『山田孝之のカンヌ映画祭』山下敦弘監督&松江哲明監督が激白!「冗談でやってるわけじゃない」

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 俳優の山田孝之がプロデューサーとなり、カンヌ国際映画祭で賞を獲りたいと奔走するテレビ東京のドキュメンタリードラマ『山田孝之のカンヌ映画祭』の山下敦弘監督と松江哲明監督が4日、都内で行われた映画『エリザのために』公開記念記念トークショーに出演した。 『エリザのために』は第69回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で監督賞を受賞した人間ドラマ。監督のクリスティアン・ムンジウはルーマニア人で、本作以外にも2007年に『4ヶ月、3週と2日』で同賞のパルム・ドールを、12年には『汚れなき祈り』で脚本賞を受賞するなど、カンヌで3度の受賞を果たした名監督。  松江監督は「去年の夏にカンヌについてリサーチをして『カンヌに好かれる映画』の法則が、だいたいわかってきたところなんですけど、この作品を観たときに、まさにこれだって」と本作についてコメント。 「フレームの外を常に意識させる作品です。日本映画をディスるみたいに思わないでほしいですけど、日本映画はフレームの中で全部説明しようとする。でもこの作品はフレームの外に何かがある。映っていないところから何か事件が起きる、不穏な緊張感がフレームの外から入ってくる。そこがすごくカンヌ好み」と本作を紹介。  山下監督も「演出が丁寧。ルーマニアの人たちの生活を描きながらも、実はそれが緻密に計算されている。キャスティングも素晴らしい」と絶賛。 『山田孝之のカンヌ映画祭』に話題が及ぶと、山下監督は山田について「僕よりも年下だけど、リーダーというか座長タイプ。普通は映画の現場では監督の名前をとって『山下組』とかやるんですけど、この番組では、まさに『山田組』という感じ」としみじみ。
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 松江監督も「あの番組では突飛なことをしているようですけど、山田くんがやっていることは、意外とカンヌの監督たちと大きくかけ離れていない。例えば脚本もないのに、なんでこんなことやっているんだって思われるかもしれないけど、実はウォン・カーウァイも、そういうスタイルでやっていたりする。嗅覚や勘がすごくいい」とコメント。  松江監督はまた、山田がいかに“もっている男”かも力説し、「たまたまカンヌの事務局に行ったらスタッフと会えるとか、そういういい偶然を呼ぶ人っているんです。カメラが回っているときに奇跡を起こせない人もいる中で、山田孝之は、まさにそれを起こせる人。プロデューサーとしてもすごい」と断言。
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 2人とも、番組の中だけでなく、実際に本気でカンヌを目指しているといい、山下監督が「自分もカンヌ映画祭を獲ることを目標に掲げて今やっている」と話せば、松江監督も「番組をネタだと思っている人がいるんですけど、僕ら冗談でやっているわけじゃないですよ」とニヤニヤ。  カンヌを獲る秘訣についても、山下監督は「魂を込めたもの、作り手の思いというか、これしかできないというか……。そんな、監督のある種の思いがないとまず響かないでしょう」と分析。 「あと、カンヌに実際に行って感じたのは、やっぱり何かしらのコネクションも必要だということ。それは別にいやらしいコネクションという意味ではなくて、外に対する開き方の問題。海外の人はそれが独特で素晴らしい。やっぱり自分から歩み寄っていかないと。日本人はそれが下手ですね」と笑顔で話していた。 (取材・文=名鹿祥史)

認知症介護の終末に「幸せな死=ハッピーエンディング」はあるのか?

 認知症の母親との日々をユーモラスに綴ったドキュメンタリー映画『毎日がアルツハイマー』(以下、『毎アル』)の関口祐加監督は、続く『毎アル』第2弾である『毎日がアルツハイマー2 関口監督、イギリスへ行く編』で、イギリスの認知症ケア施設の「パーソン・センタード・ケア」を取材し、認知症ケアの究極の形を見せてくれました。そして、今、関口監督は『毎アル』シリーズの最終章『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル』を製作中。お母さんとの日々とともに、日本だけでなく、オーストラリア、オランダ、イギリス、スイスでも撮影を行った最新作。この新作のお話と認知症ケアの在り方などについて、関口監督に伺いました。

■介護の終末、「看取り」「死」が最新作のテーマ

――『毎日がアルツハイマー』シリーズの3作目を製作中とのことですが、今回のテーマは「看取り」だそうですね。これは以前から考えられていたことなのでしょうか?

関口祐加監督(以下、関口) まったく予想もしていませんでした。『毎アル』1作目で、認知症の母をオープンに見せるドキュメンタリーを作り、2作目はそんな母の認知症ケアをどうすればいいのかを考える映画にしようと、イギリスの「パーソン・センタード・ケア」を実践している施設を見学に行きました。ここはまさに認知症ケアの究極の形であり、自分でも『毎アル3』は、これを突き詰めて描いていくことになるのではないかと思っていました。

 でも『毎アル2』から3年の間、いろいろなドラマが起こったんですよ。まず、母が虚血症の発作で4回倒れました。虚血症の発作は突然に意識不明になり倒れるんです。特に3回目に倒れたとき、私がそばにいたので母を支えることができましたが、母が独居だったら頭を打って死に至ったかもしれない。母の認知症が進むにつれ、母の命を預かるのは介護をしている私なんだと改めて思い、介護の終末を考えるようになったのです。

――認知症ケアの先の「介護の終末」、これが看取りにつながっているのですね。

関口 母が4回目に倒れたときに初めてカメラを回しました。発作がどういう状況で起こり、ある程度どうなるかがわかっていたので撮影できたんだと思います。それと私自身、2年前に両股関節全置換の手術をしまして、地獄のリハビリを経て歩けるようになりました。ですが、骨は年々劣化していくので、いつかは車椅子になるかもしれない。自分の体も老いていく中、介護の先にあるものは何かと考え始めたのです。また入院中に病院で知り合い、親しくしくなった女性が亡くなったり、オーストラリア人の友人の女性から膀胱がんであることを打ち明けられたり、この3年間で「死」について考えさせられる出来事が続いたのです。

――「死」についてはあまり考えたくないというか、それと向き合うのは難しいと感じますが、監督はいかがでしたか?

関口 死について考えるのは難しいことかもしれませんが、誰でも必ず死にますよね。どんなに偉い人でも、お金持ちでも、貧乏人でも、誰にでも「死」は平等に訪れる。最近は、尊厳死、平穏死などいろいろ言われているし、脚本家の橋田壽賀子さんも安楽死について語っているのを聞くにつけ、ここで死についてオープンに考えてみようと思いました。自分でも『毎アル』最新作のテーマが「死」になるなんて想像もしていませんでしたよ。でも、よしと決めたら、扉がどんどん開いていき、わくわくしながら扉の向こうに行くと、今まで知らなかったことに驚いたり、素敵な人に出会ったりして、本当に素晴らしい旅路になったと思います。

 その旅の果てにたどり着いたのが「死にハッピーエンディングはあるのか」ということで、これが最新作のテーマです。

■「安楽死」が認められているスイスでは自分で死ぬ時期を選べる

――スイスに行かれたのは、どのような目的だったのでしょうか?

関口 今回「ハッピーエンディングな死」をテーマにするにあたり、スイスの医師にどうしても会ってお話が聞きたくて、初めてスイスまで行きました。今回撮影させていただいた医師のお父さんは脳梗塞を3度起こして絶望し、不自由になった身体で何度も自殺未遂を試みたそうです。そんなときにスイスの法律で安楽死ができるようになり、お父さんたっての希望で安楽死という選択をされ、家族みんなに感謝しながら安らかに逝かれたそうです。

 重い病気の患者さんが、苦しい治療をやめて緩和ケアだけの尊厳死を決めても、医療や薬の事情で、必ずしも緩和ケアに効果があるとは限らないということです。これは、西洋では盛んに議論されていることなんですね。ですから病気の状態によっては患者さんを心身ともに追い込むこともある。そんなときに死に方や、死ぬ時期を自分自身で決めてもいいのではないかということです。つまり、安楽死の発想は必ず緩和ケアの延長線上にあるということです。また、安楽死できる条件も厳しく決められています。当然ですよね。

――今回ついに最終章ですが、監督は『毎アル』の1と2を経て、思うことはありますか?

