夫の人生に何も間違いはなかった。今も彼と娘との関係は友好的【別れた夫にわが子を会わせる?】

 『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第4回 岡田奈緒さん(仮名、40代)後編

 イベントコンパニオンや役者などとして活動していた岡田奈緒さんは、20代後半のとき、同じ舞台で知り合った10歳ほど年上の舞台俳優と結婚。翌年、娘を出産し、子育てに専念していたものの、娘が1歳になると、将来的なことを考えて不安が尽きなくなり、夫とすれ違い始める……。夫と別居しようと、関東近隣の団地から都内の実家所有のマンションに引っ越すも、夫がついてきてしまう。

(前編はこちら)

■価値観を押し付けたのは、たぶん私

――東京での暮らしは、どんな生活だったんですか?

「引っ越したのは、実家が所有しているマンションの、約13畳のワンルーム。ちっちゃいキッチンとちっちゃいお風呂がありましたけど、居住用というより事務所用の物件でした。そんな家ですから、夫の部屋は当然ありません。すると、余計ゴロゴロしてるのが目につくんです。でも、東京に来て環境が変わるので、夫が一念発起してくれればという願いがありました」

――一念発起とは?

「20代の頃には大人気だった夫も、すでに40代。俳優をやるにしても、別の仕事をするにしても、よほど改善をしなければヤバいわけです。だから、『何がしたいのか考えてみなさい』って、夫に言い聞かせてました。だって、そうでしょ? 子どもができてお金がいるというのに、どうやって稼いでいったらいいかとか、当然あるべき将来の青写真が、夫になかったんですから。

 あるときは、保険会社の人生設計相談を受けてもらったりもしました。そこでは、ライフプランを書かされるんですが、夫の書いた表に『何年後に家を買って』とかいう青写真的なものが、まったく出てこなかったんです。これじゃちょっと老後は背負いきれないな、ダメだなって。ガッカリしました。

 一方で、夫にとっては、私のそうした言動がストレスなんです。夫は、ご飯が食べられればいい。借金もしない。お金がまったくないわけでもない。お金はないんですけども、生きてはいける。月20万円ぐらいあれば、家族3人か4人生きていけるという人だったので、何を言われているかわからない。『子どもがいて楽しく暮らせればいいのに、何がいけないんだ』というすれ違いです。

 だから夫のモラハラとかDVというのとは真逆。価値観を押し付けたのは、たぶん私ですね。夫は現状で十分幸せなんですもの。夫の人生に、何も間違いはなかった。かわいそうに。だって夫からしたら、借金もないのに、なんで責められなきゃならないんだってことですよね」

――離婚を決意したきっかけは、なんですか?

「娘がクローゼットの陰で泣いてるのを見てしまったからです。東京に引っ越して1年ぐらい、それを見たときに『もうダメだ』って。子どもの精神状態がやばいと思って、『これはよくない。まずとにかく、夫と空間を分けるべきだ』って思ったんです。

 それからすぐ、どうやって離婚するかを調べ始めました。別居中の婚姻費用のことや、どういう段取りで離婚していくものなのかを、法テラス(無料法律相談)に行ったり、行政に相談しに行ったりして、教えてもらったり、本を読んで調べたりしました。調べると同時に、離婚後の生活の青写真を描きました。離婚するからにはガッツリ働こうと思って、いろいろ仕事の態勢を整えたんです。

 調べた後は夫の説得です。夫は、私が離婚したがってる意味がわからない。だから全然、話し合いが進まなかったですね。それで『本当に離婚したくないなら、策を考えなよ』って助け舟を出すんですが、提案してこない。公正証書とか事務的な決めごとを持ちかけると、逃げ回る。

 別居の話し合いの中で、双方がどこに住むかも話し合いました。『娘の近くに住みたいんなら、どうぞ。それで、いつ出ていくの? 年度末の3月31日がいいんじゃない? 期限を過ぎたら、日割りで家賃をもらうわよ』と話すと、夫は『やっぱり、実家に帰るよ』って答えましたね。そして劇団員の仲間に手伝ってもらって、引っ越していきました」

――娘さんには、どう説得しましたか?

「夫婦はやめたけど、親はやめられないという定義のもとに“離婚”しました。『パパとママは、仲良くできないんだ。楽しくないでしょ、この家庭。だからごめんね。パパとママ、夫婦はやめる。でもパパは減らないよ。ママがもし再婚しても、二番目のパパが増えるだけだよ』って娘には言って、納得してもらえました」

 岡田さんは、夫と別れる。面会の条件などを記した公正証書を先に作った上で、面会もすぐにスタートさせた。

――それで旦那さんは、ほかに仕事を見つけたんですか?

「最近は、タクシーの運転手をしているらしいです。すると、今度はタクシーのシフトが入ってしまって、役者のシフトを整理できなくなる。彼は不器用なので、自然と役者の仕事に手が回らなくなった。岩にしがみついてでも役者をやりたいんだっていう意地があったら、私は支えてもよかったんです。だけど、弱気になって、何がしたいのかわからなくなっちゃってた」

――面会は、どのように行っていますか?

「面会では、いろんなルールを作るじゃないですか。待ち合わせや引き合わせの方法とか、家には上げないとか。だけど、そうした決めごとは、ことごとく破られました。例えば『離婚後、週3日彼、週4日私が面倒を見る』ということを記したんですけど、6日に1回休みというタクシー勤務のシフトに合わせて、休みの日にうちに来るだけなんです。劇団とかの用事があれば来なかったり、逆に運動会とか、ぜひ来たいというときはシフトを調整して来たりしますけどね」

――面会が月に1回2時間とかいう人に、聞かせたい話ですね。ほかには?

「家に来ないというルールも破られましたね。離婚相手を、普通家に上げないでしょ。なのに彼は全然気にしない。今や泊まってますからね。彼が来たら来たで、彼がだらしないから娘が真似して、すごくだらしなくなっちゃう。宿題があるのに、教えたりとかはしなくて、ずっと2人でゲームやってるんです」

――どんなふうに面会するんですか?

「彼が娘と行くところといえば、ファミレスとかコンビニ、あとは公園。彼は食べることに興味がないので、特別なレストランなどには行きません。あと最近は娘が映画にはまっているので、新作映画には必ず連れていってくれます。それは良いことだと思います! あと夫の家族と旅行とか。まあそれで、娘も喜んでるんですけどね。

 彼と娘との関係は、今でもずっと友好的です。彼が来る日、娘は学校から小躍りしながら帰ってきます。娘の友達にも大人気だし、学校もわかってるんで、『お父さん、捨てられちゃったんだよね』って(笑)。彼はほんと大人気。彼が来る日は娘の友達もやってきて、うちがほとんど幼稚園状態です」

――養育費とかは、ちゃんと毎月もらってるんですか?

「今も婚姻費用のまま。離婚届は出したんですよ。だけど間違ってたから、もう1回書きました。『受理されなかったんだけど』って。まるでコントですよ。ちゃんと親権も決めたのに。書類がそろわずにグダグダ。なので、養育費じゃなくて婚姻費用ですね」

――復縁は考えますか?

「ないです。もう彼の面倒を見られないし、人としての魅力を感じないですしね。役者をやってたらまだしも、タクシーの運転手をやっているだけの彼は、なぜタクシーなのか、なぜそれがやりたいのかを話してくれないので、魅力を感じられない。でも彼、それで人生幸せだからすごいよなって、尊敬しますけどね。別に何も悩んでませんし」

――今後は、どうされるんですか? いい相手がいたら、再婚とか考えますか?

「去年、ライターの仕事がらみで婚活サイトを利用したんです。すると、『僕の子はいらない。君の連れ子以外に、僕の子を産んでほしいとかは求めない。ただ、やさしい奥さんに迎えてほしいんだ』という、お金も地位もあり、平穏を求める人ばかり。でも、それじゃ、私と全然合わないですね。私は娘を育てながら、会社も作っちゃったりしてきましたから。再婚相手とは、作ったり、挑戦したり、一緒に何かをしていきたいです。それが仕事でなくても。でも、落ち着きのない私は、結婚に向いていないのでしょうね(苦笑)。あと、私、気が多いんで、また新たなことを始めたくなってしまって。『富士山の方に移住しよう』とか『海外に住もうよ』とかって娘には話すんですけど、反対されるんです」

 今後、岡田さんは旺盛なバイタリティで、母として、一人の人間として人生を切り開いていくに違いない。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

夫の人生に何も間違いはなかった。今も彼と娘との関係は友好的【別れた夫にわが子を会わせる?】

 『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第4回 岡田奈緒さん(仮名、40代)後編

 イベントコンパニオンや役者などとして活動していた岡田奈緒さんは、20代後半のとき、同じ舞台で知り合った10歳ほど年上の舞台俳優と結婚。翌年、娘を出産し、子育てに専念していたものの、娘が1歳になると、将来的なことを考えて不安が尽きなくなり、夫とすれ違い始める……。夫と別居しようと、関東近隣の団地から都内の実家所有のマンションに引っ越すも、夫がついてきてしまう。

(前編はこちら)

■価値観を押し付けたのは、たぶん私

――東京での暮らしは、どんな生活だったんですか?

「引っ越したのは、実家が所有しているマンションの、約13畳のワンルーム。ちっちゃいキッチンとちっちゃいお風呂がありましたけど、居住用というより事務所用の物件でした。そんな家ですから、夫の部屋は当然ありません。すると、余計ゴロゴロしてるのが目につくんです。でも、東京に来て環境が変わるので、夫が一念発起してくれればという願いがありました」

――一念発起とは?

