子どもが「パパ、もうやめて」――復縁するも、夫の暴力は止まらず【別れた夫にわが子を会わせる?】

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第8回 田中千恵美さん(仮名・30代)後編

 友人の紹介で英会話講師のイギリス人と知り合い、真面目な人柄に惹かれて交際を始めた田中千恵美さん。妊娠を機に結婚したものの、夫の仕事に対する田中さんの両親の口出しなどをきっかけに、彼が暴力を振るうようになる。臨月に近い頃、夫にレイプされた田中さんは、彼を説得し、精神科へ連れて行く。投薬治療により、しばらくは落ち着いたものの、子どもが1歳のときに、夫がナイフを振り回したため警察沙汰になり、別居することになった。
(前編はこちら)

■カウンセラーの警告を無視して、面会交流を始めてしまう

 2人は復縁に向け、カウンセリングを受け始める。

「担当してくれたカウンセラーの先生には『お互いの気持ちがちゃんと落ち着くまでは、一緒に時間を過ごすのはカウンセリングの間だけ。それ以外では会っちゃダメ』と警告されていました。だけど、彼のほうが我慢できずに電話をかけてきて、『子どもに会いたい』って電話口で泣きながら言うんです。それを聞いて私、たまらなくなりました。同居中、彼は父親として、すごくしっかりやってくれてましたし、子どものことは溺愛してましたからね。子どもと会えないことは地獄の苦しさでしょう。子どもに直接手を出したわけじゃないですし、何より父子関係が良好だったという事情から、わざわざ引き離す必要はないって思ったんです」

 田中さんはカウンセラーの警告よりも、彼に対しての心配が勝ってしまったようだ。面会交流を勝手に始めてしまう。

「なんだか私、彼のことがいたたまれなくなって、電話を切った後、彼にメールしたんです。『毎週末の日中、会っていいよ。ただし家には入れないし、私とも引き渡しのとき以外は直接話さないこと』って。以来、週末の朝、彼がやってくるようになりました。ドア越しに『行ってらっしゃい。午後×時になったら戻ってきて』って感じで子どもを送り出しました」

――面会させて大丈夫だったのですか? 約束は破られませんでしたか?

「私が取り決めた面会ルールもちゃんと守って、夕方には帰してくれるんです。もちろん、彼は平日に保育園とかに勝手に会いに行ったりもしませんでしたしね。給料が25万円しかないのに、養育費を毎月10万円振り込んでくれていたこともうれしかった。そうした信用の積み重ねで、彼への警戒心が緩んでいきました」

 その後、田中さんは、予定よりも早い復縁を決意してしまう。

「カウンセリングを受けている効果なのか、別居直後よりも、彼はだんだんと穏やかになってきてました。と同時に、健康状態がよくないのか、日を追うごとに痩せていったんです。日々、私が彼と子どもを自由に会えなくしていることで、こうなってしまったのかなって、ちょっと自分を責めるようになりました。暴力を振るわれたのにそんなふうに思うんですから、彼をまだ愛してたんでしょうね。

 そうして1年後、私は同居を了承しました。カウンセラーからは『まだ早いからダメ。同居はやめなさい』と、きつく言われました。5年ぐらいカウンセリングを受けてからようやく復縁というのが、一般的らしいんです。だけど私、カウンセラーの警告を聞き入れず、一緒に住み始めたんです」

――復縁後の生活は、どうだったのですか?

「申し上げたように彼はきちょうめんで真面目でした。一緒にいたらいたで楽しい。はじめの半年間ほどは穏やかに過ごしていました。だけど、また3カ月に1回ほどの暴力が始まりました。壁を蹴って穴を開けたり、私を殴ったりと、爆発するんです。しかも、夜の営みもほぼ強制的で、避妊もなかった。それで、もう1人デキちゃったんです。また女の子でした。カウンセラーのアドバイスを聞かずに復縁をした手前、仲良くやっている素振りを見せるしかありませんでした。

 上の子のときと違ったのは、育児に熱心でなかったということ。長女のときは夜通しミルクをあげてくれたのに、下の子のときは『夜泣きするから寝られない』と言って、カッとするだけでした」

――再び別居に至ったのは、なぜでしょうか?

「下の子が1歳ぐらいになったときに、彼が殴りかかってきたんです。子どもに危害が及んだら大変だと思って、下の子にとっさに覆いかぶさって、背中を殴られ続けたんです。すると上の子が『パパ、もうやめて』って言いながら私に覆いかぶさって、私を守ってくれたんです……」

 そこまで言ったところで田中さんは、それまでこらえていた涙が、両方の目からあふれ出し、「ご、ごめんなさい」と言ってハンカチで目を押さえた。

――上の子は大丈夫だったんですか?

「上の子に手が出る前に、彼は手を止めました。暴力がやんで、ほっとしました。だけど、私、そのとき悟ったんです。『もうダメだな』って。『もう離婚しよう』って。それでまた家を出て行ってもらいました」

 以来、田中さんは子どもたち2人と暮らしている。住んでいるところは、独身時代から住み続けているマンションだ。彼には週1回のペースで子どもに会わせている。復縁は、もはや考えていない。

――離婚はしたのですか?

「いいえ、まだです。折り合いがつかないですから。というのも彼、『離婚したくない。まだやり直せる。子どもたちと一緒にいたい』って、電話やメールで伝えてくるんです。私自身、早く離婚したいんですが、調停をしたりして無理に進めようとは思いません。家を知られてますからね。弁護士の書いた主張を読んだ彼がカッとしたら、何をするかわかったものじゃありません。とにかく彼を怒らせないこと。そうして穏便に時が過ぎ去るのを待つしかない。3年たつと、離婚要件が満たされるそうですからね」

――父親のことは、子どもたちにどういうふうに伝えているのですか?

「聞かれたときだけ答えます。ちなみに、上の子に聞かれたときには『ちょっとパパは心の病気なんだよ。心の病気でお薬を飲んだほうがいいんだけど、イライラしちゃうときがあるんだよ』とか、そんなふうに言ってます。下の子はね、まだ小さいし、私が彼に殴られてるのを見てないので、だからあんまり、まだわかってない」

――彼は子どもたちに、田中さんのことをどう言ってるのでしょうか?

「悪く言ってるようですね。面会から帰って来た後、『パパが殴ったのは、ママのせいなんだね』って、上の子が言ったことがありましたから。それを聞いても私、彼のことを悪くは言いません。優しく『ママも悪いときがあるんだよ』って言うだけです」

――離婚が成立しても会わせますか?

「それは続けるつもりです。イギリス人だから子育てには一家言持っていて相談に乗ってもらえるし、教育とか子育てといった点で、いてくれたほうが何かと助かりますしね。夫としてはダメですけど、パパとしての彼は尊重してるんです。別れたからといって、切り離す必要はないのかなって思います」

――最後に、今後の展望は?

「離婚したいという気持ちは、ぶれてないです。愛情は、もはやないです。別に恋人を作ってくれたら楽に離婚できるんですが、そうはうまくいきませんね。だから、事を荒立てずに、穏便に3年待つしかないですね。子どもが元気に育ってくれているのがなんといっても励みになるし、元気のもとなんです。子どもたちのために頑張るしかないですね」

 暴力を振るわれ続けても、田中さんの彼への愛は続き、子どもが2人できた。そんな彼への愛情は、もはやなくなってしまった。しかし、田中さんと彼の愛情は、2人の子どもたちに今後ずっと絶えることなく注がれていく。それは間違いないだろう。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

子どもが「パパ、もうやめて」――復縁するも、夫の暴力は止まらず【別れた夫にわが子を会わせる?】

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第8回 田中千恵美さん(仮名・30代)後編

 友人の紹介で英会話講師のイギリス人と知り合い、真面目な人柄に惹かれて交際を始めた田中千恵美さん。妊娠を機に結婚したものの、夫の仕事に対する田中さんの両親の口出しなどをきっかけに、彼が暴力を振るうようになる。臨月に近い頃、夫にレイプされた田中さんは、彼を説得し、精神科へ連れて行く。投薬治療により、しばらくは落ち着いたものの、子どもが1歳のときに、夫がナイフを振り回したため警察沙汰になり、別居することになった。
(前編はこちら)

■カウンセラーの警告を無視して、面会交流を始めてしまう

 2人は復縁に向け、カウンセリングを受け始める。

「担当してくれたカウンセラーの先生には『お互いの気持ちがちゃんと落ち着くまでは、一緒に時間を過ごすのはカウンセリングの間だけ。それ以外では会っちゃダメ』と警告されていました。だけど、彼のほうが我慢できずに電話をかけてきて、『子どもに会いたい』って電話口で泣きながら言うんです。それを聞いて私、たまらなくなりました。同居中、彼は父親として、すごくしっかりやってくれてましたし、子どものことは溺愛してましたからね。子どもと会えないことは地獄の苦しさでしょう。子どもに直接手を出したわけじゃないですし、何より父子関係が良好だったという事情から、わざわざ引き離す必要はないって思ったんです」

 田中さんはカウンセラーの警告よりも、彼に対しての心配が勝ってしまったようだ。面会交流を勝手に始めてしまう。

「なんだか私、彼のことがいたたまれなくなって、電話を切った後、彼にメールしたんです。『毎週末の日中、会っていいよ。ただし家には入れないし、私とも引き渡しのとき以外は直接話さないこと』って。以来、週末の朝、彼がやってくるようになりました。ドア越しに『行ってらっしゃい。午後×時になったら戻ってきて』って感じで子どもを送り出しました」

――面会させて大丈夫だったのですか? 約束は破られませんでしたか?

