NHK『あさイチ』名物コーナー「アッキーがゆく“復興の地”」が伝える、6年目の被災地と復興の意味

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NHKオンライン『あさイチ』より
 東日本大震災から今年で6年。毎年、この時期になると、各局で震災特集や特番が放送されるが、そんな中、いい意味で肩の力を抜いて見られる番組がある。NHK『あさイチ』の名物コーナー「アッキーがゆく“復興の地”」だ。 “アッキー”ことタレントの篠山輝信が、バスや列車を乗り継いで岩手・宮城・福島を訪ねる、約650キロの旅。毎年3月11日前後の1週間放送される15分ほどのミニコーナーなのだが、アッキーの人間性がにじみ出る等身大のリポートは、他局のそれとは一線を画している。  アッキーはもともと、同番組で地域の情報を生中継するコーナー「ピカピカ☆日本」のリポートを担当。そこで培われた素人とのやりとりは抜群で、また、母・南沙織譲りのチャーミングな笑顔と天真爛漫なキャラクターは、V6・井ノ原快彦、有働由美子アナ、柳澤秀夫解説委員に次ぐ『あさイチ』の顔として、視聴者に愛されている。  バスや電車が復興し始めた2013年から始まった復興の旅は、今年で5回目。「5(年目)という数字の上では区切りのいい次の年(6年目)だからこそ、しっかり自分の目で今の東北を見つめたいと思って行ってきた」と話すアッキーが初日に向かったのは、岩手県久慈市に隣接する野田村。NHK朝ドラ『あまちゃん』ブームも落ち着き、最近は観光客も減少。アッキーが毎年楽しみにしている「鮭いくら弁当」も、4年前の1日限定10食から昨年は3食になり、今年はついに2食になってしまった。さらに、昨夏の台風10号による川の氾濫で、鮭のふ化場が壊滅。川の鮭がまったく獲れなくなってしまったという。「なんでこの地域の人たちが、こんな目に何度も遭わなきゃいけないんだろう……」とショックを受けるアッキー。  そんな中、明るいニュースもあった。村で採れる山ぶどうを使ったワインの工場が完成したのだ。「野田村でこんなロケするとは思わなかった!」と興奮気味で工場内をレポートし、さらに併設されたテイスティングルームで試飲。雪化粧がまぶしい絶景をバックに、この日一番の笑顔を見せるのだった。  2日目に訪れたのは、宮古市田老地区。一昨年、仮設商店街「たろちゃんハウス」からいち早く本設店舗再建を果たした時計写真店を訪ねると、街に人も活気も戻らない現状に、店主の津田さんは「当時(震災後)は無我夢中で頑張ってきたけど、落ち着いて振り返ってみると、これからどうなるんだろうと不安になる。今、自分は一番つらい」と漏らす。  続いて、同じく仮設商店街から昨年11月に再建したばかりの善助屋食堂へ。1年前は本設店舗オープンに向け、新メニューを開発するなど、意欲を燃やしていた店主・赤城さんだったが、今回は表情が暗い。再建したばかりの店と、来月高台に建つ新しい家のローンは、あと30年。65歳の赤城さんにとっては、気の遠くなるような年月だ。「どういった状況になったら、赤城さんにとって復興になるのか」とアッキーが尋ねると、「一生想像がつかない」とポツリ。「震災前はがむしゃらに働いてきて、老後は習い事をしたり、のんびりしようと思っていたのに……なんで今、こんな思いをしなくちゃいけないのか」と、うっすら涙を浮かべながら語った。  津田さんや赤城さんのように、震災後、街に活気を取り戻そうと頑張ってきた商店主たちの多くは、決して甘くはない6年目の現実に心が折れそうになっている。そんな彼らが本音をこぼせるのも、毎年現地を訪れ、関係性を築いてきたアッキーだからだろう。  3日目は、大槌町と気仙沼市。代行バスに乗って大槌町に向かうと、今年はなんだか街の様子が違う。昨年はかさ上げ工事のため、方々に盛り土の風景が広がっていたが、今年は盛り土がなくなり、その上に新しい道路が整備されていたのだ。  震災後、仮設住宅をトラックでくまなく回り、食品や日用品を販売している移動販売のリーダー佐藤さん。最近は新しくできた災害公営住宅も回っているという。周囲にはまだお店がないため、佐藤さんのトラックが到着すると、続々と住民が集まってくる。みんなわいわいと楽しそうだ。そんな中、足早に部屋に戻ろうとするおばあちゃんに声をかけるアッキー。「私は知り合いが誰もいないから……」と話すおばあちゃんだが、さまざまな場所から人が集まる災害公営住宅のため、このおばあちゃんのような人は少なくない。そんな人たちにとっても、ただ買い物をするだけでなく、コミュニケーションの場として機能している移動販売が果たす役割は今後も大きい。  気仙沼を訪れたのは2年ぶり。資材高騰や人手不足のために工事が遅れ、仮設商店街・南町紫市場の閉鎖は今年4月まで延期されたという。当初は紫市場のみんなで駅前にできる新しい商業施設に移転する予定だったが、建て替えに際し、それぞれが多額のローンを抱えることが判明。年月がたつにつれ、店主たちの気持ちはバラバラになり、半数以上が移転をあきらめたという。  そんな中、アッキーは商業施設に参加しない人を訪ねた。鮮魚店の斎藤さん夫婦は、3代88年続いた魚の小売をやめ、業務を縮小して、別の場所に移るという。「後継者がいないから、潮時だな」と語る姿には、悲壮感よりもどこかふっきれたようなものがあった。  斎藤さんのように、震災から6年たった今になって店をやめる人は少なくない。4代続く創業131年の銭湯は、津波にも耐え、ボランティアの手によって再建されたが、沿岸部のかさ上げ工事に伴い、取り壊しが決まった。この銭湯は、全国から気仙沼にやってくる漁師たちが必ず立ち寄る場所で、「ただいま」「おかえり」という挨拶が交わされる。「船の人たちがせっかく気仙沼に水揚げにきてくれるのに、申し訳ないなとは思う。でも、どうしようもない」と寂しそうに語る女主人に、アッキーも「復興っていう流れの中で、こういう気仙沼の景色がなくなっていくのは、どうとらえていいのか……。復興って言葉の意味が難しくなってくる」と苦渋の表情を浮かべる。  アッキーのレポートは、街ブラ番組風のゆるさを装いながら、ひとりひとりの言葉に耳を傾け、それに一喜一憂し、結果的に地域それぞれが抱える課題を浮き彫りにしていく。アッキーの目を通して伝えられる被災地の変化は、報道番組では見逃されている小さな点も多く、風化が懸念される被災地にとって、今後ますます果たす役割は大きい。 『あさイチ』では、「復興の地」以外にも、「もっと知りたい!沖縄」を不定期で放送しているが、こちらもアッキーのレポートが光る。定点観測によって、難しい問題を少しずつひもといていこうとするこのシリーズは、もはやアッキーなしでは成立しない。    なお、このコーナーは来週も続き、3月11日には、これまでのダイジェスト版『アッキーがゆく“復興の地”』(午前9:28~午前10:00)が放送される。未見の方は、ぜひこちらにも注目してほしい。

