既婚/独身、専業主婦/仕事女の分断と希望を描く『グッドナイトムーン』

――母と娘、姉と妹の関係は、物語で繰返し描かれてきました。それと同じように、他人同士の年上女と年下女の間にも、さまざまな出来事、ドラマがあります。教師・生徒、先輩・後輩、上司・部下という関係が前提としてあったとしても、そこには同性同士ゆえの共感もあれば、反発も生まれてくる。むしろそれは、血縁家族の間に生じる葛藤より、多様で複雑なものかもしれません。そんな「親子でもなく姉妹でもない」やや年齢の離れた女性同士の関係性に生まれる愛や嫉妬や尊敬や友情を、12本の映画を通して見つめていきます。(文・絵/大野左紀子

■『グッドナイトムーン』(クリス・コロンバス、1998) ルーク×ジャッキー

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 既婚女性と独身女性、子どものいる女といない女、ワーキングマザーと専業主婦。女と女の間に生じるディスコミュニケーションの原因として多いのは、こうした社会的立場の違いだ。

 ネットの掲示板や週刊誌などを見ると、そこから生まれる感覚のズレやトラブルの話題に事欠かない。生き方の多様性が賞賛され、以前より自由な選択肢が開けたと言われる一方で、私たちの間には細かくデリケートな「壁」がたくさん築かれているかのようだ。

 無神経にそこを踏み越えると、「いいよね、専業は」「育児の苦労も知らないくせに」「結婚できるだけマシなのに」という視線や言葉が飛んでくる。初対面の人が既婚か独身か、兼業か専業か、子どもがいるかいないかに、今ほど女性たちが敏感な時代はないのではないだろうか。

 他人と友好的な関係を保っていこうと思えば、相手の立場を思いやり尊重するのが賢明ということは、誰でも知っている。しかし互いに、最初から相容れない関係として出会ってしまった場合はどうだろう。しかもそこに、一回りくらいの歳の差と文化の差が加わったら、「壁」はとんでもなく高いものになりそうだ。それはどうやったら乗り越えられるのだろうか。

 『グッドナイト・ムーン』(クリス・コロンバス、1998)に登場する2人は、専業主婦で二児の母である年上女性と、仕事をもつ独身年下女性。前者と離婚した男が後者の恋人となっており、2人は前妻vs(近い将来の)妻、実母vs(近い将来の)継母という、この上なく難しい関係として出会う。

 この作品が優れたダブルヒロインものとなっているのは、普通ならどちらかにフォーカスを絞り感情移入させるところを、極力平等な距離感で描いている点にある。2人の女性は、理解不能な相手に時に反発しぶつかり合いながらも、一つの「ミッション」の遂行において次第に深く結びついていく。

 ここではまず、仕事をもつ独身年下女性の物語から見ていこう。

■「母親失格」で見つけた子どもとの関係
 イザベル(ジュリア・ロバーツ)は、広告業界で活躍するニューヨークの売れっ子カメラマン。かなり年上の弁護士で恋人のルーク(エド・ハリス)と一緒に暮らし始めたばかりだ。ルークは3年前に妻ジャッキー(スーザン・サランドン)と別居後、離婚しており、2人の子どもは週の半分を父のアパートメント、残りの半分を郊外にある母の本宅で過ごしている。

 イザベルの悩みは、その子どもたちだ。頑張って世話をしようとしても、12歳の姉アンナは反抗的だし、就学前の弟ベンは悪戯盛り。見かねたルークに「君に子どもの世話は頼めない」と言われて反発するが、努力は空回りするばかり。

 特に、アンナとはまったく反りが合わず苦労する。思春期の彼女の目に、恋人に夢中な父ルークと自分がどのように映っているか、その複雑な内心を慮るところまでは、イザベルの想像力は働かないのだ。

 ロケの現場に子ども2人を連れていった時、目を離したすきにベンがいなくなり、大騒動となる。警察に保護された息子のところに飛んできたジャッキーに謝るものの、キツい言葉で保護者失格との烙印を押され、自信喪失。

 あるいは、子どもの迎えに行くはずだったジャッキーに替わって、急遽仕事を切り上げ学校に直行し、母の来られない理由を必死でデッチ上げているところに、遅れてきたジャッキーがサッサと子どもたちを連れ帰る。

 自分は努力しているのだ。仕事より子どものことを優先している。ジャッキーを悪者にせず、子どもたちを傷つけないように気を使っている。それでも、やっぱり「母には敵わない」という事実を何度も突きつけられる時、イザベルの心は折れそうになる。仕事なら努力すれば何とかなるが、ママにはどう頑張ってもなれない。