「私が取り決めた面会ルールもちゃんと守って、夕方には帰してくれるんです。もちろん、彼は平日に保育園とかに勝手に会いに行ったりもしませんでしたしね。給料が25万円しかないのに、養育費を毎月10万円振り込んでくれていたこともうれしかった。そうした信用の積み重ねで、彼への警戒心が緩んでいきました」

 その後、田中さんは、予定よりも早い復縁を決意してしまう。

「カウンセリングを受けている効果なのか、別居直後よりも、彼はだんだんと穏やかになってきてました。と同時に、健康状態がよくないのか、日を追うごとに痩せていったんです。日々、私が彼と子どもを自由に会えなくしていることで、こうなってしまったのかなって、ちょっと自分を責めるようになりました。暴力を振るわれたのにそんなふうに思うんですから、彼をまだ愛してたんでしょうね。

 そうして1年後、私は同居を了承しました。カウンセラーからは『まだ早いからダメ。同居はやめなさい』と、きつく言われました。5年ぐらいカウンセリングを受けてからようやく復縁というのが、一般的らしいんです。だけど私、カウンセラーの警告を聞き入れず、一緒に住み始めたんです」

――復縁後の生活は、どうだったのですか?

「申し上げたように彼はきちょうめんで真面目でした。一緒にいたらいたで楽しい。はじめの半年間ほどは穏やかに過ごしていました。だけど、また3カ月に1回ほどの暴力が始まりました。壁を蹴って穴を開けたり、私を殴ったりと、爆発するんです。しかも、夜の営みもほぼ強制的で、避妊もなかった。それで、もう1人デキちゃったんです。また女の子でした。カウンセラーのアドバイスを聞かずに復縁をした手前、仲良くやっている素振りを見せるしかありませんでした。

 上の子のときと違ったのは、育児に熱心でなかったということ。長女のときは夜通しミルクをあげてくれたのに、下の子のときは『夜泣きするから寝られない』と言って、カッとするだけでした」

――再び別居に至ったのは、なぜでしょうか?

「下の子が1歳ぐらいになったときに、彼が殴りかかってきたんです。子どもに危害が及んだら大変だと思って、下の子にとっさに覆いかぶさって、背中を殴られ続けたんです。すると上の子が『パパ、もうやめて』って言いながら私に覆いかぶさって、私を守ってくれたんです……」

 そこまで言ったところで田中さんは、それまでこらえていた涙が、両方の目からあふれ出し、「ご、ごめんなさい」と言ってハンカチで目を押さえた。

――上の子は大丈夫だったんですか?

「上の子に手が出る前に、彼は手を止めました。暴力がやんで、ほっとしました。だけど、私、そのとき悟ったんです。『もうダメだな』って。『もう離婚しよう』って。それでまた家を出て行ってもらいました」

 以来、田中さんは子どもたち2人と暮らしている。住んでいるところは、独身時代から住み続けているマンションだ。彼には週1回のペースで子どもに会わせている。復縁は、もはや考えていない。

――離婚はしたのですか?

「いいえ、まだです。折り合いがつかないですから。というのも彼、『離婚したくない。まだやり直せる。子どもたちと一緒にいたい』って、電話やメールで伝えてくるんです。私自身、早く離婚したいんですが、調停をしたりして無理に進めようとは思いません。家を知られてますからね。弁護士の書いた主張を読んだ彼がカッとしたら、何をするかわかったものじゃありません。とにかく彼を怒らせないこと。そうして穏便に時が過ぎ去るのを待つしかない。3年たつと、離婚要件が満たされるそうですからね」

――父親のことは、子どもたちにどういうふうに伝えているのですか?

「聞かれたときだけ答えます。ちなみに、上の子に聞かれたときには『ちょっとパパは心の病気なんだよ。心の病気でお薬を飲んだほうがいいんだけど、イライラしちゃうときがあるんだよ』とか、そんなふうに言ってます。下の子はね、まだ小さいし、私が彼に殴られてるのを見てないので、だからあんまり、まだわかってない」

――彼は子どもたちに、田中さんのことをどう言ってるのでしょうか?

「悪く言ってるようですね。面会から帰って来た後、『パパが殴ったのは、ママのせいなんだね』って、上の子が言ったことがありましたから。それを聞いても私、彼のことを悪くは言いません。優しく『ママも悪いときがあるんだよ』って言うだけです」

――離婚が成立しても会わせますか?

「それは続けるつもりです。イギリス人だから子育てには一家言持っていて相談に乗ってもらえるし、教育とか子育てといった点で、いてくれたほうが何かと助かりますしね。夫としてはダメですけど、パパとしての彼は尊重してるんです。別れたからといって、切り離す必要はないのかなって思います」

――最後に、今後の展望は?

「離婚したいという気持ちは、ぶれてないです。愛情は、もはやないです。別に恋人を作ってくれたら楽に離婚できるんですが、そうはうまくいきませんね。だから、事を荒立てずに、穏便に3年待つしかないですね。子どもが元気に育ってくれているのがなんといっても励みになるし、元気のもとなんです。子どもたちのために頑張るしかないですね」

 暴力を振るわれ続けても、田中さんの彼への愛は続き、子どもが2人できた。そんな彼への愛情は、もはやなくなってしまった。しかし、田中さんと彼の愛情は、2人の子どもたちに今後ずっと絶えることなく注がれていく。それは間違いないだろう。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

「弁護士を用意できなかった」松居一代が離婚裁判で沈黙を守った理由

 “ヨガ離婚”と話題になったマルチタレント・片岡鶴太郎(62)が、俳優・船越英一郎(57)がMCを務めるNHK『ごごナマ』に出演。「結婚したからって我慢して一緒にいなきゃならないってことでもないと思う」と、38年間連れ添った妻との離婚について語った。

 共にMCを務める女優・美保純(57)に「船越さんには(○○離婚とか?)何もついてないですね」と振られ、「まだですから」と、答えていた船越。番組で離婚について発言したのは初めてだ。鶴太郎に離婚を勧められても、一筋縄ではいかない相手、妻でタレントの松居一代(60)とは、これから長い裁判が続く。まだ、東京家庭裁判所での第1回調停が9月4日に始まったばかりだ。

 同日、テレビの生放送で裁判所へ行けない船越に代わって弁護士が出廷。一方、松居は1人で、自宅から電車で裁判所に向かった。地下鉄の霞ヶ関駅の出口を誰かに伝えていたのだろう。階段を上がってくる姿から、テレビクルーに映し出されていた。松居らしい演出だ。あれだけYouTubeやブログで船越に挑戦状を叩きつけ、数日前までは「裁判なんかよりも、ここに来て頭を下げて謝ればいい。許しますよ」と、強気の発言をしていた松居だったが、この日は「ご苦労様です」「お疲れ様です」だけで、ほとんど沈黙。非公開で行われた調停の模様も、彼女はマスコミに話さなかった。

 関係者は「松居さんが弁護士を用意できなかったから、調停では何も進まなかった」と無言の真相を明かした。そして2回目の調停は11月1日に決定。T総合法律事務所のT弁護士チームが松居の代理人となった。船越が家庭裁判所に提出した離婚申請理由は、伝えられている松居のDVではないこともわかった。関係者は「船越さんは、DVや自分に係わることは自分だけ我慢すればいい、という考えなんです。ところが、松居は自分の書籍を売るために他人の名前を利用した。これが離婚の一番大きな理由です。妻としての松居との信頼関係が大きく崩れたんですよ」と話した。

 2015年10月、松居の出版記念会見だった。数日前、松居は船越に「あなたと川島なお美さんのことがネットに載っている。それを聞かれそう。聞かれたら、私は正直だから話すわよ」というやり取りが船越夫妻と数人の関係者がいる中で繰り広げられた。松居以外の人は誰一人、そんな質問をする記者はいないと思ったが、現実には、会見で聞いた記者がいた。現場にいた記者・リポーターの間では「見たことがない人で、その質問をしたら、すぐにいなくなった」「誰?」と話題になった。

 そして、松居が沈黙を守るもう一つの理由は、警察から事情聴取で呼ばれるであろう「住居不法侵入」の問題だろう。船越のマンションへの侵入で防犯ベルが鳴ってしまった。船越が被害届を出したわけではなく、警察が関心を持った出来事だからだ。すでに、船越の事情聴取は済んでいて、あとは松居の聴取だけになっている。逮捕は100%ないと思うけど、夫婦でも別居中の相手の自宅に無断で入ることは問題なのだ。離婚もこのまま行けば、間違いなく地方裁判所での公開裁判になる。どちらにも得な話じゃないだろう。

石川敏男(いしかわ・としお)
昭和21 年11月10日生まれ。東京都出身。松竹宣伝部、「女性セブン」(小学館)、「週刊女性」(主婦と生活社)の芸能記者から、芸能レポーターへと転身。『ザ・ワイド』(日本テレビ系)の芸能デスク兼芸能レポーターとして活躍。現在は、読売テレビ『朝生ワイド す・またん』に出演中。

別居婚4年で離婚、弁護士の初仕事は自分の養育費調停【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第7回 山崎庸子さん(仮名・36歳)後編

 大学の同級生とロースクール在学中に結婚した山崎庸子さん。司法試験を受けるため別居生活だったが、受験勉強中に妊娠出産。公務員の夫は2カ月の育児休暇を取り、子育てに尽力してくれた。しかし、その育休をきっかけに義父母との関係が悪化。さらに夫との仲もこじれていった。出産後半年で離婚が頭をよぎったものの、受験生だったため、封印して円満な別居生活を続けていた。ところが、初の司法試験は不合格。子連れで浪人生活を送ることになる。

(前編はこちら)

■息子の3歳の誕生日を祝うことなく協議離婚

 転機となったのは息子がちょうど3歳になった2011年の3月初旬だった。

「北陸から引き上げて東京で夫と同居しようと話が進んでいました。幼稚園と延長保育を駆使すれば、東京でも子育てと勉強を両立できるだろうと。ところが、2月ごろ彼が『同居に実は不安があるんだ』と言い始めたんです。新居の賃貸契約や退去の手続、退園の連絡が進んでいるのに、です。不安があるという感情だけ言って、じゃあ具体的に、どうするのかという話にはならない。だんまり。それが、北陸で一緒に過ごした最後の時になりました。

 本当は、3月初旬の息子の誕生日のころにも来る予定はあったんです。一緒にお祝いしようかと。でも、連絡が乏しい。結局、本当に来なくて、息子の誕生日を一緒に祝うこともしなかった」

 息子の誕生日から一週間あまり。東北に津波が押し寄せた。いわゆる東日本大震災である。

――震災が発生したときは大丈夫でしたか?

