63人の被害者を出した「奴隷事件」――映画『ブリング・ミー・ホーム』が描く“弱者の労働搾取”はなぜ起こったか

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『ブリング・ミー・ホーム 尋ね人』

 「イ・ヨンエ」という女優を覚えているだろうか? 韓流ドラマがまだ今のようには日本に浸透していない頃、それでも一部のファンから絶大なる支持を得た、現在でも根強い人気を誇る『宮廷女官チャングムの誓い』(2003)というドラマの主演女優である。さらに遡れば、韓国映画の国際進出を決定づけた作品『JSA』(パク・チャヌク監督、00)で、事件の調査にあたるスイス国籍の軍人を紅一点で演じた女優でもある。

 色白で丸顔の愛らしい容姿は、“韓国のオリビア・ハッセー”と呼ばれて親しまれたが、05年、『JSA』に続いてパク・チャヌク監督とタッグを組んだ“復讐3部作”の第3作『親切なクムジャさん』で、自らを陥れた誘拐殺人犯への壮絶な復讐劇を企てる美女を演じた後、在米韓国人との結婚や双子の出産によって長らく芸能活動を休止していた。そんな彼女が14年ぶりに映画へ復帰したのが、今回取り上げるキム・スンウ監督 の『ブリング・ミー・ホーム 尋ね人』(19)である。

 芸能活動休止前の最後の出演映画『親切なクムジャさん』で演じた、幼い娘を盾に濡れ衣を着せられ、13年間の刑務所生活を通して恐ろしい計画を準備する“クムジャさん”は、作家性の強いパク・チャヌク作品だけあって、映画的な魅力に満ちていた。リアリズムからは程遠い語り、復讐のためにあらゆる「親切」を行使し、聖女と悪女を使い分けるキャラクターの振れ幅、チェ・ミンシクの悪役とのやりとりなど、「復讐」というアイディアを見事に映画へと昇華し、残酷でスリリングな展開で楽しませてくれた名作だった。そして偶然かもしれないが、この作品から14年後、イ・ヨンエが映画復帰に選んだ本作は、またしても息子を失い、その存在を取り戻すために孤独な戦いを強いられる母親役だった。

 共通した主題を有していながらも、『親切なクムジャさん』と『ブリング・ミー・ホーム』では映画的な性格がまったく異なっている。本作では、自らも結婚して母となったイ・ヨンエの母としての実在感が増していると同時に、その根底には韓国で長く社会問題となってきた「弱者(子どもや障害者)の誘拐と搾取」というテーマが横たわっているのだ。韓国社会がいまだ解決できていない問題を取り上げた本作には、したがってカタルシスも癒やしも存在しない。どちらかといえば、以前のコラムでも取り上げた『トガニ』に類する作品といえる。

 もちろん、弱者の誘拐や搾取といった問題は、なにも韓国だけのものではない。だが確実に言えるのは、この映画はそうした社会問題をあぶり出す役割を持っているということだ。その点において、映画的な快楽とはまた別に、本作は今の韓国に必要な作品である。今回のコラムでは、映画によって浮き彫りになった問題を通して、韓国に根付く伝統的な思想の裏の一断面を可視化させてみたいと思う。

<物語>

 看護師のジョンヨン(イ・ヨンエ)と夫のミョングク(パク・ヘジュン)は、6年前に行方不明になった息子ユンスを捜して全国を駆け回っている。2人の生活は苦しみの連続だが、それでも希望は捨てていない。だがある日、ミョングクは情報提供者を名乗る人物との待ち合わせ場所に向かう途中、交通事故に遭って命を落としてしまう。息子だけでなく最愛の夫をも失い、絶望に突き落とされるジョンヨン。そんな彼女のところに今度は、ユンスとよく似た「ミンス(イ・シウ)」という子どもが、ある島の釣り場で虐待を受けつつ働かされているとの電話がかかってくる。ユンスであることを祈りつつ、ジョンヨンが釣り場に駆けつけると、そこで彼女を待っていたのは何やら訳ありげなホン警長(ユ・ジェミョン)や釣り場の主人らだった。かたくなにジョンヨンを「ミンス」に会わせようとしない彼らを怪しみながら、ジョンヨンは自らの力で徐々に真実に近づいていく。そして息子を助け出すため、彼女の孤独な死闘が始まる……。

 自らシナリオも手掛け、本作がデビュー作となったキム・スンウ監督は、公開後、たびたび「実話を元にしたのではないか」という質問を受けたという。それもそのはず、本作の設定や構成は14年に韓国社会を驚愕させた、いわゆる「新安(シナン)郡塩田奴隷労働事件」とそっくりだったからだ。この事件は、職業斡旋業者が知的障害者と重度の視覚障害者をだまして、塩田の多い韓国西南部にある新安郡の島に売り渡し、長年にわたって監禁された彼らは、賃金はおろか食事すらろくに与えられないまま、奴隷のように働かされたというものだった。

 毎日のように暴力を振るわれ、雇い主から「殺す」と脅された彼らは、障害を持っていることもあって脱出できず、文字通り「奴隷」のような生活を余儀なくされていた。この事件が解決する糸口になったのは、一通の手紙だった。視覚障害を持つ被害者の一人が、肌身離さず隠し持っていた助けを求める手紙を、ある時ソウルの母親に送ることに成功。母親が警察に通報し、知的障害を持つ男性も一緒に保護されて無事に助かり、事件の全貌も明らかになったのだ。

 島では彼らのほかに63人もの被害者が発見されたが、置かれていた状況は皆同じだった。当時のメディアは「21世紀の韓国であり得ないことが起こった」「現代版奴隷」と大々的に報道し、そのあまりにもひどい状況に国民の怒りが高まり、塩田の経営者はもちろん、関係者全員に対する厳罰と被害者への補償を求める声が続出。しかし裁判の結果は、懲役2年あまりという軽い判決だった。さらに信じがたいことに、判決を下した裁判官はこうした労働の形態が「地域の慣行」とまで言い切ったのだった。

 この発言が意味しているのは、地域の慢性的問題だった塩田での人手不足を補う手段として「監禁・強制労働」が黙認されてきたということであり、職業斡旋業者による詐欺的な手口、塩田への人身売買、監禁・搾取、村人の協力や無関心、そして地域の警察など公権力の黙認といった構図こそが「地域の慣行」として許されてきたということにほかならない。その中で、弱き者たちの人間としての尊厳はずたずたに踏みにじられてきたのだ。地域全体がグルになって加担してきた、巨大な闇のカルテルが形成されていたといえる。

 本作の物語もまさに「地域の慣行」を背景にしており、だから誰もが実話ではないかという印象を抱いたのだろう。事件の後、児童・障害者保護の強化や加害者への厳罰化など法律の整備が進められたが、今年の7月にもまた、19年間にわたって労働搾取されてきた知的障害者が発見され、依然として状況は改善されていないことが浮き彫りになった。

 警察の記録を見ると、こうした事件は1948年の韓国建国以来、後を絶たなかったようだ。そして被害者はいつも子どもや障害者、そして女性だった。社会的弱者を意味する「子ども、障害者、女性」に思いを巡らすためには、韓国社会に根付く「服従」の儒教的無意識を再び取り上げなければならないだろう。

 子どもや障害者への暴力については、以前のコラムで取り上げた『トガニ』で、女性に対する差別における儒教の影響については『はちどり』で数百年間韓国社会に根付いてきた儒教思想と「服従」の概念、そしてそれが「家族」という社会の中でどのように立ち現れるかについて、主に「男女」の関係性から述べたが、今回は「年長者と年少者」の面から掘り下げてみたい。

 年齢の差だけで人間の上下関係を決めつけ、服従を正当化する儒教の概念が「長幼有序(長幼序あり)」だ。韓国では初対面の人間同士が互いの生まれた年をまず確認し合う習慣があり、これこそ国民全体が「長幼有序」に囚われている最も明白な証拠だ。どちらのほうが立場が上かをはっきりさせないと話が始まらない。つまり、基本的にどちらかがどちらかに「服従」する関係性を決めておかないと、会話すらろくに進まないのだ。日本人には不思議に聞こえるかもしれないが、韓国では家族かどうかに関係なく、赤の他人でも年上ならみんな「형・오빠(お兄さん)」「누나・언니(お姉さん)」であり、そう呼ばないとすぐにケンカになったりする。

 たとえば、日本では電車の優先席に若者が座るのは普通の光景だが、韓国では電車の「敬老席」には若者は絶対に座らない。座ろうものなら年配者から怒鳴られることも日常茶飯事だからだ。敬老席に座る女性を自分より年下だと思い込んだ中年の男が、「席を譲れ」と口論になり暴力まで振るったが、あとから女性のほうが年上だったとわかり、土下座したという呆れる出来事があったほどだ。

 個々の人間性にかかわらず、「年長者は偉いのだから服従しろ」というのが「長幼有序」のゆがんだ無意識の表れなのだ。そして、服従させるための最も手っ取り早い手段が、暴力だ。とりわけ、相手が子どもなら「上下関係」は明らかであり、肉体的にも弱者である彼らであれば抵抗される心配もなく、好き勝手に暴力を振るうこともできる。

 「たとえ自分の子でも殴ってはいけない」という、子どもの人権に関する認識が韓国で本格的に広まったのは、21世紀に入ってからだ。世界的に見ると恥ずかしいほど遅れているが、「長幼有序」の下、何百年も昔から親が子どもを殴る(年長者が年少者を殴る)のは当然とされてきた韓国社会において、その認識の変化ですら大きな一歩である。子どもを暴力で服従させ、人権を蹂躙(じゅうりん)するという本作の事件の背景には、そんな社会を許してきた儒教的無意識があるのではないだろうか。

 話題は変わるが、「地域の慣行」のカルテルからどうしても見えてしまう歴史がある。「慰安婦」の歴史だ。日韓関係の中に長らく巣くうこの問題において、政治レベルでは両国の主張は相いれないが、研究者レベルではさまざまな議論が存在する。

 例えば、韓国国内でヒステリックな反応を巻き起こした歴史学者パク・ユハの著書『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)では、韓国の若い女性たちが「慰安婦」になった経緯のひとつとして、職業斡旋業者にだまされ、戦地に送られて売春を余儀なくされたというものがある。それはつまり、「慰安婦」を募集してだました朝鮮の斡旋業者と、いわゆる抱え主、そして日本軍というカルテルが結託して彼女たちを「慰安婦」にしたという図式である。この主張には、カルテルに朝鮮人業者が加担していたという、韓国が決して認めない事実が含まれているため、大きな問題となったわけだが、「弱者の人権蹂躙」という今回の問題とも密接につながっていることは言うまでもない。その点で、私はパク・ユハの議論には十分説得力があると考えている。

 最後に、また『トガニ』の話を。本作は、実在した特別支援学校で、障害を持つ幼い生徒たちに対する、校長らによる性暴力を告発した事件を映画化したもので、この映画がきっかけとなって人々の関心が高まり、公開後に社会が大きく変わる事態となった。だが映画が作られた時点では、被害者の子どもたちは法的にはまったく救われないままだったため、映画は決して安易なカタルシスを観客に与えることなく、ある意味では非常に後味の悪い結末を迎えた。

 その意味では本作も同様で、ラストのジョンヨンは大きな希望に包まれているが、根本的な問題が解決することはない。なぜなら映画の結末にかかわらず、この社会にはいまだ無数の「ミンス」が存在し、社会そのものが良い方向に向かっていない以上、映画が安易なハッピーエンドを迎えることは許されないからだ。

 しかも、『トガニ』における性暴力が、特別支援学校というある種特別な場所において起こったのとは異なり、本作のような場合、いつどこで自分の身近に起こるかもしれず、周囲への無関心によっていつの間にか自らも加担している状況が生まれてしまうかもわからない。

 本作は、カルテルの構造がもたらすものへの警鐘であると同時に、その無自覚な無関心によって誰もが同じような立場になり得ることへの警告でもある。もちろんこれが韓国のすべてではないが、そうしたこの国の一断面を決して無視することはできないのである。

■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

EXO・D.O.主演『スウィング・キッズ』、“タップダンス”で際立つ暗鬱な現実――「もしも」に込められたメッセージとは

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『スウィング・キッズ』

 韓国では「同族相残(동족상잔、同族間の殺し合い)の悲劇」とも呼ばれる朝鮮戦争。軍の戦闘による犠牲者よりも、軍による民間人への、あるいは民間人同士の虐殺による犠牲者のほうが多いとまでいわれるほど、3年間の戦争中にありとあらゆる形の虐殺が行われた。転向した左翼数万人を、朝鮮戦争勃発後に虐殺した「国民保導聯盟事件」や、人民軍による高城(コソン)郡や永興(ヨンフン)郡などでの民間人虐殺、そして今回取り上げる『スウィング・キッズ』(2018、Blu-ray&DVD発売中、デジタル配信中)の舞台になっている巨済島(コジェド)捕虜収容所での捕虜同士の殺し合いや、米韓連合軍による捕虜への虐殺は、最も凄惨な悲劇として記録されている。

 考えてみれば、虐殺の構図は非常に単純明快だ。自発的か強制的かに関係なく、韓国軍が村を占領すると北朝鮮軍に協力したアカを、北朝鮮軍が村を占領すると韓国軍に協力した反動分子を虐殺したのだ。要するに、同じ村を昨日は韓国軍が、今日は北朝鮮軍が占領するとなれば、村全体が両方によって焦土化され、数多くの村人が犠牲になる。一握りの権力者によって引かれた「アカ」と「反動分子」の境界線によって、朝鮮半島は浅はかで盲目的なイデオロギーに踊らされ、その代価はあまりにも大きかった。

 本作は、日本でもリメークされた映画『サニー 永遠の仲間たち』(2011)などで知られるカン・ヒョンチョル監督の作品だ。原作自体がミュージカルというのもあるが、タイトルからもわかるように、スウィング・ジャズとタップダンスが映画の中心に据えられている。ドラマから映画まで幅広く活動し、その演技力も高く評価されている人気アイドルグループ・EXOのメンバーD.O.が主役を演じることも話題を呼び、韓国で観客動員150万人に迫るヒットとなった。

 今回のコラムでは、収容所での虐殺の歴史という悲惨な側面が、タップダンスという明るい要素とどのように絡み合い、それがどのような映画的効果をもたらしているかについて考えてみたい。

<物語>

 1951年、朝鮮戦争中の巨済島捕虜収容所。新任所長(ロス・ケトル)は収容所のイメージ改善のために、捕虜たちでダンスチームを作る計画を立て、ブロードウェイの舞台に立ったことのあるジャクソン(ジャレッド・グライムス)にその任務を任せる。ジャクソンは、ダンスの才能を持っている捕虜のロ・ギス(D.O.)、英語はもちろん日本語や中国語もできる踊り子ヤン・パンネ(パク・ヘス)、離れ離れになった妻を探すために有名になりたいカン・ビョンサム(オ・ジョンセ)、ダンスの実力はあるが栄養失調ですぐ息の切れる中国軍捕虜のシャオパン(キム・ミノ)の4人を集めて、タップダンスチーム「スウィング・キッズ」を結成する。

