DA PUMPはデビュー当時から“ダサかっこいい”路線だった!? m.c.A・Tの敏腕プロデュース力

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析!

 それにしてもDA PUMPの「U.S.A.」を聴かない日がない、平成最後の年の瀬である。

 TVやラジオだけでなく、彼らが出演するCMでもこの「U.S.A.」(を模した曲)が使われてるので、そりゃ毎日耳にするのも無理はない。

 

 わが家ではTVを観ててこの曲が始まろうものなら、娘はすぐさま立ち上がって踊り、関節が外れそうな勢いで脚を蹴り出す。カミさんも「昔、代々木(体育館)でライヴ観たんだよね~。でも、いつからこんなに人数増えてたの? あ、インベーダー! インベーダーゲーム!!」と毎回口走る。いちいち大騒ぎである。

 この冬は忘年会や新年会などの余興でこれを踊る人が続出していると思われるので、せいぜいケガをされないよう祈る。

 ところで、この曲について僕は、今年6月の発売当初からちょっと独特の動きがあると感じていた。その頃、たまたま見た情報番組で、ISSAがこの曲のことを「最初は♪カ~モンベイビーアメリカ、って歌詞が恥ずかしかったんですけど」とコメントしていたのだ。で、この時期すでに「ダサかっこいい」という表現がされ始めていたフシもある。

 この、一見マイナスイメージを導きそうな言い方は、DA PUMPの……もっと言えば、売り手サイドの本気度を、むしろ感じさせた。それを、メディアを通じて発信することでインパクトを残し、話題をさらおうという姿勢。今回の大ヒットは、それが見事にハマッたわけだ。

 だが、この曲について回っている「ダサかっこいい」イメージ。実は、これはDA PUMPというグループが隠し味的に携えてきた感覚ではないかと思う。いや、熱心なファンで気を悪くされた方がいたら、申し訳ない。これはあくまで、楽曲の印象の話である。彼らというグループでなく、歌のほうで。

 その前に、まず「U.S.A.」が「ダサかっこいい」と言われている理由について触れよう。この原曲がユーロビートだからだ。オリジナルは1992年にジョー・イエローというアーティストが発表したもので、DA PUMPがユーロビートを唄うのはこれが初めてだという(なお、彼らがユーロビートの歌をカバーした背景としては、昨年、同じライジングプロダクションの先輩である荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー」のリバイバルヒットが大きかったようだ)。

 今回の「U.S.A.」はアレンジにEDM的な意匠をほどこして今風に仕立てているが、原曲のいかにもユーロビートな軽いノリは生かされている。「ダサかっこいい」という言い方には、それに対する照れというか、「そんなクールな曲じゃないけど、それでもこのノリ、いいでしょ?」というエクスキューズ(≒言い訳)を感じさせる。

 で、DA PUMPについてだが、彼らの音楽性を語る上では欠かせない人物がいる。m.c.A・Tこと、富樫明生だ。彼は同グループが「Feelin’ Good –It’s PARADISE- 」でデビューした1997年から現在にかけて、もう20年以上も深い関係性を保っている音楽プロデューサーである。

 僕は、DA PUMPの音楽に潜む「ダサかっこいい」感じは、この富樫に起因していると思うのだ。といっても今年、DA PUMPのことを初めて知った若い子も多い現状を思うと、富樫およびm.c.A・Tにも説明が要るだろう。

 m.c.A・Tは90年代に、まずはソロ・アーティストとしてブレークを果たしている。1993年のデビュー曲「Bomb A Head!」はスマッシュヒットを記録。ビッグヒットをしたわけではないが、何しろ記憶に残る曲だった。m.c.A・Tといえばボンバヘ! というくらいである。

 彼の音楽の特徴は、クラブサウンドを取り入れたビートの感覚と、そこにノリのいい歌とラップを乗せていること。しかも、曲自体はポップというか、ちょっと歌謡曲的ともいえるくらいの強いアクがある。そして黒いサングラスをかけた本人は、かっこいい……というのとは違う雰囲気。どことなくユーモラスでもある。ただ者でないことは明らかだ。

 m.c.A・Tはその後もヒット曲を出し、J-POPの中では売り上げなどの数字以上の印象を残していった。1995年には<超ハッピー スーパーハッピー のりのり!>という必殺フレーズが躍る「SUPER HAPPY」をリリース。また、同じ年の「ごきげんだぜっ!」も彼の代表的なヒットナンバーだ。これは3年後にDA PUMPが「ごきげんだぜっ! ~Nothing But Something~」の曲名でカバーして、本家以上にヒットさせている。

