが返ってきた。たしかにその通りなのだろう。みんなが使うから使うというのは不自然なことではない。だが、この答えに至る彼らの心理を読み解いていくと、震災後に見舞われた「呪縛」の存在が見えてくる。  自分たちのことを「被災した住民」だったり「自分の暮らす街が震災の被害を受けた」などと称するのは、言い回しからしても面倒なことは間違いない。しかし、第三者がそう呼ぶことについては注意が必要である。  筆者が現地で出会った人の中には、支援を受ける対象として、「被害者」であることを求められているような気がすると明言する人もいた。こうしたことからも、無言のプレッシャーとして同調圧力がかかっているのが見て取れる。  ここで注意したいのは、特定の人物による圧力ではなく、漠然とした日本国内を取り巻く空気が追い詰めているということなのだ。不確定な要素によるプレッシャーなど気にしなければいい、という見方もできるだろう。しかし、口下手な東北人の気質なのかもしれないが、「被災して支援を受けた」ことに対して背負うべき十字架なのだとの思いがある。  震災直後から現在に至るまで、日本国内のみならず世界中からの援助があって生き延びることができたのは、まぎれもない事実である。その当時は感謝することしかできなかった。しかし、現在では援助に報いる必要を各々が感じているのだ。そうした心情の変化が、今になって援助された側に重くのしかかってきている。そして、それが呪縛となり、自らを「被災地」「被災者」と呼ばせてしまっているのだ。  こうなった原因はあくまでも巨大地震と大津波という天災で、本人たちにはなんの非もない。それでも多くの人たちに助けられたという事実は彼らにのしかかっている。  「被災者」「被災地」を自称しなくなったときに、本当の意味での復興が東北に訪れるのだろう。 (取材・文=丸山佑介/犯罪ジャーナリスト<http://ameblo.jp/maruyamagonzaresu/>)

震災2年、都内最大規模「Peace On Earth」に延べ4万人「入ってはいけない日本があった……」

IMG_8641.jpg  311東日本大震災から2年。今年も3月10日(日)、11日(月)の2日間、東京・日比谷公園で「311東日本大震災 市民のつどい Peace On Earth」が開催された。都内で行われた311関連のイベントでは最大規模。初日には約3万人、震災から2年目にあたる2日目は平日であるにもかかわらず、約1万人もの市民が全国から集まった。  11日の震災が発生した14時46分18秒には、ステージ上でアーティストや文化人が一同に介し、約3,000人の市民と共に黙とう。その発声を行ったC・W・ニコル氏は「北極や砂漠に行っても寂しいとは思わなかった。しかし先週、南相馬の街を通った時は寂しかった。昼間、カラスもいなかった。検問があって、警察が入ってはいけないと止めている。入ってはいけない日本があったんです。僕は、日本はどこでも自由があると信じていたんです。日本を返してくれ、と言いたいです。それでも、私は未来を信じる。みなさん、2年前のことを忘れないでください」と熱いメッセージを投げかけた。
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ニコル氏の話に聞き入る坂本龍一

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積極的に反原発活動に参加しているアイドル
藤波心は「ふるさと」を熱唱
 この日のステージ上でのトークにおいて、原発の問題と共に議論の対象となったのが、お金の価値。命よりも経済を優先する日本や世界の風潮に対する意見が飛び交った。 「お金ってなんですか? 人間が作ったものじゃないですか。自然は受け取ってないんです。私たちは天の恵みがあって初めて、命を耕せているんです」(加藤登紀子) 「お金って、人間だけが考えた規則ですよね。自分たちが勝手に作った規則に縛られるのはおかしいじゃないかと。それで人が死んだりするのは、もう嫌だよね」(坂本龍一)
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加藤登紀子も登壇
 人間にとって何が大切なのか。東日本大震災の教訓を踏まえ、もう一度考え直してみる時が来たのかもしれない。 (撮影・文=シン上田)

震災2年、行方不明者なお2,800人──【震災遺骨】砂浜に流れ着く命の欠片をめぐって

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東松島市の野蒜海岸
 震災からの復興が叫ばれる中で、いまだに解決していない問題は数多い。その中でも、解決の目処が立たないのが行方不明者である。「まだわかっていないの?」と思う人もいるだろう。確かに震災から過ぎ去った2年の歳月を考えれば、その疑問はもっともといえる。だが、それでもいまだに行方不明者たちは家に戻れていないのが現実なのである。  その実態を探るべく宮城県の沿岸部を歩いた仙台出身のジャーナリストである丸山氏がレポートする。 ■いまだ戻れない行方不明者の現実  東日本大震災から2年。記念番組では「復興」に目を向けたものが多い。しかし、今一度目を向けてもらいたい問題がある。それが「震災遺骨」である。  2011年3月11日、あの時に失われた命の数を覚えているだろうか。関東まで含めて1万8,684人である。さらに、いまだに遺体を確認できないでいる行方不明者が2,800人ほどいる。その多くは、津波に飲まれて命を落としたとみられている。海中での遺体捜索には限界があり、すでに打ち切られている。亡骸すらない状態では、生き残った被災者も区切りをつけて前に進むことができない。沿岸部で行方不明者の遺骨を探索する活動をしている人たちがいると聞き、取材することにした。 <東日本大震災で700人以上が死亡・行方不明となった宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区で(2月)9日、遺族やボランティアが海岸を捜索した。家族2人を亡くし、長男(当時8カ月)ら2人が行方不明のままの竹澤守雅さん(45)夫妻=仙台市若林区=の思いを知ったボランティアが呼びかけ、福島県南相馬市などから約100人が集まった。「家族に会いたい」「会わせてあげたい」。思いは変わらないまま、震災は(2月)11日で1年11カ月を迎える>(毎日新聞2013年02月09日より)  遺骨回収のための一斉捜索を実施しているのは、南相馬市で被災した市民がつくった「復興浜団」や東京で被災地を支援するボランティアグループ「絆JAPAN」など。団体はすでに複数ある。  宮城県内の警察による捜索自体は打ち切られている。沿岸部での遺骨収集は彼らボランティアや住民の有志によって支えられている活動である。
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周辺の墓地からも遺骨が流失した
■命の欠片が流れ着く砂浜  こうしたボランティアグループが活動しているのは、宮城県南部の閖上地区が多い。では、最大の死者約3,000人を出した石巻市の現状はどうなっているのだろうか? 統計によると、現在でも448人が行方不明のままである。一方で隣接する東松島市は、死者1000人、行方不明者が29人。石巻市と東松島市は行政としては区切れているが、地理的には地続きのエリアである。  石巻・東松島エリアでの震災遺骨の探索には、難しい現実がのしかかってくる。実際に沿岸部を歩いてみればわかるが、このエリアは県の南部と違って砂浜が少ない。護岸用のテトラポットが置かれていたり、工業地帯や港として整備されているため、骨が流れ着いても陸地に打ち上げられないのだ。  東松島市の野蒜海岸は、一部は海水浴場になっているものの、漂流物も多く骨かどうかの判別がつくような状態ではない。また沿岸部は工事用車両のみならず漁業や工業などの物流が集中するエリアでもあり、一般の人が近寄れる場所とは言いがたい。  石巻市の隣の女川町や石巻の雄勝エリアは、リアス式海岸で入り組んだ独特の地形をしているため、遺骨が陸地に流れ着くとは限らない。  もちろん希望的な観測は必要だし、地道な作業を続けるのは大切なことだ。実際、そんな思いをくみとった人や震災をきっかけに縁をもった人たちの協力により、これまでに多数の震災遺骨が発見されている。また、浜辺で骨を見つけたとしても、それで終わりとはならない。発見される骨すべてが人間のものとは限らないからだ。家畜や野生動物、周辺の墓地から流出した骨の可能性もある。  こうした骨を識別するため、DNA鑑定が行われている。行方不明者の身元確認を実施しているのは警察だ。宮城県警察本部は現在では、「DNA型資料の提供依頼について」と題して、行方不明者の血縁者に鑑定用のサンプルの提出をホームページで呼びかけ続けている。それにもかかわらず、長時間海水に浸かっていた骨の欠片から鑑定に耐えうるだけのデータを抽出できないこともあり、DNAの鑑定作業は順調には進んでいない。それでも、ほかに本人確認の手段はないのが現実なのだ。  骨のひとつもない状態では、大切な人の「死」を受け入れることは到底できない。震災から2年の歳月が経過した現在でも、大切な人のもとに戻れない人たちがいる。「震災遺骨」という言葉がなくなる日が来たとき、本当の意味で被災地に生きるすべての人が納得して次のステップへと踏み出すことができるのだろう。 (取材・文=丸山佑介/犯罪ジャーナリスト http://ameblo.jp/maruyamagonzaresu/

