高齢者住宅で女たちの大ゲンカ勃発! “ボスババ”と義母が取っ組み合い、仲良しグループ終焉のワケ

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。前回は、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)への入居をきっかけに起こった、“老妻の反乱”を紹介した。

(前回:「怒鳴られても言い返さない」貞淑な妻の反乱

 井波千明さん(仮名・55)の義父、勇三さん(仮名・88)は認知症が進行し、義母の茂子さん(仮名・86)は初期の認知症に加え、硬膜下血腫の手術も受けた。二人暮らしを続けるのが難しくなったことから、井波さんの家から近いサ高住に入居した。しかし、同じ部屋に入るどころか、同じ階の別室に入るのもイヤだという茂子さんの頑強な抵抗により、二人は別の階で暮らしている。

天敵「ボスババ」と取っ組み合いの大ゲンカ

 ところが、入居してからちょっとした“事件”が起こった。

 入居してまもなく、井波さんがサ高住の茂子さんの部屋を訪ねたところ、友達が遊びに来ていたことがあった。井波さんは「もうお友達ができたんだ」と喜んでいたという。

 このサ高住では、食事のときの座席が決められていて、毎日同じグループで話をしながら食事をしている。茂子さんはそのグループで仲良しの友達ができたようだった。

「それが義母に話を聞くと、グループにボス的な女性がいるらしくて、食事が配膳されると、いつも目配せして食事を友達から奪うというんです。義母はその行為が許せなかったようで、文句を言ったことからケンカがはじまり、スタッフから私に連絡が来るほどの関係になってしまいました。解決策として、スタッフが席替えをしようかと義母に相談したところ、義母は『私が悪いわけではないので、席は替わらない』と譲らなかったそうです。相手も同じようなことを言ったので、『じゃあ、今度ケンカしたら席替えしますよ』と警告されたのに、それでもまた取っ組み合いに近いケンカをしてしまったんです」

 とうとう、茂子さんと“ボスババ”は、二人ともグループ席から離れた一人席にされてしまった。

 そんな事件があった後に、井波さんは娘を連れて茂子さんのもとを訪ねた。井波さんの娘には障害がある。すると、ボスババは井波さんの娘を指差して、「これがあの人の孫よ」と周りの入居者たちに陰口を言ったというのだ。

「スタッフも『井波さんのお母さんが悪くないのは私たちもわかっています。相手の方が、これまでも何度も問題を起こしている、癖のある方なんです』と言っていました。その通り、ボスババはあきれるほど人間的に欠陥のある人のようです。そんな人に真っ向からケンカを挑む義母って……」

 意外だった。井波さんはこれまで茂子さんのことをシャイで控えめな女性だと思っていたが、実は正義感に燃えた熱い人だったんだと見直した。

 それでも、茂子さんに嫌な思いをさせまいと、それからは茂子さんのいるフロアには娘を連れて行かないようにしている。「老人集団って、小さな子どもの社会みたいですね」とため息をつく。

 ちなみに、このサ高住を選ぶ決め手となったのは、庭に野菜や花を育てるスペースがあったことだった。井波さん夫婦は、義父母が部屋に閉じこもることなく、この園芸スペースで少しでも活動的に過ごしてもらいたいと考えたのだ。

 しかしその園芸スペースでも、茂子さんの“天敵”ボスババがよく活動しているため、茂子さんは決して近づこうとはしない。「こんなはずじゃなかった」と井波さんは苦笑する。

 それまで何十年も、一切口答えすることなく夫に仕えてきた茂子さんは、終の棲家となるサ高住に入居してはじめて夫を断固拒否し、ボスババに対しても決して妥協しようとしなかった。

 「小さな子どもの社会のようだ」と井波さんは感想をもらしたが、茂子さんは、“長いものには巻かれろ”といった、いわゆる大人の対応をすることを一切拒否したといえる。

 茂子さんは、人生の最後くらい「イヤなものはイヤ」と自己主張しようと思ったのだろうか。それとも、認知症によって、茂子さんの本来の姿が明らかになったのか。

 井波さんにも本当のところはわからないというが、茂子さんの武勇伝はなんとも痛快だった。そのように生きられるなら、人生が楽になるだろうとうらやましく思う人は多いのではないだろうか。

 それにしても、終の棲家でも女どうしの人間関係に悩まされるとは……。そんなボスがいるのなら、イヤな夫の方がまだマシかも?

認知症の夫に“熟年離婚”つきつけたワケ……「怒鳴られても言い返さない」貞淑な妻の反乱

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 新型コロナウイルスの感染を防ぐため、多くの介護施設では家族の面会をストップした。緊急事態宣言が解除され、面会が可能になった施設も増えてきているが、まだ全面的に解禁というわけにはいかないだろう。親が自分のことを忘れてしまうのではないか。認知症が悪化するのではないか……。不安に思いつつも、今は親の命の方が大切だと、なんとかこの時期を乗り切ろうとしている子どもは少なくない。

夫婦で認知症に、二人暮らしはもう無理

 井波千明さん(仮名・55)もそんな一人だ。井波さんの義父母・勇三さん(仮名・88)と茂子さん(仮名・86)は、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)に入っており、この2カ月ほど面会がかなわないでいる。

 サ高住に入居するまで、井波さんの義父母は、同じ県内だが車で2時間ほどかかる場所に住んでいた。夫の実家に行くのは年に2回くらい。飛行機を利用しないと行き来できない場所に住んでいる義兄が実家に帰る頻度とたいして変わらなかった。

