【池袋・買春男性死亡事件:前編】2時間6万円で買われた“ホテトル嬢”が客を殺めるまで

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

第7回:池袋・買春男性死亡事件

 池袋駅東側にそびえるサンシャイン60を擁するサンシャインシティ。そこに続く「サンシャイン60階通り」(当時)に面したホテルに女が呼び出されたのは水曜日、午後6時ごろのことだった。彼女は母親に「モデルの仕事を始めた」と言っていたが、ホテトル嬢として生計を立てていた。ロビーで待っていた男は、女を見てうれしそうに呟く。

「若くて綺麗な人が来てくれてよかった」

 男はあらかじめチェックインしていた723号室へ女と共に入った。

「優しそうな人」

 一方の女も、そんな第一印象を抱いていた。ところが2時間後、女の電話で部屋に駆けつけたホテル従業員が目にしたのは、血まみれで倒れている全裸の男と、同じく全裸で血まみれになりながら泣き叫ぶ女の姿だった。

 密室で何が起こったのか。男が回していたビデオカメラが、一部始終を見ていた。

ビジネスホテルに呼ばれたホテトル嬢

 1987年4月15日、東京・東池袋にあるビジネスホテルTの客室内で、大手通信会社社員・谷口智明さん(28・当時・仮名)が、電話で呼び出したホテトル嬢・大鳥清美(22・当時・仮名)にナイフで刺されて死亡した。

 ホテトルとは公衆電話に貼られた小さなピンクビラで客を取る派遣型性風俗のひとつ。風営法の許可や届け出がなく、本番行為も横行していた。実家からほど近い台東区のマンションで中学時代の同級生と同棲していた清美がホテトル嬢として働き始めたのは、事件の1年前からだったという。

 地元の小中学校を卒業した清美は、高校に進学したが、2年の頃に中退した。ホテトル嬢として働く前は、喫茶店のウエイトレスや両親が営むラーメン店の店員として働いていた。ところが父親が家出し、母親と妹との3人家族となる。

 「モデルになった」と母親に嘘をつき、ホテトル嬢を始めた清美は、その3カ月後に実家を出て同棲を始めた。実家近くの商店主はこう語る。

「お母さんは病弱だし、同棲相手は稼ぎが良くなかったと聞いてる。自分が売春して支えるつもりだったんじゃないのかな」

 とはいえ、ホテトル嬢という仕事は危険と隣り合わせでもあった。当時の風俗ライターは「最近は年に1人くらいの割合でホテトル嬢が殺されているんです。山中にまで連れ去られたり、数人の男たちに輪姦されたりというトラブルも出ている危険な稼業なんです」と解説している。

 大手通信会社に勤める谷口さんは、再婚し2人目の妻と彼の両親が住む埼玉県浦和市(当時)の家で暮らしていた。職場での評判は「真面目で几帳面。問題を起こしたことはない」、知人らも「地味で目立たない男」と口をそろえる。ところが彼にはある趣味があった。アダルトビデオや裏ビデオの収集だ。集めるだけではなく、それらを毎日のようにダビングし、愛好家らに売りさばいていた。妻は、谷口さんが夜な夜なダビングに勤しんでいることにうすうす気づいていたという。

 ホテトル嬢の清美が、客の谷口さんを刺殺――密室で起こった出来事が明かされたのは、事件から2カ月後に東京地裁で開かれた初公判でのことだった。

 冒頭陳述によると、谷口さんがホテルTにチェックインしたのは事件の日の午後2時。ホテトルクラブに電話をかけ、2時間3万円のコースを4時間分、6万円で予約。やってきたのが清美だった。部屋に入り、谷口さんは料金に交通費の1万円を上乗せした7万円を支払った。

 契約成立を報告するための電話を店に掛けながら清美は、あることが気になっていた。ベッドの正面に設置された8ミリビデオカメラ。それは三脚に据え付けられており、そばにはライトバッテリーもあった。これらの機材は谷口さんがチェックイン前に、あらかじめ北区十条のレンタルショップで借りていたものだった。

 清美が電話を切った途端、谷口さんは豹変する。いきなり清美のみぞおちを殴りつけ、ベッドに押し倒したのち、ナイフを突きつけてこう凄んだのだ。

「静かにしろ。大きな声を出したら殺すぞ!」

 そして清美の右手親指付近にナイフを突き立てた。指が切れて出血する清美に絆創膏を貼り、あらかじめ計画していた行動に取り掛かる。客室に用意されていた浴衣の帯で清美の両足首を縛り、持参していたガムテープで両腕を縛り付け、言った。

「これからおまえの恥ずかしい姿を見てやるから、いいな」

 そう言って、部屋に運び込んでいた大型バッグの中から次々と“道具”を取り出す。ポラロイドカメラ、35ミリカメラ、ピンク色のバイブレーター、マッサージゼリー、下剤、浣腸、ゴム手袋、ろうそく、ドライバー、散髪用ハサミ、ナイロンロープ、綿ロープ、洗濯バサミ、クリップ、ゆで卵、にんじん、きゅうり、バナナ……。

 清美の衣服を脱がせ、ナイフでストッキングとパンツを切り裂いた谷口さんは、彼女の股間にバイブをあて挿入し、その様子をポラロイドカメラで執拗に撮影する。やがて自分も横になり、設置していたビデオカメラのスイッチを入れた。手足を縛っていた帯とガムテープを外し、右手と右足、左手と左足をそれぞれ帯で縛り直し、股間を大きく広げるようにした。しつこくバイブレーターを使いながら、清美に命令する。

「声を出せ。感じてる顔をしろ」

 殺されるかもしれない。清美は谷口さんに従った。
(高橋ユキ)

――後編は12月2日(月)更新

教祖は「母以上に母だった」――父親を殺害した教団と女性信者の“罪”【板橋・占い師グループによる射殺事件:後編】

 2001年6月9日、東京・板橋の住宅街で工務店を経営する丸山寿治さん(70=当時、以下同)が射殺された。殺害に関与したとして逮捕されたのは、元暴力団員4人と占い教団「グループ向日葵」のナンバー2・渡邊義介(47)、そして丸山さんの娘・笠原友子(44)。この教団の信者だった“箱入り娘”の友子が、父親の遺産を報酬に殺害を依頼したことで起こった事件だった。

(前編はこちら:殺人の手付金は水晶1000万円――裕福な“箱入り娘”が心酔した教祖)

殺害の司令塔となった占い教祖

 「グループ向日葵」の代表、吉川タカ子(64)はかつて印鑑のセールスをしていた。1990年ごろ、ある占い師の元へ、知人の印鑑業者からの紹介で「家賃を一部負担するから印鑑販売のために間借りさせてほしい」と訪ねてきたのが吉川だったという。その占い師が事務所の一部を貸すと、吉川は占いや印鑑鑑定の知識がないにもかかわらず「これは相のいい印鑑です」などと言い、10~20万円程度の印鑑を倍以上の値段で売りつけるようになったという。詐欺まがいの商売を始めたことを知ったその占い師は、吉川を事務所から追い出したそうだ。

「もともとは東京・新宿の印鑑屋の店員だったそうです。寺で拝んでもらったり、占い師に鑑定してもらったりした印鑑が高く売れることに気づいたのでしょう。まくしたてるように喋る人だから、人によってはカリスマ性を感じてしまうのかもしれない」(教団関係者)

 90年代半ばごろから、「グループ向日葵」の信者が数十人ほど、吉川の元に集まるようになったが、彼女にとっては“信者”というより“顧客”として見ていたフシがある。「星まつり」のときも、1枚3,000~5,000円の護摩札を3万円で売っていた。護摩札だけではなく、信者には水晶玉や「チベットの曼荼羅」と称する絵も信者に売りつけていたという。

 さらに吉川は芸能人や有名人の名を利用し、信者獲得を狙っていた様子もうかがえる。本人自身が、芸能人や女性漫画家と「親しい」と周囲に吹聴していただけでなく、先述の「星まつり」でも、参加者たちに「香取慎吾や伊東ゆかりが来る」と言っていたため、彼らを一目見るために祭りに参加した人もいたという。実際に、香取は知人女性に紹介された経緯で吉川と交流があったことを後に認めている。

 友子も、そうした吉川の“顧客”となり“向日葵グッズ”を次々と購入。その代金は一千数百万円にも上っていたことがわかっている。

 筆者は2005年当時、東京地裁の法廷で友子の裁判を傍聴した。上品そうな黒いスーツに白髪混じりのボブヘアで、育ちの良さそうなお嬢様がなにかの間違いで罪に問われてしまったかのような雰囲気を醸す女性だった。頼りなげにうつむいて泣きながら、「吉川に騙された、父親の殺害は止めたのに実行された」と、積極的な犯行への意欲はなかったと主張する友子。

 事件前に体調を崩したという実母が、傍聴席で友子を見守っていたが、吉川に対して「死んだほうがいい」「うちの金を盗んだくせに、何言ってんだ!」と罵り、裁判長に注意される場面がたびたび見られた。実母は、事件前から友子を通じて吉川と面識もあった。

 友子は法廷では、吉川のマインドコントロール下にあったと主張していたが、最終陳述になると、吉川に唆されたと告白。逮捕直後、友子が子どものために黙秘していたところを、吉川らが友子に罪を押し付ける供述をしたのだと訴えた。

