『パラサイト 半地下の家族』ポン・ジュノ監督が尊敬する“怪物”――キム・ギヨンが『下女』で描いた「韓国社会の歪み」

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『下女』

 今年、映画『パラサイト 半地下の家族』で一躍世界から脚光を浴びたポン・ジュノ監督。同作を“階段映画”と呼ぶ彼が惜しみないリスペクトを捧げ、必ずその名前を引き合いに出す一人の映画監督がいる。「キム・ギヨン(金綺泳)」だ。韓国映画史上最も個性的かつ創造的なこの監督は、作品の多くが公開から半世紀以上たった今でも、その斬新さが類を見ない韓国映画の“怪物”として、世界で多くのファンを獲得し続けている存在だ。

 このコラムでも、以前からぜひ取り上げたい作家の一人だったが、これまで日本では作品がソフト化されておらず、映画館での特集上映や回顧上映でしか見ることができなかったため、なかなかその機会を得られずにいた。ところがついに、12月25日にキム・ギヨン監督の代表作を集めたDVD&ブルーレイボックス(発売元:株式会社アイ・シー・ビー)が日本でも発売されるという朗報を受けて、2020年の最後を飾るコラムでは、キム・ギヨンの代表作とともに、監督の不思議な魅力に迫っていきたい。

 初めに、彼の生い立ちを簡単に紹介しよう。1919年に京城(現・ソウル)に生まれたキム・ギヨンは、幼い頃に平壌に移り高校までを過ごした。その後、日本に渡った彼は京都大学医学部に進学。戦後、韓国が独立を果たすと帰国し、ソウル大学医学部で学んだ。50年、朝鮮戦争の勃発により避難した釜山で、人生の伴侶となる妻のキム・ユボンと出会って結婚。歯科医の妻からの経済的なサポートにより、後にキム・ギヨンは映画制作にのみ専念できるようになる。

 京大~ソウル大の医学部出身という、「超」がつくほどのエリートコースで医師となったキム・ギヨンだが、大学時代には演劇活動に熱を上げ、また戦争中に在韓米国公報院(USIS)で文化映画や宣伝映画を撮ったことが、映画監督を目指すきっかけになった。1955年に『死体の箱』で監督デビューを果たすと、60年に発表した『下女』がセンセーションを巻き起こし大ヒット。続く『玄海灘は知っている』(61)や『高麗葬』(63)も大成功し、この時期のキム・ギヨンは興行面での成功と作品的な評価を手中に収め、「時の人」としてメディアからも大きな注目を浴びていた。

 これらの作品では、独創的な世界観や予測不可能な展開、強烈すぎる演出など、キム・ギヨンをキム・ギヨンたらしめる要素が開花し、メディアにおいても「怪人」「奇人」「魔性」といった見出しが躍るようになっていた。

 キム・ギヨンの作品は、必ずしも傑作と呼べるものだけではなく、興行的に失敗した作品も数多くあるが、そこには韓国の政治や社会的背景も大きく影響している。1963年に大統領に就任し、79年に暗殺されるまでの16年間にわたって軍事独裁体制を布いた朴正煕(パク・チョンヒ)政権下では、「公序良俗」の名のもとに表現の自由が締め付けられ、厳しい検閲が行われた。“韓国映画の暗黒期”とされるこの時代、反共映画が量産され、芸術的表現が圧殺される中では、さすがのキム・ギヨンも活躍の機会を奪われ、77年の『異魚島(イオド)』では、性器が立ったままの死んだ男とセックスする女を描いた場面が丸ごとカットされるなど、検閲の憂き目にも遭っている。

 今でこそ韓国でもその名を知らぬ者はいないほどだが、実際に、キム・ギヨンは過去の映画人として長い間忘れ去られていた。一般的に、キム・ギヨンの再発見は1997年の釜山映画祭での回顧上映に始まるとされるが、実はそれ以前の96年に、日本の国際交流基金が行ったアジア映画監督の特集によって日本国内で再発見され、その後に釜山をはじめ世界各国で再評価の動きが広がっていった。私自身、日本に留学するまでキム・ギヨンの名はまったく知らなかった。

 フィルム自体が失われていたり、ボロボロの状態でしか残っていない作品も多い中、不完全なままだった『下女』を復元したのも、『タクシードライバー』などで知られる巨匠マーティン・スコセッシが率いる団体「World Cinema Foundation」であった。このように、現在、韓国の映画人たちが称賛してやまないキム・ギヨン監督は、日本と欧米の貢献によって見事に蘇った映画作家なのである。

 だが再び脚光を浴びたのもつかの間、1998年、招待を受けていたベルリン映画祭への出発前日に、キム・ギヨンは自宅の火事によって夫婦ともども不慮の死を遂げた。なお、遺作となった『死んでもいい経験』は、製作自体は90年だが、作品の出来に満足しなかった監督自身が公開を拒否したため、死後になって世に出た映画だった。

 キム・ギヨン監督の最も特徴的な点は、代表作である『下女』をあたかも強迫観念のように反復し続けたところである。60年代半ば以降、低迷していた彼は『下女』のセルフリメイクである『火女』(71)をヒットさせると、『虫女』(72)、『水女』(79)、そして『下女』の二度目のセルフリメイクである『火女’82』(82)を発表。「女シリーズ」とくくられる一連の作品を通して、繁殖を求める恐ろしいまでの女性への欲望と、対照的に、不能に陥る男性を描いてきた。そして「欲望と本能」「繁殖と不能」は、「女シリーズ」以外でもキム・ギヨン作品に一貫して見られる主題だ。

 ここからは、彼の代表作『下女』を取り上げ、キム・ギヨン的な主題がいかに表現され、それが当時の韓国社会とどのような関係にあったかを紹介しよう。

<物語>

 妻(チュ・ジュンニョ)や足の不自由な娘、息子(アン・ソンギ)と4人で暮らすピアノ教師のトンシク(キム・ジンギュ)は、新しい家を建てて引っ越しをする。だが、新築のために無理して内職を続けていた妻は体を崩してしまい、トンシクは若い下女(イ・ウンシム)を雇う。そんなある日、妻の留守中に下女はトンシクを誘惑して関係を結び妊娠。しかし、これを知った妻によって中絶させられてしまう。そのショックで徐々に乱暴になっていく下女は、ついに残酷で執拗な復讐に出る……。

 下女(家政婦)によって破壊されていく家族の様子を恐怖めいた映像で描いた本作は、公開直後から当時の観客に大変なショックを与えた。映画と現実を混同した一部の観客が、下女を演じた女優のイ・ウンシムへのバッシングを起こし、実際に彼女はその後、映画界から姿を消したほどである。だが本作は、その衝撃の強さや、それゆえに大ヒットしたという話題性以上に、当時の韓国の歪みを映し出している点において、恐ろしくも素晴らしい作品なのだ。

 この作品を見る上で、とりわけ2つの不思議な設定に注目してみたい。1つはトンシクの「経済力」。工場で女工たちにピアノを教える安月給のトンシクが、内職をする妻の助けがあったとはいえ、果たして2階建ての家など建てられただろうか、と疑問が残る。しかも彼は、下女まで雇うのだ。朝鮮戦争の爪痕が依然として残っていた当時の韓国経済は、アメリカの援助によって辛うじて保たれており、仕事を求めて田舎から都会へ出てくる女性たちが一気に増えたのもこの頃。映画に登場する女工たちはまさに、そのような女性労働者であった。さらに、李承晩(イ・スンマン)政権の憲法改正と不正選挙によって政治的混乱に陥り、これによって学生を中心とした「4.19革命」が勃発し李政権が倒れるなど、1960年前後は社会的にも劇的な変化が起こっていたことを考えると、トンシクの設定にはやはり解せないものがある。

 だが、これが現実を無視した設定ミスでないこともまた確かであり、そこにこそキム・ギヨンの作家性が発揮される。2階建ての一軒家が「近代化」の象徴だとすれば、トンシク夫婦の経済的不安定さは、当時の韓国の経済的不安定さそのものであり、「新築一戸建て」は不安定ながらも「韓国社会」が欲望していた近代化へのフェティッシュとして考えられるからだ。

 フェティッシュとは、簡単に言えば「自分が持っていないものを視線の対象に求めること」。作品の中に描かれるベッドやピアノ、絵画や壁時計など、家の中に緻密に配置された「物」たちは、まさに近代化へのフェティッシュが具現化したものにほかならない。こうして一見不思議で過剰に見えるこの設定は、新興独立国・韓国がアメリカから与えられた西欧的な近代への転換と、近代化には程遠い現実との間の不安定さと、その隔たりを埋めるためのフェティッシュを表現している点において、きわめて意図的なものとして読み取ることができるのである。

 もう一つの不思議な設定は「階段」だ。トンシクには足の不自由な娘がいるにもかかわらず、彼は2階建ての家を建て、娘は今にも転がり落ちそうな様子で階段を使わねばならない。この設定からは、どのような意味を読み解くことができるだろうか。

 「階段」は世界のさまざまな映画の中で、たびたび身分の「上昇と転落」の象徴として描かれてきた。キム・ギヨンも「足の不自由な娘」と「階段」という設定を意識的に用意することで、見る側に不安を抱かせ、スクリーンに投影される「近代」と、そこに映る過剰な映画的現実が近代化へのフェティッシュにすぎず、いつ「転落」するかもわからない不安定な欲望であることを際立たせる効果をもたらしていた。下女は、2階に用意された部屋へと上がり、そこでトンシクを誘惑して妊娠する。しかし、近代的な家庭の妻になるという下女の欲望は、階段からの「転落」を余儀なくされ、それは同時に、韓国が抱いていた近代化への欲望が歪んだイメージにすぎないことを暴き出していた。キム・ギヨンの「女」シリーズで、階段が中心に置かれた家がすべての出来事の舞台になるのには、不安をあおる装置として韓国社会を揺さぶり続ける、作家の強烈な意図があったのである。

 劇中で下女は名前を持っていない。身分の上昇を夢見てはそこから転がり落ちていった下女に、誰でもなり得るからだ。映画の公開からちょうど1年後の1961年、朴正煕(パク・チョンヒ)による「5.16軍事クーデター」とともに、韓国社会は「近代化」のための「開発独裁」という階段を上がり始めた。その渦中に無数の「下女」が存在したことは、言うまでもない。本作は、キム・ギヨンが開発独裁後の韓国社会へ送った「警告の手紙」だったのかもしれない。

※『キム・ギヨン傑作選 DVD&ブルーレイボックス』には筆者も作品解説(『下女』『玄海灘は知っている』『高麗葬』)の執筆に加わった。このコラムはブックレットに掲載した『下女』の原稿に大幅に加筆して書き直したものである。

■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

「セウォル号沈没事故」から6年――韓国映画『君の誕生日』が描く、遺族たちの“闘い”と“悲しみ”の現在地

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『君の誕生日』

 あれからもう6年もたったのか……。韓国人の私は、ついそんな想いを禁じ得ない。2014年4月16日の朝に起こった、「セウォル号沈没事故」。修学旅行中の高校生325名を含む乗客476名のうち、299名の死者(生存者172名、行方不明者5名)を出した大惨事は、日本でも大きく報道され、当時は毎日のように話題になっていた。

 この事故がこれほど大きな問題となったのは、いわゆる船の違法改造や過積載が原因ではなく、メディアによる誤報が海洋警察隊の救助の遅れをもたらし、われ先と真っ先に脱出した船長らのあまりに無責任な行動、政府の安易な初動対応に至るまで、本来なら被害の抑制のために作動するはずの「国家・社会的機能」がほぼ不全状態だったことに起因する、史上最悪の「人災」であった点にある。

 実際、当日私のスマートフォンにも「旅客船の沈没」の直後に「全員救助」の通知が届き、胸をなで下ろしたのをよく覚えている。だがこの知らせは致命的な誤報だった。そして、この事故が国全体に深い悲しみをもたらしたのは、犠牲者のほとんどがまだ若い高校生たちだったためである。

 守ってあげられなかった、助けてあげられなかったことへの罪悪感に駆られた国民は、国家が機能不全に陥ったことの責任を当時の朴槿恵(パク・クネ)政権に求めた。これが発端となり、朴大統領の「お友達の国政介入」のずさんな実態が赤裸々に暴露され、その結果、朴大統領は罷免。現在の文在寅政権への交代が行われたのは説明するまでもない。文大統領は公約として、セウォル号事故の真相究明と責任者の厳罰を約束し、多くの支持を得たのだが、その道のりは今でも決して順調とはいえない。

 政権交代後、「セウォル号船体調査委員会特別法」が成立し、特別調査委員会による本格的な真相究明が始まったものの、野党(朴前政権側)の非協力的な姿勢や、ネット上に出回った陰謀説(「潜水艦と衝突した」「わざと沈没させた」といったもの)に始まり、究明への努力に対する野党議員の「死体商売」という暴言、事故の責任追及を政治利用する与党側の姿勢、さらには、遺族に対する右翼団体からのバッシングと、一向に解決の糸口が見えないことへの疲労感から、国民は次第に忘却へと向かっていった。

 今回取り上げる『君の誕生日』(イ・ジョンオン監督、2018)でも描かれているように、補償金をめぐる誤解や絶えない誹謗中傷によって、遺族間でも分断が見られたり、つい最近も、チョンワデ(大統領官邸)前で1年間「一人デモ」を続けていた遺族に対して批判が巻き起こるなど、事故は徐々に“遺族だけの孤独な闘い”となり、遺族の悲しみだけが取り残されたまま、韓国では醜い争いが繰り広げられている。

 本作は、大事なことを忘れてしまった国民が、愛する家族を失った遺族の悲しみに再び寄り添い、事故そのものを風化させてはならないことを思い出すという意味で、国全体を原点に立ち返らせてくれた映画である。

<物語>

 セウォル号沈没事故で息子のスホ(ユン・チャニョン)を失い悲しみに暮れる母・スンナム(チョン・ドヨン)と、幼くして失った兄を懐かしむ妹のイェソル(キム・ボミン)のもとに、仕事の事情で長い間外国にいた父・ジョンイル(ソル・ギョング)が突然帰ってくる。家族にとって最もつらい時期に不在だったジョンイルに対し、スンナムは戸惑いと怒りを隠せない。罪悪感にさいなまれながらも、夫として、父として償おうとするジョンイルに、遺族団体からスホの誕生日パーティーが持ちかけられる。

 激しい拒否反応を示すスンナムに対し、スホとの新たな再会の機会になるからと説得するジョンイル。生前のスホを知る多くの人々が集った誕生日パーティーで、スホがみんなの記憶の中に生きていることを再確認したスンナムやジョンイルは、スホを近くに感じながら、新たな日々を歩き始めるのだった。

 セウォル号沈没事故で犠牲になった高校生と、その遺族の悲しみを軸にした本作では、コラムの冒頭で紹介したような政治的利害論争とは距離を置き、事故について直接言及はしていない。最愛の家族を失った遺族の心境のみに焦点を当てていることが、何よりも本作の明確なメッセージになっているといえるだろう。

 イ・ジョンオン監督は事故後、遺族に寄り添うボランティア活動に従事し、長年にわたる遺族との交流の中から本作のシナリオを書き上げたという。特定の人物を取り上げるのではなく、多くの遺族から聞き取ったさまざまな物語を映画のキャラクターに溶け込ませる手法には、人間の内面を突き詰めた作品作りで知られるイ・チャンドン(以前のコラムで紹介した『バーニング 劇場版』の監督)のもとで学んだ彼ならではの丁寧さが感じられる。イ・チャンドンも製作に参加している本作は、イ・ジョンオン監督のデビュー作であり、観客からも多くの共感を得た。

 本作を見ながら頭に浮かんだのは、「不在(absence)」と「現前(presence)」というキーワードだった。というのも本作は、「死=不在」をめぐる物語にもかかわらず、『君の誕生日』(原題は『생일』=誕生日)というタイトルにも暗示されているように、新しい命としてこの世に生まれた「誕生=現前」の日に焦点を合わせているからだ。そして、映画の中心を担う残された3人の家族は、スホの不在を「現前する(=そこに存在している)不在」に変えていくことで、深い悲しみを少しずつ乗り越えていこうとしている。

 最愛の息子を突然失った母・スンナムは、スホの「不在」を受け入れることができず、スホの死に正面から向き合おうとしない。スホの新しい服を買い込み、突然灯る玄関のライトにスホの帰還を感じてしまうスンナムは、息子が今にもドアを開けて帰ってくるように思えて仕方がないのだ。

 彼女はスホの不在を受け入れている人々に対して激しい拒否反応を示し、それは時に、夫のジョンイルだけでなく、娘のイェソルにも向けられる。こうしたスンナムの姿は、スホの不在による悲しみの中に、自分自身を閉じ込めているようにも見える。彼女は不在を受け入れられないのではなく、その不在を認めることを怖がっているのだ。不在を認め、悲しみを乗り越える準備ができていないスンナムの姿は、遺族らに共通する「根源的な悲しみ」を象徴しているといえよう。

 一方、妹のイェソルは、幼いながらもスホの不在が何を意味するのかをよく知っている。イェソルにとってスホの死は、湯船にも干潟にも入ることができないほどの大きなトラウマとなっているが、同時に、スホの誕生日パーティーを素直に楽しみにしている。母親以外の人間たちとの関わりを通して、スホを「現前する不在」としてすでに受け入れているのだ。その意味でイェソルは、周囲の人々と触れ合おうとせず心を閉じてしまっている母・スンナムとは異なる形で、悲しみに向き合っている存在である。

 そして父・ジョンイルは、大事なときに家族と共にいられなかったことへの罪悪感に囚われ、スホがどんな子だったかも話せないほどに、息子を知らない自分を責める。だが、事故以前のまま残されたスホの部屋に足を踏み入れたジョンイルは、涙を流しながらスホの痕跡を一つひとつ確かめ、「現前する不在」を見いだしていく。だからこそジョンイルは、果たせなかったスホのベトナム旅行をかなえるために、彼の身代わりとなるパスポートを握りしめて入管に出向き、2人の思い出である釣りにも出かけるのだ。

 「現前する不在」としてのスホを、確かにそこにいるスホを確信したジョンイルは、「スホが来るから」とスンナムを説得して誕生日パーティーに導く。ジョンイルは、スンナムともイェソルとも違い、悲しみに打ち勝つための道を父として模索した。映画の中でのジョンイルの設定は、遺族の中でも特殊な事情のように思えるかもしれないが、彼の立場は韓国国民全体の象徴とも考えられる。そんな彼の行動と努力は、事故に対して韓国社会がどうあるべきかという問題に対する、本作のメッセージとも受け取れるだろう。

 こうして3人の家族は、それぞれのやり方で「不在と現前」を行き来しながらスホの誕生日を迎えていくのだが、最後にもう一つ、「縫合」という概念を取り上げてみたい。「縫合」は、哲学や精神分析において「不在と現前」を考えるうえで重要とされているのだが、「映画」の領域においても語られることがある。

 例えば映画の中で2人の人間が会話をしている場面を思い浮かべてみてほしい。会話はしばしば、話している1人の姿を交互に映す形で描かれるが、そのとき観客は、聞いているもう1人の人物が画面上に映っていなくても、そこにいることを知っている。つまり、画面に映らないもう1人は「現前する不在」であり、観客は映画を見ながら「現前と不在」を絶えず結び付けながら(=縫合)、意味をつないで総体的なひとつの作品として作り上げているのだ。「映画を見る」とは、このような観客自身の無意識的な作業の連鎖だといえる。

 誕生日パーティーでスクリーンに投影された数多くのスホのイメージは、「現前する不在」としての彼が数々の思い出や幾多の写真と共に「縫合」され、家族や友人たちの心の中で依然として「生き続けている」ことを余すところなく見せてくれる。家族だけが知るスホ、友人だけが知るスホが縫合され、その場にいる人たちによって共有されることで、彼は新たな命を得て生まれる――「現前する不在」としてのスホは、まさに誕生日に再び誕生の日を迎えるのである。

 残された人々にとって必要なのは、そんなスホをいつまでも記憶し、忘れないでいることだ。3台のカメラを使い、30分にも及ぶシーンをロングテイクで撮ったという誕生日パーティーのシーン、観客もまた同じだけの時間を通してスホの不在と現前を共有し、悲しみを乗り越えようとする遺族の姿と本作のメッセージを縫合していく。

 悲しみを乗り越えるとは、スホ(によって表象されるすべての犠牲者)と一緒に生きていくことにほかならない。セウォル号沈没事故において私たちが大切にしなければならないのは、責任者への厳罰でも真相究明でも、政治的利害や補償金をめぐる根も葉もない噂でもなく、遺族の「心の痛み」であるというあまりにも当たり前の認識に、今こそ立ち返るべき時が来ているのではないだろうか。

■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

NCT Uの「90’s Love」を徹底解剖! 90年代の元ネタから楽曲・歌詞・ビジュアルをフル解説

――毎月リリースされるK-POPの楽曲。それらを楽しみ尽くす“視点”を、さまざまなジャンルのDJを経て現在はK-POPのクラブイベントを主宰するe_e_li_c_a氏がレクチャー。11月にリリースされた曲から[いま聞くべき曲]を紹介します!