関口 いまだに各地で上映会が開かれ、講演もさせていただいて、もう見に来てくださるだけでもうれしいです。映画を見てくださった後に「目からウロコです」と言われると、よりうれしかったですし、私自身の最新作への励みにもなります。何回も言っていますが、介護している人たちはひとりで介護を背負わないで、オープンにして、つらいときは助けを求めてほしい。できないことを恥じたり悪いことだと思ったりしない心が大事です。それと、やはり私自身、介護者であるということでしょうか。介護の話を見て聞いてきたのではなく、実体験を落とし込んで映画化しているので、映画そのものがみなさんと同じ目線になっているのだと思います。ぜひこれからも『毎アル』シリーズを見続けていただきたいですね。

関口祐加(せきぐち・ゆか)
映画監督。1989年『戦場の女たち』で監督デビュー。認知症の母を被写体にしたドキュメンタリー映画『毎日がアルツハイマー』(2012年) 『毎日がアルツハイマー 2 関口監督、イギリスヘ行く編』(2014年)を監督し、現在は3作目『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル』を製作中(2018年公開予定)。

■『毎アル ザ・ファイナル』クラウドファンディングがスタート
『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル』のクラウドファンディングが2月1日よりスタート。「現在、編集・仕上げの大詰めを迎えています。特に今回は、海外での公開・配給も視野に入れ、オーストラリア人の編集者に入ってもらうこととなりました。完成にはまだまだ費用が必要なので、ご支援をどうぞよろしくお願いします」(関口監督)
※クラウドファンディングの詳細はこちら

■『毎日がアルツハイマー』『毎日がアルツハイマー2関口監督、イギリスへ行く』の再上映決定!
『毎アル ファイナル』特別映像の上映と関口監督によるトークイベントも開催。
公開スケジュール:東京・ポレポレ東中野2/4(土)~10(金)の1週間限定、大阪・シアターセブン2/25(土)〜3/3(金)の1週間限定
・『毎アル』シリーズ公式サイト 

「日本が北朝鮮のような独裁国家になるかもしれない」映画『太陽の下で』の監督が語る未来

 北朝鮮の人々の生活を追いかけたドキュメンタリーはやらせだった!? 映画『太陽の下で―真実の北朝鮮―』は、ロシアのヴィタリー・マンスキー監督が撮影した北朝鮮の一家族を映し出したドキュメンタリー。撮影前の台本は北朝鮮側に修正され、撮影後の映像も検閲を受けることになっていたが、マンスキー監督は検閲前にフィルムを外部に持ち出して、この映画を完成させた。そこに映し出されていたのは、幸せ家族を装うように北朝鮮側のスタッフに指示されている家族の姿を隠し撮りしたもの。『太陽の下で~』は、北朝鮮の幸せ一家のやらせ映像を暴露した驚きのドキュメンタリーなのだ。

 そこで来日したヴィタリー・マンスキー監督にこの映画の制作意図、監督の目に映った北朝鮮の人々、そしてこの映画が、日本人の私たちに投げかけていることを語っていただいた。

■北朝鮮の人々は実に幸せそうで、そこにはひとつも嘘はありません

――この映画は撮影許可を得るまでに2年間、家族のドキュメンタリーを撮影するのに1年を要したそうですね。北朝鮮の映画を撮影することが困難な道になることはあらかじめ覚悟されていたと思いますが、マンスキー監督はなぜ北朝鮮の家族のドキュメンタリーを撮影しようと思われたのでしょうか?

ヴィタリー・マンスキー監督(以下、マンスキー監督) 私と私の両親はソビエト連邦の出身で、スターリン主義の独裁国家の中で育ちました。私は映画というタイムマシーンに乗って、自分たちの過去を見てみたいと思ったのです。北朝鮮を選んだのは、独裁国家の体制がある国が北朝鮮だったから。でも実際には、私が見たかったものはそこにはありませんでした。宇宙船に乗せられて別の国で降ろされたような気持ちです。スターリン時代、全体主義に対して芸術家などは反抗をしていましたし、国家権力と社会の間には矛盾したものがありました。しかし、北朝鮮にはそれがないのです。国民はみんなとても幸福そうでした。それを幸福と呼ぶのであれば。

――確かにこの映画で、北朝鮮の家族の方たちは、数々の指示に素直に応じていましたね。そこには不満な様子は全くありませんでした。監督は彼らの笑顔は本物だと思いましたか? 撮影時のことを教えてください。

マンスキー監督 彼らは「ああしろ、こうしろ」と指示されていることに対して素直に応じていましたし、全く反抗心の芽も感じられませんでした。というか、「なぜこんなことするんだ?」という思考が全くないようでした。とても厳しい決まりに対して、従順であることの体制が出来上がっているのです。北朝鮮の方たちは、この映画の8歳の女の子ジンミと同じように、幼いときから従うように教育されて育ちますから、疑いを持つことはないのでしょう。

 私と家族が生きたスターリン時代は、表向きは同じように全体主義を教えられましたが、家に帰れば自由がありました。しかし、北朝鮮には家庭においても自由はない。抜け道はいっさい用意されていないのです。

■北朝鮮と日本、いつ立場がひっくり返るかわからない未来

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――日本人は拉致問題が解決していないこともあって、北朝鮮に対してあまりいい印象を持たない人も多いと思うのですが、この映画が日本公開されるにあたり、日本の観客に向けたメッセージなどはありますか?

マンスキー監督 私はこの映画で北朝鮮を宣伝するつもりは全くありません。日本の方たちには、近い国である北朝鮮の人たちが、どんな生活を送っているのかを知ってほしいのです。もうひとつ、この映画で伝えたいこと、それは北朝鮮の人たちが手に入れていないフリーダム、自由についてです。自由というのはスミレの花のように小さなものです。水を与えないとしおれてしまうし、太陽を浴び過ぎると枯れてしまいます。とても繊細なのです。

 いいですか、自由というのは自然に発生するものではありません。今、あなたたちが生きている日本の自由は決して安全なものではなく、いつ失うかわからないのです。自由は国民みんなで獲得するもので、それらを絶えず意識し、思考していかないと、あなたの指の隙間からこぼれて消えていきます。あなたたちは、この映画が抱える問題点を自分たちの問題として考えてみてほしい。これは心からの願いです。

――今、日本は北朝鮮と比べたらとても自由ですが、それが危ぶまれているような意識はあります。少し怖くなってきました。

マンスキー監督 あともうひとつ言いたいことがあります。この先、どんな未来が待っているかは誰もわかりません。しかし、ソ連時代、第二次世界大戦でナチを追い払い、多くの犠牲を出して、ヨーロッパを解放しましたが、ヨーロッパは再びスターリンの独裁体制に入ってしまいました。このように北朝鮮と日本も、いつひっくり返るかわからないのです。独裁体制になる可能性だって捨てきれないのですよ。みなさん一人ひとりの意識にかかっています。安泰に暮らしている場合ではないのです。

■北朝鮮の女性たちは自由からくる美しさを失ってしまっている

――北朝鮮の女性たちは、報道で見る限り、美しい人たちをそろえている印象がありますが、実際に街行く女性たちに対して、監督はどういう印象を持たれましたか? 

マンスキー監督 美とはなんだと思いますか? 造形的にきれいに整った顔のことでしょうか? 違いますよね。美とは思考する眼差しだったり、緊張感から解けたときの穏やかな顔だったり、そういう顔が美しさであると私は考えます。その美しさはどこからくるかといえば、自由です。形として整っていても、北朝鮮の女性の美に自由はありませんでした。だから私の感覚では美しい人と感じることはなかったですね。

――北朝鮮の人々は、それでも幸福であり、不幸ではないのですよね。

マンスキー監督 ええ、不幸だと感じてはいません。例えば、ある日、エコに目覚めた人が、毛皮のために飼育していた動物を檻から出して野生に戻したそうです。しかし、数日後に動物たちは檻に帰ってきた。なぜだと思います? 食べていけないからです。生まれてからずっと檻の中にいて、食べ物を与えられてきたから、解放されても、どうしたらいいのかわからないのですよ。先日は脱北者が韓国へ渡ったけど、結局、また北朝鮮に戻ってきたという話を聞きました。理由は同じですね。

――監督はこの映画でたくさん語りたいことがあるように思いましたが、映画の中ではご自身の主張をあまり前面に押し出していませんね。

マンスキー監督 私は自分の映画を見てくださる観客の皆さんを尊敬しています。この映画の演出で、見ている皆さんに対して「教える」ということはしません。映画を見て、自分自身で結論を導いてほしいからです。描かれている世界を受け取り、それについて考えて心を豊かにしていく。この映画は映画館向きです。大きなスクリーンで、あなた自身も北朝鮮に入り込んだように感じながら見てほしいですね。
(斎藤香)

ヴィタリー・マンスキー監督
ロシアのドキュメンタリー監督。モスクワ・ドキュメンタリー映画祭会長。『青春クロニクル』『ワイルド・ワイルド・ビーチ』『祖国か死か』などの作品がある。

『太陽の下で―真実の北朝鮮―』
2017年1月21日、新宿シネマートほか全国ロードショー
公式サイト

「日本が北朝鮮のような独裁国家になるかもしれない」映画『太陽の下で』の監督が語る未来

 北朝鮮の人々の生活を追いかけたドキュメンタリーはやらせだった!? 映画『太陽の下で―真実の北朝鮮―』は、ロシアのヴィタリー・マンスキー監督が撮影した北朝鮮の一家族を映し出したドキュメンタリー。撮影前の台本は北朝鮮側に修正され、撮影後の映像も検閲を受けることになっていたが、マンスキー監督は検閲前にフィルムを外部に持ち出して、この映画を完成させた。そこに映し出されていたのは、幸せ家族を装うように北朝鮮側のスタッフに指示されている家族の姿を隠し撮りしたもの。『太陽の下で~』は、北朝鮮の幸せ一家のやらせ映像を暴露した驚きのドキュメンタリーなのだ。

 そこで来日したヴィタリー・マンスキー監督にこの映画の制作意図、監督の目に映った北朝鮮の人々、そしてこの映画が、日本人の私たちに投げかけていることを語っていただいた。

■北朝鮮の人々は実に幸せそうで、そこにはひとつも嘘はありません

――この映画は撮影許可を得るまでに2年間、家族のドキュメンタリーを撮影するのに1年を要したそうですね。北朝鮮の映画を撮影することが困難な道になることはあらかじめ覚悟されていたと思いますが、マンスキー監督はなぜ北朝鮮の家族のドキュメンタリーを撮影しようと思われたのでしょうか?