 義父母が井波さんの家から近いサ高住に入居したのは、2年前のことだ。

 5年ほど前、勇三さんが認知症になり、その後茂子さんも物忘れが目立つようになった。茂子さんが初期の認知症と診断されてからも、訪問介護サービスを利用しながら二人暮らしを続けていたのだが、茂子さんの様子が急激におかしくなった。

「義父母が認知症になってからは、月2回くらい様子を見に行くようにしていたんですが、義母が2週間前とは激変していました。フラフラして歩けないし、表情もなくなっていた。すぐにかかりつけの病院に連れていったんですが、認知症が進行しているだけだろうと言われました。でもその後さらに状態が悪化して、翌月には立つこともできなくなったんです」

 そこで総合病院で検査してもらったところ、「硬膜下血腫」という診断が下りた。頭蓋骨の内側にある硬膜と脳の間に出血が起こり、そこに血液がたまる病気で、血腫が脳を強く圧迫してさまざまな症状が引き起こされる。幸い、茂子さんは手術を受けて、症状はかなり改善した。

「でもこれをきっかけに、義父母が二人で暮らすのはもう無理だろうと、夫と義兄の意見が一致しました。それで、私たちの家の近くで施設を探すことにしたんです」

 義兄は転勤が多く、しかもバツイチ独身だ。以前から井波さんは、実質的に義父母の面倒をみるのは自分しかいないと覚悟をしていたという。介護がはじまる前は、義父母と頻繁に会っていたわけではなかったが、関係はずっと良好だった。

「先日も、サ高住のスタッフから『実の娘さんですよね』と言われたくらいです。結婚して25年以上もたつと、まあそんなものですよ」

 義父母と夫兄弟の仲も良かった。

「特に義父は子煩悩だったと思います。教育熱心で、厳しいけれど、愛情もたっぷり注いで育てたようです。義母が言うには、夫も義兄も義父に反抗することもなく、大きくなったそうです」

 勇三さんは井波さんにも優しかった。井波さんが言うことは、何でも受け入れてくれたという。

「今でも義父と話すのは、私の癒やしになっています。私が面会に行くと、他愛ない話をしてくれて、帰ろうとすると『来てくれてありがとう。また来てね』と言ってくれる。それだけでも、毎回幸せな気持ちになります」

 その一方で、勇三さんは茂子さんに対しては、完全な亭主関白だった。

「私と話すときとはまるで別人でした。義母を怒鳴りつける姿も、何度も見ました。義母は、義父がどんなに怒っても、言い返すことは決してありませんでした。でも、心の中では反発していたんだと思うんです」

反旗を翻した義母

 井波さんが茂子さんの心中をそう推測するのには、理由がある。サ高住に二人が入居するときのことだ。

「二人部屋があったので、そこに入ってもらおうとしたんですが、義母は頑なに義父との同室を拒んだんです。別室だと料金も割高になるのに、どうしても別室がいいと。そこまで言うならと、同じ階の別室にすることを提案したら、それもイヤだと言うんです」

 茂子さんは結局、勇三さんとは別の階に入った。

 そのうえ、サ高住に併設されたデイサービスに行くのも、勇三さんと同じ日には行きたくないと言い、それぞれ別の日に利用することになった。

「でも、週に1回だけはなんとか同じ日に利用してもらって、せめてそこで少しでも夫婦の接点を持ってもらうよう、スタッフが努力してくれています」

 最晩年の夫婦に起きた、妻の乱――。

 茂子さんの心中を理解できるという女性は少なくないのではないだろうか。これも、夫の定年後、退職金をもらってから夫に三行半を突きつける熟年離婚のひとつの形、ともいえるかもしれない。

 何十年も我慢するなんて、とても無理と思うか、それと何十年も先にある希望を持って今耐えるのか……。もちろん、逆のパターンもあることも忘れてはなるまい。

 

「お金を払うのがイヤ?」母の死後、伯母から不可解な“金銭要求”――一族に入った亀裂

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 浅倉貴代さん(仮名・37)は5年前にまだ50代だった母親を亡くした。「女が強い家系」だったので、いつも一緒に行動していた祖母や伯母、従姉たちの悲しみは大きかった。

 母親を早く亡くした浅倉さんに、伯母はそれまで母親がしてくれていたように、浅倉さんの娘たちを預かったり、夕食を差し入れてくれたりしていたのだが、母親の三回忌を過ぎたころから変化が訪れる。祖母の別荘をそれまでと同じように使っていた浅倉さんに、伯母が浅倉さんの母親が支払っていた別荘の維持管理費を、これからは浅倉さんが払うように命じたのだ。

(前編はこちら:「母の死で変わってしまったもの」

母を支配していた伯母

 浅倉さんは面食らった。母親が祖母の別荘の維持管理費を払ってくれていたことは、まったく知らなかったし、そもそも伯母や母親がお金の話などしたこともなかったからだ。

「はっきり言って、子どものころから何不自由ない生活を送ってきたんです。それが今ごろになって、別荘の管理費や修繕積立金に毎月10万円近くかかっていると言われても……」

 浅倉さんの話から推測すると、祖母が所有している別荘というのは、バブルのころ相次いで建てられた温泉付きのリゾートマンションのようだ。バブルがはじけたあと、維持するのが大変で多くの空き室が出るようになった。残った持ち主もランニングコストの高さを持て余していたが、売ろうとしても売れないというジレンマがあるようだった。浅倉さんの祖母や伯母も、そんな厳しい現実に直面していたのかもしれない。