「私が警察で最初取調べを受けたとき、真実を話しませんでした……それは、私の子どもに、私が犯罪者だと知られないように……何も言わないでいれば、事件のことはわからず、子どもたちはなにも知らずに、大人になっていく……! そう思ったからです……! でも、私がそのようにしてしまったことで、吉川さんが嘘を言い、このような結果になってしまいました……。吉川さんの嘘には納得できません……真実を話すことが父の供養の第一歩だと思います。父の親戚に……心から、お詫びします……!」

 そして、友子が吉川に心酔した背景には、父の暴力による家庭不和があったこと、さらに母についても、こう語った。

「母はいつも親戚の悪口を言っていて、父はそれを力で押さえつけていました……母を閉鎖病棟へ入院させたり……。私は今も母がわからないのです。吉川さんは母のようでした……今も……母がせめて私の話を聞いていてくれれば……吉川さんは、母以上の母でした。母は父との確執に関わらず、病気に逃げていました……現在は、母は家を出ています」

 傍聴席から実母の嗚咽と「バカモン!」の声が響く。

「父のことを思うと、なぜ、こんなことをしてしまったのか……。言葉に表すことができません。殺害直前に父の在宅を確かめるため、吉川から、父に電話するように言われたとき、『逃げて』と一言言えばよかった……。お父さん……ごめんなさい……。父は私を許さないと思いますが……父に許してもらえるまで……毎日祈って、祈りつづけたいです。おじさま、おばさま、迷惑をかけて……すみません」

 だがそれら訴えも判決では一蹴され、「遺産目的の動機に酌量の余地は皆無。報酬を約束し殺害を依頼した上、多額の財産を相続しており責任は最も重い」と無期懲役の判決が下された。

 友子は実行前、吉川らに遺産から報酬を支払う約束をしていたが、丸山さん殺害後、遺産5億円を家族で分配したのち「グループ向日葵」を抜け、吉川らが報酬を受け取ることはなかったのだ。

 そして、事件後に500万円を友子から受け取ったとされる吉川は、同地裁の判決において「殺害の司令塔」と認定されながらも、自白したことを考慮され、懲役20年の判決が言い渡された。

教団をめぐる、別の未解決事件の存在

 ところで、この事件にはもう一つ別の疑惑が囁かれていた。丸山さん殺害から約3カ月後の9月1日未明、東京・歌舞伎町の「明星56ビル」が火災に遭い、44人もの犠牲者を出しながらも、いまだ火災の原因が明らかになっていない「歌舞伎町ビル火災」についてだ。火災に遭ったビルで「一休」という麻雀ゲーム店を経営していたIという男は、吉川の娘婿だったのである。丸山さん殺害の報酬としてアテにしていた遺産が「グループ向日葵」に入らなくなったことで、実行犯の暴力団員らと吉川が報酬を巡ってトラブルになったのではないか……と報じられている。結局この疑惑は、藪の中である。

 当の実行犯グループを取りまとめていた教団ナンバー2の渡辺は、05年当時、公判も終盤に差し掛かった頃、「吉川には5000万円以上の借金があり、返済を迫られていた。返せず自己破産すると告げたら『娘婿の店に火をつける』と言われていた」と証言している。
(高橋ユキ)

【参考文献】
「FRIDAY」2003.3.14号(以下、略)
「女性自身」 2003.3.18
「週刊新潮」2001.9.27、2002.9.5、2003.1.23
「サンデー毎日」 2003.2.2
「週刊現代」 2003.3.15
「毎日新聞」 2003.1.30

殺人の手付金は水晶1000万円――裕福な“箱入り娘”が心酔した教祖【板橋・占い師グループによる射殺事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 数日前に梅雨入りしていたが、その日の東京は、昼から晴れ間がのぞいていた。2001年6月9日、東武東上線下赤塚駅を北側に進んだ板橋区赤塚6丁目には、古いアパートや小学校、銭湯などが並ぶ。下町の風情を残した住宅街のなかで一際目立つ、タイル張りの塀に囲まれた豪邸の前に段ボールを抱えた男が立ち、インターホンを鳴らしたのは、夜の帳が降り切った20時55分のことだった。宅配便にしては遅い来訪だ。

 その直後、「パーン」と風船が割れるような乾いた音が周囲に響いた。何事かと外に飛び出した近所の者たちが集まると、この家に住む丸山寿治さん(70=当時)が、玄関で倒れており、その下に広がる血だまりがみるみる大きくなっていくのだった。

第6回:東京・板橋 占い師グループによる射殺事件

 丸山さんはこの日、宅配業者を装った男に銃で撃たれ、病院に搬送されたが、翌日未明に出血性ショックで死亡。銃弾は腹部を貫通していた。警察は、現場に残されていた薬莢から、犯行に使われたのは中型拳銃のマカロフとほぼ断定。捜査を開始した。

 工務店経営者の丸山さんは、新潟の出身で20歳の時に上京。もともと大工として働いていたが、東京オリンピックの年に、都営住宅30戸の工事を任され、それを機に独立。以降、建売住宅を作る仕事を地道にやってきた。事件当時は、体の具合が悪い妻と二人で暮らしており、平日は親族がその世話をしに通っていたが、夫婦だけになる土曜に事件が起こったことから「極めて計画的なプロによる犯行」と目された。また丸山さんは数年前に糖尿を患って以降、思うように仕事ができなくなり、土地転がしや競売物件に手を出すようになっていた。そのため、金銭トラブルによる犯行ではないかともみられたが、近所の者はそれを否定する。

「競売で競り落としたのは北区にあるマンション一棟だけ。老後の家賃収入を確保しようとしてのことです。土地転がしについても“60坪か70坪の土地を買って、二つに分けて売ったら儲かった”という話を聞いたことがある程度。確かに、かなりの蓄えがあったようでしたが、大工上がりの地味な人で、酒も女もやらなかった」

 丸山さんの生活ぶりからは、とても突然殺し屋に狙われるような人物像が浮かび上がらないが、捜査が進むにつれ、家庭内で問題を抱えていたことが徐々に明らかになる。だが決定的な決め手がないまま時間が過ぎる中、進展を見せたのは翌年の02年12月。元暴力団員A(46)が「仲間4人と組んで人を殺した」と警視庁に自首してきたのだ。Aはまた「自分は拳銃の処分をしただけ。成功報酬は2000万円」と自供。これにより、翌月の03年1月、丸山さん殺害の実行に関与したとして5人が逮捕された。

 5人のうち、Aを含む4人は実行犯として関わり、その指揮をとったのは、占い教団「グループ向日葵」のナンバー2、渡辺義介(47)。「グループ向日葵」は、吉川タカ子(64)が教祖を務める教団で、最盛期には200人ほどの会員を抱え、事件の2年ほど前からは、都内の寺の境内で年明けに「星祭り」という催しもしていた。そこでは護摩焚きなどが行われ、出店もあり、境内には多くの会員が詰めかけていたという。そして、かつては当時人気絶頂のSMAP・香取慎吾も吉川と交流があったとみられている。

 香取と同じように、この「グループ向日葵」の吉川と交流を持ち、また心酔していた会員の一人が、丸山さんの娘、笠原友子(44)だった。渡辺をはじめとする実行犯の逮捕ののち、吉川と同会アドバイザーの民野茂樹(48)、実行グループに拳銃を売ったという元暴力団員(46)が逮捕。そして同年2月23日、友子も逮捕されたのだった。

 友子は仕事熱心な丸山さんの長女として生まれた。

「弟さんがいたんですが、小学生の頃に事故で亡くなったこともあって、幼い頃から大事に育てられていました」(実家近くの知人)

 実際に丸山さんも「あの娘にはいくら金をかけたかわからない」と生前にこぼしていた通り、友子は中学から短大までエスカレーター式の私立女子校に進学した。

「俗に言う“箱入り娘”でツンとしたところがあって、会っても挨拶したことなかったわねぇ。いつもブランドの服を着て、ボーイフレンドに車で送り迎えさせてました。ちょっとこの辺じゃ見かけないお嬢さんだったことは間違いないわね」(近所の主婦)

「おしゃれで華やか。ブランド物を身につけ、六本木でよく遊んでいました。学校にはお嬢さん育ちが多いのですが、1ランク上という感じでした」(同級生)

「高校生の時に冗談で『お父さんのおカネは私が全部使ってやる』と言っていた」(友人)

 弟を亡くした両親から溺愛されて成長した友子は、1984年に、24歳で電子機器製造株式会社で役員を務める男性と結婚。2人の男の子に恵まれた。だが、家庭をもうけても、子ども時代と同じように、贅沢な生活を続ける。東京・渋谷区の一等地に自宅を構え、毎年家族で海外旅行に行き、息子2人を私立の名門幼稚園に入園させた。塾にも熱心に通わせ、大学までエスカレーター式の超有名小学校を受験させ、ベンツで送り迎えする日々を送る。

 こうした費用は、彼女がかつて子どもだった時と同じように、友子の両親が負担し続けていた。丸山さんに隠れ、母親から月に50万円の金を無心し続けていたのだという。

父との断絶で遺産相続に焦り――「相続から排除されてしまう」

 しかし、そんな甘えた生活は永遠には続かなかった。事件の3~4年前、友子の夫が役員を務めていた会社が倒産し、多額の借金を抱えることになったのだ。友子は躁鬱状態となり、親戚に会っても挨拶すら交わさなくなっていく。この頃、友子の実母が具合を悪くしたこともあり、丸山さんから「一緒に住んでくれ」と頼まれたが、友子は事も無げにこう言い放った。

「板橋は田舎臭くさいからイヤ」

 父と娘の関係に亀裂が入ったのはこの時だった。丸山さんは、それまで大目に見ていた金の無心を断るようになり、故郷である新潟県内に所有していた土地やビルを、自身の弟と甥に譲るという内容の遺言書を作成。甥との養子縁組を決めた。