ヴィタリー・マンスキー監督(以下、マンスキー監督) 私と私の両親はソビエト連邦の出身で、スターリン主義の独裁国家の中で育ちました。私は映画というタイムマシーンに乗って、自分たちの過去を見てみたいと思ったのです。北朝鮮を選んだのは、独裁国家の体制がある国が北朝鮮だったから。でも実際には、私が見たかったものはそこにはありませんでした。宇宙船に乗せられて別の国で降ろされたような気持ちです。スターリン時代、全体主義に対して芸術家などは反抗をしていましたし、国家権力と社会の間には矛盾したものがありました。しかし、北朝鮮にはそれがないのです。国民はみんなとても幸福そうでした。それを幸福と呼ぶのであれば。

――確かにこの映画で、北朝鮮の家族の方たちは、数々の指示に素直に応じていましたね。そこには不満な様子は全くありませんでした。監督は彼らの笑顔は本物だと思いましたか? 撮影時のことを教えてください。

マンスキー監督 彼らは「ああしろ、こうしろ」と指示されていることに対して素直に応じていましたし、全く反抗心の芽も感じられませんでした。というか、「なぜこんなことするんだ?」という思考が全くないようでした。とても厳しい決まりに対して、従順であることの体制が出来上がっているのです。北朝鮮の方たちは、この映画の8歳の女の子ジンミと同じように、幼いときから従うように教育されて育ちますから、疑いを持つことはないのでしょう。

 私と家族が生きたスターリン時代は、表向きは同じように全体主義を教えられましたが、家に帰れば自由がありました。しかし、北朝鮮には家庭においても自由はない。抜け道はいっさい用意されていないのです。

■北朝鮮と日本、いつ立場がひっくり返るかわからない未来

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――日本人は拉致問題が解決していないこともあって、北朝鮮に対してあまりいい印象を持たない人も多いと思うのですが、この映画が日本公開されるにあたり、日本の観客に向けたメッセージなどはありますか?

マンスキー監督 私はこの映画で北朝鮮を宣伝するつもりは全くありません。日本の方たちには、近い国である北朝鮮の人たちが、どんな生活を送っているのかを知ってほしいのです。もうひとつ、この映画で伝えたいこと、それは北朝鮮の人たちが手に入れていないフリーダム、自由についてです。自由というのはスミレの花のように小さなものです。水を与えないとしおれてしまうし、太陽を浴び過ぎると枯れてしまいます。とても繊細なのです。

 いいですか、自由というのは自然に発生するものではありません。今、あなたたちが生きている日本の自由は決して安全なものではなく、いつ失うかわからないのです。自由は国民みんなで獲得するもので、それらを絶えず意識し、思考していかないと、あなたの指の隙間からこぼれて消えていきます。あなたたちは、この映画が抱える問題点を自分たちの問題として考えてみてほしい。これは心からの願いです。

――今、日本は北朝鮮と比べたらとても自由ですが、それが危ぶまれているような意識はあります。少し怖くなってきました。

マンスキー監督 あともうひとつ言いたいことがあります。この先、どんな未来が待っているかは誰もわかりません。しかし、ソ連時代、第二次世界大戦でナチを追い払い、多くの犠牲を出して、ヨーロッパを解放しましたが、ヨーロッパは再びスターリンの独裁体制に入ってしまいました。このように北朝鮮と日本も、いつひっくり返るかわからないのです。独裁体制になる可能性だって捨てきれないのですよ。みなさん一人ひとりの意識にかかっています。安泰に暮らしている場合ではないのです。

■北朝鮮の女性たちは自由からくる美しさを失ってしまっている

――北朝鮮の女性たちは、報道で見る限り、美しい人たちをそろえている印象がありますが、実際に街行く女性たちに対して、監督はどういう印象を持たれましたか? 

マンスキー監督 美とはなんだと思いますか? 造形的にきれいに整った顔のことでしょうか? 違いますよね。美とは思考する眼差しだったり、緊張感から解けたときの穏やかな顔だったり、そういう顔が美しさであると私は考えます。その美しさはどこからくるかといえば、自由です。形として整っていても、北朝鮮の女性の美に自由はありませんでした。だから私の感覚では美しい人と感じることはなかったですね。

――北朝鮮の人々は、それでも幸福であり、不幸ではないのですよね。

マンスキー監督 ええ、不幸だと感じてはいません。例えば、ある日、エコに目覚めた人が、毛皮のために飼育していた動物を檻から出して野生に戻したそうです。しかし、数日後に動物たちは檻に帰ってきた。なぜだと思います? 食べていけないからです。生まれてからずっと檻の中にいて、食べ物を与えられてきたから、解放されても、どうしたらいいのかわからないのですよ。先日は脱北者が韓国へ渡ったけど、結局、また北朝鮮に戻ってきたという話を聞きました。理由は同じですね。

――監督はこの映画でたくさん語りたいことがあるように思いましたが、映画の中ではご自身の主張をあまり前面に押し出していませんね。

マンスキー監督 私は自分の映画を見てくださる観客の皆さんを尊敬しています。この映画の演出で、見ている皆さんに対して「教える」ということはしません。映画を見て、自分自身で結論を導いてほしいからです。描かれている世界を受け取り、それについて考えて心を豊かにしていく。この映画は映画館向きです。大きなスクリーンで、あなた自身も北朝鮮に入り込んだように感じながら見てほしいですね。
(斎藤香)

ヴィタリー・マンスキー監督
ロシアのドキュメンタリー監督。モスクワ・ドキュメンタリー映画祭会長。『青春クロニクル』『ワイルド・ワイルド・ビーチ』『祖国か死か』などの作品がある。