 そんな事情などみじんも知らなかった浅倉さんは、母親が亡くなった後も今までと同じように別荘を気軽に利用していたというわけだ。

「すると、だんだん見えてきたんです。伯母と母との関係が……。伯母は姉として、妹である母のことを支配していた。ときには便利に使ったりすることもあったんじゃないかって。母は伯母に反抗することもなく、一族の関係にヒビが入らないように、うまく受け止めてくれていた。そんな姉妹の関係がずっと続いていたんだな、と。母が亡くなると、祖母のこれからを考えるのは伯母一人になります。そんな不安とかいら立ちが、私に向かってきたように感じました」

兄との関係も変わった

 女系家族といいながら、浅倉さんには兄がいる。だが、これまで兄との関係は決して良好だったわけではない。

「兄は早くに結婚して、年上のお嫁さんの言いなり。お嫁さんのこともあまり好きになれなくて、なんとなく遠ざけていました。旅行なんかも一族の女ばかりで行ったほうが楽しいので、兄はいないようなものでした」

 それが、伯母との関係がぎくしゃくしだしてからは、兄と連絡を取るようになったという。

「別荘の件でも兄と話し合いました。伯母はきっと兄にもお金のことを言ったんじゃないかと思ったんですが、やはりそうでした。私も兄も別荘に子連れで行って、どこか壊されたとか汚されたと言われるのがイヤで、泊まりに行くのをやめたんですが、そうしたら今度は『お金を払わないといけないから使わないのか』と嫌味を言われました。もう私も兄も伯母とかかわるのが面倒くさくなって、伯母が要求した以上の金額を払って、別荘にも行かないようにしました。母が払っていたというのも、どこまで本当のことかわからないですし、お金だけ払って使わないのももったいないけれど、これ以上イヤな思いをしたくなくて」

 母親は浅倉さんには何も言わなかったが、これまで伯母の指示は母親が一人で受け止めてくれていた。それが母がいなくなって、浅倉さんや兄に直接入ってくるようになったのだ。あらためて、母親の不在が身に沁みている。

 父親の顔を見に実家に行こうとしても、伯母の家を通らないといけないので、行くに行けなくなってしまったと浅倉さんは言う。

「幸い、父は祖母や伯母ともともと距離が近かったわけではなかったので、今までどおり、いえ母がいなくなった分、羽を伸ばしているみたいです。兄からの報告ですが。ただ食事や掃除とかが気になるので、実家の近くに住んでいる兄にときどき様子を見に行ってもらっています。父親のところに、兄家族の分も一緒に食べ物を送って、取りに行くついでに様子を見てもらうとか、一応兄や兄嫁にも気を遣っているんです」

 それでもあまり浅倉さんや兄が父の世話を焼こうとすると父が煙たがるので、家事代行サービスをお願いしようかと話しているところだ。

「伯母との関係が変わると、あんなにしょっちゅう会っていた従姉たちとも会わなくなりました。今までのあの生活は何だったんだろうと思うくらい。祖母は幸い元気にしているようですが、もう伯母家族に任せておけばいいのかなと」

 そのかわり、というわけでもないが、浅倉さん家族は夫の実家に帰る回数が増えた。付き合いのなかった夫の兄家族とも付き合うようになっている。

「夫の両親は元気に暮らしてはいるんですが、田舎なので古くて大きな家にとにかくモノが多いし、泊まるのにも勇気がいるくらい家の中も汚いんですが……。これで介護が必要になったり、家を片付けたりしないといけなくなったらどうしようと、兄嫁ともよく話すようになりました」

 母親の死で、ひとつの人間関係が途絶え、新しい関係が生まれた。

 「母が生きていたら、これまでの関係が続いていたんだろうか」――ときおり、そんなことを考えたりもする。

「今は、家族の時間を大切にしたいと思っています。娘も小学生になり、受験も考えないといけない時期になってきましたが、これからは買い物や旅行も娘と行けるから楽しみです。子どもが女の子でよかった(笑)」

 形が変わったとはいえ、浅倉さん家族はこれからも女中心に回っていくのだろう。

母の死でわかった“一族の支配者”――「ママがいなくなったんだから……」優しい伯母の正体

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 「ヨロヨロ・ドタリ」期の親を持ち、介護に直面している子ども、特に娘たちは、「ヨロヨロになって子どもの世話になる前に、さっさとこの世を去りたい」と口を揃える。「ただ、親を置いて先には逝けない」というのも、また共通した思いだ。それはつまり都合の良い「ピンピンコロリ」幻想でもある。それができるなら誰も苦労しない。ヨロヨロの親たちも、過去そう思って生きてきたはずなのだから。

女が強い家系

 浅倉貴代さん(仮名・37)は、5年前に母親を亡くした。母親はまだ50代。体調が悪くなり、検査をしたときにはがんが広がり、すでに手術もできない状態だった。たった半年の闘病であっけなく逝ってしまった。

 浅倉さんはもちろん、祖母や母の姉である伯母の悲しみは大きかった。というのも、浅倉さん一族は、自他ともに認める「女が強い家系」。祖母は、早くに亡くなった祖父に代わり事業を営んでいたし、その祖母と伯母一家は同居していた。そして、その離れに浅倉さん家族が住んでいて、伯父や浅倉さんの父親の影は薄かったという。

「祖母は、婿である伯父に事業を譲りましたが、自由になるお金も持っていたし、ずっと存在感は大きかった。私たち家族が出かけるときには、いつも祖母や伯母、従姉たちと一緒でした。夏休みや冬休みになると祖母が持っている別荘に滞在したり、年に1回は必ず一族の女たち全員でハワイに行って楽しんでいました」

 浅倉さんに女きょうだいはいないが、従姉は皆女。浅倉さんが夫と結婚したのも、伯母の紹介だった。だから夫との結婚後も、生活スタイルはそれまでとほとんど変わらなかった。