 それからイザベルがしたことは、母というより先輩女性として振る舞うことだった。絵がうまくいかなくて悩んでいたアンナに的確なアドバイスをして信頼を取りつけ、ドライブ中、口紅を貸してやり、CDに合わせてコーラスするほどには打ち解ける。アンナの恋の始末のつけ方にも、あまり教育的ではないが、イザベルにしかできないような独特の助力をする。

 母にはなれなくても、自分にできることをやればいいとわかってからのイザベルと、徐々に警戒を解き、「父の恋人」ではなく話せるお姉さんとして彼女を受け入れていくアンナの関係は、ちょっと危なっかしいだけに見ていて応援したくなる。

■母としての誇りと立場を失う畏れ
 一方、かつては仕事を持っていたが、子どもを産んで以降家事と育児に専念してきたジャッキーの物語は、イザベルより混み入っている。

 夫の多忙でスレ違いが生まれ離婚はしても、親という立場は変わらない。今では夫への憎しみも薄れ、子どもの父親としての信頼だけが残っているが、彼の再婚には複雑な心境。こういうバツイチの女性は少なくないのではないだろうか。

 ルークのアパルトメントに子どもたちを迎えに行き、イザベルが持たせたランチの弁当を途中で捨てたり、アンナの生活管理についてのイザベルのミスを「そんな身勝手じゃ母親になる資格はない」と断じたりするのも、長年母親業をやってきたプライドからだ。自分の代わりをこの若い女が果たせるとは、とても思えないのだ。

 「彼女は仕事がある」と、幼いなりにイザベルを弁護するベンに、専業主婦の労働の大変さや報われなさを教え、「彼女のような自己中心型は高給取りよ」と皮肉を忘れないところは、立場の違いがここまで女を分断するのかという感慨も抱く。

 だが、父とイザベルの結婚を突然知らされて取り乱すアンナに「イザベルのいいところを探してみて」とアドバイスする言葉は、そのままジャッキーの内心を物語っている。自分にはないもので子どもの心を掴みつつある相手の魅力に、ちゃんと気づいているのだ。

 その証拠に、クラシック好きのジャッキーは、イザベルがアンナをロックコンサートに連れて行くのを「まだ子どもよ」と反対したくせ、自分はちゃっかり同じコンサートに娘と行こうとする。私にだってそういう文化はわかるわよ。まるで若いイザベルと競い合っているかのようだ。

 どこまで行っても実の母である私に代わる者はないという誇りと、自分はいつか必要なくなるのではないかと畏れ。安心と不安が代わる代わるジャッキーを襲う。その複雑な心境は、ベンの枕元で歌うイザベルを目撃して、そっと立ち去る寂しげな背中にも現れている。

 自身が完治不能なガンに冒され、残された時間がそんなに長くないことを知ってからのジャッキーの努力は痛ましい。

 周囲に知られて心配されないよう気をつけながら、今この一瞬を親子の濃密な時間にするべく、努めて明るく振る舞おうとする。イザベルに不審がられやっとカミングアウトした後では一層、どうやったら子どもたちに良い思い出を残せるかと心を砕く。

 アンナの恋の一件も、イザベルのいささか奇をてらったアイデアに、良識ある母親の立場から意見する。ここでの「あなたの雛型は作らないで」という言葉は、ドラマ中、ジャッキーがイザベルに放ったもっとも厳しい台詞だ。

 「あなたの雛型」とは、自己中心的で目的のためには手段を選ばず、実質ではなく見かけを優先し、面白いことがすべてという生き方だ。独身で自由な恋愛を謳歌し、虚飾に満ちた広告業界で生きてきたイザベルの半生そのものに、正面切って疑義をつきつけているのだ。

 他でもない子どもたちのために、カメラマンの仕事を度々犠牲にしていることを知らないでまくしたてるジャッキーに、イザベルは抗議する。

◎「男が悪い」が通用しない、女たちの問題
 こんなふうに2人の女が対立する場合、その間にいる男は何も気づかないか、姑息に逃げ回って保身に走るというパターンがよくある。

 しかしルークは、仕事に忙殺されているとは言え、そういうだらしない男としては描かれていない。ジャッキーやイザベルと口論になる場面はあっても、基本的にはごく真面目な人物だ。そもそも演じるのは、誠実と安心を絵に描いたようなエド・ハリス。母への愛がなくなったのか? という子どもたちの質問に言葉を探して一生懸命答え、元妻のガン告白に対しても精一杯寄り添おうとする。

 ここで、ルークがもっと鈍感で無責任な男だったら、「こういう男のせいで、どんな立場の女も苦労するんだよね」という逃げ口上が用意される。だが男を悪者にできない構造なだけに、そして男が女同士のトラブルには無力だけに、問題はそれぞれの女の足元に直接返ってくる。

 2人が問題を相手のせいにせず、真摯に受け止めようとしていくところがいい。対面している時は辛辣な言葉でやりあっても、後で内省し、何とか前に進もうとする。互いに「あんたは気に入らない!」と言って決裂できればいいが、子どもがそこに関わる限り、それでは済ませられないからだ。