『太陽の下で―真実の北朝鮮―』
2017年1月21日、新宿シネマートほか全国ロードショー
公式サイト

日本映画に豊かさをもたらしたものは一体何か? 『この世界の片隅に』ほか2016年の話題作を回顧

日本映画に豊かさをもたらしたものは一体何か? 『この世界の片隅に』ほか2016年の話題作を回顧
興収8億円を越えるロングランヒットとなった『この世界の片隅に』。年明け1月7日からは全国150館での拡大公開が予定されている。
 豊作と言われる2016年の日本映画界だが、その豊作をもたらした土壌について考えると複雑な感情を抱かずにはいられない。興収80億円を越える大ヒットとなった『シン・ゴジラ』、邦画の歴代興収2位となる200億円を越え、さらに記録更新中の『君の名は。』に加え、単館系での公開ながらロングランヒットが続く『この世界の片隅に』の3本を2016年を代表する日本映画として思い浮かべる人は多いはずだが、かつてない大災害に直面した主人公たちが不測の事態にどう対処するかを描いていることでこの3作品は共通している。  シリーズ第1作『ゴジラ』(54)に登場した怪獣ゴジラは核兵器に対する恐怖のメタファーとして描かれたが、庵野秀明総監督がリブートした『シン・ゴジラ』はメルトダウン化して制御不能状態に陥った核エネルギーの化身として首都圏を蹂躙した。日本が誇る科学力・技術力によってゴジラを凍結させることには成功するが、ゴジラ=廃炉化が決まった原発もしくは核廃棄物を完全に処理できないままドラマは終わりを迎える。生き残った矢口(長谷川博己)らに残された課題は相当に大きい。『君の名は。』は新海誠監督の定番である男女のすれ違いファンタジーだが、東京で暮らしている高校生・瀧(声:神木隆之介)は夢の中で体が入れ替わっていた女子高生・三葉(声:上白石萌音)が暮らしている町がすでに天災によって消滅していたことを知る。もしもタイムトリップが可能ならば、5年前に起きたあの大震災に対して自分は何かできたのだろうか。『君の名は。』がファンタジーとして感動的であればあるほど、震災に対して何もできなかった自分の無力さを思い知らされる。被災地に対して、多くの人が感じた“後ろめたさ”や“無力感”が産み落としたあまりにも哀しいファンタジーに感じられた。  苦労人・片渕素直監督にとって初めてのヒット作となった『この世界の片隅に』は2010年から企画が動き始めた作品だが、能年玲奈あらため“のん”演じる主人公のすずが体験する太平洋戦争を東日本大震災と重ねて観る人も少なくないだろう。広島で生まれ育ったすずは日本がなぜ戦争をしているのかを深く考えることなく、嫁ぎ先の呉での家事に追われることになる。乏しい食料事情の中、すずは明るく健気に振るまい、嫁入りした北條家の人々と心を通わせるようになるが、やがて1945年の夏が訪れ、すずが大切にしていた平凡な日常はあっけなく崩壊してしまう。『この世界の片隅に』は片渕監督が「100年後にも伝えたい」という想いを込めて完成させた作品ゆえに、短絡的に3.11に結びつけることは憚れるが、自分が置かれている社会状況に無自覚でいることの恐ろしさを我々に突き付ける。
日本映画に豊かさをもたらしたものは一体何か? 『この世界の片隅に』ほか2016年の話題作を回顧
菅総理(三田村邦彦)ら閣僚が実名で登場する実録パニックムービー『太陽の蓋』。ぜひ『シン・ゴジラ』と見比べたい。
 震災から5年が経過した2016年を代表する作品がアニメーションや特撮であったのは、日本人の心情にアニメや特撮という表現媒体が憑代(よりしろ)としてフィットしやすいことも要因ではないだろうか。先述した3作品の他にも震災がモチーフとなった映画が2016年は目立った。佐藤信介監督の和製ゾンビ映画『アイアムアヒーロー』の序盤、パニック状態に陥った東京が壊滅していく過程はどこかデジャブ感を思わせるリアルさがあった。今のようなシステマチックな社会は、いつ破綻してもおかしくないという皮膚感覚に訴えかけてくる不気味さがあった。  西川美和監督の『永い言い訳』も震災がきっかけで生まれた作品に数えられる。『永い言い訳』の発端となるのは自然災害ではなく、スキーバスの転落事故だが、不慮の出来事によって大切な人に「さようなら」を伝えることができなかった後悔の念が作品のモチーフとなっている。妻(深津絵里)とは冷えきった夫婦関係にあった作家(本木雅弘)だが、事故で亡くなった妻への罪の意識から同じ事故の被害者遺族(竹原ピストル)の子どもたちの面倒を看ることになる。西川監督の師匠にあたる是枝裕和監督の『そして父になる』(13)や『海街dairy』(15)と同じく、血縁にこだわらない新しい家族像・人との繋がりを提示した作品として印象に残る。  岩井俊二監督の『リップヴァンウィンクルの花嫁』も3.11が生み出した作品のひとつだ。日本社会の息苦しさを嫌ってLAに移住し、『ヴァンパイア』(12)などの英語劇を撮っていた岩井監督だが、故郷の仙台が被災したことから帰国。震災そのものを劇映画にすることは叶わなかったが、黒木華を主演に迎えた『リップヴァンウィンクルの花嫁』では3.11後の不安定な格差社会を舞台に、職場からも結婚制度からもこぼれ落ちたヒロインが、逆に明るく伸び伸びとサバイバルしていく姿が描かれた。もうひとつ、3.11を題材にした作品として『夢の女 ユメノヒト』も挙げておきたい。『クローズアップ現代』(NHK総合)でも紹介された実話をベースにしたドラマで、40年間にわたって福島の精神病院で暮らしてきた男性患者が原発事故の影響で転院したところ、すでに完治していると診断され、浦島太郎のように唐突に現実社会に復帰することになる。ピンク映画界で長年活躍した佐野和宏主演による低予算ロードムービーだが、地位も権力もないひとりの市民という立場から震災後の社会を見つめた作品として見応えがあった。社会現象となった『シン・ゴジラ』の影に隠れてしまった感があるが、3.11直後の首相官邸の5日間を描いた『太陽の蓋』は日本があと一歩で壊滅する危機にあった事実を思い出させる迫真のポリティカルサスペンスだった。政治家たちの名前を実名でドラマ化した実録映画がようやく出てきたことも評価される。
日本映画に豊かさをもたらしたものは一体何か? 『この世界の片隅に』ほか2016年の話題作を回顧
奥田庸介監督が主演も兼ねた『クズとブスとゲス』。奥田監督は撮影中にビール瓶を頭でカチ割ってみせるクレイジーぶりを発揮。
『君の名は。』をメガヒットに導いた東宝の川村元気プロデューサーが手掛けた『怒り』も“いま”という時代の空気感を濃厚に感じさせた。吉田修一の同名小説を渡辺謙、妻夫木聡、広瀬すずといったオールスターキャストで映画化したものだが、作品で描かれる“怒り”は単に凶悪犯に向けられたものではなく、怒りという感情を爆発させることができない人々の内面にフォーカスを絞ってみせた。沖縄の基地問題、性的マイノリティーに対する偏見など、誰に対して怒りをぶつければいいのか分からない現代人のやるせなさを代弁した作品だった。ひとつの作品で実質3本分の映画を撮影した李相日監督のタフさも特筆したい。  この5年間は“クラウドファンディング”が日本でも浸透しはじめた期間でもあった。ネットで一般ユーザー向けに少額の製作資金を募るクラウドファンディングは、映画界ではこれまで低予算のドキュメンタリー作品などで効力を発揮してきたが、『この世界の片隅に』はクラウドファンディングで3921万円を集め、5分間のパイロットフィルムを製作。パイロットフィルムの出来のよさから出資企業が現われ、2億5000万円の製作費を調達することに成功した。奥田庸介監督の『クズとブスとゲス』、井口昇監督の『キネマ純情』もクラウドファンディングで資金を募り、製作に踏み出すことが可能となった。地方都市の惨状をリアルに描いた『サウダーヂ』(11)の富田克也監督の新作『バンコクナイツ』(2017年2月公開)もクラウドファンディングで1000万円を集め、タイでのオールロケを敢行してハイクオリティーの作品に仕上げている。SNSを介して、気骨ある映画監督のオリジナル度の高い企画をファンひとりひとりが後押しするという流れが、徐々にだが形になりつつある。園子温監督が福島でロケ撮影し、地元の人々をキャスティングした『ひそひそ星』は自主制作という形態だったが、大手の映画会社に頼ることなく製作・配給に取り組んでみせた。メジャーとインディーの壁にとらわれない監督たちの自由な活躍がますます広がることを期待したい。 (文=長野辰次)
日本映画に豊かさをもたらしたものは一体何か? 『この世界の片隅に』ほか2016年の話題作を回顧
『この世界の片隅に』 原作/こうの史代 監督・脚本/片渕須直 音楽/コトリンゴ  出演/のん、細谷佳正、稲葉菜月、尾身美詞、小野大輔、藩めぐみ、岩井七世、牛山茂、新谷真弓、澁谷天外 配給/東京テアトル テアトル新宿ほか全国順次公開中 (c)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会 http://konosekai.jp 『太陽の蓋』 監督/佐藤太 脚本/長谷川隆 音楽/ミッキー吉野 出演/北村有起哉、袴田吉彦、中村ゆり、郭智博、大西信満、神尾佑、青山草太、菅原大吉、三田村邦彦、菅田俊、井之上隆志、宮地雅子、葉葉葉、阿南健治、伊吹剛 配給/太秦 (c)「太陽の蓋」プロジェクト/Tachibana Tamiyoshi http://taiyounofuta.com 『クズとブスとゲス』 監督・脚本/奥田庸介 出演/奥田庸介、板橋駿谷、岩田恵里、大西能彰、カトウシンスケ、芦川誠 配給/アムモ98  (c)2015映画蛮族 http://kuzutobusutoges.com