 焦る友子。ちょうどその頃、渋谷のエステティックサロンで知り合い、親しくなっていた吉川にこう訴えたのだった。

「お父さんが勝手に、甥との養子縁組を決めて、遺言状も作ってしまった。このままでは私も母も遺産相続から排除されてしまう」

 さらに「お父さんの会社の金庫に一億円あるのでそれを払うから」と、あろうことか父の殺害を依頼したのである。友子は、子どもの進学について吉川に相談したことがあり、それ以降は信頼しきっていたという。殺害の“手付金”として、水晶玉の購入代金1000万円を「グループ向日葵」に支払った。こうして、吉川の指示を受けた渡辺ら実行犯グループが暗躍し、丸山さんは殺害されてしまった。
(高橋ユキ)

――後編は10月14日公開

夫は「ジキルとハイド」の二重人格だった――戦後初のバラバラ犯となった女【荒川バラバラ殺人事件・後編】

 戦後間もない昭和27年の東京都足立区。荒川の放水路にあった浅瀬は、子供子どもも川底に足がつくため、通称「日の丸プール」と呼ばれ、地域の子供子どもたち達に親しまれていた。5月10日の昼頃、ここで人間の胴体が発見される。遺体の身元は伊藤忠夫巡査(27=当時)。内妻で志村第三小学校の教師をしていた宇野富美子(26=同)による殺人だった。出刃包丁とナタを使い、母親と遺体を解体したという。

(前編はこちら)

夫は「ジキルとハイド」の二重人格だった

 伊藤は富美子に一目惚れで、200通のラブレターを送り、ついに富美子との結婚を誓うまでになるが、一緒に暮らし始めると、それまでのまっすぐで真面目な伊藤の印象とは異なる顔が見え始める。

「いつまでたっても伊藤は私を籍に入れてくれず、結婚前『必ず準備する』と約束した家計の設計費も、いつの間にか先に使い果たし、かえって1万を超える借金があることなどが分かりました。『ジキルとハイド』の二重人格が彼の本体であったのです」(富美子の手記より)

 一部報道には1万どころか6万円(現在の約10~60万円)の借金があったともいわれており、さらに伊藤は大酒飲みで、勤務態度も勤労とは程遠く、解職寸前だった。家では富美子を殴る蹴るも日常茶飯事で、節約や我慢を重ねて富美子は月給のおよそ半分である3,000~4000円を毎月用立てていたものの、感謝されるどころか「借金したのは、もともとお前のせいなんだ」と非難された。富美子が思い余って離婚話を切り出したところ、仕事道具であるはずの拳銃を抜いて「逃げても絶対見つけ出す」と脅されたこともあったという。

「私は法廷で検事さんから、愛情がないと非難されたことがあります。伊藤もよく同僚に『妻は冷たい』と漏らしたそうですがそれは偽りです。伊藤こそ愛情を持たない男だったのです。私が苦労して工面した金は、飲んだり食ったりつまらぬことに使い果たし、少しでも家庭を顧みようと気持ちのない人間なのです。もちろんこうした味気ない夫婦生活のため、ある点では無情にさえなっていく私の素振りが、伊藤の堕落した生活態度にますます拍車を加えて行った事は否定できません」(同)

 合わせ鏡のように、富美子の気持ちが伊藤から離れていくと同時に伊藤もまた、家庭を顧みず酒に溺れるようになっていった。二人には子供子どもがいなかったがしかし、富美子は離婚ができないと思っていた。それには当時の時代背景が関係している。

「夫は警察官なのです。仮に離婚沙汰にでもなれば、夫は『警察官らしくない行状』として首になるのは明らかなことです。もしそんなことになれば……。日頃でさえ別れたら殺してやると、口癖のように言っていた彼の事ですから、あるいは本当に殺されるかもしれないとさえ想像し、また同居している母や弟のことを考えて、そのままズルズルと元の鞘に帰っていたのです」(同手記)

 そして事件の日。その夜も、伊藤は泥酔状態で帰宅した。彼は無愛想な顔で出迎える富美子の態度が癇に障ったのか、ひとしきり暴れ、富美子の揚げ足を取り悪口を言ったあと、その晩の夜勤を放り出して寝入ってしまう直前に、彼女にこう言ったのだという。

「殺すのは惜しいな。お前を女郎にでも売り付けたら儲かるのだが」

 これを聞いた富美子の糸はついに切れた。思わず血が逆流するのを感じたという。

「餓死しても良い、殺されてもいい、それが本当に愛する夫のためなら……。だが伊藤みたいな人間に殺されるのは嫌だ。と言ってこのままでいれば、むざむざ伊藤の犠牲になるのを待つばかり。伊藤が死んだって親子3人の生活は自分の力で平和に暮らしていける。もしそれができないような自分だったら、生きていたって同じことだ。幸い伊藤は眠っている。ヒモか何かで首を絞めて殺せるかもしれない」(同手記)

 殺害計画を組み立て頭が冴え渡った富美子が思い出したのは、伊藤が1カ月前に自宅に持って帰って来ていた『自警』という書物だった。ここに書かれたある殺人事件の絞殺方法を参考にし、夫の警棒の真ん中にグリーンの麻紐をくくりつけ、窓の外の間にそれを挟み込んだのち、窓際から引いた麻紐を夫の首を巻きつけて、下の端を握って一気に絞めたのだった。うめき声をあげたのち、伊藤はあっけなく絶命したが、富美子は「生き返ってくるかもしれない」と、さらに1時間、首を絞め続けていた。

 富美子は伊藤を殺害して、遺体をバラバラにするまで、一昼夜、それを押入れにしまいこんでいたことは先述の通り。その間富美子は何食わぬ顔で勤務先の学校に行き、いつものように、子どもたちを相手に授業をしていた。

 殺害後の心情について、富美子はこのように振り返っている。

「その(殺害時の)ひとこまひとこまが、恐ろしい映像となって、今でも獄中の私を苦しめています。起訴されるまでの間、私の頭には過ぎし伊藤との生活の思い出が走馬灯のように駆け巡り『取り返しのつかない』絶望感と『非人間的な行為』の恐怖感との、止めどもない葛藤のうちに日を送ったのです」(同)

 後悔と恐怖に苛まれていたとは言うものの、完全犯罪を目論んでいたのだろう。バラバラにして投棄した遺体の一部が川から発見され、報道がなされるまで、伊藤の行方不明届を出してもいなかった。次々と川から遺体があがり、そのたびに報道が加熱しても、当初は母娘ともども、犯行を認めずにいた。

 一方で、初めて遺体が見つかった翌日には伊藤の継母に電報で「タダオカエラヌ、ソノチ ツカヌカ、フミコ」と発信。数日後には速達で「実は7日の夜11時頃から忠男が出ていったきり帰ってきません。荒川にバラバラ事件もあったため、心配で御飯も食べられず、夜もろくに寝れません」といった内容の手紙を送っているのだ。

 しかし、胴体を包んでいた新聞紙の中に、富美子が前年4月まで住んでいた大阪府守口市の配達区域で配られるものと同一のものがあった。加えて、自宅の家宅捜索が行われた際、押し入れの襖やカーテンに残された血痕を警察官に発見される。こうした証拠を元に追及を受け、あっけなく犯行を認めたのだった。それまで押しかける報道陣などに「失礼ではないか?」と追い返し、家宅捜索では6畳間に長々と寝そべったまま捜査員を見回していた母シズも、一緒に連行された。

1時間だけでも慰安の場所がほしかった

 戦後初のバラバラ殺人事件であること、犯人が女性であることから、本事件は報道が過熱し、法廷では富美子の過去の男関係も事細かに明らかにされた 。

「実はこの頃(編注:伊藤に結婚を申し込まれた時)富美子は大阪で同僚の教師の、しかも2人とセックスがらみの付き合いを繰り広げていた。(略)富美子は『性格がさっぱりしている』ということで男性教師に人気があった。そんな中から彼女は、ウブで若いHを選んで、自ら足を開き、『こうするのよ』と男のものを肌にあてがって合体させてやったりしていたのだった。(略)自分に気のある男を手玉にとって弄ぶのは、さらに大好きだったのだろう。証言によると富美子はHに結婚を申し込んだのだったが、そう言いながら別の教師と付き合っていることを知っていた彼は断った……」

 富美子はそれに対し、手記でこう述べる。

「私は今、裁きの庭に立っています。世の人は私のことを『冷酷無情な女』『血も涙もない悪魔』と、ありとあらゆる罵倒の言葉を浴びせかけています。私にはもちろん反駁する資格はありません。しかしこれだけは言いたいのです……私と言う女は友達から身の上の相談を受けても、遊び相手には不向きな女でした。内気。悪い言葉で言えば陰性な女であるかもしれません。しかし他の女性と同じように、幸福でありたいという気持ちには変わりはありませんでした。もっと具体的に言えば、教員という職業柄、自分の存在が値打ち以上に社会から評価されているアブノウマルな環境から、1時間でもいいから解放されたい。その慰安の場所を、私は夫との生活にだけ求めていたのです」

 警察官と教師、公職につくものだからこそ事件を隠し通したかったのか。教師という職業柄、のしかかるプレッシャーからひとときでも解放されたいという思いで一緒になった伊藤に冷たい仕打ちを受け、絶望したのか……。富美子にはのちに東京地裁で無期懲役を求刑されたが、懲役12年の判決。栃木刑務所で服役中に皇太子(当時)結婚特赦のため、7年間の服役で出所した。母シズは、死体損壊罪で1年6月の判決(求刑・懲役3年)を受けたが、事件の年の暮れに、東京拘置所で死亡した。
(高橋ユキ)

