「わが母ながら立派」と思っていたが……同居する弟夫婦は「他人以下」、父の介護に一人で取り組む心情は聞くに聞けない

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。前回、「母のおもらしが増え、家中が臭くなり、怒鳴る父……変わってしまった実家に娘の複雑な思い」で、免許返納を父親に言い出せないと悩む娘を紹介したが、この記事を読んだ方から「我が家も同じような悩みを抱えています」という声をいただいた。高齢の親が車を運転している、辞めさせたいがなかなか難しいという子どもの悩みは本当に多いと感じる。

自己流認知症ケアに取り組む母

 声を寄せてくれたのは、首都圏に住む江口静香さん(仮名・58)。80代の両親は北海道で弟家族と同居しているという。

「父は5年ほど前に認知症だと診断されています。両親は昔から仲が良くて、母は父が認知症になってからも根気強く父の言葉に耳を傾け、いつも優しく接していてくれています。わが母ながら立派だなと思っていました」

 母親は昔から好奇心が強く、勉強家だった。父親に対する思いも強かったのだろう。認知症に関するたくさんの本を読んでは、状態の改善に効果があるという方法を片っ端から試した。脳トレはもちろん、音読や体操は毎日行っているようだし、歌を歌ったり、時には一緒に料理をしたりもしている。

「今、母が熱心に取り組んでいるのが、ユマニチュードとかパーソンセンタードケアと言われる認知症ケアの手法です。といっても、自己流なので“もどき”だと思いますが、介護職向けの本も読んで実践しているんです。母の解説によると、それらのケア手法はとにかく認知症の人を中心に据えて、本人の言うことを否定せずに、意思を尊重するのが大事だということで、最近は父のやりたいことに付き合うというのが母の日課になっているみたいなんです」

 80代とは思えない母親の旺盛な知識欲に頭が下がるが、江口さんにとってはそれが悩みの種だという。というのも、“母親流パーソンセンタードケア”によって、母親が運転する機会が増えたからだ。

「父の希望はできる限り叶えるのがパーソンセンタードケアだと母は思い込んでいて、父がどこかに行きたい、何かをしたいと言えば、母がその通りにしています。床屋に行きたい、買い物に行きたい、子どもの頃に行った場所に行きたい……と父が言うたびに、母が車を運転して連れて行っているというんです」

 幸いなことに父親は認知症と診断されたときに、免許証は返納している。そしてこちらは幸か不幸か、母親はこの年代の人には珍しく運転免許を持っていたので、母親が父親の足代わりとなっているのだ。

「実家のある町では、高齢者が免許を返納するとタクシー券を5万円分くれるのですが、北海道では5万円なんて、数回タクシーを利用すればもうなくなってしまいますよ。実家から隣家に行くのだって、車で行かないといけないくらいなんですから」

 江口さんはため息をつく。おまけに、最近になって父親は「俺は認知症じゃない」と言い出した。そのうえ、「免許を返納したのは間違いだった」とまで言うようになったという。

「怒って、母に詰め寄ることもあるようです。それで母はなおさら父の足にならないといけないと思ってしまっているようなんです」

 母親も免許返納をまったく考えていないわけではない。

「『今年は免許を返納する』と母も毎年言っていたのですが、あと1年だけ、もう1年、と先延ばしにしているうちに、“母流パーソンセンタードケア”で免許返納はさらに難しくなってしまったんです」

 母親の自己流パーソンセンタードケアの効果か、父親の認知症はそう進行していない。だが、母親まで運転できなくなると両親は完全に引きこもってしまうだろう。そうなると父親の認知症は一気に進むのではないかと、それも心配だ。

 さらに、江口さんを悩ませているのが両親と同居している弟夫婦との関係だ。父親の言動や母親の行動が同居している弟夫婦に知れたら、より関係がこじれてしまのではないかと危惧する。

「母が父のためにがんばらざるを得ないのも、弟夫婦が両親のことをまったく顧みないからです。農家だから日中は忙しいというのもありますが、そうでなくても両親とはほとんど接触がありません。ただ一緒に住んでいるというだけで、両親が事故に遭っていても、家で倒れていても気づかないんじゃないかと思うくらい。こうなるともう他人以下ですよね」

 母親と電話で話せるのも、弟夫婦がいない昼間だけだ。夜は弟家族に気を遣って、電話をすることさえままならないという。

「何のための同居なんでしょうね。そういう私だって遠くにいて何もしてやれない。心配することしかできなくて、もどかしいです」

 知性派の母親の趣味は短歌だ。地元の新聞に投稿しては、掲載されたと江口さんにコピーを送ってきてくれる。

「その短歌がまた切ないんです。年を取ることの悲しさや、認知症が進む父のことが切々と詠まれていて、つらくなります。母が運転していることがわかる歌もあるので、批判されるんじゃないかとヒヤヒヤすることもあります。こんなご時世ですからね」

 心情が吐露された短歌を娘に見せて、どうしてほしいと思っているのか、江口さんは母親の真意をはかりかねている。聞きたいけれども怖くもある。聞くに聞けないと苦笑した。

母のおもらしが増え、家中が臭くなり、怒鳴る父……変わってしまった実家に娘の複雑な思い

 “「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 今野八重子さん(仮名・56)の両親は2年前まで元気に農作業をしていたが、母の昌子さん(仮名・78)が認知症を発症した。父の次郎さん(仮名・79)が家事や介護をしていたが、農業も続けられなくなったうえに昌子さんのトイレの失敗が増えるなどして、苛立ちが募るようになった。

