「両親がいないという現実と空虚感に襲われる」介護を終えた娘が抱える思い

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける” ――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

  そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 両親を見送った春木直美さん(仮名・53)の話を7回にわたって続けてきた。直美さんは仕事をしながら、そして離婚して実家に戻った娘、ひとみさん(仮名・27)の幼い子どもの面倒も見ながら、両親を何度も襲う病気やケガに対処してきた。両親が亡くなった今、直美さんはどういう思いでいるのだろう。

母の介護は後悔することばかり

 孤軍奮闘してきた長い介護が終わった。直美さんは、「父の介護に悔いはない」と言う一方で、母の八重子さん(仮名)については「後悔することばかり」と明かす。

「廃人のようになっていく母を見るのがつらくて、母の最期の数カ月、私は施設にも病院にもほとんど行くことができず、娘に行ってもらっていたんです。娘は、母と話ができなくても、母が娘のことをわからなくても、『生きていてくれるだけでいい』と言っていました。それなのに、私はそんな母の姿を見たくなかった。後ろめたく思いながら、自分の気持ちを優先してしまったんです」

 両親を失ったあと、 直美さんと時にはぶつかりながらも一緒に走り続けてくれたひとみさんは、再婚して家を出て行った。昨秋、 一人になった直美さんの住む市は、台風や川の氾濫と大災害に見舞われた。

「誰にも頼れず心細い思いをしましたが、一人で乗り切れたのも、 父が残してくれた懐中電灯があったから。戸棚からこれを見つけたとき、 ハッと気がついたんです。父が一晩中、嵐のように部屋を散らかしていたのは、家で過ごす最後の時がきたと気づいて、身辺整理をしていたんだと。当時は、また暴れていると思って腹が立ったけど、こうして見ると必要なものがちゃんとわかるように仕舞われている 。父の思いに気づき、昔気質な人だったけど、本来は優しい性格だったと思い出しました」

 二人を失って、改めて両親の子どもでよかったと思う、 と直美さん。二人の写真に「行ってきます」「ただいま」 と挨拶する毎日だ。

「それでも、両親がもういないんだという寂しさがたびたび襲ってきます。同じ一人暮らしでも、親が生きているのといないのとではまったく違うんです。もう二度と母のおいしい料理を食べることもできない。買い物に行って待ち合わせをすることもできない……そんな現実と空虚感に押しつぶされそうです」

 ここ数年は両親の介護で仕事どころではなかったので、仕事も減ってしまった。

「二人の新盆をすませて、少し体を動かせるようになってきたので、単発の仕事を再開したところです。まだまだつらい日々ですが、春になって母の喪が明けたら、吹っ切れるかなと思っていたんです。こんな話をする気になったのも、親への思いを吹っ切るためでもあるんです」

 直美さんの両手首には、それぞれ両親の“思い出”がつけられている。仕事の繁栄を願って母・八重子さんが手作りしたブレスレットは右手首に、左手首には父・謙作さんの腕時計だ。落ち着いたら、思い出のあるこの家から引っ越そうと思う、と静かにほほ笑む。少しずつ荷物を片付けているところだ。

 最後に直美さんは、「これだけは介護する子世代に知っておいてほしい」と、介護のポイントを挙げてくれた。

 その1つ目が、ケアマネジャー選びの大切さだ。直美さんのケアマネジャーは3人が交代した。そのうち2人は病院の紹介だったが、老人保健施設探しなどは直美さんが一人でやるしかなかったという。

「介護用品や介護保険を使う自分の利益だけを目的にして、私や両親のことを見てくれていない、考えてくれていないのがよくわかりました。たとえどこの紹介であっても、自分の目で見て判断してほしいと思います」

 2つ目は、お金のこと。両親が続けざまに倒れ、二人同時に入院していた時期も長かったが、謙作さんの年金が高かったため高額療養費の適用外だったという。高額療養費とは、医療費の負担が重くならないよう、医療機関や薬局で支払う医療費が1カ月で上限額を超えた場合、超えた額を支給してもらえる制度だ。上限額は年齢や所得に応じて定められている。

「母の年金は少なかったので、二人合わせると大した額ではありませんでした。それでも父一人の年金額が高いことで高額療養費は適用されないと言われました。入院中は個室料金やアメニティの料金も加算されるので、もっとも多い月には母だけで約50万円かかりました。父が亡くなったあとは負担が減ったものの、それまでに両親の蓄えはなくなってしまいました」

 そのうえ両親が医療保険に入っていなかったことが、負担が増える結果になったと振り返る。

「父がまだ若く元気なときに保険のことを聞いたことがあるのですが、父からは『親が死んだときのことを考えているのか』と反発されてしまいました。せめて終身保険に入ってくれていたらと思いました」

 さらに親の死後もお金はかかる。春木家には菩提寺もお墓もあった。それでも予想以上の出費となったという。

「葬儀や戒名、位牌、法事と、お金のかかることが続きます。お墓はありましたが、埋葬代も結構かかりました。菩提寺があるのなら、住職に葬送にかかる費用がどれくらいになるのか、確認してみることをおすすめします」

*****

 直美さんの介護は終わった。それにしても――と思わずにはいられない。

 謙作さんや八重子さんが退院して自宅に戻るときに、ケアマネが訪問医か訪問看護を入れてくれていれば。あるいは誰かしらのプロが、直美さん親子に寄り添い、支えてくれていれば……。

 八重子さんがいよいよ危ないというときに、看取りの病院で穏やかな死を迎えることができていたかもしれない。救急病院で心臓マッサージを何度もしなくて済んだかもしれない。