日本映画に豊かさをもたらしたものは一体何か? 『この世界の片隅に』ほか2016年の話題作を回顧

日本映画に豊かさをもたらしたものは一体何か? 『この世界の片隅に』ほか2016年の話題作を回顧
興収8億円を越えるロングランヒットとなった『この世界の片隅に』。年明け1月7日からは全国150館での拡大公開が予定されている。
 豊作と言われる2016年の日本映画界だが、その豊作をもたらした土壌について考えると複雑な感情を抱かずにはいられない。興収80億円を越える大ヒットとなった『シン・ゴジラ』、邦画の歴代興収2位となる200億円を越え、さらに記録更新中の『君の名は。』に加え、単館系での公開ながらロングランヒットが続く『この世界の片隅に』の3本を2016年を代表する日本映画として思い浮かべる人は多いはずだが、かつてない大災害に直面した主人公たちが不測の事態にどう対処するかを描いていることでこの3作品は共通している。  シリーズ第1作『ゴジラ』(54)に登場した怪獣ゴジラは核兵器に対する恐怖のメタファーとして描かれたが、庵野秀明総監督がリブートした『シン・ゴジラ』はメルトダウン化して制御不能状態に陥った核エネルギーの化身として首都圏を蹂躙した。日本が誇る科学力・技術力によってゴジラを凍結させることには成功するが、ゴジラ=廃炉化が決まった原発もしくは核廃棄物を完全に処理できないままドラマは終わりを迎える。生き残った矢口(長谷川博己)らに残された課題は相当に大きい。『君の名は。』は新海誠監督の定番である男女のすれ違いファンタジーだが、東京で暮らしている高校生・瀧(声:神木隆之介)は夢の中で体が入れ替わっていた女子高生・三葉(声:上白石萌音)が暮らしている町がすでに天災によって消滅していたことを知る。もしもタイムトリップが可能ならば、5年前に起きたあの大震災に対して自分は何かできたのだろうか。『君の名は。』がファンタジーとして感動的であればあるほど、震災に対して何もできなかった自分の無力さを思い知らされる。被災地に対して、多くの人が感じた“後ろめたさ”や“無力感”が産み落としたあまりにも哀しいファンタジーに感じられた。  苦労人・片渕素直監督にとって初めてのヒット作となった『この世界の片隅に』は2010年から企画が動き始めた作品だが、能年玲奈あらため“のん”演じる主人公のすずが体験する太平洋戦争を東日本大震災と重ねて観る人も少なくないだろう。広島で生まれ育ったすずは日本がなぜ戦争をしているのかを深く考えることなく、嫁ぎ先の呉での家事に追われることになる。乏しい食料事情の中、すずは明るく健気に振るまい、嫁入りした北條家の人々と心を通わせるようになるが、やがて1945年の夏が訪れ、すずが大切にしていた平凡な日常はあっけなく崩壊してしまう。『この世界の片隅に』は片渕監督が「100年後にも伝えたい」という想いを込めて完成させた作品ゆえに、短絡的に3.11に結びつけることは憚れるが、自分が置かれている社会状況に無自覚でいることの恐ろしさを我々に突き付ける。
日本映画に豊かさをもたらしたものは一体何か? 『この世界の片隅に』ほか2016年の話題作を回顧
菅総理(三田村邦彦)ら閣僚が実名で登場する実録パニックムービー『太陽の蓋』。ぜひ『シン・ゴジラ』と見比べたい。
 震災から5年が経過した2016年を代表する作品がアニメーションや特撮であったのは、日本人の心情にアニメや特撮という表現媒体が憑代(よりしろ)としてフィットしやすいことも要因ではないだろうか。先述した3作品の他にも震災がモチーフとなった映画が2016年は目立った。佐藤信介監督の和製ゾンビ映画『アイアムアヒーロー』の序盤、パニック状態に陥った東京が壊滅していく過程はどこかデジャブ感を思わせるリアルさがあった。今のようなシステマチックな社会は、いつ破綻してもおかしくないという皮膚感覚に訴えかけてくる不気味さがあった。  西川美和監督の『永い言い訳』も震災がきっかけで生まれた作品に数えられる。『永い言い訳』の発端となるのは自然災害ではなく、スキーバスの転落事故だが、不慮の出来事によって大切な人に「さようなら」を伝えることができなかった後悔の念が作品のモチーフとなっている。妻(深津絵里)とは冷えきった夫婦関係にあった作家(本木雅弘)だが、事故で亡くなった妻への罪の意識から同じ事故の被害者遺族(竹原ピストル)の子どもたちの面倒を看ることになる。西川監督の師匠にあたる是枝裕和監督の『そして父になる』(13)や『海街dairy』(15)と同じく、血縁にこだわらない新しい家族像・人との繋がりを提示した作品として印象に残る。  岩井俊二監督の『リップヴァンウィンクルの花嫁』も3.11が生み出した作品のひとつだ。日本社会の息苦しさを嫌ってLAに移住し、『ヴァンパイア』(12)などの英語劇を撮っていた岩井監督だが、故郷の仙台が被災したことから帰国。震災そのものを劇映画にすることは叶わなかったが、黒木華を主演に迎えた『リップヴァンウィンクルの花嫁』では3.11後の不安定な格差社会を舞台に、職場からも結婚制度からもこぼれ落ちたヒロインが、逆に明るく伸び伸びとサバイバルしていく姿が描かれた。もうひとつ、3.11を題材にした作品として『夢の女 ユメノヒト』も挙げておきたい。『クローズアップ現代』(NHK総合)でも紹介された実話をベースにしたドラマで、40年間にわたって福島の精神病院で暮らしてきた男性患者が原発事故の影響で転院したところ、すでに完治していると診断され、浦島太郎のように唐突に現実社会に復帰することになる。ピンク映画界で長年活躍した佐野和宏主演による低予算ロードムービーだが、地位も権力もないひとりの市民という立場から震災後の社会を見つめた作品として見応えがあった。社会現象となった『シン・ゴジラ』の影に隠れてしまった感があるが、3.11直後の首相官邸の5日間を描いた『太陽の蓋』は日本があと一歩で壊滅する危機にあった事実を思い出させる迫真のポリティカルサスペンスだった。政治家たちの名前を実名でドラマ化した実録映画がようやく出てきたことも評価される。
日本映画に豊かさをもたらしたものは一体何か? 『この世界の片隅に』ほか2016年の話題作を回顧
奥田庸介監督が主演も兼ねた『クズとブスとゲス』。奥田監督は撮影中にビール瓶を頭でカチ割ってみせるクレイジーぶりを発揮。
『君の名は。』をメガヒットに導いた東宝の川村元気プロデューサーが手掛けた『怒り』も“いま”という時代の空気感を濃厚に感じさせた。吉田修一の同名小説を渡辺謙、妻夫木聡、広瀬すずといったオールスターキャストで映画化したものだが、作品で描かれる“怒り”は単に凶悪犯に向けられたものではなく、怒りという感情を爆発させることができない人々の内面にフォーカスを絞ってみせた。沖縄の基地問題、性的マイノリティーに対する偏見など、誰に対して怒りをぶつければいいのか分からない現代人のやるせなさを代弁した作品だった。ひとつの作品で実質3本分の映画を撮影した李相日監督のタフさも特筆したい。  この5年間は“クラウドファンディング”が日本でも浸透しはじめた期間でもあった。ネットで一般ユーザー向けに少額の製作資金を募るクラウドファンディングは、映画界ではこれまで低予算のドキュメンタリー作品などで効力を発揮してきたが、『この世界の片隅に』はクラウドファンディングで3921万円を集め、5分間のパイロットフィルムを製作。パイロットフィルムの出来のよさから出資企業が現われ、2億5000万円の製作費を調達することに成功した。奥田庸介監督の『クズとブスとゲス』、井口昇監督の『キネマ純情』もクラウドファンディングで資金を募り、製作に踏み出すことが可能となった。地方都市の惨状をリアルに描いた『サウダーヂ』(11)の富田克也監督の新作『バンコクナイツ』(2017年2月公開)もクラウドファンディングで1000万円を集め、タイでのオールロケを敢行してハイクオリティーの作品に仕上げている。SNSを介して、気骨ある映画監督のオリジナル度の高い企画をファンひとりひとりが後押しするという流れが、徐々にだが形になりつつある。園子温監督が福島でロケ撮影し、地元の人々をキャスティングした『ひそひそ星』は自主制作という形態だったが、大手の映画会社に頼ることなく製作・配給に取り組んでみせた。メジャーとインディーの壁にとらわれない監督たちの自由な活躍がますます広がることを期待したい。 (文=長野辰次)
日本映画に豊かさをもたらしたものは一体何か? 『この世界の片隅に』ほか2016年の話題作を回顧
『この世界の片隅に』 原作/こうの史代 監督・脚本/片渕須直 音楽/コトリンゴ  出演/のん、細谷佳正、稲葉菜月、尾身美詞、小野大輔、藩めぐみ、岩井七世、牛山茂、新谷真弓、澁谷天外 配給/東京テアトル テアトル新宿ほか全国順次公開中 (c)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会 http://konosekai.jp 『太陽の蓋』 監督/佐藤太 脚本/長谷川隆 音楽/ミッキー吉野 出演/北村有起哉、袴田吉彦、中村ゆり、郭智博、大西信満、神尾佑、青山草太、菅原大吉、三田村邦彦、菅田俊、井之上隆志、宮地雅子、葉葉葉、阿南健治、伊吹剛 配給/太秦 (c)「太陽の蓋」プロジェクト/Tachibana Tamiyoshi http://taiyounofuta.com 『クズとブスとゲス』 監督・脚本/奥田庸介 出演/奥田庸介、板橋駿谷、岩田恵里、大西能彰、カトウシンスケ、芦川誠 配給/アムモ98  (c)2015映画蛮族 http://kuzutobusutoges.com