 ところが、この計画を良く思わない米軍兵士たちの罠にかかり、ジャクソンは刑務所に入れられてしまう。チームのメンバーたちはジャクソンを助けるため、収容所の視察に訪れた赤十字の訪問団の前で踊りを披露し、大きな反響を得る。さらに、所長は記者たちに「クリスマスにこのチームがダンスを披露する」と公言。ジャクソンも釈放され、「スウィング・キッズ」はタップダンスの練習を再開する。一方、新しく収監された捕虜のグァングク(イ・デビッド)の煽動と、「人民の英雄」でロ・ギスの兄であるギジン(キム・ドンゴン)の登場とともに、捕虜たちの暴動はますますエスカレート。ついに彼らは所長暗殺もたくらみ、ロ・ギスも巻き込まれていくことになる。

 冒頭、朝鮮戦争下の戦況をまとめたスピーディーなニュース映像から映画は幕を開ける。1950年6月25日、北朝鮮軍の奇襲攻撃に端を発する朝鮮戦争は、日本人にもなじみ深い、かのマッカーサー率いる米軍主体の国連軍による仁川(インチョン)上陸作戦や、中国軍の参戦で一進一退を繰り返したのち、38度線辺りで膠着状態に陥った。両陣営は51年7月には早くも休戦会談を始めたものの、合意に至る53年7月までの2年間戦闘は続けられ、死傷者はもちろんのこと、捕虜も大量に発生した。

 増え続ける捕虜の収容問題を解決すべく50年11月、国連軍は巨済島に巨大な捕虜収容所を造った。釜山の南に位置する巨済島は、海に囲まれているため脱出の心配もなく、陸地から程よい距離にあったので捕虜の移送にも差し支えがなく、収容所建設には最適な立地だった。収容所の管理は米軍が行い、韓国軍が警備にあたった。

 17万6,000人に上る捕虜の多さもさることながら、映画を見てまず戸惑ってしまうのは、構成の複雑さではないだろうか。国連軍の収容所にもかかわらず、そこでは北朝鮮軍や中国軍はもとより、北に協力した民兵から強制徴兵された民間人、アカにされてしまった南の避難民に至るまで、さまざまな立場の人間が一堂に会していたのである。映画の登場人物に照らし合わせてみると、ロ・ギスは北朝鮮軍、シャオパンは中国軍だが、カン・ビョンサムは避難民だ。混乱の中、少しでも怪しまれたらアカにされたこの時代、「乗る車を間違えた」だけのビョンサムがここにいることは、何ら不思議ではない。そして当時、米軍のあとを追って島に流れてきた「ヤンゴンジュ」と呼ばれる売春婦も大勢おり、ヤン・パンネもその一人であった。

 カオスの様相を呈していた収容所で最も問題になったのが、捕虜たちの「イデオロギー」である。ここには根っからの共産主義者もいれば、報復を恐れて共産主義者のふりをしている捕虜も少なくなく、強制徴兵された民間人は反共主義者かどちらでもなかった。当初米軍は、反共主義者(反共捕虜)と共産主義者(親共捕虜)を分けて収容していたが、いちいち確認するのはほぼ不可能と判断したのか、そのうち区別をつけずに収容し始めた。これが後に、流血暴動や殺し合いをもたらすことになる。

 映画にも描かれているように、各収容施設の支配勢力が「親共」か「反共」かによって、北朝鮮と韓国いずれかの国旗が掲げられ、施設同士で対峙する状況が生まれていく。同時に、施設内で「反動分子」や「アカ」を探し出してはリンチを加えるといった事件が後を絶たなかった。とりわけ休戦会談で捕虜の送還が問題となり、無条件に捕虜の全員送還を主張した北朝鮮側と、あくまで希望者のみの送還を求めた米軍側の対立が伝わると、捕虜間の分裂と殺し合いは凄惨さを極めた。なぜなら、反共捕虜や転向希望の親共捕虜にとっては、無条件の全員送還はすなわち死を意味するからだ。自分が反共主義者であることを米軍にアピールする者がいる一方で、親共捕虜たちは反共に寝返る裏切り者を出さないために、見せしめのリンチを繰り返したのである。

 『スウィング・キッズ』は、以上のような歴史に基づきつつ「タップダンス」や「ミュージカル」の要素を取り込むことで、戦争をめぐる記憶と、個人の夢や自由に対する希求を同時に喚起させている。たとえば、ロ・ギスやヤン・パンネら「スウィング・キッズ」のダンスには、戦争によって破壊されたそれぞれの夢への希望、抑圧された自由への熱望が込められている。誰もいないホールから飛び出して収容所を疾走しながら踊るギスと、村を走りながら踊るパンネの姿は、その先に待ち構えている収容所の鉄柵フェンスや、疲弊した村という壁にぶつかってしまうが、決して自由になることをあきらめたりはしない。だが、タップダンスを踊っている間にのみ許される夢と自由への希求は、それを求め続けるギスやパンネらの思いが強くなればなるほど、戦争という暗鬱な現実と克明なコントラストをなしている。

 以前のコラムでも説明したのだが、本作も近年の韓国映画で多く見られる、歴史的な出来事にフィクションを加味する「ファクション」ジャンルの作品だ。とりわけ、ラストシーンは「フィクション」としてのタップダンスがあまりにも軽快で生命力にあふれているために、「ファクト」としての残酷な虐殺をより一層際立たせている――今の私たちに「どう生きるべきか」を問いつつ。

 南と北、アメリカと中国。国も言葉も違う捕虜たちを、収容所に集めさせた現実は「戦争」だった。しかし、本作のように、もし本当に誰かによってダンスが、あるいは音楽が収容所内に響き渡り、多くの人がそれに共感したならば、歴史はどう変わったのだろうか? 少なくとも、実体の見えないイデオロギーに翻弄され、殺し合うことは防げたかもしれない。

 歴史に「もし」はないといわれるが、そう考えると「ファクション」としての本作のメッセージは明白だ。「スウィング・キッズ」のリーダーで、黒人米兵・ジャクソンのセリフを借りるまでもないが、「Fucking ideology!(くそ! イデオロギー)」を合言葉に、共存の可能性を模索することだろう。本作は、戦争がもたらした悲しい歴史を現在に甦らせ、タップダンスで癒やし、未来に向けたメッセージを伝えてくれている。

 最後に、どうしても触れておきたいことがある。原作がミュージカルであることは冒頭で述べたが、その原作を作るきっかけとなったのは、スイスの写真家ワーナー・ビショフが収容所の実態を映した1枚の写真であった。収容所内に立つ自由の女神像の前でフォークダンスを踊る、覆面をかぶった捕虜たちの姿。今見ても違和感の残る、異様な雰囲気の写真である。米軍の前で踊る彼らは「反共捕虜」には違いないのだが、顔がバレてしまうといずれ「親共捕虜」に殺されるかもしれないという恐怖から、不気味な仮面をかぶって踊っていたのだ。

 生き延びるために米軍側につくという生への欲望と、「死にたくない」という仮面の下の死への恐怖が背中合わせに見え隠れしているこの写真が見る者の胸に突き刺さるのは、その壮絶な切なさが今を生きる私たちにも伝わってくるからかもしれない。

※このコラムは『スウィング・キッズ』の公式パンフレットに掲載した原稿に大幅に加筆して書き直したものである。

■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

EXOやTWICEなど続々! ONF「Sukhumvit Swimming」から繙くK-Pop「レゲエ」のこれまで 

――毎月リリースされるK-POPの楽曲。それらを楽しみ尽くす“視点”を、さまざまなジャンルのDJを経て現在はK-POPのクラブイベントを主宰するe_e_li_c_a氏がレクチャー。8月にリリースされた曲から[いま聞くべき曲]を紹介します!

今月の一曲‖온앤오프 (ONF)_스쿰빗스위밍 (Sukhumvit Swimming)

 今回はWMエンタテインメントの6人組グループ・ONF(オンエンオフ、韓国語のローマ字発音でオネノプ)の新曲、「Sukhumvit Swimming(スクンビットスイミング)」を取りあげて、Reggae(レゲエ)という音楽ジャンルについて説明しようと思います。

 ONFは2017年8月にEP「ON/OFF」でデビューし、今回の「SPIN OFF」は5枚目のEPになります。3枚目のEPのタイトル曲「사랑하게 될 거야 (We Must Love)」のMVはベトナム、4枚目のEPのタイトル曲「WHY」のMVはドイツ・フランス・スイス・ロシアなど、アルバム曲の「Moscow Moscow」のMVはロシアで撮影されており、今回も「Sukhumvit」(タイの首都バンコクの地域・通りの名前)とついていることから、タイでのMV撮影の予定があったもののCOVID-19の影響でかなわず、残念ながらCGとセットでの舞台になってしまいました。

 音楽番組のステージでは曲のイントロ部分でボトルフリップ(ペットボトルを宙返りさせて着地させられるか)に毎回挑戦しており、見ている側を楽しませてくれる内容になっているので是非音楽番組の動画も見てみて下さい。

 JungleMoombahtonの説明をした回でレゲエについて少し言及しましたが、今回はもう少し掘り下げて解説していきます。今回は、たくさんのジャンル名が出てくるため事前にもくじ的な意味でざっくりと流れを書きたいと思います。

【1:メント→2:スカ→3:ロックステディ→4:レゲエ(4-1:ルーツロックレゲエ→4-2:ダンスホールレゲエ初期)→5:後期】

 レゲエはジャマイカ共和国で生まれた音楽ジャンルで、源流は1940年代~50年代に人気を博した「Mento(メント)」というジャマイカのフォークミュージックのスタイルまで遡ります。

1:奴隷の音楽として生まれた「メント」

 メントは、西アフリカからジャマイカに奴隷として連れてこられた人たちが、主人(主にヨーロッパ諸国の人たち)に音楽を披露していた場で主人たちを喜ばせるために、ヨーロッパ音楽の要素を自分たちのアフリカ音楽に取り入れジャマイカ音楽として形成されていきました。

 ヨーロッパ音楽の要素としては、スクエアダンスの先駆けとなったヨーロッパ圏で生まれたカドリーユというダンスのリズムやメロディ、アフリカ音楽の要素として自家製の太鼓、竹笛、フィドル(バイオリンの元となった弦楽器)、馬やロバの顎の骨、牛の角、更にはおろし金にぶら下げられたスプーンやフォークなどを使ってオーケストラの音を作り、それらが融合しジャマイカ独自のサウンドを生み出しました。

 時がたつにつれ、奴隷が主人に音楽を披露する形から、同じ立場の人たちが娯楽として一緒に楽しむものに形を変え、前述の楽器とは言えないような演奏道具もルンバボックス(マリンブラ)、バンジョー、ザフーン(竹製のサックス)、マラカスなどに改良され、伴奏に使用されるようになります。

 メントは徐々にジャマイカ島中に広がり、1940年代にはダンスや社交行事で使われる唯一の音楽供給源になり、50年頃からCount LasherやAlerth Bedassee、Harold Richardson and The Ticklersなどのたくさんのメントシンガーが登場します。これらのアーティストを検索すると、「Calypso(カリプソ)」と曲名につくものが多いですが、カリプソはトリニダード・トバゴで発達した音楽ジャンルで、源流は違っていても類似性があることから同じものと混同されやすいです。イギリス領だったトリニダード・トバゴから戦後、イギリスに人が流れ、50年代にはイギリスでカリプソブームが起こったこともあり、アメリカのレコード会社がより知名度の高いカリプソを称してメントの楽曲が売られたことが原因です。

 「USA for Africa」の提唱者Harry Belafonteが歌った「Banana Boat Song」は100万枚以上を売り上げたカリプソのヒット曲として有名ですが、実際はメントの楽曲で、カリプソ風にアレンジしたと言われたりしています。
■Harry Belafonte - Banana Boat Song (1956)

 このように、50年代のジャマイカではメントがはやっていましたが、イギリス統治の影響から首都キングストンではブラスバンド形式のジャズ楽団があり、主にメントは労働者階級がメインで、中産階級にはジャズが好まれていました。1880年に設立されたキングストンにあるAlpha Boys Schoolはカトリック系の職業訓練学校で、ストリート生まれの恵まれない子や家庭に問題を抱えている子どもたちに厳しい躾を教育するのと共に、1950年代頃からジャズの音楽教育プログラムも取り入れられましたが、生計が立てられるようにという意味も込められていたのではないかと思います。

 Alpha Boys Schoolの卒業生は、ジャマイカのビッグバンド(ジャズを大人数のバンド形式で演奏するもの)で演奏したり、ラスタファリアンたちとナイヤビンギという集会で管楽器を演奏するセッションが度々行われました。ラスタファリアンというのはラスタファリ運動(ラスタファリアニズム)の実践者のことで、1930年代にジャマイカの労働者階級と農民を中心に発生したアフリカ回帰運動のことです。

 これは最近のものですが、ナイヤビンギのイメージがわかる動画を選びました。「Nyahbinghi chant」などで検索するとたくさんの動画が出てきます。「ナイヤビンギ」の語源は19世紀ウガンダの女王の名前及びその国にあるといわれています。

 ナイヤビンギではダンスやガンジャ(大麻)の吸引、食事、訓戒、祈り、音楽、霊感、社交、討論といった、ラスタファリアンたちにとって重要なことが行われ、以前からジャマイカにあったメントやジャズなどと結びつき「Ska(スカ)」という新しい音楽ジャンルが生まれます。

 旧約聖書に出てくる文章をエチオピアと結びつけて解釈し、聖書の登場人物は本当は黒人で、後に書き換えられ白人とされているという考え方や、エチオピアを世界に離散した黒人の母国のように捉える思想を「エチオピアニズム」と言いますが、当時カリブの黒人社会に根強く残っていたエチオピアニズムをMarcus Garveyが拡大解釈し、黒人に対してアフリカに帰ることを奨励する考えがガーベイ主義として布教され始め、これにより初期ラスタファリ運動が始まります。

 ちなみに、このラスタファリアニズムはレゲエはもちろん、Hiphopなど今日のブラックミュージック文化にもかなりの影響を及ぼしており、アフリカ系の人々のするドレッドロックスという髪型はラスタファリアニズムから来ています。 「忠実なる者は、刃を自らの頭にあてるべからず」という旧約聖書の教えに従い、ラスタファリアンは初期の頃から髪と髭を伸ばしていました。東アフリカのマサイ族とソマリ族の兵士の写真を見たラスタたちがその髪型を真似て、伸ばした髪を房に編んで垂らしたものがドレッドロックスになります。また、ジャマイカではまっすぐでつやのある髪がよいとされているため、この髪型自体が自由や社会的反抗のシンボルにもなっています。

 大麻に関しても、儀礼の際は「聖なる草」と呼びジャー(神)と交流する秘薬・神聖なものとして扱いますが、ジャマイカでは大麻の吸引は法律で禁止されているため非合法です。もちろん宗教上の意味合いもありますが、こちらも社会への抗議として反抗手段を表すのにも使われています。

 スカの話に戻ります。第二次世界大戦後からジャマイカではラジオの購入が増え、地理的に近いニューオーリンズなどアメリカ南部のラジオ局から当時はやっていたFats Dominoなどのリズムアンドブルースやジャズの楽曲を聞くことができました。スカは2・4拍目が強い、裏打ちのリズムが特徴ですが、この特徴は、電波が悪い環境でジャズを聞いたために2・4拍目が強調されて聞こえたとか、またナイヤビンギからの影響もあるともいわれています。

