眞子さまだけじゃない! 日本中を騒がせた、プリンセスの恋人は「非常識で失礼な男」!? モメにモメた結婚問題の行方

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――先日、秋篠宮眞子さまの「婚約者」である小室圭さんの長文手記が公表されましたが、お二人にとって、世論はより厳しいものになった気がします。今回は結婚に苦労したプリンセスのお話を聞かせてください。

堀江宏樹氏(以下、堀江) この連載の中でも何度も触れてきましたが、皇族の“プリンセス”の結婚のハードルは伝統的に、かなり高いのですね。明治以前の皇室には、皇族の人数を制限し、皇族が“貴種”であることを維持するため、皇子・皇女に生まれた方々の大半が結婚できないという厳しいルールがありました。皇族の男性以外と皇女が結婚できた例はさらに珍しく、皇室の長い歴史の中でも、現時点でたった36名です。

――元・乃木坂のメンバーだった深川麻衣さんがNHK大河ドラマ『青天を衝け』で演じて話題になっている、皇女・和宮のケースは? 和宮は第14代将軍・徳川家茂に嫁いだのですよね?

堀江 和宮もその36人の中の1人ですね。でもそれは、和宮の悲しい出生に対して与えられた一種の“ボーナス”なのです。和宮が母君のおなかの中にいる時、父帝・仁孝天皇が崩御なさいました。(異母)兄である孝明天皇を父がわりにして育ったのが和宮という方です。だから、孝明天皇は不幸な妹君に、結婚という権利を与えたといわれます。

 皇族方は天皇による裁可なしに、結婚できないのは江戸末期も現代も同じなのですが、当時は結婚できるかどうかが決まるのも、天皇の御意志次第なのです。そして特に皇女は結婚できないのが普通でした。

――皇女も普通に結婚できるようになったのは、いつ頃ですか?

堀江 明治以降のことですね……。そもそも皇女にふさわしいお相手といえば、高い家柄やステイタス、そしてお人柄の良さ。さらに皇女と適切な年齢差におさまる方以外に考えられず、そうなると、本当に皇女にふさわしいお相手は「この世に、ほとんど存在しない」ことになってしまいます。

 小室圭さんの長文レポートを読んだ世間の反応を見ていると、大半の方が、いまだに小室さんが皇女にふさわしい相手ではないと考えていることがわかります。ちなみに、イギリス国王の座を捨てて、意中のアメリカ人女性ウォレス・シンプソンと結婚することになったエドワード8世のケースでは「世論が真っ二つ」になったそうです。二度の離婚歴と、悪い素行の噂がある平民女性と、イギリス国王の結婚を一部の庶民は歓迎しましたが、上流階級は大反対。それでも国民全体では賛成と反対の比率は半々くらいでした。

――それでもエドワード8世は退位するしかなかったのですね。ある調査では「結婚に反対」が9割にもなった小室さんのケースはどう考えればよいのでしょうか?

堀江 立憲君主制における王族・皇族は国民の意思をムシして行動することは、元来できないハズなのです。しかしそんな小室さんを、眞子さまが全面的に支持しているという宮内庁の発表があると、世の声はさらに騒然としてきました。

――お金に関しては、小室さん自身の問題というより、お母様の問題かなとは思うので、彼には気の毒な部分があると思いますが……。

堀江 ある女性週刊誌では、宮内庁関係者の声として、「もうこうなってしまっては、眞子さまは一日も早く小室さんとご結婚なさって、皇室から遠いところでお暮らしになったほうがいい」というようなコメントを載せましたが、「もう、それしか道がなくなった」というあたりが真意でしょうね。

――結婚後も皇室の公務を担当しつづけるような、女性宮家創設の気運はこれで落ち着くでしょうか?

堀江 そうですね。眞子さまがほかの男性を選べば、しないでよい苦労をなさるであろうことは間違いないのでしょうが、それでも小室さんと結婚したいと考えていらっしゃるのであれば、もうどうしようもない、という感があります。

 私見ですが、眞子さまが小室さんとの結婚にあれだけこだわる理由には、世間から数々の理由で叩かれる小室さんとそのご家族が「生まれもった身分やステイタスが原因で、不当な差別を受けている」とお感じなのかも。ご自分が彼らを守ってあげなくては、という思いがお強いのかもしれません。秋篠宮家のイメージダウンは避けられませんが、こうなっては一日も早いご成婚と眞子さまの皇室離脱が、将来の天皇といわれる悠仁親王殿下にとって最良の選択肢になる気がしてきました。

