脳梗塞の介護に疲れ、父を見殺しに? 救急車を呼ぶまでの「タイムラグ」と母への疑惑

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 いったん自分の近くに義母の令子さん(仮名・91)を呼び寄せた峰まゆみさん(仮名・63)夫婦は、これ以上令子さんの一人暮らしが難しくなったことから有料老人ホームに移した。峰さんの心身の負担は軽くなったが、令子さんは意欲がなくなり、自室で寝てばかりいる。

▼前編はこちら

「あのとき、死にたかった」義母の本心

 令子さんは昨年末にコロナに感染したという。

「無事回復しました。面会ができなかったので、病状はよくわからなかったのですが、熱はそれほど高くなく、食欲が数日落ちただけで済んだらしいです。実は、コロナに感染したと聞いて、義母も90歳を過ぎていますし、お正月は迎えられないだろうと覚悟したんです。それがすんなり回復したというから、よほど生命力があったんでしょうね」

 回復したのは幸運だった、と峰さんは振り返るが、令子さんにとってはそうではなかったようだ。令子さんは「あのときに、死にたかった」と何度も繰り返す。

「『死にたかった』と言う割に、今は物欲がすごいんです。携帯は持っていないので、そのあたりの紙に書いた手紙が頻繁に届きます。手紙というか、欲しいものリストですよ。この店のこんなお菓子を買って持ってきてほしいとか、このブランドのこんな服を買ってきてほしいとか」

 ホームに入ってからは生きる気力もなくなったようで、食事のときに部屋を出る以外はベッドで横になってばかりいた令子さんだ。それがコロナから回復すると、俄然さまざまな「欲」が出てきたのだという。

 服は、最近仲良くなったホームの入居者が着ているのと同じようなものが欲しくなったらしい。お菓子は、スタッフに付け届けするためだと峰さんは苦笑する。そんなことをしなくても、スタッフは十分よくやってくれているのに、と思うが、人より少しでも良い待遇を得たいという思いからなのか――。

 「コロナで死にたかった」という令子さんと、その言葉の対極にある物欲――それを峰さんは「生への執着」だと言うが、この矛盾する言動が峰さんにはどうしても理解できないという。

義母は義父を見殺しにした

「実は、義母は義父を見殺しにしたようなんです」

 あくまでも推測だが、と断りつつも、峰さんはサラリと明かした。

 20年近く前のこと。脳梗塞を起こした義父を長く介護していた義母は、義父が2回目の脳梗塞を起こしたとき、すぐに救急車を呼ばなかった、というのだ。

「その時の様子を後日義母から聞いていて、救急車を呼ぶまでの間にタイムラグがあるのに気づいたんです。義母は半身が不自由だった義父の介護に疲れていたのかもしれませんし、不自由な体でなんとか生きてきた義父を不憫に思って、もうこの辺で終わりにしようと思ったのかもしれません。だから、義母のことを責めるつもりはありません。夫はこのことに気づいていないのか、何も言わないので私も自分の胸にとどめているのですが」

 令子さんは、しばらくしてから救急車を呼び、義父は病院に着いてまもなく亡くなったという。

 もし一命をとりとめたとしても、義父はもっと状態が悪くなっていただろうから、義父も義母もつらい思いをすることになっただろうと峰さんは言う。だから、病院で死ぬことのできた義父はまだ幸運だったとも思う。

 それだけに、義父の死を選択するボタンを押した義母が、「あのときに死にたかった」と言いながら、峰さんに見せる「生への執着」に戸惑っているのかもしれない。

義母が老人ホームに入り一安心? 月の費用20万円強、全国展開する大手で「こんなはずじゃなかった」わけ

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

義母のホーム探しが簡単だった理由

 峰まゆみさん(仮名・63)の夫の母親、令子さん(仮名・91)は、夫を見送ったあと長く一人で暮らしていたが、10年ほど前に峰さん家族近くのアパートに転居した。一人暮らしではあったが、峰さん夫婦がこまめに様子を見に行くことができる距離だったので、互いに安心していた。ところがここ数年は体調を悪くして入院することが増え、峰さんは令子さんがこれ以上一人暮らしを続けるのは難しいのではないかと考えるようになた。

「私も夫も60歳を過ぎ、健康に不安を感じるようになりました。先日は私も腰を圧迫骨折してしまい、老老介護予備軍だと実感したんです」

 自宅で転倒して入院した令子さんを、もう自宅アパートに戻すのは無理だと考えて施設探しを始めた。当初は、リハビリや医療ケアを受けながら自宅に戻ることを目指す「介護老人保健施設(老健)」を当たっていたが、リハビリの時間が少ないことがわかった。

「週に2回、それも20分しかしてくれないというんです。それに老健は長期入所はできず、3カ月とか6カ月で出されるのでは、結局また一から施設探しをしないといけなくなります。だったらいっそのこと、有料老人ホームを探そうと思ったんです」