今月の1曲‖NCT U 엔시티 유 - 90's Love

 NCT2020で始まった「RESONANCE」活動のリパッケージアルバム「NCT RESONANCE Pt. 2 - The 2nd Album」の先発曲、「90's Love」です。
メンバーはテン、ウィンウィン、マーク、ジェノ、ヘチャン、ヤンヤン、ソンチャンの7人で、公式の説明はこのようになっています。

 "エキサイティングなアップビートとグルーヴィーなドラム、ベースラインが印象的なオールドスクールR&Bヒップホップ曲で、90年代ヒップホップとR&Bに現代的なサウンドが合わさってニュートロ感性を刺激する。歌詞には、過去の大切なものすべてが、時空を超越しても価値があるので、記憶して再解釈しNCTだけの新しい価値を作ろうというメッセージを含んでいる"

 歌詞にはところどころに90年代を象徴するキーワードが散りばめられ、MVでのスタイリングも90年代を意識したものになっています。私が中学生の頃90年代のUS HiphopのMVや歌詞カードを見ながら「これは何を表しているのだろう」と一生懸命調べたことを思い出します。

 そこで、いつもはK- Popの楽曲を切り口に音楽ジャンルの説明をすることが多いですが、今回は「90's Love」をいろいろな角度から徹底的に解説していきます。

 作詞はSM Entertainmentお抱えの作詞・作曲家Kenzie。少女時代の「Into the New World」やEXOの「Overdose」、最近ではRed Velvetの「Psycho」やベッキョンの「Candy」を作詞し、今年に入ってからはITZYやTHE BOYZ、TWICEなどSM外のアーティストにも詞を提供しています。SHINeeの「SHIFT」やNCT Dreamの「We Young」「We Go Up」、ベッキョンの「R U Ridin'?」などは、作詞作曲どちらも手掛けており、作曲は複数人でやることが多いですが、一番最初に名前が並んでおり、かなりの比率でSMの楽曲に携わっていることがわかります。Kenzieは1976年生まれで、まさに本人が10代~20代の多感な時期を過ごしてきた90年代を思い返して歌詞を書いたのではないでしょうか。

 それでは今回は、【1】楽曲【2】歌詞【3】ビジュアル、の3パートに分けて一つずつ繙いていきたいと思いますが、あくまで「私が感じた」引用元を挙げるだけなので本当にそうかはわかりません。

 是非このリファレンスを元に深堀りをして、自分の納得できるものを探し出せたら、さらに面白い楽しみ方ができると思います。

 まずはイントロからですが、これは何の知識がなくても私の記事を今まで見ていた方にはわかるでしょう、New Jack Swingです。もはや説明は不要だと思いますが詳しくはNJS特集を参照して下さい。

 「90's Love」のイントロに関しては、この曲を引用してそうな気がします。ちなみにBell Biv DeVoeは先月23日、アメリカで40年以上続くAmerican Music Awardsで初めてパフォーマンスを行い、NJSメドレーを披露しました。

■Bell Biv DeVoe - Poison (Remix) (1990)

 ただし音の処理など“はっきり”さに関しては、現代のNJS、Bruno Marsの「Finesse (Remix)」などの方が近いと思います。

 ビートが一度なくなりベースと一緒にサイレンのような浮遊感のある音が流れ始めますが、これはこの曲の9小節目(00:18)から始まる上ネタでしょうか。

■Miles Davis - Fantasy (92)

 この少し落ち着かない音の上ネタにもサンプリング元があり、81年にリリースされたESGというバンドの楽曲です。
■ESG - UFO (81)

 ちなみにFantasyの収録されているアルバム「Doo-Bop」はJazzy Hiphopを紹介した時に挙げたDoo Bop Songも収録されているアルバムです。

 全体的なビートの印象としてはHiphopですが、スネアなどは少し80年代のNJSっぽさも感じられます。90年代に入るとNJSのドラムはこもった感じの音になるため、80年代の方が近いように思います。

■Guy - Spend The Night (88)

 また「90's Love」のBPMは108ですが、90年代の黄金期と呼ばれるHiphop楽曲のBPMは80~どんなに速くても100前半ぐらいで、80年代後半~90年代前半に流行した以下のような楽曲のほうがBPM的には近いと言えるでしょう。

■Public Enemy - Fight The Power (89)

■Ultramagnetic MC's - Poppa Large (92)

■TLC - Hat 2 Da Back (92)

 今まで挙げた曲を「90's Love」と聴き比べると、サウンド的に少し音が薄かったり音数が少ないと感じるかもしれません。ここは、今聞いてほかの曲との聴き劣りがないように音圧を高く、音を厚く処理しているのでしょう。なので、サウンド的な面だけでいうと90年代コンセプトとはいえ、かなり現代風に解釈されているのを感じます。

 なかなか言葉で説明するのは難しいですが、ドラム全体の雰囲気としては00年中盤のこの辺りが近いでしょうか。

■Smitty feat. Swizz Beatz - Diamonds On My Neck (05)

■Platinum Pied Pipers - Stay With Me (DJ Mitsu The Beats Remix) (05)

 ビートのアタック感としてはLAビートシーン周辺のこの辺りが連想されます。

■Hudson Mohawke - Free Mo (06)

■Flying lotus - Clown Hair (06)

 さて、次に歌詞の引用元を冒頭から一つずつ繙いていきましょう。イントロから全部で14つ解説します。

1:「Hey hey hey hey hey hey (hoo hoo)」 (0:17~)

聞けばわかるのであまり説明は必要ないと思いますが、イントロの「hey, ho, hey, ho, hey, ho」を引用していると思われます。

■Naughty by Nature - Hip Hop Hooray (92)

2:1990's (how we do it)の「how we do it」 (0:28)

少しあとのほうに「This is how we do it」と出てくることからも、こちらを引用していると思われます。

■Montell Jordan - This Is How We Do It (95)

3:「자 누가누가 핫 하대?」(さぁ誰がホットだって?)の「ホット」 (0:34)

96年にSM Entertainmentからデビューした5人組男性アイドルグループ、H.O.T(エイチオーティー)です。衣装も引用が見られるため、追ってまとめて説明します。

4:Old school vive (that vibe)の「that vive」 (0:39)

ここは少しこじつけかもしれないですが、95年リリースのR.Kelly「She's Got That Vibe」の「That Vibe」を引用してそうな気がします。

■R. Kelly, Public Announcement - She's Got That Vibe (95)

5:「따라 부르는 kids on the block」(真似て歌う kids on the block)の「kids on the block」 (0:41)

 84年デビュー、94年に解散したアメリカの5人組男性グループ、New Kids On The Blockです。「Step by Step」はビルボードの全米シングルチャート第1位を獲得しました。

■New Kids On The Block - Step By Step (90)

6:「골목을 흔든 boombox」(路地を揺らす boombox)の「boombox」 (0:43)

 ラジオ付きのテープレコーダーは60年代頃生まれますが、70年代後半に高機能・多機能化しウーファーなどが付き大型化していきます。80年代に入りブレイクダンスやHiphopがはやり始めると大流行し、大型のポータブルラジカセのことをBoomboxやGhetto Blasterと言うようになります。

 これを肩に担いで大きな音を鳴らしながら歩いたり、ラップバトルやストリートダンスをする際のBGMを流すために使いましたが、騒音などの観点から公共の場所でBoomboxの利用が違法とされる地域もあったほどでした。90年代に入るとSonyのWalkmanが流行しBoomboxはあまり見ないようになりますが、Hiphop文化の一つの象徴ともされており、その後もMVやライブなどでHiphop感を表すアイテムとして使われ続けます。

 ちなみに私が所属していた大学のサークル、ソウルミュージック研究会・Galaxyにもいつからあるのかわからない、古くて大きいブーンボックスがあり、新入生歓迎会の時や、外でラップを練習する際に使っていました。

■Schoolly D - Livin' In the Jungle (89)

 ソウル・江南地区は元々は郊外の農地でしたが、63年のソウル市編入後、70年代以降にたくさんの高層マンションが建ち並びます。そこに新興裕福層がたくさん越して来ますが、80年代に入ると88年にオリンピックの開催もあり、どんどんと土地の価格が上昇し、持っていたマンションの価格が3倍近く上がるケースもあったそうです。

 歌詞の「オレンジ」は오렌지족(オレンジ族)のことを指しており、高級繁華街となった狎鴎亭(アックジョン)で、海外ブランドの服を着て外車に乗り高級カフェに出入りし、親の金で遊び回る20代の若者のことを言います。狎鴎亭は、江南の中でも特に高級デパートやブティックが多く並んでおり、現在も芸能人がよく出没する場所として知られています。

 オレンジ族の由来は諸説ありますが、当時輸入フルーツが珍しかった韓国で、外車に乗りながら道でナンパをする時にオレンジを持っていた、カフェでオレンジを丸ごと絞ったジュースを飲んでいた、カフェで好みの異性が現れるとオレンジジュースを渡していた、などが語源とされています。日本の80年代後半のバブル期のような状況ですが、日本では世間が全体的にそういうムードだったのに比べ、韓国では特に一部地域の人たちだけが成金になったため、疎まれるような存在だったとか。「オレンジ族」は、そのような過度な消費行動を皮肉る名称だったとも言われています。

8:「Here we go here we go here we go」 (1:11)

 冒頭0:18~の「Here we go, yo, here we go, yo」がほぼ同じなので、ここから引用しているのではないでしょうか。

 A Tribe Called Questは90年代を代表する伝説のグループといわれるほどで、この「Scenario」はなんと100曲以上にサンプリングされています。
Jazzy Hiphop特集の際、Jazz Rapというくくりで紹介しました。

■A Tribe Called Quest - Scenario (91)

9:「Don't this hit 진짜 느낌 오는 jump jump」(Don't this hit マジで良い感じの jump jump) (1:20)

 Busta Rhymesの「Pass The Courvoisier Part II」から「Don't this shit make a nigga wanna (JUMP JUMP!!!!)」のフレーズをそのまま引用しています。今まで90年代で固めてきたはずなのに、ここだけ2001年リリースの楽曲なのは何か意味があるのでしょうか……。どうせなら90年代楽曲のフレーズで押し切ってほしかったです。

■Busta Rhymes - Pass The Courvoisier Part II (01)

 「jump jump」のタイミングでMVに映る、メンバーを囲った下からのアングル (1:25)はN.W.Aのアルバム『Straight Outta Compton』のCDジャケットのオマージュでしょう。

10:주머니는 헐렁했지 (ポケットはダボダボだった) (1:32)

 今まで挙げたMVを見てきた方にはわかると思いますが、90年代のHiphopファッションを指しているように思います。ちなみに、このオーバーサイズのファッションには諸説あり、体を大きく見せるためや、Hiphopをメインでやっているアフリカンアメリカンに貧困層が多く、何度も買い換えなくていいからという理由で大きな服を子どもに買い与え、お下がりを着させていたという説などがあるようです。

11:자 찍어 cheese (さぁ 撮って チーズ) (1:34)

 ここは元ネタというよりは補足になりますが、「cheese」にはHiphopスラングとして「お金」という意味があります。「Blue cheese」になるとマリファナの意味になり、90年代で挙げるならこの曲でしょうか。

■The UMC's - Blue Cheese (91)

12:Friends (1:43)

 もはや説明不要なぐらい知名度の高い、94年から04年にかけて放送された米ドラマ『フレンズ』です。

13:So let me see you do your thang (come on) (1:55)

 チーズと同じく補足ですが、「thang」は「thing」のスラングで、「Do your thang」はアメリカのHiphopに限らず、R&Bなどの楽曲でタイトルや歌詞に良く使われるフレーズです。意味は「やることやれ」や「(何かを好きに)やってろ」のようなものになります。

 一般的に「thang」は少し距離を置くようなものや概念を指し、例としては、ヒートアップした議論や面倒くさいトラブルなどが定義されるそうです。Hiphopなどの楽曲で用いられる時は、「thang」が仕事なこともあれば性行為などの卑猥な意味のこともあり、いろいろな解釈ができるようなフレーズです。

 「90's Love」の文脈では「들어 봐 DJ drops it」(聞いてDJ drops it)や「feel a way」、「이 밤은 짧기에」(この夜は短いから)とあるようにクラブで踊っているようなイメージでしょうか。ほかにもいろいろ考えられるとは思いますが……。90年代に絞るとこの「7Mile」の曲が思い浮かびます。「恋人が離れていってしまいそうで悲しいけど、放っておかないと(あなたが好きなようにさせないと)  でもやっぱり無理だ もう一度チャンスをくれ」という恋の歌です。

■7 Mile - Do Your Thing (98)

14:코스모를 느낀 거야 난 (KOSMOを感じたんだ僕は)の「코스모」(KOSMO) (2:47)

 86年から90年にかけて週刊少年ジャンプで連載された聖闘士星矢に出てくる小宇宙(コスモ)でしょうか…?一般的な宇宙を表す場合「cosmo」ですが、公式MVの日本語字幕が「KOSMO」になっており、途中出てくる「광야」(広野)も日本語字幕では「KWANGYA」となっているため、固有名詞な気もします。「KWANGYA」に関しては少し前にリリースされたaespaの「Black Mamba」の歌詞にも同じ表記で出てくるため、SM Entertainmentの考えている何かの繋がりがあるのではと言われています。

 それではビジュアルの解説に入りたいと思います。全部で8つのモチーフを取り上げます。ただファッションの事に関してはあまり詳しくないので参考程度にどうぞ。

1:アイスホッケー

 全編を通してアイスホッケー場が舞台になっていますが、アイスホッケーはアメリカでは野球やバスケ、アメフトに並ぶ4大スポーツの一つです。カナダ発祥のスポーツとされており、80年代までホッケージャージをファッションとして着ていたのは白人(主にカナダ人)でしたが、80年代後半からHiphopファッションに取り入れ始められます。

■Audio Two - Top Billin' (87)

 14秒ぐらいに映る、Audio Twoのメンバー、Kirk "Milk Dee" Robinsonが着ている、白地に肩のところに赤いラインの入ったジャージがモントリオール・カナディアンズのユニフォームです。ちなみに、現在のモントリオール・カナディアンズのユニフォームは赤地に青のアクセントの入っているもので、「90's Love」の衣装に少し似ています。ニューヨーク・レンジャーズのユニフォームが青地に赤のアクセントが入ってるものなので、この辺りにもインスパイアされていそうです。

 94年頃からSnoop DoggやA Tribe Called Questなどの人気ラッパーたちがアイスホッケーのユニフォームを着始めます。直接的な理由はわかりませんが、ユニフォームの原色デザインが90年代の原色で色とりどりなファッショントレンドに合っていたことや、バスケなどでもそうですが、地域毎にチームが存在するためHiphopのレペゼン文化()に合っていたのではないでしょうか。Snoopは大のアイスホッケーファンといわれており、さまざまなチームのユニフォームを着ていますが……。

レペゼン文化:地元のことを歌詞に入れたりして地元愛、地元を代表していることを表す。N.W.Aの「Straight Outta Compton」から始まったと言われている。

■Snoop Dogg - Gin And Juice (94) :ピッツバーグ・ペンギンズのユニフォーム着用

■A Tribe Called Quest - Oh My God (94) :ニュージャージー・デビルスのユニフォーム着用

 98年にはニューヨーク・クイーンズ出身のグループOnyxが客演を迎えホッケー選手に変身し、白人チームと戦うというコンセプトのMVの「React」をリリースします。

■Onyx - React (98)

 「90's Love」のアイスホッケーコンセプトは上記から引用しているのもあると思いますが、同じように韓国でも当時のアメリカのファッションを取り入れた、前述のH.O.Tがアイスホッケーユニフォームで披露した「Candy」という曲があります。

■H.O.T - Candy (96)

 90年代後半の韓国ではソテジワアイドゥルが大流行したこともあり、いわゆるアイドルと呼ばれるような人たちがHiphop感のあるコンセプトをやることが珍しくありませんでした。一方で、引用元のアメリカでもHiphop関係なく最前線のアイドルがこのような雰囲気だったので、正直どちらの文脈なのか判断がつかないところではあります。

■서태지와 아이들 (Seo Taiji&Boys) - 컴백홈 (Come Back Home) (95)

■Backstreet Boys - Get Down (You're The One For Me) (96)

 またマークが整氷車の上に乗っているカット(0:31~など)は、ごく最近のものですがこのMVが思い出されます。

■Cashmere Cat, Major Lazer, Tory Lanez - Miss You (18)

2:赤い衣装 (0:17~)

 90年代で真っ赤な服装と言えば、ストリートギャングの「Bloods」(ブラッズ)が思い出されます。

 69年にカリフォルニア州ロサンゼルスで結成されたストリートギャング「Crips」(クリップス)は数々の暴力事件を起こし、それに対抗するため、アメリカ各地のギャングが結集し、同じくロサンゼルスで72年に結成されたのが「Bloods」(ブラッズ)です。前述のSnoop DoggやNate Dogg、Eazy E、WCなどはクリップスに所属しており、The GameやCardi B、DJ Quikなどがブラッズに所属していました。

 当時、ギャングを含む貧困層は安いからという理由で、白いTシャツにデニムジーンズというスタイルをしていましたが、クリップスの人たちがたむろしていると、デニムの青色のせいで「いつも青い服を着ている集団」として見られるようになります。中には、ジーンズに合わせて顔を隠すために青いバンダナをマスクとして身に付けている人もおり、クリップスには「青」のイメージが付きます。

 対抗してできたブラッズは、名前の血を意味する「Blood」から赤色のものを身につけるようになります。ほかにもクリップスが腰の左側にバンダナを垂らすのに対して、ブラッズは右側に垂らしたり、お互いの頭文字のBとCの存在を認めていなかったり、たくさんのルールがあります。DJ Quikは「Quick」が本来のつづりですが、ブラッズなのでCを抜いた「Quik」になっています。

 当時、ブラッズ内でMexican hat danceを取り入れた踊りが「Skip Walk」と呼ばれており、ライブなどで披露されていましたが、それを見たクリップスのメンバーがSkip Walkを取り入れステップを少し変え「Crip Walk」(C-Walk)というダンスを作ります。対してブラッズはSkip Walkを改め「Blood Walk」(B-Walk)とし、お互い自分たちだけのステップを定義します。