 こうして90年代半ばまでのm.c.A・T全盛期の楽曲を振り返ってみると、ハッピーとか最高とか、ごきげんとか気持ちいいとか、ミもフタもないことばかり唄っている。もっともこれは彼のキャラクターのみならず、景気が良かった時代の名残で、お気楽感のほうが多分に大きいだろう。で、m.c.A・Tはそれに見合うだけの、いわばイケイケ(死語)な音楽をクリエイトする才能だったと思う。

 そして彼はヒップホップやテクノ、ハウスなどの要素をうまく取り入れているわけだが、その切り口が決してマニアックに陥ってない。非常に、というか、過剰なまでにキャッチーであり、ポップだ。ことにm.c.A・T名義では、先ほどのユーモラスですらあるルックスも相まって、下世話に近いほどの大衆性を放っている。

 そう。m.c.A・Tこそが、まさに「ダサかっこいい」アーティストだったのではと思うのである。

 ただ、この人が秀逸だったのは、自身が富樫明生というプロデューサーの立場になると、その「ダサい」と「かっこいい」の割合をうまく調合していたことだ。つまり富樫は、ことDA PUMPのプロデュースにおいては、「かっこいい」感覚を重視した。90年代にこのグループが放った代表的なヒットソングのほとんどは「かっこいい」=二の線、もしくは研ぎ澄まされたポップ路線である。

 たとえば「Rhapsody in Blue」などはギターの音色が開放感を演出しているし。

「Crazy Beats Goes On!」も躍動するビートが気持ちいい。

 ビゼーのメロディの引用と歌謡メロディが細分化されたリズムに映えるのは「Com’on! Be My Girl!」。

 コブシも回らんばかりのISSAの唄い回しが刺さる「if…」。

 いずれの曲も、当時のやや先端を行く(しかし行きすぎていない)サウンドと、富樫(m.c.A・T)独特のアクのあるメロディとが融合している。またラップが取り入れられている曲が多いのも、その頃の「かっこいい」ポイントのひとつか。DA PUMPの楽曲においては、あくまで「かっこいい」ことが重視されてはいるが、富樫はそこにベタな……そう、「ダサい」匂いを混ぜていた。これは巧妙だと思う。

 こうした一連の中でも僕が特に感心したのは「We can’t stop the music」だった。DA PUMPについてそんなに関心を持ってなかった自分だが、1999年リリースのこの歌には大いに惹かれた。とにかく、めちゃファンキーなのである。

 ソリッドなギターのリフ、腰の入った重めのビートはジャネット・ジャクソンの「リズム・ネイション」(スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「サンキュー」をサンプリングした曲だ)すら彷彿させる。オーオーオ、というシャウトには、プリンスがライヴで好んで使っていたコール&レスポンスを思い出さずにいられない。こんなふうに曲の最初から最後までファンキーなフレーズを執拗に重ね続ける曲は、J-POPでは稀有だった。やるじゃんDA PUMP! やるじゃん富樫! と思ったものだ。

 こうして基本的にはR&B路線、時にはポップ、時にはファンキーと、サウンド面でもなかなかのものを見せていたDA PUMPだったが、それ以降、今年の復活劇に至るまでには長い苦労の時代があったようだ(これについては各所で語られているので、関心のある方はチェックしてほしい)。

 『NHK紅白歌合戦』には16年ぶりの出場になるらしく、ISSA以外のメンバーは初出場。何しろグループの人数も最初の4人から、3人→9人→8人→現在の7人と、変遷をたどっている。そりゃあ「いつの間に7人に?」と思う向きがいるのも当たり前だ。すまないことに、僕もそうだったけど(もう7年もこの編成らしいのだが)。

 で、DA PUMPひさびさの大ヒットがカバー曲ってことは、富樫はどうなったの? と思わずにはいられないのだが、ご安心を。「U.S.A.」はDA PUMPにとってなんと3年8カ月ぶりにCDで発売されたシングルだったのだが(今の時代、シングルをフィジカルで出すこと自体が激減している)、このカップリングに「Take it Easy」というm.c.A・T作の楽曲がちゃんと入っているのだ。

