「子どもを抱いてるときはマリア様になれる」小学生殺人容疑、完全黙秘した女の“罪”【札幌・小四男児殺害事件:後編】

 1984 年 1月 10 日の午前9時半。小雪の舞う北海道・札幌市。当時9歳だった小学4年生の城下英徳くん(仮名)が、急に「外出してくる」と家族に言い残し、そのまま姿を消した。警察は城下家から約 100 メートルほどの距離にあるアパート2階に住む工藤和子(仮名)を疑ったが、成果が得られないまま、英徳くん失踪から3週間後に和子は夜逃げしてしまった。

 そして87年12月30日。新十津川町で農家を営む男性と再婚していた和子は、夫を火災で亡くした。夫の寿夫は生前に「おれ、殺される」と身内に漏らしていたという。警察は和子を調べたが、火災原因の特定には至らなかったーー。

(前編はこちら:遺骨 DNA で判明した 14 年前の男児失踪“その後”......時効寸前に捕まったホステスの半生

 ふたたび娘とともに新十津川町を去った和子は、生まれ故郷の節婦町に近い、海沿いの街に移り住んだ。その後もホステスとしてクラブを転々としていたが、高級クラブの経営者と3度目の結婚をして、2人の女の子を授かった。しかしそんな結婚生活もわずか2年ほどで破綻している。

「和子は金遣いが荒くて『いくらあっても足りないんだよ』とよくこぼしてたな。高級ブランドが好きで、あっという間に何千万円も使ってしまうんだと。これじゃ破産だ、って離婚したんだ」(3番目の夫の知人)

 3人の娘と西日本を転々とした時期もあるが、やがて同じ海沿いの街に戻り、家賃6万5,000円のアパートで4人暮らしを始めた。3番目の夫から養育費が支払われていたほか、離婚時には2000万円の慰謝料も手にしていた。これらの金を元手にやはり、サングラス姿でパチンコに通う姿を、パチンコ店の常連客たちは覚えていた。

「男みたいに足を組んで、たばこをふかしてさ。いくらスッても平然として一日中打っていた」

 1998年。DNA鑑定の技術が進歩したとして北海道警は、寿夫さん宅の納屋から発見された人骨を再度鑑定。その結果、英徳くんのものだと断定され、時効2カ月前、和子は英徳くん殺人の容疑で逮捕された。

 これで和子が真実を話せば、事件は解決だ……。英徳くんの家族や捜査員らは、そう思っていたのだろうか。だがそうはいかなかった。和子の物語はもう少し続く。

 逮捕後の和子は、雑談にも応じず完全黙秘を貫いた。札幌地裁の公判でもその姿勢にブレはなく「お答えすることはありません」と、検察側からの被告人質問を全てこの返答で乗り切った。そして2001年5月、札幌地裁は和子に無罪判決を言い渡す。

「重大な犯罪により英徳くんを死亡させた疑いが強いが、殺害の明確な動機が認められず、殺意を持って英徳くんを死亡させたと認定するには、なお合理的な疑いが残る」(佐藤学裁判長)

 証拠がないゆえの無罪だった。検察側は控訴するが、これも翌年3月に棄却され、和子の無罪は確定した。

 その2カ月後。和子は“刑事補償法に基づく補償金”として1160万円を札幌地裁に請求し、その年の冬、同地裁は請求の約80パーセントに相当する930万円を支払うことを決定した。無罪判決を受けた場合は、国に対して補償を求めることができるのだ。「無罪にもかかわらず、身柄拘束された」ことに対する損失や苦痛への補償という意味合いになる。

 しかし札幌地裁も、高裁も、和子が英徳くんの死に関わっていることは認めている。寿夫さん宅の火災にまつわる数多の不審な点、そして英徳くんの死。いったい和子は何をしたかったのか。

身代金目的の動機は十分にあった

 控訴審判決で、札幌高裁は「身代金目的」の動機があると、踏み込んだ判断をしている。

 地裁が「借金の返済に追われて深刻な状況にあったとはうかがわれない」と、身代金目的の誘拐の可能性を否定したのに対し、高裁は「当時の被告人は経済的に極めて逼迫した状況にあったと認められ、その点では、身代金目的で英徳くんを呼び出す動機となるものは、むしろ十分にあったように判断される」と指摘。さらに、こう続けた。

「被告人は、かつて東京上野のキャバレーのホステスをしていた時の客であるMから借金を繰り返し、残額495万円の支払いをしないままに札幌に来たが、その借金の経緯や返済を遅滞したことについては不誠実なところが見られ,昭和58年8月27日から同年12月1日にかけて3回ほど内容証明郵便による督促を受けていた。中でも、同年12月1日の督促の内容は、訴訟を提起する可能性を明記し郵便到着後2週間以内に支払うよう催告した厳しい内容のものであった。

 被告人は、この督促を受けて、同月14日、495万円全額を同月26日までに返済することを約束した。しかし、その約束は履行されず、昭和59年1月10日の段階において、被告人はその返済をしなければならない状況に追い込まれていた」(札幌高裁・門野博裁判長)

 厳しい取り立てをするかつての客からの、返済期限を過ぎていたころに起こったのが、英徳くん失踪事件だった。だが、幼子を抱えて、身代金目的の誘拐は実質的には困難であり、動機の真相や、その時、何があったのかは、謎のままだ。

 完全黙秘を続けた和子だったが、一度は捜査員らに真相を話そうとしていた形跡がある。

「心を開く気持ちはある。だけど、今すぐは開けない。時期が来たら開けると思う」

「夕べ死のうとした。包丁で刺したら痛いし、なかなか死ねないものだね」

「子どもを抱いているときはマリア様になれるんだね。私の人生にあまりにも大きな犠牲を払った。私やり直せるんだろうか」

「私、どうして狂っちゃったんだろうね」

 黙秘に転じるまで、こんな具合に葛藤を吐露していた。

 寿夫さんと結婚していた頃は、仏壇に水や御飯、花に果物、野菜や生魚等を供えたり、仏壇の前で手を合わせたりしている姿を、当時の家族は記憶している。特別宗教心のない和子が、手を合わせて拝み、時にはこう話しかけていた。

「また、明日。おやすみなさい」

 無罪だが無実ではない。02年に自由の身となった和子は、生きていれば65歳になる。彼女から真相が語られることはなく、時間とともに事件は世の中から忘れられてゆく。

【参考文献】
・「週刊読売」 1998.12.6号
・「週刊朝日」 1998.12.4号
・「週刊新潮」 1998.11.26号
・「週刊女性」 1999.1.25号
・「新潮45」 2001.7号
・「FOCUS」 2001.06.13号
・札幌高等裁判所 平成13年(う)第119号 殺人被告事件 判決文

遺骨DNAで判明した14年前の男児失踪“その後”……時効寸前に捕まったホステスの半生【札幌・小四男児殺害事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 北海道・新十津川町で農家を営む男性宅から火の手が上がったのは、1987年12月30日、午前3時過ぎのこと。1階に寝ていた妻と娘は逃げ出して助かったが、2階に寝ていた男性は焼死した。

 それから半年後、88年6月。男性の兄が、延焼を免れ納屋で探し物をしていると、骨らしきものが入ったスーパーのビニール袋を見つけ、「犬かなんかの骨かもしれないけど」と、警察に届けた。調べたところ、これは犬ではなく、焚き火などで火葬された人骨で、子どものほぼ一人分がそろっていた。血液型は判明したものの、遺骨からDNAを抽出することができず、誰のものかを特定するに至らなかった。

 10年後の初冬。DNA型鑑定技術の進歩により、この遺骨は1984年1月から行方不明になっていた札幌市の小学生男児のものと判明。男児を殺害した容疑で逮捕されたのは、あの家で、火事を逃れた妻だった。当時の殺人罪の公訴時効が成立する2カ月前のことだった。

札幌・小四男児殺害事件

 84年1月10日の午前9時半。小雪の舞う札幌市。内装会社経営、城下隆二(仮名)さん宅の電話が鳴り、冬休みで家にいた小学4年生の次男、英徳くん(仮名、9歳=当時)が受話器を取った。電話を終えた英徳くんは急に「外出してくる」と言い出した。母親がどこに行くのか尋ねると、

「貸したものを返してもらってくる」
「女の人からの電話」
「(近所の)XXさんの家の近く」

 などと返事をして、スノーコートを着込み、外に出て行った。

 嫌な予感がした母親は数分後、当時小学6年生の長男に後を追うように言ったが、長男が家を出ると、すでに英徳くんの姿はなかった。

 不安が募った母親は約1時間後に捜索願を出す。聞き込み捜査で、英徳くんが城丸家から約100メートルほど歩いたところにある2階建てアパートの階段を上っているのを見たという住民がいることがわかった。そのアパートの2階に住んでいたのは、札幌のクラブでホステスをしていた工藤和子(仮名)だった。

