離婚後すぐ、結婚相談所で再婚を決めた47歳女性の理由「息子に連鎖させたくなかった」と語るワケ

 人生、何度でも、いくつになっても、やり直しができる。間違えても大丈夫、もう一度、立ち上がって生きていこう!――そんなメッセージを込めてお送りする連載「2回目だからこそのしあわせ〜わたしたちの再婚物語」では、失敗を糧にして「結婚」に再チャレンジし、幸せを手にしつつある人たちの物語を紹介していく。

離婚後すぐに結婚相談所に入会

 第1回は、47歳で離婚後、すぐに結婚相談所に入会し、3カ月で成婚退会(婚約)し、お見合いから6カ月後に再婚した千原良枝さん(50歳)に話を聞いた。

 待ち合わせ場所のカフェに現れた良枝さんは、柔らかなロングヘアで楚々としたたたずまいの女性だ。少女っぽいかわいらしさがあり、21歳の息子がいるようには見えない。

 離婚は、かなりのエネルギーを消耗する。20年ほども連れ添った仲なら、なおさらだ。「もう結婚なんてこりごり」となってもおかしくない状況で、しかも、当時18歳の息子がいた。それなのに、離婚後すぐに婚活を始めたのはなぜ?

「息子には、幸せな家庭から巣立ってほしいと思ったんです」

 最初の結婚が壊れた理由は、元夫が転職でストレスを抱えるようになり、家庭の状態が悪くなってしまったことだ。

 次第に息子が精神的に不安定に、良枝さんもストレスから重度の喘息になってしまい、精神的にも身体的にもつらい状況が長く続いた。そのような状況で、良枝さんの人生を変えたのは息子のこの一言だった。

 「ママの病気は僕のせい?」。息子に二度とそんなことを言わせてはいけないと思い、まずは心因性だとわかっていた喘息を克服するために独学で心理学を学び始めた。

 さまざまな本を読んだりカウンセリングを受けたり、講座に参加したりしながら、心理学について学びを深めていく中で、なぜ夫婦関係がうまくいかないのかを解き明かしていった。そして、離婚に至った原因のひとつに、自分の育った家庭環境からくる男性への不信感や自己肯定感の低さが大きく影響していること。また、夫婦関係の良くない環境で育った子どもは両親からパートナーシップを学ぶことができないと気づいた。それを息子に連鎖させたくなかった。

「息子には私が苦労する姿を見せてしまっていたので、このままでは、母親を守ることが自分の役目と感じて自分の人生を送れなくなってしまうかもしれないと思いました。それで、私がパートナーをつくって幸せになることで、息子も心配せず、自分の好きなことをやって自由に巣立ってほしいと思ったんです」

 「再婚という明確な目的をもっているなら、パーティや合コンなどでなく、きちんとした相談所に入会したほうがいいよ。安くはない入会金を払っているぶん、遊び目的の人は混ざっていないはずだから」――そう知人に勧められ、素直な良枝さんは「なるほど」と納得。すぐに、とある結婚相談所の門を叩いた。

「私って、悩む前に直感で動くタイプなんですよ」

 女らしい雰囲気の良枝さんは、第一印象ではおとなしく見られがちだが、実は活発な行動派なのである。

 相談所は、写真やプロフィールなど個人のデータが登録されたファイルを見て、気に入ったり気に入られたりした相手とのお見合いをセッティングしてもらうシステム。良枝さんは、まずはお見合いを申し込んできてくれた人の中から、何人かと会ってみることにした。

「自分の感覚で選んでしまうと、今までの男性選びの癖が出て、また同じ失敗の繰り返しになってしまうから、できるだけカウンセラーさんの経験値から私に合いそうな人を選んでもらいました」

話し合いができなかった元夫

 良枝さんがキュンとくるのは、「俺についてこい」タイプの男性。でも、そういう人は、見た目と違って実は芯の強い良枝さんとは、実はあまり相性がよくない。元夫が、そうだった。

 若い頃、バイト先の先輩として知り合ったとき、リーダーシップのある彼に惹かれた。実際に生活を共にしてみると、その長所は良枝さんにとっての障害となった。また、そのリーダーシップは本来の自分の弱さを隠すためのものだったということにも気がついた。

「夫婦で解決すべき課題があっても、話し合いができず、一方的に力で押さえつけようとするところがありました。でも、心理学を学び、心のケアを続けるうちに、自分のなかに生まれ育った家庭で刷り込まれた固定概念やネガティブな思考の癖が元夫を傷つけていたことにも気づきました。自分は被害者でもあり加害者でもあったこと。そして、お互いに子どもの頃に親から傷つけられた被害者でもあったことにも気がつきました。自分が犯してしまった罪も認めたうえで、でも、話し合いのできない元夫との未来に自分の幸せはないと思ったのです」

 カウンセラーのアドバイスを受けながら、10人ほどとお見合いをしてみた。いろんな人がいた。年齢も5歳下から10歳上まで。初婚だったり再婚だったり、プロフィールもいろいろ。結婚相談所だからこそ、ふだんの生活の中では出会わないタイプの人にも短期間でたくさん出会える。

 今の夫は5歳年上で、バツイチ。最初の結婚では、生まれて数カ月の子どもを連れて元妻が実家に帰ってしまい、そのまま離婚したという経緯がある。元妻は外国人だったので、日本で子育てをする自信がないとのことだった。3カ月に1度は会いに行っていたが、元妻が再婚してからは子どもの幸せを考えて会っていない。

 良枝さんも初めてのお見合いでは、「誠実な人だな」「精神的に自立している人だな」と思ったが、それほどピンとこなかった。いわゆる男らしさを前面に出してくるのではなく、料理が趣味だというこまやかさがある人。良枝さんが一目ぼれをするタイプではなかった。それが、2回、3回とデートを重ねるうちに、だんだんお互いのことが見えてきた。

「私が再婚相手に求めるものは、とにかく『話し合い』のできる人。そして、夫は息子も含めて『家族』になることを希望してくれた。『自分が今までもらってきたバトンを次の世代につなげたい』そんな思いも話してくれて、未来に可能性を感じました」

 良枝さんは「後からトラブルになるのはいやだから」と、交際を始めて1カ月もたたないうちに、新生活を見据えた話し合いを持ちかけた。前の結婚のこと。家族のこと。お金のこと。互いに全部さらけ出し、気になることはクリアにしてから、一緒になることを考えようという提案に、夫は誠実に応えてくれた。

「ああ、話し合いのできる人だな、と」

 面倒なこと、楽しくない話題にも、きちんと向き合ってくれたことがうれしかった。この人となら、人生を共に歩いて行ける。気持ちを確かめ合い、結婚相談所はお見合いからほんの1カ月半で成婚退会、出会いからほんの6カ月で婚姻届を提出した。

コロナ禍のおかげで、家族らしくなった

 それでも、結婚したての頃は、大変だった。互いに決して若くない年齢だから、それぞれ生活のペースややり方が出来上がってしまっている。折り合いをつけるのが難しく、小さなけんかは絶えなかった。カウンセラーやセラピストを目指しながら10年かけて心のケアをしてきたはずなのに、まだ自分のなかにあるやり残しにも気がついた。

「ときには感情的になってしまうこともありました。最初の1年目は、何度か離婚を考えたことも(笑)」

 一緒に暮らし始めた息子は、入ったばかりの大学生活に夢中で、友達の家に泊まることも多く、あまり家にいなかった。それでもお互いに気を使いながらも歩み寄る努力をしてくれていたが、コロナ禍で大きく関係性が変わった。リモートで家にいることが増え、3人が常に顔を合わせる生活になったのだ。

「夫は料理が得意なので、食事の支度は夫に負担がかかることが多くなって、家庭のなかの雰囲気が悪くなっていきました。それを察知した私は、3人での家族会議を持ちかけたんです」

 この話し合いにも、夫は素直に応じてくれた。結果、お昼はそれぞれが自分の分を用意することに。息子は、良い機会だから料理の勉強をしたいけど、親の分まで作るのはプレッシャーだから自分の分だけ作りたい、と。

「家族みんなが本音で自分の気持ちを出し合い、話し合いができたことが本当にうれしかった。コロナ禍のおかげで、息子を含めた私たち3人、家族らしくなりましたね」

 先日、3回目の結婚記念日を迎えた。3年の間に少しずつ信頼関係が積み重なって、最近ではあまりけんかもない。休日には、サイクリングをしたり、高額ではないけれど、一流のお料理やサービスを提供してくれるお店を夫が探してくれて飲みに行ったり。これには一流のものに触れることで、それを良枝さんが自分の仕事にも生かせるようにという夫の思いも込められている。良枝さんがかつて望んでやまなかった、互いを思いやり、小さな楽しみを共有する、幸せな結婚生活が実現している。

 再婚当初、良枝さんは販売職に就いていたが、いずれ家族や夫婦問題を扱うカウンセラーになりたいという夢を持っていた。それが、さまざまな人の話を聞くうちに、「心と体はつながっている。ボディケアも自分のカウンセリングの引き出しのひとつにしたい」という思いが生まれ、昨年からリラクゼーションセラピストとして働き始めた。

 体をほぐし、心をほぐすことで、ねじれて固まった家族や人間関係をほぐしたい。さらには自ら結婚相談所も開設。離婚を経験した人が本当の幸せを手に入れるお手伝いをしていきたいと思っている。

「私がやりたいことを夫も理解し、応援してくれています。支えてくれている夫がいるから、私も冒険できるんです」

 話し合いができる人は、相手を尊重できる人だ。“話し合いができる”というその一点を重視して決めた再婚は、良枝さんにとって大正解だった。

(上條まゆみ)

「元夫には再婚してほしい」子どもを連れ去られ、共同親権運動を行うシングルマザーが今思うこと

『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。

 おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第2回 田中由実さん(仮名・37)の話(後編)

▼前編はこちら▼

絶対に親権を取れると思っていたが……

――2018年末に、彼が岐阜の実家に帰省した後はどのように過ごしていましたか?

 冬休みだけの帰省だったので、彼は年明けに社宅に戻ってきました。帰ってきたときには特に変わった様子もなく、クールダウンできたようでした。私は私で離婚届の不受理届(本人の知らない間に虚偽の届出が受理され内容にするための書類)を提出していました。その後の家族がどうなるかも含めて、様子を見ながら過ごしていました。

 しかし、年が明けて1週間後、不意に彼から「離婚届を出した」というメールが入りました。ところが、そのときはまだメールには提出日が書かれておらず、メールよりも私の不受理届のほうが先だと思い、余裕の心境でした。実は、彼は帰省時に、私の不受理届よりも早く離婚届を提出していたんです。

 1月中旬すぎに岐阜県某市から「出された離婚届に不明な点があるので連絡をください」と電話があったときも、記載に不備があるのだから受理はされないだろうと思っていました。

――でも、結果的には、1月末に離婚届の受理が判明したのですね。その後はどうですか?

 親権者移行審判を起こしたのですが、当初は絶対に親権を取れると思っていました。その頃、子どもの育児はほぼ私がメインでした。子どもに食物アレルギーがあるので、病院の付き添いもアレルギーの種類も知らない彼が育てるのは危険だという点と、育児実績をきちんと判定してもらえていると期待していました。

 その後、彼とは「ちょっと今後のことを話しましょう」という期間がありました。彼は義父ともども子どもの前でも「親権がないんだから、家を出ていけ」「親権がないなら子どものことに関わるな」と何度も言っていましたが、私は気にしませんでした。

――係争しながらの同居は、気持ちが休まらなかったのでは?

 明るい雰囲気が作れていました。食卓は一緒に囲んでいて、たとえ彼と話さなくても、それなりにうまくいっていたんですよ。連絡事項はメール、彼は私の作ったご飯を食べなくなったぐらい。当時は、いろいろできたんです。というのも、子どもがやっぱり元気だから。お出かけもおのおのがそれぞれ連れていっていたので、特に不便は感じませんでした。

――途中で何か変化はありましたか?