僕らが『この世界の片隅に』を「名作」と呼ぶわけ

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『この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック』(双葉社)
“サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、「オワリカラ」のボーカル・タカハシヒョウリが、いま気になるカルチャーを取り上げる、月1連載。  公開前日まで映画の存在も知らなかった、原作も読んだことがなかった人間による、ネタバレなしの長文です。  そうです、まず正直に言うと、僕はこの映画の存在を公開前日まで知らなかった。 『この世界の片隅に』はクラウドファンディングで製作費を集めて作られた、ある意味「インディーズ映画」に当たるもので、公開館数も多くはなく、大作映画のような大宣伝も行われていない。  もちろん映画製作サイドが、さまざまなイベントやネットでの企画を通して精力的にプロモーションしていることは後に知ったが、本当、申し訳ないことに僕はそれほどアンテナの高い人間ではなく、映画の情報が目に入ることはなかった。  公開の前日にサイゾー編集部から、この映画を見てみないか、という提案をもらったときに初めて存在を知った。  その時に「見てみたいけど、文章を書けるかはわからないです」と答えた。もう一度正直に言って、原作も読んだことがなかった。  それで、HPを見たり、広告に躍る「主演声優は、のん!」の文字を見た時には、極端な反戦メッセージ映画、お涙ちょうだいの恋愛ものなどがぐるぐると脳内でイメージされ、どんどん書ける自信がなくなっていった(今となっては、土下座します)。  僕は本業ミュージシャンで、こうしてコラム的な文章を書く機会をもらっているのですが、いわゆる「評論家」的な存在とは程遠いと思っている。そこには明白に線引きが存在していて、自分の中のはっきりしたルールじみたものもある。  つまり、どんなものについての文章でも、人に読んでもらう価値のある作品に仕立てられる「技術」と「経験」を培ってきた人がプロです。僕にはそれが明白に足りないでしょう。  それでも、僕みたいな人間がみんなに読んでもらおうと文章を書くなら、これはもう「0か100について書く」しかない。それは、日々生きている中で出会った「本当に書きたい」という熱が湧くものについて、「本当に書く」ということです。 『この世界の片隅に』についてのコラムの最初にこんなことを書いているのは、ひたすら自分語りがしたいわけではなく(したいけど)、せめてそれくらいの熱で書いてみたいと思う「徹底的な」映画だったから。  莫大な宣伝費をかけた「大作」でないなら、こういうものを僕らは「力作」と呼ぶんだろう。  そして、これを「名作」と呼んでいくだろうと思う。  この作品は、こうの史代さんによる原作マンガの映画化だ。昭和の初め、太平洋戦争、「すず」という1人の少女~女性の、広島・呉での生活を通して、その風景に迫り来る暴力=戦争の時代をも描いていく。 「戦争を題材としております!」とか言うと、暗くて重く、反戦メッセージが前面に出た作風か、または「ねぇ、そもそもこれ、本当に戦争を題材にした意味ある?」という単なるお涙ちょうだいか、そのどちらか(または、そのどちらも)を想像したくなるけど、『この世界の片隅に』は、もちろんそのどちらでもない、なんだかすごく不思議な、手触りの戦争マンガだ。  作品の中心にあるのは、等身大の「生活」であり、「愛情」。すずという1人の、歴史の上では名もなき女性の、「なんやしらんがつられておかしうなって」くる生活が描かれる。  たとえば戦時中の食糧難を、とっても愉快なお料理マンガ風に描いちゃうあたりとか、絶対ほかの人には描けない、ある意味ものすごい剛胆だと思います、こうの先生。  しかし、このマンガの持つスーパーなところはそれだけでなく、目の前の暮らしの細部を描けば描くだけ、その背景にある暴力の理不尽さが描き出されていくことだ。  僕らは予備知識として、1945年の8月6日と9日に何があり、8月15日に何があったのかを知っている。  目の前の面白おかしいやりとりの裏側で、“時限カウンター”が確実に少しずつ進んでいることを、僕らは意識せずにはいられない。  そしてそれが実際に襲いかかり、その影が描ききられた後には、その向こうの希望すら感じさせるのだ。  また、作画がとんでもない職人技で、原作の豊かな筆致そのままのキャラクターたちが、アニメならではのリアルな昭和初期広島の風景の中に違和感なく描き出されていく。 「原作の再現度がすごい」というだけなら、原作ファンにとって至福のプレゼントで良かったネ、ということになるが、このアニメは原作の世界をさらに大きく拡張することに成功していると思う。  その要因は2つある。  1つは片渕須直監督の「徹底的な考証と、冷酷な演出」、そしてもう1つはキャラクターたちがアニメ化という儀式で手に入れた「声の力」だ。  原作とアニメで僕が決定的に印象が違うと感じたのは、アニメにおいて神のような「記録する視点」が登場したことで、作品全体に「冷酷な客観性」が際立っている点だ。  たとえば片渕監督が長い年月をかけ調べ尽くし、こだわり抜いたという兵器に対するリアルな描写が、原作においては「抽象的であるがゆえの迫力」をまとっていた「戦争」という恐怖に、さらなる肉体的なリアリティを与えている。  主人公のすずは、絵を描くのが好きだ。そのすずの目を通して見る世界を「絵画のように切り取った」シーンが原作にいくつか出てくる。これらのシーンは後々の展開も含めて、とても重要で、原作のキモになっている素晴らしいシーンなのだが、ある意味で主観的で、受け手の想像力にも委ねられた「余白」のようにやわらかだ。  これに象徴されるように、こうのさんの原作には、読む者が入り込めるような優しい曖昧さが常に存在する。  そしてこれは、いわゆる「日常系マンガ」の大部分がそうであるように、バイブレーションの合う人にとっては心地よい余白でありながら、それ以外の人にはチューニングが必要な「別チャンネル」になっている。  しかし、時間軸を持つアニメでは、この原作のやわらかく抽象的な手触りの、「その前」と「その後」を俯瞰的に描いている(時間といえば、先述の時限カウンターも、「時間の流れ」がある映画のほうがはるかに冷酷に、容赦なく時を刻んでいくように感じた)。  ここに、この映画の無敵の布陣が出来上がる。  いや、待てよ。  普通に考えれば、「徹底的で偏執的なリアル演出」というのはよくある監督の独りよがり、アニメにおいて異物になってしまうんじゃないの……?  いや、しかし大丈夫なのだ。 『この世界の片隅に』では。大丈夫なのだ。  なぜなら、原作でも、やっぱり「生活」や「仕草」や「時代」に対する描写は、「徹底的」だからだ。細部を描き込むことで、全体を表出していく――というベクトルが原作もアニメも一致しているので、違和感なく2つのリアリティが同居、むしろ相乗効果を生んでいる。  僕が一番好きななのは、冒頭のシーンだ。  これ、開始1分くらいなんでネタバレじゃないと思うが、まだ幼いすずが海苔の入った包みを背負うところ。この時に、すずがちょっと変わった背負い方をする。身体の半分くらいもある包みを背負うためには、普通に持ち上げて背負ってはバランスを崩してしまう。  そこで、幼いすずは荷物を壁に押し付けて、そこに背中を合わせてこれを背負う。  本当に小さなシーンなのだが、この時に「この映画、いいなー!」と思った。もし小さな身体の自分がこんなに大きな荷物を背負うなら、確かにこうするよな! という「身近さ」で、あっという間に「すず」という人が、確かにこの時代、広島に息づいていたように感じさせてくれる。  これは原作にもあるシーンなのだが、それをすごく自然に丁寧に演出したアニメーションが、見ている人を作品の世界にすっと連れて行ってくれる。  このシーンだけでも、類いまれなほど幸福なアニメ映画が始まったとわかるよ。  そして、この冒頭でもう1つ驚かされるのが、すず役の声優を担当したのんさんの声。  純粋さと、素朴さと、普通さと、たくましさ……いま思えば、すずの全部が声の中に色づいている。言ってしまえば、声がすずの物語自体を語っているような。 「あぁ、そうなんだ。すずさんっていう人、そこにいるんだ」と思ってしまう。  ここばっかりは、ぜひ劇場で見て聞いてほしい。  のんさんだけでなく、潘めぐみさんらプロ声優の演技も素晴らしく(ちなみに11歳の稲葉菜月さんの「なんやしらんがつられておかしうなってきた」の言い方が最高)、作品に引き込み、その時々を必死に生きるキャラクターたちの声と、声にならない想いも、伝えてくれる。  豊かな原作、徹底的な演出、完璧な配役、これらが混然となったアニメ映画が理想だ理想だと言いながら、僕らは実際にそんな映画を人生で何本見ることができるだろうか?  今、それができるんだ。  というわけで、長々と書いてきたが、原作ファンや、絵柄やのんさんの主演に惹かれた人は、もうこの映画を見ているか、見に行こうと決めてるはずだ。 そこで僕としては、自分に似た「この映画、ちょっとどうなの」「あんまり褒められてて、ちょっと……」「クラウドファンディングで低予算なんでしょ」と勘繰ってる、理屈っぽい、「『シン・ゴジラ』について議論するの大好き」的な頭でっかち系の諸兄に対して、この文章を書いてみた。  何より「知らなかった」、近くでやってなくて「行かなかった」で、この作品に触れなかった人を1人でも減らせたらうれしく思います。  あと、僕はこの映画の根底にあるのは、やっぱり怒りだと思います。 takahashi1017.jpg ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

