皇后の縁戚が「不敬罪」で逮捕!? 天皇家を揺るがした“新興宗教”スキャンダル【日本のアウト皇室史】

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

 前回まで――戦前、大名華族・島津家の令嬢として生まれ、親族の男性と幸せな家庭生活を送っていた島津ハルさん。30代の頃から、教育者、学校経営者としても活躍していた島津さんは、宮内省からのスカウトを受けて転職、女官となりました。宮中でも調子よく出世しつづけ、良子皇后の女官長に、史上最年少の48歳で就任できた約40日後、異変が起きました。夫の急死によって愛も、仕事も、“全て”を島津さんは失ってしまったのです――。

堀江宏樹 そんな彼女の心のスキマを埋めたのは、自称・霊媒師の女、角田つねでした。「島津さんには特別な霊力がある」とおだてられ、自分を「神の生まれ変わり」だと思いこんでしまった島津ハルは、あやしげな新興宗教の幹部になったのでした……。

――スピリチュアル沼に沈み込んでしまっていますが、島津さん、本当に大丈夫なのでしょうか?

堀江 まったく大丈夫じゃないです。前世商法ってスピリチュアル系の常套手段なんでしょうけど、島津ハルは、天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ)という、『古事記』では最初に登場する、まさに天地の歴史がこれから始まるよ! という時に出てくる神様の生まれ変わりに仕立て上げられてしまいました。

――ひえー!

堀江 島津は元・女官長ですから、神道系宗教団体の“人寄せパンダ”としては最適な存在でした。それだけでなく、島津は自分を神の生まれ変わりとして、危ない御神託を連発するようになるのですね。多くの信者たちの前で、まだ生きている人の生き霊、故人の霊などを問わず降霊させ、その人からのメッセージを伝えていたようです。

 これが島津ハルを幹部とした神道系の新興宗教「きよめ会」もしくは「きよめの会」の主な活動だったとか。今でも誰それの守護霊が語る……とかいう某団体の教祖による本が出ているじゃないですか。ノリはあれと似ているかもしれません。しかし、島津の団体の主要テーマは「天皇家はどう変わるべきか」だったわけです。

――それは、ちょっと危ない気がしますね。

堀江 運悪く、というか、ちょうど昭和10(1935)年ごろのことです。昭和11年、“昭和維新”を唱える青年将校による軍事クーデター「2.26事件」が起きる直前のこの時期、あちらこちらで新興宗教の弾圧も始まっていました。

 スピ業界だけでなく、軍隊の内部でも、当時の天皇家、そして昭和天皇のあり方に対する不満がマグマのように高まり、噴き出しつつあった……といえると思います。これはまた、次回以降に詳しくお話ししますね。

 島津ハルと、彼女を「神」に仕立て上げた霊媒師・角田つねが相継いで不敬罪で逮捕されたのが昭和11年8月のことでした。

 島津は良子皇后の縁戚にあたる女性ですから、警視庁としても苦渋の判断だったのですが、

「昭和天皇は本当の天皇ではない」
「昭和天皇の弟である高松宮が後を継ぐべきだ」
「昭和天皇は十五年後に崩御なさる」

 などの「神告」を口にして憚らず、そのウワサは島津が女官を辞めてしばらく経つ宮中でも響き渡っていたそうです。昭和天皇の側近だった木戸幸一の日記には、何度も島津ハルの名前と「神告」が登場し、頭を痛めている様子がうかがえます。

――まさか天皇家の身内のような女性を、「不敬罪」で逮捕せねばならなくなるとは思ってもみなかったでしょうね……。

堀江 島津ハルは神がかりになって、信者たちの前で「大正天皇の侍従の霊が現われた」と宣言、「彼は、自分が貞明皇太后(大正天皇の皇后、裕仁天皇の母)の愛人だったと、言っています」とか、高松宮様の「生き霊」が現れ、「私の母は、貞明皇太后ではなく、大正天皇のお手つき女官だ」とか。

――どえらいことを口走っていますが、何が目的なのでしょうか?

堀江 貞明皇太后に対する批判でしょうね。謎の脳病で若くして崩御なさった大正天皇の皇后だったのが、貞明皇太后です。早すぎた天皇の死は「神罰」であり、その責任が貞明皇太后にあると考えてしまったのでしょう。

 この手のアウトな発言を、垂れ流しつづけた結果が不敬罪による逮捕でした。ちなみに島津ハルの支持者は上流階級に多く、そのお告げは、民間にはほとんど知られていませんでした。しかし、その反面、宮中には影響が広がっていました。もともと、宮中はこの手のスピリチュアルな何かに感化されやすい素地があったのでしょうし、島津は元・女官長ですからね。

――以前、このコラム連載の中で山川三千子さんの『女官』を取り上げましたが、あの中でも貞明皇后は批判されていましたよね。山川さんも高位の女官でした。

堀江 この問題は根深いのです。また機会を改めて触れる必要がありそうですね。

 逮捕された島津ハルは涙を流しながら、「日本を救う道は昭和天皇の弟宮の高松宮様が天皇になるしかない」などと拘置所の中でもしゃべり続けていたそうです。しかし、さすがは元・教育者のインテリ女性というべきか、霊媒師・角田つねによる「お前は神の生まれ変わりだ」という洗脳が解けたのは意外に早い時期でした。

――教育者として実績を出せるくらいですから、本当はマジメで責任感が強い女性なんでしょうね。

堀江 女官長のキャリアと、愛する夫を同時に失った時、島津の心には大きな穴が空いたといえます。その穴を埋めるにはよほどの大きな“使命”が必要だった。だからこそ、「日本の危機を救えるのは、神の生まれ変わりのあなただけ」みたいに霊能者を自称する女から煽られると本気にしたのでしょうね。思えば気の毒な女性です。

 拘置所の中で、スピリチュアル関係以外の人と、取り調べという形にせよ、対話する中で島津は自分を神だとは思えなくなり、正気を取り戻しました。その結果、彼女は不起訴処分に。

 しかし、その後は精神病院に強制入院させられ、そこで半年を過ごしました。

――島津さんが理性を取り戻したのに精神病院行きとは皮肉です……。あえて伺いますが、島津さんの予言が当たったことは?

堀江 それがね……ちょっと怖いなって思えるものはあるのですよ。

 「神政は昭和14(1939)年にはじまり、昭和20(1945)年に成就する」という島津の「神告」がそれなんですけど、どう思いますか? 具体的に“神政”が何かはわかりませんが、この期間は第二次世界大戦の時期に相当します。日本の参戦は、昭和16年(1941年)の「真珠湾攻撃」以降なのですが……。

――敗戦によって、日本全体が、そして皇室のあり方も大きく変わりましたよね。

堀江 そうなんです。島津ハルはその後、表立った活動が出来なくなり、昭和45(1970)年に92歳で亡くなりました。

 彼女が創立メンバーの一人だった鶴嶺女学校の伝統は、現在、鹿児島玉龍中学校/高等学校に受け継がれているようです。しかし、ネットで見る限り、島津ハルの名前は完全に校史からは消されてしまっていますね……。

 昭和時代の宮中には島津ハルのような神がかりの女官が、まだほかにもいました。次回以降、「魔女」と呼ばれた女官のエピソードをお話しいたします。

皇室を揺るがす衝撃「逮捕劇」! 皇后の女官長、“神のお告げ”に洗脳され……知られざるアウト皇室史

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回まではこちら。

宮中のエリート女官、島津ハル

――今回からは「女官」をテーマに皇室史を掘っていくんですよね。スキャンダラスな話に期待しつつ、でも失礼に触れないようだとうれしいんですが……(笑)。

堀江宏樹(以下、堀江) 実際に、戦前・戦後直後の日本には「不敬罪」という罪がありました。天皇やその一族である皇族に失礼があると逮捕され、罰せられてしまったのです。神社や御陵を荒らすことも不敬罪となりました。

――最近、タイでも王政反対のデモに不敬罪が適用され、軍隊が出動していますよね。いろいろと大変そうです。戦前の日本では、天皇制に反対する活動家が主な対象だったのでしょうか。

堀江 そうなのですが、今回はあろうことか宮中の女官に、不敬罪の逮捕者が出てしまったという衝撃の「島津ハル事件」についてお話ししようと思います。

 昭和11(1936)年、正確には元・女官長の女性が不敬罪で捕まるという皇室を揺るがす大事件が起きてしまっているのですね。

――女官長! 活動家のイケメンのハニートラップに、たぶらかされてしまったのでしょうか?

堀江 いや、そういう話だと、夢がある気もするんですが、新興宗教絡みなんですよ。

 さっきハニートラップの語が出たけれど、戦前・戦後すぐの女官社会は外部から切り離され、閉鎖的な空気が漂っていたと思います。女官としての幸せと、女性としての幸せは両立しないイメージもありますよね。

 しかし、今回お話しする島津ハル(島津治子)は、すべてを手に入れた女といってもよいほど、盛運な人生を送ってきました。

――どんな方だったのか、ぜひお聞かせください!

