小林麻耶へのオファー殺到で、移籍先『生島企画室』の営業力が注目の的に

 実はものすごい有力事務所だった?

 7月6日、フリーアナウンサーで芸能事務所『生島企画室』の会長も務める生島ヒロシが、都内の書店で自著『どん底に落ちてもはい上がる37のストーリー』(ゴマブックス)の発売記念イベントを実施。そこで、5月から同事務所で芸能活動を再開したフリーアナウンサーの小林麻耶について言及した。

「生島によれば、小林はタレント活動だけでなく、芝居、歌、講演にも意欲的だといい、生島みずからレコード会社などに売り込みをかけているといいます。また、すでにテレビだけで数十本のオファーが殺到していることも明かし、『トーク力がすごい。一緒に食事した時も7割方彼女がしゃべってたけど、しゃべりがうまい!』『ただのアイドルアナウンサーじゃない』と大絶賛。将来的には、黒柳徹子の人気番組をもじって、『麻耶の部屋』を作りたいとの展望も口にしていました」(スポーツ紙記者)

 小林といえば、2010年から所属していた『セント・フォース』を退所した際、事実上の芸能界引退を表明。それをあっさり翻し、古巣を袖にして復帰したことで「引退詐欺」「不義理」と後ろ指をさされ、業界内外で心証を悪くしていた。

 にもかかわらず、オファーが殺到していたことには驚きの声が上がっている。

「業界内では、生島企画室の”営業力”がクローズアップされています。生島は仕事が激減した03年頃には10億円の借金を背負っていたのですが、優木まおみ一人のブレイクによって、すべて完済した逸話を持っている。 現在もプレーイングマネージャーとして、色々な局に出向き、頭下げて売り込んでいる。ある意味、若くてきれいな、”量産型女子アナ”を大勢抱えている『セント・フォース』よりも、自分だけを売り込んでもらえる生島企画室のほうが、小林にとってもよかったのかもしれませんね」(芸能関係者)

 今度は、小林でいくら稼げるだろうか。

“芸能界ケンカ最強伝説”の一人・生島ヒロシがクリスマスイブに武勇伝を告白! 「黒帯が役に立った」

 芸能界には、いくつもの“ケンカ最強伝説”が存在する。多くの人は真っ先に渡瀬恒彦説を思い浮かべるだろうし、他にも大木凡人説や車だん吉説、ジェリー藤尾説など数々の伝説が語り部によって周知されてきた。

 そして先日、“最強説”を持つ者の一人が自ら口を開いている。それは、生島ヒロシ。12月24日放送『誰だって波瀾爆笑』(日本テレビ系)に出演した彼が、破天荒な青春時代を回想したのだ。

 そのトークは、クリスマスイブの午前(生島の誕生日は12月24日)という時間帯に独特の異彩を放ち、好事家を喜ばせている。

 

■アメリカで出会った人物と旅を共にするも、“白い粉”を発見して逃走

 

 番組も番組だ。オープニングで、いきなり生島の前に瓦10枚を用意し、瓦割りをけしかけるのだ。生島も「やってやろうじゃないの」と、手刀で難なく瓦割りを成功させ、スタジオの観覧客を驚愕させている。

 また、この番組はゲストの半生をお笑い芸人がボードを使って振り返るのが恒例だが、この日担当したアルコ&ピースの平子祐希(身長182cm、体重78kg)を見た生島は「大きいね、勝てるかなぁ?」と声を掛けたという。男と対面する時は、いまだにスカウターを働かせてしまう生島。老いてなお盛んだ。

 そんな彼が、この日の番組で語ったのは、20歳の時に思い立ってスタートさせた「アメリカ移住」時代のエピソードであった。まず、生島はハワイへと向かい、そこである人と知り合っている。

「その時にたまたま出会った方が『一緒にサンフランシスコに行こう』と。(中略)ホテルの部屋に入った途端、ニコニコしてるんだけど、すごい勢いで怒り出してきちゃって、怪しいんですよ。その人が旅の疲れで寝込んだからカバンを見たら、白い粉がたくさん入ってた。もしかしたら、クスリかもしれない」

