どうでもいい出来事ゆえに、どうでもよくない……シリーズ:ジョゼフ・ミッチェル作品集

 さて、前回の続きからで、柏書房から刊行されたジョゼフ・ミッチェルの作品集についてである。

 このミッチェルという書き手が、名文かどうかは原書を読んでいないので、筆者もわからない。筆者、読めないなりにノンフィクションなどは原書ではどう書いてあるのかと、何冊も取り寄せて読んだりしている。だいたい、どの文章も難しい。やたらと接続詞やら、関係代名詞で言葉をつなげているのは当たり前。学校の英語の授業でいわれたかもしれない「英米人の言葉は短い」というのは、大嘘である。

 その上で、この作品が優れているのは、ミッチェルの選んでいる題材である。

 とにかく、市井の人や、街の奇人変人を、ミッチェルは丹念に描写している。表題作にもなっている『マクソーリーの素敵な酒場』は、21世紀の現在も存在する老舗の酒場が舞台の作品なのだが、初代からの店主のエピソード。そして、客達の様子を克明に描いていく。

 収録作の『レディ・オルガ』で描くのは、生まれながらに長いひげを生やしていたために、人生の長い期間を見世物小屋の見世物として生きていた女性の人生。

『さよなら、シャーリー・テンプル』に収録されている『ジプシーの女たち』では、長らく警察でジプシーの取り締まりを担当した警察官を軸に、アメリカにどうやってジプシーが流れてきたのかについて、その家系の系統から、犯罪の手口までもを克明に描いている(註:あくまでのその時代の視点である、念のため)。

 どれも思うのは「これ、どうやって取材したんだろう」ということである。当然、その時代に現代のようなレコーダーなどないので、話を克明にメモしたのはわかる。それだけではない。

 どういったきっかけを得て、長時間を共にしたのだろうか。

 どのテーマも「取材させてください」と、相手に時間を割いてもらって、材料が集まるものではない。登場する人物たちと長い時間を過ごすことが必要だ。なにより、当時の視点では「そんなこと取材して、何か意味あるの?」と思えるような価値のない人や出来事を、作品になった時に価値あるものにしているのである。

 最初から、メジャーな人物に触れるのでもなく、世間の人が注目する事件を扱うのではない。ここに、ミッチェルという人物の輝きがある。

 輝きはあるというけれど、いま、これを日本語訳して、多くの人が手に取るかと思えば疑問だ。ネットで検索してもジョゼフ・ミッチェルという名前は、いまだウィキペディアも存在しない。

 ところが、SNSを見る限り、読んだ人は確実に絶賛の言葉を記しているのである。

 わかるだろうか。人は求めているのである。丹念な取材と書き手の視点を。そして、冒険でも事件でもない市井の人の物語を。
(文=昼間たかし)

元メイドで女探偵、そんな属性を詰め込んでもダメか? ジャクリーン・ウィンスピア『夜明けのメイジー』

 柏書房というのは、歴史書を多く出している老舗の出版社。

 そんな出版社が手がけたのがジョゼフ・ミッチェルの作品集。2017年2月に出版された『マクソーリーの素敵な酒場』から始まった作品集は、18年12月の『ジョー・グールドの秘密』まで全4冊で完結した。

 ジョゼフ・ミッチェルという人物は、これまでほとんど知られていなかった書き手である。1908年生まれで96年に没しているから、すでにかなり過去の人である。しかも、精力的に活動したのは38年に『ニューヨーカー』のスタッフライターになってから10年、20年足らずのこと。

 その作品は、日本ではほとんど知られてこなかった。本のオビでは、作家・常盤新平が絶賛したことを大きく記している。その絶賛は本物で、ミッチェルが死んだ96年に常盤は、『オールド・ミスター・フラッド』を訳して翔泳社から上梓している。

 その常盤も2013年に没しているから、すでに5年。けっこう、この損失は大きいものである。

 全力で、まだ日本語訳されていないアメリカのノンフィクションや小説。そして、名編集者を紹介し続けたのが、常盤新平という人物の大きな功績である。

 そんな人物がいなくなってしまったもので、ネットでリアルタイムに情報は入手できるのに、文化の断絶は大きくなってしまった。以前に、この連載で取り上げたゲイ・タリーズの『A Writer’s Life』を常盤は雑誌コラムでも絶賛していたのだが、その絶賛が広まらぬうちに没してしまったから、そもそもそんな本があるという人も少ないし、とても日本語訳など出版されるような状況ではない(注:筆者は、できない英語でようやく3分の1くらい読んだのだが、もし「読みました」という人がいたら、絡んでください)。

 この「まだ、日本語にはなっていないんですけど、こんな面白い本があるんですよ~」と、紹介するような識者が減ってしまった状況というのは、けっこうヤバイと思う。いや、まず日本語の本を読むだけでも、一生のうちに読める本の数は年間発行点数の一割にも満たないと思うのだが、これに外国語の本を加えると、本当に読める本というものは少ない。