「20代の頃には大人気だった夫も、すでに40代。俳優をやるにしても、別の仕事をするにしても、よほど改善をしなければヤバいわけです。だから、『何がしたいのか考えてみなさい』って、夫に言い聞かせてました。だって、そうでしょ? 子どもができてお金がいるというのに、どうやって稼いでいったらいいかとか、当然あるべき将来の青写真が、夫になかったんですから。

 あるときは、保険会社の人生設計相談を受けてもらったりもしました。そこでは、ライフプランを書かされるんですが、夫の書いた表に『何年後に家を買って』とかいう青写真的なものが、まったく出てこなかったんです。これじゃちょっと老後は背負いきれないな、ダメだなって。ガッカリしました。

 一方で、夫にとっては、私のそうした言動がストレスなんです。夫は、ご飯が食べられればいい。借金もしない。お金がまったくないわけでもない。お金はないんですけども、生きてはいける。月20万円ぐらいあれば、家族3人か4人生きていけるという人だったので、何を言われているかわからない。『子どもがいて楽しく暮らせればいいのに、何がいけないんだ』というすれ違いです。

 だから夫のモラハラとかDVというのとは真逆。価値観を押し付けたのは、たぶん私ですね。夫は現状で十分幸せなんですもの。夫の人生に、何も間違いはなかった。かわいそうに。だって夫からしたら、借金もないのに、なんで責められなきゃならないんだってことですよね」

――離婚を決意したきっかけは、なんですか?

「娘がクローゼットの陰で泣いてるのを見てしまったからです。東京に引っ越して1年ぐらい、それを見たときに『もうダメだ』って。子どもの精神状態がやばいと思って、『これはよくない。まずとにかく、夫と空間を分けるべきだ』って思ったんです。

 それからすぐ、どうやって離婚するかを調べ始めました。別居中の婚姻費用のことや、どういう段取りで離婚していくものなのかを、法テラス(無料法律相談)に行ったり、行政に相談しに行ったりして、教えてもらったり、本を読んで調べたりしました。調べると同時に、離婚後の生活の青写真を描きました。離婚するからにはガッツリ働こうと思って、いろいろ仕事の態勢を整えたんです。

 調べた後は夫の説得です。夫は、私が離婚したがってる意味がわからない。だから全然、話し合いが進まなかったですね。それで『本当に離婚したくないなら、策を考えなよ』って助け舟を出すんですが、提案してこない。公正証書とか事務的な決めごとを持ちかけると、逃げ回る。

 別居の話し合いの中で、双方がどこに住むかも話し合いました。『娘の近くに住みたいんなら、どうぞ。それで、いつ出ていくの? 年度末の3月31日がいいんじゃない? 期限を過ぎたら、日割りで家賃をもらうわよ』と話すと、夫は『やっぱり、実家に帰るよ』って答えましたね。そして劇団員の仲間に手伝ってもらって、引っ越していきました」

――娘さんには、どう説得しましたか?

「夫婦はやめたけど、親はやめられないという定義のもとに“離婚”しました。『パパとママは、仲良くできないんだ。楽しくないでしょ、この家庭。だからごめんね。パパとママ、夫婦はやめる。でもパパは減らないよ。ママがもし再婚しても、二番目のパパが増えるだけだよ』って娘には言って、納得してもらえました」

 岡田さんは、夫と別れる。面会の条件などを記した公正証書を先に作った上で、面会もすぐにスタートさせた。

――それで旦那さんは、ほかに仕事を見つけたんですか?

「最近は、タクシーの運転手をしているらしいです。すると、今度はタクシーのシフトが入ってしまって、役者のシフトを整理できなくなる。彼は不器用なので、自然と役者の仕事に手が回らなくなった。岩にしがみついてでも役者をやりたいんだっていう意地があったら、私は支えてもよかったんです。だけど、弱気になって、何がしたいのかわからなくなっちゃってた」

――面会は、どのように行っていますか?

「面会では、いろんなルールを作るじゃないですか。待ち合わせや引き合わせの方法とか、家には上げないとか。だけど、そうした決めごとは、ことごとく破られました。例えば『離婚後、週3日彼、週4日私が面倒を見る』ということを記したんですけど、6日に1回休みというタクシー勤務のシフトに合わせて、休みの日にうちに来るだけなんです。劇団とかの用事があれば来なかったり、逆に運動会とか、ぜひ来たいというときはシフトを調整して来たりしますけどね」

――面会が月に1回2時間とかいう人に、聞かせたい話ですね。ほかには?

「家に来ないというルールも破られましたね。離婚相手を、普通家に上げないでしょ。なのに彼は全然気にしない。今や泊まってますからね。彼が来たら来たで、彼がだらしないから娘が真似して、すごくだらしなくなっちゃう。宿題があるのに、教えたりとかはしなくて、ずっと2人でゲームやってるんです」

――どんなふうに面会するんですか?

「彼が娘と行くところといえば、ファミレスとかコンビニ、あとは公園。彼は食べることに興味がないので、特別なレストランなどには行きません。あと最近は娘が映画にはまっているので、新作映画には必ず連れていってくれます。それは良いことだと思います! あと夫の家族と旅行とか。まあそれで、娘も喜んでるんですけどね。

 彼と娘との関係は、今でもずっと友好的です。彼が来る日、娘は学校から小躍りしながら帰ってきます。娘の友達にも大人気だし、学校もわかってるんで、『お父さん、捨てられちゃったんだよね』って(笑)。彼はほんと大人気。彼が来る日は娘の友達もやってきて、うちがほとんど幼稚園状態です」

――養育費とかは、ちゃんと毎月もらってるんですか?

「今も婚姻費用のまま。離婚届は出したんですよ。だけど間違ってたから、もう1回書きました。『受理されなかったんだけど』って。まるでコントですよ。ちゃんと親権も決めたのに。書類がそろわずにグダグダ。なので、養育費じゃなくて婚姻費用ですね」

――復縁は考えますか?

「ないです。もう彼の面倒を見られないし、人としての魅力を感じないですしね。役者をやってたらまだしも、タクシーの運転手をやっているだけの彼は、なぜタクシーなのか、なぜそれがやりたいのかを話してくれないので、魅力を感じられない。でも彼、それで人生幸せだからすごいよなって、尊敬しますけどね。別に何も悩んでませんし」

――今後は、どうされるんですか? いい相手がいたら、再婚とか考えますか?

「去年、ライターの仕事がらみで婚活サイトを利用したんです。すると、『僕の子はいらない。君の連れ子以外に、僕の子を産んでほしいとかは求めない。ただ、やさしい奥さんに迎えてほしいんだ』という、お金も地位もあり、平穏を求める人ばかり。でも、それじゃ、私と全然合わないですね。私は娘を育てながら、会社も作っちゃったりしてきましたから。再婚相手とは、作ったり、挑戦したり、一緒に何かをしていきたいです。それが仕事でなくても。でも、落ち着きのない私は、結婚に向いていないのでしょうね(苦笑)。あと、私、気が多いんで、また新たなことを始めたくなってしまって。『富士山の方に移住しよう』とか『海外に住もうよ』とかって娘には話すんですけど、反対されるんです」

 今後、岡田さんは旺盛なバイタリティで、母として、一人の人間として人生を切り開いていくに違いない。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

離婚後、3.11を機に大阪に移住。昨年、8年ぶりに元夫に助けを求めた【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第3回 中村珠美さん(仮名、40歳)後編

 中村珠美さんは、32歳のとき、勤め先の20歳年上のボスとの間に子どもを妊娠したことから結婚し、退職、子育てに専念する。ワーカホリックで多忙な夫は育児に非協力的で、かみ合わない日々の生活に疲れ果て、相手への情がなくなったため、別れを決意。対等でない関係のまま、夫の一方的な条件を受け入れ、離婚した。

(前編はこちら)

■余裕のない生活で、息子を会わせることまで考えられなかった

――離婚の際に取り決められたことは、実行されたんですか?

「お金を持っているはずなのに、一度も養育費が払われていません。自動振込の書類を銀行に提出すればいいだけなんですけどね。『手続きに行く時間がないって』と言い訳していました。そして、それだけではなく、さらに踏んだり蹴ったりだったんです。離婚前まで、退社したことになっておらず、それどころか私は彼の会社の役員というポストに置かれ、一銭ももらっていないのに、名目上は年収が600万円あることになっていたんです。そのため、離婚したその年の保育料は一番高めだし、ひとり親家庭に支給される手当(児童扶養手当)ももらえない。住民税も高い。本当は一銭ももらえてないのにですよ。子どもに会えない喪失感を彼も抱えていたとは思います。だけど、そんな状態がさらに彼への恨みのようになって、私もかたくなに会わせないという気持ちになっていました」

――離婚後は、どのような生活を送っていたんですか?

「別れてから3年間、元の家に近い都心エリアに住んでいました。働いて育てることで精いっぱいで、ものすごくしんどかった。だけど私が働かないと、生活が維持できない。それこそ、回し車の中のハムスターのような生活で、必死でした。

 マンションの家賃を払いつつ、子育てをしながら働いていたんですが、経済的にはカツカツでした。貯金は少しあったものの、夫との3人暮らしのときに比べると、だいぶ切り詰めないと、暮らしていけないんです。だから、息子に欲しいものがあっても、ほとんど何も買ってあげられませんでした。安いものでも、買うかどうか、その都度かなり悩みました。

 生活環境ががらりと変わったことで、息子も大変だったと思います。離婚した直後、息子はイライラし、暴れて泣くことが多かったです。そのたびに私も自分を責め、泣いていました。そんな生活ですから、彼に何か請求をしたりとか、そういう手が回りません。近所ですので、彼にばったり会うんじゃないかとおびえていましたし。そんなわけで、彼に息子を会わせたほうがいいかとか考えることもしたくなかったし、その気がまったくなかった。やっぱり気持ち的な余裕がないと、難しいです」

――それでも東京に住み続けようとしたんですか?