 浅倉さんが、東北にある夫の実家に行くのは年に1回あるかないか。娘2人が生まれると、移動が大変だという理由でますます足が遠のいた。浅倉さんが友人と会うときには、実家に娘を預けるか、母親が浅倉さん宅に泊まり込んで娘たちの世話をしてくれる。夫はおとなしい人だったので、実家べったりの浅倉さんに対して、意見をすることもなかった。

「夫は仕事も忙しかったので、私が実家の母に子育てを手伝ってもらえてラッキーくらいにしか考えていなかったんだと思います。お正月やお盆などでも夫の実家に帰らずに、祖母の別荘に滞在して、夫が仕事に戻ったあとも母と娘、祖母、伯母、従姉たちと女ばかりで楽しんでいました」

 母親の死は、祖母や伯母にとっても、ぽっかり大きな穴が開いたようだった。

「それでも伯母は、早くに母を亡くした私のことを不憫に思ったんでしょう。それまで母がやってくれたように、私が出かけるときは娘たちを預かってくれたり、娘を迎えに行くと夕食のおかずを作っておいてくれたりしました。だから、もちろん母が突然亡くなったのは悲しかったのですが、伯母や祖母、従姉たちがいてくれることはまだ恵まれていると、感謝していたんです」

 そんな関係に少しずつ変化が表れてきたのは、母親の三回忌が終わった頃だった。

「実家に父の様子を見に行ったついでに、祖母のところにも顔を出したんです。というか、父のところに行こうとすると、必ず祖母と伯母の家の敷地を通らないといけなくなっているんです。すると、伯母からこんなことを言われました。『別荘に行くのはいいけれど、貴代ちゃんの子どもたちが使ったものが出しっぱなしだったり、掃除ができていなかったりする。これまでは貴代ちゃんのママが気を配ってきれいにしてくれていたし、別荘の使用料や管理費を毎年おばあちゃんに払ってくれていたのよ。貴代ちゃんは知らなかったかもしれないけど、別荘を維持するのに結構な金額がかかっているの。ママがいなくなったんだから、これからは貴代ちゃんにも使った分の費用くらいは払ってね』って」

――後編は2月23日更新

 

母の死でわかった“一族の支配者”――「ママがいなくなったんだから……」優しい伯母の正体

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 「ヨロヨロ・ドタリ」期の親を持ち、介護に直面している子ども、特に娘たちは、「ヨロヨロになって子どもの世話になる前に、さっさとこの世を去りたい」と口を揃える。「ただ、親を置いて先には逝けない」というのも、また共通した思いだ。それはつまり都合の良い「ピンピンコロリ」幻想でもある。それができるなら誰も苦労しない。ヨロヨロの親たちも、過去そう思って生きてきたはずなのだから。

女が強い家系

 浅倉貴代さん(仮名・37)は、5年前に母親を亡くした。母親はまだ50代。体調が悪くなり、検査をしたときにはがんが広がり、すでに手術もできない状態だった。たった半年の闘病であっけなく逝ってしまった。

 浅倉さんはもちろん、祖母や母の姉である伯母の悲しみは大きかった。というのも、浅倉さん一族は、自他ともに認める「女が強い家系」。祖母は、早くに亡くなった祖父に代わり事業を営んでいたし、その祖母と伯母一家は同居していた。そして、その離れに浅倉さん家族が住んでいて、伯父や浅倉さんの父親の影は薄かったという。

「祖母は、婿である伯父に事業を譲りましたが、自由になるお金も持っていたし、ずっと存在感は大きかった。私たち家族が出かけるときには、いつも祖母や伯母、従姉たちと一緒でした。夏休みや冬休みになると祖母が持っている別荘に滞在したり、年に1回は必ず一族の女たち全員でハワイに行って楽しんでいました」

 浅倉さんに女きょうだいはいないが、従姉は皆女。浅倉さんが夫と結婚したのも、伯母の紹介だった。だから夫との結婚後も、生活スタイルはそれまでとほとんど変わらなかった。

 浅倉さんが、東北にある夫の実家に行くのは年に1回あるかないか。娘2人が生まれると、移動が大変だという理由でますます足が遠のいた。浅倉さんが友人と会うときには、実家に娘を預けるか、母親が浅倉さん宅に泊まり込んで娘たちの世話をしてくれる。夫はおとなしい人だったので、実家べったりの浅倉さんに対して、意見をすることもなかった。

「夫は仕事も忙しかったので、私が実家の母に子育てを手伝ってもらえてラッキーくらいにしか考えていなかったんだと思います。お正月やお盆などでも夫の実家に帰らずに、祖母の別荘に滞在して、夫が仕事に戻ったあとも母と娘、祖母、伯母、従姉たちと女ばかりで楽しんでいました」

 母親の死は、祖母や伯母にとっても、ぽっかり大きな穴が開いたようだった。

「それでも伯母は、早くに母を亡くした私のことを不憫に思ったんでしょう。それまで母がやってくれたように、私が出かけるときは娘たちを預かってくれたり、娘を迎えに行くと夕食のおかずを作っておいてくれたりしました。だから、もちろん母が突然亡くなったのは悲しかったのですが、伯母や祖母、従姉たちがいてくれることはまだ恵まれていると、感謝していたんです」