 ホーム探しは、予想以上に簡単だった。というのも、峰さんの住む市の近辺に、有料老人ホームは3カ所しかなかったのだ。

「ホーム探しで、選択肢が多くて迷うというのは都会の人だけ。ぜい沢な悩みだと思います。それも3カ所あったホームのうち、2カ所は満室で、空きがあるのは1つだけだったので、悩むまでもなくそこに決めるしかありませんでした」

 そのホームは、以前令子さんとパンフレットを見ていたことがあった。看取りまでしてくれるというので、「入るならここね」と令子さんが言っていたのが決め手になった。全国展開している大手の有料老人ホームだ。

「費用は月に20万円強です。前払い金はいらなかったので、安いほうだとは思います。それでも義母の年金では足りないので、貯金を取り崩しています。義母も90過ぎているので、100歳まで生きても、何とか足りるでしょう」

 これで一安心、のはずだった。

選んだ老人ホーム。こんなはずじゃなかった

「ところが、そのホームに入ってみるとリハビリはまったくありませんでした。リハビリもないのに、義母の状態が改善するわけがありません。食事のときだけ車いすで食堂に行っていますが、あとはすぐに部屋に戻って、ベッドに横になる。これでは筋力が落ちるばかりです」

 食事もあまりおいしくないらしい。

「見学時に試食したときは、そんなに悪くないと思ったんですが……。いろんなことにやる気が失せてしまい、しかも動かないので、食事もおいしくないのでしょうね」

 それでもホームにいれば、近くに職員がいるので安心だ。一人暮らしのときはちょっとしたことでも電話で呼び出されていたので、気持ちが全然違う。コロナの感染拡大もあって、たびたび面会に行かなくてすむようになったことも、峰さん夫婦にとっては解放感が大きかった。

「もう携帯電話も必要ないので解約してしまいました。何かあればホームから呼ばれるでしょうが、その時はその時。通院する際の付き添いは必要になりますが、今はホームに訪問医が来てくれているので、それで十分足りています」

 それに義母は夫の親だし、と峰さんは淡々と語る。

――後編(9月10日公開)につづく

 

亡くなった父の夢の意味は? 娘が10年後に受け取ったメッセージとは

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 亡くなった人からのメッセージを受け取ったという人は少なくない。前回から引き続き、そんな体験をした人たちの話をご紹介したい。

出産後、夢に現れた父は微笑むだけ

 平野紅梓さん(仮名・58)は、中国人だ。20代で日本に留学し、そこで知り合った日本人の夫と結婚してからは、中国へは数年に一度しか帰っていなかった。まだ60代だった父親が末期がんで余命半年だと宣告されたときも、平野さんが妊娠中だったこともあって、帰国することができなかった。

「父の病状はずっと気になっていたんですが……。あるとき、夢に出てきて、私に赤い靴を渡してくれたんです。私の故郷では、赤い靴は亡くなったときに履く靴なんです。目が覚めて、ああ父は亡くなったんだと思いました」

 死期の迫った父に顔を見せることもできず、申し訳なく思っていた平野さんだったが、その後再び父親が夢に出てきた。

「『お父さんが好きだった服をずっと探していたんだけど、やっと見つかったよ』とうれしそうに言うんです。翌日、母に電話して父の言葉を伝えたら、お葬式のときに父が気に入っていつも着ていた服をお棺に入れるのを忘れていたので、四十九日の納骨時にその服を燃やしたということでした。父の元にその服が届いたんだなと思いました」

 母親も驚いていたという。そして、「なぜ私には知らせてくれなくて、紅梓のところに行ったのかしら」とやきもち半分で笑った。

 その後、平野さんは無事男の子を出産した。するとまた父が夢に現れた。

「部屋の外からこちらを見ているんです。孫を見に来てくれたんだと思って、『お父さん、赤ちゃんが生まれたんだよ。入って来て抱っこしてあげて』と言ったのですが、微笑むだけで入ろうとしないんです」

 平野さんは、父が部屋に入ってこなかった理由を考えていて、あるとき思い当たった。

「この世は“陽”、亡くなった人は”陰“の世界にいるから、入ってこれなかったのかもしれません。父はもう向こうの世界にいるということだから、安心していいのかなと思うようになりました。それ以降、父は長く夢に出て来ませんが、きっと向こうで幸せにしているんだろうと思っています」

亡くなって10年、夢に出てきた父

 沢井久美子さん(仮名・61)も、50代だった父親を亡くした。30年以上たった今でも、父親を思い出しては泣いてしまうくらい大好きだったという。

「亡くなって10年ほどたったころでしょうか。父が夢に出てきたんです。父は、まばゆいばかりの白い光があふれる場所にいました。そして『お父さんはここにいるから、いつでも遊びに来ていいよ』と言ってくれたんです。そのときの幸福感といったら……うまく表現できないんですが、あふれる愛に包み込まれるような感覚、と言ったらいいのでしょうか」

 その夢を見てから、沢井さんはいつか父に会えると思えるようになった。だから、生きている今を大切にしなければならないとも思っている。

「父はいなくなった今も、私を励まし、勇気づけてくれる存在なんだと思います」

 親は亡くなっても、子どもを気にかけてくれているし、子どもが前を向いて生きる力になっている。そうして、死を受け入れていくのかもしれない。親だけでなく、いずれ訪れるであろう自分の死をも。