(参考文献)
昭和27年6月1日号 「週刊サンケイ」
昭和27年10月5日号 「週刊サンケイ」
1960年10月28日号 「週刊スリラー」
1991年1月3日・10日合併号 「週刊文春」
2000年3月23日号 「週刊実話」
2002年9月22日号 「サンデー毎日」
2004年7月号 「現代」

出刃包丁とナタで男をバラバラに――結婚誓った内妻の告白【荒川放水路バラバラ殺人事件・前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 戦後間もない昭和27年の東京都足立区。市民プールや学校にプールがあることが珍しかった頃、辺りにひしめくバラックに住む人々は、暑くなると荒川やその入江などで泳いでいた。現在、荒川の河川敷はさまざまに整備され、サッカーコートや広場がおかれているが、当時、荒川放水路東岸にあったひょうたん型の浅瀬は、子供子どもも川底に足がつくため、通称「日の丸プール」と呼ばれ、地域の子供子どもたち達に親しまれていた。

 5月10日の昼頃、ここで泳いでいた子供子どもたちが「変なものがある」と、魚釣りの大人に教えた。見ると、岸辺の芦の間にハトロン紙と麻ひもで荷造りした動物の死体らしい大きな包みが転がっている。ところどころから、どす黒い血がにじみ出て、臭気を放っていた。よく見るとどうも人間の胴体らしい。男は所轄の西新井署に急報、戦後初のバラバラ殺人事件が発覚した瞬間だった。

第5回:荒川放水路バラバラ殺人事件

 終戦から7年がたった昭和27年、戦後初めて開催されたメーデーに集まった群衆の一部が、解散地点の日比谷公園から皇居前広場になだれ込み、警察隊がこれに発砲。2人の死亡者を出した。それから数日後には、東京・新宿で火炎瓶騒ぎも起こった。「何か革命でも起こるのではないか」と案じる声も囁かれる中で発覚したバラバラ殺人だったことから、遺体の身元確認を進めると同時に、犯人の動機についての捜査も進んだ。

 胴体の発見後、直ちに西新井署に設けられた捜査本部により捜査が進められるなか、15日朝9時50分ごろ、死体の首が「日の丸プール」の対岸で発見される。さらに翌16日朝8時40分ごろ「日の丸プール」上流約9キロの新川鉄橋下で両腕が見つかった。この指紋を照合し、被害者の身元が判明。板橋区に住む志村署の警ら係、伊藤忠夫巡査(27=当時)であることがわかった。そのため捜査本部では伊藤巡査の内妻、志村第三小学校の教師をしていた宇野富美子(26=同)から事情を聞き追及した結果、同日夕方ごろ、犯行の一部を自供。逮捕に至った。

 殺害された伊藤が勤務していた志村署から北に2キロほど。工場と麦畑が広がる一角。そこにある、じめじめとした空き地で風車がギイギイと音を立てている。脇にぽつりとある2階建ての家で、伊藤と富美子、そして富美子の母と弟は暮らしていた。

 その家で事件が起こったのは、胴体が発見される4日前の夜。伊藤巡査が帰宅して寝入ったところ、富美子がその首を縄で絞めて殺害。ふと振り返ると、母シズがいつのまにかそばに立っていた。二人は相談し、道路に死体を放棄して他人に殺害されたように見せかけようとも話したが、女手二人では、60キロ以上ある伊藤巡査の遺体を運び出すことができなかった。次第に夜が明け始めたのでやむを得ず、遺体を行李に入れ、一旦押し入れに隠すことに。母親から死体をバラバラにして捨てることを勧められた富美子は出刃包丁とナタを購入しに出かけた。

 再びの夜がやってきた。2階に大きなタライを上げ、死体の入った行李をその上に乗せる。さらにタライの中に洗面器を置いて、出刃包丁とナタを使い首、手足、胴体と切り離していった。控えめに明かりのついた4畳間に、バラバラの体が積み重ねられて行き、タライの中の洗面器には切り離すたびにどす黒い血が溜まっていった。そして切り離した部分ごと、新聞紙とハトロン紙で包んでいく。この初めての大仕事を二人は2時間でやってのけたという。

 翌9日の日暮れを待ち、小学校の自転車を借りてきた富美子が胴体の包みをその自転車に乗せて一足先に家を出る。母親は首と手の包みを下げてバスで移動。先に新荒川大橋に到着した富美子は、ひんやりとした風が頬を撫でる新荒川大橋の上で、人がいなくなるタイミングを見計らい、橋の上から胴体の包みを投げ捨てた。やっとたどり着いた母親から包みを受け取ると、同じ場所から投げ込む。そして家に帰り、足をくるんだ包みと血を拭いた布切れを包んだものを自転車に積んで、再び出発。今度は戸田橋から投げ込んだ。すでに日付は変わり、10日の午前1時になっていた。遺体を刻んだ行李は細かに壊して燃やし、こうして、女性2人による死体損壊、遺棄行為を終えたのだった。

200通のラブレターを受け同棲、結婚を誓う

 なぜ富美子は夫を殺害するに至ったのか。

 遠縁にあたる二人が最初に出会ったのは終戦翌年、昭和21年の春のことだ。富美子は大阪に育ち、17歳の時に母方の親戚を頼って山形県の米沢へ疎開。米沢で高等女学校に通っていた。伊藤は山形に生まれ、地元の小学校を卒業し上京。戦時中は「日本光学(現・ニコン)」の行員をしていたが応召され、終戦で復員して米沢に戻ってきたころ、二人は出会う。伊藤は富美子に一目惚れだったらしく、結婚前に彼女に出したラブレターは200通に及んだ。

「頭の中はあなたのことでいっぱいです。会いたい。今はこの気持ちを抑えるためにせめてあなたのお名前を無性に書きまくっております」

 こうしたまっすぐな思いを、日々書き送っていたという。200通のほぼ全てが下書きの上、清書したものだった。それでも富美子は伊藤になびくことなく昭和22年、大阪の小学校への就職が決まり、米沢から転居。しばらく交渉も途絶えていた。2年生を受け持ち、教員としての仕事に邁進していた昭和24年、「昨年上京、今警視庁志村警察署に勤務している」と知らせを受け、再び文通を交わす仲となる。その年の夏に、伊藤の招待を受け、彼が住む東京の寮を訪ねた際、結婚の申し込みを受ける。最初は乗り気でなかった富美子も、ぶれることのない伊藤の気持ちに心を動かされ、事件前年の春、大阪から東京・板橋区にある小学校に転校すると同時に、同棲生活を始めた。

 富美子はのちに、手記を公開しているが、そこには伊藤への当時の思いがこう書き綴られていた。

「私の家は以前、相当手広く商売をやっていましたが、戦争と同時に不運が続き、ついに田舎に引っ込んでしまってろくな収入もなく、生活は苦しい最中でした。それだけに私は、自分の身の始末より『家のために働かねば』と言う気持ちが先に立ち、結婚問題などあまり真剣に考えなかったというのが、その頃の偽らぬ心情でした。

 しかしその反面、伊藤のプロポーズを受けて以来、彼を慕う気持ちが1日1日と高まっていたことが事実で、私が彼との結婚を固く心に誓ったのは、それから間もなくの事です」

 ところが一緒に暮らし始めると、それまでのまっすぐで真面目な伊藤の印象とは異なる顔が見え始める。

――後編につづく(9月16日更新)

出刃包丁とナタで男をバラバラに――結婚誓った内妻の告白【荒川放水路バラバラ殺人事件・前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 戦後間もない昭和27年の東京都足立区。市民プールや学校にプールがあることが珍しかった頃、辺りにひしめくバラックに住む人々は、暑くなると荒川やその入江などで泳いでいた。現在、荒川の河川敷はさまざまに整備され、サッカーコートや広場がおかれているが、当時、荒川放水路東岸にあったひょうたん型の浅瀬は、子供子どもも川底に足がつくため、通称「日の丸プール」と呼ばれ、地域の子供子どもたち達に親しまれていた。

 5月10日の昼頃、ここで泳いでいた子供子どもたちが「変なものがある」と、魚釣りの大人に教えた。見ると、岸辺の芦の間にハトロン紙と麻ひもで荷造りした動物の死体らしい大きな包みが転がっている。ところどころから、どす黒い血がにじみ出て、臭気を放っていた。よく見るとどうも人間の胴体らしい。男は所轄の西新井署に急報、戦後初のバラバラ殺人事件が発覚した瞬間だった。

第5回:荒川放水路バラバラ殺人事件

 終戦から7年がたった昭和27年、戦後初めて開催されたメーデーに集まった群衆の一部が、解散地点の日比谷公園から皇居前広場になだれ込み、警察隊がこれに発砲。2人の死亡者を出した。それから数日後には、東京・新宿で火炎瓶騒ぎも起こった。「何か革命でも起こるのではないか」と案じる声も囁かれる中で発覚したバラバラ殺人だったことから、遺体の身元確認を進めると同時に、犯人の動機についての捜査も進んだ。

 胴体の発見後、直ちに西新井署に設けられた捜査本部により捜査が進められるなか、15日朝9時50分ごろ、死体の首が「日の丸プール」の対岸で発見される。さらに翌16日朝8時40分ごろ「日の丸プール」上流約9キロの新川鉄橋下で両腕が見つかった。この指紋を照合し、被害者の身元が判明。板橋区に住む志村署の警ら係、伊藤忠夫巡査(27=当時)であることがわかった。そのため捜査本部では伊藤巡査の内妻、志村第三小学校の教師をしていた宇野富美子(26=同)から事情を聞き追及した結果、同日夕方ごろ、犯行の一部を自供。逮捕に至った。