 「もし」を考えても詮ないことだ。親の死に際して、「あのとき、こうすればよかった」と後悔する子どもは少なくない。直美さんも、無理に前を向こうと思わなくてもいい。それでも、直美さんの心が満たされる日が来ることを祈りたい。

老人保健施設で「廃人のようになった」母……「1カ月も放置された」と憤る娘の告白

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける” ――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

  そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 春木直美さん(仮名・53)が父の謙作さん(仮名)を看取ったあと、母の八重子さん(仮名)も重篤な状態に陥る。入所していた老人保健施設で、数カ月の間異変を放置されたあげく、大量に下血して救急搬送されたのだ。

(前回:暴力と奇声、おむつに手を入れるーー精神状態が悪化した母は、リハビリ病院で拘束された

何かから解き放たれたようだった

 大学病院に搬送され一命をとりとめた八重子さんは、かかりつけの急性期病院に転院した。

 八重子さんの状態はとても悪く、何か触るだけで皮が剥けてしまう。栄養がまったく取れておらず、背中には水が溜まっていた。造影剤を投与するにも腎臓が対応できない。急遽、生理食塩水を“命の水”として点滴した。心臓をはじめすべての臓器の機能が低下していて、「やれることからやります」と医師に言われたという。

 それから2カ月小康状態を保ち、看取り専門の病院に移った。脳腫瘍が再発しているうえに、脳のほとんどが梗塞を起こしており、全内臓と心臓機能も低下していた。それほどの状態だったが、すぐ命にかかわることはないと言われ、「この病院なら家族も泊まり込むことができる。花が大好きな母にふさわしく、庭には花が満開で、スタッフも優しい。この病院で穏やかに最後まで過ごさせてあげたい」と直美さんは安堵していた。

 だが転院したその夜、八重子さんは急変した。

「転院するために車で搬送されたことが母の体に負担をかけたようです。翌朝、また下血しました。このときは娘が付き添っていたんですが、『うちの病院は看取り専門なので、治療はできません。ここで看取りをするか、救急搬送するか、ご家族で話し合ってください』と言われたと、娘から連絡が来たんです」

 娘のひとみさん(仮名・27)は、仕事で忙しかった直美さんに代わって育ててくれた祖母、八重子さんのことが大好きだった。「このまま何もしないで、後悔したくない」というひとみさんの気持ちを尊重し、直美さんも救急病院への搬送に同意した。

 そして運ばれた救急病院で、八重子さんは人工呼吸と心臓マッサージを施された。

「とうとう、娘は医師から『家族のどなたかを待っているんだったらまだ蘇生を続けますが、そうでないのならもうやめましょう』と言われたそうです。『もうこれで終わりにしていい?』と電話してきました。このとき、預かっている孫の体調が悪かったんですが、少し落ち着いていたので、孫を連れて急いで病院に向かいました」

 直美さんが病院に到着したときには、すでに八重子さんは亡くなっていた。

「何かから解き放たれたように、きれいな顔でした。白装束になったときには、以前のように美しい母に戻っていました。闘病生活を支えてくれた看護婦さんから、『本当に可愛くて元気をくれる八重子さんが大好きだった』と声をかけてもらえたのがありがたかったです」

 その後、状態が悪化しながら何カ月も放置していた老人保健施設の対応が納得できない直美さんは、八重子さんの死後、施設の医師やソーシャルワーカーなどのスタッフに説明を求めた。

「そのときに初めてわかったのは、1月に入浴させようとしたら手足にむくみがあったから、利尿剤を投与し、次に顔にむくみが出たので利尿剤を増やしたということでした。そのときに知らせてもらっていたら、利尿剤はやめてもらったのに。クリスマスの時点で明らかに母の様子がおかしかったんです。医師なら、なぜこのときに脳梗塞とか心疾患の疑いを持たなかったのでしょう。なぜ1カ月も廃人のようになったまま放置したのか。医師からは『脳梗塞・心不全は考えられたがその処置は取らなかった。申し訳なかった』と言われ、全員に頭を下げられたが、死んだ人は戻って来ない。納得できるわけがありません」

 直美さんにはささやかな夢があった。謙作さんが生きていたとき、八重子さんの施設と同じ系列の特養に申し込んでいて、そこで人生の最後を夫婦二人で穏やかに過ごしてもらいたいと思っていたのだ。

「母の死後、特養に挨拶に行って、申し込みは取り消してあります。それが、母の死から半年以上経って、特養から入所申請確認書類が来たんです。信じられますか? 異変を放置されたばかりではなく、遺族の心を踏みにじるような施設を許すことができません」

 直美さんは「私のような思いをする家族を増やしたくない」という一念で、この話をしてくれたのだという。

 今の直美さんを支えているのは施設に対する怒りなのかもしれない。わだかまりが消えるまで、直美さんの介護は終わらないのではないか。ヒリヒリした直美さんの思いが伝わってきて、胸が苦しくなった。

――次回は5月24日公開

暴力と奇声、おむつに手を入れるーー精神状態が悪化した母は、リハビリ病院で拘束された

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける” ――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)  

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 春木直美さん(仮名・53)の介護を5回にわたり綴ってきた。両親を次々と襲う病気やケガ。そのたびに奔走する直美さんも、いつ倒れてもおかしくないギリギリの状態だった。心不全を患っていた父の謙作さん(仮名)は、地域包括ケア病棟から老人保健施設入所を経て3カ月後、心臓病の悪化と誤嚥性肺炎によって、娘・孫・ひ孫が見守る中静かに息を引き取った。