 親権者ではないということで、4月以降、私は小学校・保育園に入れなくなりました。「親権者以外の母親を立ち入らせるな」というような要望を彼が園に出してしまったからです。その一件によって、ママ友や子どもたちといったコミュニティの中の80%ぐらいとの縁がなくなってしまいました。あれには打ちのめされました。

――彼が子どもを連れて出て行く前触れはあったのですか?

ありません。「同居前提に裁判を進める」という話でしたし、アレルギーのある長女の食事は、私が作っていましたし。だから出ていく状況ではなかったんです。とはいえ、離婚した私が社宅に居座るのは確かに問題。なので彼には「会社には私から話しておくから」と話をしていました。それにもかかわらず、彼が子どもを連れて出て行ってしまった……。

――子どもたちが連れ去られたのはいつですか?

 夏休みの前です。金曜日だったので、朝、普通に子どもたちと「行ってらっしゃい」と別れて。前日も一緒にお風呂に入って普通に過ごし、変わった様子はありませんでした。裁判でも「同居前提で進める」とのことだったので、安心していました。

 ところがです。夜7時半過ぎて、家に帰ったら子どもがいない。ただ、すぐにはわからなかった。というのも、相手は家の中から、自分の荷物だけを持っていったんですね。午後8時を過ぎても帰ってこなかったときに「あ、これはいよいよマズいわ」と思って、保育園などの関係者に電話しました。連れ去られたという事実に思いが至って、さすがに愕然としました。その日は全然眠れませんでした。

――連れ去られた後、どのように過ごされたのですか?

 「電車に飛び込めたら楽だよなぁ。でもそうしたら、きっと子どもがいつか泣くなぁ」「元夫は葬式で自分のしたことの罪深さに殊勝な悲しいふりをしながら、内心ほくそ笑むのだろうなぁ」などと、茫然自失のなか、気がつくと、仕事中でもいつでも涙が流れる状態で、日常を過ごしていました。週末はもちろん、空いた時間があると、子どもたちを探しに行きました。

 そして連れ去られて10日ぐらい後に、偶然道端で会ったんです。ずっと私に会えずに、いきなり引っ越しをさせられた子どもは、その場で「やっぱりママがいい」って抱きついてきて。当時6歳と4歳の子どもが、泣きながら再会を喜びました。

 でも、それもつかの間で、父親はそれを許さず「ママにはすぐ会えるから!」と言い張り、抱きついた子どもたちを無理やり引き離し、子どもたちを連れて走って逃げていきました。その後、彼の弁護士から「お母さんに会うと子どもたちが不安定になるので、今は会えません」との通告を受け、断絶の状態に入りました。

――それ以降、それぞれどこに住んでいたんですか?

 先ほどの弁護士より「社宅の契約を解約する」という書面が来ており、私も子どもたちの通う保育園から歩いて1分のマンションに引っ越しました。子どもと住める十分な広さの住居で──というのも、子どもたちといつでも一緒に住めるようにしておきたかったからです。

 また、本当に偶然ですが、別居後1カ月ほどしてから、実は私の引っ越し先と、子どもたちの住む家が目と鼻の先だったってことがわかったんですよ。私は集合住宅の上の階で、彼と子どもたちは道一本挟んだ向かい側の1階。あまりの偶然に、びっくりしました。

 そんな感じだったので、私は相手を刺激せぬよう、ベランダから子どもたちの様子を見ることができました。子どもたちがマンションの入り口近くまで入ってこようとする様子はありました。すると気がついた彼がやってきて、また子どもたちを両脇に抱えて、走って帰っていきましたけどね。

――連れ去り後の生活は?

 こんなに家が目の前でも、私と子どもは、彼と彼の弁護士の意向により、「月1回3時間 自宅外」という条件でしか会えませんでした。

 一方、元夫のことについては、情報がブロックされているので、はっきりしたことはわかりません。それでも、離婚して以降は残業もせずに定時に帰ったりしていますから、彼は彼なりに真面目に子育てしているようです。まるで私に代わって思い通りの子育てをして、自分自身が理想の母親になりたかったのかな、と。私を排除した家族で、彼は母親から与えられなかったことを、子どもを育てることで補おうとしているのではないかと思っています。

 私は、そんな彼の態度にイラつくんです。私の代わりにキャリアを託した彼が、私から正社員というポジション、家庭や生活、さらに子どもまで奪っているのに、時短勤務制度を利用したりしてるんですよ。あなたはどこまで人から夢と希望を奪えば気が済むんだろうと、思っています。

――その後、係争は?

 19年12月に、親権者移行の審判が終わりました。子どものアレルギーや監護権の判断では、同居前提で調査官調査や審判をすると裁判官とも共有していたにもかかわらず、彼が引っ越しを強行したので監護の継続性では彼が勝り、私は親権を取り戻せませんでした。

 その後、彼と子どもたちが、歩いて10分ほど先にある元の社宅に戻ってしまいました。道路向かいの近距離別居だったのが、どうも嫌だったようです。当時のことは、子どもたちも覚えていて「パパが無理やり、いつも引っ越しをする」と言っていました。

――コロナ禍の中、交流はどうしていたんですか?

 コロナ禍に入った直後は、やはり無期限面会停止に入りました。 会えなくてつらかったですし、それ以上に心配でした。それで私、この状況を利用した提案をいくつかしました。というのも私、衛生管理者と栄養系の資格を持っていまして、コロナ対策に関してもある程度の知識を持っているんです。

 なので、手指や物に付着したり、空気中を漂ったりしているウイルス。それらについての安全対策が可能な限りできてしまうのです。例えばこんな感じで。「〇〇市は緊急事態宣言時には、スーパーに2人以上で来ないでくださいって言ってますよね。とすると、あなたは子どもを連れて買い物にも行けないはず。だから緊急事態宣言中は、私が食事を提供します。その間、あなたは子どもに目を配ってあげてください。もちろん、ウイルス衛生管理対策は万全に取ります」と。それが認められ、タッパーに詰めた料理を、その後、週に2回、持って行ってもいいいってことになりました。

――プロだけに説得力がありますね。

 そして、社宅までご飯を届けに行ったところ、子どもたちが玄関前で泣いてたんですよ。そこで私、「大丈夫?」って言うと、子どもは約1カ月ぶりに会えた私に喜び、また抱きついてきました。

 その時点で、私自身の人との接触がほぼありませんでした。それにコロナの罹患症状も見られませんでした。そうした状況を説明し、「ある程度は安全である」ということを納得してもらいました。その接触後から2週間たてば潜伏期間が終わるので、自分が陰性だと確認できますよね。なので「その時期に会いましょう」っていう話をしました。「コロナの期間だから、感染の恐れがある外で会えませんよね。だったら私の自宅にしませんか?」って言って。

――月の面会時間が3時間から5時間半に増えたそうですが、それはなぜですか?

 コロナ禍だということで、Skypeでのオンライン通話を始めさせたんです。すると子どもたちが喜んで、「ママと電話を切りたくない」と、スカイプの時間が4時間、5時間と長くなったんです。そこで彼に話して、「オンラインですら、これだけ長く交流できるんだから、実際に会って交流する時間ってオンラインより短くなるはずがない。長くなって当然じゃないですか」と言って延ばしました。

――すごい頭脳プレーですね。

 その後、タッパーに入れた食事を持って行くと、3人で玄関先で出迎えてくれるぐらい関係が良くなって、一緒に4人で散歩したりできるようになりました。このまま共同養育ができるのかなと期待するほどでした。弁護士事務所が休みのゴールデンウイーク中は相手方の弁護士を介さず、ある程度スムーズに連絡が取れたのです。

 ところが、5月の連休が明けたら、彼の態度が豹変してしまいました。「ご飯の差し入れはいらない」とか、「緊急事態宣言が終わったから自宅面会はなし、時間も通常の3時間とする」など。連休明けに、弁護士がいろいろアドバイスした結果そうなったんでしょう。

――ガッカリですね。

 でも、20年5月25日に緊急事態宣言が解除されたときに、私、腹をくくったんです。親権者変更の裁判中は「裁判中だから会わせない」。コロナになれば「コロナだから会わせない」。実際に緊急事態宣言が解除されても「会わせない」。親権者になれば、子どもの気持ちにかかわらず、会わせない理由なんてなんでもでっち上げられるのです。なら、自分で子どもたちと縁をつなごうと考えました。

――具体的には、どんなふうに?

 私の自宅は、前述のように、保育園徒歩1分です。なので、子どもたちの朝夕の送迎時など、可能な限り、保育園の外で子どもに会いに行くようにしました。子どもたちが通りがかったところで、「お疲れさまと」と声をかけて、ハグしてチューして、「じゃあ、また明日ね」って。当時、私の弁護士には止められたけど、でも保育園前は私の生活圏内であり、駅へ向かう道の途中ですから。

――ストーカー規制法の対象に該当するということで、接見禁止を命じられたりしなかったんですか?

 私は先に警察に行って、そこで「連れ去りはしない」という相談をした履歴を残し、保育園の園長先生とも、この行動が問題ないか、事前に確認のやりとりをしています。私は女性だし、母親だから、保護命令をやりにくいのはあるのかもしれませんが。

――それ以外の実際の面会交流の際には、どういうふうに過ごしているんですか?

 それは、ひたすら楽しくですよ。私の家にはルーフバルコニーがあるので、子どもたちが家に来たときは、夏だったらプールに水をためて水遊びをさせたりしたいです。まだやっていませんが、雪が降ったら雪だるまを作ったりしたいです。あとは、最近実際に行った面会交流内容は、ハロウィンや七五三の写真撮影やお宮参りといった、彼がやりそうにないもの。外での行事は、時間がタイトで大変ですけどね。

――元旦那に対して、今ははこうしてほしいとか、今までの経緯について彼に対して思うことはありますか?

 好きだった人とか一緒に生活しようと思った人に、なんでここまで嫌われて、人格を傷つけられなきゃならないのかって思います。復縁したいとか、一切思わない。彼のことは正直軽蔑するけれども、親として、共同養育は一緒にしたいです。彼がされてきたように、母親という存在を子どもから消すことは子どもの利益にならないからです。

 毎週末、タッパーに詰めた料理を持って行ったりして共同養育の下地はもうあるので、「子どものために一緒にやりましょうよ」「子どもたちに母親が必要なんだよ」って言っています。だけど、私がどんなに言っても、彼には響かないんですよ。彼自身の生い立ちを否定されてしまうことになるから、言われたくないでしょう。

――彼は、由実さんのことを、子どもたちにどう伝えているんでしょうね?

 娘に、この間言われたんです。「Y(娘の名)は何も決められない。パパが決めるから」って言われてるって。それを聞いて私、直感したんです。子どもたちは空気を読んで、自分で意見を言うことをしなくなっていると。おそらく「家の中ではママの話はしない」「ママの家には泊まれない」と言われているんでしょう。息子は「家の中では、ママへの手紙は書けない」と言っていました。かつて、彼が義父に強いられたように、母親の話題は禁句なのだと思います。

――彼が押し黙ることで、子どもたちに「それは言っちゃいけないことなんだ。考えちゃいけないことなんだ」って思わせる。そうした周りを従わせるやり方で子育てをしていると。

 そうなんです。義父から彼に対して行われた子育てが、子どもたちに対して繰り返されている。それがすごく嫌。だから私は子どもたちと頻繁に会うことで、わだかまった子どもの気持ちをリセットしなきゃって思ってて。「2人のことはパパもママも愛している。大人だって間違えちゃうんだよ」と子どもたちに伝えています。母親のことは考えていいんだよって。

――今やっていることは?