 様子を見に実家に通いたい今野さんに、夫は「介護は同居する嫁がすべき」と言い、今野さんにも同居する弟夫婦への遠慮があり行きづらい。葛藤を抱えながら過ごしていた。

▼前回はこちら▼

田舎にホーム選びの選択肢はない

 それから半年ほどのち、昌子さんの状況が変わった。有料老人ホームに入ることになったのだ。

「母のおもらしが増えて、家中が臭くなり、とうとう弟が我慢できなくなったんです。リハパンを穿かせても気持ち悪いようで、脱いでしまう。そして、そのまま何も穿かないでウロウロしてはおもらしをする。それを見て、父が母を怒鳴る。デイサービスの準備もできない……と、皆が限界になってしまったんです」

 ホーム探しはそう苦労しなかったという。実家近くにホームは1カ所しかなかったからだ。

「家から近いのが条件だったので、迷うことなくそこに決めました。いろいろ比較して悩めるのは都会の話。贅沢な悩みですよ」

 都会ではないからか、利用料金もそう高くないのは幸運だった。月額20万円ほどで、農地の一部を売った資金で賄えば数年はもつ計算だという。

 しかし、ホームに入った昌子さんはあっという間に今野さんの顔がわからなくなった。コロナ禍でもあり、面会時間は15分だけ。娘のことを忘れてしまった昌子さんと会うのは、複雑な思いがある。

「ホームに入るということを母がどれくらい理解していたかはわかりません。ショートステイに行くくらいの気持ちだったんじゃないでしょうか。時々帰りたいと言っています。ホームにいるうちに要介護3になったので、早く特養に移したいと思っているのですが……」

父がアクセルとブレーキを踏み間違えた

 昌子さんに苛立っていた次郎さんはどうしているのか――今野さんに聞いてみると、表情を曇らせた。

「実は、父も認知症じゃないかと怪しんでいるんです。記憶がはっきりしないことが増えましたし、何より心配なのは車の運転です。先日、孫と一緒にラーメンを食べに行ったらしいのですが、アクセルとブレーキを踏み間違えたというんです」

 今野さんもショックを受けたが、次郎さんが一番ショックを受けたようだった。追い打ちをかけるように、弟は「免許を返納しろ」と怒鳴った。弟の怒りも無理はないと言いながら、今野さんは次郎さんに同情する気持ちもある。

「弟は私にも父に車の運転を辞めるように言ってくれと言うのですが、田舎なので車がないと何もできなくなるんです。通院や買い物も一人では行けないので、私には父から車を取り上げることはできません」

 次郎さんは昌子さんがホームに入ったので、再び米づくりをする気でいる。

「父は農業が生きがいなんです。少々記憶が悪くなっていても、長年農業をやってきた父なら米づくりもできるでしょう。トラクターを運転するためにも免許は必要なので、なおさら免許を返納してとは言えないんです」

  今野さんは逡巡する。そして、夫にイヤな顔をされながらも、たびたび足を運んできた実家に行く回数も減りがちになってきた。

「父には申し訳ないのですが、母が家にいなくなると実家への足も重くなってしまいました。時々父の昼ご飯を買って、顔を見に行くのが精いっぱいです」

 弟夫婦は働いているので、日中は次郎さん一人だ。食事も相変わらず、弟家族とは別にしているという。

「父は食べ慣れない若い人向けの食事はイヤだと言うし。それでもコンビニ弁当よりはいいと思うんですが」

 今となっては、両親が弟家族と同居していてもあまりメリットはなかったと思う。

 結局、母親がいるところがふるさとだったのだろう。実家に行きたくない気持ちを奮い起こすように、実家近くに住んでいる友達と会う約束をしてから実家に行くようになった。

「何か楽しみがないと、つらくて……」

 結果的に、今野さんが実家に足しげく通うのを嫌がっていた夫に従う形になってしまった。「皮肉なものですね」とさびしく笑った。

実家の将来は“安泰”と思っていたが……「おかしいなと思った」母の言動と、あっという間に崩れた生活

 “「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 これまで、晩年になって大きく変わった夫婦の関係をいくつかご紹介してきた。変わるのは夫婦関係だけではない。当然のことながら、子どもと老親の関係も変わっていく。子どもにとっては、いつまでも親は親だ。それでも、親が老いていくと変わらざるを得ないものがあるのもまたつらい現実だ。

実家の将来は安泰だと思っていた

 今野八重子さん(仮名・56)の実家は、車で1時間ほどのところにある。昔ながらの農村地帯で、父親の次郎さん(仮名・79)と母親の昌子さん(仮名・78)も長年米や野菜をつくってきた。両親と同居している弟夫婦は共働き。晩婚だったので子どもは小さかったが、両親は健康で農作業もまだ十分現役で続けられそうだったし、農繁期には弟も両親を手伝っていた。今野さんは頻繁に里帰りしては米や旬の野菜をもらって帰ってきており、いわば“いいとこどり”の生活に満足していた。実家の将来は安泰だと思っていた。