園子温が描く“希望のない国”に残された希望とは?「後から嘆くのではなく、今やるべきことがあるはず」

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精力的な活動が続く園子温監督。「今回の映画だけで原発ものは終われない。
娯楽作品も撮りながら、被災地に通い続けるつもりです」と語る。
 常にその言動が波紋を呼ぶ映画監督・園子温。彼の作品において“エロス&バイオレンス”は物語を突き動かす大きな要因となっていたが、最新作『希望の国』では原発事故という“社会の暴力”に真っ正面から向き合っている。被災地を自分の足で回り、避難所で暮らす人たちの生の声に耳を傾けるなど丹念に取材して脚本を書き上げ、これまでの園作品とはひと味違った作風となった本作。そのことに戸惑うファンもいるかもしれない。しかし、常に新しいスタイルを提示してみせる姿こそ、園子温そのものだろう。“映画には社会を変える力がある”ことを肯定し、「今回でおしまいにできない。原発が全廃されるまで撮り続ける」と言明する。徹夜明けのまま取材に応じてくれた園監督のストレートな言葉の数々を味わってほしい。 ──前作『ヒミズ』(11)に続いて被災地を舞台にした最新作『希望の国』。“原発問題”というタブーに正面から挑むのと同時に、これまでの園子温作品になく邦画らしい邦画の雰囲気を持つ作品に仕上がっていますね。 園子温 ティーザーのキャッチコピーに「タブーに挑む」と入っていますが、自分としては、特にそういう意識はなかったんです。単純に自分がそのとき撮りたいと思ったものを撮っただけなんです。原発の映画を撮りたい、という率直な想いで作った作品です。原発問題を扱ったドキュメンタリーはすでに何本かありますが、やっぱりドキュメンタリーではある種の限界があると思うんです。当事者たちをインタビューばかりしていても、「その話はもう聞いたよ」になっちゃう。でも、まだ劇映画は作られていない。だから作ったんです。タブーを扱った社会派ドラマを狙ったわけではないんです。 ──園監督は『紀子の食卓』(05)以降、『愛のむきだし』(08)、『冷たい熱帯魚』(11)、『恋の罪』(11)、そして『ヒミズ』と“空洞化した家庭”の悲劇を描いてきたわけですが、『希望の国』は原発事故によって引き離される温かい家族の物語となっている点が意外でした。  そうですね。『紀子の食卓』の場合は家庭が内部から崩壊していくんですが、今回は外からの圧力で潰されていくわけです。『紀子の食卓』とは家庭の在り方が逆転しています。『紀子の食卓』は一見幸福そうに見える家族だけれど、もう空洞化してしまって立て直しができない状態になっている。でも『希望の国』は幸福だった家族が内側から徐々に崩壊していく余裕もないまま、あっという間に外圧で破壊されてしまう。徐々に空洞化していく不幸せな家族と、幸せだけれどもあっという間に壊されてしまう家族、いったいどっちが幸福でしょうかということなんです。
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園監督が被災地を取材して撮り上げた『希望の
国』。放射能事故によって引き離された家族
がそれぞれ選択した道を進んでいくことに。
──これまでテーマにしてきた家族の描き方が変わるほど、「3.11」は園子温監督の意識を大きく揺さぶったということでしょうか?  意識が変わったと言っても過言じゃないでしょうね。『ヒミズ』の撮影に入る1カ月前に大震災が起き、シナリオに修正を加えて震災から1カ月しかたっていない状況の中で『ヒミズ』の撮影に入ったわけです。それまでは実際に起きた事件にすぐ足を突っ込むことはせず、一度じっくり自分の中で咀嚼してから数年後に作品にまとめるように心掛けていました。ですから『ヒミズ』の撮影直前に生々しい現実を目の前にして、すぐ撮るということは初めての経験でした。それで『ヒミズ』は石巻でもロケをさせてもらったんですが、「はい、撮影終わり。じゃあ、別の作品に取り掛かります」というわけにはいかなくなった。少なくとも、もう1本は撮らないことには落ち着きようがなかった。『ヒミズ』よりも、もっと踏み込まざるを得なかったということですね。3.11の衝撃をそのまま撮った『ヒミズ』とは違って、今回は津波と放射能をセットにしないで、まずは放射能を、原発の映画を撮ろうということでした。それも、原発に対する感情が風化しないうちに映画にしようと思ったんです。 ──『ヒミズ』が公開されていた今年の1月には、すでに『希望の国』の撮影に入ったわけですね。なるべく早く『希望の国』も公開しようと……。  公開は、早いに越したことはなかったんです。10月公開じゃなくて、もっと早く公開してほしかった。でも、まぁ、この時期に公開するのは、それでまた意義がある。チェルノブイリ事故のときは広瀬隆の『危険な話』(八月書館)がベストセラーになり、忌野清志郎が原発問題を歌ったアルバムが発売中止になったりしたけど、結局はそのときの日本では原発事故は起きず、「みんな騒ぎ過ぎです」という形でしかなかった。今は首相官邸前で集会やっているけど、人が少なくなってくると原発反対が言えなくなってきますよね。それは日本人が個人で何かを宣言したりできない性質を表してますよね。 ──園監督は「映画には社会を変える力がある」と信じている?  そう思いますね。こうやって原発を描いた作品を公開することは、決してムダなことだとは思いません。映画の世界でしか表現できないこともあるわけですから、「こんな劇映画もあるのか」と思わせるだけでも意味があると思うんです。いろんな人たちが原発についてのテーゼを語る時代なんだと知ってもらうだけでも、十分な効果があるはずです。ひとつの業界が完全に黙っていれば、「あぁ、やっぱりそういうもんだよな」ということになってしまう。扉が少し開くだけでも、どこかの窓をひとつ開けることにつながると思うんです。 ■声高に叫ばなくても、個人でやれる抗議活動はあると思う
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園子温監督が自身の姿を投影したという小野家
の息子・洋一(村上淳)とその妻・いずみ(神
楽坂恵)。洋一は実家を出ることに抵抗を感
じる。
 9月30日にNHK ETVで放映されたドキュメンタリー番組『映画にできること 園子温と大震災』を見て、意外に感じた人もいたのではないだろうか。『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』など過激な作品を撮り続け、撮影現場では厳しい演出で知られる園監督だが、『希望の国』の取材でお世話になった被災地の人たちには非常に丁重で繊細な一面を見せていた。『希望の国』のモデルとなった一家の居間で、恐縮して正座する姿が画面に映し出されていた。大胆さと繊細さが同時に両立しているところが、この人の魅力なのだろう。今回のインタビューでも詩人らしい時代への批評性、映画づくりに対する真摯さ、そして熟成することのないやんちゃぶりを感じさせる園子温監督だった。 ──2011年の園監督は、『冷たい熱帯魚』の公開、『ヒミズ』の撮影とベネチア映画祭への参加、『恋の罪』の公開……と怒濤の1年を過ごしたわけですが、合間を縫って被災地を取材して回っていたんですね。
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被災した原発から20km圏上に境界線が引か
れる。強制退去を命じられた人々の怒りや不
安が、園監督流演出によって浮かび上がる。