 さて今回、結婚問題でモメにモメた例としてお話するプリンセスは、プリンセスではありますが、清朝のラストエンペラー・溥儀(ふぎ)の姪に当たる、愛新覚羅慧生(あいしんかくら・えいせい)という女性の悲恋、そして悲劇の死についてです。昭和中期の日本を騒がせた事件ですね。

――ラストエンペラーの姪に起こった悲劇の死、ですか……。

堀江 慧生さんも、すんなりと家族や世間に認めてもらうには難しい相手に熱烈な恋をしてしまいました。お相手の名前は大久保武道さん。青森県の裕福な実業家のご家庭出身で、慧生さんとは学習院の同窓生として出会いました。

――いつの時代もさまざまな生徒が通う大学は、プリンセスにとって貴重な出会いの場なのですね。

堀江 清朝の皇帝一家である愛新覚羅家は、日本の皇室とは血の繋がりはないものの、親戚のような存在です。慧生さんの御母上は嵯峨浩(さが・ひろ)さん。侯爵家の令嬢です。日本の皇室からも大いに期待され、当時、満州国の溥儀皇帝の弟君・溥傑さんに嫁がれました。

 嵯峨さんが、溥傑さんの好きな女優の草笛光子さんに似ているという理由で選ばれたともいいますね(笑)。

 お二人の長女として生まれた慧生さんは5歳以降を日本の嵯峨家で過ごし、事件当時は学習院の国文学科に通う女子大生だったのです。中国と日本の架け橋となるべく、日本の古典を翻訳して中国に紹介したいという夢を持つ、前向きなプリンセスでした。

――国文学科に進まれたのですね。そこで大久保さんと運命の恋に落ちた……。

堀江 一方、大久保さんは合気道など武道に秀でた方で、写真を見るかぎり、健康そうな方です。しかし、堂々と愛人を作ってしまう自分の父のあり方に大久保さんは大いに悩んでおり、死を考えるようにまでなったようです。慧生さんのようなプリンセスのお相手として、自分はふさわしくないという気持ちも強かったようですね。

――大学進学する人もまだ少なかった当時、学習院の学生同士であれば、「身分違い」ということではなさそうですが。

堀江 慧生さんの家族には彼が非常識で、失礼な男性だと思われました。普段から彼の服装はだらしない感じだったようですが、そのままで嵯峨家を初訪問してしまったのです。

 大久保さんが帰った後、彼の服装に関して慧生さんは家族から皮肉を言われてしまった、とクラスメートの女性に明かしています。

――せめて好きな女性のご家族に初めて会う時くらいは、身綺麗にしていこうと思うのが普通でしょうが、そういう発想が彼にはなかったのでしょうか。

堀江 大久保さんは、青森の裕福な実業家の家庭に生まれ育ったお坊ちゃまですが、高校まで武道一筋。当時の学習院の中では浮くほどバンカラな学生とされていました。しかし、実情は人慣れ、世間慣れしていなかったようですね。

 服装に構わないのは、自分に自信がないから。あるいは自分のことが嫌いだから、キレイに装うのは自分なんかにはふさわしくないと考えるという、ねじれた心理があったのかもしれません。

堀江 人気者だった慧生さんは、都会っ子だらけのクラスの中で青森弁の訛りを気にして、誰とも打ち解けられない大久保さんと周囲の橋渡しをしてあげたようです。すると大久保さんからものすごく感謝され、強い好意を向けられるようになり、アプローチも受けるようになった。その中で、気持ちを絆(ほだ)されてしまったようですね。

 当初は慧生さんも、彼に違和感があったようですが、何度も絶交宣言を互いに出したり、出されたりしながらも、すぐに復縁して、その度にいっそう惹かれ合ってしまいました。

――まるで陰キャと人気者のお嬢様の恋……漫画やアニメでは見たことがありますが、本当にあるものなのですね。次回に続きます!

「小室さんとの結婚」もはや天皇命令!? 皇族の“婚約破棄”と“再婚”にみる、眞子さまの「正しさ」とは

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

▼前回▼

――大正時代に起きていた皇族の結婚トラブルについて、前回に続いて聞かせてください。現代の眞子さまが、「結婚したい!」というご意志をお持ちなのとは逆で、大正時代の久邇宮朝融王(くにのみや・あさあきら・おう)は「婚約はしたけど、結婚したくない!」と“ワガママ”を言いだしたと聞きました。

堀江宏樹氏(以下、堀江) しかし、朝融王のフィアンセである酒井菊子さん(の実家)は、婚約解消には断固反対。菊子さんには、朝融王への特別な思いがあったという形跡もあり、菊子さんの父である酒井伯爵は「愛娘をキズモノにするおつもりか!」と久邇宮家に猛然と反抗しつづけたのでした。

 それでも久邇宮家側は、「皇族である自分たちが、天皇陛下から勅許をいただいた婚約を自分の手で解消することなどできない! 酒井家から辞退しなさい!」というばかり。

――両家の関係がこじれているように見えますが、宮内庁はどう立ち回ったんでしょうか?