 そして、これもどこかのTV番組で観たのだが、メンバーたちは今でも富樫を師と仰いでいるという話をしていたものだ。

 ともあれ、今年のDA PUMPの活躍は、成功のあとに苦労があって、それがここに来てまた脚光を浴びたというドラマがある。だから「U.S.A.」のヒットに格別なものを感じる人も多いだろう。4人時代の彼らを記憶している大人世代ならば、特に。そしてそのそばには、歌の中に「ダサかっこいい」感覚をずっと忍ばせてきたm.c.A・Tこと富樫の存在があったのは、間違いないと思う。

 かく言う僕も「U.S.A.」を聴くたびに右手で「いいねダンス」のポーズ。やってます。

●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
阪神タイガース、ゲッターロボ、白バラコーヒー、ロミーナ、 出前一丁を愛し続ける。
妻子あり。
Twitterアカウントは、@you_aoki
 

安室奈美恵をブレークに導いた、小室哲哉の”絶妙なR&B感覚”と「SWEET 19 BLUES」

 

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析!

 安室奈美恵――。

 この1年と少しの間、彼女のことを目にするたびに、僕はあの時の後ろ姿を思い出していた。

 1996年、夏のはじめ。発売直前のアルバム『SWEET 19 BLUES』についてのインタビューをするために、僕はそのビルにいた。安室奈美恵はほぼ一日中、自分に向けられるカメラに対していた。

 この年は春の「Don’t wanna cry」に続き、夏は「You’re my sunshine」がヒットチャートを席巻していた。安室ブームの真っただ中で、街には「アムラー」と呼ばれる子たちがあふれていた。日本中の目がこの少女に向けられていた。

 複数の取材が一度に進められており、撮影はシチュエーションを変えながら行われ、安室本人はそのたびに衣装替えやメイク直しをする。インタビューはその合間に組まれていた。まさに分刻みだった。

 僕は、ライヴは観ていたが、安室本人とは初対面。目の前に座った彼女は華奢だった。お互いさほど目も合わせず、「よろしくお願いします」と、あまり大きくない声であいさつをしてくれた。

 子どもの頃からステージに立つことが夢だった、俳優の美木良介さんが好き……。安室の話しぶりは自然だった。飾らず、静かに、時折にこやかに話してくれた。

 インタビューは撮影のたびに分断される。その2度目の時だったか、席を立って撮影スペースへ向かう安室が、ほんの少しだけフラついたように見えた。過密スケジュールで、疲れていないわけがない。それでも彼女は厚底のブーツをそっと前へ踏み出し、バランスをとって、まぶしいライトの下に歩いていった。

 その後ろ姿には、プロとしての根性と、負けず嫌いの気持ちが感じられた。

 当時の安室の音楽は、何が支持されたのか。その背景ともども、振り返ってみる。

 先ほどの取材の翌月にリリースされた『SWEET 19 BLUES』は、日本のアルバム・セールス史上において記録的な数字を残す大ヒットとなる。僕のインタビューの中で最も印象的だったのは、のちにリカットされたこのタイトル曲で唄われている「とりえ」についての話だった。

<いちばんとりえが何か/教えてあげなきゃならない/あの子やあいつ>

 19歳になろうとしていた安室はレコーディング時、この歌を書いた小室哲哉と会話を交わしている。そこで彼女は自分の「とりえ」を大切にすることについて話したそうで、それが歌詞のテーマの一部となり、2コーラス目に織り込まれていた。

 人それぞれが持っているはずの長所、魅力……とりえ。ほかならぬ安室自身、それに突き進んできた人だった。そしてアムラーを含めた当時のリスナーたちは、おそらく彼女のそんなひたむきさ、まっすぐさに強く惹かれたのではないかと思う。

 この前年の95年は阪神・淡路大震災、それにオウムによる地下鉄サリン事件という悲劇が起こり、日本という国の価値観が根底から揺らいでいた頃だった。数年前のバブル崩壊の影響も社会のあちこちに出始めていて、この国は否応なく転換点を迎えていた。何を信じて生きていったらいいのか、誰もがわからなくなりつつあった時である。

 そんな中で安室はスターとして認められた。それはもちろんダンスのカッコ良さ、歌の力、チャーミングなルックスがあってこそ、なのはもちろんなのだが。何よりも彼女の姿……迷いなく、自分の信じる道をひたすら走る姿に、大勢の人が元気付けられたはずだ。