 殺害された伊藤が勤務していた志村署から北に2キロほど。工場と麦畑が広がる一角。そこにある、じめじめとした空き地で風車がギイギイと音を立てている。脇にぽつりとある2階建ての家で、伊藤と富美子、そして富美子の母と弟は暮らしていた。

 その家で事件が起こったのは、胴体が発見される4日前の夜。伊藤巡査が帰宅して寝入ったところ、富美子がその首を縄で絞めて殺害。ふと振り返ると、母シズがいつのまにかそばに立っていた。二人は相談し、道路に死体を放棄して他人に殺害されたように見せかけようとも話したが、女手二人では、60キロ以上ある伊藤巡査の遺体を運び出すことができなかった。次第に夜が明け始めたのでやむを得ず、遺体を行李に入れ、一旦押し入れに隠すことに。母親から死体をバラバラにして捨てることを勧められた富美子は出刃包丁とナタを購入しに出かけた。

 再びの夜がやってきた。2階に大きなタライを上げ、死体の入った行李をその上に乗せる。さらにタライの中に洗面器を置いて、出刃包丁とナタを使い首、手足、胴体と切り離していった。控えめに明かりのついた4畳間に、バラバラの体が積み重ねられて行き、タライの中の洗面器には切り離すたびにどす黒い血が溜まっていった。そして切り離した部分ごと、新聞紙とハトロン紙で包んでいく。この初めての大仕事を二人は2時間でやってのけたという。

 翌9日の日暮れを待ち、小学校の自転車を借りてきた富美子が胴体の包みをその自転車に乗せて一足先に家を出る。母親は首と手の包みを下げてバスで移動。先に新荒川大橋に到着した富美子は、ひんやりとした風が頬を撫でる新荒川大橋の上で、人がいなくなるタイミングを見計らい、橋の上から胴体の包みを投げ捨てた。やっとたどり着いた母親から包みを受け取ると、同じ場所から投げ込む。そして家に帰り、足をくるんだ包みと血を拭いた布切れを包んだものを自転車に積んで、再び出発。今度は戸田橋から投げ込んだ。すでに日付は変わり、10日の午前1時になっていた。遺体を刻んだ行李は細かに壊して燃やし、こうして、女性2人による死体損壊、遺棄行為を終えたのだった。

200通のラブレターを受け同棲、結婚を誓う

 なぜ富美子は夫を殺害するに至ったのか。

 遠縁にあたる二人が最初に出会ったのは終戦翌年、昭和21年の春のことだ。富美子は大阪に育ち、17歳の時に母方の親戚を頼って山形県の米沢へ疎開。米沢で高等女学校に通っていた。伊藤は山形に生まれ、地元の小学校を卒業し上京。戦時中は「日本光学(現・ニコン)」の行員をしていたが応召され、終戦で復員して米沢に戻ってきたころ、二人は出会う。伊藤は富美子に一目惚れだったらしく、結婚前に彼女に出したラブレターは200通に及んだ。

「頭の中はあなたのことでいっぱいです。会いたい。今はこの気持ちを抑えるためにせめてあなたのお名前を無性に書きまくっております」

 こうしたまっすぐな思いを、日々書き送っていたという。200通のほぼ全てが下書きの上、清書したものだった。それでも富美子は伊藤になびくことなく昭和22年、大阪の小学校への就職が決まり、米沢から転居。しばらく交渉も途絶えていた。2年生を受け持ち、教員としての仕事に邁進していた昭和24年、「昨年上京、今警視庁志村警察署に勤務している」と知らせを受け、再び文通を交わす仲となる。その年の夏に、伊藤の招待を受け、彼が住む東京の寮を訪ねた際、結婚の申し込みを受ける。最初は乗り気でなかった富美子も、ぶれることのない伊藤の気持ちに心を動かされ、事件前年の春、大阪から東京・板橋区にある小学校に転校すると同時に、同棲生活を始めた。

 富美子はのちに、手記を公開しているが、そこには伊藤への当時の思いがこう書き綴られていた。

「私の家は以前、相当手広く商売をやっていましたが、戦争と同時に不運が続き、ついに田舎に引っ込んでしまってろくな収入もなく、生活は苦しい最中でした。それだけに私は、自分の身の始末より『家のために働かねば』と言う気持ちが先に立ち、結婚問題などあまり真剣に考えなかったというのが、その頃の偽らぬ心情でした。

 しかしその反面、伊藤のプロポーズを受けて以来、彼を慕う気持ちが1日1日と高まっていたことが事実で、私が彼との結婚を固く心に誓ったのは、それから間もなくの事です」

 ところが一緒に暮らし始めると、それまでのまっすぐで真面目な伊藤の印象とは異なる顔が見え始める。

――後編につづく(9月16日更新)

【品川同性愛者殺人事件・後編】男への依存と「11の偽名」――嘘で飾り続けた女の欲望

 胸や腹などを18カ所刺され、死後1カ月が経過してから自宅で発見された鈴木友幸(ゆうこ・当時39)さん。マンションで一緒に暮らしていたのは、かつて新宿2丁目でバーを経営し、行く先々でピンクのドンペリを開けて飲み歩く、華やかな生活を送っていた女だった。「魔女」「帽子の志麻」と2丁目で呼ばれていた、前田優香(事件発生当時41)と鈴木さんは恋人関係にあった。

(前編はこちら)

「バーをやってる」「新宿に店を出させる」恋人の前で飾り続けた嘘

「あんた、武蔵小山なんかで店をやってるのもったいないわ。私が新宿に店を出させてあげる」

 武蔵小山のスナックでもドンペリを開け、ブランド物の服に身を包み続けていた優香は、しかも鈴木さんにこのような甘言まで弄していた。「新宿でバーを経営している」こんなことも得意げに語っていたという。鈴木さんは優香の嘘を信じ切っていた。だが店のパートナーはもちろん、鈴木さんの母親も店の客たちも、優香を嫌い、鈴木さんは店の経営から手を引くことになる。だが、優香が店を出してくれる、彼女はそう信じていた。

「朝も昼も夜も、毎日優香のことばかり考えてる。早く会いたいな」
「この青い空の下に優香がいるんだね。昼も夜も優香のことを考えてるよ。もう気が狂いそうだ。早く繋がりたいね」

 こんなメールを優香にいつも送っていたという。だが、この頃、優香が金を得るには、デリヘルで稼ぐか、愛人に会う必要があった。鈴木さんが店を辞めてしまったことで生活費が入らなくなってしまったが、一緒に暮らしている今、定期的に出勤することは難しい。「友人に会う」と嘘をつき、愛人の元へ通っては肉体関係と引き換えに金を得ていた。だが事件が起きる。鈴木さんに性病がうつってしまったのだ。

「おれ、お前以外の女とはセックスしてないんだから、お前にうつされたに決まってんだよ。どこからもらってきたこんな病気。こっそり男とやってたのか」

 こう詰め寄った鈴木さんは、もともと束縛体質だったが、さらに優香を束縛するようになる。愛人に会うことがかなわなくなった優香は、たちまち窮し、今度は鈴木さんの預金をこっそり引き出すようになった。だが、これも鈴木さんにバレてしまう。不信感を持たれながらも、金を得るあてもない優香は、鈴木さんの預金を引き出し続け、事件の直前、とうとう鈴木さんの預金が底をつく。

 そして2005年3月1日、事件は起こった。

 この日の夜、優香の身支度が整う前に、鈴木さんがタクシーを呼んだことで口論が始まる。優香は尋ねた。

「私と付き合ったこと、後悔してるの?」

 鈴木さんはこれを受けて、返した。

「お前と一緒だよ。お前、偉そうなんだよ。何様のつもりだよ」

「このxxxxが!」

 鈴木さんは、このとき「直接的な『男好き』というニュアンスの言葉」を投げかけたという。具体的な言葉の内容を優香は明かさなかったが、これにカッとなった優香は殺害を決意。夜中の2時45分。台所にある包丁を手に取り、玄関先にいる鈴木さんに向かって突進しながら包丁を突き立てたのだった。

 自分を愛してくれた鈴木さんを殺害した動機を問われ、優香は小さな弱々しい声で、たどたどしくこうつぶやいた。

「いまだにわからない……。黙らせたかったのか……無意識なのか……」

怠惰で消極的、ぼんやりとした真意

 鈴木さん殺害後、彼女のクレジットカードを奪って逃走していた優香は、彼女のカードで帽子など35万円の買い物をしたのち、男性に依存しながら、かつての「大原志麻」そして「鈴木友子」「前田由子」など11の偽名を使い逃亡を続けていたが、2年後の3月に、東京北区・赤羽の健康ランドで逮捕されたのだった。

「通報で警察が駆けつけると、前田容疑者は60代の男性客3人と飲食しており、酔っていた。『前田優香だな』と聞くと、『はい』と素直に認めたので任意同行を求め逮捕した。持っていた健康ランドの会員証の名前は『たかだみゆき』となっていた」(捜査関係者)

 この時の彼女の所持金はわずか900円。事件まで自分を嘘で飾り続けた女は、人生をこう振り返った。

「当時の私は自由気ままで……我慢、忍耐、努力とか、ありませんでした……」

 そして鈴木さんに謝るのだった。

「心の底から私のことを愛し、信じていた友幸さんを殺してしまった……私なんかと知り合わなければ、エネルギッシュな40代を過ごせたのに……友幸さんの命を私の手でこんな形に……友幸さん、本当にごめんなさい」