 WCのMV内1:30~C-Walkのステップが出てきます。段々とステップに儀式的な意味がついてきて、抗争などで勝利を知らしめる際に行うものなっていきます。相手の血をつま先に付け、「C」の文字を地面に書いたのが始まりとされていますが、アメリカの場所によってはC-Walkをすると傷害事件などに発達することもあり、地域や規則によって禁止されているところもあります。

■WC - The Streets ft. Snoop Dogg, Nate Dogg (02)

 細かいですが、本当に90年代のこのようなカルチャーに則るのであれば、赤を基調とした衣装に青のジャケットを合わせるのは正直どうなんだろう……と思ったりはします。

3:カラフルな衣装 (0:26~)

 このカラフルな衣装を着用しているパートは、ここまでのようにストレートに90年代を引用するというよりも、カラーリング、シルエット、アクセサリーなどで"90年代のイメージ"を再解釈した、現代的なスタイルに感じます。

 というのも、それ以外のシーンは皆Air MaxやAir Jordan、Air Forceなどを履いて、CarharrtやRaf Simonsなど昔からのブランドのものを身につけていますが、このシーンではヘチャンがCOMME des GARÇONSとASICSのGEL-Lyte IIIという今年発売されたスニーカーを履いていたり、マークが03年にできたBillionaire Boys Clubの今年発売されたシャツを着て、ソンチャンがRhudeという13年に誕生したブランドのポロシャツを着ています。

 90年代で、あえてこのようなカラフルでごちゃごちゃしたファッションを挙げるとすれば、80年代後半~90年代前半にかけてのこの辺りでしょうか。

■Salt-N-Pepa - Push It (86)

■DJ Jazzy Jeff & The Fresh Prince - Parents Just Don't Understand (88)

■TLC - Ain't 2 Proud 2 Beg (91)

 「90's Love」のリレーダンス動画でジェノやヘチャンがTommy Hilfigerの服を着ていますが、Tommy Hilfigerも90年代に人気を博したブランドで、当時R&Bシンガーとして大人気だったAaliyahが97年に広告塔としてCMに出演しています。

 ちなみに、またもや細かいことを言い出すと、赤い衣装でヘチャンが履いている青いソールのスニーカーはSankuanzという、08年に中国・アモイで設立されたブランドのものだったり、ジェノのシャツはバレンシアガだったり、ウィンウィンのTシャツはAPEだったりするので、今までの話なんだったんだ感が少しあります……。

 カラフルな衣装でテンが履いているスニーカーです。エアマックスの初代は87年に発売されますが、名前通り95年に発売されたエアマックス95の人気は凄まじく、日本でもプレミアが付きエアマックス95を履いている人を襲撃してスニーカーを奪い取る「エアマックス狩り」が頻発します。

5:3Dゲーム画面、キャラクターの登場 (1:01~)

 90年代のテレビゲーム引用はもちろんのこと、最近SM Entertainmentが動かそうとしているアバタープロジェクトに関係がありそうな内容です。

6:コラージュエフェクト (1:23~)

 冒頭のジェノが出てくる部分にも一瞬ありましたが、ここは90年代ドラマのオープニングでありそうな映像エフェクトが使われています。直接的なものを見つけられませんでしたが、イメージ的にはこれとかが近いのではないでしょうか。

■Saved by the Bell: The New Class Season 1 Opening (93)

7:NINTENDO64 (1:51~)

 私は完全にNINTENDO64世代で、弟にスマブラやゼルダ、マリカーなどを一緒にやらされていた人間なので懐かしいな……という印象です。NINTENDO64はスーパーファミコンの後継機として96年に発売されました。

8:黒い衣装 (2:13~)

 前身黒ずくめのファッションは90年代Hiphopではよくあるものですが、インナーに白Tシャツを合わせているものだと、何度も名前を出しているN.W.Aのイメージが一番近いような気がします。

■N.W.A. - Express Yourself (88)

 またそのファッションに身を包んで複数人で踊るとなると112が思い出されます。

■112 - It's Over Now (01)

 解説としては以上です。

 冒頭の引用した公式からの曲解説文に「ニュートロ」という言葉がありましたが、NewとRetroを組み合わせた造語で、韓国では2018年半ば頃から使われるようになったそうです。私が初めて聞いたのは、DIAのアルバム『Newtro』がリリースされることになった19年前半でしょうか。

 ニュートロとレトロの音の違いについては言葉でうまく説明できずにいましたが、12月2日に出演した『アフター6ジャンクション』(TBSラジオ)でRHYMESTER・宇多丸さんに、ニュートロについて「シンセの鳴らし方にてらいがない」「Trapなどまで行き着いた後の3周して戻ってきたビート」「タメがなくビートが始まっただけで半笑いしてしまう感じ」という説明をしていただき、なるほどなと納得しました。

 「90's Love」は「ニュートロ」ということを加味すると、90年代のさまざまな要素を取り込んで、現代風に昇華できているのではないでしょうか。

 実は「90's Love」の楽曲がリリースされる前に、メンバーたちが赤い衣装を着たティーザー画像だけがアップされ、それを見た私は、少し雰囲気がキレイすぎるしシルエットが細いなと思い、「ツメが甘くない?」というツイートをしました。その時は単純に、90年代コンセプトをやるんだ! と思っていたのでそのような印象を持ったのですが、ニュートロコンセプトをやる場合、どれぐらい引用元の時代を盛り込むのか、どれぐらい現代っぽくするのかのバランスがとても難しいと思っています。

 さらに、引用するコンセプトの文化や国・地域などの背景まで考えると、文化の盗用の話も出てきそうで、同じくNCT Uの「Make a Wish」などは相当問題になりました。一方で「90's Love」は、アフリカンアメリカンカルチャーをここまで引用しているのに、今回はいいんだ……と変な気持ちです。変に騒ぐのも良くないと思いますが。

 また、K-Popは突然、前触れもなくガラッと違うコンセプトをやることが一般的ですが、NCTに関しては人数が変化することも考えると、メンバーの組み合わせがほぼ無限にある状態なので、今までやってきたことや文脈、それをこなすメンバーのことを考えると、余計にコンセプトの選択が難しいとも思います。

 今まで紹介した80年代後半~90年代にかけてのNJSやHiphopは「カッコいいダサさ」があると個人的には思っているのですが、「90's Love」は漠然とそれとは違ったダサさが出ていると感じていて、個人的にはもう少しだけ、90年代の要素がしっかり盛り込まれていたほうが、より好みだったとは思いました。

 例を挙げるなら、EXOの「Ya Ya Ya」などは公式でSWVの「You're The One」をサンプリングしていると明かしているので、Busta Rhymesのラインなどは、そのまま引用したほうがインパクトがあったのではないでしょうか(そもそも90年代リリースではないですが……)。

 今までの連載を見てきている方にはわかると思いますが、Hiphopはサンプリング文化なので、そのような部分も含めて90年代を存分に引用したらより面白かったかもしれないです。

 今回の特集は、絶妙にさまざまな要素が混ざり合っていたため、音楽的な部分の解説にかなり手こずったこともあり、友人の渡邉千尋さんtheoria.さんに少し繙きを手伝ってもらいました。渡邉千尋さんは、私とは全く違った視点から広くK-Popについてブログを書いていて、theoria.さんは韓国でトラックメイカーとして活動しつつ、케이팝애티튜드(KPOP ATTITUDE)というクルーを運営し、K-Popパーティの開催や、楽曲レビュー投稿をしています。

落選したけど……紹介したい1曲

■BAE173(비에이이173) - 반하겠어(Crush on U)

 POCKETDOL STUDIO所属、9人組ボーイズグループ「BAE173」(ビーエーイー イルチルサム)のデビュー曲「반하겠어」(パンハゲッソ、惚れそうだ)です。

 11月19日がデビュー日で、現在音楽番組などに出演しながら絶賛活動中です。POCKETDOL STUDIOという事務所は、KBSで放送されたアイドル再起プロジェクト番組『THE UNIT』の製作のために、MBK EntertainmentとInterpark(書店やチケット販売などを行うエンタメ企業)が共同出資で設立した会社です。

 Mnetのサバイバル番組『PRODUCE X 101』から誕生したX1というグループに選ばれたメンバーが2人いましたが、PRODUCEシリーズの投票操作などの影響でX1が解散してしまったため、思ったより早くグループとしてデビューすることになりました(その2人はH&Dというユニットで先にデビューし半年程度活動していたので、このタイミングで9人組でデビューするのは少し驚きました)。

 この曲について言いたいことは、2015年頃にSEVENTEENにハマった人間は絶対に聞いてくれ! です。そんな人が今この記事を見てるのかどうかわかりませんが、曲やコンセプト、ステージなどが完全に「아낀다 (Adore U)」と「만세(MANSAE)」など初期のSEVENTEENから影響を受けています。曲を聞いただけではそこまで思いませんでしたが、たまたま音楽番組のステージを見て、これは!!!!! となりました。

 ということでここまでで気になった方は是非11月22日の音楽番組、人気歌謡のステージをご覧ください。

 実はMBKという事務所にあまり良い印象がなかったので頑張って欲しい! という気持ちでいっぱいです。

<近況>
2年ぶりぐらいにTBSラジオに出演しました。20分でDJセットを組むのは本当に大変です……。そして12月中と1月上旬に、もしかしたら何かあるかもしれません…。

e_e_li_c_a
1987年生まれ。18歳からDJを始めヒップホップ、ソウル、 ファンク、ジャズ、中東音楽、 タイポップスなどさまざまなジャンルを経て現在K-POPをかけるクラブイベント「Todak Todak」を主催。楽曲的な面白さとアイドルとしての魅力の双方からK-POPを紹介して人気を集める。

Twitter @e_e_li_c_a TodakTodak 
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韓国で英雄視される「義烈団」と、日本警察の攻防――映画『密偵』から読み解く、朝鮮戦争と抗日運動の歴史

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『密偵』

 韓国映画界では今、近現代の歴史的出来事にフィクションの要素を加え、歴史を振り返りつつエンターテインメントとして仕上げた作品が人気だ。以前コラムでも取り上げた『金子文子と朴烈』『マルモイ』『スウィング・キッズ』などはいずれも、「事実(fact)」と「虚構(fiction)」を融合した「ファクション(faction)」ジャンルであると紹介してきたが、今回取り上げる『密偵』(キム・ジウン監督、2016)もまたその系譜だといえる。

 だが一口に「ファクション」と言っても、作品の中での事実と虚構の割合はそれぞれだ。同作の監督を務めたキム・ジウンは、『クワイエット・ファミリー』(1998)といったブラック・コメディから『反則王』(00)、『グッド・バッド・ウィアード』(08)といった王道のアクションもの、ホラー作品の『箪笥』(03)まで、さまざまなジャンルを行き来しながら大成功を収めてきたヒットメーカーで、近年はハリウッドに招かれるほどの実力者でもある。

 そんな監督のファクション作品であれば、事実よりも虚構の要素が強くて当然と思いがちだが、意外にも本作は、史実にかなり忠実に描かれている。今回のコラムでは、韓国でもあまり知られていない部分も多い本作をめぐる史実を、映画と照合しながら丁寧に紹介してみたい。

 物語を紹介する前に、まずは本作を見る上で重要な固有名詞を確認しておこう。「義烈団」という存在をご存じだろうか? 日本史の教科書にも登場するはずなので、名前くらいは知っている人もいるかもしれない。

 1919年、朝鮮全土で起こった「三・一独立運動」は、非暴力を掲げていたにもかかわらず、日本軍の武力行使によって多数の犠牲者を出すデモとなった。この事件をきっかけに、平和的な活動に限界を覚えた指導者たちは、大韓民国臨時政府の誕生と時を同じくして拠点を満州へと移し、「日帝の破壊と暗殺」を前面に打ち出した義烈団が結成されたのだ。

 徹底抗戦を宣言した彼らは、「爆弾組」と「拳銃組」を組織して積極的に武器を持ち込み、総督府や警察署など日本の統治機関をターゲットに、破壊と暗殺をさまざまに試みた。それらの多くは失敗に終わったものの、彼らが命を顧みずに祖国の独立を目指したという点では、韓国近代史における英雄的存在だといえる。本作はそんな義烈団と日本警察の攻防を巡って展開する。

<物語>

 1920年代の植民地朝鮮。独立のための資金集めに奔走していた義烈団メンバー、キム・ジャンオク(パク・ヒスン)は日本警察に追われ、日本の手先となっていた朝鮮人警部イ・ジョンチュル(ソン・ガンホ)の目の前で自殺。これを機に、義烈団メンバーの検挙に乗り出した日本警察は、ジョンチュルを使って古美術商の義烈団メンバー、キム・ウジン(コン・ユ)へと接近を試みる。団を率いるチョン・チェサン(イ・ビョンホン)との接触に成功したジョンチュルだが、日本警察という立場と朝鮮人のアイデンティティの間で揺らぎ、次第に義烈団に協力するようになる。

 日本警察部長のヒガシ(鶴見辰吾)が送り込んだ警部ハシモト(オム・テグ)の監視をかいくぐりながら、義烈団を追うジョンチュル。一方で、義烈団の中にも密偵が存在し、そのせいで彼らの作戦は見破られ、一網打尽にされてしまう。一度は捕まったジョンチュルだが、自分は警察側の密偵として義烈団に近づいたにすぎないと訴えて釈放。見せしめのため、義烈団の女性メンバー、ヨン・ゲスン(ハン・ジミン)への拷問に加担させられながらも、ジョンチュルはウジンとの“ある目的”を果たすべく、隠してあった爆弾を持ち出して最後の行動へと移る……。

 では、物語の展開に添いながら、それぞれのキャラクターを歴史と照らし合わせてみよう。

 映画の冒頭でまず描かれるのは、「鍾路(チョンノ)警察署爆弾事件」の顛末だ。義烈団メンバー、キム・サンオク(映画ではキム・ジャンオクとして登場)は1923年1月、鍾路警察署に爆弾を投げ込んだとして日本警察に追われ、抵抗したものの銃撃されて死亡したとされる人物。憲兵たちが彼を追って瓦屋根の上を走り回る映画の描写はあまりにも大げさに思われるが、真冬の京城(現ソウル)を裸足で何十キロにもわたって逃げ回り、撃たれた時は膝から下が凍傷でひどい状態だったという彼の実際の死のインパクトは、映画でもそのまま描かれている「最期は“大韓独立万歳”と叫び、一発だけ残っていた弾で自ら命を絶った」という英雄神話と比べても、あながち外れてはいないかもしれない。

 この事件(別名:キム・サンオク事件)をきっかけとして義烈団への捜査が本格化し、映画と同じく上層部(映画で鶴見が演じたヒガシのモデルとなった人物の名は、当時の新聞によると「馬野」)の命令で、ファン・オク(ソン・ガンホが演じたイ・ジョンチュル)という朝鮮人警部と、橋本(映画でもハシモト。ただし、彼が日本人か朝鮮人かは不明)が上海に送られる。そこでのファン・オクとキム・シヒョン(映画ではコン・ユが演じたキム・ウジン)のやりとりは定かではなく、2人は後に、「実際には会っていない」と証言もしている。

 しかし、一つ確かなことは、ファン・オクは上海で義烈団団長のキム・ウォンボン(イ・ビョンホンが演じたチョン・チェサン)と面会をしていたということだ。この事実があったために、ファン・オクは義烈団の爆弾持ち込みに協力したとして、後に10年の実刑を言い渡されることになる。

 『密偵』というタイトルからも明らかなように、本作は主人公のイ・ジョンチュルが「実際には日本側と義烈団側のどちらの密偵だったか?」という問題を、主要なテーマにしている。韓国映画界の大スターであるソン・ガンホが演じていることからも、映画は彼が「義烈団側の密偵」=「独立運動家」であるという前提で描いているわけだが、歴史上の真偽は、いまだ不明のままだ。ファン・オク自身は「義烈団メンバーを捕まえるため、日本の警察として本分を果たしたまでだ」と訴えており、歴史学者の間でも「義烈団の逮捕に成功すれば昇進を約束されたために義烈団側の密偵を装った」というのが定説になってはいる。

 だがその一方で、1945年に日本から解放された後も、彼は義烈団と交流を続けており、その後、親日派を処罰する運動に積極的に参加していた事実もあって、定説には疑問が残るのも否めない。朝鮮戦争の際に人民軍によって連れ去られ、生死を確かめるすべのなかった彼の立場を正確に位置づけるのは難しく、このファン・オクという人物の曖昧さが、映画では絶妙な緊張感をもたらしている。歴史的評価が定まっていないがために、彼がどう描かれるか、物語がどう展開するか、観る者になかなか予想ができないからだ。

 歴史的には英雄である義烈団の一面が、韓国ではいまだにあまり知られていない理由は、ファン・オクをめぐる曖昧さもさることながら、義烈団団長であるキム・ウォンボンの存在も大きい。出番は少ないながらも、イ・ビョンホンが圧倒的な存在感を醸しているこの人物は、1916年に中国に渡って軍事教育を受けた後、三・一独立運動をきっかけに仲間たちと義烈団を結成し、団長として活躍した。鍾路警察署爆弾事件以前にも、キム・ウォンボンは釜山・密陽警察署爆弾事件(1920)、総督府爆弾事件(1921)を指示し、爆弾の性能の問題から物理的には失敗に終わったものの、日本を少なからず慌てさせ、朝鮮人の同胞たちを心理的に勇気づけたという意味で、歴史的重要性は計り知れないものがあるといえる。

 だが彼は独立後の1948年、南だけの単独政府の樹立に反対して北に渡り、朝鮮戦争では北の人民軍の指導部として参戦。北朝鮮で要職にも就いたが、1958年に金日成(キム・イルソン)から「批判的」との理由で粛清されるという道をたどる。そして、これまでのコラムでも取り上げたように、韓国にとって北朝鮮に関わる事象は長年タブー視されてきたため、朝鮮独立の英雄にほかならないキム・ウォンボンでさえ、北に渡ったという理由で長い間その存在を隠蔽されてきたのだ。

 近年のファクション映画ブームの背景には、その後の歩みにかかわらず、抗日運動に貢献した人物を発掘し、再評価しようという韓国社会の変化も大きく反映されており、それによって彼らを映画でも取り上げやすくなったことが挙げられる。キム・ウォンボンは『暗殺』(チェ・ドンフン監督、15)にも登場する人物なので、機会があれば併せて鑑賞してほしい。

 そして、イ・ジョンチュルとともにもう一人、映画の主要人物であるキム・ウジンは、人気俳優のコン・ユが演じていることもあり、頭脳的な好人物として描かれている。前述のように、モデルとなった義烈団メンバー、キム・シヒョンとファン・オクとの事実関係については定かではないものの、裁判でキム・シヒョンがファン・オクをかばったという事実が、映画での2人の関係を想像させたと考えられる。

 明治大学法学部を卒業したキム・シヒョンは、朝鮮独立に身を投じる決意をして義烈団に入り、活動の中で逮捕と釈放を繰り返したが、とりわけ壮絶だったのは独立後の歩みだ。抗日活動の実績を評価されて国会議員になったものの、李承晩(イ・スンマン)大統領の悪政に憤った彼は、元義烈団メンバーを使って大統領の暗殺を試みたのだ。事実、1952年に演説会場にて、登壇している李承晩のすぐ背後で、彼に銃を向ける男を捉えた衝撃的な写真も残っている。

