ベテラン芸能リポーターの城下尊之氏が、とかくあおり・あおられがちな芸能ニュースをフラットな目線で、おちついて解説!
――2022年の1発目は、今年離婚しそうなカップルを予想したいと思います。21年12月、中村芝翫の不倫が報じられました。これで3度目です。本人は不倫関係を否定していますが、妻・三田寛子はどう出るでしょうか。
ああ、あの夫婦は離婚しないと思いますよ。…
ベテラン芸能リポーターの城下尊之氏が、とかくあおり・あおられがちな芸能ニュースをフラットな目線で、おちついて解説!
――2022年の1発目は、今年離婚しそうなカップルを予想したいと思います。21年12月、中村芝翫の不倫が報じられました。これで3度目です。本人は不倫関係を否定していますが、妻・三田寛子はどう出るでしょうか。
ああ、あの夫婦は離婚しないと思いますよ。…
ベテラン芸能リポーターの城下尊之氏が、とかくあおり・あおられがちな芸能ニュースをフラットな目線で、おちついて解説!
――年末ということで、2021年を振り返ってみたいと思います。まず、おめでたい話から。香取慎吾がとうとう結婚を発表しましたね。25年お付き合いしてきたお相手とか。今年はビッグカップルの結婚が多かったですね。
そうですね。最も話題になったのは、5月に…
人生、何度でも、いくつになっても、やり直しができる。間違えても大丈夫、もう一度、立ち上がって生きていこう!――そんなメッセージを込めてお送りする連載「2回目だからこそのしあわせ〜わたしたちの再婚物語」では、失敗を糧にして「結婚」に再チャレンジし、幸せを手にしつつある人たちの物語を紹介していく。
前編はこちら
後編:初婚の夫
「20代の初めから10年間付き合った彼女と別れて以来、解放感から独身生活が楽しくて。何人かの女性と付き合ったり、同棲をしたりしたこともありますが、なぜか結婚には気持ちが向きませんでした」と、qbcさん(仮名・43歳)。穏やかな癒やし系の風貌で、初対面でも安心感がある。IT企業に勤める会社員で、最近はほぼテレワークだという。
独身生活を謳歌していたqbcさんだが、40歳を過ぎたころから急に結婚を意識し始めた。が、意識すればするほど、女性と気軽に付き合えなくなった。
「付き合ったら結婚しなきゃいけないのかと思うと、ハードルが上がってしまい……。ここ数年、ちょっとこじらせていました。でも、周りの友達はみんな結婚しているし、40過ぎて独身だと周囲からの見られ方も気になってきて……」
実は、qbcさんの趣味はインタビュー。1年半ほど前から「無名人インタビュー」として、いろいろな人の話を聞いてはSNS で発信している。仕事ではなく、あくまでも趣味なのだが、なかなかユニークな試みで、ファンもたくさんついている。
「いろいろな『無名人』にインタビューをする中で、結婚や離婚、再婚について話を聞くことも多かったです。そんなことから、結婚に対するイメージもできてきました」
ここらで本腰を入れて、婚活してみるか。アプリでの婚活に、気合を入れて取り組むことにした。
ここからがqbcさんのユニークなところだ。qbcさんは婚活スタートをTwitterで宣言するとともに、プロフィールと写真についてのアドバイスを広く募った。年齢や居住地、年収などの基本情報は、事実と異なる内容を載せるわけにはいかないから変えられない。でも、プロフィールや写真は、書き方や撮り方に工夫ができる。
婚活アプリは、男女が互いに「いいね」を押し合うことで、マッチングし、メッセージのやりとりができるというシステムである。qbcさんは、プロフィールを精査することで、マッチングの確率を上げようとしたのだ。
「僕が書いたプロフィールの文面を公開し、Twitter上で添削を頼みました。いろんな人が、あれこれと意見を言ってくれましたよ」
初めにqbcさんが書いたプロフィールには、自分のやりたいことや相手への要望をつらつらとつづっていた。まずは、そこにダメ出しをされた。
「ずばり『押しつけがましくて気持ち悪い』と(笑)。『メッセージをやりとりしてみたいと思わせればいいんだから、そこはもっとさらりとまとめるように』と言われました。趣味の無名人インタビューも、『よくわからないし不審に思われるから、タイトルを“傾聴ボランティア”に変えろ』とも。そんなやりとりを繰り返しながら、プロフィールをブラッシュアップしていきました」
そのかいあって、どんどんマッチング率が上がってきたという。
前編で、貴子さんが「一人で書いているのではなく、大勢の人に応援されて書いている」と感じたプロフィールは、こういうカラクリだったのだ。
貴子さんがqbcさんに「足あと」を残し、qbcさんが貴子さんに「いいね」を押した。そして、貴子さんも「いいね」を押して、2人はつながった。
まずは、会社の昼休みにランチデート。「傾聴ボランティア」もとい「無名人インタビュー」をしているqbcさんと、占い師として多くの人に会っている貴子さん。「人の話を聞くこと」に対する課題意識が共通しており、初対面のときから話が弾んだ。
「人に話を聞くときの向かい合い方、距離の取り方……。普段からそういったことを考えているという時点で、『ああ、この人と僕は、違うところから同じ景色を見ているな』と思ったんです。『こんなにも気の合う人が世の中にいたのか』『もう貴子さん以外、考えられない』『この出会いのために、43歳のいままで独身でいたのだ』と、合点がいきました」
2回目のデートで、貴子さんが招き入れてくれた自宅へ。子どもとも対面し、なんとか受け入れてもらえた。テレワークだったことから、そのまま泊まり込み、2週間もたたないうちに一人暮らしをしていた自宅は引き払って、こちらに移り住んだ。
「出会ってからまだ1カ月の僕らが、子どもも含めて一緒に暮らしている。あまりに急展開ですが、不思議なほど違和感がないんです」
ちなみに、子どもの「父親」になるつもりはない。貴子さんも、子ども自身も、それを望んでいない。チームとして、仲よく暮らしていければそれでいい。
子連れの女性との結婚にためらいはなかったのか? そう聞くと、qbcさんは笑顔で答えた。
「無名人インタビューを通して、いろいろな結婚観、再婚観に触れ、図らずも『予習』ができていたことが大きい。家族はいろんな形があっていいと、心から思えています」
(上條まゆみ)
人生、何度でも、いくつになっても、やり直しができる。間違えても大丈夫、もう一度、立ち上がって生きていこう!――そんなメッセージを込めてお送りする連載「2回目だからこそのしあわせ〜わたしたちの再婚物語」では、失敗を糧にして「結婚」に再チャレンジし、幸せを手にしつつある人たちの物語を紹介していく。
前編:再々婚した妻
「婚活アプリで彼の写真を見た途端、思わずフリーズしてしまいました。『私が出会うべきはこの人だ、この人を逃してはいけない』と、焦るような気持ちが湧き上がったんです」と話す、東山貴子さん(仮名・47歳)。
目を惹くほどのイケメンだったわけではない。特別好みのタイプだったわけでもない。少なくとも、今まで付き合ってきた人たちとは違う雰囲気の男性だった。それなのに。
婚活アプリは、男女が互いに「いいね」を押し合うと、「マッチング」して直接メッセージが送れるようになるシステム。つまり、こちらが「いいね」を押しても、相手がそれに気づかなかったり、「いいね」を押してくれなかったりだとつながらない。