堀江 久邇宮朝融王に対し、「結婚問題で皇族がこれほどモメたのは、皇室の権威を損ねること。かくなる上は、臣籍降下して責任をお取りなさい」という提案が宮内府(当時の宮内庁)からなされました。しかし、久邇宮家はそれにも猛反発。

 ちなみに、これらのやりとりはすべて秘密裏に行っていたのですが、きな臭いニオイを嗅ぎつけた記者たちの手で、複数の新聞がこの問題をスクープ。収集が完全につかなくなりました。裕仁親王(後の昭和天皇)によって結婚の勅許が与えられてから、約2年後の1924年(大正13年)9月のことです。

――現代の眞子さまのケースでも、小室さんと結婚するなら臣籍降下してから……という声が以前からありましたよね。皇女として眞子さまが、小室さんと結婚するなら、1億円以上にのぼる「一時金」が発生することが問題視されているようですが。

堀江 問題を起こした皇族が、皇室に責任を取る方法のひとつが臣籍降下、つまり平民に身を落とすことなんですね。これは武士における切腹に相当する行為です。

 ですから、眞子様に臣籍降下などと世論が言い出すのは、切腹勧告しているようなものでまったく感心できません。

――皇族の方は結婚問題で一度、炎上し始めると、鎮火しにくいのでしょうか。

堀江 そうですねぇ。家と家だけの問題を通り越して、国民から“監視”されてしまうことになるので……。ですから、皇族の結婚はトラブルが起きた後の処理が、本当に難しいんですよね。

しかし、朝融王の婚約拒否問題では、事態は思わぬ展開をみせました。お話したとおり、菊子さんに、新しく良い結婚相手が見つかったのです。

――でも、正式に破談していない状態ですよね?

堀江 そうなんです。たしかに、婚約破棄していない状態での新しいお相手探しは困難を極めましたが、ハンサムな資産家でお家柄も高い前田利為(まえだ・としなり)侯爵に白羽の矢が立ち、見通しが立ったのです。

 ただし、前田利為侯爵は先妻を病気で亡くしており、先妻との間に子どももいました。要するに菊子さんは後妻になるしかなかったのですが、それでも……ということで、両者は結婚することになります。

 こうして1924年(大正13年)11月、酒井家からの辞退を申し出ることによって、ようやく朝融王との婚約は解消されました。

「小室さんとの結婚」を言い続けるのは正しいこと

――勅許が与えられた直後に婚約破棄の声が宮家から上がって、ほとんど5年ですか。ちなみに眞子さまと小室さんも裁可から来年で5年目くらいになりますが……。

堀江 これまでお話してきたように、先例に従うと、皇族にとって天皇による結婚の裁可は、結婚の命令にほかならず、皇族側からはそれを拒絶することは難しい。

 だから眞子さまが、「小室さんと結婚する」と言い続けるのは皇族としては「正しい」態度ということになります。一方で、秋篠宮家および皇室に対して、大ダメージを与え続けていることにもなっている気がしますが。小室さんが結婚を辞退すれば、破談の可能性はまだありうるのでしょうが、やはり天皇の裁可を頂いた婚約を、リセットすることは非常に難しいでしょうね。

――ちなみに、前田家に嫁いだ菊子さんはどうなったのでしょうか?

堀江 お子様にも恵まれ、とても幸せな結婚生活だったようです。しかし、1942年(昭和17年)、軍人であった前田侯爵が戦死なさいます。そして戦後、しばらくして、あれだけ婚約解消問題でモメにモメた久邇宮朝融王から、「私と再婚しないか?」というお話が菊子さんのところに来たというのですね。

――えええ! それはどういう風の吹き回しですか!?