僕らが『この世界の片隅に』を「名作」と呼ぶわけ

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『この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック』(双葉社)
“サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、「オワリカラ」のボーカル・タカハシヒョウリが、いま気になるカルチャーを取り上げる、月1連載。  公開前日まで映画の存在も知らなかった、原作も読んだことがなかった人間による、ネタバレなしの長文です。  そうです、まず正直に言うと、僕はこの映画の存在を公開前日まで知らなかった。 『この世界の片隅に』はクラウドファンディングで製作費を集めて作られた、ある意味「インディーズ映画」に当たるもので、公開館数も多くはなく、大作映画のような大宣伝も行われていない。  もちろん、さまざまなイベントやネットでの企画を通して精力的にプロモーションしていることは後に知ったが、本当、申し訳ないことに僕はそれほどアンテナの高い人間ではなく、映画の情報が目に入ることはなかった。  公開の前日にサイゾー編集部から、この映画を見てみないか、という提案をもらったときに初めて存在を知った。  その時に「見てみたいけど、文章を書けるかはわからないです」と答えた。もう一度正直に言って、原作も読んだことがなかった。  それで、HPを見たり、広告に躍る「主演声優は、のん!」の文字を見た時には、極端な反戦メッセージ映画、お涙ちょうだいの恋愛ものなどがぐるぐると脳内でイメージされ、どんどん書ける自信がなくなっていった(今となっては、土下座します)。  僕は本業ミュージシャンで、こうしてコラム的な文章を書く機会をもらっているのですが、いわゆる「評論家」的な存在とは程遠いと思っている。そこには明白に線引きが存在していて、自分の中のはっきりしたルールじみたものもある。  つまり、どんなものについての文章でも、人に読んでもらう価値のある作品に仕立てられる「技術」と「経験」を培ってきた人がプロです。僕にはそれが明白に足りないでしょう。  それでも、僕みたいな人間がみんなに読んでもらおうと文章を書くなら、これはもう「0か100について書く」しかない。それは、日々生きている中で出会った「本当に書きたい」という熱が湧くものについて、「本当に書く」ということです。 『この世界の片隅に』についてのコラムの最初にこんなことを書いているのは、ひたすら自分語りがしたいわけではなく(したいけど)、せめてそれくらいの熱で書いてみたいと思う「徹底的な」映画だったから。  莫大な宣伝費をかけた「大作」でないなら、こういうものを僕らは「力作」と呼ぶんだろう。  そして、これを「名作」と呼んでいくんだろうと思う。  この作品は、こうの史代さんによる原作マンガの映画化だ。昭和の初め、太平洋戦争、「すず」という1人の少女~女性の、広島・呉での生活を通して、その風景に迫り来る暴力=戦争の時代をも描いていく。 「戦争を題材としております!」とかいうと、暗くて重く、反戦メッセージが前面に出た作風か、または「ねぇ、そもそもこれ、本当に戦争を題材にした意味ある?」という単なるお涙ちょうだいか、そのどちらか(または、そのどちらも)を想像したくなるけど、『この世界の片隅に』は、もちろんそのどちらでもない。なんだかすごく不思議な、手触りの戦争マンガだ。  作品の中心にあるのは、等身大の「生活」であり、「愛情」。すずという1人の、歴史の上では名もなき女性の、「なんやしらんが、つられておかしうなって」くる生活が描かれる。  たとえば戦時中の食糧難を、とっても愉快なお料理マンガ風に描いちゃうあたりとか、絶対ほかの人には描けない、ある意味ものすごい剛胆だと思います、こうの先生。  しかし、このマンガの持つスーパーなところはそれだけでない。やわらかく、表情豊かな筆致で目の前の暮らしの細部を描けば描くだけ、その背景にある、硬質で無機質な暴力と時代の理不尽な影が描き出されていくのだ。  僕らは予備知識として、1945年の8月6日と9日に何があり、8月15日に何があったのかを知っている。  目の前の面白おかしいやりとりの裏側で、“時限カウンター”が確実に少しずつ進んでいることを、意識せずにはいられない。  そしてそれが実際に襲いかかり、その影が描ききられた後には、その向こうの希望すら感じさせるのだ。  また、作画はとんでもない職人技で、原作の豊かな筆致そのままのキャラクターたちが、アニメならではのリアルな昭和初期広島の風景の中に違和感なく描き出されていく。 「原作の再現度がすごい」というだけなら、原作ファンにとって至福のプレゼントで良かったネ、ということになるが、このアニメは原作の世界をさらに大きく拡張することに成功していると思う。  その要因は2つある。  1つは片渕須直監督の「徹底的な考証と、冷酷な演出」、そしてもう1つはキャラクターたちがアニメ化という儀式で手に入れた「声の力」だ。  原作とアニメで僕が決定的に印象が違うと感じたのは、アニメにおいて神のような「記録する視点」が登場したことで、作品全体に「冷酷な客観性」が際立っている点だ。  たとえば片渕監督が長い年月をかけ調べ尽くし、こだわり抜いたという兵器に対する描写が、原作においては「抽象的であるがゆえの迫力」をまとっていた「戦争」という恐怖に、さらなる肉体的なリアリティを与えている。  主人公のすずは、絵を描くのが好きだ。そのすずの目を通して見る世界を「絵画のように切り取った」シーンが原作にいくつか出てくる。これらのシーンは後々の展開も含めて、とても重要で、原作のキモになっている素晴らしいシーンなのだが、ある意味で主観的で、受け手の想像力にも委ねられた「余白」のようにやわらかだ。  これに象徴されるように、こうのさんの原作には、読む者が入り込めるような優しい曖昧さが常に存在する。  そしてこれは、いわゆる「日常系マンガ」の大部分がそうであるように、バイブレーションの合う人にとっては心地よい余白でありながら、それ以外の人にはチューニングが必要な「別チャンネル」になっている。  しかし、時間軸を持つアニメでは、この原作のやわらかく抽象的な手触りの、「その前」と「その後」を俯瞰的に描いている(時間といえば、先述の時限カウンターも、「時間の流れ」がある映画のほうがはるかに冷酷に、容赦なく時を刻んでいくように感じた)。  ここに、この映画の無敵の布陣が出来上がる。  ……いや、待てよ。  普通に考えれば、「徹底的で偏執的なリアル演出」というのは、よくある監督の独りよがり、アニメにおいて異物になってしまうんじゃないの……?  いや、しかし大丈夫なのだ。 『この世界の片隅に』では、大丈夫なのだ。  なぜなら、原作でも、やっぱり「生活」や「仕草」や「時代」に対する描写は、「徹底的」だからだ。細部を描き込むことで、全体を表出していく――というベクトルが原作もアニメも一致しているので、違和感なく2つのリアリティが同居、むしろ相乗効果を生んでいる。  僕が一番好きなのは、冒頭のシーンだ。  これ、開始1分くらいなのでネタバレじゃないと思うが、まだ幼いすずが海苔の入った包みを背負うところ。この時に、すずがちょっと変わった背負い方をする。身体の半分くらいもある包みを背負うためには、普通に持ち上げて背負ってはバランスを崩してしまう。  そこで、すずは荷物を壁に押し付けて、そこに背中を合わせてこれを背負う。  本当になにげないシーンなのだが、この時に「この映画、いいなー!」と思った。もし小さな身体の自分がこんなに大きな荷物を背負うなら、確かにこうするよな! という「身近さ」で、あっという間に「すず」という人が、確かにこの時代、広島に息づいていたように感じさせてくれる。  これは原作にもあるシーンなのだが、それをすごく自然に丁寧にアニメーション化し、見ている人を作品の世界にすっと連れて行ってくれる。  このシーンだけでも、類いまれなほど幸福なアニメ映画が始まったとわかるよ。  そして、この冒頭でもう1つ驚かされるのが、すず役の声優を担当したのんさんの声。  純粋さと、素朴さと、たくましさ……いま思えば、すずの全部が声の中に色づいている。言ってしまえば、声がすずの物語を語っているような。 「あぁ、そうなんだ。すずさんっていう人、そこにいるんだ」と思ってしまう。  ここばっかりは、ぜひ劇場で見て聞いてほしい。  のんさんだけでなく、潘めぐみさんらプロ声優の演技も素晴らしく(ちなみに、11歳の稲葉菜月さんの「なんやしらんが、つられておかしうなってきた」の言い方が最高)、作品に引き込み、その時々を必死に生きるキャラクターたちの声と、声にならない想いも、伝えてくれる。  豊かな原作、徹底的な演出、完璧な配役、これらが混然となったアニメ映画が理想だ理想だと言いながら、僕らは実際にそんな映画を人生で何本見ることができるだろうか?  今、それができるんだ。  というわけで、長々と書いてきたが、原作ファンや、絵柄やのんさんの主演に惹かれた人は、もうこの映画を見ているか、見に行こうと決めてるはずだ。  そこで僕としては、自分に似た「この映画、ちょっとどうなの」「あんまり褒められてて、ちょっと……」「クラウドファンディングで低予算なんでしょ」と勘繰ってる、理屈っぽい、「『シン・ゴジラ』について議論するの大好き」的な頭でっかち系の諸兄に対して、この文章を書いてみた。  何より「知らなかった」、近くでやってなくて「行かなかった」で、この作品に触れなかった人を1人でも減らせたらうれしく思います。  あと、僕はこの映画の根底にあるのは、やっぱり怒りだと思います。 takahashi1017.jpg ●タカハシ・ヒョウリ “サイケデリックでカルトでポップ”なロックバンド、オワリカラのボーカル。たまにブログでつづる文章にも定評あり。好きなものは謎、ロック、歌謡、特撮、漫画、映画、蕎麦。 HP:http://www.owarikara.com/ ブログ:http://hyouri-t.jugem.jp/ Twitter:https://twitter.com/TakahashiHyouri?ref_src=twsrc%5Etfw