 60年代に入り、スカはジャマイカの音楽シーンに広がり、イギリスから独立した62年には独立を祝うスカの楽曲がリリースされます。

■Derrick Morgan - Forward March (1963)

 一方で50年代~60年代にかけて地方からキングストンに仕事を求める若年貧困層が大量に流入し、キングストン市内にはトレンチタウンやリバートンシティと言ったゲットー(貧困地域、転じて治安の悪いエリア)が発生します。イギリスから独立して世間は高揚ムードなのに自分の環境は一向に変わらないことなどに一部の若者はギャング化し、彼らはルードボーイやルーディ、スカフロウ(Scofflaw、常習的違反者)と呼ばれ、スカにもルードボーイの生活を歌詞に反映した楽曲がたくさんリリースされます。

■The Wailing Wailers - Simmer Down (64)

 62年には中国系ジャマイカ人Byron Leeが映画『007 ドクター・ノオ』に出演したこともあり、スカはジャマイカの上流階級や海外にも知れ渡り、64年にリリースされたMillie Smallの「My Boy Lollipop」は全世界で600万枚を売り上げる大ヒットとなり認知度を上げます。ちなみに、聞いてわかるように、日本で有名な東京スカパラダイスオーケストラのスカは言うまでもなく「スカ」から来ています。

■Millie Small - My Boy Lollipop (64)

 スカは主にジャズなどの才能に溢れた演奏家が牽引して来ましたが、BPMとしては少し速いため、60年代後半には当時アメリカで流行していたもっとテンポがゆったりしているソウルやリズムアンドブルースから影響を受けた同世代のミュージシャンたちを中心にしたRocksteady(ロックステディ)というジャンルが生まれます。ジャンル名の由来はAlton Ellisの「Rocksteady」という楽曲で歌われたダンスのスタイルからきています。

■Alton Ellis - Rocksteady (67)

 スカはBPMでいうと125前後ですが、Alton Ellisの「Rocksteady」はBPM85で、かなり遅くなっていることがわかると思います。他にもBPMが落ちた理由としては、66年の夏にジャマイカを襲った激しい熱波によりアップテンポなスカでは踊れなくなったという説、スカをリードしてきたThe Skatalitesのトロンボーン奏者Don Drummondが恋人を殺害し逮捕され、スカ自体がバッシングされるようになった説、アップテンポに疲れた説などさまざまです。

 ロックステディはバンドサイズがスカに比べて小さくなったことで管楽器の使用が減少し、音がシンプルになったことからベースラインが重要視されます。スカではベースのパートを四分音符で均等に弾きますが、ロックステディではギターリフで重ねてメロディアスで反復性のあるリフを使い、シンコペーションを強調して演奏されます。

 ルードボーイが主題の楽曲はロックステディにも引き継がれますが、アメリカ音楽の影響も大きいため恋愛やロマンスを歌う楽曲が多くみられます。
■Alton Ellis - Willow Tree (68)

 しかし、ロックステディの流行は2年ほどしか続きません。その間に、「Riddim(リディム)」(Versionともいう。英語のRhythmのパトワ語)という、曲のドラムとベースラインの伴奏部分のみを指すものが形作られます。現代で使っている言葉に言い換えると「ビート」や「トラック」にほぼ近いものと言えるでしょう。当時は、楽曲をレコーディングするにはたくさんの人数と楽器、レコーディングスタジオが必要でお金もかかり、今のように簡単に1曲を形にすることができない時代でした。

 そこで生演奏のドラムとベースラインを録音したさまざまなパターン(Riddim)に、全く別の歌詞・ボーカルを乗せ、新たな曲を作るという手法を取りました。ジャマイカ産レコードのB面には「Version」と呼ばれるA面のボーカルを抜いたインスト曲が収録されることが流行し、一般的になっていきます。

 代表的なRiddimを2つ挙げます。

1:Bob Marley & The Wailers - Hypocrites (67)

2:The Techniques - Queen Majesty (67)

 ロックステディの中心人物であったアーティストたちが国外に移住したことや、演奏・録音機材の発達などによりサウンドが進化したものとなり、拍子も4拍子から2拍子へと変わり、レゲエ特有のアンサンブルができていきます。

 ジャマイカ労働党の経済政策の失策による景気・治安の悪化や、66年にジャーの化身と言われていたエチオピア帝国の最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世がジャマイカに訪問したことからジャマイカ国内のラスタファリアニズムが再燃し、歌詞の内容はスカやロックステディ期とは打って変わって黒人の誇りや社会問題について、レゲエが「ラスタの思想やメッセージを伝える手段としての音楽」という位置づけになり流行していきます。

 69年レコーディングされ71年にリリースされたThe Abyssiniansの「Satta Massagana」という曲は自分たちが開放される約束の土地・目指す土地(ラスタにとってはザイオン=天国やエチオピア)や王(ハイレ・セラシエ=ジャー)のこと、曲の最後ではエチオピアの公用語であるアムハラ語で「Satta Amassagana Ahamlack, ulaghize」(絶えず神に感謝を捧げる)と、崇高なるラスタの精神を歌う賛美歌のようなものとして、ルーツロックレゲエの金字塔とされています。

■The Abyssinians - Satta Massagana (71)

 また今までは曲の冒頭や間奏部分で楽曲の紹介をする役割の人(Deejay)がVersionが発明された以降はそこに言葉を乗せ、歌手のようにレコーディングし曲を発表するようになります。この「Deejay」は現在Hiphopなどで一般的な選曲をする「DJ」とは違い、Versionに乗せて喋ったり語ったりする(トースティングする)役割の人のことを言います。Deejayによるトースティングはレゲエ特有のボーカルスタイルとして定着していき、後のラップを生み出すことに影響を与えたと言われています。
■U-Roy - Wake The Town (70)

4-2:74年、Billboardチャートで初の1位〜「ダンスホールレゲエ」誕生

 レゲエの語源については諸説ありますが、1つはパトワ語の「rege-rege」(レゲレゲ、ぼろ・ぼろ布・口喧嘩・口論の意味のスラング)から転じたと言われており、Toots & The Maytalsの「Do The Reggae」という曲によってジャマイカ全体に広がったようです。

 72年にはSimon & GarfunkelのPaul Simonがレゲエを取り入れた「Mother and Child Reunion」の入ったアルバムをリリースしビルボードチャート4位になり、今までは欧米圏でイギリスしか認知のなかったレゲエがアメリカでも注目されることとなります。

 全てジャマイカで制作された初の長編映画『The Harder They Come』はジャマイカからロンドンに活動の場を映したジャマイカ人、Jimmy Cliffが主演をし、73年にはBob Marley & The Wailersがメジャーデビュー、74年にはEric ClaptonがBob Marley & The Wailersの「I Shot The Sheriff」をカバーし、レゲエ楽曲として初めてBillboard Hot 100チャートで1位を獲得します。

■『The Harder They Come』の日本公開時トレイラー

■Bob Marley - I Shot The Sheriff (73)

 以降もBob Marleyを中心にたくさんのルーツロックレゲエがリリースされ、名曲として今まで語り継がれています。

■Bob Marley & The Wailers - No Woman, No Cry (74)

■Burning Spear - Marcus Garvey (75)

 70年代後半に入ってもルーツロックレゲエの人気は衰えず、世界的人気のあったBob MarleyやJimmy Cliffは海外公演をたくさんこなしたためジャマイカ国内での活動は減ります。一方で、国内では政治経済の混乱も相まって、ラスタファリアニズム的な硬派なメッセージへの失望感が広がり、そんな中、81年にはBob Marleyが亡くなります。

 これらを機に、ラスタファリズム色は段々と薄れていき、YellowmanやSuper Cat、Buju Banton、Beenie ManなどのDeejayを中心にSlackness(スラックネス)と呼ばれる下ネタを中心とした歌詞に変わり、「思想の音楽」であったルーツロックレゲエから「踊るための音楽」であるダンスホールレゲエ(初期)へ変化していきます。

■Yellowman - Soldier Take Over (83)

■Little John - True Confession (84)

 80年代中盤になると、カシオトーンを使ったWayne Smithの「Under Me Sleng Teng」がジャマイカ初のデジタル録音を使った楽曲として大ヒットします。これまでは生演奏の録音が主流で、デジタル機材を使った「打ち込み」の手法はあまり使われてきませんでした。これを機に、ジャマイカではComputerized Revolution(デジタル革命)が起き、これがダンスホールレゲエの後期と位置付けられます。

■Wayne Smith - Under Me Sleng Teng (85)

■Uglyman - Computer (86)

 90年代に入ると打ち込みと下品な歌詞は当たり前のようにたくさんの楽曲がリリースされ、Versionに乗せてDeejay同士がステージ上で即興でトースティングし合うRub a Dub(ラバダブ)やClash(クラッシュ)が、頻繁に行われます。

■Shabba Ranks - Trailer Load a Girl (91)

■Supercat Vs. Ninjaman Clash (91)

 スラックネスが主流のジャマイカの音楽シーンで、92年頃からはコンシャス(真面目)なテーマで曲作りをしたGarnet Silkの登場によりラスタファリムーブメントが再加熱し始めます。Bob Marleyの再来とまで言われますが、94年に自宅での火事に巻き込まれ不慮の死を遂げます(一説では暗殺とも言われています)。

 Garnet Silkらの影響で方向転換をしたアーティストはたくさんおり、スラックネスで人気を博していたBuju Bantonは友人たちが殺人事件で殺害されたことやGarnet Silkが亡くなったことなどからラスタファリアニズムへ傾倒していき、楽曲やステージがスピリチュアルなものへと変化していきます。

■Garnet Silk - Hello Mama Africa (92)

 89年から92年にかけてスラックネスなスタイルでヒット曲を連発していたNinjamanが95年に復活し、同じくスラックネスなスタイルで再燃します。ラスタ思想の勢いも衰えることはなく、シーンはスラックネスとラスタ思想の2極化が起こります。90年後半に入るとセレクター(曲を選んでかけるDJのような人)がHiphopをかけたり、90年代前半から活躍してきたBounty KillerなどがHiphopアーティストと頻繁にコラボレーションするようになり、ダンスホールレゲエもその影響を受けます。現在も第一線で活躍するSean PaulやMr. Vegasなどもこの頃から頭角を現し始めます。

 2000年代に入るとアメリカのHiphopやR&Bアーティストとの共演によってブレイクするアーティストが増え、ソロでもジャマイカ出身のアーティストが頻繁にBillboardのHot100チャートに入ってくるようになります。

 私は下記の楽曲をリアルタイムで聞いていましたが、若くてあまり区別もつかなく、レゲエの要素が違和感なくアメリカのメインストリームシーンに溶け込んでいたので、レゲエを聞いているという認識がそこまでありませんでした。ちなみにSean PaulのGet BusyとWayne WonderのNo Letting GoはDiwali(ディワリ)という同じRiddimを使っています。

■No Doubt feat. Bounty Killer - Hey Baby (01)

■Beenie Man Ft. Janet Jackson - Feel It Boy (02)

■Sean Paul - Get Busy (02)

■Wayne Wonder - No Letting Go (03)

■Elephant Man - Good 2 Go (03)

 00年代後半にはMavadoやMungaなどのラスタファリアンでもありながらギャングスタ(ストリートギャングやヤクザなどを指す)でもあるGangsta Ras(ギャングスタ・ラス)をパーソナリティの売りとするアーティストも出現し人気を博しています。

■Munga Honorable - Excuse Me (15)

■Mavado - Progress (16)

ラップの説明をした回で出てきたHiphopの創始者と言われているKool Hercはジャマイカ人ですし、Jungleの説明をした回ではJungleはレゲエのベースラインとレゲエスタイルのラップを取り入れ、以降Raggamuffinにも派生すると説明しました。Moombahtonの説明をした回で挙げたようにMoombahtonはレゲエから派生したReggaetonが元になっていますし、音楽に限らず、文化的な面でも世界中でレゲエから影響を受けているものを挙げたら枚挙にいとまがないはずです。

 さて、ではいつも通り韓国での話に移りますが、今回はここまでの説明が長くなってしまったので簡潔に書きます。

 韓国ではレゲエは退廃的な音楽とされ長く視聴が禁止されてきましたが、92年に解禁されるとイギリスのUB40というバンドのレゲエ楽曲がヒットし、レゲエバンドやレゲエを取り入れたグループが次々と登場します。

 今回からApple MusicとSpotifyのプレイリストを作成してみました。下記以外の曲も入れているので参考にして下さい。

Apple Music K-Reggae Playlist
Spotify K-Reggae Playlist

 2つ目に挙げたSKULLに客演しているSizzlaは、95年頃から活動し始めたジャマイカ出身のDeejayで非常に多作なことでも知られ、日本人のレゲエアーティストにも客演しています。

■PRIMARY(프라이머리) - Don't Be Shy(아끼지마) (Feat. ChoA(초아) (AOA) , IRON(아이언)) (2015/07/24)

■SKULL(스컬) - Get Rich Feat.Sizzla (2016/05/27)

■EXID - L.I.E (Jannabi Remix) (2016/06/01)
Apple
Spotify

■Wonder Girls - Why So Lonely (2016/07/05)

■GFRIEND(여자친구) - Distance (한 뼘) (2016/07/11)

■OH MY GIRL(오마이걸) _ Listen to my word(내 얘길 들어봐)(A-ing)(Feat. SKULL(스컬)&HAHA(하하)) (2016/08/01)

■CLC - BAE (2017/08/03)
Apple
Spotify

■VAV - Flower (You) (2017/05/03)

■TWICE - 하루에 세번(Three Times A Day) (2017/05/15)

■EXO 엑소 - Ko Ko Bop (2017/07/18)

■청하(CHUNGHA) - Do It (2018/01/17)

■UNI.T(유니티) - No More(넘어) (2018/05/19)

■PENTAGON(펜타곤) - 청개구리(Naughty boy) (2018/09/10)

■Dreamcatcher(드림캐쳐) '약속해 우리(July 7th) (2019/01/10)

■SF9 - Enough(예뻐지지 마) (2019/02/20)

■Red Velvet - Sunny Side Up! (2019/06/19)

■CIX - Like It That Way (2019/07/23)
Apple
Spotify 

■THE BOYZ - Water (2019/08/19)
Apple
Spotify

■유권 (U-KWON) - Rise Up (Feat. Koonta) (2019/12/18)

■HYOLYN(효린) - SAY MY NAME(쎄마넴) (2020/08/19)

<落選したけど……紹介したい1曲>

■LUCY - 조깅(Jogging)

 ユン・ジョンシンが代表プロデューサーを務めるSM Entertainmentの子会社MYSTIC STORYに所属する4人組バンドLUCYの新曲です。JTBCの『スーパーバンド』というサバイバルプログラムで結成され準優勝し、今年の5月8日にデジタルシングル「개화 (Flowering)」でデビューしました。今回は初のミニアルバムリリースですが、タイトル曲の「Jogging」だけでなくEP単位で聞いて欲しい素晴らしい出来になっています。

 今までもバンド形式で音楽番組に出演するいわゆるアイドル的な立ち位置のグループはいくつかありましたが、バイオリニストがいるのは初めてだと思いますし、何よりMYSTIC所属で音楽的にもしっかりしているのがとても好感が持てます。

<近況>
ちょうどこの原稿を書いている締め切りの日に映画『ブッラクパンサー』主演のチャドウィック・ボーズマンが亡くなった知らせがあり、今回書いている内容も相まって、とても考えさせられた回となりました。Rest in Power, King.

e_e_li_c_a
1987年生まれ。18歳からDJを始めヒップホップ、ソウル、 ファンク、ジャズ、中東音楽、 タイポップスなどさまざまなジャンルを経て現在K-POPをかけるクラブイベント「Todak Todak」を主催。楽曲的な面白さとアイドルとしての魅力の双方からK-POPを紹介して人気を集める。

Twitter @e_e_li_c_a TodakTodak 
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韓国ドラマ『愛の不時着』、30代女性が「リ・ジョンヒョクになりたい!」ワケ――周囲に大笑いされた“欲望”とは?