 それに、翻訳されたシリーズものでも中断は、当たり前にある。

 ふと先日、05年にハヤカワ・ミステリ文庫から出たジャクリーン・ウィンスピアの『夜明けのメイジー』という作品を思い出した。

 これは、新米の女探偵がヒロインなのだが、このヒロイン、探偵にして元メイドという、なかなかの属性。そして、舞台は第一次世界大戦後のロンドンと、いろいろ刺激してくれる要素がある。さまざまな賞も得ている作品なので、これは続きとか作者のほかの作品が翻訳されていないものかと思ったら、ない。でも、ないのは日本語訳だけの様子。そこで検索して見ると、英語圏では人気シリーズになっているそうで、昨年まで16作品が刊行されている。

 ようは、売れなかったのか邦訳版の刊行は続かなかったようだ。また、文化の断絶の状況に気づいた。

 で、話そうと思っていた、ミッチェルについては、次回ということで。
(文=昼間たかし)

だいたい辛辣なショウペン先生『自殺について』

 さて、前回から引き続き、人生の黄昏を感じざるを得ないシリーズである。そもそも論としてタイトルが「100人にしかわからない本」なので、100人くらいはわかってくれると思って、続ける。

 20世紀の末。90年代の半ばくらいまでは、読書の必然性というのは、現在よりもずっと高かった。読書をしていれば、最低限の教養は身について、それはいずれ我が身を助けるという信仰のようなものを誰もが共有していたと思う。

 でも、それはある面では正しくはなかった。

 読書の積み重ねが、そのまま実人生に影響するのならば、もっと報われている人も多いはず。ふと見回せば、一種の求道的な読書スタイルは、もうどこにも見られない。世に論客といえる人は一種の芸人のようになっている。

 今の時代を切り取っている魅力的な本というのはあるけれども、何十年、何百年と読み継がれている本に比べると、何かが欠ける。

 考えてみれば、筆者はまったく信じてはいないけど、マルクスなんて生誕200年を迎えて、まだ本が読まれたり研究者がいたりするわけである。自己啓発書とかビジネス書ではない形で、世界はこうなっているとか、人生はこういうものだと語り、そうだったのかと考えさせられるような本というものは、ほぼ見ない。

 実際『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)が、マンガ(マガジンハウス)になって、ブームになるくらいだから、本当に、そんなジャンルの本は新たにはないのだろう。

 読書というのは、だいたい出会い。読書の必然性があった時代には「何が書いてあるか、難しい、わからん」などと読みつつ、なんとなくのフィーリングで「だいたい、自分のこれから生きるラインは、これ」みたいなものをつかんでいた。

 今思うに、筆者のラインに通底しているのは、ショウペンハウエル(ショウペンハウアー)に尽きる。ショウペンハウエルは、19世紀ドイツの哲学者で、書いてることはやっぱり難解である。数年前に、白水社の『ショウペンハウアー全集』全14巻+別巻1巻を買ったけど、やっぱり難しい。代表作である『意志と表象としての世界』は、正続合わせて全集のうち6冊を占める。これは、何度読んでも、やっぱり難しい。

 ところが、このショウペン先生。短い文章を書かせると人が変わる。毒舌というべきか、えぐるような洞察力というべきか、辛辣に本質を突いてくる。岩波文庫の青から、現在も刊行されている『自殺について』は、まさにそれ。この本で記される《人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない》は、ショウペン先生の名言として、よく引用されるもの。

 正直『君たちはどう生きるか』とかに感動している場合なら、こうした辛辣な言葉に刺されたほうがいい。それも人生の早いうちに。

「成せばなる」とか思っても、結局はそんなんものだと思っていないと、本当に電車にでも飛び込んでしまう。そうならないために、ショウペン先生は最初から最悪を想定しておけと教えてくれているわけである。そして、いざとなれば、キリスト教的価値観じゃなければ自殺も勇気ある選択肢とまで。

 人生の半ばに、また、もう少し生きるか否かを考える。
(文=昼間たかし)

だいたい辛辣なショウペン先生『自殺について』

 さて、前回から引き続き、人生の黄昏を感じざるを得ないシリーズである。そもそも論としてタイトルが「100人にしかわからない本」なので、100人くらいはわかってくれると思って、続ける。

 20世紀の末。90年代の半ばくらいまでは、読書の必然性というのは、現在よりもずっと高かった。読書をしていれば、最低限の教養は身について、それはいずれ我が身を助けるという信仰のようなものを誰もが共有していたと思う。

 でも、それはある面では正しくはなかった。

 読書の積み重ねが、そのまま実人生に影響するのならば、もっと報われている人も多いはず。ふと見回せば、一種の求道的な読書スタイルは、もうどこにも見られない。世に論客といえる人は一種の芸人のようになっている。