「東北の被災地ほどではないにしても、少し揺れたし、ちょうど手伝いに来てくれる予定だった母が乗っている電車は一晩動かず、大変でした。連日被災地のニュースも見て、日本の異常事態だと感じながら、東京に転居するまでの準備をし、一日一日過ごしていました。

 そんな折に、彼が珍しく、嬉々とした様子で電話をかけてきたんです。『被災地応援辞令を受けて、被災地に行ってくるね。だからあとはよろしく』って。これにはあっけにとられました。さも、同居できなくなることが心底うれしいといわんばかりの雰囲気があふれていました。

 よくよく確認すると、いきなり、被災地に行ってしまうわけではなかったみたいで、彼は渋々と同居を受け入れることになったのですが、同居生活の準備の話は一切できないままでしたね。震災という局面に接して感じたのは、『後悔のない人生を生きなきゃ』という強い思いでした。つまり、離婚する決意を固めたんです」

 3.11発生から約1カ月後の4月に、晴れて離婚が成立した。

「ただ届けを出しただけの協議離婚です。東北行きの正式な辞令がなかなか下りなかったため、最低限の協議はできました。養育費という名目では素直に払いたくなかったようで、幼稚園代(教育料、教材費、延長保育料など)の平均、毎月5万円弱を彼の口座から引き落とす形で、実質的に養育費5万円を負担してくれることになりました。

 離婚はしたけども、初めての同居生活は、試験が終わる5月半ばまで続けていました。彼も、受験に配慮してくれたようです。解決先延ばし癖があっても、心底嫌なことには行動が早い。いつのまにか転居先を見つけていて、早々に同居を解消しました。そのあと、辞令通り、東北で滞在したこともあったようだけど、数週間で戻ってきたようです」

 3.11と離婚という大きな節目を経て挑んだ、2度目の試験は、また不合格だった。実家のサポートを受けながら幼稚園児の息子を育て、離婚した元夫と息子の面会交流をさせつつ、自身は、司法試験予備校の教材作成のバイトで生計を立て、最後の試験に挑戦する。翌年合格、11月末からは司法修習生となった。

「司法修習に行く先輩たちを見ていたら、全国のどこに配置されるかわからないと知っていました。でも、私は息子がいたからか、第一希望の関東での修習がかないました。自宅から修習を受ける各施設までは1時間の距離。これなら子どもを幼稚園に通わせることが可能でした。修習の内容ですが、民事裁判、刑事裁判、検察、弁護士の実務修習と起案の指導を中心とした集合研修があり、その後、最後の国家試験を合格して、なんとか法曹資格を得ました。2013年には晴れて弁護士となることができました」

――弁護士になって最初に手がけた案件はどんな案件でしたか?

「自分の養育費調停が、弁護士になってからの事実上の初仕事だと思います。息子が小学校に入った途端、一切支払わなくなってしまったんです。正論を説いたところで、解決を先延ばしにする癖は、離婚前と同じだとわかっていたので、協議の場に元夫を引っ張り出さなければならないって思い、すぐに調停の申し立てをしました。申立手続きは全て自分1人で用意し、途中の主張書面も力のこもった大作を提出したんです」

 実際の調停の場で、元夫はいくつかの主張をした。それは、すでに毎月5万円を3年間、トータルで180万円の幼稚園代として払ってきたということや、平均年収は3,000万円という弁護士の平均所得の高さについてだった。

「彼はできる限り少額しか払いたくない様子でした。一方、私は彼のいう180万円を逆手にとって次のように言いました。『これまで毎月5万円が実質的な養育費として、合意に基づいて支払われた実績がある。この合意を変更する事情はほかにはなく、合意どおり毎月5万円が支払われるべき』と。

 弁護士の所得に関する指摘については無視です。調停委員も相手にしていなかったと思います。業界全体が、変動していて、年収3,000万円を超える人も中にはいるかもしれないけど、弁護士一般の年収ではないのはもちろん、現に、そのとき弁護士になりたての私に関しては、そもそも所得が少ないことを、給与証明書を提出して示していましたから」

 息子同伴の第一回調停の後、久々の父子再会が実現する。

「とにかく私としては、唐突に払わなくなったことに怒り心頭ではありました。それとは別に、たまたま学校が振替休日だったために同伴していた息子と、調停終了後、父子が再会することになりました。調停委員の目の前で、お互いに笑顔がはじけて再会するのですから、その後の進行上、印象に残る場面になったと思います。

 再会の場で彼は、養育費を払っていないのに平然とした調子で『面会交流は続けていこう』とか言って、私の気持ちなんて何もくみ取りません。それどころか『今月泊まりに来ないか』とまで言い始めた」

――2回目の調停の場は?

「彼は、遅刻して出頭したので、待ち時間が長くなり、協議が進みません。私のイライラも募ります。『5万円払ってくれないと、もう面会交流させない』って強く断言してやりました。すると、子どもを夫と会わせようと奮闘してくださった調停委員が私を説得しようとしてきました。

『面会交流はお子さんのためのものですからね。わかっているでしょ、先生』って。私はすっかり悪母です。カッとして『養育費だって子どものためだろうがっ!』って喧嘩ごしの荒々しい口調で、悪態をつきました。裁判所を離れたあとも怒りは収まらず、その勢いのまま、自宅で息子に手紙を書かせました。『養育費を払ってください。5万円約束通り払ってください。嘘つかないでください』って(苦笑)。本当はこんなことしちゃいけないと重々、仕事柄知っているんですけどね。そのぐらい彼の態度にも裁判所の正論にも怒ってたんです」

――3回目の調停は?

「裁判官が出てきて、彼に直々に説得をしてくれました。調停の場合、最後の挨拶に来るぐらいの役目なんですが。弁護士が代理人を立てずに本人調停、しかもその弁護士が暴れてるというのが珍しかったんでしょうし、子どもがしばらく父親に会えなくなるかもと危惧したんでしょう。修復不可能にならないようにってことで、裁判官が彼を説得してくれました。

 その結果、養育費は5万円だけでなく、月イチの面会交流を妨げないという条項を盛り込むことで落ち着きました。養育費は20歳までではなく、22歳までもらえることになりました。大学時代、お互い親に面倒をみてもらっていたから、我が子が大学を卒業するまではちゃんと面倒を見ることについて、争いはなかったです。

 でも元夫婦は今後、よほどじゃない限り連絡は取らないという約束もしました。彼の希望ですが、私も大歓迎です。だから面会交流の日程調整の協議も、息子の携帯で息子自身が連絡調整するから、私は楽なんです。もちろん、いつ会うかは把握していますし、息子も私に予定を教えてくれます。こんな感じでストレスない形で、今後も面会が続いていくんだと思います」

――面会交流はどんなふうに行っていますか?

「月イチで会う日は最寄駅で朝9時に会って、16時半か17時半まで。聞くところによれば、月1回2時間という相場からすれば、十分充実しているかもしれません。どこに行ったか聞けば、近くにある漫画図書館でずっと過ごしたり、映画を見に行ったり、遊園地に行ったりと息子が教えてくれます。

 一方、泊まりの面会については、もっと丁寧に交渉してくれたら、私は全然、宿泊旅行とかもOKなんです。だけど息子がNGです。元夫は再婚していて、その再婚相手を必要以上に毛嫌いしてて『会うのが嫌だから。泊まりは絶対嫌だ』って言ってるんです。

 向こうが提案してくるのなら、彼側の祖父母の家に行くとかもやってもいいと思います。息子も小学校の高学年になるし、ずいぶん成長しましたからね、冒険させてもいいと思っているんです。これだけいい子に育ってますよというのを見せつけてやりたいです」

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

別居婚4年で離婚、弁護士の初仕事は自分の養育費調停【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第7回 山崎庸子さん(仮名・36歳)後編

 大学の同級生とロースクール在学中に結婚した山崎庸子さん。司法試験を受けるため別居生活だったが、受験勉強中に妊娠出産。公務員の夫は2カ月の育児休暇を取り、子育てに尽力してくれた。しかし、その育休をきっかけに義父母との関係が悪化。さらに夫との仲もこじれていった。出産後半年で離婚が頭をよぎったものの、受験生だったため、封印して円満な別居生活を続けていた。ところが、初の司法試験は不合格。子連れで浪人生活を送ることになる。

(前編はこちら)

■息子の3歳の誕生日を祝うことなく協議離婚

 転機となったのは息子がちょうど3歳になった2011年の3月初旬だった。

「北陸から引き上げて東京で夫と同居しようと話が進んでいました。幼稚園と延長保育を駆使すれば、東京でも子育てと勉強を両立できるだろうと。ところが、2月ごろ彼が『同居に実は不安があるんだ』と言い始めたんです。新居の賃貸契約や退去の手続、退園の連絡が進んでいるのに、です。不安があるという感情だけ言って、じゃあ具体的に、どうするのかという話にはならない。だんまり。それが、北陸で一緒に過ごした最後の時になりました。

 本当は、3月初旬の息子の誕生日のころにも来る予定はあったんです。一緒にお祝いしようかと。でも、連絡が乏しい。結局、本当に来なくて、息子の誕生日を一緒に祝うこともしなかった」

 息子の誕生日から一週間あまり。東北に津波が押し寄せた。いわゆる東日本大震災である。

――震災が発生したときは大丈夫でしたか?