 「実母の代わりはできないのが不安」というイザベルの思いと、それを受け止め励ますジャッキーの思いが交錯するシーンは美しい。それぞれ違う生き方をしてきた世代も文化も異なる女性が、「壁」を超えて初めて互いを認め合い、「チーム」であることを確かめ合う瞬間だ。

 それはもちろん、「子どものため」という大前提があってのことである。この前後の、イザベルがカメラの腕を生かして母と子どもたちの日常を撮影する一連の場面も、いずれ来る母との別れをどうにかして受容しようとする健気な子どもたちも、家族とイザベルがジャッキーを囲むクリスマスのシーンも、ちょっとイイ話に引っ張って行きすぎでしょと突っ込み入れたくなるくらいの、しみじみ感動シーンの連続になっている。

 「子どものため」で先の短い実母と若い継母が和解するのは当たり前、もう「ガン」と「子ども」を持ってこられたらどうしようもない、それって禁じ手だよねと鼻白む人もいるかもしれない。では、この「実母と子と継母の感動物語」を私たちはどんなふうに読み替えたらいいだろうか。

■分断する女たちがつながれるとき

 2人の子どものうちで、焦点が当たっているのは12歳のアンナである。これは、多感な思春期に足を踏み入れたばかりの少女が、大人のややこしい世界をかいま見、大人の女性たちに振り回されたり振り回したりしながら成長していく物語でもある。

 ジャッキーとイザベルは、アンナの成長を促す立場にいる。たまたま実母と継母というポジションに立っているが、これは年上の女と年下の女が、もっと若い次世代の女をそれぞれのやり方で導き育てることで、出会い直すという話なのだ。

 私たちはある程度の年齢になれば、自分より年下の者に指南する立場に立たされる。自分たちの後から来る者のために道を作り、その若い人がいつか1人で歩いていけるように後押ししてやること。それは親であろうがなかろうが、年長者の重要な「ミッション」だ。やがてもっと若い後輩の上に立つようになった年下世代に、年長者は教え方を授け、バトンタッチする。

 もちろん属する世代によって、若い人に伝えたい中身ややり方は少々違うかもしれない。でも自分たちの歩んできた道を振り返り、その中から次世代にいいものを受け渡したい、そして幸せになってもらいたいという願いは同じだろう。その一点においては、立場や文化の異なる年上の女と年下の女も、手を結べるのではないだろうか。

 「私はアンナの過去を、あなたは未来を担う」というジャッキーからイザベルに贈られた言葉には、そんな希望が込められているのだ。

大野左紀子(おおの・さきこ)
1959年生まれ。東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。2002年までアーティスト活動を行う。現在は名古屋芸術大学、京都造形芸術大学非常勤講師。著書に『アーティスト症候群』(明治書院)『「女」が邪魔をする』(光文社)など。近著は『あなたたちはあちら、わたしはこちら』(大洋図書)。
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既婚/独身、専業主婦/仕事女の分断と希望を描く『グッドナイトムーン』

――母と娘、姉と妹の関係は、物語で繰返し描かれてきました。それと同じように、他人同士の年上女と年下女の間にも、さまざまな出来事、ドラマがあります。教師・生徒、先輩・後輩、上司・部下という関係が前提としてあったとしても、そこには同性同士ゆえの共感もあれば、反発も生まれてくる。むしろそれは、血縁家族の間に生じる葛藤より、多様で複雑なものかもしれません。そんな「親子でもなく姉妹でもない」やや年齢の離れた女性同士の関係性に生まれる愛や嫉妬や尊敬や友情を、12本の映画を通して見つめていきます。(文・絵/大野左紀子

■『グッドナイトムーン』(クリス・コロンバス、1998) ルーク×ジャッキー

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 既婚女性と独身女性、子どものいる女といない女、ワーキングマザーと専業主婦。女と女の間に生じるディスコミュニケーションの原因として多いのは、こうした社会的立場の違いだ。

 ネットの掲示板や週刊誌などを見ると、そこから生まれる感覚のズレやトラブルの話題に事欠かない。生き方の多様性が賞賛され、以前より自由な選択肢が開けたと言われる一方で、私たちの間には細かくデリケートな「壁」がたくさん築かれているかのようだ。

 無神経にそこを踏み越えると、「いいよね、専業は」「育児の苦労も知らないくせに」「結婚できるだけマシなのに」という視線や言葉が飛んでくる。初対面の人が既婚か独身か、兼業か専業か、子どもがいるかいないかに、今ほど女性たちが敏感な時代はないのではないだろうか。