亡くなる親族からのサイン? 針が止まった時計、不自然に揺れたカーテンーー不思議な出来事3選

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 親など近しい人が亡くなるとき、不思議な経験をしたという人は少なくない。

 冨中繫さん(仮名・52)は、まだ60代だった母親を亡くした。看取り期、母の最期の日々を病室に泊まり込んで過ごした。

「ふと時計を見ると、針が止まっているんです。まだ新しい時計なので、故障するには早い。病室を出てしばらくすると動き出しました。何でだろう、とは思いましたが、そう気にも留めていませんでした。それがまた病室に戻ってしばらくすると、時計が止まっているんです。不思議だというか、母が死に向かうエネルギーのようなものが時計を停めているのかなと思いました」

 数日後、母親が亡くなると、何ごともなかったように時計は再び動き出したという。それ以来、止まることはなかった。

 母親は、息子と別れたくなくて、時を止めていたのだろうか。それとも、冨中さんの母親と別れたくないという強い思いが、時を止めたのか――。

「私と娘にお別れを言いに来た」夢に現れた祖父

 【父が急死した春、台所に置かれた“目を疑うもの”】で紹介した宮坂志満さんの長女、友香さん(仮名・34)は、宮坂さんの両親にとって初孫だったこともあり、祖父(宮坂さんの父)には特にかわいがられていた。

 祖父と同居してからは、塾や通学に駅まで送迎をしてもらったり、一緒に海外旅行に行ったりして、それは仲が良かったという。友香さんが結婚してからは会う機会が減っていたが、結婚6年でようやく赤ん坊が生まれると、祖父は初めてのひ孫誕生に大喜びした。

 祖父が亡くなったとき、友香さんはたまたま子どもを連れて里帰り中だった。

 「おじいちゃんの様子がおかしい」と宮坂さんに呼ばれて見に行った友香さんは、宮坂さんと「今のところは大丈夫だろう。明日病院に連れて行こう」と決め、いったん部屋に戻った。その夜、友香さんは祖父の夢を見た。

「おじいちゃんが娘を見に来てくれて、うれしそうに抱っこしていました。『あ、写真を撮っておかないと』と思った夢でした。翌朝、母からおじいちゃんが冷たくなっていると聞かされ、あのときおじいちゃんは私と娘にお別れを言いに来てくれてたんだと思いました」

 宮坂さんからは「私のところには来てくれなかったのに。やっぱり友香が一番だったね」とうらやましがられたという。

「90近いおじいちゃんが、まだよちよち歩きの娘をひょいと抱き上げようとするのが危なっかしくて、あまり抱っこさせないようにしていたんですが、もっと抱っこさせてあげればよかった……」

 涙ぐむ友香さんの背中に、そっと寄り添う祖父の姿が見えるような気がした。

「姉が亡くなったのかも」部屋のカーテンが不自然に揺れた

 「一番身近な人のところには、お別れのあいさつに来ないのかもしれないです」と言うのは、兄嫁を亡くした久本晶子さん(仮名・59)だ。兄嫁は、闘病生活を経てまだ50代で亡くなった。

「兄の悲しみは深く、そばで見ているのもつらいほどでした。そのうえ、義姉は亡くなるときも、その後も夢にさえ出てきてくれないと嘆いていました。それが、義姉の弟のところには、亡くなった時間に来ていたらしいんです。窓も閉まっているし、風もない状況なのに、部屋のカーテンが不自然に揺れて、弟さんはすぐに『姉が亡くなったのかも』とピンときたんだそうです。霊感などまったくないし、そういった話は非科学的だと一笑に付していた人だったのに。こういう感覚は、理論で説明付けられるものではないのでしょうね

 ところが、この話。兄は義姉の一周忌が済むとまもなく再婚した、というあまりに現実的なオチがつくのだが――。

父が急死した春、台所に置かれた“目を疑うもの”――亡父との不思議なエピソード2選

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

父は自分の死期がわかっていたのかも

90歳直前で亡くなった父……大往生でも、喪失感に襲われたワケ」で紹介した宮坂志満さん(仮名・60)。父親を突然失った悲しみから、少しずつ立ち直ろうとしている。そのきっかけとなったのは、いくつかの不思議な出来事だ。

 父親はふるさとを遠く離れ、宮坂さん家族のもとに来てから、知り合いもいない場所で、毎日の手持ち無沙汰を慰めるように自分史を書いていた。

「幼いころからのできごとから今に至るまで、それは詳しく書いてありました。日記もつけていなかったのに昔のことをよくこれほど鮮明に覚えていたものだと、子どもたちと感嘆しました」

 印刷屋で製本していたというその自分史を、宮坂さんはこれまでちゃんと読んだことはなかった。そこで四十九日の法要のときに、父親や家族の歩みをたどろうと子どもたちと読んでいったのだ。

