7月8日に卓球の元台湾代表の江宏傑氏との離婚が成立した卓球女子五輪メダリストの福原愛さんが、同月26日に放送されるフジテレビの東京五輪中継「卓球 男女シングルス」と「卓球 混合ダブルス決勝」で競技コメンテーターを務めて話題を集めている。
福原さんはスタジオでコメンテーターを担当したが、スポーツ紙の報道によると、フジテレビは「福原さんは選手として素晴らしい実績を残されていて、…
7月8日に卓球の元台湾代表の江宏傑氏との離婚が成立した卓球女子五輪メダリストの福原愛さんが、同月26日に放送されるフジテレビの東京五輪中継「卓球 男女シングルス」と「卓球 混合ダブルス決勝」で競技コメンテーターを務めて話題を集めている。
福原さんはスタジオでコメンテーターを担当したが、スポーツ紙の報道によると、フジテレビは「福原さんは選手として素晴らしい実績を残されていて、…
ベテラン芸能リポーターの城下尊之氏が、とかくあおり・あおられがちな芸能ニュースをフラットな目線で、おちついて解説!
――7月24日、篠原涼子と市村正親が離婚を発表しましたね。2人は2005年に結婚。2人の子に恵まれ、一時は「おしどり夫婦」なんて言われていたのに。
24日といったら、つい先週末のニュースなのに、なんだかもうずいぶん昔のことのようになっちゃいました…
開催前はたくさんのゴタゴタに見舞われ、今なお開催反対の声も多い東京オリンピック。しかし、いざ開幕すると日本人選手のメダルラッシュもあり、それなりの盛り上がりを見せている。そんな五輪フィーバーに隠れるように、多くの芸能人たちが、離婚や結婚を発表している。
開会式の翌日となる7月24日には、市村正親と篠原涼子が離婚を発表。7月26日には、尾野真千子が再婚していたと『NEWSポス…
16日にとんねるずの石橋貴明のユーチューブチャンネル『貴ちゃんねるず』で離婚を発表した石橋貴明と女優の鈴木保奈美。その2日後の18日、石橋がパーソナリティーを務めるTBSラジオ『日本生命 presents 石橋貴明のGATE7』が放送されたが、事前収録のため離婚については触れず。25日以降の放送で離婚について言及するかが注目された。
「今回の離婚劇ですっかり“悪者”になってし…
俳優・市村正親と女優・篠原涼子が27日、離婚を発表した。
2人は今月24日に都内にある区役所に離婚届を提出。長男と次男の親権は市村が持ち、慰謝料、財産分与はないという。
市村と篠原は舞台での共演をキッカケに親交を深めて交際に発展し、05年12月に結婚。08年に第一子となる長男が、12年には次男が誕生した。芸能ジャーナリストの竹上光氏は語る。
「…
ベテラン芸能リポーターの城下尊之氏が、とかくあおり・あおられがちな芸能ニュースをフラットな目線で、おちついて解説!
――7月16日、とんねるずの石橋貴明が公式YouTubeチャンネル「貴ちゃんねるず」で、鈴木保奈美との離婚を発表しました。
1998年に結婚してから23年目の離婚ですね。動画に掲載されたコメントによると「子育てが一段落したことを機に 今後は事務所社長…
16日にYouTubeで離婚を発表したとんねるずの石橋貴明と女優の鈴木保奈美だが、当初の予告通り、翌17日午前9時に予告通り動画を削除した。
動画では《私事で恐縮ですが 私共 石橋貴明と鈴木保奈美は離婚したことをご報告致します》と字幕で報告。さらに、離婚理由について《子育てが一段落したことを機に今後は事務所社長と所属俳優として新たなパートナーシップを築いて参ります》などと説…
ベテラン芸能リポーターの城下尊之氏が、とかくあおり・あおられがちな芸能ニュースをフラットな目線で、おちついて解説!
――7月8日、福原愛と台湾の卓球選手・江宏傑の離婚が成立したことが発表されましたね。4月に江が離婚請求を申請してから、意外と早く決着したという印象です。
そうですね。子どもの親権をめぐって離婚協議が長引くのではないかとみられていましたが、「共同親…
『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?
【連載】第4回 平川美月さん(仮名・42)の話(後編)
ほぼ1週間ごとに、元夫と自分の家を行き来させて娘を育てている平川美月さん。日本でこうした育て方をする人は、まだまれだ。なぜこうした育て方をするに至ったのか? 今回はその後編。共同養育に至るまでの経緯を聞いた。
前編はこちら
――ひとりで家を出たことで、お子さんと会えなくなったんですか?