 警察が事情を聞くと、和子は英徳くんと会ったことは認めたものの「XXさんの家はどこかと聞かれただけ。隣の家だと言うと、すぐに帰った」と、失踪への関与は否定し続けた。

 和子は55年、北海道南部・新冠町にある海沿いの節婦町で、馬車引きをして暮らす物静かな両親のもとに9人きょうだいの7番目として生まれ、中学卒業まで家族と暮らした。
子どもたちは学校を卒業すると都会に働きに出る時代。和子も同級生らと同じように、集団就職で家を出た。紡績工場や温泉旅館などに勤めたのち、10代後半からホステスとして働き始め、熱海や神戸、横浜、東京などのスナックを10年ほど転々とする。

 そして82年、東京のスナック経営者と結婚。長女を出産したが、結婚生活はすぐに破綻し、事件の前年9月、城丸家近くのアパートに、1歳になる娘と移り住み、再び夜の街へ。すすきのの高級クラブにホステスとして復帰した。

 英徳くんの両親は、近所のアパートに住む和子と面識はなかった。しかし、城丸家は近所では目立つ資産家であり、父親は代議士秘書を務める地元の名士だったという。警察は、和子が借金を抱えていたことから、身代金目的の誘拐ではないかとも疑ったが、捜査の初動が早かったためか、城下家に身代金の要求はなかった。

 そして、警察による任意の取り調べも成果が得られないまま、英徳くん失踪から3週間後、和子は娘とともにアパートから夜逃げしてしまう。

 近隣住民は、和子が重そうな段ボールを運び出す様子を目撃していたというが、それ以上の手がかりは得られないまま、事件は風化していった。彼女へ疑惑の目が再び向けられたのは、それから3年半がたってからのことだ。

 しかもそれは、英徳くんの失踪に関してではなく、冒頭の新十津川町の火災についての“疑惑”だった。彼女は、娘とともに火災を逃れたあの「妻」だったのだ。

「おれ、殺される」夫が残していた言葉 

 和子はいつも借金を抱えていた。幼い娘を連れ札幌のアパートを夜逃げしたのちも、夜の街で恋仲になった客に金を借りては、別の返済に充てると言う生活を続けていた。新十津川町の裕福な農家、山田寿夫さん(仮名)とも店で出会ったという。

「見合い話を進めようとしていたら、和子のほうから家に押しかけてきた。言うには『借金があって結婚できない。300万円あれば整理がつくから、用立てて欲しい』。寿夫は『炊事、洗濯さえしてくれたら農作業なんかしなくていい』と喜んでカネを出した」(寿夫さんの親戚)

 こうして二人は事件から2年後の86年に結婚した。近所の住民が覚えているのは、和子の農作業姿ではなく「パチンコに出かける姿」だった。子どもを幼稚園に送り出した後、毎日のようにタクシーを走らせ、隣の市のパチンコ店に通った。170センチ近くある長身に目鼻立ちのはっきりした顔立ち。その容姿で、香水の匂いを漂わせながら颯爽と農村を歩く和子は、近所では目立つ存在だった。

 結婚生活は長くは続かなかった。結婚翌年の年の瀬に起こった火災によって、寿夫さんが亡くなったからだ。和子に向けられた疑惑は、夫の死についてだった。

 不審な点はいくつもあった。未明の火災にもかかわらず、和子と娘らはコートやブーツなど外出着で身なりを整えて避難していたこと。通帳や実印などを持ち出していたこと。燃えなかった納屋に、和子の荷物がほとんど移されていたこと。そして寿夫さんには総額1億7000万円もの生命保険がかけられていたことなどだ。

「おれ、殺される」

 寿夫さんは死ぬ前、姉夫婦にこんなことを漏らしていた。

「金遣いが荒い嫁だと聞いていたから、それで食い殺される意味かと思って、詳しく聞かなかった。そこにあの火事だ。『ああ、このことだったか』と全て納得いった」(寿夫さんの兄)

 警察は和子を調べたが、火災の原因特定には至らなかった。そして和子もまた、寿夫さんの死亡保険金を請求しなかったため、支払われることもなかった。

――後編は5月6日更新

遺骨DNAで判明した14年前の男児失踪“その後”……時効寸前に捕まったホステスの半生【札幌・小四男児殺害事件:前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 北海道・新十津川町で農家を営む男性宅から火の手が上がったのは、1987年12月30日、午前3時過ぎのこと。1階に寝ていた妻と娘は逃げ出して助かったが、2階に寝ていた男性は焼死した。

 それから半年後、88年6月。男性の兄が、延焼を免れ納屋で探し物をしていると、骨らしきものが入ったスーパーのビニール袋を見つけ、「犬かなんかの骨かもしれないけど」と、警察に届けた。調べたところ、これは犬ではなく、焚き火などで火葬された人骨で、子どものほぼ一人分がそろっていた。血液型は判明したものの、遺骨からDNAを抽出することができず、誰のものかを特定するに至らなかった。

 10年後の初冬。DNA型鑑定技術の進歩により、この遺骨は1984年1月から行方不明になっていた札幌市の小学生男児のものと判明。男児を殺害した容疑で逮捕されたのは、あの家で、火事を逃れた妻だった。当時の殺人罪の公訴時効が成立する2カ月前のことだった。

札幌・小四男児殺害事件

 84年1月10日の午前9時半。小雪の舞う札幌市。内装会社経営、城下隆二(仮名)さん宅の電話が鳴り、冬休みで家にいた小学4年生の次男、英徳くん(仮名、9歳=当時)が受話器を取った。電話を終えた英徳くんは急に「外出してくる」と言い出した。母親がどこに行くのか尋ねると、

「貸したものを返してもらってくる」
「女の人からの電話」
「(近所の)XXさんの家の近く」

 などと返事をして、スノーコートを着込み、外に出て行った。

 嫌な予感がした母親は数分後、当時小学6年生の長男に後を追うように言ったが、長男が家を出ると、すでに英徳くんの姿はなかった。

 不安が募った母親は約1時間後に捜索願を出す。聞き込み捜査で、英徳くんが城丸家から約100メートルほど歩いたところにある2階建てアパートの階段を上っているのを見たという住民がいることがわかった。そのアパートの2階に住んでいたのは、札幌のクラブでホステスをしていた工藤和子(仮名)だった。

 警察が事情を聞くと、和子は英徳くんと会ったことは認めたものの「XXさんの家はどこかと聞かれただけ。隣の家だと言うと、すぐに帰った」と、失踪への関与は否定し続けた。

 和子は55年、北海道南部・新冠町にある海沿いの節婦町で、馬車引きをして暮らす物静かな両親のもとに9人きょうだいの7番目として生まれ、中学卒業まで家族と暮らした。
子どもたちは学校を卒業すると都会に働きに出る時代。和子も同級生らと同じように、集団就職で家を出た。紡績工場や温泉旅館などに勤めたのち、10代後半からホステスとして働き始め、熱海や神戸、横浜、東京などのスナックを10年ほど転々とする。

 そして82年、東京のスナック経営者と結婚。長女を出産したが、結婚生活はすぐに破綻し、事件の前年9月、城丸家近くのアパートに、1歳になる娘と移り住み、再び夜の街へ。すすきのの高級クラブにホステスとして復帰した。

 英徳くんの両親は、近所のアパートに住む和子と面識はなかった。しかし、城丸家は近所では目立つ資産家であり、父親は代議士秘書を務める地元の名士だったという。警察は、和子が借金を抱えていたことから、身代金目的の誘拐ではないかとも疑ったが、捜査の初動が早かったためか、城下家に身代金の要求はなかった。

 そして、警察による任意の取り調べも成果が得られないまま、英徳くん失踪から3週間後、和子は娘とともにアパートから夜逃げしてしまう。

 近隣住民は、和子が重そうな段ボールを運び出す様子を目撃していたというが、それ以上の手がかりは得られないまま、事件は風化していった。彼女へ疑惑の目が再び向けられたのは、それから3年半がたってからのことだ。

 しかもそれは、英徳くんの失踪に関してではなく、冒頭の新十津川町の火災についての“疑惑”だった。彼女は、娘とともに火災を逃れたあの「妻」だったのだ。

「おれ、殺される」夫が残していた言葉 

 和子はいつも借金を抱えていた。幼い娘を連れ札幌のアパートを夜逃げしたのちも、夜の街で恋仲になった客に金を借りては、別の返済に充てると言う生活を続けていた。新十津川町の裕福な農家、山田寿夫さん(仮名)とも店で出会ったという。