「巻末に年表まで付けていたんです。世の中の出来事、自分や家族の出来事の欄があって、左には西暦と元号も表示されていました。平成のときに作っていたので、令和の表記はなかったんですが、その平成が35年、つまり2023年、父が亡くなる年で終わっていたんです。父は天皇陛下と同じ年なので、2023年で90歳。そのあたりで平成も終わるだろうと思ったのかはわかりませんが、奇しくも自分の亡くなる年で年表が終わっていたことに驚きました」

 父は自分の死期がわかっていたのかもしれない……とまでは思わないが、単なる偶然だとも思えない気がした。

 こんなこともあった。

父が急死した春、台所に見つけたもの

「父は庭に、わざわざ田舎からザボンの木を運んでもらって今の家の庭に植えていました。田舎にいたときに、思い入れがあった木だというわけではなかったと思いますが、こっちで植えてからは、毎冬大きな実がなるのを楽しみにしていました。父や私が毎日食べても食べきれなくて、離れて暮らす孫たちに『取りにおいで』と連絡したり、近くの友人たちに分けてあげたりしていました。毎年の行事のようになっていて、いろんな人に全部の実を配り終えたら冬が終わる、という感じでした」

 今年も何とかすべての実を食べたり配ったりして、ザボンの季節を終えていたのだが、父が急死した春。台所にそのザボンが置いてあった。まるで、父が「食べろ」と言わんばかりに。

「驚くと同時に、自分の目を疑いました。なんで? この冬に全部食べてしまっていたよね?」と宮坂さんが夫に聞くと、庭にザボンが落ちているのに気付いた夫が、台所に持ってきたのだということがわかった。

「それにしても、まだ実が残っていたなんて。こんなこと、ザボンの木を植えてから初めてです」

 父が、「採り忘れていたぞ」と笑う顔が見えるようで、仏壇に供えた。

 季節外れのザボンに、父の気配を感じたことで、宮坂さんの心は少し前を向いた。

「そばにいてくれてるのかな、と思えるようになりました。もし私のことが気になって天国に行けていないとしたらかわいそうなので、いつまでもメソメソしていてはいけないなと思っています

知らないおじさんからもらったカニ

 宮坂さんと似たような経験を話してくれた人がいる。

 井波千明さん(仮名・56)だ。井波さんも、父親が「具合が悪い」と言ったときに、すぐに病院に連れていかなかったことを後悔していた。翌日病院に連れて行こうと思っていたから、急変を見逃して死なせてしまったと自分を責めていたのだ。

 父親の四十九日もまだ済んでいないころ、井波さんが最寄りのバス停でバスを待っていると、見知らぬおじさんが自転車で通りかかった。そして「近くの浜で採れた」と、ワタリガニを見せてくれたのだ。井波さんや弟に、おいしいものを食べさせるのが好きだった父が、季節ごとに食べさせてくれたのがワタリガニだったので、父親がふいに現れたように思えたという。

「そのおじさんに『父が好きなカニです』と言うと、おじさんは『じゃあこれ、あなたにあげるから、お父さんに食べさせてあげて』とカニをくれたんです」

 井波さんはあっけにとられながらも、ありがたく受け取り、茹でたカニを仏前に供えた。

「父は亡くなってからも、私たちにカニを食べさせてくれようとしたのかもしれません

 それなのに、食事制限のある父に必死に対応していた。好きなものを思う存分食べさせてあげればよかったと、また反省してしまうのが井波さんらしい。親が亡くなると、後悔は尽きないのだ。

 

オープンダイアローグで居場所を見つけた――虐待されて育った女性が「どんどん変わっていっている」と語るワケ

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 幼い頃から両親に壮絶な虐待を受けてきた黒沢美紀さん(仮名・45)。彼女が受けた傷は、まだ癒えたわけではない。脳梗塞の後に自宅で転倒し骨折した父・昇二さん(仮名・75)とはどうしても会わざるを得ないこともあり、会うと暴言を吐かれ、フラッシュバックを起こしそうになる。

 そんな美紀さんだが、昨年から「オープンダイアローグ」という心理療法の当事者スタッフとして活動している。そこで、本当に安心できる居場所ができつつあるのを感じているという。

最初は毎回パニックを起こしていたが……

 美紀さんが当事者スタッフとして参加しているのは「りすにんぐファーム」という団体だ。「ダイアローグで使われている『対話の枠組み』を活用して、どんな人でも日々の生活の中で安心感を得られるよう、いろんなワークを実施して、日々の心の健康を整える場」だという。その中で美紀さんは「経験専門家(精神疾患当事者)」として何種類かのワークのファシリテーターをしているそうだ。

「最初は、肩に力を思いっきり入れていて、とても緊張し、テンションも高かったと思います。不安で仕方がなくて、何かテンションを上げることで鎧をまとった状態になっていました。自分の生い立ちのことも話したのですが『そんな大変なことをハキハキとおっしゃっているのが……』と主宰者の“なりさん”にご心配をおかけしました」

 そこで主宰者“なりさん”は、美紀さんに「経験専門家」第1号として、ファシリテーターをしないかと声をかけたのだという。「やります!」と意欲満々だった美紀さんだったが、彼女いわく「ドツボにはまって」しまう。