 今年2月からNetflixで配信されている、韓国の人気ドラマ『愛の不時着』。日本でも大ヒットし、タレントの笑福亭鶴瓶や黒柳徹子、藤田ニコルら多数の著名人が「ハマった」ことを公言している。そんなドラマの魅力は、一体どこにあるのだろうか? ジェンダーやエンターテインメントに詳しい加藤藍子氏に、“恋愛”だけではない本作の魅力について寄稿していただいた。

【※以下、ネタバレを含みます※】

 韓国ドラマ『愛の不時着』ブームが止まらない。2020年2月後半にNetflixで配信開始以来、総合トップ10入りを保持。全話鑑賞したファンは「不時着ロス」を避けるべく周回視聴を続け、7月に入っても、Twitterの鑑賞実況用ハッシュタグがトレンド入りすることもあったほどだ。なぜこんなに、熱狂するのか。

 物語は、韓国の財閥令嬢で、企業経営者でもあるヒロインのユン・セリが、パラグライダー飛行中に竜巻に巻き込まれ、あろうことか38度線を越えて北朝鮮に不時着してしまうところから始まる。そこで出会うのが、北朝鮮のエリート将校リ・ジョンヒョクだ。

 「北」には、少なくともこのフィクションで描かれている限りでは、法治という概念が存在しない。当局に見つかれば、速攻で殺されるかもしれない極限状態の中、リ・ジョンヒョクはユン・セリをかくまい、あの手この手で南への帰還を助ける。その過程で2人の間に愛が芽生えるという、設定は斬新だが、「胸キュン」の王道はがっちりとつかんだラブストーリーだ。

『愛の不時着』は男女の役割が逆転するから“胸キュン”ではない!

 このドラマについてのレビューや評論では、女性のために粉からこねた麺で料理をつくったり、コーヒーを淹れたりするリ・ジョンヒョクの振る舞いが度々注目され、「性別役割分業が逆転している描写が素晴らしい」とされているのを見かける。それはそうだが、私たちは「性別役割分業が逆転すれば、胸キュンする」というわけではない。

 見始めるやいなや熱狂した一人である私の中には、別の強い感情が湧いた。大切にされるだけじゃ、我慢できない。私はリ・ジョンヒョクになりたい、と。それは彼の存在が、「男だから/男なのに」というラベルを剥がしても成立する魅力を持っていたからではないか。

「リ・ジョンヒョクが、完璧すぎますよね。まあ、あんな王子様、現実にはなかなか存在しないですけど!」

 コロナ禍の緊急事態宣言が解除された6月、久しぶりに髪を切りに出かけたら、私と同い年の美容師さんが興奮気味に話を振ってきた。もはや、珍しいことではない。外へ出かけると、しょっちゅう「不時着見た?」という会話が聞こえてくる。カフェで隣席に座っている男性が、友人とみられる女性に、大げさな身振りで「リ・ジョンヒョク名場面」を再現しているのも見かけた。このドラマの最高なところはたくさんあるのだが、そんな「不時着済み」の人たちの間で「これはまあ、言うまでもなく前提なんだけど……」という共通認識になっているのが「リ・ジョンヒョクが最高にかっこいい」という真実だ。

 そのリ・ジョンヒョクに、私がなりたい、と思ってしまう――。この欲望を周囲に打ち明けると、大笑いされることが多い。無理もない。私は腕っぷしにも体力にも不安のある、気は強いが一見おとなしそうな30代女性だ。一方のリ・ジョンヒョクは、軍人らしい堂々たる肩幅。ネタバレになるが、ユン・セリを守るために銃弾を受け、どうにか一命を取り留めて間もない重傷状態にあってなお、数人の敵を一人でなぎ倒せるレベルの戦闘力がある。軟弱そうな女が、頑強な完璧男を目指すと豪語する。そのギャップが笑いを誘うのだろう。

 でも、違うのだ。私は決してマッチョになりたいんじゃない。美容師さんが「王子様」と表現したときに、もしかしたら彼女も潜在的に求めていたかもしれない、男とか女とかを超越した存在に、憧れるのである。

 ところで「王子様」とは何か。「私を選び、幸せにしてくれる男性」というイメージが一般的だろう。しかし、私たちが王子様にどうしたって憧れてしまうのは、そんな表面的な理由からではないだろう。王子様とは、ありのままの自分を愛し、守ってくれる他者の象徴とみることだってできる。

 おとぎ話は、しばしば世界の本質を突いている。この世は、例えば『シンデレラ』のように、ただ善く生きたいだけなのに虐げられることがある。あらぬ方向から憎しみを受けて、気が付いたら茨の城に仮死状態で閉じ込められる『眠れる森の美女』的な状況に追い込まれることもある。こうした理不尽な苦しみに、一人で抗うことは難しい。でも、損得勘定なしに「この私」を全力で肯定し、解放してくれる誰かが傍らにいてくれたら、立ち向かうことができる。自分一人ではどうにもならない状況に囚われた者を解放するのが「王子様」なら、私たちが「白馬の王子様」を待たない理由なんてない。それに、女が「王子様」になることだって、男が「お姫様」になることだって、あっていい。

 リ・ジョンヒョクは、その意味での「王子様」なのだ。象徴的な場面がある。

 ユン・セリは、社会的地位や事業の成功には恵まれているが、親やきょうだいとの関係は崩壊している。あるがままの自分を受け入れてもらえる居場所を持たない序盤の彼女は、孤独な城の中に自らを幽閉したお姫様のようにも私には映る。

 そんな彼女は、北朝鮮での不自由極まりないはずの生活の中で、「生きることが楽しいという感覚」を取り戻す。リ・ジョンヒョクや、彼に忠実で心優しい隊員たちと出会い、食卓を共にし、あわやというピンチも、皆で知恵や力を出し合うことで何度でも乗り越えた。不自由なはずの環境で、精神的には自由を得たのだ。

 だが、38度線に隔てられている彼らにはやがて別れが訪れることが決まっている。また元の生活に戻るユン・セリに向かって、リ・ジョンヒョクは、こんな言葉をかける。

「孤独にはなるな」「そばにいなくても、君が寂しくないように――いつも思ってる」

 日々を豊かに過ごすうちに「僕のことは忘れても構わない」とまで言い切る。これは、彼女を所有しようとするのではない、ただ“孤立の檻”から解き放ってやりたいという願いを言葉にした、彼の真骨頂だと私は思った。 

 この世界は、自らが望むか望まざるかにかかわらず、孤立状態に追い込まれがちだ。他人と親密な関係を築くことは一般的に好ましいこととされるが、現実はそう簡単ではないからだ。他者と共に生きようとすれば、一人でいれば無縁だった悩みも抱えることになる。生じた摩擦が、耐えがたいほどの痛みをもたらすこともある。金、権力、知性に恵まれたユン・セリなら、一人ぼっちでも取れる選択肢は多い。本当は孤立したかったわけではないが、ある種合理的な判断でもあったのだろう。そんな彼女に、心に他者を住まわせることの豊かさを思い出させたのはリ・ジョンヒョクだった。

 一方、物語が中盤に差し掛かってくると、今度はユン・セリのほうがまるで王子様のように、リ・ジョンヒョクの心を自由にしたり、危険から守ったりする描写も増えてくる。リ・ジョンヒョクもまた、“孤立の檻”に自分を閉じ込めていたからだ。

 彼は尊敬する兄をある「事故」で失った過去を持つ。しかし、その「事故」とされた悲劇の背後には、祖国の暗殺部隊の影が見え隠れする。愛する者の耐え難い死を経験したリ・ジョンヒョクは、彼が劇中で回想する通り「未来を夢見ることをやめ、誰も愛さなかった」のだ。ユン・セリが彼の世界に、不時着するまでは。

どうして私はリ・ジョンヒョクになりたいのか?

 男女のロマンチックラブストーリーといえば、主役カップルの恋模様に焦点が集中していくものだが、このドラマでは「恋愛」だけでなく、2人が心を開いてこそ見えてくる周囲の人々との間の多様な愛も、魅力的に描かれる。分断ばかりが目につく時代に愛の力を肯定する、心温まるドラマだろう。

 そんなドラマに登場するリ・ジョンヒョクに対して「憧れ」の気持ちが生まれるのは、少なくとも私にとっては、彼が女性の求めるタイミングで颯爽と助けにきてくれるからでも、かいがいしく麺をゆでるスキルを持っているからでもない。

 当たり前に異なる他者同士であるリ・ジョンヒョクとユン・セリが出会い、互いの心を解放し合う。王子様とお姫様を軽やかに行き来しながら、男だとか女だとかいうラベルは、もはや意に介すそぶりもない。力を合わせて困難を乗り越えながら、「生きている実感」を確かなものにしていく2人の姿が、ただカッコよくて美しいのだ。

 だから私は、リ・ジョンヒョクみたいに誰かの心を解放するような「王子様」になりたい。この決意を新たにするために、何周目か分からない視聴を今後も続けるだろう。

■加藤藍子(かとう・あいこ)
1984年生まれ、フリーランスの編集者・ライター。 慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、全国紙の新聞記者、 出版社などを経て独立。働き方、ジェンダー、アート、 エンターテインメントなど幅広い分野で取材・随筆を行う。

韓国ドラマ『愛の不時着』、30代女性が「リ・ジョンヒョクになりたい!」ワケ――周囲に大笑いされた“欲望”とは?

 今年2月からNetflixで配信されている、韓国の人気ドラマ『愛の不時着』。日本でも大ヒットし、タレントの笑福亭鶴瓶や黒柳徹子、藤田ニコルら多数の著名人が「ハマった」ことを公言している。そんなドラマの魅力は、一体どこにあるのだろうか? ジェンダーやエンターテインメントに詳しい加藤藍子氏に、“恋愛”だけではない本作の魅力について寄稿していただいた。

【※以下、ネタバレを含みます※】

 韓国ドラマ『愛の不時着』ブームが止まらない。2020年2月後半にNetflixで配信開始以来、総合トップ10入りを保持。全話鑑賞したファンは「不時着ロス」を避けるべく周回視聴を続け、7月に入っても、Twitterの鑑賞実況用ハッシュタグがトレンド入りすることもあったほどだ。なぜこんなに、熱狂するのか。

 物語は、韓国の財閥令嬢で、企業経営者でもあるヒロインのユン・セリが、パラグライダー飛行中に竜巻に巻き込まれ、あろうことか38度線を越えて北朝鮮に不時着してしまうところから始まる。そこで出会うのが、北朝鮮のエリート将校リ・ジョンヒョクだ。

 「北」には、少なくともこのフィクションで描かれている限りでは、法治という概念が存在しない。当局に見つかれば、速攻で殺されるかもしれない極限状態の中、リ・ジョンヒョクはユン・セリをかくまい、あの手この手で南への帰還を助ける。その過程で2人の間に愛が芽生えるという、設定は斬新だが、「胸キュン」の王道はがっちりとつかんだラブストーリーだ。

『愛の不時着』は男女の役割が逆転するから“胸キュン”ではない!

 このドラマについてのレビューや評論では、女性のために粉からこねた麺で料理をつくったり、コーヒーを淹れたりするリ・ジョンヒョクの振る舞いが度々注目され、「性別役割分業が逆転している描写が素晴らしい」とされているのを見かける。それはそうだが、私たちは「性別役割分業が逆転すれば、胸キュンする」というわけではない。

 見始めるやいなや熱狂した一人である私の中には、別の強い感情が湧いた。大切にされるだけじゃ、我慢できない。私はリ・ジョンヒョクになりたい、と。それは彼の存在が、「男だから/男なのに」というラベルを剥がしても成立する魅力を持っていたからではないか。

「リ・ジョンヒョクが、完璧すぎますよね。まあ、あんな王子様、現実にはなかなか存在しないですけど!」

 コロナ禍の緊急事態宣言が解除された6月、久しぶりに髪を切りに出かけたら、私と同い年の美容師さんが興奮気味に話を振ってきた。もはや、珍しいことではない。外へ出かけると、しょっちゅう「不時着見た?」という会話が聞こえてくる。カフェで隣席に座っている男性が、友人とみられる女性に、大げさな身振りで「リ・ジョンヒョク名場面」を再現しているのも見かけた。このドラマの最高なところはたくさんあるのだが、そんな「不時着済み」の人たちの間で「これはまあ、言うまでもなく前提なんだけど……」という共通認識になっているのが「リ・ジョンヒョクが最高にかっこいい」という真実だ。

 そのリ・ジョンヒョクに、私がなりたい、と思ってしまう――。この欲望を周囲に打ち明けると、大笑いされることが多い。無理もない。私は腕っぷしにも体力にも不安のある、気は強いが一見おとなしそうな30代女性だ。一方のリ・ジョンヒョクは、軍人らしい堂々たる肩幅。ネタバレになるが、ユン・セリを守るために銃弾を受け、どうにか一命を取り留めて間もない重傷状態にあってなお、数人の敵を一人でなぎ倒せるレベルの戦闘力がある。軟弱そうな女が、頑強な完璧男を目指すと豪語する。そのギャップが笑いを誘うのだろう。

 でも、違うのだ。私は決してマッチョになりたいんじゃない。美容師さんが「王子様」と表現したときに、もしかしたら彼女も潜在的に求めていたかもしれない、男とか女とかを超越した存在に、憧れるのである。

 ところで「王子様」とは何か。「私を選び、幸せにしてくれる男性」というイメージが一般的だろう。しかし、私たちが王子様にどうしたって憧れてしまうのは、そんな表面的な理由からではないだろう。王子様とは、ありのままの自分を愛し、守ってくれる他者の象徴とみることだってできる。

 おとぎ話は、しばしば世界の本質を突いている。この世は、例えば『シンデレラ』のように、ただ善く生きたいだけなのに虐げられることがある。あらぬ方向から憎しみを受けて、気が付いたら茨の城に仮死状態で閉じ込められる『眠れる森の美女』的な状況に追い込まれることもある。こうした理不尽な苦しみに、一人で抗うことは難しい。でも、損得勘定なしに「この私」を全力で肯定し、解放してくれる誰かが傍らにいてくれたら、立ち向かうことができる。自分一人ではどうにもならない状況に囚われた者を解放するのが「王子様」なら、私たちが「白馬の王子様」を待たない理由なんてない。それに、女が「王子様」になることだって、男が「お姫様」になることだって、あっていい。