 彼との係争に関しては、調停で共同養育の提案をしています。と同時に、相手方の弁護士については偽証が多発しており、弁護士会に向けた懲戒請求もかけています。また、このような問題をめぐる社会活動も行っています。私のような母親当事者のフォローや、離婚、親権といった一般的にはなじみがない事柄に関する知識の周知や、システムを変えるための市政や法改正の活動を行っています。この活動を通して私自身新聞に載ったこともあり、子どもたちにも「ママは新聞に載ったんだね! 今度テレビにも出てよ!」と期待されています。

――今後のことは、どのように考えていますか? 

 子どもは、私が毎日会いに来ると信じているし、私もその期待に応えている。今の家庭裁判所が認めている一般的な月1回2時間の面会では、親子関係は構築できない。子どもたちが喜ぶ一番の愛情の伝え方は、単純な接触回数と愛情表現に勝るものはないです。だから今後も可能な限り会って、子どもに愛情を伝え、関係を維持していきたいです。

――ご自身は、再婚しようなどと思われたりはしないですか?

 ここまで傷つくと、さすがにそういう気持ちはまったく起きません。まずは子どもの幸せ。そして、その後、自分自身が安定しないと。彼は、どちらかというと再婚してくれたらうれしいです。もっと彼が自分の狭い世界だけではなく、いろんな方と話して、視点を広げてほしい。私が相手ではできなかったので、もっと彼にも幸せになってほしい。でも、育児が大変で、再婚するための時間が取れないのであれば、「私が共同養育で、その時間を作りましょう」と思っているぐらいです(笑)。
(西牟田靖)

家の購入で夫とけんかして離婚の危機! 義父の叱責やワンオペ育児で疲弊した妻の苦しみ

 『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。

 おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第2回 田中由実さん(仮名・37)の話(前編)

 子どもプログラミング教室の外の廊下には、お迎えの父母が10人ほど。その中に30代らしき小柄な女性がいた。兄妹とおぼしき幼い子どもが女性に抱きつく。当日はバレンタインデーで、女性はチョコレート菓子のキットを取り出して「2人で作ってみてね」と仲良く兄妹に語りかけている。数分後、女性のすぐそばに背を向けていた男性が兄妹を連れて立ち去った。子どもたちに悲壮感はない。ものの5分という、つかの間の面会だった。

「子どもとの関係はすごく良好です。なぜ元夫が子どもと母親が会うことを制限したがるのかがわからない。普段は離れて暮らしているからこそ、会えるたびに愛情と子どもたちへの必要な言葉はすべて伝えています」

 8歳長男と6歳長女の母親である田中由実さんは話す。これだけ仲の良い母子が一緒に暮らせなくなったのはなぜなのか? 家族との関係は、なぜこのようになってしまったのか?

キャリアより家族を持つことを選択

――結婚までは、どのように?

 都会出身の証券マンだった父と田舎で育った母のもと、地方で育ちました。私が長女で弟が2人います。

 大学の専攻は物理のシステム工学。正社員の開発者として就職したかったのですが、氷河期世代の頃でかなわず、大学卒業後、非正規や派遣として働いていました。20代後半で大学に行き直し、修士課程を修めたのですが、それでも待遇は変わらないまま。一般的な企業に新入社員として入る以外は、この分野で正社員になることって至難の業なんです。プロジェクトごとの参画や任期付き、非常勤など下積みのキャリアを重ねながら過ごしていました。

 それでも30代前半のとき潮目が変わりました。それまでのような非正規や派遣ではなく、「正社員の開発者として働いてみないか」とお誘いを受けたんです。それまでずっと夢見てきたポジションだったので、すごくうれしかった。

――もちろん、お受けになられたんですよね?

 そのお誘い、悩み抜いた末にお断りしたんですよ。というのも、その頃、とある男性と2年間付き合っていて、結婚しようかという話が出ていたんです。彼は同じ会社に新卒から勤める正社員の研究者。彼の実家は岐阜県で長男。親を大切にするいい人という印象。気持ちも合うし、年齢的にも子どもも欲しかった。さらに彼は私が正社員の開発者として就職するなら結婚はしないと言い切っており、私は人生の大きな選択を迫られた。そこでかなえたかったキャリアは彼に託すことにして、キャリアと夢の実現よりも、家族を持つことを選びました。

――そして、岐阜にいる彼の親に挨拶に行ったわけですね。

 そうです。するとね、彼のところにはお母さんがいなくて。というのも、彼が生まれてから半年ぐらいで、母親が家から追い出されたそう。嫁入りしてきた彼の母親と父(つまり私の義父)の、折り合いが悪かったんです。彼は母親の顔を知らないまま、父親とその両親にかわいがられて育ったようです。

――過去に彼が母親に会いに行こうと思ったことはなかったんですか?

 その点は私も気になって昔聞いたのですが、幼稚園の頃に母親のことを聞いたら、父親も祖父母も怖い顔をして押し黙ってしまったと。それで彼は幼心に、家の中で母親のことは話しちゃいけない話題なんだなと悟った。それ以降、彼は家族に母親のことは一切聞かなかったそうで、顔はおろか名前すら知らなかったそう。そんな事情なので、これまで一度も会ったことはないそうです。

――結婚式は、どんな感じでしたか?

 義父は地域柄なのか、「結婚式は盛大にやらないかん。村の威厳がかかっとる」という感じで一歩も引かない。それで私が「簡単に親戚だけで式をやればいいと思います」と希望を伝えたら、怒り心頭、たちまち私は怒鳴られました。挙げ句の果てには、私に無断で式場を仮予約しちゃって、2012年2月、結婚式の日を迎えました。

――当日は無事に式が行われたのでしょうか?

 義父の思うがままにされてしまったことがつらかった。さらには式の後、私が思うように動かないので、車の中で義父に30分近く叱責され、泣かされてしまいました。しかもね、彼(元夫)はそのとき、押し黙ってなんのフォローもしなかったんですよ。私、そのことがトラウマになってしまいました。「そのうち実家に帰りたい」って彼は言っていたんですが、「この親子の関係は変わらない。彼の言うように、岐阜の実家には帰れない」って強く思いました。

――結婚後の生活は?

 正社員にならないかと誘われた会社を辞め、転職して仕事を続けつつ、2人で社宅に住み始めました。そして、その年の12月、長男を出産しました。当時は幸せでした。子どもは生まれるととてもかわいく、人生でこんな宝物が生まれたことが奇跡だと思いました。生まれる前は職場への申し訳なさもあり、職場復帰を早くしようと思った。しかし、実際に保育園に入れる時には、子どもと離れ難かった。保活も激戦区だったために、冬生まれで早めに入れざるを得ず、長男は生後わずか4カ月後の4月から保育園に預けていました。

――寝かしつけとか、出産直後の時期の育児はどうだったのですか?

 家庭内のルールは妻の私がほぼすべて決めていて、子どもたちの面倒を見るのは100%私でした。というのも、彼は優柔不断で物事を決めきれない性格。「なんでも決めていいよ」と普段から言っていたので、信頼して子どものことも任せてもらえていると思っていました。

 一方、彼は育児を素直に手伝ってくれていました。朝の保育園までの送りは彼が担当していましたし、頼めば洗濯とか買い物、オムツ替えといった家事・育児もやってくれました。ただし寝かしつけに関しては、ほぼすべて私でしたね。というのも、彼は子どもが嫌がるくらいいびきがうるさく、すぐにコロッと寝てしまう。もしものときを考えると、私がやるしかありませんでした。

――2歳下に女の子が生まれた後はどうでしたか?

 2歳差の女の子もすごくかわいく、お兄ちゃんも妹をかわいがっていました。将来、親に何があっても、兄妹で仲良く助け合っていってほしかったので、家族が増えたことは本当にうれしかったです。

 しかし、彼(元夫)との関係は悪化していきました。というのも、社宅は狭いし、ペットの犬もおり、狭い家の中で生活が回らなくなる。遠方の実家のフォローもない中、ほぼワンオペで2人の子どもを見て、日中仕事、夜間も授乳や子どものケア。彼は、言えば動くけれど、言わないと何もしない。

 そのうち、彼に何かを言うことさえ疲れてきてしまって、彼には会話もあまり求めなくなった。さらに、夜間は彼のいびきから逃れられない――という状況の中、彼に対するストレスが増していきました。今考えると、その頃、産後うつの傾向があったけれど、私は日中病院に行く時間もない、授乳中だから薬も飲めない。とりあえず、夜だけはゆっくりと静かに寝たい、休ませて……というのは毎日思って、彼にも伝えていました。

――打開策はあったんですか?

 ずっと家を買いたいと思っていまして。彼のいびきの問題も、寝室を別の階に分ければいいんじゃないか、と考えていました。あと長男も小学生となり、持ち家で落ち着いて過ごしたいと思い始めたことも購入の理由です。私自身、家族と実家で過ごした思い出はとても貴重でしたし、就職してからはプロジェクトごとに勤務地を転々としていたので、その反動から、同じ家という安定した環境で、家族みんなが思い出を積み重ねながら生きていきたいって思っていたんです。周りでも同様の家族が多かったので、普通のことだと思っていました。

――「実家に帰りたい」と言っていた彼を、説き伏せることはできた?

 ずっと折り合わず、話は平行線をたどりました。「実家に帰りたい」ということ以外に彼は「お金が足りない」と言っていて。「だったら私が稼ぐよ」って言って、同じ業界の職場へと転職をして、仕事を頑張った結果、数年かけて頭金に十分な貯蓄ができたんです。少なくとも、そこでお金の問題をクリアしたんです。「嫌だったら、家、売ればいいんだよ」と、彼には言っていました。それに彼自身、ファイナンシャルプランナーに複数回相談して「資金計画も全く問題ない」というお墨付きをもらって、お金の不安を解消していました。彼も納得した上で、家の購入へと進んでいったんです。そうして、何軒か家の内覧に行って、ローンの計画を固めて、18年のクリスマス前、予約に至りました。

――最高のクリスマスプレゼントですね。クリスマスパーティは、さぞ盛り上がったのでは?

 それがね、ケーキ作りがきっかけで、最悪のクリスマスパーティとなってしまいました。「生クリーム作りをお願いね。砂糖は〇〇グラムだから」と分量を伝えたのに、出来上がりが散々だったんです。それで私、「なんでこんなに味が薄いのよ。全然甘さが足りないじゃない。なんでここまで分量を丁寧に話しても、できないの? もういいや、家を買ってくれれば、あなたには何も期待しない」って、彼に言ってしまいました。

 すると彼は、私に対して怒りを爆発させたんです。「謝れ。さもなくば家は買わない」と。彼は本当は岐阜の実家に帰りたいのに、私が半ば強引に家を買おうとしている。また、買えない理由もないから強固に反対もできない。だけどそれに従うことって、彼の中で人生を犠牲にすることを意味していたと思うんですよ。そこで、その言葉に対して彼から「謝れ」と言われました。でも、私は謝れなかった。私だって、自分のキャリアを諦めたり、義父の行動にも我慢したりしてきた。家を買いたいという私の夢くらい、一緒にかなえてほしかった。少しは「子どもを産む」「稼ぐ」以外の私の人生にも協力してほしかった。

 その後、彼は、自分を否定された言葉に怒って、クリスマスの夜に家を飛び出していきました。私も子どもの面倒を見ながら、「彼がなぜ理解してくれないのか」「もう離婚かもな」と思って茫然としていました。

――なんで彼は事前に反論しなかったんでしょう?

 普段から、私の威圧的な話し方や反論も怖かったようです。また、自分の感情のコントロールや話し合いができる人だったら、向き合って話して折り合いをつけることができたでしょう。人の気持ちが少しでもわかれば、それまでの義父とのことだってフォローしてもらえたでしょう。

 でも、私も人のことは言えないですが、彼はコミュニケーションが苦手で母親についてを聞けなかったように、嫌なことには押し黙れば問題を回避できると思っている。彼の父親がそうだったように。子どもがいなかった時は、私もそれなりに彼を気遣っていたので彼との関係は成立していたけれど、産後私は子どもと私自身の生活でいっぱいになってしまって、彼への配慮をやめました。

 子どもが1~4歳までは忙しくて彼へのケアが十分でなかったとしても、その後、何年かかけて彼と家族の情が育っていけばよいと思っていた。そこにも根本的な齟齬があって、彼の無意識の中で、私は彼のことを理解しない敵のような存在となり、自分を守ってくれる義父への訴求心が高まったのだと思います。

――それで、ひとまず離婚危機は回避したんですか?