自称“不遜”な小説家・天童荒太が描いた、震災5年目の「サバイバーズ・ギルト」

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 東日本大震災から5年。被災地からは続々と「復興」のニュースが届き、その安心感も手伝って、震災被害に思いを寄せる時間は格段に少なくなってきている。  直木賞作家・天童荒太の新作『ムーンナイト・ダイバー』は、そんな私たちに冷や水をぶっかける力作だった。描かれるのは、震災から4年半が過ぎた原発周辺地域。立ち入りが制限され、復興から取り残された町で行方不明になったままの方々の家族のために、主人公は月明かりだけを頼りに危険な海に潜って、遺品を拾い上げてくる。  あの震災を生き残ってしまった者の苦悩、いわゆる「サバイバーズ・ギルト」に苦しむ登場人物たちの姿は、あの日見た被災地のニュース映像を、自ら体験した大きな揺れとともに、まざまざと思い出させてくれた。  まだ、たった5年だった。深く自省しながら、ページを繰った。 ──深く自省しながら読み始めたのですが、そういう意識がすぐに吹っ飛んでしまったんです。どんどん読み進めてしまって、すごく面白い本を読んでいるという幸福感に包まれてしまい……。 天童 それは何よりです。願っていることなので(笑)。 ──幸福な読書体験だったのですが、読み終わった後に、少しだけ「私は震災を面白がってしまった」という罪悪感が湧いてきたんです。震災でつらい思いをした方がいる、まだまだいるということに思いを馳せようとして、思いを馳せながらも、時間を忘れて楽しんでいる自分がいた。そこに戸惑いを感じたんですね。 天童 それは自分が書くときにも生じるんですよ。『永遠の仔』で虐待された子を書くとき、あるいは『悼む人』で忘れられた人の死を書くときもそうですけれど、自分の中で昂揚感がなければ、表現として書くことができないですから。そうして昂揚していくときに「昂揚していいのか?」という罪悪感は、否定すべきものではないのではないか、と思っています。その罪悪感は、愛情の薄い人間だったり、「そんなことどうでもいいよ」と思っている人間だったら感じないものだから、肯定すべきものなのではないかと。それは人間の美質なんだろうと思います。大事なものだと思いながら表現しますし、届けるっていうのはありますね。 ──誠実さの裏返しとしての罪悪感。 天童 そう思っていましたし、物語の中の罪悪感、サバイバーズ・ギルトを書くときの基本路線はそれでしたね。生き残った側が、生き残ったことを幸せに思えない。「なんで俺が生きているのか」と。そのことを周囲は「おまえのせいじゃないんだから、そんなふうに考えるな」とか「くよくよせずに、そんなこと忘れて精一杯生きていけよ」って言い方をすると思うんですけれど、それは彼の持っている愛の豊かさを否定することになったり、大事に思う心を「忘れろ」と言っているに等しい。だから、言われた方はもっと苦しくなるし、「そんなことできない」と、もっと自分を責めてしまう。そういうことを、この世界はずっとしてきたんじゃないかと思ったんです。むしろ、そう思えることが愛の豊かさだし、忘れる必要もないし、そう思うことは大事なことだという社会に変わった方が、すごくいいんじゃないかっていう思いが根っこにあったんですね。
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■作家自身の震災体験と、「小説は不遜だ」という思い ──この作品の出発点となった2011年3月11日の東日本大震災を、どういう状況で迎えたのでしょうか。 天童 都内の自宅で、そのときは仕事はしていなかったですね。くつろいでいる時間帯でした。これだけの大きな揺れは経験したことがなかったので、とっさに思ったのは「これが東京の震源地ならいいんだけどな」ということでした。他が震源地だったら、その震源地はひどいことになっているだろうと。で、テレビをつけると、震源地は東北だった。これはもう尋常じゃないことが生じているだろうということを感じたのが、いちばん最初でしたね。 ──その報道を見ているときも、小説家としての職業意識は働くものですか? 天童 最初はやっぱり職業人としてではなく、属性のない一個の人間として驚愕の目で見ていました。小説家としてそこでできる仕事は、まずないので。ただ、2日3日たって、死者が1,500人、1,600人、もっと増えそうだとカウンティングが始まってきたときに……阪神淡路大震災の翌日に、自分の父親が亡くなっているんですね。これは病気で亡くなったので震災とは関係ないけれど、テレビでは「おまえの母ちゃんダメだったんだ」「えー!」みたいなことをずっと追いかけているし、地元の地方紙のお悔み欄に父親の名前を探したら、震災と関係なく大勢の方が亡くなっていて、子どももいて。人の死は死に方で扱いが変わるっていう現実を、肌感覚で感じたんです。その後、2001年の9.11があって、人の死がカウンティングされていくことの限界と、家族にとっては1万人分の1ではなく「オール」であるということのギャップに、我々はどう向き合っていけるんだろう。あるいは、向き合うことを忘れている世界は、人間にとって本来の幸せなのかと。3.11でも、カウンティングで災害の大きさが測られていくときに、またこのことが繰り返されていくのか、この世界は何も変わっていないということが、すごく重く堪えるようになってきた。そのときに、小説家として意識し始めたのかな。 ──その後、2011年の6月に、被災者にインタビューをするテレビの取材で陸前高田と大船渡に入っています。 天童 小説家として被災地に行くのは間違っている、という気がしていたので、葛藤はありましたね。そのときは『悼む人』を書いた人間としてどう思うかという取材依頼をいただいて、自分が媒介としての役割を果たせると思って、ようやく行けました。何かを表現するために行くっていうのは違うと思っていたんですが、小説家という人種は困ったもので、行くとそういう気持ちが絶対に芽生えるんです。単純にボランティアで行っても、それを何かに生かしてしまおうとするのではないか、という。 ──そのときの様子が『静人日記』の文庫版に収録されていますが、この文章は「一万五千、七千、という波底にもぐり、一つ一つのいのちの相貌を拾い上げられる本物の想像力がほしい」という一文で締めくくられています。これは「いつか小説を書くぞ」という決意表明だったのでしょうか? 天童 小説として書くことは、まったく考えていませんでした。現実を現実として表現するのは、小説として不遜であるという気持ちが強くあるんです。はっきり言えば小説はウソを通して真実を表現することなので、ああいう大きな災害は、ウソではなく現実を通して真実を伝えるべきだろうと。であれば、報道であったりノンフィクション、ドキュメンタリストの仕事なので、自分の仕事ではないという気持ちが強かったんですね。 ──書くにいたったきっかけというのは? 天童 あの震災が起きたときには、それまで経済優先だったがゆえに備えを低く見たり、怠ってきた部分があったのではないか? といった反省が起きたり、改めて人と人がつながり合うこと、絆が大事なのではないかという空気が生まれたにもかかわらず、1年2年たつうちにどんどん忘れられて……3.11以前にも増して、経済優先で格差を肯定している、あるいはそれによって孤立化が生まれ、モラルが中枢まで崩れていってしまうという現状がありました。それは根底に、我々が被災者を忘れようとしているがゆえに、自分たちの無意識のうちにも「利益を上げないと忘れられていくのではないか?」「悲しいことを背負ったら置き去りにされるのではないか?」という強迫観念を植え付けられているような気がしたんです。もう一度、悲しい思いをした人たち、つらい立場の人たちと向き合うことによって、我々の本来の美しさとか、豊かな在り方みたいなものを求めうるのではないかと。これは可能性であり、事実ではない。可能性を表現するのが小説の仕事ですから、自分の仕事がここにあると思ったんです。 ──それを実感した瞬間というか、奮い立った何かというのはあるのでしょうか。 天童 奮い立った何かはないですね。いろいろなものの総合的な感覚だったし、時代の流れだったし。そこで小説としての特性とか、小説にできることというのを考えたときに、今から2年前ですね、立ち入り禁止の町に海から入ることを思い立った。小説は人の目に見えないもの、カメラで写せないものを見せられるのが特性なので、立ち入ることができない海の底を見せるというのを思いついたときに、「それなら表現できる」「小説にできる」という小説家としての昂揚が生じたわけです。それがきっかけになっています。
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■原発が見える海に、手をつけて「約束」してきた ──執筆を前に赴いた浪江町の港への取材は「復興できない場所」を見に行くという意図だったのでしょうか? 天童 最初はそんなことを考えて行ったわけではなく、主人公たちが海に潜るために出航する港を見つけに行こうという取材でした。実際に現地名は出さないことを決めていましたが、生活者が主人公なので、生活者としての生活に即した現場をしっかり見てこようという気持ちが強くあったんですね。そこで浪江町の請戸という港に入ったのですが、取材に行った去年の4月というのは、もう4年目なんです。当時の報道は「復興しています」「被災現場は更地になって、きれいになって、高台に街ができ始めています」「失われた店はこんなふうに復興していて、元のようではないけれど、みんな元気で頑張っています」という笑顔があふれるシーンばかりだったので、その場所のイメージがなかったんです。行ってみたら、11年6月に陸前高田に入った時とほぼ変わらない風景だった。土台だけを残して失われた街の情景がずーっと続いているのを見たとき、大きなショックを受けましたね。何も、あのときから変わっていない。我々が見てきた「復興しています」という報道はなんだったんだという、そのギャップに茫然としてしまった。意図して行ったわけではなく、行ってみて、ショックを受けて、これをちゃんと心に入れて書くべきだと、そのときに感じたんです。 ──作中では原発を「光のエリア」とだけ呼んで、放射能にも一切言及していません。ただそこは「立ち入り禁止である」ということだけに留めたのは? 天童 ひとつは、小説であるのに、現実と混同されて整合性をひとつひとつ見られていくと、フィクションとしての真実性が届かなくなるということ。それと、さまざまな問題にさらされている人たちを傷つけたくないという気持ちですね。取材に行ったときに、不遜なことをしている気持ちがすごくあったので、原子力発電所が見えて、もしかしたら汚染されているかもしれない海に、実際に手をつけて「書かせていただきます」と、約束をしたんです。それがどう読まれるかというのは、もう委ねるしかない。委ねるしかないがゆえに、全力を尽くさなければならない。この表現に対しては、自分の今持っている技術と、ここまで培ってきたキャリアをすべて注ぎ込んで、一片の悔いもないところまで作り込まざるを得なかった。委ねるということに、甘えは許されないとは思っていました。 ■「言葉が言葉を呼んで、もっと潜れる──!」 ──登場人物たちのセリフや行動には、実際に取材で聞いた言葉も入っているのでしょうか。 天童 僕、基本的に決めているんです。小説を書くために人の話は聞かない。テレビカメラを通してその方の言葉を伝えたりする仕事で聞くことはありましたが、自分が小説を書くときには、もう聞かない。お話を一度二度聞いただけでその人のことをわかったと思うのは間違いだし、どれだけ深く付き合っても、本音の部分なんてなかなか話さないと思うんです。それを取材して、聞いて、語ったから、この町の人はこんなふうに思っていると書いたら、それはとんだ間違いになる。それに、小説で人間を描くとき、よい部分もあれば、悪の部分、醜い部分も書かなければ、その人間を本当に描いたことにならない。話を聞いておいてそういう部分を書いたら、その人が嫌な気分になると思うんです。だから、話は聞かない。聞かない代わりに、リサーチをしっかりして、自分がそこにいたらどんな思いをするんだろう、自分だったらどうするんだ、っていうのはとことん突き詰めて、追い込みますね。 ──読んでいてすごくスピード感を感じましたが、書くスピード感はいかがでしたか? 天童 スピードはすごく速くて、ありえないくらいでしたね。最初は短編でという話だったので、物語がストレートにどーんと1本あるだけなのもあって、書き始めたらどんどん言葉が言葉を呼んで、このくらいの浅さ潜るつもりが、もっと潜れるという感じで。海の底に潜ることがメタファーになって、人間の心に潜ることに直結していくのが、書きながらわかったんです。これは自分の、あるいは人間の心の奥底に潜っていく、主人公や自分自身の心の奥底に潜って、無意識層に当たれば、それは多くの人々が持っている無意識層と重なるはずだと。その人類の無意識層にどこまで潜っていけるか、という感覚に変わっていったんですね。物語ラインは1本で、より深く潜っていく。より深く潜るためには、一回上がってきて息継ぎをしていると、距離感が取れなくなると思ったんです。だからもうそのまま、一気に潜っていき続けたのでスピード感があったし、この作品においては、レトリックをできるだけ省いて、いかに強くて深いところまで潜れる言葉を選択できるかというのを、自分に対して課していました。 ──主人公は危険なダイビングをするようになって、肉を欲するようになった、女の人の体を強く欲するようになったということが象徴的に描かれていますが、それは潜りきった奥底にあったのがそれだったということでしょうか? 天童 いや、あれは自分が取材に行って、何もない街を歩いて、どんどん歩いて、どこまで行っても死の匂いがするわけです。自分自身が『悼む人』を書いた人間なので、その死がどんどんどんどん体に入ってくるんですよね。そうして死が蓄積していって、いわきの大都会に戻ってきたときに、いちばん最初に思ったのが「肉を食いたい!」だったんですよ。なんで肉を食いたいのかなと思ったら、自分が死の世界にずーっと行ってきて、戻ってきて、その生命体として、細胞として、生きることを渇望している感じがしたんです。年齢的なこともあるから性的なものはそんなにないけれど、主人公は自分よりもっと死に近い場所に行くし、若いし、さらに本能的に生の活動が強くなるんじゃないかなと。人間にはいろいろな理屈があるけれど、まず生き物だから、死に近づいたら生きることに餓えるのではないかと。命を取り込みたいとか、肉体への渇望も強まるのではないかというのが、自然に出てきましたね。 ──では、それはキャラクターに潜り込んで探り当てたというよりは、最初に感じたこと。 天童 そうですね。それをフィードバックした感じです。
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■小説が社会に果たす役割と、作家・天童荒太の役割とは ──『永遠の仔』では、書いた後にぶっ倒れてしまったという話を聞きました。今回はどうでしたか? 天童 あのときは虐待された子の感情を生きたので、疲れたのは疲れたんですが、本当にぶっ倒れたのは、読者からものすごい数の手紙をいただいたときなんです。実際に自分が虐待されてきた方々から、精神科医やカウンセラーにも話さないような体験を書いた分厚い手紙がどんどん送られてきて、その体験が全部自分の中に入ってきた。それで、耐え切れなくなって倒れたという感じですね。いわゆる二次トラウマのような。今回はまだ倒れるということはないです。やっぱり慣れもあるし、『悼む人』なんかも仕事上で続けてきたので、リカバリーの仕方もわかりますし。 ──小説というメディアは、社会の中でどんな役割を果たすべきだと考えていますか? 天童 「べき」とまでは考えないですね。 ──では、ご自分の小説がどんな役割を果たしてくれたらなぁ、という思いを込めて書いてらっしゃいますか? 天童 小説は可能性を表現できるメディア、ある種の奇跡を見せられるメディアなので、報道とは違う、時事性とは違うものを拾い上げて、それを使ってどう人々に気づきをもたらすことができるか、人間や社会における深みにどれだけ潜っていって、人々の幸せや、本当の幸いとはなんなのかということに、どれだけ向き合って伝えられるかということは考えていますね。今回、いただいた感想の中に「被災地や被災者に対して感じていた後ろめたさを、きちんと消化する形で書いてくれて、自分としても救われました」というのがあって、そういう役割もあるんだなぁ、とは思いましたね。多くの人が実は被災地や被災者に対して、サバイバーズ・ギルトというほどではないにしろ、後ろめたさや罪悪感を持っているのではないか、そこに対しての訴えかけが届いたというのは、それはひとつ小説としての役割を果たし得たかな、というのはありますね。 ──将来的に、また震災をテーマに小説を書くことはあるのでしょうか。 天童 どうだろう、今回も震災はシンボル化してしか書けなかったし、そのことが自分の小説としての意味合いだと思っているので……。考えてみると僕は、忘れられた傷とか、忘れられていく死者とか、今回だったら忘れられていく場所だったり、そういうことを表現して届ける人であって、そういう作家は日本にそんなにいないな、という。自分はそういう場所に立てているという「恵まれ」があると思うんです。『永遠の仔』以降、そういう場所に恵まれている。それは読者に置いてもらったので、多くの悲しみやつらさを抱えている人が、「自分と同じようなことを考えている、語っている表現者はいないのか」「この世界には、明るいことばっかり書く作家しかいないのか」と考えたときに「1人はいるよ」っていう作家であれればいいなと思っているんですよ。「いや、1人はいるよ」という作家で。『永遠の仔』で、自分が倒れるほどの手紙をいただいて、そこから復帰してくるときに、こんな手紙をもらえる作家は世界でも自分だけだろうと。だったら、その世界でたったひとりの作家になれればいいじゃないかと。これで生きていこうと決めたんです。 ──先ほどから何度も「小説家は不遜だから」とおっしゃっていますが、その意識は『永遠の仔』以降に感じるようになったのでしょうか? 天童 より強く感じるようになったのは『永遠の仔』以降ですが、昔からあったんですよ。あのね、米が作れない、食料が作れないっていうのは、いちばんダメだなという。本来は、お米を作ってくれる人とか、食料を作ってくれる人が人間にとっていちばん価値があるし、大事だろうと思っているので、物語を作ってお金をいただくというのは……これは小説を書くより前、16歳で映画監督になりたいと思ったあたりから、「うわぁ、これは不遜な、申し訳ない仕事だよね」という意識は、すごくあります。ぜんぜん拭えないです。 ──あのー、自分でも、こういうことを聞いちゃうのか、という感じなのですが……。 天童 はい? ──小説家になって、よかったですか? 天童 聞いちゃったなー。 ──出てきちゃいました。 天童 いや、すっごく、よかったです。映画をやりたかったのは本当だし、自分のすべてをそっちに向けて生きていた時代もあるんですが、今、小説の世界に立っているときに、小説で書けること、表現できることって、すごく豊かだと思っているんです。例えば病気になると、なんか気持ち悪い、なんだろうこれは、というときがあるじゃないですか。そんなときに、これはこういう病気ですよと言われると、ホッとする。そういう病気だってわかったことで、それに対して何かができる。そういう言葉付け、名付けって大事だと思っていて、それに似ているんですね。言葉にならない思いだとか、なんでこんなふうに自分を責めてしまうのか、どうしてこんなに悲しいのかっていうことに対して、それはこういうことなのではないか、誰もが持っている「生きたい」という気持ちや、「生きていてもいい」という肯定感を求めるからこそ起きているのではないか。罪悪感やサバイバーズ・ギルトを抱えていても人は幸せになれるし、なっていいのではないかという、言葉付け、名付けをすることができるのは、たぶん小説だけなんです。小説は物語によって伝えるので、深層心理の感情に届く、感情に届いたものは長く続くんです。人間を根底から変化させていく力を持っている。それに携わっていることが意識できたときに、本当に小説家にならせていただいてよかったなと、心から思いますね。 (取材・文=編集部/撮影=尾藤能暢) ●てんどう・あらた 1960年、愛媛県生まれ。86年「白の家族」で野性時代新人文学賞を受賞、93年『孤独の歌声』が日本推理サスペンス大賞優秀作となる。96年『家族狩り』で山本周五郎賞、2000年に『永遠の仔』で日本推理作家協会賞、09年に『悼む人』で直木賞受賞。13年に『歓喜の仔』で毎日出版文化賞を受賞。ほか著作に『あふれた愛』、『包帯クラブ』、画文集『あなたが想う本』(舟越桂と共著)、対談集『少年とアフリカ』(坂本龍一と共著)、荒井良二画の絵本『どーしたどーした』がある。近著に新書『だから人間は滅びない』。