 また、アルバム『SWEET 19 BLUES』の前後は、安室の音楽性も転換点を迎えていた。そもそも安室はダンス・グループのSUPER MONKEY’Sの一員としてデビューした人である。やがてグループのメインに抜擢され、大きなヒットを放つようになったのは95年の「TRY ME~私を信じて~」から。この後からは彼女のソロ名義となり、その後、続いた「太陽のSEASON」「Stop the music」といったヒット曲の核にあったのは流れるようなユーロビートだった。これらは、いずれも洋楽のカバー曲である。

 それが、95年の後半からは小室哲哉のプロデュース、楽曲も彼の書き下ろしとなる。ここからのヒット・シングルは「Body Feels EXIT」、次の「Chase the Chance」と、ユーロビートの感覚を踏襲しながらも、そこにハウス的なビートとロックな音色を配合し、より太いサウンドへと変化していっている。

 そして鮮やかだったのは、「Chase the Chance」から3カ月後に出た「Don’t wanna cry」だった。シェイクするようなビートの反復、ソウルフルに唄い上げるヴォーカル、それにコーラス。ホットな一体感が情熱を浮き彫りにするこの楽曲は、安室自身がかねてから憧れていたジャネット・ジャクソンに代表される当時のブラック・ミュージック~R&Bを志向したものだった。

 この後にはハウスのビートが疾走する「You’re my sunshine」と、先述のアルバムからのバラード「SWEET 19 BLUES」のリカットを挟み、晩秋、ブラック路線をさらに推し進めたポップ・ナンバー「a walk in the park」が登場する。

 当時の安室の進化はすさまじかった。僕は引き続き彼女への取材を行っていた(TV局の畳敷きの楽屋で、お互い脚を崩しながら話したこともあった)。そしてライヴも観ていたのだが(夏の沖縄での野外公演が特に印象深い)……シングルのたびにメロディの質感やビートの傾向が大きく変わっていっているのに、彼女はそれらを当たり前のように唄いこなしていたのである。それはそこまでの積み重ねの段階でヴォーカルをしっかりと鍛えていたからであろうし、しかもライヴではこれに激しいダンス・パフォーマンスも加わる。天賦の才とはこのことを言うのだろうと思ったものだった。

 プロデューサー・小室は、この後も挑戦を怠らなかった。翌97年の初頭にはかの名曲「CAN YOU CELEBRATE?」が誕生する。今も万人から愛され続ける、祝福の歌だ。

 また僕個人は、その後のシングル「How to be a Girl」にも強く魅了された。当時「デジタル・ロック」と呼ばれたケミカル・ブラザーズあたりのサウンドを意識したと思われる、ダンサブルでクールなナンバーである。こうして小室は、合間にバラードを挟みながら、主にアップテンポの曲で安室の歌の世界を広げていった。この時期、現代的なブラック・ミュージックを主体にしながら、小室とともにあらゆる方向性にアプローチしたことは、安室というアーティストにとって貴重な糧になっているはずである。

 以後の安室は、結婚・出産という人生の一大イベントが起こったことで、活動としてはひとつの区切りを迎える。そこからの休止期間を経て、シーンに復帰したのは98年の暮れのこと。翌99年の春には「RESPECT the POWER OF LOVE」というゴスペル的なコーラスも印象的な曲を出している。しかし彼女の歌は、小室哲哉という巨大な才能の手のひらからも次第にあふれ出ていくことになる。

 この年にエポックだったのは、9月、もろにR&B路線の「SOMETHING ‘BOUT THE KISS」をリリースしたことだった。TLCやモニカなど、すでに世界的な知名度を誇るダラス・オースティンをプロデューサーに迎えての楽曲だった。安室はここから本場の、ホンモノのプロデューサーたちとも仕事をするようになっていったのだ。そして結果、彼らとも堂々と渡り合うのだから、本当に大したシンガーだと思う。

 小室は、新しい音楽に対して貪欲な人だった。僕は、安室のブラック志向も、小室プロデュースだからこそ世の中に受け入れられたのだと思う。というのは、小室はプログレッシヴ・ロックなどのロックにルーツを持つ人で、どちらかといえばブリティッシュ・ロック寄り。TM NETWORKでの作品群、それにレイヴやジャングルにも接近したように打ち込みのダンサブルなビートへの志向を持つプロデューサーではあるが、元からしてブラック・ミュージックの要素はさほど強くないのだ。