 その後、結局彼は「家を買わない」と言い張り、購入をキャンセルしました。当時、私はそのことにも怒り心頭でした。それまでの住居に住み続けることが難しいから数年かけて準備してきたのに、持ち家で暮らすという私の夢が彼によってすべて否定されたことがショックで、「このままじゃ、彼は私の気持ちをわかってくれない。私が離婚を考えるぐらい悩んでいることをわかってもらいたい」という一心から、離婚届を渡してしまったんです。

 私は本当に子育てをちゃんとしてたし、仕事も頑張っていた。そういったところをちゃんと見ていてくれたら、彼がワンオペで、私のように2人の子どもを育てるのは現実的に難しいことがわかるだろうし、たとえ一時的な気の迷いだったとしても、ちゃんと家の購入を含めて向き合って、もう一度考え直してくれるんじゃないかなって、淡い期待をしていたんです。

 また、お互いにクールダウンの必要があると思い、年末だったこともあり、お互いの実家に帰って気持ちが落ち着くまで別々に過ごしたほうがいいと考えていました。離婚届に関しては、渡してしまって以降も実際に提出されることはないと思っていました。というのは、彼の帰省中は私からの連絡は拒否され、両家の両親含めて「夫婦できちんと話し合う問題」「離婚はやめてほしい」と言われていたからです。

(後編につづく)

(西牟田靖)

息子と会えないのは、魂を引き裂かれたようにつらい――嫌われても調停を続けて、母親の存在を示す

『子どもを連れて、逃げました』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第1回 高橋芽衣子さん(仮名・51)の話(後編)

息子と会えないのは、魂を引き裂かれたようにつらい――嫌われても調停を続けて、母親の存在を示すの画像1職場で出会った3歳上の小柄な男性と1年ほど付き合い、妊娠し、結婚した高橋さんは、出産前後に夫に対して違和感を覚え始める。子どもが生まれてからは、人の話を聞かない、切れやすい、超クレーマーといった本性が、徐々に現れてきた。東日本大震災をきっかけに、別れが決定的になる。

前編はこちら:「給料が少ない」と偽っていた夫、子どもが生まれてから、超クレーマーな本性があらわに!

「お父さんとお母さん、どっちがいい?」

――「こいつは人として本当に終わってる!」と思ったというのは、どういうことですか?

 東日本大震災直後の、2011年3月20日ぐらいだったかな。三越の食堂で並んでたんです。すると、彼は勝手に順番を抜かして前に出ちゃった。当然のことながら、抜かされた人から「なんで抜くんだ」って言われて、それに対して「お前が行かないからだよ!!」って怒鳴ったんです。相手はたまたま前が空いてることに気がつかなかっただけなのに、声をかけもせず。それを見て、なんでこんなことでもめるんだろうってあきれました。

 それにね、計画停電が呼びかけられてるのに、彼はそれに逆らうように、電気を無駄遣いするわけですよ。「俺は東電に対して協力する気なんかない!」とか言って、冷房を最低温度の16℃に設定して。おかげでその月の電気代は2万円を超えてしまいました。東電には協力しなくていいから私に協力してよと思いましたが、言っても聞き入れてくれなくて……その無駄遣いにあきれちゃって、「私、もう無理」って思って、家庭内別居を始めました。そのときから、私は向こうの実家には行かなくなりました。

――家庭内別居になったとき、彼と子どもの付き合い方は、どういう感じだったんですか?

 子どもは、甘やかされるほうに行っちゃいますからね。するとね、夜遅くまで父親と一緒に起きて甘いものとかバクバク食べちゃって、ついには小児生活習慣病予備軍になっちゃったんです。それで、子どもは夜は私と一緒に寝ましょうというふうになったんです。それは小学5年生のときでした。

 その後、中学受験をするってことで、受験勉強を始めたんです。でもね、夜更かししてたし、週末は彼の実家に連れてっちゃうしで、本気で勉強しなかったんです。そんなので合格するはずがないですよね。

――それで、家庭内別居から今に至る経緯は、どのような感じなんですか?

 後から思えば、中学受験の前から、連れ去るための準備を着々と重ねていたようです。2013年の3月11日だから、息子が小6の終わりのとき、彼は私がいる前で、息子に「お父さんとお母さん、どっちがいい?」って聞いたんです。すると、息子は「お父さん」って言うわけ。それって、事前に息子に聞いてるんです。「お母さんのところに行ったら、お父さんは一生会わない」って、彼が息子に言った上で聞いてるんですよ。だったら、両方会えるほうを選びますよね。

――残酷ですね。

 それだけじゃないです。その日以来、息子を実家に通わせ始めたんです。息子は下校して、いったん帰宅してから、友達と遊んだり、塾などの用事を済ませたりした後、電車で30分のところにある彼の実家に通うようになりました。

 当時、向こうは着々と引き離し工作を進めていたんです。おかしいなと思ったのは、息子にこう言われたからです。「僕がこの家にいると、僕の魂が赤ちゃん返りするって言われた」と。「誰に言われたの?」と聞いたら、彼の姉でした。

 その後、お義姉さんから電話がかかってきたことがあったので、聞いたんです。すると、「私、そういうの、見えるんだよね」って平然と言うんです。それを聞いて私、「ほんとこの人たちやばいわ」って思いました。驚愕しました。

――誰かに相談はしたんですか?

 区の法律相談とか女性センター、子どもセンターみたいなところ、あちこち行きました。どうすれば息子との関係を絶たないで済むかということを聞きたくて。だけど、対応策を聞くことはできなかった。その代わり、「離婚したくないってことを演じて伝えたらどうですか」とか、「まずは婚姻費用調停を申し立てなさい」とか言われました。「DVだから逃げなさい」と言われて、シェルターに入るよう強めに勧められるのかと思ってたので、意外でした。

――その後、息子さんは公立中学へ行きますよね。そのときも彼は父親の実家へ通っていたのですか?

 そうです。毎日通っていました。放課後、息子は毎日、電車で彼の実家に通うんです。それで夜まで向こうで過ごした後、彼と一緒に帰って来ていました。そのうち息子は「PASMOに入れるお金ちょうだい」って言ってくるわけ。でも息子のお願いはむげにできない。だからお金をあげちゃうわけ。本当は嫌でした。

――引き離しを止められなかったんですか?

 翌月の4月半ば、双方の親と私たちで、話し合いを持ったんです。私は、本心ではなかったけど、向こうの親に対して「やり直したい」と言いました。でも、彼のお母さんが承諾しなかった。ただ、毎日通わせることだけは、子どもの生活が大変だから、しばらくやめるということで話がつきました。

 それから少しの間、母子2人で過ごしました。というのも、話し合いの後、ゴールデンウィークの時期に夫が家を出ていったんです。「疲れたから実家に帰って静養したい」って言って。私からしたら「どうぞどうぞ」って感じ。その時期は、母子2人ですごく楽になりました。

 とはいっても、私は息子と2人で寝たりはしませんでした。その直前まではお父さんと一緒に寝ている子だったんだけど。「中学生だから1人で寝なさい」と言って、自分の部屋を与えました。

――でも、平穏は戻らなかった。

 そうです。裏で彼が自分の姉に相談して、着々と引き離し工作を進めていたんです。そして実際、ゴールデンウィークの前に、離婚調停の書面が来ていました。私は弁護士とか心理の専門家に相談しなきゃと思って、いろいろ調べました。そして、離婚と子どもの関係について詳しい大正大学の青木聡先生にたどり着きました。でも、すぐには先生本人に会えなくて、引き離しには間に合わなかった。息子は着の身着のまま、荷物は持たずに連れていかれました。

――引き離すにあたって、学校が変わるといったこともあったんですか? 中学には入学したばかりですよね。

 越境通学するようになりました。息子に指一本でも触れさせないよう、彼や義父が学校の中まで送り迎えするようにしたんです。そんな異例なことを承諾してもらうため、彼と義父母が、そろって学校に挨拶に行ったそうです。彼の出勤時間から逆算すると、息子は通学時間の1時間前以上前に通学していたはず。

――「遠いから、元の家がいい」と息子さんは言わなかったんですかね?

 それはわからない。でも、少なくとも1学期の間は、息子とやりとりできていました。私はPTAに入って、月に1〜2回の学校公開(授業参観など)には必ず参加していたし、行けば毎回会っていた。そのとき、息子は私のことを拒絶はしなかったんです。逆に父親が見ていないのを確認して私に話しかけてきました。学校自体は、この件に関わりたくないようでしたけど。

――離婚調停の申立書が4月に届き、夫と息子さんが5月に家を出ていったということですけど、その後の流れというのは?

 申し立てられた離婚調停に出席する前に、上申書を100枚ぐらい書いて出したんです。これこれこういうひどい目に遭って……という感じで。息子を取り戻すために、弁護士を立てて、面会交流・円満調停の申し立て、監護者指定と子の引渡しと、引渡し前の保全処分という3点セットを、6月末ごろに申し立てました。

――それ以降の、息子さんとの交流はどうなってるんですか?

 引き離されてしばらくは、一緒に暮らしてはいないし、学校以外では会えなかったけど、関係は良好でした。7月に双方代理人がついて、調停やその前の保全、審判など、改めて家裁で話が始まり、正式な面会交流みたいな感じで会うようになると違ってきました。その年の夏休み中の8月、元夫の代理人弁護士の事務所で、第1回の面会交流が行われました。その場には、息子と私、双方の弁護士、そして夫がいました。

 私が一方的に話しかけて、若干息子が反応するみたいな感じでした。百面相したりしたら、息子は我慢できなくてプッと笑う。そんな感じで感情のやりとりができたんです。面会交流が終わって私が事務所を出た後、息子が号泣したそうです。すると、後日元夫側の弁護士が「お母さんが嫌だったから号泣した」という文面を含んだ書面を送ってきたんです。

 こっちは「子どもとの良好な関係の証拠」を書面で出す。でも、そうすると次に会うときはいろいろ制限され、さらにその次の面会では、子どもはまったくしゃべらなくなり……。「子どもと私の関係は壊れていません」と主張すればするほど、関係を壊されていったんです。親権や監護権は、引き離された後の「監護の継続性」を理由に、裁判所から突っぱねられました。そうして、子どもを取り戻すことができなかったんです。

――裁判や調停は、まだ続いているんですか?

 訴訟としては最後かもしれませんが、地裁で面会交流妨害についての損害賠償請求訴訟を彼と義父、彼の姉に対して起こしました。月に2回会うと取り決めて、そこから増やしていこうって思ってたんですが、妨害されてしまった。

 元夫がカウンセリングを受けること、子どもの情報を私と共有することといった取り決めは、中学校時代こそ死守しました。だけど、離婚が成立した直後の高校2年生の4月以降、まったく会えなくなりました。最高裁まで引き延ばしたんですが。

 ちなみに、私に養育費を払わせろという調停を起こし、私に支払えという審判を出してもらったのですが、私からの養育費の受け取りをずっと拒絶されています。息子については「大学に行った」ということしかわからない。元夫は「子どもが言いたがらない」って言っていますね。

――調停や裁判はどのぐらい行ったのですか? その結果、一度でも会うことができたりしたんですか?

 会えなくなってから、まず取り決めを守るように裁判所から履行勧告してもらいましたが、だめでした。その後は面会交流調停を2回やって取り下げ、親権者変更も1回やって取り下げました。養育費調停もやった。でも、一度も会うことはできなかった。そうこうしているうちに息子も20歳になってしまいました。

――子どもに会えない親はよく、「子どもが大人になって、自分の意志で会いに来てくれたら……」と、希望を込めて言いますけど、息子さんから会いに来ることはあったりしたんでしょうか?