堀江 島津ハルは、幕末の薩摩藩主・島津斉彬の孫にあたる貴婦人です。島津家は明治以降も鹿児島県のリーダー的存在で、島津ハルも教育者として有名でした。

 30代の若さで、私立鶴嶺女学校を創設、後には三代目校長にもなりました。業績が低迷していた女子校を志望者多数の人気校に仕立て上げ、付属の幼稚園まで作ったところで、業績を買われ、宮内省(※当時)に入ることになったのです。

 大正12(1923)年のことでした。不人気の女子校の業績をV字回復させるって、アニメ『ラブライブ!』を思い出してしまいますが、実際には難しいはず。それを成功させてしまうなんて、すごい女性だったのです。

――そんな島津ハルさんの人生が変わるのが、宮内省からのスカウトであった、と。

堀江 翌・大正13年には、島津家の親戚にあたる久邇宮家の良子(ながこ)女王と、裕仁皇太子(のちの昭和天皇)がご成婚あそばされます。すると、島津ハルも東宮宮女官長という重職にスピード出世しています。

――コネと実力、女官として必須のもの全てを島津ハルさんは持っていたのですね。

堀江 はい。当時の島津は青山南町に夫・島津長丸(ながまる)男爵、そして夫との間にさずかった二男四女と暮らし、妻として、母として、そして当時の日本で最高のステイタスを誇るキャリアウーマン・女官としても輝いていたのでした。

 大正15年、大正天皇が崩御なさると、裕仁皇太子が天皇にご即位あそばされます。島津ハルの仕える良子女王も皇后となりました。島津の位もあがり、彼女は皇后付きの女官長に就任するのです(正式には「女官長心得)。当時、島津は48歳。女官長としては異例の“若さ”でした。

 この時が、島津ハルの人生の幸福の絶頂期であったことは間違いありません。しかし、そのわずか約40日後に運命の暗転が訪れます。

 ちょうど昭和天皇の即位式である「即位の御大礼」を間近にした時期でした。そんな大事な時に夫・島津長丸が病を得て、急死してしまったのです。“死の穢れ”を忌み嫌うのが皇室です。その行事をとりしきるべき女官長として、島津ハルがこのまま勤められるわけもなく、泣く泣く依願退職せざるをえなくなったのです。

――行事だけお休みして……とはいかないんですね。これまで本当に何もかも順調だったからこそ、退職はいっそう残念だったでしょうね。

堀江 そうなんですよね。島津は教育職に復帰していったのですが、その仕事だけでは立ち直れなかったようです。愛する夫とキャリアを一気に失ってしまったこの時期以降、島津は色々な宗教と接触しはじめます。その中には、怪しげな新興宗教も含まれるようになりました。

 それからしばらくした昭和7(1932)年頃のことです。

 霊媒師・角田つねという、元・助産婦の女性を紹介された島津は、彼女に洗脳されてしまったのでした。「私が三重県にある弁天滝に修行で打たれていると、東京に島津という偉大な女性がいるという神からのお告げがあった」と角田つねに言われた島津は、それをなんと信じてしまいます。

――それまでの人生で栄光の道を歩んでいたから、特別な存在と持ち上げられるとグッと来てしまうのでしょうね。

堀江 しかも「あなたには霊力がある!」といわれ、それも信じてしまうんですね(笑)。角田に島津を紹介した高橋むつ子という女性と3人で、島津は、とある新興宗教の幹部になってしまうのでした。

――女官長から、新興宗教幹部への華麗な転身となるのでしょうか……。次回に続きます!

皇族身分を失い、没落した“宮家”の地獄――悲しき妃殿下の「アアこれで万事休す」告白

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

前回まで――「美しすぎる宮妃」として戦前に人気を博した梨本宮伊都子さん。妃殿下の職務として「看護婦業務」に並々ならぬ情熱であたり、子育てのほうもプリンセスが2人お誕生になられました。そのプリンセス、方子女王は朝鮮王朝へと嫁ぎ、規子女王は結納を交わしたお相手から婚約破棄されるという憂き目に遭ったものの、名家へ嫁がれました。しかし、その後、第二次世界大戦の訪れにより、梨本宮家は崩壊を免れず……。

梨本宮家の没落

堀江宏樹氏(以下、堀江) 第二次世界大戦中(1939-45)の梨本宮伊都子さまは、還暦前後のご年齢ながら、婦人雑誌のグラビアに生活のご様子が取り上げられたり、愛国婦人たちから人気者でした。とくに戦争初期は、東京での生活にさほど大きな影響はなく、充実した日々を過ごしておられたご様子です。梨本宮様も軍人としての活動に邁進されておられました。

 しかし……次第に戦局は日本に不利なように傾きはじめ、やがて敗戦の時を迎えることになってしまいました。ここから梨本宮家の地獄がはじまるのです。

――地獄、ですか……。

堀江 東京は空襲が相次ぎ、梨本宮邸はもちろん、各宮家の屋敷(東京の李王家の屋敷を含む)はすべて全焼という惨事に見舞われるのです。戦前にはあれだけ潤っていた梨本宮家ですが、終戦の頃には食べる物にさえ事欠くようになっています。

 梨本宮家は富士山ちかくの河口湖畔に別邸があったので、そこに疎開するのですが、なんとその周辺にも空襲警報が多発、強気な伊都子さまもついに「老人になってからこんな目にあふとは」と、嘆き節を日記に書きつけることになりました。

――庶民の625倍の生活費を持っていても、戦争で苦しむことになるんですね……。

堀江 1945年(昭和20年)8月15日、日本は運命の敗戦を迎えますが、昭和天皇による「玉音放送」を聞いた感想を伊都子さまは衝撃的な言葉で日記に記しました。

「アアこれで万事休す。(敗戦に打ちひしがれているだけでは)昔の小さな日本になってしまふ。これから化学を発達させ、より以上の立派な日本になさねばならぬ」というあたりは前向きでよろしいのですが、生命をかけて戦ってきたのに敗北した兵士の方々、その家族の無念を思うと、「どうしてもこのうらみは はらさねばならぬ アアアアーーーー(読みやすいように調節したが、だいたい原文ママ)」。

――なかなかに過激なお言葉ですが、リアルですね。

堀江 こういう率直なところが伊都子さまの魅力であると同時に、彼女の日記全文が活字として刊行されていない理由ではないかな、と思ったりもしますが。

 おまけに梨本宮さまは戦後すぐに、GHQから巣鴨勾留所まで出頭命令が出されていますし、ようやく戻ってこられたと思ったら、今度は皇族の身分を失う「臣籍降下」が待っていました。極めつけは巨額の財産税を課されたことですね。だいたい全財産の4分の3くらいの額を現金で納入せねばならなくなるのですが、このために焼け残った河口湖の別邸などの不動産や、蔵を埋め尽くしていた財宝や文物のほとんどすべてを売り払うハメになりました。

 戦前、庶民の625倍の豊かさで生きてこられた梨本宮家です。老齢になってから、いわゆる戦後成金に財産を買い叩かれるのは、これまでの人生を否定されるに等しく、屈辱以外の何者でもなく、ついつい日記にも過激な表現が並ぶようになります。

「ここにも敗戦のみぢめさをひしひしとこたへる(1946年/昭和21年7月29日)」
「(買い叩きに来た戦後成金の夫婦の姿を確かめようと)私はそっと窓のところからみていたら、主人は大きい人、妻はやせた小さい人にて(肺病でも出そうな形)(略)あんな人が富士の別荘に入るのかとおもふと(略)いまにバチがあたる(同年7月31日)」。

――悔しいのはわかりますが、「バチがあたる」かぁ(苦笑)。

堀江 「貧すれば鈍す」などとも言いますが、あれほど仲がよかった夫の(元)宮さまとの夫婦関係も悪化したまま、老老介護の様相まで呈して来ます。

「御湯なども、そばについていないと、あぶなくてならない。何かにつけて、それはそれはやかましい(1947年/昭和22年1月12日)」とか。痛ましいことですが。

――伊都子さまが老老介護かあ。使用人の数も足りなくなっているのでしょうね。美輪明宏さんが、人生は「正負の法則」に貫かれている、すごく幸せなことがあると、それと同じだけ不幸なことがあることも覚悟しなさい、って言ってたのを思い出しました。

堀江 そう。「早く死に度(た)い(1947年/昭和22年1月16日)」との言葉も飛び出していますね。この年の3月、財産税を梨本宮家では納め終えたのですが、同年10月には「臣籍降下」、つまり皇族としての身分を失う大事件が起き、さらにその翌日、蔵に残ったわずかな品物までが盗まれるという事件も起きました。

 それも、伊都子さまの夫である(元)宮さまの「背広」などだけでなく、毛糸で編まれた冬用の下着、靴下、シャツ、パジャマなどがまるごと盗まれるという悪質なものでした。憐れに思った昭和天皇が、自分の下着を届けてくれるなどして急場をしのぎましたが……。

――昭和天皇から下着の差し入れですか!? 皇族の身分を失い、毛糸のパンツすらも失って、まさに没落ですね……。

堀江 非常に寒々しい(笑)。まさに「斜陽族」ですよ。1950年(昭和25年)のお正月には伊都子さまの目前で(元)宮さまが昏倒なさいます。お正月、それも早朝のことで医者を呼んでも来てくれないまま、静かに亡くなってしまうという悲劇でした。梨本の(元)宮さまは、明治以降の皇族ではじめて火葬になった方としても知られますね。

 また、伊都子さまのお名前は、1958年(昭和33年)に巻きおこった「ミッチーブーム」の熱心すぎる「アンチ」として一部には有名かもしれません。

 皇太子殿下(現・上皇さま)と、美智子さま(現・上皇后さま)のご結婚に真正面から伊都子さまは反対なさっていた有力者の一人なわけですが、彼らがご結婚を批判した理由の一つが、は身分云々の問題より、実際のところ、「嫉妬」ではないかと僕は思ったりするのです。