「当時住んでいた地域の子どもたちは6割ほどが中学受験をするんですが、私が田舎育ちだからということもあって中学受験というものの想像がつかないし、そもそもそんな余裕はありませんでした。ここで子育ては無理だな、と思うようになって、だったら、実家の近くで、東京に出るのが便利なところに引っ越そうということで、段取りを組んでいたんです」

――引っ越しは実行されたんですか?

「いいえ。それどころじゃなくなりました。3.11が起こって、私がパニックになってしまったんです。『早く西へ逃げろ』とか、そういう発言にモロ煽られて、私はたちまち、『北関東なんて、放射能に汚染されてて危ない!』って思い込むようになりました。

 保育園のママ友に、飲み屋のママがいて、彼女の出身地が大阪だったんですよ。彼女はそのころ、実家で子育てをして、仕事は都内の飲み屋という大阪半分東京半分の生活をする予定で、実家への引っ越しを進めてたんです。パニクってた私は、そのママに『息子をあなたの子と同じ小学校に行かれるように、私も引っ越すから』って言って、実際に引っ越してきたというわけなんです」

――大阪に来てからの生活はどうですか? そうやって移住してきたママたちの間での連帯はありますか?

「原発事故のせいで私はここにいると思って、最初は反原発デモとかに行ってたんです。だけどやっぱり置かれた状況が一人ひとり違うし、ちゃんと帰れる家があるのに勝手に避難してきた人たち、しかも東京から。そういう負い目みたいなものを勝手に感じていましたし、デモに行くと、またいろんなことを言う人がいるじゃないですか。放射能をものすごく気にするお母さんにとっては、東北・関東は汚染地帯なので、その場所で農作物を作る、それが流通する、流通した場所まで汚染される……という理屈がありました。

 私の実家は茨城県で、農家出身の父は家族が食べる分だけの野菜を畑で作っていたので、そのことを話したら、『そういう人がいると、その食べ物が流通して、日本中が汚染されるんだよね!』と言われ、まるでうちの父が悪人のように言われていると感じました。その人たちにはその人たちの生活があるということには思い至ることもなく、『子どもを守る』という名目で、多くの人を傷つけるような言動をしているのが、ものすごく疑問でした。これは、そのとき自分がとても弱っていたから、なおさらだったと思います。それでぐっさりと傷ついて、そういうところには行かなくなりました。なので、反原発関連のママ友はもう誰もいないです」

――息子さんとの生活はどうですか?

「大阪に来て6年たって、息子は中1になりました。本当に、あっという間でした。3.11後の移住という急な動き、関西というまったく縁のない土地への順応と仕事探しと生活を整えるのに必死で、息子への離婚後のケアは全然できてませんでした。

 経済状態は相変わらずで、思春期に差しかかってきた息子の鬱憤がそこに表れることもありました。彼が欲しいものを『いや、うちは買えないから』と言うと、『おまえが離婚したせいだろ』とか言って、壁を蹴ったり、それを止めようとして私が攻撃されたりもして……。離婚だけのせいじゃないとは思うんですが、言葉にできないいら立ちみたいなものが、すごく出てきているんです」

――元旦那さんには連絡されていないんですか?

「息子による暴力や学費の心配など、いろいろ困ることが出てきたので、わらにもすがる思いで、8年ぶりに、元夫に連絡をしてみました。『助けてください』という文面のメールを出したんです。メールの文面でですけど、これまで息子に会わせてあげられなかった自分の非を詫びることもできました。自分から一歩踏み出せて、よかったと思っています」

――元旦那さんからの返事はあったんですか?

「私からのメールが、たぶんうれしかったんでしょう。『困ったことがあったら相談に乗るよ』という返事が来ました。今やってる仕事の本を送ってきてくれて、息子に『こんな本作ってんだって』って言ったら、『おお、すげえ』って。まあ彼の中で父親がどんな人なのか、想像してるんでしょうね。息子宛に送られてきたメールは、そのままプリントアウトして、『読んでみたら』って言って渡しましたが、『思春期たるものこういうもの。誰もが壁にぶつかるもの』とか、説教臭い部分もあるので、読んでるかどうか……」

――まだ再会はしてない?

「実現していません。彼は彼で、会わせもしなかったくせに、こんな状態になってから相談しやがってと思っているかもしれませんし、それだけ時間がたってしまうと、彼の方も、そんなに会いたいという気持ちがないかもしれないですしね。どう思っているのか、またこれから関係がどうなるのかわかりません。だけど、これまでのツケもあって、すごく面倒くさい父子、そして母子関係になってしまうかもしれませんね」

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

離婚後、3.11を機に大阪に移住。昨年、8年ぶりに元夫に助けを求めた【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第3回 中村珠美さん(仮名、40歳)後編

 中村珠美さんは、32歳のとき、勤め先の20歳年上のボスとの間に子どもを妊娠したことから結婚し、退職、子育てに専念する。ワーカホリックで多忙な夫は育児に非協力的で、かみ合わない日々の生活に疲れ果て、相手への情がなくなったため、別れを決意。対等でない関係のまま、夫の一方的な条件を受け入れ、離婚した。

(前編はこちら)

■余裕のない生活で、息子を会わせることまで考えられなかった

――離婚の際に取り決められたことは、実行されたんですか?

「お金を持っているはずなのに、一度も養育費が払われていません。自動振込の書類を銀行に提出すればいいだけなんですけどね。『手続きに行く時間がないって』と言い訳していました。そして、それだけではなく、さらに踏んだり蹴ったりだったんです。離婚前まで、退社したことになっておらず、それどころか私は彼の会社の役員というポストに置かれ、一銭ももらっていないのに、名目上は年収が600万円あることになっていたんです。そのため、離婚したその年の保育料は一番高めだし、ひとり親家庭に支給される手当(児童扶養手当)ももらえない。住民税も高い。本当は一銭ももらえてないのにですよ。子どもに会えない喪失感を彼も抱えていたとは思います。だけど、そんな状態がさらに彼への恨みのようになって、私もかたくなに会わせないという気持ちになっていました」

――離婚後は、どのような生活を送っていたんですか?

「別れてから3年間、元の家に近い都心エリアに住んでいました。働いて育てることで精いっぱいで、ものすごくしんどかった。だけど私が働かないと、生活が維持できない。それこそ、回し車の中のハムスターのような生活で、必死でした。

 マンションの家賃を払いつつ、子育てをしながら働いていたんですが、経済的にはカツカツでした。貯金は少しあったものの、夫との3人暮らしのときに比べると、だいぶ切り詰めないと、暮らしていけないんです。だから、息子に欲しいものがあっても、ほとんど何も買ってあげられませんでした。安いものでも、買うかどうか、その都度かなり悩みました。

 生活環境ががらりと変わったことで、息子も大変だったと思います。離婚した直後、息子はイライラし、暴れて泣くことが多かったです。そのたびに私も自分を責め、泣いていました。そんな生活ですから、彼に何か請求をしたりとか、そういう手が回りません。近所ですので、彼にばったり会うんじゃないかとおびえていましたし。そんなわけで、彼に息子を会わせたほうがいいかとか考えることもしたくなかったし、その気がまったくなかった。やっぱり気持ち的な余裕がないと、難しいです」

――それでも東京に住み続けようとしたんですか?

「当時住んでいた地域の子どもたちは6割ほどが中学受験をするんですが、私が田舎育ちだからということもあって中学受験というものの想像がつかないし、そもそもそんな余裕はありませんでした。ここで子育ては無理だな、と思うようになって、だったら、実家の近くで、東京に出るのが便利なところに引っ越そうということで、段取りを組んでいたんです」

――引っ越しは実行されたんですか?

「いいえ。それどころじゃなくなりました。3.11が起こって、私がパニックになってしまったんです。『早く西へ逃げろ』とか、そういう発言にモロ煽られて、私はたちまち、『北関東なんて、放射能に汚染されてて危ない!』って思い込むようになりました。

 保育園のママ友に、飲み屋のママがいて、彼女の出身地が大阪だったんですよ。彼女はそのころ、実家で子育てをして、仕事は都内の飲み屋という大阪半分東京半分の生活をする予定で、実家への引っ越しを進めてたんです。パニクってた私は、そのママに『息子をあなたの子と同じ小学校に行かれるように、私も引っ越すから』って言って、実際に引っ越してきたというわけなんです」

――大阪に来てからの生活はどうですか? そうやって移住してきたママたちの間での連帯はありますか?

「原発事故のせいで私はここにいると思って、最初は反原発デモとかに行ってたんです。だけどやっぱり置かれた状況が一人ひとり違うし、ちゃんと帰れる家があるのに勝手に避難してきた人たち、しかも東京から。そういう負い目みたいなものを勝手に感じていましたし、デモに行くと、またいろんなことを言う人がいるじゃないですか。放射能をものすごく気にするお母さんにとっては、東北・関東は汚染地帯なので、その場所で農作物を作る、それが流通する、流通した場所まで汚染される……という理屈がありました。

 私の実家は茨城県で、農家出身の父は家族が食べる分だけの野菜を畑で作っていたので、そのことを話したら、『そういう人がいると、その食べ物が流通して、日本中が汚染されるんだよね!』と言われ、まるでうちの父が悪人のように言われていると感じました。その人たちにはその人たちの生活があるということには思い至ることもなく、『子どもを守る』という名目で、多くの人を傷つけるような言動をしているのが、ものすごく疑問でした。これは、そのとき自分がとても弱っていたから、なおさらだったと思います。それでぐっさりと傷ついて、そういうところには行かなくなりました。なので、反原発関連のママ友はもう誰もいないです」

――息子さんとの生活はどうですか?

