天皇の“夜のお出かけ”事情に衝撃!? 「都市伝説」と化した大胆すぎる事件とは【日本のアウト皇室史】

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回まではこちら。

――これまで、4回にわたって秩父宮勢津子妃の著書『銀のボンボニエール』(主婦と生活社)から、妃殿下の生活を繙いてきました。戦前の皇族がたは、今よりも自由だったのでしょうか?

堀江宏樹氏(以下、堀江) 「自由」って解釈が難しい言葉ですね(笑)。少なくとも自由になる資産という点では今よりも多かったでしょうね。

 ただ、皇族の方々は、護衛なしにはちょっとした外出もできないのでは? という話なら、天皇ご一家の場合、戦前でも三越などのデパートに女官や侍従を送って、代理で、それとなく買い物してもらうというのが基本だったようです。(『椿の局の記』など)。やはり女官や侍従は、俗世の者とは異なる空気をまとっているものらしく、店側にはバレバレだったようですが(笑)。

 そういう一方で、天皇ご一家以外の皇族ということになると、行動の自由度は一気にあがり、宮妃がご自分でデパートにお買い物もよくあったようです。戦前に美貌の宮妃として有名だった、梨本宮伊都子(なしもとのみや・いつこ)妃の日記を拝読していると、好きな歌舞伎俳優に三越ですれ違ったから、ワクワクしたとかそういうことが書かれていますね。

――なるほど。立場によって、外出の自由度もだいぶ変わるのですね。男性皇族のお出かけ事情どうだったのでしょうか?

堀江 さきほど天皇家の方の場合は買い物ひとつとっても代理を立てていた……というようなお話をしましたが、男性の方、それも“夜”のお話となると、ちょっと別なのかもしれません。

 などというと、また意味深な感じですが、皇太子時代の大正天皇が、ワイン1本おみやげに、(親戚である)朝香宮家にふらっと出かけていった、という逸話があるのです。

――つまり、夜=オフの時間という意味なんですね(笑)。でも、ふらっと外出するなんて、ずいぶん自由で大胆でいらっしゃいますね!

堀江 はい。そのことは少し後には皇族の間でも「都市伝説」と化していたようです。「ワインでふらっと事件」の真偽について、大正天皇の皇子である高松宮宣仁親王に、高松宮さまの甥にあたられる三笠宮寛仁親王が「直撃」するという記事がありました。ソースは昭和51(1976)年2月号の「文藝春秋」(文藝春秋)です。

 戦後の皇族である三笠宮さまにとって、皇族、それも皇太子殿下がワイン片手に思いつきで出かけられるような空気が昔、あったなんてことは、ウソみたい思われたのでしょう。

 具体的には「新春座談会 皇族団欒(だんらん)」という記事なのですが、参加者も、『銀のボンボニエール』の秩父宮勢津子妃、三笠宮寛仁親王、高松宮宣仁親王と喜久子妃と、皇族だらけで超豪華です(笑)。まぁ、現代では考えられないような面白い記事ですよね。

 さて、質問者の三笠宮寛仁親王は、当時30代に入ったばかり。この方は、戦後生まれです。当時の「若手皇族代表」として、叔父上にあたる高松宮さまに色々な質問をしておられます。大正天皇ワイン片手にふらっと伝説についてもその一つなんですが、高松宮さまは「それはありうる」、と。

 この時、面白いのが高松宮さまが「世間でもそういう付き合いを気軽にしていたから、皇室だって、天皇だってそういうことをしても普通だったんだろうね」というような回答をしていること。

――ええっ。でも警備などは?

堀江 そうなんですよね。でも高松宮さまにいわせると、戦前は警備自体「あんまりなかった」……すごい時代ですよね(笑)。逆に自由すぎて、少しコワイかもしれません。ただ、第二次世界大戦が近づくほどに皇族の警備は厳重になっていきました。大正天皇皇后で、当時は皇太后だった節子(さだこ)さまが「公務に支障が出る」と零される程度には厳しくなっていたようですが。

――今では、佳子さま眞子さまがプライヴェートでご外出というときも電車にSPもそれとなーく随行とか、黒田清子さんにもいまだにSPが……という話なのに。

堀江 そうなんですよ。宮家同士が「ギャーっと集まってにぎやかにやっていた」のもその頃はよくあった、と。ただ、高松宮さまの分析によると、その頃は年末年始の挨拶も直に会ってするのが普通だし、季節の変わり目の挨拶などもそうやっていたから、交流が密になって、自然に絆も濃くなっていた。でもそれは皇族だけでなく、一般家庭も同じだったのでは……と。

―――たしかに言われればそうかもしれません。お中元を持って相手のお家をご訪問、とかかつては一般的な光景だったようですし。いまはCMの中だけの世界になってますが。

堀江 そうですよねぇ。でも皇族の自由が制限されるようになったのは、警護面のほかにもう一つ大きなファクターがあって、それが一番はじめに申し上げた、経済面だというのです。

 戦前の皇室は、御料林(皇室財産であった森林)などをふくむ、皇室財産が保証されていて、それゆえに世界でも有数の富豪でした。それで非課税ですからね(笑)。でも、戦後になると、そういう財産源は失われ、広いお屋敷も財産税で没収されてしまいます。ただし、現在でも「皇族費(※非課税)」というのがあって、これがそれぞれの皇族に支給されることにはなってはいますが。

――令和二年では、皇族お一人あたりいくら、と決まっているようで、最低でも年額3050万円からのお世界のようですね。なかなかの数字のようにお見受けするのですが……。

堀江 たしかに庶民の目には「巨額」ではありますけれど、庶民にはない大きな出費も覚悟です。あれやこれやで一般庶民よりも、お金がかかるというのは事実です。

 雲の上の方々の生活ですからね。それに皇族方は戸籍がないゆえ、健康保険に入れないので、保険診療が受けられないそうで、すべてが自費。現在でもそのようですよ。皇居内の病院も、皇族は無料とかではないようですし。あれやこれやで一般庶民よりも、お金がかかるというのは事実です。

 天皇家の場合は、宮廷費というものがあって、この中から高額医療費のお支払いも可能なようですが、その他の皇族ということになれば……ということで、ご身分にふさわしいお屋敷の維持・管理、さらに人員の配置などもあり、それらの支払いをいれていくと、そこまで「裕福というわけではない」という「皇族団欒」の記事でのみなさんのご主張は、今でもとくに変わらずといったところでしょうか。

――皇族が自由でいられるかには、「時代の空気」の影響も大きいでしょうね。

堀江 そうですね。例の記事「皇族団欒」が出た昭和後期から平成初期あたりまでの比較的自由な空気は、今はありません。こういう皇族だらけの座談会の記事が出るということは、文藝春秋編集部によると「現在では絶対実現不可能」だそうです。

 高松宮さまが「70歳過ぎたのに都営バスが無料にならないから、美濃部亮吉(みのべ・りょうきち)都知事(当時)に直談判して権利を勝ち取った」とかすごい談話も含まれていて、スリリングでした(笑)。

 皇室の支持率は現代でも高く、文字通りのカリスマです。しかし皇族方に現代の一般庶民が求めているものは、「人間らしさ」より、清く正しく美しい「聖人君子」のイメージが強いかもしれませんねぇ。

 だから秋篠宮家の内親王の結婚問題なども、いろいろと外野が騒いでしまうのでしょうが……今後、どうなるのか、ある意味不安、ある意味楽しみではありますね。

妃殿下、「革ジャン」着用で大問題に! 皇室儀式に「あんなモノを着て!」と女官大激怒【日本のアウト皇室史】

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回まではこちら。

――これまで、女官たちから妃殿下に行われる厳しい指導についてうかがってきました。まるで異なる世界のルールに悩む勢津子妃に、夫である秩父宮様はどう接しておられたのでしょうか?