 そんな関係に少しずつ変化が表れてきたのは、母親の三回忌が終わった頃だった。

「実家に父の様子を見に行ったついでに、祖母のところにも顔を出したんです。というか、父のところに行こうとすると、必ず祖母と伯母の家の敷地を通らないといけなくなっているんです。すると、伯母からこんなことを言われました。『別荘に行くのはいいけれど、貴代ちゃんの子どもたちが使ったものが出しっぱなしだったり、掃除ができていなかったりする。これまでは貴代ちゃんのママが気を配ってきれいにしてくれていたし、別荘の使用料や管理費を毎年おばあちゃんに払ってくれていたのよ。貴代ちゃんは知らなかったかもしれないけど、別荘を維持するのに結構な金額がかかっているの。ママがいなくなったんだから、これからは貴代ちゃんにも使った分の費用くらいは払ってね』って」

――後編は2月23日更新

 

パート先の介護サービスがきっかけに――老夫婦、妻の決断「夫のことは支えるが……」

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 折田真由美さん(仮名・51)は、最近「夫婦ってなんだろう」と、しきりに考える。夫の稔さん(仮名・55)の義父母は、ケンカの絶えない夫婦だったが、義母がパーキンソン病になり体が動かなくなっていくと、義父がかいがいしく介護をするようになった。「夫婦はいくらケンカをしていても、最期はお互いを思いやるものだ」という折田さんの母の言葉を何度も思い出している。というのも、エリートサラリーマンだった稔さんが起業したものの、二度の倒産で暮らしが激変したからだ。

(前編はこちら:年収2000万円のエリート夫が二度の破産――「夫婦ってなんだろう?」と妻が自問するワケ)

こんなときこそ夫を支えるべきなんじゃないか

 二度目の倒産後は、稔さんが50歳を超えていたこともあり、職探しは難航した。50社ほどに書類を出し、面接までこぎつけても、「なぜあなたのような立派な経歴の人が」と驚かれて「うちにはもったいない」と採用を断られる。

「最初の会社を辞めたときが40歳。もう一花咲かせたいと思ったんでしょうが、あのとき反対しておけば……と何度も後悔しました。下の息子は、生活が苦しい思い出しかないと言っています」

 いっそ離婚した方がいいのではないか、と思ったこともある。しかし、義父母の関係を見て、「自分も夫を支えないといけないんじゃないか」と思い直した。

「夫も、子どものことはかわいがっていましたし……」

 折田さんは、友人にはこういった話はできなかったという。

「こんなどん底の生活、愚痴を聞かされても困るでしょう。母も年を取っているので、心配はかけられません。肝心の夫は毎日部屋にこもりっきりで、何をしているのか、何を考えているのかわかりませんでした」

 そのころ、折田さんはデイサービスでパート勤めをしていた。介護ヘルパーの資格はなかったが、人手不足だったので採用されたという。送迎バスにも乗った。運転していたのは、折田さんよりも5歳ほど年下の男性。折田さんのように、送迎だけをするパート職員だった。毎日顔を合わせるうち、次第にその男性に家庭の話をするようになった。

「その人に家の話をするようになって、ずいぶん救われました。その人も送迎のアルバイトをするくらいだから、事情はうちと似たりよったりだったんだと思います。夫のことを打ち明けると、『男ってそんなものですよ。何も言わなくても、つらい思いをしているはずなので、今は黙っておいた方がいい』と言ってもらい、そんなものかと思えるようになりました」

 その後、その男性は再就職先が見つかり、運転手を辞めた。折田さんは、保育士の通信教育を受け、猛勉強をして保育士の資格を取った。今は保育所の非常勤職員として働いている。稔さんも、小さな会社に再就職することができた。

「夫もなんとか就職できてホッとしましたが、お給料は悲しいくらい安いです。週末には、お小遣い稼ぎのために近くのホームセンターで駐車場の誘導員をしています。そんな姿を見ていると、バリバリ稼いでいたころの夫と比べてしまうし、かわいそうだなと思います。縁があって家族になったんだから、義父のように夫を支えていかなくてはならないとも思っています。ただ、夫のことが今も好きか、と問われれば、もう好きだとは思わないです」

 折田さんは、今でもデイサービスの運転手だった男性とときどき会っている。

「その人とお茶を飲みながら、たわいもな話をするのが今の一番の楽しみ。そういう存在の人がいるだけで、私の人生も捨てたもんじゃないなと思えるんです」

 LINEでやりとりもしている。後ろめたいことはしていないというが、子どもに見られて誤解されたくないので、すぐに消している。そして、折田さんはまもなくおばあちゃんになる。

「苦労させてしまいましたが、子どもたちも社会人になりました。長女は家庭を持って、もうすぐお母さんになるんです。これでようやく一段落ついたなと思っています。これからどんな人生が待っているかはわかりませんが、長女が夫婦で支え合って、家庭を築いていければそれでいいと思います」

 折田さんのスマホには、時おりLINEの着信を知らせる音が鳴っていた。折田さん夫婦の「つじつま」はどこで合うのだろう。

年収2000万円のエリート夫が二度の破産――「夫婦ってなんだろう?」と妻が自問するワケ

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 昨年、NHKで放送された『ドキュメント72時間』に、樹木葬を取り上げた回があった。亡くなった父親と母親の仲が悪かったという娘に、母親は「夫は最期は『ありがとう』と感謝していた」と明かし、「夫婦って、最終的につじつまが合うようになっているんですね」とつぶやいていたのが、強く印象に残った。今回は、老いた親と夫婦の関係について考えてみたい。

どんなにケンカをしていても最期は互いを思いやる

 夫婦って何だろう……折田真由美さん(仮名・51)は、最近よく考える。

 義父母は始終ケンカをしていた。二人で小さな定食屋を営んでいたが、営業中の店内でも言い争いが絶えなかった。折田さんと夫の稔さん(仮名・55)は、お客さんにも険悪な雰囲気が伝わるんじゃないかとハラハラしていたくらいだった。