「大阪に来て6年たって、息子は中1になりました。本当に、あっという間でした。3.11後の移住という急な動き、関西というまったく縁のない土地への順応と仕事探しと生活を整えるのに必死で、息子への離婚後のケアは全然できてませんでした。

 経済状態は相変わらずで、思春期に差しかかってきた息子の鬱憤がそこに表れることもありました。彼が欲しいものを『いや、うちは買えないから』と言うと、『おまえが離婚したせいだろ』とか言って、壁を蹴ったり、それを止めようとして私が攻撃されたりもして……。離婚だけのせいじゃないとは思うんですが、言葉にできないいら立ちみたいなものが、すごく出てきているんです」

――元旦那さんには連絡されていないんですか?

「息子による暴力や学費の心配など、いろいろ困ることが出てきたので、わらにもすがる思いで、8年ぶりに、元夫に連絡をしてみました。『助けてください』という文面のメールを出したんです。メールの文面でですけど、これまで息子に会わせてあげられなかった自分の非を詫びることもできました。自分から一歩踏み出せて、よかったと思っています」

――元旦那さんからの返事はあったんですか?

「私からのメールが、たぶんうれしかったんでしょう。『困ったことがあったら相談に乗るよ』という返事が来ました。今やってる仕事の本を送ってきてくれて、息子に『こんな本作ってんだって』って言ったら、『おお、すげえ』って。まあ彼の中で父親がどんな人なのか、想像してるんでしょうね。息子宛に送られてきたメールは、そのままプリントアウトして、『読んでみたら』って言って渡しましたが、『思春期たるものこういうもの。誰もが壁にぶつかるもの』とか、説教臭い部分もあるので、読んでるかどうか……」

――まだ再会はしてない?

「実現していません。彼は彼で、会わせもしなかったくせに、こんな状態になってから相談しやがってと思っているかもしれませんし、それだけ時間がたってしまうと、彼の方も、そんなに会いたいという気持ちがないかもしれないですしね。どう思っているのか、またこれから関係がどうなるのかわかりません。だけど、これまでのツケもあって、すごく面倒くさい父子、そして母子関係になってしまうかもしれませんね」

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

堕胎後、無計画に妊娠・結婚した夫とかみあわず3年で離婚【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第3回 中村珠美さん(仮名、40歳)前編

「いろいろあって3.11の後、こっちに来ました。昨年、8 年ぶりにようやく、(元夫との)やりとりを再開したばかりです」

 中村珠美さんは中学1年生の息子とともに現在、大阪に住んでいる。彼女が当時小学校入学を間近に控えた息子を連れて、知り合いのいない大阪に移住したのは、福島第一原子力発電所事故の後、東日本に放射性物質が拡散したのを受けてのことだ。当時の中村さんはシングルマザーとなって3年がたっていたころだ。移住後の生活はどうなのか? そもそも、なぜ別れたのか? いろいろと話を伺ってみた。

■新卒で就職した会社のボスとの間の子を堕胎、その後結婚

――結婚に至るまでは、どのように過ごされていたんですか?

「都内の大学に通っている間に編集プロダクションでアルバイトを始め、卒業後、そのままそこに就職しました。いざ働きだすと、ものすごく過酷でした。いかに寝ないでタフにいられるか――みたいな感じ。大衆的な男性誌のコラムを書いたり、アシスタント的な仕事をしたり。とにかく下っ端で、こき使われてました。そこには7年在籍して辞めました。というのも、妊娠したからです。相手に『子どもはいらない』と言われたんですが、私、それ以前に堕ろしたことがあって、そのことにずっと罪悪感を持っていたんです」

――堕胎されたときのお相手は?

「その編プロの代表です。年齢が20歳ぐらい上の、絵に描いたような仕事人間でワーカホリック。部下にはすごく厳しかった。彼がいるとみんな緊張して、シーンとしてるんです。自分の原稿を破られたり、ほかのスタッフが『無能』と罵倒されたりして、身がすくむ思いをするということは何度もありました。だから、付き合ってるときから、あまり喧嘩するっていうのがなくて、関係が全然対等ではなかったんです」

――なぜ、年上のボスとお付き合いをすることになったのですか?

「入社時、私以外ボスも含めて4人の男性社員がおり、女性は私1人だけでした。ほかの男性社員と付き合う可能性があっても、こいつだけはないと思っていたのですが(苦笑)、入社して2カ月くらいで、黙って会社を辞めようと思っていたのを、台湾取材に連れていってくれるというので踏みとどまり、取材が案外楽しかったので、もう少し仕事を続けてみようと思ったのでした。その後、またすぐタイに連れていってくれるということになり、取材だと思ってフィルムをたくさん持っていったのですが、実は単なる旅行で、そこでなんだかそういう関係になってしまい……というわけです。相手が上司だから断れなかったというわけではなく、私が冒険好きなゆえ、“こういうおやじと付き合ったら、人生の勉強になるだろう”という軽い気持ちでした」

――その後、妊娠・出産されたんですよね。そのときのお相手は、別の方ですか?

「いいえ、同じ相手です。妊娠がわかったのを機に、しぶしぶ結婚しました。生まれた子は男の子でした」

――元旦那さんは、女性関係が派手だったりしたんですか?

「スナックの女の子と浮気していたことがありました。『ほかに子どもはいない』と言っているけど、どうでしょうね。ワーカホリックでお金も結構持っていて、お金を持っていないと不安というのかな、持っていることにステータスを見いだしている、そんな人です」

――なぜ仲が悪くなったんですか?

「子どもができてもワーカホリックという彼のスタイルが変わらなかったからです。ずっと仕事をしていて、家には寝に帰ってくるだけ。私があまりにも当てにしなかったから、というのもありますが、育児にしたって協力的ではない。たまに公園に遊びに行ったりとか、あとはお風呂に入れてくれたりしたぐらい。それも週に1回、あるかないかですよ。

 一方、私は180度、生活を変えざるを得なかった。家に1人でこもって育児に追われる毎日。睡眠不足だし、授乳やおむつ替えもしなきゃいけない。子どもの生後7~8カ月のころ、『夜泣きがひどくて、私が全然眠れないの』と彼に話したことがあるんです。そしたら彼、なんて言ったと思います? 『大丈夫大丈夫、(俺は)そんなの全然聞こえなかったから大丈夫だよ。眠れたから』って言ったんです。

 彼は仕事、私は育児と、ずっと平行線でした。関係がものすごく険悪になったり――というのはなかったんですけど、かみ合わない夫との日々の生活に疲れ果て、相手への情がなくなっていきました。それで、『離婚したい』と切り出したら、『お金ないのにどうするの? できないでしょ、子育て』って言われ、何も言い返せなかったんです」

――仕事には復帰されたんですか?

「子どもが1歳のとき、フリーライターとして仕事を再開しました。本当はもっと早く子どもを保育園に入れたかったんですが、3月生まれなので、そうはいきませんでした。都内だと、翌年の4月まで待たなければ入れなかったんです。保活を事前に勉強している人は、計算して5月とかに産んで、早いうちから働けるんですけどね。まったく無計画な妊娠だったので」

――元旦那さんと別れたのはいつですか?

「子どもが3歳のときです。『家を出る』と彼に予告して、息子と2人、すぐ近くに引っ越しました。4月末ごろです。別居親がよく言う“連れ去り”とは違います。追い出されるような感じ。『俺の家にいつまでいるんだ』って言われましたから。北関東の実家に移住しなかったのは、そこだと東京から遠くなり、取材や打ち合わせが難しくなるからです。近所だと、保育園を替わらなくていいですし」

――離婚を決断した理由は何ですか?

「子どもが3歳にもなると、だいぶ手がかからなくなるし、体が強くなって病気で休むことが少なくなる。だったら保育園に預ける時間をもっと延長して、自分1人で働いて育ててっていう一人二役でも大丈夫かなと思ったんです。それとあともうひとつは、とにかく彼との生活が苦しかったからです。子育てを私1人が全面的に請け負うことで、それ以外の仕事や自分のやりたいことなどは何もできない。なのに、なんのバックアップもない。その理由を、すべて彼のせいだと、当時思い込んでいたんです。だから『別れたら、子どもをこんな奴に会わせたくない』って思っていました」

――別れるに当たっての条件は、何か決めていたんですか?

「何もやってなくて、後から離婚後の紛争を起こしたんですよ(苦笑)。養育費を求める調停。お金たくさん持ってるんだから、養育費はたくさん払うべきだと思っていたのに、月いくらとか具体的な条件を考えることすらしなかった。準備もせず、条件も考えなかった。とにかく私は浅はかでした(苦笑)」

――元旦那さんは条件を出してきたんですか?

「『小学校に上がるまでは養育費月5万円、面会は、そのときそのときの双方の都合を聞いて行う。慰謝料はなし』みたいな感じで、細かい条件を提示してきましたね」

――その条件に対して、どんな反応をしたんですか?

