世界第2位の映画大国に自由はない! 突如公安が乗り込んできて検閲! 中国映画1兆円市場・真の良作

――映画の本場アメリカに迫る勢いで世界随一の映画大国になりつつある中国。しかし、そこには政府による「検閲」という他国にはない事情が横たわっている。この検閲をくぐり抜けるべく、かつて若手映画人たちは死闘を繰り広げていたが……。

 2018年、中国における映画の興行収入は609億元(約9700億円)を記録した。12年には、日本と同程度の2000億円強という市場規模だったものの、わずか6年でその規模は5倍近くに急拡大。世界最大の映画大国である北米の1兆2000億円を抜き去るのも時間の問題とみられている。

 そんな映画大国に成長した中国の映画産業において、いまだ大きな壁として横たわっているのが「検閲」という制度。グーグルやフェイスブック、ツイッターといったサイトへのアクセスを遮断しているインターネット上の検閲は有名だが、映画においても、検閲によって暴力描写や同性愛描写、そして天安門やチベットをはじめとする政治問題などを描くことは徹底的に禁止されている。

 いったい、中国における映画検閲とはどのような仕組みになっているのだろうか? そして、映画関係者は、どのようにして厳しい検閲をくぐり抜けているのだろうか?

 検閲に触れる前に、まずは、中国映画産業の現状について確認してみよう。

 かつては中国の庶民にとって贅沢な娯楽であった映画鑑賞だが、近年の急速な経済成長に伴う生活水準の向上によって、観客の数も爆発的に増加。特に、ここ数年は全国あちこちにシネコンが建設され、スクリーン数は中国全土で6万にまで膨れ上がっている。この数字は、アメリカの4万スクリーンを抜き去り世界一。このような同国の「映画バブル」はすでに、日本でも話題となっている。作品別の興行収入では、1位を獲得した中国映画『オペレーション:レッド・シー』は36・5億元(約589億円)、外国映画でも『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』が23・9億元(約386億円)『ジュラシック・ワールド/炎の王国』が16・9億元(約273億円)というまさにケタ違いの興行成績をあげており、このうち、中国国外の映画会社に対しては興収の25%を分配する取り決めが行われている。

 そんな爆買いならぬ「爆見」状態の中国の映画市場に対して、ハリウッドの映画関係者は熱視線を注いでいる。近年製作された映画のうち少なくない作品が中国市場に食い込むために、さまざまな方法を駆使しているのだ。『映画は中国を目指す─中国映像ビジネス最前線─』(洋泉社)などの著書がある北海学園大学教授・中根研一氏は中国映画に対するハリウッドの姿勢を次のように解説する。

「以前はハリウッド映画において、中国人俳優は端役程度の存在として起用されることが多かったのですが、近年は、ストーリーにしっかり絡んだ役柄で登場することが増えていますね。16年1月に中国企業、大連万達グループに買収されたレジェンダリー・ピクチャーズが制作を手がけた『パシフィック・リム:アップライジング』ではジン・ティエン、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』ではチャン・ツィイーといった中国人女優が作品の中でも重要なキャラクターを演じ、中国の観客に対してアピールをしているほか、マーベル・シネマティック・ユニバースでは、初のアジア系スーパーヒーローを主人公とする『シャン・チー』を準備しています。ハリウッドの中にある出演者の民族的多様性を重視する流れにも後押しされ、主要登場人物としての中国人俳優の起用がかつてよりも明らかに多くなっていますね。

 また、作品の内容だけでなく、中国国内で展開されるプロモーション活動も、以前に増して活発化しています。19年だけでも、『デッドプール2』、『アベンジャーズ/エンドゲーム』、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』、『Xメン/ダーク・フェニックス』といった大作映画の監督やキャストが映画の公開前に訪中し、サービス過剰なほどさまざまな話題作りのイベントに積極的に参加。また、昨年大ヒットを記録した『アクアマン』や、今年公開の『スパイダーマン/ファー・フロム・ホーム』などは、本国よりも早い封切り日を設定しています」

 しかし、中国市場に参入しようともくろむ外国映画の前に立ちはだかるのが、中国政府が設定する「映画輸入制限」という制度。中国では、年間に上映される外国映画の本数が当局によって決められており、18年に公開されたのはわずか40本。10年代を通じてその数は徐々に拡大傾向にあるものの、他国に比較すると、ほとんどその門戸は開かれていない。

 また、この映画輸入制限本数については政治的な状況にも大きく左右され、近年の規制緩和の流れがいつ途絶えるかは定かではない。

「日中間が領土問題に揺れた13~14年には、日本映画が公開されませんでした。また、16年、韓国がTHAADミサイル配備を決定すると、中国政府は韓国文化の輸入規制を実施し、ドラマや映画の放送・上映ができなった過去もあります。現在、輸入制限は規制緩和の方向に動いていますが、今後、政府間の関係が緊張すれば特定の国の映画を輸入規制によって排除するといった対策をとることも十分にあり得るでしょう」(前出・中根氏)

 日本やアメリカのような国家とは異なり、伸長する中国映画市場の背景には、国家の思惑が強く影響する。トランプと習近平が繰り広げる貿易戦争を、映画関係者はヒヤヒヤした目で見つめているのだ。

 そんな「政府の思惑」が、輸入規制以上にダイレクトに反映されるのが検閲制度だ。

 中国では、すべての映画に対して検閲が義務付けられており、「暴力描写」「同性愛描写」「オカルト表現」「公序良俗に反する描写」「政治的にデリケートな問題」といった項目で問題があると見なされると、削除や修正指示が出され、従わなければ制作や上映は許可されない。中国国内で製作された映画はもちろん、中国国内で上映される外国映画も検閲の対象となっており、昨年世界的な大ヒットを記録した『ボヘミアン・ラプソディ』は公開こそされたものの、同性愛についての描写がすべてカットされてしまった。同様に、数々の映画が検閲によって上映禁止や修正処理という苦汁をなめてきたのだ(※コラム参照)。

 東京フィルメックスのディレクターであり、中国の映画祭でもコンペティション審査員を務めている市山尚三氏は、中国の検閲事情を次のように語る。

「中国では、検閲の基準が明文化されておらず、上映禁止になったとしても『技術的な問題』としか発表されません。おそらく、内部では基準があるはずですが、一般には公開されていないんです。その結果、検閲の基準は、検閲委員会に集められた審査員によって、あるいは検閲を受ける都市によってもまちまちという状況になっています。

 今年のカンヌ国際映画祭に出品されたディアオ・イーナン監督『ザ・ワイルド・グース・レイク』の劇中には、バイクに乗っているキャラクターの首がヘルメットごと吹き飛ぶという残酷描写がありました。日本ならばR指定を免れないそんな描写が含まれているにもかかわらず、中国では検閲を通過している。おそらく、この映画を担当した検閲委員会の基準が緩かったのでしょうね」

 そして昨年、そんな検閲制度をめぐって、大きな変更があった。これまで、国家新聞出版広電総局に属していた検閲を担当する部署「国家映画局」が、共産党中央宣伝部の管轄下へと移行したのだ。この制度改変によって割を食ったといわれるのが、『HERO』や『LOVERS』『初恋のきた道』といった作品で知られる中国映画の巨匠チャン・イーモウ。今年のベルリン国際映画祭で、その事件は勃発した。

「これまでの検閲は、映画界の実情を知っている人間が窓口を担当していたため、『カンヌに出品することが決まったので、早く委員会を招集して検閲を行ってほしい』といった融通は利いていた。しかし、共産党宣伝部が窓口になることで、そんな融通すらも難しくなってきているようです。

 今年5月、チャン・イーモウの作品『ワン・セカンド』がベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品される予定だったものの、直前になって“技術的な問題”から、上映が取りやめになったと発表されました。チャン・イーモウはこれまで、文化大革命を扱った『活きる』が許可を得る前にカンヌ映画祭で上映されたため、その後の国内での公開が禁止されてしまうなど検閲によって辛酸をなめてきた人物。検閲制度の事情は知悉しているはず。そんな彼の作品も、新たな検閲制度を前に、上映中止という事態に陥ってしまったんです。

 ただ、検閲そのものの基準が変更されたのかについては、まだ定かではありません。今後、どのような作品が出てくるかによって、現在の基準が明らかになってくるのではないかと思います」

 インターネット上の検閲に目を移せば、中国国内での規制は年々厳しくなっており、これまで抜け道となっていたVPNの使用も危ぶまれている。今後、共産党政権が映画産業に対してもこれまで以上に強い規制をかけていくという流れは十分に考えられるだろう。

 では、中国の映画作家たちは、そんな検閲に対抗するために、どのような手段を取っているのだろうか?