 今の時代を切り取っている魅力的な本というのはあるけれども、何十年、何百年と読み継がれている本に比べると、何かが欠ける。

 考えてみれば、筆者はまったく信じてはいないけど、マルクスなんて生誕200年を迎えて、まだ本が読まれたり研究者がいたりするわけである。自己啓発書とかビジネス書ではない形で、世界はこうなっているとか、人生はこういうものだと語り、そうだったのかと考えさせられるような本というものは、ほぼ見ない。

 実際『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)が、マンガ(マガジンハウス)になって、ブームになるくらいだから、本当に、そんなジャンルの本は新たにはないのだろう。

 読書というのは、だいたい出会い。読書の必然性があった時代には「何が書いてあるか、難しい、わからん」などと読みつつ、なんとなくのフィーリングで「だいたい、自分のこれから生きるラインは、これ」みたいなものをつかんでいた。

 今思うに、筆者のラインに通底しているのは、ショウペンハウエル(ショウペンハウアー)に尽きる。ショウペンハウエルは、19世紀ドイツの哲学者で、書いてることはやっぱり難解である。数年前に、白水社の『ショウペンハウアー全集』全14巻+別巻1巻を買ったけど、やっぱり難しい。代表作である『意志と表象としての世界』は、正続合わせて全集のうち6冊を占める。これは、何度読んでも、やっぱり難しい。

 ところが、このショウペン先生。短い文章を書かせると人が変わる。毒舌というべきか、えぐるような洞察力というべきか、辛辣に本質を突いてくる。岩波文庫の青から、現在も刊行されている『自殺について』は、まさにそれ。この本で記される《人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない》は、ショウペン先生の名言として、よく引用されるもの。

 正直『君たちはどう生きるか』とかに感動している場合なら、こうした辛辣な言葉に刺されたほうがいい。それも人生の早いうちに。

「成せばなる」とか思っても、結局はそんなんものだと思っていないと、本当に電車にでも飛び込んでしまう。そうならないために、ショウペン先生は最初から最悪を想定しておけと教えてくれているわけである。そして、いざとなれば、キリスト教的価値観じゃなければ自殺も勇気ある選択肢とまで。

 人生の半ばに、また、もう少し生きるか否かを考える。
(文=昼間たかし)

エビデンスがなくても疑問を忘れるな。「ユリイカ」1988年11月号

 もはや、物書きの世界でも、竹中労の名前を出すと「誰?」であり、沢木耕太郎は「ああ『深夜特急』の人」である。

 知らない、読んでいないは構わない。大切なのは「こういう人物が書いた、こういう作品なのです」と話した時に、ピンとくるかこないか。それは「考えるな、感じるんだ」の世界。言葉を用いる仕事だが、言葉以前の部分で合わない人とは、会話する時間も億劫に思えてくる。

 読んでいなくても「おお! 過去にはそんな作品が」と食いついてくるようなタイプの人。そこまではいかなくても、こちらの提示するベースにある世界観を信頼してくれる人とは、物書きの仕事はやりやすい。

 そこには、小さな仕事でも、それを大勢の人に読んでもらい、あわよくば将来も残る作品にしたいという想いがある。

 でも、将来に残る作品というものは難しい。そう思ったのは「ユリイカ」1988年11月号(青土社)の特集「アメリカン・ノンフィクション」を読んだ時のことである。

 この特集がテーマにしているのは、前にこの連載でも触れたニュージャーナリズムの総括である。トム・ウルフやゲイ・タリーズなどの短編を収録する特集で、川本三郎は「ベトナム戦争があったからこそ……」という文章を寄せてニュージャーナリズムの起源と発展を記している。

 その中で川本は「ジャーナリズムは駆け足のメディアである」という。

 作家も、アカデミズムの学者たちも捕らえきれない、現代の最前線を、とりあえずジャーナリズムがつかみとる。

 原文では「とりあえず」の部分に傍点が記されている。この意味をどう考えればよいのか。私は、自身の思いのままに、躊躇することなく取材して、勢いよく書くことなのだと思っている。

 でも、それは適当なことをやってもよいという意味では決してない。

 昨年末に「朝日新聞」の論説委員が「エビデンス? ねーよそんなもん」と、発言したとかしないとかで物議を醸した。この論説委員の著書を読むに、言葉の意味は、何か気味の悪さを感じて政権批判をする自分の信念にエビデンスがない、ということなのだとわかった。多くの批判者が「新聞記者が裏取りもせずに書くのか」という言葉をぶつけていた。それに対して、著書の引用を用いて「意味をちゃんと考えろ」という反論がなされたわけである。