テレビドラマは、東日本大震災をどのように昇華してきたのか

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「娯楽に関わる多くの人が自分自身に問いかけました。ドラマや映画や歌がなくても人は十分生きていける。でも水や食べ物、電気や燃料がないと人は困る。生きられない。世の中がすっかり変わってしまった。3月10日まで、日々どんな気分で暮らしていたか、アキもまた思い出せず、自分がどうしたいのか、わからないでいました」  これはNHK朝ドラ『あまちゃん』の物語の終盤、東日本大震災に見舞われた後のモノローグである。アイドルとして娯楽を提供してきたアキ(能年玲奈)が、果たして自分はこのままアイドルをやっていていいのだろうか、自分に何ができるのか、苦悩する。東日本大震災は、こうした悩みを「娯楽に関わる人」すべてに抱かせた。そして、震災後に作られたドラマのほとんどは、直接的・間接的を問わず、多かれ少なかれ、「震災」の影響を受けている。  最初に“直接的”に「震災」というキーワードが出てきたドラマは、僕が記憶している限りでいえば、2011年10月から放送された『11人もいる!』(テレビ朝日系)だった。『あまちゃん』と同じ宮藤官九郎の脚本で、貧乏な10人+幽霊の大家族を描いたホームコメディだ。その中で、被災地から避難してきた転校生・卓郎(渡邉甚平)が登場する。彼は大家族の一員である五月(赤石那奈)に恋をし、下駄箱に手紙を忍ばせる。彼に興味がない五月は手紙すら読もうとしないが、そんな態度をクラスの女子が責め立てる。 「かわいそうじゃん、読んであげなよ」 「卓郎君、地震で大変だったんだよ」 「日本中がひとつになろうとして」  それに対し、五月はきっぱりと言う。 「それとこれとは別」  宮藤は一貫して、「普通」であることの大切さをテレビドラマの中で描いてきた。震災後、日本では「普通」で居続けるのが困難になった。そんな中でも宮藤は震災を特別視せずに「普通」の中のひとつとして描いている。『あまちゃん』でも、宮藤は震災を描くに当たって「(震災を)やらないのもウソ、それだけをやるのもウソ」(MSN産経ニュース)と語っていた。  また、ネット上の自身の日記でも「『あまちゃん』は震災を描くドラマではありません。お茶の間の皆さんが愛着を持って見守って来たキャラクター達が、その時を経て何を感じ、どう変わるかは、ちゃんと描くことになると思います」とつづいている。    その言葉通り、『あまちゃん』における「震災」は数あるエピソードのひとつにすぎない。『11人もいる!』では、主人公である大家族は家を失いキャンピングカーで全国を放浪しながら、「真田合唱団」を結成し、歌を歌って楽しげに生活する姿を描いて終わる。幽霊のメグミ(広末涼子)と一緒に。彼らが歌う「家族なんです」は、こんな歌詞だ。 「助け合ったり 励まし合ったり しなくていい それが家族なんです」 「家がなくてもおもしろい あったらあったで超おもしろい それが家族なんです」 「生きていても 死んでいても 最悪見えなくてもいい 好きだから 一緒に暮らすんです」  震災以降、ドラマの作り手には「死者との向き合い方」「共同体における“絆”のあり方」「表現者としての立ち位置」を描くことが避けられなくなってきた。『妖怪人間ベム』や『泣くな、はらちゃん』『ど根性ガエル』(いずれも日本テレビ系)を手がけたプロデューサーの河野英裕は、それに自覚的な作り手のひとりだ。 『泣くな、はらちゃん』は、ヒロイン・越前さん(麻生久美子)が描いたはらちゃん(長瀬智也)が“現実”の世界にやってくるという岡田惠和脚本のファンタジー。純真無垢で美しい世界しか知らないはらちゃんはある時、震災や紛争などの悲惨な映像を見てショックを受け、涙を流す。「世界」を知ったのだ。そして『ど根性ガエル』では、主人公のひろしが移動販売車で旅に出る。彼が行き先に選んだのは福島だった。ある農家にたどり着いたひろしは、手間ひまかけて作られている米に、「日常」の意味を知るのだ。  河野は震災3カ月後に受けた東京新聞のインタビューで、こう答えている。 「ぼくのドラマにはファンタジーの要素があったりするが、核心にあるのは日常。今回の震災で、日常がもろくも崩れさったり、原発事故という非日常が日常になっている。現実世界が日常と非日常の中間地点になってしまっているが、今までちゃんとやろうとしてきた日常を、これからもやっていこうと思う」  河野は、日常を描くためにファンタジーを駆使しているのだ。  東日本大震災がこれまでの震災と違うのは、同時に原発事故というものがあることだ。たとえば、阪神大震災のときは、復興に向けて基本的に一枚岩だった。だが、福島第一原発事故による放射能汚染が事態を複雑化させた。それが表面化したのが「がれきの受け入れ」拒否だった。「絆」を声高にうたいながらも、いざ自分たちに直接的な負担を迫られると拒絶する。それどころか、攻撃する。  そんな「断絶」(と「伝える」ということ)を丁寧に描いたのが、『ラジオ』(NHK総合)だった。被災地である宮城県女川町で町民有志により放送を続けている「女川さいがいFM」の実話を基に、一色伸幸が脚色したドラマだ。ヒロインは、高校生の某ちゃん。(刈谷友衣子)。がれきはもともと被災者の家であり、生活であり、大切な思い出だ。「受け入れなくてもいいから、汚れたもののように言わないでほしい」。そう切実につづった某ちゃん。のブログが炎上してしまう。某ちゃん。は言う。 「被災地の外で11日にしか思い出されないあの震災は、私たちの日常なのです。過去形ではない、現在進行形なのです。私にしたら11日は震災を思い出す日でもなく、黙祷する日でもなく、被災地と被災地外の温度差を感じる日になってるように思います」  こうした「断絶」は今期の“月9”ドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(フジテレビ系)でも象徴的に描かれている。物語が震災の少し前から始まっていることから、ドラマ開始当初から「震災」が描かれることが予想されていた。  これまで、脚本を担当する坂元裕二は『それでも、生きてゆく』や『最高の離婚』(ともにフジテレビ系)でも、震災の影響を受けたであろう場面を登場させていた。だから、今度はいかに震災を描くのか、注目されていた。  果たして、直接的に描かれたのは「おめえ知ってたが? 坂上二郎さんが亡ぐなっちまったんだってよ」とタクシーの運転手が語る震災前日まで。そこで第1章が終わり、5年後の第2章がスタートする。第2章の開始時、登場人物たちの心模様は大きく変わっている。つまり『いつ恋』では、震災は心の「断絶」の象徴として使われているのだ。  だが、こうした「断絶」が「断絶」のままで終わらないのがドラマのファンタジーであり、希望のはずだ。それはもしかしたら現実逃避かもしれない。けれど、逃げたくても逃げられない現実に立ち向かうときに、フィクションの力が武器になることもある。 「人はドラマや映画や歌や笑いがなくても生きていける――」  そんなわけないじゃないか。  僕らに必要なのは、フィクションという希望なのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>)