「東北の被災地ほどではないにしても、少し揺れたし、ちょうど手伝いに来てくれる予定だった母が乗っている電車は一晩動かず、大変でした。連日被災地のニュースも見て、日本の異常事態だと感じながら、東京に転居するまでの準備をし、一日一日過ごしていました。

 そんな折に、彼が珍しく、嬉々とした様子で電話をかけてきたんです。『被災地応援辞令を受けて、被災地に行ってくるね。だからあとはよろしく』って。これにはあっけにとられました。さも、同居できなくなることが心底うれしいといわんばかりの雰囲気があふれていました。

 よくよく確認すると、いきなり、被災地に行ってしまうわけではなかったみたいで、彼は渋々と同居を受け入れることになったのですが、同居生活の準備の話は一切できないままでしたね。震災という局面に接して感じたのは、『後悔のない人生を生きなきゃ』という強い思いでした。つまり、離婚する決意を固めたんです」

 3.11発生から約1カ月後の4月に、晴れて離婚が成立した。

「ただ届けを出しただけの協議離婚です。東北行きの正式な辞令がなかなか下りなかったため、最低限の協議はできました。養育費という名目では素直に払いたくなかったようで、幼稚園代(教育料、教材費、延長保育料など)の平均、毎月5万円弱を彼の口座から引き落とす形で、実質的に養育費5万円を負担してくれることになりました。

 離婚はしたけども、初めての同居生活は、試験が終わる5月半ばまで続けていました。彼も、受験に配慮してくれたようです。解決先延ばし癖があっても、心底嫌なことには行動が早い。いつのまにか転居先を見つけていて、早々に同居を解消しました。そのあと、辞令通り、東北で滞在したこともあったようだけど、数週間で戻ってきたようです」

 3.11と離婚という大きな節目を経て挑んだ、2度目の試験は、また不合格だった。実家のサポートを受けながら幼稚園児の息子を育て、離婚した元夫と息子の面会交流をさせつつ、自身は、司法試験予備校の教材作成のバイトで生計を立て、最後の試験に挑戦する。翌年合格、11月末からは司法修習生となった。

「司法修習に行く先輩たちを見ていたら、全国のどこに配置されるかわからないと知っていました。でも、私は息子がいたからか、第一希望の関東での修習がかないました。自宅から修習を受ける各施設までは1時間の距離。これなら子どもを幼稚園に通わせることが可能でした。修習の内容ですが、民事裁判、刑事裁判、検察、弁護士の実務修習と起案の指導を中心とした集合研修があり、その後、最後の国家試験を合格して、なんとか法曹資格を得ました。2013年には晴れて弁護士となることができました」

――弁護士になって最初に手がけた案件はどんな案件でしたか?

「自分の養育費調停が、弁護士になってからの事実上の初仕事だと思います。息子が小学校に入った途端、一切支払わなくなってしまったんです。正論を説いたところで、解決を先延ばしにする癖は、離婚前と同じだとわかっていたので、協議の場に元夫を引っ張り出さなければならないって思い、すぐに調停の申し立てをしました。申立手続きは全て自分1人で用意し、途中の主張書面も力のこもった大作を提出したんです」

 実際の調停の場で、元夫はいくつかの主張をした。それは、すでに毎月5万円を3年間、トータルで180万円の幼稚園代として払ってきたということや、平均年収は3,000万円という弁護士の平均所得の高さについてだった。

「彼はできる限り少額しか払いたくない様子でした。一方、私は彼のいう180万円を逆手にとって次のように言いました。『これまで毎月5万円が実質的な養育費として、合意に基づいて支払われた実績がある。この合意を変更する事情はほかにはなく、合意どおり毎月5万円が支払われるべき』と。

 弁護士の所得に関する指摘については無視です。調停委員も相手にしていなかったと思います。業界全体が、変動していて、年収3,000万円を超える人も中にはいるかもしれないけど、弁護士一般の年収ではないのはもちろん、現に、そのとき弁護士になりたての私に関しては、そもそも所得が少ないことを、給与証明書を提出して示していましたから」

 息子同伴の第一回調停の後、久々の父子再会が実現する。

「とにかく私としては、唐突に払わなくなったことに怒り心頭ではありました。それとは別に、たまたま学校が振替休日だったために同伴していた息子と、調停終了後、父子が再会することになりました。調停委員の目の前で、お互いに笑顔がはじけて再会するのですから、その後の進行上、印象に残る場面になったと思います。

 再会の場で彼は、養育費を払っていないのに平然とした調子で『面会交流は続けていこう』とか言って、私の気持ちなんて何もくみ取りません。それどころか『今月泊まりに来ないか』とまで言い始めた」

――2回目の調停の場は?

「彼は、遅刻して出頭したので、待ち時間が長くなり、協議が進みません。私のイライラも募ります。『5万円払ってくれないと、もう面会交流させない』って強く断言してやりました。すると、子どもを夫と会わせようと奮闘してくださった調停委員が私を説得しようとしてきました。

『面会交流はお子さんのためのものですからね。わかっているでしょ、先生』って。私はすっかり悪母です。カッとして『養育費だって子どものためだろうがっ!』って喧嘩ごしの荒々しい口調で、悪態をつきました。裁判所を離れたあとも怒りは収まらず、その勢いのまま、自宅で息子に手紙を書かせました。『養育費を払ってください。5万円約束通り払ってください。嘘つかないでください』って(苦笑)。本当はこんなことしちゃいけないと重々、仕事柄知っているんですけどね。そのぐらい彼の態度にも裁判所の正論にも怒ってたんです」

――3回目の調停は?

「裁判官が出てきて、彼に直々に説得をしてくれました。調停の場合、最後の挨拶に来るぐらいの役目なんですが。弁護士が代理人を立てずに本人調停、しかもその弁護士が暴れてるというのが珍しかったんでしょうし、子どもがしばらく父親に会えなくなるかもと危惧したんでしょう。修復不可能にならないようにってことで、裁判官が彼を説得してくれました。

 その結果、養育費は5万円だけでなく、月イチの面会交流を妨げないという条項を盛り込むことで落ち着きました。養育費は20歳までではなく、22歳までもらえることになりました。大学時代、お互い親に面倒をみてもらっていたから、我が子が大学を卒業するまではちゃんと面倒を見ることについて、争いはなかったです。

 でも元夫婦は今後、よほどじゃない限り連絡は取らないという約束もしました。彼の希望ですが、私も大歓迎です。だから面会交流の日程調整の協議も、息子の携帯で息子自身が連絡調整するから、私は楽なんです。もちろん、いつ会うかは把握していますし、息子も私に予定を教えてくれます。こんな感じでストレスない形で、今後も面会が続いていくんだと思います」

――面会交流はどんなふうに行っていますか?

「月イチで会う日は最寄駅で朝9時に会って、16時半か17時半まで。聞くところによれば、月1回2時間という相場からすれば、十分充実しているかもしれません。どこに行ったか聞けば、近くにある漫画図書館でずっと過ごしたり、映画を見に行ったり、遊園地に行ったりと息子が教えてくれます。

 一方、泊まりの面会については、もっと丁寧に交渉してくれたら、私は全然、宿泊旅行とかもOKなんです。だけど息子がNGです。元夫は再婚していて、その再婚相手を必要以上に毛嫌いしてて『会うのが嫌だから。泊まりは絶対嫌だ』って言ってるんです。

 向こうが提案してくるのなら、彼側の祖父母の家に行くとかもやってもいいと思います。息子も小学校の高学年になるし、ずいぶん成長しましたからね、冒険させてもいいと思っているんです。これだけいい子に育ってますよというのを見せつけてやりたいです」

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

認知した「隠し子」発覚……夫は15年間、2つの家庭を行き来していた【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第6回 根本みゆきさん(仮名・61歳)後編

 30年前、地方転勤が多い1歳下のゼネコン社員と結婚した根本みゆきさんは、長年、不妊治療をしていたが、子どもが授からず、41歳のとき、生まれたばかりの男の子を引き取った。夫は最初、子育てに協力的だったが、1時間半ほど離れた町へ単身赴任になると、徐々に帰ってくる頻度が減っていき、1カ月に一度になった頃、浮気が発覚。それは息子にも知られるところとなり、夫婦の距離は開いていった。夫には、認知もしていた「隠し子」がいたのだった。

(前編はこちら)

■戸籍謄本を取り寄せ、夫に離婚を突きつける

 3年前に離婚に至ったときの経緯は、どうだったのだろうか?