 でも、感情の赴くままに批判するのであれば、余計にタチが悪いなと思った。

 もし、物書きを矜恃にするとしているのであれば、まったく足りない。気持ち悪いから、気持ち悪いと書くだけでは単なる落書きの類いと違いはない。

 ベースに必要なのは「なぜ」という疑問である。

「なぜ、自分はそんな感情を抱いてしまうのか?」

 出来事や人物に、説明できない嫌な気持ちが湧く理由を探究する気にならないなら、ジャーナリズムではないと思うのだ。

 そうしたベースもなく「エビデンス? ねーよそんなもん」などと乱暴な言葉を吐いてしまう背景にあるのは、劣化である。

 そんな時に読み直す、特集「アメリカン・ノンフィクション」は新鮮だ。収録されているウルフやタリーズの短編は、多くの人が考えているジャーナリズムの概念を徹底的にたたき壊す。

 大抵の人は、ジャーナリズムという枠で書かれる文章というものは、こんな構造でできているように思っている。

 でも、これは一種、わかりやすく手を抜くための方法に過ぎないのではないかと思う。

 ノンフィクションやルポルタージュというのは、既存の概念の破壊をも使命にしている。ならればこそ、書き方も既存のものには囚われない、最初が叫び声から始まっても構わないし、ムカついてアイスを食べてもよい。ただ、なぜそうなったのか。それを考えることを忘れては成立し得ない。
(文=昼間たかし)

キラキラ系メディアなどクソ食らえ!「別冊新評 ルポライターの世界」

 最近気づいたのだが、世の中には「ライター講座」と称するものが、いくつもあるようである。それらの説明を読んでみたが、ライターを生業にして稼ぐ方法や、訴求力のあるWebコンテンツの作り方なるものを「人気ライター」などが、教えてくれるらしい。

 これが役に立つのかどうかわからないが、自分には必要のないことだと思った。

 ただ、もしも文章で身を立てたいと思った時に、こうした講座を一度は経験することも必要かもしれない。私自身も二十代の頃、高田馬場にあった日本ジャーナリスト専門学校の夜間部「日本ジャーナリストセンター」に通っていたことがある。取材して書くことで生計を立てている人には、最初は業界への入口を彷徨い、ここの扉を叩いた人も大勢いる。

 それが、果たして何かの糧になったのか。明確に説明できる人は少ない。なんとなく曖昧なままに過去の経験として憶えている。私の場合、どのコースを選ぼうかと思って、文芸創作講座を選んだので、余計に総括は曖昧なままである。いずれにしても、何かを学び、何者かになろうとする決断をするまさにその時は、人生で、もっとも貴重な瞬間の一つだと思っている。

 いま、ルポライターを肩書きにしているが、そもそもルポライターというのが、どういう仕事なのかは、私もうまく説明することができない。人に説明をする時は「自分で取材をして、自分の意見で書く」というスタンスを説明することにしている。

 そんな曖昧さがあるのも、ルポライターというものを解説する書籍がほとんどないからである。竹中労の『ルポライター事始』(現在は、ちくま文庫で刊行)は、すぐれた作品である。肩書きをルポライターとすることを決めて以来、座右の書として揺るぎない。

 でも、年数を重ねるうちに「ほかの視点はどうなのだろうか」と考えるようになる。そんなことを考えた時期に手に入れたのが『別冊新評 ルポライターの世界』(新評社)である。奥付は1980年7月。この頃は、まだ世に「ルポライター」を肩書きとする物書きが多かったのだろう。

 この本に記された、さまざまなテーマの記事は、すでに古びて参考にならないものも多い。例えば松浦総三の手による「戦後ルポルタージュ30選」は、ちょっと古い。選ばれた中には、竹中労『タレント帝国』など、今も読むべき本もある一方で、オールドスタイルのルポルタージュが中心を占めているからだ。

 一方で、今こそ参考にしたいのが佐藤友之による「これがルポライターの収入と支出だ!」である。ここで示されるのは、1980年代当時でも原稿料は現在と変わらないという事実。現在と当時が違うのは、原稿料の安さを「覚悟」として求めていることである。

 800円の原稿を仮に月200枚書いても、月収16万円である。寸暇を惜しんで取材に飛び廻り、資料を読み、土曜日曜もなしに徹夜徹夜を続けて、諸経費を差し引いて手元に残るのは大卒の初任給程度である。

 現在、ルポライターは何千人いるのか定かではないが、マスコミでもよく名の売れているわずかひと握りの著名なライターで、その収入は、大会社の課長クラスだという。多くは、生活費にあえいでいる。前述したように、転職していった者も少なくない。

 昨今の「ライター講座」というものの様子を見ると、前述のようにクライアントにウケる方法、そして、効率よく稼ぐ方法が主題となっているように見える。とりわけ、何か別の目標を立てながら副業としてライターで稼ごう系のものだと、その傾向は強い。

 世間では「キラキラ系」と称されるいくつかのメディアが流行し、持てはやされている。個人で、ネットで公開した1本100円とか200円の短文の「記事」が何本売れたとか、フォロワーが何人いるとかを誇るものが多い。でも、そんなものを誇るのが物書きの矜恃だとはとても思わない。