――美智子さまに嫉妬ですか。面白くなってきました(笑)。

堀江 昭和天皇の皇后だった良子(ながこ)さまが、ミッチーに激怒した理由のひとつとして伊都子さまが記したお言葉があります。まとめると「私(=良子さま)の結婚の時に使われた馬車は四頭立てだったのに、彼女(美智子さま)が使う馬車は六頭立て」というお言葉なんですが、ここに「すべて」が現れていると思うのですね。

 美智子さまのご実家である正田家は「日清製粉」の経営者一族です。戦後、ますます成功しつつあった大実業家です。そんな実家を持つ美智子さまのお姿は、戦後、財産も名誉もほとんどすべてを失い、存在を否定されたに等しい旧皇族・旧華族にとっては、あまりに妬ましく見えたのではないかな、と。

 「皇后になる可能性まで、あなたは我々の手の中から奪っていくのか」という恨みですね。

――良子さまのご実家・久邇宮家も戦後、臣籍降下させられ、巨額の財産税で身ぐるみを剥がれてしまったお家でしたよね。

堀江 そうなんです。昭和天皇が美智子さまとの結婚を肯定して以来、伊都子さまは美智子さまへの批判をやめたとされますが、自分のミッチー批判の奥底に眠る感情が嫉妬であると気づいたからではないかな……。もしくは、そう他人に思われても仕方ないと思ったからかな、などとも考えてしまうのですね。

 また、こうした女の嫉妬以上に、ミッチー批判の理由として重大だったのは、日本が戦争に敗れ、かつての身分制もひっくり返ったのは、「神の怒り」ではないかという恐れだったのかもしれません。これについてはまた次回以降、お話ししていきたいと思います。

 さて、美貌と知性、そして強気な態度で、世界中の王室にもその存在を知られた梨本宮伊都子さまの足あとをたどってきました。

 戦後の伊都子さまの零落ぶりはたしかに悲しいものでした。あれだけ大邸宅に暮らしていたというのに、娘の方子さま曰く「池のほとりの小さな家」で晩年を生活することになっても、自分の幸せを趣味の和歌の世界などに求めつづけ、1976年(昭和51年)に数え年で95歳で亡くなるまでの長い時間を、それなり以上に元気に過ごされました。

 そういう伊都子さまを筆者はやはり素敵な方だと思うのです。

――次回からは「女官」をテーマに始まります!

皇族身分を失い、没落した“宮家”の地獄――悲しき妃殿下の「アアこれで万事休す」告白

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

前回まで――「美しすぎる宮妃」として戦前に人気を博した梨本宮伊都子さん。妃殿下の職務として「看護婦業務」に並々ならぬ情熱であたり、子育てのほうもプリンセスが2人お誕生になられました。そのプリンセス、方子女王は朝鮮王朝へと嫁ぎ、規子女王は結納を交わしたお相手から婚約破棄されるという憂き目に遭ったものの、名家へ嫁がれました。しかし、その後、第二次世界大戦の訪れにより、梨本宮家は崩壊を免れず……。

梨本宮家の没落

堀江宏樹氏(以下、堀江) 第二次世界大戦中(1939-45)の梨本宮伊都子さまは、還暦前後のご年齢ながら、婦人雑誌のグラビアに生活のご様子が取り上げられたり、愛国婦人たちから人気者でした。とくに戦争初期は、東京での生活にさほど大きな影響はなく、充実した日々を過ごしておられたご様子です。梨本宮様も軍人としての活動に邁進されておられました。

 しかし……次第に戦局は日本に不利なように傾きはじめ、やがて敗戦の時を迎えることになってしまいました。ここから梨本宮家の地獄がはじまるのです。

――地獄、ですか……。

堀江 東京は空襲が相次ぎ、梨本宮邸はもちろん、各宮家の屋敷(東京の李王家の屋敷を含む)はすべて全焼という惨事に見舞われるのです。戦前にはあれだけ潤っていた梨本宮家ですが、終戦の頃には食べる物にさえ事欠くようになっています。

 梨本宮家は富士山ちかくの河口湖畔に別邸があったので、そこに疎開するのですが、なんとその周辺にも空襲警報が多発、強気な伊都子さまもついに「老人になってからこんな目にあふとは」と、嘆き節を日記に書きつけることになりました。

――庶民の625倍の生活費を持っていても、戦争で苦しむことになるんですね……。

堀江 1945年(昭和20年)8月15日、日本は運命の敗戦を迎えますが、昭和天皇による「玉音放送」を聞いた感想を伊都子さまは衝撃的な言葉で日記に記しました。

「アアこれで万事休す。(敗戦に打ちひしがれているだけでは)昔の小さな日本になってしまふ。これから化学を発達させ、より以上の立派な日本になさねばならぬ」というあたりは前向きでよろしいのですが、生命をかけて戦ってきたのに敗北した兵士の方々、その家族の無念を思うと、「どうしてもこのうらみは はらさねばならぬ アアアアーーーー(読みやすいように調節したが、だいたい原文ママ)」。

――なかなかに過激なお言葉ですが、リアルですね。

堀江 こういう率直なところが伊都子さまの魅力であると同時に、彼女の日記全文が活字として刊行されていない理由ではないかな、と思ったりもしますが。

 おまけに梨本宮さまは戦後すぐに、GHQから巣鴨勾留所まで出頭命令が出されていますし、ようやく戻ってこられたと思ったら、今度は皇族の身分を失う「臣籍降下」が待っていました。極めつけは巨額の財産税を課されたことですね。だいたい全財産の4分の3くらいの額を現金で納入せねばならなくなるのですが、このために焼け残った河口湖の別邸などの不動産や、蔵を埋め尽くしていた財宝や文物のほとんどすべてを売り払うハメになりました。

 戦前、庶民の625倍の豊かさで生きてこられた梨本宮家です。老齢になってから、いわゆる戦後成金に財産を買い叩かれるのは、これまでの人生を否定されるに等しく、屈辱以外の何者でもなく、ついつい日記にも過激な表現が並ぶようになります。

「ここにも敗戦のみぢめさをひしひしとこたへる(1946年/昭和21年7月29日)」
「(買い叩きに来た戦後成金の夫婦の姿を確かめようと)私はそっと窓のところからみていたら、主人は大きい人、妻はやせた小さい人にて(肺病でも出そうな形)(略)あんな人が富士の別荘に入るのかとおもふと(略)いまにバチがあたる(同年7月31日)」。

――悔しいのはわかりますが、「バチがあたる」かぁ(苦笑)。

堀江 「貧すれば鈍す」などとも言いますが、あれほど仲がよかった夫の(元)宮さまとの夫婦関係も悪化したまま、老老介護の様相まで呈して来ます。

「御湯なども、そばについていないと、あぶなくてならない。何かにつけて、それはそれはやかましい(1947年/昭和22年1月12日)」とか。痛ましいことですが。

――伊都子さまが老老介護かあ。使用人の数も足りなくなっているのでしょうね。美輪明宏さんが、人生は「正負の法則」に貫かれている、すごく幸せなことがあると、それと同じだけ不幸なことがあることも覚悟しなさい、って言ってたのを思い出しました。

堀江 そう。「早く死に度(た)い(1947年/昭和22年1月16日)」との言葉も飛び出していますね。この年の3月、財産税を梨本宮家では納め終えたのですが、同年10月には「臣籍降下」、つまり皇族としての身分を失う大事件が起き、さらにその翌日、蔵に残ったわずかな品物までが盗まれるという事件も起きました。

 それも、伊都子さまの夫である(元)宮さまの「背広」などだけでなく、毛糸で編まれた冬用の下着、靴下、シャツ、パジャマなどがまるごと盗まれるという悪質なものでした。憐れに思った昭和天皇が、自分の下着を届けてくれるなどして急場をしのぎましたが……。

――昭和天皇から下着の差し入れですか!? 皇族の身分を失い、毛糸のパンツすらも失って、まさに没落ですね……。

堀江 非常に寒々しい(笑)。まさに「斜陽族」ですよ。1950年(昭和25年)のお正月には伊都子さまの目前で(元)宮さまが昏倒なさいます。お正月、それも早朝のことで医者を呼んでも来てくれないまま、静かに亡くなってしまうという悲劇でした。梨本の(元)宮さまは、明治以降の皇族ではじめて火葬になった方としても知られますね。

 また、伊都子さまのお名前は、1958年(昭和33年)に巻きおこった「ミッチーブーム」の熱心すぎる「アンチ」として一部には有名かもしれません。

 皇太子殿下(現・上皇さま)と、美智子さま(現・上皇后さま)のご結婚に真正面から伊都子さまは反対なさっていた有力者の一人なわけですが、彼らがご結婚を批判した理由の一つが、は身分云々の問題より、実際のところ、「嫉妬」ではないかと僕は思ったりするのです。

――美智子さまに嫉妬ですか。面白くなってきました(笑)。

堀江 昭和天皇の皇后だった良子(ながこ)さまが、ミッチーに激怒した理由のひとつとして伊都子さまが記したお言葉があります。まとめると「私(=良子さま)の結婚の時に使われた馬車は四頭立てだったのに、彼女(美智子さま)が使う馬車は六頭立て」というお言葉なんですが、ここに「すべて」が現れていると思うのですね。

 美智子さまのご実家である正田家は「日清製粉」の経営者一族です。戦後、ますます成功しつつあった大実業家です。そんな実家を持つ美智子さまのお姿は、戦後、財産も名誉もほとんどすべてを失い、存在を否定されたに等しい旧皇族・旧華族にとっては、あまりに妬ましく見えたのではないかな、と。