 そんな安定した生活が崩れるのは、あっという間だった。異変を感じたのは2年前の年末のこと。

「毎年、実家でとれた餅米で、一族総出で餅つきをするんです。その采配をふるうのは母。私や弟夫婦の出る幕がないくらいでした。それがこの年、母は餅つきの手順がわからなくなったんです。おかしいなと思って、父が病院に連れていったら、認知症と診断されました」

 今野さん家族のショックが大きかったのは言うまでもない。それから昌子さんはふさぎ込むようになり、坂道を転げ落ちるように状態は悪化していった。何度も同じ話を繰り返し、料理をするのも難しくなった。

 介護サービスを受けることになったが、毎日朝から晩まで休むことなく田んぼや畑に出て働いていた人だったから、デイサービスに“遊びに行く”ということに、どうしても罪悪感がぬぐえないようだった。働き者の昌子さんの切ない感情だ。

「『何もしない』という状態が申し訳ないと思っているようで、デイサービスから迎えのバスが来ても、何度もトイレに行ってなかなかバスに乗ろうとしないんです」

 そんな昌子さんを目の当たりにして、次郎さんにも複雑な感情が生まれた。

「父は古い考えの人ですが、同居しているお嫁さんに母の面倒をみてもらうわけにはいかない、と父が家事をするようになりました。弟夫婦と同居はしているのですが、台所は別だったんです。一度お嫁さんが食事をつくってくれたのですが、口に合わないと言って、断ってしまって……」

 昌子さんはトイレの失敗も増えた。

「パンツやズボンを汚してしまうんです。父はそれを洗うのが面倒らしく、汚れ物はそのたびに捨てているというんです。洗えとも言えないので、衣類を安く買える店を教えるくらいしかできませんでした」

 次郎さんは、一人奮闘していた。しかし、次郎さんは元気だったから農業を続けたい。にもかかわらず、昌子さんに手がかかるため田畑に出ることができなくなり、イライラが募っていった。

「私も両親のことが心配なので、様子を見に行きたいのですが、弟夫婦がいるのにあまり口を出すのは悪いと遠慮する気持ちもあります。それに、実は夫がいい顔をしないんです」

 今野さんの夫は東北出身だ。夫の実家周辺は、今野さんの実家のように息子家族と同居している家が多いという。

「そのせいか、『介護は同居している嫁がすべきだ』と言って、私が実家にたびたび行くのを嫌がるんです。そういう自分は親と同居しているわけでもないのに。矛盾していますよね。もっとも、夫の親と同居してくれと言われても困りますが」

 夫の母親は健在だ。東北の実家で一人暮らしをしていたが、夫の姉が離婚して実家に戻っているという。夫の言い分はどうにも身勝手としか思えない。

「姑は元気にデイサービスに通っているので、私の心配がわからないんでしょう」

――続きは8月29日更新

 

「父ちゃんが浮気してる」「女の人が来てる」幻覚に苦しむ認知症の母に、“写真”に撮って確認させた

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 井波千明さん(仮名・56)の母親は夫の死後、夫が浮気しているという幻覚に苦しめられた。パーキンソン病と肺高血圧症が悪化した母親は、井波さんと同じマンションの上階で暮らし、寂しい思いをする母親のために、父親は実家とこのマンションを行き来していた。そしてマンションに滞在中、父親は急変し、意識が戻らないまま亡くなった。

▼前回▼

母の幻覚を写真に撮らせた

 一人になった母親は、有料老人ホームに入居した。

「マンションの上の階に暮らしていた母は、ヘルパーさんや訪問看護師さんに手伝ってもらい、夜は私が一緒に過ごしていましたが、私がいない間に転んで骨折したりしていたので、マンションでは母の安全が確保できないと思ったんです。だけど正直なところ、私のやる気もなくなっていたんだと思います。ホームに入ってもらってからは、私はただ会いに行くだけで、身体的な負担はなくなりました」

 母親が、夫が浮気をしているという思いに苦しめられたのもこのころだ。母親のホームに行くたびに、母親は「あそこに父ちゃんがいるから連れて行け」と井波さんに命じた。

「『そんなところに父ちゃんはいない』と言っても、『私の言うことは何も聞いてくれない』と怒るんです」

 井波さんも、うまく母親の話に付き合えばよいということはわかっていても、どうしてもそれができず、毎日大ゲンカになった。

「母が『ほら、そこに大勢の女の人が来ている』と言い張るから、『じゃあ携帯で写真を撮ってみてよ』と言って、母に写真を撮らせたことがあります。そしてその写真に誰も写っていないことを確認させました。母はものすごく不思議そうに、ずっと携帯を見つめていました」

 母親の幻覚は、薬の副作用に加えて認知症もあったのではないかと井波さんは考えている。母親は頭が冴えている日もあって、夫の浮気が幻覚であることがわかっているときもあったという。

「二人で父のことを話しているときに、『父ちゃんが浮気してるのも、私が寂しがらないように、わざとそう思わせているのかなって思うときもあるよ』と言ったんです。脳って不思議な世界ですね……」

 それから2年。母親は入退院を繰り返しながらホームで過ごした。そしてある日、何度目かの病状悪化により、救急車で病院に運ばれた。井波さんは「またいつものことだ」と思ったが、主治医からは家族を呼ぶように言われた。