 仕事なのではない。生き様であると覚悟を決めろ。すでに紙は色あせた1冊の本が、自分の選んだ選択の正しさを確信に近づけてくれている。
(文=昼間たかし)

実践のための「ニュー・ジャーナリズム」の復権 「スペクテイター」第33号

 この連載は「100人にしかわからない本」と銘打っている。なので、この本について言及するには、少々申し訳ない気持ちもある。

 2015年5月に発行された「スペクテイター」第33号(エディトリアル・デパートメント/幻冬舎)が、それである。

 この雑誌は年3回の変則的な刊行形式で、各号ごとに、ひとつのテーマを突き詰めていく。

 2月に発売された最新号では、つげ義春をテーマに、多方向から稀代の天才漫画家について探求している。

 正直、あまりにもコアな雑誌。その第33号が特集したのは「クリエイティブ文章術」である。タイトルだけみれば、文章の描き方講座か何かを想像するかもしれない。

 ところが、この号が多くのページを割いて紹介したのは「ニュー・ジャーナリズム」であった。

「ニュー・ジャーナリズム」という言葉を聞いて「ああ」と、納得できる人がどれだけいるだろうか。それは現代では、ほぼ忘却された言葉になっている。例えばGoogleで検索しても出てくるのは、Wikipediaなどの、ごくごく簡易的な解説くらいである。

 1960年代後半にアメリカで生まれた「ニュー・ジャーナリズム」。それは、あえて客観性を放棄して、取材対象に関わり合うという方法論である……と、説明を始めれば字数はいくらあっても足らない。今では、もう忘却された「ニュー・ジャーナリズム」。それを21世紀にあって「スペクテイター」第33号は、真っ向から語り再生を図っている。

 とりわけ、「Quick Japan」の初代編集長であった赤田祐一の筆による「ニュージャーナリズム小論」は、もっとも簡潔に「ニュー・ジャーナリズムとは何ぞや」を理解するに適した解説である。

 ここで、赤田は「ニュー・ジャーナリズム」を、こう説明する。

***

 ニュージャーナリズムについて知りたければ次の本を読めばいいと思う(翻訳書が出ています)

トルーマン・カポーティ『冷血』
ハンター・S・トンプソン『ヘルズエンジェルズ』
トム・ウルフ『ザ・ライト・スタッフ』
ゲイ・タリーズ『名もなき人々の街』『ザ・ブリッジ』

日本人の手によって書かれたノンフィクション本では、以下四本の表題作がいいのではないか。

沢木耕太郎『テロルの決算』『一瞬の夏』
立花隆『中核VS革マル』『日本共産党の研究』

***

 論の冒頭で、こう記した赤田は「これでは単純化が過ぎる」「スペースが埋まらない」と、以降数ページを費やして丁寧に「ニュー・ジャーナリズム」の発生からを書き記している。その歴史性は、当然知っておかなければならない。でも、もしも実践のための糧とするならば、この冒頭の読書案内だけで十分である。

 もしも読んでいないならば、ここに記された作品を読んでみるだけよい。何がしかの書き手として屹立したいと日々考えているなら、この9冊をパラパラとめくるだけで気づくのだ。自分には、深く取材する意志も技術も、取材対象への観察眼も洞察も、何もかもが足りていないということに。

 ノンフィクションというジャンルが「冬の時代」といわれて長い。それでも、毎月のように、収支に見合わぬ努力を重ねた作品は、次々と発売される。「ルポライター」を肩書にしていると、当たり前のように「最近、どのような魅力的な作品に出会いましたか」と尋ねられる。容易にはたどり着くことのできない土地を目指したり、出会えない人にあったり、泥にまみれながら取材を重ねている姿が浮かび上がる作品は数限りない。それでも、私は、いつもこう答える。

「ずっと前の作品ばかりを読んでいるんです」

 どれだけ現代を知ることができる作品に出会い、感動してもなお、赤田が挙げた作品群を超えているとは思えないからだ。

 なぜ1960年代後半から70年代に頭角を現した、それらの書き手たちは、優れているのか。いくら考えても、その解答は出ない。それは、作品を作り上げているものが、理屈ではなく意志だからだと思う。だから、追いつく手段があるとすれば、模倣と実践との繰り返し、それを乗り越えるきっかけを探り出すしかないのではあるまいか。

 そのためだろうか。何か、取材をする前になるとさまざまなものが頭をよぎるようになった。もしも、今日の取材をトンプソン風に描くなら、どうするのか。タリーズならどうか。