 だが、元メンバーが手にした銃は不発に終わり、捕らえられたキム・シヒョンは「私が銃を持てばよかった」と叫んだという。これによって死刑宣告を受けた彼は、1960年に起こった「4.19革命」で李政権が倒れたことにより赦免され、再び国会議員に返り咲くも、朴正煕(パク・チョンヒ)による軍事クーデター後に政界から引退。1973年に他界した。

 ちなみに、キム・ウジンの恋人であった義烈団の女性メンバー、ヨン・ゲスンは、実際には妓生(キーセン、日本でいう芸者)出身のヒョン・ゲオクがモデルとなっており、英語とドイツ語が堪能だった彼女は、後に旧ソ連に亡命したとの記録が残っている。映画のような拷問死を迎えてはいないが、義烈団には少なからず女性も所属しており、中には悲惨な最期を遂げた者もあったのだろう。

 以上が本作をめぐる、史実と映画を比較した結果である。細部においては、必ずしも史実をなぞっているわけではないものの、物語の展開や登場人物の描写は概ね一致していることがわかるだろう。ただし、映画の終盤で描かれるイ・ジョンチュルによる爆弾事件が、完全なるフィクションである点は押さえておかねばならない。

 植民地時代を舞台にした映画では、しばしば京城を舞台に独立運動家による破壊・暗殺行為や、日本警察との銃撃戦がスリルたっぷりに描かれる。だがそのほとんど(99%といってもいいだろう)はフィクションが混ざっており、朝鮮人が実際にはできなかったことへの欲望を満たす「ファンタジー」の役割を、映画が果たしているといえよう。

 ナショナリズム理論の教科書ともいえる著作『想像の共同体』で、明確な形として存在しない<国家>の概念がどのように人々に共有され、<国民>を形成していくかを論じたベネディクト・アンダーソンによると、人々がナショナリズムを内面化していく段階では、誰もが知っている「偉人」より、誰もがなりえたかもしれない「無名勇士」のほうが効果的なのだそう。朝鮮の歴史で考えるならば、伊藤博文を暗殺した英雄・安重根(アン・ジュングン)を賛美していた時代は終わりを告げ、まだ十分には知られていない活動家たちを掘り起こす、ナショナリズムの新たな局面を迎えているのだろうか。

 歴史に対して多様な視点を持ち、再評価の余地を与えるという作業は非常に重要ではあるものの、史実とフィクションの混在がいつしか歴史と欲望の境界を曖昧にしてしまう危険性は、これからも常に警戒していなければならない。

■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

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近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『密偵』

 韓国映画界では今、近現代の歴史的出来事にフィクションの要素を加え、歴史を振り返りつつエンターテインメントとして仕上げた作品が人気だ。以前コラムでも取り上げた『金子文子と朴烈』『マルモイ』『スウィング・キッズ』などはいずれも、「事実(fact)」と「虚構(fiction)」を融合した「ファクション(faction)」ジャンルであると紹介してきたが、今回取り上げる『密偵』(キム・ジウン監督、2016)もまたその系譜だといえる。

 だが一口に「ファクション」と言っても、作品の中での事実と虚構の割合はそれぞれだ。同作の監督を務めたキム・ジウンは、『クワイエット・ファミリー』(1998)といったブラック・コメディから『反則王』(00)、『グッド・バッド・ウィアード』(08)といった王道のアクションもの、ホラー作品の『箪笥』(03)まで、さまざまなジャンルを行き来しながら大成功を収めてきたヒットメーカーで、近年はハリウッドに招かれるほどの実力者でもある。

 そんな監督のファクション作品であれば、事実よりも虚構の要素が強くて当然と思いがちだが、意外にも本作は、史実にかなり忠実に描かれている。今回のコラムでは、韓国でもあまり知られていない部分も多い本作をめぐる史実を、映画と照合しながら丁寧に紹介してみたい。

 物語を紹介する前に、まずは本作を見る上で重要な固有名詞を確認しておこう。「義烈団」という存在をご存じだろうか? 日本史の教科書にも登場するはずなので、名前くらいは知っている人もいるかもしれない。

 1919年、朝鮮全土で起こった「三・一独立運動」は、非暴力を掲げていたにもかかわらず、日本軍の武力行使によって多数の犠牲者を出すデモとなった。この事件をきっかけに、平和的な活動に限界を覚えた指導者たちは、大韓民国臨時政府の誕生と時を同じくして拠点を満州へと移し、「日帝の破壊と暗殺」を前面に打ち出した義烈団が結成されたのだ。

 徹底抗戦を宣言した彼らは、「爆弾組」と「拳銃組」を組織して積極的に武器を持ち込み、総督府や警察署など日本の統治機関をターゲットに、破壊と暗殺をさまざまに試みた。それらの多くは失敗に終わったものの、彼らが命を顧みずに祖国の独立を目指したという点では、韓国近代史における英雄的存在だといえる。本作はそんな義烈団と日本警察の攻防を巡って展開する。

<物語>

 1920年代の植民地朝鮮。独立のための資金集めに奔走していた義烈団メンバー、キム・ジャンオク(パク・ヒスン)は日本警察に追われ、日本の手先となっていた朝鮮人警部イ・ジョンチュル(ソン・ガンホ)の目の前で自殺。これを機に、義烈団メンバーの検挙に乗り出した日本警察は、ジョンチュルを使って古美術商の義烈団メンバー、キム・ウジン(コン・ユ)へと接近を試みる。団を率いるチョン・チェサン(イ・ビョンホン)との接触に成功したジョンチュルだが、日本警察という立場と朝鮮人のアイデンティティの間で揺らぎ、次第に義烈団に協力するようになる。

 日本警察部長のヒガシ(鶴見辰吾)が送り込んだ警部ハシモト(オム・テグ)の監視をかいくぐりながら、義烈団を追うジョンチュル。一方で、義烈団の中にも密偵が存在し、そのせいで彼らの作戦は見破られ、一網打尽にされてしまう。一度は捕まったジョンチュルだが、自分は警察側の密偵として義烈団に近づいたにすぎないと訴えて釈放。見せしめのため、義烈団の女性メンバー、ヨン・ゲスン(ハン・ジミン)への拷問に加担させられながらも、ジョンチュルはウジンとの“ある目的”を果たすべく、隠してあった爆弾を持ち出して最後の行動へと移る……。

 では、物語の展開に添いながら、それぞれのキャラクターを歴史と照らし合わせてみよう。

 映画の冒頭でまず描かれるのは、「鍾路(チョンノ)警察署爆弾事件」の顛末だ。義烈団メンバー、キム・サンオク(映画ではキム・ジャンオクとして登場)は1923年1月、鍾路警察署に爆弾を投げ込んだとして日本警察に追われ、抵抗したものの銃撃されて死亡したとされる人物。憲兵たちが彼を追って瓦屋根の上を走り回る映画の描写はあまりにも大げさに思われるが、真冬の京城(現ソウル)を裸足で何十キロにもわたって逃げ回り、撃たれた時は膝から下が凍傷でひどい状態だったという彼の実際の死のインパクトは、映画でもそのまま描かれている「最期は“大韓独立万歳”と叫び、一発だけ残っていた弾で自ら命を絶った」という英雄神話と比べても、あながち外れてはいないかもしれない。

 この事件(別名:キム・サンオク事件)をきっかけとして義烈団への捜査が本格化し、映画と同じく上層部(映画で鶴見が演じたヒガシのモデルとなった人物の名は、当時の新聞によると「馬野」)の命令で、ファン・オク(ソン・ガンホが演じたイ・ジョンチュル)という朝鮮人警部と、橋本(映画でもハシモト。ただし、彼が日本人か朝鮮人かは不明)が上海に送られる。そこでのファン・オクとキム・シヒョン(映画ではコン・ユが演じたキム・ウジン)のやりとりは定かではなく、2人は後に、「実際には会っていない」と証言もしている。

 しかし、一つ確かなことは、ファン・オクは上海で義烈団団長のキム・ウォンボン(イ・ビョンホンが演じたチョン・チェサン)と面会をしていたということだ。この事実があったために、ファン・オクは義烈団の爆弾持ち込みに協力したとして、後に10年の実刑を言い渡されることになる。

 『密偵』というタイトルからも明らかなように、本作は主人公のイ・ジョンチュルが「実際には日本側と義烈団側のどちらの密偵だったか?」という問題を、主要なテーマにしている。韓国映画界の大スターであるソン・ガンホが演じていることからも、映画は彼が「義烈団側の密偵」=「独立運動家」であるという前提で描いているわけだが、歴史上の真偽は、いまだ不明のままだ。ファン・オク自身は「義烈団メンバーを捕まえるため、日本の警察として本分を果たしたまでだ」と訴えており、歴史学者の間でも「義烈団の逮捕に成功すれば昇進を約束されたために義烈団側の密偵を装った」というのが定説になってはいる。

 だがその一方で、1945年に日本から解放された後も、彼は義烈団と交流を続けており、その後、親日派を処罰する運動に積極的に参加していた事実もあって、定説には疑問が残るのも否めない。朝鮮戦争の際に人民軍によって連れ去られ、生死を確かめるすべのなかった彼の立場を正確に位置づけるのは難しく、このファン・オクという人物の曖昧さが、映画では絶妙な緊張感をもたらしている。歴史的評価が定まっていないがために、彼がどう描かれるか、物語がどう展開するか、観る者になかなか予想ができないからだ。

 歴史的には英雄である義烈団の一面が、韓国ではいまだにあまり知られていない理由は、ファン・オクをめぐる曖昧さもさることながら、義烈団団長であるキム・ウォンボンの存在も大きい。出番は少ないながらも、イ・ビョンホンが圧倒的な存在感を醸しているこの人物は、1916年に中国に渡って軍事教育を受けた後、三・一独立運動をきっかけに仲間たちと義烈団を結成し、団長として活躍した。鍾路警察署爆弾事件以前にも、キム・ウォンボンは釜山・密陽警察署爆弾事件(1920)、総督府爆弾事件(1921)を指示し、爆弾の性能の問題から物理的には失敗に終わったものの、日本を少なからず慌てさせ、朝鮮人の同胞たちを心理的に勇気づけたという意味で、歴史的重要性は計り知れないものがあるといえる。

 だが彼は独立後の1948年、南だけの単独政府の樹立に反対して北に渡り、朝鮮戦争では北の人民軍の指導部として参戦。北朝鮮で要職にも就いたが、1958年に金日成(キム・イルソン)から「批判的」との理由で粛清されるという道をたどる。そして、これまでのコラムでも取り上げたように、韓国にとって北朝鮮に関わる事象は長年タブー視されてきたため、朝鮮独立の英雄にほかならないキム・ウォンボンでさえ、北に渡ったという理由で長い間その存在を隠蔽されてきたのだ。

 近年のファクション映画ブームの背景には、その後の歩みにかかわらず、抗日運動に貢献した人物を発掘し、再評価しようという韓国社会の変化も大きく反映されており、それによって彼らを映画でも取り上げやすくなったことが挙げられる。キム・ウォンボンは『暗殺』(チェ・ドンフン監督、15)にも登場する人物なので、機会があれば併せて鑑賞してほしい。

 そして、イ・ジョンチュルとともにもう一人、映画の主要人物であるキム・ウジンは、人気俳優のコン・ユが演じていることもあり、頭脳的な好人物として描かれている。前述のように、モデルとなった義烈団メンバー、キム・シヒョンとファン・オクとの事実関係については定かではないものの、裁判でキム・シヒョンがファン・オクをかばったという事実が、映画での2人の関係を想像させたと考えられる。

 明治大学法学部を卒業したキム・シヒョンは、朝鮮独立に身を投じる決意をして義烈団に入り、活動の中で逮捕と釈放を繰り返したが、とりわけ壮絶だったのは独立後の歩みだ。抗日活動の実績を評価されて国会議員になったものの、李承晩(イ・スンマン)大統領の悪政に憤った彼は、元義烈団メンバーを使って大統領の暗殺を試みたのだ。事実、1952年に演説会場にて、登壇している李承晩のすぐ背後で、彼に銃を向ける男を捉えた衝撃的な写真も残っている。

 だが、元メンバーが手にした銃は不発に終わり、捕らえられたキム・シヒョンは「私が銃を持てばよかった」と叫んだという。これによって死刑宣告を受けた彼は、1960年に起こった「4.19革命」で李政権が倒れたことにより赦免され、再び国会議員に返り咲くも、朴正煕(パク・チョンヒ)による軍事クーデター後に政界から引退。1973年に他界した。

 ちなみに、キム・ウジンの恋人であった義烈団の女性メンバー、ヨン・ゲスンは、実際には妓生(キーセン、日本でいう芸者)出身のヒョン・ゲオクがモデルとなっており、英語とドイツ語が堪能だった彼女は、後に旧ソ連に亡命したとの記録が残っている。映画のような拷問死を迎えてはいないが、義烈団には少なからず女性も所属しており、中には悲惨な最期を遂げた者もあったのだろう。

 以上が本作をめぐる、史実と映画を比較した結果である。細部においては、必ずしも史実をなぞっているわけではないものの、物語の展開や登場人物の描写は概ね一致していることがわかるだろう。ただし、映画の終盤で描かれるイ・ジョンチュルによる爆弾事件が、完全なるフィクションである点は押さえておかねばならない。

 植民地時代を舞台にした映画では、しばしば京城を舞台に独立運動家による破壊・暗殺行為や、日本警察との銃撃戦がスリルたっぷりに描かれる。だがそのほとんど(99%といってもいいだろう)はフィクションが混ざっており、朝鮮人が実際にはできなかったことへの欲望を満たす「ファンタジー」の役割を、映画が果たしているといえよう。

 ナショナリズム理論の教科書ともいえる著作『想像の共同体』で、明確な形として存在しない<国家>の概念がどのように人々に共有され、<国民>を形成していくかを論じたベネディクト・アンダーソンによると、人々がナショナリズムを内面化していく段階では、誰もが知っている「偉人」より、誰もがなりえたかもしれない「無名勇士」のほうが効果的なのだそう。朝鮮の歴史で考えるならば、伊藤博文を暗殺した英雄・安重根(アン・ジュングン)を賛美していた時代は終わりを告げ、まだ十分には知られていない活動家たちを掘り起こす、ナショナリズムの新たな局面を迎えているのだろうか。

 歴史に対して多様な視点を持ち、再評価の余地を与えるという作業は非常に重要ではあるものの、史実とフィクションの混在がいつしか歴史と欲望の境界を曖昧にしてしまう危険性は、これからも常に警戒していなければならない。

■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

SEVENTEEN「HOME;RUN」は「Jazz」を知るとさらに楽しい! MVの世界観と音楽ルーツを解説 

――毎月リリースされるK-POPの楽曲。それらを楽しみ尽くす“視点”を、さまざまなジャンルのDJを経て現在はK-POPのクラブイベントを主宰するe_e_li_c_a氏がレクチャー。10月にリリースされた曲から[いま聞くべき曲]を紹介します!

今月の1曲‖SEVENTEEN (세븐틴) - HOME;RUN

 今月はPledis Entertainment所属13人組グループ、SeventeenのSpecial Album『;[Semicolon]』のタイトル曲「HOME;RUN」から、あまりにも奥深すぎるジャンルなため踏み込みたくなかった「Jazz」について解説します。実は、Seventeenは私が初めて韓国までコンサートを見に行ったグループなので、それなりに思い入れのあるグループです。

 アルバムの説明として公式文章を引用します。

「『;[Semicolon](セミコロン)』は、前作『헹가래(ヘンガレ)』で伝えた'青春'への応援メッセージを再び共有しながら一歩前進し、休まず走る青春に'少し休んで青春の饗宴を楽しもう'という、より成熟した肯定のメッセージを伝えるアルバム。現在を生きながら孤軍奮闘している若者たちへ、『息抜きの時間』、『一緒に笑って楽しめる時間』を文章の途中で切り、説明を続ける時に使われる符号「Semicolon(セミコロン)」にたとえ、同時代の青春として生きる「SEVENTEEN」から共感と慰めと応援を伝えるメッセージがアルバムいっぱい込められている」

 今回はティーザー動画やMV、音楽番組のステージなどからもわかるようにSwing Jazzの流行した1930年代のファッション・雰囲気を引用しており、当時の時代背景がわかるとさらに「HOME;RUN」が楽しめる内容になっていると思います。パフォーマンスについては、毎回の音楽番組でコンサートレベルのパフォーマンスを披露していて、人数やスキルも含めてSeventeenだからこそ、というようなステージになっています。是非MVだけでなく音楽番組のステージをチェックしてみてください。

奴隷解放宣言から始まるジャズの歴史

 「Jazz」というと難しくてとっつきにくいというイメージがある方も多いかもしれませんが、今回は1862年アメリカで奴隷解放宣言が出された時代から歴史的な流れを中心に、ざっくりとジャズの成り立ちと、1930年代に流行した「Swing Jazz」というジャンルを中心に説明したいと思います。

 まずは年代と、その時代に流行したジャズのサブジャンルについて挙げます。今までのように、ここ30〜40年の話ではなく時代をぐっとさかのぼり、100年以上前の話になります。

1900年代:New Orleans Jazz(ニューオーリンズ・ジャズ)
1910年代:Dixieland Jazz(ディキシーランド・ジャズ)この年代もニューオーリンズ・ジャズと呼ばれることもある
<1900~1910年代を大きく括って「オールド・ジャズ」や「クラシック・ジャズ」と分類する>

1920年代:Chicao Jazz(シカゴ・ジャズ)
1930年代:Swing Jazz(スイング・ジャズ)
1940年代:Be-bop(ビ・バップ)

 ジャズの発祥は一般的にはアメリカと言われていますが、レゲエの説明をした時と同様、いろいろな場所から集まった人たちが元から持ち合わせていた音楽的な要素が交ざり合い、アメリカで育まれ発展したジャンルです。ヨーロッパから移住した人々や、奴隷制があった時代にアフリカから労働力として強制的に連行された人々、それらの混血のクレオール(※)など多種多様な人種が集まるルイジアナ州の港町・ニューオーリンズという街でジャズが生まれたといわれています。

 ニューオーリンズでは当時、スラングで性行為をJass、売春宿をJass Houseと呼んでいて、1階が酒場で2階が売春宿の、酒場部分を主な演奏場所にしていた演奏家たちのことを「Jass Band」と呼んでいたとされ、これが「Jazz」の語源という説があります。ほかにもフランス語の「Jaser」から来ているなど諸説ありますが、現在でもその語源ははっきりしません。

 音楽的な成り立ちについては、「Blues」(ブルース、ブルーズ)や「Ragtime」(ラグタイム)、ゴスペル、霊歌、初期のカントリーなどたくさんの音楽と互いに影響を受け合い形作られたといわれています。

※「クレオール」は言語や人のどちらにも使われ、レゲエの説明をした時の「パトワ語」がジャマイカ・クレオール語と表現されることもありますが、今回の文脈で「人」に使う場合は、ヨーロッパを中心に考え人種を問わず「植民地(アメリカ)で生まれた人」のことを指します。

 アメリカ南部のミシシッピ州北西部の川で囲まれたミシシッピデルタ地帯は広大で平らで肥沃な土地があり、1800年代後半たくさんの大規模農園が作られ、奴隷制から解放されたアフリカンアメリカンたちが誘い込まれて小作制が始まりました。アフリカンアメリカンは奴隷制から解放されたとはいえ、農園主のヨーロッパ人から金を借りる代わりに生産物の半分を差し出させられ、農園に縛り付けられます。そこで過酷な労働を強いられた彼らが怒りや苦悩、不満といった自らの感情を表現する手段として用いた音楽が1890年代ブルースへと発展します。