 駆け付けた井波さんと弟を前に、主治医は「人工呼吸器をつけるか、家族で話し合ってください」と告げた。つけなければこのまま亡くなる――井波さんと弟はそう理解した。二人は顔を見合わせ、それから弟は「つけてほしい」と頼んだ。

「でも、人工呼吸器をつけると母はいっそう苦しくなったように見えました。私は母を見ていられず、その場から逃げたんです。最低な娘です。母はどんなに苦しかったことでしょう……。今から思うと、私はいつも母の苦しみに中途半端に付き合い、最後は逃げたんです。ホームに入っているから、母とのやりとりに煮詰まったときは、逃げて帰ればよかった。そうして最後も私は母の苦しみに付き合わなかった……」

 母が亡くなったあとも、井波さんは逃げた自分を責め続けていた。そんなある日、また母の落書きノートにある言葉を見つけたのだ。

「『チーさん、ヒロさんを頼む』と。ヒロさんとは私の弟のことです。独身なので、両親は自分たちがいなくなると家族がいなくなる弟を大変心配していました。親にはもうどんなに頑張っても恩返しはできませんが、せめて姉としては後悔のないように振る舞いたい。それが私にできる親孝行なんだと思うことで、自分を許せたんです。こうやって母は私に逃げ場を用意してくれていたんだと思います」

 母親はパーキンソン病に加えて肺高血圧症がわかったときに、余命2年と言われていたという。実際に亡くなったのは、4年後だった。

「パーキンソン病で体が動きづらいうえに、肺高血圧症で息が苦しいという二重苦で、『生きてるのはつらいだろうな』と思っていました」

 母親の死後、井波さんはくだんの落書きノートにこんな言葉があるのを見つけた。

「『1日でも長く生きたい』と、これも震える字で書いてあったんです。ものすごく意外でした」

 自分でもそんなときが来たら、そう思うのだろうか……それはまだわからない。でも母親からも、父親からも、大切なことを教えてもらったと思う。そう締めくくって、井波さんは前を向いた。

亡くなった父へ、娘が抱く後悔と自責……「父の言葉をいいように解釈して、苦しみから逃れてる」と語る胸中

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 井波千明さん(仮名・56)の母親は仲の良かった夫の死後、夫が浮気しているという幻覚に苦しめられた。両親は隣県で暮らしていたが、父親にガンが見つかり、両親は井波さん宅に滞在して治療に通った。治療終了後いったん実家に戻ったが、母親は肺の病気が悪化したため、母親だけ井波さんと同じマンションの上階で暮らすこととなった。寂しがる母親のために、父親は実家とマンションを行き来していた。

▼前回▼

父ちゃんに何があっても、悔やまんでいいよ

 しばらく実家で過ごしていた父親が、久しぶりに母親が暮らすマンションにやって来た。ある日の夕方、父親は珍しく井波さんに「痰切りがほしい」と薬を求めた。

「金曜だったので、私は『じゃあ週明けに病院に行こうね』と言って、私は自宅に戻りました。その夜中、母の様子を見に行ったんですが、母の額に手を当てて『なんともないな』と思って、また戻りました。ところがその後、午前3時くらいに母から電話がかかってきたんです。『父ちゃんの様子がおかしい』って。すぐに行ったんですが、父は私に微笑みかけてくれるものの、しゃべることはできません。なぜ母の様子を見に行ったときに、父の様子も確認しなかったのか……悔やんでも悔やみきれません」

 父親はすぐに病院に運ばれて、肺炎と診断された。しゃべれるようになった父親は、優しく「もう安全地に来たから大丈夫」とにっこり笑ったという。担当医からは、「軽い肺炎だから心配ないだろう」と言われたので、駆け付けて来ていた弟も家に戻った。

 しかし、その夜中「急変した」と連絡が来た。

「それから半年、父は亡くなるまで意識が戻ることはありませんでした。寝たきりで胃ろうをしたり、透析をしたり……私はただ父が痛いとか、つらいとか感じてないことだけを祈りました」

 井波さんが何より後悔をしたのは、「痰切りがほしい」と言った父親の言葉を気に留めなかったことだった。

 しかし、井波さんを救ってくれたのもまた、父親の言葉だった。

「父がこうなる少し前、私にしみじみ話してくれたことがあります。『じいちゃんが亡くなったとき、父ちゃんは、じいちゃんから『調子が悪い』と言われたけど、仕事があったから『ちょっと我慢してて』と言って、すぐに病院に連れていかなかった。もし父ちゃんに何があっても、まったく悔やまんでいいよ』と。父は優しいから、余計にじいちゃんの死を苦しんだんでしょう。そんな話を聞いていながら、なぜあのとき痰切りを用意しなかったのか、自分にあきれます。でもこれで苦しんだら、父の思いに反する……と、いいように解釈して、苦しみから逃れているんです」

 子煩悩だった父親は、子どもたちにおいしいものを食べさせるのが好きだった――と、井波さんは父親との記憶を手繰り寄せるように、「不思議なことがあるんです」と話し出した。

「父は食べるものに困る時代に育ったせいか、私や弟においしいものをたくさん食べさせてくれました。旅行や着るものにはまったく興味がなかったようで大した思い出はありませんが、エビやカニや新鮮なお刺身などごちそうの思い出はたくさんあります」