 リ・ジョンヒョクは、その意味での「王子様」なのだ。象徴的な場面がある。

 ユン・セリは、社会的地位や事業の成功には恵まれているが、親やきょうだいとの関係は崩壊している。あるがままの自分を受け入れてもらえる居場所を持たない序盤の彼女は、孤独な城の中に自らを幽閉したお姫様のようにも私には映る。

 そんな彼女は、北朝鮮での不自由極まりないはずの生活の中で、「生きることが楽しいという感覚」を取り戻す。リ・ジョンヒョクや、彼に忠実で心優しい隊員たちと出会い、食卓を共にし、あわやというピンチも、皆で知恵や力を出し合うことで何度でも乗り越えた。不自由なはずの環境で、精神的には自由を得たのだ。

 だが、38度線に隔てられている彼らにはやがて別れが訪れることが決まっている。また元の生活に戻るユン・セリに向かって、リ・ジョンヒョクは、こんな言葉をかける。

「孤独にはなるな」「そばにいなくても、君が寂しくないように――いつも思ってる」

 日々を豊かに過ごすうちに「僕のことは忘れても構わない」とまで言い切る。これは、彼女を所有しようとするのではない、ただ“孤立の檻”から解き放ってやりたいという願いを言葉にした、彼の真骨頂だと私は思った。 

 この世界は、自らが望むか望まざるかにかかわらず、孤立状態に追い込まれがちだ。他人と親密な関係を築くことは一般的に好ましいこととされるが、現実はそう簡単ではないからだ。他者と共に生きようとすれば、一人でいれば無縁だった悩みも抱えることになる。生じた摩擦が、耐えがたいほどの痛みをもたらすこともある。金、権力、知性に恵まれたユン・セリなら、一人ぼっちでも取れる選択肢は多い。本当は孤立したかったわけではないが、ある種合理的な判断でもあったのだろう。そんな彼女に、心に他者を住まわせることの豊かさを思い出させたのはリ・ジョンヒョクだった。

 一方、物語が中盤に差し掛かってくると、今度はユン・セリのほうがまるで王子様のように、リ・ジョンヒョクの心を自由にしたり、危険から守ったりする描写も増えてくる。リ・ジョンヒョクもまた、“孤立の檻”に自分を閉じ込めていたからだ。

 彼は尊敬する兄をある「事故」で失った過去を持つ。しかし、その「事故」とされた悲劇の背後には、祖国の暗殺部隊の影が見え隠れする。愛する者の耐え難い死を経験したリ・ジョンヒョクは、彼が劇中で回想する通り「未来を夢見ることをやめ、誰も愛さなかった」のだ。ユン・セリが彼の世界に、不時着するまでは。

どうして私はリ・ジョンヒョクになりたいのか?

 男女のロマンチックラブストーリーといえば、主役カップルの恋模様に焦点が集中していくものだが、このドラマでは「恋愛」だけでなく、2人が心を開いてこそ見えてくる周囲の人々との間の多様な愛も、魅力的に描かれる。分断ばかりが目につく時代に愛の力を肯定する、心温まるドラマだろう。

 そんなドラマに登場するリ・ジョンヒョクに対して「憧れ」の気持ちが生まれるのは、少なくとも私にとっては、彼が女性の求めるタイミングで颯爽と助けにきてくれるからでも、かいがいしく麺をゆでるスキルを持っているからでもない。

 当たり前に異なる他者同士であるリ・ジョンヒョクとユン・セリが出会い、互いの心を解放し合う。王子様とお姫様を軽やかに行き来しながら、男だとか女だとかいうラベルは、もはや意に介すそぶりもない。力を合わせて困難を乗り越えながら、「生きている実感」を確かなものにしていく2人の姿が、ただカッコよくて美しいのだ。

 だから私は、リ・ジョンヒョクみたいに誰かの心を解放するような「王子様」になりたい。この決意を新たにするために、何周目か分からない視聴を今後も続けるだろう。

■加藤藍子(かとう・あいこ)
1984年生まれ、フリーランスの編集者・ライター。 慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、全国紙の新聞記者、 出版社などを経て独立。働き方、ジェンダー、アート、 エンターテインメントなど幅広い分野で取材・随筆を行う。

「兄が妹を『殴る』のは日常茶飯事」――韓国映画『はちどり』から繙く「正当化された暴力」と儒教思想の歴史

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『はちどり』

 昨今のコロナ禍で大きな打撃を受けた映画界。とりわけ、世界各国の多様で良質な映画を届ける、日本ならではの劇場システムである“ミニシアター”は、外出自粛による減収、さらには長引く休館の対応により、存続の危機に立たされた。一方で「SAVE the CINEMA」の署名運動が活発化し、「ミニシアター・エイド基金」のクラウドファンディングで前例のない金額が集まるなど、日常生活においてミニシアターが欠かせない存在であることを多くの人が再認識する機会にもなった。

 各地の映画館が営業を再開した現在も、予防のため定員数を半減、また年配層の観客の減少など状況は依然として苦しい。だがそんな中、1本の映画の盛況ぶりが大きな話題になった。韓国のインディーズ映画『はちどり』(キム・ボラ監督、2019年)である。定員半減中とはいえ封切館では満席回が続出し、シネコンで拡大公開されるまでになった作品だ。

 確かに世界各国の映画祭で次々と受賞した注目作ではあったが、なぜこんなに地味で、名のある俳優も出演していない韓国映画が多くの人を惹きつけたのだろうか。1994年のソウルを舞台に、中学生の少女の視点から家族・友人・学校といった日常を描いた本作は、ごく個人的な世界観を持ってはいるものの、そこには確かに韓国社会のひずみや、その時代特有の空気が横たわっている。

<物語>

 1994年のソウル。餅屋を営む両親、姉のスヒ(パク・スヨン)、兄のデフン(ソン・サンヨン)と暮らす14歳、末っ子の女子中学生ウニ(パク・ジフ)は、勉強が苦手で学校も好きではないが、ボーイフレンドと仲の良い、ごく平凡な女の子。兄は優等生だがウニに対しては暴力的で、姉は不良に片足を突っ込んでいる。父(チョン・インギ)や母(イ・スンヨン)は末っ子のウニにあまり興味がないようだ。そんなある日、ウニが通う漢文塾に、新しい講師・ヨンジ先生(キム・セビョク)がやってくる。初めて自分の気持ちを理解してくれる大人に出会ったウニは、彼女のことを大好きになるが、先生との日々は長くは続かなかった。突然姿を消した先生の行方をウニが知ったのは、ソンス大橋の崩落という信じられない事故が起こってから間もなくのことだった……。

 今回のコラムでは、一見、平凡な女子中学生の成長物語のように見える本作の背景に見え隠れする「韓国」について、私自身の記憶を手繰り寄せながら、この国に根付く「儒教思想」とそれに基づくさまざまな「暴力」の形を考えてみたい。

 まずは、現在に至るまで依然として変わらない、日常生活の隅々にまで染みついている前近代的な儒教思想からの影響だ。朝鮮王朝時代の500年間という長い歳月、国家と社会を維持するための統治イデオロギーとして君臨してきた儒教の真髄は、「服従」にほかならない。王・師・親への服従(君師父一体)と、女の男への服従(男尊女卑、女必従夫)を軸に持つこの思想こそが、服従を美徳・道徳として洗脳に近い教育を徹底してきたのである。そうして形成される社会は、もれなく男性中心の社会であり、権力や金、社会的地位から年齢の差までもがものをいう、いわゆる「縦社会」である。こうした男性中心の縦社会で何より重視されるのが「位階秩序」(ヒエラルキー)である。垂直な階級概念である位階秩序を維持するためには絶対に服従が必要であり、だからこそ美徳や道徳云々と持ち上げてイデオロギー化に走ってきたし、その中で女性に対する抑圧や排除は当たり前のように行われてきたのだ。

 500年以上も人々の上に重くのしかかってきたこのイデオロギーがそう簡単に消えるはずはなく、むしろ、韓国人の「集合的無意識」を形成していると言ってもいいかもしれない。女性の社会進出や活躍が珍しくなくなった今日でも、韓国社会における日常的な女性差別は根本的には変わっていない。つい最近は、息子にだけ財産を相続させた母親の家に、娘が火をつけて焼いてしまうという事件が起こった。男尊女卑が生んだ「남아선호사상(男児選好思想)」の無意識が、財産相続という形で立ち現れた悲劇といえる。

「妹を殴る」ことに罪の意識がなかった長男

 さて、服従の思想が支配する最小の集団といえば、そう、「家族」だ。家族の中で父と息子(=男性)の「階級」は、母や娘(=女性)より格段に上。本作にも描かれているように、父への服従、息子の優遇は、風が吹いて水が流れるがごとく、極めて自然なものである。とりわけ、きょうだいの中での息子の階級は絶対だ。この絶対的な階級は、時には暴力をも承認してしまう。兄が妹を「殴る」のは、家族内の位階秩序を保つために必要なものであり、ウニの母が言うように、あくまで「兄妹げんか」にすぎない。ウニは兄から一方的に殴られ鼓膜まで破れたにもかかわらず、それは「暴力」ではないのだ。妹に対する兄の暴力が、父や母によって厳しく問われることはない。家族間の暴力は「罪ではない」と、無意識の中に内在化してしまっているのだ。

 実は、正直にいうと、本作を見ながら、私はまるで自分の家族を見ているかのような錯覚を覚えて恥ずかしくなった。ウニたちと同じく姉と妹に挟まれた3きょうだいの長男である私は、生まれた時から家族でもっとも大切に扱われてきた。映画が始まって間もなく、突然訪ねてきた伯父の口から、彼の学費のために妹である母親が高校進学を諦めたエピソードが語られるが、私の家庭も経済的に余裕がなく、私だけが大学に進学した。姉や妹も(少なくとも私の目には)それを当然と思っているようだった。

 2人は高校卒業後、就職をして私の学費を助け、時にはお小遣いをくれることもあった。私にとって、それは当然のことだった。だが映画の中で、あまりにも「普通に」ウニを殴る兄のデフンの姿を観た瞬間、高校時代に2歳下の妹を、デフンと同じように殴っていた自分の姿が脳裏に蘇り、恥ずかしさと罪悪感に襲われてしまった。当時の私にとっては、妹を殴ることなど日常茶飯事だった。私の暴力に対して彼女が何を感じていたかを確かめたことはない。だが、映画の中でウニが代わりに答えてくれている。「死んでお化けになって、後悔しているアイツを天井から見下ろしたい」と。今では2人の大学生の母となった妹に、これから先も私は、あの時の心境を確かめることはできないだろう。

 ちなみに、こうした根強く、根深い前近代的な儒教思想は、何も韓国だけのものではない。朝鮮半島全体に広く影響を及ぼしている。その一端を象徴する場面が、本作にも描かれる金日成(キム・イルソン)の死去を伝えるニュース映像だ。全国民が一斉に、まるで両親を失った子どものように慟哭するその場面には、金日成を「어버이(父と母を意味する言葉)」と呼び、絶対的な服従を実践した北朝鮮の儒教的崇拝が現れている。本作における家父長的背景のメタファーとしても読めるだろう。

 次は、漢文塾のヨンジ先生のことだ。物語から、彼女はおそらく80年の民主化運動で先頭に立って闘った学生運動家だったのだろうと推測できる。家族の間でまん延していた暴力、その暴力を暴力として認識できない社会に広まる弱者への暴力。これらの理不尽な暴力とヨンジ先生は闘ってきたのだろう。彼女がウニとウニの友達のために歌う歌は「切られた指」という有名なデモ歌だ。歌は、80年代に学生運動の一環として行われた工場活動を想起させる。以前のコラムでも紹介したが、工場活動(工活)とは大学生たちが身分を隠して工場に就職し、同世代の若者たちが受ける労働搾取と闘ったことを示す言葉だ。ヨンジ先生は自らの歌を通して、そういった「過去」をのぞかせている。そしてまた、一口に民主化運動といっても、その中でさらに女性は差別を受けていた。女性労働者たちのストライキを潰すために、男性労働者たちが活躍したという歴史があるほどなのだ。

 そんなヨンジ先生が「立ち退きを拒否して闘う人たちに対する同情はやめたほうがいい」とさりげなくウニに言い放つセリフは、そうした「運動の中にも根強く存在している男性中心主義への警戒」だったのかもしれない。「兄に殴られるままでいるな、闘え」と強く言い聞かせ、一人の人間として自分に向き合い真摯に接してくれるヨンジ先生によって、ウニは少しずつ「新たな世界」へシフトしていく。その新しい世界にウニがどう挑んでいくかは、映画の後半、韓国で実際に起こった事故を通して象徴的に提示される。

 最後は、その事故・ソンス大橋崩落と、そこから見える軍事独裁政権による国家的暴力だ。

 社会の最小単位と言われる家族の中での無意識化した暴力は、その領域を、学校へ、職場へといった具合に広げていき、ついには国家的暴力にまで拡大していくという負の連鎖を引き起こす。当時の韓国メディアが口をそろえて報道したように、日本の植民地時代に造られた橋がいまだ事故一つなく使われているというのに、竣工からせいぜい15年しかたっていないソンス大橋があっけなく崩落してしまった原因は、当時横行していた朴正煕軍事政権時代の「賄賂とリベート」による手抜き工事と、その後のずさんな管理が積み重なったものであった。さらにその翌年には、デパートの崩壊というこれまた信じられない事故が起こり、数百人の命が奪われることを考えると、これらの事故は文民政府に変わったこの時期に、起こるべくして起こったといえる。

 これはまさに、国家が国民の命をないがしろにし、家族間の無意識の暴力が拡大して国家的暴力として現れた極端な例ではないだろうか。これを目の当たりにしても、多くの国民はそれを暴力として認識できないでいた時代、休みが終わったらすべて話してあげると、ウニに手紙で明かしていたヨンジ先生は、もしかするとそうした暴力に対する鈍感さへの警告を、自らの経験をふまえてウニに教えたかったのかもしれない。だが先生は、皮肉にも国家権力の暴力(=大橋の崩落)によって命を落としてしまい、ウニにすべてを語ることはできなくなってしまった。だが私は、これこそがキム・ボラ監督が意図したことではないかと思った。

 映画の最後でウニは、ヨンジ先生の命を奪った橋を見に行く。ヨンジ先生から教えてもらうことがかなわなくなったウニは、この先一人で考え、感じていかなくてはならない。韓国社会の隅々に染みついているあらゆる形の暴力、女性に加えられる理不尽な暴力に気づき、直視しなければならない。ヨンジ先生の死を、あえてあの大事故に結びつけることで、強くなっていくウニのその後を想像させるのだ。そして大人になったウニの目に、現在の韓国はどう映っているのだろうか。ウニの視点を通して本作は、今も韓国社会に根付くさまざまな形の「暴力」について問いかけているに違いない。そう考えると本作は、家族という枠の中で行われる個人間の暴力や、橋の崩落に潜む国家的暴力など、韓国社会に内在する暴力とその暴力が正当化される構造をも見せてくれた作品であるといえる。