(前回:認知症の父が土下座で「至らない人間で申し訳ない。許してほしい」――介護する娘に、頭を下げた

精神状態が悪化し 、拘束された母

 この間、母の八重子さん(仮名)はどうしていたのだろうか。

 脳梗塞の再発でリハビリ病院に入院していた八重子さんは、またもや精神状態が悪化していた。入浴やリハビリを拒否する、看護師を叩く、夜中に奇声を上げる、おむつの中に手を入れる……。とうとう拘束されてしまった。それまでも、脳腫瘍の後遺症でてんかん発作を起こし、十二指腸潰瘍で吐血して転院、再びリハビリ病院に戻ってくる、という状態だった。

 病院から施設に移った方がよいのではないかと促され、紹介された老人保健施設に移ることになった。謙作さんが亡くなった後のことだ。

「このころの母はまだ、いくらか調子がよく、入所する時も老人保健施設のソーシャルワーカーに『よろしく』と挨拶できましたし、笑顔も見られたくらいでした。施設に入居してからは、リハビリをしてくれる理学療法士に『2メートル歩けました』と報告されて、すっかり安心していました」

 それが12月上旬のこと。ところがクリスマスに、八重子さんとケーキでも食べようと、娘のひとみさん(仮名・27)と施設を訪れたところ、八重子さんは直美さんのことがわからなくなっていた。

「ソーシャルワーカーが、『目があまり見えていないんです』と言うんです。はあ? ですよ。12月頭には孫のことをかわいがっていたのに、急に目が見えなくなっているって、おかしくないですか。カンファレンスでは、1カ月前に理学療法士から聞いたのとまったく同じことを報告されて、それからここまで状態が悪くなっている母に何があったのか、施設側はまったく把握できていなかったんです」

 不信感を抱いたまま、翌月に八重子さんのところへ行くと、状態はさらに悪化していた。

「食堂で車いすに座らされているけど、体は『くの字』に曲がって、ただテーブルの一点を見つめている。『お母さん』と呼んでも反応がない。医師に聞くと『顔にむくみが出ているので利尿作用のある薬を出している』ということでしたが、12月頭からの母の変貌が激しすぎる。脳梗塞をまた起こしているんじゃないかと思いましたが、それなら医師がわからないはずはないですよね」

 父の納骨が終わったばかりで頭が回らず、おかしいと思いながら、それ以上医師に問い詰めることもできないまま、後ろ髪をひかれながら帰宅した。その直後、八重子さんが大量に下血。施設の担当者から、十二指腸潰瘍の再発で救急搬送されたという連絡が入った。

「病院を7カ所もたらい回しにされたあげく、貧血で瀕死の状態になってやっと大学病院の集中治療室に入れたというんです。担当者は『いい加減にしてください』と怒っていましたが、私は預かっていた孫が熱を出していたので、病院には娘に行ってもらっていました」

 翌日、八重子さんがいた施設からかかって来た電話に、直美さんは絶句した。

「『もう施設を退居していただきたいので、荷物を取りに来てください』と。その事務的な口調に耳を疑いました」

ーー次回は5月17日(日)更新

 

認知症の父が土下座で「至らない人間で申し訳ない。許してほしい」――介護する娘に、頭を下げた

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。シングルマザーの春木直美さん(仮名・53)の話を続けよう。脳梗塞を二度起こした母・八重子さん(仮名)、心疾患と進行した胆管がんを抱える父・謙作さん(仮名)の二人を介護をしていた直美さんは、退院して自宅に戻った謙作さんのひどいせん妄で疲れ果て、自宅介護は限界に達していた。孫を置いて仕事に行こうとする娘、ひとみさん(仮名・27)にキレてしまうほどだった。

(前回:「父のせん妄で、もうめちゃくちゃ」育児と仕事、両親の病――追い詰められた自宅介護の果てに……

「非常識だ」医師からの激怒

 病院は受け入れてくれず、ケアマネは相談にも乗ってくれない。直美さんが最後に助けを求めたのは、謙作さんが心不全を起こしたときに診てもらったクリニックの医師だった。

「このままじゃ、私は死んでしまう。もう3日も寝ていないんです。父の下血は鮮血なんです」と窮状を訴えた。

 直美さんは以前、病状が安定した患者が在宅復帰に向けた医療を行う「地域包括ケア病棟」というものがあることを前にケアマネから聞いていたので、「地域包括ケア病棟に紹介状を書いてほしい」と頼み込んだ。

 だが、医師に書いてもらった紹介状を手に、地域包括ケア病棟のある病院に駆け込んだ直美さんは、そこの医師に激怒されたという。「急に来て、入院させてくださいなんて非常識だ」と。

 直美さんは、紹介状を書いてくれた医師にお詫びの電話を入れた。そして数日預かってくれる施設すら紹介してくれないケアマネを電話先で怒鳴った。

 途方に暮れていた直美さんに、救いの手が伸びた。紹介状を書いてくれたクリニックの医師が地域包括ケア病棟の担当医に直接電話をしてくれたのだ。激怒した医師も謙作さんの状態が良くないことがわかり、病院のベッドを空けてくれた。

 よかった、というべきなのだろうか。いや、こうまでしないと誰も動いてはくれないということなのだ。すべての扉を閉められて、追い詰められている親や家族がいったいどれくらいいるのだろう。それを考えると、暗澹たる気持ちになる。

 謙作さんのせん妄がひどく眠れない日が続いていたにもかかわらずき、子どもを押し付けて仕事に行こうとするひとみさんに、直美さんがキレてしまったときの謙作さんの姿が、今も忘れられないという。