 90年代以降、中国では「独立電影」と呼ばれるインディーズ映画が製作されてきた。検閲を受けない代わりに、中国国内の映画館における上映を諦め、自主的な上映会や、国外の映画祭への出品といった方法に活路を見いだしてきたこのシーンは、デジタル機器の発達も相まって、00年代以降急速に盛り上がっていった。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得したジャ・ジャンクーや、天安門事件を描いた『天安門、恋人たち』を未検閲のままカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品したことから5年間の活動禁止処分を受けたロウ・イエ、これまでカメラが入ったことのない中国の精神病院内部を映した『収容病棟』などで知られるワン・ビンなど、国際的な映画祭で活躍する監督たちもこのシーンの出身だ。

 しかし、シーンが盛り上がりを見せるにつれて、当局は独立電影に対しても厳しい目を向けるようになる。特に、その弾圧が強まっていったのが、11~12年にかけて。北京インディペンデント映画祭は開催前日に当局によって中止を言い渡された。また、別の映画祭では突如公安が乗り込んできて検閲を要求したり、映画祭を中止にする代わりに会場となる地域一帯を停電にするといった、他国では考えられない妨害を繰り返した。

 そんな当局による執拗な圧力が成功したのか、ここ数年、独立電影シーンの存在感は徐々に薄れつつあるという。また、独立電影が下火になった一因として前出・市山氏は、「当局の圧力だけではなく、中国映画のバブル的な状況も関係があるのではないか」と指摘する。

「近年の映画バブル的な状況は、独立電影の作家たちをも変えつつあります。資金があふれている中国では、無名の作品であっても制作資金を集めやすい環境になっており、1億円の製作費を集めることも可能です。また、乱立するネット配信企業がコンテンツを探しているため、配信契約を結べば最低3000万円を保証するといった条件が提示されることも珍しくない。ただ、出資を受けるためには検閲を通して一般公開をすることによって資金を回収するのが条件となります。そんな状況が、独立電影の映画監督たちに検閲から自由になるために無理して自己資金で映画を製作するよりも、検閲を受ける代わりに資金的な自由を獲得してクオリティの高い映画づくりを優先させる流れを生んでいるのではないか。映画をめぐる環境の変化も、独立電影が勢いをなくしていった一因でしょうね」

 検閲に対抗するのではなく、あえて体制の監視下に入って映画づくりを行う道を選んでいる中国の若手映画監督たち。では、今後、中国において体制に抵抗するような作品はますます生まれにくくなってしまうのだろうか? そんな疑問に対して、前出の中根氏は、こんな兆候に一筋の光明を見いだす。

「近年、商業映画の中でも、これまで描くことがタブーとされてきた中越戦争(79年に勃発した中国とベトナムの戦争。事実上、中国軍の敗退)を描いた『芳華―Youth―』や、コメディながら実際の事件をモチーフにして中国国内における高額薬の問題を描いた『ニセ薬じゃない!』といった社会派の作品も検閲を通過し、興行的にもヒットしています。目の肥えてきた観客がこのような作品を求め、積極的に評価するようになれば、今後も骨太なテーマを持つ作品が上映されていくのではないでしょうか」

 とはいえ、検閲の枠組み内で活動する以上、天安門事件やチベット問題など、国家の根幹を揺るがす事件をテーマとした作品を制作することは絶対に不可能であり、同性愛を直接的に描くことも現状では難しいだろう。

 不明瞭な基準による検閲制度のもとで、拡大の一途をたどる中国の映画産業。これを支配する中国政府の意向が、全世界の映画産業に大きな影響を及ぼしていくのも時間の問題だ。

「Googleのレビューはもっとひどい」――“食べログやくざ”告発の店主を直撃、さらなる激白!

このところ、価格比較サイト大手「カカクコム」が運営する、ユーザー投稿型グルメ口コミサイト「食べログ」界隈が騒々しい。一部週刊誌記者によると、「数年前から、飲食店関係者の間で違和感を覚えるとの声が聞こえてきます」という。2016年に都内レストランオーナーが自身のTwitterで「突然スコアが3.0に落とされた」と明かし、物議を醸した件をはじめ、17年には、飲食店が有名レビュアー“うどんが主食氏”に過剰接待を行っていたことが、「週刊文春」(文藝春秋)で報じられた。

 そして10月1日、人気料理研究家・リュウジ氏が自身のTwitterに、「このお店トガってるなー、嫌いじゃない」という言葉と共に、張り紙の画像を投稿。そこには<お願い 当店は食べログへの掲載をお断りします。食べログヘビーユーザー全員は出入り禁止です。食べログヘビーユーザーの傍若無人、独善的、自ら神のごとき口コミに迷惑しまして禁止します。大切なお客様に評価していただきますので、食べログやくざの評価は結構です。食べログみかじめ料のお支払いお断り!>と食べログへの嫌悪感をあらわにした文章が確認できる。10万人近いフォロワー数を誇るリュウジ氏の投稿は、瞬く間に拡散され、ネットユーザーからは、「こんな張り紙をするなんて、余程嫌な気持ちにさせられたのでしょう……。お気の毒に……」など、店主への同情の声が多数寄せられることになった。

食べログの“算出方法”に疑問符
 そこで今回、サイゾーウーマンは、張り紙を掲示した居酒屋「九州料理とっとっと 千葉店」の店主である田中雅幸氏に話を聞くことにした。

――張り紙を掲示するに至った経緯についてお教えください。

田中雅幸氏(以下、田中) 最近貼ったものではなく、11年のオープン当初から貼っています。

――食べログに掲載されたのはいつ頃でしたか。

田中 オープン後、知らないうちにといった感じですね。写真に写っていたのは食べかけの料理で、見栄えが悪かったので、食べログにメールで削除依頼をしたんです。食べログ公式ホームページには電話番号の記載がなかったため、受付はメールのみ。問い合わせからタイムラグがあったものの、「店主の同意を得て掲載する」という規約に違反しているとのことで、依頼は応じられました。

――ひとまずは、応じてくれたんですね。

田中 ただ、その後がひどくって。削除された食べログ“ヘビー”ユーザーが 「せっかく好意的に書いてやったのに、評価がどうなっても知らないよ」と逆ギレして、スコアを4点から1点に下げてきました。なんでも、食べログ独自の平均スコア算出方法により、10軒ほどしかレビューしていないユーザーの採点は、平均スコアになんの影響をもたらさないけれど、1,000軒もレビューしているようなヘビーユーザーの採点は、平均スコアに大きく影響するようなんです。

――飲食店界隈では、算出方法について、そのようにウワサされているんですね。食べログに算出方法を問い合わせたことなどはありますか。

田中 はい。ありますが、「教えられない」と言われてしまいましたね。そんな背景があり、逆ギレしたあのユーザーは大きく出たのでしょう。

焼酎日本酒専門店 九州料理 とっとっと 千葉店 食べログ公式サイトより

――“大きく”ということですが、嫌がらせなどがあったのでしょうか。

田中 不特定多数による、誹謗中傷のような“おかしなレビュー”が、年に数回、数年間かけて、たびたび書き込まれるようになりました。例えば、「ポテトサラダを頼んだら、キュウリが1本出て来た」とか「BGMが80年代でセンスがない」とか。食べ始めのもつ鍋は脂が出ていないことが当たり前なのに「スープにコクがない。チェーン店のもつ鍋の方がコクがあっておいしい。“九州料理”の看板を降ろせ」といったものです。そうしたことが続いたので、食べログに掲載辞退を申し入れることにしました。

――例によってメールでの問い合わせですね。食べログの回答をお聞かせください。

田中 今回もタイムラグがあり、なかなか返信が来なかったのですが……うちの店の電話番号は勝手に載せているのに……。そして、いざ来た返信は、「レビューは、ユーザーが独自に載せている日記のようなものだから、削除できない」という、通り一辺倒な回答のみでした。店側の意見はまったく聞き入れてもらえないんだなと思いましたね。

――食べログに対して、不信感を抱かざるおえない回答ですね。そのほかに、食べログへの掲載によって、何か影響など受けましたか。

田中 ユーザーから“タダ”で集めた情報を、ほかのグルメサイトに売っているようなんです。それに気付いたのは、「子連れで行けるお店」といったグルメサイトに掲載されていたのを発見した時。うちはずっと子連れ入店をお断りしているのですが、そのグルメサイトに、「どこから、うちの店の情報(子連れで行ける)を得たんですか?」と問い合わせると、「食べログさんから情報提供してもらっている」と教わったんです。

――それで、張り紙に「お子様連れご遠慮ください」とあったんですね。ウェブニュースサイトのみならず、テレビ番組からも取材を受けていますが、食べログから説明などありましたか。また今後、食べログに望むことなどがありましたら教えてください。

田中 連絡はまったくないです。なんとも思っていないんじゃないでしょうか。店のことを、金儲けの道具にしか思っていないのでは。こちらももう、食べログに望むことはなにもないです。何を書かれても相手にしませんから。ただ、最近は食べログ以外にも、Googleマップに掲載される口コミや評価レビューにも悩まされています。あんなに資本力がある大きな会社が、あれほどまでにいいかげんなレビューを許しているのはひどいですよ。

 食べログについて、かなり頭を抱えているものの、百歩譲って実際に来店したユーザーが具体的にレビューしているでしょ。でも、Googleのレビューは評価を表す星の数を投稿するだけでもOKなんですよ。来店経験がない方からの、「近くに行くときは是非寄ってみたい」などと応援するレビューもある一方で、普段のレビューの傾向から、うち(千葉)の店まで来るとは思えないレビュワーによる嫌がらせのような書き込みもあって。Googleにも問い合わせましたが、返答は「レビュワーが、実際は来店していないという証明はできない。納得できないなら、法務部を通してくれ」といった回答のみでした。

 不正な評価や中傷行為が、健全に口コミサイトを利用しているユーザー、そして店側に多大な影響を与えることを忘れてはいけない。また、口コミサイト運営会社は掲載店へ配慮した、規定などを設けるべきなのではないだろうか
(番田アミ)

神戸・教師暴行、“いじめ”ではなく“犯罪”――「刑事罰で矯正を」弁護士解説

 神戸市立東須磨小学校の教員4人が、同僚の教員4人に暴行や暴言を加えていたことが発覚し、大きな社会問題となっている。10月9日には、神戸市教育委員会と東須磨小学校の校長が記者会見を行い、加害教員4人が行っていた暴行・暴言の内容を説明。すでに報道されているものも含め、以下のような加害行為があったという。

・被害教員を羽交い締めにし、激辛カレーを目にこすりつける
・被害教員の体をたたく、足を踏む等の暴力行為
・性的な内容を含む、人格を侵害する言動
・送迎、飲食等の強要
・被害教員の所有物に対する器物損壊等の嫌がらせ行為
・被害教員の男女を脅迫の上、性行為を強要 など