 他人と友好的な関係を保っていこうと思えば、相手の立場を思いやり尊重するのが賢明ということは、誰でも知っている。しかし互いに、最初から相容れない関係として出会ってしまった場合はどうだろう。しかもそこに、一回りくらいの歳の差と文化の差が加わったら、「壁」はとんでもなく高いものになりそうだ。それはどうやったら乗り越えられるのだろうか。

 『グッドナイト・ムーン』(クリス・コロンバス、1998)に登場する2人は、専業主婦で二児の母である年上女性と、仕事をもつ独身年下女性。前者と離婚した男が後者の恋人となっており、2人は前妻vs(近い将来の)妻、実母vs(近い将来の)継母という、この上なく難しい関係として出会う。

 この作品が優れたダブルヒロインものとなっているのは、普通ならどちらかにフォーカスを絞り感情移入させるところを、極力平等な距離感で描いている点にある。2人の女性は、理解不能な相手に時に反発しぶつかり合いながらも、一つの「ミッション」の遂行において次第に深く結びついていく。

 ここではまず、仕事をもつ独身年下女性の物語から見ていこう。

■「母親失格」で見つけた子どもとの関係
 イザベル(ジュリア・ロバーツ)は、広告業界で活躍するニューヨークの売れっ子カメラマン。かなり年上の弁護士で恋人のルーク(エド・ハリス)と一緒に暮らし始めたばかりだ。ルークは3年前に妻ジャッキー(スーザン・サランドン)と別居後、離婚しており、2人の子どもは週の半分を父のアパートメント、残りの半分を郊外にある母の本宅で過ごしている。

 イザベルの悩みは、その子どもたちだ。頑張って世話をしようとしても、12歳の姉アンナは反抗的だし、就学前の弟ベンは悪戯盛り。見かねたルークに「君に子どもの世話は頼めない」と言われて反発するが、努力は空回りするばかり。

 特に、アンナとはまったく反りが合わず苦労する。思春期の彼女の目に、恋人に夢中な父ルークと自分がどのように映っているか、その複雑な内心を慮るところまでは、イザベルの想像力は働かないのだ。

 ロケの現場に子ども2人を連れていった時、目を離したすきにベンがいなくなり、大騒動となる。警察に保護された息子のところに飛んできたジャッキーに謝るものの、キツい言葉で保護者失格との烙印を押され、自信喪失。

 あるいは、子どもの迎えに行くはずだったジャッキーに替わって、急遽仕事を切り上げ学校に直行し、母の来られない理由を必死でデッチ上げているところに、遅れてきたジャッキーがサッサと子どもたちを連れ帰る。

 自分は努力しているのだ。仕事より子どものことを優先している。ジャッキーを悪者にせず、子どもたちを傷つけないように気を使っている。それでも、やっぱり「母には敵わない」という事実を何度も突きつけられる時、イザベルの心は折れそうになる。仕事なら努力すれば何とかなるが、ママにはどう頑張ってもなれない。

 それからイザベルがしたことは、母というより先輩女性として振る舞うことだった。絵がうまくいかなくて悩んでいたアンナに的確なアドバイスをして信頼を取りつけ、ドライブ中、口紅を貸してやり、CDに合わせてコーラスするほどには打ち解ける。アンナの恋の始末のつけ方にも、あまり教育的ではないが、イザベルにしかできないような独特の助力をする。

 母にはなれなくても、自分にできることをやればいいとわかってからのイザベルと、徐々に警戒を解き、「父の恋人」ではなく話せるお姉さんとして彼女を受け入れていくアンナの関係は、ちょっと危なっかしいだけに見ていて応援したくなる。

■母としての誇りと立場を失う畏れ
 一方、かつては仕事を持っていたが、子どもを産んで以降家事と育児に専念してきたジャッキーの物語は、イザベルより混み入っている。

 夫の多忙でスレ違いが生まれ離婚はしても、親という立場は変わらない。今では夫への憎しみも薄れ、子どもの父親としての信頼だけが残っているが、彼の再婚には複雑な心境。こういうバツイチの女性は少なくないのではないだろうか。

 ルークのアパルトメントに子どもたちを迎えに行き、イザベルが持たせたランチの弁当を途中で捨てたり、アンナの生活管理についてのイザベルのミスを「そんな身勝手じゃ母親になる資格はない」と断じたりするのも、長年母親業をやってきたプライドからだ。自分の代わりをこの若い女が果たせるとは、とても思えないのだ。

 「彼女は仕事がある」と、幼いなりにイザベルを弁護するベンに、専業主婦の労働の大変さや報われなさを教え、「彼女のような自己中心型は高給取りよ」と皮肉を忘れないところは、立場の違いがここまで女を分断するのかという感慨も抱く。

 だが、父とイザベルの結婚を突然知らされて取り乱すアンナに「イザベルのいいところを探してみて」とアドバイスする言葉は、そのままジャッキーの内心を物語っている。自分にはないもので子どもの心を掴みつつある相手の魅力に、ちゃんと気づいているのだ。