 「皇后になる可能性まで、あなたは我々の手の中から奪っていくのか」という恨みですね。

――良子さまのご実家・久邇宮家も戦後、臣籍降下させられ、巨額の財産税で身ぐるみを剥がれてしまったお家でしたよね。

堀江 そうなんです。昭和天皇が美智子さまとの結婚を肯定して以来、伊都子さまは美智子さまへの批判をやめたとされますが、自分のミッチー批判の奥底に眠る感情が嫉妬であると気づいたからではないかな……。もしくは、そう他人に思われても仕方ないと思ったからかな、などとも考えてしまうのですね。

 また、こうした女の嫉妬以上に、ミッチー批判の理由として重大だったのは、日本が戦争に敗れ、かつての身分制もひっくり返ったのは、「神の怒り」ではないかという恐れだったのかもしれません。これについてはまた次回以降、お話ししていきたいと思います。

 さて、美貌と知性、そして強気な態度で、世界中の王室にもその存在を知られた梨本宮伊都子さまの足あとをたどってきました。

 戦後の伊都子さまの零落ぶりはたしかに悲しいものでした。あれだけ大邸宅に暮らしていたというのに、娘の方子さま曰く「池のほとりの小さな家」で晩年を生活することになっても、自分の幸せを趣味の和歌の世界などに求めつづけ、1976年(昭和51年)に数え年で95歳で亡くなるまでの長い時間を、それなり以上に元気に過ごされました。

 そういう伊都子さまを筆者はやはり素敵な方だと思うのです。

――次回からは「女官」をテーマに始まります!

皇族のプリンセスが「婚約破談」!? 結納したのに結婚式は延期続き……“ワケ有り”宮家のその後

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

 前回まで――「美しすぎる宮妃」として戦前に人気を博した梨本宮伊都子さん。大資産家生まれの超お嬢様から皇族入りした伊都子さんを待ち受けていたのは、妃殿下としての仕事でした。最も重要だった任務は「看護婦業務」。専門的に看護医学を学び、戦時中に前線で看護にあたった伊都子さんですが、もうひとつ大切な任務「子育て」も一筋縄ではなかったようで……。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 突然ですが、もし自分に娘がいて、その子が他国の王室に嫁ぐことが決定したら、親としてどのように感じると思いますか?

――びっくりするでしょうけど、名誉なことだとは思います。でも想像すらつかないというのが本音かなぁ。

堀江 しかし、実際にそういう可能性がある人たち……たとえば梨本宮伊都子さまにとって、それは嘆き悲しむべきニュースだったようです。

 1916年(大正5年)、波多野敬直(はたの・よしなお)宮内大臣から伊都子さまに突然、「お話がしたいことがあるから、時間を作ってください」という電話があったそうです。用向きは伊都子さまの長女・方子(まさこ)女王(当時16歳)の縁談でした。というか、天皇陛下による結婚命令であったのです。絶対に断れません。

 お相手は朝鮮王室の王世子(わんせじゃ)……つまり皇太子に相当する李垠(り・ぎん)殿下でした。宮内大臣は「11歳から殿下は日本で、日本の皇族に準じる存在として暮らしている」というのです。しかし、その実態は、悲しいものでした。日本が朝鮮王朝の御曹司たちを、若いうちに日本文化に同化させるべく、「ほぼ」無理やり日本に連れてきた結果でしたから。

――そういう王室に嫁ぐとなると、たしかに不安を感じてしまうかも。

堀江 そうですよね。しかし、もらえる皇族費の額でいうと、梨本宮家が4万5千円だったのに対し、李王家はその25倍以上の約120万円! 実家の暮らしの25倍以上、金銭的には豪華な生活が期待できました。

――う、うーん、なかなか悩ましい数字ですね(笑)。

堀江 えぇ。でも一生の問題ですからね。

 伊都子さまの自伝『三代の天皇と私』(講談社)によれば、朝鮮王朝としては、国王である李太王が結婚には大喜び。日本の皇族の姫を配偶者にできれば、政情が安定すると大歓迎だったといいますが、方子さまの自伝『歳月よ王朝よ 最後の朝鮮王妃自伝』(三省堂)によれば、李太王はじめ誰ひとり歓迎していなかったとあります。

 どちらが本当だったにせよ、梨本宮家としては、朝鮮王朝側のあまりの政情不安定さが心配材料でしかなく、断りたくても「お国のため」と言われると、決して断れないのが皇族という立場でした。伊都子さまは最後まで抵抗したようですが、夫である梨本宮さまは最初から諦めムードで、「お受けするしか仕方ない」と繰り返すばかり。方子さまは、言葉では「わかりました」といいつつも、どこか破談になることを期待しているようなムードだったようですね。

――V6の岡田准一が李殿下を演じていた昔のドラマ『虹を架ける王妃』(フジテレビ系)を見たのですが、実際の殿下は丸メガネが似合うかわいらしいお坊ちゃんタイプに見えますね。

堀江 岡田准一が殿下というのは、まぁ、それはドラマの世界ですからね(笑)。ご自分の婚約決定を新聞で知り、ショックを受けた方子さまの手が震えているところを伊都子さまは目撃してしまいます。

 ただ、王世子殿下にお会いになるにつれ、日本で孤独な日々を過ごす殿下の支えになろうという気持ちに駆られ、結婚に前向きになっていったとのこと。母性本能が強めの方だったのかもしれません。

 お二人のご結婚前後、凶事は山ほど起きました。最初に起きたのが、李垠殿下の父王が暗殺されてしまわれたこと。それによってご結婚が延期され、ようやく1920(大正9)年4月28日、東京にて行われたお二人の結婚式の時には、朝鮮人活動家の手榴弾が馬車に投げつけられたり。またある者たちは李王家の屋敷に武器を持って押し入ろうとしたり。

――ええっ。ご無事だったのですか?

堀江 かろうじて、というしかありません。手榴弾は幸いにも不発弾だったそうです。

 ただ、ご成婚後の李垠殿下と方子さまのご夫婦仲はとてもよく、お子様もすぐにお生まれになりました。それが伊都子さまには初孫となった普(ちん)王子なのですが、この幼子を悲劇が襲います。王世子ご夫妻が朝鮮に里帰りになっていた短い間、東京に戻る前日に、なんと普王子が毒殺されてしまったのです。

堀江  医師の見立てによる死亡理由は「消化器不良」だったそうですが、あきらかに異常がありました。方子さまの自伝『歳月よ王朝よ 最後の朝鮮王妃自伝』によると「夜通し泣きつづけ、一夜あけても時々チョコレート色の固形物を吐き、容体は刻々と悪くなっていった」とのこと。亡くなられた後も、朝鮮王朝のルールで、母親なのに我が子の葬儀にすら参列できませんでした。そもそも朝鮮王朝では幼子の葬儀は禁止されていたとか。

――伊都子さまが警戒していた、他国の王室の生活の難しさを思い知りますね。

堀江 朝鮮王室が尊ぶ儒教の教えでは、親に先立つ子どもは親不孝ゆえに、そのペナルティとして葬儀はナシ、という理由だそうです。日本人には理解しにくいかも。江戸末期くらいまでは日本の皇室でも6~7歳以下のお子様が亡くなると、葬儀らしい葬儀はせず、こっそりと山や谷に埋葬する(ヘタすれば捨てる)などしたようですが(ドナルド・キーン『明治天皇』新潮社)、これは「7つまでは神のうち」、幼子は死んでも神の世界に戻るだけだから、人間として葬儀する必要もない……というような考え方だったからともいいますね。

――いずれにせよ、方子さまがおかわいそうで胸が痛みます。

堀江 そうですよね。伊都子さまも大ショックを受けました。大正年間~昭和初期にかけて、伊都子さまにとっては初孫がこのような形で亡くなり、さらには関東大震災や第一次世界大戦など、嫌なことばかりが起きたといえる年月でした。

 なお、方子さんには妹君がおられて、それが規子(のりこ)さまです。ちょっとおてんばなところがおありで(笑)、大正時代の梨本宮家の重苦しい空気を、規子さまのそういうご気性が和らげていたのかもなぁというようなことを感じます。

 1922年(大正11年)3月22日の伊都子さまの日記には「朝、食前、規子、父上様にしかられる。パンをストーブで焼(やい)てはならぬと申(もうし)てあるのに、バタのにほひした」ため、父の宮さまが「焼いただろう」と問い詰めると、規子さまは「私は焼いていない!」と強情を張って、最後には父の宮さまに言い負かされ、思わず泣いてしまったとありますね。しかし、その親子げんかを見た伊都子さまは「それでよし」とも日記に書いています。

結納したのに結婚式は延期され続け、最終的に婚約破棄

――宮家なのに、世間の親子ゲンカみたいなことをやっているのは微笑ましいですよね。

堀江 そうなんですよ。だからこそ、「それでよし」と伊都子さまも記されたのでしょう。子育ても、想像以上に熱心にこなしている伊都子さまではありました。しかし、規子さまは、ご結婚問題では方子さまとは別の方面で苦労なさいました。いつの時代も宮家の結婚事情は大変なようですね。

 規子さまは山階宮武彦王という皇族の方から激しく求められ、結納を交わしたにもかかわらず、なぜか結婚式は延期されつづけ、最終的に「神経衰弱」、つまり宮さま側が「メンタルを病んで回復の見込みがない」という理由で一方的に婚約破棄されてしまったのです。当初は、お断りできない勢いで、熱心に言い寄って来られていたのに……。

――病気が原因とはいえ、ひどいお話ですよね。婚約破棄された場合、皇族のプリンセスには次のお相手がみつからないのですよね?