 沢木ならば「私は」なのか「ぼく」なのか……。

 取材を終えて、いざ執筆の段になっても回答はない。構成・文体が無数に沸きだしてくる……。

 インターネットのメディア、SNSなどの普及は、簡潔に情報だけを求める読み手を拡大させてきた。けれども、その時代ももう終わる。

 電子書籍の普及をひとつのエポックとして、人は次第に、スマホを用いて本と同じくじっくりと文章を読むことに慣れてきている。

 21世紀において「ニュー・ジャーナリズム」が積み重ねてきた体験は、どう生かされていくのか。

……そんなことを評論チックに書いているよりも、さっさと取材に出かけたい衝動が、またわき上がる。
(文=昼間たかし)

取材の時にレコーダーなんか回すんじゃない!! ゲイ・タリーズ『有名と無名』

 連載回数も区切りを迎えたので、次はどのような本を紹介すべきかと考えて、ふと浮かんだのが、この1冊。

 すでに絶版になっている、この『有名と無名』(青木書店)は、ゲイ・タリーズの短編集として3分冊で刊行されたうちの1冊である。

 ほかの2冊、『名もなき人々の街』と『ザ・ブリッジ』も、物書きを志すなら読んでおくべき本。だが『有名と無名』は別格である。

 というのも、この本にはタリーズの出世作である「シナトラ風邪をひく」と、その後日談「シナトラが風邪をひいたころ」が収録されているからである。

 1965年の冬のこと。「エクスワイア」から依頼を受けたタリーズは、フランク・シナトラにインタビューするため、ニューヨークからロサンゼルスへと飛び立った。

 ところが、直前になりシナトラのオフィスから取材のキャンセルを告げる電話がかかってきた。理由は、シナトラが風邪気味であるからということ。

 取材は空振りに終わった……と、帰るわけにはいかない。そこでタリーズは、ちょっとでもシナトラを知る人に会い、話を聞くことにした。シナトラが関係する映画会社に音楽会社のスタッフや重役連中。かつて交際のあった女性たち。出入りしている店の人々……。

 会うとはいうが、テープレコーダーとメモ帳を手に「シナトラさんについて、知っていることを教えてくださいよ」と押しかけるわけではない。昼飯や夕食に連れ出して、ただ話をするのである。そうして出会った100人あまりの人々の話を元に、シナトラにインタビューせずして人物を浮かび上がらせるという「シナトラ風邪をひく」は出来上がった。

 その後日談でタリーズは、こう語る。

 私はポケットに、ほとんどいつもペンとメモ帳を忍ばせていた。そしてテープレコーダーを使おうとは夢にも思わなかった。そんなものを使ったら、人々は率直にしゃべってくれなかっただろうし、あのリラックスした、あの裏表なしの関係も築けなかっただろう。

「シナトラが風邪をひいたころ」で、タリーズは繰り返し、テープレコーダーを使う取材を戒めている。これを使えば「自分の頭と手間と時間にこだわる書き手を使うよりもずっと安い料金で、それなりの記事を仕立てられるのだ」と。

 現在、我々が行っている取材して書く工程で、テープ起こしは、ほぼ必須の作業である。ともすれば、テープ起こしが終われば作業の半分以上が終わった気になりがちだ。

 あとは、重要そうなところを抜き出してカギカッコでくくれば、記事は出来上がる。

 けれども、それは人の心を震わせる「作品」になりえるだろうか。取材相手の、上手いことを言っている部分を抜き出せば、読者の興味を引くことはできる。それに、何か問題になった時もカギカッコでくくっておけば、録音と合わせて、確かに本人が話していることだと抗弁することも容易である。

 でも、そうして出来上がった記事は、読み飛ばされて消えていく。なぜなら、書き手の意識の一切ない、中身のない記事に過ぎないからである。

「シナトラ風邪をひく」においても、カギカッコで会話した文章は出てくる。でも、それはタリーズがインタビューをして得たものではない。さまざまな人に出会い、こっそりとメモを取り、あるいは記憶したものを記録して、執筆の際に再構築されたものである。

 それを実際に話していないことかもしれない。では、そうして出来上がったものは、創作であり捏造になるだろうか。

 決してそうはならない。なぜなら、そうして構築された一言一句が、膨大な取材に裏付けされているからである。

 実際、タリーズのような方法論を実践しようと思うと、膨大な時間と、途方もない経費がのしかかってくるのはいうまでもない。けれども、いかにして、そこに一歩でも近づくか。それを、書き手は今一度考える時が来ているのだと思っている。
(文=昼間たかし)

服を取り上げて内定辞退を阻止! バブル時代の就職活動は、非道だけれど羨ましい……

 ここまで、複数回にわたって、さまざまな雑誌記事をもとにバブルネタを取り上げてきた。

 結局、バブルも今も世の中はいつでも残酷な現実しかないものだというのが、筆者の想いである。

 けれど、バブル時代の現象として、ちょっと羨ましいことがある。それは、当時の大学生の就職活動である。

 当時は、まだ大企業間で「就職協定」が存在し、会社訪問の解禁日や内定の日付けが明確に決められていた。そうした中で、好景気を背景に優秀な人材を確保した企業は、さまざまな方法で「青田買い」に精を出していた。その恩恵を受ける学生も多かった。