堀江宏樹氏(以下、堀江) 宮様はおやさしいのです。秩父宮妃殿下の自伝『銀のボンボニエール』(主婦と生活社)には、宮様が「宮中には私が教えようもないほどいろいろあって大変だと思うが、結局、それは自然に覚えるしかない。あまり気にしなくてもだんだんと覚えればいいですよ」というお言葉で、勢津子妃をねぎらったということが書いてあります。勢津子妃は「この宮様だけを頼りにして、お言葉どおりについていけばいいのだ」と思ったといいますね。

――夫婦の愛ですね。

堀江 そう。お二人の時間は、夫婦の時間なのですから、お二人がそれでよければよいはずなのです。しかし、そういうわけにもいかないというのが皇族のしきたり……。たとえば、宮様は結婚なさった後も青山にある陸軍大学まで赤坂の秩父宮邸から徒歩で通っておられました。

 陸軍大学時代も、学生としての勉学と皇族の公務を両立させるという、大変なスケジュールで宮様は動いておられました。学業だけ考えていればよいほかの学生からも、あまりに課題のたぐいが多すぎると音をあげるくらいのスパルタ教育が、当時の陸軍大学では行われていたのですが、不平をこぼすと「戦争中にそんなことが言えるか!」と一喝されてしまうだけ。ちなみに秩父宮様は、その後も学生時代と変わらぬハードな日々を送ることを自分に課し続けたがあまり、後に過労が原因で体調を崩し、肺を病まれてしまうのです……。

――皇族は優雅な生活を送っているのではないことが、この記述からもよくわかります。

堀江 当時の宮様は午後4時~5時くらいに大学から戻られるのですが、その時間、妃殿下はもちろん、「家来」と呼ばれていた邸内の職員すべてが並び、お帰りを待つのが「習慣」でした。

 その後、宮中や各国大使館での晩餐会など公務がない限りは、夜遅めの時間にはじまる宮邸のディナータイムの前に、好物のアンパンを食べてから、宮様は学校で出された課題に取り組むのでしたが……。

――おやつはアンパンですか。当時はハイカラな食べ物だったと聞いたことがあります。

堀江 そうなんですよ。しかし勢津子妃は甘いものが子ども時代から苦手だし、パン食文化の本場であるアメリカ育ちといってもよいお方ですからね。パンにアンコという取り合わせがおイヤだったそうで。一度もアンパンを食べなかったというのです。すると職員が気を利かせて別のメニューを一緒に作って出してくれたら、それを何も疑わずに喜んでパクパクいっていた、と。

――うーん、また女官からキツめのチェックが入りそうな雰囲気。

堀江 ご想像どおりです。殿下のおつきあいもなさらないのは妃殿下として間違っている。自分の好きなものを周囲が作ってくれるからと、殿下をさしおき、それを自分だけ食べ続けるとは配慮が足りていない、との叱責が「ある筋」から届いたのです。宮邸の女官が、勢津子妃の“先輩”にあたる別の妃殿下にでも報告したのでしょうかね。

 勢津子妃の場合、外交官をしているご両親はその時イギリスにいたので、日本の家庭生活、日本の妻のあり方について親から勉強する機会がなかった……というのですね。勢津子妃のおばにあたる方も、武家から宮家に嫁いだ梨本宮伊都子(なしもとのみや・いつこ)妃で、その方のアドバイスは「妃殿下というものはしんぼうが第一」でした。

――「しんぼう第一」……。その様子では、ほかにも厳しい注意を受けていそうなのですが。

堀江 大正天皇の多摩御陵に最初にご参拝、というとき、秩父宮様は「君はぼくがするとおりに真似していたらよいよ」といってくださったので、そのとおりにしても、女官から「ちょっと申し上げかねますが」というチェックが入ったのです。

―――クレームの付け方の言葉使いからして独特ですね(笑)。

堀江 「妃殿下は女子(にょぎ)さま」なので、宮様はしていなくても、もう一度、御陵の方を振り返り、そこで止まり、さらにもう一回多めにお辞儀をなさるべきであった、と。

 「女子」は、御所風では「にょぎ」と読むわけですが、勢津子妃には当初、それ自体がピンと来ず、何を言っているのかわからなかったと書いておられるのでした。

 ほかには、宮様が陸軍大学を卒業、皇族軍人として「歩兵第三連隊第六隊長」の肩書で代々木練兵場で大礼観兵式(天皇が閲兵する儀式)にお出ましになられたときにも、勢津子妃の服装に厳しい指摘が寄せられたというのです。

――立ち居振る舞いとか衣服がマナー違反ですよ! といわれるのは、なかなか傷つくものですよね。

堀江 まさにそうです。勢津子妃も、涙ぐむこともしばしばあったと書いておられますね。

 ちなみに閲兵式に着て出たのは「アメリカの学生たちが着るようなお粗末な皮コート」と書いておられますが、革ジャンの類いでしょうか。もちろん本当に「お粗末」なわけがありません。風も吹いているし、寒いし……ということで、アメリカ育ちの勢津子妃は革ジャンを選んだのですが、日本ではまだ革ジャン自体が珍しかったこともあり、「あんなものを着て!」と大問題となったようです。

――妃殿下たるべき者、どんな場所でもオートクチュールを着て、ほほえみ続けなければならないのでしょうか?

堀江 ちなみに戦前の宮中では、和服(たとえば着物)より、ドレスなどの洋服のほうがよりマナーにかなった正装ということになっていたそうですが、ドレスコード問題は今日でも悩ましいものです。

 それにしても女官も、女官で大変です。憎まれ役に徹してでも、ほかの生活文化圏から嫁いでこられた妃殿下を一人前の皇族に育てあげねばいけないのですから。古写真の中の妃殿下たちは皆さま、美しいだけでなく独特の威厳をもっておられますが、それもすべて女官たちから鍛え上げられて身についたものだったのかもしれませんね。

 秩父宮様ご夫妻のエピソードは短い記事では紹介できないくらい、まだありますので、ご興味がある方は『銀のボンボニエール』をぜひご一読ください。

皇族ご成婚、禁断の「初夜の営み」をひもとく! 妃殿下の母親が“寝室同伴”で……天皇にイライラ!?【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回まではこちら。

――秩父宮勢津子妃の自伝『銀のボンボニエール』(主婦と生活社)をベースに、ご成婚当初のあれこれを、これまでうかがってきました。傍目には、ひたすら優雅に行われてるように見えますが、ロイヤル・ウェディングの舞台裏はとにかく大変なのですね。

堀江宏樹氏(以下、堀江) まったくそのとおりです。秩父宮ご夫妻が御殿に戻られた後も、儀式は続いたのですよ。それこそ初夜の寝室の中にいたるまで……。

――そんな、営みの記録まで残っているものなんですか!?

堀江 とはいっても、お餅の話ですけどね(笑)。「三日夜(みかよ)の餅」って聞いたことありませんか? 辞書的には「三日の餅(みかのもちい?)」などとも書いてありますが、古文の時間に勉強した記憶がある方もおられるかもしれませんね。

 平安貴族のルールでは、3日連続で男性が女性のもとに通ってきたら結婚は成立。その3日目の夜、妻側が男性に振る舞うのが、「三日夜の餅」です。僕の推測ですが、餅は粘りがありますから、これでこの男が逃げませんように……という祈りを込め、とくに逃したくない男に向けて妻側が用意したものなのかもしれません。まさに、空を飛ぶ自由な鳥を捕まえるときに昔の人が使った「鳥餅」みたいなイメージ。

 平安時代には四種類のお餅が用意されていたようですが、詳細は不明。身分や家によって違いがありえました。『源氏物語』で光源氏がこの餅を食べている描写が登場するのは、葵の上、紫の上、女三の宮といわゆる“正妻”クラスの女性の時だけ。(実の親と縁遠い紫の上以外は)女性の実家が餅を用意したのでしょうから、「わが家の姫は、光源氏のようなステイタスの高い男性の正妻となるのにふさわしい女性である」と言い切れるケースでしょうね。逆に、「ウチの姫を捨てたりして、どうか恥をかかせないでおくれよ」という婿・光源氏へのお願いでもあったという気もします(笑)。

 また古典文学の『落窪物語』にも出てきますが、それによると、飲むようにしてまるごと3つ食べるのがお作法だったようです。

――お正月に救急車に乗るきっかけになってしまいがちな食べ方だから、自粛しろっていわれている食べ方ですね(笑)。

堀江 そうですね(笑)。『銀のボンボニエール』では、この餅の儀式が宮中ではアレンジされながらも20世紀でも行われていたことがわかります。

 勢津子妃によると、夜になっても赤坂・表町にあった秩父宮邸は提灯を手にした庶民たちにぐるっと囲まれ、彼らがバンザイ、バンザイとコールして回る、いわゆる「提灯行列」のさなかにありました。その声が聞こえる中、お二人は寝室にお入りになられ、そこで「三日夜の餅」の儀式がはじまるのですね。