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『あまちゃん 完全版 Blu-rayBOX1』(TOEI COMPANY,LTD.)
「娯楽に関わる多くの人が自分自身に問いかけました。ドラマや映画や歌がなくても人は十分生きていける。でも水や食べ物、電気や燃料がないと人は困る。生きられない。世の中がすっかり変わってしまった。3月10日まで、日々どんな気分で暮らしていたか、アキもまた思い出せず、自分がどうしたいのか、わからないでいました」  これはNHK朝ドラ『あまちゃん』の物語の終盤、東日本大震災に見舞われた後のモノローグである。アイドルとして娯楽を提供してきたアキ(能年玲奈)が、果たして自分はこのままアイドルをやっていていいのだろうか、自分に何ができるのか、苦悩する。東日本大震災は、こうした悩みを「娯楽に関わる人」すべてに抱かせた。そして、震災後に作られたドラマのほとんどは、直接的・間接的を問わず、多かれ少なかれ、「震災」の影響を受けている。  最初に“直接的”に「震災」というキーワードが出てきたドラマは、僕が記憶している限りでいえば、2011年10月から放送された『11人もいる!』(テレビ朝日系)だった。『あまちゃん』と同じ宮藤官九郎の脚本で、貧乏な10人+幽霊の大家族を描いたホームコメディだ。その中で、被災地から避難してきた転校生・卓郎(渡邉甚平)が登場する。彼は大家族の一員である五月(赤石那奈)に恋をし、下駄箱に手紙を忍ばせる。彼に興味がない五月は手紙すら読もうとしないが、そんな態度をクラスの女子が責め立てる。 「かわいそうじゃん、読んであげなよ」 「卓郎君、地震で大変だったんだよ」 「日本中がひとつになろうとして」  それに対し、五月はきっぱりと言う。 「それとこれとは別」  宮藤は一貫して、「普通」であることの大切さをテレビドラマの中で描いてきた。震災後、日本では「普通」で居続けるのが困難になった。そんな中でも宮藤は震災を特別視せずに「普通」の中のひとつとして描いている。『あまちゃん』でも、宮藤は震災を描くに当たって「(震災を)やらないのもウソ、それだけをやるのもウソ」(MSN産経ニュース)と語っていた。  また、ネット上の自身の日記でも「『あまちゃん』は震災を描くドラマではありません。お茶の間の皆さんが愛着を持って見守って来たキャラクター達が、その時を経て何を感じ、どう変わるかは、ちゃんと描くことになると思います」とつづいている。    その言葉通り、『あまちゃん』における「震災」は数あるエピソードのひとつにすぎない。『11人もいる!』では、主人公である大家族は家を失いキャンピングカーで全国を放浪しながら、「真田合唱団」を結成し、歌を歌って楽しげに生活する姿を描いて終わる。幽霊のメグミ(広末涼子)と一緒に。彼らが歌う「家族なんです」は、こんな歌詞だ。 「助け合ったり 励まし合ったり しなくていい それが家族なんです」 「家がなくてもおもしろい あったらあったで超おもしろい それが家族なんです」 「生きていても 死んでいても 最悪見えなくてもいい 好きだから 一緒に暮らすんです」  震災以降、ドラマの作り手には「死者との向き合い方」「共同体における“絆”のあり方」「表現者としての立ち位置」を描くことが避けられなくなってきた。『妖怪人間ベム』や『泣くな、はらちゃん』『ど根性ガエル』(いずれも日本テレビ系)を手がけたプロデューサーの河野英裕は、それに自覚的な作り手のひとりだ。 『泣くな、はらちゃん』は、ヒロイン・越前さん(麻生久美子)が描いたはらちゃん(長瀬智也)が“現実”の世界にやってくるという岡田惠和脚本のファンタジー。純真無垢で美しい世界しか知らないはらちゃんはある時、震災や紛争などの悲惨な映像を見てショックを受け、涙を流す。「世界」を知ったのだ。そして『ど根性ガエル』では、主人公のひろしが移動販売車で旅に出る。彼が行き先に選んだのは福島だった。ある農家にたどり着いたひろしは、手間ひまかけて作られている米に、「日常」の意味を知るのだ。  河野は震災3カ月後に受けた東京新聞のインタビューで、こう答えている。 「ぼくのドラマにはファンタジーの要素があったりするが、核心にあるのは日常。今回の震災で、日常がもろくも崩れさったり、原発事故という非日常が日常になっている。現実世界が日常と非日常の中間地点になってしまっているが、今までちゃんとやろうとしてきた日常を、これからもやっていこうと思う」  河野は、日常を描くためにファンタジーを駆使しているのだ。  東日本大震災がこれまでの震災と違うのは、同時に原発事故というものがあることだ。たとえば、阪神大震災のときは、復興に向けて基本的に一枚岩だった。だが、福島第一原発事故による放射能汚染が事態を複雑化させた。それが表面化したのが「がれきの受け入れ」拒否だった。「絆」を声高にうたいながらも、いざ自分たちに直接的な負担を迫られると拒絶する。それどころか、攻撃する。  そんな「断絶」(と「伝える」ということ)を丁寧に描いたのが、『ラジオ』(NHK総合)だった。被災地である宮城県女川町で町民有志により放送を続けている「女川さいがいFM」の実話を基に、一色伸幸が脚色したドラマだ。ヒロインは、高校生の某ちゃん。(刈谷友衣子)。がれきはもともと被災者の家であり、生活であり、大切な思い出だ。「受け入れなくてもいいから、汚れたもののように言わないでほしい」。そう切実につづった某ちゃん。のブログが炎上してしまう。某ちゃん。は言う。 「被災地の外で11日にしか思い出されないあの震災は、私たちの日常なのです。過去形ではない、現在進行形なのです。私にしたら11日は震災を思い出す日でもなく、黙祷する日でもなく、被災地と被災地外の温度差を感じる日になってるように思います」  こうした「断絶」は今期の“月9”ドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(フジテレビ系)でも象徴的に描かれている。物語が震災の少し前から始まっていることから、ドラマ開始当初から「震災」が描かれることが予想されていた。  これまで、脚本を担当する坂元裕二は『それでも、生きてゆく』や『最高の離婚』(ともにフジテレビ系)でも、震災の影響を受けたであろう場面を登場させていた。だから、今度はいかに震災を描くのか、注目されていた。  果たして、直接的に描かれたのは「おめえ知ってたが? 坂上二郎さんが亡ぐなっちまったんだってよ」とタクシーの運転手が語る震災前日まで。そこで第1章が終わり、5年後の第2章がスタートする。第2章の開始時、登場人物たちの心模様は大きく変わっている。つまり『いつ恋』では、震災は心の「断絶」の象徴として使われているのだ。  だが、こうした「断絶」が「断絶」のままで終わらないのがドラマのファンタジーであり、希望のはずだ。それはもしかしたら現実逃避かもしれない。けれど、逃げたくても逃げられない現実に立ち向かうときに、フィクションの力が武器になることもある。 「人はドラマや映画や歌や笑いがなくても生きていける――」  そんなわけないじゃないか。  僕らに必要なのは、フィクションという希望なのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>)