堀江 そうなんです。現在も秋篠宮家の眞子さまが小室圭さんとの結納をする、しないで混乱があるように見受けられますが、一度、宮家の女性が結納を交わすとなると、それは結婚したのも同義となるので、どんな理由にせよ解消されてしまうと、つぎのお相手を見つけることが困難になってしまうのですね。だから皇族方は結納にものすごく慎重になるのです。

 結局、伊都子さまのご実家の親戚でもあった公家華族の広橋家なら、ワケ有りになってしまった我が子でも受け入れてくれるだろうということで、そこに持参金多めで嫁がせるということになってしまいました。李王家それから広橋家との縁談、どちらも名門との結婚ですが、伊都子さまにとってはどこか、両方とも不本意なものだったといわれます。

――しかし、こういう宮妃としての生活も第二次世界大戦の訪れ、そして敗戦と共に崩壊してしまうのですね。次回、ついに最終回です。

 

皇族の結婚と「皇族費」のリアルな内情――支給金は「庶民の生活費の625倍」!? 知られざる日本の皇室史

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

前回まで――「美しすぎる宮妃」として戦前に人気を博した梨本宮伊都子さん。年間予算3億円の大資産家生まれの超お嬢様だった伊都子さんですが、女学生時代のある日、突然「あなたの結婚が決まったから」と告げられ、高校の卒業目前に“寿退学”。結婚のお相手は、皇族の梨本宮守正王だったのでした……。

――梨本宮伊都子さまの“ロイヤルウェディング”は、どんな様子だったのでしょうか?

堀江宏樹氏(以下、堀江) 1900年(明治33年)のことです。おすべらかしに結った髪、そして「十二単」の御装束をおまといになって、実家から馬車で宮中に父上とお出かけになったと自伝『三代の天皇と私』(講談社)にはありますね。

 当時、皇族の結婚は皇居で神前式にて執り行われます。会場にて夫となる梨本宮守正殿下とあらためてご対面、そのまま儀式に入られたご様子です。最初が伝統的な宮中装束。次におすべらかしから洋風に髪形も変え、西洋式の大礼服(=最高の格式のドレス)である「マント・ド・クール」にお着替えです。

――以前、秩父宮節子妃のウエディングのお話では、油で固めたおすべらかしの髪を解くために使われたベンジンが目に入り、あわや失明……というような恐ろしい話もありましたね(苦笑)。

堀江 伊都子さまは幸いにして、そういう経験はなさらず、ご実家が用意してくださった例の1億円のティエラを頭に燦然と輝かせながら、残りの儀式を終えられたとのことです。

 ちなみに伊都子さまが、明治時代に「皇族令」が改定されて以来、最初に皇族妃となる女性でしたので、いろいろと大変なことはあったようですけれどね。この時も、初夜には「三日夜の餅」が出たようです。

 結婚関連の儀式では分刻みのスケジュールを課され、苦労なさったと思われます。とくに4日連続で、昼と夜の2回ずつある披露パーティに出席するのは骨が折れた模様。伊都子さまは「皇族は辛抱が肝心」とおっしゃっていますが、贅沢も極まると苦痛なんですね。

 実家からは侍女を一人だけつれて宮家に嫁がれた伊都子さまですが、梨本宮家にいる「老女」つまり、お局様の女官こそが姑的存在というか、キツかったようです。「俗世間はなに一つ知らない。おうようなところもあるが、大変にみみっちい所もありました(原文ママ)」というのが伊都子さまの評価ですが、「お金の使い方が荒い!」みたいなことで、さんざん注意されたようですよ。裕福な大名家と、そうではない宮家では勝手が違います! とか言われて。

――ここにもやっぱり「女官」登場ですね。「みみっちい所もある」とは伊都子さんも辛辣な感じがしますが(笑)。でも、金遣いに関してはもともとが日本有数の資産家のご令嬢ですからね。

堀江 梨本宮守正親王のご職業は軍人なのですが、殿下の月収が30円だったところ、伊都子さまには結婚後もご実家・鍋島家から毎月50円の「化粧代」つまりお小遣いが手渡されていたといいます。

 本当の庶民の一家は、毎月6円で生計を立てていた時代の話ですよ。さらに、というか後には皇族特典ともいうべきものがありました。梨本宮家には、皇族費として宮内省から与えられていたお金があるわけですが、それが1年あたり4万5,000円。

 だから夫の宮さまからも伊都子さまは毎月100円をお小遣いとしてもらっていて、自由になるお金が合計150円もありました。ご趣味は歌舞伎観劇や買い物、旅行だったようですが、使いきれずに大部分が貯金に回されたそうです……。しかもそれだけ金満家でいらっしゃるのに、自分の手にお金というものを握ったことさえない(笑)。お付きの者がすべて支払うそうですね。これは夫である宮さまも日本ではそういうことだったそうですが。

――ふわぁ……。使いきれず、というのが本当に雲の上の世界ですね……。

堀江 貧しい庶民の生活費の実に625倍ものお金が皇族費として支給ですもの。でもこの時、凄まじい贅沢を経験したからこそ、第二次世界大戦後には恐ろしく惨めな思いをなさることになるのですが、それはまた後ほど。

 怒涛の結婚儀式の次は、成婚後もなおも続く、それは厳しいお妃教育の一貫として、フランス語、和歌、書道、歴史などの授業を宮邸にて受ける毎日でした。そして、妃殿下としてもっとも重要な仕事が伊都子さまの前に現れるのです。いったいそれは何だと思いますか?

――お子様を授かる……とかですか?

堀江 それも大事ですね(笑)。伊都子さまは結婚からまもなくしてお二人のお嬢様の母上となられました。長女が、朝鮮王朝の主・李王家に嫁いだ方子さま)です。次女の規子さまは、山階宮武彦王という宮さまから熱烈に求婚をうけたのに、一方的な理由で婚約破棄され、ひどい目にあったりもしました。それらの話は次回に。

 ……それで、お話を「妃殿下の大事なお仕事」に戻しますと、それはいわゆる看護婦業務なんですね。

――えぇっ、看護婦ですか?

堀江 そうです。1900年(明治33年)の日露戦争開戦の頃から、伊都子さまはかなり専門的に看護医学を実地で学んだ記録を残しておられます。たとえば、赤十字病院では(おそらく末期の)乳がんの手術、ついで骨が腐ってウミをもった患者の腕が切り落とされる様を見学……。

 前者では3週間後、後者は4週間後に包帯巻きかえする件など、熱心にメモを残されているのでした。

――慰問がメインなのかと思いきや、ガチな看護業務じゃないですか!それもひどい手術を見学させられてますね。メンタル大丈夫だったのかな……。

堀江 そうなんですよ。ほかにも「緊急タンカ造り」とか野戦病院での看護法の勉強などもして、「看護学修業証書」を赤十字社から受け取られるまでになりました。

 その後は、慰問に加えて実際に負傷兵への看護活動や、包帯の準備などで大忙しだったようです。日露戦争中は、伊都子さまの表現によると「旅順方面からどしどし」帰ってくる負傷兵の包帯交換なども行います。凍傷で手足の指がもげてしまった兵士の手当まで、なんと妃殿下が行っているんですね。手術に立ち会って、医者に協力もしています。それも半日ぶっとおし。

 ほかには患者の姿に接する中で、義手や杖を考案までしています。おまけに、これらと慰問活動は平行して行わねばなりません。これらが伊都子さまに期待される妃殿下としての活動だったというのだから、驚きとしかいいようがありません。

 また、フランスに軍人として留学していた夫・梨本宮守正親王が明治37年(1904年)4月に一時帰国するのですが、再会の喜びもつかの間、宮さまは戦地に派遣されることになっており、死を覚悟しての送り出しとなったのでした。実際、赴任地の満州で恐ろしいのは敵襲だけでなく、疫病もそうなのです。不衛生な環境から宮さまは赤痢になり、一時は生命すら危なかったのです。

――妻は負傷兵に尽くす看護婦、夫は最前線の軍人ですか。戦前の皇族って想像以上に大変だったのですね。

堀江 そうなんですよ。戦前の皇族男性は100%軍人になることが決定しているのです。特別な身分だからといって、戦争中に特別に守られることはありません。しかしそれだからこそ、伊都子さまとしては日本軍が中国・旅順でロシア軍を攻略した瞬間、つまり日露戦争勝利決定の瞬間、嬉しかったようですね。1905年(明治38年)1月1日のことでした。

 その2日後の1月3日には、のちの大正天皇の皇后である節子妃(当時皇太子妃)が、第二王子・高松宮宣仁親王を出産。日本中が狂喜するイベントが立て続けに起きたのです。この頃の日本は確かに上昇気流に乗っているように見えました。

――戦前の梨本宮家は裕福だったかもしれないけれど、その分、ご苦労も多かったのでしょうね……。

堀江 次回は、第二次世界大戦前後までの伊都子さま、子育てのご様子などを取り上げようと思います。

 

天皇・皇后両陛下が選んだ「宮妃」は「生活費3億円」のお嬢様!? “ていねいな暮らし”ぶりに庶民は呆然?【日本のアウト皇室史】 

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回まではこちら

――前回から、「美しすぎる宮妃」と戦前に人気を博し、戦後には悲劇的な没落を経験したた梨本宮伊都子さんにまつわる伝説の数々をお伺いしております。伊都子さんは、大資産家の大名華族のご家庭に生まれ、元祖・お嬢様学校である「華族女学校」に通っていたとのことですが、実際は華族よりも、士族や平民の女生徒のほうが多かったそうですね?