「毎回パニックを起こしてしまったんです。ただ、私がパニックを起こしているというのは、ほかの参加者から見るとわからないようなのですが。私、なりさんに嫌われるのが怖くて、身動きが取れなくなり、ファシリテーターを降りたんです。でもその間、りすにんぐファームの皆さんが私のことを見守ってくださり……思いやりの温かさに触れることができました。そして、この場所が私にとって安心できる居場所になっていくことを確信し、もう大丈夫だろうと復帰したんです」

自分がどんどん変わっていくのを感じる

 美紀さんの“居場所”を見てみたいと思い、リフレクティングワークに参加してみた。美紀さんは驚くほど冷静にファシリテーターを務めていて、パニックを起こすというのが信じられなかった。美紀さんのおっとりとした優しい声に包まれると、参加者にとっても心安らぐ場となっているのだろうと思えた。

「話したことに対して応答が返ってくるので、自分一人では堂々巡りだったことが、リフレクティングしていただくことで軽くなったり、違う視点を与えてもらったりして、すごく楽になる経験はたくさんしています。私は生い立ちや病気のせいで、過緊張が強くあり、『りすにんぐファーム』に参加し始めた当初は、極度にドキドキしていました。それがいつからか、『りすにんぐファーム』の輪に入れてもらえている感じができてきて、だんだんそこが私の居場所になりました。居場所ができるって、すごいことですよね」

 精神科医・森川すいめい氏は、著書『感じるオープンダイアローグ』(講談社現代新書)で、オープンダイアローグによる効果をこう説明している。

“対話では、困難な状況を聞きつつお互いに理解を深めながら、その始まりや背景を探していったり、気持ちを話したりしていくことになるでしょう。すると、困難でどうにもならないと思っていた現状や未来への理解が相互に促進され、何とかなるもしれないと思うようになるかもしれません。そうなれば、結果として精神面の困難は軽減されていくでしょう。”

 同じく精神科医の斉藤環さんが解説する『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』(医学書院)によれば、「対話を続けるだけでいい」「変えようとしていないからこそ変化が起こる」という。「対話の目的は、対話それ自体。対話を継続することが目的です」。

 まさに「私、『りすにんぐファーム』に参加するようになってから、どんどん変わっていっていると思います」という美紀さんの言葉がそれを裏付けている。

 最近、美紀さんは新しい仕事を始めた。

「体を動かす仕事をやりたいと思っていたんですが、理想にぴったりの求人票を見つけたんです。条件的にもよくて、『まるで私のためにあるような仕事だ』と直感して応募すると、面接担当の方からも気に入ってもらえて、とんとん拍子に決まりました。新しい環境に飛び込むのは緊張しますが、うまくいくといいなと思っています」

 昇二さんとの関係は解決したわけではない。これから先、昇二さんが老いていくにつれて、また困難な問題は持ち上がるだろう。それでも美紀さんの居場所が一つでも増えていけばいいと思う。

りすにんぐファーム:https://listening-firm.com/

親に虐待された女性が見つけた「癒やしの旅」の羅針盤――「自分が本当に安心できる居場所」

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 幼い頃から、両親に壮絶な虐待を受けてきた黒沢美紀さん(仮名・45)が受けた傷は、まだ癒えたわけではない。脳梗塞の後に自宅で転倒し骨折した父・昇二さん(仮名・75)とは、どうしても会わざるを得ないこともあり、会うと暴言を吐かれ、フラッシュバックを起こしそうになる。

 先日、美紀さんと夫がコロナに感染し、症状がひどくなった夫を病院に連れていくために、運転免許を持っている母・良江さん(仮名・70)に車を出してくれるよう頼んだ。昇二さんが絶対についてくることがわかっていたが、背に腹は代えられなかった。

心の中にいる「小さいことを気にしぃ虫」と「人の顔色をうかがう虫」

「母は本当に心配してくれて、すぐに車で駆けつけてくれました。医療センターに受け入れてもらい、1時間検査結果を待つことになりました。母は優しい言葉をかけてくれたのですが、父は『1時間も待つんか。けっ!』と」

 そして夫が陽性と診断された帰り道。

「母は車の運転はできますが、ものすごい方向音痴で、車にナビもついていないので、父に道案内をしてもらわないといけないんです。その間、父から母への暴言はすさまじく、またフラッシュバックが起こりそうなのを必死で耐えました」

 さらに、間違った道を教える昇二さん。見かねた夫が高熱でもうろうとしながらも、スマホで道を教えると、「ワシはいつもこの道を行っとる!」と怒鳴る。「お父さん、主人の言うことを聞いて」と言った美紀さんに、とうとう昇二さんがキレた。

「ワシの言うことが聞かれへんのやったら、どこへでも行けや!!」

 具合の悪い夫のことを思い、なんとか耐えてその場を乗り切った美紀さんは、その後良江さんに「お父さんにもお礼を言っといて」と伝言した。すると昇二さんは美紀さんに電話してきて、「コロナについてワシはこれだけ知っとる」と調子よくホラを吹いていたという。