――外野の野次が飛ぶ中での初夜とは刺激的ですね。

堀江 『銀のボンボニエール』によると、平安時代とはかなり様子が違います。読みは「みかよのもち」ですが、表記は「三箇夜餅」。

 「四方に奉書紙を立てたお重の中に二つ重ねの土盃(かわらけ)」が乗せられており、その上に碁石くらいの大きさの小さな餅が、勢津子妃の年の数だけ盛られているのだとか。この時、勢津子妃は19歳ですから餅も19個ですね。

 面白いのはそれを実際に食べることはせずに「食べる所作」をお二人がなさって、それが終わると3日間、お餅は寝室に飾られ続け、3日後にお重ごと宮邸の土地の「吉方」……よい方角に埋められたのだそうです。

 その後、秩父宮雍仁様から「今日はさぞ疲れたことだろう。慣れるまでは大変だと思うが、わたしもいることだし、あまり気にかけないように」とのお言葉があり、勢津子妃は「何一つ心得ない者でございますが、仰せに従ってまいりたいと存じます」と深々とお辞儀をなさる、というところで初夜についてはおしまい。翌朝の出来事が描かれる……という展開になっております(笑)。

――きれいな“朝チュン”展開ですが、サイ女的にはもっとも肝心のところが省略ですね(笑)。

堀江 やはりソコが知りたいですか。ちなみに平安時代の話であれば、いわゆるロイヤルウェディングの夜……つまり初夜に寝台の上でどういうことが行われたのか、その様子がわりと細かく書かれていたりします。

 長和5年(1016)、11歳の後一条天皇と、20歳の藤原威子(藤原道長の愛娘)が結婚しているのです。当時でも異例の年の差婚でした。男性が今でいえば小学校高学年の年齢ですし、実際、二人は幼なじみとまではいかないまでも、面識があったため、よけいに気恥ずかしかったようです。

 この頃、天皇が自分の寝台にお妃を呼ばないかぎり、お妃となる女性が彼の横に行くことは許されません。ところが11歳の天皇は恥ずかしいのか、なかなか威子を呼ばないまま時間だけが経過していくのですね。威子の隣に添い寝している道長の妻・倫子と彼女が連れてきていた侍女もイライラしながら「まだか、まだか」と待っているのです。

――いくら愛娘とはいえ、初夜の寝室に新婦の母親が来ちゃってるのは現代の感覚でいうとびっくりです! 新婚旅行に付いてきたがる母親みたいなイメージでしょうか?

堀江 現代人には衝撃ですよね。道長の妻・倫子の侍女が、威子の寝具を天皇の寝台にグイッと引いて近づけたというロコツな記述もありまして(『栄花物語』)、その結果、天皇からお呼びがかかるわけです、が、ここで新婦の母が「初夜の儀式」を完成させるべく動くのですよ。

 なんと添い寝する二人に寝具をかけてやるわけです。同時代の西洋の王侯貴族の初夜は、“実事”がなければ完遂されたとはいえなかったので、行為が行われるかどうかを周囲がジッと観察していたりします。ただ、日本はどうやら“実事”の有無に関係なく、寝具をかけてもらった時点で、二人の初夜は完遂されたということになったようですね。

――こちらの儀式は、さすがに20世紀はじめの勢津子妃の初夜には継承されていなかったということですね(笑) 。

堀江 続く伝統、続かない伝統、いろいろなんですね。

――次回は、名実ともに妃殿下となられた勢津子妃、激化する女官とのバトルに迫ります!

古株の女官、妃殿下を「絶対に許してはならない」と徹底マーク! ご成婚日に早くも“カウンターパンチ”が炸裂!?【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――平民から妃殿下になられた秩父宮妃勢津子さま。足袋すら自分で履くことが禁止された宮中での生活に衝撃を受けたそうですね。ご成婚の儀式の途中には、女官によってあわや失明の危機に見舞われたとか……。

堀江宏樹(以下、堀江) そんな勢津子さまですが、奇跡的に視力、痛みともにその場で回復、ご成婚の儀式をすべて終え、御所から秩父宮邸に戻られました。しかし、そこでも古株の女官によるカウンターパンチが加えられるのです。

 マント・ド・クールという重いドレスを脱ぎ、(日常着である)振り袖に着替え、足袋を自分で履こうとした瞬間、「侍女がいたします」と、「老女」(古株の女官)から「きっぱり言われ」てしまったそうです。

――足袋くらい自分で脱がせて! なんて言えませんよね。「きっぱり」言い切られてしまったなんて。

堀江 そうですねぇ。そもそも宮中文化という特殊なルールに慣れておられないわけですが、そんな方にも、なんの事情酌量もない感じが伝わりますよね。ちなみに「勢津子」妃のお名前は、結婚前は「松平節子」です。外交官令嬢として、比較的自由に暮らしてきた方です。

――改名なさったのですか?

堀江 大正天皇の皇后陛下のお名前も「節子(読み方は“さだこ”)」ですから、それに配慮する形で勢津子に改名したのでした。生活の中で、このように細かな変更点はいろいろありました。しかし「足袋さえ自力で履けなくなってしまった」というご自分の境遇には「暗澹たる思い」がしたというのです。無理もありませんね。

―――身分が高くなるということは、窮屈ですね。靴下を自由に履けるありがたさに初めて気づきました(笑)。

堀江 それ以上に心に堪えるようなルールもあったようです。成婚直前に教えられ、困惑が残った「しきたり」の一つに、宮妃という最高の身分の持ち主になった以上、実家の父も「松平」、母のことも「信子」と(少なくとも公式の場では)呼ばなくてはならないこと。そして、父親の上役として認識していた人物ですら、自分の使用人として接しなくてはならなくなったことがあったといいます。

―――両親が自分より低い身分になるんですね。頭では理解しても、言動に移すのはきつい。

堀江 女官のチェックは妃殿下の行動の逐一に及びます。

 うっかり、自分の履物を自分で揃えようとしたら「あ、およしあそばして」と、「手をはらいのけんばかりの勢い」で女官から止められてしまうのです。行儀作法がなっていないダメな人という扱いなのですね。これは傷つきます。

 女官は教育を目的としていたのは明らかだとは思うのです。皇族と結婚しただけでは、世間の誰からも認められる妃殿下の風格を身に備えることはできません。ですから、きつめに強く教育しすぎてしまうのでしょう。

――それにしても、それまで自分がいた社会では「行儀のよい振る舞い」だったのが否定されるのは……。

堀江 宮中には独特の衛生観念というか、しきたりが当時、あったのも事実なのです。

 当時の宮中では、人間の体は腰より上が「上(かみ)」、下が「下(しも)」と厳別されていているのですね。例えば、お風呂。下半身が浸かっている以上、尊い上半身を同じお湯に入れることは言語道断。どんなに寒い季節で、冷えた浴室だったところで、半身浴オンリーです。肩までお湯に浸かれないのは不便ですよね。明治天皇がお風呂ぎらいだったのは、お風呂が窮屈な時間だったからでは、といわれています。ちなみに天皇のお身体の「上」は年若い女官、「下」は年老いた女官が洗います(『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』)。

――へー! そこは老いた女官の担当なんですね(笑)

堀江 はい。こういうことは、だいたい戦前くらいまでの宮中に続いていた伝統だと聞いています。秩父宮家のお風呂事情については情報がないので推測ですが、似たりよったりでしょうね。

 ですから、高貴な宮妃が、自分の体であっても「下」の部分に手をつけることを、女官としては絶対に許してはならないと感じ、足袋や履物を自分で履くことを強く制止したのでしょう。彼女たちには当然のルールですから。ただ、「新参者」である勢津子妃は面食らったでしょう……。

 自分がおかしてしまった「失敗」の数々に押しつぶされそうになったとき、勢津子妃の心の支えになったのが、彼女に秩父宮妃となってほしいと強く願われた大正天皇の皇后・節子さまから贈られたボンボニエールだったそうです。勢津子妃の自伝『銀のボンボニエール』のタイトルにもなっていますね。

―――すみません、そもそもボンボニエールとは何ですか?