 半年間くらい取材に時間を費やしました。『ヒミズ』の冒頭の被災地に主人公が佇むシーンは石巻で撮影させてもらったんです。そこで地元の人たちにずいぶん協力してもらい、避難所の人々にもお世話になった。それもあって俳優の深水元基くんが被災地の人たちにボランティアで何かしたいと言うので、みんなで行ったんです。そのときに石巻とは別に福島の映画も撮りたいと考え始めました。2011年の8月くらいから避難所などで、3.11とそれから1カ月の間に何が起きたのかを、避難所の方たちや被災地を回って取材するようになったんです。12月31日は石巻で除夜の鐘を聞き、それから移動して福島で初日の出を見ました。『希望の国』のセリフのほとんどは、実際に被災地や避難所の人たちを取材した際に聞いた言葉です。前半は特にそうですね。ボクが頭の中で考えた言葉は、なるべく使わないようにしました。主人公一家である小野家の庭の真ん中で20km圏内と圏外に分けられていますが、あれは実際にそういう家があって、そこを取材させてもらったんです。この家族を主人公にすれば、放射能がもたらす不条理を映画にできるなと思ったんです。 ──園作品にはシュールなイメージがありましたが、実際の被災地には現実として不条理なことがいろいろと存在したわけですか。  不条理なことがいっぱいありました。どうしてマスコミは報道しないんだろうなと、不思議に思いましたよ。それで家の敷地の真ん中で20km圏内と圏外の境界が引かれてしまい、庭の半分は水がやれずに花が枯れてしまっているシーンを映画の中にも登場させたんです。目には見えない放射能がもたらす不条理さですよ。20km圏の境界線近くに一軒だけ残っていたゲームセンターで、ゾンビを撃ち殺すシューティングゲームをしている女子高生もいました。ゲームセンターのすぐ外はゴーストタウン化しているのに、あまりにもシュールでしょ(苦笑)。今回は舞台を「長島県」という架空の地名にしています。もちろん福島で取材した話もすごく良かったんですが、福島を舞台にすると他の被災地で取材した話を使えなくなってしまう。それで長崎と広島と福島を組み合わせた「長島県」にしたんです。東日本大震災から数年後に再び原発事故が起きたという近未来SFなんです。 ──2012年の元旦を福島で迎えたということですが、園監督は初日の出を見ながら何を考えたんでしょうか?  『希望の国』の撮影を2週間後に控えていたんですが、まだ脚本の最後の部分を書き上げていなかったんです。最終的に若い息子夫婦(村上淳、神楽坂恵)はひとつのあきらめと妥協を感じざるを得なくなってしまう。いろんな残念な気持ちを抱え込まざるを得ない。でも、自分たちさえしっかりしていけば、なんとか生きていけるんじゃないかと。放射能はもうどうしようもない。どこまで逃げてもやってくる。それでも、そこに希望があるんじゃないかと感じられたのは、ゴーストタウンみたいになった南相馬の20km圏内で初日の出を見たときだったんです。20km圏内だから、それなりに放射能があったと思います。でも、海から昇ってくる太陽が、ものすごく美しかった。数カ月前に初めて20km圏内に入ったときは、それまで東京にいたからでしょうけど、ブルブル震えていたんです。汚染された土地に足を踏み入れてしまった、なるべく息を吸わないよう、物に触れないようにしようとしていました。それが訪ねるたびに、悪い意味での“慣れ”、良い意味での放射能との“共生”をせざるを得ないという心境に至ったわけです。20km圏内で見たあの日の出は大きかったですね。
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いずみ(神楽坂恵)は妊娠していることに気づ
き、避難先でも防護服が手放せなくなる。ど
こまで防護すれば安全なのか?
──20km圏内と圏外の境界線上で酪農を営む小野家の家長・泰彦(夏八木勲)が息子に言う「杭が打たれたんだ。逃げろ。逃げることは強さだ」という台詞がとても印象的です。あの台詞は……?  被災地で取材して聞いた言葉をなるべく盛り込むようにしましたが、「杭が打たれた」はボクが考えたものです。詩人の金子光晴のエピソードから思い付きました。戦時中に金子光晴は息子に赤紙が届いたので、葉っぱをいぶして息子に吸わせて喘息状態にしたそうです。そのかいあって、光晴の息子は徴兵検査で落ちて、帰ってきた息子に向かって光晴は「バンザーイ!」と出迎えて赤飯を炊いているんです。戦時中にそんなことをすれば後ろ指をさされますが、終戦になった途端に「うちも金子家みたいにしておけばよかった」ということになるわけです。必ずしも集団でデモをして「戦争反対!」と叫ばなくても、個人個人で家族を戦争へ行かせないなどの反戦のやり方はあるんです。そういう意味では、いつの時代でも召集令状だったり原発問題だったりと、杭を打ちにくるヤツが現れる。そういうときは、政治家だとか市長だとかエラい人を頼るわけにはいかない。自分たちで考えて行動するしかないんです。金子光晴の赤紙に対する行動への、ひとつの回答のつもりです。戦争が終わってから「息子を返せ」と泣き叫ぶのではなく、そのときにやるべきことをやるんだということです。 ──『野性の証明』(78)の夏八木勲さん、『肉弾』(68)の大谷直子さんが熱演していることもあって、とても日本映画らしい作品になっています。  昔は緒形拳さんや太地喜和子さんとか骨太でスクリーンで輝く役者さんがたくさんいたんですが、最近はいないですよね。数少ない中から選んだのが夏八木さんと大谷さんです。夏八木さんは70歳過ぎてますけど、大変な現場だったにもかかわらず、すごく元気でした。イーストウッドみたいに、もっと主演作が作られていいはずの人なのに、もったいない。最近の映画はどれも、キャスティングが一辺倒すぎますよ。あっ。業界の悪口はもう言わないと決めてたんだけど、つい出てしまうなぁ(苦笑)。東京スポーツで痛い目に遭ってから、悪口は言わないようにしてるんです。「キムタクを安易に使うプロデューサー」みたいな批判をしたら、「園子温はキムタクが大キライ」って記事になって東スポに出たんです。そんなことは、ひと言も言ってないのに(笑)。
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園監督に“今の日本映画の状況をどう感じる?”
と問い掛けたところ、「日本映画は年に1本
観るかどうか。ボクにとっては拷問ですよ。若
い監督の追い上げも感じない。ボクのほうが
ピチピチしてます(笑)」。
──その点、日刊サイゾーは大丈夫(だと思います)! 今回は資金集めに苦労したそうですね。  そうです、情けないですよね。原発を扱うということで日本だけでは製作費が集まらず、海外にも協力を求めざるを得なかった。出資した会社は「反原発」を支持するようなものですから、カドが立つということでしょうか。つまんないですよ。企画があればなんでもいいから持ってきてと言っていたプロデューサーも「いや、これだけは困る……」ということだったようです。そういう意味では、原発はエログロよりもタブーだったみたいです。でも、それは向こうが勝手に自粛してタブーにしてしまっているだけですよ。別にボクは原発をタブーだとは思わない。 ──最後の質問です。園子温にとって、女性、そして女優とはどんな存在でしょうか?  やっぱり女性は強いですよ。原発問題を取材していても、実際に強いのは女性です。子どもを連れて外へ向かっていくのは奥さんの方なんです。女性の場合は妊娠・子育ての問題があるから、自分が動かなくちゃいけないという意識が強いように感じましたね。それに対して男はマッタリしがちというか、根を張ってしまう。それで被災地では、家族離散や離婚問題が生じているんです。もちろん、ボクにとっても女性は強い存在ですよ。創作意欲をかき立てる存在です。最近で言うと『冷たい熱帯魚』『恋の罪』『ヒミズ』『希望の国』。どれをとっても、女の年齢や状況は違えど、ストーリーの主軸となって展開していきます。女優が作品の色を決めると言っていいくらいです。 ──“園子温作品は女によって創られている”と言っていい?  えぇ、大丈夫です。そう言っていただいて構いません(笑)。 (取材・文=長野辰次) kibounokuni05.jpg ●『希望の国』原作・脚本・監督/園子温 出演/夏八木勲、大谷直子、村上淳、神楽坂恵、清水優、梶原ひかり、菅原大吉、山中崇、河原崎建三、筒井真理子、でんでん 配給/ビターズ・エンド 10月20日(土)より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー公開  (c)The Land of Hope Film Partners http://www.kibounokuni.jp ●その・しおん 愛知県出身。1987年に『男の花道』でPFFグランプリを受賞。詩人としても活動し、路上パフォーマンス集団「東京ガガガ」を主宰した。17歳で家出を経験した園監督の自伝色の強い『紀子の食卓』(06)では吉高由里子、上映時間4時間の大作『愛のむきだし』(08)では満島ひかり、と次々と若手女優を育て上げている。実在の猟奇殺人事件をベースにした『冷たい熱帯魚』(11)と『恋の罪』(同)もR18指定ながら大ヒットを記録。『ヒミズ』(12)では染谷将太と二階堂ふみにベネチア映画祭最優秀新人賞をもたらした。最新作『地獄でなぜ悪い』は、13年3月に公開予定。本作の原作小説「希望の国」、自伝『非道に生きる』が発売中のほか、11月2日(金)に『園子温監督初期作品集DVD-BOX』も発売される。