「どうしたら彼とつながれるだろうと考えて、『お気に入り』というフォルダがあったので保存してみたんです。そうしたら、彼のほうでは『足あと』として表示されたようでした。『足あと』ってあまりつかないらしいので、彼も『誰が自分のプロフィールを見に来てくれたんだろう?』と気になったみたい。私に『いいね』を押してくれ、無事、彼とメッセージのやりとりができるようになりました」
それが、およそ1カ月前のこと。いま、貴子さんはその彼、qbcさん(仮名)と一緒に暮らしている。
「他人と一緒に暮らすと、ちょっとした違和感があるのが普通ですよね。たとえば、冷蔵庫の残り野菜をどうするとか、洗面所を使った後の髪の毛の散らばりをどうするとか、気になるポイントが少しずつ違って、嫌だというほどではないにしても、ちょっと『ん?』と思ったりする。特に40代ともなると、互いに生活スタイルが出来上がっているので、なおさらそういう場面は増えてくるはずなんです。それが彼の場合、まったくないんですよ!」
違和感どころか、生活はより快適になった。
「私は家事はスピード重視で、効率を考えて、ものを出したままにしておくことも多かったんです。でも、彼は私が好きで散らかしているわけじゃないことを見抜いて、効率的にものをしまえるように収納を工夫してくれました。私ができなくて困っていたことを解決してくれて、すごく暮らしやすくなりました」
貴子さんがこんなにも素敵なパートナーに巡り会えたのは、単にラッキーだったからではない。貴子さんのこれまでの人生で得た学びが、ここに結実したのだといえる。
「私、今までに2回結婚し、離婚しているんです」
1回目の結婚は、貴子さんが28歳のとき。相手は一流国立大を卒業し、大企業に勤めるエリートだった。「結婚するなら、こういう人がいいのかな」と、主に条件面に惹かれて結婚した。子どもも生まれ、何不自由ない暮らしをさせてもらっていると自分では思っていたのだが、年月を重ねるうち、心のしんどさが増していく。
「自分では何がしんどいのか、よくわからなかった……」
結婚して12年たったころ、スピリチュアルな気づきをきっかけに貴子さんの価値観が急激に変化し、夫とあらゆることについての意思疎通に困難を感じるようになってしまった。話し合いに応じてくれるような相手ではなかったため、子どもを連れて逃げるように実家に戻り、離婚。その後、子どもの親権は相手方に渡すことになった。
「相手の家を継げるのが、うちの子しかいなかったんです。子どもを私に取られたら、家が途絶えてしまう状況が嫁としてわかっていたので、仕方なく納得しました」
当時、11歳になっていた子どもも、転校などで環境が変わることを嫌がり、「前に住んでいたおうちがいい」と言ったため、その気持ちを尊重したということもある。
大事に育てていた子どもを手放し、腑抜けのようになっていた貴子さんだが、働いて食べていかなければならない。専業主婦時代に占いを習い、自宅のリビングで、時々鑑定を行っていた。評判がよく、口コミが広がり、遠くから車で訪れてくれる人もいた。そこで、占いで身を立てていこうと思った。昼は契約社員として会社に勤め、夜は喫茶店などで占いをしながら、必死で働いた。
一方で貴子さんは、久しぶりの自由を謳歌していた。ずっと専業主婦で、社会から隔絶されていた。それが突然、独り身になった。
「40代前半の身軽な女性ということで、男性からのお誘いが増えました」
小柄できゃしゃな貴子さんは、きれいな顔立ちをしており、男性から人気があるのもうなずける。
そのうちに、ある男性との間に子どもができて結婚。しかし、その男性は子どもの誕生と同時に、病に倒れてしまう。詳細はここでは触れないが、話し合いの末、円満のうちに婚姻は解消した。それが、互いのため、子どものためであると判断したのだ。その男性とは、近距離で暮らしながら、子どもの親同士としての関係を続けている。
それから5年。幸いにも占いの仕事は順調で、子どもと2人、十分に暮らしていけるほどの収入は得られるようになった。とはいえ、昼も夜も働きづめで、知人には「いったいいつ寝ているの?」と聞かれるような日々。
「子どもも5歳に近づき、前の子育ての経験から、これまで保育園任せにできていた部分も、このあたりから親が真剣に向き合わなければいけないとわかっていました。それで、もしパートナーがいれば、もう少し仕事をセーブして暮らすことができるんじゃないかと思ったんです」
ここから貴子さんの、本気の「婚活」が始まった。
婚活アプリと結婚相談所の2本立てで、活動開始。ほどなく出会ったのが、冒頭でお伝えしたqbcさんなのである。占い師として、これまでに7,000人を超える人たちを鑑定してきた。たくさんの人に会う中で、無意識のうちに顔立ちと性格の関連性のデータが頭の中にできており、写真を見た瞬間にそのセンサーがピピピ! と反応したのかもしれない。
離婚して子どもを手放し、再婚して子どもを授かるも、また離婚という激動の日々の中で、貴子さんのセンサーはより研ぎ澄まされていったのではないだろうか。
「会ってみて、プロフィールにまったく嘘がなかったことも素敵だと思いました。というのも、婚活アプリのプロフィールって、少し盛っていたりするのが普通なんです(笑)。おもしろかったのは、彼のプロフィールから、一人で書いているのではなく、大勢の人に応援されて書いている感じが読み取れたこと。話をしているうちに、そのカラクリがわかって、ああ、こういうパーソナリティの人なら間違いがないな、と思いました」
さて、そのカラクリとは? 後編で、qbcさん自身がお答えする。
(後編へ続く)
(上條まゆみ)
『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?
第6回 山川ひかるさん(38歳・仮名)の話(前編)
「4年前の春、夫やその家族に、子どもたち3人を連れ去られました。今ではまったく会うことすらできません。夫はマイホームに別の女性とその連れ子と住んでいて、自分の子の養育を放棄しています。子どもたちは、夫の母の家で暮らしているんです」
そう話すのは、山川ひかるさん。
「彼の素性がわかっていたら、結婚なんかしませんでした」
肩を落とすひかるさん。夫は、どうやってここまで彼女を追い込んだのか? 修羅場の中、双方の家族はどうしていたのか? 前半では家庭が壊れるまでを描く。
――生い立ちから教えてください。
会社員の父と専業主婦の母のもとに、千葉で生まれました。4人きょうだいの3番目で、ほかは男。父は仕事に一生懸命な人で、遊んでもらった記憶がほとんどありません。一方で、母は子育てを一手に担っていました。私たちきょうだいの手がかからなくなってくると、食堂などでパートの仕事をするようになりました。
――役割分担がはっきりした、典型的な昭和の家庭だったんですね。
当時は、それが当たり前でした。だから、父が子育てにしっかり関わってくれないことに違和感はありませんでした。私も大人になって子どもができたら、父と母のような生き方をするんだなと思っていました。
――進学して、結婚に至るまでの経緯について教えてください。
高校を卒業すると、そのまま地元で就職しました。内装関係の小さな会社。そこでかなり理不尽な扱いを受けて、3カ月で辞めました。その後は東京ディズニーシーのレストランで働いたり、住宅設備メーカーで働いたり。26歳で結婚するまでは、ずっと実家住まいでした。
――結婚相手とは、どうやって知り合ったんですか?