「(相手の女からだと思われる)いたずら電話が続いていました。うんざりして、警察に相談に乗ってもらったんです。すると『くれぐれも関わってはいけませんよ。あなたには何の落ち度もないんですから』って助言されただけ。かといって、おとなしく何もしないのでは、不安や不満が抑えられない。そこで私、いよいよ確かめることにしたんです」

 根本さんが夫の戸籍謄本を取り寄せると、知らない女の子の名前の下に“認知”と記されていた。生年月日も記してあり、計算すると、女の子は11歳。認知した年月日と照らし合わせると、3歳のときに認知したことになる。

「すぐに離婚することを決めました。それが3年前の春です。たまたま、数日後には、夫が1カ月ぶりに転勤先から帰ってくる予定でした。というのも、その日が私の誕生日だったからです。その日なら、面と向かって離婚を伝えられます」

 数日後、根本さんの誕生日に、夫が予定通りに帰ってくる。

「謄本を突きつけて、『一体どうなってるの?』って強い調子で迫りました。『この女の子誰よ? 母親は、あんたが一緒に住んでる女でしょ』と問い詰めたんです。すると『誰だよ、それ。知らねえよ。いい加減なことを言って、ふざけるんじゃねえよ』って逆ギレされました」

 根本さんはひるまなかった。

「『明日専門家を呼んで、あなたとは終わりにしますから。そのつもりでいてください』って、たんかを切ったんです」

 夫は1日中、家にいたが、2人にもはや話すことはなかった。その口論が、夫婦で直接交わした最後のやりとりとなった。

 夫婦の最後の話し合いのとき、当時高校生だった息子さんはどうしていたのか?

「『ママはパパと大事な話があるから、近所の人の家に行って待ってて。後で迎えに行くから』と言って、息子には家を離れてもらってました」

 その後、息子さんを迎えに行き、2人で自宅に戻ると、そのまま根本さんの部屋に入って、2人きりの誕生会を開いた。根本さんのために、息子さんはバースデーケーキを買ってきていた。

「ケーキを箱から出して、ロウソクを立てて火をつけます。“ハッピーバースデー・トゥ・ユー〜”って歌ってくれてね。私がロウソクを吹き消しました。ナイフで切り分けて、それぞれの皿の上に置きました。

 ここまで終えてから、息子に大事な話を切り出しました。『ありがとうね。ママうれしいよ。それでね今日、なんでパパと3人で祝わないかわかる?』って聞いたらね。息子はじっと真剣な表情で、私の顔を見ました。

『実はね、ママはパパとお別れするのよ。結婚をやめるの』
『うん……』
『パパとママ、どっちについて行きたいか、自分で選んでいいんだよ』

 息子は一切動揺したりすることもなく、間髪入れずに答えました。『そんなの、決まってるよ。ママと一緒にいるよ』って。

『ああそう? でも、今までみたいに贅沢はできないよ。大丈夫?』
『うん、わかる』

 ほんと、この子いい子だなと思った。確かに、血のつながった子どもではないですよ。でもね、本当にこの子ってステキに育ってくれたと思ってありがたかったし、うれしかった。これまで息子を大事に育ててきたかいがありました」

 根本さんが58歳になったタイミングで行われた、彼女と息子さんだけのささやかな誕生日パーティーは、2人にとって人生の新たな出発を記念してもいたのだ。

「やっと離れられるという解放感と息子に祝ってもらった喜び、今後の生活への不安と期待と、ケーキを口にしながら、いろんな感情が頭の中に渦巻いていました。一抹の寂しさもあったのかもしれません。だって、夫とは愛し合って結婚したんですよ。『幸せにするよ。落ち着いた生活をしよう』って言ってくれたのに、こんな結末なのですから」

 その後、根本さんは夫を完全に追い出しにかかった。どちらが家を出るかという話し合いもなかった。

「夫にはもうひとつの家庭があるわけだし、人としてやってはいけないことを私や息子にしてきたわけだから。夫が出て行って当然です」

 根本さんは、玄関の鍵を交換し、夫の荷物をすべて車庫に置いた。鍵を換えたのは、家の権利書などといった重要書類を、勝手に持ち出されるのを防ぐためだった。

「夫は車庫に荷物を取りに来ていたようです。直接のやりとりはありません。あとは全部弁護士を通してましたから」

 根本さんは、離婚届を、夫が女や娘と住む家に送った。すると捺印とサインのされた書類が、すんなり送り返されてきた。

「それを役所に持っていき、受理されました。法廷で争ったりはしていません。協議離婚です。息子はまもなく17歳になろうとするころでしたから、養育費に関しては、成人式を迎えるまでの3年余りだけ」

 女に慰謝料を請求したものの、働いていなかったので、結局、夫が肩代わりすることになった。

「一括で払えないからということで、夫の年収の3分の1に相当する額を、月割りの3年分割で払ってもらいました。夫は女と15年間、2つの家庭を維持していたので、本当にお金がなかったんでしょうね」

 自宅は根本さん、車は夫が引き取った。

「『俺が買ったものだから返せ』っていう主張でね。もう15万キロも乗ってた車ですから二束三文でしょ。だから『はい、どうぞ』って」

――別れた後の生活は、いかがですか?

「直後は悩みましたよ。だけど今は、すっかり落ち着いてます。別れてよかったです。女手ひとつでの生活ですから、贅沢はできないですよ。でも、小さな幸せを継続していくことはできるかな。息子も今やもう大学3年生になってて、バイトしながら頑張ってます」

――息子さんがそれだけ大きくなれば、自分から父親に会いにいけますよね?

「もう離婚しちゃってるし、私自身、夫と接触を持ちたいと思っていない。虐待したのだから、息子には会わせたくないですし。だけど、立派に育ってくれましたからね。体だけじゃなくて、精神的にも大人です。(息子が夫と)会っても構わないし、会うかどうかは彼次第です。息子の気持ちに任せます。だけど息子自身は、会いたいという気持ちは持っていないんです。それははっきりしています。『パパの子じゃない』ということです」

――生まれたときのことは伝えるつもりはありますか?

「息子が独り立ちするときや、彼女ができて結婚するタイミングで、『あなたはこうだったのよ』って言ってもいいかもしれない。だけど、今のところは、伝える気はありません。だって私たち、“実の親子”なんですから」

 血のつながりだけが、愛情のバロメーターなのではない。根本さんと息子さんの絆の強さを知り、そのことを痛感させられた。今後も2人は、どんな困難があっても乗り越えていくだろう。幸せを祈るばかりだ。

認知した「隠し子」発覚……夫は15年間、2つの家庭を行き来していた【別れた夫にわが子を会わせる?】

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第6回 根本みゆきさん(仮名・61歳)後編

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■戸籍謄本を取り寄せ、夫に離婚を突きつける

 3年前に離婚に至ったときの経緯は、どうだったのだろうか?

「(相手の女からだと思われる)いたずら電話が続いていました。うんざりして、警察に相談に乗ってもらったんです。すると『くれぐれも関わってはいけませんよ。あなたには何の落ち度もないんですから』って助言されただけ。かといって、おとなしく何もしないのでは、不安や不満が抑えられない。そこで私、いよいよ確かめることにしたんです」

 根本さんが夫の戸籍謄本を取り寄せると、知らない女の子の名前の下に“認知”と記されていた。生年月日も記してあり、計算すると、女の子は11歳。認知した年月日と照らし合わせると、3歳のときに認知したことになる。

「すぐに離婚することを決めました。それが3年前の春です。たまたま、数日後には、夫が1カ月ぶりに転勤先から帰ってくる予定でした。というのも、その日が私の誕生日だったからです。その日なら、面と向かって離婚を伝えられます」

 数日後、根本さんの誕生日に、夫が予定通りに帰ってくる。

「謄本を突きつけて、『一体どうなってるの?』って強い調子で迫りました。『この女の子誰よ? 母親は、あんたが一緒に住んでる女でしょ』と問い詰めたんです。すると『誰だよ、それ。知らねえよ。いい加減なことを言って、ふざけるんじゃねえよ』って逆ギレされました」

 根本さんはひるまなかった。

「『明日専門家を呼んで、あなたとは終わりにしますから。そのつもりでいてください』って、たんかを切ったんです」

 夫は1日中、家にいたが、2人にもはや話すことはなかった。その口論が、夫婦で直接交わした最後のやりとりとなった。

 夫婦の最後の話し合いのとき、当時高校生だった息子さんはどうしていたのか?

