認知症の父は「まったく怒らず、子どものよう」だと語る娘……「ムカつくけど一緒に過ごす」と決めた思い

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 三井麻美さん(仮名・31)は高校生のときに、まだ52歳だった父、義徳さん(仮名)が若年性アルツハイマー病と診断された。徘徊して毎回警察のお世話になり、警察からもご近所からも怒られる。自治体に相談しても解決法は示されず、義徳さんを受け入れてくれる施設も見つからなかった。

(前回:父が行方不明になって警察へーー「今どこにいるかわからない」逆探知でようやく見つけた姿は……

いつか私のことも忘れられてしまう

 義徳さんの徘徊で大変な思いをしながらも、7年も在宅介護ができたのは、義徳さんが穏やかだったからだと顧みる。

「もともと、怒りっぽい人ではありませんでした。最初のころは病院から処方された、病気の進行を遅らせる薬を飲んでいましたが、飲むと急にキレてモノに当たるようになり、飲ませるのをやめたのです。それからはまったく怒ることもなく、身体レベルも落ちず、穏やかで子どものよう。家族のこともわかっていました。問題が起きると、家族で『こんなことがあった』と話したり、父のことを知っている友人に話を聞いてもらったりしたので、ストレスをため込むこともありませんでした」

 病気だとわかるまでは、「またおかしなことを言ってる」「なんでこんなこともできないの?」と義徳さんを責めたり、顔も見たくないと思ったりしたこともあった。

「でも、病気とわかってからは、話が通じなくてイライラすることはあっても、いつか私のことも、家族のことも忘れてしまうという思いがずっと心にあり、少しでも思い出に残ることをしたいと考えるようになったんです。だからムカつくけど、海に行ったり、ドライブしたりして、父と一緒に過ごすようにしていたんだと思います」

 当時の携帯には、変顔をする義徳さんの写真がたくさん残っている。

 在宅介護が7年過ぎて、ようやく義徳さんを受け入れてくれる施設が見つかった。知り合いの紹介で、隣県の特別養護老人ホームに入居できることになったのだ。そこは自宅から、高速に乗っても1時間半かかる場所だった。

 義徳さんは「施設に入る」ということがまったく理解できていないようで、入所した日、母の典子さん(仮名・63)とともに帰ろうとして、ロックされた扉を壊してしまったという。

 それは、麻美さんの結婚式1カ月前のことだった。くしくも、と言っていいのだろうか。

「父は、結婚について理解していませんでしたし、私の彼氏という認識もなかったと思います。娘の私としてはバージンロードを一緒に歩きたかったし、ウエディングドレス姿も見せてあげたかった。それまで父は家族のこともわかっていたし、身体的にも普通に生活できるレベルでしたが、これからもずっと在宅で介護するとなると限界はある。寂しい反面、ホッとしたのも正直なところです」

 認知症の父の存在は結婚の障壁にはならなかったのだろうか。酷な質問だとは思いつつも、聞いてみた。

「私と旦那さんの実家は、偶然にも徒歩1分圏内の場所にあるのですが、学区が違うので家族どうしの付き合いもなかったんです。でも父はご近所を徘徊していたので、旦那さんの実家にも頻繁に行っていたそうです。多分面識はなかったのですが、私から旦那さんを通じて話が行っていたので、旦那さんの家族は理解してくれていたようでした。ご迷惑だったとは思いますが、結婚に関しても反対されることもなく、父が施設に入ってからも、父の心配をしてくれていました」

――続きは10月11日公開

 

父が行方不明になって警察へーー「今どこにいるかわからない」逆探知でようやく見つけた姿は……

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。三井麻美さん(仮名・31)は高校生のときに、まだ52歳だった父、義徳さん(仮名)が若年性アルツハイマー病と診断された。義徳さんは仕事を辞めたものの、デイサービスを断られ、家族が仕事でいなくなる日中は一人で過ごしていた。

(前回はこちら:認知症になった52歳の父、東日本大震災で避難所生活に

行方不明になって警察のお世話になる

 麻美さんの話を聞くと、義徳さんは認知症になってより活動的になっているように思われた。実際、麻美さん家族が在宅介護中もっとも大変だったのが、義徳さんの徘徊だった。

 日中は義徳さんが一人だったため、余計に家族の苦労は増した。

「家に帰れなくなって、探しに行っても見つからなくて捜索願を出したり、知らないご近所の家に行って、110番通報されたり……と、毎回警察のお世話になっていました。匿名の電話があって、『ちゃんと面倒をみろ!』『アルツハイマー病? そんなの知らん!』と怒鳴られることもありました。母は警察からもご近所からも叱られていました」

 冬のある日。午後から降り積もる雪のなか、麻美さんが帰宅すると、義徳さんはまだ帰っていなかった。

「携帯に電話すると、『今どこにいるかわからない』と言っていました。日も暮れているし、暗くなったら探せないと思って、警察に捜索願を出しました。私も父が行きそうな場所を探しましたが、見つかりません。最後は、警察に電話番号から逆探知してもらって、GPSを使って位置を特定して、ようやく見つけることができました。見つかったとき、同じ場所を行ったり来たりしていたそうです。帰ってきたときには、寒さで顔が真っ赤になっていました。携帯を持っていなかったらどうなっていたかと、怖くなりました」

 それでも、義徳さんは免許証を返納していたので、出かける手段が自転車や徒歩しかないというのがまだ幸いだった。家族が免許を返納させたのは、賢明な判断だったといえるだろう。とはいえ、若い頃から車とバイクが趣味だった義徳さんにとって、免許返納はどうしても納得できないことだった。