「見合い話を進めようとしていたら、和子のほうから家に押しかけてきた。言うには『借金があって結婚できない。300万円あれば整理がつくから、用立てて欲しい』。寿夫は『炊事、洗濯さえしてくれたら農作業なんかしなくていい』と喜んでカネを出した」(寿夫さんの親戚)

 こうして二人は事件から2年後の86年に結婚した。近所の住民が覚えているのは、和子の農作業姿ではなく「パチンコに出かける姿」だった。子どもを幼稚園に送り出した後、毎日のようにタクシーを走らせ、隣の市のパチンコ店に通った。170センチ近くある長身に目鼻立ちのはっきりした顔立ち。その容姿で、香水の匂いを漂わせながら颯爽と農村を歩く和子は、近所では目立つ存在だった。

 結婚生活は長くは続かなかった。結婚翌年の年の瀬に起こった火災によって、寿夫さんが亡くなったからだ。和子に向けられた疑惑は、夫の死についてだった。

 不審な点はいくつもあった。未明の火災にもかかわらず、和子と娘らはコートやブーツなど外出着で身なりを整えて避難していたこと。通帳や実印などを持ち出していたこと。燃えなかった納屋に、和子の荷物がほとんど移されていたこと。そして寿夫さんには総額1億7000万円もの生命保険がかけられていたことなどだ。

「おれ、殺される」

 寿夫さんは死ぬ前、姉夫婦にこんなことを漏らしていた。

「金遣いが荒い嫁だと聞いていたから、それで食い殺される意味かと思って、詳しく聞かなかった。そこにあの火事だ。『ああ、このことだったか』と全て納得いった」(寿夫さんの兄)

 警察は和子を調べたが、火災の原因特定には至らなかった。そして和子もまた、寿夫さんの死亡保険金を請求しなかったため、支払われることもなかった。

――後編は5月6日更新

「好きな男に会えずイライラした」さいたま連続放火魔、法廷で呻き続けた中年女の姿【ドン・キホーテ放火事件・後編】

埼玉県さいたま市緑区。店員3人が死亡、8人が重軽傷を負うとい大被害をもたらした「ドン・キホーテ浦和花月店」の全焼から2日後、「ドン・キホーテ大宮大和田店」で火災が起こった。犯人として浮上したのは、当時47歳の渡辺ノリ子。「浦和花月店」と「大宮大和田店」の火災だけでなく、イトーヨーカドーやサティの女子トイレに火を放ち続けていたのだ。職場では「おとなしくて目立たない。真面目な人」という評判だったが、「交際相手とのトラブルが絶えなかった」と知人は語る。

(前編はこちら:万引き常習犯からさいたま連続放火魔へ――真面目な中年女のウラ側【ドン・キホーテ放火事件・前編】)

「好きな男性に会えずイライラした」二転三転する供述

 恋愛が、万引きと放火にどう関連したのか――。動機はいったい何だったのか――。ところが、ノリ子は取り調べにおいても、公判においても、供述を二転三転させ、日本中を困惑させた。当時は裁判員制度施行前のため、捜査が進んだものから追起訴を重ね、審理は細切れに行われていた。

 2005年3月、最初に起訴されたのは「ドン・キホーテ大宮大和田店」で毛布を燃やし、腕時計などを万引きした事件についてだった。さいたま地裁での初公判で、ノリ子は「ものを盗むつもりはなかった」と万引きをするつもりはなかったと否定し、放火未遂罪についても「火はつけていません」と否認。

 それでも県警が状況証拠を積み重ねたことで、翌月、ノリ子は「ドン・キホーテ浦和花月店」を全焼させた放火の罪で逮捕される。このときノリ子は「もう裁判でうそは言いたくない」と7件すべての放火と放火未遂罪について関与を認めたのである。

「好きな男性に会えず、イライラして火をつけた。人が死ぬとは思わなかった」

 一連の放火事件についてノリ子はこう供述したという。連続放火の動機としては弱いものの、ようやく犯行を認めたことで捜査員らがホッとしたが、それはつかの間だった。ノリ子は再び、煙に巻こうとする。

 全てを認めたその翌日、弁護人と接見して「どこにも火をつけていない」と話し、あっという間に否認に戻ったのである。結局、全焼して3名が命を落とした「ドン・キホーテ浦和花月店」の放火事件についても「殺意があったと認めるに足りる証拠がない」と、殺人罪での起訴はなされなかった。

 動機どころか犯行そのものも認めなくなったノリ子。しかし、犯行当時に同居していた男性が証人出廷し、前後のノリ子の行動を明かした。ドン・キホーテの放火事件当日に彼女は「(好きな男性の)家に火をつけてくる」と言い残し、外出。翌日の朝方、家に戻ってきたという。テレビで放火の様子が流れているのを見ながら、男性は聞いた。

「お前がやったのか」

 このとき「やってない」と答えたというが、逮捕後に川越署の留置場で同じ房にいた女性は、公判に出廷しこう証言する。

「渡辺さんが3月上旬『事件のことで悩んでいる。まさか死ぬとは思わなかった』と話しているのを聞いた」
「『私は無期かコレだから』と言いながら、左手の親指で首を切る仕草をした。死刑のことだとわかり、3人が亡くなった浦和花月店の火災のことを言っているのだと思った」

 ノリ子は法廷でその女性の名をブツブツと小声でつぶやきながら、その後ろ姿をじっと見つめていた。

 一度は認めながらも否認に転じ、そのまま一連の放火を認めず、被告人質問でも「わかりません」「やってません」「覚えていない」を繰り返したノリ子には、求刑通りの無期懲役の判決が言い渡された。

 判決を不服として即日控訴したが、いざ控訴審が始まっても、ノリ子の態度はやはり変わらなかった。それどころか、控訴審で弁護人はこう訴え始めた。

「被告人は自分がなぜ、裁判を受けているのかすら、わかっていないのです」

 いわく、ノリ子が前頭側頭型認知症に罹患している疑いが精神鑑定などで浮上したのだという。だが、「交際相手やその家族に対してだけ嫌がらせをしていた」ことなどから、「認知症で判断能力が落ちていた可能性は否定できないが、責任能力がある70~80歳の高齢者と同程度の判断能力はあった」と認定し、08年5月に控訴を棄却している。

 この判決言い渡しの際、ノリ子は呻くようにブツブツとささやき始めた。

「……やってません」
「……お願いします。……やってません」

 読経のような呻きは、判決言い渡しが終わるまで続き、終わってもブツブツと続いた。

「うるせえよ!」

 傍聴席から怒号が上がると一瞬、呻き声も途切れたが、しばらくするとまた、ブツブツと始まるのだった。

 真っ赤なシャツにピンクのジャージの上着、紺色のジャージのズボン。白髪が混じったつやのない髪を左側頭部で結わえ、鼻先にメガネをかけたノリ子は、法廷で呻き続けた 。その後、ノリ子は上告したが、08年11月にこれも棄却され、無期懲役が確定した。

 近年では、万引きを繰り返す「クレプトマニア」という病の存在も知られ、クレプトマニアに前頭側頭型認知症の患者がいることも徐々にわかってきた。長年勤めた病院を退職してから、交際相手宅への奇妙な行動や万引きが目立ち始めたノリ子。この時点で周囲が通院を勧めていれば、事件は起こらずに済んだだろうか。

 当時取材した記者によれば、「そもそもの放火の動機というのが、交際していた男性とトラブルを起こしてイライラし、そのストレスから万引きをするようになった」というが、ノリ子は語らなかった。 クレプトマニアだったのか、男性関係のストレスだったのか――。

 全焼した「ドン・キホーテ浦和花月店」は事件翌年に解体された。その跡地にはドラッグストアが建ち、事件の痕跡は残っていない。火災で命を落とした店員3名の遺族らは、さいたま市消防局が適切な対応を怠ったとして、市に損害賠償を求める訴訟を提起していたが、11年に賠償義務が発生しない形で和解が成立している。

参考文献
・「週刊新潮」2005.3.3号、2005.5.5・12号
・「週刊ポスト」2008.7.11号
・「週刊女性」2008.3.11号

「好きな男に会えずイライラした」さいたま連続放火魔、法廷で呻き続けた中年女の姿【ドン・キホーテ放火事件・後編】

埼玉県さいたま市緑区。店員3人が死亡、8人が重軽傷を負うとい大被害をもたらした「ドン・キホーテ浦和花月店」の全焼から2日後、「ドン・キホーテ大宮大和田店」で火災が起こった。犯人として浮上したのは、当時47歳の渡辺ノリ子。「浦和花月店」と「大宮大和田店」の火災だけでなく、イトーヨーカドーやサティの女子トイレに火を放ち続けていたのだ。職場では「おとなしくて目立たない。真面目な人」という評判だったが、「交際相手とのトラブルが絶えなかった」と知人は語る。