 隙を見て無事に逃げ出せたそうだが、それにしてもいきなり中毒者と旅を共にするとは、生島は引きが強い。

 

■ベニー・ユキーデとの試合が決まりかけていた

 

 アメリカで大学に進学したものの、その頃はまだ英語が上手ではなかった生島。やはり、周囲からバカにされることも多かったという。そこで効力を発揮したのが「アイアム ブラックベルト」という言葉であった。空手の黒帯を取得していることを明かし、空手の型を披露するや、周りの態度は激変したそうだ。

 実は、この時代について、より詳細に語っている資料が存在する。「KAMINOGE」(東邦出版)vol.70に掲載された生島ヒロシインタビュー、好事家は必読である。

 当初はアメリカの極真空手道場にアシスタントとして入ろうと目論んでいたという生島。実際に現地でアメリカ人と手合わせしたこともあったと告白する。

「アメリカ人と組手をやっても回し蹴りなんかがバチコーンと入ると、アメリカ人のゴツイのが『ううっ……』ってなってましたからね(笑)」

 70年代当時のアメリカといえば、今よりはるかに治安が悪い。ご多分に漏れず、生島はトラブルに巻き込まれている。当時、生島はボロボロのフォルクスワーゲンに乗っており、思うようにスピードが出せなかったという。そんな生島を煽り、並走して緑帯の空手着を見せ付けてくる車が現れたのだ。

「そんなことされたら、こっちもカッとなるでしょ。『待て、バカヤロー!』って、ボクは持ってた黒帯をガーッと見せて、『来い、この野郎!』ってガソリンスタンドに入ってクルマを降りて待ってたんですよ。そしたら向こうが急に平身低頭になって『アイム・ソーリー』とか言ってきたんです(笑)。でも、こっちはカッカしてるもんだから『おまえね、空手はケンカするためにやるんじゃないぞ!』って説教して、『気をつけて帰れ!』って言ってやりましたよ(笑)」

 また、生島がベニー・ユキーデとの対戦をマッチメイクされかけた話は有名だ。

「出村(文男)さんっていう当時の空手チャンピオンだった人と山崎清司先生がカリフォルニアのサンタナに道場を開いたんですね。それでボクは、その道場でお手伝いをしていたんです。(中略)ある日、道場で稽古をしていた時にベニー・ユキーデのお兄さんっていう人が来たんです。(中略)ボクを見たベニーのお兄さんが、道場の山崎先生に『ヒロシ・イクシマとベニーを対戦させたい』って言ったらしいんですよ」

 結局、この話は生島本人に伝わらないうちに断られたようだが、だとしても夢のある話ではないか。

 

■TBS局アナ時代にも繰り返されるストリートファイト

 

 その後、帰国してTBSに入社した生島だが、局アナになっても彼も血の気は一向に収まらなかった。

「新宿を友達と歩いてたら、身体のデカイのがいきなりボーンとぶつかってきたなと思ったら、そいつがいきなり友達の顔をぶん殴ったんですよ。ボクもビックリしちゃって、不意にバンバンバンって3発くらい顔にパンチ入れたんだけど、そいつ倒れないんですよ。(中略)で、『コイツ許せねー!』って、あとを追いかけて、伊勢丹がある通りから二丁目の交番のほうまで歩いてたんで、その角の直前でとっ捕まえて、今度は回し蹴りを3発入れたら向こうがダウンしましたね。完全にレバーに入ったんです」

 何度も言うが、これはTBS在籍時代のエピソードである。テレビで爽やかな顔を見せながら、裏ではいつだって臨戦態勢。そのギャップには、驚きを禁じ得ない。この点については、生島本人も自覚しているようだ。

「ボクは意外と見た目がソフトじゃないですか。だから『えっ!?』みたいな雰囲気になる(笑)」

 現在、生島ヒロシは67歳。自身が立ち上げた芸能事務所「生島企画室」には浅野温子、優木まおみ、朝比奈彩と錚々たるタレントが所属しており、経営者としても完全に成功。人生も腕力も、生島は絶好調だ。
(文=寺西ジャジューカ)