“最後の避難所”に身を寄せる、双葉町避難民へのしかかる“時間”の重み

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(c)2012 Documentary Japan, Big River Films
 福島県双葉町は、福島第一原発事故後、1,200人の住民とともに、町からおよそ250キロ離れた埼玉県加須市の旧騎西高校に避難した。この避難所で、双葉町の住民たちが過ごした1年間に焦点を当てたドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』が公開される。  一つの教室にいくつもの家族が詰め込まれ、段ボールで仕切られた“家庭”の中で、避難者はそれぞれの生活を送る。遅々として政府の方針が示されないまま過ごす毎日、いつ帰れるともわからない不安、そして一時帰宅を迎えた喜び……。避難者と同じ目線で、1年間という時間を追体験することができる貴重な作品だ。  この作品を監督した舩橋淳監督の目には、双葉町の避難民や原発問題は、どのように映ったのだろうか? ――原発や放射能問題に対しては、以前から関心があったんですか? 舩橋淳監督(以下、舩橋) 原発はよくないだろうとは思っていましたが、その程度でした。僕はアメリカに10年住んでいたんですが、アメリカでは電力自由化が進んでいて、手軽に自分が使う電気の種類を選ぶことができた。ところが帰国してみると、東京には東京電力しかなかった。チョイスも何もないから、勝手に電気が来るもんだと思ってしまっていたんです。それが原発事故が起こって初めて、その電力の一部が福島第一原発から来ているということを認識しました。恥ずかしながら、そこで作られた電気が100%関東圏に来ているということも知らなかったんです。 ――舩橋監督のお父様は広島出身で、幼いころに原爆被害に遭われたそうですね。 舩橋 はい。僕は被爆2世なんですが、日本映画史でも原爆についてのドキュメンタリーはたくさん作られていたから、自分がそういう作品を作るつもりはずっとなかった。もうやり尽くされていて、自分にできることはないと思っていたんです。ところが、テレビで原発事故の報道を見ているうちに、「被ばく」ということに関して、原爆も原発も同じだと気づいたんです。それなのに、原発はあたかもクリーンであるかのようなイメージが作られていて、その存在を疑問視する声はありませんでした。それに矛盾を感じたんです。臭いものにフタをするかのように、見えないようにしてきたという歴史が少しずつわかるようになって気づいたのは、原発とは原爆なんじゃないかということ。原爆と同じことが現代に起こっているのだから、何かしらこの状況に対する映画が作られるべきなのではないかと感じ始めたんです。 ――そんなときに、双葉町が加須市の旧騎西高校に避難してきた、と。 舩橋 はい。福島県の自治体はだいたい県内に避難していたんですが、どれくらい避難するべきかという論争が起こっていました。20キロか、30キロか。アメリカは50マイル(80キロ)逃げるべきだと主張していました。学者でさえもそれぞれ違うことを言っている中、双葉町は250キロも離れた埼玉県加須市に避難した。状況がわからないんだから態勢が整うまでは遠くに逃げる、という判断はとても正しいことのように思えたんです。いったい、どういう人がこの判断を行ったのか、どういう人々がそこへ避難してきたのか、興味が湧いて、昨年の4月上旬に旧騎西高校を訪れました。 ――初めはドキュメンタリーを撮影するつもりはなかったそうですね。 舩橋 これまでは電気はどこからともなくやってくるものだと思っていて、僕はそれを湯水のように使っていた。自分の使っている電気で、自分が避難しなきゃならなくなったのであればまだ理解ができます。しかし、実際は他人が避難を強いられている、という事実が納得できなかった。避難所に行っていろいろな人に話しかけながら、この疑問を解消したかったんです。何度か足を運ぶうちに、徐々に「これは映画にできるのではないか」という考えになりました。  震災後、テレビではさまざまなドキュメンタリーが作られましたが、「どれだけ気の毒な体験をしているのか」「どれだけかわいそうな人々なのか」を描くばかりで、それは原発事故に関しては本質からずれているような気がしていたんです。原発事故では、視聴者や放送局の人間も加害者であるかもしれない。もちろん、「東電が加害者であり、われわれは電気を使っていただけだ。加害者ではない」と言う人もいるかもしれませんが、一部の人間が犠牲を強いられるような電気の供給システムに依存し、それを支えてきたのは私たちなんです。しかし、避難者を「かわいそうな人たち」という描き方をしたら、視聴者はそれを「他人事」として納得してしまう。安心できてしまうんです。作り手は当事者意識を棚上げにするのではなく、視聴者をぐらつかせるくらいの刃を突きつけなければならない。
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――それは、非常に後味が悪いものでもありますね。 舩橋 はい。でも、“お気の毒な方々”と描くことが正しいことだと思えなかったんです。どうしてこんなことになってしまったのか、電気の生産者であった双葉の避難民と消費者であった自分たちとの対話を記録するように作品を作ろうと思ったんです。 ■東電には「ありがとう」と言わなければならない ――撮影を進めるうちに、どんなことが見えてきましたか? 舩橋 加須と東京を行き来するということは、電気の生産者と消費者の間を行き来することでもあるんですが、地理的に距離が離れていることで、うまくリスクを分散させる不公平な日本のシステムというものが見えてきましたね。地方は地方で都合のいいように、東京は東京で都合のいいようなシステムが組まれてきたんです。地方には雇用や交付金などのお金が落ちてきます。これまで、双葉では農閑期である冬は出稼ぎに行かなければならなかったのですが、原発ができたことによって自分の町で生活できるようになりました。一方、東京では、地理的に距離があるので原子力のリスクを考えないで済む。節電したほうがいいのか、と感じなくて済むくらい、たくさん電気を使えるんです。こうやって双方を往復すると、原発のリスクは不均等に分散し、一部の人に犠牲を押しつけるシステムとなっていることが見えてきました。 ――そのシステムに組み込まれてしまった双葉の避難民に触れる中で、印象に残っている言葉はありますか? 舩橋 「これまでは、東電におんぶにだっこで生きていた」と言う避難者がいました。かつて、双葉は「福島のチベット」と言われているくらい、過疎がひどく、貧乏な地域だったんです。東電がなければ、双葉町は存在できなかったかもしれない。今まで30年間お世話になって、東電には仕事もおカネももらってきたのだから、「ありがとう」と言うべきなんじゃないかと語る避難者がいました。  ――報道には、なかなか取り上げられない声ですね。映画では、一時帰宅の様子も撮影されています。 舩橋 この時も、東電社員がかいがいしく世話をしていたのが印象的でした。4~5回にわたって一時帰宅を取材したんですが、ある日は土砂降りの天候。一時帰宅した住民は、ビニール袋にそれぞれの荷物を入れて帰ってくるんですが、荷物で両手はふさがっています。そこで、東電社員は避難者が濡れないように傘を差し、自分がびしょ濡れになりながら世話をしていたんです。会社が悪いことしたんだから、社員である自分たちがやらなきゃならないという、ある種の真剣さが伝わってきました。  やっぱり、東電に対する多くの避難者の姿勢は厳しいもので、彼らが避難所に来たら非難轟々になります。「東電の○○です」と挨拶しただけで「バカタレ」と怒号が飛んでいました。下々の社員は避難者の世話をしながら「すいません」と謝り続け、社長をはじめとする上層部の人々は姿を現さない。不公平だなと思いますよね。謝罪する人間はそんな下々の社員ではなく、もっと別にいるはずなんですけどね。 ■延々と続く時間の積み重ね ――旧騎西高校には、現在でも180人(9月18日現在)あまりの方が生活されていますが、みなさんの雰囲気もだいぶ変わってきましたか?
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舩橋 そうですね。今年9月から、無料で配られていたお弁当が有料化されました。が、肝心の土地や家の賠償はまだ始まっておらず、再スタートのためのお金をもらえていない。避難者も時間がたつことによって余裕がなくなってくるから、賠償も「いくらでもいい、なんでもいいからちょうだい」となってしまうでしょう。これは水俣病の時にも行われていた、卑怯な方法なんです。日本は水俣病の当時からまったく成長していません。 ――行政に対しては、何が一番の問題だと思いますか? 舩橋 時間軸方向での被害を見積もるのが、日本人は下手ですよね。どこが何マイクロシーべルトなのかとマメに放射線量を測定することは得意なのですが、「何年まで住むことはできない」と、時間軸方向で被害を見積もることができません。「いつか改善されます」「わからない」で済ませてしまうことが多い。わからないのであれば、仮に「40年は住めない」と設定して合理的な判断をしていけばいいのに、避難者の時間は引き延ばされて、どんどんと待ちぼうけにされてしまう。それは時間的な損害なんです。その損害によって、避難者はどんどん疲弊してしまいます。 ――では、このような状況で、双葉町民にとっての希望とはなんなのでしょうか? 舩橋 「仮の町」だと思います。今、双葉町では「7000人の復興会議」として町民を集め、どうやって次の町を生み出していけばいいのかを町民たちが議論しています。時間がたつと、人々がばらばらになってしまいますから、できるだけ早く仮の町構想をまとめてほしいですね。その構想を知るだけでも、避難者にとっては生きる希望となるはずです。 ――観客には、どのようなことを感じてほしいですか? 舩橋 映画を編集する際は、観客も避難所で日々を過ごしていると感じられるように腐心しました。朝起きて、散歩して、弁当食べて、タバコ吸って、テレビのニュースでは原発の作業は何も進んでいないと言われ、夜が更けていく……。避難者を取り巻いている、延々と続く時間の重みを感じ取ってほしいと思います。 ――それは「当事者」を疑似体験することにほかなりませんね。 舩橋 避難を他人事とせず、できるだけ感情移入してほしい。まさしく自分が避難所で毎日を過ごしていて、やっと3カ月ぶりに2時間だけ一時帰宅することができる。そんな時間の流れを、時系列で体感してほしいんです。5分のニュースでは伝えられない時間の重みを描くことができるのが、ドキュメンタリーですからね。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])
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●ふなはし・あつし 1974年大阪生まれ。東京大学教養学部表象文化論分科卒後、ニューヨークで映画制作を学ぶ。長篇映画『echoes』は仏アノネー国際映画祭で審査員特別賞、観客賞を受賞。第2作『BIG RIVER』(2006年 主演オダギリジョー、製作オフィス北野)、第3作『谷中暮色』(2010年)と本作『フタバ〜』は、3作品連続ベルリン国際映画祭に正式招待と、国際的な評価を得ている。 ●『フタバから遠く離れて』 10月13日(土)より、オーディトリウム渋谷ほか全国順次ロードショー <http://nuclearnation.jp/jp/