 メディアでも連日この問題が取り上げられているが、その多くには「いじめ」「ハラスメント」といった表現が用いられている。9日に行われた会見でも、記者から「いじめ」という言葉がたびたび発せられ、校長からも「パワハラがあった」との説明がなされた。一方、ネット上では「これはいじめやパワハラではなく、明確な“犯罪”でしょう」「学校で起きたことは、全部いじめになるの?」「やってることがパワハラで済むレベルじゃない。きちんと裁かれるべき」という意見が続出しており、認識に大きな溝が生まれている状態だ。

 加害教員4人の行為は、「犯罪」に当たらないのだろうか。弁護士法人ALG&Associatesの山岸純弁護士に話を聞いた。

教員4人の暴力等は、法律上「いじめ」に定義されない

 そもそも「いじめ」は、法律上どのように定義されているのか。山岸氏いわく、「“いじめ”という言葉が登場する法律は、平成25年に施行された『いじめ防止対策推進法』」とのことで、法律という土俵においては、非常に歴史の浅い言葉であることがわかる。

「その法律の中で、“いじめ”は『児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)』であって、 『当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの』とされています。要するに、小学校から高校に通っている児童・生徒に対し、同じ学校や地域の児童・生徒が暴力や言葉によって苦痛を感じさせる行為を“いじめ”としているわけです」

 法律上、「いじめ」は児童・生徒同士の加害や被害を指しているとのことだが、なぜそれらは「犯罪」として処罰されないのか。

「児童・生徒の“将来的な成長”や“教育”を目的とするべく『いじめ』と定義し、正しく補導していくものだとされています」

 この定義を踏まえると、教員同士の暴行・暴言は「いじめ」といえるのだろうか。山岸氏は「今回、マスコミは『仲間内、内輪での暴力』であることを理由に“いじめ”という言葉を使っているのでしょうが、法律上は間違いです。『刑事罰』という方法をもって、正しく矯正していく必要があります。これを『仲間内、内輪』で起こった事案だからといって、“いじめ”という言葉を使うのであれば、それはあまりにも幼稚だと言わざるを得ません」と、厳しく指摘した。

 では、加害教員4人が行ったとされる行為は、具体的にどのような罪に問われる可能性があるのだろうか。山岸氏は下記のように解説する。

「暴行罪」……2年以下の懲役又は30万円以下の罰金など
・被害教員の体をたたく、足を踏む等の暴力行為

「傷害罪」……15年以下の懲役又は50万円以下の罰金
・被害教員を羽交い締めにし、激辛カレーを目にこすりつける ※この行為により、目に障害が残った場合

「強制性交等罪」……5年以上の懲役
・被害教員の男女を脅迫の上、性行為を強要

「器物損害罪」……3年以下の懲役又は30万円以下の罰金など
・被害教員の所有物に対する器物損壊等の嫌がらせ行為

「侮辱罪」……拘留(1~30日までの間拘置する罰)又は科料(1,000~10,000円までの金員を支払わせる罰)
・性的な内容も含む人格を侵害する言動

 加害教員4人が行ったことは「いじめ」「ハラスメント」ではなく、場合によっては懲役が科されるほど、重い「犯罪」。山岸氏は加害教員4人について、「今後の捜査にもよるでしょうが、場合によっては逮捕されたり、起訴されて刑事裁判をもって刑罰を与えられるでしょう」という。加害教員4人は、自身の罪を償うべきではないだろうか。

神戸・教師暴行、“いじめ”ではなく“犯罪”――「刑事罰で矯正を」弁護士解説

 神戸市立東須磨小学校の教員4人が、同僚の教員4人に暴行や暴言を加えていたことが発覚し、大きな社会問題となっている。10月9日には、神戸市教育委員会と東須磨小学校の校長が記者会見を行い、加害教員4人が行っていた暴行・暴言の内容を説明。すでに報道されているものも含め、以下のような加害行為があったという。

・被害教員を羽交い締めにし、激辛カレーを目にこすりつける
・被害教員の体をたたく、足を踏む等の暴力行為
・性的な内容を含む、人格を侵害する言動
・送迎、飲食等の強要
・被害教員の所有物に対する器物損壊等の嫌がらせ行為
・被害教員の男女を脅迫の上、性行為を強要 など

 メディアでも連日この問題が取り上げられているが、その多くには「いじめ」「ハラスメント」といった表現が用いられている。9日に行われた会見でも、記者から「いじめ」という言葉がたびたび発せられ、校長からも「パワハラがあった」との説明がなされた。一方、ネット上では「これはいじめやパワハラではなく、明確な“犯罪”でしょう」「学校で起きたことは、全部いじめになるの?」「やってることがパワハラで済むレベルじゃない。きちんと裁かれるべき」という意見が続出しており、認識に大きな溝が生まれている状態だ。

 加害教員4人の行為は、「犯罪」に当たらないのだろうか。弁護士法人ALG&Associatesの山岸純弁護士に話を聞いた。

教員4人の暴力等は、法律上「いじめ」に定義されない

 そもそも「いじめ」は、法律上どのように定義されているのか。山岸氏いわく、「“いじめ”という言葉が登場する法律は、平成25年に施行された『いじめ防止対策推進法』」とのことで、法律という土俵においては、非常に歴史の浅い言葉であることがわかる。

「その法律の中で、“いじめ”は『児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)』であって、 『当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの』とされています。要するに、小学校から高校に通っている児童・生徒に対し、同じ学校や地域の児童・生徒が暴力や言葉によって苦痛を感じさせる行為を“いじめ”としているわけです」

 法律上、「いじめ」は児童・生徒同士の加害や被害を指しているとのことだが、なぜそれらは「犯罪」として処罰されないのか。

「児童・生徒の“将来的な成長”や“教育”を目的とするべく『いじめ』と定義し、正しく補導していくものだとされています」

 この定義を踏まえると、教員同士の暴行・暴言は「いじめ」といえるのだろうか。山岸氏は「今回、マスコミは『仲間内、内輪での暴力』であることを理由に“いじめ”という言葉を使っているのでしょうが、法律上は間違いです。『刑事罰』という方法をもって、正しく矯正していく必要があります。これを『仲間内、内輪』で起こった事案だからといって、“いじめ”という言葉を使うのであれば、それはあまりにも幼稚だと言わざるを得ません」と、厳しく指摘した。

 では、加害教員4人が行ったとされる行為は、具体的にどのような罪に問われる可能性があるのだろうか。山岸氏は下記のように解説する。

「暴行罪」……2年以下の懲役又は30万円以下の罰金など
・被害教員の体をたたく、足を踏む等の暴力行為

「傷害罪」……15年以下の懲役又は50万円以下の罰金
・被害教員を羽交い締めにし、激辛カレーを目にこすりつける ※この行為により、目に障害が残った場合

「強制性交等罪」……5年以上の懲役
・被害教員の男女を脅迫の上、性行為を強要

「器物損害罪」……3年以下の懲役又は30万円以下の罰金など
・被害教員の所有物に対する器物損壊等の嫌がらせ行為

「侮辱罪」……拘留(1~30日までの間拘置する罰)又は科料(1,000~10,000円までの金員を支払わせる罰)
・性的な内容も含む人格を侵害する言動

 加害教員4人が行ったことは「いじめ」「ハラスメント」ではなく、場合によっては懲役が科されるほど、重い「犯罪」。山岸氏は加害教員4人について、「今後の捜査にもよるでしょうが、場合によっては逮捕されたり、起訴されて刑事裁判をもって刑罰を与えられるでしょう」という。加害教員4人は、自身の罪を償うべきではないだろうか。

天皇即位の「恩赦」に「いらない」の大合唱……「良きことと信じる」弁護士の真意とは?

 10月22日の「即位礼正殿の儀」に合わせ、約55万人に「恩赦」が実施されることが決定した。法務省によると、恩赦は「行政権によって、(1)国の刑罰権を消滅させ、(2)裁判の内容を変更し、又は(3)裁判の効力を変更若しくは消滅させること」であると定義されており、具体的には、

「大赦」……有罪の言い渡しの効力および公訴権を消滅させること
「特赦」……有罪の言い渡しを受けた特定の者に対して、その効力を失わせること
「減刑」……刑の言い渡しを受けた者に対して、刑を軽くすること
「刑の執行の免除」……刑の言い渡しを受けた特定の者に対して、執行が免除されること
「復権」……有罪の言い渡しを受け、法令の定めるところにより資格を喪失または停止された者の資格を回復させること

の5種がある。そしてその実施方法に関しても、恩赦の対象を決めて一律に行われる「政令恩赦」と、個別の事情を審査する「個別恩赦」が存在している。今回、「政令恩赦」は「復権」に限定し、その対象は、罰金刑のみで、罰金の納付から3年以上が経過している人となるという。

 この一報を受け、ネット上ではいま「恩赦なんていらない!」の大合唱が巻き起こっている。「なぜ天皇が即位することで、犯罪者が得をするのか意味がわからない」「前時代的すぎる。今の時代に合っていない」「まさに暗黒制度」など、批判が噴出しており、きっぱりと「恩赦制度は見直すべき」と述べる者も少なくない。

 しかし一方で、弁護士法人ALG&Associatesの山岸純弁護士は、「恩赦」に対する批判に対して、「『恩赦』は良きことと信じております」と述べる。果たしてその真意とは――詳しく話を聞いた。

 「恩赦」に関し、「天皇陛下のご即位は、日本にとって間違いなく慶事です。私自身は、この国家的・国民的行事をお祝いするという意味の一つとしては、『恩赦』は良きことと信じております」と言う山岸氏。

 そもそも「恩赦」とは、どのような目的のもと生まれたものなのだろうか。

「『恩赦』の歴史は古くは、かつては時の政権や支配層などの権力者に代替わりが発生した際、思想や信条の違いなどで、政権や権力者が定めていた刑罰の根拠が失われたような場合に、後から『その罪はなかったことにしよう』といった考えから生まれたとされています。要するに、社会の変化により刑罰に対する考え方が変わったから、その時に罰せられた人々を救済しよう……というものなのです。一方で、『国に良いことがあった場合に恩恵を与えよう』という国家政策的なものとして行われているという面もあり、現代では、この考え方が主立っています」