堀江 もともとは「キャンデーボックス」という意味のフランス語です。日本でボンボニエールというと、やはり皇室の慶事の際に関係者に配られる引き出物としてのイメージが大きいかもしれません。明治の末ごろからの伝統です。

 『銀のボンボニエール』のヒットで、ボンボニエール(Bonbonnière)という一般人には馴染みの薄いフランス語も一気に有名になった気がします。少なくとも「●●画報」的なマダム向け雑誌の年季の入った読者なら、ほぼ誰でも知っている気がします。

 ピカピカに磨きぬかれた収蔵品ではなく、個人蔵の古いボンボニエールの実物を目の前で拝見したことがあるのですが、ちょっとくすんだ銀色になっているのに伝統の重みを感じました。

――次回は、妃殿下の「初夜」が明らかに!? 

女官が妃殿下に“激痛”の制裁!? スパルタすぎる“お妃教育”、知られざる実態【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!

――2020年はコロナ一色のまま、半年以上がたちました。昨年は改元という大きな節目があり、お祝いムードに湧いていたのに……。

堀江宏樹(以下、堀江) 新帝陛下が即位されてから1年と少しが経過しましたね。しかし、昔なら再改元の必要性が議論されはじめてもよいくらい、世間の空気は暗いですね。皇室の方々も、どうやって落ち込んでいる国民とかかわったらよいのかを、模索しているご様子。

――良い変化といえば、皇太子妃時代には心身の不調を訴えられ、あまり活動的ではなかった雅子さまも、最近はお元気そうに見えることでしょうか。

堀江 そうですね。思えば平成16(2004)年には、新帝陛下(当時・皇太子殿下)による、「人格否定発言」がありました。

 「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」というご発言です。その意図を背景からまとめると、「妃殿下にはとにかく“お世継ぎ”を期待したいから、その妨げになるかもしれない海外での公務は控えてください」と宮内庁から言われてしまっていたのが不快だ……ということではないか、と。

 男女は平等であり、性別・立場にとらわれず、その人らしく生きられることは広く認められるべき……というのは、一般社会ではもはや「普通」のことです。しかし、皇族としては、やはり男女の役割には大きな違いがあり、とくに女性に求められるべき役割、そしてその重圧は、一般社会の比ではないくらいに大変なものであろうことが、この「人格否定発言」からは推察されるのでした。

―――世間でも議論が起こりましたよね。平成の世でも、雅子さまの身にそういうことがあったわけですから、昔の妃殿下はもっと大変だったのでしょうか?

堀江 そうですねぇ。平成3年には、昭和天皇の弟君・秩父宮雍仁(ちちぶのみや・やすひと)親王の妃であられた「勢津子さま」という方の回想録『銀のボンボニエール』(主婦の友社、秩父宮勢津子)が刊行され、ベストセラーになりました。読み物として大変面白いのですが、宮中に嫁いできた勢津子さまに対する女官たちや、宮中関係者の冷淡さが印象に残りました。

 私論ですが、とくに結婚当初、女官たちから妃殿下が事あるごとに「いじめられる」ことによって、妃殿下に宮中のシステムが効率的に叩き込まれるようになっているのかな、とさえ考えてしまったほど。妃殿下も、そういうプレッシャーを跳ね返せる場合に限って、はじめて一人前になれるというハードな世界だったのかもしれない……とか。かつて雅子さまが苦しまれた宮内庁との軋轢の問題も、なんとなくですが根っこは同じような気にもなるのです。

―――現代は昔ながらのスパルタ女官こそいませんが、宮中の“圧”から解放されるわけもなく……。そもそも、妃殿下という上の立場の方に仕えているはずの女官が、どうして「主人」をいじめちゃうのですか?

堀江 女官は妃殿下より、宮中生活の先輩ですから。そして宮中は完全なタテ社会です。

 宮中では一般社会とは異なる、独特の生活ルールが生活の中心となっています。ですから、それを熟知し、しきたりを守り、当然のようにそれで生きられていなければ、一人前の皇族とは呼べないのです。女官も好きでいじめるのではないとは思いますよ。でも、なかなか傍目には厳しすぎるのでは、と思うところが、『銀のボンボニエール』にもちらほらと出てくるわけです。

―――どんなスパルタ教育が書かれているのですか?

堀江 秩父宮雍仁親王と勢津子妃のご成婚当日、儀式途中から、女官による「最初が肝心」式の厳しい「お妃教育」が早くも施されていたことがわかります。
御成婚は明治35(1902)年6月のことで、大正天皇のときから皇室の新しい結婚式となった御所での「神前式」が踏襲されました。このとき、雍仁親王は26歳、勢津子さまは19歳になったばかりです。

 勢津子さまは当時としては、かなりハイカラな上流家庭に育ちました。旧・会津藩主だった松平家のご令嬢です。しかし、家風が独特というか、お父上は爵位(子爵)を息子に譲り、自身は外交官として自活することをお選びになっていますね。勢津子さまも、このため旧大名家の姫としては異例なほど、自由に生きることができていたのです。

 海外で外交官のお仕事をなさるお父上と共にアメリカ・ワシントンで思春期をすごし、当地の「フレンドスクール」を卒業してから帰国したばかり、という「帰国子女」でした。そして、お血筋は高貴ではあっても、ご身分自体は「平民」……。

―――いかにも宮中の古株女官から叩かれそうですね!

堀江 まさにそう。一般庶民でも、結婚式の衣装替えは大変ですけれど、当時の皇族妃ともなるとそれはもう……。

 お二人のご成婚の日時は昭和3(1928)年9月28日でした。午前2時に起床、髪を「おすべらかし」に結い上げるところから、全てが始まります。深夜にいたるまでの怒涛のスケジュールの詳細は省きますが、印象的なのは勢津子妃がご自分を(ママゴトの)「人形のように扱われた」といっていることです。例えば、おすべらかしに通称「十二単」の姿で儀式に出て、写真を撮りおえたら、当時の宮中でもっとも公式なドレスとされた「マント・ド・クール」に着替えねばなりません。着替える際には、髪も油で固めたおすべらかしのままではダメですから、油分をなんとベンジン液で拭き取るのです。

 油絵を描いたことがある方なら知っているでしょうが、絵の具の拭き取りにも使う、異臭のする液体です。しかも大量にベンジンを使ったため、目の上にかぶせてあった布に次第に染み、目に入り込んで激痛が……。

―――わわわ、それは大変です。妃殿下をそんな目に遭わせた担当女官には、どんな処分が……。

堀江 詳細はわかりません。しかしご成婚当日に妃殿下が失明の危機に見舞われるって、ひどいですよね。「一時は完全に目の前が真っ暗になって何も見えなくなりました。この大事なときに視力が戻らなかったら」……と焦る勢津子妃ですが、なんとか視力も痛みも回復し、大至急で次のドレスに着替えるのです。

 それでも担当者を責めることは何も書いていないのが、さすが勢津子妃、器の大きな女性でいらっしゃると思うのです。けれど、着替えはおろか、靴を履く時さえ、すべてを女官におまかせするのが妃殿下の「日常」であると気づいたことには、非常に落胆したとはっきり書いておられますね。

―――ご成婚当日、早くも妃殿下としての生活に落胆した勢津子妃ですが、秩父宮邸に帰った後も続く、女官の「洗礼」とは!? 次回に続きます。

金も、仕事も、家族との絆も失ったニセ天皇──マスコミにすら見向きもされなかった熊沢天皇の末路【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!

――前回までは、天皇になろうと右往左往した熊沢寛道ですが、いよいよ首が回らなくなってきた……というお話でしたね。結局、熊沢天皇はどこまで一般的な支持を集められたといえるのでしょうか?