 ブルース登場以前は、土地を掘り返したり船を漕いだりするような、大勢が一斉にリズミカルな作業をする場で掛け声的に歌われた労働歌(ワーク・ソング)、農園で集団で仕事をしながら歌っていたフィールドハラー、誰かが歌うと誰かがそれに答えて歌うというコールアンドレスポンスなどがありましたが、ブルースはそれとは対象的に、仕事をしていない暇な時、身近な出来事や個人的なこと、感情などを独白的にしゃべって歌うというイメージのものです。

 彼らにとって身近だったギターが伴奏楽器として適していたこともあり、初期のブルースはギターの弾き語り形式のものがほとんどでした。1900年代に入るとブルースは楽譜に落とし込まれ、1920年代に入り初めてのブルース楽曲がレコーディングされます。その後、形式上奴隷から解放されたアフリカンアメリカンは季節労働者としてミシシッピ河口からアーカンソー、ルイジアナ、テキサス、テネシーなどを常に移動しました。ブルースのミュージシャンたちも例外ではなく、アメリカ南部地域を旅してブルースを広めました。

 メロディーに独特の節回しがあり、一般にブルーノートスケールと呼ばれている5音階(ペンタトニック・スケール)で演奏されます。

 長調でいうドレミファソラシドの3・5・7度(ミ・ソ・シ)の音をフラットさせて作った音階で、3度の音はメロディが長調的か短調的になるかを決定する部分ですが、ここがフラットすることで短調的になり少し悲しい響きに聞こえるというものです。このブルーノートスケールはジャズに大きく影響を与えており、1939年にはドイツでジャズ専門の「ブルーノート・レコード」というレコードレーベルができるほどで、ブルーノートはジャズを象徴するキーワードとなっていきます。

 1900年代前半はまだレコードというメディア自体が存在せず、音楽は生演奏をその場で楽しむものでした。1920年代に録音技術が発達し、レコーディングができるようになってから過去発表された楽曲が録音されることも多く、下記に紹介する楽曲もカッコ内に記載したリリース年と実際の楽曲ができた時期が合わないものが多いです。

■Charley Patton - Mean Black Cat Blues (1929)

■Robert Johnson - Kind Hearted Woman Blues (1936)

 Robert Johnsonは伝説的なブルース歌手兼ギタリストで、彼をモデルにした「俺と悪魔のブルーズ」という漫画が出版されており、私の大好きな作品です。

演奏スタイル「ラグタイム」の台頭 〜歓楽街の酒場で人気を博す

 時を同じくしてミズリー州ダリアやセントルイスでは、アフリカンアメリカンがピアノ演奏を中心に、自らのルーツ音楽を基本とするシンコペーションを多用したメロディー(右手)と、マーチ音楽や行進曲に起因する2拍子の伴奏(左手)を融合させた独特の演奏スタイルの「ラグタイム」が台頭します。シンコペーションとはリズムの拍の頭を短くし、裏拍を長くしたりアクセントを置き跳躍感を得る手法のことで、均等な4拍に対して「タタータ、タタータ」のようにリズムを取ることでグルーヴが生まれます。

 最初はピアノ用の楽譜として登場しそれ通りに弾くものでしたが、今までの西洋音楽(クラシック音楽)のリズムとは違う、軽快なピアノタッチと「ずれた」(Ragged)主旋律が特徴です。恐らく誰でも聞いたことがあるであろうこの曲の動画を見てもらえれば、先程の説明の「右手」と「左手」の意味がわかるかと思います。

■Scott Joplin - The Entertainer (1902)

 1900年初頭のニューオリンズでは、歓楽街でもあった売春地区・ストーリーヴィルの酒場やダンスホールでラグタイムが人気となり、アフリカンアメリカンもトランペット、トロンボーン、クラリネットといった西洋楽器を使ったマーチングバンドによる街頭演奏を行うようになっていました。「Maple Leaf Rag」は大ヒットとなり、アメリカ全土で人種や性別、身分などに関わらずたくさんの人がラグタイム曲を作曲しました。

■Scott Joplin - Maple Leaf Rag (1899)

 年代順で挙げた1900年代のニューオーリンズ・ジャズは文字通りニューオーリンズで生まれたものです。ニューオーリンズのアフリカンアメリカンの葬儀では墓地まで親族や友人などの関係者が行列で行進する風習があり、いつしか音楽隊も同行するようになりました。墓地に行く際は重々しい葬送歌や賛美歌を演奏しますが、墓地からの帰りにはスウィング感のある賛美歌や霊歌などの明るい曲が演奏されました。

 行きは「ファーストライン」、帰りは「セカンドライン」と呼ばれ、ニューオーリンズがフランスの植民地だったことで西洋音楽の影響を受けており、セカンドラインで使われる楽器はコルネットやクラリネット、トロンボーンやチューバなどの管楽器中心のブラスバンドになりました。コルネットのメロディを中心として歩きながら即興で演奏を行い、この「セカンドライン」がニューオーリンズジャズの原型になったと言われています。

 これは最近のものですが実際にニューオーリンズで行われた葬儀の模様で、動画の4:40頃までがファーストライン、それ以降がセカンドラインと聞くだけでわかると思います。

■King Oliver And His Creole Jazz Band (1923)

 ストーリーヴィルではラグタイムとニューオーリンズ・ジャズが交ざり合い、またラグタイムが一世風靡したこともあり、「ジャズかな?」と思うような曲でも曲名に「rag」と入っているものもあります。レゲエの説明をしたときの「メント」と「カリプソ」の関係と似ていますね。

 ラグタイムは基本楽譜通りに演奏をする音楽でしたが、左手の伴奏部分の自由度を上げ、さらにはアドリブやブルーノートを取り入れ演奏をするミュージシャンが出てきて、一般的なラグタイムと並行してジャズへ接近していく部分も出てきます。

■Eubie Blake - The Charleston Rag (1917)

 1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦し海軍基地が作られたのをきっかけに、20年間続いた売春地区・ストーリーヴィルは閉鎖されます。

 一方で、1800年代中盤のシカゴは運河の開通や鉄道路線の発達により主要なハブ拠点となり、人とモノが大量に行き交うようになります。1860年代の南北戦争の特需などで産業もさらに発展し、当時は世界史上最も急速に成長した都市といわれていました。1840年代の大飢饉以降、ヨーロッパ全土から貧困や迫害を受けた人たちが流入していたこともあり、なんと1890年頃のシカゴの人口は8割近くが移民でした。

 南部の畑の害虫や洪水被害で職を失った農民や、ストーリーヴィルの閉鎖で職を失ったミュージシャンたちは、発展の真っ最中で比較的差別の少ないシカゴへと向かいます。1915年頃から第一次世界大戦で母国の軍隊に入るために、移民たちがヨーロッパへ帰国する流れ、アメリカ自体の第一次世界大戦への参入もあり、一時的に人不足の状態になっていたシカゴに、ここぞとばかりに南部からアフリカンアメリカンが流入しました。

 当時はまだジャズというジャンルが「ジャズ」という名称ではなく、アメリカ南部地域のことを指す「Dixieland」(ディキシーランド)と呼ばれていたといいます。その頃に、シカゴで結成されたニューオーリンズスタイルのバンド「Original Dixieland Jazz Band」の楽曲がニューヨークでレコーディングされ、この時に発売されたレコードがジャズ史の中で初めて発売されたレコードとされています。

 彼らのバンド名はデビュー前は「jass」と綴られていましたが、デビューをきっかけに「jazz」と綴りを変え、彼らによって「jazz」という名称が多くの人に知れ渡ったといわれています。メンバーは皆ヨーロッパ系の白色人種ですが、初期メンバー全員がニューオーリンズ生まれのあまり裕福ではないシチリアやアイルランド系移民で、アフリカンアメリカンと同じようにストーリーヴィルの閉鎖後にシカゴに移動してきた人たちです。

■Original Dixieland Jazz Band - Livery Stable Blues (1917)

 1920年には国家禁酒法が施行されますが、人々はもちろんそれに従うはずもなく、国境付近の街はマフィアを中心に国外で作られたアルコールを輸入。秘密酒場(スピークイージー)と呼ばれるマフィア経営の酒場にアルコールを卸し、マフィアは莫大な利益を得るようになります。

 ニューヨークなどでは禁酒法施行後に酒場の数が何倍にも増えたという話もあるぐらいで、カナダとの国境が近かったシカゴも例に漏れず、1万軒あったといわれている秘密酒場はたくさんのジャズミュージシャンの演奏場所となります。

 基本的にシカゴ・ジャズは今までのオールドジャズの踏襲で、違いとしては、リズムがシンコペーションからスウィングリズムに変わっていきます。スウィングの話は追って詳しく説明しますが、シカゴからニューヨークにジャズが移り30年代のスウィング・ジャズとして流行する前触れとなります。

 またオールド・ジャズに比べ、それぞれの楽器のソロがわかるように演奏するスタイルに変わっていきます。使う楽器の種類にも変化が見られ、低音を担っていたチューバからコントラバスを使用するようになったり、今まで使われなかったサックスが取り入れられるようになります。

■Louis Armstrong & The Red Onion Jazz Babies - Terrible Blues (1924)

 1920年代、ニューヨークはヨーロッパから物理的に近かったこともあり、オペラやミュージカルといった芸術が輸入され、盛んに上映されていました。音楽業界が集中していたこともあり、鉄道の発達なども手伝いシカゴからニューヨークへミュージシャンが移動します。ニューヨークでは100組ほどが踊れる大きなダンスホールがあり、会場のダンスミュージックとしてジャズが演奏されました。大きな会場なため、今までの5~7人程度のバンドでは音が小さく、必然的に人が増えていきます。同じ楽器が複数人配置されるようになり、これがビッグバンドとなります。

■Duke Ellington & His Washingtonians: East St. Louis Toodle-Oo (1927)

 1930年代はラジオが普及し、実際の生演奏を聞きに行けない人たちもたくさんの人たちがジャズに触れることとなります。先述のDuke EllingtonオーケストラやBenny Goodmanオーケストラ、Glenn Millerオーケストラ、Count Basieオーケストラなどが人気を博します。

■Benny Goodman Orchestra - Sing, Sing, Sing (1937)

 シカゴ・ジャズの時に紹介したとおり、スウィング・ジャズはその文字の通り「スウィング」というリズムのことを指すのはもちろん、ジャズの演奏スタイル・ジャンルとして指す場合にも使います。「swing」の本来の言葉の意味は「揺れる」「振れる」で、バットのスウィングやゴルフのスウィングなどがそうです。

 まず前者の「スウィング」についてですが、ジャズ特有のリズムの「ノリ」のことを表す言葉として、「スウィング」という言葉を使います。ジャズという音楽の特徴である「躍動感」や「ノリ」を表現する時に、「スウィングする」「スウィングしている」というように使われます。スウィングの説明の仕方は人によってさまざまですが、文字で表せる範囲でざっくりと説明すると、3連符の123、223、323、423という8部音符の「タタタ」を「タァタ」とリズムを取り、さらに後ろのタにアクセントを付けます。ちなみに間が抜け落ちる「タッタ」になると「シャッフル」のリズムになります。

 丸を書いてそれを1拍に見立て、どこで取るとイーブン、スウィング、シャッフルと説明する方もいますが、個人的にこの方の説明がわかりやすかったのでまだピンと来ていない方は参考にしてみて下さい。

 当時の有名曲に「It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)」(スウィングしなけりゃ意味がない)という曲があり、ここでいう「スウィング」はこの「ノリ」の意味で使っていることがわかります。

■Duke Ellington - It Don't Mean A Thing (1943)

 私のTwitterを見ている方は、よく「グルーヴがある」 という表現を見ると思いますが「スウィング」 とほぼ同じ意味のものと思って大丈夫です。 もう少し細かく説明すると、「グルーヴ」 はどんなジャンルにも使えるものですが、「スウィング」 はジャズというジャンルの中でのグルーヴ感、 というイメージでしょうか。これはあくまでも私の解釈であり、「 グルーヴ」についても個々人でこれはグルーヴしている、 していない、という感覚が違うため一概には言えない概念です。

 「スウィング」 という感覚を掴むのが難しい方もいるかもしれないですが、 Jazzy Hiphopのこの曲を聞けば「ハネる」 という感覚はわかってもらえるのではないでしょうか。これが「グルーヴ」です。

■Jung Jin Woo(정진우) - MOVIE (Feat. Rohann)

 後者の「ジャズの演奏スタイル」としての「スウィング」という言葉についてです。

 世界恐慌が回復した1935年以降、ニューヨークを中心に急速に白人がリーダーのビッグバンドが台頭してきました。それから1940年代中頃までの間の、ビッグバンドとボーカルを迎えたジャズの演奏スタイルを「スウィング」といい、「スウィング・スタイル」や「スウィング・ジャズ」と呼ばれています。

 「スウィング・スタイル」のジャズは大衆化したダンス・ミュージックとしてラジオを通してアメリカ全土に放送され、一挙にポピュラー・ミュージックとしての地位を獲得していきました。演奏スタイルとしては、ビッグバンドという楽器構成上、譜面による演奏が行われるようになりました。レコーディングやラジオ放送、ダンスのバックミュージックなど、その時々の要求によって曲の長さを調節するためや、毎回曲の演奏時間が同じ長さになるように編曲(アレンジ)することが必要だったからです。

 シカゴ・ジャズ時代にベースとして使っていたチューバがコントラバスに変わったと説明しましたが、この部分はコントラバスで定着します。またドラムがそれまで単独で大太鼓、小太鼓、シンバルといった編成だったものが、ドラムセットが発明され1人の重要なパートとして確立しました。

 1930年中頃には「ジャズ」という言葉は「アフリカンアメリカのやるジャズ」を指すようになっていたので、白人たちはもともと売春宿から生まれたジャズといういかがわしい生い立ちの音楽を、自分たちの「上品なもの」にしようとし、ジャズを別の呼び方にしようと考えました。そうして選ばれた言葉が「スウィング」です。ジャズはこの頃、「ノリ」のことや演奏スタイル一部分ではなくジャンル全体を指す意味で「スウィング」、「スウィング・ミュージック」と呼ばれるようになりました。

 白人たちは、「スウィング」をアメリカの象徴の音楽として仕立てました。「スウィング」は、いわゆる「表」のジャズの形であり、その頃、ハーレムを中心としたアフリカンアメリカンたちの「ジャズ」は、「裏」のジャズとして発展していきました。そうして出現したのが「ビバップ」というジャズの演奏スタイルで、それから「モダン・ジャズ」と呼ばれるジャズが誕生することになります。

 ジャズに関連する映画はたくさんありますが、1930年代のニューヨークを舞台にした『ギター弾きの恋』(Amazon prime videoで視聴可能)や、ニューオーリンズで生まれ、シカゴ、ニューヨークと移動しながら活動を続けてきたルイ・アームストロングなどが出演した1958年のジャズフェスティバルを取り上げた『真夏の夜のジャズ』という映画がちょうど上映中です。終映してしまったところも多いですが、近くで見られそうな方は是非見てみてください。

「HOME;RUN」MVに見える「野球」「ミュージカル」

 Seventeenの「HOME;RUN」MVに要素が見える「野球」や「ミュージカル」の観点から、ジャズと絡めて少しだけアメリカの歴史を見たいと思います。
 
 1800年代後半にアメリカで野球が生まれ、現在のメジャーリーグは1903年に発足します。1920年にはベーブ・ルースが活躍し、戦時中や世界恐慌時に人気が下火になることもありますが、ジャズと時を同じくしてアメリカ全土で人気を博します。戦時中の人手不足があっても、アフリカンアメリカンはメジャーリーグへの出場は認められませんが、1947年にジャッキー・ロビンソンが初めてのアフリカンアメリカンのメジャーリーガーとして登場。彼が大活躍したことでアフリカンアメリカンの選手を雇う球団が増え、さらにはCount Basieによる「Did You See Jackie Robinson Hit That Ball?」というジャズ楽曲まで作られます。「HOME;RUN」の楽曲で、ジャズの「スウィング」と野球の「スウィング」がかかっていることがわかりますね。

■Count Basie & His Orchestra - Did You See Jackie Robinson Hit That Ball? (1947)

 ミュージカルスタイルの作品が上映されるようになったのは1850年頃からで、1880年代にオペラハウスがブロードウェイに登場したことをきっかけにミュージカルの劇場街が形成され始めたといわれています。

 1900年代に入るとブロードウェイに劇場が立て続けに建設され、1940年代半ばの第二次世界大戦中はブロードウェイ第1次黄金期とも言われ、ミュージカルが活発に上映されます。ミュージカルで演奏される楽曲がジャズへと引用されることも多く、ジャズのスタンダード・ナンバー(定番曲)だと思っていたものがミュージカル出身の曲だったということも珍しくありません。

 ミュージカル楽曲はミュージカル作品のために書かれているため、特定のアーティストのイメージが付きにくく、引用してジャズの楽曲としてアレンジしやすいというのもあるでしょう。日本でもCMなどに使われているため知っている方も多いであろう下記の曲は、1959年に上映されたミュージカル「The Sound of Music」の挿入歌です。

■John Coltrane - My Favorite Things (1965)

 スウィングの関連ジャンルとして「Electro swing」(エレクトロ・スウィング、またはSwing house musicともいう)というジャンルがあり、スウィング・ジャズとエレクトロミュージックを融合させたジャンルで、「踊れるジャズ」とも呼ばれています。HouseやHiphop、Drum & Bass、EDMなどと混ざり合って1990年代に生まれたジャンルで、黎明期にはAcid JazzやNu Jazz、Swing houseなどともいわれていました。

 4つ打ちのビートが乗せられており、ジャズのリズムをどうとって良いかわからないような人にも親切でわかりやすく、ノリやすいビートになっていると思います。

■Caravan Palace - Suzy (2008)

 New jack swingの「swing」も以前の記事で書いたように、ドラムマシーンのリズムをスウィング出来る機能のSwingボタンから来ているので関連があるといえるでしょう。

K-Pop関連曲

 ということでK-Popの関連楽曲についてです。厳密に分けることは難しいですが、エレクトロ・スウィングとスウィング・ジャズをそれぞれ紹介したいと思います。

 ライブバージョンのみのアレンジや曲の登録がなくてプレイリストに入れられなかったものなどもありますが、AppleとSpotifyのプレイリストを作成してあるので気に入った方はそちらもチェックしてみてください。

・Electro swing K-Pop Playlist
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・Swing K-Pop Playlist
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Electro swing K-Pop

・달샤벳(Dal★shabet) - 있기 없기(Hate, Don't Hate!) 2012/11/14

・Orange Caramel(오렌지캬라멜) - Lipstick(립스틱) 2012/9/12

・TVXQ! 동방신기 - 수리수리 (Spellbound) 2014/2/26

・ORANGE CARAMEL(오렌지캬라멜) - My Copycat(나처럼 해봐요) 2014/8/18

・빅플로(BIGFLO) - 배드마마자마(BAD MAMA JAMA) 2014/11/25

・IMFACT - 롤리팝 Lollipop 2016/1/27

・HELLOVENUS(헬로비너스) - Mysterious 2017/1/11

・UNB - BLACK HEART (유앤비 - 블랙하트) 2018/1/28

・MOMOLAND(모모랜드) - I'm So Hot 2019/3/20

Swing K-Pop

・LEE HI - 1.2.3.4 2012/10/29

・이효리 (Lee Hyori) - 미스코리아 (Miss Korea) 2013/5/5

・IU(아이유) - The red shoes(분홍신) 2013/10/8

・TVXQ! 동방신기 - Something 2014/1/1

・SPICA(스피카) - You Don't Love Me 2014/1/27

・Red Velvet - 레드벨벳 'Be Natural (feat. SR14B TAEYONG (태용)) 2014/10/9

・Mamamoo - Um Oh Ah Yeh (2015 KBS Song Festival) 2015/06/19

・수지(Suzy), 백현(BAEKHYUN) - Dream 2016/1/6

・BUMKEY(범키) - backindadayz 2016/1/20

・로드보이즈 RoadBoyz - Shake It, Shake It 2016/3/20

・레이디스 코드(LADIES' CODE) - 더 레인(The Rain) 2016/10/13

・블락비(Block B) - 로맨틱하게 2017/1/11

・JESSICA (제시카) - 봄이라서 그래 2017/4/18

・MINSEO(민서) - Is Who 2018/1/20

・박경 (PARK KYUNG) - INSTANT (Feat. SUMIN) 2018/6/22

<落選したけど……紹介したい1曲>

■에이스(A.C.E) - 황홀경(Baby Tonight)