堀江 正確には久邇宮朝融王は1947年(昭和22年)、「皇籍離脱」によって民間人となっているので久邇朝融というお名前になっているわけですが。

 朝融王は伏見宮家から知子女王という方を妃に迎えていましたが、皇籍離脱の少し前に先立たれてしまっていました。そこでの再プロポーズの話です。ここで菊子さんが愛娘・美意子さんに語り聞かせていたという、恋仲だった二人を、「唐獅子」と呼ばれた侍女が引き裂いた! という“逸話”に、妙な信憑性が高まってくるのですよね~。

 夫・前田侯爵とのロマンスならともかく、婚約解消した相手である朝融王との恋の逸話を、前田侯爵との間に授かった娘に聞かせてるわけですから……。

―――たしかに“何か”があったのかもしれませんねぇ。

堀江 朝融さんの嫡男である邦昭さんは、この逸話を完全スルー、つまり否定していないのです。まぁ、否定する価値もない話として取り上げなかっただけかもしれませんが。

 皇族の結婚問題、特にトラブルが起きた場合、そこには世間を騒がせるだけの要素がたくさん秘められているものなのです。

 しかし、大正時代の久邇宮家に対し、現代の秋篠宮家の眞子さまは皇室との距離が非常に近いのです。今回のような結婚トラブルとなると、皇室に与えるダメージの大きさは計り知れないものがあります。ここは1日も早く、問題解決されることを望むばかりですね……。

皇室に起こった“婚約破棄”騒動、信じられない「ムチャな理由」! 宮様のワガママで大波乱

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

眞子さまと小室さんよりお騒がせ! リアル婚約破棄の皇族

――小室圭さんが長文レポートを出してから、その内容に批判が殺到しています。ネットでは「小室さんとの結婚は考えなおすべき」という論調がいっそう高まった気がしますが、一方で、宮内庁は「眞子さまと小室さんの結婚は規定事実」という構えのようです。過去の皇族方に「婚約解消」の騒動はあったのでしょうか?

堀江 大正時代末~昭和時代初期に、有名な婚約破棄事件がありますね。結論から申し上げると、天皇の結婚の許可が下りた後でも、皇族の婚約破棄は可能のようです。それには凄まじい困難が伴うのですが。

 天皇による結婚のおゆるし、つまり裁可が下りたということは、結婚の命が下ったも同然なのですね。とくに皇族は天皇陛下には絶対服従ですから、天皇の命令を拒絶することは無理なのです。この場合、皇族の婚約者が、結婚を辞退するという場合に限って、つまり皇族が、相手から「振られる」という形でなら、婚約解消が可能になりうるのです。

 今回お話するのは、久邇宮朝融王(くにのみや・あさあきら・おう)という、近代の皇族の中でも1、2を争うお騒がせの宮様のお話です。

――久邇宮家……どこかで聞いたような……。

堀江 詳しい方はピンと来るかも知れませんが、この方は昭和天皇の皇后である良子さまの父宮でいらっしゃいますね。

 さて、1917年9月、久邇宮朝融王と酒井菊子さんの結婚は、両家で結婚の「内約」が交わされ、その年のうちに大正天皇から「内許」が与えられることで動き出しました。これは内定にあたりますが、内許が与えられた時点で、引き返すことは一気に難しくなるのです。

 大正天皇の病気の関係で、内許につぐ「勅許」を与えたのは、裕仁親王でした(のちの昭和天皇)。これが1922年6月のことですね。

――ちなみに、眞子さまと小室さんの結婚について、現在の上皇陛下からおゆるしが下りたのは、2017年9月3日のことです。

堀江 眞子さまと小室さんの結婚が、その後に問題が噴出したことでストップしているように、久邇宮朝融王と酒井菊子さんの結婚も、そこで止まってしまったのです。しかし、その理由は朝融王が、菊子さんと「結婚したくない!」とワガママを言い出したことでした。

――えええ……! なぜ急にイヤになったんですか?

堀江 朝融王ご本人の主張では「菊子さんの貞操問題」だそうです。男性関係で妙な噂が立っている女性と私は結婚したくない、と。

 しかも、それは根も葉もないうわさにすぎませんでした。うわさの出どころの女性に確かめると「私はそんなことは言った覚えはない!」と否定されてしまいます。「最初はすごく良いと思っていたけど、なんとなくイヤになった」という「だけ」で、朝融王は菊子さんとは結婚したくなくなったらしいのですが、一度口にしてしまったことは、押し通すという困ったお人柄だったようです。

――そんなムチャを婚約者から言われ、菊子さんはどうなさったのでしょう。

堀江 酒井家はこの辺りの資料を公開していません。ちなみに……酒井さんは、この事件の後、前田利為(まえだ・としなり)侯爵の後妻となるわけですが、侯爵との間に授かった娘・美意子さんに語り聞かせた逸話があるのです。ほとんど歴史家の間では取り上げられないのですが、これがすごいんですね。