「椅子を布団に投げつけて、家を飛び出し、ファミレスでビールを飲んで頭を冷やして家に戻りました。すると父が私に『至らない人間で申し訳ない。俺が悪いんです。許してください』と土下座したんです。母が倒れてからは優しくなりましたが、昔気質で怖かった父が頭を下げている。父にそんな思いをさせてしまったことが悔しくて、悲しくて、『お父さんは悪くないよ。ここまで育ててくれたじゃない』と父を抱きしめました」

 地域包括ケア病棟に入院した謙作さんを診察した医師に、「もう在宅でみるレベルじゃない」と言われ、驚いたという。

「この病院のスタッフには感謝してもしきれません。薬を整理して全身を丁寧にケアしてくれただけでなく、父が夜中にせん妄を起こして私の名前を呼んで探し回っても、怒ることもなく、父に『私が直美よ』と言って落ち着かせてくれていました」

 これがプロというものだろう。もちろんこれまでに直美さんにかかわってきた人たちも、皆プロだったはずなのだが――。

 謙作さんはこの病院で2カ月過ごし、病院の系列の老人保健施設に移った。認知症も進み、要介護4となっていたので、「自宅に戻せる状態ではない」と判断されたのだ。老人保健施設に入って1カ月後、謙作さんは誤嚥性肺炎を起こし、病院に運ばれた。

「入院手続きをしていると急変しました。医師や看護師が集まっていて父に近づけなかったので、せめて足だけでもと思ってマッサージをしていたところ、30分ほどであっけなく亡くなってしまいました」

 謙作さんの葬送、寺や葬儀社の手配をし、施設に荷物を引き取りに行く……と、直美さんは謙作さんの死を悲しんでいる間もなかったし、八重子さんのところに行く余裕もなかった。

「母を見ると、もう別人だった」ギャーっと叫んで暴れる姿に、娘は……介護の修羅場

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。シングルマザーの春木直美さん(仮名・53)の話を続けよう。

(前回はこちら:「おじいちゃんが救急搬送された」心不全の父と脳梗塞の母ーーひとり娘が背負った介護の現実

 両親が続けざまに倒れ、介護が必要になったある日、母の八重子さん(仮名)が室内で転倒。大ケガをしたのをきっかけに、デイサービスを嫌がるようになった。そんな中、今度は父の謙作さん(仮名)がベランダで転倒し、頭に大ケガをしてしまう。全治1カ月の傷を負った。

がんばらない母に優しくできない

「父のときは娘が仕事だったので、私が仕事先に頭を下げて通院に付き添いました。その後のケアをするのにヘルパーさんをお願いしたかったのですが、ケアマネは相談にも乗ってくれなかったし、父は他人を家に入れるのを好まないので、体が不自由な母に父の傷の手当をしてもらうような状態でした。それでも母がいてくれてよかったと思います。私なら、父の大きな傷を見て気を失ったに違いないでしょう」

 ところが、謙作さんのケガが落ち着くにしたがって、再び八重子さんの精神状態が悪化した。

「母が退院したときには、自分のことは自分でできるまで回復していたはずだったのに、デイサービスに行く以外は動こうとしない。食べることばかりに貪欲で、マヒは進んでいく。1日中寝てばかりいる姿を見て、私は母に文句を言ってしまったんです。『なんでリハビリもしないで、1日寝てばかりいるの?』と。がんばらない母に優しくできませんでした」

 八重子さんは脳梗塞やケガが原因でウツになっていたのではないかと、直美さんは振り返る。

 八重子さんに厳しく当たる一方で、仕事に行こうとする直美さんに、八重子さんは「悔しい」「なんで私だけがこうなるの!?」と泣き叫んでモノを投げつけた。修羅場だった。

 直美さんは、もう一度八重子さんに生きる喜びを与えたいと思った。脳梗塞で入院した病院の理学療法士にリハビリをしてもらえば、再びリハビリへの意欲が湧くのではないかと考え、手続きを進めていた直美さんだったが、八重子さんの様子がおかしいことに気づいた。

「リハビリしてもらえるよと言っても、あまり喜ばないんです。さらに頭がぐちゃぐちゃしていると言い出しました。ある日私が仕事から戻ると、父が『母の様子がおかしい』というんです。母を見ると、もう別人でした。呂律は回らないし、ギャーっと叫んで暴れるばかりで、立つこともできませんでした」

 救急車を呼ぼうとしたが、幼い孫を謙作さんに任せることに不安があり、娘のひとみさん(仮名・27)が仕事から戻るのを待つしかなかった。

「ようやく病院に連れていったところ、また脳梗塞を起こしていたことがわかりました。そのうえ十二指腸潰瘍にもなっていて、出血していることもわかり、その治療を終えてからでないと脳梗塞の治療はできないとのことでした。これらの治療を終えて再びリハビリ病院に転院したところ、今度はてんかんの発作を起こしたんです。20年くらい前に良性の脳腫瘍で手術していたんですが、その後遺症ということでした」

 直美さんは、目まぐるしいこれらの経緯を鮮明に覚えているらしく、メモを見ることもなく話し続ける。聞いているこちらが混乱するほどだから、立て続けに両親を襲う病気やケガが自分の身に起こったとしたら、どれほど大変なことだっただろう。仕事だけではない。孫の面倒まで見つつ、よく乗り切ったものだと驚くが、これはまだ序章でしかなかった。

 

「おじいちゃんが救急搬送された」心不全の父と脳梗塞の母ーーひとり娘が背負った介護の現実

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。シングルマザーの春木直美さん(仮名・53)は、娘のひとみさん(仮名・27)が幼いころから両親に預け、仕事を続けてきた。ひとみさんは結婚して家を出ていたが、離婚し、幼い娘と再び実家で暮らしていたのだが、母の八重子さん(仮名)が脳梗塞の発作を起こす。幸い、後遺症の残らなかったものの、退院当日に八重子さんは病院のベッドから転倒してしまう。