「それは抵抗していました。それを見て、祖母も自分の息子がかわいそうになったようで、『免許を取り上げるな。好きなことをさせてやれ』と反対してきたんです。そのうえ私たちが仕事でいない日中、父を連れ出して運転させていたこともあったんです。そんなことも一因になり、今は祖母との縁を切りました」

 もしものことがあったらどうしようと、家族は常にヒヤヒヤしていたと明かす。麻美さん家族は何度も義徳さんを説得し、免許センターの人からも強く言ってもらい、ようやく返納できたという。

「返納したあとも、免許証はどこだとしつこく言っていましたが、話を逸らすうちに忘れていきました」

 祖母もいわば敵。周囲から責められるなか、介護サービスや施設を利用できず、典子さんが追いつめられてもおかしくない。自治体には相談しなかったのだろうか?

「しました。が、期待にはこたえてくれませんでした。唯一のアドバイスが『ご近所に病気のことを話して、わかってもらいましょう』と。それで、母がご近所に病気のことを話しても、理解してくれるどころか、逆に怒られたと言っていました」

 施設も探した。資料を取り寄せたが、料金が高すぎたり、義徳さんが自由に動けるからと断られたりしたという。

――続きは10月3日公開

認知症になった52歳の父、東日本大震災で避難所生活に――「でも父は、逆に生き生きとしていた」

 “「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)。そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 三井麻美さん(仮名・31)は高校生のときに、まだ52歳だった父、義徳さん(仮名)が若年性アルツハイマー病と診断された。おかしな言動が多かったので、家族は「やはり」と思う気持ちもあった。

(前回はこちら:52歳の父が若年性アルツハイマーに……「まともな会話もできない」「無表情で無言」娘の感じた異変

元気だったので、デイサービスを断られた

 若年性アルツハイマー病と診断されて、義徳さんは仕事を辞めたが、三井さん家族の生活は大きく変わることはなかった。というのも、義徳さんは介護サービスを受けることもなく、毎日自宅で過ごしていたのだ。

「高校卒業後、私は就職し、母も兄も仕事に行っていたので、日中父は一人になります。デイサービスに見学には行ったのですが、体は元気で自由に動けるため、断られてしまいました。保健師さんに、障害者が働く農業関連の施設の見学を勧められて行ってみましたが、興味が持てなかったのか、帰りたがったようです」

 仕方なく、営業職だった典子さんが外回りのついでに自宅に寄って、義徳さんの様子をみていた。

 義徳さんが病気になって変わったことがあるとすれば、家族で出かけることが増えたことだと麻美さんはいう。

「父はとにかくラーメンが大好きで、毎日お昼には自転車でラーメン屋さんを巡っていました。家族誰かが休みの日には、一緒にラーメンを食べに行こうと誘われました。私は平日休み、母と兄は土日休みだったので、手分けして連れて行きましたね。私は内心、面倒だなと思いつつも、父は病気だし、普段は一緒にいてあげられないから、と自分に言い聞かせていました」

 というわけで、義徳さんとの思い出も、その頃たくさんできた。

「一番の思い出は、家族全員で温泉旅行に行ったことですかね。父はお風呂が好きだったので、楽しんでいたと思います。小さなぬいぐるみを持って歩いていて、温泉にもぬいぐるみを持って行こうとして、兄がダメだと怒ったと話していました」

 これが最後の家族旅行になった、と麻美さんはつぶやいた。

 在宅介護中、自然災害にも遭遇した。東日本大震災だ。

 麻美さんの家は、津波被害は受けなかったものの、原発事故により体育館に避難することになったのだ。認知症の義徳さんを連れての避難生活は、周囲に気を使うし、家族の心労も大きかったのではないだろうか――。ところが意外なことに、そうでもなかったという答えが返ってきた。

「父は、体育館内をウロウロと歩きまわっていましたが、特に周りに迷惑をかけることもなく、普段どおりおとなしかったですね。それどころか、逆に活躍してくれました。というのも、炊き出しの数時間前から並んでくれて、いつも一番に家族分のおにぎりやパンをもらってきてくれたんです。おそらく、家族のために並ぶというのではなく、無料で何かをもらえるということがうれしかったんだと思います。ほかにも、ボランティアの人にもらったぬいぐるみを上着に入れて持ち歩いていて、体育館では変なおじさんになっていたかもしれません(笑)」

 体育館での避難生活は1カ月に及んだ。慣れてきたころには、貸し出されていた自転車で毎日、朝から夕方まで出かけていたという。

「お風呂には週に数回しか入れなかったので、近くの温泉に行っていたんだと思います。1カ月で帰宅できたとはいえ、夜は眠れないし、ずっと咳は出るし、食べ物は3食白いご飯のおにぎりか菓子パンだったので、避難所生活は私たちにはつらいものでした。でも父は、逆に生き生きと動き回っていた気がします」

 生き生きとしていた父――想像すると、少し救われた気がした。

――続きは9月27日公開

 

52歳の父が若年性アルツハイマーに……「まともな会話もできない」「無表情で無言」娘の感じた異変

 “「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)。そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 コロナ禍で、看取りや葬儀の簡略化が進んでいる。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、終末期の患者であっても、家族の面会が制限されている医療機関は少なくない。最期の時間をともに過ごすことができず、十分なお別れができない状況に、あとあと遺族に悔いが残らなければいいのだが。