堀江宏樹(以下、堀江)知る人には知られている程度、でしょうか。「人気」という点でいえば、さらに微妙なところなんですね。実は、今回のコラムのために世田谷にある「大宅壮一文庫」の所蔵する膨大な雑誌のデーターベースを使って、熊沢天皇などのキーワードで検索してみたのです。すると彼の存命時から現代に至るまで、検索結果はなんと20件しか出てきませんでした。

――えっ、意外に少ないですね。

堀江 しかも扱われているページ数が少ない。おそらく大手媒体からは雑誌の企画が不足した時、おもしろおかしく、いじられるだけが関の山だったのではないでしょうか。

 「大宅壮一文庫」は、戦後のドサクサにまぎれて発刊された劣悪な情報誌である「カストリ雑誌」などはあまり所蔵していないようで、カストリ雑誌の愛読者には熊沢天皇は有名人物であった可能性があるのですが……。

 雑誌より、スポーツ新聞で熱心に取り上げられていたという情報もあるにはあります。ネットを検索していると、その名も「実話雑誌」というカストリ雑誌の情報が出てきまして(笑)、その昭和25年(1950年)5月発刊の「初夏新緑号」には熊沢天皇のお宅訪問記事ほか、何名かの天皇候補者の情報が掲載されています。

――民間からの天皇候補者がまだまだいたってすごいですね。

堀江 「天皇だらけの座談会」くらいやっててほしかったですよね~(笑)。ただ、この雑誌自体、ホントに取材したの? と思えるような文章ばかりで、熊沢天皇のお宅訪問記事も、売れない作家を称する主人公による小説仕立てです。本当に取材したのかどうか……。

 ちなみに熊沢天皇は愛知弁丸出しの冴えないおじさんとして描かれています。同じように、天皇候補者リストにはフィクションとは思うのですが、たとえばこんなすごい「女帝」が……。

蝉花女帝 松江の美容院主で、銀杏返しの三十年増。町では色キチガイで通っており、常に男出入りが絶えないというパンパン型女性である。(記事より引用)

――うわぁ、これ完全にアウトですね!!

堀江 この雑誌、「大宅壮一文庫」には所蔵されておらず、つまり資料価値なし……ということなのかもしれません。いずれにせよ、マスコミからは「時々」お声がかかって、取材を受ける程度の知名度になるのが、熊沢天皇の人気の限界だったようですね。

――熊沢天皇はどうやって生計を立てていたのでしょうか?

堀江 これがよくわからないのですが、親戚からの借金と、支持者への寄生。このふたつのような気がします。

 例の吉野旅行の翌年である昭和25年頃には、親戚一同を回って金を借りたり、浅草の山口屋という甘味屋さんの新聞広告では落ち目のタレント的に名義貸しする仕事までしていたそうですよ。

 その山口屋の看板メニューは「びっくり大福」で、12個の大福を完食できたらタダになるのだとか(笑)。食べるごとに大福はどんどん巨大になっていって、文字通り「びっくり」してしまうという仕掛けでした。その広告には「熊沢天皇の子孫も召し上がっておられる」……熊沢天皇、お子さんを連れて山口屋を訪れたのでしょうかね。ともかく、そういう広告が全国紙に載ったそうで。

 ただ、これを恥ずかしがった親戚筋からは「もう来ないでくれ!」と言われてしまい、孤立を深めるのでした。

 この頃、すでに地元・愛知に熊沢天皇の居場所はなく、大阪で一家は暮らしていました。しかし昭和30年頃、熊沢天皇は最後のひと旗をあげるべく、家族を大阪に残し、単身で上京しています。

――悲壮な「上京物語」ですね。

堀江 この時、熊沢天皇御年66歳。現代の年齢感覚でいえば、80代目前といったところでしょうか。

 東京での当初の住まいは池袋の日の出町にあった、支持者のマッサージ師の家でした。仕事は自称天皇、実質的には居候です。ちなみに日の出町の地名は現在すでに地図上からは消え去り、東池袋にある「日の出町商店街」くらいにしか名残は残っていません。ここは都電の停留場があったり、今でも昭和の香り漂うエリアです。

 熊沢天皇の最後の敵は、一族でした。どうして熊沢の総本家を熊沢寛道が名乗っているのか? ということが、熊沢一族の中で問題になりはじめたのです。昭和30年頃には、熊沢の総本家に属する人物たちが、本当の熊沢天皇は私だ! という活動を展開するようになりました。内部分裂です。

 昭和天皇崩御の頃、平成元年(1989年)3月10日の「週刊朝日」に「昭和の大喪 「熊沢天皇」も新世代 「皇位は望まぬが南朝は正統」 町の製本屋さん“皇太子”の意地」という記事が発表されております。少なくともこの頃までは、熱心に活動なさっていたようです。ここでは熊沢YさんとTさん親子と伏せ字で書かせていただきますが、この熊沢Yさんの編集をうたった「南朝熊沢史料」なる機関紙まで一時期は発行していたようです。ちなみに国会図書館にこの「南朝熊沢史料」は所蔵されていますね。

――本格的じゃないですか。

堀江 そうですね。ヤフオクでも10部まとめて4,000円くらいで売ってたりもしますけどね(笑)。内容は俳優みたいなイケメンフェイスの熊沢Tさんが、南朝ゆかりの人物の子孫に会いにいって親睦を深めた! とか、南朝関係の遺跡を研究した! とかいう感じ。ゲストもそうそう見つからないので、何回も同じ人のところに行ったりしているようです。

 しかしその後、熊沢天皇の件に関して、彼らは完全沈黙するようになりました。過去の活動は苦い思い出しか残さなかったようで、「熊沢天皇がらみの件についてはもう触れたくない」と取材拒否を貫いておられるため、やはり具体的なお名前をあげることはここでは避けておきます。

――結局、その方も天皇になるという活動の中で痛い目を見たということですね?

堀江 そうでしょうね。近所から「クマテン」などと茶化したあだ名で呼ばれており、要するに世間から白い目で見られることに疲れてしまったのでしょう。バブルの頃には、他にも次代の熊沢天皇を名乗る親族が詐欺を犯して逮捕もされていますしね。偽天皇にすぎない「熊沢天皇」にそこまで価値が生まれていたのは、驚きではありますが。

 さて……熊沢天皇の晩年ですが、昭和32~33年頃には、天皇を退位して法皇になると宣言。そして、とくに出家をしてもいないのに大延法皇を名乗りはじめています。自由ですねぇ。池袋から、今度は練馬区のマッサージ師夫婦の家に転がり込んでいます。

――池袋でも練馬でもマッサージ師に縁があるのは不思議です(笑)。その後の熊沢天皇じゃなかった法皇、どうなってしまったのでしょうか?

堀江 最後の住居は板橋区にあった「法華道場」だったそうです。日蓮宗関連の施設でしょうか。詳細はネットで調べた限り、不明でした。亡くなったのは昭和41年(1966年)6月11日午前3時8分、78歳の死でした。「週刊サンケイ」(産経新聞社/昭和41年7月4日号)などに死亡記事は載りましたが、大きなニュースにはなりませんでした。

――なんだか尻すぼみで、虚しい……。

堀江 最後まで自分こそが本物の天皇であることをブレずに自称し続ける人生でした。が、そのために財産も、仕事も、家族との絆まですべて失って終わってしまったという最期は、もの悲しいですね。

 天皇の位を乗っ取ろうとすることは確かに大罪ですが、その罪に見合う以上の罰を一族ともども、世間様から受けてしまったのが熊沢天皇の悲劇だったといえるかもしれません。現代なら天皇ユーチューバーとして「クマテンちゃんねる」とかやっていたら、多少は人気者になれたかもしれませんが……。

――次回からは、“知られざる”女官から妃殿下への洗礼を明かします!

「ひょっとして……本物の天皇?」熊沢天皇、トークで世間をけむに巻く! 昭和天皇を“訴える”暴走へ【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!