 そんな中、義母の体が動きにくくなっていった。「大丈夫だから」と義母は店に立っていたが、次第に歩くのも危なっかしくなってきた。心配した稔さんが義母を病院に連れていったところ、パーキンソン病だと診断された。10年ほど前のことだ。

 定食屋は、義父一人でもできないことはなかったが、二人で店に立つことができなくなったので、この辺で潮時だと店をたたむことにした。

 すると、義父母の関係はそれまでと一変した。

 体が動かなくなっていく義母の介護を、義父は一人でやるようになった。「介護サービスを使えば」と、稔さんも真由美さんも何度も言ったが、義父は一人でできると言って耳を貸さなかった。「お母さんは、人の世話になるのはイヤな人だから」と。

「食事や入浴の介助はもちろん、下の世話から買ってきた服の手直しまで。小柄な義母にはズボンが長すぎるからと、それまで使ったことのないミシンを引っ張り出して縫っていました。その姿を見ると、涙が出てしょうがありませんでした」

 折田さんの実父は、それより前に亡くなっていた。一人になった実母が、「夫婦はいくらケンカをしていても、最期はお互いを思いやるものだ」としみじみ言っていたが、義父母の関係を見ていると、その言葉がよみがえってくる。

「毎日ケンカばかりだったので、義父は義母に苦労をかけてきたと思って、義母の人生の最後にそのお返しをしているのかなと思うんです」

 苦労といえば、折田さんの結婚生活も苦労続きだ。折田さんは笑顔を絶やさないが、その話はかなり深刻だ。

 一流企業に勤めていた夫、稔さんは、元同僚に誘われて独立。共同で事業をはじめたがうまくいかず倒産。その後一人でまったく畑違いの健康食品販売に手を出した。

「サラリーマン時代、とんとん拍子に出世して、天狗になっていたんだと思います。海外赴任もして、メイドさんを使う生活に何か勘違いしてしまったんでしょう。子どもたちが小さかった頃、家庭を顧みなかったときは、こんな生活をしていると家族がバラバラになってしまうと思い、一時期、家を出て目を覚まさせたこともあります。でも、独立については私も強く反対はしませんでした。夫がやりたいのなら、好きなことをやらせたいと思ったんです」

 健康食品販売は、稔さんの大学時代の同窓生がやっている会社の流通ルートに乗せてもらえたこともあり、一時はかなりの業績を上げていたという。このまま順調に成長すると思っていた矢先、稔さんと同窓生との間にトラブルが起き、再び倒産の憂き目を見た。

「私たちの生活は、本当に浮き沈みが激しいんです。サラリーマンの頃は、年収2千万以上ありました。最初の倒産のときは、借金を双方の親から援助してもらってなんとか切り抜けましたが、二度目の倒産で貯金も底をつきました。電気代も払えなくて、電気が止まったこともあります。ろうそくでご飯を食べたんですが、まるでドラマみたいなことが現実にあるんだと驚いたほどです。そんなとき、長女が『キャンプみたいで楽しいよ。たまにはこういうのもいいね』と明るく言ってくれて、子どもながらに家族のことを考えてくれているんだと、心で泣きました」

 家も激変した。セレブが住む都心の高級マンションから、今は公営住宅だ。クルマも売り、子どもたちの学資保険もすべて解約したという。

――続きは、1月26日公開

年収2000万円のエリート夫が二度の破産――「夫婦ってなんだろう?」と妻が自問するワケ

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
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 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 昨年、NHKで放送された『ドキュメント72時間』に、樹木葬を取り上げた回があった。亡くなった父親と母親の仲が悪かったという娘に、母親は「夫は最期は『ありがとう』と感謝していた」と明かし、「夫婦って、最終的につじつまが合うようになっているんですね」とつぶやいていたのが、強く印象に残った。今回は、老いた親と夫婦の関係について考えてみたい。

どんなにケンカをしていても最期は互いを思いやる

 夫婦って何だろう……折田真由美さん(仮名・51)は、最近よく考える。

 義父母は始終ケンカをしていた。二人で小さな定食屋を営んでいたが、営業中の店内でも言い争いが絶えなかった。折田さんと夫の稔さん(仮名・55)は、お客さんにも険悪な雰囲気が伝わるんじゃないかとハラハラしていたくらいだった。

 そんな中、義母の体が動きにくくなっていった。「大丈夫だから」と義母は店に立っていたが、次第に歩くのも危なっかしくなってきた。心配した稔さんが義母を病院に連れていったところ、パーキンソン病だと診断された。10年ほど前のことだ。

 定食屋は、義父一人でもできないことはなかったが、二人で店に立つことができなくなったので、この辺で潮時だと店をたたむことにした。

 すると、義父母の関係はそれまでと一変した。

 体が動かなくなっていく義母の介護を、義父は一人でやるようになった。「介護サービスを使えば」と、稔さんも真由美さんも何度も言ったが、義父は一人でできると言って耳を貸さなかった。「お母さんは、人の世話になるのはイヤな人だから」と。

「食事や入浴の介助はもちろん、下の世話から買ってきた服の手直しまで。小柄な義母にはズボンが長すぎるからと、それまで使ったことのないミシンを引っ張り出して縫っていました。その姿を見ると、涙が出てしょうがありませんでした」

 折田さんの実父は、それより前に亡くなっていた。一人になった実母が、「夫婦はいくらケンカをしていても、最期はお互いを思いやるものだ」としみじみ言っていたが、義父母の関係を見ていると、その言葉がよみがえってくる。