地元の先輩の後輩が、後の夫でした。先輩と一緒に7人ぐらいで飲みに行ったとき、彼がいて、「連絡先を教えて」って言われたんです。彼は私よりも1つ下。ガソリンスタンドでバイト中でした。
その後、2年ぐらいは疎遠になったんですけど、あるとき突然、携帯に「久しぶりです」と連絡が入って、なんとなく会ってみることにしたんです。そのとき、彼、「携帯ショップで店長をやってる」と言っていました。
それで実際に再会してみると、彼、マニュアル車を運転できるんですよ。私はけっこう車好きで、当時乗ってたのはマニュアル車だったんです。マニュアル車つながりで、距離がぐっと縮まって、それ以降、お付き合いするようになりました。そして、しばらくたった頃、母に言われたんです。
「そろそろ結婚しないの? 年取ってから産んでも、子育て手伝えないからね」と。
――結婚は勢いという、まさにそういう流れだったんですね。
ほんとそうです。そして双方の両親にいよいよ挨拶という段になったとき、彼が言ったんです。「挨拶するための既成事実が欲しい」って。それを聞いて、何か目標とか、すでに成し遂げたことでも発表するのかと思うじゃないですか? でも違っていました。
「子どもができれば、結婚の挨拶に行ける」って言うんです。それで実際、彼の子どもを身ごもりました。
――できちゃったことを既成事実としたわけですね。子どもができて、さらに親密になっていったんですか?
いえ、それどころか険悪になりました。彼がとっかえひっかえ浮気をしていることがわかったんです。
証拠を隠すような機転が利かない人なので、証拠はすぐにつかめました。それを彼に突きつけたところ、泣きながら土下座をしたんですよ。「悪かった。もうやらない」って。「ここまで本気で謝るんだったら、もう二度とやらないだろう」って思って許し、子どもは堕ろさず、そのまま結婚しました。
――謝って改心したんですか?
私と付き合う前に付き合っていた女性と縁が切れてなかったり、mixiでシングルマザー狙いのナンパをしていたり……夫となった彼の浮気グセは直りませんでした。
証拠はたくさんありました。例えば、長女を出産する時がそうでした。立ち会わずに別の女と過ごす約束をしていたことが、出産後に判明したんです。それでまた問い詰めたら、今度は逆切れされました。
「だったら、家を出て行け!」そう言われて、荷物を車の中に詰め込まれました。
――新生児期なのに。ひどいですね。その後の生活は?
出産に備えて退社していましたが、「出産後は仕事をせず、子育てに専念してほしい」と言われ、従っていました。
その間、夫はトラック運転手として働いていて、子育ては、おしっこのときのオムツ替えぐらい、それ以外は、私がやって当たり前という感じ。でも、それに関してストレスは特になかったです。育児が、やりがいもあり楽しかったからです。
夫の月給は約35万円。それを現金でもらってきて、そのまま全部くれました。それだけあれば安泰かといえば、むしろ大変でした。夫の毎月のカードの支払いがすさまじく、さらに夫の車のローンがあったので。私が独身時代に貯金した200万円は、気がつけば、夫に使い込まれてしまいました。
でも夫にそのことを指摘すると、「これだけ稼いで家を支えているのに、なんだよ、おまえは!」と怒鳴り散らされました。
――どうやって金策したんですか? ご両親に援助してもらったのですか?
私に早く子どもを産んでほしいと言った母は、すでに亡くなってしまっていました。冬場に風呂場で倒れたんです。ヒートショックが原因で。父には話をするのがどうも気が引けてしまって。父に相談するのは最後の手段だと思って、結局、話しませんでした。
相談したのは、夫の母、つまり義母と夫の義祖母でした。義母は夫が生まれてすぐに離婚していて、実家の両親と一緒に住み、会社勤めをしていました。義祖母も若い頃にたくさん働いていたようで、年金をたくさんもらっていました。義祖母に相談すると、月5万円ほど援助してくれたんです。
頼る先があってよかったか? どうでしょうね。というのも、義母と義祖母は、私たちの子育てについて頻繁に介入してきたんです。子育てを手伝ってくれるのはありがたかったんですけど、自分のやり方を強く押し付けてくるので、閉口しました。
例えば、子どもが危ないことをして注意しても「怒るな」「褒めて育てろ」と言うんです。私が「危ないことだから」と言っても、「こっちの言う通りにしなさい」と言って、私の言うことを一切聞いてくれません。お金を貸していたことから、息子の妻である私を従わせて当たり前だと思っていたようです。
――それで何か行動を起こしたんですか?
結婚当初住んでいた賃貸から、一軒家を購入引っ越ししました。賃貸の家は夫の実家のすぐ近くでしたが、引っ越し先は車で約30分離れたところ。支払いはすべて夫のローンでした。一方、その家は、私の実家から車で5分の距離でした。
――一軒家に引っ越して、落ち着いたんですか?
いいえ。夫が、浮気相手に性病をうつされてしまって。さすがに、「もう一緒にはやっていけない。これからは、子どものために働いて生きよう」と思いました。そうして、長女を保育園に預け、保険外交員として働き始めました。
最近では、保育園の送り迎えをしてくれるパパさんたちが増えていますが、夫は一切関わろうとしませんでした。それどころか「お前が絶対迎えに行け、1分でも遅れるな、絶対だ」と強く言っていました。でも、仕事で遅れるときだってあるじゃないですか? そんなときは、「ふざけるな、お前のやりくりがヘタだからだ」と罵倒されました。
――夫婦の仲はどんどん悪くなっていったのでしょうか ?
ところが、また妊娠して、次の年に次女が生まれました。背に腹は代えられないので、祖母に月5万円を借りて、家計を回していました。そのころ、経済的な心配から、「3人目はやめておきたい」と私は夫に言ったのですが、彼は全然避妊をしてくれませんでした。なので3人目も産むことになりました。
切迫早産となって、予定日の2カ月くらい前に入院して、退院後も夫は、家事や長女長男の育児を手伝ってはくれませんでした。
――子どもが増えて、ますます大変じゃないですか!
いいえ、子どもたちの存在が生きがいだったので、つらいと思ったことはありませんでした。ほぼ年子だったということもあって、千葉市の子育てサポートがあって助かりました。1人目はフルで保育料を払いましたけども、2人目は半額で、3人目になると無料でしたから。同じ公立の保育園に、3人とも入れることができましたしね。
――夫の収入事情は?