 風貌からのあだ名みたいですが、「唐獅子(からじし)」……つまり、ライオンと呼ばれていた侍女が久邇宮家におり、朝融王と菊子さんの結婚に猛反対。いろいろと手練手管を使って最終的に破談に導いたのはこの女の暗躍だった、と。

――ええっ、本当なんでしょうか。

堀江 菊子さんが愛娘である美意子さんに創作して語った、一種のおとぎ話ではあったのかな、とは思います。ただ、約束どおり、結婚してもらわないと困る! 婚約解消などされたら娘にキズが付く! と菊子さんの父・酒井伯爵が猛主張した背景には、菊子さんの朝融王への好意が少なからず反映されていたのかな……とも思います。

――菊子さんは、あそこまで言われても朝融王に特別な感情を残しており、彼と結婚したかった、ということですか?

堀江 はい。菊子さんの娘・美意子さんが自伝『ある華族の昭和史』(講談社)で語っているのですけど、両者は学習院時代からの顔見知りで、挨拶を交わす仲だったというのですね。当時の皇族・華族の男女は、いくら婚約していても、結婚するまで、親密にお付き合いすることは難しいのですけれど、それでも二人の心はひとつだった、と菊子さんは語っていたわけです。

 やっと婚約にこぎつけたのに、そこで結婚を妨害しようとする侍女・唐獅子が現れ、激怒した朝融王は「下がれ、無礼者!」と唐獅子を一喝、「その声は実に雄々しく威厳に満ち、両手の拳はブルブル震えていた」と菊子さんは、美意子さんに語っていたそうです。

――朝融王のキャラクターがまったくつかめないのですが、びっくりです。

堀江 本当に。結局、このケースでも破談しちゃうわけですし。当時、この問題に心を痛めていた西園寺公望の評では、朝融王は「不良」と切り捨てられているんですけどもね。

 お話がもどって、菊子さんの父である酒井伯爵がいくら猛抗議したところで、宮家の返事は依然としてNOのままでした。

――どちらも頑固ですねぇ……。

堀江 とくに解せないのは宮家の態度なのです。息子のワガママを、久邇宮朝融王の父宮である邦彦王が諭すところか、熱心に擁護しちゃうのですね~。

 この邦彦王という方も、細川家の令嬢・悦子さんという女性を結婚寸前に振ッて、島津家の令嬢・俔子(ちかこ)さんという方に「乗り換え」しちゃったという逸話があるわけです。

――すごい話がポンポンと出てきますが、親子二代でお騒がせ皇族ですか。お父様のときは、問題にならなかったのですか?

堀江 島津俔子さんと、邦彦王のご結婚は1899年(明治32年)のこと。細川悦子さんとモメたのはその前。時代がより古かったこともあるし、このケースでは、天皇によるおゆるしを得ていない段階での破談だったことが幸いしたようです。問題は表沙汰にはならず、久邇宮家で内々に語り継がれるだけの話になっていたようですね。

 ところが、大正時代の酒井伯爵は、朝融王に予定通り結婚することを求めつづけました。酒井家の“旧主”である徳川家も間に立ち、宮中関係者も必死の仲介を続けますが、両者の主張は平行線のままでした。

――解決の糸口がまったく見えませんが、次回(5月15日)に続きます!

皇后さまと女官の複雑な関係明らかに!? 知られざる寵愛と「手紙」の存在

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

前回まで……昭和時代の宮中で本当に起きた「魔女追放」事件。当時の皇后様(後の香淳皇后)の腹心の部下であったはずの女官・今城誼子さんは、宮中祭祀に非常に熱心な方で、皇后さまにも強い姿勢で祭祀に関して物申していましたが、それゆえに神がかりの“魔女”として汚名を着せられ、ついに宮内庁の権力者・入江相政氏によって追放されることになりました。

皇后さまと女官の複雑な関係

――皇后さまは寵愛していた女官・今城さんの退任時、突然の別離に嘆いておられるだけでなく、御機嫌なご様子の時もあったと、前回うかがいました。どうにも矛盾した様子を覚えるのですが……。

堀江宏樹氏(以下、堀江) この問題は重要かと思われます。ちなみに、皇室ジャーナリストの河原敏明さんは、この皇后さまの「矛盾」について特に言及なさっておられません。ですから、これは僕の推論ということになりますが……。

 天皇陛下に物申すことが立場上許されていない皇后さまにとっては、今城さんの言うことは確かに正論なのかもしれないけど、いつしか「正論で殴られる」というお気持ちに、なられていたのかもしれない。