 その証拠に、クラシック好きのジャッキーは、イザベルがアンナをロックコンサートに連れて行くのを「まだ子どもよ」と反対したくせ、自分はちゃっかり同じコンサートに娘と行こうとする。私にだってそういう文化はわかるわよ。まるで若いイザベルと競い合っているかのようだ。

 どこまで行っても実の母である私に代わる者はないという誇りと、自分はいつか必要なくなるのではないかと畏れ。安心と不安が代わる代わるジャッキーを襲う。その複雑な心境は、ベンの枕元で歌うイザベルを目撃して、そっと立ち去る寂しげな背中にも現れている。

 自身が完治不能なガンに冒され、残された時間がそんなに長くないことを知ってからのジャッキーの努力は痛ましい。

 周囲に知られて心配されないよう気をつけながら、今この一瞬を親子の濃密な時間にするべく、努めて明るく振る舞おうとする。イザベルに不審がられやっとカミングアウトした後では一層、どうやったら子どもたちに良い思い出を残せるかと心を砕く。

 アンナの恋の一件も、イザベルのいささか奇をてらったアイデアに、良識ある母親の立場から意見する。ここでの「あなたの雛型は作らないで」という言葉は、ドラマ中、ジャッキーがイザベルに放ったもっとも厳しい台詞だ。

 「あなたの雛型」とは、自己中心的で目的のためには手段を選ばず、実質ではなく見かけを優先し、面白いことがすべてという生き方だ。独身で自由な恋愛を謳歌し、虚飾に満ちた広告業界で生きてきたイザベルの半生そのものに、正面切って疑義をつきつけているのだ。

 他でもない子どもたちのために、カメラマンの仕事を度々犠牲にしていることを知らないでまくしたてるジャッキーに、イザベルは抗議する。

◎「男が悪い」が通用しない、女たちの問題
 こんなふうに2人の女が対立する場合、その間にいる男は何も気づかないか、姑息に逃げ回って保身に走るというパターンがよくある。

 しかしルークは、仕事に忙殺されているとは言え、そういうだらしない男としては描かれていない。ジャッキーやイザベルと口論になる場面はあっても、基本的にはごく真面目な人物だ。そもそも演じるのは、誠実と安心を絵に描いたようなエド・ハリス。母への愛がなくなったのか? という子どもたちの質問に言葉を探して一生懸命答え、元妻のガン告白に対しても精一杯寄り添おうとする。

 ここで、ルークがもっと鈍感で無責任な男だったら、「こういう男のせいで、どんな立場の女も苦労するんだよね」という逃げ口上が用意される。だが男を悪者にできない構造なだけに、そして男が女同士のトラブルには無力だけに、問題はそれぞれの女の足元に直接返ってくる。

 2人が問題を相手のせいにせず、真摯に受け止めようとしていくところがいい。対面している時は辛辣な言葉でやりあっても、後で内省し、何とか前に進もうとする。互いに「あんたは気に入らない!」と言って決裂できればいいが、子どもがそこに関わる限り、それでは済ませられないからだ。

 「実母の代わりはできないのが不安」というイザベルの思いと、それを受け止め励ますジャッキーの思いが交錯するシーンは美しい。それぞれ違う生き方をしてきた世代も文化も異なる女性が、「壁」を超えて初めて互いを認め合い、「チーム」であることを確かめ合う瞬間だ。

 それはもちろん、「子どものため」という大前提があってのことである。この前後の、イザベルがカメラの腕を生かして母と子どもたちの日常を撮影する一連の場面も、いずれ来る母との別れをどうにかして受容しようとする健気な子どもたちも、家族とイザベルがジャッキーを囲むクリスマスのシーンも、ちょっとイイ話に引っ張って行きすぎでしょと突っ込み入れたくなるくらいの、しみじみ感動シーンの連続になっている。

 「子どものため」で先の短い実母と若い継母が和解するのは当たり前、もう「ガン」と「子ども」を持ってこられたらどうしようもない、それって禁じ手だよねと鼻白む人もいるかもしれない。では、この「実母と子と継母の感動物語」を私たちはどんなふうに読み替えたらいいだろうか。

■分断する女たちがつながれるとき

 2人の子どものうちで、焦点が当たっているのは12歳のアンナである。これは、多感な思春期に足を踏み入れたばかりの少女が、大人のややこしい世界をかいま見、大人の女性たちに振り回されたり振り回したりしながら成長していく物語でもある。

 ジャッキーとイザベルは、アンナの成長を促す立場にいる。たまたま実母と継母というポジションに立っているが、これは年上の女と年下の女が、もっと若い次世代の女をそれぞれのやり方で導き育てることで、出会い直すという話なのだ。