夫の勤務する会社が、代替わりして合理化。そのあおりで、給料は18万円にまで目減りしました。私、家庭にいること自体、なんだかストレスになってきてしまってて。それに夫の親にお金を借り続けるのも嫌。だったらお金を借りないで住めるようにしようと思って、その頃から私、時給2,000円の夜の仕事を始めました。いわゆる水商売です。
――夫に甲斐性があれば、そんなことしなくて済むのに。
そう。だから、私が「夜の仕事に出る」と言ったとき、期待したんです。「そこまでしなくていいよ。俺がバイトするから」と言って、副業して頑張ってくれるのかと思ったら、「いいじゃん。それ」と言って送り出されました。
――夜の間、お子さんはどうされていたんですか?
義母に預けていました。それで2〜3年忙しく過ごしたんです。そのうち子どもから夫の浮気について話を聞くようになりました。しかもそれ、義家族が同伴なんです。
例えば「何々くんママとご飯食べてきたよー」とか。「何々くんママとばあちゃんと遊びに行ってたよ」とか。
――え、それはもしかすると、義母らが夫の浮気相手と一緒に遊びに行ってたってことですか?
そうです。でも、子どもにそう報告されても、子どもは別に悪くないので叱れないですよね。一方、義母に対しては、絶望的な気分になりました。散々悩んで今まで相談してきたのに、浮気相手を容認するんだ~と思って。
なので、私、現実逃避したくて、さらに仕事に打ち込むようになりました。昼は不動産屋で、夜は水商売。その2つ掛け持ちして、家にあまり帰らないようになったんです。すると、夫はさらに浮気に走りました。
――夫の浮気、ひどいですね。何か対策はとったのですか?
証拠を集めて、なるべく良い条件で離婚するしかない。そう思って、探偵さんに浮気調査をお願いし、一つひとつ証拠を集めていったんです。2016年のことです。夫は、なぜか「バレるはずがない」と決め込んでいて、「浮気の証拠を見せろ。離婚届を持ってこい」と開き直っていました。
――浮気の現場を押さえて、夫に詰め寄ったりしたことは?
ありました。家族で使っているワンボックスの3列目のシート。そのシートの後ろのポケットにGPS機能付の携帯電話を忍ばせておいて、探知したんです。すると、行き先はラブホテルだったんです。
以前から週2回ほどのペースで、遠方のコンビニや人けのない工場地帯に駐車している形跡があって、何度か問い詰めていました。「ラブホテルに行ってたんじゃないの?」って。だけど、その都度、「仕事の関係でコンビニに立ち寄った」とか「夜勤で忙しい」とか言って、はぐらかされていたんです。
――決定的な証拠に、なかなか至らなかったんですね。
私、まずラブホテルの駐車場まで出かけてワンボックスに合鍵で入り、車内からLINEをしてみました。
「ラブホテルにいるようだけど?」
(後編へつづく)
長らく芸能活動の自粛を続けているアンジャッシュ渡部建。極悪非道な多目的トイレ不倫騒動をしでかしたとはいえ、ここまで仕事を干されていることにはテレビ業界から同情の声も聞こえてきている。
「薬物で逮捕されるなど明らかな犯罪をしたのならまだしも、単なる不倫ですから復帰の仕方はいくらでもありました。原田龍二さんのようにすぐに謝罪会見をして強引にでも笑いに変えれば良かったですが、妻の佐…
『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。
おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?
第5回 キャサリン・ヘンダーソンさんの話(後編)
前編はこちら
「『あなた犯罪者じゃないのに、なぜ2年間も子どもたちに会えないの?』と、私の国の友人たちから言われます」
そう嘆くのは、高校生の娘と中学生の息子、2人の子どもを持つ、キャサリン・ヘンダーソンさん。彼女の祖国、オーストラリアでは共同親権、共同養育が当たり前、別れた後に子どもに会えなくなる母親は約1%にすぎないという。
彼女はなぜ、遠い日本の地で、わが子と生き別れになってしまったのか――。後編では、生き別れになってしまうまでのことを聞く。
――日本には戻ったんですか?
もちろん。私は学校で働いていて、生徒たちに対する責任がありますから。そのまま子どもとオーストラリアに住むことは考えませんでした。もしオーストラリアでそれをやると、アブダクション(誘拐)と見なされて罰せられます。でも今思えば、弁護士事務所に行くことを彼に予告してしまったのは、失敗でした。
――なぜ予告したんですか?
離婚する気はなかったし、嘘はつきたくなかった。それに「隠すべきではないな」って思ったんです。そもそも私、離婚しない方法を考えるために、弁護士事務所に行くつもりでしたし。でも彼は、私の予告を宣戦布告と捉えたんでしょう。このままだと、キャサリンに子どもを連れていかれてしまうと。
――彼は、どんな手を打ってきたんですか?
私が弁護士事務所を訪れる前日の18年1月17日、「明日、弁護士事務所に持っていってください」と敬語で言われて、記入済みの離婚届を渡されました。その届の親権者は私になっていました。
――とすると、その離婚届は使わなかったんですね。使っていたら、子どもたちの親権は、あなたのものだったのでは?
そうなんです。でも私、そのとき、離婚する気がなかったし、日本の単独親権制度の怖さがよくわかっていなかった。まさかその後、会えなくなるなんて思ってもみなかった。だから、区役所に提出しなかった。
――では、彼が子どもたちを連れ去ったのはいつですか?
その前に彼は離婚協議書の草案を作成して、私に渡しました。そこには、養育費の金額とかの条件がいろいろ書いてあった。彼が作った草案に私が目を通して修正した後、2月21日に承認しました。そして、その後すぐ、私が仕事から帰ってきたら、彼が家からいなくなっていました。何も言わずに。彼の荷物もない。数日前に「これが新住所」と記されたメールが届いただけ。
――そのとき、子どもたちは連れ去られたのですか?
いえ、子どもはまだ家にいました。だから、次の日から、私ひとりで子どもの世話をしなければならなかった。それで、私の母が子育てを手伝うために、オーストラリアから来てくれました。
――それから彼とは、どんな関係だったんですか?
次の週は息子の誕生日だったので、「家族4人でレストランに出かけましょう」と提案しました。すると、彼は来ました。でも、その食事は本当につらかった。私たちを捨てた彼とは会いたくなかった。彼が許せなかった。
――それでも、子どもたちのために頑張ったんですね。その後は? レストランでお別れしたんですか?
私たち3人の車に無理やり、彼が乗り込んできて一緒に家に帰ろうとした。「俺の家に帰るだけなのに何が悪いんだ。キャサリンが俺に指図することはできない」って言って。でも、私、我慢した。息子の誕生日なのに、ケンカするところを見せたくなかったから。
――迷惑に感じたでしょう?
そう思った。だって彼、その日、午後10時半を過ぎても帰らなかったんですよ。私は翌日学校があるから早く寝たかったし、鍵をかけたかった。だけど、帰ってくれなかったので、寝られなかった。
――で、その後の彼は?