 当時の、協定破りの青田買いの方法は、現代視点では実に面白い。どこも企業の看板があるため「セミナー」などと称して、学生を集めて就職説明会を行うわけである。その方法も手が込んでいた。土日の会社が休みの時や早朝に学生を集め、裏口から社内へと導くのである。それでもまだマズかろうと考える会社では、学生に私服で来訪させ、会社の面接担当者も私服で待ち受けて「プライベートな関係」を装う。あるいは、ホテルの喫茶室などで面接する、なんてこともザラに行われていた。中には、こんな方法もあった。

 * * *

 スパイもどきだったのはD銀行。同行は協定破りが発覚しないように慎重に慎重を期した。なんと7月2日の集合場所は「日比谷図書館前」で、こう指示された学生もいた。
「スーツを着て雑誌を持っている男が立っているから、『若杉さんですか?』と声をかけろ」
“若杉さん”に帝国ホテルに連れて行かれて、部屋で面接が行われた。(「週刊現代」1989年7月29日号)

 * * *

 いや、スパイごっこも楽しいけれど、たかだか就職の説明会レベルで帝国ホテルって、羨ましいじゃありませんか。

 この、バブル時代の就職活動。目を見張るのは、企業間の空気の読み方である。とりわけ大企業は表向きは就職協定を遵守しているというスタイルを取らなくてはいけない。もちろん、どこの企業も協定を守る気なんてない。だからといって、無視して学生に内定を告げてしまえば、ほかの企業からは非難されるし、新聞ネタになりかねない。だから、お互いに「押すな、絶対押すなよ」としながら頃合いを見計らって「赤信号みんなで渡れば怖くない」と動き出すのである。

 1989年の例を見ると、協定での会社訪問の解禁日は8月20日。でも、どこの企業もそれを守る気などさらさらない。6月末にはすでに「7月1日頃だな……」と、目星はつけていたようだ。

 1989年の7月1日は土曜日。社会の動きが鈍くなるこの時期のこの曜日が勝負時と、各企業は狙っていたのである。そうしているうちに、前日の6月30日の金曜日、日経連が就職協定の遵守を再確認する通達を加盟企業へ送付した。意図があったかないかはわからないが、これが逆にスタートの合図となった。

 まず7月1日に商社や損保が動き出すと、それを見て、その日の夜から翌日にかけて銀行が動き出し、翌週7日の金曜日から週末にかけて多くの企業が採用活動を実施したのである。

 採用活動とはいうけれど、実質「セミナー」などで選考は完了。会社に呼び出して内密に「内定」を告げるのである。

 好景気を反映して、一流大学であれば人気企業の上位にランクインしていた、住友銀行と日本生命と日本航空のすべてに内定をもらっているのも当たり前。中堅、いうなれば三流大学であっても、銀行や証券会社など上場企業からも内定がもらえるほどに売り手市場だった。

 羨ましいのは、その後の内定者の拘束だ。ホテルに呼び出して、芸者をあげてステーキに寿司も食べ放題のどんちゃん騒ぎ。締めはソープに行き、スーツ代にと10万円を渡されてホテルに宿泊……。

 なにせ、この時代は就職活動するだけで、学生はオトクな時代である。「セミナー」に参加するだけでも、会社の扱っている商品がもらえるのは当たり前。製薬会社ならドリンク剤をもらえるし、外食産業ならお食事券のプレゼント。セミナーのはずが、屋形船で宴会なんてのもあった。

 一流企業だけでなく、人気のない企業でも「入社すれば300万円までのクルマをプレゼント」なんてエサで人材を確保しようとしていたわけだから、羨ましくないハズがない!!

 もちろん、そうなると、どんちゃん騒ぎをした挙げ句に内定を辞退する学生とかが出てくるのも当たり前。企業の側も心得たもので、軽井沢など遠方へ連れて行く。服を取り上げて、ダサいジャージに着替えさせて逃げられなくする。内定を告げた場で「ほかの会社に断りの電話を入れろ」なんてのも、当たり前だった。

 こうなると採用される側もする側も、無茶苦茶である。家族を危篤にして脱走する内定者もあれば、内定を乱発しすぎて採用人数が過剰になって困る会社も。後者の場合、内定取り消し代として50万円を叩きつける企業や、ディズニーランドに案内しておいて採用担当者が逃亡するという謎の解決策も用いられたとか。

 今や学生の就職活動といえば、何かと頭を使うテクニカルな時代。バブル期のそれは、空気を読む苦労はあるけど、どんちゃん騒ぎは、羨ましいよね。
(文=昼間たかし)

いつまで同じことをいってるんだ? 労働時間短縮「目標」だけはバブル時代と同水準の残酷

 昨年2月から始まったプレミアムフライデーって、どうなったんだろう?