堀江宏樹氏(以下、堀江) そうなんですよ。まぁ、華族や皇族の娘さん自体、数が限定されていますけどね。授業料でいうと、華族も、それ以外の生徒も同額だったようです。だから、それ以外の生徒さんはよほど、華族のお嬢様方と一緒の空気を吸わせたい!! という親の希望を背負って入学したのでしょう。

 ちなみに手元の資料には、華族女学校の学費についてはなぜか記載ゼロなんですよね……。ただ、大名華族として標準的な家庭とおぼしき、某伯爵家の年間経費は、現在の貨幣価値に換算すると、な、なんと3億円弱(『女学世界』1904年・秋期臨時増刊号、黒岩比佐子『明治のお嬢さま』を参照)。

 何十人もいる使用人、それからお父様のご側室や、その子どもなどの生活費も含む額ではありますが(笑)。

――額もすごいけど、側室って、家族と同居の愛人という意味ですよね!? 広いお屋敷にせよ、愛人とその子どもと同居生活ですか!

堀江 そうですねぇ。伊都子さまによると、大名華族のお家では3人くらい側室がいるのが普通。伊都子さまのお父様は1人だけで、その4人の子どもたちも分け隔てなく扱われていたそうです。ホントかな、とは少し思いますが、そういうことにしておきましょう。明治期の華族の男性に、側室がいた率は70%以上という調査もあります。なかなか複雑なご家庭も多かったのでしょうね。

 それにしても、年間予算3億円のご家庭が「教育費として出してもいいよ」って額と同額になると、士族はともかく、平民のご家庭には高く思える授業料だったのではないかなぁ……。

 ちなみに1906年(明治39年)に華族女学校と学習院が合体して、「学習院女子部」が誕生した時、華族の授業料は無料というルールになってるんですけどね。

――これまたすごい話ですね。所得格差考慮ゼロですか。

堀江 まぁ、華族が学習院運営の経費すべてを負担させられている……つまり、実家が「すごい額」を寄付させられている手前、華族の子どもたちからさらなる教育代を徴収することはなかったというのが正しい見地なのでしょうけど、目からウロコのルールがいろいろとあるものですよね。

 さて、元祖・お嬢様学校である華族女学校の学生さんの話に戻りますが、将来の夢が「お嫁さん」の生徒ばかりなので、津田梅子のような元祖・キャリアウーマン志向の女性はガッカリしてしまったようです。

 ただ、勉学の意欲については「価値観」だけというより、環境が悪かったせいもあるのかな、と。もちろん、学級崩壊ではなく、快適に学べる環境ではなかったという話です。冷房がないのは明治だから当然として、冬場でも暖房ひとつなく、教室にいるだけでシモヤケができるし、凍傷にまでこじらせてしまう生徒さんもいたそうな。これは伊都子さまの自伝にあることですが、指定の革靴を履けないくらいに足指が膨れ上がると、届けを出して、草履通学を特別に許されるという……。

――東京のお嬢様学校なのに、シベリアの話みたいですね……。意外なことばかりで、びっくりの連続です。

堀江 環境はハードでも講師陣はソフトだったようです。学校生活といえば、先生に怒られた記憶も今となってはいい思い出になってたりしませんか? でも、華族女学校では怒鳴られることもなかったようですよ。

 もはや“記録魔”といってもよい伊都子さまによると、彼女が生まれて最初に怒鳴られたのは1909年(明治42年)、ロシア旅行で撮影禁止の区域の写真を撮ろうとしていて、ロシア人兵士から「コラー!」みたいなことをロシア語でいわれたのが最初だったとか。

 それも「我が生涯で怒鳴られるのは、これが最初で最後でしょう」という趣旨で書いておられるので、ホントに“ていねいな暮らし”の中で生きてこられたたんだなぁ、と(笑)

――ていねいな暮らし、ですか(笑)。確かに、庶民には想像もできない雲の上のご生活であることはヒシヒシと伝わります。

堀江 伊都子さまの場合は、それまで皇室の方々との交流がご実家の鍋島家とすでにあったのですが、「彼女なら宮妃としてもやっていける」と明治天皇・皇后両陛下の御目に止まっていたのでしょう。まぁ、こういうお嬢様しか、皇族妃にはなれなかったんだよ……という話なのかも。

堀江 1897年(明治30年)10月、ついに梨本宮家の守正殿下(数え年で27)との結納が執り行われることになりました。伊都子さま(19)は、守正殿下とお会いしたこともありません。なのに、ある日、突然「あなたの結婚が決まったから」とご両親から言われると、それをお受けするしかないのです。

 こうして、伊都子さまは、ご友人方から嫉妬されながら、華族女学校の卒業を目前に「寿退学」。自宅などで妃殿下教育をお受けになることになりました。この当時、華族女学校も3年になると入学時の3分の1程度にまで生徒は減っているのが普通だったとか。

――「寿退学」で、それだけ減るのですね。夫となる宮さまと伊都子さまが最初にお会いになったのは、結婚式の日ですか?

堀江 さすがにそういうことはありません。それでも結納が取り交わされてから約3年後、はじめて目黒の西郷従道侯爵(西郷隆盛の実弟)の別邸にて、ご対面ということになったそうです。緊張で会食どころではなかったそうですが、宮様からは初対面でダイヤの指輪をプレゼントされ、伊都子さま自身の言葉によると「一生懸命に心をつくして(宮さまに)一生を捧げたい」と思ってしまったようです。

 お二人は終生、よいご夫婦でいらっしゃいました。

――あらあら、なんだか微笑ましい話ですね。

堀江 なお、娘と宮さまの結婚式のため、鍋島家がパリに特注した宝石類はすさまじい高額で、ティアラは当時のお金で2万数千円もしました。内閣総理大臣の年俸が9,600円の時代です。当時の1万円=現在の5000万円弱ですから、ティアラだけで1億円以上になります。ほかにも鍋島家はパリにいろいろな宝石類を娘の一世一代の晴れ舞台! という意気込みで頼んだようですよ。

 1907年(明治40年)の雑誌「月刊食道楽」によると、当時の「中流」の4人家族の1カ月の生活費が30~40円だった時代ですから……計算するのもイヤになっちゃいますね。

――次回に続きます!

 

 

フランス女性はステイタスを「腹」でアピール!? 貴婦人の“戦闘服”、知られざるファッション事情【ヴェルサイユの女たち】

サイゾーウーマンで「日本のアウト皇室史」を連載中の歴史エッセイスト・堀江宏樹さんが、今回は「ヴェルサイユの貴婦人」をテーマに知られざるエピソードを解説! 常識では理解できない破天荒な生活をお届けします。

――今回は妃殿下シリーズ、初の海外版です。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 僕が原案・考証で参加している漫画『ラ・マキユーズ ヴェルサイユの化粧師』(KADOKAWA)のコミック第1巻発売を記念し、知られざるヴェルサイユの貴婦人ライフをテーマにお話していきます! 突然ですが、18世紀後半のフランス・ヴェルサイユ宮殿にトイレはいくつあったか、ご存じですか?

――えーっと、10個くらいはあったのではないですか?

堀江 正解はたった2つです。マリー・アントワネット王妃と、フランス国王ルイ16世の専用トイレ。他の人はみんな、おまる使用です(アルフレッド.フランクリン『排出する都市パリ』悠書館)。そして、おまるの中身の処理だけでなく、ご主人のお尻を拭くのも召使いたちの役目でした。

――ヒエッ……そんなウワサもありますが、本当だったのですね。

堀江 ヴェルサイユ宮殿には奇怪なルールが数多ありました。アントワネットが逃げ出したくなるのも当然に思える、おかしなルールです。

 それにしても、自分のお尻も拭かない貴婦人たちなのに、メイクだけは主に自力で行っていた……と聞くと、ちょっと違和感ありませんか?

――そうですよねぇ。お尻は自分でやるから、面倒なメイクのほうを召使いにやってもらいたいです。化粧がダルくなかったんですか?

堀江 僕なりに考えた時、当時の化粧品は、現代日本とは比較にならないくらい、シンプルだったことが理由ではないかと思ったのです。
18世紀フランスの化粧品にはまだ、白粉(おしろい)と口紅くらいしかラインナップがありません。それも白粉といえば、鉛に酢の入った高温の蒸気を当て、変質させた鉛白(えんぱく)が主成分で用いられているシロモノで、これは毒。中毒になり、病みわずらってから死に至ることもあったとか。

――そんな危険を犯してまで化粧をしていたのですね……。怖い。

堀江 20世紀になるまで、その手の明らかに危ない成分を化粧の材料として使ってはいけないという薬事法はありませんでしたから。そして、こういう白粉は厚く塗るか、薄く塗るかくらいしかチョイスがなく、メイクのテクニックも何もないのです。だから、化粧師として独立した仕事はないのですわ。

――それはラクでいいなと思ってしまいました(笑)。マリー・アントワネットをはじめ、多くの貴婦人たちは莫大な金額を投じ、自らの美しさを演出しようとしていたのですよね? その手の分野へのアントワネット王妃の浪費は一種の伝説になっていますから……。

堀江 ちなみにアントワネットの浪費が、当時のフランスの国家予算に占めた割合は最大で1%。フランス王国を某・物置のCMに例えると(笑)、アントワネットが100人乗ったらさすがに大丈夫ではないのだけれど、その数字は想像よりずいぶん少なかったという人もいるでしょうね。

――でも、お化粧にそこまでお金は使ってなさそうですし、美しさに浪費しようにも使いみちがなさそうな……。残るは、ファッションですか?