引き離されることは、全然頭になかったです。長野県駒ヶ根市にある元夫・Bの実家を出るときに、「1週間以内にアパートを決めるから、それまで娘を見ててほしい」と言ったら、「いいよ」って約束してもらえたので。
――具体的に、その1週間は、どのように娘さんと関わっていたんですか
午後4時ごろ、保育園にお迎えに行って、Bと義母の家に立ち寄っていました。2人が外出しているその時間に、着替えとか荷物とか、連絡帳の書き込みとか。翌日の保育園の準備をしたり、娘と夕飯を一緒に食べたりした後、家を出ていました。
――プレハブを出てアパートに移り住んでからは?
保育園が終わると娘をアパートに連れてきて、一緒に過ごした後、Bの実家に返していました。週の半分は、夕食後に、あとの半分は夜になる前に返していました。私が夜の仕事をする間はBの実家に預けるという、共同養育をやっていたんです。
――そのまま、そのやり方を維持することにはならなかったのですか?
ならなかったですね。というのも、アパートを借りて1週間後、Bから連絡があったんです。「書いてほしいものがあるから、印鑑持ってきて」って言われて、指定のコンビニの駐車場に行ったら、車の中に閉じ込められて、「離婚届に署名・捺印するまでは絶対帰さない」とBに言われたんです。
――それ、完全にトラップですね。
書類を確認すると、親権者の欄にはBの名前がすでに記してありました。それで、「せめて1日考えさせて」って答えました。すると、「絶対にダメだ」って。
――それで結局、離婚届に署名・捺印はしたんですか?
最後は私が折れて、サインしました。ただ、その前から「一緒に育てていく」という方針をお互い確認していたので、「親権が向こうでも影響はないかな」って思ってましたし、そのとき、一刻も早く監禁状態から脱したかったんです。
――離婚が成立したんですね。で、その後はどうなりましたか?
別居して2カ月ぐらいたったころから、Bから「戻ってこいよ」と、しばしば連絡がありました。その都度、「いや戻らない」「いや戻ってこい」というやりとりを繰り返しました。しまいに、彼の連絡は脅迫めいたものになっていきました。
――離婚が成立しているのに、未練がましいですね。
それで私、弁護士に相談したんです。「元夫がストーカーみたいになっています。どうすればいいでしょうか?」って。そのとき弁護士が提案してきたのが、親権者変更の申し立てでした。
――その後は、弁護士経由での連絡ですか?
そうです。だからその前に、Bへメールで通告したんです。「月曜に調停を申し立てるので、今後は、弁護士に連絡してもらえますか?」と。
――Bさんの反応はどうでしたか?
メールをした金曜日、私は娘と一緒にいたんです。もちろん私はBの元に娘を送り届けるつもりでした。でもBは、娘をそのまま奪われると思って、かなり焦ったのでしょう。Bから警察に通報されました。
――調停が始まる前に、娘さんを取り返そうと思ったんですね。
調停の3日前ですから、間違いないです。それで、メールした金曜日の午後のうちに、突然、警察が来たんです。「誘拐だということで、お父さんが娘さんを探されていますけど、娘さんはいらっしゃいますか?」って、玄関先で言われました。突然だったのでびっくりしましたし、怖かった。それでも何とか「います」とドア越しに答えました。すると、警察に、「今日、娘さんを返さないと、お母さんが逮捕されます。そうなると本当に会えなくなってしまうから、いったん返してください」と通告されました。
――従わざるを得ないですよね。
そうなんです……。それで、弁護士と一緒に警察署に出向いて、話し合いをすることになりました。3歳(当時)の娘は、そのときの状況の深刻さがわからない。「明日からママにしばらく会えないよ。バイバイなんだよ」と伝えたとき、娘はずっと不思議そうな顔をしてました。いつもなら「また明日ね!」とパパに引き渡した娘に笑ってバイバイをするのに、私はボロ泣き。それでも娘は、これからもずっと私のアパートに来られると信じていたはず。別れるとき、「ママまたね」って手を振ってくれましたから。
――その後、調停で戦うんですよね。
ところが私、いったん取り下げてしまったんですよ。警察署で、弁護士に「無理やりにでも娘さんを大泣きさせてでも『パパのとこに行かない』と言わせて」と言われて。でも、そんなことできなかった。娘と引き離された後、弁護士はなんて言ったと思います? 「あんな人と結婚するからですよ」って投げやりに言うんです。その後、すぐに解任しました。正直、心が折れてしまったんです。
――法の知識はあっても、気持ちのわからない人だったんですね。残念。
その後、弁護士.comというサイトで見つけたのが、E弁護士でした。彼女は、DVという言葉が社会に知られる前から、DV被害に遭ったお母さんをしっかり守ってきた先生。E先生とは、結局、5年にわたる長き戦いを繰り広げることになりました。娘が連れていかれて2カ月後から始まった、親権者変更と面会交流の調停でした。
――その間、会えずに苦しかったでしょう?