 ちょうど最初のプレミアムフライデーの日は、某役所に取材にいっていた。話の合間に、今日は3時で上がりではないかと尋ねたところ「そんなわけないじゃないですか……」と苦笑。正直、プレミアムフライデーだと言って楽しんでいる人を、テレビの画面の中以外では見たことがない。世の中に実在しているか疑わしいものである。

 日々出会うのは、サービス残業で家にいるのは1日に数時間、もしくは寝ている時だけという人が当たり前だ。

 そうした人々と話をすると、バブル時代は給料も高いし、残業代は出るし、遊びの時間も目いっぱい取ることができるバラ色の過去に見えるようだ。

 でも、実態はまったく違っていた。給料・残業・労働時間と、それぞれ語るだけでトピックスが作れるが、今回は労働時間から。

 現在、日本の労働時間は実質年間2,000時間で推移している(「毎日新聞」2016年9月11日付)。厚生労働省の「毎月勤労統計調査」によると現在、パートタイム労働者や短時間労働者以外の一般労働者の年間総労働時間は2,026時間(2015年)。これは1995年(2,038時間)と、ほぼ同水準。日本では、「長時間労働が当たり前」という風潮が、心と身体の隅々にまで行き渡っているのは、当然である。

 こうした風潮の中で、労働組合などが一つの目標として掲げる短縮目標は、年間1,800時間。けれども、プレミアムフライデーが画に描いた餅となっているように、いまだ現実的な施策は講じられていない。

 今となっては忘れ去られているが、この年間1,800時間という目標は、実はバブル時代に提案されたものなのである。

 当時の政府の諮問機関・経済審議会が1988年1月に掲げた目標では「豊かな国民生活の実現に当たっては、年間労働時間を計画期間中に欧米水準に近い1,800時間程度に短縮し、法定労働時間は週40時間制の実現を図るべき」とされていたのである(「中日新聞」1988年1月23日付)。

 実は、この提言によって確かに労働時間はちょっと短くなった。当時、すでに始まっていた週休2日制の導入は、バブル時代に著しく進んだ。花金という言葉が流行し、半ドンという言葉は消えていった。最近、サラリーマンでも土曜日にちょっとだけ仕事を進めるために出勤することを「土曜出勤」とはいうけど「半ドン」とはいわない。いや、そもそも「半ドン」って言葉は、東京メトロを指して「営団線」というくらいに通じない。

 さて、バブル時代の流行は、週休2日制に続いてフレックスタイム制の導入を根付かせること。フリーターブームに見られたように「自分らしい働き方」が話題のバブル時代。でも、自分で時間を管理して働き、余暇も増えるはずのフレックスタイム制は、浸透しなかった。好景気による圧倒的な人手不足は容易に労働時間の短縮を許さなかった。当時、労働時間が短縮されれば「より徹底した仕事の見直しが進められ、生産性の上昇に結びつく」こと。「生産水準は維持あるいは拡大されざるを得ないから、時間当たりの生産性は上昇する」と見込まれていた(「エコノミスト」1989年10月31日号)。

 こうした状況で、労働基準法も改正し法規制で年間労働時間を1,800時間まで短縮する案。さらには、欧米のような長期のバカンスを文化として社会に定着させ労働時間を短縮させようという意見だってあったのだ。(「朝日新聞」1988年4月18日付)。

「プレミアムフライデー」も「働き方改革」も、まったく実現性のない言葉に聞こえるのは、まさにこれが理由。記憶からは消えても、DNAのどこかで「いつか、どこかで聞いた話」と誰もが覚えているのである。

 もしも、もう少しだけバブル景気が継続したとすれば、リゾート開発の進展とも相まって寝る間も惜しんでバカンスを楽しむ風潮が日本社会に定着したかも知れない。

 でも、日本人はむしろ、そうではない道のほうを好んでいた。バブル真っ只中の1989年5月。オンエアが始まった、あのCMは一大ムーブメントとなった。

♪黄色と黒は勇気のしるし 二十四時間戦えますか
 ビジネスマン ビジネスマン ジャパニーズビジネスマン

 三共の栄養ドリンク・リゲイン。「テープを貸してください」「レコードはどこで売っていますか」。連日の問い合わせを受けて11月にはCDシングルもリリースされた。経営側は、もちろんのこと、労働組合までもが「サラリーマンの応援歌」だとして、さまざまな行事に利用した。

 CMを製作した黒田秀樹は「週刊朝日」1989年10月13日号で、取材にこう答えている。

「働きすぎのビジネスマンをちゃかしてやろうと、シニカルにつくったつもりです。ときにはロボットのように働く彼らの姿をデフォルメして描きたくて、時任さんの表情も、あえて冷たく無表情にしました。でも、スポンサーさんも、こちらの皮肉がいま一つ見えていないようです」
(文=昼間たかし)