「この人ってそっちだったのか…」新たな“地雷”を増やしていく社会的分断

社会と日常、その狭間。あまり明るくなさそうな将来におびえつつ、なんとなく日々を過ごしてしまっている小市民的な視点から、見えてくるものを考える。

「え、君は南京大虐殺が本当にあった出来事だと思っているの?」

 ちょっと前に酒場にいたとき、一緒に飲んでいた人にそう訊かれて一瞬かたまってしまった。その人とは年に数度、酒場で顔を合わせる程度の仲で、とくに親しいというわけではなかったけれど、会えば会ったでたわいもない話をしながら楽しく酒を酌み交わすぐらいの関係だった。50代後半の気のいいおじさんで、とあるクリエイティブな仕事でしっかりとした実績があり、周りからもかなりの評価と信頼、尊敬を得ているような人である。

 こちらとしても、それなりの好印象と敬意を抱いていたわけで、そんな人のそんな発言に驚いて言葉が出てこなかったのだ。

 実際、なんて答えればいいのか。「そんなことをいう人だと思っていなかった」という思いでいっぱいだったのだが、話を合わせないとその場の“空気”は間違いなく壊れるだろう。ちょっとした緊張感が走るシーンではある。

そういう人だったのか——いや、そういう人になってしまったのか

 しかし、まあこちらも酔っていたこともあって、「そりゃあったでしょう。被害人数には諸説あるみたいだけれど、日本政府も認めているわけだし」と適当に返事をした。すると、それが意外だったのか、今度は向こうが一瞬言葉を止めた。そして「いや、でも当時の状況を現実的に考えてみれば……」と、ちっとも現実的ではない妄想のようなことを語り出し、やがてせきを切ったように朝日新聞の悪口を言い始めた。

 そういう人だったのか——いや、そういう人になってしまったのか。そんな思いでネット空間に溢れ返っている、どこかで聞いたような与太話が展開されていくのを貝になって聞き流していた。

 いいかげんにしてくれよという気持ちが態度に表れていたからか、なんとなくお互いに「この話はもうやめよう」という雰囲気になり、酒の席の会話によくあるように話題はふわふわとまた別のところへ移っていったけれど、場の空気はどこかしらけたものとなり、その人とはそれからもなんとなく疎遠になってしまった。

 ここ数年、予期せぬところで「あ、この人ってそっちだったのか」という経験をしたことがある人は案外多いのではないだろうか。職場、取引先、酒場、友人関係、そして家庭——どんな場でもそれは起こりうる。久しぶりに帰省したら親が“そういう人”になっていた、なんて話はもはやよくある笑えない笑い話の定番のひとつだ。

 相手が自分の親だったり、遠慮なくものがいえる人だったりする場合、“そんなこと”を言い出したときに「は? ちょっと待て、今なんて言った?」というモードに入ってしまうこともある。しかし、経験のある人にはわかるだろうけれど、ここで相手に道理というものを諭そうとしても得るものはなにもない。

 相手は相手で“自分が正論だと感じること”を言い募り、たいていの場合は議論は意味のある”止揚”どころか単なる口ゲンカに発展する。時にはどちらかがその場で客観的事実や証拠になるようなものをスマホなんかで提示して、相手の矛盾を指摘したり、バシッと論破したりしてしまうこともあるかもしれない。
 
 しかし、そんなケースでも論破されたほうが「そうか、この件については自分が間違っていたな。もっと広い視野を持たなくては」なんて考えを改めることはない。まず間違いなく「ちくしょう、腹立つなこのやろう。だからこういうこというやつは嫌いなんだよ」と余計に反感を高めている。家に帰ったあとは必死に反証となる仮説や理論を探しまくるだろう。

 そして、広大なネットの世界ではどんな荒唐無稽な話であっても、それが正しいと主張する“証拠”はいくらでも見つかる。それが、本当に証拠になるものかどうかはさておき。いずれにせよ、意見を衝突させてケンカになるか、気まずい空気に耐えて何とか話題を変えるか、そのどちらかしかない。同じ場所にいるはずのふたりは、そのときからある意味で違う場所に自分たちが立っていたことに気がついてしまうのだ。

 ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ右と左にわかれるのか』(紀伊国屋書店)やダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)などの本を読むと、こうした立場の違いは、理性による合理的な判断で決まるのではなく、より根源的な情動、直観によって決定されるそうだ。

 だから、合理的なものであっても批判をされたら腹が立つし、仮に客観的な証拠などの材料をもって立場を変えるように説得されたとしても、納得できるどころか反発しか生まれない。「自分の立場が正しい」と論理ではなく情動、直観で信じているため、相手がどうしようもないひとでなしに思える。そして冷静に始まったはずの議論は熱を帯び始め、やがてケンカに発展して、その場の空気と時にその後の人間関係をも壊すのである。

 その場にいる人を“自分たち”と“あの人たち”に分断させるようなセンシティブな話題は、いわば見えないところに埋められた地雷のようなものだ。そして、いまやそんな地雷はあらゆるところに埋まっているし、その種類は増え続けている。Twitterの一部界隈やYahoo!ニュースのコメント欄なんかは、そんな地雷が爆発炎上したあとの見本市だ。

 安倍政権を支持するかしないか。トランプ大統領を評価するかしないか。れいわ新選組は? それともNHKから国民を守る党については? 中国や韓国に対する態度、原発問題、米軍基地、同性婚に夫婦別姓、著名人の不倫や不祥事、スキャンダル。混んでる電車にベビーカーを持ち込むのは有りか無しか。ワクチン接種の是非、家事育児の取り組み方、ワーク・ライフ・バランスに賃金格差。果ては掛け算の順序からハンコを捺す角度まで、人々は実に多様なイシューで自分と立場を異なる相手を批判しまくっている。時にそれは大きな炎上騒ぎになって、ある種のガス抜きにすらなっている。“正しい立場”から、“間違っているやつ”を叩くのは快感だから。

 匿名性がある程度は保たれているネット社会とは違い、現実の社会では地雷はそんなに爆発炎上することはない。空気を読むことに長けた“大人”たちは、会話をしながら誰もがそろそろと「このへんは危ないな」と地雷がありそうなポイントを避けていく。ときどき、ふと気を緩めた誰かが、そんな地雷を踏みかける。その場にちょっと緊張が走る。たいていの場合、周りで空気の読める気の利いた誰からがうまく話題をそらして事なきを得る。でも、誰かがさらに地雷を踏み込むこともある。「いや、そんなわけないでしょ」という感じで始まる地雷の爆発は、たいして大きなものを破壊するわけではない。先にも書いたように、その場の空気とその後の人間関係の機微ぐらいのものだ。時に取り返しがつかないほど関係が壊れることもあるけれど。

 もちろん、その程度の爆発であっても、じゅうぶん過ぎるほど面倒くさい。だから、覚悟を決めた活動家でもない限り、誰もが会話をしているときは無意識のうちに地雷を避けている。そうやって気を使うこと自体を面倒くさいと感じつつ。ときどき「いったいどうしてこんなことになってしまったんだろう?」と感じることがあるかもしれない。でも、答えは出ないし、何かできることがあるわけでもない。だから、より面倒くさい事態が起きないよう、これまで通りに地雷のありそうなポイントを探りつつ、そこを避けていく。

 でも、そうした地雷を避けて無関心を装うこともまた、現代の社会的分断を推し進めている要因のひとつといえる。リアルな空間で目の前にいる人が、誰かを差別したり、抑圧したり、虐げたり、それに加担するようなことを言い始めたときは、どれだけ面倒くさくても「それは間違っている」と、あえて地雷を踏むことも必要ではないだろうか?

 それがどれだけ不毛な結果に終わることが予想できたとしても。そのとき、爆発を防いで次の一歩へとつながるのは 相手を批判し、打ち負かそうとする論理ではなく、他者へのポジティブな想像力と共感性になるだろう。