 私たちはある程度の年齢になれば、自分より年下の者に指南する立場に立たされる。自分たちの後から来る者のために道を作り、その若い人がいつか1人で歩いていけるように後押ししてやること。それは親であろうがなかろうが、年長者の重要な「ミッション」だ。やがてもっと若い後輩の上に立つようになった年下世代に、年長者は教え方を授け、バトンタッチする。

 もちろん属する世代によって、若い人に伝えたい中身ややり方は少々違うかもしれない。でも自分たちの歩んできた道を振り返り、その中から次世代にいいものを受け渡したい、そして幸せになってもらいたいという願いは同じだろう。その一点においては、立場や文化の異なる年上の女と年下の女も、手を結べるのではないだろうか。

 「私はアンナの過去を、あなたは未来を担う」というジャッキーからイザベルに贈られた言葉には、そんな希望が込められているのだ。

大野左紀子(おおの・さきこ)
1959年生まれ。東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。2002年までアーティスト活動を行う。現在は名古屋芸術大学、京都造形芸術大学非常勤講師。著書に『アーティスト症候群』(明治書院)『「女」が邪魔をする』(光文社)など。近著は『あなたたちはあちら、わたしはこちら』(大洋図書)。
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女が本当に好きなのは男ではない? 女同士の淡い同性愛感情を描く『小さいおうち』の幸福

――母と娘、姉と妹の関係は、物語で繰返し描かれてきました。それと同じように、他人同士の年上女と年下女の間にも、さまざまな出来事、ドラマがあります。教師・生徒、先輩・後輩、上司・部下という関係が前提としてあったとしても、そこには同性同士ゆえの共感もあれば、反発も生まれてくる。むしろそれは、血縁家族の間に生じる葛藤より、多様で複雑なものかもしれません。そんな「親子でもなく姉妹でもない」やや年齢の離れた女性同士の関係性に生まれる愛や嫉妬や尊敬や友情を、12本の映画を通して見つめていきます。(文・絵/大野左紀子)

■『小さいおうち』(山田洋次監督、2014) 時子×タキ

tiisaiouti

 同性愛者であるかないかを問わず、女が本当に好きなのは、男ではなく、女ではないだろうか。

 思えば小学校の頃から、男子に比べて女子同士の方がよくハグをするし、親友と腕を組んで歩いたりして、身体的な密着具合が高い。歳を取り中年になって、旅行は夫とより同性の友人と行く方が楽しいという人は結構いる。「老後、一緒に暮らさない?」などという話が出るのも、大抵女性の間だ。気の置けない女同士の関係ほど、心地良く安心できるものはない。

 それからすると、男はやはりどこか「別の生きもの」だ。愛したり尊敬したりすることはあっても、心から共感したり理解し合えたと思えることは、同性ほどはないのではないか。歳を重ねるにつれ、そう実感することが多くなった。

 孤独を真に癒やしてくれるのは、同性。安心してその懐に飛び込めるのも、同性。そう感じている女性は少なくないと思う。むしろ、全ての女の中に根強くあるのは、異性愛より同性愛的な要素ではないだろうか。

◎美しく魅力的な若奥様と奉公する女中
 中島京子の小説が原作の『小さいおうち』(山田洋次、2014)は、女が女に抱く密やかな愛を描いたドラマである。布宮タキ(倍賞千恵子)が大甥の健史(妻夫木聡)に薦められるまま、「自叙伝」で綴る戦前の回想と現在のシーンで構成されている。

 「小さいおうち」とは、昭和6年、18歳で山形から東京に女中奉公に出た彼女が二番目に入った、山の手のモダンな、赤い屋根を持つ洋館のこと。そこで出会うのが、美しい若奥様の時子(松たか子)。彼女の夫、平井(片岡孝太郎)はおもちゃ会社の重役であり、幼い息子と3人の絵に描いたような幸せな家族だ。

 しかし、平井の部下で芸大出の板倉(吉岡秀隆)が家に出入りするようになり、時子とだんだん惹かれ合っていき、タキは2人をハラハラしながら見守るはめになる。そして老いたタキが心の中に封印し続けた自身の「罪と罰」が、彼女の死後やっと明らかになる。

 戦前の東京の街の風物が仔細に描かれている原作と比べ、映画は大半のシーンがセットで、人物背景も時子が子連れ再婚であることなどは省略されている。そのため、全体に物語がスケールダウンしている感は否めない。また、もの静かで懐の深そうな平井の元の人物像も矮小化されていて、片岡の演技はワンパターンだし、板倉を演じた吉岡はなんだかモッサリしており、人妻が心をときめかす若者としてはミスキャストに思える。