 10月、私がほぼこれしか聞いていなかった曲「황홀경(恍惚境)」です。この曲が収録されているミニアルバム『胡蝶之夢(HJZM : The Butterfly Phantasy)』のリリースは9月ですが、タイトル曲とは別に後続曲としてこの曲で音楽番組に出演し、MBCの『it's live』という生バンド企画で披露したのは10月に入ってからだったので今回挙げました。

 原曲ももちろん良いのですが、原曲よりも音数が少なくなりボーカルのハーモニーがわかりやすい部分、生になったドラム音が曲を柔らかくし、ピアノの音がより雰囲気を切なくしているところなど、良い点を挙げればキリがありません。サウンド全体がボーカルの邪魔をせず、かつ引き立てる役割を果たしており、個人的にはいわゆるバラード曲よりもずっと彼らの声と歌唱力を生かせている曲だなと感じました。

 グループの最年少でメインボーカルのチャンが出演しているウェブドラマ『Twenty Twenty』がちょうど放送されていたこともあり、音楽的な面でも人的な面でも興味を惹かれ、デビュー時から音源だけは追っていましたが、今さらハマりそうになっています。彼らそれぞれの声がこんなに特徴的で良いことに普段の楽曲では気付くことができませんでした。もっと丁寧に音楽を聞かなきゃな……という気持ちになった曲です。

<近況>
Stray Kidsのオンラインコンサートが決まったため、普段テレビを全く見ないのに40インチのテレビを買いました。音楽番組の4K固定カメラ動画を見たりして、なるほどこういう使い方がね~……となっています。

e_e_li_c_a
1987年生まれ。18歳からDJを始めヒップホップ、ソウル、 ファンク、ジャズ、中東音楽、 タイポップスなどさまざまなジャンルを経て現在K-POPをかけるクラブイベント「Todak Todak」を主催。楽曲的な面白さとアイドルとしての魅力の双方からK-POPを紹介して人気を集める。

Twitter @e_e_li_c_a TodakTodak 
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映画『82年生まれ、キム・ジヨン』は“男性社会”を可視化する――制度だけでは足りない「見えない差別」の提示

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『82年生まれ、キム・ジヨン』

 2016年、韓国のインターネット上では2つの大きな出来事を背景に、前代未聞ともいえる激しい「男女の対立」が巻き起こった。ひとつは、ソウルの江南(カンナム)駅近くのトイレで、女子大生が面識のない男に殺害された「江南駅トイレ殺人事件」。女性のみを無差別に狙い、犯人が実際に「女なら誰でもよかった」と供述したこの事件は、ソウルに暮らす多くの女性を震え上がらせ、同時に激しい憤りを呼び起こした。犯人は極度の被害妄想に取りつかれ、精神病を患っていたとはいえ、事件によって韓国社会に依然はびこる女性への差別や蔑視、それを社会が無意識に実践するゆがんだ一面が改めて浮き彫りになった。

 駅周辺には若い女性たちが集まって被害者を追悼し、性差別や不平等、女性嫌悪を糾弾する集会を開き、その様子はSNSで拡散され大きな広がりを生んだが、周辺では男性たちによるバッシングが絶えず、集会自体を妨害して警察が出動する事態にまで発展した。男女間をめぐる問題に真摯に取り組もうとする人もいたものの、男女対決の様相は次第にエスカレートし、ネット上で不特定多数の男女が互いを罵倒し合う無意味な喧嘩が毎日のように繰り広げられていた。

 そこへ、まるで火に油を注ぐかのように登場したのが、小説『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著)である。30代の平凡な女性の日常を通して、女性たちが置かれている韓国社会の抑圧構造を、報告書を連想させる客観的な文体で書きつづったこの小説は、韓国で100万部を超えるベストセラーとなり、幅広い読者の共感を集めて社会現象にまでなった。何より、日本ではいまひとつ盛り上がりに欠けた「#MeToo運動」が、韓国ではこの小説の出現によって大いに触発され、それまで社会的地位の高いところにいた人物たちが次々と引きずり下ろされていったり、女性差別やフェミニズムを見直そうとする声が上がったりと、大きな収穫があった。だが一方で、女性より優位な立場を当たり前のように享受してきた韓国の男性たちは、危機感を募らせたのか、ますます感情的になり「差別だというなら女も軍隊に行け!」といった愚かなヒステリーを爆発させて、男女間の対立は再び高まることとなったのである。

 今回のコラムで取り上げるのは、韓国国内のみならず、日本をはじめ世界各国で翻訳され人気を集めた同名小説の映画化『82年生まれ、キム・ジヨン』(キム・ドヨン監督、2019)。原作の出版から3年を経ての製作となったが、相変わらず韓国では公開後に映画レビューサイトで男性観客が「1点」を、女性観客が「10点満点」をつける非難合戦が繰り返され、メディアは「男性観客による点数テロ」と報道する始末だった。主役を演じたチョン・ユミやコン・ユまでもがバッシングの対象になるなど、韓国における“フェミニズム”はどうしても「男性対女性の対立」に位置づけられてしまいがちだ。

 だが、そんな中で本作(小説も)は、男性中心に成り立っている社会の構造を可視化させ、男性だけでなく女性までもが無意識に受け入れてきた、この非対称性に気づかせるきっかけを与えてくれたという意味において、一過性のブームに終わらない真の「フェミニズム映画(文学)」といえるだろう。コラムでは、映画が提示している女性をめぐる問題を大きく2つの点から取り上げ、韓国社会のひずみを明らかにしていきたい。

<物語>

 1982年生まれのキム・ジヨン(チョン・ユミ)は、会社員の夫・デヒョン(コン・ユ)と幼い娘のアヨンの3人で暮らす平凡な専業主婦。大学卒業後、やっとの思いで入った会社は出産とともに退職、現在は家事や育児に追われる日々を送っている。そんなジヨンにある日、異変が現れる。時折、母(キム・ミギョン)や祖母など、身近な女性に憑依されたかのような言動をとるようになったのだ。驚いたデヒョンは精神科医に相談するが、ジヨンに自覚はなく、デヒョンの心配や優しさもいちいち気に障る始末だ。母・妻・嫁としての立場に疲れ、娘との孤独な時間の中で焦燥感にさいなまれる中、ジヨンは幼い頃からの思い出を振り返りながら、自分自身の行き方を見つめ直していく……。

【※作品が公開されてから間もないため極力ネタバレは避けますが、一部物語の展開や結末に言及していますのでご注意ください】

 本作において、おそらく最も象徴的な表現であり、注意深く見る必要があるのはジヨンの「憑依」だろう。ジヨンには度々「ジヨンではない人物」が憑依し、ジヨンの口を通してその者たちの言葉が発せられる。だがそれは裏を返せば、ジヨンが自分自身の声で本音を言えず、他者の声を借りなければ言いたいことが言えない状態に置かれているのを意味する。ジヨンから声を奪っているもの、それはまさに、娘だから、妻だから、嫁だから、母だから、そして女性だからという理由で加えられる、あらゆる抑圧である。一人の人間としてのジヨンの欲望はこうして抑圧され、ジヨンは声を奪われる。

 ヒステリーの治療を通して人間の精神構造を明らかにしたフロイトによれば、無意識に抑圧された欲望は、何らかの形で必ず返ってくる(=意識の上に現れる)という。つまり、憑依されたジヨンの姿はまさに、「女」であるが故に無意識のうちに抑圧された欲望が戻ってきた状態なのである。だが気をつけなければいけないのは、欲望はそのままの形ではなく「別のもの」となって現れる点だ。フロイトが「圧縮と置換」と呼んだその現象は、抑圧されたいくつもの欲望が一つにまとまる過程で、欲望はむき出しになるのを避け、類似する別のものに変えられて表面上に現れる働きを意味している。その最たる例が「夢」というわけだ。ではジヨンの欲望はどのように「置換」されて現れたのだろうか。

 ジヨンに最初に憑依するのは「母」である。日本のお盆にあたるチュソクを迎え夫の実家を訪れたジヨンは、料理の支度にいそしみ、絶えず姑に気を使い、もはや疲れ切っている。もう少しの辛抱で自分の実家に帰れると思った矢先、義理の姉夫婦の訪問を受けて、台所から離れられなくなったジヨンを姑は気にも留めず、娘と話に花を咲かせる。その瞬間、ジヨンの母が彼女に乗り移り、母の声を借りたジヨンは、姑に向かって「私も娘に会いたい、早くジヨンを帰らせて」と言い放つ。

 儒教的伝統の中で、嫁の姑への絶対的な服従が美徳として強いられる韓国では、チュソクや正月など大勢の親族が集まる場における嫁の「労働」を当たり前としてきた。嫁の居場所は台所であり、夫の親族をもてなすために延々と家事を続ける嫁こそあるべき姿なのだと。したがって、疲労や不満がいくら蓄積しても、労働を拒否したいという嫁の欲望は抑圧せざるを得ない。韓国には「며느리 우울증(嫁鬱病)」と呼ばれる精神病があるが、チュソクの前日には自殺者が出るほどのいわば社会問題であり、嫁への抑圧がどれほど厳しく重いものかを物語っている。憑依に驚き凍り付いた表情を浮かべる姑らを前に発せられるジヨンの言葉は、韓国の無数の「嫁」たちの声でもあるのだ。

 ジヨンの母は、その世代の女性たちの多くがそうであったように、兄弟の誰よりも優秀だったにもかかわらず、男兄弟の学費のために夢を諦めて工場で働いたという、男性中心社会の典型的な被害者である。母はそんな自らの人生を隠さずにジヨンに語り、就職より結婚を強いる夫(ジヨンの父)に向かって怒りをあらわにし、「やりたいことをやりなさい」とジヨンを諭す。家父長制の犠牲者である自らの立場を認識し、娘に対してはそれを繰り返させまいとする母の姿は本作におけるひとつの救いであり、姑を前に不満を口にできないジヨンがそんな母の声を借りる(=母に置換される)のは、ある意味当然かもしれない。

 だが、そんなジヨンの母のような女性が存在する一方で、女性が家父長制を自ら内面化し支え続けてきたのもまた事実である。「かつての」嫁は、自分が受けた数々の仕打ちを「次の世代の」嫁にぶつけ、女が女につらく当たる図式が一種の伝統のようになってしまっているのだ。ジヨンの姑がジヨンに向けるまなざしは、かつて自分が同じように姑から向けられたものを反復しているにすぎない。映画の中で、同居する「祖母」が誰よりもあからさまに「男の孫と女の孫」を差別する姿に、問題の根深さが表れているといえるだろう。

 女性が置かれた抑圧構造をわかりやすく提示した「憑依」の描写がある一方で、本作を構成するもうひとつのキーワードは、韓国社会のあらゆる場所、あらゆる瞬間に潜在する男女間の「壁」だ。男子学生から性的な視線を向けられ恐怖を味わったにもかかわらず、ジヨンに非があると決めつける父、同期入社にもかかわらず男性社員が重用される会社、隠しカメラで撮られた女子トイレの画像を罪悪感のかけらもなく回し見する同僚など、韓国の男と女の間には幾重もの壁があり、女性はその中に閉じ込められている状況である。壁の外では、男たちが生まれた瞬間から無条件に与えられる「男であることの特権」を謳歌し、女たちに向かって、「女であるが故の仕打ちは甘受しろ」と平然と言い放ってきた。とりわけ「男=上」「女=下」という強固な階級的認識によって、性の違いがそのまま性的不平等を正当化する社会が維持されてきたのである。

 もちろんこれまでにも、こうした不平等を改善しようとする動きがなかったわけではない。韓国における女性運動は植民地時代から始まっているが、1980年代に入ると、認識だけでなく制度的にも変えていこうとする本格的な運動が見られるようになり、女性に向けられるさまざまな暴力を積極的に告発して防ぐための「韓国女性の電話」が登場した。そして90年代、軍事独裁が終わり文民政府による民主化が進むと、兵役を終えた男性に与えられる就職時の「加算点制度」の廃止に始まり、「男女差別禁止法」の制定、「女性家族省(現・女性家族部)」の創設に至るまで、時に“国家フェミニズム”と揶揄されながらも、国際社会に追いつこうと制度的努力は不断に続けられていたのだ。だが、何百年と続いてきた人々の意識は、制度によってそう簡単に変えられるものではない。むしろ制度が整えられ表面的には改善したように見えることで、差別は「見えないところに身を隠しながら存在し続けた」といえる。

 82年に生まれたキム・ジヨンは、民主化が進んだ90年代に学生生活を送っている。おそらく彼女は学校で「男女平等」について習ったものの、日常生活においては何も変わっていないことを実感し、「男性を特権化する社会の理不尽さ」を前世代以上に切実に感じたはずだ。そうしたジヨンの現実に対する違和感が詰め込まれた本作だが、映画ではジヨンのために、最後に「明るい未来」への可能性が示唆される。

 この結末をめぐっては、賛否が激しく対立していると聞く。社会における女性差別が解消していない以上、安易なハッピーエンドは避けるべきだとの意見にもうなずける。だが本作において結末以上に重要なのは、映画の後半に描かれる「立ち向かうジヨン」の姿ではないだろうか。実はこの部分は、原作と映画で描かれ方がまったく異なっている。それは、原作が発表された2016年と映画が作られた19年の間に、韓国の女性がその手でつかみ取ってきた強さでもあり、「それでも希望はあると伝えたかった」という監督のメッセージでもあるだろう。いずれにせよ、韓国ではあまりにありふれた名前である「キム・ジヨン」は、無数の平凡な女性の代表であることをやめて勇気を出した結果、憑依される(誰かの声を借りる)ことなく、自分自身の声で差別や偏見に異を唱えることができたのである。映画のラストは、不当な扱いに対して自分を抑圧せずに戦うことを選んだキム・ジヨンが一人の人間としてつかみ取ったものであり、それはもちろんすべての女性観客に向けられた可能性でもある。

 本作の観客の中には、以前このコラムでも取り上げた『はちどり』(キム・ボラ監督、2019)をご覧になった方も多いかもしれない。94年のソウルに生きる14歳のウニは、82年生まれのキム・ジヨンとは同世代の主人公だった。『はちどり』でヨンジ先生に「殴られるな、立ち向かえ」と教えられたウニと、自らの声を取り戻して社会にささやかに立ち向かったキム・ジヨン。成長したウニの姿がキム・ジヨンだったと言ってもいいだろう。映画を通して変わりつつある韓国の希望を示してくれた彼女たちに、声援を送り続けたい。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

不朽の名作『息もできない』が描く、韓国的な「悪口」と「暴力」――“抵抗の物語”としての一面を繙く

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『息もできない』

 11月13日公開の韓国映画『詩人の恋』(キム・ヤンヒ監督、2017)に主演する俳優のヤン・イクチュン。在日朝鮮人の帰国事業をテーマにした『かぞくのくに』(ヤン・ヨンヒ監督、12)や、菅田将暉と共演した寺山修司の代表作の映画化『あゝ荒野』(岸善幸監督、17)など、日本映画でも活躍している俳優だが、実は彼、映画監督でもある。

 今から11年前、彼の長編デビュー作『息もできない』(09)は、ちょうど昨今話題の『はちどり』(キム・ボラ監督、19)のように世界の映画祭を席巻した。ロッテルダム映画祭、ドーヴィル・アジア映画祭、シンガポール映画祭をはじめ各国の映画祭で受賞し、日本では「東京フィルメックス」で最優秀作品賞と観客賞をダブル受賞したばかりか、世界的に見ても歴史のある映画賞「キネマ旬報ベスト・テン」で外国映画の1位まで獲得してしまったのである。

 ヤン・イクチュンはシナリオ、監督、主演の3役をこなし、国内外で高い評価を得て、興行的にも成功を収めた。デビュー作でここまでの記録を打ち立てるのは驚異的ですらあったが、次作への大きすぎる期待がプレッシャーになったのか、いまだ監督作が作られていないのは残念なことだ。今回のコラムでは、今もって映画としての魅力は色褪せていないヤンの『息もできない』を取り上げてみたい。

<物語>

 親友(先輩でもある)マンシク(チョン・マンシク)のもとでヤクザ稼業にいそしむサンフン(ヤン・イクチュン)は、大学生たちのデモに乗り込んで暴力を振るったり、無許可営業の屋台を容赦なく破壊したり、債務者の家を回っては無慈悲な暴力で借金を取り立てたりと、ことごとく最低な乱暴者だ。異母姉の幼い息子の遊び相手になるなど根は優しいものの、幼い頃、父(パク・チョンスン)の家庭内暴力が原因で母と妹を失うというつらい過去を持つ彼は、15年の刑期を終えて出所してきた父を前にして、イライラを募らせるばかり。そんなある日、女子高生のヨニ(キム・コッピ)と知り合ったサンフンは、自分のようなヤクザを前にしても物おじしない彼女に少しずつ惹かれていく。

 実はヨニの家庭も、決して幸せではなかった。ベトナム戦争の後遺症でPTSDを抱える父(チェ・ヨンミン)、無許可営業の屋台を潰された挙げ句に病死した母(キル・ヘヨン)、暗鬱な環境の家庭でますます暴力的になっていく弟(イ・ファン)と、ヨニもまたサンフンのような絶望的な状況に置かれていたのだ。サンフンとの出会いはヨニにとっても小さな救いをもたらし、2人は徐々に心を通わせていく。暴力的な自分を見つめ直し、ついにヤクザから足を洗う決心をしたサンフンだが、その先に待っていたのはあまりにも悲しい結末だった。

 物語を読む限り、「暴力的なヤクザ映画」だと本作を敬遠する向きもあるかもしれないが、この映画は完璧なまでに「メロドラマ」である。誰もが涙せずにはいられない展開の中で、サンフンの暴力も次第に彼の純粋さ故の葛藤であることが明らかになる。メロドラマの基本は「すれ違い」。サンフンの家族想いの優しさは表面上の暴力によってすれ違いをもたらし、ヤクザから足を洗おうと暴力をためらった瞬間に、彼に認めてもらいたい子分の暴力が爆発する。

 また、メロドラマにおいてもう一つの重要な点は、「登場人物が知らないことを観客は知っている」ところにあり、例えばヨニがサンフンに向かって幸せな家族のふりをすればするほど、彼女の家庭が絶望的に不幸なことを知っている観客は胸が痛む。瀕死のサンフンと彼を待つ人々を交互に映す編集は、観客だけがその悲劇を理解しているため、より一層泣けてくるのだ。ヨニとサンフンの家族ぐるみの因縁も含めて、こうしたメロドラマの要素が「家族」の主題と結びついて普遍的な物語となり、世界中で受け入れられたのだろう。