 

父と最期に会えたのはたった15分

 三井麻美さん(仮名・31)は、2カ月前父の義徳さん(仮名)を亡くした。享年64歳だった。

 病院から「危ない」と連絡があり、母の典子さん(仮名・63)、兄(39)と駆け付けたが、コロナ禍で許された面会時間はわずか15分。医師からは、誤嚥性肺炎だと告げられた。

「父は苦しそうだけど意識ははっきりしていて、この山を乗り越えれば、またいつも通り元気になるんじゃないかと思っていました」

 そんな思いもむなしく、義徳さんと会えたのはそれが最期となった。

 3日後に典子さんから、義徳さんが亡くなったと連絡が来て、義徳さんが入っていた施設に向かった。

「施設で、いつも面倒をみてくれていた担当スタッフの方に、『頑張ったから、たくさん褒めてあげてくださいね』と言われて、涙が溢れました。父が施設に入って5年。ずっと面倒をみてくださった施設の方には感謝の一言です」

 義徳さんは、若年性アルツハイマー病だった。診断されたとき、まだ52歳。麻美さんは18歳、高校生だった。

「それまでに小さな異変はたくさんありました。母が骨折しても、話しかけることもなく無表情でした。私と友人を車に乗せたとき、友人が挨拶しても無言、無表情だったので、『怖いお父さんだね』と言われたこともあります。ブドウのことを『黒い卵』と言ったり、リンゴと梨を間違えたり。同じ単語を何度も使って話してくるので、何を言ってるのかさっぱりわかりませんでした。その当時、“チラシ”とか”内緒“という言葉を連呼していました」

 病院を受診したのは、義徳さんが職場で問題を起こすようになったからだった。

「建設業だったのですが、トラックを運転して逆走したりしたようで、同業の父の友人から『脳に問題があるかもしれないから、病院に行った方がいい』と言われたんです」

 義徳さんの言動や様子から、家族も普通ではないと感じていたため、若年性アルツハイマー病と診断されてショックは受けたものの、「やはり」と納得する思いもあったという。

 一方、義徳さんはすでに症状が進んでいたため、自分が病気だということも理解できていなかった。「どこも痛くないから、病気なんかじゃない」と言っていたのを、麻美さんは覚えている。

 麻美さんは、義徳さんのことが大嫌いだったと、当時を振り返る。

「意味不明なことを話すし、まともな会話もできません。友達とはふざけて『アルツハイマーじゃない?』と笑っていたんですが、それが本当になるなんて信じられませんでした」

 麻美さんはまだ高校生。アルツハイマー病についての知識はほとんどなかった。

「このころ、渡辺謙さん主演の『明日の記憶』を見て、号泣しました。若年性アルツハイマー病を治す薬はないし、進行性の病気なので、父がこれからどうなってしまうのか、不安とショックで涙が止まりませんでした」

――続きは、9月20日公開

 

「母親と一緒にいるのが子の幸せ」? 障害のある娘を介護する親、「子どもと離れられない」と語る言葉の先

「『ヨロヨロ』と生き、『ドタリ』と倒れ、誰かの世話になって生き続ける」(光文社『百まで生きる覚悟』春日キスヨ)――そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 井波千明さん(仮名・55)には、障害のある娘、圭さん(仮名・22)がいる。

 障害がある子どもを持つまでは、人生の崖っぷちから落ちるようなものだと考えていたが、生まれてみると「今まで知らなかった幸せをたくさん知って、豊かになった」と、幸福感が増したという。

 井波さんは、圭さんが特別支援学校を卒業するころから、圭さんを社会に託し、親がいなくても生きていけるような施設を探すことを考えていた。自分たち親が老いて、圭さんの世話ができなくなったときに、圭さんの姉である長女に心配をかけたくなかったのだ。

 ところが、新型コロナウイルスの感染拡大で圭さんが通っていた作業所が休みになり、圭さんと二人で過ごす時間が増えると、圭さんと離れられなくなっていることに気がついた。これから先、一緒にいればいるほど離れられなくなりそうで、いっそ、自分たちが老いたときに圭さんと一緒に入れる終の棲家を探そうかと考えるまでになった。

(前編はこちら:義父母の介護と障害のある娘、新型コロナが変えた“距離”

離れられないのは老親の方

 そんな葛藤を、井波さんは学生時代の友人とのオンライン飲み会で吐露した。すると、その中の一人がこんな経験を語ったのだという。

「友人の義父母は、私のように障害のある息子を介護していました。友人の夫の弟で、その義弟は成人後、病気が原因で障害が残っています。義父母が70代になったころ、義弟と共倒れになることを心配した友人夫婦が、義弟を施設に入れることを提案し、義父母とも話し合って、納得してもらったうえで施設にお願いすることにしたそうです。ところが、ようやく見つかった施設が実家から遠く離れた山奥で、重度の障害のある入居者が多かったこともあり、そんなところで一生を終えることになる息子を不憫に思った義母が、入居して1年もたたないうちに実家に呼び戻してしまったんだそうです」

 施設退去時に迎えに行った友人夫婦が見たのは、入居していた数カ月の間に親しくなった、ほかの入居者や職員と泣いて別れを惜しむ義弟の姿だった。

「施設の職員さんは、そんな姿を見て『お母さんが離れられないと、難しいですね』と言ったそうです。友人の義弟は20代で障害を負ったので、義母は息子がかわいそうだという気持ちがより強くなったのではないか、と友人は言っていましたが、圭と離れられなくなっている自分のことを言われているようで身につまされました」