 公判の場でこそ、彼女はこう言ったがしかし、その真意はどこかぼんやりしている。優香は鈴木さんを何度も刺しているが、理由を問われ、黙り込んだ。

優香「黙らせるために包丁を手に取りました。必死でした……」
検察官「そんなに憎くない人を何度も刺したの?」
優香「………」

 そして逃亡についても、こんなふうに語るのだ。

検察官「いつまで逃げるつもりだったの?」
優香「捕まるまで……」

 公判で見た優香は、ゆっくりと小さな声で、どこか怠惰で消極的な発言を繰り返す、覇気のない女性だった。時効まで逃げ切るという確固たる意志のもとに逃亡を続けていたわけではなく、自首するという自発的な行動を取ることができなかったのではないか。

 逃亡中の優香はいくつもの偽名を使い、新宿や池袋、大宮などの繁華街を転々としていた。最終的にたどり着いたのは北区赤羽の健康ランド。逃亡中に知り合ったタクシー運転手の家に身を寄せ、生活していた。健康ランドで見知らぬ男性に声をかけ、酒や食事を奢ってもらう日々。ある男性は、優香にこう誘われたこともあった。

「おじさんセックスしてる? 私が手でしてあげようか? でも、私ナンバーワンだったから高いよ」

 男性が黙っていると「おじさん、ダメだね」と優香は高笑いとともにどこかに行ってしまったという。

 モノで満たされてはいるが愛のない家庭で育ち、日常を酒と薬でごまかしていた優香。新宿二丁目、とあるバーのオーナーはこう振り返る。

「彼女はバブルを引きずってた。金でレズと付き合ったの。だけど、この辺じゃ皆に好かれてたわよ。みんな、彼女がどうしてこんなことをしたのかわからない」

 彼女に必要だったのはおそらく、愛情だったのだろう。本人がそれに気付かなかったことで不幸は起きてしまった。判決は懲役15年。一時は控訴したものの、間もなく取り下げ、刑が確定している。
(高橋ユキ)

<参考文献>
「新潮45」(新潮社) 2008年1月号
「アサヒ芸能」(徳間書店) 2005年6月16日号
「女性セブン」(小学館) 2005年6月16日号
「フライデー」(講談社) 2007年4月13日号
「週刊朝日」 (朝日新聞出版)2007年4月13日号
「女性自身」 (光文社)2005年6月14日号
「週刊ポスト」 (小学館)2007年4月13日号
「週刊大衆臨時増刊」(双葉社) 2006年1月3日号

【品川同性愛者殺人事件・前編】誰にもチヤホヤされない――41歳、元お嬢様に生まれた「闇」

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 顔が大きいことを気にしていたというが、本人が思うほど大きくは感じない。むしろ、整形を経たとはいえ、目鼻立ちのはっきりした顔立ちは、ノーメイクでも際立ち、人目を引く。だが上下黒のジャージに、うつろな表情でうつむき、刑務官に縄を引かれ、足を引きずるように入廷するその様子には、憂鬱さしか漂っていない。かつて新宿2丁目でバーを複数経営し、行く先々でピンクのドンペリを開けて飲み歩いていたという華やかな生活の片鱗は、どこにも探すことができなかった。

【第4回 品川同性愛者殺人事件】

 スナック経営者の鈴木友幸(ゆうこ・当時39)が遺体となって発見されたのは、2005年4月のこと。大家から家賃滞納の連絡を受けた母親が、東京都品川区西五反田の自宅マンションを訪ねた際に、変わり果てた娘の姿を見つけた。胸や腹などを18カ所刺されており、死後1カ月が経過していたという。

「玄関で娘が布団をかぶってうつぶせに寝てました。酔っ払って寝てるのかと思って布団をバッとめくったら……死んでました。髪の毛に血がべったりついていて固まっててね」

 泣きながら母親は、さらにこう続けた。

「娘はいつも『みんな嫌うけど、そんなに悪い人じゃないよ』って前田をかばっていたのに。なんで殺されたのか、早く本当のことが知りたい……」

 鈴木さんの家からはクレジットカードが紛失しており、これを鈴木さんの死後、使われた形跡があった。また、事件までこのマンションに同居していた“前田”が、同年3月下旬から4月上旬にかけて複数の知人に「もう戻れないことをした」「鈴木さんを刺してしまった」などと打ち明けていたことから、警視庁はこの“前田”を犯人と断定。全国に指名手配した。

 “前田”と母親が呼び捨てにしていた人物は男性ではない。鈴木さんの恋愛対象は女性で、指名手配された前田優香(事件発生当時41)とは恋人関係にあった。2人の出会いは事件からおよそ2年前。優香はこの頃、やぶれかぶれだった。だがそこから遡ること10年ほど前、新宿2丁目でバーを経営していた頃は羽振りが良く「3000万円から4000万円ぐらいなら好きに使える」と豪語していたこともあった。酒が好きな優香は、一晩で10万円近くの飲み代を払うこともザラだったという。

「彼女と知り合ったのは、彼女が新宿2丁目でスナックのママをしている頃でした。派手な帽子をかぶり、顔立ちが魔女に似ていることから、店では『魔女』と呼ばれていました。大原麗子と岩下志麻が好きだったらしく、2人の名をとって『大原志麻』などと名乗ったこともありました」(優香を知る男性)

「いつもシャネルのスーツとかブランドの服を着てゴージャスなイメージでした。男性からも女性からもモテる人でしたね。当時、彼女が岩下志麻の大ファンだったので、愛称は志麻ちゃん。いつもピンクの大きな帽子をかぶっていて『帽子の志麻』と呼ばれていた時期もあった」(元従業員)

「志麻ちゃんは酒飲むと手がつけられなくてね。酒が入ると男女問わず『なんだこのやろう』って胸ぐら掴んだり喧嘩売ったりしてた。いつも羽根のついた帽子をかぶって、ドレスみたいな服を着ているのに酒乱なもんだから2丁目周辺では結構な有名人だったわ。でもまさか人殺しで指名手配されるなんてねぇ」(2丁目のバーの店員)

 派手な帽子と高級ブランドの服に身を包み、飲みに行けばピンクのドンペリを開ける優香は、かつて新宿2丁目で羽振りの良さとその奔放さが目立っていたが、ある日を境に、この町から姿を消した。当時付き合っていた男性から金を騙し取られて生活にも事欠くようになったのだ。店を手放したのちの優香は、五反田でデリヘル嬢として働きながら、新たな交際相手の男性から小遣いをもらう生活をしていた。

 借金を背負い、アルコールと睡眠薬に依存するようになった優香は、ある日過呼吸の発作を起こして倒れ、生まれ故郷の広島に住む親戚の元に引き取られていた。ところが親戚との関係が悪化し、再び上京。そんなとき、鈴木さんが店長をしていた品川区・武蔵小山のスナックに客としてふらりと訪れた。これが全ての始まりだ。

「鈴木さんは20年近くこの界隈のスナックで勤め、事件の3年前に独立。店長となって始めた飲食店では男装して接客をしていました。彼女はがっちりした体格でとてもボーイッシュ。常にスーツとネクタイ姿でした。気に入ったお客さんにはお酒を盛ったり、人生相談にも乗ってあげるなどきっぷが良く、お店はいつも繁盛してましたね」(武蔵小山のスナックのママ)

 精神的な不安から痩せたり太ったりを繰り返していた優香は、鈴木さんと出会った頃、太り気味だった。それまでいつも周囲からチヤホヤされていたのに、40歳も過ぎ、見向きもされなくなるんじゃないか……と不安になっていたところに、鈴木さんから求愛される。女性とは付き合ったことがなかったが、自信を失いかけていた優香に鈴木さんのまっすぐな思いは響き、出会って2カ月たたないうちに交際を始めた。

「店では1人でよくワインを飲んでましたが、時にドンペリも開けていた。『いいお客がついたね』なんて話していたんですが、そのうち客と喧嘩するわ、従業員を怒鳴るわ、酔っ払ってやりたい放題」(元従業員)

 豪快に金を使い、豪快に飲む彼女は、最初でこそ受け入れられるものの、次第に皆が眉をひそめ始める。だが惚れた弱みか、そんな優香を、鈴木さんだけがかばっていた。ほどなく優香は鈴木さんのマンションに転がり込み、一緒に住みながら、店を手伝うようになった。

 優香はそれまでアルコールにも溺れていたが、男にも依存する人生を送ってきた。父親は広島で飲食店を経営しており、裕福な家のお嬢様として育てられた。教育熱心な母親は、優香にしこたま習い事をさせた。そのおかげか優香の成績は上位をキープしていたが、母親は教育熱心なだけではなく、感情的でもあった。

「自分の思い通りにならないと手がつけられなくなるような性格で、しょっちゅう殴る蹴るの暴力を加えているのを見ていた。その暴力があまりにひどいので、遠巻きに見ていた腹違いの兄や、飲食店の従業員らが止めに入るほど」(親戚談)だったという。その後、景気の悪化とともに、父の事業も傾き始めたが、このとき母親が会社の金を脱税したことが決定打となり倒産、一家は没落していく。