 そんなことがあっても、美紀さんは昇二さんを思いやる。

「心配していましたが、幸い両親がコロナに感染することはなくホッとしました。あのとき、父も『娘の頼みだから』と母についてきてくれたんだろうと思います。そして本当は私と仲良くしたいのに、なぜ私が仲良くしようとしないのかわからないのかなとも思います。父がしたことが、どれだけ私を傷つけたのかまったく自覚していないのでしょう。性暴力も、父にとっては単なるいたずらだったのかもしれません」

 美紀さんは昇二さんに心を殺されながらも、ずっと気を使っていたのではないか。そう美紀さんに伝えると、「その通りです」という返事がきた。

「ずっと、親にも周囲の人にもすごく気を使って生きてきました。私は自分の中に『小さいことを気にしぃ虫』と『人の顔色をうかがう虫』を飼っているんです。昨年から『オープンダイアローグ』という心理療法の当事者スタッフとして活動させてもらっているのですが、自分が本当に安心できる居場所ができつつあって、その中にいることで、この虫さんたちが泣き止んでくれるのを待っているところです」

「癒やしの旅」の羅針盤「オープンダイアローグ」

 美紀さんは、表現力が豊かな人だとあらためて感心するが、それらもこれまでの過酷な人生の中で身に付けてきたものなのかもしれない。同時に、美紀さんが見出した居場所、「オープンダイアローグ」という心理療法とは何なのか、興味を持った。

 美紀さんに「オープンダイアローグ」とはどういうものか聞いてみると、長い返事が返ってきた。大変わかりやすかったので、美紀さんの言葉をそのまま引用してみたい。

「オープンダイアローグは急性期の統合失調症患者の新たな治療法として、今世界で注目を集めています。どうしてこの治療法がこれほどまでに統合失調症患者や、またさまざまな精神疾患の患者に有効なのかはわからないのですが、その方法はいたってシンプルで、ただただ対話をする。これだけです。

一番重要な点は『本人のいないところで本人の話をしない』。支援者チームは、本人がそれを眺めているところで、支援者複数人で集まり、その患者さんの言葉を受け止めて、患者さんの気持ちを掘り下げていき、もっと患者さんが自分のことを話せる橋渡しをするんです。そのために『リフレクティング』という方法を用います。支援者は1人ではなく、複数人がケアにあたる形をとります。患者さんと関わりのある、家族や近所の人なども対話の場に参加してもらいます。

直接患者さん本人にアドバイスをする等ではなく、参加者みんなで輪になり、患者さんたちのお話を聞き、一通り終わったら、複数人の支援者が支援者だけで輪になり、患者さんの今のお話を聞いて感じたことを、あたかも患者さんのうわさ話を患者さん本人が横で聞いていると言う形を作って、患者さんの話を深めたり広げたりするリフレクティングを行います。

1対1ではなく、なぜ支援者が複数人いるというスタイルなのかというと、1人の支援者が患者さんと向き合うと、そこに患者さんの主体性や意思が十分には大切にされない状況が生まれます。よく『言葉をお盆に乗せる』と表現されるのですが、複数人の支援者が患者さんの目の前でうわさ話をしているような場を作ると、支援者一人ひとりが『私はお話を伺っていてこう感じた』というアイメッセージを用いて、それぞれの言葉をその場に置き、患者さんはお盆に置かれたいろんな言葉の何を選び取っても良いという状況が生まれます。これは『ポリフォニー(多声生)』と呼ばれています」

 美紀さんは、以前のインタビューで「長い癒やしの旅の途中」だと言っていたが、その「癒やしの旅」の羅針盤となっているのがこの「オープンダイアローグ」だったのだ。

続きは7月2日公開

病院に無理難題を突き付ける父――怒鳴り声で「虐待」がフラッシュバックした

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

父と会うたびにフラッシュバックが

 この連載の「母から刃物で刺され、父からは性的虐待……“記憶にふた”をして生き延びた女性が『親の介護』に直面したら」に登場してくださった黒沢美紀さん(仮名・45)は、幼い頃から両親に壮絶な虐待を受けてきた。統合失調症だった母・良江さん(仮名・70)は、幸い体に合う薬が見つかり、おっとりとした優しい性格を取り戻した。幼女になったような母と、少しでも長く穏やかな日々を過ごしたいと願っている。

 その一方で、美紀さんが受けた傷はまだ癒えたわけではない。脳梗塞の後に自宅で転倒し骨折した父・昇二さん(仮名・75)とはどうしても会わざるを得ないこともある。会うと暴言を吐かれ、フラッシュバックを起こしそうになる。

 先日もこんなことがあったという。

「退院に向けてのカンファレンスがあったのですが、父がお医者さんやスタッフに怒鳴りながら、めちゃくちゃな要求をしたんです。スタッフが折衷案を出すと、さらに声を荒げて……」

 美紀さんはずっと我慢していたが、ついに涙が出てきた。

「やばい! フラッシュバックが起こりかけている」

 慌てて席を外し、ロビーで休んでいたが、フラッシュバックは激しくなり意識も朦朧としてきた。

「こんなに怖くて苦しい思いはもうしたくないと思いました。好き嫌いや、許す許さないの前に、父と接すること自体、私には無理なんだと思い知りました。これから私はどうすればいいのか……先が見えなくて不安でいっぱいです」