(前編はこちら:万引き常習犯からさいたま連続放火魔へ――真面目な中年女のウラ側【ドン・キホーテ放火事件・前編】)

「好きな男性に会えずイライラした」二転三転する供述

 恋愛が、万引きと放火にどう関連したのか――。動機はいったい何だったのか――。ところが、ノリ子は取り調べにおいても、公判においても、供述を二転三転させ、日本中を困惑させた。当時は裁判員制度施行前のため、捜査が進んだものから追起訴を重ね、審理は細切れに行われていた。

 2005年3月、最初に起訴されたのは「ドン・キホーテ大宮大和田店」で毛布を燃やし、腕時計などを万引きした事件についてだった。さいたま地裁での初公判で、ノリ子は「ものを盗むつもりはなかった」と万引きをするつもりはなかったと否定し、放火未遂罪についても「火はつけていません」と否認。

 それでも県警が状況証拠を積み重ねたことで、翌月、ノリ子は「ドン・キホーテ浦和花月店」を全焼させた放火の罪で逮捕される。このときノリ子は「もう裁判でうそは言いたくない」と7件すべての放火と放火未遂罪について関与を認めたのである。

「好きな男性に会えず、イライラして火をつけた。人が死ぬとは思わなかった」

 一連の放火事件についてノリ子はこう供述したという。連続放火の動機としては弱いものの、ようやく犯行を認めたことで捜査員らがホッとしたが、それはつかの間だった。ノリ子は再び、煙に巻こうとする。

 全てを認めたその翌日、弁護人と接見して「どこにも火をつけていない」と話し、あっという間に否認に戻ったのである。結局、全焼して3名が命を落とした「ドン・キホーテ浦和花月店」の放火事件についても「殺意があったと認めるに足りる証拠がない」と、殺人罪での起訴はなされなかった。

 動機どころか犯行そのものも認めなくなったノリ子。しかし、犯行当時に同居していた男性が証人出廷し、前後のノリ子の行動を明かした。ドン・キホーテの放火事件当日に彼女は「(好きな男性の)家に火をつけてくる」と言い残し、外出。翌日の朝方、家に戻ってきたという。テレビで放火の様子が流れているのを見ながら、男性は聞いた。

「お前がやったのか」

 このとき「やってない」と答えたというが、逮捕後に川越署の留置場で同じ房にいた女性は、公判に出廷しこう証言する。

「渡辺さんが3月上旬『事件のことで悩んでいる。まさか死ぬとは思わなかった』と話しているのを聞いた」
「『私は無期かコレだから』と言いながら、左手の親指で首を切る仕草をした。死刑のことだとわかり、3人が亡くなった浦和花月店の火災のことを言っているのだと思った」

 ノリ子は法廷でその女性の名をブツブツと小声でつぶやきながら、その後ろ姿をじっと見つめていた。

 一度は認めながらも否認に転じ、そのまま一連の放火を認めず、被告人質問でも「わかりません」「やってません」「覚えていない」を繰り返したノリ子には、求刑通りの無期懲役の判決が言い渡された。

 判決を不服として即日控訴したが、いざ控訴審が始まっても、ノリ子の態度はやはり変わらなかった。それどころか、控訴審で弁護人はこう訴え始めた。

「被告人は自分がなぜ、裁判を受けているのかすら、わかっていないのです」

 いわく、ノリ子が前頭側頭型認知症に罹患している疑いが精神鑑定などで浮上したのだという。だが、「交際相手やその家族に対してだけ嫌がらせをしていた」ことなどから、「認知症で判断能力が落ちていた可能性は否定できないが、責任能力がある70~80歳の高齢者と同程度の判断能力はあった」と認定し、08年5月に控訴を棄却している。

 この判決言い渡しの際、ノリ子は呻くようにブツブツとささやき始めた。

「……やってません」
「……お願いします。……やってません」

 読経のような呻きは、判決言い渡しが終わるまで続き、終わってもブツブツと続いた。

「うるせえよ!」

 傍聴席から怒号が上がると一瞬、呻き声も途切れたが、しばらくするとまた、ブツブツと始まるのだった。

 真っ赤なシャツにピンクのジャージの上着、紺色のジャージのズボン。白髪が混じったつやのない髪を左側頭部で結わえ、鼻先にメガネをかけたノリ子は、法廷で呻き続けた 。その後、ノリ子は上告したが、08年11月にこれも棄却され、無期懲役が確定した。

 近年では、万引きを繰り返す「クレプトマニア」という病の存在も知られ、クレプトマニアに前頭側頭型認知症の患者がいることも徐々にわかってきた。長年勤めた病院を退職してから、交際相手宅への奇妙な行動や万引きが目立ち始めたノリ子。この時点で周囲が通院を勧めていれば、事件は起こらずに済んだだろうか。

 当時取材した記者によれば、「そもそもの放火の動機というのが、交際していた男性とトラブルを起こしてイライラし、そのストレスから万引きをするようになった」というが、ノリ子は語らなかった。 クレプトマニアだったのか、男性関係のストレスだったのか――。

 全焼した「ドン・キホーテ浦和花月店」は事件翌年に解体された。その跡地にはドラッグストアが建ち、事件の痕跡は残っていない。火災で命を落とした店員3名の遺族らは、さいたま市消防局が適切な対応を怠ったとして、市に損害賠償を求める訴訟を提起していたが、11年に賠償義務が発生しない形で和解が成立している。

参考文献
・「週刊新潮」2005.3.3号、2005.5.5・12号
・「週刊ポスト」2008.7.11号
・「週刊女性」2008.3.11号

万引き常習犯からさいたま連続放火魔へ――真面目な中年女のウラ側【ドン・キホーテ放火事件・前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

第9回:ドン・キホーテ放火事件

 埼玉県さいたま市緑区。国道463号線と県道1号線がぶつかる花月交差点付近にあった「ドン・キホーテ浦和花月店」から火の手が上がったのは2004年12月13日、夜8時過ぎのことだった。カラッとした冬晴れが続いていたなかでの火災は、商品が天井近くまで積み上げられているドン・キホーテ特有の“圧縮陳列”という事情も重なり、みるみる拡大。約2,300平方メートルの店舗が全焼した。これにより同店に勤務していた店員3人が死亡、8人が重軽傷を負うという大被害をもたらした。

 火災は一度では終わらなかった。同日の夜11時ごろ、そこから約10キロほど離れた場所に位置する「ドン・キホーテ大宮大和田店」で出火。幸い、すぐさま消火活動が行われ、衣類など218点が燃えるにとどまった。ところが2日後、午後3時ごろに、またもや「大宮大和田店」で出火。毛布売り場から火の手が上がり、ビニール袋入りの毛布7枚などが燃えた。3日間に連続して起こった3件の火災に、同社に恨みを持つ者による怨恨犯説もささやかれた。

 全焼した「浦和花月店」からは防犯カメラの回収もできない。ところが、「大宮大和田店」の二度目の火災発生後、防犯カメラに“龍の刺繍の入った帽子をかぶった女”が映っていたことで事態は急展開する。二度目の火災があった際、騒ぎに乗じてか、買い物かごをそのまま店外に持ち去った女がいた。同日、買い物かご窃盗容疑で逮捕された女の帽子には、龍の刺繍があった。

52万円分のドン・キホーテ万引き犯

 その帽子をかぶった女は、当時47歳の渡辺ノリ子。前月18日に「ドン・キホーテ大宮大和田店」でバッグ類を盗んだとして窃盗容疑で現行犯逮捕されていたが、犯行当時の精神状態を調べるために行われた簡易鑑定で「心神耗弱状態で責任能力なし」とされ、処分保留で釈放されていた。このとき盗んだものは、ボストンバッグと男女用の外国製高級腕時計一組、ジャンパー、買い物かごの計52万円相当。釈放されて5日後に「ドン・キホーテ浦和花月店」を全焼させたのだった。

 その2日後に「大宮大和田店」で起こった火災の際には、火元にタバコの吸殻4本が落ちていた。これを鑑定したところ、吸殻に残されていた唾液のDNAが、ノリ子のものと一致。防犯カメラに残された映像には、ノリ子の万引きの様子も映っていた。