「『ママはパパと大事な話があるから、近所の人の家に行って待ってて。後で迎えに行くから』と言って、息子には家を離れてもらってました」

 その後、息子さんを迎えに行き、2人で自宅に戻ると、そのまま根本さんの部屋に入って、2人きりの誕生会を開いた。根本さんのために、息子さんはバースデーケーキを買ってきていた。

「ケーキを箱から出して、ロウソクを立てて火をつけます。“ハッピーバースデー・トゥ・ユー〜”って歌ってくれてね。私がロウソクを吹き消しました。ナイフで切り分けて、それぞれの皿の上に置きました。

 ここまで終えてから、息子に大事な話を切り出しました。『ありがとうね。ママうれしいよ。それでね今日、なんでパパと3人で祝わないかわかる?』って聞いたらね。息子はじっと真剣な表情で、私の顔を見ました。

『実はね、ママはパパとお別れするのよ。結婚をやめるの』
『うん……』
『パパとママ、どっちについて行きたいか、自分で選んでいいんだよ』

 息子は一切動揺したりすることもなく、間髪入れずに答えました。『そんなの、決まってるよ。ママと一緒にいるよ』って。

『ああそう? でも、今までみたいに贅沢はできないよ。大丈夫?』
『うん、わかる』

 ほんと、この子いい子だなと思った。確かに、血のつながった子どもではないですよ。でもね、本当にこの子ってステキに育ってくれたと思ってありがたかったし、うれしかった。これまで息子を大事に育ててきたかいがありました」

 根本さんが58歳になったタイミングで行われた、彼女と息子さんだけのささやかな誕生日パーティーは、2人にとって人生の新たな出発を記念してもいたのだ。

「やっと離れられるという解放感と息子に祝ってもらった喜び、今後の生活への不安と期待と、ケーキを口にしながら、いろんな感情が頭の中に渦巻いていました。一抹の寂しさもあったのかもしれません。だって、夫とは愛し合って結婚したんですよ。『幸せにするよ。落ち着いた生活をしよう』って言ってくれたのに、こんな結末なのですから」

 その後、根本さんは夫を完全に追い出しにかかった。どちらが家を出るかという話し合いもなかった。

「夫にはもうひとつの家庭があるわけだし、人としてやってはいけないことを私や息子にしてきたわけだから。夫が出て行って当然です」

 根本さんは、玄関の鍵を交換し、夫の荷物をすべて車庫に置いた。鍵を換えたのは、家の権利書などといった重要書類を、勝手に持ち出されるのを防ぐためだった。

「夫は車庫に荷物を取りに来ていたようです。直接のやりとりはありません。あとは全部弁護士を通してましたから」

 根本さんは、離婚届を、夫が女や娘と住む家に送った。すると捺印とサインのされた書類が、すんなり送り返されてきた。

「それを役所に持っていき、受理されました。法廷で争ったりはしていません。協議離婚です。息子はまもなく17歳になろうとするころでしたから、養育費に関しては、成人式を迎えるまでの3年余りだけ」

 女に慰謝料を請求したものの、働いていなかったので、結局、夫が肩代わりすることになった。

「一括で払えないからということで、夫の年収の3分の1に相当する額を、月割りの3年分割で払ってもらいました。夫は女と15年間、2つの家庭を維持していたので、本当にお金がなかったんでしょうね」

 自宅は根本さん、車は夫が引き取った。

「『俺が買ったものだから返せ』っていう主張でね。もう15万キロも乗ってた車ですから二束三文でしょ。だから『はい、どうぞ』って」

――別れた後の生活は、いかがですか?

「直後は悩みましたよ。だけど今は、すっかり落ち着いてます。別れてよかったです。女手ひとつでの生活ですから、贅沢はできないですよ。でも、小さな幸せを継続していくことはできるかな。息子も今やもう大学3年生になってて、バイトしながら頑張ってます」

――息子さんがそれだけ大きくなれば、自分から父親に会いにいけますよね?

「もう離婚しちゃってるし、私自身、夫と接触を持ちたいと思っていない。虐待したのだから、息子には会わせたくないですし。だけど、立派に育ってくれましたからね。体だけじゃなくて、精神的にも大人です。(息子が夫と)会っても構わないし、会うかどうかは彼次第です。息子の気持ちに任せます。だけど息子自身は、会いたいという気持ちは持っていないんです。それははっきりしています。『パパの子じゃない』ということです」

――生まれたときのことは伝えるつもりはありますか?

「息子が独り立ちするときや、彼女ができて結婚するタイミングで、『あなたはこうだったのよ』って言ってもいいかもしれない。だけど、今のところは、伝える気はありません。だって私たち、“実の親子”なんですから」

 血のつながりだけが、愛情のバロメーターなのではない。根本さんと息子さんの絆の強さを知り、そのことを痛感させられた。今後も2人は、どんな困難があっても乗り越えていくだろう。幸せを祈るばかりだ。

認知した「隠し子」発覚……夫は15年間、2つの家庭を行き来していた【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第6回 根本みゆきさん(仮名・61歳)後編

 30年前、地方転勤が多い1歳下のゼネコン社員と結婚した根本みゆきさんは、長年、不妊治療をしていたが、子どもが授からず、41歳のとき、生まれたばかりの男の子を引き取った。夫は最初、子育てに協力的だったが、1時間半ほど離れた町へ単身赴任になると、徐々に帰ってくる頻度が減っていき、1カ月に一度になった頃、浮気が発覚。それは息子にも知られるところとなり、夫婦の距離は開いていった。夫には、認知もしていた「隠し子」がいたのだった。

(前編はこちら)

■戸籍謄本を取り寄せ、夫に離婚を突きつける

 3年前に離婚に至ったときの経緯は、どうだったのだろうか?

「(相手の女からだと思われる)いたずら電話が続いていました。うんざりして、警察に相談に乗ってもらったんです。すると『くれぐれも関わってはいけませんよ。あなたには何の落ち度もないんですから』って助言されただけ。かといって、おとなしく何もしないのでは、不安や不満が抑えられない。そこで私、いよいよ確かめることにしたんです」

 根本さんが夫の戸籍謄本を取り寄せると、知らない女の子の名前の下に“認知”と記されていた。生年月日も記してあり、計算すると、女の子は11歳。認知した年月日と照らし合わせると、3歳のときに認知したことになる。

「すぐに離婚することを決めました。それが3年前の春です。たまたま、数日後には、夫が1カ月ぶりに転勤先から帰ってくる予定でした。というのも、その日が私の誕生日だったからです。その日なら、面と向かって離婚を伝えられます」

 数日後、根本さんの誕生日に、夫が予定通りに帰ってくる。

「謄本を突きつけて、『一体どうなってるの?』って強い調子で迫りました。『この女の子誰よ? 母親は、あんたが一緒に住んでる女でしょ』と問い詰めたんです。すると『誰だよ、それ。知らねえよ。いい加減なことを言って、ふざけるんじゃねえよ』って逆ギレされました」

 根本さんはひるまなかった。

「『明日専門家を呼んで、あなたとは終わりにしますから。そのつもりでいてください』って、たんかを切ったんです」

 夫は1日中、家にいたが、2人にもはや話すことはなかった。その口論が、夫婦で直接交わした最後のやりとりとなった。

 夫婦の最後の話し合いのとき、当時高校生だった息子さんはどうしていたのか?

「『ママはパパと大事な話があるから、近所の人の家に行って待ってて。後で迎えに行くから』と言って、息子には家を離れてもらってました」

 その後、息子さんを迎えに行き、2人で自宅に戻ると、そのまま根本さんの部屋に入って、2人きりの誕生会を開いた。根本さんのために、息子さんはバースデーケーキを買ってきていた。

「ケーキを箱から出して、ロウソクを立てて火をつけます。“ハッピーバースデー・トゥ・ユー〜”って歌ってくれてね。私がロウソクを吹き消しました。ナイフで切り分けて、それぞれの皿の上に置きました。

 ここまで終えてから、息子に大事な話を切り出しました。『ありがとうね。ママうれしいよ。それでね今日、なんでパパと3人で祝わないかわかる?』って聞いたらね。息子はじっと真剣な表情で、私の顔を見ました。

『実はね、ママはパパとお別れするのよ。結婚をやめるの』
『うん……』
『パパとママ、どっちについて行きたいか、自分で選んでいいんだよ』

 息子は一切動揺したりすることもなく、間髪入れずに答えました。『そんなの、決まってるよ。ママと一緒にいるよ』って。

『ああそう? でも、今までみたいに贅沢はできないよ。大丈夫?』
『うん、わかる』

 ほんと、この子いい子だなと思った。確かに、血のつながった子どもではないですよ。でもね、本当にこの子ってステキに育ってくれたと思ってありがたかったし、うれしかった。これまで息子を大事に育ててきたかいがありました」

 根本さんが58歳になったタイミングで行われた、彼女と息子さんだけのささやかな誕生日パーティーは、2人にとって人生の新たな出発を記念してもいたのだ。

「やっと離れられるという解放感と息子に祝ってもらった喜び、今後の生活への不安と期待と、ケーキを口にしながら、いろんな感情が頭の中に渦巻いていました。一抹の寂しさもあったのかもしれません。だって、夫とは愛し合って結婚したんですよ。『幸せにするよ。落ち着いた生活をしよう』って言ってくれたのに、こんな結末なのですから」

 その後、根本さんは夫を完全に追い出しにかかった。どちらが家を出るかという話し合いもなかった。

「夫にはもうひとつの家庭があるわけだし、人としてやってはいけないことを私や息子にしてきたわけだから。夫が出て行って当然です」

 根本さんは、玄関の鍵を交換し、夫の荷物をすべて車庫に置いた。鍵を換えたのは、家の権利書などといった重要書類を、勝手に持ち出されるのを防ぐためだった。

「夫は車庫に荷物を取りに来ていたようです。直接のやりとりはありません。あとは全部弁護士を通してましたから」

 根本さんは、離婚届を、夫が女や娘と住む家に送った。すると捺印とサインのされた書類が、すんなり送り返されてきた。

「それを役所に持っていき、受理されました。法廷で争ったりはしていません。協議離婚です。息子はまもなく17歳になろうとするころでしたから、養育費に関しては、成人式を迎えるまでの3年余りだけ」

 女に慰謝料を請求したものの、働いていなかったので、結局、夫が肩代わりすることになった。

「一括で払えないからということで、夫の年収の3分の1に相当する額を、月割りの3年分割で払ってもらいました。夫は女と15年間、2つの家庭を維持していたので、本当にお金がなかったんでしょうね」

 自宅は根本さん、車は夫が引き取った。

「『俺が買ったものだから返せ』っていう主張でね。もう15万キロも乗ってた車ですから二束三文でしょ。だから『はい、どうぞ』って」

――別れた後の生活は、いかがですか?