 しかしそれらを補って余りあるほど、時子を演じる松と若年期のタキを演じる黒木華がすばらしい。出身も階級も違う、少し歳の離れた2人の女性の間に生まれ育っていく、穏やかな愛と信頼。それが、子育てや家事を通した家の中のさまざまなシーンで、みずみずしく描かれている。

 時子は感受性が鋭く、気性がまっすぐで明るくて、天然なところもあるが案外頑固で、内に情熱を秘めた女性。松の表面張力の高い顔、若々しい声、二の腕や腰の色っぽく女らしい肉付きも、時子が女学生時代の輝きを保持したまま歳を重ね、そこにいるだけで人を魅了してしまう女性であることを示している。しかも読んでいるのは『風とともに去りぬ』だ。そういう女が、仕事と戦争の話ばかりし、金儲けで頭が一杯の凡庸な夫に心から満足できるわけがない。

 一方、時子にあこがれながら、朝から夕までまめまめしく働く女中のタキ役は、素朴な風貌の黒木にぴったり。彼女の体からは、台所に白い食器戸棚と挽肉機が据えられ、応接間にはマリー・ローランサンの絵が掛かる可愛らしい家で、美しい女主人に仕える喜びが溢れている。小児マヒに罹った幼い坊ちゃんをおぶっての医院通いという、大変な労働も積極的に引き受けるタキ。常に時子の気持ちを慮っている控えめな様子は、まるで忠実な柴犬のようだ。

 そんなタキに時子は、時には親友にように茶目っ気を見せ、時には姉のように優しく親身に接するが、板倉との関係は夫に秘密裏のまま、とうとう抜き差しならないところまで行ってしまう。

◎奥様に抱く淡い恋愛感情
 戦局が押し迫って板倉にも赤紙が届き、彼が発つ直前に1人で逢いに行こうとする時子を、タキが必死で止める場面がクライマックスだ。

 タキの「自叙伝」ノートでは、その時咄嗟の折衷案として、時子が彼の下宿に1人で行くのではなく、タキが時子の手紙を板倉に届け、彼を家に招くことにしたものの、板倉は留守で、手紙を読んだか読まないかは不明のまま、結局来なかったという話になっている。

 ところが、タキの死後、開封されていない時子の手紙がタキの遺品の中から発見される。タキはなぜ、時子の手紙を板倉に届けなかったのか? 彼女の「自叙伝」ノートによれば、その時、奥様を行かせてはならない(バレたら大変なことになるから)という思いと、行かせてさしあげたい(これが最後になるかもしれないから)という思いに引き裂かれていた、とある。

 時子にとって、最後に板倉と会うのと会わずに済ますのと、本当はどちらがいいのか、幸せなのか。そのことをタキは必死で考え、結局会わせないことにしたのだ。その心の奥底には、時子への恋愛感情があったのではないだろうか。

 それまでに、タキが時子を気にしている場面はいくつかある。

 時子に脚のマッサージを請われて、ためらいながらしている時。時子は「ああ気持ちいい」とタキの手を取って握り、親指で手の甲をさする。遠慮して外そうとするタキ。彼女のドキドキが伝わってくる。

 タキが作った雑煮に、「うまいなあ」と板倉が言った時。「よかったね」と時子が言うとタキは照れ笑いし、時子をチラッと見てからニコニコ顔のまま部屋を出ていく。褒められてうれしくてたまらない様子。

 平井が板倉に見合い話を持ってきた日、台所で苛々したように「板倉さん、結婚なんて早い。断然早いわ」と何度も言う時子に、「そうですね」と合わせながら心配そうに様子を窺う。

 これらはあくまで女中として女主人の顔色や振る舞いを気にかけているとも取れるが、決定的なのが、時子の親友、睦子(中嶋朋子)が登場した場面だ。

 時子はまだ帰宅しておらず、睦子にタキがお茶を出す。そこで最近の時子の様子をモゴモゴと案ずるタキに、睦子は「ああ、そうか。その板倉さんは時子さんを好きなのね」とズバリと言い、タキは堰を切ったように啜り泣く。それを見て「こういうことだわ。好きになっちゃいけない人を好きになっているのよ」と睦子。タキは「そうなんです」とさらに泣く。「好きになっちゃいけない人を好きになっている」のは自分だ。これは自分のことだ。2人の会話は二重の意味を帯びてくる。

 誘導するかのように睦子は更に、女学校時代の時子は本当に綺麗で誰もが好きにならずにいられなかったとか、彼女の結婚が決まった時には自殺しかけた人もいた(たぶん睦子自身のこと)などという話をし、「厭だったの、あの人が結婚するのが。独占したかったの。わかるでしょ、タキちゃん」と畳み掛け、タキは涙目で深く頷く。