子どもたちに会いに、週3回のペースで来るようになりました。
――それは意外な展開です。
子どもたちと一緒に出かけたり、なぜか息子と2人でシャワーに入ったり。その上、使用済みの自分のタオルを、「これ俺のタオル」だと言って置いていったり。
――帰るのも遅いのですか?
そうなの。私は朝が早いから、早く帰ってほしかった。だけど、彼は「これは俺の家だ」と言って、別居先の家になかなか帰っていかない。だから、子どもが宿題できなかったりしたこともしばしばあった。
――彼が何をしたいのか、わからなくなってきました。
4月、彼は行動を起こしました。別居をやめて戻ってきて、私と子どもたちの仲を引き裂く工作を始めたんです。まだ母がいるときに。そして私がいないときに、いろいろと私の悪口を言って、子どもたちが私を嫌いになるようにしていたんです。
――片親疎外(PAS)ですね。でも、子どもたちと一緒に住んでいるなら、効果が薄いのでは?
そうでもなかった。毎日毎日、私の悪口を言われ続けると、子どもたち、信じるようになった。親子関係は良好だと思っていたので、気がついたときはショックだった。
――いつ気がついたんですか?
毎年8月、子どもたちを連れてオーストラリアに行っていたんですが、その年、出発の1カ月ほど前に息子にこう言われました。「マミーに連れ去られるから行けない。パパが裁判を起こしたら2年かかる。そうすると私たちはパパに2年間会えなくなる」って。
――それはショックですね。
そのとき、私は「連れ去り」とは何かを知りませんでした。まだ8歳の息子がなぜそんな言葉を知っているのかなと思い、「連れ去りって何?」と聞いたんです。すると息子は「わからない」って。そばにいた娘は、やりとりを見て、「まずい」という表情をしました。2人に彼が「連れ去り」の話をしたのだと思います。
――ひどいですね。
当時、父がアルツハイマーにかかっていて心配だった。だから、子どもたちをオーストラリアに連れていって、顔を見せたかった。でも、子どもたちは彼の言葉を信じてしまって、一緒に帰ってくれなかった。悲しかった。でもどうしようもない。だから、私ひとりで、2週間ほどオーストラリアに帰りました。
――引き離すことに彼は必死ですね。
そうなの。もしオーストラリアで同じようなことをすれば、彼が親権を失います。別れても、共同で責任をもって養育するのが当然だから。もし相手の合意を得ずに子どもを連れていったら、実子誘拐として罰せられます。
――オーストラリアでは、離婚はどのように進められるのですか?
例外を除いて1年間、離婚する前に別居しなければならない。それが法律で決まっている。その間に、しっかりとした話し合いが行われるんです。その間に、考え直したり、お金のことを決めたり、養育計画を作り上げたりする。そうした決まり事を経たあと、弁護士とかに見せにいってOKが出たら、やっと離婚できる。オーストラリアは親権のことを何年か前に「ぺアレント・レスポンシビリティ(親責任)」とした。親が子どもに対して責任を持つ。だから、子どもから逃げることはできない。
日本では紙一枚だけで離婚できるから、責任を取らなくても離婚ができる。親権のことも紙一枚で決められてしまう。オーストラリアでは、親権のない親が子どもに会えなくなっても知らんぷり、という日本の離婚制度とは全然違う。
――彼が子どもたちを実際に連れ去ったのはいつですか?
私がオーストラリアから戻って約8カ月後の19年4月16日、彼に子どもたちを連れ去られました。
――その日の経緯を教えてください。
私が朝起きて職場に行って、夕方自宅に帰ってきたら、全部なくなっていました。テレビ、電子レンジ、炊飯器、車、ソファ。全部なくなりました。お皿、コップ、鍋、ポット。全部なくなっていた。それに子どもたちもいなくなっていた。
――1日でそういうことができるのは、あらかじめ計画してないと無理ですね。
でも裁判では、子どもは14歳と10歳で、まだ未成年だから連れ去りじゃない、それに物を持ち出すのは犯罪ではないと判断された。私の許可なしに盗んだのに。
――日本人として申し訳ない。
彼だけじゃなくて、裁判所や日本の法律が、私を悪い目に遭わせている。
――そもそもビジネスで忙しくなったんだったら、彼には子どもを育てる時間もないじゃないですか? 行動が矛盾しているように思います。
そうなの。彼が本当にやりたかったのは、自由な時間を持つこと、ビジネスをすることでしょ? でも子どもを連れ去って、子どもの世話をしなくちゃならなくなった。だから、今はそれができなくなった。それに家族を壊してしまって、子どもたちや私を傷つけた。男として父親として、完全な失敗。子どもに自分のお母さんを嫌いにさせるのってすごい。本当に恥ずかしい。全然尊敬できない。
――彼は、なぜ子どもたちをあなたに会わせることを、そんなに拒否するのでしょうか? 会わせたほうが楽なのではないかと思いますが。
「キャサリンが家庭を壊した犯人だから、キャサリンが悪い。だから、子どもと会う資格がない」というストーリーを彼は裁判で言い、子どもにも家で言い続けました。だから、私に会わせるとストーリーが壊れる。それが嫌。もし私に会わせたら、「お母さんはあなたたちを愛してるよ」っていうことを、子どもたちが思い出すでしょう。そうすると、2人は母親と一緒に住みたがる。それを恐れて、完全に私と会わせないようにしている。私が本当はいい母親だから、こういう状態になったんだと思います。
――その後、どうなりましたか?
20年11月に判決が出て、親権者は彼になりました。連れ去りしたこと、片親疎外をしたことを罪に問うことはできなかった。それとは別に、面会交流の調停で、後日、ビデオレターを見せることが決まっていました。
――そのビデオレターは、どんな内容だったのですか?
私から子どもたちに向けたメッセージで、長さは20分間です。そのビデオレターを、私の弁護士が子どもたちにオンライン(Zoom)で見せる予定でした。
――子どもたち、喜んだでしょう?
いいえ。Zoomにつながった子どもたちの反応は、そうではありません。娘が私の弁護士に「私たちには見る義務があるのですか?」と言ったんです。弁護士が「別に」と答えると、娘は「私たちは見るのを拒否します。私たちはビデオを見たくない。お母さんの顔を見ると、気持ち悪くなるから」と言って、ビデオレターの視聴を拒否されてしまいました。Zoomにつないでいたのは、たったの10分間でした。
――言わされてるようですね。
20年12月の調停で、調停委員にこう言われました。「子どもが嫌がっているなら、面会は無理です。子どもたちは、あなたに会わなくても大丈夫。子どもの将来を考えて、会いにいくのを遠慮してください」と。そうして、「今後、面会交流はなし」という判断が出た。私はすごくショックを受けて、足がゼリーみたいにグニャグニャになって、立って歩くことすらできなくなった。そのとき、待合室で2時間ぐらい泣きました。
21年1月、追い打ちをかけるように、彼のほうから通知が来た。そこには、次のように書いてあった。婚姻費用(離婚前に配偶者と子どもたちに払う生活費)を払え。4人で住んでいた家から1週間以内に立ち退けと。1月にその手紙が来て、その後、ショックのあまり体調を崩し、約7週間、家から出られなくなった。
3月になってようやく、家を出られるようになった。だけど、通勤中にパニック状態になって、たどり着けなかったり。学校に着けたとしても、その途端にすごくストレスを感じて、保健室で休んでいたりしました。「生きているのは嫌。子どもがいない人生はいらない」って、そういうことばかり考えてしまう。
オーストラリアにある自殺防止の公共電話サービスに電話したり、カナダのカウンセラーにオンラインで相談に乗ってもらったり、漢方薬で症状を抑えたりしていて、今はこうしてやっとインタビューに答えられるようになった。
――子どもたちとは、まったく会っていないのですか?