「彼が提案した条件を『はい、それでいいです』と私がすべてのんだので、調停は1日で終わりました。それ以上、彼と揉めたくないし、関わりたくなかったんです。日本一、弁護士を輩出している大学の法学部を出ていますから、闘っても勝てるはずがないんですよ」

 彼女と元旦那さんとの関係は、最後の最後まで対等ではなかったのだ。

(後編へつづく)

2度離婚した夫は養育費を払わないが、月1回は面会している【別れた夫にわが子を会わせる?】

singlemother2-2わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第2回 池脇あやのさん(仮名、40代)後編

 池脇あやのさんは、23歳のとき、トラック運転手の同僚の男性と結婚。7年ほどで離婚後、居酒屋で知り合ったとび職の男性と再婚し、男の子を出産した。夫が長男を虐待したり、家の中で暴れたりする上、経済的にも困窮し、持病が悪化してしまった池脇さんは、自己破産して離婚した。

(前編はこちら)

■離婚した夫との間に2人目の子を妊娠

 離婚して夫との関係が終わり、池脇さんがまったく新しい人生を歩むのかというと、そうはならなかった。その後、思いもよらない因果な成り行きをみせることになる。

――離婚後は、どんな生活をしていましたか?

「離婚してすぐ、初期の子宮頸がんがわかってん。そのうちがんに変わる細胞があるってことで、レーザーで焼いたりして治療した。そのとき思ったのは、うちがおらんようになったら、この子どうするねんやろうってこと」

――息子さんとは、どんなことを話してたんですか? 父親であるBさんと面会はしていた?

「『父さんのところに行きたい』って言うねん。だから、月に1回ぐらいのペースで会わせてた。養育費はもらってへん。自己破産させられるぐらいやからな、Bはそれどころやないって感じやったやろ。誕生日とかクリスマスのときは何か贈ってもらってたけど、それだけやな。それでたまにBに会うと、ちょっと改心してる感じ。新しく相手見つけるにしても、うちの心の病気のこととか、息子のアトピーとか、最初から説明せなあかんやろ? でも、Bはその必要がない。だから楽やな、って思ったりするようになった」

――面会をするうちに、池脇さんやBさん、息子さんの関係が変化してきた?

「そうやねん。3年ぐらい月イチで面会してたら、Bの息子への接し方が変わってきた。優しくなったというか。そんなふうに見えた。うちはうちで、息子のことをいつまで面倒見られるか不安やったしな。そんなんで、『やっぱり、このまま1人っていうのはなあ』って思ったりしてるときに、たまたまそういう関係になってしまって。肉体関係にな。変な話、その1回で妊娠してしまいました。40過ぎて」

――すごい。運命的ですね。

「Bに『どないしよう』って相談したら、『産んでくれ』って即答。うちかて1人では不安やから、『じゃあ、もう1回やり直してみる?』って言いました。Bは離婚したがってなかったんで、当然、賛成。そんなんで、Bと再婚することにしたんです。これはもう、一種の賭けやな。今度こそ、Bと一緒にやり直せるかどうかの。うちは生活保護を切って、もう1回、籍を入れたんです。とにかく、それでやり直した」

――Bさんは、改心してくれましたか?

「いやいや。変な癖がついてた。うちと別れた後、1人の寂しさを埋めるためにインターネットゲームにはまっててん。いわゆる『モンハン』(モンスターハンター)っていうやつ。それにドハマリをしてて。ご飯食べる寝る以外、家のど真ん中で、ずっとモンハンやってんねん。息子が話しかけても、『やかましい。今忙しいんじゃ』って言って、ずっとやってました。仕事ちゃうから、忙しいもクソもあるかって感じなんやけどね」

――ゲーム中毒ですか。かなわんですね。

「そのうち、Bは1週間以上、とびの仕事がないのもざらとか、めっちゃ暇になって。生まれてきた娘のミルク代やおむつ代に困るようになったんやわ。かといって、うちは体の調子とか子育てとかで働かれへんからな。『ほかにバイトしてくれへんか』って、お願いしたんや。そしたら『おれは職長やから、電話かかってきたときに、すぐに仕事に出れるようにしとかな話にならん。だから、おれはほかのバイトはでけへん』って返事されたんやわ」

――言い訳めいてますね。

「ミルク代も払えるか払えへんかギリギリの状態になったとき、息子がトイレの壁に書いた、文字を見つけたんです。すごい小さい字で『とうさんしね』って。それ見てうちは『この人と一緒におったらあかん、もう無理』って思って、決断を迫ることにしました」

――「決断」というのは、離婚かバイト?

「そうです。『このままやと生活できひん。バイトしてくれる? また別れるか? どっち選ぶん?』って迫りました。Bが『わかった。じゃあバイトするわ』って言ってくれるかなと思って言うてん。でも言われたんは、『出て行く』っていう言葉やったわ。それから1カ月ぐらいで出て行きよった。そのとき息子は小学生、娘は1歳前やった。離婚してなかったら、もっと我慢しなきゃいけなかっただろうからな。別れるっていう選択しかなかった」

――その後のBさんとの関係は?

「養育費は今もくれてへんし、二度目、2人連れて別れるとき、そもそも期待してへん。それでもBとは、今も月1回は会ってる。子どもらに会いたいってことで。うちに対しては、『子どもらに気持ちが残ってるし、復縁したい』って言ってくれるんやけど、うちはそんな気一切ない。だって、2回目の離婚のときに、家を出て行く方を選んだやろっていう話やん。3回目は、さすがにないで」

――お子さんたちに対して思ってることは、何かありますか?

「普段、父親なしで育ててるから、そのことは2人に悪かったなって思ってる。ある程度の年齢になったら、自分で考えて、会いたいかどうか選べるやん。だから、会うかどうかは任せる。会いたくなかったら、会わなくてええんちゃうかな。

 今はなんとか福祉のお世話になりながら暮らしてるけど、ゆくゆくは、また仕事したい。仕事する姿を子どもらに見せたい。いつまでも福祉に頼るっていうのも、気が引けるしな」

――これまでのことを振り返って、今の生活をどう思いますか? 池脇さんにとって、お子さんたちはどんな存在ですか?

「2人の子どもがいてなかったら、病気でもっと自分が崩れてたかもな。この子らが成人するまでは、なんとか元気でおらなあかんやろ。子どもらがおるから、頑張らなあかんって思うしな。結局は、子どもらがおるからこそ、今が一番、幸せやわ」

 池脇さんは、母としての喜びと責任感を抱きしめるように言った。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

2度離婚した夫は養育費を払わないが、月1回は面会している【別れた夫にわが子を会わせる?】

singlemother2-2わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第2回 池脇あやのさん(仮名、40代)後編

 池脇あやのさんは、23歳のとき、トラック運転手の同僚の男性と結婚。7年ほどで離婚後、居酒屋で知り合ったとび職の男性と再婚し、男の子を出産した。夫が長男を虐待したり、家の中で暴れたりする上、経済的にも困窮し、持病が悪化してしまった池脇さんは、自己破産して離婚した。

(前編はこちら)

■離婚した夫との間に2人目の子を妊娠

 離婚して夫との関係が終わり、池脇さんがまったく新しい人生を歩むのかというと、そうはならなかった。その後、思いもよらない因果な成り行きをみせることになる。

――離婚後は、どんな生活をしていましたか?

「離婚してすぐ、初期の子宮頸がんがわかってん。そのうちがんに変わる細胞があるってことで、レーザーで焼いたりして治療した。そのとき思ったのは、うちがおらんようになったら、この子どうするねんやろうってこと」

――息子さんとは、どんなことを話してたんですか? 父親であるBさんと面会はしていた?

「『父さんのところに行きたい』って言うねん。だから、月に1回ぐらいのペースで会わせてた。養育費はもらってへん。自己破産させられるぐらいやからな、Bはそれどころやないって感じやったやろ。誕生日とかクリスマスのときは何か贈ってもらってたけど、それだけやな。それでたまにBに会うと、ちょっと改心してる感じ。新しく相手見つけるにしても、うちの心の病気のこととか、息子のアトピーとか、最初から説明せなあかんやろ? でも、Bはその必要がない。だから楽やな、って思ったりするようになった」

――面会をするうちに、池脇さんやBさん、息子さんの関係が変化してきた?

「そうやねん。3年ぐらい月イチで面会してたら、Bの息子への接し方が変わってきた。優しくなったというか。そんなふうに見えた。うちはうちで、息子のことをいつまで面倒見られるか不安やったしな。そんなんで、『やっぱり、このまま1人っていうのはなあ』って思ったりしてるときに、たまたまそういう関係になってしまって。肉体関係にな。変な話、その1回で妊娠してしまいました。40過ぎて」

――すごい。運命的ですね。

「Bに『どないしよう』って相談したら、『産んでくれ』って即答。うちかて1人では不安やから、『じゃあ、もう1回やり直してみる?』って言いました。Bは離婚したがってなかったんで、当然、賛成。そんなんで、Bと再婚することにしたんです。これはもう、一種の賭けやな。今度こそ、Bと一緒にやり直せるかどうかの。うちは生活保護を切って、もう1回、籍を入れたんです。とにかく、それでやり直した」

――Bさんは、改心してくれましたか?