『ガレキ』──日本を席巻した200日の瓦礫問題が投げかけた震災後の「当事者性」【後編】

gareki002.jpg 前編はこちらから ■データ開示と議論の客観性 丸山 被災した自治体の方でも、できる限り自分たちで瓦礫を処理しようとしていたのと、想定よりも瓦礫の量が少なかった地域もあったので、当初予定していた県外受け入れが不要になったケースも出てきました。そうなると反対運動は、結果的に右往左往しただけで終わったものもある。その時に、反対運動が正しかったと考えている人もいれば、反対の声を上げたことをなかったことにしているような人も見受けられました。一過性の祭というか、声を上げることに意義を見出したような感じの人もいる。そうした人たちの中には、大飯原発再稼働反対など、別の市民運動に行動を移していった人もいます。 萱野 やはり広域処理反対派だった人たちは、再稼働反対、反原発といった立場の人が多いのでしょうか。 丸山 そういう印象を受けました。とはいっても、瓦礫処理のプロセス、行政、民間の携わる範囲を把握して反対活動をしている人は少ないです。ピックアップしてくる情報に偏りが生じてしまうことも多い。 萱野 政府に対して情報を隠しているんじゃないかという批判の声があがる一方で、都合のいい情報を共有する空間がメディアの中に生まれてしまったりする。そうなると客観性も損なわれてしまいますね。 丸山 各首長に話を聞くと、政府についてはともかく各自治体レベルではもう持っているデータは開示しきっているといいます。そうしたデータは「県政だより」のような媒体で公表している。県知事の名前で出したデータで県民に不利益が出るようなことがあれば、当然県が補償をすることになります。各首長はその覚悟でデータ開示をしている。そうである以上、データ開示や信憑性に関しては落ち着いて受け止めてもいいのではないかと思います。 ■ケガレとしての「ガレキ」 丸山 本書の中では震災瓦礫を“ガレキ”とカタカナで表記しています。一連の広域処理問題の中で、瓦礫という言葉には「ケガレ」の意識が含まれるようになってきたと捉えているためです。それはイメージの中で作られた「ガレキ」、イメージの中で作られた「放射能」です。実態と離れた「ガレキ」はケガレの概念が生み出した産物となってしまい、それゆえに感情的な拒絶に繋がってしまっている。 萱野 人間は日々暮らしている中で、それほどクリーンな存在でいられるわけではありません。生活習慣にせよ摂取するものにせよ、日々健康を侵すようなリスクを気にしないで生きていたりする。いわばケガレた存在であるとも言えるわけです。体に良くないものも食べるし、酔っ払って街を歩きもする。それらにだって充分リスクがある。けれども放射性物質の一点にだけ過剰に注目し、さらにその過剰な反応が道徳的に正当化されてしまっているところがありますね。 丸山 リスクの点で言えば、福島第一原発で働くような場合は別にして、多くの人にとっては放射線の問題で懸念されるのは発がんのおそれですよね。がんであれば初期段階ならば対応できるものも少なくない。そう考えると、転居を繰り返すよりも、定住していた方が、医療ケアなど自治体からの補償も求めやすいのではないかと思います。 萱野 低線量被曝についてはわかっていないことも多いですが、低線量であるぶん、事後対策に費用や時間をかけることが建設的でしょう。今後の長期的な健康診断などを整備する方が、リスクのことを考えるならばよっぽどいいはずです。 ■問われたのは自分自身だった 丸山 市民が声を上げることにはもちろん意味があります。ただそうした声には代案が伴わないことが多い。脱原発、クリーンエネルギーへの移行を唱えつつ、同時に不景気を拒否し、生活レベルの維持を求めていては、リスクも背負わず代案も提示しない文句になってしまう。 萱野 文句を言うだけの立場は政策決定に責任をとらなくていい。しかし決定をする側に立つと、自分がクリーンな立場にいられるかどうかだけでは物事が進められません。責任を負うには、あっちを立てればこっちが立たずという中で、ベターな道を選んでいくしかない。 丸山 陸前高田市の戸羽太市長は、市長選に当選して一ヶ月後に震災に遭い、ご夫人も行方不明になってしまいました。取材でお会いした時には、ご夫人のことは整理がついたと仰っていました。それでも、お子さんたちに何もしてあげられていないということについて、何度か涙ぐまれていました。お子さんたちが市長の苦悩を悟って我慢している姿を見た時に、情けなくてしょうがなかったとも仰られていました。そういうことも抱えながら責任を持ち決定する任にあたっている。「何かあった際に責任をとるといっても、職を辞するだけだろう」などとよく言われますが、当人のその後の人生を考えたら、責任をとって公の職を辞めるというのは結構なダメージであるはずです。 萱野 いろんなことを背負いながら任務にあたっている人たちがいます。福島の遺体捜索が遅れた地域でも最後まで捜索にあたったのは、現地の警察官。彼らは被曝するのを覚悟の上で、身を呈して活動している。 丸山 今回の本では求職中の若者にもインタビューしています。はたから見れば無職の青年ですが、彼は被災時には臨時職員として働いていました。身分としてはアルバイトになるわけですが、職員と同じように働いて、それこそ遺体をケアしたり避難所の運営にあたったりしていました。自分の家も被災した状況でそういうことをやっている。それだけ公に尽くした果てに、今は無職なわけです。そういった人たちの声がもっと届けられていいはずなのですが、瓦礫の受け入れや原発再稼働に反対するような大きな運動の声の方ばかりに注目がいってしまう。 萱野 震災瓦礫の危険性に過剰反応してしまうとそれしか見えなくなって、冷静になれずに声を上げてしまう。瓦礫受け入れ反対の運動が、被災地に心理的なダメージを与えていることに思い至らない。そしてそのことが“クリーンな言葉”で正当化されてゆく。客観的に測れないのがリスクなので、それぞれの反応が主観的な要素に左右されてしまうのは仕方がありません。けれども主観的なものが入るだけに、そこには各人の人間性などが反映されることになります。 丸山 震災瓦礫問題で問われたのは、自分自身でもあったということですね。浮き彫りになった自分を見つめることは大事です。それが、どんな姿であっても変えることはできませんから。最後に被災地の取材をするたびに思うことがあります。離れていて、どんなことを言っても、しょせん他人事だと思ってもいいから、震災に無関心になることだけは避けて欲しい。極端かもしれませんが、それだけは本当に強く思います。 (取材・構成=香月孝史 http://katzki.blog65.fc2.com/●まるやま・ゆうすけ maruyama000.jpg ジャーナリスト、ノンフィクション作家。1977年宮城県仙台市生まれ。考古学を専攻し國學院大學大学院修了後、日雇いや派遣労働などを経てビジネス書出版社に勤務。その後、フリージャーナリストとなる。裏社会の要人や犯罪者へのインタビュー、国内外の危険地帯への潜入取材を得意とし、これまで週刊SPA!、週刊現代、FLASH、週刊アサヒ芸能、日刊サイゾーなどの各媒体で北九州連続企業テロ事件、東日本大震災の火力発電所原油流出事故、避難所の性問題、福島原発5km圏内の被災動物などのルポを発表している。 ●かやの・としひと kayano000.jpg 1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学准教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。近著に『最新日本言論知図』(東京書籍)、『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)など。