「直後は悩みましたよ。だけど今は、すっかり落ち着いてます。別れてよかったです。女手ひとつでの生活ですから、贅沢はできないですよ。でも、小さな幸せを継続していくことはできるかな。息子も今やもう大学3年生になってて、バイトしながら頑張ってます」

――息子さんがそれだけ大きくなれば、自分から父親に会いにいけますよね?

「もう離婚しちゃってるし、私自身、夫と接触を持ちたいと思っていない。虐待したのだから、息子には会わせたくないですし。だけど、立派に育ってくれましたからね。体だけじゃなくて、精神的にも大人です。(息子が夫と)会っても構わないし、会うかどうかは彼次第です。息子の気持ちに任せます。だけど息子自身は、会いたいという気持ちは持っていないんです。それははっきりしています。『パパの子じゃない』ということです」

――生まれたときのことは伝えるつもりはありますか?

「息子が独り立ちするときや、彼女ができて結婚するタイミングで、『あなたはこうだったのよ』って言ってもいいかもしれない。だけど、今のところは、伝える気はありません。だって私たち、“実の親子”なんですから」

 血のつながりだけが、愛情のバロメーターなのではない。根本さんと息子さんの絆の強さを知り、そのことを痛感させられた。今後も2人は、どんな困難があっても乗り越えていくだろう。幸せを祈るばかりだ。

彼のことは嫌いじゃない。友達ならいいが、結婚相手ではなかった【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第5回 広瀬ちあきさん(仮名・30代)後編

 2歳年下の男性と、大学を卒業して3年後に、できちゃった結婚した広瀬ちあきさんは、仕事の付き合いと称してキャバクラや風俗に行っていた夫から、経済的DVや言葉のDVを受ける。ある朝、家事も育児もせず遊び歩く夫を問い詰めたところ、足を蹴られたため怖くなり、警察を呼んだ。夫が警察に話す言い分が自分と真逆だったので、法テラスに相談すると、弁護士から「離婚できる」と言われて我に返り、夜逃げしようと決意する。

(前編はこちら)

■週末の夜に彼が遊びに出かけたとき、荷物をトラックで運び出した

――いつ逃げたんですか?

「週末の夜に彼が遊びに出ていったのを確認した瞬間に、『今出て行った。だからお願い、来て』って、友人や親に連絡しました。地元の友達には、私が予約していたレンタカーのトラックで来てもらって、手分けして荷物を積み込んでいきました。運び出した荷物は、洋服だとか、実家から持ってきていたものばかり。大きいものといえば、子どもを乗せられる自転車ぐらい。お金を出し合って買ったものとか、冷蔵庫やたんすなどといった大型の荷物は持ち出さなかった。ケチな彼に“泥棒”と言われたくなかったので。

 3時間後ぐらいでしょうか。荷物を積み終わって、忘れものがないか確認していたとき、上の子が『出ていきたくないの!』って大泣きして、バタバタ暴れ始めたんですよ。上の子からしたら、保育園で新しいお友だちたちと仲良くできるかなって思ってた時期に、急に引っ越すわけです。つらかったと思います。私は『ごめんね』って声をかけて、なだめすかすしかありませんでした」

――彼は、いつ気がついたんですか?

「朝帰りの後だから、翌日の朝です。彼が実家に来ました。ドンドン! って激しくノックされ、『そこにいるんなら開けろ』って叫んでる声が聞こえました。『家に帰ったら誰もいないし、荷物がない』ってことで慌てたんでしょうね。だけど、彼のノックは完全無視です。『弁護士から連絡が行きます。私には連絡しないでください』って一筆置いて家を出ていったので。

 その後、会社にメールや電話が来たりはしました。『嫁に連絡が取れないんだけど、連絡を取ることはできますか?』って。何食わぬ、いい人のふりをしてね。娘たちを通わせていた保育園にも来ていたようで、後日連絡すると、『その後、何回か来たわよ』と保育園の先生に言われました。実家付近で待ち伏せされなかったのが幸いです。

 新しい保育園を見つける暇もなかったので、子どもたちは空いていた託児所に預けました。といいますか、託児所が空いていたから夜逃げしたともいえますね。8時から18時まで。2人合わせて月8万円ほどかかりましたけど、緊急事態だったので背に腹は代えられませんでした」

――別居後は離婚調停になったのですか?

「すべて弁護士さんに手続きをお願いして、月1回。同じ部屋で対面という形でやりました。最初は別の部屋でやっていたんですけど、お互いに言ってることが食い違ってるから、調停委員に言われて、対面で行うことになったんです。

 浮気の証拠とか、金遣いの荒さとか、彼が悪いという証拠はたくさん押さえていたので、弁護士には『確実に勝てる』とは言われていました。

 彼は弁護士を雇わなかったみたいで、知り合いの法律に詳しい人に来てもらってましたね。それで彼、『家族のために、一生懸命頑張ってきただけなんです』という趣旨の話を始めまして、挙げ句の果てには、『頼むから帰ってきてください』って懇願するんですよ。私と担当弁護士は、彼の“演技”を見ても嘘だとわかるんです。だけど、調停委員は彼の言うことを信じてる様子でしたね。しかも、私のことをディスったりは一切しないんです。私が彼のことをディスって感情的になるのとは対照的でした。そんなやりとりでしたからね。調停委員たちの心証は、彼の方が良かったのかも。

 調停はずるずる続きまして、1年半後、不調に終わりました。時間がかかったのは、彼が離婚を頑として認めなかったからです」

――調停の後は、どうしましたか?

「早く離婚したかったので、婚姻費用調停はしていません。絶対払ってくれないってわかってました。それにそもそも、婚姻費用の差し押さえを逃れるためか、離婚調停が始まってすぐ、彼は会社を辞めて、『オレには財産ありません。払えません』って明言してましたから」

――その後、離婚裁判をすることになったんですね。結果はどうなったんですか?

「1回で終わりました。向こうの母親が慰謝料の100万円を用意してくれて、それをもらって、それであっさり決着しました。彼は無職と見なされていたので、養育費は月に2万5,000円で決定です。『子どもに会わせてほしい』という要求は、結局ありませんでした。ただ『引き取る』とは言ってましたね。どうやって育てるつもりだったのかは、わからないですけど」

――裁判が終わった後は?

「メールのやりとりから始まって、彼と連絡を取り合うようになりました。それから、普通に会うようになりまして、あるとき、彼にしれっとお金をせびられてしまったんです。困りましたよ。でも私、そのとき、『どうせ返ってこないけど、別にいいや』って思ってしまって。結局、貸してしまったんです。その後は、『お金貸して』って言われても、さすがに断るようになりましたよ」

――離婚後も、子どもを会わせてはいるんですか?

「会わせてますよ。『遊ぼう』って言ってくるし、子どもたちも『会いたい』って言うので。父と子たちで何をしているかって? キャッチボールするとか勉強教えてあげるとか、一緒に遊ぶとかは、たまにしかありません。いつも、彼の趣味であるお買い物に出掛けるだけです。ただし、だいたいは彼の買い物に付き合わされるだけで、子どもたちがおもちゃなどを買ってもらうことはまれ。そんなときは、帰宅した後、子どもたちは『行き損だったよ』って淡々と言うんですよ。この間も、そう言ってました」

――一緒に旅行に行ったりはしないんですか?

「私は秋になると森へキャンプに行くんですけど、この前、彼をボディガード的に連れて行ったんです。『来る?』ってなんとなく誘ったら、来ました。でも、彼が来ると、彼の分のお金がかかるし、『肉肉肉』とか『焼酎あるか』とか、うるさかったんですよ(笑)。なので、『もう呼ばなくていいよね』って、子どもたちと冗談めかして話してます。別に、来たいなら来てもいいですけど」

――面会することで、普段足りていない父親の存在感をカバーできると思いますか?

「それはないですね。なんで面会するかっていうと、『会おう』って言われるから会ってるだけ。それだけです。『会いたくない』と子どもたちが言ったら会わせない。そこはシンプルに考えています」

――そのほかに、彼との付き合いはあるんですか?

「誘われて、たまに2人で食事に行くこともあります。今でも彼に子どものことで何かと相談をします。結果よければすべてOKの彼は、私とまるで逆。だから、プロセスでぐしゃぐしゃと悩んでるときに、彼に相談すると楽なんですよ」

――ずいぶん大変な目に遭ったのに。失礼ですけど、不思議な関係ですね。

「彼のこと、ひどく言ってますけど、別に嫌いじゃないんですよ。ただ、結婚相手ではなかったということ。一緒に住んだら、ぐちゃぐちゃになる。それじゃ、子どももかわいそう。友達とか元夫という存在ならいいんです」

―――離婚したことは、その後の自分にとってよかったですか?