(前回はこちら:パーフェクトだった母が脳梗塞にーーシングルマザーが直面した、両親の壮絶な介護)

退院する母を迎えるには最悪の環境

「すぐに検査してもらい、脳には異常ありませんでした。しかし、それ以来母は歩くことへの恐怖心を持ってしまったんです」

 そのうえ、八重子さんが戻る自宅の環境は大きく変わっていた。それまでの住まいは段差が多く、脳梗塞を患った八重子さんには生活しづらいだろうと考え、直美さん家族はバリアフリーのマンションに引っ越していたのだ。

「しかも、引っ越したばかりでまだ荷物が山積みの室内を見に来たケアマネジャーと福祉用具レンタルの業者が、『これでは介護ベッドを入れられない』と、荷物の入った段ボールを次々とタンスの上に積み上げ、クローゼットに和ダンスを無理やり入れてしまったんです。『早く家に帰って、ひ孫と遊びたい』と退院を楽しみにしていた母を迎えるには最悪の環境になっていたんです。病室よりも悪かった。そもそもこのケアマネも、母が入院していた病院の紹介。退院してくれないかと打診されるやいなや、『すぐ自宅を見に行きたいから、それまでに引っ越してください』と言ったんです。そのころ私は仕事が忙しかったうえ、東京に借りていた部屋も引き上げて実家に戻ることにしていたので、孫の面倒もみながら二つの家の引っ越しもしないといけないという状況だったのに、そんな事情などお構いなし。病院とつながっているケアマネとレンタル業者なので、病院の都合を優先したんでしょう」と、直美さんは憤る。

 そのころ、父親の謙作さん(仮名)にも異変があらわれていた。

「母の入院中、父の歩行がすり足になり、夜中によく転ぶようになりました。足が象のようにむくんでいたこともありました。それで病院に行ったところ、不整脈がわかったんです」

 日中は謙作さんも元気だったので引っ越しはできたものの、八重子さんが退院して半月ほどたった朝、謙作さんは心不全の発作を起こす。

「呼吸が明らかにおかしいんです。その日私にはどうしても休めない仕事があったので、娘に病院に連れて行ってもらいました」

 まもなく、直美さんの仕事先にひとみさんから「おじいちゃんが大変な状況で、大病院に救急搬送された」というメールが入った。途中発熱があり、軽い肺炎を起こしかけていて危ない状態になったが、2週間の入院で無事退院することができた。

 自宅に戻ると、せん妄による暴力や暴言がひどく、直美さんは大変な思いをしたという。心不全には軽い運動も必要だった。八重子さんも脳梗塞のリハビリをする必要があったので、両親はデイサービスに通うようになったが、八重子さんの精神状態は波が激しかった。

「これは私が悪いんですが、そのころ手がけていた仕事がうまくいって、両親にも喜んでほしいと思って京都のおいしい卵焼きを買って来たんです。母も気分がよくなり、ほんの少しお酒をいただいたあと、片付けようとしていたら、ひっくり返ってしまいました。その拍子にガラスで手を切ってしまい、また血だらけで救急搬送。病院のベッドで転倒したときの恐怖もよみがえったのでしょう。歩くと転ぶと思うようになり、それからふさぎ込むようになってしまいました。デイサービスにも行きたくない、デイサービスのお風呂もイヤだという。すると父までデイサービスに行かないと言い出しました。それからはデイサービスへの送り出しをするために、仕事を調整しなければならなくなりました」

 そんなとき、今度は父の謙作さん(仮名)がベランダで転倒し、頭に大ケガをしてしまう。タバコを吸おうとガラスの灰皿を持っていたため大出血し、全治1カ月の傷を負った。

――続きは18日公開

パーフェクトだった母が脳梗塞にーーシングルマザーが直面した、両親の壮絶な介護

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。新型コロナウイルスで、外に出かけられずに鬱々としている親世代は少なくない。デイサービスやショートステイが中止されたり、施設への面会が禁止されたりしているという声も聞こえてくる。高齢者が感染すると重症化する恐れがあることから、これらの対応は当然なことだろう。とはいえ、これが長期化するとどんな影響が出てくるのか心配だ。

 さて、今回は仕事をしながら両親を見送ったシングルマザーの話をお届けしたい。

娘を育ててくれた自慢の母

 春木直美さん(仮名・53)は、東京郊外のマンションに一人で暮らしている。離婚したときには1歳になったばかりだった一人娘のひとみさん(仮名・27)は、結婚して家を出た。時間が変則的な仕事の直美さんに代わって、ひとみさんを育ててくれた両親の謙作さん(仮名)と八重子さん(仮名)は、1年ほど前に相次いで亡くなった。

「私が仕事を続けられたのも、20年以上ひとみを育ててくれた両親のおかげ。本当に感謝しています。母はいつも自分のことは二の次。昔かたぎの父や私たち家族を第一に考えて、とことん尽くしてくれる人でした。家事はパーフェクト。特に母の料理は誰もが絶賛するほどの腕前でした」

 母の八重子さんは80歳を過ぎたころから、足の痛みを訴えるようになった。検査したところ、脊柱管狭窄症だと診断された。痛みのため、足腰の筋肉も固まってしまっており、強い痛みが毎日朝から半日ほど続いた。