 入江氏は、日記の中で皇后さまが「長年、魔女におどされつづけていた」ということを何度も書いています。宮中祭祀をもっと熱心にしないと、皇室は滅びる、日本はおかしくなるのでは? という“警告”が、今城さんからあったことは簡単に推測できますよね。それを「脅し」と入江氏は表現したのであろう、と。そして、それに信心深い皇后さまが影響されないハズがない、と思われます。

 昭和天皇に「祭祀をさらにご熱心に行ってください」などと伝えられるのは、皇后である自分しかいないと思われたでしょうが、同時に慎み深い方ですから、いくら侍従長を通したところで、皇后として天皇に物言いをすることは越権行為であると苦しく感じられていたのではないでしょうか。

 そして、皇后さまは、今城の言葉と自身の立場のジレンマに長年、苦しんでおられたのではないか……と。

 皇后さまにとって、今城さんは頼りになる女官だったことは事実でしょうが、彼女の存在が、皇后さまにとって一種の重荷であったことも間違いはないと僕は感じています。今城さんが退任すれば、その“しこり”もすべて取り払われたことになりますから、それが意識的・無意識的かはわからないにせよ、皇后さまの「御機嫌」のよさにつながっているのではないか、と。

――複雑な胸中ですね……。でも、信頼しつつも心的な重荷になっていた気持ちはちょっと理解できます。一方で、宮中から退任した今城さんのその後は?

堀江 当時64歳の今城さんは独身で、実家に帰るというわけにもいまさら……という状態でしたが、女官時代の今城さんに奉仕していた美佐恵さんという女性を養女にしていたそうです。

 女官が私的に雇う使用人のことを「家来」と呼び、家来は女官を「旦那さま」と呼びます。今城さんの養女になった当時の美佐恵さんは、30歳。家来から旦那さまの養女というのは、出世といえるでしょうね。

 今城さんが仕事を辞めるという昭和46年6月30日、皇后さまは「今回は讒言(ざんげん)によって、今城さんを解雇せざるを得なくなったけれど、あなたの人柄は私が保障するから、いつか折をみて再任する」という趣旨の直筆の手紙を手渡されています。また、赤坂御用地内で暮らしている頃、今城さんのところに皇后さまから電話が3回かかってきたとか……。

 女官として解任された後、今城さんは約半年の間、宮中近くの赤坂御用地内で暮らしていたのです。詳細は公表されていないのですが、関東の富裕な一族出身の美佐恵さんが継承した土地に、今城さんと住む家を新築するまでの配慮だったとか。

――皇后さま、今城さん、そして養女・美佐恵さんという女たちの関係が素敵ですね。

堀江 その後も今城さんと宮中との縁が完全に切れたというわけではなく、年に何回かは、宮中に招待され、皇后さまとも面会なさっていたようですね。入江侍従長による例の『入江相政日記』(朝日新聞社)の刊行がはじまった平成2年(1990年)には、まだご存命でしたので、入江氏による魔女呼ばわりに気づいておられかもしれませんが、誰にも会おうとはせず、何の反論もしないままでした。そして、平成5年2月に85歳で亡くなられたそうです。

――入江氏の日記ですが、全文公開ではないという説もありますね?

堀江 そうですね。ただ……魔女騒動が克明に記されてある昭和45年~47年の3年の入江氏の日記を通読したのですが、彼が自分の「肛門の出来物」とか「水虫」の状態に一喜一憂する様子なども書かれたままです。

 あと昭和45年5月11日の日記では、美智子さま(現・上皇后さま)の祖母にあたる正田きぬさんがお亡くなりになったと書かれているのですが、なぜか「正田きぬ逝去」と、呼び捨てのままです。入江氏が、こういう呼び捨てをするのは非常に珍しいのですが。

 かつて入江氏が執筆したコラムの中で美智子さまの描かれ方を巡り、お二人に反目があったともいわれます。この呼び捨てにも、何らかの不和を感じさせる部分ではあります。

――水虫や痔のことまで、そのまま公開してるんですね(笑)!

堀江 そう(笑)。だから大幅な編集が行われていたなら、こういう入江氏のご家族にとって好ましくない部分もカットになるのではないでしょうか?