 だが今回は、本作のもう一つの特徴でもある「暴力」と多用される「悪口」から、韓国社会の一断面を考えてみよう。

 英題の『Breathless』から訳された邦題は『息もできない』だが、原題は『똥파리(トンパリ)』という。「ウンコにたかるハエ=ウンコバエ」を意味するこの翻訳不可能な韓国語は、ハエの中でも一番汚らしいハエを指し、韓国社会で最も蔑まれる最下層の人間をたとえる際によく使われる言葉だ。サンフンの「トンパリ」ぶりは、映画を見れば明らかだが、その背景を知るにはもう少し説明が必要であろう。

 物語の紹介で、サンフンの仕事を「ヤクザ稼業」と曖昧な形で説明したが、韓国には「용역 깡패(ヨンヨク・カンペ=用役チンピラ)」と呼ばれる集団があり、サンフンもまさにこの存在である。日本語ではなじみの薄い「用役」とは、もともと生産性を伴わない、医療や教育といった社会的に提供されるサービス全般を示す概念だったが、実際には人手を必要とするさまざまな現場に派遣される労働者など、幅広く使われている。仕事の内容は、建物の清掃やイベントの警備、工事現場など多岐にわたるため、いわゆる「便利屋」のようなニュアンスだが、そこに「チンピラ」が加わると意味合いはだいぶ変わってくる。

 1980年の光州事件を踏み台にして大統領の座に就いた全斗煥(チョン・ドゥファン)軍事独裁政権時代、オリンピックの誘致に成功したチョン政権が真っ先に着手したのが、ソウルに点在する無許可建物の撤去だった。60年代以降、急激な産業化とともに仕事を求めて地方からソウルに上京した人々によって、「산동네(サンドンネ=山の町)」と呼ばれる町が形成された。雨風をやっとしのげるほどのみすぼらしい家々の集合体であるサンドンネは、ソウル周辺の山の中に許可なく建てられた一種のスラム街で、治安や衛生面の問題も抱えていたが、チョン政権が問題視したのはその景観だった。

 オリンピックによってソウルの景観にも注目が集まると考えた政府は、「国の恥」にもなりかねないサンドンネを隠蔽すべく、一時は町全体を緑色の布で覆うという信じがたい計画まで立てていたらしい。さすがに実行には至らなかったものの、政府はソウル美化のための再開発に乗り出し、サンドンネの住人に対し立ち退き命令を出した。だが人間のすみかを奪うとなると、事はそうやすやすとは運ばない。一方的に立ち退きを命じられた住人たちは、生存権の保障を要求して猛然と立ち向かったのだ。対処に手こずった政府は、民間業者を募集して暴力的なやり口で強制排除に踏み切り、公権力を後ろ盾にした業者は暴力の限りを尽くして住人たちを徹底的に排除した。

 この時、「用役会社」を名乗った民間業者に雇われ、先頭に立って破壊活動を行ったのがチンピラのような連中だったことが、「用役チンピラ」という呼称の由来となっている。用役チンピラによる住人への暴力や、それを黙認した公権力の横暴はドキュメンタリー映画にもなっているが、彼らはその後も、警察など権力側と癒着しながら、野党の政治集会の妨害工作や、デモ隊の排除などにしばしば動員され、韓国社会の暗部となっている。日本でも、ヤクザ組織が公権力と結びついて同様の行為を行ってきた歴史があるが、要するにサンフンは、権力に守られながら社会的弱者を攻撃し、権力に反発する者の権利を暴力的に奪ってきたという点においても、文字通り「トンパリ」なのである。

 そんな本作を見ながら、恐らく韓国語のわからない日本人観客でさえも、何度も耳にするうちに勝手に覚えてしまったフレーズがあったのではないだろうか。そのひとつが、韓国語で最も使われている悪口「シバル」である。けんかの際や相手を罵倒する時の悪口だが、もともとは「시팔 좆같다(シパル チョッカッタ)」という。

 まず「シパル」は、女性の性器を表す俗語「십(シプ)」+「하다(ハダ)=~する」で「セックスする」の意味になる。韓国語は文字の組み合わせによって音が変化するので、「シパル」→「シバル」となり、さらに「놈아(ノマ)=奴」がついて、サンフンの口から頻出する「シバルノマ」になる(女性に対しては「년(ニョン)=アマ」をつけて「シバルニョン」)。英語の「ファック・ユー」と思えばわかりやすいだろうか。

 「좆 같다(チョッカッタ)」に関しては、男性の性器を表す俗語「좆(チョッ)」に、「~のようだ」を指す「같다(カッタ)」が付いて「男根のようだ」の意味になる。「シバル チョッカッタ」と続けると、「セックスする男根のようだ」となり、勃起した男根のように興奮(拡張されたあらゆる意味での興奮)した状態、日本語で言うならば「血が上った」状態を指し示す。ムカついたとき、失敗したときなど、さまざまなネガティブな場面で叫び、つぶやき、時には相手に向けて言い放つのはもちろん、男同士(まれに女同士でも)で言い合ったり、サンフンのように日常的に口にすることも少なくない。

 このように、韓国の悪口には性的な語源を持つものが多いのだが、その裏には、性にまつわるあらゆる物事を「非道徳的」であるとして抑圧してきた朝鮮時代の影響を読み取ることができる。500年以上にわたって続いた朝鮮時代、儒教をこの上なく崇拝した貴族(ヤンバン)は、百姓たちに対しては「性」を抑圧していたのに対して、自分たちは性的な遊戯に明け暮れていた。そんな貴族に対する百姓たちの密かな抵抗が、性の言語化という形で表れているのではないだろうか。

 国語学者のソ・ジョンボムの言葉を借りるならば、最も抑圧される性的なものをあえて用いることで、百姓たちは儒教的抑圧と貴族の矛盾に全面対抗したのである。このコラムの中でこれまでもしばしば登場してきた、韓国における「悪しき」儒教的伝統は、「悪口」という被支配者の言語にも垣間見えるのだと言える。

 こうした悪口からひもとく儒教的抑圧と対抗という関係は、本作におけるサンフンと父の関係性を理解するヒントにもなるかもしれない。

 映画は幼い頃に父の暴力によって母と妹を失い、孤独に生きてきたサンフンが、刑期を終えて家に戻ってきた父を前にして憤りを募らせるあたりから始まる。自分の人生を不幸にした元凶である父に対して、恨みしか抱けずに暴力を振るってしまうのはよくわかるが、サンフンは父が異母姉とその息子と一緒に過ごすことさえ我慢ならない。その一方で、かつての面影が見えないほど弱々しくなった父が絶望のあまり自殺しようとすると、必死の形相で病院に担ぎ込み、「死なれては困る」と叫ぶ。

 そんなサンフンの分裂的な態度からは、儒教国家・韓国における父と息子のあまりにも強固な、それ故に不健全とも言える関係性が見え隠れしている。

 儒教には、「父子有親」という父と息子の強力な連帯を訴える概念がある。韓国にはどの家庭にも「族譜」と呼ばれる家系図が存在するのだが、つい最近までそこに女性の名前は記載されず、男系の成員の名のみが連綿とつづられてきた。「家」を重んじる日本とは異なり、韓国では何よりも「血」が大事なため、血が継承される父・息子の関係性しか重要視されない(女性の場合は「出嫁外人」と言って、父系の血の継承ができないものとされ、結婚すれば「嫁ぎ先の人間」として扱われる)。こうして、父と息子の間に特権的な絆を作ることで家父長制を維持してきた韓国だが、その両者の関係が正常に機能しない場合には、サンフン親子のような暴力に依存した服従関係が生まれてしまう。

 サンフンが「シバル チョッカッタ」と罵倒しながら父に暴力を振るい、同時に父を必死で救おうとする様子からは、自らを苦しめる父=家父長制に対する抵抗と、それでも儒教を絶対視する韓国的伝統から逃れられない宿命のようなものを感じずにはいられない。

 そして、そんなサンフンが唯一心を許す相手である友人のマンシクとヨニ、そして甥のヒョンインを思い出してみよう。サンフンは先輩であるマンシクに決して敬語を使わず、マンシクはそんなサンフンに文句を言いながらも温かいなまざしを送る。ヨニは常識で言えばサンフンに敬語を使ってしかるべきであるにもかかわらず、タメ口で話すばかりかサンフンに負けない量の悪口を繰り出し、サンフンはヨニに悪態をつきつつ心を許していく。そしてヒョンインとサンフンの間には、父子の服従的関係性の代わりに純粋な庇護の思いやりのみが介在している。サンフンにとってあらゆる上下(服従)関係は憎むべきものであり、そこから解放された関係性にのみ安らぎを見いだしていることがわかる。

 本作は、社会の底辺に生きる「トンパリ」の物語であると同時に、そんなトンパリたちが、韓国的な家父長制や儒教の伝統に抗う、抵抗の物語として読みうる映画でもあるのだ。サンフンが不在の中で私たちが目にする最後の光景は、彼が愛し、彼を愛する者たちが、血ではないつながりによって「家族」となっていくさまであり、それこそがサンフンが心から望んだ家族の形であったのだろう。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

TikTokで世界的ブーム再燃!? ネット時代の音楽ジャンル「Jersey club」――K-Pop・EXOの“キシキシ”音に注目

――毎月リリースされるK-POPの楽曲。それらを楽しみ尽くす“視点”を、さまざまなジャンルのDJを経て現在はK-POPのクラブイベントを主宰するe_e_li_c_a氏がレクチャー。9月にリリースされた曲から[いま聞くべき曲]を紹介します!

今月の1曲‖썸 (XUM) - DDALALA

 A100 Entertainmentから9月24日にデビューした3人組グループ・XUM(サム)のデビュー曲です。

 実はついこの間までNeonpunchとして活動していた5人のうち3人がメンバーとして所属しています。事務所の経済的な状況悪化、メンバー2人の活動中断、新型コロナの影響などが重なりNeonpunchは解散することとなり、実質“再デビュー”的な立ち位置です。Neonpunch時代はYoutubeアカウントがハッキングに遭い、XUMデビュー前にはスタッフが新型コロナ感染者と間接的に接触があり検査をしたり、「DDALALA」のMV公開後も音質事故が発生しMVを再アップロードするなど不運が続いています。

 A100エンタはXUMとソロの女性歌手1人だけを抱える小さい事務所ですが、Neonpunch時代は音楽的にもハイクオリティなものをリリースしていたので、事務所の手腕があるのかないのかよくわからず、XUMでのデビューは期待半分不安半分という状態でした。いざMVがリリースされたらクリーンなイメージの強いK-Pop界でよくリリースできたな……というたくさんの女性が横たわったシーンが印象的な始まりのMVで、楽曲はまさかのJersey clubでした。リリース時の公式の文章には「シカゴハウスベースのクラブミュージックジャンルである"Jersey club"を取り入れた」と直接的に記載があります。

 作曲はシンサドンホレンイという韓国では有名な音楽プロデューサーが担当しています。ホーンの入ったファンク色の強いHiphop楽曲やEDMのBounceジャンルなどの楽曲が多く、ヒットメイカーとも呼ばれていますが、一方で盗作疑惑なども多く、韓国人のトラックメイカーの友人も、公式の説明文章に対し、どこまでJersey clubのことわかって作ってるんだか……と苦言を呈していました。

 最近はK-Popアイドルの衣装やコンセプトなどビジュアルの面でよく「文化の盗用」について指摘されますが、(それが本当に文化の盗用かどうかはまた別として)楽曲は聞いてすぐわかるものではなく、ある程度の知識がないと指摘できないこともあり、まだあまり議論されることはない……というのは、また今後そのようなトピックについて話ができればいいなと思います。

 EXOの「Tempo」によってJersey clubというジャンルを構成する要素の一つ「Bed squeak sound」(ベッドキシキシ音)が広まり、昨今たくさんのK-Pop楽曲に使用されていますが、ビート部分を引用した楽曲はK-Popではおそらく「DDALALA」が初めてだと思います。ということで、今月はアメリカはニュージャージー州のニューアークで生まれた「Jersey club(ジャージークラブ)」という音楽ジャンルについて解説します。

 Jersey clubは2000年代前半ごろに形作られた音楽ジャンルの一つで、源流を辿ると90年代後半にニューアークのクラブシーンで人気だったChicago houseにたどり着きます。Chicago houseは以前Jukeという音楽ジャンルの紹介をした時に説明しましたが、一緒に紹介したGhetto houseやMiami bassなどもJukeとあわせてJersey clubに影響を与えています。

 直接的にJersey clubに影響を与えたのは「Baltimore club(ボルチモア・クラブ)」というジャンルで、メリーランド州ボルチモアで1980年代後半にChicago house、Hardcore UK rave、Miami bass、Hip-houseなどさまざまなジャンルが交ざり合いできたものです。Bmore club(ビーモア・クラブ)やBmore(ビーモア)とも言います。

 ボルチモアのDJたちはイギリスのレイブシーンではやっていたBreakbeat hardcoreの楽曲からインスピレーションを受け、それらの楽曲をDJでプレイしたり、サンプリングして曲作りをしていました。Breakbeat hardcoreはJungle紹介時の記事にも書いたように、後にJungleやDrum&Bassなどにも影響を与えており、記事ではAmen Breakに焦点を当てて話を進めましたが、BmoreへつながっていくのはThink BreakやSing Singのドラムブレイクになります。

 Think BreakはLyn Collinsの「Think」という曲のドラムブレイク(動画内1:22~、1:34~などドラムがメインの部分)のことで、これを繰り返してトラックのビート部分に使用します。

■Lyn Collins - Think (about it) (1972)

 GAZの「SING SING」はHiphopなども含め数え切れないほどの楽曲にサンプリングされていますが、インスト部分が多くいろいろな場所がサンプリングされています(0:10~、3:52~など)。

■GAZ - SING SING (1979)

 ボルチモアのDJたちがプレイしたりサンプリングしたBreakbeat hardcoreには以下のようなものがあり、これらが後のBmoreを形作っていきます。

■The Blapps Posse - Don't Hold Back (91)

■Epitome Of Hype - Too Much Energy (91)

 Bmoreの楽曲としては以下のようなものがあります。しかし、ブレイクビーツと卑猥な歌詞が共通するぐらいでJersey clubの片鱗を感じるのは難しいかもしれません。
■Frank Ski - Tony's Bitch Track (92)

■DJ Equalizer & The Sounds Of Silence - We Bad (93)

■DJ Booman - See The Ho's (Remix) (95)

■Scottie B - Niggaz Fightin (98)

 Bmoreはラップのアカペラをベースに、ボーカルを刻んで繰り返したりするものが多く、歌詞の内容は卑猥なものが多いです。ジャンルが浸透し広まるにつれ、BPMは125前後から130前後へと速くなり、銃声や"What!"、"Hey!"などのフレーズが使われることが一般的になっていきます。

 ちなみにBmoreに影響を受けた有名な曲として、LMFAO ft. Lil Jonの「Shots」があります。

 ボルチモアを中心にリリースされるたくさんのBmoreに魅了されたニュージャージーのDJ TameilやDJ Tim Dollaは3時間かけて車でボルチモアに通い、現地で手に入れたレコードをニューアークの自分たちのパーティでプレイしました。

 99年、TAPPの「Shake Dat Ass」や「Dikkontrol」などのBmore楽曲が人気を博しており、この「Dikkontrol」の「ドンドン ドッドッドッ」というビートが後のJersey clubの基本のリズムトラックとなっていきます。

■TAPP - Dikkontrol (93) 1:30~2:30

 すごいタイトルの曲ですが、93年にリリースされたレコードはレア盤で非常に手に入りづらく、インターネットにフルで音源がアップされていないため、このようなDJミックスで一部を聞く方法しかない状態です。

 DJ Tameilは、ニューアーク以外のアーティストが自分たちと同じスタイルのトラックをまだ作っていなかったため、2002年にニューアークの愛称である「Brick City」にちなんで、「Brick City club」というジャンル名を生み出します。自分たちの作ったトラックとBmoreのトラックを入れたミックステープを作り、前半はClub、後半はHouseというような構成でした。

 ちなみに現在「Club music」というとクラブでかかるジャンルの音楽(≒ダンスミュージック)として捉えられがちですが、元々は90年代後半にニュージャージーで人気だったChicago HouseをClub musicと呼んでいました。その後、Baltimore clubとBrick City club(Jersey club)、またBaltimore clubから派生したPhilly clubの3つを指すようになります。ですので、このミックステープ前半の「Club」はBmoreやBrick City clubなどのことを指します。

■DJ Tameil - Grown Folks Shyt #1 (03)

 ちなみに、00年代後半に生まれたPhilly club(もしくは単にPhilly)は別名Party musicとも言われ、位置的にボルチモアとニューアークの間にあったペンシルベニア州のフィラデルフィアの愛称「Philly」から来ています。

 BmoreやJersey clubがフィラデルフィアで広まると、BPMは130~150に上昇し、サイレン音などが入るようになり、これがPhilly Clubとして確立していきます。
■DJ Sega - New Jack Philly (09)

 

 

 翌年の03年には、ボルチモアのレコード店員でたくさんのBmoreをニューアークへ紹介する橋渡し役になっていたBernie Rabinowitzが他界し、ボルチモアからニュージャージーへBmoreの供給が止まります。それでもニュージャージーのアーティストたちは自分たちのシーンを発展させていき、大学の進学などで音楽をやめるプロデューサーも出ますが、一方で大学に進学した人たちがカレッジ・パーティで自分たちの曲をかけ、パーティの終わりにその日にかけた曲が入ったミックスCDを客に渡し、徐々に大学のキャンパスなどでも人気が高まって行きます。

 Bmoreが成功を収め、Myspaceという音楽やエンターテインメントを中心としたSNSを介してシーンの知名度が上がり、ジャンル名がニューアークを越えて広まったこともあり、05年にはジャンル名を「Brick City club」から「Jersey club」に変えます。楽曲はMyspaceやファイル共有ソフトのLimewireにアップロードされ、さらには無料のミックスCDとして配布され、さまざまな場所でJersey clubがプレイされどんどんと広まっていきます。

 Jersey clubはもともとDJがマイクパフォーマンスすることが盛んなジャンルですが、この時期はダンスがシーンの中心になりつつあり、 パーティでかける曲に決まった振りで踊るよう、DJがオーディエンスにダンスを呼びかける文化ができました。DJ中に毎回ダンスムーブをコールすることが嫌になったTim Dollaは、手を振って膝に当てるように踊る「Swing dat」というダンスムーブから、「Swing dat sh*t」というフレーズが連呼される曲を作り、 大ヒットします。

 以降、気に入ったトラックを聞いたダンサーが自分たちでダンスを発案し、曲にのせて踊る動画をネットに上げるようになり、トラックの知名度も高まりました。現在のTikTokで起こっているような現象ですが、これが08年頃すでに行われていました。
■DJ Sliink - Get Da Patty Cake Goin'

■DJ TIM DOLLA - SWING DAT SHYT

BPMが上がり歌モノサンプリングなど独創的に変化

 その後Hot97やPower105などのHiphopやR&BをかけるNYのラジオ局や、NYのクラブなどでもJersey clubがプレイされるなど、ニュージャージー以外でもJersey clubが注目され始めます。Jersey clubのスタイルもBPMが135ぐらいまで上昇し、半分のテンポ(BPM68程度、R&BによくあるBPM)でのボーカルサンプリングが取り入れられ、使う音ネタも変わっていき、BmoreやPhillyとは全く違った独創的なものになっていきます。

 先述したBed squeak soundは04年にリリースされたTrillvilleの「Some Cut」が主にサンプリングされ、昨今Jersey clubだけでなくたくさんの曲に使われています。