「母はリハビリにも通いながら自分でもストレッチを続けていました。調子がいい日には買い物に行けたし、家事もやってくれていました」

母が脳梗塞に――

 そんな日々が2年ほど続いたある日、八重子さんがこれまでになく強い痛みを訴えた。歩くことはもちろん、立ち上がることもできない。這ってトイレに行くほどだったが、八重子さんも直美さんも脊柱管狭窄症による痛みだと思い込んでいた。いつものように、時間がたてば痛みも治まるだろうと楽観視していたのだが、逆に八重子さんはだんだん顔色が悪くなり、ついには唇が紫に、口も半開きになった。

 この頃、直美さんは仕事のため東京で生活し、週末には実家に戻るという生活をしていた。というのも、いったん結婚して家を出たひとみさんが、夫のDVが原因で幼い娘を連れて実家に戻っていたのだ。DVを間近で見続けていたせいか、ひとみさんの娘は人におびえ、極度の人見知りになっていたという。そのことにショックを受けた八重子さんが、ひとみさんの娘の面倒をみると宣言したのだ。

 ところが、八重子さんは足の痛みで家事や育児が思うようにできなくなったため、ひとみさんが平日に家事育児をし、週末には直美さんが実家に戻り、ひとみさんが仕事に行くという生活をしていたのだ。

「娘は介護を学んでいたので、足の痛い母のケアをして、通院にも付き添ってくれていました。私の代わりに育ててくれた母のことを、娘は大切にしていたんです。だから、このときも母の様子を見て『これはいつもの痛みとは違う』と、救急車を呼びました」

 ひとみさんのカンは正しかった。

 八重子さんは脳梗塞を起こしていた。幸い発見が早かったので軽症ですみ、リハビリ病院で半年リハビリをすると、マヒや言語障害もなく、自分のことは自分でできるくらいまで回復した。

 ところが、退院当日、八重子さんはベッドから立ち上がろうとしてバランスを崩し、転倒してしまう。

――続きは、4月12日(日)公開

「キャッシングで借金、病院代もない」50代無職夫婦と80代老母の“八方塞がり”――「8050問題」の現実

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

 小田誠さん(仮名・52)は、両親が離婚したあと、長らく音信不通だった母親の介護中に相談に乗ってもらっていた松永理恵子さん(仮名・50)と結婚した。お互いに初婚。50歳になってようやく迎えた春だった。

 福祉関係の専門職として活躍してきた理恵子さんと結婚するという小田さんに、友人たちは「母親を最期まで責任をもって介護したご褒美だ。神様はちゃんと見てくれていたね」「逆玉の輿だ」と祝福してくれたという。

 そんなとき、今度はこれも長く音信不通だった父親が倒れたという連絡が来た。母の介護がようやく終わって、理恵子さんと人生を再スタートしようというときに、これ以上身勝手な親に振り回されたくなかった。「もう生活保護でもなんでもいいので、役所で好きなようにしてほしい。自分はもう引っ越すので何もできない」と言って、理恵子さんの住む都内に逃げるように越したのだった。

(前編はこちら)

こんなに優秀な女性が私の妻に

 追ってくる暗雲を払いのけるように、理恵子さんと暮らしはじめた小田さんは、もっと厳しい現実に直面する。

 年齢もあって、正規雇用の仕事はなかなか見つからず、非正規で働くしかなかった。これは小田さんもある程度は覚悟していたことだった。理恵子さんをサポートできればいいくらいのつもりだったからだ。

 この頃、理恵子さんはこれまでの業績が認められ、ある私立大学の教員に推挙されていた。

「私も誇らしかったですね。こんなに優秀な女性が自分の妻になってくれる。これまで50年間一人でいたのも悪くなかったと、自分の幸運に浸っていたくらいでした」

 だが、そんな幸福も長くは続かなかった。

 理恵子さんは勤務先の大学を牛耳っていた教授たちから、ひどいパワハラを受けたという。「長い物には巻かれろ」ができない理恵子さんの性格が災いした。着任して1カ月もたたないうちに休職、そして数カ月後には退職に追い込まれてしまう。ひどい鬱だった。

「彼女が退職したとたん、生活に困窮するようになりました。私の仕事もろくにない状態なのに、都内の高い家賃は払い続けられません。彼女の療養もかねて、家賃の安い近県に引っ越そうということになりました」

 理恵子さんの実家に戻り、二人で同居させてもらうという方法も考えたというが、それはかなわなかった。理恵子さんの実家には、義弟が住んでいたからだ。

 義弟は勤めていた大企業を辞め、小田さんいわく「怪しげなベンチャー」を立ち上げたが、うまくいかなくなって自己破産。妻とも離婚して、実家に戻ってきていたのだ。

「そうした経緯もあるからか、私たち夫婦には攻撃的で、まともに会話もできません。妻はそれで鬱がひどくなってしまった。とても私たちが妻の実家に同居させてもらえる状態ではないんです」

 肝心の義母も、かわいい息子が帰ってきて、二人で暮らせるのがうれしいようだと小田さんはいう。とはいえ、義母にとっても、娘と息子が放っておけない状態であることは心痛に違いない。

 だからか、小田さん夫婦は近県に引っ越したあとも、たびたび義母に家賃や生活費を援助してもらっているのだ。

「お恥ずかしい話ですが、こちらに来てから何度も家賃を滞納しては、どうにも都合できなくなって、そのたびにキャッシングで借金したり、義母から借りたりしている状態なんです」