 自分は奥様を独占したいのだ、だから苦しいのだ。それを見透かすように睦子は、「苦しいわね、あなたも。あたし、よーくわかる」とダメ押し。

 美しいお姉さまへの慕情を流麗な筆致で描いた吉屋信子の小説が大人気で、女学校では先輩と後輩の特殊な関係が“エス”などと呼ばれてはやっていた時代。もちろん十代でそうした淡い同性愛感情にはまってもそれは一時のことで、早ければ女学生の間に婚約を決め、決まらなくても早晩誰かとお見合い結婚というルートは引かれていた。だから一層、女学校の間の同性同士の密やかな関係は、ファンタジックで濃密なものになった。

 タキは東北の質素な家の生まれで尋常小学校しか出ていないから、そういう世界を知らずに上京し、奉公先で突然そんな感情の芽生えを体験した。自分としては、敬愛する奥様と板倉さんの前途を心から案じているつもり。だが、そこに字余りのように残ってしまうぼんやりした苦しみ。睦子の言葉が、タキの中のそのモヤモヤに輪郭を与えたのだ。

◎女の理想郷を支えるもの
 時子にしても、男を排し女のタキと寄り添うような場面がある。「男って厭ねえ。戦争と仕事の話ばかり」と同意を求めたり、うんと年上のバツ2男と見合いさせられて泣くタキを庇い、縁談を断ってやったり。家事や育児や細々とした用事に追われる日常生活を共にする中で、彼女が夫よりタキと心を通い合わせるのは当然だろう。

 タキは板倉のことが好きだったので、時子と板倉を逢わせたくなかったのだという解釈をネットで見たが、それは違うと思う。

 2人の絡みで印象に残るのは、板倉を紹介された時、タキが同じ東北出身とわかって親しみを覚えるシーンと、招集されたことを報告に来た板倉が平井邸を出た時に、「もし僕が死ぬとしたら、タキちゃんと奥さんを守るためだからね」と言って、「死んじゃいけません!」と叫んだタキを抱きしめるシーンの2つ。どちらにも“男女の色気”は感じられない。

 現代パートでも、時子と板倉の接近を回想する老いたタキに、大甥の健史が、おばあちゃんも板倉さんを好きだったんだ、三角関係だと指摘するが、タキは微塵も表情を変えず「想像力が貧困だね」と退ける。

 女2人に男1人といったら、女たちが男を取り合うという図しか思いつかず、女1人に男ともう1人の女が恋をするという想像ができないのを、「想像力が貧困」と言っているのだ。

 家父長制の当時、戦争も含めて近代化を急いだ日本社会は男だけの社会。そこで、家という限定的な領域でのみ、女と女の関係が築かれた。

 現代パートの最後の方でチラリと出てくる有名な絵本『ちいさいおうち』は、のどかな郊外がどんどん都市化、近代化していく経過を描き、その中にぽつんと取り残されたちいさいおうちが、最後にあるべき場所に戻ってきて息を吹き返すという物語である。男/女のメタファーで考えれば、なぜこの絵本が登場し、タイトルにも使われているのかよくわかる。男性的な力に支配される政治・経済圏とは別の幸福に満ちた女性的な親密圏が、時子とタキの「小さいおうち」なのだ。

 だが実際には、その女性的な親密圏(時子とタキの暮らし)は、男性的な経済圏(時子の夫の経済力とそれを支える男性社会)の恩恵を受けて成立していた。後者が戦争や経済危機で崩壊すれば、前者もなくなってしまう。女の理想郷である「小さいおうち」は、それ自体で自立しては存在できないものだった。

 その後、空襲で洋館は焼け、時子は夫とともに亡くなったが、田舎に帰されていたタキは生き延びて戦後を迎える。彼女が終生独身で通した理由は、明らかにはされていない。おそらく、「出征前の板倉に一目会いたい」という時子のたっての願いを、黙って勝手に潰してしまったという罪悪感は、長い間彼女の中に沈潜していたのだろう。ある美しい女性を愛し、彼女との蜜月を大切にしたいあまり小さな過ちを犯し、それを自分の中に「罪」として抱えて、タキは生涯を閉じた。

 夢のように過ぎていった美しい人との大切な思い出に、ポツリとついた小さなシミ。なぜあの時私は、最愛の女性の最後の望みを叶えてあげなかったのか? という老女の深い後悔と苦しみを思うと、せつなさに胸が締めつけられる。

大野左紀子(おおの・さきこ)
1959年生まれ。東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。2002年までアーティスト活動を行う。現在は名古屋芸術大学、京都造形芸術大学非常勤講師。著書に『アーティスト症候群』(明治書院)『「女」が邪魔をする』(光文社)など。近著は『あなたたちはあちら、わたしはこちら』(大洋図書)。
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<p> 私事だが、50歳を過ぎてから着物にはまった。私のように、義母など親族が亡くなって、まだまだ着られる上等な着物が何枚も残されたのをきっかけに、着物ライフを始める人は世間に多いようだ。</p>

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