 「大宮大和田店」の出火場所、寝具売り場から10メートルほど離れた時計売り場。ノリ子が店員に何かを話しかけると、店員はショーケースから腕時計を出してきた。

「ちょっと相談してくるから待ってて」

 こう告げて、いったん腕時計の前から離れるノリ子。すると別の防犯カメラに、腕時計売り場の角を曲がって寝具売り場にやってくるノリ子が映り込む。その直後、煙が上がり、ノリ子は寝具売り場を立ち去った。再び、腕時計売り場のカメラに映り込むノリ子。煙に気づいた店員がショーケースを離れた直後、素早く腕時計を持ち去る。出入り口付近のカメラには、その腕時計などが入った買い物かごを持ったまま店外に立ち去る様子も捉えられていた。

 この窃盗容疑で勾留されたノリ子に対しては、取り調べが進められ、最終的に、1件の非現住建造物等放火、6件の非現住建造物等放火未遂で起訴された。ノリ子は、「浦和花月店」全焼と「大宮大和田店」2件の火災だけでなく、別のボヤ事件も起こしていたのだ。

 その日、「ドン・キホーテ浦和花月店」への放火に及ぶ直前、スーパー「北浦和サティ」に赴いたノリ子は18時40分ごろ、1階女子トイレでジャンパーに火をつけ、仕切板などを燃やした。さらに同店で19時10分ごろ、2階トイレで油類を染み込ませた紙に火をつけ、また仕切板などを燃やす。

 そのあと、2軒のドン・キホーテに火を放ったのち、2日後に逮捕の契機となる「ドン・キホーテ大宮大和田店」での放火事件を起こす。さらにその足で、17時45分ごろ「イトーヨーカドー大宮店」の1階女子トイレでトイレットペーパーを燃やした後、2日前にボヤを起こした「北浦和サティ」に舞い戻り、1階女子トイレでガソリンを染み込ませたティッシュに火をつけ、仕切板などを燃やした。

 数日の間に、ドン・キホーテとイトーヨーカドー、サティに火を放ち続けた。連続放火に終止符が打たれたのは、ノリ子が逮捕されたためだ。

 万引きとセットになった放火を繰り返したノリ子は、福島県で生まれ、埼玉県の中学校を卒業後、1976年から、ドン・キホーテ放火事件を起こす2004年までの28年間をさいたま市内の整形外科医院で看護助手として勤務していた。元同僚は、ノリ子をこのように語る。

「おとなしくて目立たない人。トラブルを起こしたという話もなく、勤務態度は真面目だった」

 ところが、同医院を9月1日に退職すると、生活が乱れ始めたという。定職につかず、交際していた男性の実家や元夫の自宅などに身を寄せて生活するようになった。退職直前には、三度目の離婚をしている。

 奇怪な行動も目立ち始めた。退職直後には、交際していた男性宅の玄関ドアにマヨネーズをかけた器物損壊容疑で逮捕されていた。

 「交際相手とのトラブルが絶えなかった。執拗に電話をしたり包丁を持ち出すこともあった」と、知人は語る。同僚には“おとなしくて目立たない人”と評されていたノリ子だが、恋愛においては、こうした面があった。ところがそれも、始まりは98年当時に結婚していた元夫が抱えた多額の借金が引き金だという見方もある。この頃から夫婦仲が険悪になり、ノリ子の性格も「ひどく怒りっぽくなった」といわれる。

――後編は2月9日公開

万引き常習犯からさいたま連続放火魔へ――真面目な中年女のウラ側【ドン・キホーテ放火事件・前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

第9回:ドン・キホーテ放火事件

 埼玉県さいたま市緑区。国道463号線と県道1号線がぶつかる花月交差点付近にあった「ドン・キホーテ浦和花月店」から火の手が上がったのは2004年12月13日、夜8時過ぎのことだった。カラッとした冬晴れが続いていたなかでの火災は、商品が天井近くまで積み上げられているドン・キホーテ特有の“圧縮陳列”という事情も重なり、みるみる拡大。約2,300平方メートルの店舗が全焼した。これにより同店に勤務していた店員3人が死亡、8人が重軽傷を負うという大被害をもたらした。

 火災は一度では終わらなかった。同日の夜11時ごろ、そこから約10キロほど離れた場所に位置する「ドン・キホーテ大宮大和田店」で出火。幸い、すぐさま消火活動が行われ、衣類など218点が燃えるにとどまった。ところが2日後、午後3時ごろに、またもや「大宮大和田店」で出火。毛布売り場から火の手が上がり、ビニール袋入りの毛布7枚などが燃えた。3日間に連続して起こった3件の火災に、同社に恨みを持つ者による怨恨犯説もささやかれた。

 全焼した「浦和花月店」からは防犯カメラの回収もできない。ところが、「大宮大和田店」の二度目の火災発生後、防犯カメラに“龍の刺繍の入った帽子をかぶった女”が映っていたことで事態は急展開する。二度目の火災があった際、騒ぎに乗じてか、買い物かごをそのまま店外に持ち去った女がいた。同日、買い物かご窃盗容疑で逮捕された女の帽子には、龍の刺繍があった。

52万円分のドン・キホーテ万引き犯

 その帽子をかぶった女は、当時47歳の渡辺ノリ子。前月18日に「ドン・キホーテ大宮大和田店」でバッグ類を盗んだとして窃盗容疑で現行犯逮捕されていたが、犯行当時の精神状態を調べるために行われた簡易鑑定で「心神耗弱状態で責任能力なし」とされ、処分保留で釈放されていた。このとき盗んだものは、ボストンバッグと男女用の外国製高級腕時計一組、ジャンパー、買い物かごの計52万円相当。釈放されて5日後に「ドン・キホーテ浦和花月店」を全焼させたのだった。

 その2日後に「大宮大和田店」で起こった火災の際には、火元にタバコの吸殻4本が落ちていた。これを鑑定したところ、吸殻に残されていた唾液のDNAが、ノリ子のものと一致。防犯カメラに残された映像には、ノリ子の万引きの様子も映っていた。

 「大宮大和田店」の出火場所、寝具売り場から10メートルほど離れた時計売り場。ノリ子が店員に何かを話しかけると、店員はショーケースから腕時計を出してきた。

「ちょっと相談してくるから待ってて」

 こう告げて、いったん腕時計の前から離れるノリ子。すると別の防犯カメラに、腕時計売り場の角を曲がって寝具売り場にやってくるノリ子が映り込む。その直後、煙が上がり、ノリ子は寝具売り場を立ち去った。再び、腕時計売り場のカメラに映り込むノリ子。煙に気づいた店員がショーケースを離れた直後、素早く腕時計を持ち去る。出入り口付近のカメラには、その腕時計などが入った買い物かごを持ったまま店外に立ち去る様子も捉えられていた。

 この窃盗容疑で勾留されたノリ子に対しては、取り調べが進められ、最終的に、1件の非現住建造物等放火、6件の非現住建造物等放火未遂で起訴された。ノリ子は、「浦和花月店」全焼と「大宮大和田店」2件の火災だけでなく、別のボヤ事件も起こしていたのだ。

 その日、「ドン・キホーテ浦和花月店」への放火に及ぶ直前、スーパー「北浦和サティ」に赴いたノリ子は18時40分ごろ、1階女子トイレでジャンパーに火をつけ、仕切板などを燃やした。さらに同店で19時10分ごろ、2階トイレで油類を染み込ませた紙に火をつけ、また仕切板などを燃やす。

 そのあと、2軒のドン・キホーテに火を放ったのち、2日後に逮捕の契機となる「ドン・キホーテ大宮大和田店」での放火事件を起こす。さらにその足で、17時45分ごろ「イトーヨーカドー大宮店」の1階女子トイレでトイレットペーパーを燃やした後、2日前にボヤを起こした「北浦和サティ」に舞い戻り、1階女子トイレでガソリンを染み込ませたティッシュに火をつけ、仕切板などを燃やした。

 数日の間に、ドン・キホーテとイトーヨーカドー、サティに火を放ち続けた。連続放火に終止符が打たれたのは、ノリ子が逮捕されたためだ。

 万引きとセットになった放火を繰り返したノリ子は、福島県で生まれ、埼玉県の中学校を卒業後、1976年から、ドン・キホーテ放火事件を起こす2004年までの28年間をさいたま市内の整形外科医院で看護助手として勤務していた。元同僚は、ノリ子をこのように語る。

「おとなしくて目立たない人。トラブルを起こしたという話もなく、勤務態度は真面目だった」

 ところが、同医院を9月1日に退職すると、生活が乱れ始めたという。定職につかず、交際していた男性の実家や元夫の自宅などに身を寄せて生活するようになった。退職直前には、三度目の離婚をしている。