 2010年代に入るとニューアークでのリリースも活発ながらも、DJ SliinkがDJ兼プロデューサーのDiploが主催するMad Decentというレーベルと組んだり、ノルウェーのプロデューサーCashmere CatがJersey club楽曲をSoundcloudで発表したり、フランスのDJがミックステープでJersey clubを紹介したりと段々と世界中に広まっていきます。
■DJ Sliink - Mad Decent Block Party (2013)

■CASHMERE CAT - Mirror Maru (2012)

 恐らくこのぐらいの時期からハウスやR&Bが原曲の曲がRemixされるようになり、さらにJersey clubの幅が広がります。ドンドン ドッドッドッというリズムのビート、歌モノのボーカル、チョップされたボーカルサンプル、Bed squeak soundなど現在Jersey clubといわれて想像する楽曲はこの辺りから始まっているといえるでしょう。

 以下は93年にアメリカでリリースされたHouseのアンセム曲といわれているRobin Sの「Show Me Love」という曲をサンプリングしています。

■DJ JayHood (ft DJ Mike Gip) - Show Me Love (Jersey Club Remix) (2012)

 13年3月頃、さまざまなトラックメイカーがR&BのJersey club Remixを音楽ファイル共有サービス「SoundCloud」に同時多発的にアップし、ニュージャージーのDJたちもそれに便乗する形でたくさん楽曲をリリースし、世界的に流行するきっかけとなります。

 私も13年に東京のクラブシーンでJersey clubを聞いており、自分のiTunesには11月にHoodboiの音源を取り込んでいる履歴があります。やはりインターネットを介して広がるブームには世界中で時差がなく、ほぼ同じタイミングで日本のクラブシーンにも流行が来ていることがわかります。当時サンプリングされる元の楽曲は自分が10代の時に聞いていたR&B楽曲が多く、ボーカルには懐かしさがありつつもフォーマットとしては新しいという新鮮さに魅了されました。ボーカルがチョップされていて少しもどかしい感じもありますが慣れるとやみつきになり、はやり廃りの多いクラブシーンですがJersey clubは今でも大好きです。

 当時はダンスミュージックを探すならばSoundcloud、という感じでSoundcloudでの音源公開が一般的でしたが現在は消えてしまっている曲も多く、Youtubeに転載されて残っているものもあります。

■Trippy Turtle - Get Up On It (2013/3)
Keith Sweat feat. Kut Klose - Get Up On ItのRemix

■Trippy Turtle - Senorita (2013/4)
Justin Timberlake - SenoritaのRemix

■Ciara - Body Party (DJ Sliink & Nadus Remix) (2013/6)

■Janet Jackson - I Get Lonely (DJ Hoodboi Remix) (2013/11)

■Blu-Ra¥'s K¥SS0F1if3 (Reprise) (2013/11)
ORIGINAL LOVE - 接吻のRemix

■Automatic YYIOY βootleg (Free DL) (2013/11)
宇多田ヒカル - AutomaticのRemix、YYIOYはマドリード在住の日本人トラックメイカーです。

 ポップス的な側面から見ると、取り入れるのが一番速かったのは中国のアイドル、元EXOのルハンが歌った映画『カンフーパンダ』のプロモーション曲「Deep(海底)」ではないでしょうか。
■LuHan鹿晗 - Deep/海底 (2015/12)

 と言っても、Trippy Turtleがリリースしたこの曲そっくりなので、取り入れて昇華したというよりはそのままコピーした感が強く、あまり自分のものにできているという感じではありません。

■Trippy Turtle - Trippy's Theme (2014/6)

 2017年には、韓国のトラックメイカーPure 100%と日本のトラックメイカーKOTONOHOUSEが共作した「Girlfriend」を、ニュージャージーで00年代初頭からBrick BanditsクルーでDJやプロデューサーとして活躍しているR3LLがRemixするという、データのやりとりが簡単にできる現代ならではのコラボレーションも起こります。
■Pure 100% & KOTONOHOUSE - Girlfriend (R3LL Remix)

 この頃にはFuture bassなど他のEDMジャンルと融合し、ビートのリズム部分だけ・ボーカルのチョップ部分だけ・Bed squeak sound部分だけ、など部分的にJersey clubの要素を取り込んだ楽曲もたくさん生まれます。

 近年ではニュージャージーを拠点にするCookiee Kawaiiというアーティストが19年4月にリリースした「Vibe」という曲がTikTokのダンス動画を通じて広がり、同時にSpotifyでも300万回再生を記録します。コロナ禍によるロックダウン期間中にさらなる広がりを見せ、現在は約6300万回の再生数となっています。恐らく世界で一番聞かれたJersey club楽曲ではないでしょうか。

 元々はMV等映像メディアは存在しませんでしたが、人気を受け2020年5月にはアニメーションMVを、8月にはMVを公開し、ラッパーのTygaを迎え尺を伸ばしMVも改めて撮り直したRemixも公開されています。
■Cookiee Kawaii - Vibe (If I Back It Up)

■Cookiee Kawaii &Tyga - Vibe (If I Back It Up)

 それではようやく韓国での話に移りますが、K-Popのシーンではトラックメイカーが非公式的にRemixを作ることはあっても、公式で楽曲にJersey clubのビートが取り入れられることはなく、先述のBed squeak soundだけが独り歩きし、さまざまな楽曲に取り入れられます。最近のものは挙げ出したら切りがないので初期のものだけ挙げます。

■GOT7 (갓세븐) - A (TOYO Remix) (2014/6) (1:39、1:53)

■NU'EST (뉴이스트) - OVERCOME (여왕의 기사) (2016/2)

■BTS (방탄소년단) - Boy Meets Evil (2016/9) (1:13に一瞬)

■SHINee - Prism (2016/10) (0:57~1:08)

■NCT127 - Baby Don't Like It (나쁜 짓) (2017/1)

 今までの説明を踏まえると、XUMの「DDALALA」は12年頃のBed squeak soundが入っていない、歌モノのボーカルが入るか入らないか頃のJersey clubを参考にしているのでしょうか? そこまで明確な引用元を設定しているとも思えませんが……。

 今回はBed squeak soundだけでなく、ビートもJersey clubなK-Pop楽曲のRemixをSoundcloudでプレイリストにしました。原曲のリリース順ではなく、Remix音源のリリースが古い順に並べてあります。

 4曲目に入れた2ИЕ1 - I Love You (тоуо яемıж)は全体的にFuture bassですが、上記GOT7の公式Remixを担当したTOYOが個人的にアップしており、Jersey clubのタグを付けているので入れてみました。

<落選したけど……紹介したい1曲>
■EVERGLOW (에버글로우) - LA DI DA

 Yuehua Entertainment所属6人組グループEverglowの新曲です。見事にシンセポップです。

 80年代のYMOの「ライディーン」やa-haの「Take On Me」、最近ではThe Weekndの「Blinding Lights」などが思い出されます。今月はJersey clubとシンセポップのどちらを特集するか最後まで悩みましたが、関連楽曲がJersey clubのが面白いかなと思いXUMを選びました。「LA DI DA」は振り付けと衣装がとにかくすごいので、是非音楽番組のステージなども見てみて下さい。

<近況>
Stray Kidsがリパッケージアルバム『IN生』でカムバックしました! 今までの活動を含めて初めて、音楽番組で2度1位を獲りました。デビューから追っているので喜びもひとしおです。引き続き音楽番組等に出演して活動しますので、MVの再生やCDの購入などよろしくお願い申し上げます。

e_e_li_c_a
1987年生まれ。18歳からDJを始めヒップホップ、ソウル、 ファンク、ジャズ、中東音楽、 タイポップスなどさまざまなジャンルを経て現在K-POPをかけるクラブイベント「Todak Todak」を主催。楽曲的な面白さとアイドルとしての魅力の双方からK-POPを紹介して人気を集める。

Twitter @e_e_li_c_a TodakTodak 
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63人の被害者を出した「奴隷事件」――映画『ブリング・ミー・ホーム』が描く“弱者の労働搾取”はなぜ起こったか

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『ブリング・ミー・ホーム 尋ね人』

 「イ・ヨンエ」という女優を覚えているだろうか? 韓流ドラマがまだ今のようには日本に浸透していない頃、それでも一部のファンから絶大なる支持を得た、現在でも根強い人気を誇る『宮廷女官チャングムの誓い』(2003)というドラマの主演女優である。さらに遡れば、韓国映画の国際進出を決定づけた作品『JSA』(パク・チャヌク監督、00)で、事件の調査にあたるスイス国籍の軍人を紅一点で演じた女優でもある。

 色白で丸顔の愛らしい容姿は、“韓国のオリビア・ハッセー”と呼ばれて親しまれたが、05年、『JSA』に続いてパク・チャヌク監督とタッグを組んだ“復讐3部作”の第3作『親切なクムジャさん』で、自らを陥れた誘拐殺人犯への壮絶な復讐劇を企てる美女を演じた後、在米韓国人との結婚や双子の出産によって長らく芸能活動を休止していた。そんな彼女が14年ぶりに映画へ復帰したのが、今回取り上げるキム・スンウ監督 の『ブリング・ミー・ホーム 尋ね人』(19)である。

 芸能活動休止前の最後の出演映画『親切なクムジャさん』で演じた、幼い娘を盾に濡れ衣を着せられ、13年間の刑務所生活を通して恐ろしい計画を準備する“クムジャさん”は、作家性の強いパク・チャヌク作品だけあって、映画的な魅力に満ちていた。リアリズムからは程遠い語り、復讐のためにあらゆる「親切」を行使し、聖女と悪女を使い分けるキャラクターの振れ幅、チェ・ミンシクの悪役とのやりとりなど、「復讐」というアイディアを見事に映画へと昇華し、残酷でスリリングな展開で楽しませてくれた名作だった。そして偶然かもしれないが、この作品から14年後、イ・ヨンエが映画復帰に選んだ本作は、またしても息子を失い、その存在を取り戻すために孤独な戦いを強いられる母親役だった。

 共通した主題を有していながらも、『親切なクムジャさん』と『ブリング・ミー・ホーム』では映画的な性格がまったく異なっている。本作では、自らも結婚して母となったイ・ヨンエの母としての実在感が増していると同時に、その根底には韓国で長く社会問題となってきた「弱者(子どもや障害者)の誘拐と搾取」というテーマが横たわっているのだ。韓国社会がいまだ解決できていない問題を取り上げた本作には、したがってカタルシスも癒やしも存在しない。どちらかといえば、以前のコラムでも取り上げた『トガニ』に類する作品といえる。

 もちろん、弱者の誘拐や搾取といった問題は、なにも韓国だけのものではない。だが確実に言えるのは、この映画はそうした社会問題をあぶり出す役割を持っているということだ。その点において、映画的な快楽とはまた別に、本作は今の韓国に必要な作品である。今回のコラムでは、映画によって浮き彫りになった問題を通して、韓国に根付く伝統的な思想の裏の一断面を可視化させてみたいと思う。

<物語>

 看護師のジョンヨン(イ・ヨンエ)と夫のミョングク(パク・ヘジュン)は、6年前に行方不明になった息子ユンスを捜して全国を駆け回っている。2人の生活は苦しみの連続だが、それでも希望は捨てていない。だがある日、ミョングクは情報提供者を名乗る人物との待ち合わせ場所に向かう途中、交通事故に遭って命を落としてしまう。息子だけでなく最愛の夫をも失い、絶望に突き落とされるジョンヨン。そんな彼女のところに今度は、ユンスとよく似た「ミンス(イ・シウ)」という子どもが、ある島の釣り場で虐待を受けつつ働かされているとの電話がかかってくる。ユンスであることを祈りつつ、ジョンヨンが釣り場に駆けつけると、そこで彼女を待っていたのは何やら訳ありげなホン警長(ユ・ジェミョン)や釣り場の主人らだった。かたくなにジョンヨンを「ミンス」に会わせようとしない彼らを怪しみながら、ジョンヨンは自らの力で徐々に真実に近づいていく。そして息子を助け出すため、彼女の孤独な死闘が始まる……。

 自らシナリオも手掛け、本作がデビュー作となったキム・スンウ監督は、公開後、たびたび「実話を元にしたのではないか」という質問を受けたという。それもそのはず、本作の設定や構成は14年に韓国社会を驚愕させた、いわゆる「新安(シナン)郡塩田奴隷労働事件」とそっくりだったからだ。この事件は、職業斡旋業者が知的障害者と重度の視覚障害者をだまして、塩田の多い韓国西南部にある新安郡の島に売り渡し、長年にわたって監禁された彼らは、賃金はおろか食事すらろくに与えられないまま、奴隷のように働かされたというものだった。

 毎日のように暴力を振るわれ、雇い主から「殺す」と脅された彼らは、障害を持っていることもあって脱出できず、文字通り「奴隷」のような生活を余儀なくされていた。この事件が解決する糸口になったのは、一通の手紙だった。視覚障害を持つ被害者の一人が、肌身離さず隠し持っていた助けを求める手紙を、ある時ソウルの母親に送ることに成功。母親が警察に通報し、知的障害を持つ男性も一緒に保護されて無事に助かり、事件の全貌も明らかになったのだ。

 島では彼らのほかに63人もの被害者が発見されたが、置かれていた状況は皆同じだった。当時のメディアは「21世紀の韓国であり得ないことが起こった」「現代版奴隷」と大々的に報道し、そのあまりにもひどい状況に国民の怒りが高まり、塩田の経営者はもちろん、関係者全員に対する厳罰と被害者への補償を求める声が続出。しかし裁判の結果は、懲役2年あまりという軽い判決だった。さらに信じがたいことに、判決を下した裁判官はこうした労働の形態が「地域の慣行」とまで言い切ったのだった。

 この発言が意味しているのは、地域の慢性的問題だった塩田での人手不足を補う手段として「監禁・強制労働」が黙認されてきたということであり、職業斡旋業者による詐欺的な手口、塩田への人身売買、監禁・搾取、村人の協力や無関心、そして地域の警察など公権力の黙認といった構図こそが「地域の慣行」として許されてきたということにほかならない。その中で、弱き者たちの人間としての尊厳はずたずたに踏みにじられてきたのだ。地域全体がグルになって加担してきた、巨大な闇のカルテルが形成されていたといえる。

 本作の物語もまさに「地域の慣行」を背景にしており、だから誰もが実話ではないかという印象を抱いたのだろう。事件の後、児童・障害者保護の強化や加害者への厳罰化など法律の整備が進められたが、今年の7月にもまた、19年間にわたって労働搾取されてきた知的障害者が発見され、依然として状況は改善されていないことが浮き彫りになった。

 警察の記録を見ると、こうした事件は1948年の韓国建国以来、後を絶たなかったようだ。そして被害者はいつも子どもや障害者、そして女性だった。社会的弱者を意味する「子ども、障害者、女性」に思いを巡らすためには、韓国社会に根付く「服従」の儒教的無意識を再び取り上げなければならないだろう。

 子どもや障害者への暴力については、以前のコラムで取り上げた『トガニ』で、女性に対する差別における儒教の影響については『はちどり』で数百年間韓国社会に根付いてきた儒教思想と「服従」の概念、そしてそれが「家族」という社会の中でどのように立ち現れるかについて、主に「男女」の関係性から述べたが、今回は「年長者と年少者」の面から掘り下げてみたい。

 年齢の差だけで人間の上下関係を決めつけ、服従を正当化する儒教の概念が「長幼有序(長幼序あり)」だ。韓国では初対面の人間同士が互いの生まれた年をまず確認し合う習慣があり、これこそ国民全体が「長幼有序」に囚われている最も明白な証拠だ。どちらのほうが立場が上かをはっきりさせないと話が始まらない。つまり、基本的にどちらかがどちらかに「服従」する関係性を決めておかないと、会話すらろくに進まないのだ。日本人には不思議に聞こえるかもしれないが、韓国では家族かどうかに関係なく、赤の他人でも年上ならみんな「형・오빠(お兄さん)」「누나・언니(お姉さん)」であり、そう呼ばないとすぐにケンカになったりする。

 たとえば、日本では電車の優先席に若者が座るのは普通の光景だが、韓国では電車の「敬老席」には若者は絶対に座らない。座ろうものなら年配者から怒鳴られることも日常茶飯事だからだ。敬老席に座る女性を自分より年下だと思い込んだ中年の男が、「席を譲れ」と口論になり暴力まで振るったが、あとから女性のほうが年上だったとわかり、土下座したという呆れる出来事があったほどだ。

 個々の人間性にかかわらず、「年長者は偉いのだから服従しろ」というのが「長幼有序」のゆがんだ無意識の表れなのだ。そして、服従させるための最も手っ取り早い手段が、暴力だ。とりわけ、相手が子どもなら「上下関係」は明らかであり、肉体的にも弱者である彼らであれば抵抗される心配もなく、好き勝手に暴力を振るうこともできる。

 「たとえ自分の子でも殴ってはいけない」という、子どもの人権に関する認識が韓国で本格的に広まったのは、21世紀に入ってからだ。世界的に見ると恥ずかしいほど遅れているが、「長幼有序」の下、何百年も昔から親が子どもを殴る(年長者が年少者を殴る)のは当然とされてきた韓国社会において、その認識の変化ですら大きな一歩である。子どもを暴力で服従させ、人権を蹂躙(じゅうりん)するという本作の事件の背景には、そんな社会を許してきた儒教的無意識があるのではないだろうか。

 話題は変わるが、「地域の慣行」のカルテルからどうしても見えてしまう歴史がある。「慰安婦」の歴史だ。日韓関係の中に長らく巣くうこの問題において、政治レベルでは両国の主張は相いれないが、研究者レベルではさまざまな議論が存在する。

 例えば、韓国国内でヒステリックな反応を巻き起こした歴史学者パク・ユハの著書『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)では、韓国の若い女性たちが「慰安婦」になった経緯のひとつとして、職業斡旋業者にだまされ、戦地に送られて売春を余儀なくされたというものがある。それはつまり、「慰安婦」を募集してだました朝鮮の斡旋業者と、いわゆる抱え主、そして日本軍というカルテルが結託して彼女たちを「慰安婦」にしたという図式である。この主張には、カルテルに朝鮮人業者が加担していたという、韓国が決して認めない事実が含まれているため、大きな問題となったわけだが、「弱者の人権蹂躙」という今回の問題とも密接につながっていることは言うまでもない。その点で、私はパク・ユハの議論には十分説得力があると考えている。

 最後に、また『トガニ』の話を。本作は、実在した特別支援学校で、障害を持つ幼い生徒たちに対する、校長らによる性暴力を告発した事件を映画化したもので、この映画がきっかけとなって人々の関心が高まり、公開後に社会が大きく変わる事態となった。だが映画が作られた時点では、被害者の子どもたちは法的にはまったく救われないままだったため、映画は決して安易なカタルシスを観客に与えることなく、ある意味では非常に後味の悪い結末を迎えた。

 その意味では本作も同様で、ラストのジョンヨンは大きな希望に包まれているが、根本的な問題が解決することはない。なぜなら映画の結末にかかわらず、この社会にはいまだ無数の「ミンス」が存在し、社会そのものが良い方向に向かっていない以上、映画が安易なハッピーエンドを迎えることは許されないからだ。

 しかも、『トガニ』における性暴力が、特別支援学校というある種特別な場所において起こったのとは異なり、本作のような場合、いつどこで自分の身近に起こるかもしれず、周囲への無関心によっていつの間にか自らも加担している状況が生まれてしまうかもわからない。

 本作は、カルテルの構造がもたらすものへの警鐘であると同時に、その無自覚な無関心によって誰もが同じような立場になり得ることへの警告でもある。もちろんこれが韓国のすべてではないが、そうしたこの国の一断面を決して無視することはできないのである。

■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。