 今回の「恩赦」では、「政令恩赦」の対象を、罰金刑の確定から3年が経過した人の資格制限を回復する「復権」に限定すると報じられているが、山岸氏はその詳細を、次のように解説する。

「罰金刑を受けた人が、もう一度、罰金以上の刑(懲役や死刑など)を受けずに5年が経過した場合、『刑の言い渡しの効力』がなくなります。『前科』が消えるわけではありませんが、例えば医師が罰金刑を受けることによって欠格事由に該当した場合、罰金刑の確定から5年が経過すると、再び医師になることができるようになり、これを『復権』と言います。今回、『罰金刑を受けてから3年経った人を復権する』という『恩赦』を行うとのことで、これはつまり5年待たなければならなかったところが3年となるわけです」

「恩赦は国民に与えられた権利ではない」

 世間では「恩赦」に対して「いらない」という声が目立っているが、山岸氏は、「『恩赦』はあくまで、『権力者』側のイニシアティブによるもの」とし、次のように見解を述べる。

「『恩赦』という制度は、国民に与えられた『権利』として存在しているわけではありません。そのため、受け手である国民が、この制度について良い悪いを評価するものではないと思います」

 ネット上では、特に「選挙違反で停止された公民権の回復」に関して、「天皇の政治利用」「許されない」と声を上げる者が少なくないが、これについても山岸氏は「もともと国家政策的なものであり、 時の政権が維持されているのであれば、 国民がとやかく言うものではないと思います。『ふるさと納税』制度で、ある市町村が用意した『返礼品』に対し、『この返礼品は気にくわない』『もっと良い返礼品を用意しろ』と言ったところで意味がないのと同じことなのではないでしょうか」と語る。

 しかし、時事通信が9月に実施した世論調査では、恩赦に「反対」とする人が54.2%、「賛成」の20.5%を大きく上回ったという結果も出ている。今後、廃止になる可能性はあるのかという点については、「廃止するかどうかは、『恩赦はいらない』という国民の声が世論となり、国政選挙の争点となって、国会で審議され、初めて議論されます」という。

 「恩赦」に対するさまざまな意見が飛び交う中、「時代に合った制度のあり方」についても、考えていく必要があるのではないだろうか。

なぜ人身事故をスマホで撮影するのか? 精神科医が、JR新宿駅「異例の放送」の背景を語る

「お客さまのモラルに問います。スマホでの撮影はご遠慮ください」

 去る10月2日、JR新宿駅のホームに、“異例の放送”が流れたという。ブラインドサッカーの元日本代表選手の石井宏幸氏が電車に接触する人身事故が発生。駅員らが、ブルーシートで現場周辺を覆い、人の目に触れないようにして、救出活動を行っていると、シート内部にスマートフォンを差し込む“野次馬”が複数現れたため、「モラルを問う」といった放送がなされたそうだ。

 この“異例の放送”を伝えるニュースが報じられると、ネット上は大きな動揺に包まれた。「信じられない」「撮影してどうするつもり?」「現代の日本人は、モラルが低下した」といった声が飛び交った。一方で、キュレーションプラットフォームサービス「NAVER まとめ」に掲載された「山手線 新宿駅で人身事故『白杖の人が飛び降りた、頭部から流血』電車遅延10/2」というページには、「ブルーシート内部」こそないものの、現場の写真が添えられたいくつかのツイートがまとめられている。同ページの閲覧数は10万にも達する勢いで、人身事故の様子を「見たい」という人は“少なからずいる”ことがわかる。

 なぜ人は、人身事故をスマホで撮影し、ネットで拡散したがるのか――今回、『怖い凡人』(ワニブックス)や『一億総他責社会』(イースト・プレス)などの著者である精神科医・片田珠美氏に話を聞いた。

衝撃的な写真・動画で「承認欲求を満たす人々」

 まず片田氏は、人身事故をスマで撮影する人の精神構造に関して、「承認欲求」という観点から話をしてくれた。

「2013年、『バカッター』という言葉が『ネット流行語大賞』の第4位に選ばれ、Twitterを用いて過激な写真や動画をアップする人たちが話題になりました。そして17年には、『インスタ映え』(インスタグラム上で人目を引く投稿)という言葉が、『ユーキャン新語・流行語大賞』の大賞に選出。インスタグラムがTwitterとともにSNSの主流となる中で、衝撃的な写真・動画の投稿により、承認欲求を得ようとする人たちが増えたと感じています」

 その背景を探ると、「仕事で承認欲求を得ることが難しくなった」という現代の一面が浮かび上がる。

「右肩上がりの経済成長が続いた昭和の時代、例えば、調子の良かった製造業に従事する人は、工場でコツコツ働いていれば、『よく仕事をしているね』と認められ、給料もポジションも上がっていったものです。しかし、現在はそんなことはなく、働き手が“使い捨て”の部品のように扱われることも珍しくありません。それに対して、SNSならば、衝撃的な写真・動画を投稿することで、称賛を得ることができる。そうした形での承認欲求や自己顕示欲の表れ方が、ますます顕著になっている印象を受けます」

 また、人身事故に遭った石井さんは、視覚障がい者であり、警視庁新宿署によると「自殺を図った可能性がある」とみられているそうだ。その様子を撮影する人には、「自分より不幸な人の写真・動画を撮り、投稿することで『自分の方がマシだ』と実感する。そうすることでしか、自分自身の人生を肯定できない」傾向も認められるという。

「人身事故をスマホで撮影する人が増えているのは、裏を返せば、それだけ、怒りや欲求不満を溜め込む人が増えているということではないでしょうか。その背景にも、やはり先ほど指摘した社会情勢が関係しているように思います。現代は、昭和の時代と違って、雇用が不安定で、会社勤めをしていてもなかなか給料が増えない状況にあり、経済面で不満を抱いている人が多い。また一部の大金持ちとそうではない人たちの格差が拡大していると言われ、しかも昨今はSNSで、誰もが富裕層の生活を見ることができます。そのため、余計に羨望(他人の幸福が我慢できない怒り)が掻き立てられ、結果的に『他人の不幸は蜜の味』という人が非常に増えたのではないでしょうか」

 この「他人の不幸は蜜の味」という心理は、二つの形で表れやすい。「一つは、羨望の対象である恵まれた境遇の政治家や芸能人、有名スポーツ選手などが失墜した際に、拍手喝さいしてボコボコに叩くこと。そしてもう一つが、今回のように、自分より不幸な人を撮影して、人の目に触れるネット上にアップすること」だという。

「『ほかの人もやっているから、自分もやっていいんだ』という集団心理で、罪悪感を払しょくしながら、人身事故の現場を撮影している面もあると思います。また、そうした行為を『止める人がいない』というのも、非常に問題。見て見ぬ振りをする人=『傍観者』が増えれば増えるほど、行為はエスカレートします。傍観者は、制止すると、自分が攻撃されるかもしれないという恐怖ゆえに、見て見ぬ振りをするわけです。傍観者が増えているのは、物事を正義感や倫理観ではなく、『自分が損をしないように』と損得で考える傾向が強くなっているからでしょう」

 一方で、人間には「他人の不幸を見たい」という根源的な欲望があると話す片田氏。フランス革命の頃、大衆の前で、国王や王妃、貴族らがギロチンによって処刑されたが、「それは、大衆の残酷な欲望を満たすため、ある種のガス抜きとして行われていたのではないでしょうか」と語る。

「ローマ詩人・プラウトゥスの『人間は、人間にとって、狼である』という言葉のように、人は心の奥底に、他人を搾取し、攻撃したいという残忍な欲望を秘めているし、『他人の無残な姿』も見たいのです。しかし、20世紀の近代化の流れの中、ギロチン処刑が『野蛮なこと』として、大衆の前で行われなくなったように、経済が発展し、社会が安定することで、人はこうした残忍な欲望を抑圧するようになりました。裏を返せば、いま人身事故の現場をスマホで撮影する人が増えているのは、日本ひいては世界が不安定な中、残忍な欲望を抑圧できなくなってきたということなのではないでしょうか」

 今回の一件では、新宿駅のホームに「お客さまのモラルに問います」というアナウンスが流れたことを踏まえ、「現代の日本人はモラルが低下した」といった指摘が多数見られたが、片田氏いわく「残忍な欲望は根源的なものなので、『現代のモラル低下』とは必ずしも言い切れない」とのこと。

「ただし、テクノロジーの発達によって、誰もがスマホで簡単に写真や動画を撮影できるようになったことが、『モラル低下』を招いたとは言えると思います。また、『世間というもの』が壊れてきていることも、『モラル低下』につながったと言えるのではないでしょうか。昭和の時代は、『世間様に顔向けできない』『世間様に笑われる』という感覚があり、例えば、会社という『世間』に対して『恥ずかしいことはできない』といった自制が利いたのです。しかし、終身雇用制度が崩れている現在、そうした感覚はなくなりつつあるのではないでしょうか。いいか悪いかは別にして、帰属意識もかなり希薄になっています。そのため『何をやってもいいんだ』と考える人が増えているような気がしますね」

 人身事故の現場をスマホで撮影する人たちの出現は、経済・社会の状況と密接に結びついていることがわかったが、JRが“異例の放送”を行ったように、「傍観者」を脱し、声を上げられる人が一人でも増えてゆくことを願いたい。

相次ぐ視覚障害者のホーム転落事故、どうしたら防げる? 