人のにおいが消えた集落、荒廃したDASH村、にぎわう歓楽街……写真家が語る、百人百様「福島」の風景

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誰もいなくなった「DASH村」(本書より)
 震災直後、あちらこちらで盛んに叫ばれた「あの日を忘れない」といったスローガン。だが、いつしかめったに聞くことがなくなり、2015年現在、もはや“震災をテーマにした本は売れない”という現実は、出版界では常識となっている。震災に対する人々の興味は遠のき、事態は風化の一途をたどりつつある……。  そんな中、4月に『にっぽんフクシマ原発劇場』(現代書館)を刊行したのが、写真家の八木澤高明氏。彼は、震災直後から福島県双葉郡浪江町津島という小さな集落に足しげく通い、村を襲った現実にレンズを向けてきた。オールモノクロ、フォト・ルポルタージュという形式でまとめられた本書だが、いったい、彼が写し撮った現実とはどのようなものだったのだろうか? そして、そこから見えてきた原発事故被害の「本質」とは――。 ――震災から4年以上の月日を経て、なぜこのタイミングで本書を発表しようと思ったんですか? 八木澤 2011年4月から、浪江町津島という地域に入り、継続的にそこの住民たちと付き合っていく中で、写真を撮影してきました。写真家として、これらの記録を眠らせておくわけにはいかず、震災が風化している状況に対して一石を投じるというわけではありませんが、この現実を伝えていきたいという気持ちがあったんです。 ――「震災が風化している」というのは、東京で生活していると特に強く感じます。 八木澤 報道でも取り上げられることが少なくなっていますね。被災地以外に住む人は「もういいよ」と食傷気味になっている感も否めない。また、取り上げられたとしても、震災の悲惨さばかりに目が向けられています。今回の震災には、もっといろいろな側面があるということを伝えたかったんです。 ――「いろいろな側面」として、酪農家の置かれた現状や、復興景気に沸くいわきの歓楽街など、さまざまな福島の風景が描写されています。 八木澤 同じ「福島」といっても多面的であり、ひとつの視点で収めることはできません。原発事故によって避難した人々の中にも「故郷に帰りたい」という人もいれば、「(賠償金によって)毎日パチンコができるし、車も買えるから、このままでいい」という人もいる。人によって、置かれた状況によって、考え方はそれぞれなんです。
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牛がいなくなった牛舎
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大切に育てた自慢の牛「ダンディーガール」の死に、涙を浮かべる酪農家・今野剛さん。
――特に、避難指示が出ていたにもかかわらず、津島でギリギリまで生活をしながら酪農を続けている三瓶利仙(さんぺいとしのり)さんを中心に、原発によって壊滅的な被害を受けた小さな集落の状況が語られています。彼との出会いは、どのようなものだったんですか? 八木澤 震災当時は仕事で海外に行っていたので、被災地域に初めて足を運んだのは震災発生から1カ月を経た4月でした。当時は、まだがれきも片付けられておらず、多くのご遺体が発見されていなかった。悲惨な風景は多く残っていましたが、僕が興味を持ったのが、この状況の中で、避難しないで生活を続けている人たちでした。そんな中、知り合いのカメラマンに紹介してもらって出会ったのが、津島で酪農を続けていた利仙さんだったんです。 ――八木澤さんが描写する利仙さんの姿からは、酪農という職業に対する強いこだわり、信念を感じます。 八木澤 彼らも信念があったからこそ、ギリギリまで避難しなかったんでしょう。当時、かなりの放射線量で行政からは避難命令が出ていましたが、彼らは牛を残して避難しなかった。絶対に酪農を続ける、という強い意志があったんです。残念ながら、帰還困難区域で生活していた約30軒あまりの酪農家は廃業を迫られましたが、利仙さんらは今も本宮市に避難しながら酪農を続けています。
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テレビの報道に、不安げな表情を浮かべる利仙さんと恵子さん。
――ただでさえ儲かる仕事ではない酪農を、しかも福島で続けるのは、よほどの情熱がないとできません。 八木澤 彼らも多弁ではないので、その情熱は行動で感じるにすぎませんでした。事故後、集落の人々が避難している中、利仙さんの家では、毎朝早くから起きて牛舎を掃除して水や餌を与えていました。誰もいない村で、その淡々とした姿勢を貫けることに熱を感じました。明日どうなるかわからないし、行政から「牛は避難させるな」という命令が出るかもしれない。その中で、淡々と日常を続けていたんです。 ――また、本書には、同じく避難しなかった津島の住民として、勇夫さんの姿が刻まれています。彼の姿を見ていると、「故郷」に対する強い思いを感じずにはいられません。 八木澤 もう亡くなられてしまいましたが、利仙さんと同じく津島にとどまり続けた勇夫さんの姿はとても印象に残っています。仕事もしておらず、普通に考えたら避難するはずなんですが、彼にとって血肉となっている故郷の姿、土地に対する思いがあったんでしょうね……。勇夫さんの家に行くと、お酒を飲みながら家の前の庭に腰掛けてジーッと山を見ていました。何を話すわけでもなく、誰を待っているわけでもなく。ただ「いい風が吹いてくっど」ってポツリと言うだけ。山を見ながら、遠い昔を思い出していたのかもしれません。あの光景は忘れられませんね。
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福島の仙人こと勇夫さんの家から見える風景。
――それも、勇夫さんの日常だった。 八木澤 事故前も、そうやって山を眺めていたのかもしれませんね。津島の人々にとっては、風を感じ、山菜を山に採りにいくというのがささやかな日常だったんです。利仙さんの奥さんの恵子さんは「小さな世界だったけど、津島での生活は幸せだった」と語っていました。 ――ある意味、原発事故がもたらした被害の本質が浮かび上がってくる言葉ですね。 八木澤 「お金(賠償金)が出ているからいい」という人も中にはいるかもしれませんが、彼らにとって津島という場所は、かけがえのない土地だったんです。 ■人のにおいは、簡単に消えてしまう ――津島には、『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ系)の人気企画の舞台だった「DASH村」もありました。本書に掲載されている変わり果てたDASH村の姿は、福島の被害の実態をストレートに伝えてくれます。 八木澤 事故当初からDASH村があるのは知っていたんですが、初めて足を運んだのは昨年でした。「浪江町津島」と聞いても事故前の姿を知る人はわずかですが、DASH村の風景なら覚えている人も多いはず。あののどかな風景が、むちゃくちゃに破壊されてしまったというのが、今回の原発事故なんです。DASH村という空間は、エンタテインメントのための場所であり、そこで行われていたことは、農家からすれば、ままごとのような農作業体験だった。しかし、それでも血肉が通った土地であり、そこが草ぼうぼうになって納屋も壊れています。震災を伝えるに当たって、その現状を表に出す意義があると思いました。
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八木澤高明氏。
――そのような津島の現実がある中、一方でいわきでは「復興景気」によって歓楽街がにぎわっている姿が描かれています。 八木澤 僕が行ったのは事故直後の2011年夏ですが、いまだに好景気は続いているようです。原発作業員の宿舎もあるし、人はいわきに集まっている。金を使う場所が、パチンコ店か歓楽街しかないんです。 ――ソープランドに、朝9時から5人並んでいることもあったと。 八木澤 以前取材した風俗業者の中にも、福島や仙台で店を開いたという人もいます。被災地の風俗産業は儲かるから、人が群がってくるんです。また、被災した人の中で、風俗店で働く女性もいるそうです。普通に働くと、収入を申告せねばならず、賠償金が減らされてしまいますが、風俗店にはちゃんと申告しない店が多いので、“アルバイト代わりに働いている”と言っていました。 ――津島といわきが並置されることによって、福島の置かれた複雑さがより強く迫ってきます。 八木澤 これまで、写真家として世界のさまざまな地域を訪れてきましたが、津波の荒れた風景を見ると空襲でぶっ壊れたバグダッドのビルとかを思い出すし、津島の無人の廃墟を見るとネパールの内戦で人がいなくなった村を思い出す。いわきのごちゃごちゃした盛り上がりは、タイの歓楽街のようです。いろいろな国の断片が、福島の風景から想起されるんです。 ――それだけ状況が入り組んでいる、と。 八木澤 今回、タイトルに「劇場」という言葉を使っています。被災した方々からは「何が劇場だ」と怒られてしまいそうですが、そこで起こっている現実があまりに圧倒的すぎて、どうしても虚構に見えてしまう。これは福島だけでなく、世の中全体がそういう空気になってしまっているんです。 ――この4年間で、どのような変化を感じますか? 八木澤 風景に関しては荒れていく一方です。村からは、人のにおいが消えてしまいました。4年しかたっていないのに、簡単に人のにおいは消えてしまうんです。また、利仙さんをはじめ、避難している人々の気持ちの中には、諦めが感じられるようになりました。「帰りたい」という気持ちはありつつも、「もう、しょうがない」と思っているのかもしれません。 ――八木澤さん自身、福島の現状を作品として発表することに対しての葛藤はありますか? 八木澤 どの仕事でもそうですが、他人である自分が写真を撮って文章を書いて発表していいのかという悩みは常に抱えています。今回の本の中にも、牛が死んでいる写真や自殺した酪農家の遺書を撮影した写真など、もしかしたら被災者の傷をえぐり返してしまうかもしれない写真があります。自分にとって故郷でもないし、住んでいるわけでもないのに、こういう形で発表していいのだろうか? という思いは持っていますね。けれども、一方で、表現者としてこれを伝えたいという気持ちがあるんです。だから、本を刊行しただけで終わらせることなく、ずっと関わり続けないといけないと思っています。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●やぎさわ・たかあき 1972年生まれ。写真週刊誌「フライデー」(講談社)カメラマンを経て、2004年よりフリーランス。12年『マオキッズ─毛沢東のこどもたちを巡る旅』(小学館)で、第19回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞。他の著書に『ネパールに生きる』(新泉社)、『黄金町マリア』『写真録・さらば中国』(ミリオン出版)、『フクシマ物語─幸四郎の村』『フクシマ2011、沈黙の春』(新日本出版社)、『娼婦たちから見た日本』(KADOKAWA)がある。