 昇二さんはこれまで外面はよかった。それが、病院で怒鳴り散らしたこともショックだったという。

「父は足の装具を付けなかったから、家で転んで骨折することになったのに、看護師さんがいくら説得しても『絶対に装具は付けない』と言い切っていたし、転んだ理由も『リハビリが週3回もあるからだ』と言いがかりのようなことをまくしたてて、とうとうリハビリの回数を減らさせました。どうやら、競馬や買い物に行くのに加え、リハビリにも行っていたら休みがなくなる――というのが、父の勝手な理論だったようです」

 昇二さんの無理難題は枚挙にいとまがない。

「介護保険で、実家の庭をアスファルトにすると言い張り、ケアマネさんから『それは市から許可が下りない』と言われると、『これやから役所仕事はかなんわ!』と怒鳴る……もうめちゃくちゃで、いたたまれませんでした」

 こんなことでは、また転んで骨折するだろう。不安は増すばかりだ。

コロナで苦しむ夫のため、母に運転を頼むことに

 先日は、美紀さんと夫がコロナに感染してしまった。美紀さんは回復したが、彼女からうつった夫はかなり重篤な状態になった。

「苦しそうでフラフラになっていました。病院に電話して診察をお願いしたのですが、看護師さんから『車がないんですか!? 車で待機してもらわないといけないので、車がなかったらどこも受け入れてくれないと思いますよ』と言われてしまったんです。私は免許を持っていなくて、途方に暮れました」

 背に腹は代えられないと、免許を持っている良江さんにお願いすることにした。美紀さんのマンションから実家までは遠い。良江さんに頼むと、昇二さんは間違いなくついてくるだろう。退院時のカンファレンスでフラッシュバックを起こしたことを思い出すと恐怖だったが、夫のためにほかに選択肢はない。意を決して、良江さんに連絡を取った。

続きは6月18日公開

ここに座っていた人がもういない……突然親を亡くした女性の“淋しさ”とは?

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 宮坂志満さん(仮名・60)は自宅で父が急死し、数時間に及ぶ事情聴取と家宅捜索を受けた。検死が終わった父の遺体は“モノ”として扱われていたように感じ、父の具合が悪いとわかったときに救急車を呼ぶべきだったと自分を責めた。

父とは同志のように生きてきた

 さて、葬儀が終わり、死後の事務手続きに追われていたときのことだ。水道や電気の領収書などはないかと引き出しを開けていた宮坂さんは、金庫のカギがあるのを発見した。

「引き出しの上に、普通に入っていました。え? 警察はこれを見逃したの? と驚きました。あれだけしつこく事情聴取をして、家じゅう大捜索をして、検死までして、それでも保険金目当ての殺人などが見逃されるって、どれだけ巧妙なんだろうと、妙なところで感心していましたが、金庫のカギを見逃すくらいだから、警察も意外とザルなのかもしれませんね」

 金庫を開けてみた。いくつか契約していた保険証券はあったが、遺言書など父が書き残したものはなかった。これから相続手続きで、長く音信不通だった妹に連絡を取る必要が出てくる。宮坂さんは、葬儀にも出てこなかった妹とのやりとりを考えると気が重い。孤立無援の心細さが襲ってくる。体を強風が吹き抜け、足をすくわれるようだ。

「妹が親とぶつかり家を出てから、精神的に不安定になった母が心配で、20年ほど前に両親をこちらに呼び寄せました。父はまだ60代で、田舎を離れたくないと抵抗していましたが、最終的に母とともに知り合いもいないこの土地に来てくれました。それからは、父と二人、同志のようにして生きてきたんです。もちろん常に意見が合ったわけではありませんでしたし、腹が立ったこともありました。父も同じだったでしょう。それでも父がいなくなって、これまで父の存在に支えられていたことがわかったんです」

もう父のために元気でいる必要もない

 昨日まで、ここに座っていた人が今日はもういない。いつものように座椅子に座り、夕方には酒を飲んでいるんじゃないかと思う。暗くなると、父の家に入るのが怖い。父の不在を思い知らされるのが嫌で、行けなくなる。

 母を失ったとき、大きな痛手を受けなかったのは、父がいてくれたからだと思う。父とはいつもふるさとの言葉で話していた。父がいたから、20代で離れたふるさとともつながっていられたのだと思う。もう自分にはふるさとがなくなってしまったという淋しさも押し寄せてくる。

 毎年数回、里帰りをして旧友や親戚と会っていた父だったが、コロナ禍になってからは帰省するのをやめさせていた。理由はコロナだけではない。田舎では車がないと移動がむずかしい。帰省中、自分で車を運転してあちこちに出かける父を叔父が心配して、運転させないように言われていたのも帰省を止めていた大きな理由だったのだ。

 そしてこの3年あまり、ふるさとに帰ることができないまま、逝かせたのを申し訳なく思う。それと同時に、事故を起こさずに済んだこと、事故を起こしていないか心配しなくて済むことにはホッとしている。きっと今ごろ父は自由になった体でふるさとに帰り、懐かしい人たちにあいさつしていると思う。