 父親が亡くなって、まだ四十九日も済んでいないころ、井波さんは最寄りのバス停でバスを待っていた。

「そこに、知らないおじさんが自転車で通りかかって、『近くの浜で獲った』と、荷物カゴの中にあるワタリガニを見せてくれたんです」

 それは季節ごとに父親が食べさせてくれていたカニだった。

「『うちの父が好きなカニです』とつぶやいたら、『これをやるから、お父さんに食べさせてくれ』と言って、カニをくれたんです」

 井波さんはあっけにとられながらもそのカニを受け取り、茹でたカニを父親の仏前に供えた。

「そのあと、皆でありがたくいただきました。父は亡くなってからも、私たちにカニを食べさせてくれようとしたのかなと思っています」

 なのに――と井波さんは悔やむ。

「父は私たちにおいしいものを食べさせようと必死だったのに、私は父の食事制限の方に必死でした。親を長生きさせるために必死になるより、親が一瞬でも幸せに生きられるよう必死になればよかった。父の好きなものを思う存分食べさせてあげればよかった」

 父親には糖尿病と循環器系の病があり、カロリーと塩分が制限されていた。塩辛いものが大好きだったのに、「梅干しはダメ」と怒って禁止していた。

「そういうときに、『オレは梅干しを食べ過ぎないよう、見て味わって、匂いを嗅いで味わって、最後に食べて味わって、1個で3回味わってるんだ』と言っていたのが忘れられません。長生きしてほしいなんて欲張らずに、のんびり一緒にお茶を飲んでいるだけでよかったのに……」

――続きは8月1日後悔

 

「震えた字で『父ちゃんのバカ』って」――母は晩年、夫が浮気相手と一緒にいるという「幻覚」を見ていた

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 夫婦の関係は、晩年になって大きく変わることがある。「“良妻賢母”の代表のような母が……『冷蔵庫がしゃべる』『テレビが動く』と訴える、明らかな変化」では、妻のことが大好きだった夫が、ホームに入居後妻にひどい暴力をふるうようになった。「『長女の私に、とにかく厳しかった』監視する母とアル中だった父――老いた親を前に、娘の本心は」では、アル中の夫に暴力をふるわれ続けていた妻が、晩年にようやく夫と離婚することができたにもかかわらず、寝たきりになった夫を介護して看取った。夫婦って本当に一筋縄ではいかないな、と改めて思う。

 今回ご紹介するのは、「認知症の夫に“熟年離婚”つきつけたワケ……『怒鳴られても言い返さない』貞淑な妻の反乱」で登場してくださった井波千明さん(仮名・56)だ。貞淑な妻であり、良き母でもあった義母は、老人ホームに入居後、夫を拒否するという驚きの行動に出たが、井波さんの実の両親も晩年、夫婦関係に大きな変化が起きたという。

▼認知症の夫に“熟年離婚”つきつけたワケ▼

父ちゃんのバカ

「ずっと仲の良い両親でしたが、晩年の母は父への悪いイメージに苦しめられていました」

 パーキンソン病を患っていた母親は、その薬の副作用がひどかった。夫が浮気相手と一緒にいるという幻覚に悩まされていたのだ。

「父が亡くなったあと、父が自分のところに帰ってきてくれないのは、浮気しているからだと思い込んでいたようです。母の落書きノートに、震えた字で『父ちゃんのバカ』って書いてありました。父は、優しい人でしたから……」

 井波さんが、隣県に住んでいた両親を近くに呼んだのは、父親にガンが見つかった10年ほど前のことだ。その前から母親はパーキンソン病を患い、ヘルパーと訪問看護を利用しながら、二人で暮らしていた。

「父のガンはホルモン治療だけで済むのか、それとも放射線治療をしたほうがいいのか、微妙な段階でした。実家近くの病院ではホルモン治療しかできず、積極的に治療するなら実家の県庁所在地にある病院か、はたまた弟が住んでいる県の病院か、どちらがいいのか迷っていました。すると夫が『うちの近くの病院にしたら』とあっけらかんと言ったんです。『私が見てもいいの?』と戸惑いましたが、そう言ってくれたことに感謝して、しばらくうちに来てもらうことにしたんです」

 父親の治療中、母親も井波さんの家で過ごすことになり、一安心した井波さんだったが、母親にも新たな病気が発見された。父親が通院する病院で再度診察を受けたところ、パーキンソン病だけでなく肺高血圧症という病気もあることが判明し、即入院となった。心臓から肺に血液を送る肺動脈の血圧が高くなる病気で、軽い動作でも呼吸困難や疲労などが起こる難病だった。

 数カ月後父親の治療が終了し、父親は実家に戻った。それからさらに数カ月して、母親も薬の調整や酸素吸入の設備を整えて実家に戻れることになった。

 しばらく両親は穏やかに暮らしていたが、母親の状態が再び悪化した。血中酸素の量が低下し、救急車で井波さん宅近くの病院まで運ばれてきた。

「再入院となったんですが、次に退院できてももう実家に帰るのは危険だということになり、母はうちと同じマンションの上の階に部屋を借りて住むことになりました」

 仲の良い両親だったので、母親は父親がそばにいないことを寂しがった。父親も妻のために時折この部屋にやって来て、しばらく滞在することもあった。

「父にとって、うちのマンションで過ごすのは退屈なんですが、魚好きな父が唯一楽しめるのが近くでやっている朝市でした。私は5時前に起きて父を朝市に連れて行くのは億劫でしたが、夫は『行けるときに行っておいたほうがいい』と父に付き合ってくれて、これにも頭が下がりました」