――前回は南朝の正統後継者を自称する熊沢天皇のもとに、味方の顔をしたアンチが送り込まれてきたところまでお話を伺いました。

堀江宏樹(以下、堀江)「弁護士・法学博士」の肩書を持つ、正真正銘のインテリ・瀧川政次郎という人物ですね。南朝の正統後継者を自認する熊沢の主張は、「“日本史の大問題”だと思う」などと持ち上げ、熊沢を安心させてしまったのでした。

 しかし、瀧川政次郎は辣腕弁護士としての顔もあり、相手から自分に好ましい証言を取り付けることなどお手のモノだったのです。瀧川の恐い素顔に気づきもしない熊沢天皇こと熊沢寛道と瀧川が、吉野(奈良県)に出かけたのが昭和24年(1949年)のこと。

 翌年のお正月、「文藝春秋」(昭和25年1月号)に瀧川の名前で発表された「熊沢天皇吉野巡幸記」は熊沢天皇を真正面から攻撃、バカにしたアンチ記事でした。瀧川は、「熊沢氏の主張に対しては、法学者として私は真向から反対である」とはっきり書いています。そもそも彼は、原稿を一流の雑誌に発表したいという野心があった「だけ」みたいなんですね。文筆家として名をあげたいインテリの“餌”に、哀れにもされてしまったのが熊沢天皇だったのでした。

――芸能人はファンより、アンチが出てきてからが正念場とも言いますが……。

堀江 彼は芸能人を目指しているわけではないんだけど(笑)、熊沢天皇の「芸風」を、史料やその行間から分析すると、世俗を超越したような空気感の持ち主だったことがわかります。そして、いくら家系図の不備を指摘されようが、自分は南朝の正統後継者であるという主張がブレない。だからこそ、周りが「ひょっとして……」と思ってしまうのですね。熊沢天皇がトーク力に恵まれていたということはすでにお話しましたが、その才能は瀧川も認めています。

 昭和24年、瀧川と旅行した吉野・川上村の村役場集会所で、熊沢天皇は講演会を行っています。お涙頂戴の語り口で、南朝の衰亡を語るくだりに会場は多いに盛り上がったようですが、「要するに素人芸で、言ふことが野暮くさい」と瀧川には言われたい放題でした。夕食は村長さんのおごりでしたが、旅館の主人から頼まれて、スケッチブックに揮毫(きごう)させられることになりました。

――揮毫というのは、文化人に好きな言葉を書いてもらうアレですか?

堀江 そう。すると熊沢天皇は調子にのってしまって、(熊沢の先祖にあたるということになっている)「後醍醐天皇遺詔」……つまり、後醍醐天皇ラストメッセージとして、次のようなポエムを書いたのでした。

『朕が六百年の後、世は火の海泥の海となりて、日本天皇危し  大延35年10月29日』

 大延という年号は、熊沢天皇の正式名である大延天皇由来の偽元号で、かってに年号を作って、それを自分で使っちゃってるわけです(笑)。第二次世界大戦で日本が負けたのは、北朝の天皇家のせいともほのめかしていますね。たぶんブレーンの吉田長蔵に、揮毫を求められたら、こういうことを書け、といわれていたのでしょう。「遺詔」なんて専門的な言葉ですしね。

 ところが、ここにも吉田以上のインテリである法学博士・瀧川からの「その御遺詔はどの書物にあるのですか?」といった鋭角のツッコミが入るのでした。これに対し、熊沢は「ある書物にあるということです。真偽は知りませんが」などと苦し紛れの回答をするしかできなかった。

 さらに「後醍醐天皇が予言できるわけがない。現代文で書かれているわけもない」などと次々とツッコミ爆撃をくらうと、「文章は私が現代語にあらためました」とか(笑)。

――やめて! とっくに熊沢天皇のライフはゼロよ! というやつですね。

堀江 後醍醐天皇のラストメッセージなどとウソを言ってまわるのは、二度としてはいけないとか、「国法的にも道徳的にも許されざる罪悪である(「熊沢天皇吉野巡幸記」)」……とまで叱られてしまったのでした。

――うーん、正論ですけど、イジメられてるみたいで、聞いていてつらいですね。

堀江 あとね、周囲は熊沢天皇がらみで本や記事を書いて原稿料が出るかもしれませんが、熊沢天皇自身にギャラは大して入らなかったようです。だから困窮して金を親戚に借りにいって、さらにそこでも罵倒されるという。

 例のインテリで「アンチ」の瀧川からは、吉野旅行最終日に「あなたは、今後どうするのか? このあたりでもう諦めたら」とアドバイスされています。そして、吉野にある北山宮という神主のいない神社で宮司として過ごす将来を勧められています。リングにタオルが投げ込まれた状態ですね(笑)。熊沢も目に涙しながら、その申し出を「吉田長蔵にも相談してみる」と言っていたのですが……。

 しかし、熊沢天皇のブレーンの吉田長蔵は、その申し出を断りました。それどころか昭和26年(1951年)1月には、昭和天皇を天皇不適格者として訴えています! 具体的には昭和天皇が新憲法の定める「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」として不適格とする訴えを裁判所に提出しているのです。もちろん、却下されてしまいましたが。

 吉田は熊沢でまだまだ稼げると思っていたのかもしれませんが、訴訟の失敗や、熊沢天皇という存在について世間が急速に関心を失っていることを察すると、いよいよ熊沢を見捨てることになりました。

 次回、熊沢天皇シリーズ、驚愕の最終回です。

GHQも呆れるニセ天皇の嘘八百! それでも野望を捨てぬ熊沢天皇に最強のブレーン現る!?【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!

――前回までは、内大臣府には相手にされなかったニセ天皇こと「熊沢天皇」が、アメリカの雑誌で大々的に取り上げられ風向きが変わってきた、というお話をしていただきました。しかし、GHQが熊沢天皇の「我こそ真の天皇」という主張を本気にしたというのは驚いてしまいますよね……。

堀江宏樹(以下、堀江) まぁ、信じたかどうかはわかりません。GHQは天皇制の廃止をも画策していましたから、熊沢天皇をなんらかのカタチで使えると踏んだだけかもしれません。

 しかし、熊沢の嘆願を無視していたGHQが、がぜん興味を示しだしたのは事実です。ただ、GHQは合理主義でした。GHQの使者は「あなたが南朝の正統後継者であることを示す文物はないのか?」という、熊沢にとってはイタいところを突いたといいます。しかし、熊沢はまったく焦りませんでした。使者に対面する際、熊沢に同席していた親戚(=熊沢の妹の夫が嫁ぎ先)の浅井作左衛門の証言があります。

 浅井の証言によると、福島の“ある寺”に“南朝の御神宝”を全部保管してあったが、彼の祖父の代に寺の坊さんに裏切られ、外部の者がお宝を(“キリストの遺書”などを保管していた、と主張したことでオカルト関係で有名な)水戸の竹内家に持っていってしまった……などといったことを熊沢がスラスラ答えていたそうなんですよ。

――なめらかなトークはともかく、ものすごく苦しい言い訳ですよね(笑)。

堀江 今、寺の名前はど忘れしたけど、調べればわかる! とも言っていたそうです(笑)。

 熊沢寛道は寺に入っていた時期があったのだとか。つまり僧侶として活動していた過去もあったようで。この時に鍛えられたのが、誰に対しても臆することなく、堂々としゃべれるトーク力だったようですね。しかし「熊沢信者」相手ならともかく、これではあまりに内容が薄い。聞く人が聞けば、ウソを言っているのはバレバレでした。GHQは早々と熊沢天皇に興味を失います。

 さて、1946年(昭和21年)から1954年(昭和29年)にかけて、昭和天皇は全国津々浦々を巡幸、敗戦にうちひしがれた人々を励まして回るという前代未聞の大旅行を決行しています。この時の民衆の姿を見て、いかに天皇が日本の人々から必要とされているかを痛感したGHQは、天皇制廃止も、天皇家の交代もあってはならないことだとして、熊沢家の主張を退けるに至ったのでした。

 敗戦によって天皇の権威は地に落ちたように思われました。しかしまるで不死鳥のように、自らの行動によって天皇のカリスマは復活していったのです。

――戦後、天皇の存在は「国民統合のシンボル」となりましたが、その適格者であることを昭和天皇は身を以て証明なさったのですね。

堀江 そうです。しかし熊沢天皇が昭和天皇の全国巡幸を追いかけ、対面を迫るようなことがありました。まぁ、全部断られるのですけれど。

 こうした天皇家に近づこうという活動にも資金が要ります。熊沢寛道は自分の持っていた土地を地価の3分の1程度で売り飛ばして、活動資金を得たなどと言っていましたが、実際は熊沢一族に泣きついて、金を借りていたようです。

――「天皇宣言」をしたばっかりに、どんどん大変なことになっていっているのがわかります……。

堀江 昭和24~25年ごろ、困窮した熊沢寛道が、親戚の熊沢栄一郎に金の無心に現れた時、「君は悪いやつらに利用されている。熊沢天皇などと自称して回られても困るんだ。たいがいにせい!」などと怒られ、なんの反論もできない姿を親戚の家の子に目撃されています(『天皇の暗号』)。

 それでも仲間は現れました。正統の天皇を自称する熊沢の主張に、もともと先祖が南朝に仕える武士だったという吉田長蔵(よしだ・ちょうぞう)という、歴史好きのインテリが感化されてしまい、熊沢天皇のブレーンとして活動を共にするようになっていたのです。天皇を訴えるという大それた行いは、吉田の入れ知恵でした。

――吉田は熊沢を利用したのか、それとも逆に熊沢に利用されていたのか……。

堀江 吉田長蔵は、学問的に熊沢の主張のあやふやな部分を補強して回ったりしていました。後には熊沢の名前で論文を書いて発表したり、自分の名義では『熊沢天皇の真相』などの著書も書いています。まあ、吉田長蔵の文筆家としての活動は、「熊沢天皇のブレーン」という肩書あってのことでしたから、持ちつ持たれつの共犯関係だったのかもしれません。

 しかし、メディアに露出していったことがきっかけで、仲間を装った思わぬ「刺客」が現れることもありました。

――それって、もしかして有名人にすりよって、自分が有名になろうとする悪い人のことじゃ?