 人はいつか死ぬ。十分わかっていたはずなのに、別れの覚悟ができないまま、突然いなくなった父。「ヨロヨロ」することなく、「ドタリ」と倒れ、誰の世話にもならず逝ってしまった。

「元気な人だったから、私のほうが先に病気になったり、死んでしまったりすることになったらどうしようとも思っていました。もう父のために元気でいなくてもいいんだ、と肩の荷が下りたようです」

 そう微笑みながらも、父の死を受け入れるにはまだ時間がかかりそうだ。

胃痛を訴えていた父の意外な死因とは? 「もし……」を考えるときりがない

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 宮坂志満さん(仮名・60)は自宅で父が急死し、刑事による事情聴取と捜査員による家じゅうの捜索を数時間受けることになった。

子どものように「私をひとりで置いていかないで」と泣いた

 父の遺体は、検死のために運び出された。

「これも事件性がないか、死因を調べるためということでした。問題がなければ返されるとのことでしたが、早くてもその日遅く、もしかすると翌日になるかもしれないと言うんです」

 父の遺体が帰って来なければ、通夜や葬儀の段取りもできない。携帯も押収されていたので、そこに登録されている親戚や友人に父の死を知らせることもできない。もちろん、父をゆっくりと偲ぶ気持ちにもなれない、宙ぶらりんな状態のまま待機するしかなかった。

 母も、つい昨日まであんなに元気だった父も、自分をひとり置いていなくなってしまった。子どものように、「行かないで。私をひとりにしないでよ」と言いながらただ泣いた。宮坂さんの胸に空いた穴は大きくなっていき、体を吹き抜ける風は強くなっていった。

意外だった父の死因

 検死が終わったと連絡が来たのは、夜になってからだ。検死の書類や押収されていた携帯電話、通帳を引き取りに、警察まで出向かなければならない。遺体はそのときに葬儀社が引き取り、霊安室に安置してもらうように言われた。

「警察で待っている間、事件を起こした家族を引き取りに来ているような、落ち着かない気分でした。警察ではとても故人を悼むという感じにはなれなせんね。父がベッドに倒れ込んでいたときに、救急車を呼ばなかったのはとにかく私の判断ミスだと自分を責めていました。せめて病院で亡くなっていれば、こんなことはなかったでしょうから」

 それだけに、宮坂さんが気になっていたのが父の死因だ。検死結果を聞いて、宮坂さんと娘は意外な思いで顔を見合わせた。

「死因は心臓でした。これまで父は心臓トラブルなどまったくなかったし、もしかしたら脳かと疑っていたくらいでしたので、心臓が原因だとは思いもしませんでした。最後も『胃が痛い』と言っていましたし。でも娘いわく、『胃が痛いと言っていたのは、本当は心臓が痛かったのを、胃痛だと思い込んでいたんじゃない?』と。ここのところ、時々胃の痛みを訴えていたのも、心臓の不調だったのかもしれません」

 もしあのとき、救急車を呼んでいても、本人が胃と言っていたら、病院でもまず胃を検査しただろう。だから、最終的にはやはり間に合わなかったかもしれない。もし管につながれて、生命だけ維持するようなことになったら、もっとつらかっただろう。まさしくピンピンコロリだったのだから、あれでよかったのかもしれない。気休めだとわかっていながら、自分を慰めてみたりもする。

 死亡推定時刻は、宮坂さんがドアの外から父の様子を伺った時間の少し後だった。あのとき、ドアを開けて確認していたら――「もし……していれば」を考えるときりがない。父が眠ったような表情だったのが、せめてもの救いだ。

火葬が追い付かない

 霊安室に安置された父は、部屋で亡くなっていたときと同じ表情で、口も開いたままだった。警察で検死されるとき、もはや父は“モノ”だったのかなと思う。病院なら、何らかの処置をしてから出してくれたはずだ。せめて口くらい閉じてあげてほしかった。

 「多死社会」を象徴するように、今年に入って火葬場が追い付かないくらい、亡くなる人が多いと葬儀社の担当者は言った。一時期は、2週間待ちだったという。父も、火葬まで6日も待たされることになった。

「首都圏の端っこにあるうちの市でも、こんな状態です。そういえば、都内の友人のところも1週間待ちだと言っていましたが、混んでいたのは都内だけではなかったようです。母のときは、1日置いて通夜、葬儀ができていたことを考えれば、多死社会がこれほど進行しているんだと実感しました。コロナが猛威を振るっていたときは別枠で火葬していたので、一般の人はこれほど待たなかったそうです。これから私たち世代が亡くなる頃は、いったいどうなるんだろうと思いました」

 そのうえ霊安室を使うのに、1泊1万5,000円取られたと苦笑する。10日待てば、霊安室だけで15万円だ。6日で済んだのはまだ幸運だった。自宅に置くこともできないことを考えると言い値を受け入れるしかないとはいえ、あまりの金額にため息が出る。

続きは5月7日公開