「別居して離婚が成立した後も、なんで別居しちゃったんだろう? なんで離婚したんだろう? なんで父親から子どもを奪っちゃったんだろう? って、そんな思いに苛まれていて、うーん苦しかったですね。別居後の数年間は、ずっと悩んでいました。だけど、離婚後しばらくして、離婚した理由を自分なりに理解してからは、離婚してもしょうがなかったんだなって思えるようになりました。

 女性1人で子育てをしながら生きていくのは大変です。子育てをしていく上で、男性的な要素が欠けていることで困ったり、稼ぎが不安だったり。あと、ゆくゆく更年期障害になったとき、どうしようかなとか。それでも大正解だったって思いますよ。経済的DVがなくなって楽になりましたし、子どもたちを親に頼んで残業したり、飲みに行ったり、あと今日みたいにインタビューを受けることだってできますから」

――今後、再婚は考えたりしますか?

「どうですかね。そうなったらそうなったで、取りつくろったりせず、正直に子どもと話したいですね。再婚しても会わせるかですか? それも、そのときに子どもたちと話し合って決めればいいかなと思います。子どもの親権を私が持っているので、どうあれ私の方が優位ですし」

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

彼のことは嫌いじゃない。友達ならいいが、結婚相手ではなかった【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第5回 広瀬ちあきさん(仮名・30代)後編

 2歳年下の男性と、大学を卒業して3年後に、できちゃった結婚した広瀬ちあきさんは、仕事の付き合いと称してキャバクラや風俗に行っていた夫から、経済的DVや言葉のDVを受ける。ある朝、家事も育児もせず遊び歩く夫を問い詰めたところ、足を蹴られたため怖くなり、警察を呼んだ。夫が警察に話す言い分が自分と真逆だったので、法テラスに相談すると、弁護士から「離婚できる」と言われて我に返り、夜逃げしようと決意する。

(前編はこちら)

■週末の夜に彼が遊びに出かけたとき、荷物をトラックで運び出した

――いつ逃げたんですか?

「週末の夜に彼が遊びに出ていったのを確認した瞬間に、『今出て行った。だからお願い、来て』って、友人や親に連絡しました。地元の友達には、私が予約していたレンタカーのトラックで来てもらって、手分けして荷物を積み込んでいきました。運び出した荷物は、洋服だとか、実家から持ってきていたものばかり。大きいものといえば、子どもを乗せられる自転車ぐらい。お金を出し合って買ったものとか、冷蔵庫やたんすなどといった大型の荷物は持ち出さなかった。ケチな彼に“泥棒”と言われたくなかったので。

 3時間後ぐらいでしょうか。荷物を積み終わって、忘れものがないか確認していたとき、上の子が『出ていきたくないの!』って大泣きして、バタバタ暴れ始めたんですよ。上の子からしたら、保育園で新しいお友だちたちと仲良くできるかなって思ってた時期に、急に引っ越すわけです。つらかったと思います。私は『ごめんね』って声をかけて、なだめすかすしかありませんでした」

――彼は、いつ気がついたんですか?

「朝帰りの後だから、翌日の朝です。彼が実家に来ました。ドンドン! って激しくノックされ、『そこにいるんなら開けろ』って叫んでる声が聞こえました。『家に帰ったら誰もいないし、荷物がない』ってことで慌てたんでしょうね。だけど、彼のノックは完全無視です。『弁護士から連絡が行きます。私には連絡しないでください』って一筆置いて家を出ていったので。

 その後、会社にメールや電話が来たりはしました。『嫁に連絡が取れないんだけど、連絡を取ることはできますか?』って。何食わぬ、いい人のふりをしてね。娘たちを通わせていた保育園にも来ていたようで、後日連絡すると、『その後、何回か来たわよ』と保育園の先生に言われました。実家付近で待ち伏せされなかったのが幸いです。

 新しい保育園を見つける暇もなかったので、子どもたちは空いていた託児所に預けました。といいますか、託児所が空いていたから夜逃げしたともいえますね。8時から18時まで。2人合わせて月8万円ほどかかりましたけど、緊急事態だったので背に腹は代えられませんでした」

――別居後は離婚調停になったのですか?

「すべて弁護士さんに手続きをお願いして、月1回。同じ部屋で対面という形でやりました。最初は別の部屋でやっていたんですけど、お互いに言ってることが食い違ってるから、調停委員に言われて、対面で行うことになったんです。

 浮気の証拠とか、金遣いの荒さとか、彼が悪いという証拠はたくさん押さえていたので、弁護士には『確実に勝てる』とは言われていました。

 彼は弁護士を雇わなかったみたいで、知り合いの法律に詳しい人に来てもらってましたね。それで彼、『家族のために、一生懸命頑張ってきただけなんです』という趣旨の話を始めまして、挙げ句の果てには、『頼むから帰ってきてください』って懇願するんですよ。私と担当弁護士は、彼の“演技”を見ても嘘だとわかるんです。だけど、調停委員は彼の言うことを信じてる様子でしたね。しかも、私のことをディスったりは一切しないんです。私が彼のことをディスって感情的になるのとは対照的でした。そんなやりとりでしたからね。調停委員たちの心証は、彼の方が良かったのかも。

 調停はずるずる続きまして、1年半後、不調に終わりました。時間がかかったのは、彼が離婚を頑として認めなかったからです」

――調停の後は、どうしましたか?

「早く離婚したかったので、婚姻費用調停はしていません。絶対払ってくれないってわかってました。それにそもそも、婚姻費用の差し押さえを逃れるためか、離婚調停が始まってすぐ、彼は会社を辞めて、『オレには財産ありません。払えません』って明言してましたから」

――その後、離婚裁判をすることになったんですね。結果はどうなったんですか?

「1回で終わりました。向こうの母親が慰謝料の100万円を用意してくれて、それをもらって、それであっさり決着しました。彼は無職と見なされていたので、養育費は月に2万5,000円で決定です。『子どもに会わせてほしい』という要求は、結局ありませんでした。ただ『引き取る』とは言ってましたね。どうやって育てるつもりだったのかは、わからないですけど」

――裁判が終わった後は?

「メールのやりとりから始まって、彼と連絡を取り合うようになりました。それから、普通に会うようになりまして、あるとき、彼にしれっとお金をせびられてしまったんです。困りましたよ。でも私、そのとき、『どうせ返ってこないけど、別にいいや』って思ってしまって。結局、貸してしまったんです。その後は、『お金貸して』って言われても、さすがに断るようになりましたよ」

――離婚後も、子どもを会わせてはいるんですか?

「会わせてますよ。『遊ぼう』って言ってくるし、子どもたちも『会いたい』って言うので。父と子たちで何をしているかって? キャッチボールするとか勉強教えてあげるとか、一緒に遊ぶとかは、たまにしかありません。いつも、彼の趣味であるお買い物に出掛けるだけです。ただし、だいたいは彼の買い物に付き合わされるだけで、子どもたちがおもちゃなどを買ってもらうことはまれ。そんなときは、帰宅した後、子どもたちは『行き損だったよ』って淡々と言うんですよ。この間も、そう言ってました」

――一緒に旅行に行ったりはしないんですか?

「私は秋になると森へキャンプに行くんですけど、この前、彼をボディガード的に連れて行ったんです。『来る?』ってなんとなく誘ったら、来ました。でも、彼が来ると、彼の分のお金がかかるし、『肉肉肉』とか『焼酎あるか』とか、うるさかったんですよ(笑)。なので、『もう呼ばなくていいよね』って、子どもたちと冗談めかして話してます。別に、来たいなら来てもいいですけど」

――面会することで、普段足りていない父親の存在感をカバーできると思いますか?

「それはないですね。なんで面会するかっていうと、『会おう』って言われるから会ってるだけ。それだけです。『会いたくない』と子どもたちが言ったら会わせない。そこはシンプルに考えています」

――そのほかに、彼との付き合いはあるんですか?

「誘われて、たまに2人で食事に行くこともあります。今でも彼に子どものことで何かと相談をします。結果よければすべてOKの彼は、私とまるで逆。だから、プロセスでぐしゃぐしゃと悩んでるときに、彼に相談すると楽なんですよ」

――ずいぶん大変な目に遭ったのに。失礼ですけど、不思議な関係ですね。

「彼のこと、ひどく言ってますけど、別に嫌いじゃないんですよ。ただ、結婚相手ではなかったということ。一緒に住んだら、ぐちゃぐちゃになる。それじゃ、子どももかわいそう。友達とか元夫という存在ならいいんです」

―――離婚したことは、その後の自分にとってよかったですか?

「別居して離婚が成立した後も、なんで別居しちゃったんだろう? なんで離婚したんだろう? なんで父親から子どもを奪っちゃったんだろう? って、そんな思いに苛まれていて、うーん苦しかったですね。別居後の数年間は、ずっと悩んでいました。だけど、離婚後しばらくして、離婚した理由を自分なりに理解してからは、離婚してもしょうがなかったんだなって思えるようになりました。

 女性1人で子育てをしながら生きていくのは大変です。子育てをしていく上で、男性的な要素が欠けていることで困ったり、稼ぎが不安だったり。あと、ゆくゆく更年期障害になったとき、どうしようかなとか。それでも大正解だったって思いますよ。経済的DVがなくなって楽になりましたし、子どもたちを親に頼んで残業したり、飲みに行ったり、あと今日みたいにインタビューを受けることだってできますから」

――今後、再婚は考えたりしますか?

「どうですかね。そうなったらそうなったで、取りつくろったりせず、正直に子どもと話したいですね。再婚しても会わせるかですか? それも、そのときに子どもたちと話し合って決めればいいかなと思います。子どもの親権を私が持っているので、どうあれ私の方が優位ですし」

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。