 奇怪な行動も目立ち始めた。退職直後には、交際していた男性宅の玄関ドアにマヨネーズをかけた器物損壊容疑で逮捕されていた。

 「交際相手とのトラブルが絶えなかった。執拗に電話をしたり包丁を持ち出すこともあった」と、知人は語る。同僚には“おとなしくて目立たない人”と評されていたノリ子だが、恋愛においては、こうした面があった。ところがそれも、始まりは98年当時に結婚していた元夫が抱えた多額の借金が引き金だという見方もある。この頃から夫婦仲が険悪になり、ノリ子の性格も「ひどく怒りっぽくなった」といわれる。

――後編は2月9日公開

SMセックスとDVの10年間ーー恋人の“暴力”を受け入れ続けた女の理由【元Vシネ女優・内縁夫刺殺事件】後編

 2008年1月26日の早朝。「夫が背中をけがしている」との119番通報を受け、マンションに到着した救急隊員が部屋で見たのは、下半身は裸で血だらけでベッドに倒れている藤田秀則さん(仮名・当時53)の姿だった。女(当時31 )は「午前5時ごろに背中を刺されて帰ってきた」と話し、確かに、商店街の途中にある中華料理店から現場マンションまで、約200メートルに渡り、血痕が続いている 。しかしマンションエントランスの防犯カメラに映る藤田さんはけがをしていない。また、「夫」と話すが、女との関係は夫婦でもない。さらに、女の顔と体には殴られたような痕があった。

 通報した女・木崎恵理子(仮名)は02年に芸能界を引退した元タレントだった。身長172センチ、バスト90センチのEカップという抜群のスタイルと美貌を武器に、グラビアアイドルとして活動し、9本のVシネに出演、テレビ出演も行うなど、精力的に芸能活動を行なっていたのだった。

(前編:22歳年上の“スポンサー”との奇妙な「性生活」――元芸能人が告白した10年の歳月

寝ていたはずが床でセックスの最中だった

 前日の夜、2人は自由が丘で待ち合わせをして食材などを買い込み、21時過ぎに帰宅。日付が変わって0時13分頃、再度2人で外出し、酒などを買い込み0時43分に帰宅した。さらに5時45分、一旦外出していた藤田さんが帰宅後、恵理子は果物ナイフで被害者を背中から突き刺したという。

 傷の深さは6センチ。普通の人であれば血が止まる可能性のある傷だったが、藤田さんは末期の肝硬変で血小板が減少しており、血が止まらなかった。自宅マンションまでの長い血痕は、刺される前、帰宅の途につくところ、吐血したために残ったものだった。

 恵理子が自ら、事件までに覚えていることを赤裸々に語る。

「その前日はご飯を作って一緒に食べて、でも彼がまだおなかすいてるって言っていたのと、野菜スープが飲みたいということだったので、2人でまたお買い物に行きました。コンビニに寄って2人で帰って来たら12時半すぎになっていたので、寝る準備をして、パジャマを着てベッドへ入りました。彼はテレビを観ていたんですが、『もう寝ちゃうの』と言って私の胸や体を触ってきて、イチャイチャしてきました。でも私は風邪気味だったので『後にして』と断りました。彼はすねていましたが、ケンカにはならず、そのまま寝ました。寝たと思っていました」

弁護人「次の記憶は?」

「彼にセックスで起こされました。なぜか床の上で、セックスの最中でした。私が下で、彼が上……。寝ていたと思っていたので、そこまでの記憶はありません。彼は焦げ茶のボーダーのセーター、下半身は何もつけてなく、私も、上は黒いレースのパジャマだけでした。私が気付いてから、あぁ彼はやっぱりしたかったんだな~と、そんなふうに考える時間もあって、少しの間抱き合っていました。10分~20分くらいです。

 しばらくして『衣里、背中見て』と、上にいた彼が横に来て、セーターをまくり上げました。私の記憶では右なんですが、横にシュッと傷がありました。血は出ていなくて、パカッと開いたような感じ……血もついていませんでした。『切り傷みたいになってるよ、また酔っぱらって転んじゃったの?』と聞くと『血は出てる?』って聞いてきたので『出てないよ』と言いました。『アロンアルファでくっつけて』というので、傷をはさむようにペトッとつけました。彼が、アロンアルファは手術で使う医療品で、一番キレイにくっつくといっていたので……私のもそうですが、暴力の切り傷は、アロンアルファで治していました」

 恵理子いわく、その後、藤田さんをベッドで寝かせ、布団をかけたという。うつぶせで寝ていた被害者が、クルッと左を下にして寝返りをうったとき、布団がはだけた。掛け直そうと布団に近寄ったとき、ベッドのマットにおびただしい量の血がついていることに気づき、119番通報に至った。

「私の記憶だと、切り傷から血は出てなく、アロンアルファでくっついていました。そして傷は右でした。痛がってはいなかったです。そうでなければ、強引に連れて行っています。『救急車呼んだから』と言うと彼は『来たら起こして、寝てるから。セックスの続きはあとでやろうね』って言うから、『そんなこと言ってる場合じゃないでしょ』と言ったのですが、今となっては『続きはあとでやろうね』っていう言葉が、彼の最後の言葉になりました……」

 弁護人も「傷は彼が刺したか第三者が刺したか、もしくは彼の暴力で被告人は意識もうろう状態で強制された可能性があり、責任能力はなく無罪であります。被害者は重度の肝硬変を患っており、傷害と死亡に因果関係はありません」と主張した。商店街に長く続いていた血痕は、犯行前のもので、藤田さんが吐血したためにできたものだという。

 二人の日常的なセックスにおける「SM」の、身体的ダメージの大きさが見え隠れする。実際、通報時の恵理子も、全身にけがを負っており、取り調べ時に刑事に指摘を受け、はじめて鼻の骨を骨折していることに気づいたのだという。セックスだけでなく、日常生活でも暴力があったと、恵理子は証言した。

「記憶がないということは今までもありました。4~5年前から、寝てたと思ってたのに、っていうことが何度かあり、ここ1年は、すっぽり記憶がないことが多かったです。気づくと、起きようと思っても体が動かなかったり、痣だらけだったり、ベッドで寝てたのに床の上だったり、セックスで起こされたりっていうことがありました。

 起きてから『昨日、衣里になんかした?』と聞くと『またキチガイになって衣里を殴った』って聞いて、あ、そうか、と。そういう時は部屋の中のモノが壊れ、あらゆるモノが散乱していました。彼はケンカ慣れしていて、右手も左手も使えます。左右の拳で殴られ、蹴られ、モノで殴られる……酒ビン、ベルトのバックル、フライパン、全身鏡、物干パイプ、胡蝶蘭の鉢など……。あとは、掃除機の柄の部分持って、カウボーイのようにぐるぐる回して本体をぶつける……走行中の車から振り落とされる……ウイスキーをかけられ、馬乗りになって顔や頭を拳で殴ったり、床や壁に叩き付けたり、頭をボールのように踏まれて蹴り上げられたり、みぞおちを蹴られたり……」

 凄まじい暴力の詳細を、恵理子は法廷で淡々と語る。これらの行為で恵理子は骨や歯を折り、頭を縫うなどのけがを負ってきた。にもかかわらず、恵理子は藤田さんのことを心から愛していたため、暴力を理解しようとしたのだという。

「この件に関しては、10年近く、殴られる度に悩んだんですが……ん~、私が、なぜ殴られないといけないのか、ってよりも、何故、彼は私のことを殴るのか。必死で理解しようとしていました。悩んで出した結論は、暴力は不器用な彼の愛情表現の1つ。それとして受け止めました。彼はプライドが高いゆえ、傷つきやすく、弱く、不器用な人だと私の目には映っていました。やめてほしかったですが、彼の愛情表現として受け入れていて、別れようと思ったことはありません」

 こうした日常における暴力のあと、藤田さんはいつも「俺が悪い」と自分を責め、自傷行為を始めた。恵理子を殴っていた酒ビンで自分を殴ったり、ナイフを持ち出して体を傷つけたり、また恵理子にナイフを持たせ、傷つけさせようとしたり、ありとあらゆる方法で自傷行為を行うのが常だった。

「自分の体にナイフの刃を押しあて、柄の部分を持たせ、引っ張って誘導して引き寄せる感じ……私は止めてました。ナイフで刺したことはこれまでありません。今思えば、自虐行為のあと、セックスしていました。当然、セックスする場面じゃないので私からは……私の中では求めようとも思わない状況下です。でもなぜセックスできるかと言えば、彼が勃ってるからなので、私は受け入れていました」