 母親である私に、息子が自分から会いにきたことは今のところ一度もありません。といいますか、彼の両親が強硬なので、彼らが生きている限り絶対会わせようとしない。それに息子から会いに来ることもないでしょう。望みが薄い状態ですが、それでも私はずっと息子に関わっていくつもりです。関わることをやめた途端、「お母さんはお前を見捨てた」って言うに違いないですから。嫌われてもいいので、存在を示し続けます。やめたからといって関係が改善するとは、絶対思えない人たちなので。

――女性って自分のおなかを痛めて産んだという経験があるから、男性よりも自分の子どもへの思い入れが強いと思うんですよ。もしかすると、同じ引き離しでも女性のほうがつらいのでは?

 すごくつらいです。魂が引き裂かれたように。ただ、私はとりあえず12歳までは面倒が見られたわけじゃないですか。だから幼い子と引き離された人たちと比べて少しだけましだと思っています。

 自分が息子を連れて行けば、こういう目に遭わなかったのかもしれない。だけど、それは息子に対する虐待だと思っていたので、自分からはできなかった。それにもし、私のところに息子がいたとしたら、向こうは息子との縁を本当に切ったと思う。今、息子と会えないのは、つらいし苦しい。本当なら、彼の家の近くに住めば息子に会えるかもしれない。でも、それをやったら精神を病んじゃうと思う(笑)。やれる範囲で、子どもに対してのアクセスは続けていくつもりです。

(西牟田靖)

「給料が少ない」と偽っていた夫、子どもが生まれてから超クレーマーな本性があらわに!

『子どもを連れて、逃げました』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?

第1回 高橋芽衣子さん(仮名・51)の話(前編)

「私のところに息子がいたとしたら、彼(父親)は息子との縁を本当に切ったと思う。今、息子と会えないのはつらいし苦しいけど、彼と息子との縁が切れなかったのはよかったと思う」

 高橋芽衣子さんは言う。考古学者である彼女は3つ以上の大学で非常勤講師を務め、忙しい生活を送っている。その一方、体を動かすことにも積極的だ。

「(子どもを?)連れ去られた直後、メンタルをやられて、5キロ痩せちゃって。それで「離婚は体力だ」と悟ってジム通いを頑張ったり、その後マラソンを始めたり。また、仕事に打ち込んだりするようにもなりました。だってどうにもならないのに、どっぷりそのことばかり考えてたら、つらいもん」

 快活で精力的な芽衣子さんが、子どもと引き離されて8年。その子は今年20歳の成人式を迎えた。自分から子どもを連れて出なかったのは、彼女のやさしさ故のことだ。しかし、なぜ夫は母親から子どもを奪ったのか?

私の話をよく聞いてくれた

――まずは、元夫との出会いについてお聞かせください。

 某博物館で非常勤職員として働きながら、大学院に通っていたときだから、私が30歳になる前。職場には博物館の専門職員が6人と、役所から出向してきた事務職員が4人。元夫は後者で、年は私よりも3つ上。

――職場結婚だったんですね。彼はどういう人でしたか?

 私が長身だからっていうのもあるけど、私より背が低くて、ブルース・ウィリスみたいに生え際が微妙な人。チビでハゲだから見た目はイマイチ。でも、彼、親思いのいい人だったんです。というか、当時はそう信じ切っていました。

――なんでまた彼を選んだのですか?

 職場内で、人付き合いに問題のある同僚がいたんです。お互い、その人にいきなり激高されることがしばしばあったので、「ああいうのは嫌だよね」って話してるうちに、「ああいい人だな」って思うようになりました。当時、彼は私の話をよく聞いてくれたんです。

――その後、プロポーズでもされたんですか?

 付き合い始めて1年後ぐらいに、妊娠したんです。私、結婚願望がまったくなかった。だけど、子どもは欲しかった。だから結婚せずにひとりで育てるか、それとも結婚するべきか、生まれるほんの直前まで本当に迷いに迷って……。最終的には、生まれてくる子どものことを考えて、入籍を選びました。

――出産はどのように?

 彼は「立ち会うのは絶対嫌だ」と言っていたので、私も「分娩室に来て」とは言わなかった。だから彼は、分娩室ではなくて外で待っていました。でも、いいんです。私は相手に行動を強制する人間ではないので。

――その後、愛は深まっていったんですか?

 それがね、生まれるまでの同棲していた時期から、すでに「ちょっと違うかも」っていう側面が見え始めていたんです。話を、よく聞いてくれなくなっていったんです。そして結婚したら、もっとひどくなって、話が通じなくなってしまった。

――産前産後の彼の態度はどうでしたか? その時期の態度を引きずる女性は多い気がします。

 確かに、その時期、大いに違和感を覚えた出来事がありました。出産前に私がお金を出して8人乗りのミニバンを新車で買っていたんです。自分たち家族3人だけじゃなくて、双方の家族も乗せる目的で。納車が産後になったんですけど、最初に乗せたのが、私と赤ちゃんが退院して家に帰るときじゃなくて、彼の家族だったんです。

――芽衣子さんが乗る前に、勝手に彼が先に乗っていたということですか?

 退院前に、彼が自分の家族を乗せて、息子が生まれた2〜3日後ぐらいに病院に来たんです。それだけじゃないですよ。出産費用の支払いも、私の自腹だったんです。あれっていったん立て替えた後に、自治体から補填されるでしょ。とはいえ、彼が率先して払ってくれてもいいじゃないですか。そんな感じで、産前産後に、いくつか違和感を覚えたんです。

――どういう違和感ですか?

 出産後、1カ月は、私と息子はすぐ近くの私の実家にいました。なので、彼も家に来るというか、ご飯を食べに来る。

――彼は、率先して子育てをしましたか?

 職場の関係で当時、そんなに早くは帰ってこられなかったので、基本、育児はせず、私の母が作ったご飯を食べに寄り、息子の顔を見て帰るだけでした。だけど、たまに早く来られたときは私の実家だけど、息子をお風呂に入れたり、おむつを替えたりはしていました。

――1カ月後に、3人で住み始めてからはどうでしょう?

 当時、私は自宅にずっといて、大学院の論文を書きながら子育てをしていました。出産当時、別の博物館に転籍していたのですが、産後もそこに籍を残しながら。一方、彼は公務員で役所内で職場異動していました。残業がないときは、帰ってきてから息子をお風呂に入れていました。そして毎週末、彼は息子を見せるため、自分の実家に帰っていました。そこに私もついていきました。

――彼は、そこそこ貢献していたと。

 まあね。ご飯を作れないのはそのままで私任せでしたが、お風呂に入れるとか、オムツ替えとかは全然やってましたよ。

 それより家計が問題でした。私は博物館のポストは3年きりだったので、産後1年とかで収入のアテはなくなるんです。とはいっても、彼は頼れない。「給料が少ない」ということしか言わず、給与明細すら見せてもらえなかったんです。

 家賃(車庫込みで月15万円、3DK)と4万円のみしか入れてくれなかったので、月々、家計がすごく大変でした。離婚裁判で、実際は月に20万円以上、自分の好きなように使っていたとしか思えないようなお給料をもらっていたことがわかったときには愕然としました。

――彼と仲が悪くなっていったのは、経済的なことが一番の問題だということですか?

 というよりも、経済的なことについての話し合いができない――ということ。ほんと一切話し合いができなくて、1日こういうことがあったという報告もなくて、私も途中で諦めて子どもの話しかしなかった。あと、子どもが生まれてから、徐々に本性が現れてきたというか。人の話を聞かないとか、実は彼自身も切れやすかったとか……というのが少しずつあらわになっていきました。

――例えば?

 最近よく、あおり運転の報道があるじゃないですか。あれと同じ。車に乗っていて、実際そういうこともあったし。レストランで料理に髪の毛が入ってたりとかしたら、もう店員を罵倒ですよね。子どもが生まれるまでは、そういう本性はほとんど出さなかった。けど、次第に超クレーマーということがあらわになって。だから、店員に向かって「店長呼べ」って絡み始めたりするのを見て私はあきれるしかなかった。

――芽衣子さんへの暴力はありましたか? ギャンブルとか飲酒といったものはどうですか?

 彼にDVは無理。少林寺拳法やっていたらしいけど、私より小柄だし。だからカッとはするけど、シュンとしていましたね。ギャンブルにはまってた形跡もないし、お酒は体質的に飲めない。ただ彼は秋葉原が大好きで、電気部品とかをなぜか、2つずつ買うんですよ。服もそうだし、脚立とかわけのわからないテーブルもそう。あとね、買ったものを忘れるんですよ。それで何回も同じものを買ったりしていました。

――そのほか、嫌な点はあったんでしょうか?

 他者との関わりがないんです。結婚生活中、友達という人に会ったことがない。とにかく社交性がないんです。彼の実家に行っても、子どもを地元の公園に遊びに連れていったりすることは一切ない。学校の行事も、私に言われればようやく行くけど、自分からは行かなかった。

――彼の子育ての方針は、どのようなものでしたか?

 息子に対しては超甘やかします。欲しいというものはなんでも買い与えてたし、自分が保育園に送るぐらいだったら休ませちゃってた。あと気になったのは、夜更かしですね。仕事で自分が帰ってきたときに息子が起きてるっていうのがうれしかったみたいで、息子は毎日夜更かし。それがずっと続きました。それで私が注意したら、「自分が大丈夫なんだから、子どもも大丈夫だろ」って。そうやって夫が夜更かしさせるから、朝、息子が起きられなくて。

――元夫に対して、向こうの両親はどういうふうに接していたんですか?

 母親も彼も、お互いの名前を“ちゃん付け”で呼んでいましたね。彼は「お母さん」と呼ばない。母親は息子に家事とかを全然させない。そうやって、彼自身が甘やかされて育ったので、料理にしろ、ほかの家事にしろ、ほとんどしなかった。夜更かしの原因もそう。「寝る時間は人それぞれだから」って言って、義母は夜更かしを容認していました。それを聞いて諦めました。

――とすると、家事・育児は、すべて芽衣子さんが?

 洗濯だけは、彼もやってましたね。でも洗濯機に、洗剤を適量の倍も入れるんですよ。お金入れないくせに、浪費だけはするんです。

――芽衣子さんの話しか聞いていないので、余計にそう思うのかもしれませんが、彼のいいところが全然見えてきません。

 私のほうは全部オープンだったんだけど、彼のほうは閉じてる。家を建てたとき、そのことを痛感しました。家のガラスを、ほぼ全部すりガラスにしたんです。普通のガラスは3階の部分のみ。外が見えないから、すごく息が詰まりました。でも、彼の実家もそうなんです。なぜそうなったかというと、自分たちの「信仰」を、よそから見られたくなくて、隠していたからかもしれません。

――とすれば、連れ去られたことの直接の原因というのは、その「信仰」に関係しているんですか。

 いや、それよりもまず彼と話し合えない状況がずっと続いていたということが問題の背景にあったんです。あとなんといっても、引き金になったのは東日本大震災。あのとき「こいつは人として本当に終わってる!」と思ったんです。

(後編につづく)

(西牟田靖)

「24年前、男性用の抱っこひもはなかった」「別れても一緒に子どもを育てる」離婚を取材するライターが語る、子育てと社会の変化

サイゾーウーマン連載のルポ「別れた夫にわが子を会わせる?」をまとめた著書『子どもを、連れて逃げました。』(晶文社)を、2020年11月に上梓したノンフィクションライターの西牟田靖さん。同書の出版を記念して、100人以上の女性に離婚・結婚観を聞いてきたフリーランスライター・上條まゆみさんとのトークイベントがB&Bで行われた。その内容をレポートする。

話してくれたことを、丸ごと受け止めたいと思った

上條まゆみさん(以下、上條) 『子どもを連れて、逃げました。』は、男性が描く女性の離婚ですが、8つのパターンが載っているので、読む人もどれかには共感できると思います。書き方として、質問に対して答えがあり、女性のセリフをそのまま載せているので、読み手としては、男性の方に解釈されるよりもストレートに伝わると思います。