 視覚障害者のホーム転落事故が相次いでいる。今月1日には京成押上線京成立石駅のホームで66歳の女性が、その翌日には山手線新宿駅のホームで47歳の元ブラインドサッカー日本代表選手が線路に転落、電車に接触して亡くなった。後者は事故か自殺か判然としていないが、いずれにしても、事前に周囲の声がけなどのサポートがあれば防げた悲劇だった可能性があるという。ホームで白杖(はくじょう)を持った視覚障害者を見かけた場合、周囲にいる健常者はどのように介助すればよいのか? 全盲の身でありながら視覚障害者支援を行っている「MDSiサポート」代表の井上直也さん(36歳)に話を聞いた。

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 東京・青梅市在住の井上さんは後天性の視覚障害者だが、視力を失ったあとも、iPhoneのボイスオーバー(画面に表示された文字を読み上げてくれる機能)をフル活用して積極的に外出している。電車やバスを使い、iOS(iPhoneやiPad向けのOS)の出張講師として全国の視覚障害者の元を訪ねるほか、プライベートで新宿へ遊びに行く機会も多いという。

――井上さんは視覚障害者の中では行動派として知られ、ひとりで電車やバスを乗り継いで遠方まで出かける機会も多いそうですね。そんな“外出慣れ”した井上さんでも、周囲のサポートを必要とする場面はありますか?

井上さん 「常に大なり小なり、何かしらで困っている」というのが本音です。特にホームの上は危険度が高いエリアですので、僕をはじめとする視覚障害者の多くは「誰かに声をかけてほしい」と思っています。線路はどちら側にあるのか、ホームの端はどこなのかという大きな問題に直面しているほか、時計が見えないため「今何時だっけ?」と思っているときもあるし、駅のアナウンスを聞き逃して「次はどこ行きなんだろう?」と迷っているときもある。ですから僕の場合、電車に乗る前は「駅員さんや、通りすがりの優しい人が声をかけてくれたらいいな」と思いながら、ホームを歩いていることが多いです。

――ホームで視覚障害者を見かけたら、どのように声をかけたらよいのでしょう?

井上さん 今回、新宿駅で犠牲になった方は「自ら線路に下りる姿が目撃された」と報じられていますが、その前の段階ではおそらく、黄色い点字ブロックの上に立って電車を待っていたはず。そういうときに気軽に声をかけてくれるだけでいいんです。「一緒に乗りましょうか?」とか「次の電車に乗るんですか?」とか。

 その方がもし困っていれば、「一緒に乗ってもらえますか?」とか「次の電車は何時何分発のどこ行きですか?」などと答えるでしょうし、手助けが不要であるなら「大丈夫です。ありがとうございます」と答えるでしょう。仮に自殺を考えていたとしても、周囲から温かい声をかけていただくことで、踏みとどまるケースもあるかもしれない。

「相手が視覚障害者」と考えると、物事が難しくなってしまいがちです。ホーム上で両手に大きな荷物を持っているおばあちゃんがいたら、「ひとつ持ちましょうか?」「どこまで行くんですか?」「何かお手伝いできることはありますか?」などと話しかけるじゃないですか。それと同じ感覚で声をかけてもらえたらうれしいですね。

――声をかける際の注意点はありますか?

井上さん 耳元で突然「大丈夫ですか?」と声をかけられると、目が見えない人はビックリしてしまいますので、最初はある程度の距離感を保って、うっすら聞こえる程度の声量で声をかけてもらえると助かります。困っている視覚障害者は「ひょっとしたら自分に話しかけてくれたのかな?」と思って立ち止まったり、耳を傾けたりするでしょう。

――相手の体に手を添える行為はどうなのでしょう?

井上さん 基本的には、相手の承諾を得てから手を添えていただきたいです。もちろん、命に関わるような危険な場面では問答無用でグイッと引っ張ってもらって結構ですが、そうじゃないときに無言でいきなり手を添えられると、目が見えない人はビックリしてしまうからです。

 特に気をつけていただきたいのは、電車に乗り込む直前ですね。誰も声をかけてくれなかった場合、視覚障害者は気合を入れて自力で前へ進もうとします。「よし行くぞ!」と集中力を高めて、白杖を使って電車のドアの位置などを確認しようとする。その瞬間、無言でいきなり背中に手を添えられたりすると、背後から押されたような感覚になって恐怖を覚えます。ですから、体に触れる際には、事前に「肩に手を添えますよ」「腕を触りますよ」などとお声がけいただけると助かります。

――視覚障害者の方が、電車のドアの位置や、ホームと電車の隙間などを白杖でチェックしている最中に、周囲の人が白杖をつかんで、それを正しい位置へ導こうとする場面をたまに見かけます。親切心でやっていることと思われますが、あの行為はどうなのでしょう?

井上さん 白杖は僕らにとってのセンサーなので、それを第三者につかまれてしまうと、感覚が麻痺してしまいます。お気持ちはありがたいですが、白杖には触れないでいただきたいです。

――駅通路などで道案内をする場合の注意点を教えてください。

井上さん 腕や手をつかまれてグイグイ引っ張られると、これまた恐怖を感じます。ですから、健常者が「つかむ」のではなく、視覚障害者に「つかませる」ほうがよいのかも。健常者のほうから「私につかまってください」と言って、肩、肘、リュックのベルトなどを視覚障害者につかませる。その上で、「歩くの速くないですか?」「もう少しゆっくり歩きましょうか?」などと話しかけながら、ゆるやかに先導してあげるのがスマートかつ安全でしょう。

――ホームと電車の間に大きな隙間がある場合や、階段に差し掛かった場合は、どのように伝えたらよいでしょう?

井上さん 僕の場合、「この先、隙間が大きく空いていますよ」「もうすぐ階段がありますよ」と伝えてくれれば大丈夫です。距離感や段差の高さは、白杖で確認できますので。

 ただし、それがすべての視覚障害者に当てはまるとは限りません。中には身体的な制約があり、階段を容易には上がれない方もいますので、「階段で大丈夫ですか?」「エスカレーターやエレベーターまで案内しましょうか?」などと優しく話しかけながら、その方が望む方法で案内していただけるとありがたいです。

――お互いにコミュニケーションを取ることが大事ということですね。

井上さん はい。でも、健常者同士だと視覚で補完できるコミュニケーションも、片方が見えていないというだけで、途端に難しくなるんですよ。たとえば、「あと何歩」「あと何センチ」という指示。通常、健常者がやや前方にいて、視覚障害者がその斜め後ろにいることが多いですよね。その状況で「あと一歩」と言われても、健常者から見た「一歩」なのか、それとも視覚障害者から見た「一歩」なのかが不明瞭で、こちらは判断に迷います。

 ですから、「あなたから見て、あと一歩です」などと、きめ細やかなコミュニケーションを心がけていただけると大変助かります。

――勉強になりました。井上さんのお話を聞くまでは、「視覚障害者の方に気軽に声をかけるのは失礼だったり、ありがた迷惑だったりするのかな」と思っていました。

井上さん 全然そんなことはありません。基本的には大助かりです。視覚障害者もさまざまで、全盲の方もいれば、弱視の方もいます。中にはせっかく親切心でお声がけしていただいたのに、「大丈夫だから放っておいて」と、つっけんどんな対応をする視覚障害者もいるかもしれませんが、大目に見ていただけたらと思います。

 人間誰しもタイミングが悪いときって、あるじゃないですか。僕だってタイミングによっては、「この道は慣れているから大丈夫です」と言ってお断りすることがあります。暑い寒いでイライラしているときもあるし、遅刻したりおなかが空いたりしてイライラしているときもある。これは健常者の方も同じだと思いますが、不機嫌なときに他人から話しかけられると、ついつい対応が悪くなるじゃないですか。

 だからもし無下に断られたとしても、「じゃあ、今後は声がけするのをやーめた!」とは思わないでいただきたいです。そうやって支援者をひとりでも失ってしまうと、今回のような事故のリスクが高まるからです。

――では、今後は視覚障害者の方を見かけたら、気軽に声をかけるようにします。

井上さん ぜひともそうしていただけたらと思います。できれば電車に乗り込む直前ではなく、もうちょっと余裕のありそうなタイミングにお声がけいただけると助かります。先日、新宿駅の山手線15番線ホームで亡くなった方は、事故と仮定した場合、隣にある山手線14番線ホームの「電車が入ります。お下がりください」というアナウンスや電車のドアが開く音を、自分のホームの情報と勘違いして前に出てしまい、線路に転落してしまった可能性もあると僕は思うんです。

――私も実際に新宿駅の15番ホームに目を閉じて立ってみたのですが、聴覚的な情報の遠近感が、とてもつかみづらかったです。

井上さん ですよね。集中していてもわかりづらいのだから、注意力散漫なときはなおさらです。視覚障害者はホームの端のほうにある黄色い点字ブロックの上で電車を待つのですが、点字ブロックの上に立つと、いったんホッとして、気が抜けてしてしまうこともあります。結果、アナウンスなどの音声情報を正確に聞き取れず、誤解したまま前へ進んでしまうことも十分にあり得ると思います。

 そこから急に前へ進んでいった人を、周囲の誰かがとっさに止めるのは難しい。でも、それよりも前の段階――たとえばホームに向かう階段を上っている最中や、ホームの中央にいるタイミングで誰かが声をかけていれば、もしかしたら防げた悲劇だったのかもしれないと思うと残念です。

――転落防止用のホームドアが、早く全駅に設置されるとよいですね。

井上さん それが理想ですが、巨額な費用が必要ですから、実現するにはまだまだ時間がかかりそうです。そうなる前に望むことといえば、「困っている人がいたら、とにもかくにも声をかける」というコミュニケーション習慣の定着ですね。そういう“優しいお節介”が世の中に広がっていけば、それがホームドア以上のセーフティーネットになるかもしれません。

(取材・文=岡林敬太)