 親子が離れたほうがよいと客観的に考えられる段階で離れることができないと、最終的に親が老いて、親子とも身動きが取れないところまで行ってしまう。そして、残った兄弟姉妹に負担をかけることになる。筆者も、親子それぞれの施設探しに奔走する兄弟姉妹を何組か見てきた。幸い、井波さんの友人の場合は、その後、実家から近いところに施設が見つかった。義父母は80代になっており、もうこれ以上自宅での介護は無理なことを義母も認識していたようで、義弟を施設に入れることをすんなり承知したという。

 ところが井波さんの住む市には障害者施設が少なく、あったとしても友人の義弟が最初に入ったところのような、へんぴな場所にしかない。障害者施設に入るのは、高齢者が特別養護老人ホームを探すよりも難しいのだという。

 そんなこともあり、井波さんは圭さんが入れる施設を探す踏ん切りがつかなかったのだが、友人の話を聞いて一歩を踏み出す決心をした。といっても、施設探しではない。子離れの一歩だ。 

「障害者向けのヘルパーに登録したんです。圭の送迎があったり、ホームにいる義父母のところからいつ呼び出されるかわからなかったりすると細切れ時間しかないので、働くことに躊躇していたんですが、圭と同じ障害者向けのヘルパーなら、それくらい時間でも働けそうだったので、思い切ってやってみることにしました」

 今も圭さんと一緒にいたい気持ちは変わらない。でも、その気持ちは「圭は自分と一緒に生活するのが一番幸せで、他人と生活すると苦しい毎日になるんじゃないか。体を壊してしまうんじゃないか」といった不安からではないかと、冷静に自分を見つめることができるようになった。

「子どもは母親と一緒にいるのが一番幸せ、って、母親のただの思い上がりですよね」

 それが正しいのかどうかはわからない。でも、そう思えるようになっただけでも、井波さんにとっては大きな変化なのだ。

 障害者の親としての経験があるから、ヘルパーとして障害者に寄り添うことができるはずだと、くだんの友人は背中を押してくれたという。井波さんなら、仕事にも新しい幸せを見つけられるに違いない。

老人ホームの面会禁止で「罪悪感から解放された」――義父母の介護と障害のある娘、新型コロナが変えた“距離”

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 新型コロナウイルス感染リスクを減らすために、人との距離を取ることを求められるようになった。それをきっかけに親や子どもとの関係を考えるようになった人は少なくない。

義父母を施設に預けた罪悪感

 井波千明さん(仮名・55)は、この新型コロナウイルスの影響で有料老人ホームにいる義父母と面会ができなくなった。以前、「認知症の夫に“熟年離婚”つきつけたワケ……」「高齢者住宅で女たちの大ゲンカ勃発!」で登場してくれた井波さんだが、義父母の様子を気にかける一方で、こんな思いも打ち明けてくれた。

「義父母を施設に預けてしまったという罪悪感がずっとあり、せめて会いに行って話し相手にならないといけないと思っていました。でも時間を決めて、面会の時間をつくることまではしていなかったので、『もっと行かないといけない』と、また罪悪感におそわれていたのですが、このコロナで面会禁止となり、私は後者の罪悪感から解放されたんです」

 「これは私の心の闇ですが」と静かに笑う。

 義父母とは会えないが、障害のある娘、圭さん(仮名・22)と一緒に過ごす時間は増えた。

 井波さんは、圭さんを連れて義父母のいるホームに面会に行ったとき、義母の“天敵”女性に、「あれが、あの人の孫よ」と陰口をたたかれたことがある。それからは、義父母にイヤな思いをさせまいと、圭さんをホームに連れていくのをやめた。でも、それは圭さんへの愛情とはまったく関係ない。障害のある子がいることはかわいそうなことではないと言い切る。

「圭が生まれる前までは、障害を持つって、人生の崖っぷちから落ちるくらいに思っていたんですが、いざ障害児の母になってみると、『地球は丸かったんだ。海の向こうにもずーっと土地は続いている』というような気持ちが生まれたんです。うまく言えないのですが、人生はどこまでも普通に続いているんだな、と」

 この感覚は、人に伝えるには難しいし、ややこしい表現だなと思っていたという井波さん。だからあえてそんな思いを人に説明することはしてこなかった。

「それが先日、若くして認知症になった方が、自分の病気のことを『不便だけど、不幸じゃない』とおっしゃっているのを耳にしたんです。その瞬間、それそれ! まさに私の『海の向こうにも土地は続いている』という感覚だとストンと胸に落ちたんです。不幸じゃないというより、むしろ圭を生んだことで、今まで知らなかった幸せをたくさん知って、豊かになったというんでしょうか。皆さんには信じられないかもしれないけれど、圭が生まれて、私の幸福感はアップしたんです。この幸福感、これまで人にどう伝えたらいいんだろうと、ずっと模索していましたが、ようやくしっくりくる表現に出会ったと思いました」

  若くして認知症になることを「不幸じゃない」と言い切ることができるのもすごいことだと思うが、正直なところその感覚は想像がつかない。でも井波さんの言葉を聞くと、なんとなくではあるが、理解できる気がしてきた。

「今まで、『こちらが良い。こちらはダメ』と優劣をつけていたことは、まったく無意味だとわかりました。たまに甘いものを食べたときに感じる喜びみたいな幸せが、実はたくさんあるということに気づいた、というか……」