 理恵子さんの病気にも波があり、とてもまだ働くことのできる状態ではない。薬も欠かせないという。

「正直、病院代もきつい。私もいろんなことに自信がなくなってしまいました。日払いの仕事を見つけては働いているんですが、電車に乗っただけで体調が悪くなるんです。『プライドを捨てて、介護の仕事でも何でもやってみたらどうか。この人手不足で資格はなくても採用されるはずだ』と友人にも言われましたが、今の気力体力では続けられる気がしない。妻の主治医からも『あなたも鬱にならないように気をつけて』と励まされましたが、私まで病院に行くお金もない。友人が都内の仕事を紹介してくれたこともありますが、都内まで出かける金もないんです」

 もはや生活保護受給を考えるレベルだろう。このままでは共倒れだ。

「市役所に生活保護の相談にも行きました。でも今の家賃が生活保護の上限を超えているので、引っ越しすることが条件だと言われました。基準の範囲内の住まいなら引っ越し代も出せるというんです。生活保護が受けられれば病院代もタダになるので、今よりずっと楽になるのは間違いない。しかし、妻は引っ越しして環境が変わるともっと病状が悪くなるから引っ越しはできないと言っています。私には説得する自信もないし、実際、無理に引っ越して鬱が悪化するのは目に見えているので、難しいでしょう。結局ここで生活保護の話もストップしてしまっています」

 八方塞がりとはこのことだ。いざとなれば義母という助けがあることを、小田さん夫婦も役所の担当者も見越しているからかもしれない。だが、義母だって80代だ。いつまでもあてにできるわけではない。

 小田さんは、あれこれ考えることもできなくなり、「こうしなさい、と言ってくれる司令塔がほしい」と力なく笑う。

 「逆玉の輿」とからかわれた幸福なときは短かった。

「父を見捨てたバチが当たったのかもしれないと、最近思うようになりました。妻と結婚できたときは、母の介護をやったおかげだと思ったのに……」

 「8050問題」――50代の引きこもりや職のない子どもを、80代の親が支えるという構図が社会問題になっている。小田さんの場合、80代の親1人に対して、40から50代の子どもが3人。この現実の前に言葉も出ない。

「もっと私が死に物狂いで仕事を探すしか、解決の道はないんですよね……」

 歯車はどこで狂ってしまったのだろう。それでも、一人で苦しむより、小田さんのそばに理恵子さんという家族がいてよかったと思うべきなのだろうか? 小田さんと別れてからも、ずっと考えている。

音信不通の父が脳梗塞に――ゴミ屋敷暮らしの母を看取った一人息子、「親の身勝手」とこぼす理由

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。今回は、7年前の記事で紹介した、母親を介護するシングル一人息子のその後を追った。

あとは死ぬだけの母がうらやましい

 7年前にこんな記事(『あとは死ぬだけの母親がうらやましい』独身の一人息子が見た介護)を書いた。

 小田誠さん(仮名・55)は、親が離婚してから30年以上、父親からも母親からも距離を置いていた。母親は“人嫌い”で、実の息子と会おうともしなかったのだ。そんな母親の様子がおかしいと、近所の人が市に連絡をして、市の福祉担当者から小田さんに連絡が来た。

 ほぼゴミ屋敷で生活していた母親は、すでに認知症が進行していた。そのうえ無年金だったので、小田さんが生活保護の手続きをして、生活保護で入れる施設に入所させることができた。

 小田さんには、母親を扶養する力はなかった。アルバイトで食いつないで、ようやく暮らしている状況だったからだ。

 施設で暮らしていた母親はその後、誤嚥性肺炎を起こし入院した。小田さんのこともわからなくなり、あとは死を待つだけとなった。何度も「もうだめだろう」と言われては持ち直し、小田さんはそのたびにがっかりしていたと明かす。小田さんは長期入院も覚悟しながら、週1回、母のもとに通い続けた。生活保護を受けているので入院費用はかからないが、洗濯代を浮かすために、洗濯物を持ち帰る必要があったからだ。

「点滴で生かされて、死ぬこともできない。皮肉ですが、“死ぬまでは生かされる”んです。それでも、仕事もないのにまだあと30年は生きなきゃならない自分と比べると、あとは死ぬだけの母がうらやましい」

 痛切な言葉をもらしていた小田さん。今はどうしているのだろうか。

介護の相談をしていた女性と結婚

 あれから8年が過ぎた。亡くなった母親と同様“人嫌い”で、「僕みたいに愛情の薄い人間が結婚なんかしちゃいけない」と自嘲気味に語っていた小田さんは、なんと結婚していた。

「母のことでたまたま知り合った福祉の相談員に、話を聞いてもらっていたんです。彼女は福祉系の大学を卒業していて福祉については詳しく、私の地元にも福祉関係のセミナー講師として来ていたんです。彼女は専門職だけあって、私のつらさを受け止めてくれて、母を看取ることができたのも彼女のおかげだと感謝していました」

 母親を看取った小田さんは、このまま彼女、松永理恵子さん(仮名・50)を失うのが怖かった。“人嫌い”だったはずの小田さんだったが、理恵子さんがなくてはならない存在になっていたという。

 小田さんは、理恵子さんにプロポーズした。理恵子さんも、これまで仕事一本でずっと独身だったのだ。ただ、結婚の障壁というほどではなかったが、唯一二人が結婚するのにためらった点は、小田さんは北関東で、理恵子さんは都心にある実家で母親と二人で暮らしていたことだった。

 小田さんは、理恵子さんとの結婚を機に、心機一転ゼロから人生をやり直そうと決めた。

「母も亡くなったし、私も地元にしがみついていても仕事が見つかるあてもない。都心に引っ越せば、地元にいるよりは仕事があるだろう。もし仕事がなかったとしても、彼女には手に職があるので食いはぐれることはないでしょう。そうなれば私が主夫業をして、彼女を支えてもいいと思ったんです」