「韓国ヘイト」への批判は「表現の自由」を脅かすのか? 憲法学者・志田陽子氏の見解

 最近、世間で話題になる機会が増えた「表現の自由」とは何か――『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店)の著者である憲法学者・志田陽子氏へのインタビュー前編では、選挙演説における「ヤジ排除」は、「表現の自由の侵害にあたるのか」を中心に、話をお聞きした。後編では、「差別表現」への批判や規制に対しても指摘される「表現の自由の侵害」をどのように捉えるべきか、考えていく。

(前編はこちら)

「私が傷ついたから」という表現規制は危ない

――「表現の自由」の侵害が問題になるとき、決まって「公共の福祉に反する場合、表現の自由は制限される」と唱える人が出てきます。『表現の不自由展・その後』中止問題で、「表現の自由の侵害だ」と声が上がった際にも、自民党の杉田水脈衆院議員が、「憲法第21条で保障されている表現の自由は、『公共の福祉』による制限を受けます…」とツイートしていました。この公共の福祉とは、一般的に「社会全体の共通の利益」「人権同士が衝突するのを調整するための原理」と言われますが、現実において、どのように捉えるべきでしょうか。

志田陽子氏(以下、志田) 表現の自由に関する裁判において、必ず持ち出されるのが、この憲法第12条・13条に規定される「公共の福祉」です。昔の判例は、この言葉を用いて、表現の自由を含む「自由権」を簡単に制限できるような説明をしていましたが、今では「公共の福祉」の中身を、もっと具体的な言葉で説明する流れになってきています。表現の自由を制限してもやむを得ない理由が本当にあるのか、それはほかの人のどんな権利や利益を守るために必要なのか、説明できなくてはいけないのです。

――ヤジ排除問題で批判の声が上がった際も、柴山昌彦文部科学相(当時)が、「公共の福祉」をもって反論していました。

志田 本来は、「公共の福祉」が一般人の表現を上から押さえつけるための言葉として使われるのは間違いなのです。一般の人たちが、民主主義の社会を作り上げていく過程で、一人の意見に従うのではなく、大勢で意見を出し合いながら、それを聞き、集約していく……その社会の動き全体を「公共」と言い、その「公共」を大事にすることが「公共の福祉」なのです。公共の空間での「表現の自由」を守ることこそ、「公共の福祉」にかなうことであるはず。「公共の福祉」と「自由権」は本来、そのような形で、循環していくべきものです。しかし現実には、「表現の自由」に対して対立的に制約を課してくる法律もありますから、その時には、「公共の福祉」で終わらせず、「誰のどの権利を守るために表現を制約しなければならないのか」と問うことが必要ですね。

――最近では、差別表現など、誰かの心を傷つける可能性があるものに関しては、表現の自由が規制されるべきだという論調もあります。

志田 確かに最近、特に差別表現において、「誰かの言葉で傷ついた」というのが、法的な問題になりつつあります。ただ、どこかで線引きをしなければ、「私にとって不愉快だから、あなたの表現を塞いでもいい」という“傷ついたもん勝ち”の世界になってしまう危険性も。例えば、『白雪姫』には、自分がこの世で一番美しいと信じる魔女が登場し、自分より美しい容姿の白雪姫という存在にショックを受けて、彼女を殺そうとしますが、「私にとって不愉快だから、あなたの表現を塞いでもいい」がまかり通ると、この魔女の行為を認めることになります。美しい容姿を隠さず出すことも、自己表現の一つですから。意見の違うものや不快なものを見せつけられたときの“単なる苛立ち”は、それを排除する理由にはなりません。排除するためには、自分の「人格」に根差したものが、権利として傷つけられたことを示さなければいけないのです。

――具体的には、どのようなことなのでしょうか。

志田 例えば、騒音問題。Aさんが騒音を立て、隣の家のBさんが迷惑しているとします。その際、Bさんに健康被害が生じてなくても、平穏な生活を壊しているという事実があれば「Bさんの『人格』を侵害している」としてAさんの「表現の自由」は制限され、騒音を排除できるのです。

 しかし、見ないこと・聞かないことで自ら防ぐことのできる「表現」を、わざわざ追いかけて行って、「これは社会にとって不愉快だから」と排除する権利はありません。表現は常に誰かを不快にするリスクがある。誰かを不快にさせたから、その表現は社会に出てはいけないとすると、ありとあらゆる表現が成立しなくなってしまいます。

――「週刊ポスト」(小学館)9月13日号の特集「韓国なんて要らない」が「韓国ヘイトだ」と批判を浴び、同編集部が「誤解を広めかねず、配慮に欠けておりました」と謝罪した一件がありました。「中日新聞」は社説で「回収を検討すべき」と厳しく批判していましたが、これもまた「表現の自由の侵害になり得る」などと指摘されています。この件は、どのように考えますか。

志田 同誌には、「怒りを抑えられない『韓国人という病理』」というタイトルの企画があり、韓国人の10人に1人が「間欠性爆発性障害」であるという韓国の医学レポートが紹介され、韓国社会が分析されていましたが、これは、日本より差別表現に厳しいヨーロッパにおいては、法律に触れるレベルかもしれないな……とは感じました。

 ただ、現在日本には、差別表現を規制するような罰則が設けられた法律はなく、メディアの見識に委ねられる形となっています。特に、新聞や雑誌は、戦前に検閲による表現規制を受け、そこに自己検閲(忖度)が重なって、「民主主義を台無しにしてしまった」という反省があるので、現在は上からの表現規制はなく、業界内で、倫理的向上を目指すための“示し合わせ”が行われています。しかし、そこに強制力はありません。なぜ法律で規制されていないのかと言うと、「言論の自由」の土俵で、不快だと思った表現に対して、「嫌だ」と声を上げる「表現の自由」が保障されるという前提があるから。ここで「嫌だ」と思った人が、声を上げないまま泣き寝入りしてしまうと、保障の意味はなくなってしまいます。

――「嫌だ」と声を上げられなくなる状況になるのは怖いですね。

志田 最近、「ポスト」のような出版物だけでなく、テレビ番組のコメンテーターが、韓国へのヘイト発言をすることもありますよね。韓国の「ここがダメ」という点をあげつらい、悪者呼ばわりして盛り上がる――そんな状況にあって、日本在住の韓国出身者の方が「嫌だ」と声を上げられなくなってはいないかと、気になっているところです。

 表現の自由においては、誰かにとって「不快」な表現も出てきます。しかしその時、上が規制をかけるのではなく、不快な思いをした人たちが「嫌だ」と声を上げることによって、人々の力で軌道修正していくのが望ましいのです。こうした「自己修復能力」が、今の日本社会にはまだあると思う半面、「失われつつあるのではないか」とも感じ、非常に心配。原則としては、自己修復能力を可能な限り信頼し、罰則は設けるべきではないとは思うのですが、もし差別を受ける当事者が身の危険を感じ、口をつぐんでしまう社会状況になった場合は、罰則を設けた法規制もあり得るのではないかと、私は思っています。

――神奈川県・川崎市議会では「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例(仮称)」の審議が進められています。この素案には、外国にルーツのある人へのヘイトスピーチを繰り返し、勧告・命令に従わない場合、氏名を公表し、最高50万円の罰金を科すという罰則規定もあります。この件に関しても、「表現の自由を脅かす」といった声が出ています。

志田 在日韓国人の方が多く住んでいる川崎市では、差別表現に関する問題を深刻に捉えていると思います。私は、「外国にルーツのある人が、日本人と平等に発言できない状況に置かれている」といった地域の実情をくみ取って、こうした措置に出る自治体が出てくるのは、あってもいいことだと思い始めています。日本人と外国にルーツのある人双方が、同じ「自由」の土俵に立ち、意見を言い合う、ときに批判し合う状況は、「表現の自由」のもと、問題ありませんが、日本人が外国にルーツのある人を対等な「表現の自由」の土俵に立つことさえ許さない状況は、あってはならない。これでは、もともと「表現の自由」に期待されていた、「さまざまな論が切磋琢磨することによって、社会が成熟していくこと」に反してしまいます。

 ヤジ排除問題も、『表現の不自由展・その後』中止問題もそうですが、いま日本全体が「不都合なことは、なかったことにすればいい」といった思考にとらわれているような気がします。例えば、「慰安婦」問題がそうです。さまざまな歴史学者が、「慰安婦」の実際を調査・研究する中、資料に一部足りないところがある、一部に間違った記述があるということが判明した際、「慰安婦」問題を不都合とする人によって、その調査・研究全体が「価値のないもの」「なかったもの」にされてしまう……そんなことが起こっています。「表現の自由」において、学術研究とそれに対する批判は、どちらも大切にされるべきなのですが、気に入らない論を唱える人から発言の資格を奪い、「なかったことにすればいい」で解決させようとしているのは問題です。これは、日本人が克服していくべき問題なのではないでしょうか。

――ヤジ排除問題や『表現の不自由展・その後』中止問題で、「表現の自由」について関心が高まり、「不都合なことは、なかったことにすればいい」という風潮に疑問を抱く人は増えたように思います。

志田 『表現の不自由展・その後』に出品された作品は、もともと社会からの抗議・嫌がらせや忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品です。つまり、昔からずっと、そういったことはあったわけですが、それが「見えないところで言論が排除される」という形で続いてきた。しかし、ネット社会のいま、そうした言論排除の問題が「目に見えるようになってきた」と言えるのではないでしょうか。言論の自由・表現の自由が脅かされていることに気づき、危機感を抱くことが、社会をよい方向に変える第一歩となってほしいと思っています。

志田陽子(しだ・ようこ) 
1961年生。2000年、早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程を単位取得退学。2000年より武蔵野美術大学造形学部に着任(法学)。早稲田大学法学部・商学部非常勤講師。専攻は憲法。著書に 『文化戦争と憲法理論――アイデンディティの相剋と模索』(法律文化社、2006年)『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店、2018年)、編著に『あたらしい表現活動と法』(武蔵野美術大学出版局、2009年)『映画で学ぶ憲法』(法律文化社、2014年)。