西牟田靖さん(以下、西牟田) 今回の出版の経緯としては、この本の前に、『わが子に会えない』(PHP研究所)という本を出しました。子どもと別れて暮らす男性18人に取材してまとめた本です。そもそも自分が2014年3月に離婚に至り、引きちぎられるようなつらさがあったんです。心理的に、自分自身がずっと否定されるつらさがあったので、周りに助けを求めました。ネットで検索すると、共同親権運動ネットワーク、親子ネット、別居親の自助団体などが出てきて、交流会に足しげく出席するうちに、自分だけじゃないと知って楽になりました。

 僕の場合は、面会条件も公正証書を作って別れたのですが、交流会で会った人の中には、家に帰ると誰もいなくなっていたというケースもありました。旦那だけ追い出されて、向こうの親と妻が子どもを殺してしまったケースや、男性側の証言では、妻が浮気したのに、子どもの親権を得るためにDVの冤罪をかけられたというケースもありました。

 僕みたいに合意して離婚しても10キロ痩せるぐらいなのに、もっと大変な思いをしている方がいっぱいいて、ライターとしてこういう問題を伝えていかないといけないと思いました。それで、『わが子に会えない』の出版後に、4〜5本の媒体から取材を受けた中に「サイゾーウーマン」からのインタビューもありました。親子断絶防止法がどうなるか盛り上がった時期で、批判的なトーンでインタビューに来たんです。そのときに、「男性の言い分ばかり聞いているけれど、一緒に暮らしている女性に、なぜ話を聞かないのか?」と言われたのがきっかけで、連載が始まりました。冤罪とおぼしきケースや、一方的に妻が子を連れていったケースを集めようと思ってもなかなか集まらないので、少し広げて、同居親(子どもと同居している母親)というカテゴリーで書いてみることになったんです。

 Q&Aという形式をとったのは、男性である僕が口挟みながら書くと、伝わらない気がしたし、取材相手はわざわざ出てきてくれているので、話してくれたことを丸ごと受け止めたいと思ったからです。書籍化するときは、テーマを俯瞰的にするために、時系列をシャッフルして、テーマの説明と解説を書き、前書きと後書きをつけました。テーマを串刺しにするために、自分自身の生い立ちを書くことで、まとまりをつけました。

 連載時にはモラハラや暴力を受けて、大変な思いをして話してくれている、その人たちを傷つけたくないという思いで、自分の言葉をあまり入れませんでした。自分は別居親という立場だから、取材相手が僕を別れた夫と重ね合わせて、僕が何げなく言った言葉が不用意なトラウマを呼び起こすことはないか気にして、プレーンな状態で書きました。それで、書いている途中に、自分が公平に書いているつもりでも、傷つけてしまったりしないか考えて、書いては消しをずっとやっていて時間がかかってしまいました。

上條 西牟田さんは、ステップファミリー(子連れ再婚家庭)で育って、いろんな意味で当事者でいらっしゃいますね。

西牟田 うちは上に2人、兄と姉がいて、父と母それぞれの連れ子なんですよ。上の2人は別れた側との交流がほとんどない。そういう自分が書けば、単なる別居親ではなく、深みを出せるかと思いました。

上條 世の中には、子どもが親に会えないとか、いろんな問題があります。私も離婚家庭に育っているのですが、当時の風潮でしょうか、父親に定期的に面会するということはありませんでした。私は3人きょうだいで、小学校高学年くらいのときに父と離れたので、その後、高校生くらいになってから自分で父親に連絡して会いに行きました。でも、妹たちは小さいときに父と離れたためか、あまり父の記憶がなかったようで、特に会いたいとは思わなかったようです。ですから、離婚は子どもの頃から身近なところにあったんです。

 父親が再婚していたので、私もステップファミリーに当事者性を持って聞けるかなと思います。ひとつ気をつけているのは、「わかるわかる、そうだよね」となりすぎるのは、よくないということです。一方の話だけになってしまわないよう、ちょっと俯瞰するように気をつけています。かわいそうだよね、というまとめ方は、その後幸せになれない。話を聞く中で、私も自分の経験を反すうして、負の経験をどうまとめようか考えています。プライベートな話を聞かせてくれる方には、感謝しかないですね。みんなリスペクトしています。学びになります。

西牟田 みんなたくましいですよね。『わが子に会えない』のときは、子どもと会えない人に対して、「そうだそうだ」と共感して乗っかっていたので、客観性があまりなかったんですが、いろいろな人の話を聞いたり法制を知って、客観的に見られるようになってきました。あのときの男性の話は、実際はどうだったんだろうーーと思い返したりするようにもなりました。

上條 事実はあるけれど、人によっていろんな見方があって、どれも正しいんですよね。

上條 私の頃は、まだ寿退社という言葉が生きていましたし、学生時代の友達で、今もずっと仕事を続けている人は少ないですね。そういう時代だったので、男の人が子育てをすることもあまりなかった。24歳の長男が0〜1歳の頃、1996年頃には、男性用の抱っこひもはありませんでした。6歳下の子が生まれた17年くらい前、2002年頃からマクラーレンのベビーカーがはやりだしました。バーが高くて、男性にも合うベビーカーです。

西牟田 『昭和44年生まれ わが世代』(河出書房新社)という本を見ていたら、「保育園第一期生」とか「電車で五駅離れた『中野』の保育園まで通っていた」と書いてあったんですよ。その頃、「保育園に入れるのは、子どもがかわいそうだ」という話があって、確かにまだごく一部でした。今は男性が子育てに関わったり、保育園に連れていったり、変化はかなりあったということですね。

上條 「離婚するからといって、責任から逃れてもらっちゃ困る」という女性が増えているように思います。

西牟田 僕の子どもは2010年生まれですが、3分の1くらいは父親が保育園への送り迎えをしていました。僕が子どもの頃は、保育園に通っている子どもは、周りにはほとんどいなかった。

上條 世の中が変わり、子育ても変わってきましたね。

西牟田 僕も、子育てをするとわが子により愛着を感じるようになりました。時代が変わったから今、共同養育、共同親権という話につながってきているのではないでしょうか。

上條 法整備されそうですが、されても、「会えるか」というのは別ですね。

西牟田 結婚しているときに、いかに一緒に子育てしているか、共同養育が下地としてあってこその、共同親権なのかなと思います。

上條 いい方向に向かうことを願っているんですけど。

西牟田 共同養育を前提に離婚を考える人にとっては、共同親権が法制化されれば、世の中が少しずつ変わり、いい方向に向かっていくかなと思います。

上條 教科書やドラマの描写も変わりますね。娘がアメリカ留学をしていたことがあるのですが、向こうでは離婚やステップファミリーも多かったと聞いています。子どもたちの世代がドラマとか漫画を通して知るようになれば、変わっていくのかなと思います。

西牟田 1979年の映画『クレイマー、クレイマー』では、日本の親権にあたるものを争っていて、どっちが面倒を見るのかやりとりし、母親が親権を諦めるが、交流は続く、という話です。2019年の映画『マリッジ・ストーリー』では、共同で育てること自体はすでに前提としてあって、生き別れになるというステージでは全然ないんですよね。日本も面会交流調停の増え方を見ても、別れても一緒に子どもを育てるという動きになってきていると思います。法制化はいつ実現するかわからないですが、日本でも『マリッジ・ストーリー』みたいなドラマは出てくるだろうし、楽観視しています。

上條 私自身も学びの過程なのですが、「FRaU」(講談社)の連載「子どものいる離婚」を通じて伝えたいことは、「失敗しても、やり直せるよ」ということです。離婚を勧めるのではありません。長い結婚生活の後で、ひとりに戻るのは心細かったけれど、取材する中で、離婚が思っていたほど怖くないと気づいたのです。

 お金の問題は重要で、パートや扶養に関わるので離婚をせめぎ合ったりするし、旦那さんから「離婚してくれ」と言われる人もいます。どん底から立ち直っていく人もいます。何歳でも頑張り直すことはできるし、「幸せになろうよ」って思います。失敗を肯定したい気持ちが強くて「離婚したっていいじゃない」という気持ちも、「しなくて済むならしないほうがいいよね」という気持ちもあります。結婚生活を続けながら失敗を回復していくこともできたかもしれない。

西牟田 本の感想で、「自分は絶対会わせないと思っていたんだけど、いろんな人のケースを読んで、自分が偏っていたと知った。俯瞰できてよかった」「渦中のとき読んでたら、もっと早く楽になったかも」という声もあって、別れようか悩んでいる人はもちろんですが、結婚前の予習として、人生を切り開く材料として読んでもらえたらと思っています。

家庭が壊れるのは男のせいなのか? 男性特有の「離婚のうしろめたさ」とその解放

 離婚経験を持つ13人の男性に、その経緯や顛末を聞いたルポルタージュ「ぼくたちの離婚」(角川新書/KADOKAWA)が刊行された。

 もともとは女性向けウェブメディア「女子SPA!」の連載企画だが、夫側からの一方的な離婚劇の総括という体裁によって、これまであまり語られることがなかった離婚男性の胸の内が赤裸々に発露。新たなエピソードが公開されるたびに、ネットを中心に大きな話題を集めた。一体、中年男の離婚話が、なぜここまで人を惹きつけるのだろうか。新書刊行を記念して著者の稲田豊史氏に同作に込めた思いを聞いた。

離婚の本が本棚にあるとマズイので…Kindle版が売れてます

——出版後の反響はいかがですか?

稲田 おかげさまで“刺さる”という声が続出です(笑)。ただ、男性読者は、こっそり読んでいるみたいですね。自宅の本棚に置いて奥さんにヘンに疑われるのが面倒だからか、発売直後はKindle版の方が伸びていたようです。

——男性目線で離婚を語る本というのは、あまりなかったですからね。

稲田 そうなんです。だからこそ反応もたくさんいただきました。そこで感じたのは、この本は、読む人の鏡になっているんじゃないかということ。ここまで激しい経験はしていなくても「ここに書かれているのは自分だ」と考える人がたくさんいたんです。でも、それを男性が口に出して語ると「へぇ、お前んとこってそうなんだ」と見られてしまうから、語る機会がないんですよね。まえがきにも書いたんですが、この企画はもともと自分も参加していた「バツイチ会」という離婚経験者の集まりが原点です。男性が自身の離婚についてもっと気楽に語り合う場所があってもいいんじゃないか、そういう思いではじまっています。

——確かに離婚について多くを語らない男の美学のようなものはある気がします。

稲田 そうそう。でも、それって別にかっこいいというポジティブなものではなく、過ぎたことをグチグチいうのはみっともないという考えなんですよね。これが社会問題なんです。令和の時代になってもいまだに男は昭和的な呪縛にからめとられている。家庭というのは男が守るものであって、それが崩壊したのは男が情けないからだと。もちろん、実際はそんなことはないと頭ではわかっていると思います。でも、30~40代の団塊ジュニアかその少し下の世代くらいまでは親の価値観の影響があるから、離婚に対する後ろめたさが大きいんですよ。僕自身も離婚経験があるんですが、友達レベルの会話でも悪気なく「お前がチャラチャラしてるから、嫁さんが出てっちゃったんだろ?」とか、軽く言われがちじゃないですか。女を下げるよりも、男を下げておいたほうが丸くおさまるみたいなね。そうなると男は吐き出す場がなくなり、溜めていく一方になってしまう。これはよくないんじゃないかなと思っていました。

——本書は「女子SPA!」での連載をまとめたものですが、もともと女性に読んでもらう想定だったのですか?