 そして冒頭の、07年9月の東京地裁。彼女は母親との関係を、こう振り返る。

「小さい頃は、絵画、ピアノ、バレエ、日本舞踊、英会話……たくさんのお稽古ごとをやらされていました。母のしつけは厳しかったです。ブラシやスリッパで叩かれたり、父のいない時には殴ってきたり……怖かったです。その反面、お金や服には不自由しませんでした。父が死んだ後、母は私の名義でいろんなとこに借金したので、私が借金を背負わされました。それを知ったのが30歳くらいのとき……母に愛されているとは思っていませんでした」

 母親の愛情を男と金、そして酒に求めたのか。上京後の大学生時代は、妻子のある男性と付き合い、実家に戻ることはなかった。その男性からは金銭的な援助も受けていたという。その後も、別の男性の愛人として生活したり、ホステスとして銀座で働いたり、貸金業をやるなどして、新宿2丁目でのバー経営へと至っていた。店を失い、武蔵小山の店で出会った鈴木さんと交際を始めたときも、金銭的援助をしてくれる愛人がいた。

 40歳を過ぎて外見的な自信を失っていた自分を愛してくれた鈴木さんに対して、優香は、自分のこうした“男への依存”をとても告げることはできず、ひた隠しにしていた。これが綻びを生む。

(後編につづく)

「白雪姫」の“セックス恐喝”――欲望に殺された男たち【福岡スナックママ連続殺人・後編】

 福岡県糟屋郡志免町。志免鉱業所を要するこの町がかつて石炭の街として大いに栄えていた頃、その愛くるしさから近所の人に「白雪姫」ともてはやされた少女がいた。やがてその少女は大人となり、故郷を捨て、その美貌を武器に、数多くの男を陥れてゆく。

(前編はこちら)

「こう見えて床上手なのよ」ミニスカートで客に囁く

 2人目の夫・雄司さんの死亡保険金と、3階建の豪邸を売却した高橋裕子の手元には、会社の負債を返済してもなお約1億6000万円が残った。再び裕子の散財が始まる。福岡市中央区の高級マンションを購入し、クレジットカードで高級アクセサリーや服を買い漁る日々。中洲を飲み歩いているとき、スナックの開店を思いついた。

 手元の金を元手にして、1995年初頭、博多・中洲にスナック「フリージア」を開店。苦しめられた借金から解放され、自分の店を持ち、自由を手にした裕子の女性としての魅力はさらに増していた。客あたりがよいだけでなく、熟した美貌はさらに男性を惹きつける。39歳ながらスタイルも抜群で、ミニスカートのスーツですらりとした脚を出し、カラオケで森高千里の「私がオバさんになっても」を熱唱する姿に客たちは見惚れた。客が歌うカラオケには「キーを下げた方がいい」と音大卒ならではのアドバイスも忘れなかった。

 そんな裕子の切り盛りするカウンターだけの店は、次第に常連客が増え人気店となる。その秘密は裕子の美貌や話術だけではない。複数の客と肉体関係を持っていたからだ。「初恋の人にそっくり」。そんなセリフに相手が乗ってくれば「私、こう見えて床上手なのよ」と誘いをかけ、「フリージア」のカウンターは“裕子待ち”の年上男たちで満席となった。

 この時期、一人の男が上司に伴われ「フリージア」に来店した。赤尾浩文(仮名、当時48)は店で裕子と話をしながら、あることに気づいた。かつて赤尾が早稲田大学の学生だった頃、キャンパスで見かけた女性だったのだ。ほのかな憧れを抱いていたが、のちに慶應大生と結婚したと聞いていた。かつて恋した女性が目の前にいる。赤尾は瞬く間に裕子に再び熱を上げ、店に通い詰め、とうとう肉体関係を持った。恋心はさらに燃え上がり、逢瀬を重ねて行く。

 しかし半同棲状態となってもなお、裕子にはほかの男の陰がいくつもあった。自分だけのものにすることはできないもどかしさを抱えながら、赤尾は東京へ転勤となるが、裕子は「二人の関係を奥さんにバラす」と脅してきた。携帯電話の着信を無視すれば、会社にも電話がくる。結局250万円を支払ったが、赤尾はそれまでにも「経営が思わしくない」と相談を受けるたび裕子に金を貸しており、その総額は約2800万円にもなっていた。

 実際に「フリージア」の経営は思わしくなかった。枕営業で客をつなぎとめても、裕子の散財は、雄司さんとの結婚時代のように止まることはなかったからだ。ベンツを乗り回し、クレジットカードで服を月に何十万円も購入し、中洲で飲み歩く裕子には金がいくらあっても足りなかった。そのためこの時期、赤尾を誘い、過去に肉体関係を持った客らを、かつて赤尾にしたように脅し、金を巻き上げていたのである。「過去の不倫関係を奥さんにバラす」と訴え、客が工面して100万円を振り込むと「あと100万円出しなさいよ」と続けて金を引っ張ろうとする手口だ。また別の客には妊娠と中絶をほのめかした。もちろん嘘だ。

「妊娠した子どもはあなたの子どもだったんです。術後の体調もよくない。体がボロボロになってしまった。こんな体にして、どうしてくれるの……」

 客が慌てて金を振り込んでも、やはりこう言うのだ。

「なによ、あの額は。一桁違うじゃないの。私をオモチャにして……」

 裕子はこうして、男たちから引っ張れるだけ金を引っ張った。被害者は9人で1000万円強にのぼった。

3人目の夫に1億3800万円の保険金をかけ殺害

 その一方で、裕子にはこのとき、結婚を約束している9歳年上の常連客がいた。のちに3人目の夫となり、2人目の殺人被害者となる高橋隆之さんは、デベロッパーの社員として青森県の高級旅館の総支配人をしていたが、出張で福岡を訪れた際に「フリージア」へ来店。たちまち恋に落ちた。単身赴任中の彼も雄司さんと同じく、東京に妻と、成人している子どもたちがいた。隆之さんは、やはり妻子を捨て99年6月、裕子と入籍する。その後、広島県福山市のホテルの支配人となったが、まもなく親会社が倒産し、職を失い、「フリージア」でボーイとして裕子を手伝っていた。

 だが、その翌年、自宅の浴槽で死体となって発見される。その日、隆之さんはウイスキーと睡眠薬を飲み、浴槽で朦朧としていたが、裕子がその胸を押さえつけ、全体重をかけて浴槽に沈めたのだった。しばらく浮き上がろうと手足をばたつかせて抵抗を見せていた隆之さんの口からは、30秒ほどすると「ゴボッ」と泡が出て、動かなくなった――。隆之さんには、総額1億3800万円もの保険金がかけられていた。

 隆之さんの死亡は、中洲の街に瞬く間に広まった。「あの店には幽霊が出る」とうわさが立ち、客足がさらに遠のいたが、閑古鳥の原因はもう一つのうわさにもあった。「あそこのママには気をつけたほうがいいよ、一度寝たら50万、100万と脅される」と、他店のホステスたちが囁いていたからだ。実際、肉体関係を持った客たちを脅しては大金を得ていた裕子だったが、経営状態は上向きなるどころかさらに傾き、2001年、「フリージア」は閉店した。隆之さん殺害前に、雄司さん殺害で得ていた保険金はすでに底を尽きていた。

 その後も、かつて肉体関係のあった男性らに連絡をとって脅し、金を要求し続けていた裕子。「あなたの子を中絶したから200万円払ってください」「100万円出さないと、奥さんに全てを話す」と脅しては金をゆすり取っていた。一連の“セックス恐喝”により得た金で裕子は、逮捕直前までホストクラブやパチンコで湯水のように金を使う日々を送っていた。

「彼女は常連客で、ここ1年はほぼ毎日40〜50代の男性と2人で来ていた。男は3〜4人いたはずです。いつもヴィトンのバッグを手にしていたので、店では影で“ヴィトンさん”と呼ばれていた」(福岡市内のパチンコ店の証言)

 肉体関係を持った男たちを強請って金を得る生活には必ず終わりが来る。だが、裕子はかつてのように享楽的な生活を続けていた。また、この時すでに48歳となっていた裕子だが、年齢を重ねてもなお、男の目を引く存在だった。当時の男性週刊誌は逮捕直前、ノースリーブのワンピースに自転車でパチンコ店に向かう裕子の姿をキャッチし、「48歳でこの色香」と描写している。

「美貌に恵まれた女」
「男を次々と……」
「何人の男を狂わせたのか」

 ……逮捕後、男性週刊誌に掲載された裕子の写真には、いつもこんな文章が添えられていた。裕子も自分の魅力は十分自覚していたことだろう。それゆえに自己愛と欲望は肥大し、そして破滅へと向かっていった。

 04年12月13日、福岡地裁で開かれた裕子と大和の初公判。冒頭で裕子は挙手し発言を求め「私は全て認めています。本当に申し訳なく、死刑になっても構わないと思っています」と、涙ながらに述べた。だが、以降の公判では、2人目の夫・雄司さん殺害を大和になすりつける。

「共犯者(大和)から『任せてください』と言われました。私から『殺してくれ』と依頼していません」

 裕子の逮捕時、雄司さん殺害に関係していたとして、大和も逮捕された。大和は「共謀した事実は全くない。実行行為に加わったというのは完全に事実に反します」と、無実を主張し、これを“なすり合い”と報じるムキもあったが、結果的に大和の言い分は控訴審で認められ、無罪となった。そして、自身も強請られ、また客を強請って分け前を得ていた赤尾も逮捕されており、裕子の初公判が始まる2週間前、懲役2年執行猶予3年の有罪判決が下されている。