「いやいや。変な癖がついてた。うちと別れた後、1人の寂しさを埋めるためにインターネットゲームにはまっててん。いわゆる『モンハン』(モンスターハンター)っていうやつ。それにドハマリをしてて。ご飯食べる寝る以外、家のど真ん中で、ずっとモンハンやってんねん。息子が話しかけても、『やかましい。今忙しいんじゃ』って言って、ずっとやってました。仕事ちゃうから、忙しいもクソもあるかって感じなんやけどね」

――ゲーム中毒ですか。かなわんですね。

「そのうち、Bは1週間以上、とびの仕事がないのもざらとか、めっちゃ暇になって。生まれてきた娘のミルク代やおむつ代に困るようになったんやわ。かといって、うちは体の調子とか子育てとかで働かれへんからな。『ほかにバイトしてくれへんか』って、お願いしたんや。そしたら『おれは職長やから、電話かかってきたときに、すぐに仕事に出れるようにしとかな話にならん。だから、おれはほかのバイトはでけへん』って返事されたんやわ」

――言い訳めいてますね。

「ミルク代も払えるか払えへんかギリギリの状態になったとき、息子がトイレの壁に書いた、文字を見つけたんです。すごい小さい字で『とうさんしね』って。それ見てうちは『この人と一緒におったらあかん、もう無理』って思って、決断を迫ることにしました」

――「決断」というのは、離婚かバイト?

「そうです。『このままやと生活できひん。バイトしてくれる? また別れるか? どっち選ぶん?』って迫りました。Bが『わかった。じゃあバイトするわ』って言ってくれるかなと思って言うてん。でも言われたんは、『出て行く』っていう言葉やったわ。それから1カ月ぐらいで出て行きよった。そのとき息子は小学生、娘は1歳前やった。離婚してなかったら、もっと我慢しなきゃいけなかっただろうからな。別れるっていう選択しかなかった」

――その後のBさんとの関係は?

「養育費は今もくれてへんし、二度目、2人連れて別れるとき、そもそも期待してへん。それでもBとは、今も月1回は会ってる。子どもらに会いたいってことで。うちに対しては、『子どもらに気持ちが残ってるし、復縁したい』って言ってくれるんやけど、うちはそんな気一切ない。だって、2回目の離婚のときに、家を出て行く方を選んだやろっていう話やん。3回目は、さすがにないで」

――お子さんたちに対して思ってることは、何かありますか?

「普段、父親なしで育ててるから、そのことは2人に悪かったなって思ってる。ある程度の年齢になったら、自分で考えて、会いたいかどうか選べるやん。だから、会うかどうかは任せる。会いたくなかったら、会わなくてええんちゃうかな。

 今はなんとか福祉のお世話になりながら暮らしてるけど、ゆくゆくは、また仕事したい。仕事する姿を子どもらに見せたい。いつまでも福祉に頼るっていうのも、気が引けるしな」

――これまでのことを振り返って、今の生活をどう思いますか? 池脇さんにとって、お子さんたちはどんな存在ですか?

「2人の子どもがいてなかったら、病気でもっと自分が崩れてたかもな。この子らが成人するまでは、なんとか元気でおらなあかんやろ。子どもらがおるから、頑張らなあかんって思うしな。結局は、子どもらがおるからこそ、今が一番、幸せやわ」

 池脇さんは、母としての喜びと責任感を抱きしめるように言った。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

夫に「殺す」と言われて1年後、息子を守るため自己破産して離婚【別れた夫にわが子を会わせる?】

singlemother2-1わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第2回 池脇あやのさん(仮名、40代)前編

「不安神経症にパニック障害、うつにぜんそく、加えてバセドー。いろいろ併発してて、朝昼晩と毎日すごい量の薬飲んでる。でも飲まへんと生活できひん。元気なときはトラックの運転手やってたんやけどな」

 池脇あやのさんは3度目の離婚の後、住み始めた2K風呂付きの木造平屋のダイニングでそう話した。調子こそ悪そうだが、目鼻立ちは整っている。壁に何枚もポスターが貼られていることから、尾崎豊の大ファンであることが見て取れる。

 昭和の臭いが濃厚に残る大阪府K市。高度成長期に建てられた木造モルタル2階建ての住宅が迷路のように密集している。生活保護率が全国平均の約3倍と貧しく、庶民的で、そして人情深い。そんなK市で生まれ育ち、結婚し、子を産み、育ててきた池脇さん。生活保護を受けながら、彼女はどうやって2人の子どもを育ててきたのか。

■2度の結婚の経緯

――結婚する前の生活を教えてください。

「中学校を卒業した後、ビデオの組み立てラインの仕事をやってた。その工場では自分が一番若いから、みんなに気を使わなあかんし、どんどん忙しい部署に回されるしで、精神的にしんどくなってしまった。しまいにはベルトコンベアが揺れて見えだした。さらには神経がいかれて電車にも乗れんようになった。自律神経失調症っていうのになったんや。

 見ての通り、うち尾崎豊のファンやねんけど、音楽の機材運ぶトラックってあるやろ。『そのうちあれを運転してみたい』って思ってな、トラックの運転手になったんや。20歳ぐらいのころやな。体の調子悪いから親には心配されたけど、結果オーライ。運転の仕事をする分には人付き合いはせんでええから、精神的な負担が少なくて、自分に向いてたんやわ。

 最初は2トン車に乗って、コンビニの制服とかのリネンを運んでた。その後は先輩からいただいたデコトラで、鮮魚を市場へ運ぶようになった。電飾ギラギラの紫色のあんどんがついてる4トン車で、ビュンビュン走り回ってたんや。トラック野郎みたいやろ? いやあ、あのころ、ほんま楽しかったわ」

――結婚したのはいつですか?

「23歳のとき。相手は2歳年下の同僚の運転手で、Aという人。Aも尾崎のファンやし、結婚中はずっと仲が良かった。でもな、子どもが出けへんかったんやわ。それで、うちが30歳のころ、『ちょっと実家に行ってくるわ』ってAに言われて。淀川の反対側にある実家に行って、そのままこっちに帰ってけえへんかった。今考えたら、たぶん女ができたんやと思うわ」

――お子さんができたのは、次の結婚ですか?

「そう。離婚して1年ぐらいしてから、居酒屋でよく顔を見かけてたBと再婚した。2つ年下のとび職。うち、子ども産むのあきらめてたんやけど、Bと同棲し始めて2~3カ月で妊娠したんやわ。

 Bの父親がとび専門の会社の社長で社員寮とか持ってて、経済的に問題なさそうやった。ところがその会社、借金だらけやってん。額にすると300万円ぐらい。そんなこと妊娠してからわかってもなあ。遅すぎやで。

 借金の理由? 仕事を安く請け負って、その分が回収できんかったのか、Bがパチンコやスロットにハマりすぎたのか、理由ははっきりわからん。そやけど結局は借金への心配よりも、妊娠したことのほうがうれしかったしな、なんとかなるやろうって思って腹をくくって、結婚してん。と同時にローンで3階建ての家買うて、その後に息子を産んだんやわ」

――出産後の暮らしはどうでしたか?

「息子を保育園へ送り迎えしながら、生命保険の外交員として働いてた。夕方、仕事を終えると買い物をして、夕食の支度をして。そんなんで毎日ヘトヘトや。それでもBがねぎらってくれたらやる気が出るんやけど、実際は逆やった。

 例えば、うちが仕事で帰宅が遅れて夕食の準備ができなかったとするやん。そんなんでBが帰ってきたときなんか、態度が顔に出るねん。途端にムスッとして、『なんでご飯できてへんのや!』って威圧感のある声で、毎回言われたで」

――Bさんは、家事や子育てには協力的ではなかった?

「全然。おむつ替えとかミルク、お風呂に寝付かせとか、子育てはほとんどうちがやってた。関わらへんというBの方針は徹底してて。うちが40度の熱出したときも完全にノータッチ。『明日の午前中、病院行く間だけでも、この子見てて』って必死に言うたんやけど『仕事あるから無理』って。木で鼻をくくったような感じで片付けられた。そういうの、ほかにもあって、夜泣きしたときなんか『やかましいんじゃボケ。明日朝から仕事やねんから黙らせろ』って吐き捨てて、布団にもぐり込むんやで」

――「黙らせろ」とか、すごいこと言いますね。

「そやろ。毎日、そんなふうに言われたら、ホンマ心も体もおかしくなるで。そのうち、体が条件反射するようになった。夕方、Bが帰ってきただけで、気分がドヨンと落ちたり、過呼吸とか、脈がいきなり140くらいまで速くなって目まいがしたり。あとは、冷や汗がばっと出たり。加えてバセドーっていう目が飛び出たりする病気にもなったしな」

――そんな中で育てられたお子さんは、大丈夫だったんですか?

「Bの叱り方が変やったわ。Bは“おいた”をした3歳の息子を正座させて、やったらあかん理由も言わんで『なんでしたんや。なんでしたんや。なんでしたんや』って、ずっと言い続けたり、息子を持ち上げて『わかってんのか!』みたいな感じで揺さぶったり。それ見て、この人ちょっと違うかもって思った」

――三面記事になりそうな、虐待につながりかねない話ですね。経済的には、どうだったんですか?

「ずっと、きつかった。息子が保育園の年長さんになるくらいのときか。どうも生活が回らないようになってしもうた。それこそ一番ひどいときは、米以外の食費を月1万円で回さなあかんぐらいお金がなくて。なんとか食べていくのがやっとこさで、自分の病院も行かれへんかった」

 池脇さんへの心理的な圧迫、長男への間違った“しつけ”、そして困窮。それでも彼女はやりくりのため通院を我慢。その結果、バセドー病が悪化してしまった。

 池脇さんは次第に離婚を考え始めるようになる。命に関わるような出来事が立て続けに起こり、「この人、違うかも」という思いが、「この人とは、もう無理」という確信に変わっていったのだ。

――警察や救急のお世話になったりしなかったんですか?