 本作は、キム・ボラ監督の処女作である。監督自身の経験に基づいた物語には、思春期特有の揺らぎがみずみずしく描き出されている。親友とのすれ違い、同性同士のほのかな憧れと残酷な心離れ、世界から顧みられない疎外感、理不尽さに満ちた社会、大人の女性との交流、そして続いていく日常……。演出、カメラワーク、出演者のキャスティング、どれをとっても出色の出来といっていいだろう。だが問題は2作目だ。韓国映画界では、デビュー作で高い評価を得たものの、その後に活躍が続かない作り手も少なくない。監督の本当の実力が試される次回作を、今から楽しみに待ちたい。

■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

「兄が妹を『殴る』のは日常茶飯事」――韓国映画『はちどり』から繙く「正当化された暴力」と儒教思想の歴史

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『はちどり』

 昨今のコロナ禍で大きな打撃を受けた映画界。とりわけ、世界各国の多様で良質な映画を届ける、日本ならではの劇場システムである“ミニシアター”は、外出自粛による減収、さらには長引く休館の対応により、存続の危機に立たされた。一方で「SAVE the CINEMA」の署名運動が活発化し、「ミニシアター・エイド基金」のクラウドファンディングで前例のない金額が集まるなど、日常生活においてミニシアターが欠かせない存在であることを多くの人が再認識する機会にもなった。

 各地の映画館が営業を再開した現在も、予防のため定員数を半減、また年配層の観客の減少など状況は依然として苦しい。だがそんな中、1本の映画の盛況ぶりが大きな話題になった。韓国のインディーズ映画『はちどり』(キム・ボラ監督、2019年)である。定員半減中とはいえ封切館では満席回が続出し、シネコンで拡大公開されるまでになった作品だ。

 確かに世界各国の映画祭で次々と受賞した注目作ではあったが、なぜこんなに地味で、名のある俳優も出演していない韓国映画が多くの人を惹きつけたのだろうか。1994年のソウルを舞台に、中学生の少女の視点から家族・友人・学校といった日常を描いた本作は、ごく個人的な世界観を持ってはいるものの、そこには確かに韓国社会のひずみや、その時代特有の空気が横たわっている。

<物語>

 1994年のソウル。餅屋を営む両親、姉のスヒ(パク・スヨン)、兄のデフン(ソン・サンヨン)と暮らす14歳、末っ子の女子中学生ウニ(パク・ジフ)は、勉強が苦手で学校も好きではないが、ボーイフレンドと仲の良い、ごく平凡な女の子。兄は優等生だがウニに対しては暴力的で、姉は不良に片足を突っ込んでいる。父(チョン・インギ)や母(イ・スンヨン)は末っ子のウニにあまり興味がないようだ。そんなある日、ウニが通う漢文塾に、新しい講師・ヨンジ先生(キム・セビョク)がやってくる。初めて自分の気持ちを理解してくれる大人に出会ったウニは、彼女のことを大好きになるが、先生との日々は長くは続かなかった。突然姿を消した先生の行方をウニが知ったのは、ソンス大橋の崩落という信じられない事故が起こってから間もなくのことだった……。

 今回のコラムでは、一見、平凡な女子中学生の成長物語のように見える本作の背景に見え隠れする「韓国」について、私自身の記憶を手繰り寄せながら、この国に根付く「儒教思想」とそれに基づくさまざまな「暴力」の形を考えてみたい。

 まずは、現在に至るまで依然として変わらない、日常生活の隅々にまで染みついている前近代的な儒教思想からの影響だ。朝鮮王朝時代の500年間という長い歳月、国家と社会を維持するための統治イデオロギーとして君臨してきた儒教の真髄は、「服従」にほかならない。王・師・親への服従(君師父一体)と、女の男への服従(男尊女卑、女必従夫)を軸に持つこの思想こそが、服従を美徳・道徳として洗脳に近い教育を徹底してきたのである。そうして形成される社会は、もれなく男性中心の社会であり、権力や金、社会的地位から年齢の差までもがものをいう、いわゆる「縦社会」である。こうした男性中心の縦社会で何より重視されるのが「位階秩序」(ヒエラルキー)である。垂直な階級概念である位階秩序を維持するためには絶対に服従が必要であり、だからこそ美徳や道徳云々と持ち上げてイデオロギー化に走ってきたし、その中で女性に対する抑圧や排除は当たり前のように行われてきたのだ。

 500年以上も人々の上に重くのしかかってきたこのイデオロギーがそう簡単に消えるはずはなく、むしろ、韓国人の「集合的無意識」を形成していると言ってもいいかもしれない。女性の社会進出や活躍が珍しくなくなった今日でも、韓国社会における日常的な女性差別は根本的には変わっていない。つい最近は、息子にだけ財産を相続させた母親の家に、娘が火をつけて焼いてしまうという事件が起こった。男尊女卑が生んだ「남아선호사상(男児選好思想)」の無意識が、財産相続という形で立ち現れた悲劇といえる。

「妹を殴る」ことに罪の意識がなかった長男

 さて、服従の思想が支配する最小の集団といえば、そう、「家族」だ。家族の中で父と息子(=男性)の「階級」は、母や娘(=女性)より格段に上。本作にも描かれているように、父への服従、息子の優遇は、風が吹いて水が流れるがごとく、極めて自然なものである。とりわけ、きょうだいの中での息子の階級は絶対だ。この絶対的な階級は、時には暴力をも承認してしまう。兄が妹を「殴る」のは、家族内の位階秩序を保つために必要なものであり、ウニの母が言うように、あくまで「兄妹げんか」にすぎない。ウニは兄から一方的に殴られ鼓膜まで破れたにもかかわらず、それは「暴力」ではないのだ。妹に対する兄の暴力が、父や母によって厳しく問われることはない。家族間の暴力は「罪ではない」と、無意識の中に内在化してしまっているのだ。

 実は、正直にいうと、本作を見ながら、私はまるで自分の家族を見ているかのような錯覚を覚えて恥ずかしくなった。ウニたちと同じく姉と妹に挟まれた3きょうだいの長男である私は、生まれた時から家族でもっとも大切に扱われてきた。映画が始まって間もなく、突然訪ねてきた伯父の口から、彼の学費のために妹である母親が高校進学を諦めたエピソードが語られるが、私の家庭も経済的に余裕がなく、私だけが大学に進学した。姉や妹も(少なくとも私の目には)それを当然と思っているようだった。

 2人は高校卒業後、就職をして私の学費を助け、時にはお小遣いをくれることもあった。私にとって、それは当然のことだった。だが映画の中で、あまりにも「普通に」ウニを殴る兄のデフンの姿を観た瞬間、高校時代に2歳下の妹を、デフンと同じように殴っていた自分の姿が脳裏に蘇り、恥ずかしさと罪悪感に襲われてしまった。当時の私にとっては、妹を殴ることなど日常茶飯事だった。私の暴力に対して彼女が何を感じていたかを確かめたことはない。だが、映画の中でウニが代わりに答えてくれている。「死んでお化けになって、後悔しているアイツを天井から見下ろしたい」と。今では2人の大学生の母となった妹に、これから先も私は、あの時の心境を確かめることはできないだろう。

 ちなみに、こうした根強く、根深い前近代的な儒教思想は、何も韓国だけのものではない。朝鮮半島全体に広く影響を及ぼしている。その一端を象徴する場面が、本作にも描かれる金日成(キム・イルソン)の死去を伝えるニュース映像だ。全国民が一斉に、まるで両親を失った子どものように慟哭するその場面には、金日成を「어버이(父と母を意味する言葉)」と呼び、絶対的な服従を実践した北朝鮮の儒教的崇拝が現れている。本作における家父長的背景のメタファーとしても読めるだろう。

 次は、漢文塾のヨンジ先生のことだ。物語から、彼女はおそらく80年の民主化運動で先頭に立って闘った学生運動家だったのだろうと推測できる。家族の間でまん延していた暴力、その暴力を暴力として認識できない社会に広まる弱者への暴力。これらの理不尽な暴力とヨンジ先生は闘ってきたのだろう。彼女がウニとウニの友達のために歌う歌は「切られた指」という有名なデモ歌だ。歌は、80年代に学生運動の一環として行われた工場活動を想起させる。以前のコラムでも紹介したが、工場活動(工活)とは大学生たちが身分を隠して工場に就職し、同世代の若者たちが受ける労働搾取と闘ったことを示す言葉だ。ヨンジ先生は自らの歌を通して、そういった「過去」をのぞかせている。そしてまた、一口に民主化運動といっても、その中でさらに女性は差別を受けていた。女性労働者たちのストライキを潰すために、男性労働者たちが活躍したという歴史があるほどなのだ。

 そんなヨンジ先生が「立ち退きを拒否して闘う人たちに対する同情はやめたほうがいい」とさりげなくウニに言い放つセリフは、そうした「運動の中にも根強く存在している男性中心主義への警戒」だったのかもしれない。「兄に殴られるままでいるな、闘え」と強く言い聞かせ、一人の人間として自分に向き合い真摯に接してくれるヨンジ先生によって、ウニは少しずつ「新たな世界」へシフトしていく。その新しい世界にウニがどう挑んでいくかは、映画の後半、韓国で実際に起こった事故を通して象徴的に提示される。

 最後は、その事故・ソンス大橋崩落と、そこから見える軍事独裁政権による国家的暴力だ。

 社会の最小単位と言われる家族の中での無意識化した暴力は、その領域を、学校へ、職場へといった具合に広げていき、ついには国家的暴力にまで拡大していくという負の連鎖を引き起こす。当時の韓国メディアが口をそろえて報道したように、日本の植民地時代に造られた橋がいまだ事故一つなく使われているというのに、竣工からせいぜい15年しかたっていないソンス大橋があっけなく崩落してしまった原因は、当時横行していた朴正煕軍事政権時代の「賄賂とリベート」による手抜き工事と、その後のずさんな管理が積み重なったものであった。さらにその翌年には、デパートの崩壊というこれまた信じられない事故が起こり、数百人の命が奪われることを考えると、これらの事故は文民政府に変わったこの時期に、起こるべくして起こったといえる。

 これはまさに、国家が国民の命をないがしろにし、家族間の無意識の暴力が拡大して国家的暴力として現れた極端な例ではないだろうか。これを目の当たりにしても、多くの国民はそれを暴力として認識できないでいた時代、休みが終わったらすべて話してあげると、ウニに手紙で明かしていたヨンジ先生は、もしかするとそうした暴力に対する鈍感さへの警告を、自らの経験をふまえてウニに教えたかったのかもしれない。だが先生は、皮肉にも国家権力の暴力(=大橋の崩落)によって命を落としてしまい、ウニにすべてを語ることはできなくなってしまった。だが私は、これこそがキム・ボラ監督が意図したことではないかと思った。

 映画の最後でウニは、ヨンジ先生の命を奪った橋を見に行く。ヨンジ先生から教えてもらうことがかなわなくなったウニは、この先一人で考え、感じていかなくてはならない。韓国社会の隅々に染みついているあらゆる形の暴力、女性に加えられる理不尽な暴力に気づき、直視しなければならない。ヨンジ先生の死を、あえてあの大事故に結びつけることで、強くなっていくウニのその後を想像させるのだ。そして大人になったウニの目に、現在の韓国はどう映っているのだろうか。ウニの視点を通して本作は、今も韓国社会に根付くさまざまな形の「暴力」について問いかけているに違いない。そう考えると本作は、家族という枠の中で行われる個人間の暴力や、橋の崩落に潜む国家的暴力など、韓国社会に内在する暴力とその暴力が正当化される構造をも見せてくれた作品であるといえる。

 本作は、キム・ボラ監督の処女作である。監督自身の経験に基づいた物語には、思春期特有の揺らぎがみずみずしく描き出されている。親友とのすれ違い、同性同士のほのかな憧れと残酷な心離れ、世界から顧みられない疎外感、理不尽さに満ちた社会、大人の女性との交流、そして続いていく日常……。演出、カメラワーク、出演者のキャスティング、どれをとっても出色の出来といっていいだろう。だが問題は2作目だ。韓国映画界では、デビュー作で高い評価を得たものの、その後に活躍が続かない作り手も少なくない。監督の本当の実力が試される次回作を、今から楽しみに待ちたい。

■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

韓国映画『ロスト・メモリーズ』、歴史改変SFが「公式の歴史」をなぞる……描けなかったアンタッチャブルな領域

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『ロスト・メモリーズ』

 今から13年前の2007年、韓国近代史を専門とするロンドン大学のアンダース・カールソン教授が、韓国メディアに総叩きにされる事件が起こった。高麗大学での夏期特別講座で、安重根(アン・ジュングン)や金九(キム・グ)ら抗日運動家を「テロリスト」呼ばわりしたという理由だった。韓国のネトウヨたちはすぐさま反応し、カルソン教授への誹謗中傷や批判が広まって、彼は講座中止の窮地にまで追い込まれてしまった。

 それもそのはず、韓国人にとって抗日運動家とは尊敬してやまない偉大な存在であり、中でも安重根は「韓国侵略の元凶」とされる伊藤博文を射殺した、“英雄中の英雄”である。そんな彼をあのイスラム国やタリバンと同列の「テロリスト」として語るとは正気か――あるネットメディアは、「天人ともに許さざる」日本の蛮行に抵抗した抗日運動家たちの「義挙」をテロと呼んだ教授に、怒りをあらわに反論した。

 教授は実際には、「帝国との闘いには、非暴力的な方法もあれば、ゲリラ戦や要人暗殺といったテロリズムもある」と、当時の闘いと近年の無差別殺人を伴うテロとは差別化して説明していた。にもかかわらずネトウヨやメディアは「テロリスト」という単語だけを切り取り、現在のテロリズムの文脈から解釈して騒ぎ立てたというわけだ。

 カルソン教授は数少ない欧米の韓国史研究者であり、ロンドン大学で韓国語や韓国史を教えている「ありがたい存在」ということもあって、早々に騒ぎは収まり、講座は無事に終わった。が、この騒ぎは安重根ら抗日運動家が韓国においてアンタッチャブルな存在であることを改めて浮き彫りにした。

 日本による植民地支配の不当性を徹底的に教育する韓国からすれば、当然の態度かもしれないが、特定の歴史的事件に対して議論の余地を与えず、ひたすら神聖化へと突き進んでしまう恐ろしさは常に存在する。歴史はさまざまな視点から捉えられるべき、とは常識ではあるものの、見方を固定しようとする動きに対しては警戒を怠ってはならないのだ。

 今回取り上げる『ロスト・メモリーズ』(イ・シミョン監督、2002)は、そういう意味では、いわゆる「歴史改変(alternative history)もの」として、植民地の歴史に対して興味深い視点を提示している。「歴史改変もの」とは、歴史が実際とは違う展開になった場合の現在や未来における架空の物語を描く、SFジャンルの一種だ。歴史的な出来事にフィクションを加味する「ファクション」とは違い、仮定法によってまったく異なる歴史を再創造し、あり得たかもしれない歴史の多様な可能性を提示する。架空の歴史を見るというジャンル的な楽しみはもちろん、予測可能な歴史的選択肢の一つにもなりうるという点が、「歴史改変もの」に注目が集まる理由だ。