3月に、息子の小学校の卒業式に参加しました。私と校長先生といい関係をつくっていたので、それができた。でも、息子の入学した中学校がどこかは知らない。今はどこにいるのかすらわからない。
――今後、どうやって生きていきますか?
今は、私が何をやっても、子どもに会うことができない。連絡先がわかっても、会うのを拒否されるでしょう。となると、子どもの気持ちの変化を待つしかない。でも、このようなインタビューを、たまたま子どもたちが見つけて読めば、私が何を考えていたかを知ることができるでしょ? そうすれば私の気持ちをわかってくれるし、きっと会いに来てくれる。私はそれを信じている。
(西牟田靖)
『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。
おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?
第5回 キャサリン・ヘンダーソンさんの話(前編)
「『あなた犯罪者じゃないのに、なぜ2年間も子どもたちに会えないの?』と、私の国の友人たちから言われます」
そう嘆くのは、高校生の娘と中学生の息子、2人の子どもを持つ、キャサリン・ヘンダーソンさん。彼女の祖国、オーストラリアでは共同親権、共同養育が当たり前、別れた後に子どもに会えなくなる母親は約1%にすぎないという。
https://aifs.gov.au/publications/parenting-arrangements-after-separation
彼女はなぜ、遠い日本の地で、わが子と生き別れになってしまったのか――。前編では、夫との仲に亀裂が入るまでを聞く。
――もともと生まれたのは、どちらですか?
1970年、オーストラリアのメルボルン生まれ。結婚して移住するまでの間、基本的にずっとそこに住んでいました。私がティーンエイジャーだった80年代、日本人はすでに珍しい存在ではありませんでした。日本から転校してきたヒロコと友達になったり、弟の交換留学で、和歌山から来た男の子が、うちに数週間ホームステイしたり。また、祖母が日本人に生け花を習っていたりもしました。日本のカルチャーもいろいろ入ってきていて、漫画の『AKIRA』を弟がよく読んでいました。
――その後、日本との付き合いは何かありましたか?
メルボルンで大学に進学して、生理学や生化学を専攻しました。大学では日本語も勉強していて、21歳のとき、ワーキング・ホリデーで日本に7カ月住みました。働いたのは群馬の温泉ホテル。当時は日本語がカタコトでした。
帰国後、大学院に入り、教師になるために教育学や日本の文化について学びました。大学院を出る頃には、日本語をある程度マスターしていて、その頃、駐在員の家族に英会話をレッスンしていました。
――夫となる男性とは、いつ知り合ったんですか?
大学院を卒業した後、公立学校で日本語と理科の教師になりました。97年のことです。彼とは、その年に会いました。友人から、「友達に日本人がいるけどどう?」って言われて、紹介されました。そのとき、私、思ったんです。「日本語の勉強になるし、会ってみようか」って。それで実際に会って話してみたら、すぐに仲良くなり、デートをするようになりました。
――どんな人なんですか?
私より年は2つ下で大阪出身。大学で機械工学を勉強して、いったんは就職しました。しかし、その会社は転勤が1年に3回あり、低いレベルの仕事しかさせてもらえない。そんなひどい会社だったので、辞めたそうです。私と会ったときは、英会話の学校に通って、英語の勉強をしていました。彼が格好いいなって思ったのは、英語が話せなくても自信を持っていたこと。英語が話せないのに、一緒に行ったレストランで、支払い時の店員とのやりとりを私にお任せしなかった。
――彼と結婚するまでは、どのように過ごしていましたか?
知り合った翌年の98年、一緒に住み始めました。彼はオーストラリアに家族がいないので、お付き合いしていた5年間、私の家族が彼のサポートをしていました。
――5年一緒に住んだ後、なぜ結婚したのですか?
1年間、彼はシドニー、私はメルボルンで暮らしました。というのも、彼、シドニーで仕事が決まったんです。そこは日本人の人材を探している会社。面接に行ったら採用になりました。一方、私は国際交流基金の奨学金をもらうことが決まっていて、「2カ月休んで日本に行ってもいい」と職場も言ってくれていた。そんな状況なのに、「奨学金はいらないので辞めます。シドニーで彼と一緒に住みます」って言いにくいじゃないですか?
――それで1年、仕事の都合で別居した後、結婚したんですね?
そうです。彼がシドニーに住み始めた後、「結婚しよう」という話になりました。結婚式は両方の国でしました。2002年7月にオーストラリアのワイナリーで、友達数人とお互いの両親を呼んで、式を挙げました。そして10月には大阪のお寺で結婚式を挙げて、結婚届を出しました。その後、日本で暮らし始めました。彼の会社は東京にも支社があるから、「日本に住みましょう」と私が提案した。すると彼がOKした。
――当然、一緒に日本に移住したんですよね?
そうです。でも、タイミングがバラバラでした。仕事の関係で私だけ一足先に、03年1月に東京へ引っ越しました。仕事はALT(アシスタント・ランゲージ・ティーチャー)。都内の学校に派遣されて英語を教えていました。彼は4月にシドニーから東京へ転勤してきて、一緒に住み始めた。
――お子さんが生まれたのはいつですか?
03年12月のクリスマスに2人でオーストラリアへ行ったときに妊娠したみたい。だから娘は、MADE IN オーストラリア(笑)。娘を産んだのは04年9月で、私は34歳でした。小学3~4年生までは日本で、その後、オーストラリアに戻るというプランを当時は考えていた。そうすれば言葉も文化も両方の国のことを学べるから。でも、その考えは実現しなかった。
――彼は、子育てにどのぐらい関わったんですか?
彼自身、「自分の父親をはじめとする、ほかの日本の男性よりも、ずっと自分はやっていた」と思っていたことでしょう。しかし、私の基準からすると、ずいぶん水準が低い。もちろんイーブンイーブンではなくて、私のほうがたくさんやっていた。
――なぜ、そんなに意識が違うのでしょうか?
彼の母は専業主婦で、父は週に6日働いていた。彼の父と比較したら、確かに彼はやっている。一方、私の母は小学校の教師として働いていて、両親共働き。だから、イーブンでやるのが当たり前だった。
――具体的には、どんな割り振りだったのですか?
保育園の送り迎えは日によって違っていた。彼がやっていたのは食べものの買い物、料理、朝に洗濯物を干す。帰宅後は、自分のシャツにアイロンをかけていた。でも、トイレットペーパー、ハンドソープ、シャンプー、歯磨き粉、洗剤がなくなっても補充はしなかった。子どもの予防接種も、私に任せっぱなしだった。
――2人の関係がギクシャクし始めたのは、いつ頃ですか?