「夜中に息子が自分で勝手に冷蔵庫を開け、約100錠もの薬を飲んでしもうた。息子用のアレルギーやアトピーの薬。夜中、うちがウトウトしてたら息子に起こされて。そしたら息子、『お母さんゲポしてん、〇くんゲポしてん』って言うんや。うちはそれで慌てて、『大変や! 病院連れていかな』って思って、必死にBをたたき起こしたんです。でもBは眠そうな顔で『水飲ましとけ』って、ひと言言うだけ。『この子がどないかなったら、どないすんの!?』ってうちが抗議したら、『それぐらいで死なへんやろ。ワシ仕事あるんや。寝るで』とか言うんやで。うち、さすがにカチンときてな、『そしたらうちが連れて行くわ』って言うて、うちが1人で救急に連れて行きました」

――別れようと決意したのは?

「電化製品を投げつけられたときやね」

――どういうことですか?

「うち、心の病の影響もあって、全然寝られへんねん。3階の寝室から2階のリビングに降りてきて、尾崎豊のライブとか韓流ドラマのDVDを見ながら寝るようになったんや。そのことにBが不満を持ってたみたいで、あるとき階段下りてきて暴れたんやわ。不満が爆発したんやろうな」

――暴れたって、どんなふうにですか?

「ちょうど、韓流ドラマのDVDを見ながらウトウトしてるときやった。Bが2階のリビングに下りてきたんや。『こんなビデオずっと見てるから、寝られへんのとちゃうんか!?』って怒鳴りながら、テレビとDVDプレイヤーのコード引っこ抜いて、バンバンどついたり、蹴ったりした後、部屋の端っこのカウンターキッチンの陰にいた息子に向かって、テレビやらDVDプレイヤーやらを投げつけたんです。隠れてたから、息子には何もけがはなかったけど、これにはさすがにうちもぶち切れて言ったった。『物に当たるんやったら、うち殴れ!』って。するとBは『おまえらに手出すときは、殺すときや!』って言いよったんやで」

 機械が長男に当たっていたら、大けがをしていたかもしれない。しかも、“殺害予告”までされたのだ。この一件で、池脇さんの気持ちは完全に離れてしまった。とはいえ、すぐに離婚することはできなかった。

「出て行くお金はないし、あてもない。実家は実家で父親が怖い人やから、帰ったらうちがしんどい。それで実家にも戻れず、家庭内別居してたんやわ」

――その後、どうやって関係を清算したのですか?

「結婚して以来住んでた3階建ての自宅の売却に、めどがついたから。住宅ローンが滞ってきてたんやけど、それで競売にかけられて、なんとか買い手がついたんや。不動産屋が買ってくれてんけど、お願いして、引っ越し資金だけは残るようにしてもらった」

――それで、晴れて離婚が成立したんですか?

「うち、Bの父親の会社の連帯保証人になっててな、会社の負債を折半する形で、自己破産してしまったんやわ。病気がたくさんあって働けへんし、それでも息子は守らなあかんやろ? それで地元の市議とか市役所の福祉課に相談しに行ったりして、障害者手帳をもらって。最後は、生活保護を受けることになった」

――Bさんは離婚するってことに対して、どんな態度を示してたんですか?

「最後の最後まで、関係清算に難色を示してました。『なんでおれが1人でおらなあかんねん』って文句言って。でも、うちはうちで『もう精神的にも身体的にも一緒は無理やから。とりあえず離れさして』って言って、家と引っ越しの日取りを決めて引っ越しました。協議離婚です。特に取り決めとかはしてません」

 離婚したのは、長男が保育園の年長のときだった。“殺す”と言われてから1年がたっていた。

(後編へ続く)

DV夫とは関わりたくない。でも、子どもに会えなくてつらい気持ちは想像できる「別れた夫にわが子を会わせる?」

OLYMPUS DIGITAL CAMERAわが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしをし、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第1回 倉橋まりさん(仮名、40代)後編

 倉橋まりさんは、学生時代に知り合った男性と就職後に結婚。仕事は続け、出産後も職場に復帰して、子育てしながら働き続けていた。結婚生活の初期から、DVの兆候があったものの、最初は我慢していたという倉橋さんだったが、たびたび殴られるようになり、夫の浮気発覚を機に離婚を決意。夫の留守中に家を飛び出し、シェルターへ逃げた。

(前編はこちら)

■シェルターでの生活

 倉橋さんが逃げ込んだシェルターとは、いったいどんなところだったのか?

「行政が一時保護を委託している民間シェルターで、外観は、鉄筋コンクリートのきれいな建物でした。三食つき、室内に風呂やトイレ、テレビが備わっていました。殴られたり、追いかけられたりする心配は当分ありません。かといって、シェルターでの生活が楽かというと、むしろその逆でした。なんといっても、人間的な生活ができないことがつらいんです。

 あてがわれた部屋は、壁紙にしろ、寝具のシーツにしろ、ボロボロでした。まともな机すらありませんし、スマホは使えません。居場所漏洩防止のため、警察を出発するときに電源を切られ、シェルターに着いたときに没収されたからです。おまけにパソコンやWIFIルーターも没収されていました。そんな状態ですから、文書を作成したり、調べ物をしたりすることができず、テレビを見るか、寝るぐらいしか、することがありませんでした。

 無料なので文句は言えないですけれど、食事もよくなかった。あまりおいしくなかったし、食器が粗末なんです。精神を病んでいる人や小さな子もいるので仕方ないのかもしれませんが、おままごとのような粗末なプラスチックのものを使わされました。

 そんな生活でも、大人である私は我慢できますが、かわいそうなのは私についてきた子どもたちです。友達に挨拶すらできないまま、突然、お別れすることになったわけです。シェルターには勉強を教えてくれる先生代わりのお兄さんがやってきましたが、それまで通っていた学校には、もはや通えないのです。それに、食べ物も、私が作った体に良いご飯を食べさせたくて仕方ありませんでしたが、それもできませんでした」

 シェルターの生活に耐えかねた倉橋さんは、ほかに落ち着き先を探すことを決意する。

「私はシェルターのスタッフに『引っ越し先を探したいから、パソコンとWIFIルーターを返してください』とお願いしました。その結果、1週間ほどでシェルターを出させてもらえることになったのです。そして、そのまま引っ越し先に考えていた土地へ移動し、安いホテルに子どもたちと滞在し、そこで家が見つかるまで過ごしました。

 私たちのように1週間で退所するというのは、特例の措置のようでした。通常、裁判所から保護命令(DV加害者が被害者へ近づくことを禁止する命令)が出るまでシェルターで過ごすので、2週間くらいは出られないそうですから。私はシェルターでの生活がこたえたのか、ホテルに着いてすぐ、熱を出して寝込みました。気合で1日で治しましたが、体重は激減していました。

 現地では、すぐに市役所に連絡し、経緯を説明して、いろいろと相談に乗っていただきました。こんなときに頼りになるのは、やっぱり役所ですよね。

 仕事の面接なども並行してやっていたんですが、ノマドワーカーは大変ですね。履歴書ひとつ送るのも大仕事です。スーツもメイク道具もなかったですし。そんなこんなで、やっとこさ、アパートを契約しました。預金が300万円ある証明書を銀行からとれれば、無職でも契約できるというD社(建設会社を兼ねる賃貸大手)で決めたのです。前に住んでいたアパートは両親に鍵を開けてもらい、引っ越しの見積もりと立ち会いも両親に頼みました。予想外に高い引っ越し料金でしたが、仕方がありませんでした」

■長びく係争

 一方、別離を突きつけられた夫はその後、どういった行動に出たのだろうか?

「私と子どもが家を出るとすぐ、夫は財産隠しを始めました。カードの盗難届を出して、私が持っているカード類を使えないようにしたんです。そうやって私や子どもたちを兵糧攻めにする一方、自分は贅沢をして遊んでいたそうです。とにかく家に戻ってきてほしかったということなんでしょう。

 そんな夫に対し、私は離婚調停と婚姻費用調停(別居中の生活費を分担するための調停)を起こしたのです。復縁する気は、まったくありませんでしたから。早く関係を清算したかった。すると夫は夫で、面会交流調停を起こしてきました。夫はずっと『子どもに会わせろ』の一点張り。それしか自分に主張できることがなかったせいもあると思います。

 調停は1カ月に1回くらいでしょうか。居所がバレては困るので、会わせるのは無理だと思っていましたし、子どもも夫と会うことを嫌がっていました。しかし裁判所は長い期間会わせていないという、調停の記録しか参考にしないですからね。子どもが嫌がっているというこちらの意見は完全にスルーで、意味がありませんでした。調停にしろ、後の審判にしろ、会わせなければいけない雰囲気でした。

 調停を重ねるうちに、私のほうも少しは折れることも必要かなと思うようになりました。調停を始めて3回目くらいのときでしたか。『調査官立ち会いの下でなら会わせます』と言ったんです。家に帰ってそのことを子どもに伝えたら、大ブーイングでしたけどね。それでも、『もう決まってしまったから』と子どもたちを無理やり次の調停に連れていき、別れてから初めて、子どもを夫に会わせました。

 調査官は面会の様子を見て和やかだと思ったようですが、子どもたちの心は別のところにありました。内心、夫に気を使っていて、『触られるのも嫌だったけど断れず、つらかった』と後から言われました。調査官は、そんな子どもたちの本心を見抜けていませんでした。これが、後の審判に影響することになり、大きな失敗でした。

 夫のほうは一貫して『毎月、面会交流をさせろ』と主張していました。それに対し私は『年3回(春休み、夏休み、冬休み)なら、なんとかできると思う』と答えました。しかしこれも失敗でした。実際には、夏休みと冬休みは子どもが忙しくて難しい。遠いので宿泊も必要なんですが、その時期は宿も取りにくい。でも、このときの調停の記録が審判にも影響してしまい、後に年3回の面会ということで審判が出てしまいました」

 面会交流が決定したことがきっかけで、夫から、何らかの支払いが行われるようになったのだろうか?