東日本大震災から4年「観光バスツアー」で、岩手県の“被災地”釜石市・大槌町を歩いた

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岩手県大槌町の震災遺構となった旧大槌町役場庁舎。壊れたはずの時計の秒針は、なぜか今も少しずつ時を刻んでいるという。
 東日本大震災から4年。時間がたつにつれ、大きな動きでもない限り、被災地の現状はあまり伝えられなくなっている。こと日刊サイゾーでもそれは同じで、震災発生当時は、積極的に現地の声を報じていたが、少しずつその数は減り、最近ではゼロに等しい。決して、震災や被災地を忘れたわけではない。だが、時間がたてばたつほど、どのように向き合ったらいいのかわからなくなっていた。そんな折、「被災地応援バスツアー」なる広告が目に飛び込んできた。ありのままの被災地の現状を知るべく、現地へと向かった。  今回参加したのは、「いわて三陸観光バスツアー 遠野・釜石・大槌号」。朝9時45分、JR花巻駅を出発し、柳田国男の民話で有名な遠野市を通り、釜石市鵜住居地区、旧大槌町役場庁舎、ひょっこりひょうたん島のモデルとして知られる蓬莱島、福幸きらり商店街をめぐる1日がかりのコースだ。
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この日は、編集部ほか、名古屋からやって来たという中年女性6人組が参加。
 このツアーは、2012年4~6月の3カ月間、JRが行った「いわてDC(デスティネーションキャンペーン)」がきっかけで始まったもの。今回のコースのほか、岩手県内では陸前高田・大船渡をめぐるコース、浄土ヶ浜・田老・龍泉洞をめぐるコースなどがある。  警察庁の発表によると、今年2月末の時点で岩手県の死者は4,673人、行方不明者は1,129人に上る。応急仮設住宅および、みなし仮設住宅数は1万2,485戸(岩手県調べ)。入居者は当初から2割程度減ったといい、昨年からは公営住宅の販売も始まったが、その数はまだ十分ではなく、また仮設にいたほうがさまざまな補助金が出ることから、「不便でも生活の基盤ができるまでは出たくない」という人も少なくないようだ。当初は2年とされていた入居期間が5年まで延長されたことからも、住宅整備が思うように進んでいないことがうかがえる。
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ボランティアガイド川崎孝生さん。
 釜石駅からは、“震災語り部”と呼ばれるボランティアガイドの川崎孝生さん(74)が乗り込み、震災直後や現在の町の様子を説明してくれる。釜石駅周辺には最近、2軒のホテルがオープンしたが、いま最も必要とされているもののひとつが宿泊施設だという。工事業者はもちろんだが、家を流され、ふるさとに帰りたくても帰ってこられないという事情を抱えた人の需要が高いのだ。また、3月中旬にオープンしたイオンタウン釜石は、市民に重宝されているという。市街地の店は流され、震災後は内陸まで買い物に行かなければならず、大きな負担となっていたが、特にユニクロの出店は喜ばれているようだ。  釜石市のボランティアガイドは全部で20人ほど。会社勤めをしている人もいるため、実際は10人ほどで交代で担当しているという。川崎さんは震災前からこの仕事に携わり、今年で5年目の大ベテラン。震災前は月1~2回だったが、このツアーが開始されてから忙しい毎日を送っているという。  震災当日、川崎さんは、翌日に行われる予定だった姪の結婚式に参列するため、車で気仙沼に向かっていた。 「初めは道路がグニャッと揺れて、運転している甥っ子がふざけたのかと思ったら、『おじさん、違うよ。地震だよ!』って。急いで車を止めたけど、あたりは大渋滞でどうにもできない。なんとか高台を見つけてそこに避難して海を見ると、海草が見えるほど引き潮になっていた。“これはやばいぞ”と思っていたら、案の定、津波がやって来た。あと5分遅かったら、どうなっていたか……」(川崎さん)
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 まず訪れたのは、駅からバスで5分ほどの場所にある、津波避難場所。4年前、多くの住民がこの高台に避難し、難を逃れた。ひしゃげた手すりが津波の威力を物語る急な階段を上り切ると、目の前には釜石湾が広がる。この日は春を感じさせるような陽気で、海面で太陽の光がキラキラと輝いている。あの日、一瞬にして街をのみ込んだ黒い怪物と同じ海とはとても思えない。
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 釜石湾には、1,200億円をかけた世界最大規模の防波堤が湾口の海中に設置され、海岸に設置された高さ4メートルの防潮堤と併せて市街地を守る構造となっていたが、それをもってしても津波を防ぐことはできず、防波堤を破壊した波が防潮堤を乗り越えて釜石の市街地を押し流した。とはいえ、この防波堤のおかげで、沿岸部の津波高を13メートルから7~9メートルに低減させ、市街への浸水を6分遅らせたことも事実だ。そのわずかな猶予に、この高台まで避難できた人も少なくない。
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 現在、被災前と同じ高さに戻すための災害復旧工事が行われており、防潮堤の高さも6.4メートルから14.5メートル(5階建てのビルに相当)にすることが決まっている。だが、「1000年に一度のためにそんなの造ったって、今回のように崩れるときは崩れるし、修理するのにも金がかかる」「そんな高い防潮堤を造ったら、海が見えなくなる」「海としか生きられないんだから、そんなもの造っても仕方がない」という声も少なくないという。
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4年目の3月11日から日が浅いということもあり、献花台にはたくさんの花が手向けられていた。これまで再三にわたり盗難の被害に遭った賽銭箱は現在、撤去されている。
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 バスはその後、防災施設への避難で200人以上の犠牲を出した鵜住居地区を通り、町長以下40人が犠牲となった旧大槌町役場庁舎へと向かう。  大槌町の死者は1,232人、行方不明者は424人(大槌町調べ)。人口の約1割に当たる町民が犠牲となった。人口に占める犠牲者の割合は、宮城県女川町、岩手県陸前高田市とほぼ並び、被災市町村の中でも飛び抜けている。川崎さんも、大槌町に住むいとこを津波で亡くしている。方々探しても遺体は見つからず、結局、200キロメートル以上も離れた宮城県多賀城市で発見されたという。上半身はなくなってしまっていたが、着けていた下着で、夫が本人と確認したそうだ。 「大槌では、いまだに400人ほどの人が行方不明になっているが、いとこのことがあるから、いったいどこまで流されてしまったのか……」(川崎さん)  実際、岩手県で昨年から1年間で新たに見つかった行方不明者は13人。年々捜索は難航し、運よく見つかった骨のカケラ1つを頼りにDNA鑑定を行わなければならない。それも、結果が出るまで1年はかかる。  東北では、人の魂は恐山がある下北半島に行き着く、という考えがあり、最近では“遺体が見つからないなら、恐山へ行こう”という気持ちになる人も増えてきているという。また、遺体が見つかり、故人をきちんと荼毘に付した家族も、どのような最期を送ったのか知りたい、会えるなら会いたいと、恐山のイタコの力を借りるケースも少なくないという。
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 釜石市や大槌町では現在、「多重防災型のまちづくり」を進めている。盛土でかさ上げした土地や高台に、公共的な施設や商業施設、住宅を建て、海岸近くは公園にする計画だ。あちらこちらでダンプカーやショベルカーなどが忙しく動き回り、かつてそこに人々の生活があったとは思えない、殺伐とした風景が延々と広がる。
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 皮肉にも、家や建物がすべて流されたため、山田線の大槌駅があった場所から海を見ると、その距離がいかに近いかがわかる。遠近法で、海のほうが少し高く見えるほどだ。 「外から来たある人が『こんなに海が近いんだから、こんなところに家や建物を建てるのが間違っている』と言っていたが、それまでは建物の2階など、少し高いところに上がらないと海は見えなかった。こんなに近いなんて、普段は意識することがなかったんですよ」(川崎さん)
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大津波によって、屋根に遊覧船が打ち上げられた民宿。モニュメントとして保存しようという声もあったが、二次被害の恐れから撤去された。
 先の旧大槌町役場庁舎を震災遺構として残すか否かについては町を二分したが、大なり小なり、至るところで同じようなことが起こっている。 「何か新しいものを造ろうとしても、『○○さんはお葬式できていいね。うちは、まだ見つかってないから』という声が必ず出てくる。そうするとみんな、何も言えなくなってしまって、なかなか物事が進まない。また、自分が『家に残れ』と言ったため、家族4人を失ってしまったある男性は、『仮設といっても、自分には屋根のある温かい家がある。家族がいつでも帰ってこられるように』と、津波で流された家の敷地にベンチと屋根を置いていたが、『それを見ると震災を思い出してつらい』という声があり、撤去を余儀なくされたそうです」(川崎さん)
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市街地には、津波の到達位置を伝える看板があちらこちらに。
   川崎さんの話の中で特に印象的だったのは、「“もったいない”という気持ちなどが明暗を分けた」というものだ。軽トラックより普通車を持っていこう、パチンコで大当たりしたから換金してから逃げよう、お父さんの薬を取りに戻ろう、隣の家のおじいちゃん、おばあちゃんを連れてこよう……そんな気持ちで家に戻った人たちがみな、命を落としたという。  「あそこに住んでいたおばあさんは……」「あの家のお嫁さんは……」と、まるで全員と顔見知りだったかのように故人を偲びながら語る川崎さんだが、“震災を語る”という行為は時につらいものではないのだろうか?
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大槌北小学校校庭に建設された「福幸きらり商店街」。商店や飲食店をはじめ、美容院、クリーニング店、電気店に、TSUTAYAまで。
「みなさんが被災地を訪れてくれるのはうれしいです。このバスが通ると、このへんの人はみんな『あっ、今日も来てくれた』って感謝するんです。1人だろうが、30人だろうが関係ない。初めは震災のことを語るなんて不安もありましたが、ある日、町長さんに『ガイドやってるんなら、俺に話してみろ』と言われ、お話したんです。恰幅のいい町長さんで、目を閉じて聞いているもんだから、緊張して半分も話せなったんですが、『お前、いま言った言葉を忘れるなよ。それを絶対伝えろよ』と言われて、安心したというか、自信がついた。座敷に座りながらだったら、やっぱり涙なしには話せないけれど、身ぶり手ぶりを交えてなら気がまぎれる。震災を伝えたい、という気持ちが何より強いんです」(川崎さん)  現在釜石市は、現存する日本最古の洋式高炉「橋野高炉跡」を世界遺産にしようと、市民が一丸となってPR活動に乗り出している。「6月に登録の可否が正式決まるんですが、富岡製糸場だって決まったし、間違いない。これをきっかけに、観光客が増えることを期待しています。現在はバスのチャーター便を増やしたり、ボランティアガイドも増員しているところ。楽しみだね」  そう語る川崎さんの笑顔は、この日一番だった。 (取材・文=編集部)