「毎日ケンカばかりだったので、義父は義母に苦労をかけてきたと思って、義母の人生の最後にそのお返しをしているのかなと思うんです」

 苦労といえば、折田さんの結婚生活も苦労続きだ。折田さんは笑顔を絶やさないが、その話はかなり深刻だ。

 一流企業に勤めていた夫、稔さんは、元同僚に誘われて独立。共同で事業をはじめたがうまくいかず倒産。その後一人でまったく畑違いの健康食品販売に手を出した。

「サラリーマン時代、とんとん拍子に出世して、天狗になっていたんだと思います。海外赴任もして、メイドさんを使う生活に何か勘違いしてしまったんでしょう。子どもたちが小さかった頃、家庭を顧みなかったときは、こんな生活をしていると家族がバラバラになってしまうと思い、一時期、家を出て目を覚まさせたこともあります。でも、独立については私も強く反対はしませんでした。夫がやりたいのなら、好きなことをやらせたいと思ったんです」

 健康食品販売は、稔さんの大学時代の同窓生がやっている会社の流通ルートに乗せてもらえたこともあり、一時はかなりの業績を上げていたという。このまま順調に成長すると思っていた矢先、稔さんと同窓生との間にトラブルが起き、再び倒産の憂き目を見た。

「私たちの生活は、本当に浮き沈みが激しいんです。サラリーマンの頃は、年収2千万以上ありました。最初の倒産のときは、借金を双方の親から援助してもらってなんとか切り抜けましたが、二度目の倒産で貯金も底をつきました。電気代も払えなくて、電気が止まったこともあります。ろうそくでご飯を食べたんですが、まるでドラマみたいなことが現実にあるんだと驚いたほどです。そんなとき、長女が『キャンプみたいで楽しいよ。たまにはこういうのもいいね』と明るく言ってくれて、子どもながらに家族のことを考えてくれているんだと、心で泣きました」

 家も激変した。セレブが住む都心の高級マンションから、今は公営住宅だ。クルマも売り、子どもたちの学資保険もすべて解約したという。

――続きは、1月26日公開

老人ホームを拒否した娘、認知症の母の“最期”を迎えて――「ホッとした」と職場上司が語る理由

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

「介護施設は虐待が心配――生活が破綻寸前でも母を手放せない娘」で紹介した斎藤雅代さん(仮名・45)の上司、正木俊宏さん(仮名・56)の話を続けよう。正木さんは要介護4の母親を自宅で介護する斎藤さんが、介護離職寸前であることに危機感を抱き、なんとか介護離職を食い止めることができないかと奔走してきた。ところが、「施設に預けるのは、お母さんがかわいそう」という斎藤さんの言葉ですべてがストップし、もはや打つ手はないかと思われたのだが――。
前編はこちら

介護離職寸前でテレワーク導入に

「私の部のトップ、それから人事にも相談していたんですが、彼女の休みがもうこれ以上取れないというギリギリのところで、テレワークを実験的に導入することが決まったんです」

 もちろん、斎藤さん一人のためというわけではなく、働き方改革の一環として会社がテレワークを検討していたところに、介護離職寸前となった斎藤さんの処遇問題が起こり、実験的に斎藤さんにやってもらえばいいのではないかということで話がまとまったというのだ。

「本当のところ、彼女の業務内容はテレワークになじむものではなかったんですが、逆にテレワークでできる業務を彼女に担当してもらうという、コペルニクス的転回を図ったということなんです。これには私もうなりました。ここまでやるかと、自社を見直しました。我々も若いころは、時間外労働月200時間とかいう無茶苦茶なことをしたものですが、これも時代なんですかねぇ」

 なんともうらやましい話ではないか。正木さんの言葉どおり、ここまでやるかというほどの厚遇ぶりに、「寄らば大樹の陰」ということわざを実感した。これだから、大企業信仰はなくならないのだ。

 ともかく、こうして斎藤さんは週の半分はテレワークを利用することになり、会社と首の皮一枚でつながっていた状況を脱した。

「母が亡くなりました」――正直、ホッとした

 それでも、テレワークだから仕事をしなくて済むというわけではない。通勤時間がかからなくなったということに過ぎない。あとは斎藤さんが会社の厚意にこたえられるか、ということだけが問題だった。

 正木さんは、同じように介護をしている社員や育児中の社員など後に続く社員のためにも、斎藤さんがテレワークを成功させることができるように監督しながらフォローもしていこうと考えていた。その矢先、斎藤さんから連絡が来た。

 「母が亡くなりました」と――。

 「これまで本当にご心配をおかけしました。正木さんはじめ、皆さんには感謝しています」と、電話口で斎藤さんは続けた。前編冒頭の「正直、ホッとした」というのは、正木さんの偽らざる気持ちだ。斎藤さんは、もちろん力を落としてはいたようだが、思ったより元気そうな声だったという。

 これまで、何年も正木さんの提案やアドバイスに、グズグズとはっきりしない態度を取り続けた斎藤さんとは別人のように、モヤが晴れてすっきりしたように思えた、と正木さんはいう。

「もちろんお母さんが亡くなったのは残念なことです。それでも、最期まで自宅でお母さんを看取ることができたという満足感があるのだろうと思いました。もし、これが彼女が望んでいなかった『施設での死』ということだったら、こんなにすっきりはしていなかったんじゃないかとも思いました」