『ガレキ』──日本を席巻した200日の瓦礫問題が投げかけた震災後の「当事者性」【前編】

 東日本大震災の津波によって発生した大量の瓦礫は、福島第一原発の事故で流出した放射性物質を帯びているとされ、その後の瓦礫広域処理に際して大きな波紋を呼んだ。今年5月、北九州市で震災瓦礫搬入に際して受け入れ反対派が行なった抗議活動も記憶に新しい。  その後メディアの注目が大飯原発の再稼働問題へと移行したこともあり、広域処理問題への関心は後方に追いやられた。しかし、世間の関心が小さくなることに比例して問題そのものが小さくなったことを意味しない。  この現状に瓦礫広域処理問題への注目を再び促し、議論の材料とするために上梓されたのが丸山佑介著『ガレキ』(ワニブックス刊)である。同書には宮城県の村井知事、陸前高田の戸羽市長をはじめとする各地の首長、東松島市の臨時職員や元原発作業員など、被災地に今も暮らす人々を含めた、多くの当事者へのインタビューや現地ルポが収められている。  瓦礫広域処理問題が我々に投げかけたものは何だったのか。本書を契機としてあらためて議論すべきこととは何か。著者の丸山氏と津田塾大学准教授の萱野稔人氏の対談を軸にして、本書の意義と瓦礫広域処理問題であらわになった課題を聞いた。 ■「震災がやってくる」 丸山佑介(以下、丸山) 昨年11月に東京都の石原慎太郎知事が瓦礫の受け入れに反対する声に対して、「放射能のガンガン出ているものを持ってくるわけじゃない。『黙れ』っていえばいい」と発言してから、今年5月に北九州市で起きた受け入れ反対の抗議騒動までがおおよそ200日間でした。その北九州市での騒動と前後して生じた、大飯原発再稼働に関する議論が活発になると、瓦礫広域処理の問題は収束してしまったかのようになった。本書『ガレキ』ではこの約200日間の現象を「ガレキ問題」として捉えているんですが、この時期の現象が今ではあまり顧みられなくなっているんですね。 萱野稔人(以下、萱野) 大飯原発再稼働の問題が生じてから、瓦礫の問題が後景に退いてしまって、ぷっつり瓦礫の話題がなくなってしまったという印象はありましたね。そもそもこの震災瓦礫の問題とは何であるのかという検証もされていないままで、そのための呼びかけがなされなければならない。本書はその役割を担う、第一級の材料になるのかなと思います。当事者の意見が集められているというのは本当に大きい。 丸山 単純な瓦礫受け入れの推進や反対を促したいのではなく、震災瓦礫の問題を議論するための記録にこの本がなればと考えています。瓦礫に対して異常にヒステリックになっていた、あの状況って何だったんだろうというのは国民全体の中に少なからずあると思う。 萱野 昨年9月に愛知県の花火大会で福島産の花火が使用されることに苦情が来て打ち上げが中止になったり、京都五山送り火に使用する予定だった陸前高田市の薪が受け入れ中止になったりと、こうした事態の前兆はありました。それら受け入れ問題の、いわば本丸が瓦礫広域処理です。これは関東以西に居住する人たちにとっては、初めて「東日本大震災がやってくる」という状況であったとも言えます。つまり、揺れなどの被害を直接受けなかった人々が、この震災において初めて当事者になりうる事態になった。 丸山 「震災がやってくる」という感覚はその通りですね。対岸の火事ならば落ち着いていられるのに、自分たちのこととなるとこんなに右往左往してしまう。被災地でインタビューをしていて印象に残ったのは、これまで全国の人々は支援してくれていたのに、瓦礫広域処理の問題となると途端に、反対運動をしている人たちの罵声が自分たちに直接突き刺さったと。反対派が「けがれている」として拒絶するその瓦礫の、すぐ横に被災地の人々は住んでいるわけですから。 萱野 そうした声は被災地そのものに対する否定の言葉になってしまいますよね。いざ当事者になってしまうと自分のことしか見えなくなってしまって、自身の言葉が被災地への否定となっていることに考えが及ばない。 丸山 受け入れに関して意見が分かれるのは当然だとしても、声を上げる際に、そこに配慮した言い方というのはあるはずじゃないか。そんな思いも、この本を書いた動機としてはあります。 萱野 福島から他地域に避難した子供がその地域の学校でいじめられたという話もありましたが、被災地の人々は県外に行けば自分たちがそうした扱いを受ける存在になってしまったのだと感じるわけですよね。いわれのない差別が生じていて、福島の女子高生たちが、私たちはもう福島の人としか結婚できないよねという話をしていたりする。県外に出た人たちや震災瓦礫がそうした扱いを受けることで、被災地に暮らす人々は被災地全体が否定されたと、当然受け取ってしまう。そのことに思い至らないくらいパニックになってしまう人が多く出るような事態になった。 ■東京に当事者性があったということ 丸山 先ほどの関東以西が初めて東日本大震災の当事者になったという話でいうと、震災発生直後は、地域による温度差を確かに感じました。震災後に、九州や沖縄を取材していたのですが、東京ではいたるところに貼ってあった「絆」ステッカーが、西に行くほど少なくなっている。現地で話を聞いてみても、当事者性の薄さというのは感じられました。 萱野 関東以西の温度差は違いましたね。逆に言えば、東京があそこまで揺れて、計画停電の実施や、荒川区で高い放射線量が検出された等の出来事がなければ、全国問題としてここまでの大きな扱いにはなっていないかもしれない。東日本大震災は東京が巻き込まれた災害だった、つまり東京に当事者性があったということです。だからこそここまでのナショナル・インタレストになったということはあるでしょう。 丸山 石原都知事の瓦礫受け入れについての発言も、まさに東京に当事者性があったことを示しています。 萱野 関東以西などの地域の人たちにとっては、瓦礫受け入れ問題によって初めて当事者性に直面した。そうした時に、それまでとは違う側面、被災地を否定するような反応も見えてきたということですね。 (後編へ続く/取材・構成=香月孝史 http://katzki.blog65.fc2.com/●まるやま・ゆうすけ maruyama000.jpg ジャーナリスト、ノンフィクション作家。1977年宮城県仙台市生まれ。考古学を専攻し國學院大學大学院修了後、日雇いや派遣労働などを経てビジネス書出版社に勤務。その後、フリージャーナリストとなる。裏社会の要人や犯罪者へのインタビュー、国内外の危険地帯への潜入取材を得意とし、これまで週刊SPA!、週刊現代、FLASH、週刊アサヒ芸能、日刊サイゾーなどの各媒体で北九州連続企業テロ事件、東日本大震災の火力発電所原油流出事故、避難所の性問題、福島原発5km圏内の被災動物などのルポを発表している。 ●かやの・としひと kayano000.jpg 1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学准教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。近著に『最新日本言論知図』(東京書籍)、『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)など。