 小田さんのことを心配していた友人たちも、小田さんの遅い春を心から祝福してくれたという。ほとんど接点のなかった母親なのに、「最期まで責任をもって介護したご褒美だ。神様はちゃんと見てくれていたね」と我がことのように喜んでくれた友人もいたし、「逆玉の輿だ」とやっかみ半分で冷やかす友人もいた、と寂しく笑う。

 寂しく、というのには理由があった。“逆玉の輿”どころか、小田さんには結婚前よりもっと厳しい現実が待っていたからだ。

 小田さんは逃げるように地元を出て、理恵子さんのもとに向かった。

「母が死んで間もなく、また役所から連絡が来たんです。今度はずっと音信不通だった父が、脳梗塞で倒れたというものでした……。やっと母の介護が終わって、彼女と人生を再スタートしようというときに、今度は父。これ以上、身勝手な親に振り回されるのはごめんだ。もう生活保護でもなんでもいいので、役所で好きなようにしてほしい。私はもう引っ越すので何もできない、と言って急いで引っ越したんです」

――続きは3月22日更新

 

音信不通の父が脳梗塞に――ゴミ屋敷暮らしの母を看取った一人息子、「親の身勝手」とこぼす理由

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。今回は、7年前の記事で紹介した、母親を介護するシングル一人息子のその後を追った。

あとは死ぬだけの母がうらやましい

 7年前にこんな記事(『あとは死ぬだけの母親がうらやましい』独身の一人息子が見た介護)を書いた。

 小田誠さん(仮名・55)は、親が離婚してから30年以上、父親からも母親からも距離を置いていた。母親は“人嫌い”で、実の息子と会おうともしなかったのだ。そんな母親の様子がおかしいと、近所の人が市に連絡をして、市の福祉担当者から小田さんに連絡が来た。

 ほぼゴミ屋敷で生活していた母親は、すでに認知症が進行していた。そのうえ無年金だったので、小田さんが生活保護の手続きをして、生活保護で入れる施設に入所させることができた。

 小田さんには、母親を扶養する力はなかった。アルバイトで食いつないで、ようやく暮らしている状況だったからだ。

 施設で暮らしていた母親はその後、誤嚥性肺炎を起こし入院した。小田さんのこともわからなくなり、あとは死を待つだけとなった。何度も「もうだめだろう」と言われては持ち直し、小田さんはそのたびにがっかりしていたと明かす。小田さんは長期入院も覚悟しながら、週1回、母のもとに通い続けた。生活保護を受けているので入院費用はかからないが、洗濯代を浮かすために、洗濯物を持ち帰る必要があったからだ。

「点滴で生かされて、死ぬこともできない。皮肉ですが、“死ぬまでは生かされる”んです。それでも、仕事もないのにまだあと30年は生きなきゃならない自分と比べると、あとは死ぬだけの母がうらやましい」

 痛切な言葉をもらしていた小田さん。今はどうしているのだろうか。

介護の相談をしていた女性と結婚

 あれから8年が過ぎた。亡くなった母親と同様“人嫌い”で、「僕みたいに愛情の薄い人間が結婚なんかしちゃいけない」と自嘲気味に語っていた小田さんは、なんと結婚していた。

「母のことでたまたま知り合った福祉の相談員に、話を聞いてもらっていたんです。彼女は福祉系の大学を卒業していて福祉については詳しく、私の地元にも福祉関係のセミナー講師として来ていたんです。彼女は専門職だけあって、私のつらさを受け止めてくれて、母を看取ることができたのも彼女のおかげだと感謝していました」

 母親を看取った小田さんは、このまま彼女、松永理恵子さん(仮名・50)を失うのが怖かった。“人嫌い”だったはずの小田さんだったが、理恵子さんがなくてはならない存在になっていたという。

 小田さんは、理恵子さんにプロポーズした。理恵子さんも、これまで仕事一本でずっと独身だったのだ。ただ、結婚の障壁というほどではなかったが、唯一二人が結婚するのにためらった点は、小田さんは北関東で、理恵子さんは都心にある実家で母親と二人で暮らしていたことだった。

 小田さんは、理恵子さんとの結婚を機に、心機一転ゼロから人生をやり直そうと決めた。

「母も亡くなったし、私も地元にしがみついていても仕事が見つかるあてもない。都心に引っ越せば、地元にいるよりは仕事があるだろう。もし仕事がなかったとしても、彼女には手に職があるので食いはぐれることはないでしょう。そうなれば私が主夫業をして、彼女を支えてもいいと思ったんです」

 小田さんのことを心配していた友人たちも、小田さんの遅い春を心から祝福してくれたという。ほとんど接点のなかった母親なのに、「最期まで責任をもって介護したご褒美だ。神様はちゃんと見てくれていたね」と我がことのように喜んでくれた友人もいたし、「逆玉の輿だ」とやっかみ半分で冷やかす友人もいた、と寂しく笑う。

 寂しく、というのには理由があった。“逆玉の輿”どころか、小田さんには結婚前よりもっと厳しい現実が待っていたからだ。

 小田さんは逃げるように地元を出て、理恵子さんのもとに向かった。

「母が死んで間もなく、また役所から連絡が来たんです。今度はずっと音信不通だった父が、脳梗塞で倒れたというものでした……。やっと母の介護が終わって、彼女と人生を再スタートしようというときに、今度は父。これ以上、身勝手な親に振り回されるのはごめんだ。もう生活保護でもなんでもいいので、役所で好きなようにしてほしい。私はもう引っ越すので何もできない、と言って急いで引っ越したんです」

――続きは3月22日更新