弁護人「あなたはどうして受け入れてたの?」

「複雑な思いがありますが、自虐行為を止めることができて、ほっとした気持ち……ここで断ると、第二ラウンド始まりかねないという思い……体力ない状態なので、拒否するより受け入れる方がラク……。彼が泣きながらセックスする姿を見て、不器用な彼の愛情表現なのかな、と思っていました。好きだから一緒にいる。拒否する理由はありません。いつでもどこでもセックスできるのが恋人だと思っています」

 刺した記憶がないという恵理子の主張は、ナイフから藤田さんと恵理子の二人のDNAしか検出されなかったことから退けられた。事件当時の恵理子の精神状態を判断するために精神鑑定も行われたが、その結果から「事件当時、被告人の意識は清明で、その責任能力に何ら問題はなかった」とも結論付けた。そうして、恵理子に対しては「SMプレーの行き過ぎによる行為」として懲役4年が求刑され、懲役2年6月の判決が言い渡された。

「犯行は被害者の暴行を不器用な愛情表現として受け入れ続け、そのような関係を根本的に変えようとしてこなかったという男女関係に起因しており、被告が犯行に及んだことは同情できない。たとえ被害者から頼まれて刺した可能性が高くても実刑は免れない」(裁判所)

 恵理子は法廷で「刺した記憶がない」と主張したが、彼女の精神鑑定にあたった医師は「記憶が清明」だと判断している。であればそのとき、本当は何があったのか。裁判所が言及した通り、藤田さんは恵理子に、自らを刺すように、強く求めたのか。であれば「いつも止めていた」という恵理子はなぜ、刺したのか。

「私は……彼のことを心から愛しています」

 最終陳述でも、震える声で恵理子は、こう言ったのだった。藤田さんが刺される直前、二人の間に何があったのかは、彼女しか知らない。

【参考文献】
「週刊新潮」2008.02.07 
「週刊ポスト」2009.02.13 
「週刊女性」2008.2.26 
「週刊大衆」2002.4.8 
「アサヒ芸能」2008.2.21 

 

22歳年上の“スポンサー”との奇妙な「性生活」――元芸能人が告白した10年の歳月【元Vシネ女優・内縁夫刺殺事件】前編

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

第8回:元Vシネ女優・内縁夫刺殺事件

 東急多摩川線「鵜の木駅」は、早朝や夕暮れ時に地元客が行き交い賑わいを見せる、東京・大田区の小さな街だ。この駅前商店街近くのマンションから119番通報がなされたのは、2008年1月26日の早朝、6時40分頃のことだった。

「夫が背中をけがしている」

 まだ朝の賑わいを見せる前のひっそりした街を抜け、マンションに到着した救急隊員が部屋で見たのは、下半身は裸で血だらけでベッドに倒れている藤田秀則さん(仮名・当時53)の姿だった。その後、男性は失血性ショックで死亡した。女(当時31)は119番通報の際「午前5時ごろに背中を刺されて帰ってきた」と話していた。たしかに、商店街の途中にある中華料理店から現場マンションまで、約200メートルに渡り、血痕が続いている。

 ところが、マンションエントランスの防犯カメラに映る藤田さんはけがをしていない。マンションまで続く血痕とは――。また「夫」と言うが、22歳も離れて籍も入れていない。2人の本当の関係は――。さらに女の顔と体には殴られたような痕があり、頭部外傷と両手両足に全治10日間のけがを負っていた。暴力を振るわれた女性が男性を刺した事件なのか――。通報当初から、さまざまな疑問点が浮かび上がり、女性が元グラビアアイドルであることも男性週刊誌の関心の的となった。その事件の全容は、のちに東京地裁で開かれた公判で明らかになった。

Vシネ女優と「スポンサー」の年の差カップル

 119番通報した女・木崎恵理子(仮名)は身長172センチ、バスト90センチのEカップという抜群のスタイルと美貌を武器に、グラビアアイドルとして活動していた。写真集を3冊出し、99年から9本のVシネに出演したほか、テレビ出演も行うなど、精力的に芸能活動を行なっていたが、02年に卵巣膿腫を患ってから、芸能界を去り、父親の経営する会社で働くようになった。

 内縁関係にあった藤田さんとの出会いは、まだ恵理子が芸能界に身を置いていた20歳前後のころだ。藤田さんはこう恵理子に持ちかけた。

「スポンサーになろうか」

 勤務していた不動産会社を独立し、不動産会社や内装会社を設立して、羽振りのよかった頃だった。そして恵理子が22歳になる頃、二人は付き合い始めた。お互い両親が離婚しているもの同士であることから、身の上を話し合ううちに惹かれあっていった。また20歳以上年の離れた藤田は、逆に“グラコン”の恵理子には理想でもあった。かつて雑誌の対談記事で、彼女はこんな告白をしていたのだ。

「私、ファザコンじゃなくて『グラコン』(グランドファーザー・コンプレックス)なんですよ。祖父が海軍だったんですけど、その祖父が父親代わりで、だから結構年配の人と。父の年代だとまだ若いかなって」

 また別のインタビュー記事でも、グラコンぶりを語っていた。

「(セックスで)救急車を3回ぐらい呼んだことありますね。(全員別の50歳前後の男性で)相手が息しなくなって。(相手が上になった時と下になった時の)両方あったけど、上の時は『ウッ、重たい』って投げたらコロンってなっちゃったから、びっくりしちゃって。18(歳)のころかな。(救急車は)来たんですけど、その前に息を吹き返したから帰ってもらいました」

 こう無邪気に語る恵理子だったが、のちに彼女が卵巣嚢腫により体調を崩したとき、心の支えになったのは藤田さんだった。藤田さんには当時妻がおり、恵理子が3000万円で購入した、事件のあったマンションに週末だけ通うという“週末だけの半同棲”生活を続けていたという。地元では有名な年の差カップルだったようで、飲み友達らはこう証言する。

「エリーは人なつっこくてセクシーで明るい子。よくサワーを飲んでは酔っ払ってつぶれていた。藤田さんは身長170センチ強で、サングラスにロン毛の時もあった。俳優の原田芳雄似で、カラオケではサザンの『いとしのエリー』を熱唱してエリーを喜ばせていた。仲はよかったね」
「一見、派手で愛嬌があるから尻軽に思うヤツもいるようだけど、彼女は愛している男以外には、決して体を許さなかったよ」

 地元では、二人の仲睦まじい様子もよく目撃されていたが、同時に藤田さんの暴力グセも、近所に知れ渡っていたという。地元民が語る。

「酒が入ると暴れるんだよね。完全に酒乱だね。肝臓悪くて何度も(病院に)運ばれているんだから。最初に糖尿病患って、その後、肝臓で何度も入退院を繰り返してさ、そのあたりからおかしくなっているよね」

 藤田さんは糖尿病を患い、さらにはアルコール性肝硬変になっていた。医師から「余命1年」と宣告を受ける。仕事も廃業し、自己破産。妻とも離婚。生活保護を受給することになった。自暴自棄になったのか、事件1年前から藤田さんは、朝から酒を睡眠薬と一緒に一気飲みし、ほぼ1日、酒を飲んで寝る生活を続けた。2度、救急車で運ばれて入院もしたという。

 だが、恵理子は藤田さんを見捨てることなく、寄り添い続けた。お互い辛い時期を支え合い、約10年という時間を重ねた。「残りの人生はハワイで恵理子と一緒に暮らしたい」と告げられ、結婚の準備を進めていた矢先に、事件は起こった。

暴力からセックスが始まる生活の実態

 08年11月11日の東京地裁。体のラインがくっきりと浮き出るパンツスーツに黒いサラサラのロングヘア。目鼻立ちの整った顔立ちと、長身をさらに際立たせる姿勢の良さ。元芸能人が放つ華やかなオーラは法廷には不釣り合いで、傍聴席は一瞬静まり返った。傷害致死で起訴された恵理子の初公判だ。

 起訴状によれば恵理子は、199番通報直前、自宅マンションで藤田さんの左背部を、刃渡り9.8センチの果物ナイフで一回突き刺し、失血性ショックで死亡させたという。ところが罪状認否で恵理子は、こう述べた。

「記憶がなく、わかりません。私が、私自身で、大切な彼を傷つけること、絶対ありえないです」

 そして冒頭陳述では、二人の「SMプレイ」生活が明かされた。

「お互いにSM嗜好があり、以前からお互いに殴る蹴る等の暴力を振るった後、セックスに突入する、というパターンの性生活を続けていた。被告人はこのSMプレイを知人に対し『コミュニケーションみたいなものだ』と述べていた」

 実際、恵理子はこの事件前に頭部外傷と両手両足を打撲して全治10日間との診断をうけている。これまでにも、眼底出血、頬骨の骨折、顎にヒビ、携帯電話で頭を殴られぱっくり割れたこともあったという。