堀江 アントワネットのドレスはヨーロッパ中の上流階級にとって、憧れでした。18世紀後半、ドレスのデザイン見本を着せられ、各地に送り込まれたマネキン人形は、「パンドラ」と呼ばれていましたけれど、それがアントワネットに似せて作られたものだったのです。文字通りのファッション・アイコンですよね。

 そんな彼女の存在はフランス王国のブランド・イメージを決定づける宣伝塔で、宣伝費が国家予算の1%と考えれば、むしろ優秀ではないかとも考えられるのです。一方、国家予算の1%も「キレイになるため」使ってしまうアントワネットは、ファッション・マニアの度が過ぎていると考える人もいて当然ではありますが。

――ファッション・アイコンですか。もし化粧品やメイクテクがいろいろあったら、そっちのオタクになっていたかも。

堀江 実はアントワネットはメカニックな時計が好きだったり、オタク気質の女性ではありました。意外でしょうけど、数学が好きで、フランス王妃になってからも3人も数学者を雇っていましたし。

 でも彼女がいくら出費したくても、当時の化粧品の水準はしれていますからね。しかし、そういうところに、現代日本の進んだ化粧技術をもった誰かが現れたとしたら……と発想したストーリーが、僕が原案・監修を務めている『ラ・マキユーズ ヴェルサイユの化粧師』です。

――ファッションとメイクときたら、ヘアスタイルが気になりますね。どんな髪形がヴェルサイユではやったのですか?

堀江 そうですね。アントワネットのヘアスタイルで有名なのが、戦艦のミニチュアを頭に載せた「ア・ラ・ベル・プル(美しきメンドリ風)」という髪形ではないでしょうか。

 こちらを考案したのが、天才ヘアメイクアップ・アーティストのレオナール・オーティエという人物で、『ラ・マキユーズ』にも登場します。史実では、3人いた兄弟と共同で活動していたようですね。

――こ、これは……。小林幸子の新作パフォーマンスといわれても納得しそう。さすが天才ヘアメイクアップ・アーティスト、人並み外れた感性の持ち主だったのでしょうね。

堀江 髪形=自分の主張という考えは現代にもありますが、18世紀後半のフランス貴族社会ではよりダイレクトなメッセージ性が喜ばれたようです。フランスの軍艦が活躍したのを祝うために、頭の上に軍艦のミニチュアを載せてしまう……とかね(笑)。

 複雑な髪形を瞬時に作り上げるレオナールの手さばきはあまりに軽やかで、ほかの同業者の追随を許さなかったといわれます。セットに使われたのは「髪粉」。しかし成分は、小麦粉です。

 ヘアワックスが当時はないので、水で濡らした髪に小麦粉をまぶし、それをコテ(現代でいえば棒状のヘアアイロン)にまきつけて熱を加える。ガチガチに固まった髪の束を、今度は毛先から逆方向に梳で解いて、ボリュームを出す。それを素早くまとめ上げ、戦艦などを載せて出来上がり! というわけでした。こういうことを毎回していたのです。

――小麦粉って、本当にパンの材料になるあの小麦粉ですか?

堀江 そうなんです。フランス革命の前は、凶作が続いて小麦の収穫量が減っているのに……、そりゃ庶民には怒られますよね。よくわからないことにフランスの王族・貴族はお金をかけすぎました。

 意外といえば、貴婦人のドレス。『ラ・マキユーズ』はフィクションなんですけど、衣服のデザインもここは譲れないという部分があって、構造的な部分からお話することもありました。たとえば……ロココ時代の貴婦人のドレスで一番高価だったパーツってどこかわかりますか?

――どこだろう。ボタンに宝石を使ったと聞いたことがありますが……?

堀江 しかし、正解はおなかの部分で、「ストマッカー」と呼ばれるパーツでした。貴婦人にとってドレスは他人に自分のステイタスを誇示するツールで、一種の戦闘着。ストマッカーは実物を見ればわかるように、高価なレースや絹のリボンなど、てんこ盛りなのでした。

――金太郎の前掛けみたいな、このわずかな面積の部分ですか?

堀江 そう! でもなぜストマッカーを使うのかには理由がありました。ヴェルサイユ時代のドレスについては、往年の浜崎あゆみが『NHK紅白歌合戦』で着ていたアレを念頭に、「バルーンスカートのドレス」などとわれわれは言っていますが、正式名称は“ローブ・ア・ラ・フランセーズ”。直訳すれば、フランス風ローブです。

 ローブとは、いわゆるガウンですね。ローブを羽織っても、胸~おなかの部分は空いてしまって下着が見えるので、この部分を隠すべく、あてがわれたのが例のストマッカーという別売り部品だったのです。

――別売りなんですね。

堀江 思えば着物の帯みたいなものですね。帯が往々にして最も高価ですけれど、そこも少し似ているかも。ちなみにストマッカーは、ローブにピン留めしなくちゃいけません(笑)。しかもヴェルサイユのエチケットには、「太陽王」ことルイ14世時代以来、貴婦人は1日3回、ドレスを総替えしなくてはならないというものがありました。

 こういうルールが山のようにあり、その煩雑さがイヤがられ、ヴェルサイユにはもともと少なめだった貴婦人の姿は時代とともに消えていき、マリー・アントワネットの時代には儀式やイベントの時以外、男性貴族の姿さえマバラになるほどに過疎化が進んでいたのです。

――3回も着物を着替えると思うと、それはうんざりしますね。髪の毛も小麦粉で固めなきゃいけないし、聞いてるだけで同情しちゃいます。

堀江 過疎化の結果、18世紀後半、貴族たちの拠点はすでにヴェルサイユではなく、気楽に暮らせるパリになりました。ヴェルサイユの化粧師と言っておきながら、『ラ・マキユーズ』の物語がパリで始まるのはそういう理由です(笑)。

 そして「貴族の女は腹で勝負!」といわんがばかりのストマッカーの流行も、よりナチュラルな衣服を愛するようになる後年のアントワネットの趣味の変化もあって、1780年以降は下火になっていきました。

――華美なファッションから、リアルクローズに変化していくんですか。想像もしたことがないヴェルサイユの実態ばかりです。

堀江 このように、まったく知られていない興味深い逸話がヴェルサイユがらみにはたくさんありますね。というわけで『ラ・マキユーズ ヴェルサイユの化粧師』、何卒、よろしくお願いいたします。

勉強しすぎは女の価値を下げる!? 妃殿下、“お嬢様教育”の仰天実態は「高校を寿退学」がステイタス

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回まではこちら。

――これまで、皇室の「菊のベール」に包まれた妃殿下に迫るべく、秩父宮勢津子妃の回想録を読み解いていただきました。現在の雅子妃にも通じるであろう、苦悩や慣習が想像できて、非常に興味深かったです。

堀江宏樹氏(以下、堀江) ご好評を頂いている「妃殿下シリーズ」ですが、今回からお話するのは才色兼備、「美しすぎる宮妃」として戦前に人気を博した梨本宮伊都子(なしもとのみや・いつこ、1882‐1976)の人生の物語です。

 一部の読者は、V6・岡田准一さんが韓国の王族殿下役で出演した歴史ドラマ『虹を架ける王妃』(2006年、フジテレビ系)を覚えておられるやもしれません。映画『東京タワー』で、黒木瞳さん演じる魔性の主婦に翻弄される美少年を演じていた岡田さん。その面影がまだ残っている彼の軍服姿が凛々しかったドラマです(笑)。もう記憶の果てにいってしまっている方も多いでしょうが、DVDなども出ているので、よろしかったら。

 そのドラマの中で、原田美枝子さんが演じていた妃殿下が伊都子さまです。一般には馴染みが薄いかもしれませんので、まれに見るような栄光と転落を経験なさった伊都子さまのお生まれなどを、簡単にご説明していこうかと思います。

 伊都子さまのご実家は、鍋島家。旧・佐賀藩主の一族で、大名華族(侯爵)です。そして大資産家。明治初期の日本では10本の指に入るか、入らないかくらいの大金持ちのご令嬢・伊都姫(いつひめ)さまとして、彼女はそれは大事に育てられました。伊都子のお名前は、外交官だったご両親がイタリアの首都・ローマに滞在中にお生まれになったから。

――伊太利亜の都=伊都子。大金持ちの方はセンスも庶民と違いますね(笑)。そんな裕福な娘さんが皇室に嫁いだら、大変な苦労がありそうです。

堀江 ただ、伊都子さまご自身によると、鍋島家の家訓「子どもには贅沢をさせるな」が徹底されており、幼少時から掃除、洗濯、裁縫などを叩き込まれて育ったのだそうな。

――えー。意外ですね!