稲田 もともとの企画では、女性読者を想定していなかったんです。もちろん、読んでいただければうれしいけど、どちらかといえば男性読者に共感してもらうイメージでした。でも、飲みの席などでいろんな編集の人に「こんな企画があるんだけど」と話しても、あまり反応がなくて、はじめて本気で食いついてきたのが、女子SPA!の担当編集だったんです。

——どんなところに興味を惹かれたのでしょうか。

稲田 女子SPA!は担当編集も編集長も女性なんですが、離婚について男の人が女の前で本音を言ってくれないと言うんです。すごく奥さんを憎んでいるのか、それともすごく後悔をしているのか、結局どう思っているのかぜんぜんわからないと。だから、女性は男性の気持ちが知りたいんだと言っていました。僕からすると意外な意見だったんですが、実際にこの本を取材や書評で取り上げてくれたのも、8割方が女性向けのメディアでした。正直、ここまで偏るとは思いませんでしたね。

——書籍の内容は特に女性側に寄ったものというわけではないですよね。

稲田 そうなんですよ。いろいろなエピソードがある中で、明らかに夫が悪いケースもあれば、これは奥さんに原因があるだろうというものもある。基本的には、男が勝手なことを言っているわけで、読む人によっては女性が不快になるかもなとも思っていたので、ここまで女性読者が興味をもってくれるとは思っていませんでしたね。

——実際に読んでみると、男だから夫側、女だから妻側に感情移入するというようなシンプルな構造でもなかったように思います。

稲田 そうですね。それは、描かれているのが“人間”だからだと思います。例えば、女性の読者で「家族が得意じゃない」という離婚男性にすごく共感したという方がいて、一方でその感覚はまったく理解できないという男性読者もいる。「牛」のエピソード(結婚の挨拶に向かった同棲相手の実家近くで見た牛小屋が生理的に受け入れられず、関係を解消したデザイナーの話)も連載時に反響がすごくあったものなんですが、まったくわかりませんという人と、わかりますという人で真っ二つでした。そういう個々人の感覚がエピソードによって浮き彫りになってくるのはおもしろかったですね。

——どのエピソードに共感するかで、読む側の鏡になっているわけですね。

稲田 だからこそ、男性は具体的な感想をくれないんですよ。「ぼくたちの」という男性一人称のタイトルで距離がとれるからか、女性はSNSでも細かなエピソードをあげてしっかり感想を書いてくれるんだけど、男性は「ホラーですね」とか「刺さりました」とかふわっとしたことしか書かない(笑)。その代わり、facebookのDMなどで個別に「実は僕も……」みたいな具体的な感想を言ってくる。男はズルいなぁと思いましたね。

——たくさんの離婚経験者を取材したことは、稲田さんご自身の離婚を振り返るきっかけにもなりましたか?

稲田 そうですね。でもそれは新たな気づきというよりも再確認という感覚です。いろんな人がこれを読んで、自分の一部がそこに書いてあると感じるように、僕にとっても、すべてのエピソードでどこかしらに共感性がありました。そういう意味では、この企画の発端となった「バツイチ会」と同じ効用がありましたね。話すことで解決されるわけではないけど、このいびつな形の苦痛は自分オリジナルのものではなく、他の人も経験している類のことなのだとわかる安心感。実際、取材のたびに「それ、すごくわかります」とたくさん言ったし、相手から「そうですよね!」と言われて、共感しあっていました。

——なんか、カウンセリングのようでもありますね(笑)

稲田 実際、取材対象の方にそう言われたこともあります。カウンセリングって、話を聞くことが大事なんですよね。あなたの言っているその“ごちゃごちゃ”に輪郭づけるとこういうことで、それは私にもよくわかると認めてあげること。だから、取材の場では僕が自分の話をすることも多かったです。こっちが無傷ではフェアではないですからね。取材の形としてはちょっと変わっているかもしれません。

——取材対象の方たちも、話を聞いてほしいモードなんでしょうか?

稲田 一応、本当にわずかな謝礼はお支払いしているんだけど、そんなのどうでもいいから、俺の話を聞いてくれって感じですね(笑)。で、話しきってすっきりするという。ことの顛末を頭から最後まで誰かに話したことがない人がほとんどなんですよ。だって、おじさんの元妻の出会いから別れまでじっくり聞きたい人なんて誰もいないじゃないですか。友達だって、いいとこ15分くらいで別の話題に切り替わるでしょう。それを相槌を打ちながら、一切否定せずにすべて絞り切るというのがよかったんだと思います。

——取材時間もかなりかかっていそうですね。

稲田 長いときは6時間以上話を聞いてます。みんな話のプロではないから、順序立てて話したりできないじゃないですか。だからそこは自然に任せて、出てきたエピソードを頭の中で順序立てて組み立てながら聞いていきました。6時間の人の場合、3時間くらい聞いてようやく、こことここの話がまだ出てないなってことが見えてきたので、補足するようにそこを聞いて埋める。でも、その穴埋め作業は相手が一通り話し終わるまで待ちますね。とにかく話の腰を折らないですべて吐き出してもらうことが大事で、すべて聞き切ったところでポロポロとディティールの話が出てきたりするんです。

——疲れないですか?

稲田 すっごい疲れますよ(笑)。しかもテープを起こすときにまた6時間の音源を聞くから二度疲れます。まあ、いい疲れだなと思ってやっていますけどね。

——本作はルポの形式をとっていますが文章にする段階ではどんなことを意識しましたか。

稲田 この連載が決まって「バツイチ会」に招集をかけたんですよ。そこでみなさんにも意見を出してもらったんですが、ディティールが大事じゃないかって話になったんですよね。事の推移だけ書いてもダメで、例えば、元奥さんの実家の場所や、男が何を目的に上京してきたかとかの細部ですね。だから、原稿では身バレを防ぐために固有名詞は変えているけど、地名なら東京から見ての都市の規模感とか、その本質の部分は変えていません。対象者の職業についても、忙しさや働き方、ステータスといった、変えてはいけない部分は残しているので、その改変のさじ加減にはかなり時間をかけています。

——エピソードに具体性がすごくあったので、周囲の人ならば誰の話かわかってしまいそうだなと思いました。

稲田 ほとんど変えていないものも多いので、その人に近い人なら全員がわかると思います。だからこそリアリティを持っているし、まえがきにも書いたんですが、書籍化の段階で掲載しないでくれといわれたケースもありました。

——いまでは再婚されている方も多かったですしね。

稲田 出てくれた13人のうち8人は再婚しています。みんな一番苦しい時期は過ぎていたので、取材を受けてくれたんだと思います。渦中の人だったら話せないでしょう。離婚直後は、「もう二度と結婚しない」という人と、「すぐに次へ行きたい」という2パターンに分かれるんですけど、二度と結婚したくない人は、相手云々ではなく自分が日本の婚姻制度に合わないと感じてしまった人。後者は、婚姻制度には文句がないが、相手を間違えたと思っている人です。

——そういう意味でも、やはり離婚について男性の語りしろはまだまだありそうですね。

稲田 そうなんです。特に田舎だとおおっぴらに離婚の話がされることはほとんどありません。でも、よくよく聞いてみると、離婚経験のある親族がいたりするんですよね。それを知らされていないから、一族のなかで自分だけが離婚してしまうのは恥だと思って、我慢を続けてしまうケースもある。そういう事態にならないように、もう少し我々の世代から離婚をオープンにしていけないかと思っているんです。

——世間体を気にして離婚を我慢する必要はないんじゃないか、と。

稲田 そうそう。決して離婚を推奨するわけではないけど、限界まで我慢して自分が壊れてしまう必要はない。離婚は治療なんです。よくない夫婦関係というのは病気の状態だから、我慢しても意味がない。我慢しても悪化するだけだから、這いつくばってでも病院に行って早い段階で薬をもらわないと。極端な話、離婚を不名誉な犯罪歴みたいに思ってる人もいるじゃないですか。歴をつけたくないから頑張らないとって。その認識はよくないから変えていかないといけないと思います。

——自分が置かれた状況を俯瞰してみるためにも、「ぼくたちの離婚」でいろんなエピソードを知ることは役立ちそうです。

稲田 そうですね。それと、離婚“後”について語られることもあまりないんですよね。実際は、そのあとに幸せに暮らしてる人もたくさんいるのに。だから離婚というものが、いつまでも悲劇のままで終わってしまう。この書籍を通じて、もっと男性がオープンに離婚を語れるような社会になっていけばいいなと思います。

稲田豊史
1974年生まれ。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年よりフリーランス。著書に『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(PLANETS)、『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)。「サイゾー」「SPA!」などで執筆。

家庭が壊れるのは男のせいなのか? 男性特有の「離婚のうしろめたさ」とその解放

 離婚経験を持つ13人の男性に、その経緯や顛末を聞いたルポルタージュ「ぼくたちの離婚」(角川新書/KADOKAWA)が刊行された。

 もともとは女性向けウェブメディア「女子SPA!」の連載企画だが、夫側からの一方的な離婚劇の総括という体裁によって、これまであまり語られることがなかった離婚男性の胸の内が赤裸々に発露。新たなエピソードが公開されるたびに、ネットを中心に大きな話題を集めた。一体、中年男の離婚話が、なぜここまで人を惹きつけるのだろうか。新書刊行を記念して著者の稲田豊史氏に同作に込めた思いを聞いた。

離婚の本が本棚にあるとマズイので…Kindle版が売れてます

——出版後の反響はいかがですか?

稲田 おかげさまで“刺さる”という声が続出です(笑)。ただ、男性読者は、こっそり読んでいるみたいですね。自宅の本棚に置いて奥さんにヘンに疑われるのが面倒だからか、発売直後はKindle版の方が伸びていたようです。

——男性目線で離婚を語る本というのは、あまりなかったですからね。

稲田 そうなんです。だからこそ反応もたくさんいただきました。そこで感じたのは、この本は、読む人の鏡になっているんじゃないかということ。ここまで激しい経験はしていなくても「ここに書かれているのは自分だ」と考える人がたくさんいたんです。でも、それを男性が口に出して語ると「へぇ、お前んとこってそうなんだ」と見られてしまうから、語る機会がないんですよね。まえがきにも書いたんですが、この企画はもともと自分も参加していた「バツイチ会」という離婚経験者の集まりが原点です。男性が自身の離婚についてもっと気楽に語り合う場所があってもいいんじゃないか、そういう思いではじまっています。

——確かに離婚について多くを語らない男の美学のようなものはある気がします。

稲田 そうそう。でも、それって別にかっこいいというポジティブなものではなく、過ぎたことをグチグチいうのはみっともないという考えなんですよね。これが社会問題なんです。令和の時代になってもいまだに男は昭和的な呪縛にからめとられている。家庭というのは男が守るものであって、それが崩壊したのは男が情けないからだと。もちろん、実際はそんなことはないと頭ではわかっていると思います。でも、30~40代の団塊ジュニアかその少し下の世代くらいまでは親の価値観の影響があるから、離婚に対する後ろめたさが大きいんですよ。僕自身も離婚経験があるんですが、友達レベルの会話でも悪気なく「お前がチャラチャラしてるから、嫁さんが出てっちゃったんだろ?」とか、軽く言われがちじゃないですか。女を下げるよりも、男を下げておいたほうが丸くおさまるみたいなね。そうなると男は吐き出す場がなくなり、溜めていく一方になってしまう。これはよくないんじゃないかなと思っていました。

——本書は「女子SPA!」での連載をまとめたものですが、もともと女性に読んでもらう想定だったのですか?