 これまで自分でつくっていた“柵”から解放されたような気持ち、というのが井波さんの幸福感なのだそうだ。

「障害のある子がいて大変だろう」と思うのは、“海の向こう”を知らない人間の偏った見方に過ぎない。相模原障害者施設殺傷事件で、被害にあった方の親の言葉のいくつかが、井波さんの言葉で腑に落ちた気がした。

 そんな井波さんには今、別の葛藤があるという。

 井波さんは圭さんが18歳で特別支援学校を卒業したころから、圭さんを社会に託して、親がいなくても生きていけるような施設を探すことを考えていた。自分たち夫婦が老いたり、どちらかが亡くなって、ひとりで圭さんの世話ができなくなったりしたとき、圭さんの姉である長女に心配をかけたくないという思いがあったのだ。

 それがこのコロナ禍で、心境に変化があった。

「福祉作業所に通っていた圭が自宅にいることになり、二人で過ごす時間が格段に増えました。圭が私の手の届くところにいる幸せを感じていることで、私のほうが圭から離れられなくなってしまっているんです。これから先、圭と一緒にいればいるほど、離れられなくなりそうな気がしています」

 いまや、圭さんと自分が一緒に入れる終の棲家はないかと考える始末だと苦笑する。

「圭にとっては、私が離れる方がいいのかもしれないと、頭ではわかっているんですが……」

(後編は8月30日公開)

「兄を家族として認められたかも」両親の介護で変わった、生活保護の43歳・兄との関係

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 中村万里江さん(仮名・35)の父博之さん(仮名・68)は4年前、クモ膜下出血で高次脳機能障害を発症し、今は有料老人ホームに入居している。母の晃子さん(仮名・68)は、2019年にステージ4のがんが見つかり、今年になって主治医から終末期に入っていることを告げられた。両親の今後のことを考え、家族信託について調べていた中村さんは、晃子さんの通帳から多額のお金がネットワークビジネス運営会社に振り込まれているのを見つける。

 しかも、同じ会社が関係する瞑想グループにも入り、その仲間が精神的な支えとなっていたのだ。晃子さんと話し合った結果、ネットワークビジネスをやめることはできたが、瞑想グループから抜けることはできず、中村さんの心労は続いている。

(前回はこちら:ネットワークビジネスの仲間を断ち切れない母――「怒りが湧く。自宅に来るのが怖い」介護する娘の心労

終末期の母のために家族が集まった

 現在、晃子さんは自宅で療養しており、中村さんは夜は実家で寝るようにしている。

 晃子さんのこれからについて、中村さんはいくつかの選択肢を調べているところだ。そのひとつがホスピスだ。

「母はホスピスに対して、死ぬところというイメージを持っているようですが、見学してみるとこれまで入院してきた外科とはまったく違いました。母は明確に『最期は自宅で』と意思表示しているわけではないので、本当につらくなってから決めるというのでも、いいかなと思っています」

 そして、晃子さんが博之さんともいつ会えなくなるかもしれないと、家族で集まることにした。

「まず、私一人で父のホームに行って、母の病状を説明して、いつ最期になるかもしれないことを伝えました。その後に、関西から帰ってきてくれた兄と母を連れて、父のところに行きました。兄には母が終末期であることを伝え、帰ってきてくれないか聞いたら、アルバムを持って帰ってきてくれたんです。みんなでアルバムを見て、思い出話もできました」

 ところが、博之さんは晃子さんの病状を理解したせいか、余計に「家に帰りたい」病が出てしまったという。

「もう、父の『帰りたい』にも慣れた気がします。母が自宅にいるというと、パニックがひどくなるので、今は母が病院にいることにして、『家には母もいないし、鍵も持っていないから帰れないよ』と伝えています」

 晃子さんも、博之さんが一時帰宅すると、「もうホームに戻らない」と言い出して手が付けられなくなることがわかっているので、一時帰宅に前向きではないという。とはいえ、晃子さんの免疫療法の結果次第では、博之さんを一時帰宅させることも検討するかもしれないと、揺れる気持ちを語ってくれた。

「先日、父が家に帰ろうとしてホームから抜け出そうとすることについて担当医に相談しました。すると、先生から『一時帰宅させてみてはどうか』と提案されたんです。先生が父に一時帰宅の話をすると、表情が明るくなったということでした。でも父がいったん帰宅すると、『もうホームに戻らない。家にいる』と言い張るだろうし、大きな声を出して暴れるでしょう。母もそれを懸念しています。一番体調の悪い母が父の一時帰宅を前向きに考えられない限り、実現は難しいと思います」

 ただ中村さんが気にしているのは、博之さんがパニックを起こしてホームに迷惑をかけているんじゃないか、ということだ。隙を見て逃げ出そうとする博之さんを、中村さんが止める責任があるのではないか。そんなプレッシャーがあるのだと明かす。

「そんな思いをあるスタッフにこぼしたら、その方が『ここにいるほとんどの方が帰りたいと言われます。そのたびに声をかけて対応しているので、慣れています。大丈夫ですよ』と言ってくださったんです。ああ、ホームにお任せしていいんだと安心できました」

 ほんのちょっとした言葉で、家族は救われる。

兄は協力できる家族の一員

 さて、中村さんが家族で集まりたいと言ったときに、素直に帰ってきてくれた兄(43)だったが、兄のことは相変わらず中村さんの不安材料になっている。当シリーズ初回の記事で書いたように、一時期引きこもっていた兄は現在生活保護を受けながら、関西で暮らしている。