東日本大震災から3年半──福島県の農園を苦しめる“復興詐欺”横行の現実

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 ※イメージ画像 photo by muo1417 from flickr 
 原発の風評被害から必死に立て直しを図る福島県の農園で、復興対策の「オーナー制度」が悪用される詐欺事件が起こっている。  農園のオーナー制度は、桃や梨、リンゴなどの畑や木のオーナーになって収穫を楽しんでもらうもの。以前から全国各地で人気となっているが、風評被害に苦しむ福島の農園では、特にこの制度を採用する動きが加速中。これに、善意でオーナーに名乗り出る人々の輪も広がっていた。  しかし、6月中旬にこの話を持ち掛けられた神奈川県在住の会社員・Aさんは「飲食店で知り合った人物に話を聞き、6万円を投資したところ、だまされてしまった」という。 「福島で桃園を経営しているという人物で、震災の影響で非常に苦しいと話していました。最近は年間6万円で樹木オーナーを募集しているというので、応募しました。桃の売り上げから一部が被災者救済にも寄付されると説明を受けましたが、プロセッションという会社の口座に6万円振り込んだ後、音信不通になったんです」  Aさんは、伝えられていたいわき市の桃園にも行ってみたが「現地は桃など1本も生えていない、林野だった」という。すぐに被害届を提出したが、現在まで犯人は捕まっていない。福島県警によると「こうした震災後の支援関係の詐欺は、およそ年間250件ほどある」という。 「過去には、被災して空き家になったままの場所を住所として悪用しているケースもあって、だまされた人たちが現地に来ては、詐欺に気付いたりしている」(県警)  8月末、いわき市の農園で桃狩りの運営者をあたってみると「お客さんから“怪しいオーナー話を聞いた”と相談を受けることがあります。観光客激減の中で必死に運営している我々にとっては、本当に悲しい話」と答えた。  一方、こうした問題に立ち上がる民間の有志もいる。福島大に通う学生が、被災地関係の詐欺を徹底調査、情報収集して各地に流して周知させる取り組みを始めようとしているという。  先日は久間章生・元防衛相が代表を務めるNPO法人の元幹部らが「放射能の影響で宿泊施設の建設が中止となった」と東電にウソの損害賠償を請求、約1,800万円をだまし取ったとされる事件もあったが、日本の非常事態で大小問わず詐欺が横行していることはあまりに悲しい。 (文=ハイセーヤスダ)

国からの“圧力”も!? 強気から一転『美味しんぼ』が弱気になったワケとは――

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『美味しんぼ 110』(小学館)
 「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)で連載中の人気漫画『美味しんぼ』で描かれた福島県の放射能汚染の様子が波紋を呼んでいる。  問題となったのは、同漫画の主人公の新聞記者が福島第一原発を取材後、原因不明の鼻血を出す場面。12日発売号では描写がより過激になり、前双葉町長だった井戸川克隆氏が実名登場し、福島の住民で鼻血や倦怠感を訴える人が出ているのは「被ばくしたから」と明言している。  さらに、大阪で受け入れた震災がれきを処理する焼却場近くの住民約800人にも同様の症状が出ていると訴えている。  これに対し、福島県12日、ホームページ上で「本県への風評被害を助長するものとして断固容認できず、極めて遺憾」と非難。大阪市の橋下徹市長も「フィクションという漫画の世界でも、ちょっとやりすぎ。作者が取材に基づいていると言っているようなので、事実というなら根拠を示してほしい」と批判した。  国も敏感に反応した。菅義偉官房長官は「被ばくと鼻血に、まったく因果関係はない」。安倍晋三首相に至っては福島に乗り込み、風評被害に毅然と対応することを表明した。  当初、強気だった出版元の小学館も、ここまでのハレーションは想定外。内部関係者によると「物議を醸すことは織り込み済みで、編集部内ではどんなに叩かれようが絶対謝罪しないと決めていた。ところが、最近になって上層部から『やりすぎるな』と“天の声”が入ったそうだ。国が動いているからだろう」と話す。  結果、19日発売号の特集記事では「編集部の見解」として村山広編集長名で「多くの方々が不快な思いをされたことについて、編集長としての責任を痛感しております」と反省の弁を掲載。同号をもって、いったん『美味しんぼ』が休載となることも発表した。 「休載は以前から決まっていたことですが、編集部内ではこのまま突っぱねていたら国を敵に回すことになるので、安堵の声も聞かれます」(前出関係者)  とはいえ、本当に『美味しんぼ』だけが“悪”なのか? 原発問題に詳しい中部大学教授の武田邦彦氏は、自身のブログで同作を擁護。「公害の立証責任は誰にあるのか?」と題し「本来は『鼻血が出た』ことを心配しなければならない環境大臣までが、『不快だ』というような事態である」と断罪。続けて、1960年代に四日市で起こったぜんそくの例を挙げ「数人のゼンソクがみられる時に、テレビ局がゼンソクを発症していない人を数人取材して、それを放映するという手段は犯罪に近い。今回でも『私は鼻血を出さなかった』という取材をして放送していたところもあった。(中略)今日のテレビを見ていたらある首長が『鼻血が出たというならデータを示せ』とか『多くの人が鼻血が出ているかどうかわからないのにいい加減のことを言うな』と言い、それをテレビが放映していた。これまでの公害では全く見られなかったことで、このようなことが起こったのは、マスコミが『権威に従う』ということ、つまりNHKの会長が言ったように『政府が右と言ったのだから、右と放送せざるを得ないじゃないか』という現代のマスコミの倫理観を示している」と報道機関にも注文つけている。  「どちらが悪い」という論点ではなく、この機会に福島県の“今”を国民全体で議論することが重要なのだが……。

東日本大震災から3年「粘り強く脱原発の芽を──」藤波心も熱く語りかけた第3回『Peace On Earth』

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藤波心
 東日本大震災の追悼の場として、2012年3月から始まった『ピース オン アース』。3回目となる今回、3月8日、9日、11日の3日間に渡り、東京・日比谷公園で行われた。  大惨事が起こった3月11日、午後2時46分。ステージ上には加藤登紀子、SUGIZO、藤波心らが。そして追悼に訪れた市民たちと共に黙祷が捧げられた。 「震災から3年が経ちました。その間、震災の関連で亡くなられた方が2,634人もいます。福島では1,660人。孤立している人が今もいます。そういう人たちにどけだけ力を与えることができるか。これからが大切です。頑張ろう。素晴らしく生きましょう。未来のために」(加藤登紀子) 「3年前の震災から、僕らは何を学び、何を考えなくてはならないのか。考えなくてはいけないことは命。命なくして、経済の発展もありません。僕らはこれまで地球・自然と共存する方法を間違えていたと思います。これからは生活文化のスタイルを考え直さなくてはいけません。未来は自分たちが作るものなのです」(SUGIZO) 「震災から3年、日本はまた原発再稼動に向かっています。国は経済のためだといって。(脱原発派は)選挙で負けていますが、まだまだ輪を広げていきたいと思います。粘り強く脱原発の芽を咲かせましょう」(藤波心)
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黙とうを捧げるSUGIZOら
 力強く熱いメッセージを投げかけてくれた。 (撮影・文=シン上田)