――続きは7月18日公開

 

“良妻賢母”の代表のような母が……「冷蔵庫がしゃべる」「テレビが動く」と訴える、明らかな変化

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 前回の「アル中で寝たきりになった父と、10年の介護――離婚しても見捨てなかった『母の意地』」で、サイゾーウーマン編集部から「それが本当に母の意地だったのか、いつか本心を聞いてみたい」と言われた。アル中で、いつも母親に暴力をふるっていた父親が寝たきりになり、その晩年にようやく離婚しながらも、母親は10年間在宅で介護したのだ。娘の東野晴美さん(仮名・51)は、「それは母の意地だったのでしょう」と言ったが、本当のところはどうだったのか。

義父は義母のことが大好きでした

 そこで改めて東野さんに聞いてみた。「お母さんはお父さんを介護したことについて、何かおっしゃっていますか?」。東野さんからはこんな答えが返ってきた。「今、認知症になった母には父の良い思い出しかありません」と。

 映画にもなったコミックエッセイ、『ペコロスの母に会いに行く』(西日本新聞出版)で、主人公のペコロスこと著者の岡野雄一さんは認知症になった母について「ボケるとも悪か事ばかりじゃなか」ともらした。岡野さんの父親も若いころアル中ぎみで、母親に暴力もふるっていた。「認知症になって忘れることができて、幸せなこともある」という状況は、東野さんのお母さんにも当てはまる気がした。

 それにしても、と改めて思う。夫婦って不思議だ。

 東野さんの両親とは逆のケースもある。それが、今回紹介する真山昌代さん(仮名・56)の夫の両親だ。

 「義父は義母のことが大好きでした」。真山さんは遠くを見るように言う。

義母の様子がおかしくなった

 真山さんの夫は東北出身。真山さん家族は結婚以来ずっと東京で、夫の姉も北海道で暮らしている。真山さんの義父母は2人で仲良く暮らしていたが、数年前に義父が認知症になった。膝の悪い義母が在宅での介護を続けられなくなったため、夫と義姉が話し合い、義父を有料老人ホームに入れることにした。

 それからしばらくすると、義母の様子がおかしくなった。

「おしゃれな人だったんですが、だんだん身なりを構わなくなったんです」

 義父は教師だった。厳格で、休日でも小ぎれいな恰好をして、背筋を伸ばして本を読んでいたという。専業主婦だった義母は、朝起きるとすぐに化粧をし、家の中を常にきちんと整え、夫と子どもに尽くしてきた。良妻賢母の代表のような人だった。

 ところが厳格な義父がいなくなり、生活のハリをなくしたのか、義母は変わっていった。身なりに構わなくなっただけでなく、食事の用意も、掃除も片付けもしなくなっていた。

 一人暮らしになった義母を心配した義姉が、たびたび実家に帰って様子を見ていたが、義母は明らかに昔の義母とは違っていた。

「顔つきまで、これまでとはまったく違うというんです」

 ついには、「冷蔵庫がしゃべる」「テレビが動く」と訴えるようになった。

 ケアマネジャーから連絡を受けた義姉が駆けつけたが、もはや義姉が北海道から通って介護できる状態ではない。ケアマネジャーからもホームに入れた方がいいと勧められ、義母は義父と同じホームに入居することになった。

 すでに義父は一人部屋に入っていたため、義母は同じフロアの別室に入った。

 本来なら、ここでいったん義父母の介護問題は解決し、落ち着くはずだった。

――続きは3月7日公開

 

アルコール依存症で認知症の母、被害妄想がひどくなり……「どうしても優しくできない」介護する娘の告白

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 東野晴美さん(仮名・51)は、アルコール依存症で暴力をふるう父親と、東野さんを常に監視する母親との関係に悩んできたが、結婚後はわだかまりもなくなっていた。父親は長年のアルコールがたたり、ほとんど寝たきりになっていたが、晩年に離婚した母親が10年も介護をして看取った。

 父親の死後、レビー小体型認知症になった姑を義姉と交代で介護して見送り、一息ついた東野さんだったが、今度は母親が認知症であることがわかる。しかも、アルコール依存症でもあることが判明したのだ。あれほど父親のアルコール依存症で大変な思いをした母親が同じ病気になったことに、東野さんは大きな衝撃を受ける。

(前回:限界を見た姑の介護、それでも「最期まで本当にいい姑でした」と語る胸中とは?

自分が母親を引き取るしかない

 アルコール依存症が原因だったのかどうかはわからないが、母親は被害妄想が激しくなった。ものがなくなったと言っては、母親と同居する妹が盗ったと責め立て、妹は精神的に参ってしまった。

 東野さんは、「このままでは妹が持たない」「母親は自分が引き取って介護するしかない」と覚悟を決めた。

 姑を介護したときに、疲労の極限まで行ったはずだ。ましてや母親とは若い頃の確執もある。施設という選択肢はなかったのだろうか?