稲田 もともとの企画では、女性読者を想定していなかったんです。もちろん、読んでいただければうれしいけど、どちらかといえば男性読者に共感してもらうイメージでした。でも、飲みの席などでいろんな編集の人に「こんな企画があるんだけど」と話しても、あまり反応がなくて、はじめて本気で食いついてきたのが、女子SPA!の担当編集だったんです。

——どんなところに興味を惹かれたのでしょうか。

稲田 女子SPA!は担当編集も編集長も女性なんですが、離婚について男の人が女の前で本音を言ってくれないと言うんです。すごく奥さんを憎んでいるのか、それともすごく後悔をしているのか、結局どう思っているのかぜんぜんわからないと。だから、女性は男性の気持ちが知りたいんだと言っていました。僕からすると意外な意見だったんですが、実際にこの本を取材や書評で取り上げてくれたのも、8割方が女性向けのメディアでした。正直、ここまで偏るとは思いませんでしたね。

——書籍の内容は特に女性側に寄ったものというわけではないですよね。

稲田 そうなんですよ。いろいろなエピソードがある中で、明らかに夫が悪いケースもあれば、これは奥さんに原因があるだろうというものもある。基本的には、男が勝手なことを言っているわけで、読む人によっては女性が不快になるかもなとも思っていたので、ここまで女性読者が興味をもってくれるとは思っていませんでしたね。

——実際に読んでみると、男だから夫側、女だから妻側に感情移入するというようなシンプルな構造でもなかったように思います。

稲田 そうですね。それは、描かれているのが“人間”だからだと思います。例えば、女性の読者で「家族が得意じゃない」という離婚男性にすごく共感したという方がいて、一方でその感覚はまったく理解できないという男性読者もいる。「牛」のエピソード(結婚の挨拶に向かった同棲相手の実家近くで見た牛小屋が生理的に受け入れられず、関係を解消したデザイナーの話)も連載時に反響がすごくあったものなんですが、まったくわかりませんという人と、わかりますという人で真っ二つでした。そういう個々人の感覚がエピソードによって浮き彫りになってくるのはおもしろかったですね。

——どのエピソードに共感するかで、読む側の鏡になっているわけですね。

稲田 だからこそ、男性は具体的な感想をくれないんですよ。「ぼくたちの」という男性一人称のタイトルで距離がとれるからか、女性はSNSでも細かなエピソードをあげてしっかり感想を書いてくれるんだけど、男性は「ホラーですね」とか「刺さりました」とかふわっとしたことしか書かない(笑)。その代わり、facebookのDMなどで個別に「実は僕も……」みたいな具体的な感想を言ってくる。男はズルいなぁと思いましたね。

——たくさんの離婚経験者を取材したことは、稲田さんご自身の離婚を振り返るきっかけにもなりましたか?

稲田 そうですね。でもそれは新たな気づきというよりも再確認という感覚です。いろんな人がこれを読んで、自分の一部がそこに書いてあると感じるように、僕にとっても、すべてのエピソードでどこかしらに共感性がありました。そういう意味では、この企画の発端となった「バツイチ会」と同じ効用がありましたね。話すことで解決されるわけではないけど、このいびつな形の苦痛は自分オリジナルのものではなく、他の人も経験している類のことなのだとわかる安心感。実際、取材のたびに「それ、すごくわかります」とたくさん言ったし、相手から「そうですよね!」と言われて、共感しあっていました。

——なんか、カウンセリングのようでもありますね(笑)

稲田 実際、取材対象の方にそう言われたこともあります。カウンセリングって、話を聞くことが大事なんですよね。あなたの言っているその“ごちゃごちゃ”に輪郭づけるとこういうことで、それは私にもよくわかると認めてあげること。だから、取材の場では僕が自分の話をすることも多かったです。こっちが無傷ではフェアではないですからね。取材の形としてはちょっと変わっているかもしれません。

——取材対象の方たちも、話を聞いてほしいモードなんでしょうか?

稲田 一応、本当にわずかな謝礼はお支払いしているんだけど、そんなのどうでもいいから、俺の話を聞いてくれって感じですね(笑)。で、話しきってすっきりするという。ことの顛末を頭から最後まで誰かに話したことがない人がほとんどなんですよ。だって、おじさんの元妻の出会いから別れまでじっくり聞きたい人なんて誰もいないじゃないですか。友達だって、いいとこ15分くらいで別の話題に切り替わるでしょう。それを相槌を打ちながら、一切否定せずにすべて絞り切るというのがよかったんだと思います。

——取材時間もかなりかかっていそうですね。

稲田 長いときは6時間以上話を聞いてます。みんな話のプロではないから、順序立てて話したりできないじゃないですか。だからそこは自然に任せて、出てきたエピソードを頭の中で順序立てて組み立てながら聞いていきました。6時間の人の場合、3時間くらい聞いてようやく、こことここの話がまだ出てないなってことが見えてきたので、補足するようにそこを聞いて埋める。でも、その穴埋め作業は相手が一通り話し終わるまで待ちますね。とにかく話の腰を折らないですべて吐き出してもらうことが大事で、すべて聞き切ったところでポロポロとディティールの話が出てきたりするんです。

——疲れないですか?

稲田 すっごい疲れますよ(笑)。しかもテープを起こすときにまた6時間の音源を聞くから二度疲れます。まあ、いい疲れだなと思ってやっていますけどね。

——本作はルポの形式をとっていますが文章にする段階ではどんなことを意識しましたか。

稲田 この連載が決まって「バツイチ会」に招集をかけたんですよ。そこでみなさんにも意見を出してもらったんですが、ディティールが大事じゃないかって話になったんですよね。事の推移だけ書いてもダメで、例えば、元奥さんの実家の場所や、男が何を目的に上京してきたかとかの細部ですね。だから、原稿では身バレを防ぐために固有名詞は変えているけど、地名なら東京から見ての都市の規模感とか、その本質の部分は変えていません。対象者の職業についても、忙しさや働き方、ステータスといった、変えてはいけない部分は残しているので、その改変のさじ加減にはかなり時間をかけています。

——エピソードに具体性がすごくあったので、周囲の人ならば誰の話かわかってしまいそうだなと思いました。

稲田 ほとんど変えていないものも多いので、その人に近い人なら全員がわかると思います。だからこそリアリティを持っているし、まえがきにも書いたんですが、書籍化の段階で掲載しないでくれといわれたケースもありました。

——いまでは再婚されている方も多かったですしね。

稲田 出てくれた13人のうち8人は再婚しています。みんな一番苦しい時期は過ぎていたので、取材を受けてくれたんだと思います。渦中の人だったら話せないでしょう。離婚直後は、「もう二度と結婚しない」という人と、「すぐに次へ行きたい」という2パターンに分かれるんですけど、二度と結婚したくない人は、相手云々ではなく自分が日本の婚姻制度に合わないと感じてしまった人。後者は、婚姻制度には文句がないが、相手を間違えたと思っている人です。

——そういう意味でも、やはり離婚について男性の語りしろはまだまだありそうですね。

稲田 そうなんです。特に田舎だとおおっぴらに離婚の話がされることはほとんどありません。でも、よくよく聞いてみると、離婚経験のある親族がいたりするんですよね。それを知らされていないから、一族のなかで自分だけが離婚してしまうのは恥だと思って、我慢を続けてしまうケースもある。そういう事態にならないように、もう少し我々の世代から離婚をオープンにしていけないかと思っているんです。

——世間体を気にして離婚を我慢する必要はないんじゃないか、と。

稲田 そうそう。決して離婚を推奨するわけではないけど、限界まで我慢して自分が壊れてしまう必要はない。離婚は治療なんです。よくない夫婦関係というのは病気の状態だから、我慢しても意味がない。我慢しても悪化するだけだから、這いつくばってでも病院に行って早い段階で薬をもらわないと。極端な話、離婚を不名誉な犯罪歴みたいに思ってる人もいるじゃないですか。歴をつけたくないから頑張らないとって。その認識はよくないから変えていかないといけないと思います。

——自分が置かれた状況を俯瞰してみるためにも、「ぼくたちの離婚」でいろんなエピソードを知ることは役立ちそうです。

稲田 そうですね。それと、離婚“後”について語られることもあまりないんですよね。実際は、そのあとに幸せに暮らしてる人もたくさんいるのに。だから離婚というものが、いつまでも悲劇のままで終わってしまう。この書籍を通じて、もっと男性がオープンに離婚を語れるような社会になっていけばいいなと思います。

稲田豊史
1974年生まれ。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年よりフリーランス。著書に『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(PLANETS)、『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)。「サイゾー」「SPA!」などで執筆。

岩崎良美の離婚報道に「どうでもいい」も、離婚後に愛猫手放した理由が大炎上!

 2011年10月に3歳年上の産婦人科医と結婚した歌手の岩崎良美が、昨年離婚していたと6月20日発売の「週刊文春」(文藝春秋)が報じた。

 交際5カ月で結婚へと至った岩崎。記事によれば、2人は“動物好き”という共通点で急接近し、お互いが飼っていた猫と一緒にリフォームした新居で生活を始めたそう。だが、結婚7年目にして夫婦仲に亀裂が走ったという。記事では岩崎の知人が、「ご主人が岩崎の“自由奔放さ”に呆れて三下り半を突き付けた。立場ある名医の妻役をうまくこなせなかったようです』と知り合いに譲ったみたいです」(原文ママ)と離婚理由を証言。さらに岩崎本人も同誌貴社の質問に、離婚を認め「性格の不一致です」と答えていた。

 この記事に対して、ネットでは「過去の人でしょ?」「どうでもいいよね」「金持ちと結婚するからだよ」「興味なし!」と、この離婚劇にあまり関心がない様子。だが、その一方で、離婚よりも記事内の“ある一文”に注目がいき、現在大炎上しているのだ。

「記事では飼っていた3匹の猫を岩崎さんが『結婚生活を思い出すのがイヤだから』という理由で知人に譲ったということが書かれていたんですが、これが離婚の件よりも大炎上でして(笑)。まあ、猫好きの岩崎さんの強がりで言ったという可能性もありますが、それにしてもひどい理由ですよね……。ネットでも『だったら飼うな!』『何が動物好きだよ!』『猫に罪はなくない?』といった批判が殺到していますよ。昨今、動物についの問題は炎上しやすいですから。あの猫好きで有名な爆笑問題の田中裕二さんも山口もえさんと結婚する際、飼ってた2匹の猫を実姉に預けたという話に、ネットは激怒し好感度を下げてましたからね。岩崎さんも今後『離婚を思い出したくなくて猫捨てた人!』と後ろ指指されることになりそうですね」(芸能ライター)

 過去には愛猫にフランス語で話掛けていると、猫への深い愛情を見せていたが……。離婚は2人の都合だけに、この手放した理由はいかがなものだろうか。

ビートたけし、ようやく離婚成立もパートナー女性の大暴走に現場は戦々恐々

 ビートたけしが妻幹子さんと協議離婚していたことを、一部スポーツ紙が報じた。

 たけしと幹子さんは1980年に結婚(正式な婚姻届は83年)し、1男1女がいる。以前から、話し合いが続けられており、このほど結論が出たという。

「幹子さんが、これから発売する一部週刊誌の直撃取材に対して離婚が成立したことを明かしているようだ。たけしがほとんどの財産を幹子さんに分与するということで話し合いが円滑に進んだ模様」(芸能記者)

 たけしは昨年3月いっぱいで、オフィス北野を独立し、自分が代表を務める「T.Nゴン」に所属しているが、実質的に同社を仕切るのは、長年のパートナー関係にある18歳年下の女性であることはもはや周知の事実だ。

「そのパートナーはたけしを独り占めしたいようで、20年以上たけしを担当していた50代の女性専属スタイリストは、すったもんだがあって退職。もはやたけしの周囲には、その女性しかいない。夫人との離婚成立で、たけしのパートナーへの“依存度”がより強くなりそう」(同)

 離婚が成立したことで、危惧されるのは、パートナーのさらなる暴走だというのだ。

「ただでさえ、自分が“実権”を握ってからたけしのギャラをつり上げてしまった。離婚成立で財産をほとんど持って行かれ、いよいよもっと稼がなくてはならなくなったので、さらなるギャラのつり上げや、無理難題の吹っかけがあるのでは、と現場は戦々恐々。とはいえ、たけしは徐々に番組の数字が落ちているので、あまりパートナーがやり過ぎると“リストラ”されてしまうかもしれません」(テレビ局関係者)

 離婚によって、たけしを取り巻く状況が激変しそうだ。