「頼んだことについては、前向きにはやってくれていますが……。でも、どうも親が亡くなったら、遺産がもらえると思ってあてにしているフシがあるんです。だからこちらに帰ってきたときに、我が家の現状をはっきり伝えたんです。母がネットワークビジネスに大金をつぎ込んで、貯金はほとんど使い果たしていること。父のホームには月に40万円も払っていて、お金が底をついたら家も売らないといけないと考えていること……。兄は生活保護を受けているのを恥じていて、できれば抜けたいとも思っているようですが、生活保護でも自立して生活できていることは立派なことなんだと、伝えました」

 今も兄のことをそんなに好きではない、という中村さんだが、これで兄との距離が少し近づいた気がしている。

「兄のことを、協力できる家族の一員として認めることができたかな」

 大人だ。大人すぎる……。しっかりした妹の役割を果たそうとして、中村さんが自分を追い込まないとよいのだが。

 それは大丈夫、と中村さんは言い切った。

「困ったことがあると、仲間に頼るようにしているんです。一人で考えていても出ないアイデアも出るんです」

 2回目の記事で述べたが、今取り組んでいる東南アジアでのコミュニティづくりのように、日本でも家族以外の仲間に子育てや介護を頼ることのできるコミュニティがあればいいと考えている。

「30代で、親の介護を経験している人はそういません。壁にぶつかってどうにも動けなくなった、私と同じような状況の人とつながりたいと思って、インスタグラムもはじめました。発信するだけじゃなく、自分の記録にもなるし、友達もできる。自分の生活と介護のバランスを取るための手段でもあるんです」

 ありきたりだが、中村さんにとってこの経験は、絶対に糧になる。そして、中村さんに救われる人も、きっといる。誰かのためにがんばった人は、いつか必ず報われる。

 中村さんに平穏な日が訪れますように、と祈らないではいられない。

「母がネットワークビジネスにハマっていた」がん終末期に明らかになった、“常軌を逸した”投資金額

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。30代で両親を介護する中村万里江さん(仮名・35)の話を続けよう。

 中村さんの父、博之さん(仮名)は2016年、64歳のときにクモ膜下出血で高次脳機能障害を発症し、母の晃子さん(仮名・当時64)と一緒に介護をしていた。引きこもっていたことのある兄(43)は、関西で生活保護を受けながら暮らしている。事故で軽い高次脳機能障害を負ったものの、一人暮らしができるくらいに回復してホッとしたのもつかの間、2019年、晃子さんにステージ4のがんが見つかる。

 晃子さんが胃のバイパス手術をするため、博之さんをショートステイに預けたが、施設からは厄介者扱いをされ、博之さんが安心して暮らせる有料老人ホームを探して移ることになった。

前回:「お母さんに告知しますか?」がんステージ4の母、要介護4の父

母も私も一人暮らしを続ける

 博之さんの居場所は見つかった。晃子さんもいったん退院して、訪問看護と訪問介護を利用しながら自宅で生活することになった。ただ抗がん剤治療を始めたが、晃子さんの状態が悪くなり、中止せざるを得なかった。

「一人暮らしになった母が自宅のお風呂場で転んで、脱臼骨折して病院に運ばれたこともあります。私が実家に戻ることも考えましたが、自分の精神状態を健康に保つためには、一人になれる空間は絶対に欠かせない。それで私も母も一人暮らしという形を続けています」

 ホームにいる博之さんは時折「家に帰りたい」病を起こして、ホームを抜け出そうとする。「帰りたい!」と思ったら、ひたすら何十回も叫び続けるのだという。

「失語症とはいえ、何か言いたいことがあると、その単語は出てくるようです。こちらが理解できるレベルではありませんが。ちなみに、こちらが言うことをどれくらい理解できているかもわかりません。『メガネを取って』と言って、足が出たりしますから(笑)」

がん終末期に入った母。通帳を見ると……

 そんな小さな事件はあるものの、中村さん家族の状況はいったん落ち着いたと思われた。が、今年3月に晃子さんの体調が悪化した。

「食べ物を吐いてしまうようになり、病院に行ったところ、がんが大きくなって食べ物が通る道をふさいでいることがわかり、詰まった食べ物を取り出す処置をしてもらいました。固形物がとれなくなったので栄養剤を出してもらうことになり、その際主治医から『終末期です』と告げられました」

 終末期――とはいえ、主治医から「免疫療法があるので、やってみませんか」と提案された晃子さんは、免疫療法を受ける決断をする。今は、2週間に1回点滴を受けているところだ。

 中村さんの話を聞く限りでは、晃子さんは悲観することも、取り乱すこともなく、淡々と病気や治療に向き合っているように思える。自分が終末期を宣告されたら、晃子さんのように強く、前向きにいられるだろうか? 中村さんの話を聞きながら自問した。晃子さんの強さはどこからきているのだろうか。そんな問いに対して、中村さんは晃子さんをこう分析する。

「母は以前から『人間、いつ死ぬかもしれない』と言っていました。もともと病気になる前から、気功とか、見えないものへの興味が強かったんです。母は教員だったんですが、退職後に気功などで健康維持をする勉強をして、人に教えるようにもなっていました」