堀江 ちなみに当時の鍋島家には何十人もの使用人がいました。それなのに、というのが伊都子さまの主張のポイントで、永田町にあったお屋敷(現在、首相官邸のある場所)から、華族女学校までの通学も侍女と一緒に歩いて通わねばならなかった、ほかの生徒は人力車とかで通っていたのに……というようなことを、自伝『三代の天皇と私』(講談社)に書いておられます。でも距離にして、家と学校の間は約850メートル(徒歩10分ちょい)。

――それを歩くのが「厳しいしつけ」になるくらい、お嬢様だったってアピールでしょうか(笑)。

堀江 お嬢様伝説ですかね。95歳(数え年)で亡くなる直前まで、自分の足で歩ける健脚を誇った伊都子さまなんですが(笑)。

堀江 当時はご自分でお弁当を持つようなことはなく、侍女がそれらを捧げ持って一緒に通っているし、伊都子さまが学校で授業を受けている時は、控室でその侍女が下校時間までお待ちするという。我々の目には過保護すぎる生徒でいらっしゃいました。

 ついでにその弁当も、オカズに焼き魚が入っていると、裏返して食べたりはしないんだそうです。半身は残すんですね。魚を裏返す姿が「せせこましい」からでしょう、きれいに残しちゃう(笑)。彼女にいわせると、それも伊都子さまいわく「厳しいしつけの一貫であった」と。

――食べる物がなくて泣いている庶民もいただろう時代に、やっぱり極めつけのお姫様学校は違いますねぇ。華族女学校というのは女子学習院とはまた別なんですか?

堀江 はい。1906年(明治39年)以降に“合体”していますが、それ以前は別ですね。伊都子様の小学科へのご入学は1888年(明治21年)です。基本的に学習院は上流階級の男子生徒のための学校だったので、上流の女子教育の場として、皇后および宮内省の管轄下に置かれた官立学校として1885年(明治18年)に作られています。

――皇后様の管轄下ってのが、すごいですね。

堀江 そう。同校は、小学科(現在の小学校)と中学科(中学~高校)に分かれていました。教授陣には2024年からの新5千円札の「顔」である津田梅子もいたそうですが、津田梅子の弟子の山川菊栄の言葉によると、華族女学校時代、津田先生は「まるっきり勉強する気がない」生徒ばかり担当させられ、嫌気がさしたそうです(『現代日本記録全集10 明治の女性』内、山川菊栄と原田伴彦の対談より)。

 津田梅子は本当に手に鞭を持って(!)授業に臨んでいたのに、拍子抜けしてしまうくらい、生徒の学習意欲がなかったようですね。うんざりした津田先生は約3年で華族女学校を離職、津田義塾を創建するに至ったのでした。

――ビシバシできなかったんですね。この頃のお嬢様って、それほど勉強しないものなんでしょうか(笑)?

堀江 学問への関心が相対的に低いようです。勉強しすぎると、女としての価値が下がるみたいな気風は確実にありました。現在なら非常に問題になるところですが(笑)。学校には行儀作法や、書道などだけは完璧に身につけたレディーばかりが入学してきたようですよ。まぁ、当時の「女のたしなみ」ですよね。

――女は勉強なんかしなくていい、という時代ですか……。勉強しないなら、学校へ行く目的はなんだろうと思ってしまいます。

堀江 授業参観日に、誰かのお母様の目に止まって、お声がかかってご婚約。その時点で途中退学する「寿退学」こそ、華族の姫としての最高のステイタスだと教えられているのです。というわけで、あまり学問習得には熱心ではなく、ぼんやりとして見える生徒さんが多かった様子。とくに数学と外国語の成績が、悲惨なまでに悪い学生が大量にいたそうです。

 伊都子さまのご入学は1888年(明治21年)以降だそうですから、津田梅子が教鞭を取っている時期にあたります。伊都子さまの自伝でも津田先生については、まったく触れていませんが、当時はまだ小学科ですから、英語の時間はなかったのかもしれません。

――伊都子さまのご成績は……?

堀江 伊都子さまはフランス語などをお妃教育の過程で猛特訓なさって、外国に行ったときも驚かれるレベルで話せたし、後には赤十字社から「看護学修業証書」まで与えられていますから、ご成績自体も良かったのではと推察されます。

 ちなみに名前こそ「華族女学校」なんですけど、平民もしくは士族の女生徒のほうが華族・皇族のお姫様よりも数が多かったってご存じですか?

――ええっ、華族女学校なのに? ……次回に続きます!

 

「お次は悠仁さま」? 皇族恒例の伝統、後継者は「めんどうくさいからやらない」と本音ポロリ

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回まではこちら。

――5月頃、雅子さまが、美智子さまがこれまでお世話していた「お蚕の飼育」を引き継いだというニュースがありました。これは女性皇族だけのお仕事といえるのでしょうか?

堀江宏樹氏(以下、堀江) はい。女性皇族のお仕事というと、「お世継ぎを……」とかいう話ももちろんなのですが、さまざまな人と会い、さまざまな場所を訪問する、通常のご公務のほか、文化・伝統の継承も見逃せないです。

――妃殿下は大変ですね。

堀江 そうですねぇ。さて、先程のお蚕の話題ですが、正式には「御養蚕始の儀(ごようさんはじめのぎ)」のことですね。歴代の皇后陛下が、皇居内の御養蚕所で蚕を飼うという伝統がありました。明治4(1871)年以来の「長い」伝統です。

 皇后さま直々にお世話する蚕は「小石丸」という純国産の特別な品種なんですね。明治時代の日本の輸出物のトップは長い間、生糸……つまり、蚕のマユを解いて作られる絹糸でした。小石丸の糸は、その他の蚕の糸よりも2分の1程度の細さなのに強靭で、つややか。織物に仕上げた時、薄くて軽いのに丈夫な布に仕上がるのが最大の特色です。

 たとえば、いわゆる「十二単」などの御装束は、究極の重ね着というかレイヤードファッションなのですが、小石丸の絹糸で織られている場合、重さも厚みも何割もダウンさせられるので、着心地も見た目もグンとあがるのです。

 美智子様が育てられた小石丸の絹糸が、正倉院(8世紀の聖武天皇・光明皇后の遺品を中心とするコレクション)に受け継がれた絹織物などの修復に使われたりしたこともありましたね。

堀江 ただ、小石丸は病気に非常に弱く、糸の量も少なく、皇居の外ではほかの品種の蚕に切り替える農家さんも増えました。昭和の末には、皇居でも「そろそろ止め時かなぁ」となっていたのですが、美智子様(現在・上皇后)が「なんとかもう少し……」と踏みとどまってくださったおかげで、伝統がつながったのですよ。

 ただ、生き物相手ですから、難しさはありますよね。お蚕って、自分も昔、飼育キットでお蚕を最後まで育てたことがありますが、結構大変ですし、だんだんめんどくさくなった記憶が……。

 雅子さまも、責任重大だと感じておられるのではないかな、と……。

――日本古来の伝統を、次の世に伝えるというお仕事も、男性というより女性皇族の重要なお役目なんですね。

堀江 そうですね。「文藝春秋」(文藝春秋)昭和51年2月号の「新春座談会 皇族団欒」という記事を見ていると、あきらかにそういう面は感じられました。逆にいうと、夫である宮様から押し付けられているような部分も感じられたり(笑)。

 皇居のお正月行事の中に「歌会始」がありますね。それに提出なさるお歌以外にも、皇族となったからには、「お歌を詠んでいただかなくては……」という空気はあって、皇族がたには毎月毎月、歌のお題が与えられるのだそうです。

 専門的には「ご兼題」というのですけど、そういう明治以前からの伝統の保存に非常に熱心だった貞明皇后(大正天皇皇后)が、ご存命だったころとはうってかわり、今では歌を詠むことは義務ではないということで、ほとんど詠まないという皇族方も増えた……というわけです。あくまで令和2年の話ではなく、昭和後期の話ですがね。

――ということは詠まない皇族もたくさんいらっしゃる?

堀江 昭和後期にはそうみたいですね。とくに男性皇族がた。高松宮宣仁親王はなんと「(毎月は)詠んでない、めんどうくさいから」とまで言い切っておられます(笑)。昭和後期の男性皇族の一部は高松宮さまのように「別に義務じゃないなら、詠まない」と言い切ることも可能だったようですよ。

 一方、そう言い切れる自由があるらしい男性皇族がたに対し、妃殿下がたは「毎月出さなきゃならないから(高松宮喜久子妃)」「毎月は女だけね、東宮妃殿下(=美智子さま)初めとして……(秩父宮勢津子妃)」とコメントなさっています。男女格差ですね(笑)。

 ただし現代では、そこらへんの事情についてはわかりませんよ。とくに平成の天皇・皇后両陛下は伝統の継承ということに非常にご熱心でしたから。トップの醸し出す空気に皇族全体が感化されるということもあるわけで、提出率は男女ともども、上がっているのではないかなぁ……とも個人的には思われます。

――ほかにも皇族が受け継いでいる重要な伝統ってあるのですか?

堀江 ありますよ。女性特有の伝統というわけではありませんが。書道に詳しい方ならご存知かもですが、有栖川宮家が生み出し、その後は皇族、もしくはその家族に継がせていく独特の書体「有栖川流(ありすがわりゅう)」というものがありましてね。

 一般庶民には書くことも許されないものでもなく、書道展でも目にすることができるほど有名な書体ではありますが、正統後継者といえる方が減っていって、昭和後期には高松宮喜久子妃お一人だけになってしまったそうです。

 その喜久子さまが、秋篠宮さまにお教えして伝統をつないだ。ということは、お次は悠仁さまでしょうか……。

 平成29(2017)年の夏休み、秋篠宮さまは悠仁さまもご同伴で、日本古来の方法で筆を作るという「攀桂堂(はんけいどう)」という工房を訪ねておられたそうなので。書道の英才教育が施されているような気がしてなりません。悠仁さまも大変だなぁと思いつつも、皇族も男女平等の時代ですから、伝統の継承についても、男女で分かち合い、次代に受け継がれていくとよろしいですね。