「一度、母を1泊だけショートステイに預けたことがあるんですが、やることがなくて別人のようになってしまったんです。頭を垂れて、ただ座っている母の姿がかわいそうで……。母ももう二度と施設には行きたくないと言っていました。母もこれまで頑張ってきたので、最後くらい好きにさせてやりたいと思ったんです」

 東野さんのもとにやってきた母親は、週5日はデイサービスに行き、家にいるのは2日間だ。それでも東野さんは、母親と二人でいることが耐えられなくなった。

「家にいる間中、母はずっと私のことを見つめています。私が動くと、母の頭も体も私を追って動くんです」

 監視されていた子どもの頃のことを思い出して苦しくなった。「見ないで」と言うと、いかにも見てないというように大げさなアピールをするのも、さらに東野さんを苛立たせた。

 酒をやめられない母親は、東野さんや娘の目を盗んで酒を買いに行っては酒を飲んだ。それを見つけて、東野さんは母親を怒鳴り、大ゲンカになる……。

「どうしても母に優しくできない。キツい言葉しか出てこないんです」

 母親は妹を泥棒扱いして責め立てたが、東野さんには何も言い返せない。それほど東野さんのことを恐れているのだという。

 東野さんは、母親と二人になる時間を減らすために仕事を増やすことにした。夜勤も積極的に引き受けている。

「幸い、今は大学生の娘が家にいるので、デイサービスの送り出しや迎えもやってもらえて助かっています。母も娘と一緒の方が穏やかですし。娘の後追いをして、リモート授業の邪魔をしたりしているようですが(苦笑)」

 母親は東京にいるのがイヤなようで、時折「帰りたい」と言う。東野さんは、母親としゃべるとケンカになるので、母親が耳が遠いというのを理由に、あまり会話しないようにしていると明かす。

「私自身の幼さなのかもしれませんが、口をきかないことでしか対処できないんです。乗り越えるには時間がかかるでしょう。娘には、昔母がしたことは伝えていませんが、私も年を取って母と同じようなことを娘にしてしまうかもしれません。『そのときは許してね』と言っています」

 インタビューが終わったあと、東野さんはメールでわざわざこんなことを付け加えてくれた。

“私は難産の末に生まれてきた子で、しかも父はお産の後もまったく母を助けることもなく、ミルク代をお酒に替えるほどで、母はとても苦労したそうです。妹のお産のときは、父も病室ですき焼きを振る舞うほど協力的だったとのことです。私は父に顔立ちがそっくりで、価値観も父の影響をかなり受けているので、母には疎ましい子だったかもしれません。母の私への厳しさは、そんなところに原因があったのかもしれません。友達も、母の気に入った人でないと仲良くさせてもらえませんでした。

 そんなことも含め、母を恨んでいるのかというとそうとも言い切れず、ただ子ども時代を思い出してしまうのがつらいだけなんです。これは私が克服しなければならない自分の幼さで、修行と思って母と一緒にいるようなものです“

 母親は85歳。母親の母、東野さんの祖母は102歳まで生きたという。「あと17年、在宅介護を覚悟しています」と笑う。長い長い修行になりそうだ。その修行は、絶対にしなければならないものなのだろうか?

 東野さんは、この記事に本名を出してもいいと言ってくださった。正直で、真っ直ぐな人なのだ。そんな人だからこそ、“修行”を決めたのだろう。それでも、しなくていい修行はしないという手もあると思うのだ。このインタビューで、客観的に父親や母親を見ることができて、東野さんの気持ちが少しでも軽くなるといいのだが。

限界を見た姑の介護、それでも「最期まで本当にいい姑でした」と語る胸中とは?

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 東野晴美さん(仮名・51)は、アルコール依存症で暴力をふるう父親と、東野さんを常に監視する母親との関係に悩んできたが、結婚後はわだかまりもなくなっていた。父親は長年のアルコールがたたり、ほとんど寝たきりになっていたが、晩年に離婚した母親が10年も介護をして看取った。

(前回:アル中で寝たきりになった父と、10年の介護

 父親の死後、レビー小体型認知症になった姑を自宅に引き取って介護していた義姉だったが、夜中に幻覚が見えて叫ぶなどの症状に疲れ果ててしまう。「助けてほしい」と言われた東野さんは、これまでかわいがってくれた姑を義姉とともに介護しようと腹をくくった。

「ご飯を食べさせてもらえない」と言われても許せた

 東野さんはレビー小体型認知症について勉強し、週の半分ずつ義姉と交代で姑を介護することにした。

 義母は毎日デイサービスに通い、夕飯まで食べて戻ってくる。介護するのは夜だけだろう、と言うのは認知症介護の実態を知らない人の言葉だ。その夜が大ごとだった。

 「助けて!」と大声を出して暴れる。定期的に体位交換しなければならない。肺炎を繰り返していたため、痰の吸引も必要だった。義姉が東野さんに助けを求めたのも無理はない。覚悟して介護をはじめたものの、日中は仕事をしている東野さんにとって、夜ほとんど眠れないのはこたえた。

「私のこともわからなくなっていて、単なるヘルパーだと思っていたようです。でも、時々『晴美ちゃん、どこにいる?』と私のことを探している姿を見ると、義母の中に私の存在はちゃんとあるんだと思えました。安定しているときには、『私は幸せ』と笑ってくれる。だから『ご飯を食べさせてもらえない』と言われても許せたんです」