 一方でこのジャンルには、史実と二項対立的に単純比較され、史実がいかに正しいかを強調するためのものとして、プロパガンダ的に使われる危険性も潜んでいる。植民地支配の歴史改変ものとして本作は、はたしてどのような再創造の世界を見せてくれるだろうか。

<物語>

 1909年10月26日のハルビン駅。安重根は伊藤博文の暗殺に失敗し、その場で射殺される。これによってまったく違う方向に展開する歴史は、日本の大東亜共栄圏の成功につながり、2009年現在も韓国は日本の植民地のままである。日本第3の都市になっている京城(ソウル)で、政界の大物率いる「井上財団」が主催した遺物展覧会の会場が、反政府組織「朝鮮解放同盟」によって襲撃される。鎮圧に駆け付けた連邦捜査局JBI(FBIのもじりか)の捜査官・坂本(チャン・ドンゴン)や西郷(仲村トオル)らによってテロはすぐに抑え込まれるが、坂本はテロリストの目的がはっきりしないことに疑問を抱く。再捜査を求める朝鮮系日本人の坂本に対し、上層部はなぜか事件を隠蔽しようとする。

 ひとり捜査を進めて停職・逮捕の危機に瀕した坂本は、逃げる際に撃たれて重傷を負う。行き場を失った坂本は、「不令鮮人」(不逞鮮人)たちに助けられ、彼らのアジトで次第に朝鮮人としての民族意識に目覚めていく。やがて、安重根による伊藤博文暗殺の失敗やその後のゆがんだ歴史は、すべて井上財団が画策した巨大な陰謀の結果だったことを知った坂本は、歴史を正すべく、タイムスリップ装置を利用して100年前のあの日のハルビン駅へ向かう。

 本作には仲村や光石研ら韓国でも名を知られる日本人俳優が出演して話題を呼んだが、個人的には『にあんちゃん』(1959)や『豚と軍艦』(61)、『うなぎ』(97)など数々の名作を残した日本映画界の巨匠、故・今村昌平監督が歴史学者として登場したのに驚いた。どうやら、今村監督が創設した日本映画専門学校(現・日本映画大学)の卒業生である俳優キム・ウンスが捜査官の役で出演していた縁からだといわれるが、同時に、1998年当時の金大中(キム・デジュン)政権が行った日本大衆文化開放政策によって、戦後の韓国で正式に上映された初めての日本映画が『うなぎ』だったという歴史的なつながりもあったかもしれない。

 さて、物語からもわかるように、本作はアンタッチャブルな安重根の義挙という歴史の改変を出発点にしている。伊藤博文の暗殺に失敗し、逆にその場で安重根が殺されるという大胆な書き換えに始まり、伊藤博文の朝鮮総督府・初代総督赴任、三・一独立運動など抗日運動の失敗、日米同盟と連合軍側での第2次世界大戦参戦、満州併合、ベルリンへの原爆投下で大戦終結といった改変された歴史が、オープニングで次々とスピーディーに提示される。そして戦後、戦勝国の日本は国連安保理の常任理事国になり、88年の名古屋オリンピックや2002年のワールドカップを招致。サッカー選手のイ・ドングク(韓国サッカー界を代表する人物)の胸には韓国の国旗ではなく日の丸が輝き、京城のど真ん中には李舜臣(イ・スンシン)ではなく豊臣秀吉の銅像が立っている……。

 インパクトの強いオープニングであるだけに、これらの衝撃的な改変がどのように映画の物語と絡んでいくのか、期待を込めて見始めたのだが、映画は時代を09年という近未来(製作当時)にしただけで、そこで繰り広げられる闘いは、次第に抗日運動を素材にした「韓国=善/日本=悪」といったお決まりの二項対立に収斂されていった。朝鮮独立のために命を懸けて壮絶に闘い死んでいったとされる、国家が認めた「公式の歴史」をなぞるだけでは、わざわざ歴史を改変した理由がまったく見当たらないではないか。伊藤博文暗殺失敗というねじ曲げられた「悪い歴史」を「正しい歴史」に戻すためにタイムスリップし、暗殺を成功させるという結末はもはや見なくてもわかるものであり、映画というメディアに許された自由な表現空間は生かされることなく映画は終わりを迎えた。

 植民地支配の時代、多くの抗日運動家が命を惜しまず闘ったのは事実だが、独立の決定打になったのは日本の敗戦にほかならない。それにより、朝鮮は期せずして解放を迎えることになった。それなのに、韓国の独立はすべて抗日運動の帰結として捉えるのは、それこそ都合の良い解釈という改変ではないだろうか。わざわざ「歴史改変もの」の型を借りたにもかかわらず、本作は結局、歴史を多様なレベルで考えさせるなどといった意図など最初から持ち合わせていなかったようである。韓流スターが主演し、日本からも多くのキャストを得て画期的な試みとなるはずだった映画は、製作から18年がたった現在、ほとんど忘れ去られてしまっている。

 見終わってふと、伊藤博文暗殺の義挙に隠れてあまり議論されることのない、安重根をめぐる別の歴史に思いをはせた。実は彼は、1894年に農民らが蜂起した「東学農民運動(東学党の乱としても知られる)」では、官軍側の立場から鎮圧に参加していた。また処刑後、安重根の家族が日本の官憲に追われて逃げ続ける不遇な日々を送る中で、日本政府に利用された息子の俊生(ジュンセン)は、伊藤博文の息子に謝罪する事態に追い詰められ、朝鮮の民衆から「民族の裏切り者」と呼ばれた。「伊藤博文を暗殺した英雄」という視点だけでは見えない、安重根をめぐる複層的な歴史もまた存在するのである。

 だがそれでも「歴史改変もの」ジャンルが秘める映画的可能性を、私はまだ信じている。とりわけ植民地時代の歴史に対するアンタッチャブルな姿勢の問題点を理解し、そこに大胆な改変を試みる、本ジャンルの新たな傑作が誕生する日を心待ちにしている。まだ理想的な期待かもしれないが、もっと柔軟で多層的な文脈を持つ傑作を、である。

■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

K-POP、2020年上半期ベスト15曲! TWICE「OXYGEN」ベッキョン「R U Ridin’?」Stray Kids「Airplane」ほか

――毎月リリースされるK-POPの楽曲。それらを楽しみ尽くす“視点”を、さまざまなジャンルのDJを経て現在はK-POPのクラブイベントを主宰するe_e_li_c_a氏がレクチャー。今回は今年の上半期に発表された楽曲を振り返ります!

 今月は2020年上半期(1月~6月)のリリースから私の好みの15曲をピックアップして紹介します。特に順位はなく、1月からリリース順に挙げています。

SF9 - Good Guy (2020.01.07)

 FNC Entertainment所属9人組グループ、SF9の初フルアルバム「FIRST COLLECTION」のタイトル曲で、UK GarageやDeep Houseの要素を含んだ楽曲です。2月の記事でアルバム収録の「One Love」を紹介しました。

 年始に行ったホーチミンのパティスリーのインテリアがMVの雰囲気と似ていて、曲がリリースされた直後なこともありとてもテンションが上がりながらケーキを食べた思い出があります。また、この活動でデビューから4年目にして初めて音楽番組で1位を獲ります。個人的には音楽番組やチャートでの1位獲得を人気の物差しや目標にして欲しくはないですが、たくさんのアーティストに機会が多くあることは良いことだと思います。『셒구상사(SF9商事)』というリアリティ番組が大好きなので是非検索して見て下さい。

드림노트 (DreamNote) - Bittersweet (2020.01.08)

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 iMe KOREA所属6人組グループ、Dreamnoteの3枚目シングル・アルバム『Dream Wish』の収録曲です。アルバムをブラック・アイド・ピルスンのチェ·ギュソンがプロデュースしており、全体的にコンセプトがしっかりした良いアルバムです。「Bittersweet」はChill House系の楽曲で、サビで聞こえるメインボーカルのララの特徴的な声が大好きです。

 事務所があまり聞き馴染みがないかもしれませんが、北京に本社がありアジア10カ国に子会社を置く、音楽を総合的に扱うiME Entertainment Group Asiaの子会社です。iME KOREAにアイドルグループが所属するのはDreamnoteが初で、俳優のイ・セジンやR&BデュオのFly to the skyが所属しています。

펜타곤 (PENTAGON) - TALK (2020.02.12)

 CUBE ENTERTAINMENT所属9人組グループ、Pentagonの初フルアルバム『UNIVERSE:THE BLACK HALL』の収録曲で、歌詞をメンバーのジノ、ウソクが書いています。1つ前のEP『SUM(ME:R)』に収録されている「SUMMER!」と作曲・作詞が同じ顔ぶれで、どちらもポップさと寂しさが共存する趣のある曲です。

 昨年、日本語楽曲の「HAPPINESS」について記事を書きましたが、音楽的にも彼らの実力が高いことは明らかなので、今後も今まで以上に多様なPentagonを見せて欲しいです。4月から6月にかけてMnetのサバイバル番組『Road to Kingdom』に出演し、兵役直前のジノへのサプライズステージが話題になりましたが、デビューからのさまざまな苦難を思い出し、私はまんまと大号泣しながら視聴しました。

NCT127 - 낮잠 (Pandora's Box) (2020.03.06)

 SM Entertainment所属10人組グループ、NCT127の2枚目のフルアルバム『NCT#127 Neo Zone』の収録曲です。アルバム全ての曲にTrack VideoというショートMVのようなものがあり、リリース前からすでにかなりの労力がかかっていることがわかりました。ちなみに「Pandora's Box」のTrack Videoはこちらです。このようなグルーヴたっぷりのR&Bをラップも乗せた上でさらりとこなせるメンバーの技術力の高さに毎回感嘆します。

 このアルバムは本当に大好きな曲が多く、「Elevator(127F)」と「Pandora's Box」と「우산(Love Song)」で最後までどれを挙げるか悩みに悩みました。全員にしっかりと実力があるからこそ実現できることなのかもしれませんが、サビやロングトーン以外の部分でもはっきりと誰が歌っているかわかるような気持ち良いボーカルの見せ場が作られているのが、聞いていてとても気持ち良いです。

강다니엘 (Kang Daniel) - Interview (2020.03.24)

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 元Wanna Oneメンバー、自分で立ち上げたKONNECT Entertainment所属のソロアーティスト、カン・ダニエルの2枚目EP『CYAN』の収録曲です。

 元々所属していた事務所との契約関係での訴訟問題や、以前からの誹謗中傷などによるうつ病やパニック障害などの症状に苦しめられ、ソロの活動を開始するまでにさまざまな困難がありましたが、1枚目のEPからとにかく楽曲が良く、Wanna One所属時代は彼自身にあまり興味を持ったことがありませんでしたが、今後はたくさん本人のやりたいことを目一杯やりながら活動して欲しいなと思います。

 TOP MEDIA所属5人組グループMCNDのシングル曲です。5月の特集で取り挙げているため細かい説明は不要だと思いますが、コロナ禍でこの曲と歌詞、彼らのプロモーションに救われた人がいるんじゃないかと思います。まだデビューして半年少しでシングルが2曲、EPが1枚しかリリースされていないですが今後に期待したいです。

에이핑크 (Apink) - Yummy (2020.04.13)

 Play M Entertainment所属6人組グループ、Apinkの9枚目のEP『LOOK』の収録曲です。一つ前のEP『PERCENT』も全体的に良く、今回も「Yummy」と「Be Myself」で本当に悩みましたが、「Be Myself」はメンバー3人のユニット曲なため、全員いる「Yummy」を選びました。ちなみに、あとの3人のユニット曲「Love is Blind」も良い曲で、音楽番組ではタイトル曲の「덤더럼(Dumhdurum)」とユニット曲の計3曲を披露して活動しました。

 K-Popアイドル自体、全員揃って契約更新をすることはあまり多くないですが、Apinkは2017年に全員が契約を更新し、それ以降発表された4枚のEPはどれもとても良いものになっています。メインボーカル・ウンジの透き通った落ち着きのある声が大好きで、これからもたくさん良い曲がリリースされたらうれしいです。

밴디트 (BVNDIT) - Children (2020.04.20)

 MHN Entertainment所属5人組グループBVNDITの2枚目EP『Carnival』の収録曲及び、その先行シングルとしてリリースされた楽曲です。グループ名にあまり馴染みがないかもしれませんが「バンディット(韓国語発音ではベンディト)」と読み、チョンハと同じ事務所なため、チョンハの妹グループとも言われています。

 Lo-Fi Hiphopとして6月の特集でこの曲を挙げましたが、このようなジャンルの楽曲かつオールアニメーションのMVを先行シングルとしてリリースし、さらには音楽番組に出演して活動することが今まではあまり考えられないことだったと思うので、挑戦したなと感心しました。今後ももっとK-Popシーンで音楽やパフォーマンス、形態などさまざまな表現が多様化していったら良いなと思います。

오마이걸 (OH MY GIRL) - 살짝 설렜어 (Nonstop) (2020.04.27)

 WM Entertainment所属7人組グループOH MY GIRLの7枚目のEP『NONSTOP』のタイトル曲です。OH MY GIRLは19年下半期に『Queendom』というMnetのサバイバル番組に出演し知名度を上げ、その後初めてのリリースが今回の『NONSTOP』でした。成績は恐らく誰もが想像する以上で、音楽番組で1位獲得はもちろんのこと、melon(韓国でシェア1位の音楽配信サイト)のチャートでもかなり長い期間にわたって1位、及び上位にチャートインします。melonは利用にあたり、韓国の携帯番号での認証が必要なため実質韓国に住む人しか利用ができず、音楽番組や他配信サイトに比べて、より韓国内での人気を反映しているチャートと言えます。

 この記事を書いている7月末に確認しても、いまだに「Nonstop」が13位にチャートインしています(ちなみに12位には収録曲「Dolphin」がいます)。また曲中のミミのラップが非常に良く、デビュー当時からOH MY GIRLの楽曲に好きなものはたくさんありましたが、デビューから5年たってようやくそれに気付けた曲でもあります。

공원소녀 (Girls in the Park) - 공중곡예사 (Wonderboy, the Aerialist) (2020.04.28)

 KIWI Media Group所属7人組グループ公園少女の4枚目EP『the Keys』の収録曲です(今回はメンバー・ソソがケガなどの理由で活動に参加していません)。デビューから「夜の公園シリーズ」と称してDeep House・UK Garage楽曲がタイトル曲のEPを3枚リリースしましたが、今回はタイトル曲が少しElecto寄りの楽曲になっており、また別のシリーズが始まるようです。

 今までの3枚のEPも全て良いのですが、今回も「공중곡예사(Wonderboy, the Aerialist)」と「Tweaks ~ Heavy cloud but no rain」の2曲でどちらを挙げるか非常に悩みました。4つ打ちやバラードの楽曲をやる女性アイドルグループはたくさんあれど、このようなシャッフル調のJazz楽曲をやるグループはあまりないためこちらを選びました。この曲はタイトル曲「BAZOOKA!」の後続曲として音楽番組で何度かステージも披露しているので検索して見てみて下さい。特に人気や反応などに左右されず、毎回最高クオリティの楽曲を準備出来るKIWI Mediaに、これからもよろしくね! と言いたいです。