“暴言王”トランプ氏もやっかいになること必至! 実在の政界フィクサーをモデルにした『スキャンダル』

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『スキャンダル シーズン1 コンパクト BOX』(ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社)
 次期大統領が決定して1週間が過ぎても、いまだ騒がしいアメリカ。トランプ氏もクリントン氏も、選挙中に女性蔑視発言やら私用メール問題やらのスキャンダルが飛び出していたが、そんなトラブルの火消しを担うのが政界フィクサー。全米で根強い人気を誇る『スキャンダル』は、そのフィクサーを主人公にした政界内幕ドラマだ。  このドラマのヒロイン、オリビア・ポープは、元ブッシュ大統領(パパの方)の補佐官で、本作の制作にも名を連ねているジュディ・スミスという実在の政界フィクサーがモデルになっている。父ブッシュ政権時代は危機管理を担当し、その手腕からブッシュ大統領の任期終了後は、民間の危機管理会社を設立。大物クライアントを数多く抱え、全米どころか世界中で報道されてしまうような大スキャンダルをバリバリ処理してきた彼女がモデルとなっているだけに、オリビアの会社にも次々と大スキャンダルが舞い込んでくる。そのスキャンダルもまた、実際に起こった出来事をモチーフにしているので、どこかで聞いたことがあるような事件もしばしば。しかしそれだけなら、単にリアルな政界ドラマで終わってしまうところ。このドラマの醍醐味は、リアルな出来事をベースにしながら、リアルを超えた想像のナナメ上を行くトンデモ展開にある。  そもそもこのドラマのクリエイター、ションダ・ライムズは医療ドラマのはずの『グレイズ・アナトミー』で、患者より医師のほうが死んでるんじゃないかというくらい、たびたびディザスターをもたらしては延々とシリーズを続けているという、ジェットコースター・ドラマが超お得意の人物。この『スキャンダル』においては、扱うのがメディアをにぎわすような醜聞ばかりとあって、シーズンを重ねるほど現実以上にえげつない展開がエスカレートしていく始末。でも、それが非常にクセになる。まんまとションダの手中にハマっているのはわかっちゃいるが、どうにもやめられないのだ。  そんなドラマの登場人物は、誰も彼もがクセ者ばかり。主人公のオリビアはホワイトハウスの元広報官で現在は超やり手の政界フィクサーだが、実は大統領と元不倫関係という間柄。その元不倫相手であるフィッツジェラルド(フィッツ)大統領は、オリビアに未練タラタラ。オリビアのほうも、なぜかいつも困った顔をしながらフィッツと離れてはまたヨリを戻し、そのたびにフィッツはデレデレになったり、冷たくあしらったり、挙げ句(超大がかりな)ストーキングをしたりと、実に始末が悪い。アメリカ大統領という立場も忘れ、一体どこまで色恋にのめり込むのか、フィッツのボンクラ色ボケっぷりがシーズンを重ねるほどに際立っていく。先の大統領選挙戦中、オバマ大統領は「トランプ氏に核のボタンは渡せない」といったスピーチをしていたが、フィッツの色ボケぶりはそんな危機感すら覚えるほど。ドラマはとことんえげつなく、ドラマ的に下世話な展開を繰り広げるが、それを見れば見るほど絶大な権力を持つことになる人は慎重に選ぼうと、図らずも意識することに。 そして、この2人がメロドラマを繰り広げるたびに、周囲の人間は多大な迷惑を被るわけだが、彼らを取り囲む人たちも2人に負けず劣らずの濃いキャラぞろい。フィッツの嫁であるメリーは、夫とオリビアの関係に散々振り回された結果、夫そっちのけで自身の野心にまい進するように。もともとは、優秀な弁護士だったが、そのキャリアをあきらめ、フィッツを大統領にするために尽くしてきただけに、夫に対しては恨みつらみの塊と化していく。オリビアの恩師でもあり、大統領首席補佐官のサイラスは、ドラマ随一の腹黒キング。とにかく、フィッツジェラルド政権を守るためならあらゆる手段を講じる彼の闇は、想像以上に深い。  そして、オリビアの会社で働く面々(「スーツを着た剣闘士」を合言葉に、オリビアへの忠誠心で団結)も、元CIAのスパイだの、経歴に問題アリの弁護士だの、一見平凡そうに見えてとんでもない秘密を抱えていたりと、まっとうな人間はほとんど出てこない。オリビア自身もフィッツという弱点はあるものの、それ以外では確かにやり手。挙げ句、彼女の両親がまたかなりのトンデモ人物であり、ここにもスキャンダルの特大火種がくすぶっている。そんな腹黒すぎるキャラクターたちが、ホワイトハウスという伏魔殿で繰り広げるドラマの数々は、いつまでもダラダラと続くオリビアとフィッツの不倫話など、正直どうでもよくなるほど刺激的だ。  と思っていたが、何年もしつこく続けてきたこの不倫話が、最新シーズンではいよいよ生きてきた。政治よりも私情を優先しすぎなボンクラ大統領であるフィッツを、政界随一のやり手フィクサーであるオリビアが本気でコントロールしたらどうなるのか、その未来を的確に予測する腹黒サイラスがそこにどんな横ヤリを入れるのか、どこまでトンデモ展開がエスカレートしていくのか楽しみだ。  もっとも最初に書いたように、このドラマは現実に起こった政治事件やスキャンダルをモチーフにしている。選挙中から暴言王だったドナルド・トランプが大統領になった次シーズン、どんなエピソードが取り入れられるのかにも注目したい。 ★このドラマにハマった人におすすめ! 『ハウス・オブ・カード』 『レイ・ドノヴァン ザ・フィクサー』 『殺人を無罪にする方法』 ●まくた・ちひろ 映画・海外ドラマライター。『日経エンタテインメント!海外ドラマSpecial』『ゲーム・オブ・スローンズ パーフェクト・ガイド』(日経BP社)、『海外ドラマTVガイド WATCH』(東京ニュース通信社)、『映画秘宝EXドラマ秘宝vol.2~マニアのための特濃ドラマガイド』(洋泉社)等に寄稿。Twitterアカウントは@charumin

“暴言王”トランプ氏もやっかいになること必至! 実在の政界フィクサーをモデルにした『スキャンダル』

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『スキャンダル シーズン1 コンパクト BOX』(ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社)
 次期大統領が決定して1週間が過ぎても、いまだ騒がしいアメリカ。トランプ氏もクリントン氏も、選挙中に女性蔑視発言やら私用メール問題やらのスキャンダルが飛び出していたが、そんなトラブルの火消しを担うのが政界フィクサー。全米で根強い人気を誇る『スキャンダル』は、そのフィクサーを主人公にした政界内幕ドラマだ。  このドラマのヒロイン、オリビア・ポープは、元ブッシュ大統領(パパの方)の補佐官で、本作の制作にも名を連ねているジュディ・スミスという実在の政界フィクサーがモデルになっている。父ブッシュ政権時代は危機管理を担当し、その手腕からブッシュ大統領の任期終了後は、民間の危機管理会社を設立。大物クライアントを数多く抱え、全米どころか世界中で報道されてしまうような大スキャンダルをバリバリ処理してきた彼女がモデルとなっているだけに、オリビアの会社にも次々と大スキャンダルが舞い込んでくる。そのスキャンダルもまた、実際に起こった出来事をモチーフにしているので、どこかで聞いたことがあるような事件もしばしば。しかしそれだけなら、単にリアルな政界ドラマで終わってしまうところ。このドラマの醍醐味は、リアルな出来事をベースにしながら、リアルを超えた想像のナナメ上を行くトンデモ展開にある。  そもそもこのドラマのクリエイター、ションダ・ライムズは医療ドラマのはずの『グレイズ・アナトミー』で、患者より医師のほうが死んでるんじゃないかというくらい、たびたびディザスターをもたらしては延々とシリーズを続けているという、ジェットコースター・ドラマが超お得意の人物。この『スキャンダル』においては、扱うのがメディアをにぎわすような醜聞ばかりとあって、シーズンを重ねるほど現実以上にえげつない展開がエスカレートしていく始末。でも、それが非常にクセになる。まんまとションダの手中にハマっているのはわかっちゃいるが、どうにもやめられないのだ。  そんなドラマの登場人物は、誰も彼もがクセ者ばかり。主人公のオリビアはホワイトハウスの元広報官で現在は超やり手の政界フィクサーだが、実は大統領と元不倫関係という間柄。その元不倫相手であるフィッツジェラルド(フィッツ)大統領は、オリビアに未練タラタラ。オリビアのほうも、なぜかいつも困った顔をしながらフィッツと離れてはまたヨリを戻し、そのたびにフィッツはデレデレになったり、冷たくあしらったり、挙げ句(超大がかりな)ストーキングをしたりと、実に始末が悪い。アメリカ大統領という立場も忘れ、一体どこまで色恋にのめり込むのか、フィッツのボンクラ色ボケっぷりがシーズンを重ねるほどに際立っていく。先の大統領選挙戦中、オバマ大統領は「トランプ氏に核のボタンは渡せない」といったスピーチをしていたが、フィッツの色ボケぶりはそんな危機感すら覚えるほど。ドラマはとことんえげつなく、ドラマ的に下世話な展開を繰り広げるが、それを見れば見るほど絶大な権力を持つことになる人は慎重に選ぼうと、図らずも意識することに。 そして、この2人がメロドラマを繰り広げるたびに、周囲の人間は多大な迷惑を被るわけだが、彼らを取り囲む人たちも2人に負けず劣らずの濃いキャラぞろい。フィッツの嫁であるメリーは、夫とオリビアの関係に散々振り回された結果、夫そっちのけで自身の野心にまい進するように。もともとは、優秀な弁護士だったが、そのキャリアをあきらめ、フィッツを大統領にするために尽くしてきただけに、夫に対しては恨みつらみの塊と化していく。オリビアの恩師でもあり、大統領首席補佐官のサイラスは、ドラマ随一の腹黒キング。とにかく、フィッツジェラルド政権を守るためならあらゆる手段を講じる彼の闇は、想像以上に深い。  そして、オリビアの会社で働く面々(「スーツを着た剣闘士」を合言葉に、オリビアへの忠誠心で団結)も、元CIAのスパイだの、経歴に問題アリの弁護士だの、一見平凡そうに見えてとんでもない秘密を抱えていたりと、まっとうな人間はほとんど出てこない。オリビア自身もフィッツという弱点はあるものの、それ以外では確かにやり手。挙げ句、彼女の両親がまたかなりのトンデモ人物であり、ここにもスキャンダルの特大火種がくすぶっている。そんな腹黒すぎるキャラクターたちが、ホワイトハウスという伏魔殿で繰り広げるドラマの数々は、いつまでもダラダラと続くオリビアとフィッツの不倫話など、正直どうでもよくなるほど刺激的だ。  と思っていたが、何年もしつこく続けてきたこの不倫話が、最新シーズンではいよいよ生きてきた。政治よりも私情を優先しすぎなボンクラ大統領であるフィッツを、政界随一のやり手フィクサーであるオリビアが本気でコントロールしたらどうなるのか、その未来を的確に予測する腹黒サイラスがそこにどんな横ヤリを入れるのか、どこまでトンデモ展開がエスカレートしていくのか楽しみだ。  もっとも最初に書いたように、このドラマは現実に起こった政治事件やスキャンダルをモチーフにしている。選挙中から暴言王だったドナルド・トランプが大統領になった次シーズン、どんなエピソードが取り入れられるのかにも注目したい。 ★このドラマにハマった人におすすめ! 『ハウス・オブ・カード』 『レイ・ドノヴァン ザ・フィクサー』 『殺人を無罪にする方法』 ●まくた・ちひろ 映画・海外ドラマライター。『日経エンタテインメント!海外ドラマSpecial』『ゲーム・オブ・スローンズ パーフェクト・ガイド』(日経BP社)、『海外ドラマTVガイド WATCH』(東京ニュース通信社)、『映画秘宝EXドラマ秘宝vol.2~マニアのための特濃ドラマガイド』(洋泉社)等に寄稿。Twitterアカウントは@charumin