「夫からの婚姻費用は、一向に支払われる様子がありませんでした。しかしそれでも、私は2度目の面会交流に応じました。この面会交流では、弁護士が見つけてくれたDVに詳しい交流支援業者に立ち会ってもらい、子どもたちを守っていただきました。

 私が面会に応じたのは、『北風と太陽』(イソップ寓話)の太陽と同じです。夫を喜ばせることで、夫も譲歩してくるんじゃないかと思ったんです。事実、会わせることで、態度は軟化しましたね。『子どもに会えてうれしいので、婚姻費用を振り込みます』と言って、結局は振り込んでくれましたから。

 問題は子どもの気持ちです。子どもに会えなくてつらい気持ちは想像できるので、母親が夫を嫌っているというだけの理由で夫に子どもを会わせないというのは、私もひどいと思います。だから私も、子どもたちを説得しようとしているんですが、子どもたちが父親を嫌がっているんですよね……。そんなわけで、3度目の面会は実現していないんです。

 調停の申し立てをしてから2年近く。今月、ようやく離婚が成立しました。安月給ですが、お金には困っていません。婚姻費用と慰謝料も入りましたし、貯えもありますから。それにしても、夫がいない生活は、自由でとても楽しいものですね!

 今後、夫とは金輪際、関わりたくないです。見つかったら、何をされるかわかりませんからね。連絡は弁護士を通じてのみです。そんなわけですので、面会交流は、やらないで済むならしたくないです。そのほうが、私も子どもたちも平穏な日々を送れますから」

西牟田 靖(にしむた やすし
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

DV夫とは関わりたくない。でも、子どもに会えなくてつらい気持ちは想像できる「別れた夫にわが子を会わせる?」

OLYMPUS DIGITAL CAMERAわが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしをし、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第1回 倉橋まりさん(仮名、40代)後編

 倉橋まりさんは、学生時代に知り合った男性と就職後に結婚。仕事は続け、出産後も職場に復帰して、子育てしながら働き続けていた。結婚生活の初期から、DVの兆候があったものの、最初は我慢していたという倉橋さんだったが、たびたび殴られるようになり、夫の浮気発覚を機に離婚を決意。夫の留守中に家を飛び出し、シェルターへ逃げた。

(前編はこちら)

■シェルターでの生活

 倉橋さんが逃げ込んだシェルターとは、いったいどんなところだったのか?

「行政が一時保護を委託している民間シェルターで、外観は、鉄筋コンクリートのきれいな建物でした。三食つき、室内に風呂やトイレ、テレビが備わっていました。殴られたり、追いかけられたりする心配は当分ありません。かといって、シェルターでの生活が楽かというと、むしろその逆でした。なんといっても、人間的な生活ができないことがつらいんです。

 あてがわれた部屋は、壁紙にしろ、寝具のシーツにしろ、ボロボロでした。まともな机すらありませんし、スマホは使えません。居場所漏洩防止のため、警察を出発するときに電源を切られ、シェルターに着いたときに没収されたからです。おまけにパソコンやWIFIルーターも没収されていました。そんな状態ですから、文書を作成したり、調べ物をしたりすることができず、テレビを見るか、寝るぐらいしか、することがありませんでした。

 無料なので文句は言えないですけれど、食事もよくなかった。あまりおいしくなかったし、食器が粗末なんです。精神を病んでいる人や小さな子もいるので仕方ないのかもしれませんが、おままごとのような粗末なプラスチックのものを使わされました。

 そんな生活でも、大人である私は我慢できますが、かわいそうなのは私についてきた子どもたちです。友達に挨拶すらできないまま、突然、お別れすることになったわけです。シェルターには勉強を教えてくれる先生代わりのお兄さんがやってきましたが、それまで通っていた学校には、もはや通えないのです。それに、食べ物も、私が作った体に良いご飯を食べさせたくて仕方ありませんでしたが、それもできませんでした」

 シェルターの生活に耐えかねた倉橋さんは、ほかに落ち着き先を探すことを決意する。

「私はシェルターのスタッフに『引っ越し先を探したいから、パソコンとWIFIルーターを返してください』とお願いしました。その結果、1週間ほどでシェルターを出させてもらえることになったのです。そして、そのまま引っ越し先に考えていた土地へ移動し、安いホテルに子どもたちと滞在し、そこで家が見つかるまで過ごしました。

 私たちのように1週間で退所するというのは、特例の措置のようでした。通常、裁判所から保護命令(DV加害者が被害者へ近づくことを禁止する命令)が出るまでシェルターで過ごすので、2週間くらいは出られないそうですから。私はシェルターでの生活がこたえたのか、ホテルに着いてすぐ、熱を出して寝込みました。気合で1日で治しましたが、体重は激減していました。

 現地では、すぐに市役所に連絡し、経緯を説明して、いろいろと相談に乗っていただきました。こんなときに頼りになるのは、やっぱり役所ですよね。

 仕事の面接なども並行してやっていたんですが、ノマドワーカーは大変ですね。履歴書ひとつ送るのも大仕事です。スーツもメイク道具もなかったですし。そんなこんなで、やっとこさ、アパートを契約しました。預金が300万円ある証明書を銀行からとれれば、無職でも契約できるというD社(建設会社を兼ねる賃貸大手)で決めたのです。前に住んでいたアパートは両親に鍵を開けてもらい、引っ越しの見積もりと立ち会いも両親に頼みました。予想外に高い引っ越し料金でしたが、仕方がありませんでした」

■長びく係争

 一方、別離を突きつけられた夫はその後、どういった行動に出たのだろうか?

「私と子どもが家を出るとすぐ、夫は財産隠しを始めました。カードの盗難届を出して、私が持っているカード類を使えないようにしたんです。そうやって私や子どもたちを兵糧攻めにする一方、自分は贅沢をして遊んでいたそうです。とにかく家に戻ってきてほしかったということなんでしょう。

 そんな夫に対し、私は離婚調停と婚姻費用調停(別居中の生活費を分担するための調停)を起こしたのです。復縁する気は、まったくありませんでしたから。早く関係を清算したかった。すると夫は夫で、面会交流調停を起こしてきました。夫はずっと『子どもに会わせろ』の一点張り。それしか自分に主張できることがなかったせいもあると思います。

 調停は1カ月に1回くらいでしょうか。居所がバレては困るので、会わせるのは無理だと思っていましたし、子どもも夫と会うことを嫌がっていました。しかし裁判所は長い期間会わせていないという、調停の記録しか参考にしないですからね。子どもが嫌がっているというこちらの意見は完全にスルーで、意味がありませんでした。調停にしろ、後の審判にしろ、会わせなければいけない雰囲気でした。

 調停を重ねるうちに、私のほうも少しは折れることも必要かなと思うようになりました。調停を始めて3回目くらいのときでしたか。『調査官立ち会いの下でなら会わせます』と言ったんです。家に帰ってそのことを子どもに伝えたら、大ブーイングでしたけどね。それでも、『もう決まってしまったから』と子どもたちを無理やり次の調停に連れていき、別れてから初めて、子どもを夫に会わせました。

 調査官は面会の様子を見て和やかだと思ったようですが、子どもたちの心は別のところにありました。内心、夫に気を使っていて、『触られるのも嫌だったけど断れず、つらかった』と後から言われました。調査官は、そんな子どもたちの本心を見抜けていませんでした。これが、後の審判に影響することになり、大きな失敗でした。

 夫のほうは一貫して『毎月、面会交流をさせろ』と主張していました。それに対し私は『年3回(春休み、夏休み、冬休み)なら、なんとかできると思う』と答えました。しかしこれも失敗でした。実際には、夏休みと冬休みは子どもが忙しくて難しい。遠いので宿泊も必要なんですが、その時期は宿も取りにくい。でも、このときの調停の記録が審判にも影響してしまい、後に年3回の面会ということで審判が出てしまいました」

 面会交流が決定したことがきっかけで、夫から、何らかの支払いが行われるようになったのだろうか?

「夫からの婚姻費用は、一向に支払われる様子がありませんでした。しかしそれでも、私は2度目の面会交流に応じました。この面会交流では、弁護士が見つけてくれたDVに詳しい交流支援業者に立ち会ってもらい、子どもたちを守っていただきました。

 私が面会に応じたのは、『北風と太陽』(イソップ寓話)の太陽と同じです。夫を喜ばせることで、夫も譲歩してくるんじゃないかと思ったんです。事実、会わせることで、態度は軟化しましたね。『子どもに会えてうれしいので、婚姻費用を振り込みます』と言って、結局は振り込んでくれましたから。

 問題は子どもの気持ちです。子どもに会えなくてつらい気持ちは想像できるので、母親が夫を嫌っているというだけの理由で夫に子どもを会わせないというのは、私もひどいと思います。だから私も、子どもたちを説得しようとしているんですが、子どもたちが父親を嫌がっているんですよね……。そんなわけで、3度目の面会は実現していないんです。

 調停の申し立てをしてから2年近く。今月、ようやく離婚が成立しました。安月給ですが、お金には困っていません。婚姻費用と慰謝料も入りましたし、貯えもありますから。それにしても、夫がいない生活は、自由でとても楽しいものですね!

 今後、夫とは金輪際、関わりたくないです。見つかったら、何をされるかわかりませんからね。連絡は弁護士を通じてのみです。そんなわけですので、面会交流は、やらないで済むならしたくないです。そのほうが、私も子どもたちも平穏な日々を送れますから」

西牟田 靖(にしむた やすし
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。