選挙演説へのヤジ排除は「なぜ許されない」? 憲法学者・志田陽子氏に聞く「表現の自由」

 ここ最近、世間で「表現の自由」という言葉が、盛んに飛び交うようになっている。

 7月の参議院議員選挙で、安倍晋三首相が北海道・札幌市で応援演説を行う中、ヤジを飛ばした人物を、北海道警察の警官が取り押さえ、現場から排除する騒動が起こった。その後、8月にも、埼玉県知事選において、柴山昌彦文部科学相(当時)が応援演説をしている際、大学入試改革への反対を訴えていた人物が、同様に警官に取り囲まれ、現場から遠ざけられるという事態が発生。これを受け、世間からは「表現の自由の侵害ではないか」と疑問の声が飛び交ったのだ。

 柴山氏は、こうした世間の反応に対し、記者会見で「表現の自由は最大限保障されなければいけない」とする一方、「演説会に集まっておられた方々は候補者や応援弁士の発言をしっかりと聞きたいと思って来られているわけですから、大声を出したり、通りがかりでヤジを発するということはともかくですね、そういうことをするというのは、権利として保障されているとは言えないのではないか」と反論。すると、「ヤジは公職選挙法が禁じる演説妨害にあたるのか否か」「表現の自由が“制限”される基準は何か」が論点となり、議論が加速することとなった。

 また、これらの「ヤジ排除問題」と並行して、8月には、国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』内の『表現の不自由展・その後』の展示品に、多くの誹謗中傷や脅迫が送られ、開幕から3日で中止となる騒動も勃発(その後、10月8日から再開)。河村たかし・名古屋市長が、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」として、展示の中止を訴えたことに対し、大村秀章・愛知県知事が、「表現の自由を保障した憲法21条に違反する疑いが極めて濃厚ではないか」と痛烈に批判したこと、また、9月末に、文化庁が『あいちトリエンナーレ』への補助金を「全額不交付とする」と決めたことも注目を浴び、「表現の自由」をめぐる議論がさらに活発化したのだ。

 「表現の自由」とは一体何なのか――あらためてこの疑問について取り上げるべく、今回サイゾーウーマンは、『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店)の著者である憲法研究者・志田陽子氏に取材を行うことに。こうした騒動に対し、「何だか息苦しい社会になったと思いました」と語る志田氏に、その真意を聞いた。

――まず、ヤジ排除問題に関してお聞きします。率直に、どのような感想を抱きましたか。

志田陽子氏(以下、志田) 「表現の自由」とは、人に不快感を与えようとも、相手の権利侵害にならなければ、言いたいことを表現していいという自由のこと。ただこの件は、人と人との間で生じる不快感や差別表現の話ではなく、民主主義における表現の自由、言論の自由に関する話。「民主主義の前提として、可能な限り表現の自由、言論の自由は保障されるべき」という基本の考え方が、警察官や日本の行政に共有されていないのが問題だと感じました。

 柴山元文科相の発言から「ヤジが公職選挙法の演説妨害にあたるのか否か」といった議論もありましたが、それは「程度」の問題。確かに選挙演説を妨害した場合、公職選挙法第225条「選挙の自由妨害罪」にあたる可能性はあるのですが、それは「演説がまったくできなくなるような激しい妨害」の場合なのです。1948年、演説の妨害に関し、最高裁判決が「聴衆がこれを聞き取ることを不可能または困難ならしめるような所為」としたことがあります。例えば、演説現場に、何台もの街宣車を乗り付け、割れた音で音楽を流しながら、怒鳴り声を上げたり、拡声器を使ったりなどすれば、演説を聞き取ることが不可能、または困難な状況となるかもしれませんが、今回のような生の声でヤジを飛ばすのは、それにあたらないのではないでしょうか。

―― 一人、ないしは数人が、特に拡声器やマイクなどを使わずに声を上げたところで、候補者や応援者の演説が聞こえなくなるというのは、考えにくいところです。

志田 そもそも日本の公職選挙法は、一般人と政治家の生のコミュニケーションを取りにくくさせている法律とも言えます。例えば候補者やそのサポーターが、有権者を戸別訪問して、直接、政策の説明をすることは禁止されているのです。そんな中、選挙演説というのは、一般人と政治家が直接コミュニケーションを取れる大変重要な場面です。候補者やその応援者にとって、確かにヤジは気持ちのいいものではないと思いますが、しかし、民主主義においては、賛否両論あるのが当然、たくさんの異論がぶつかり合いながら、有権者の考え方を集約していくことが大事なのです。ヤジを排除するというのは、異論を押さえつけることになり、民主主義においてあってはならない表現抑圧と言えるでしょう。

――参院選においては、選挙演説に集まった反対派の人の意見を聞き、議論するという候補者もいました。

志田 それが理想的ですよね。むしろ、ヤジを排除するのは、民主主義のもと選ばれるべき人にとって、自殺行為なのではないでしょうか。議員の「議」は、議論の「議」です。いろんな人と対話を、時に議論をして、多くの人を納得させて票が集まり、選ばれる――だからこそ得られる、誇りと自信があるように思います。異論を押さえつけ、組織票で当選しても、その人は「本物ではない」ということになります。警察が気を利かせて排除したなら、候補者をスポイルしていることになりますよね。これは、政治の劣化にもつながることだと思います。

 政治家の中には、親の代からの地盤を引き継ぎ、有権者との議論をスルーし、人気取りのための発言と握手ばかりに終始する人もいますが、これは本来の民主主義とは言えないのです。大日本帝国憲法から日本国憲法に生まれ変わるとき、世襲制、また終身制が採用される貴族院が廃止され、その都度、民意で議員が選ばれるようになったのですが。もしかすると、選挙事務所や協力者が、そういう空気をつくっている可能性もあるかもしれません。候補者の弱みが出てしまう議論を避け、“イケイケ”のムードで、当選まで持っていきたいという思いもあるように感じます。

――ヤジに関してですが、「お前なんて辞めちまえ!」など、汚い言葉でのヤジに嫌悪感を示す人も多いです。かと言って、排除するのは、やはり「表現の自由」を侵害するということですね。

志田 「お前なんて辞めちまえ!」というヤジは、確かに口汚く聞こえるでしょうが、その人の役職の適格性や政策について疑問を抱いている……とも言い換えられます。ヤジ排除は、表現の自由の侵害とも言えますが、憲法第16条にも反しているように思うのです。憲法第16条では、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」という「請願権」が規定されています。つまり国民は、自分が求める政策について、国会議員に対してであれ、行政に対してであれ、平穏な方法で請願する権利を持ち、それによって不利益は受けないと、しっかり規定されているわけです。先ほどの公職選挙法違反のレベルにあたるもの以外は、きつい言葉でも、言葉である限り、平穏な方法と見るべきでしょう。その請願に対して、警察が身柄を取り押さえるというのは、憲法の趣旨に反します。

 「保育園落ちた日本死ね!!!」もそうですが、苦しい思いをしている人の生の声というのは、“口汚い”“きつい”と取られてしまうこともあるのではないでしょうか。しかし、それを排除してしまうと、やはり民主主義とはかけ離れていきますし、一見“口汚い”“きつい”と思われる生の言葉を、どう政治の世界で成熟させていくかが重要。それが「熟議」です。そう考えると「ヤジ」は必要なのです。ただ、特定の人物に対して「殺す」と言うなど、脅迫にあたることをする者は、排除しなければいけませんが。

――選挙演説におけるヤジ排除を見ていると、まるでアイドルの握手会でヤジを飛ばすアンチを、運営側が出禁にするのと似ているな……と思ったのですが。

志田 確かにそうですね。タレントだったら、握手会やコンサートに自分を支持してくれるファンだけを集めて、ヤジを飛ばすアンチにお引き取り願うのは自由です。というのもタレントは、私的な商行為として、それらを実施しているから。しかし、民主主義の選挙の空間は、タレントの握手会やコンサートとはまったく違います。私的な空間ではない「公共の空間」では、異論を排除してはいけないのです。

国民の知る権利にとって、賛否どちらも「ある」状況が必要

――この「公共の空間で、表現の自由が保障されなければいけない」という点に関しては、『表現の不自由展・その後』中止問題でも論点になっていました。大村県知事が記者会見で、河村市長から展示中止の訴えがあったこと、また「税金を使っているから、あたかも日本国全体がこれを認めたように見える」との発言があったことを踏まえ、「税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない」と話していました。

志田 大村県知事のおっしゃっていたことは、憲法研究者からすると「至極真っ当な意見」です。『表現の不自由展・その後』に関して言えば、展示品に賛否両論あるのは当然で、賛否どちらも「ある」という状況が、国民の知る権利にとって重要なこと。公共の空間において、人々に「選択肢がこれしかない」と思い込ませることが問題なのです。「日本人の心を踏みにじるからダメ」と言って展示を中止するのは、賛成する根拠も、また批判する根拠も、人々から奪うことになってしまいます。

 これは、先ほどの選挙演説へのヤジに関しても同じことが言えます。候補者や応援者の演説内容に賛否両論があり、聴衆が「私はこちらの意見だ」と選べる状況でなくてはいけない。ヤジを排除して、議論を起こさせないようにすることは、聴衆側からすると「大事な考え方に触れるチャンス」を奪われていることになるのです。

(後編につづく)

志田陽子(しだ・ようこ) 
1961年生。2000年、早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程を単位取得退学。2000年より武蔵野美術大学造形学部に着任(法学)。早稲田大学法学部・商学部非常勤講師。専攻は憲法。著書に 『文化戦争と憲法理論――アイデンディティの相剋と模索』(法律文化社、2006年)『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店、2018年)、編著に『あたらしい表現活動と法』(武蔵野美術大学出版局、2009年)『映画で学ぶ憲法』(法律文化社、2014年)。