堀江 当たりです。熊沢は友だち(フレンド)のフリをした敵(エネミー)こと、フレネミー作戦に引っかかってしまったのですね。

 昭和23年(1948年)11月、熊沢のもとを「弁護士・法学博士」の肩書を持つ瀧川政次郎なる人物が尋ねてきました。この時、瀧川は熊沢の主張は「日本史の大問題」などと言い、「いずれ(南朝の宮廷があった)吉野へもご一緒しましょう」と言って去ったそうです。それから約1年後、実際に熊沢寛道と瀧川政次郎は吉野(奈良県)へ旅行することになります。そして、瀧川によるルポ記事『熊沢天皇吉野巡幸記』が「文藝春秋」(昭和25年1月号)に掲載されたのでした。これは熊沢天皇にとっては、非常にイタい、問題の記事となります。

――どんな記事だったのでしょうか。次回につづきます。

ニセ天皇、米国を騒がす! 「LIFE」「ニューズウィーク」登場で、皇室は大ピンチ!【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!

――前回に引き続き今回も、稀代の“ニセ”天皇、熊沢寛道についてお話をうかがいます。ニセ北朝の子孫である明治天皇が、天皇家の正統は北朝ではなく南朝だと宣言してしまった明治末期。南朝の正統後継者を(家系図はちょっと怪しいけれど)自称する熊沢一族は、このチャンスをモノにすることができたのでしょうか? 

堀江宏樹(以下、堀江) それについては、のちの熊沢天皇こと熊沢寛道が自身の「回顧録」で、面白いことを書いています。

 前回も触れましたが、明治末期、要約すれば「南朝の子孫であるわれわれを特別扱いしてください」という請願を政府に行った熊沢大然(くまざわ・ひろしか)には、「貴家(=熊沢家)を南朝の正統と、帝国古跡調査会と明治天皇ご本人が認めた」などと内大臣・徳大寺実則(とくだいじ・さねつね)からの伝言が、届けられたというのです。それも、内大臣府に勤める書記官・宮本基氏なる人物から届けられたとまで具体的に書かれています。……ただ、これ、熊沢寛道ひとりしか言っていないことなのですね(笑)。つまりアリバイというか確証が取れないのです。

――つまり、ウソということですか……?

堀江 はい。ウソだと思います。ちなみに内大臣が熊沢家の正統性を当時の宮中関係者が確信した理由の中には、熊沢家に代々伝わる、”南朝の御神宝”の存在があったというのです

――なんですかそれ?

堀江 「回顧録」では”御神宝”と呼ばれているのですが、熊沢寛道の主張によれば、ある寺に預け、そこで大事に守り伝えていたものなのだそうです。しかし寛道の祖父の代に、ある人物の謀略によって盗まれ、水戸の竹内家に保管されることになってしまった、というのです。

 この水戸の竹内家、オカルト好きな方々には有名なファミリーですね。「キリストの遺書」とか色々お持ちだったとされています。キリストの遺書は、第二次世界大戦の空襲で燃えてしまって、今は写ししかなくなっていたのですけども。

――ものすごく怪しい話になってきましたね(笑)。

堀江 ウソがウソを呼ぶ例ですね。しかし熊沢寛道によれば、熊沢家の待遇問題……つまり、皇族になるとか、場合によっては天皇位を譲られるとか、そういう話が宮中で検討され始めたそうですよ。しかしその矢先、明治天皇が崩御なさったので、話がウヤムヤになってしまったというのです。あくまで熊沢寛道の主張ですけどね。まぁ、実際のところは徳大寺侍従長がすべてを見抜き、彼のところで熊沢家からの請願書はストップしたのではないかと僕は考えます。

 ちなみに、熊沢大然はそれでも凝りず、大正元年(1912年)にも請願書をもう一度出しています。その時も、はかばかしい成果はありませんでしたが、大正4年(1915年)、熊沢大然は突然倒れ、帰らぬ人となってしまったのでした。大然の意志を引き継いだのが「熊沢天皇」こと熊沢寛道だったのです。

――ついに熊沢寛道が、熊沢家の代表として国と渡り合うときが来たのですね……。

堀江 いやいや、そうなるにはまだ時間があります(笑)。熊沢一族を取り巻く環境は急速に悪化していました。まず華族までを巻き込んだ請願書提出運動などによって、資金繰りが悪化したのでしょう。さらには、当局から危険人物として監視されはじめてしまったということもありました。

 ちなみに熊沢寛道が、熊沢大然の養子になったのは明治41年(1908年)のこと。同時期に、しかも何度も請願書を送りつけてきたのは熊沢一族の中で、熊沢大然だけではありませんでした。

 たとえば熊沢大然の実弟・与十三郎(彼は熊沢一族内で分家、その当主となっていた)も、大正14年(1925年)に内大臣府宛てに「天皇家と同じ菊の御紋を使いたいのだが、許可してくれませんか」というような手紙を送りつけ、それに内大臣府が「当府(=内大臣府)に於て回答すべき限に非ざる」という文面の手紙で回答したことがありました。

 冷静に読んで、「ウチが答えるべき問題ではない(=出直せ)」ということで、否定しか感じられない文面ですが、「NOとは言われていないので、可能性はあるんだ!!」と熊沢家の面々は喜び、これは内々の許可では? お墨付きを得たのでは? と受け取ってさえいたようです。

――女子から曖昧な断られ方をしても、気づけない男子みたいな……。しかし、こういうストーキングみたいな迫り方をされても、お役人は困りますよね。

堀江 まぁ、いろいろあって、熊沢寛道自身は第二次世界大戦後まで、具体的な行動を起こすことはありませんでした。要するに時代が悪いし、資金もなかったのでしょう。そして、敗戦を迎えます。

――戦後、日本の政治形態はガラッと変わってしまいましたね。

堀江 ここでついに、熊沢寛道が歴史の表舞台に現れる時がやってきました。熊沢寛道はなんと駐日アメリカ軍のトップである、ダグラス・マッカーサーに手紙を書いて、日本を敗北させた北朝である現皇室に代わり、熊沢家による南朝の再興を請願しているのです! そして自分はその南朝の天皇にふさわしい、と。彼は「天皇の戦争責任」を追及することにしたようですね。残念ながら、あるいは当然ながら、マッカーサーおよびGHQは熊沢寛道の熱意を無視し続けました。

 ところがGHQの誰かが、来日中のアメリカの有名写真雑誌「LIFE」の記者の誰かにポロッと「天皇を自称するヤツがいるんだよ~」的な情報を漏らしてしまったようです。来日中のアメリカ人記者たちは熊沢寛道の雑貨屋を訪問、写真撮影とインタビューを試みたのでした。彼にとっては「報われた」と感じた瞬間だったことでしょう。

 「LIFE」には2ページの写真入りのインタビュー記事が載りました。ほかにも「ニューズウィーク」(1946年11月4日号)には「皇位要求者」との見出しで、熊沢天皇の記事が載りました。いずれも英文です。

 面白いことにその直後、熊沢の主張を無視し続けてきたGHQの態度が激変したのでした。熊沢のもとには、「本当にあなたは南朝の正統後継者なのか?」というGHQの使者が来訪しています。GHQは天皇の地位と伝統を戦後日本でどう扱ったらいいのかを、悩んでいました。下手すれば天皇制はなくなっていたかもしれない、皇室にとっては危機の時期ですね。GHQの中では、天皇家の交代という可能性もあった……ということですね。

 熊沢天皇のチャンスは、皇室のピンチです。皇室はどうやってこの未曾有の危機を乗り越えたのでしょうか。次回につづきます。

「民間から皇族へ!」“ニセ天皇”一族、セレブリティを巻き込んだデタラメ“家系図”【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「天皇」のエピソードを教えてもらいます!