 かたや裕子は、3人目の夫・隆之さんに対しても「私が湯の中に沈めたというのは事実に反する」と否認したが、2件の殺人ともに彼女が手を下したと認定され、一審で無期懲役が言い渡された。一審公判は31回にもおよび、拘置所生活も2年半が過ぎていた裕子の頭には白髪が目立つようになり、かつて中洲で奔放に過ごしていた頃の面影は微塵もなかった。

 裕子は控訴、上告したがいずれも棄却され、11年4月、無期懲役が確定している。フリージアの花言葉は「期待」。裕子が男たちに抱いていたカネへの期待は、いつしか強烈な要求へと変貌し、それは到底、彼女の欲には追いつかなかった。
(高橋ユキ)

参考資料
・「週刊文春」2015年8月6日号、7月30日号(小野一光「殺人犯の対話」)
・「女性セブン」2004年10月21日(「われらの時代に」)
・「週刊文春」04年8月30日号
・「フライデー」04年10月8日号
・「アサヒ芸能」05年5月5日号 04年10月21日号
・「週刊ポスト」07年8月31日号
・「アサヒ芸能」04年10月28日号
・「週刊ポスト」04年10月8日号

炭鉱に生まれた「白雪姫」、肥大した金と男への欲望【福岡スナックママ連続殺人・前編】

世間を戦慄させた殺人事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。彼女たちを人を殺めるに駆り立てたものは何か。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――女の心を呪縛した闇をあぶり出す。

 福岡県糟屋郡志免町。志免鉱業所を擁するこの町がかつて石炭の街として大いに栄えていた頃、その愛くるしさから近所の人に「白雪姫」ともてはやされた少女がいた。やがてその少女は大人となり、故郷を捨て、その美貌を武器に、数多くの男を陥れてゆく。

[第1回]福岡スナックママ連続保険金殺人

 2004年7月22日、かつて「白雪姫」と呼ばれた女が福岡県警に逮捕された。高橋裕子(当時49)は、3年前まで中洲にスナックを構えていた。肉体関係を持った複数の客に対し「家族に私との関係をばらす」などと脅し、現金数百万円をだまし取ったという詐欺容疑である。だがこれはいわゆる“別件逮捕”だった。

 裕子の周囲では不審な死を遂げた男性が複数いた。彼女の2人目の夫で工務店を経営していた野本雄司さん(当時34歳)は1994年10月、福岡県糟屋郡にあった事務所兼自宅の居間で死亡しているのが見つかったが、腹や腰に刺し傷があり、その傍らには包丁が落ちていた。ためらい傷がなかったことなど不審な点は見られたが、雄司さんの死は自殺として処理される。これにより、裕子はその後、約1億6000万円もの死亡保険金を手にした。

 3人目の夫・高橋隆之さん(当時54)は、2000年11月12日の夜中、福岡市南区にあった自宅の浴室内で死亡した。同じく当時は自殺とみられていた隆之さんにも、裕子を受取人として総額1億3800万円もの保険金がかけられていた。だが、このうち郵便局の簡易保険約2700万円は手にするも、隆之さんの持病の糖尿病を問診時に告知していなかったため、保険会社が支払いを拒否。これを不服とした裕子は保険会社を相手取り、8000万円の支払いを求め提訴していた。

 県警はこれを聞きつけ、2人の死亡に裕子が関係しているのではと追求を続けていた。取り調べにはポリグラフ(嘘発見器)まで用いられ、とうとう裕子はこの2人の死亡について、自分が関わっていたことを認めたのである。

 志免町の目抜き通りで靴屋を営む両親のもとに1955年、裕子は生まれた。両親は商売上手なうえ、地主でもあり「何不自由ない暮らしで両親は子どもに甘かった」という。母親は炭鉱の街に似合わぬ垢抜けた女性で、地元でも目立つ存在だった。幼い裕子は「白雪姫」の名にふさわしい、大きな目の可愛らしい女の子。母親が選ぶ赤や白のワンピースが白い肌によく似合っていた。

「うちの裕子は○○の服しか着ないの」

 と、高級子ども服メーカーの名を挙げる母親も、高価な服に身を包み、地元住民とは一線を引いていた。教育熱心でもある母の元で育てられ、裕子は小学校からピアノを習い、中高一貫のミッションスクールへ進学。高校生になると、月に何度か東京へピアノのレッスンに通った。

「東京までいうたら、並大抵の費用じゃなかでしょ。ピアノは裕子ちゃんが小学校の頃に家に置いてあったとですよ。当時、この辺りでピアノがあるなんていったらすごいですよ」(地元住民)

 裕子はのち、武蔵野音楽大学に進学する。当初は器楽学科のピアノ専攻だったが、音大でピアノを究めるには、小学校4年からのスタートは遅すぎた。先生のそんなアドバイスを受け、途中から声楽学科に転向した。ここまでは、田舎育ちのお嬢様の順風満帆な人生と言っていいだろう。だがここから、裕子の欲望は徐々に肥大していく。

結婚2年で包丁を突きつけ「失敗だった」

 大学2年の裕子は、早稲田大学が主催した銀座でのダンスパーティに女友達と2人で出かけ、のちに最初の夫となる男性と出会った。慶應義塾大学商学部の学生だった鈴木克己(仮名)が、清楚で一際目立っていた裕子に一目惚れしたのだ。鈴木のアプローチが身を結び、やがて2人は交際を始めることになる。大学を卒業して1年後に結婚。商工会議所の会頭が媒酌人をつとめ、300人以上が出席する結婚式を挙げ、福島県郡山市にある鈴木の実家そばで新婚生活がスタートした。

 翌年には長女が誕生するが、姑はじめ親戚らの干渉から、裕子は何かと福岡に帰省し「ズーズー弁が移る」と親戚付き合いを避けるようになる。結婚から2年後、鈴木に包丁を突きつけ「この結婚は失敗だった」と福岡に帰ってしまった。鈴木も後を追い、2年間の期限付きで裕子の実家で暮らすことにした。しばらくすると裕子の両親の薦めと、頭金を出すという打診もあり、近くに家を購入し、長男も誕生した。

 ところが、鈴木は慣れない福岡での暮らしと、期限付きで移り住んだはいいが、家を買うことになったなどの事情から生活が荒れ、競艇やポーカーゲームなどのギャンブルにのめり込む。気づいた時には借金が膨れ上がり、それが原因となって離婚に至る。85年のことだった。

 それから2年後、裕子は住宅販売メーカーに勤務していた4つ年下の雄司さんと再婚する。出会ったときは鈴木と結婚しており、家を新築する時の施主の妻と住宅会社の担当という関係だった。離婚後、裕子が所有し子どもらと住み続けていた、その家のメンテナンスに訪れた際に親しくなる。雄司さんには子どもが3人いたが、家族や妻の反対を押し切り離婚。裕子の略奪婚だった。

 一級建築士の資格を取得した雄司さんは会社を離れ、建築設計事務所を立ち上げる。離婚後はピアノ教室を開いていた裕子だったが、「社長夫人になるので、ピアノ教室はここで終わりにします」と、生徒や保護者らに宣言し、教室を畳んで、マイホームを手放す格好で、志免町の北部に建てた3階建の豪邸に引っ越した。92年には2人の間に女児が生まれ、3年後には長男も誕生したが、裕子はもともとの裕福な育ちも影響し、派手に散財するようになる。

 加えて、融資の相談で知り合った銀行の担当者と不倫にも溺れていく。だが、金銭的な安定は長くは続かなかった。バブル景気に陰りが見え始め、雄司さんの会社は傾き、たちまち1億の負債を抱えてしまう。しかし生活レベルを落とすことのできない裕子は、雄司さんを激しく責め立てた。

「あんたが死ねば借金を返せる」

 こう何度も言われた雄司さんは思いつめ、2度、車に排気ガスを引き込み自殺を図った。だが、それでも裕子はなおも責め続けた。

「どうして死なんと! 借金はどうやって返すの!」

『完全自殺マニュアル』で不倫相手と殺人計画

 そう雄司さんを責め立てながら裕子は、長男の家庭教師として雇っていた九州大学院生の大和康二(仮名)とも不倫関係となり、こう訴えていた。「頼めるのはあなたしかいない」……裕子にネックレスをプレゼントしたり「好きです! 付き合ってください」と迫ることもあった、一途で若き大学院生はこれを間に受け、雄司さんを自殺に見せかけ殺害するため『完全自殺マニュアル』(太田出版)を読み、真面目に策を練った。

 「ベンジンをウイスキーに混ぜて飲ませたらいい。普通に家にあるものだから怪しまれないはず」とベンジンを裕子に手渡し、ウイスキーと混ぜたが、臭いがきつくとても飲ませるのは難しい。「頭のいい学生さんが考えることは、現実感が乏しい。もっとリアルな方法はないの?」とベンジンを突き返す。考えた大和が裕子に伝えた方法は「腹部を刃物で深く突き刺して動脈を傷つけ、すぐに刃物を抜く」というものだった。

 事件当日、裕子はウイスキーと睡眠導入剤を雄司さんに飲ませ、寝入ったところ、手に軍手をはめ、腹と腰に包丁を突き刺したのだった。傷は背中まで貫通していた。その後おもむろに大和を呼び出し、軍手の処分などを手伝わせた。

 当時、雄司さんの母は、壱岐にある自宅の近くで、化粧品店を経営していたが、ある日、その店の留守番電話に雄司さんとおぼしき声が吹き込まれていた。

「サ・サ・レ・タ……」

 雄司さんの娘に聞かせると、こう言った。

「これはパパの声よ」

 警察は自殺と処理したが、家族はずっと、裕子による殺人と疑っていた。

――後編は、5月4日掲載