それがですね、実は保育園でこっそり会っていたんです。引き離されて3週間後かな。電話相談を受けてくれた弁護士に、「面会交流が決まる前? ならば会ってはいけないという規則はないです。どんどん会いに行ってください」って言われて。
――保育園の反応はどうでしたか?
「お母さんたちの送り迎えが落ち着いた後の10分間なら」という条件で、黙認してくれることになりました。引き離されたことを伝えると、一緒に泣いてくれた園長先生と担任の先生だったので、気持ちをわかってくださいました。
――毎朝10分間の面会ですか?
そうです。再会したときは、引き離されてまだ3週間しかたってなかったのに「なんでママ、ここにいるの?」って、すごく不思議そうな顔をされました。10分して、「ママこれからお仕事だから行くね。また明日も来るよ」って約束して、去ろうとすると、泣かれてしまいました。
――聞いていてつらいです。
娘に泣かれるのがつらくて、もう行かないほうがいいかなと一瞬思ったんですけど、泣けるだけ(自分のことを思ってくれるなら)いいのかなとか、いろいろ自分に言い聞かせて保育園に通ってましたね。それで、だんだん慣れてくると笑顔で「バイバイ」って言うようになってきたんです。
――調停には影響しましたか?
保育園に会いに行ってることを、調停委員や裁判官に言ったところ、好意的に捉えてくれました。「そうした実績があるから、多めの面会交流が必要でしょう」って。一方、E先生は、Bに対して「共同養育の約束を破って連れていったのは権利の乱用。少しは譲歩しなさい」と話を持っていってくれました。
――そうやって実績を作って、回数を増やしていったんですね。
そうです。それで、その次の調停のときに、週末月2回(午前10時~午後5時、2週間後に宿泊)となりました。その代わり、「保育園への登園を控えるように」という裁判官からの条件をのみました。ちなみに、養育費の金額も決まりました。いまも同額の〇万円(数万円、と表記する?)払い続けていますが。
――その後の調停は?
「親権変更を取り下げるから、面会を月3回に拡充してください」と押しました。するとB側の弁護士が「3回だと予定が決めづらいから、月4回にしましょう」と言ってくれて、毎週の面会交流が実現。そのうち泊まりは月に1回と決まりました。
――Bさんは邪魔してこなかったですか?
夏休みなど長期休暇の面会不履行が続いたり、理不尽な断られ方をしたりしました。でもグッとこらえて、それらを証拠として、こつこつと積み上げていきました。それが重なって履行勧告を2回やって、さらに損害賠償請求へと発展しました。
――証拠を積み上げていくうちに、局面が変わっていったりしましたか?
そうですね。娘が小学1年生、7歳だったときの調査官調査の実施に結びつきました。それは、私と一緒にいるときとBと一緒にいるときの2日間4時間ずつ、実施されました。
――その結果はどうでしたか?
「お母さんと一緒にいるときのほうが、ちゃんと自分の意見も話すし、楽しそう」と書かれました。一方、「父親といるときは、娘さんが父親(B)に『これさあ』とか言って、一生懸命共有しようとするけども、父親はそのことに気がつけていない。このままだと、将来、父親は娘に見放されてしまう」と記されてしまった。
――ずいぶん態度が違っていたんですね。
しかも娘は調査官調査の中で、カレンダーを指さしながら「この日からこの日まではパパの家、ここからここまではママの家にいたい」という具合に意思表示をしたんですよ。それが1週間交代の共同養育につながっていくわけです。
――それは娘さんの意思なのですか?
「外国では、2つのおうちで子どもたちが過ごしているんだよ」と私が娘に話していたのが影響したのかもしれません。「パパとママはケンカをした。今はあなたが誰と暮らすかをパパが決めているけど、本当だったら決めるのはあなただよね。あなたが決めるのを、パパとママがお手伝いしたいの」って話していました。
――子どもの意思を尊重していますね。裁判所でも、そうしたんですか?