――前回から「偽天皇」について、お話をうかがっています。ここからは、たくさんいた「偽天皇」の中でも特に人気の高かった“熊沢天皇”こと熊沢寛道について、深掘りしていきたいと思います。まず、寛道の養父にあたる熊沢大然はどうして「民間から皇族へ」という見果てぬ夢を見るようになってしまったのでしょうか?

堀江宏樹(以下、堀江) 明治の末頃、熊沢大然は、熊沢一族に受け継がれてきた「伝承」に魅了されてしまったのです。それは「熊沢家は南朝の正統後継者であった、とある宮様の直系子孫であり、世が世であれば、天皇家になれていた」……という言い伝えです。

 ちなみに現在の天皇家は「北朝」の直系子孫にあたります。また、大日本帝国では、朝鮮や琉球の王族が日本の皇族と同等に扱われる例がありました。熊沢家に伝わる家系図のとおり、彼らが「南朝」の直系子孫であるとするなら、自分たちも皇族もしくは「準皇族」的な存在にしてもらえるのではないか……という野望をもってしまったとしても、致し方ないかもしれませんね。

 明治3年12月7日には、熊沢一族の中でも総本家などの8名が、請願書を明治政府に提出します。国のカネで熊沢家が南朝の正統後継者であると調査し、家に伝わる言い伝えが真実であると公認してほしいということでした。

――えぇーっ。そんな運動を明治時代にやっていたのですか!

堀江 戦前の日本には皇室に対して、失礼な行為をすることが犯罪となる、いわゆる「不敬罪」というものがありましたからね。北朝の子孫である皇室に、南朝の正統後継者を自称する熊沢家が、自分たちの正当性を認めてくれと迫る行為は、常識的に考えて、かなりリスキーでした。南朝のほうが、北朝よりも「正統」という考えもあったからです。

 ただ、当時の宮内大臣・田中光顕(たなか・みつあき)は「史料不備」を理由に、熊沢家の要請を却下したのでした。国が調査に乗り出すための正統性が、史料からはうかがえない。つまり、史料が揃っていないという意味で「不備」……これが何を指すかわかりますか?

――え……いったいなんでしょう?

堀江 その話の前に、当時の熊沢家から国に寄せられた「主張」を整理しておきましょう。この時点では「私(たちの誰か)を天皇にしてくれ」とかではないのです。「ウチの家の先祖が眠る古い墓を宮内庁の管轄にしてくれ」とか、「その程度」ではありました。

 しかし、こうした熊沢一族による請願の影には、それによって皇族に準ずる扱いくらいは受けたいという野望は絶対にあったと思いますよ(笑)。わざわざ資金と手間暇を投入して、宮内大臣・田中光顕に直訴するくらいですもん。

 ただね、田中大臣のいう「史料不備」の意味が問題なんですね。これをハッキリいっちゃうと、「あなた方の系図は偽物ですよ」ということです。

――ええっ! 偽物なんですか?

堀江 熊沢家に伝わる家系図はなんと約60種類もあるそうです。これにはウラがあります。江戸時代くらいには、土地の名士の一族が自分たちの系図を「盛る」ことがはやったのです。偽の系図作成のアルバイトをしている貧しい学者や僧侶に、資産家だった熊沢家の先祖が依頼。系図屋は南北朝のあるプリンスに血統がさかのぼれるという偽系図を作ったのではないかなぁ、というのが僕の推理です。

 しかしそれが60種となると、熊沢家は血統というものに非常に関心が高い一族だったといわざるを得ません。そして、ここからが一番のポイントです。系図に細かな違いがあるにせよ、熊沢家の初代は後亀山天皇の皇子で、「小倉宮」という方だとされています。もちろん実在しています。

 ただ……小倉宮は「恒敦(つねあつ)」のお名前で知られる方で、熊沢家の家系図に書かれてある「実仁親王」というお名前では一般的とはいえません。いくら熊沢天皇やその支持者が、実仁親王は「恒敦」の異名だと主張しても、その史料的な確証はないのです。

――それだとちょっと苦しいですね。

堀江 しかも、「実仁親王」といえば、一般的には北朝の後小松天皇(第100代)の皇子で、同じく北朝の称光天皇(第101代)として即位した方のお名前として知られているのでした。小倉宮はたしかに南朝関係者ですが、実仁親王といえば北朝関係者になる。

――家系図の記述が矛盾しているのですね。

堀江 そう。前提部分で、派手に転んでしまっている。さらにダメ押しのように、当時すでに熊沢一族の手元には、先祖がかつて皇族の身分であったことを保証するような物品の類は何一つ残されていなかったのです。熊沢家の中にも「史料不備」の本当の意味を察する人々はおり、いったん、「民間から皇族へ」という一族の悲願は、下火となります。

 しかし、熊沢一族の中でも「民間から皇族へ」の夢を見ることがやめられない人がいました。それが例の「偽天皇」熊沢寛道の養父にあたる熊沢大然(くまざわ・ひろしか)という人物でした。

――家系図の誤りを指摘されてもなお?

堀江 彼らにとっては宗教みたいなものなので、真偽はもはや関係なかったのかも。明治末年頃から、熊沢大然たちは歴史学会に照準を定め、熊沢家がらみの史跡を皇室の史跡として認定してもらうように運動を繰り広げるようになります。

 ただし相手が政治家ではなく専門の学者ですと、家系図の不備は致命的で、門前払いをくらうのがオチでした。ところが明治39年(1906年)、歴史学会からお墨付きを得ることは諦め、熊沢家のお手製ですが「調査書」を添付した「皇統認定の請願書」を、複数の華族たちの推薦と共に、帝国古蹟調査会なる団体に提出するというように熊沢大然たちたちは運動の方向性を変えることにしました。「推薦者」の中には、千家尊光(せんげ・たかみつ)男爵もいました。

 千家といえば、出雲大社の権宮司(ごんのぐうじ)を代々務めるお家柄で、平成26年(2014年)には高円宮家の次女・典子さんが嫁がれたことで一躍有名になりましたね。

――セレブリティたちをも取り込んじゃったんですね。

堀江 そして、請願書は明治天皇の側近中の側近である徳大寺実則(とくだいじ・さねつね)が受け取るところまで行ったことが確認されています。徳大寺は名門の公家出身で、明治天皇のもとで内大臣、そして侍従長を兼任しています。そして天皇だけでなく、宮中全体から厚い信頼を得ていました。

――そんな身分の高い人にまで届いてしまったのですね……。

堀江 かなりの異例と言えると思います。明治時代当時の宮中は、身分制度が非常に厳しいのです。たとえば、「天皇がお目覚めになった」という毎朝の連絡事項ですら、天皇のそばで寝ずの番をしていた権典侍(ごんのてんじ)など上位の女官が自分より少し下位の女官に、その女官はさらに自分より少し下位の女官に……といった形で伝言しあって、初めて宮中全体に情報がいきわたるという具合でした。

――身分が低い者が、身分の高い者と直接やりとりすることは許されない?

堀江 なにかにつけてそうなんです。というか、身分の高い者も、低い者との直接接触が禁じられているのです。

 だから請願書を上位の人に気軽に渡せるような雰囲気は、宮中には絶対にありません。熊沢家には宮中にはなんのコネもない状態。つまり無位無官の者が天皇の侍従長に請願書を渡すとなると……それはそれは莫大なお礼金の類が、何人もの仲介者に発生していたと思われます。

 それでもこの頃、明治時代の歴史学会で、北朝と南朝、どっちが正統の皇室か? という問題が盛んに議論されていたといいます。判断は明治天皇に委ねられ、天皇は「(ご自分の先祖にあたる)北朝ではなく南朝が正統である」と宣言しているんですね。これは歴史的な事実です。

――ええっ、じゃ、熊沢家は……。

堀江 そう、これをチャンスだと感じたようです。大金を費やしてでも、このビッグウェーブを逃すな! と思ったに違いない。だからこそ、なんとか明治天皇の最側近である徳大寺侍従長にまで請願書を届けるよう画策し、そして成功させるに至った。

 いいところですが、次回に続きます。