 しかし睡眠時間がほとんど取れなくなって、東野さんの疲れは限界に達していた。

「とうとうある夜、義母の痰が溜まり、喉がガラガラ鳴って、ブクブク泡が出ているのにも気づかず寝入ってしまったんです。異常に気付いた夫が、隣室から電話をかけて起こしてくれたので、大事に至らずにすみましたが」

 夫は何をしているのか? と疑問を抱く人もいるだろう。先の記事で触れたように東野さんの夫は障害を持っているため、母親の介護をするのは不可能だったのだ。

 こうして東野さんは何とか介護の担当日を乗り越え、義母はその翌日義姉の家に移った。そして、翌日からまた東野さんの家に行くというその夜に亡くなった。

「義母は私が限界だとわかってくれて、うちに来る前に亡くなったんだと思います。最期まで本当にいい姑でした」

 東野さんも義姉も介護をやりきって、悔いはなかった。義母に関しては――

 介護の過酷さを嫌というほど味わった東野さんだったが、これで介護は終わりにはならなかった。

 認知症になった母親を引き取ることになったのだ。同居していた妹が母親の異変に気がついた。

「同じものをたくさん買っていたようで、病院に連れていったところ認知症だとわかりました。そのうえアル中であることが判明したんです」

 あれほど、父親のアルコール依存症で大変な思いをした母親が同じ病気に。東野さんは大きな衝撃を受けた。

 東野さんにも、思い当たるフシがなかったわけではない。母親は、父親が元気だったころから一緒に晩酌していた。父親の死後、母親が「飲むとだらしなくなるな」と感じてはいたものの、さすがにアルコール依存症とまでは考えていなかったという。

 当の母親も、「夫と同じアルコール依存症」と言われたショックは大きかったようだ。それでも、すぐに酒をやめることはできなかった。依存症なのだから、当然といえば当然なのだが。

 アルコール依存症が原因で認知症の症状がひどくなったのかどうかはわからないが、母親は被害妄想が激しかった。

「ものを置き忘れたり、なくしたりしては、妹を泥棒扱いして責め立てたようです。それでとうとう妹が精神的に参ってしまいました」

――続きは2月7日公開

 

アル中で寝たきりになった父と、10年の介護ーー離婚しても見捨てなかった「母の意地」

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。母親との関係に苦しむ東野晴美さん(仮名・51)の話を続けよう。

 東野さんは、アルコール依存症で暴力を振るう父親と、東野さんを常に監視する母親との関係に悩んできた。大学入学を機に実家から出ても母親の監視は続いたが、結婚するとようやく解放され、子どもを連れてたびたび帰省するくらい母親へのわだかまりはなくなっていたのだが――。

前回:「長女の私に、とにかく厳しかった」監視する母とアル中だった父――老いた親を前に、娘の本心は

離婚しても父を介護したのは母の意地?

 その頃、父親は長年のアルコールが原因でほとんど寝たきりになっていた。

 実家は昔自営業で敷地内に倉庫があったので、そこを父の部屋にして、母親が食事を運んだりトイレの世話をしたりしていたという。

「父は体がきかなくなっても酒はやめられず、ヘルパーさんに来てもらっても怒鳴りつけてクビにしたり、デイサービスに行ってもケンカして行けなくなったりと、家族以外に介護してくれる人はいなかったんです」

 東野さんが、孫を連れて里帰りしていたのも、孫を見れば父親の機嫌が良くなり、母親や妹の負担を少しでも減らせるだろうという気持ちがあったからだ。

 それにしても、ずっと父親から暴力を振るわれていた母親が、最後まで父親を見捨てなかったのが不思議だ。

「それが、父が亡くなる2〜3年くらい前に、籍を抜いたんです。母はずっと『離婚する』が口癖でした。私たちはそのたびに『すればいいじゃない』『もう私たちも家族を持って、子どもも生まれたんだから、離婚しても何の心配もないでしょ?』と言っていたんです。それで、最後の最後に実行したというわけです。父は離婚届にハンコは押したものの、荒れていましたね……。ただ、それでも母は家を出て行くこともせず、介護を続けたんです。母の意地だったのかなと思います」

 夫婦の関係は、傍から見るほど単純ではない。結局、母親は父親を10年介護し、看取ったのだった。

義母の介護「助けてほしい」

 父親の死から5年ほど後、九州で一人暮らしをしていた姑が認知症になった。「レビー小体型認知症」だった。アルツハイマー型認知症、脳血管性認知症と並んで“三大認知症”と呼ばれており、「知らない人がいる」「虫がはっている」など、実際にはいないものが見える幻視などの症状が特徴的だ。

 東野さんの隣の市に住んでいる義姉が、「どうしても私が母を見てあげたい」と東京に呼び、自宅に引き取った。

「九州から、半分だまして連れてきたようなものです。でも義姉にも仕事がありました。幻覚が見えて夜中に叫び出したりする義母を一人では介護できなくなって、私に『助けてほしい』と言ってきたんです」

 東野さんには、姑にかわいがってもらったという思いがあった。

「姑には一度もイヤな思いをさせられたことがありません。ずっと遠く離れて暮らしていたこともあり、嫁として姑に何もしてやれなかったので、こうなったら義姉に付き合おうと腹をくくりました」

 東野さんは、義姉と週の半分ずつ交代で姑を介護することにした。

――続きは1月31日公開