はい。裁判所のおじさんたちと話をするということも、調停の2カ月ぐらい前から娘に話しました。「裁判所は、自分の気持ちをちゃんと言っていい場所なんだよ。ママがあなたを守ってあげたいから、ママと一緒に、そういう話をおじさんたちにしてみよう」って。
――なぜ、そこまでしたのでしょうか?
この子は一生、自分の気持ちを我慢する子になっちゃうのではないかと心配だった。同居親の機嫌をうかがうような子どもには、なってほしくなかったからです。
――裁判所での結果はどうでしたか?
損害賠償は私が勝ってBが負けました。再調停はなかった。「これ以上、面会交流を減らせと言っても、受け付けてもらえない。主張が全部通らない」ということがわかって、Bが折れたんです。
――裁判所が、そこまでの判断をしてくれるんですね。驚きました。
担当してくれたE先生いわく、「最初の時点で月4回の面会交流というのを債権債務にしたこと、それが何より大きかったと。さらに証拠や実績を積み重ねてきた。だからこそ、ここまで来られたんだよ」と。
――では、1週置き交代の完全な共同養育は、どのように実現したんですか?
娘が小学2年生だった2018年10月に裁判が結審、その翌月の11月から始まりました。というのも、娘をBの実家の玄関前まで連れていったとき、「やだやだ」と言って、娘は入りたがらなかったんです。なのでインターフォン越しに伝えました。「娘の気が乗らないみたいだから、もう一日様子を見させてくれませんか?」と。
――Bさんは、かなり怒ったのでは?
それどころか、「じゃあ、わかりました。明日まで待っています」と、すんなり応じたんです。しかも、そういったことが3回続いたんですよ。
――野球でいえば、まさにスリーアウトですね。
その日の夜、E先生と相手方の弁護士さんが協議をして、「娘さんの希望通り、1カ月間試験的に1週間交代という形で行ってみましょう。ただし、この期間のことを親権変更に持ち出さないことが条件」という内容で急きょ、合意書を作成しました。
――こうして、完全な形の共同養育になったんですね。ちなみに、それはいつからですか?
2018年の11月に裁判が終わって、翌12月から共同養育が始まっています。そのとき私のアパートは小学校から1キロの地点、Bの実家は学校から北2.5キロでした。
――夫婦同士が話し合って1週間ごとに決めたと思っていたので、すごく意外でした。
Bが自分から率先して進めていたら、こういう形にはならないです。一方で、彼は長いものに巻かれやすい体質の人だから、裁判所や弁護士という絶対権力には従うんです。でも、もしかしたら、娘のことを考えられるようにはなってくれたのかな。
――週替わりでそれぞれの家に行って、娘さんは混乱したりしませんか?
子どもは柔軟なので、持ち物を個々の家にそろえておけば、何の問題もなしです。忘れ物したとき、「取りに行かなきゃいけない」って不満を言うぐらいかな。
(西牟田靖)
『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?
第4回 平川美月さん(仮名・42)の話(前編)
「『2つの家を行き来してて、子どもが混乱しませんか?』ってよく聞かれます。だけど、むしろ楽しんでます。子どもは柔軟ですから」
1週間ごとに、元夫と自分の家を行き来させて娘を育てている平川美月さん。日本でこうした育て方をする人は、まだまれだ。なぜこうした育て方をするに至ったのか? 今回はその前編。別居に至るまでを記す。
――生い立ちから教えてください。
両親のほかに兄がいます。父は光ケーブルの敷設や無線通信のアンテナ設置を担当するエンジニアでした。転勤続きで、私が生まれたとき、家族は都内近郊に住んでいました。4歳のときに長野県佐久市へ、そして小学5年生のとき、父の実家がある県内の駒ヶ根市に引っ越しました。
――父親の実家に住むことで、家族の関係性は変わりましたか?
実家にひとりで住んでいた祖母と同居することになったため、関係性は変わりました。そのころ、祖母は祖父の看病に追われていて、病院通いの毎日。看病のストレスから、祖母は同居後、母につらく当たるようになっていきました。
――嫁姑問題によくある話だと聞きますね。
母は母で、それまで都会の社宅でマイペースで生きてきたのに、祖母との同居で、息苦しくなってしまった。ストレスを抱えた母が、今度は、私につらく当たるようになりました。
――お母さんがおばあさんの、美月さんがお母さんのそれぞれストレスのはけ口にされちゃったんですね。それはつらい。それで、お母さんからは、どんなふうに当たられたんですか?