大震災の被害に遭ったのは人間だけじゃない! 被災地に取り残されたペットと家畜の過酷な現状

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『犬と猫と人間と2』の飯田プロデューサー(画面右)。『犬と猫と人間と』(09)の続編と
発表され、全国から多くのカンパが寄せられた。
■前編はこちらから  『犬と猫と人間と2』の後半は、福島第一原発事故の警戒区域に残された牛たちの世話をするボランティアスタッフたちがクローズアップされる。その中心となっているのが岡田久子さん。2011年3月下旬から避難指示区域に残された犬や猫たちに水や餌を与えに、宮城から片道2時間かけて通っていた岡田さんは、同年6月からは牛たちの世話もするようになった。20km区域内の家畜たちは区域外への持ち出しを国から禁じられ、鶏と豚はほぼ全てが餓死もしくは殺処分に。牛も2,600頭が死に追いやられた。殺処分に踏み切れなかった牧場主もいるが、牧舎の中には餓死した牛が倒れ、その横では糞尿まみれで痩せ細った牛たちに死が迫っている。ボランティアの手が足りず、どうにもならない。区域内では獣医を呼ぶこともままならない。人間の都合によって命を左右される動物たちの過酷な現実をカメラは記録していく。 宍戸 実のことを言うと、今回はタイトルにある通り、犬や猫たちのドキュメンタリーにするつもりだったので、岡田さんから牛たちの話を聞いたときは、「取材しても、作品に盛り込めないしなぁ」と消極的でした。牛たちの取材は見送ろうとしたんですが、「農水省や県に牛の惨状を訴えても、なしのつぶて状態。せめて、この状況をweb上で訴えたいので、動画撮影をしてほしい」と頼まれて、「動画撮影だけなら」と協力することにしたんです。牧舎を訪ねたところ、もう驚きました。「これが現実なのか……」と。無関心を決め込もうとしていた自分自身への怒りが湧いてきました。 飯田 僕も追加取材の段階で、宍戸くんの取材に同行しました。宍戸くんの現場に口を挟みたくないので、なるべく行かないようにしていたんです。浪江町の「希望の牧場」と「やまゆりファーム」をもう一度撮影するので一緒に訪ねたのですが、情けないことに僕は牛たちの遺体置き場に近づけなかった。死んだ牛の腐敗臭がすごく、吐き気を催してしまったんです。映像には臭いまでは映りませんが、近づいただけで服に臭いが移るほど強烈でした。夏場の牧舎の中での撮影は、本当にきつかったと思います。 ──国は全頭殺処分の方針を、震災から1年後には「区域内で生かすだけならよい」と方向転換。300頭以上の牛を生かしてきた「希望の牧場」に、岡田さんらが世話をする「やまゆりファーム」の65頭の牛たちが迎え入れられていくことに。牛たちが大移動していく様子は、まるで神話「ノアの方舟」を思わせる感動的なシーンです。しかし、感動だけでは済まないシビアな現実が……。 宍戸 岡田さんが「牛の面倒は自分たちでやるから」という条件付きでお願いして、「希望の牧場」の牧場主である吉沢正巳さんが引き受けることになったんです。ですが、吉沢さんとボランティアである岡田さんたち2~3人で、400頭近い牛たちの世話をするのは不可能なこと。生き延びた牛たちの間で生存競争が起き、餌にありつけない牛はどんどん弱っていくんです。 飯田 厳しい状況なんだけど、宮城から片道2時間かけて浪江町まで週5日通い続ける岡田さんに対して、吉沢さんが「なんでそんなに頑張れるの? これって何かの宗教?」って冗談っぽくツッコミを入れるよね。あのシーンが良かった。しんどい状況の中で、ふっと人間味が感じられる。ああいうやりとりをカメラが拾うことで、ドキュメンタリーの雰囲気ってずいぶん変わってくるよね。
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福島第一原発の20km圏内に残された牛たち。行政は商品価値のない
経済動物として殺処分を求めたが、踏み切れなかった牧場主も少なくなかった。
──確かに動物ボランティアのスタッフたちの献身ぶりは、一種の宗教のようにも感じさせます。岡田さんは笑って「宗教じゃない」と首を振っていますが、どうしてあそこまで熱心に活動できるんでしょうか? 宍戸 岡田さんに限らず、ボランティアのみなさんの声を公約数にすると「動物たちの現状を知ってしまったから。自分が行かないと、動物たちが死んでしまうことが分かっているから」ということです。岡田さんは、ご主人が神奈川に単身赴任していて、休日にはご主人も一緒にボランティア活動を手伝っているんです。岡田さんからは「人手が足りないので、牛の世話を手伝ってくれないか」と、取材していた僕も頼まれました。現場を見てしまうと、やはり断れないんです。「やまゆりファームが軌道に乗るまででいいから」と言われたんですが、なかなか軌道に乗らずに、その後も手伝い続けています(苦笑)。 ──『犬と猫と人間と2』は宍戸監督がいろんな状況に遭遇していく、巻き込まれ型サスペンスならぬ“巻き込まれ型ドキュメンタリー”。各取材先で手伝いもしていたそうですが、実際のところ、カメラを回していた時間と手伝いをしていた時間は、どちらが長かったんでしょうか? 飯田 鋭い質問だ!(笑) 宍戸 それはですね……正直なことを言うと、ボランティア作業を手伝っていた時間のほうが、カメラを回していた時間よりも長かったと思います(笑)。「アニマルクラブ石巻」でも手伝い、原発事故で飼い主とはぐれた犬や猫たちを保護している福島市の動物シェルター「SORA」でも手伝い、「やまゆりファーム」でも牛の世話を手伝っていました。どこも人手が足りていない状態でしたから。 飯田 岡田さんも「この人なら、口説き落とせる」と踏んで、宍戸くんに頼んだんじゃないかな(笑)。でも、撮影を忘れなかっただけ、エライよ。最初、「ボランティアをしながら撮影をしたい」と相談してきた宍戸くんに対して、僕は「どちらかにしたほうがいい」とアドバイスしたんです。どっちを取れとは言いませんでした。それは本人が決めればいいことですから。このとき宍戸くんは「撮ります」と答えたんだよね。はっきり言うと、“撮る”ことのほうが難しい。ボランティアとして手伝うほうが、役に立っていることを自分も実感できて、その場での満足度は高い。カメラなんて、その場では何も役に立たないですから。だから両方をやろうとすると、ボランティアのほうに走ってしまうんじゃないかと思った。そのことが僕は心配だった。勘違いしてほしくないけど、僕も取材のときは、最低限の撮影が済んだら相手を手伝ったりすることはあります。取材で相手の時間を奪うわけですし、長期間の取材になると、かなりの精神的な負担も掛けてしまいます。手伝うことで相手とコミュニケーションを図るという一面もあるんです。「撮影だけしろ、手伝いはしなくてもいい」と言ったわけじゃないからね(笑)。 ■義援金で購入したペットを手放す、悲しいスパイラル ──終盤、カメラは再び石巻へ。被災者たちは仮設住宅で新生活をスタートさせますが、義援金や給付金で新たにペットを購入。そのペットたちを早々に手放すはめに陥るという悩ましい問題が生まれているんですね。 宍戸 震災で家族や住まいを失った寂しさを紛らわすためにペットを衝動買いしてしまうんですが、結局ペットの世話ができなくなるというケースが生じています。僕が取材したペットショップのペット購入率は、震災後、通常の1.5倍に伸びたそうです。 飯田 失ったものをもう一度手に入れたい、という被災者の心情は理解できる。被災地では車や家電製品も売れていると思います。でも、ペットの場合は生活必需品ではないわけですよね。身近に動物がいてくれることで救われる人もいれば、やっぱり動物と一緒に暮らすのは無理だったと手放してしまう人もいる。 宍戸 そうですね。今回の取材を通して、やっぱり人間は犬や猫や牛たちに対して、緊急時でも責任を持って面倒を見なくちゃいけないということを強く感じました。また、災害によって日常を奪われてしまった人たちに接することで、人生は突然に変わってしまうこともある、それだけに人であれ動物であれ、命と命との出会いは大切にしよう、と今まで以上に考えるようになりましたね。
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社会の弱者へ眼差しを向ける飯田プロデューサー。「問題点が浮かび上がり、また問題が解消されて
いない今、公開する意味があると思うんです」
──取材先で「飯田さんの弟子」を名乗った宍戸監督の成長ぶりを、師匠の飯田プロデューサーはどう感じていますか? 飯田 今回、編集は僕がかなり主になってやってしまったけど、撮影に関して本当に頑張った。特に牛たちの様子は、密着してよく撮影したなと思います。取材を始めた最初の頃とは全然違っている。ひとりのドキュメンタリー監督の成長記としても観ることのできる作品になったんじゃないかな。今日みたいに取材に答えることで、監督自身が気づかされることって多い。今はドキュメンタリーの監督って、ひとりでカメラを回していることが多く、取材中は頭を下げてばっかり。監督という自覚が持てない(苦笑)。だから、ある意味、ドキュメンタリー監督は作品の公開が決まり、取材を受け、舞台あいさつを重ねていくことで監督らしくなっていく部分があると思います。宍戸くんには、これからも取材を続けてほしいですね。特に牛たちがどうなるのか、最後まで見届けてほしい。 宍戸 もちろん、今回の取材で出会った人たちのその後は、これからも追っていきたいです。実家のある名取市から離れていることもあって、頻繁には行けてないんですが、「やまゆりファーム」には月1~2度は手伝いに行っています。 ──最後にもうひとつ。前作『犬と猫と人間と』の公開から4年。ペットの殺処分をめぐる問題は、かなり状況が変わってきたように思います。飯田さんは、どのように現状を見ていますか? 飯田 『犬と猫と人間と』では年間30万頭以上の犬や猫たちが殺処分されているという2006年度のデータに触れましたが、2011年度は17万頭に減っています。これまでは10年間かかって半減していたのが、5年間でほぼ半減している。改善されてきていると評価していいでしょうね。野良猫の不妊手術や棄てられた犬や猫の譲渡先を探す、民間のボランティアスタッフや動物愛護団体、各自治体の職員のそれぞれの努力が実ってきているということだと思います。僕が思っていたよりも速いスピードで、社会が変化しましたね。 ──人間の意識が変わることで、殺処分に遭わずに済む動物たちも多いわけですね。 飯田 そうですね。ただし、現場の努力だけでは限界がある。これからは殺処分数を減らしていくことが難しくなるでしょう。制度そのものを見直すことが求められる。ペットを販売している業者などを含め、ペット産業そのものを規制しないと、数字は減らないように思います。17万頭という数字は、まだまだ多いです。より多くの人に動物たちの置かれている状況を知ってもらう必要があるでしょうね。  * * *  『犬と猫と人間と』、そして『犬と猫と人間と2』は動物たちを主題にしたドキュメンタリーだが、動物たちを必要とする人間社会そのものを描いた作品でもある。8年前、“猫おばあちゃん”こと稲葉さんが飯田さんに託した願いが、徐々にだが静かに広まりつつある。 (取材・構成=長野辰次) greqghg.jpg 『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』 監督・撮影・ナレーション/宍戸大裕 構成・編集・プロデューサー/飯田基晴 音楽/末森樹 製作/映像グループ ローポジション 配給/東風 6月1日(土)より渋谷ユーロスペースほか全国順次ロードショー (c)宍戸大裕 http://inunekoningen2.com ●ししど・だいすけ 1982年宮城県仙台市生まれ、名取市在住。学生時代に飯田基晴主宰の映像サークル「風の集い」に参加し、映像製作を学ぶ。学生時代のドキュメンタリー作品に『高尾山 二十四年目の記憶』がある。福祉関係のNPO勤務を経て、現在は映像製作に携わる。本作で劇場デビューを果たす他、飯田監督の『逃げ遅れる人々 東日本大震災と障害者』(12)を共同取材した。 ●いいだ・もとはる 1973年神奈川県横浜市生まれ。新宿で野宿生活する“あしがらさん”の日常を追った『あしがらさん』(02)で劇場デビューを飾った。2006年に「映像グループ ローポジション」を仲間と共に設立。地域猫の世話をしていた稲葉恵子さんから依頼を受けた『犬と猫と人間と』(09)が反響を呼び、ダイジェスト版DVD『いぬとねことにんげんと』(11)も製作した。大震災時に東北沿岸部で犠牲になった障害者の割合が健常者の2.5倍だったことを伝える『逃げ遅れる人々 東日本大震災と障害者』(12)が現在DVDとしてリリース中。