 ですから、入江氏の日記は魔女の件も含め、ほとんど内容は修正されずに世に出されたと考えてよろしいかと思います。昭和時代の宮廷を知るための第一資料ですから、ご家族の方の勇気とご英断には感謝しかありません。

――魔女の件でわかることは、宮中の祭祀の問題が非常に大変で、根深く、そして現代に引き続いているものであるということですね。

堀江 そうなんです。たとえば平成時代、天皇として熱心にご公務と宮中祭祀の二つを、こなしてこられた現・上皇さまですが、これは上皇さまがスーパーマンとでもお呼びしたいくらいの方だったからこそ、はじめて可能だったということです。

 昭和天皇が宮中祭祀を減らしていかざるを得なかった70代の時、上皇さまは上皇后さまとご一緒に、代理を立てずに、御自身で祭祀に出席されつづけました。

 昭和の伝統を平成時代には強化していかれたわけですが、それは上皇さまにとって、ご公務と宮中祭祀という二つの軸の両立こそ、天皇のつとめであるという強い信念がおありだったからでしょう。

 現時点ではコロナの影響で、皇室の方々のご公務は控え目になっています。それでも、皇居では宮中祭祀、つまり「いのり」は途絶えることなく続いているかと存じます。令和時代の皇室のご公務と宮中祭祀のバランスは、どうなっていくのか……。それについてお話しするのはまだ少し先のことになりそうです。

天皇陛下を味方につけた侍従長、女官を追放! 宮内庁に渦巻く“男の嫉妬”が生んだ悲劇

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

前回まで……昭和時代、皇后さまの信頼を一身に集めながらも、宮内庁から「魔女」と呼ばれた女官・今城誼子さん。宮内庁の権力者、入江相政侍従長はその今城さんを憎々しく思い、あることないことを宮中で触れ回り、ついには皇后さまを新興宗教に傾倒させた犯人として、晒し上げるという暴挙に出ました。そしてついに、魔女狩りに断行するのです。

――前回は、天皇皇后両陛下の寵愛を女官・今城誼子さんに奪われたと感じた入江相政侍従長の“男の嫉妬”が、魔女狩りにつながったというお話でしたが……。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 皇后陛下の寵愛を、女官・今城さんに奪われたと入江氏が感じていたというエピソードがあります。

 入江氏は、あの藤原定家の血を引く、旧華族の出身です。「歌の家」の生まれでしたから、それにもプライドを持っています。もともと宮中の新年恒例行事である「歌会始」で、皇后様のお歌を清書する役割は入江氏だったのに、それをある時以降は「今城誼子に書かせる」と言われ、大ショックを受けていたそうです。

 ただ、この話は皇室ジャーナリストの河原敏明氏の主張で、どうやらその出所は今城誼子の養女だった美佐恵さんという女性であり、入江氏の日記ではなさそうなことを考えると……。

――どの程度まで信頼できるかという話でもありますね。

堀江 そこなんです。入江氏が今城さんを魔女として追放した後、今城さんはマスコミとの接触を絶ったまま亡くなりましたから……。

 宮中関係者しか知り得なかった、一連の魔女問題の情報が世に出始めたのは、平成になってから。すでに亡くなっていた入江氏のご子息の手で『入江相政日記』(朝日新聞出版)の刊行が始まってからなのでした。

 理由はともかく、魔女こと今城さんの女官解任は、入江氏とその周辺の間で練り上げられ、昭和天皇の了承を得た上で、計画されました。しかし、今城さんには寝耳に水の出来事で「私、どうして辞めさせられるの?」と周囲に聞いてまわるほどだったとか。

――今城さんに気づかれないよう、極秘裏に計画が実行されていたのがわかりますね。

堀江 解雇理由は、入江の日記によると「お供がいけないといふのに、置いておけないといふ理由」だったそうです。曖昧な表現ですが……この頃、天皇皇后両陛下はヨーロッパ訪問を控えていました。

 「そのお供には、今城さんが問題人物だから連れてはいけないし、そんな問題人物を、入江侍従長など“押さえ”が効く人物が留守中の宮中にも置いてはおけないから、今城さんには辞めてもらった」というような意味になると思われます。

 なぜ、ここまで入江氏が今城を問題人物として警戒しているのかといえば、皇室ジャーナリストの河原氏によると、宮中祭祀の場である宮中三殿にもエアコンなどの空調設備を取り付けようとした入江氏を、今城さんが「そんな神聖な場所に釘を打つことは許されない!」と止めさせたとか、今城さんが何やら神がかりな理由を付けて、歯痛の皇后さまを医者に診せようとしなかったとか、そういう“積み重ね”があるのですね。

――今城さんは、宮中の中でも強火の“祭祀至上主義者”で、入江は逆に“祭祀より別のおつとめを”という主義だと、前回に聞きました。理想の皇室像が異なるだけに、やることなすこと全部が癪だったのかも。