高校の野球部のマネジャーを「大変だから辞めたい」って言ったとき、「(同野球部で活躍していた)お兄ちゃんの顔に泥を塗って!」と罵倒されました。私の生活態度が気に入らないと、大切にしていた友達やその親に電話して、無理やり関係を切られたこともありました。
――それはひどい。だったら反発したくなりますね。
2〜3日家に帰らないこともしばしばでした。働くのが好きだったので、居酒屋の厨房やコンビニ、マクドナルドでバイトに励んだりもしていました。
――就職から結婚するまでの間はどうだったのですか?
高校を卒業した後、コンピューターの専門学校に2年通い、CADでの図面作りなどを習ったんです。就職はCADの技術を生かして、電気工事会社。その後はレンズメーカーに転職しました。一度目の結婚はレンズ会社にいるとき。お相手は、専門学校時代から付き合っていた先輩のAです。
――現在、共同養育しているのは、その彼との間にできたお子さんですか?
違います。Aはお金遣いが荒かったので、妊娠する前に25歳のとき、2年ほどで離婚しました。そのタイミングで会社も辞めました。というのも、レンズメーカーはAに紹介された会社だったので、いづらくなってしまって……。
――今のお子さんが生まれるまでのことを教えてもらえますか?
Aと離婚した後、水商売をしていました。再婚相手は、その店のお客さんだったBです。解体業のグループのひとりで、いつもふざけている、いじられキャラ。面白い人だなって思いました。
女の子たちとアフターで一緒にカラオケに行ったり飲みに行ったりするうちに、Bと個人的に仲良くなっていきました。ちゃんとした交際のプロセスがあったわけじゃなくて、気がついたら「じゃあアパートを借りるから」ってBに言われていました。
――美月さんへの相談もなしに、Bさんが同棲を決めたんですね!
黙って自主的に動くようなところが職人ぽくて格好いい、包容力がある人だって、Bのこと思っちゃった。いま思えばほれていて何も見えなくなっていたんでしょうね。
――そうして同棲が始まったんですね。
同棲するタイミングで、Bは引っ越し会社に転職しています。それだけじゃないですよ。同棲して1年ぐらいたったとき、突然、同棲の解消を突きつけられたんです。「俺、長男だから実家に戻らなきゃいけない。だから、このアパートは解約する」って。Bのお父さんががんになって余命いくばくもない状態だったんです。
――同棲に転職、そして実家での同居。彼はいろいろ勝手に進めるんですね。
最後の時間を父親となるべく長くいたいというのは理解できました。でも、解約するほどのことなのかなとも思ったんですよ。アパートがあった場所からBの実家までは車で15分ぐらいですから「通えばいいんじゃない?」って言いました。聞き入れてくれませんでしたけど。
――Bさんの実家での同居を承諾したのは、いつですか?
ほどなく義父が亡くなってしまって、お葬式に参列したんです。そのときですよ。Bにプロポーズらしい言葉をかけられたのは。「お母さんがひとりになっちゃうから、ここの家で暮らしていこう」って。28歳のときでした。
――お葬式でのプロポーズ! 強引ですね。
当時、むしろ「頼もしい」って思いました。「実家のことを、それだけ真剣に考えてるんだ。だったらそれに付き合ってもいいかな」って。
――何も条件は出さなかったんですか?
出しました。「30歳までは水商売は続けたい。そのことをあなたのお母さんが理解してくれるなら、一緒に住んでもいい」って。するとBは、「そのことは、もうお母さんに言ってあるから大丈夫」と言うんです。
――実際、Bさんはお義母さんに話していたんですか?
それが、言ってなかったんです。同居してしばらくたったとき、義母に言われました。「あんた、いつまで夜の仕事なんかやってるの?」って。それでBに問いただしたら、「何の話?」って。
――約束を破ったんですか!
それだけではありません。もうひとつ嫌だったのは、日曜に妹さん一家が来ることでした。夫婦は子ども2人を実家に預けて、日中出かけるんです。
私が義母の立場だったら、面倒を見てあげたいし、ご飯を食べさせたり、お風呂に入らせてあげたいって思うのかもしれない。でも、そうなると私が耐えられない。毎週、私が子どもの世話をしたり、みんなが帰った後にドロドロの風呂なんて入れないって思ったんです。
――Bさんだけでなく、家族ぐるみで、利用されているじゃないですか。
そうなんです。だから私、我慢できなくて。Bに言ったんです。「実家から出てアパートで暮らさない? あなたひとりでお母さんに会いに行ってあげればいいじゃない?」と。すると「アパートには引っ越さない。消防団をやってるし」とか言って渋るんです。
――関係性がズレていきそうですね。
「付き合いきれない」って思いました。それで私、ひとりで家を出てアパートを借りたんですよ。車で15分ほどの距離のところに。同居したのは、結局4カ月だけでした。
――別居したんですね。Bさんは謝ってきたりしたんですか?