震災から1年半……「傷ついた心の復興は進んでいない」福島のいま

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 マグニチュード9.0の揺れが東北地方を襲った3月11日から1年半。一見すると、日本社会はかつての落ち着きを取り戻しているかのように見える。「震災から1年半『も』たった」という言葉も聞かれるほど、震災の記憶は遠いものとなっている。東京に限っていえば、まるで震災などなかったことのように、いつもの日常が繰り広げられている。しかし、被災地に流れている時間は、東京のそれとはまったく異なっていた。今年8月後半に、福島県いわき市から楢葉町までを訪れた様子をレポートする。  常磐道を使えば、わずか2時間あまりで福島県内に入る。現在も至るところで「東日本大震災復興工事」の標識を立てた修復工事が行われていた。いつもと変わらない交通量の常磐道。しかし、いわき中央ICを通り過ぎると、通行する車の数は激減する。いわき中央ICの次にある広野ICから先は、原子力災害対策特別措置法に基づいて、いまだに通行止めとされているからだ。その広野ICを降りて、国道6号線方面に向かう。 ■手付かずのままの楢葉町  高速道路を降りて3分も走れば、福島第一原発事故の対応拠点となっているJヴィレッジにたどり着く。かつてはこの場所に検問が敷かれており、ここから先は立入禁止区域に指定されていたものの、この8月から避難区域が再編。原発から20km以内となる楢葉町も立入禁止となる「警戒区域」から、日中の出入りが自由となる「避難指示解除準備区域」に変わった。それに伴って、検問はJヴィレッジ前から数キロ先にある楢葉町と富岡町の境界付近まで後退することとなる。
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 旧検問を通り過ぎ、楢葉町に足を踏み入れると、これまで見てきた風景は一変する。  出入りは自由となったものの、いまだに夜間の宿泊は認められておらず、そこで生活を送ったり、店舗の営業を再開することはできない。楢葉町では8月初旬まで立入禁止区域に指定されていたことから、復旧作業も手付かずのままになっている。  かつて田んぼや畑が広がっていたであろう場所には、稲の代わりにセイタカアワダチソウが生い茂り、人の背の高さにまで成長している。国道沿いには民家が点在しているものの、カーテンが閉められ、生活の息遣いは聞こえてこない。さらに車を走らせていくと、地震で崩れたままの家屋や家の塀、看板なども散見された。  国道から外れ、海のほうへと車を走らせると、津波でぐにゃぐにゃにねじ曲げられたガードレールや、雑草の間に横たわるがれき、折れたままの電柱などが目に付く。ちょうど1年前にも僕はいわき市を訪れたのだが、まさにその時に見たままの状態だった。
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 以前、ある避難民が「家に戻るつもりはない」と語る姿をテレビで見たことがある。避難先で、あくまでも“仮の生活”を送る彼らが、いったいどうして故郷に戻る気持ちを失ってしまうのか、その時はまったく理解できなかった。しかし、楢葉町の風景を見るにつれ、なんとなくその気持ちもわかってくる。  1年半の歳月をかけて、彼らは避難先での生活を積み上げた。その生活を捨て去り、ゼロ以下のマイナスから新たな生活をスタートさせるのは、とても難しいことだろう。すでに世間や自分の中にあった非常時の一種の高揚感も静まった。荒れ果てた故郷を元に戻そうというパワーが出ず、避難先での現状維持を望むのは決して特殊なことではないだろう。 ■観光バスが被災地に乗り付ける  続いて訪れたのは、いわき市の北端沿岸部に位置する久之浜地区。地震発生直後、津波、火災が重なり壊滅的な被害を受け、この地域だけでも数十人の人々が亡くなった。  昨年訪れた際は、緊急にがれきを撤去し、やっと車が通れるような状態だった。そこから1年を経て、現在ではがれきやボロボロの建物のほとんどは撤去され、基礎だけしか残されていない更地の状態が広がっている。  地元住民によれば「がれきや壊れた建物が残っていると、暗い気持ちになってしまうから、なるべく早く取り除いたんです」と、スピーディな歩みを進めてきた久之浜。だが、ここに来て、ある問題点が湧き上がっている。「集団移転をするのか、この場所で住み続けるのか、役所のほうで今後の方針が定まらず、建物を建てることもままならない。方針が決まれば着工できるんだけど……」と、対応の遅い行政にいら立っている様子だ。
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 そんな久之浜地区を取材していると、観光バスに乗った集団がやってきた。遠目から見ると、オバチャンたちの集団だろうか。まるで、観光地に降り立ったかのように日傘を差しながら久之浜の状況を写真に収めている。自分のことを棚に上げ、どことなく感じてしまう違和感。だが、その風景を見たある住人が語った言葉が印象深かった。 「久之浜の現状を見てもらうことは、次の防災につながると思うんです。いろいろな意見はあると思うが、個人的にはどんどん来てほしいと思っている」  これは、あくまで一部の意見であり、地元住民の総意ではない。しかし、被災地を“観光”し、その被害の様子を自分の目で確認することで、テレビで見たものとは異なった印象を受けるに間違いない。 ■市民と避難民との軋轢  ひとたび沿岸部を離れ、市街地のほうに足を運ぶと、そこには東京とほとんど変わることのない日常が広がっている。建物や道路の復旧工事の多くは完了し、放射線量はおよそ0.1マイクロシーベルトと、南関東の数値とほとんど変わらなくなってきている。いわき市の中心部に限っていえば、「被災地」としての姿を見つけることのほうが難しい。  しかし、そんないわき市で取材を行うと、聞こえてきたのはいわき市民と原発近くから避難している避難民との軋轢。 「彼ら(避難民)の一部は、東電からの補償金で、昼間から酒を飲みパチンコに行くような生活をしている。いわきの道路を使って、いわきの施設を使用しているのに、いわきに税金を払っていません」 「いわき市内では避難民による交通事故が増えています。聞いた話では、事故を起こしながら、第一声が『私は避難民だ』ということ。避難していることと、事故を起こしたことは関係ないはずなのに、同情を買おうとしているんです」  こういったウワサの真偽は不明だが、避難民の話を始めると、顔をしかめながらこの手のウワサ話を語る人は多い。こんな状況を指して、ある住民はこう嘆く。 「建物や道路などの表面上では、いわき市内の復旧は進んでいます。しかし、市民の心はまだ復興されていないんです。他人に向ける心の余裕がなく、こういったウワサ話が流布してしまうのではないでしょうか……」  今回、被災地を取材して感じたことはやはり、震災から1年半「も」たったのではなく、震災から1年半「しか」たっていないということだった。表面上は取り繕われていても、まだ震災の感覚はリアリティーを持ってわたしたちの記憶の中に刻まれている。いわき滞在中の8月31日深夜、フィリピン沖で発生したM7.6の地震によって、日本全国に津波注意報が発令された。わずか50cmという予報だったが、その時、僕の頭にはありありと1年半前の記憶が蘇り、言いようのない不安に身体が支配された。  では、震災から1年半「しか」たっていない状況で、わたしたちが目指していく「復興」とはなんなのだろうか? 何が達成されたら、「復興した」ということができるのだろうか? 最後に、今回の滞在中に経験したある出来事を記して拙稿を締めくくりたい。  1年前に訪れた時、Jヴィレッジ前の検問付近には、どこか物々しい雰囲気が漂っていた。赤いサイレンが明滅し、数台の護送車と10人ほどの警察官が警備にあたっていた。国道6号線を歩く人もおらず、歩道には伸びきった夏草が刈り取られないまま放置されていた。  だが、今回同じ場所を訪れた時、昨年とは異なった感覚を味わった。検問がないこともそうだが、そこには除染作業や工事を行っている人の姿があり、1年前は国道を走る車の音しかしなかった場所で、重機を動かす音や、何かを話している人の声も聞こえてきた。最前線の物々しい雰囲気はそこにはなく、人間が生活をしている時間が流れていたのだ。1年を経て体験した時間の流れ方の変化は、建物や道路が元に戻る以上に「復興へ近づいた」と感じられた。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])