 それが、“常軌を逸して”いたことが判明したのは、晃子さんが終末期と宣告されたこの3月のこと。

「入院していた母から、たびたび『健康食品を持ってきて』と言われるのが気にはなっていました。ちょうど同じころ、両親の今後のことを考えて、家族信託など両親の金銭管理について調べていました。そういうことに詳しい知り合いから、『母の資産がわかるデータを集めて』と言われて通帳を調べたところ、父が倒れる前から多額のお金を健康食品の販売会社に入金していたことがわかったんです。それと並行して、『夢に向かってがんばろう』的な瞑想グループにも入っていて、同じ会社が関わっていたことがわかりました。

 母はその仲間と毎日連絡を取っていて、皮肉なことにそれが母のポジティブさの原動力となっていたんです。もともと化粧水とか美顔器などのネットワークビジネス的なことをやっていたのは知っていたんですが、単に母が自分で利用するレベルだと思っていたので、口出しはしていませんでした。それが、父が倒れて、自分もがんになって、投資する金額がどんどん増えていったようでした。母は教員をやっていたので、結構な額の貯金もあったんですが、そのほとんどをその会社につぎ込んでいたんです」

 さすがの中村さんも、ショックが大きかった。

――続きは7月26日公開

 

「お母さんに告知しますか?」がんステージ4の母、要介護4の父――30代女性が抱えた両親の介護

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。前回に続き、30代で両親の介護に直面している中村万里江さん(仮名・35)の話をお届けしたい。

 中村さんの父博之さん(仮名)は2016年、64歳のときにクモ膜下出血で高次脳機能障害を発症し、母の晃子さん(仮名・当時64)と協力して介護をしていた。引きこもり経験のある兄(43)は、関西で生活保護を受けながら暮らしていたが、事故で軽い高次脳機能障害を負った。幸い、リハビリで一人暮らしができるくらいに回復してホッとしたのもつかの間、今度は晃子さんの体調が悪くなった。2019年頭のことだ。

(前回はこちら:要介護4の父と生活保護の兄……30代女性が背負った“家族”と“介護”の現実

母はステージ4のがんだった

 「食欲がない」と病院を受診し、検査した晃子さんにステージ4のがんが見つかった。そのうえ、腹膜播種(はしゅ)も起こしていたという。腹膜播種とは、がん細胞が臓器の壁を破って、腹膜に広がっている状態だ。

「今の時代には珍しく、母本人ではなく、私と伯母が先生から母の病状について説明を受けました。それで『お母さんに告知しますか?』と。伯母は言わない方がよいと言ったんですが、私は告知を選択し、翌日先生からあらためて母に告知してもらいました。先に自分が知らされるってイヤですね……」

 抗がん剤治療ができること、そして食べられない状態を改善するために、胃のバイパス手術をすることを提案された。

 晃子さんが手術のために入院するとなると、問題は博之さんの介護をどうするかだ。そこで、中村さんは博之さんをショートステイにお願いすることにした。それまでも、晃子さんが旅行するときなど、博之さんをショートステイに預けていたので気軽にお願いしたが、晃子さんの入院、手術にかかりっきりになったため、博之さんは施設へ“預けっぱなし”という状態になっていたという。

「父が大声で騒ぐ」施設スタッフからの連絡

「そのうち施設から、『父が大声で騒いで、ほかの利用者さんがびっくりしている』という電話が頻繁にかかってくるようになりました。『精神を安定させる薬を出しますか?』とも言われました。これは、出ていけということだろうか? と。ケアマネに相談すると、父が訴えていることをスタッフが解決できれば、落ち着くはずだというんです。つまり、父と施設スタッフの関わり方次第でもっとうまくやれるんじゃないか、ということ。しかし、施設としてもスタッフが足りていないので私に来てほしいと……。そんな経緯があり、父が安心して暮らせる場所を見つけたいと思うようになりました」

 中村さんは、博之さんの施設探しをはじめた。ホーム紹介会社から紹介された有料老人ホームをいくつか見学したが、気に入るところはなかった。

「そんなとき、知り合いがホーム紹介会社を立ち上げたと言っていたのを思い出して、相談してみたんです。すぐに会ってくれて、まずは父の経済状況を把握してそこから施設を絞りなさいと。それから具体的なホーム探しのポイントを教えてくれました」

 このアドバイスが奏功し、間もなく博之さんのホームが決まったという。

「入居者が“ぐでーん”としてないように見えたこと、それから入居者が企画、運営するクラブ活動があったことが決め手になりました。父は社交的な人でしたが、施設は父より年上の方ばかり。それがイヤでデイサービスに行くのも拒否していたくらいだったので、施設でほかの入居者さんたちとうまくやっていけるかが心配でした。でも、そうしたクラブ活動があるようなホームなら大丈夫じゃないかと思えたんです」

 優先順位の筆頭だった予算、ホームの費用はどれくらいかかっているのだろうか。聞いてみたところ、「前払金ゼロのプランで、月額40万円」という答えに驚いた。これは高くはないだろうか?

「高いです。正直なところ、そう遠くない時期に手持ち資金は底をつくのが見えています」

 経済状況を第一に考えるようにアドバイスされたはずなのに、これだけ頭の回転の速い中村さんがそこだけ見落としたとも考えられない。どういうことなのか?