09年に生まれた息子が15年、小学校に入学した。そのぐらいの年齢になれば、いったん子育てが落ち着いて、2人で過ごせる時間が取れると思っていた。でも彼の考え方は違っていて、「会社員を続けながら、自分の会社を作りたい」という考えだった。
2人とも働いているし、東京には誰も親戚がいない。 それに子どもが2人もいる。だから、彼が新しくビジネスを始める余裕はないと思っていた。だから私は彼に条件を出した。「受け持っている生徒たちの試験が毎年11月にある。始めるなら、せめて試験が終わってからにしてください。会社を作るための準備で人に会いに行ったりして夜遅くなるのなら、あらかじめ説明してください」と。
――彼は条件を守りましたか?
いいえ。私の生徒たちの試験が行われる11月より2カ月も早い9月に、彼は会社を始めてしまいました。
――彼は約束を破ったんですね。
しかも、年明けの1月には、夜中の2時になっても帰ってこないのが通常になった。そうしたことが続いて、私は不安で寝られなくなった。
――2人の子どもは、まだ小さいですものね。
そうなんです。それに私、日本人じゃないから、地震に慣れていない。11年の東日本大震災の揺れは、本当に怖かった。そのとき、あの地震から4年がたっていたけど、「また揺れたらどうしよう」って、ずっと思ってた。だから余計に不安が大きくなった。
――彼に注意はしたんですか?
1月になって言いました。「出かけるときに、どこに行っているか教えてください」と。すると彼、従ってくれたり、聞き入れてくれるんじゃなくて、むしろ怒って言いました。「キャサリンは、オレのことをコントロールしようとしている」と。そして、その後、彼は私のOKがないまま、ずっと帰ってこなくなった。だから私、不安で寝られなくなってしまったし、仕事にも出られなくなった。なのに、彼は私を無視した。
――彼が経営していたのは、何の会社なんですか?
ワインの輸入販売、コンピューター関係の相談とか。業務内容はバラバラ。収益は上がっていなかった。確定申告は毎年行っていましたけどね。
――なぜそんなに、彼は新しいビジネスにこだわったんでしょうね?
彼はそのときミッドライフクライシス(中年の危機)だったのかも。今までの人生は「自分の思い通りにいかなかった」と思い込んでしまった。だから、突然、新しいことを始めた。それが新しいビジネスだった――。私はそう解釈した。だとすれば、しばらく静かに待ってあげたら落ち着いていくと思った。
――彼は落ち着いた?
いいえ。ますますひどくなった。例えば、一家で車でお出かけしたとき、靴を履かずに靴下のまま運転をしたり、それまで吸っていなかったタバコを41歳になってから吸い始めたりもした。ヘンでしょ?
――確かにヘンですね。それで、その後、関係はどうなったんですか?
2年間、ずっと関係はよくなかった。彼は毎月、1週間大阪に出張していて、私や子どもたちに秘密で、若い女性と交際しているようでした。LINEのメッセージに証拠が残っていた。
――キャサリンさんの体調はどうでしたか?
どんどん悪くなっていった。不眠症になってしまって、学校に働きに行っても保健室で寝かされることが普通になった。
――お子さんとの関係はどうだったんですか?
私たちの親子関係は良いほうだったと思います。だからもし、平等に離婚の調停をしていたら、私が親権者となる可能性が高かった。日本人ではないけども日本語が話せる、学校の教師。日本に長く住んでいる。悪くない母親。すると、彼が子どもたちの親権を得るためには、連れ去りという選択しかなかった。
――彼が離婚したいと言いだした経緯を話してもらえますか?
15年、16年と2人の関係はよくなかったけど、17年になると少し関係が落ち着いてきていた。ミッドライフクライシスを乗り越えたんじゃないか、という手応えが、そのとき私にはありました。だから私、彼に提案しました。「出張から帰ってきたら、10月の結婚記念日を一緒にお祝いしましょう」と。彼が承諾したので、レストランのコース料理を予約しました。彼の出張の都合で数日遅れの日に。
――それは、どんなお店ですか?
荻窪のスペイン料理店です。当日、子どもを残して2人きりで、バスで行きました。そのとき、私、結婚15周年を記念した贈り物を用意していたんですよ。
――それは素敵ですね。贈り物は何だったんですか?
ギフトセットの箱に入った、クリスタルのワイングラスです。ペアで1万円もする高級なグラス。
――2人でごちそうを食べて、記念日を祝ったのですね。それでプレゼントは渡したんですか?
いいえ。それどころではなくなりました。というのも食事の途中、突然、「離婚したい」と切り出されたんです。私はショックを受けて、固まりました。私が黙っていると、彼は「帰ろう」って言って、席を立ちました。
――コース料理なら、まだ出てきていない料理もあるでしょう?
そうなんです。私たちの修羅場を見て、レストランのスタッフがパニックになりました。すごく困っていて、「メインディッシュのプレートがこれからです。どうしましょう?」と相談されました。すると、彼はさっさと会計を済ませて、店を出ていきました。
――ひどすぎますね。無理やり、関係を壊そうとしているフシすら感じます。それで、その後の家庭生活はどうなりましたか?
家庭内別居です。それまでは、2人でダブルベッドに寝ていたけど、レストランで「離婚したい」と言われてから、彼は子ども部屋で布団で寝ていた。その後の11月と12月、本当につらかった。
――その後は?