選挙演説へのヤジ排除は「なぜ許されない」? 憲法学者・志田陽子氏に聞く「表現の自由」

 ここ最近、世間で「表現の自由」という言葉が、盛んに飛び交うようになっている。

 7月の参議院議員選挙で、安倍晋三首相が北海道・札幌市で応援演説を行う中、ヤジを飛ばした人物を、北海道警察の警官が取り押さえ、現場から排除する騒動が起こった。その後、8月にも、埼玉県知事選において、柴山昌彦文部科学相(当時)が応援演説をしている際、大学入試改革への反対を訴えていた人物が、同様に警官に取り囲まれ、現場から遠ざけられるという事態が発生。これを受け、世間からは「表現の自由の侵害ではないか」と疑問の声が飛び交ったのだ。

 柴山氏は、こうした世間の反応に対し、記者会見で「表現の自由は最大限保障されなければいけない」とする一方、「演説会に集まっておられた方々は候補者や応援弁士の発言をしっかりと聞きたいと思って来られているわけですから、大声を出したり、通りがかりでヤジを発するということはともかくですね、そういうことをするというのは、権利として保障されているとは言えないのではないか」と反論。すると、「ヤジは公職選挙法が禁じる演説妨害にあたるのか否か」「表現の自由が“制限”される基準は何か」が論点となり、議論が加速することとなった。

 また、これらの「ヤジ排除問題」と並行して、8月には、国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』内の『表現の不自由展・その後』の展示品に、多くの誹謗中傷や脅迫が送られ、開幕から3日で中止となる騒動も勃発(その後、10月8日から再開)。河村たかし・名古屋市長が、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」として、展示の中止を訴えたことに対し、大村秀章・愛知県知事が、「表現の自由を保障した憲法21条に違反する疑いが極めて濃厚ではないか」と痛烈に批判したこと、また、9月末に、文化庁が『あいちトリエンナーレ』への補助金を「全額不交付とする」と決めたことも注目を浴び、「表現の自由」をめぐる議論がさらに活発化したのだ。

 「表現の自由」とは一体何なのか――あらためてこの疑問について取り上げるべく、今回サイゾーウーマンは、『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店)の著者である憲法研究者・志田陽子氏に取材を行うことに。こうした騒動に対し、「何だか息苦しい社会になったと思いました」と語る志田氏に、その真意を聞いた。

――まず、ヤジ排除問題に関してお聞きします。率直に、どのような感想を抱きましたか。

志田陽子氏(以下、志田) 「表現の自由」とは、人に不快感を与えようとも、相手の権利侵害にならなければ、言いたいことを表現していいという自由のこと。ただこの件は、人と人との間で生じる不快感や差別表現の話ではなく、民主主義における表現の自由、言論の自由に関する話。「民主主義の前提として、可能な限り表現の自由、言論の自由は保障されるべき」という基本の考え方が、警察官や日本の行政に共有されていないのが問題だと感じました。

 柴山元文科相の発言から「ヤジが公職選挙法の演説妨害にあたるのか否か」といった議論もありましたが、それは「程度」の問題。確かに選挙演説を妨害した場合、公職選挙法第225条「選挙の自由妨害罪」にあたる可能性はあるのですが、それは「演説がまったくできなくなるような激しい妨害」の場合なのです。1948年、演説の妨害に関し、最高裁判決が「聴衆がこれを聞き取ることを不可能または困難ならしめるような所為」としたことがあります。例えば、演説現場に、何台もの街宣車を乗り付け、割れた音で音楽を流しながら、怒鳴り声を上げたり、拡声器を使ったりなどすれば、演説を聞き取ることが不可能、または困難な状況となるかもしれませんが、今回のような生の声でヤジを飛ばすのは、それにあたらないのではないでしょうか。

―― 一人、ないしは数人が、特に拡声器やマイクなどを使わずに声を上げたところで、候補者や応援者の演説が聞こえなくなるというのは、考えにくいところです。

志田 そもそも日本の公職選挙法は、一般人と政治家の生のコミュニケーションを取りにくくさせている法律とも言えます。例えば候補者やそのサポーターが、有権者を戸別訪問して、直接、政策の説明をすることは禁止されているのです。そんな中、選挙演説というのは、一般人と政治家が直接コミュニケーションを取れる大変重要な場面です。候補者やその応援者にとって、確かにヤジは気持ちのいいものではないと思いますが、しかし、民主主義においては、賛否両論あるのが当然、たくさんの異論がぶつかり合いながら、有権者の考え方を集約していくことが大事なのです。ヤジを排除するというのは、異論を押さえつけることになり、民主主義においてあってはならない表現抑圧と言えるでしょう。

――参院選においては、選挙演説に集まった反対派の人の意見を聞き、議論するという候補者もいました。

志田 それが理想的ですよね。むしろ、ヤジを排除するのは、民主主義のもと選ばれるべき人にとって、自殺行為なのではないでしょうか。議員の「議」は、議論の「議」です。いろんな人と対話を、時に議論をして、多くの人を納得させて票が集まり、選ばれる――だからこそ得られる、誇りと自信があるように思います。異論を押さえつけ、組織票で当選しても、その人は「本物ではない」ということになります。警察が気を利かせて排除したなら、候補者をスポイルしていることになりますよね。これは、政治の劣化にもつながることだと思います。

 政治家の中には、親の代からの地盤を引き継ぎ、有権者との議論をスルーし、人気取りのための発言と握手ばかりに終始する人もいますが、これは本来の民主主義とは言えないのです。大日本帝国憲法から日本国憲法に生まれ変わるとき、世襲制、また終身制が採用される貴族院が廃止され、その都度、民意で議員が選ばれるようになったのですが。もしかすると、選挙事務所や協力者が、そういう空気をつくっている可能性もあるかもしれません。候補者の弱みが出てしまう議論を避け、“イケイケ”のムードで、当選まで持っていきたいという思いもあるように感じます。

――ヤジに関してですが、「お前なんて辞めちまえ!」など、汚い言葉でのヤジに嫌悪感を示す人も多いです。かと言って、排除するのは、やはり「表現の自由」を侵害するということですね。

志田 「お前なんて辞めちまえ!」というヤジは、確かに口汚く聞こえるでしょうが、その人の役職の適格性や政策について疑問を抱いている……とも言い換えられます。ヤジ排除は、表現の自由の侵害とも言えますが、憲法第16条にも反しているように思うのです。憲法第16条では、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」という「請願権」が規定されています。つまり国民は、自分が求める政策について、国会議員に対してであれ、行政に対してであれ、平穏な方法で請願する権利を持ち、それによって不利益は受けないと、しっかり規定されているわけです。先ほどの公職選挙法違反のレベルにあたるもの以外は、きつい言葉でも、言葉である限り、平穏な方法と見るべきでしょう。その請願に対して、警察が身柄を取り押さえるというのは、憲法の趣旨に反します。

 「保育園落ちた日本死ね!!!」もそうですが、苦しい思いをしている人の生の声というのは、“口汚い”“きつい”と取られてしまうこともあるのではないでしょうか。しかし、それを排除してしまうと、やはり民主主義とはかけ離れていきますし、一見“口汚い”“きつい”と思われる生の言葉を、どう政治の世界で成熟させていくかが重要。それが「熟議」です。そう考えると「ヤジ」は必要なのです。ただ、特定の人物に対して「殺す」と言うなど、脅迫にあたることをする者は、排除しなければいけませんが。

――選挙演説におけるヤジ排除を見ていると、まるでアイドルの握手会でヤジを飛ばすアンチを、運営側が出禁にするのと似ているな……と思ったのですが。

志田 確かにそうですね。タレントだったら、握手会やコンサートに自分を支持してくれるファンだけを集めて、ヤジを飛ばすアンチにお引き取り願うのは自由です。というのもタレントは、私的な商行為として、それらを実施しているから。しかし、民主主義の選挙の空間は、タレントの握手会やコンサートとはまったく違います。私的な空間ではない「公共の空間」では、異論を排除してはいけないのです。

国民の知る権利にとって、賛否どちらも「ある」状況が必要

――この「公共の空間で、表現の自由が保障されなければいけない」という点に関しては、『表現の不自由展・その後』中止問題でも論点になっていました。大村県知事が記者会見で、河村市長から展示中止の訴えがあったこと、また「税金を使っているから、あたかも日本国全体がこれを認めたように見える」との発言があったことを踏まえ、「税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない」と話していました。

志田 大村県知事のおっしゃっていたことは、憲法研究者からすると「至極真っ当な意見」です。『表現の不自由展・その後』に関して言えば、展示品に賛否両論あるのは当然で、賛否どちらも「ある」という状況が、国民の知る権利にとって重要なこと。公共の空間において、人々に「選択肢がこれしかない」と思い込ませることが問題なのです。「日本人の心を踏みにじるからダメ」と言って展示を中止するのは、賛成する根拠も、また批判する根拠も、人々から奪うことになってしまいます。

 これは、先ほどの選挙演説へのヤジに関しても同じことが言えます。候補者や応援者の演説内容に賛否両論があり、聴衆が「私はこちらの意見だ」と選べる状況でなくてはいけない。ヤジを排除して、議論を起こさせないようにすることは、聴衆側からすると「大事な考え方に触れるチャンス」を奪われていることになるのです。

(後編につづく)

志田陽子(しだ・ようこ) 
1961年生。2000年、早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程を単位取得退学。2000年より武蔵野美術大学造形学部に着任(法学)。早稲田大学法学部・商学部非常勤講師。専攻は憲法。著書に 『文化戦争と憲法理論――アイデンディティの相剋と模索』(法律文化社、2006年)『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店、2018年)、編著に『あたらしい表現活動と法』(武蔵野美術大学出版局、2009年)『映画で学ぶ憲法』(法律文化社、2014年)。