それが半年の間、何の連絡もしてきませんでした。半年たって、久々に連絡が来たんですが、それは「お父さんの一周忌をやるけど来る? 来たくなかったら来なくてもいいよ」というメールでした。文面を目にして、私、完全に気持ちが冷めてしまいました。
――なんのねぎらいもないんですね。
だけど、お義父さんが別に悪いわけではないし、行かないのも申し訳ないので、一周忌には行ったんですよ。それでそのとき、今後についてBと話して、「次、ダメだったら離婚する」という条件で、アパートでBと同居することにしたんです。
――同居してからは?
ちょうど私が30歳になったとき、妊娠がわかりました。するとBは、それを機に引っ越し会社を辞めて独立しました。
――妊娠を機に仕事を替えたのは、Bさんなりの決意表明ですか? 出産後はお義母さんとの関係はどうなったんですか?
週末に、お義母さんの家に子どもを見せに行くじゃないですか。すると「もういいじゃん。帰るのめんどくさいから、泊まっていこう」ってBに言われて、ずるずると水曜までいたりするようになったんです。Bは子育てを全然手伝ってくれないけど、義母が子育てを手伝ってくれるから、少し楽ができる――というのもあって。
――そういうのが習慣化して、結局また、Bさんの実家でお義母さんとの同居が始まったわけですね。でも、美月さんの実家で暮らしてもよかったのでは?
母との関係がね……。それに義母は、もうすでに孫を何人も育てて慣れているし、元気で体力もあったので。
――そこから、なぜ、子どもと別れることになってしまったんですか?
Bの資金繰り、要は仕事がうまく回ってなかったんです。彼の実家で同居を始めた後、家賃が浮いているはずなのに、督促状が来る。しかも国保が未払いになっていて、保険証が切れてることがわかった。なのに彼は「自営業だから収入は流動的。だから、決まった額を家には入れられない」って開き直るんです。
――筋を通さないんですね。
義母が息子のお金のなさに気がついて、支払い用のお金を補填するようになりました。なのに、Bはそのお金を全部使っちゃって、義母とケンカするようになったんです。すると義母に言われました。「日中、子どもを預けて、美月さんが働きに行きなさい」と。
――Bさんの意見はどうでしたか?
「おまえが子どもを保育園に預けて、昼間働きに出たりなんかしたら、まるで俺が稼いでないみたいに思われるじゃん」って。
――えっ! 理解できません。
Bには田舎の見栄があって、周りの知り合いのように、独立して商売をやれるようになったことが、すごくうれしかったみたいなんです。だから、稼いでいるように、周りからは思われたかった。
――もっと正直になればいいのに。
その間、Bと義母はお金のことでずっとケンカしてるわけですね。私は私でBのお金にだらしない部分に対しての不信感が拭えなかったし、自分で稼いでいないと不安で仕方なかった。そうしたことからズレが生じて、ケンカが増えていきました。
――ケンカがエスカレートしたのですか?
はい。それでそのうち、Bに殴られるようになりました。また、娘を抱っこしているときに後ろから蹴りを入れられたり、ペットボトルを投げつけられたり、ガラスを割られたり、暴れられたりしました。
――完全にアウトだ。DVですよ、それ。
だけど、暴力を振るった直後、世の中で一番自分がかわいそうな人っていうぐらい、毎回、Bは反省するんですよ。その気持ちに偽りはない。だから、つい情が惑わされるんですよね。ひとりにさせたらいけないのかな、とか。その都度、ためらってしまって。
――よく耐えましたね。でも、それも限界が来たということですか?
そうです。何回か繰り返した後、娘が3歳のときのことでした。保育園に入園した直後の日中に、Bとかなり激しいケンカをしたんです。義母は私たち2人がもめたことを知っていました。
――ケンカの後、夜、一緒に食卓を囲みますよね?
だから私、気持ちが全然落ち着かなくて。「今日もまた、一緒に食卓を囲むなんて、もう耐えられない」と思って、「今日、家を出るから」ってBに言ったんです。
――娘さんを連れていこうとは思わなかった?
それは無理でした。とりあえずの仮住まいが、建設現場にあるプレハブだったので。
(後編へつづく)
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