 斎藤さんによかれと思って、施設に入れることを強く勧めてきたけれど、それは間違いだったのではないか――正木さんは、そうも感じている。

 介護施設を運営するある医師は、たくさんの看取りをしてきて、「人は、その最期のときを自分で選ぶ」と確信したという。

 筆者は、はじめその言葉を聞いたとき「そんなわけないだろう」と思ったが、いくつかの親しい人たちとの別れを経て、その医師の言葉を実感するようになった。

 最期の瞬間に立ち会えなくて、今も後悔している別れも、この世を去る人がそれを選んだ――そう思うと、心が軽くなる。

 斎藤さんの母親も、「これまでありがとう。この辺で、行くわね」と斎藤さんに言うように旅立った。そんな気がしてならない。長いトンネルでも、介護には必ず終わりが来る。

 「これで、彼女もようやく“普通の生活”ができる」。正木さんは肩の荷を下ろした。

 だが、斎藤さんには別世帯で暮らす父親とウツで働けない弟が残されている。これから、斎藤さんはどんな生活を選ぶのだろう。

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――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

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 あなたは、母親のことが好きですか――? 

 自信を持って「好き」と言える人がどれだけいるだろう。それでも、はっきり「嫌い」と言える人はまだ幸せだ。「母が好きになれない」という思いを抱えながら、母親との距離をうまくとることができずに苦しんでいる娘は少なくない。まして、母親が年老いていくと、否が応でも距離を縮めざるを得なくなる。

 そんな「母娘」の関係を打ち明けてくれたのは、稲村幸助さん(仮名・52)だ。

夫の死後、義父母を見送った妹は無一文で放り出された

 稲村さんは、公認会計士として独立して10年ほど。大きなクライアントも多く、経営は順調だ。二度目の結婚をした15歳年下の妻と、まだ幼い娘がいる。前妻との間にできた娘との関係も良好だ。

 順風満帆と言いたいところだが、ひとつだけ頭を悩ませていることがある。82歳になった母親と妹の真知子さん(仮名・50)との関係だ。

「二人の仲が悪いんです。一緒に住んでいるんですが、まるで高校生の娘に対するように妹の生活に口を出しては、『帰りが遅い』とか『女が飲みに出かけるなんて、とんでもない』とか文句を言ってはケンカになる。そのたびに私が呼び出されて仲裁をしないといけなくなるのが困ったものでして」

 真知子さんは30代で夫と死別した。結婚していたときは、東北地方で夫の両親と同居していたのだが、この夫がどうしようもない“ボンクラ”だったという。

「職も転々とするし、妻子がありながら出会い系サイトに登録する。ギャンブル好きで、借金まで抱えていました。フラっと家を出たまま帰らなくなって1年ほどたったころ、警察から死んだと連絡が来たんです。いわゆる孤独死ですよ。だからそのときも誰も悲しまなかったし、むしろホッとしたくらいなんです」

 それまでも、その“ボンクラ亭主”があてにならないので、一家は舅の収入で暮らしていたという。だから、夫が亡くなっても真知子さんの生活はそれまでと大して変わらなかったし、夫が生きていた頃より平穏な生活を送っていたのだ。

 それからさらに10年ほどの間に、真知子さんは老いた舅姑を献身的に介護して見送った。そこまではよかった。

 ところが、嫁である真知子さんに舅姑の遺産は1円も入らなかった。「ボンクラ亭主が先に死んだことが、こんな結果になるとは」と稲村さんは苦笑する。

 当時、真知子さんには大学生の息子がいた。舅の孫である息子に、大学に通い続けられる程度の遺産が入ったことはせめてもの救いだったが、真知子さんには貯金も生活力もない。これからの生活を考えた稲村さんは、自分と母親が住む関西に戻らないかと提案した。

「母も年を取ってきたので、母のために買ってあったマンションで同居すればいい。そして、母のことを見てくれれば私も安心だと思ったんです」

 稲村さんの母親も、真知子さんほどではないが似たような経緯をたどっていた。父親が亡くなったとき借家住まいだったため、住み続けることができなくなったのだ。そこで稲村さんはマンションを買って、そこに母親を住まわせたというわけだ。真知子さんが同居するくらいの部屋はあるので、そこで暮らせばいいと考えたのだ。

 稲村さんの提案を受け、真知子さんは母親と同居することになった。これで一件落着。母親の老後も安心――と、思った稲村さんだったが……忘れていたのだ。母親の性格を。

「母は昔から『あなたのためだから』と、子どもを自分の言いなりに育ててきました。とにかく常に自分を優先して考える人だったので、子どもを自分の思い通りにしたかったんでしょう。子どもの頃から、習い事も勉強も、進学先も母の言うとおりにしてきたのですが、私は幸か不幸かちょっと出来がよかった。学校や塾での勉強内容が母の手に負えなくなって、母から解放されたんです。そして大学に入学と同時に家を離れたので、母の呪縛から完全に解かれました」

 ところが真知子さんは勉強ができる方ではなかった。そのうえ自己主張したり反抗したりできるような性格でもなかったので、結婚するまでずっと母の敷いたレールを走るしかなかったという。

「『あなたは何もできないんだから』という母の言葉に縛られて、自分でものごとを考えて判断する力がなくなっていったんでしょう。それで、良く言えば辛抱強くなったので、ボンクラ亭主や義父母にも従うことができたともいえるんですが……」

 真知子さんは判断力や生活力が身につかないまま結婚し、夫や義父母が亡くなると住むところもなくなり放り出された。母親の犠牲者だともいえるだろう。

 稲村さんは、そこに救いの手を伸ばした。

 少なくとも、稲村さんはそのつもりだった。

――つづきは11月24日(日)公開

坂口鈴香(さかぐち・すずか)
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終末ライター”。訪問した施設は100か所以上。 20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、 人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。 

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