백현(BAEKHYUN) - R U Ridin'? (2020.05.25)']

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 もはや説明不要、SM Entertainment所属EXOのメインボーカル・ベッキョンの2枚目のソロEP『Delight』の収録曲です。こちらもEPの「R U Ridin'?」「Bungee」「Poppin'」と、どれにするか迷いました。6月の記事で特集しています。SMのグループに所属するアーティストでソロ活動が好きなのは、SHINeeのキーとベッキョンなのですが、2人ともセルフプロデュースがうまく、今後もソロアルバムをリリースして欲しいなと思わせます。

트와이스 (TWICE) - OXYGEN (2020.06.01)

こちらも説明不要、JYP Entertainment所属9人組グループTWICEの9枚目EP『MORE & MORE』の収録曲です。1つ前のEP『Feel Special』から2stepアイドル(2step楽曲を持つグループを勝手にこう呼びます)の仲間入りをしたTWICE、今回も良い2step曲があってうれしいです。昨年の『Feel Special』リリース時に2stepについて書いた記事があるのでまだ読んでいない方は是非読んでみて下さい。

 TWICEは年々、アルバムをリリースしても音楽番組に出たりするプロモーションの期間が短くなってきていて、タイトル曲以外のステージを見られる機会がカムバックショーケースやコンサート以外では少ないため、是非この曲のパフォーマンスを8月9日のオンラインコンサートで見たいです。本当は4月に東京ドームで彼女たちを見るはずだったのに……。

하성운 (HA SUNG WOON) - Twinkle Twinkle (2020.06.08)

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 元Wanna Oneから2人目、StarCrew ent所属6人組グループHOTSHOTのメンバー、ハ・ソンウンの3枚目EP『Twilight Zone』の収録曲です。グルーヴのあるトラックにエレピとピアノの音が映える、ファルセットが気持ち良い曲です。

 こちらもEP全体が良すぎて「Lazy Lovers」「Puzzle」「Twinkle Twinkle」のどれを選ぼうか、かなり悩みました。3枚目のEPですが今までのリリースに比べて音楽的にかなり深みのあるEPになっているのを感じます。デビュー当時からHOTSHOTを追っていたので、グループとしての活動がないのはとても悲しいですが、事務所の経営が本当に厳しいらしいので大黒柱として頑張って欲しいです。

스트레이 키즈 (Stray Kids) - 비행기 (Airplane)(2020.06.17)

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 JYP Entertainment所属8人組グループStray Kidsの初フルアルバム『GO生』の収録曲です。こちらも同アルバムの収録曲「GO生」を7月に特集しましたが、それとは打って変わってポップでほんの少し哀愁のある楽曲です。楽曲の内容が、好きな人に旅行というアプローチで告白をする曲で、今まで彼らの曲で恋愛のことを歌う曲はなかったので変に深読みしてしまいます。

 Stray Kidsは毎回アルバム収録の1曲をStreet Ver.として、道端を歩いたり公園で遊ぶ模様を収録したMVを出すのですが、恐らく今回この曲がそれの対象になっているため、MVが突然公開されるのを今か今かと待ち続けています。追記:原稿を出したあとに突然、 メンバーのスンミン編集で動画がアップされました。 フルで見たい!

 元X1メンバー、Yuehua Entertainment所属5人組グループ、UNIQのメンバー・スンヨンの初ソロEP『EQUAL』の収録曲です。

 14年にUNIQでデビューしたものの、その後全くグループとしての活動がなく、16年からLuizy名義で個人的に曲をリリースしていましたが、18年からWOODZという名義に変更し、現在も引き続きその名義を使って活動しています。今までリリースした楽曲や、Mnetのラップサバイバル番組『SMTM5』への出演経歴から本人のスキルの高さは知っていましたが、X1のトラブルなどもあり、なかなか表舞台に立つ機会がなかったため、今回のEPは待望のリリースでした。この曲以外にも『SMTM8』の優勝者punchnelloを客演に迎えた楽曲もあり、今までのアンダーグラウンドでの地道な活動を生かした、(事務所からの公式)ソロデビューとなりました。

 今回はメジャーな楽曲を中心に選びましたが、インディーなものについてはTwitterで#e_e_li_c_a良い曲タグ2020というハッシュタグを使ってつぶやいているので気になった方はチェックしてみて下さい。

7月リリース楽曲、紹介できなかった1曲

■유키카 YUKIKA - Yesterday

 実写版ドラマ『アイドルマスター.KR』のReal Girls Project出身、現在はESTi(パク・ジンベ)が代表のESTIMATEという事務所に所属しているユキカのシングルです。この後、「서울여자 (SOUL LADY)」という楽曲をタイトル曲に同タイトルのアルバムをリリースし、この「Yesterday」は先行シングルという扱いになります。「SOUL LADY」も良い曲なのですが、個人的に「Yesterday」のほうが好きなのでこちらを挙げました。

 ESTiは学生時代、外大の日本語学科に所属していた経歴もあり、昔からゲーム音楽を作成したり、日本の音系・メディアミックス同人即売会M3に参加し楽曲を発表するなど日本との縁が深く、「アイドルマスター2」や「アイドルマスターシンデレラガールズ」などのゲーム楽曲を複数制作しています。ユキカがESTIMATEに所属してからは、全ての楽曲のプロデュースとクリエイティブディレクターをESTiが手掛けており、不思議な巡り合わせだなぁと感じます。アルバム『서울여자』も「From HND to GMP」という東京からソウルに行くのに定番の航路をタイトルにした楽曲が1曲目に置かれており、アルバムとして完成された作りなので是非通して聞いてみて下さい。

<近況>
 性懲りもなくMnetのサバイバル番組『I-Land』を毎週見ています。ニキ頑張れ……。

 昨年末から開催できていないクラブイベント『Liar Liar』を8月10日(月・祝)にオンラインで開催することにしました。当日は15時からTwitch経由でどこからでも見て頂けるので是非お時間を作って参加して下さい! 詳しくは@Todak_Todakkをチェックして下さい。

e_e_li_c_a
1987年生まれ。18歳からDJを始めヒップホップ、ソウル、 ファンク、ジャズ、中東音楽、 タイポップスなどさまざまなジャンルを経て現在K-POPをかけるクラブイベント「Todak Todak」を主催。楽曲的な面白さとアイドルとしての魅力の双方からK-POPを紹介して人気を集める。

Twitter @e_e_li_c_a TodakTodak 
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大ヒット韓国映画『新感染』『半島』のヨン・サンホ監督作! 清濁併せ持つ信仰心を描いた話題作『フェイク~我は神なり』

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『フェイク~我は神なり』

 依然として世界で猛威を振るっている、新型コロナウイルス。韓国も例外ではないが、一時は抑え込んだと思われた感染拡大を一気に爆発させ、国民の非難の的になった集団がある。「신천지(新天地)」という新興宗教集団だ。彼らは、“3密”どころか、感染予防を完全に無視した大規模な集会を開き、集会に参加したことを隠して全国に感染を広めたとして、文字通り袋叩きにされたのだ。

 最初は行方をくらましていた教祖イ・マンヒも事態を重く見て、記者会見で国民に謝罪し、当局の検査に積極的に協力すると約束したのだが、国民や政府の憤りは収まらず。ついにはソウル市から宗教集団としての法人資格の取り消し処分を受けた。

 新興宗教団体によるコロナ感染拡大のニュースは日本でも報道されたが、その後、韓国では「新天地」をめぐって別の問題が浮上した。信者たちの財産の詐取や監禁といった、以前から疑われていた違法行為が再び指摘されたのだ。実際、「新天地」の集会に出たきり行方不明になった人が大勢いるといわれており、中には家族に黙って全財産を「寄付」した人もいるという。信者の家族や元信者たちは詐欺の被害を裁判で訴えているのだが、宗教という非常に個人的な領域の問題であるだけに、「自分の意思」なのか「新天地の強制」なのかの明確化が論点になっている。

 かねてから韓国では新興宗教だけでなく、宗教を利用した事件や犯罪が度々社会を震撼させてきた。教祖を含む32人が集団自殺をした1987年の「五大洋事件」、もうすぐ世界の終末が来ると信者たちを騙して財産を着服した92年の「タミ宣教会“携挙”詐欺事件」、韓国の天然記念物に指定されている犬「チンドッケ」を崇拝する集団による2014年の「幼児殺害・遺体遺棄」などがその代表的なものである。こうした韓国の新興宗教にはキリスト教のプロテスタントから派生した教団が圧倒的に多く、また団体の中で犯罪を犯すケースも少なくない。

 プロテスタントの牧師やプロテスタント系新興宗教の教祖による犯罪は、検察の統計によれば年々増えており、なかでも男性牧師/教祖による女性信者へのセクハラ事件が最も多い。「神の使者」に逆らうことはできないという信者の信仰心を利用した卑劣な犯罪を、牧師や教祖たちが犯しているのだ。

 今回のコラムでは、まさにこのような宗教を利用した犯罪をリアルに描き、高い評価を得たアニメーション映画『フェイク~我は神なり』(ヨン・サンホ監督、2013)を取り上げ、韓国における宗教や信仰について触れてみたい。監督のヨン・サンホは、近年日本でも大ヒットしたゾンビ映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』(16)を手掛けているが、デビュー作はアニメーション映画で、韓国では珍しいアニメと実写の“二刀流”監督として知られている。

 本作は、国内で最も優れたインディーズ映画に与えられる「第16回今年の独立映画賞」や、「第46回シッチェス国際映画祭」で最優秀アニメーション賞を受賞するなど、国内外で大きく注目された。興行面でも、スクリーン確保や配給が厳しいために観客動員1万人以上なら大成功といわれる韓国インディーズ映画界において、2万2,000人以上を記録するヒットとなった。ヨン監督は現在、『新感染』の4年後の世界を描いた、新作実写映画『半島』が韓国で大ヒット中、今後がますます楽しみな映画作家である。

<物語>
 ダムの建設予定地で、水没の危機にある田舎の村に、プレハブの教会が建てられる。この教会の長老であるチェ・ギョンソク(声:クォン・ヘヒョ)は、牧師のソン・チョル(オ・ジョンセ)と共に病人を治癒するなどの詐欺を働いて村人を信じ込ませ、水没の補償金を騙し取ろうする。一方、外地から村に帰ってきたキム・ミンチョル(ヤン・イクチュン)は、娘のヨンソン(パク・ヒボン)の貯金を奪い、賭博に費やしてしまう。

 ひょんなことから、チェ長老が実は指名手配中の詐欺師だと知ったミンチョルは、この事実を警察や村人に知らせようとするが、乱暴者のミンチョルを信じる者は誰もおらず、むしろミンチョルは悪魔呼ばわりされる。妻や娘にすら信じてもらえず暴力を加速させるミンチョルは、自分の正しさを証明しようとするが、チェ長老の口車に乗せられたヨンソンが行方不明になると、事態はますます破局へと向かっていく。

 本作の原題は『사이비(似而非)』という。似而非(エセ)とは「同じように見えて実はまったく違う偽者」という意味。韓国では「似而非宗教」や「似而非教祖」、「似而非メディア」といった具合に偽者(物)を批判するときによく使われるため、この言葉にはすでに犯罪の意味が込められており、本作同様、宗教との関連で語られる場合が多い。

 先述したように、ほとんどがプロテスタント系教団である「似而非宗教」を端的に物語る概念が、「再臨イエス」である。イエスが再び現世に降りてきて非信者たちを地獄に陥れるという、キリスト教の信仰のひとつだ。ところが、そんな「再臨イエス」を名乗る者が「新天地」のイ・マンヒも含めて韓国には50人近くもいるといわれる。それぞれ都合よく聖書を解釈し、自らをイエスに仕立て上げているのだ。当然、彼らは正統派プロテスタントから「似而非」に指定され、排除されているわけだが、だとすれば、韓国にはなぜこんなにも自称イエスが多いのだろうか? そして、どうしてそんなバカげた話に大の大人たちがまんまと騙され、彼らに従って貢いでいるのだろうか?

 人間の宗教的心理を探るのは容易ではないが、長い歴史を通して積み上げられてきた韓国での宗教の変容や様相を通して、集団としての韓国人の宗教心理を考えてみると、漢陽(ハニャン)大学教授の民俗学者キム・ヨンドク氏が著書『韓国の風俗史』(1994)の中で述べている「祈福信仰」という概念が、ひとつのキーワードとなりそうだ。

 キム教授によれば、朝鮮半島では古代から「天」を崇拝する土着信仰があり、その儀式は「天にあらゆる福を求める」ものが中心だった。それが「祈福信仰」として民間に根を下ろしたのだという。その後、外来宗教の仏教や儒教が支配層に受け入れられ、民間信仰は弾圧されたりもしたが、消えることなく、むしろ外来宗教と結合して祈福信仰を浸透させてきた。これは近世になって流入したキリスト教との関係においても同じで、とりわけ「信じれば奇跡が起こる」と、イエスが起こす数々の奇跡と共に直接話法で説教するキリスト教の教理と、祈福信仰の伝統が類似していることから、抵抗なく受け入れられ、韓国で拡大し、今に至っているのだ。キム教授は、聖書の「神」を、韓国では「天」を意味する「하늘(ハヌル)」にちなんで「하느님(ハヌニム)」や「 하나님(ハナニム)」と呼んでいるのは、天に祈福してきた土着信仰の影響であると主張する。

 本作にも表れているが、韓国の牧師や信者たちのお祈りは、その語尾が「~해 주십시오(~してください)」という“求める形”に、ほぼ定型化していることがわかる。「病気を治してください」「合格させてください」「長生きさせてください」というように。これこそが「祈福信仰」にほかならない。実際にかなうかどうかは別として、切実に求める心に、少なくとも希望という安らぎを与えることは間違いないだろう。

 半面、本作でのチェ長老やソン牧師のように、こうした人間の弱みにうまくつけ込んで、宗教の名の下に騙し、危害を加える「再臨イエス=似而非」が生まれやすいのも事実だし、現に社会に弊害を及ぼしてもいる。ちなみに、本作でチェ長老の言う、神によって天国に呼ばれるという「14万4,000人」は、聖書で実際に言及されている数字であり、再臨イエスたちは主にこれを利用して金などを騙し取っているといわれる。その限定枠の中に入るためには金が必要だというわけだ。

 人はなぜ宗教を必要とするのか? 本作に登場する村人たちは、心のどこかに罪悪感を抱いていたり、病魔に襲われたり、不幸な家族関係によって人生を狂わせたりしている。そんな村人たちに「心のよりどころ」があるというのは、どれほど幸せなことだろうか。それを求める切実さを利用して欲望を満たそうとするチェ長老らは言うまでもなく許せない悪だが、彼らがインチキだと暴くことも、村人たちにとっては、ある意味では暴力といえるのではないだろうか。「“ウソ”をつく善(と見られるもの)」と、「“真実”を暴く悪(にされるもの)」。村人が前者を選択したのは、暴くことの暴力性を示す隠喩なのかもしれない。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。