年が明けた後、子どもたちを連れて、オーストラリアへ戻りました。
***
これは国をまたいだ別居なのか、それとも一時的な帰国なのか……。
(後編へつづく)
人生、何度でも、いくつになっても、やり直しができる。間違えても大丈夫、もう一度、立ち上がって生きていこう!――そんなメッセージを込めてお送りする連載「2回目だからこそのしあわせ〜わたしたちの再婚物語」では、失敗を糧にして「結婚」に再チャレンジし、幸せを手にしつつある人たちの物語を紹介していく。
「1回目の結婚は、私のお酒の問題が原因で破綻してしまいました」と、中田照子さん(仮名・66歳)。
照子さんと元夫は照子さんが42歳、元夫が35歳のとき、趣味のサークルで知り合って結婚した。実は当時から照子さんは、お酒に依存していた。あとからわかったことだが、照子さんにはADHD(注意欠陥・多動症)という発達障害があり、仕事や人間関係でうまくいかないことが多かった。
「ミスが多かったり、場違いな行動をとってしまったりするので、浮いてしまうんです。そのころはまだ、大人の発達障害は知られておらず、『どうして私はこうなんだろう』と情けなくなる気持ちを、お酒で紛らわしてしまっていました」
一方、元夫も、彼の父親によると「息子はASD(自閉スペクトラム症・アスペルガー症候群)」。思い込みが強く、こうと決めたら引かないところがあった。コミュニケーションに課題を抱える2人が結婚したものだから、けんかが絶えず、照子さんはますますお酒に逃げ込んだ。
「ファミレスなんかで食事をしても、私がちゃんぽんでどんどん飲んで、ベロベロに酔っ払うものだから、元夫はあきれ果てていました。元夫は下戸で、甘いワインをちょっと飲むくらい。そんなに飲む私を『理解できない、付き合いきれない』と言って、出先に置いて帰られたりもしていました」
40歳過ぎて結婚したから、子どもはそれほど期待していなかったが、一応、不妊治療をしていた。46歳になり、『さすがに無理だよね』とやめた途端、なんと自然妊娠。47歳で娘を出産した。
「相変わらずけんかは多かったけど、子どももできたし、頑張って夫婦をやっていこうと思いました」
初めての子育ては、思った以上に大変だった。とにかく体がキツかった。帝王切開の傷がなかなか治らず、出血が続いていた。母親は亡くなっており、父親は76歳と高齢で、頼れる親族もいなかった。
「子育てに悩み、区役所や児童相談所など、いろいろなところに相談に行きました。子どもが1歳半から保育園に週2回、2歳からは週5日、預けられるようになったのですが、私には、子育てがつらくてたまらなかった」
妊娠中から授乳中までの間は、さすがにお酒をやめていた。が、あまりのストレスに、照子さんは再びお酒を飲み始めた。
「お酒を飲んで、勢いをつけてからでないと、育児ができないんです。子どもが言うことを聞かなくてイライラして飲む、怒鳴ってまた飲む。子どもに手を出してしまったことがあり、怖くなって児童相談所に相談したら、『一時的に施設に預けてはどうか』と言われました。私は、休めるものならいったん育児を休みたいと思い、子どもを預けることに同意してしまいました」
それを知った元夫が怒った。「児童相談所に預けるくらいなら、実家に帰って俺が育てる」。同時に、離婚も言い渡された。
「ここで離婚されたら、子どもの親権は元夫にいってしまう。それはいやだと思って、『なんとかやり直したい』と頼みました。私の父親、元夫の父親も呼んで話し合いの末、元夫と子どもは夫の実家に帰って別居すること、私がお酒の問題を解決し、きちんと子育てができるようになったら同居を考えることが決まりました」
夫の実家は新幹線の距離で、気軽に行き来することはできない。子どもには定期的に会いたいと思い、照子さんは元夫の実家の近くにアパートを借りて引っ越した。
なかなかやめられないお酒をやめるために、大学病院の精神科にかかった。CT検査をしたところ、脳の萎縮が進んでいた。
「素人目にもわかるほど、脳が縮んでいたんです。当時49歳でしたが、医師は『これは60代の脳だ』と。『すぐにお酒をやめないと痴呆になる』と言われ、怖くなってしまい、その日からお酒をやめました」
照子さんは、派遣で仕事を見つけて働いた。子どもとは元夫も一緒に、週末などに会っていた。学校行事にも参加し、子どもが小学校高学年になって放課後の学童保育が使えなくなると、週に2回ほど照子さんの家に帰宅。夜になって元夫が迎えに来て実家に連れ帰るという感じで、子どもと関わることができていた。
とりあえず、穏やかな日々が続いていたが、照子さんが、もっとたくさん子どもに会いたいと考え、元夫に無断で学校行事に参加したことから、関係性が悪化した。「面会交流を増やしたい」と調停を申し立てたことにも、元夫は腹を立てた。なかなか子どもと会えなくなり、照子さんにはつらい時期だった。子どもが「お母さんと暮らしたい」と言ってくれたこともあったが、元夫の反対でそれはかなわず、別居から8年後、離婚が成立した。子どもとは、たまに会ってプレゼントを渡すなどの交流が続いている。
脳のCT画像を見て以来、キッパリとお酒をやめた照子さんだが、常に「いつか飲んでしまうかも」という不安を抱えていた。市の施設に掲示されていた断酒会のお知らせを見て、連絡してみた。断酒会とは、お酒の問題を抱えた人たちによる自助組織で、同じ悩みを持つ人たちが互いに理解し合い、支え合うことを目的としている。
照子さんはここで、いまのパートナーとなる男性と知り合った。
「断酒会に行ってみようと電話をしたとき、対応してくれた男性で、とても親切で感じがよかった」
「一度、見学に来てください」と言われて行ってみたら、アルコール依存で悩んでいる人やその家族などが、20〜30人くらいいた。順番に自分の体験談を話したりしていて、照子さんも自己紹介を求められ、いままでの経緯を話した。断酒会では、どんな話も聞き合うだけで、批判や否定はしない。なかなか人に話せないでいた悩みを打ち明け、そのままを受け入れられる経験が、照子さんの心を、ほっとほぐした。照子さんは、断酒会への参加を決めた。
男性は照子さんと同じ歳で、やはり自身がお酒の問題を抱えていた。結婚、離婚を経験していて、大学生の娘と一緒に住んでいた。やさしく穏やかな人柄で、ひとり暮らしの照子さんを気遣って、時々車で送り迎えなどしてくれた。
とはいえ、そのころ照子さんはまだ既婚者だったから、一線を越えた付き合いではない。相談相手としての関係だった。
「子どもとの面会の回数が少なくなったり、元夫が離婚を求めてきたりしたときは、相談にのってくれました。面会交流調停の調書を書くのを手伝ってくれたこともあります。すごくよく書けていて、そのおかげで月2回・時間制限なしで子どもに会えるようになったんです」
8年前、照子さんが58歳のときに離婚が成立。照子さんは男性と付き合い始めた。
一緒に住むことはしなかった。互いの家を行き来したり、外に食事に出かけたり。大人同士の静かな交際を続けていた。
一緒に暮らし始めたのは、いまから4年前、男性の大腸がんが見つかって、手術をすることになったからだ。
「退院してもそうすぐには動けないから、初め彼はヘルパーさんを頼むなどして乗り切ろうと思ったらしいんです。でも、『それなら私が行くよ』と。そこから、彼の家に住み始めました」
いまのところ共同生活は、うまくいっている。照子さんは物事をはっきり言うほうで、男性は言いたいことをのみ込んでしまうタイプ。元夫とはすぐに応戦になったが、男性には照子さんを包み込む包容力がある。照子さんがキャンキャン言うのを、うまくなだめてくれている。
一方で、照子さんも、病を抱えた男性の心細さに寄り添っている。互いに60代半ばを過ぎ、一緒に暮らす人がいる安心感は計り知れない。
「子どももいるので、籍を入れることはしません。でも、このまま一緒に、穏やかに年を重ねていきたいと思いますね」
(上條まゆみ)
離婚を発表した市村正親と篠原涼子。女性週刊誌では、篠原に対するバッシングムードがにわかに作られようとしている。
昨年『女性自身』に別居が報じられた市村と篠原。コロナ禍での感染対策としての別居だったはずだが、2人の距離は埋められず、結局離婚となった。慰謝料や財産分与はなく、2人の子どもの親権は市村が持つという。
『週刊女性』2021年8月10日号(主婦と生活社)…
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