 他人には理解しがたい日常だが、そんな性生活を続けていた中で、事件は起こった。

ーー後編は1月5日公開

【池袋・買春男性死亡事件:後編】男の性欲は「ジョークでかわせ」「真に受けた女が悪い」30年前の報道から現在へ

 1987年4月15日、東京・東池袋にあるビジネスホテルTの客室内で、大手通信会社社員・谷口智明さん(28・当時・仮名)が、電話で呼び出したホテトル嬢・大鳥清美(22・当時・仮名)にナイフで刺されて死亡した。密室で起こった惨劇の一部始終は、ベッドにセットされた8ミリビデオカメラに録画されていた。

前編はこちら:2時間6万円で買われた“ホテトル嬢”が客を殺めるまで

ホテトル嬢が強要された屈辱的な行為

 6月24日に開かれた第2回公判。この日、検察側証拠として谷口さんが撮影していたビデオカメラが上映された。「公序良俗に反する」として傍聴人を法廷から出しての上映となったが、締め出された傍聴人らが耳をそばだてると、ビデオの音声が聞こえてくる。清美の声だ。

「あはっ、ウフン、アァ……」

 恐怖からくる悲鳴か、快感の演技か、それとも愉悦の叫びか。

「いいか、今から俺が言う通りにしゃべるんだ。『私は男の公衆便所です。やりたくなったら来てください』『もう絶頂感に達しました。いつでも来てください』だ」

 命じられるままに屈辱的なセリフを復唱させられる清美。だが快感に悶えるふりをしながら体をくねらせていると、徐々に手足を縛っていた帯が緩んできた。ふと目をやると、ベッドの上に先ほど親指を刺されたナイフが転がっている。身をよじらせながらナイフを体の近くに引き寄せていった。バイブレーターで清美の性器を弄ぶことに夢中になっている谷口さんの隙をうかがいながら、左手でそっとナイフを握り、谷口さんの右脇腹を刺した。

「うぁぁっ!……てめえ、この野郎、何をしやがるんだ!」

 のちに清美はこの時の心情を「腹を刺してうずくまった隙に逃げようと思った」と語っている。ところが谷口さんはうずくまりもせず、清美を逃すまいとドアのそばに回り込み、突っかかってきた。

 髪をつかみ、頭を壁に打ち付ける。清美は胸を刺したが、谷口さんはそれでも首を絞め付けてくる。“ナイフを奪われたら今度は自分が刺される番だ”……無我夢中でナイフを左右に振り続けた。しばらくすると谷口さんは、

「てめぇ、殺人犯にしてやるぞ……」

 こううめき、失神した。ビデオの音声は清美の叫び声が続く。

「ねえ、起きなさいよ!」
「助けて、早く、助けてよ! 救急車よっ。いやあっ、死んじゃう、死んじゃうよ!」

 午後8時。ホテル従業員が駆けつけた時、谷口さんはすでに死んでおり、清美も大腿部に深い傷を負っていた。

 清美は初公判・罪状認否において殺意を否認し、弁護人も正当防衛による無罪を主張した。被害者である谷口さんが撮影していたビデオカメラには、殺害までの一部始終と、彼が生前に清美に強要した屈辱的な行為の全てが記録されていた。そこには“ホテトル嬢には何をしてもいい”といわんばかりの、谷口さんのセックスワーカーに対する蔑視が如実に表れている。そして検察や裁判所、これを報じた週刊誌にも、ホテトル嬢という職業への偏見が見え隠れしていた。

 ビデオ上映の様子を報じた女性週刊誌「微笑」(祥伝社/96年休刊)は、谷口さんをサディストの“異常性愛者”だとして、こう論じている。

「男の異常性愛について、女がある程度の知識をもっていたら、相手を殺してしまうほどの恐怖感を抱かずにすんだかもしれない」
「谷口さんの行為は、異常性愛者のなかではそれほど珍しいものではないという。相手の心を傷つけないように、やんわりと断るとか、ジョークで身をかわすとかして、うまくその場を切りぬけることもできたかもしれない」
「異常性愛者だといっても、普通、相手には傷を負わせるようなことはしないということを記憶しておくべきだろう」

 さらに、谷口さんがはじめに清美をナイフで脅し、親指を刺した行為も「男はナイフを出して、“おれのいうことを聞け”とおどした。そのときに、ナイフが女の右手の親指を傷つけ、血が流れた。それでおどろいたのか、女は男のいうなりになった」と、単なる“おどし”であると記載する。挿絵には「SMごっこのつもりだったのにィ!」と裸で驚く男性のイラストも描かれており、“異常性愛者の作法を知らない女性が過剰に反応した”という図式を示している。

 一審・東京地裁で清美に懲役5年を求刑した検察側も、こう述べた。

「売春契約をした以上、性的自由及び身体の自由は放棄されており、保護に値しない。被害者はたんなるわいせつ行為が目的であり、被告人に記憶がないというのは弁解である。急迫不正の侵害、生命の危険もなかったのに憤激のため殺意を持って刺殺した」

 同年12月28日に開かれた判決公判では、清美に懲役3年の実刑判決が言い渡された。「身を守ろうとして刺したが、その反撃は相当性を逸脱していて、過剰防衛」「素手で追い回す被害者をナイフで、胸部など30数カ所も刺して殺害したのは過剰防衛で未必の故意があった」と裁判所も清美の殺意を認めた。

 こうした状況に立ち上がったのは、傍聴席で公判を見守っていた女性たちだった。一審判決に疑問を抱いた彼女たちは「池袋・買春男性死亡事件を考える会」を発足。次の二点を疑問視した。

「第一は、判決は密室で男性に暴行を受け、一方的に追いまわされ続けた女性の心理への理解を欠き、女性の生命の危機と恐怖心にまったく言及していないこと」
「第二に、彼女がホテトル嬢であることを取り上げ、『見知らぬ男性の待つホテルの一室に単身で赴く以上、客の性格等によっては相当な危険が伴うことは十分予測し得るところであるにもかかわらず、敢えて……赴いたという意味では、いわば自ら招いた危難と言えなくもない』という認識について」

 彼女らの働きかけにより、翌年4月に開かれた控訴審第一回公判では2300筆の署名が提出された。あわせて「男性弁護士には話しにくいこともあるのではとの危惧もあった」ことから、弁護団に女性弁護士を加えたいと要請。この動きを受け、強姦救援センター・アドバイザーの角田由紀子弁護士が第二回公判から弁護団に加わることとなった。以降、裁判の流れは変わる。

 同年5月に予定されていた判決公判には弁論が再開。犯罪心理学の福島章教授による「精神状態に関する意見書」が証拠採用された。福島教授の意見書は次のようなものだ。

「被告人の精神状態が、強い不安・恐怖に支配された情動興奮の状態にあり、そのため犯行時、自分がおかれていた現実的状況や自分の行為について通常の把握・認識が困難だった」

 控訴審判決では、清美の行為は過剰防衛であるとされながらも、量刑不当の情状酌量でこの意見書が採用され「恐怖、驚き、怒り、興奮等によって判断能力を狭められた中で、半ば本能的反射的にナイフを振るったもので同情に値する」と一審判決を破棄。懲役2年、執行猶予3年の判決が言い渡された。

 とはいえ、控訴審でも「考える会」が疑問視した“第二”の点においては見解を変えることがなかった。「(性的自由および身体の自由に対する)侵害の程度については、これを一般の婦女子に対する場合と同列に論ずることはできない」。つまりセックスワーカーに「性的自由」はないという見解である。

 昨年、歌舞伎町の「ロボットデリヘル」がネット上で物議を醸した。これは生身の人間をロボットに見立てて客に提供するというデリバリーヘルスだ。店舗のHPにはこのようにコンセプトが紹介されている。

「普通の風俗に飽きている方、女性とのコミュニケーションが苦手または嫌いな方、お待たせしました!! 遠慮なんてする事ない…会話なんてする事ない…なんせ相手はロボットだから!!」
「女性を商品として…オナニーの道具、動くTE●GAとして提供させて頂く新発想のお店」

 事件から30年以上がたったが、“女性をモノ化する”性産業は、今もはびこり続ける。
(高橋ユキ)

■参考文献
「朝日ジャーナル」 1988.6.24号
「週刊女性」 1987.7.14号
「微笑」 1987.7.25号
「週刊読売」 1987.6.21号
「週刊新潮」 1988.1.7号
「週刊新潮」 1987.6.18号
「メンズウォーカー」 1999.7.20号
「週刊女性」 1996.7.23号