 ただ、90年代においては、この彼によるブラック成分の強すぎないR&B感覚こそが、歌も、また人間的にも成長過程にあった安室に、そして幅広い層まで含めた日本のリスナーたちにハマったのだと思う。安室が最初からR&Bの本格派と組んでいたら、濃すぎたに違いない。

 そして小室だからこそ、少女から大人へと成長しようとする安室の、壊れそうなほど繊細な思いをくみ取って、「SWEET 19 BLUES」という美しいバラードをモノにできたのだと思う。

 21世紀に入ると、安室は完全に新しい制作態勢へと移行していった。小室とのコラボは2001年のシングル「think of me/no more tears」までとなり、その後は新たな作家陣に託したり、また彼女自身が詞を書くケースも出てくる。特に02年の「I WILL」は、ファンに対する純粋な思いが表れたバラードだ。ちなみにこの年には、プライベートではシングルマザーになったことも報道されている。

 僕はといえば、安室には継続的にインタビューをしていたのだが、ちょうどこの頃から取材をする機会そのものがなくなっていった。これはおそらく当時の彼女(とスタッフ)が活動のあり方や方向性、あるいはペースについて捉え直した時期で、メディアへの露出のスタンスが変わったところもあったのではと思う。また、僕自身も、メインストリームの音楽より、ロック寄りの仕事の割合が増えていく流れがあった。まあ、こうしたことは縁とか運のようなもので、この仕事をしていると、よく起こることである。

 それからの自分は、仕事の上では安室から離れたものの、TVで見かけたり、どこかで新曲を耳にするたびに、「安室、頑張ってるな」と思っていた。彼女の成長を特に大きく感じたのは、07年のアルバム『PLAY』の頃だった。胸元を開け、ムチを持ったジャケットは、安室がまったく新たな表現の領域に達したことを示していた。「Baby Don’t Cry」をはじめ、新たなクリエイターたちとの出会いが、大人になっていく安室奈美恵像を作り出していた。

 セルフ・プロデュースをしたり、サウンド面ではEDMを導入したりと、安室は歌とダンスとともに新しい表現を重ねていった。気がつけば彼女は世界中のファンから愛され、尊敬もされる、とてつもなく大きな存在になっていた。そんな事実をあらためて感じさせてくれたのが、17年の引退発表以降の騒ぎだった。

 デビュー25年と聞いても、実はあまりピンとこなかった。ただ、一番驚いたのは、安室の引退が話題になっている頃……僕はプロ野球の阪神タイガースのファンなのだが、そのファンサイトか何かで、福留孝介選手と彼女が同い年だというのを見た時だった。確かに2人とも、1977年生まれ。阪神を牽引する大ベテランで、ファンからは「ドメさん」と呼ばれる福留と、いまだに世代を超えて「安室ちゃん」と親しまれる彼女が同じ年齢だなんて! そこで時の流れを初めて実感した。

 そこからの自分は、まったく一般のファンの方と似たようなものだったと思う。17年の暮れのNHK『紅白』で「Hero」を唄う彼女を見て、ほんとに素敵だと感じた。

 明けて18年は、ドーム公演の抽選に落選し、チケットを入手することができなかった。イモトアヤコにドッキリを仕掛けたTV番組は、家族と一緒に笑いながら、感動しながら観た。そして9月16日の引退の日までは、報道合戦を遠くの出来事のように感じながら、何もかもが無事に進むといいなと思いながら過ごした。TVでもネットでも雑誌でも、たくさんの安室に触れて、彼女の歌とダンスにひさびさに浸った、この1年とちょっとだった。

 安室の姿を見ると、あの夏の日のスタジオでの姿が、つい脳裏に蘇る。ブーツで踏みとどまって、照明の下に歩いていった安室奈美恵。そして「SWEET 19 BLUES」に託された、「とりえ」についての思い。そんな彼女の強い意志が、日本だけではなく、世界中の人々に元気を与え、幸せをもたらしていったことを。

 安室さん。どうか、お幸せに。

●あおき・ゆう

1966年、島根県生まれ。1994年、持ち込みをきっかけに音楽ライター業を開始。現在「テレビブロス」「音楽と人」「WHAT’s IN?」「MARQUEE」「オリジナル・コンフィデンス」「ナタリー」などで執筆。