「実は、今の仕事と並行して、大学時代の恩師が取り組んでいる事業プログラムの手伝いをしているんです。それが、日本で生きづらさを抱えている人たちが東南アジアにコミュニティをつくって暮らすというものです。高次脳機能障害を持つ父が、まさに生きづらさを抱えているし、引きこもり経験のある兄もそう。父は海外が好きなので、このプログラムが実現すればそこに移住してハッピーに暮らせるんじゃないかという目算があったんです。それで、今のホームは高いとは思いつつ、終の棲家にするつもりはなかったので、費用については目をつぶったんです。ところが、このコロナ禍で事業がストップしてしまっていて、どうしたものか、悩んでいるところなんです」

――続きは7月19日更新

「突然大声を上げて怒り出す」要介護4の父と生活保護の兄……30代女性が背負った“家族”と“介護”の現実

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 多くの親が「ヨロヨロ・ドタリ期」に入るのは、この超高齢化社会においては80代から90代となっている。もちろんそれに合わせて、介護する子どもも60代、ときには70代となっていく。「老老介護」だ。

 その一方で、若いうちから親の介護に直面する子どももいる。今回ご紹介するのは、中村万里江さん(仮名)。35歳という若さだ。中村さんの両親もまだ60代。介護の話を聞くのが申し訳なく思えるほどだが、中村さんは思いのほか快活な女性だった。

 介護をしているから暗い、というのは偏見であることはじゅうぶん承知している。それでも、もし自分が中村さんの立場に置かれたら、とてもこんなに明るくはふるまえないだろうと思う。

父のパニック症状に戸惑う

 コトのはじまりは、2016年。中村さんの父、博之さん(仮名・当時64)がくも膜下出血で倒れたのだ。

 「頭が痛い」と訴える博之さんに、母の晃子さん(仮名・当時64)はすぐに救急車を呼んだ。搬送された病院で手術、2カ月ほど入院したのちにリハビリ病院に移り、3カ月機能訓練を受けた。

 自宅に戻った博之さんは、左半身のマヒと、高次脳機能障害で要介護4と認定された。入浴介助はヘルパーが必要だったが、トイレや食事は自分でできていたというので、身体状況はそれほど深刻ではなかったといえるだろう。

「ただ、失語と半側空間無視(※1)がありました。発することのできる言葉は『はい』くらい。でも数字と曜日だけには強いんです。不思議ですよね。母と私は、父がときどき起こす“感情失禁”(※2)といわれるパニック症状にとまどいました。もともと声が大きい人だったこともあり、何かに対して気に入らなかったり、イライラしたりすると、突然大声を上げて怒り出すんです」

※1 視力に問題がないのに、目にしている空間の半分に気が付きにくくなる障害
※2 ちょっとしたことで突然泣いたり、怒ったり、笑ったりするなど、場に応じて感情を抑制することができず、人前で表出してしまう状況

 中村さんはずっと海外で働いていたのだが、博之さんが倒れた頃は仕事を辞めて帰国、実家に戻っていた。晃子さんとともに博之さんの介護に当たることができたのは、晃子さんにとっては幸運だったといえるだろう。二人で試行錯誤しながら、博之さんへの対応の方法を編み出していった。

「感情的になったらいったんその場を離れる。それから父に何が言いたいのか聞いても、答えられないので、質問するときには『はい』『いいえ』で答えられるようにしました。ただ、何でも『はい』なんです(笑)。なので『はい』の言い方で、答えを推測することができるようになっていきましたね」

 とはいえ、中村さんにとって、常に博之さんのそばにいるのは楽なことではなかった。再就職した中村さんは、博之さんが倒れて2年後、実家から自転車で5分の場所で一人暮らしをはじめる。こうして、晃子さんをサポートしつつ、博之さんを介護する体制が整っていった。

 そんなとき、中村さんのもとに兄(43)が事故を起こしたという連絡が入った。

「兄は就職氷河期世代で、大学卒業後、就職がうまくいかず引きこもっていました。親が就職させようとしたのですが、それもダメ。借金をつくって親が肩代わりしたこともあります。兄の問題で家族会議をしても、父は怒る、母は兄をかばう。私が冷静に場を仕切る、というような関係だったんですが、その後、私は海外に行ったこともあり、兄とは距離を置いていました。日本に戻ってきたときには、兄は関西にいて、生活保護を受けながら、自分のように生きづらさを抱えている人にカウンセリングのようなことをしたりして生活していたようです。自分が生きづらさを抱えている当人なんですけどね(苦笑)。それでも生活保護を受けながら、なんとか自立して暮らせてはいたんです」

 そんな兄を心配した晃子さんが、家に戻したいと言ったこともある。中村さんは、そうなると晃子さんが兄を支援しすぎてまたダメにしてしまうだけのような気がして、「兄を戻すのなら、もう私は二度とかかわらない」と言って反対したという。

「そういうわけで、兄は関西で暮らしていたんですが、警察から『兄が事故で入院している』という連絡が来たんです。自転車による自損事故だったようです。駆けつけてみると、かなりカルチャーショックを受けました。警察の方によると、兄が暮らしている場所は関西のなかでも特に治安の悪い地区だということでした。私が働いていた国も、先進国とは言えませんが、そういう世界ともまた違う。そんな場所で兄は暮らしていたんです。おまけに、事故によって外傷性クモ膜下出血を発症していました。幸い、そう重症ではなく、リハビリをして退院することができました。本人は昔より記憶力がなくなったと言っていますが」

 兄よりも8歳も年下ながら、しっかりした妹だ。しっかりせざるを得なかったというべきか。ともかく、兄の問題はこうしてなんとか落ち着いた。と思う間もなく、今度は母・晃子さんの体調が悪くなる。博之さんが倒れて3年後、昨年の頭のことだった。

――続きは、7月12日(日)更新