「一家に一台ガイガーカウンター?」竹書房が放射線測定器付き書籍を発売

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『家庭用放射線測定器エアカウンターS』
(竹書房)
 竹書房が、家庭で放射線量を計測できるガイガーカウンター「エアカウンターS」を付録にした書籍『家庭用放射線測定器 エアカウンターS』を4月23日に発売する。  「エアカウンターS」は、タカラトミーアーツが企画・開発し、今年2月よりエステーが発売しているスティック型の計測器で、これまで20万個を販売しているヒット商品。今回、竹書房で本とパッケージ化し、6, 980円で販売されるという。  初版は1万部で、特典冊子として、放射能汚染から身を守る方法を説いたマニュアル本「武田邦彦が教える子どもの放射能汚染はこうして減らせる」が付いているという。  昨年の原発事故発生直後、放射線測定器の販売店やメーカーには問い合わせが殺到し、世界的に品不足となっていたが、最近では一般家庭向けの比較的手頃な測定器が各メーカーから発売され始めている。  有名ブランドとコラボしたバッグや美顔ローラー、はたまたフライパンなど、付録付き雑誌がブームとなって久しいが、放射線測定器までもが付録になる時代とは……。一体どういった経緯で企画されたのか、竹書房の担当者に話を聞いた。 「もともと震災直後から、放射線測定器付きの書籍を販売したいなとは思っていたんですが、当初はほとんどが海外製の高価なもので、製造コストと機能性を検討した結果、一旦は話が頓挫していたんです。そんな中、昨年秋ごろにエアカウンターSの製造元であるタカラトミーアーツさんと別件でお仕事をさせていただく機会があり、こういう商品が出るという話をうかがったんです。エアカウンターSはすべて国内生産ということもあり、性能に関してもまったく問題がない。検討した結果、ぜひムック本として出そうということで話が進みました」(竹書房・星野さん)
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エアカウンターS
   ムック本の“付録”ということで、一般的に市販されているものよりも性能的に劣るのではないかという心配もあるが、それはまったく問題ないという。 「薬局や家電量販店などで販売されているエアカウンターSとまったく一緒のものですし、環境や原発問題の専門知識を持つ中部大学の武田邦彦教授にいろいろとご相談して、アドバイスをいただいております。それに測定器に関しては、高性能だからいいというわけではなく、メリット・デメリットがあるんです。空間線量を測定するにはガンマ線を計測しなくてはならないんですが、ガンマ線以外も測定できる高性能の測定器を使うには、使用する本人にも深い知識が必要です。それに、何度か観測しないと正しい数値が計れないという点は、どの測定器も一緒です。結果、一般家庭で使うには、最低限の機能を備えた低価格のエアカウンターSがちょうどいいのではないかと思いますね」  今回、タカラトミーアーツはいろいろな販路でこの測定器を販売したいということで、竹書房とのコラボに快諾してくれたということだが、書店からの注文状況はどうなのだろうか。 「地域によってばらつきがありますね。やはり西日本よりも、関東より北のエリアのほうが反応がいいですね。とくにホットスポットエリアの書店さんでは多めに注文をもらっていますが、自重というか、慎重派な書店さんももちろんいます」  最近では、よほど高い数値が出ない限り、放射線量はあまり話題にならなくなっているが、生活エリアの一角が知らぬ間に“ホットスポット”になっている可能性は十分にある。小さな子どもがいればなおさら心配だが、なかなか声高に不安感を口に出せない空気はある。 「政府の発表は“後出しじゃんけん”が多い。いま屋外で測定器を持って放射線量を計る、という行為は物々しい感じがしますが、少しでも心配な場所があったら測定器で計る、という空気になったほうがいいんじゃないかと思いますね。後々『あそこのエリアは危険だった』と言われるよりは、自分で計って確かめたほうがいいのではないかと。10年後、15年後に、やっぱりあのときちゃんと計って対策しておいたほうがよかった、となっても取り返しがつかないですからね。比較的手が出しやすい価格帯になったので、ぜひ試してみてほしいですね」  原発事故から1年以上が経ち、当初に比べると原発や放射能関連のニュースは少なくなってきているが、今もまだ福島第一原発からは放射能が漏れ続けている。なんとも物騒ではあるが、一家に一台ガイガーカウンター、という時代が来ているのかもしれない。