堀江 入江氏の胸の内を推測すると、例の性格、価値観の今城さんを外国なんかに連れて行ったら、宮中にいてもこの調子なのに、どんなトラブルが巻き起こるか! というものでしょう。

 昭和天皇も、今城さんにはあまりよい印象をお持ちではなかったことが推測されます。当初は、ヨーロッパ外遊に連れて行くべき女官として「魔女はどうもいけない(略)と(入江氏が昭和天皇に)申しあげたら、そのとおりだと仰せになった(『入江相政日記』昭和46年2月22日)」というくらい、天皇陛下も今城さんを警戒していたのです。

 だんだん皇后さまと距離を取らせるようにして、後に穏便に辞めてもらう程度の判断だったのが、皇后さまが「やはりヨーロッパに、今城も同行させたい」と何度も何度も主張するにつけ、皇后さまの背後の今城さんの存在を感じた入江氏が本気で怒ってしまい、最終的に、今城さんには「今、辞めてもらおう!!」となっていったことが、彼の日記からはわかります。

――偉い人を怒らせると怖いんですね~。

堀江 入江氏に何度拒絶されても、皇后さまが今城さんをヨーロッパに同行させたがったことは事実なんです。入江氏はそれを今城さんの入れ知恵であり、皇后さまに「私ぬきで皇后さまは本当に大丈夫なんですか!?」などと脅していたように、「感じていた」ことも推測されますね。そして手を焼いた入江氏は、ついに昭和天皇を味方につけます。

 たとえば、こんな文章が彼の日記に出てきます。皇后さまと入江氏が「今城さんを連れて行くか、行かないか」でバトルになった結果、皇后さまが「仕方ない」と折れたことを、昭和天皇に入江氏が伝えたところ「そんならよかったとの仰せ」(昭和46年4月3日)。

 しかしその後も、やはり今城さんの同行について考え直してほしいと皇后さまは問題を蒸し返し、入江氏が昭和天皇に相談したところ「そんなに言ふことを聞かなければやめちまえ」と仰ったそうな(4月9日)。ちなみに、これは今城さんだけでなく、皇后さまも「(旅行は)やめちまえ」という意味ではないでしょうか。

――素顔の昭和天皇、「そんなら」とか「やめちまえ」とか、意外に江戸っ子口調で頼もしいですね(笑)

堀江 恐らくですが、昭和天皇も、信心深い皇后さまを籠絡し、「祭祀をもっと重視してください」と迫ってくる今城さんの過剰な伝統重視について、つらいものをお感じだったのではないか……と。そもそも天皇の一番の“つとめ”である祭祀問題に、一人の女官が、皇后さまを経由してにせよ、ここまで迫ることが許されるのかどうかという問題でもありますね。

 昭和天皇の母宮で、昭和天皇に対して「祭祀には熱心さが足りない」と批判的だった貞明皇太后がまるで甦って、宮中祭祀を強いているかのような印象を、今城誼子という女官に感じていたのかもしれません。実際、今城は貞明皇太后の御所に勤めていた女官でしたからね。

――問題は根深いわけですね。みんないろいろと我慢していた不満が、何かをきっかけに一気に表面化して、爆発的に今城さん解雇につながっていく……。

堀江 天皇陛下の了解と共感を得た入江氏によって、今城さんの解任の話はトントン拍子で進み、昭和天皇が「魔女を去らしめることを早くやれ」と、催促なさった記録もあります(『入江相政日記』4月27日)。

 結局、この年、ヨーロッパ訪問が終了して少し落ち着いた7月30日付けで、今城さんはクビになってしまうのでした。女官としての最終出勤日は29日で、両陛下への御挨拶などをこなしたそうです。「これが最後という日、皇后さまはお部屋で泣いていらっしゃった(女官・久保八重子さんの証言)」ともいいます。

 しかし、解せないこともあるのですね。皇室ジャーナリストの河原氏の主張は、今城さんが辞めさせられ、ガックリと来た皇后さまは認知症などの体調不良が一気に進んだという論調なのですが、入江氏の日記を見ていると事態はそう単調ではありません。

――もしかして、皇后様と今城さんが、本当に一心同体ではなかったというようなことですか?

堀江 はい。たとえば、今城さんが女官を辞める約1カ月前のことです。今城さんは出勤しているものの、皇后さまの身の回りのお世話をするのは別の女官にだんだんとシフトさせられていました。

 ヨーロッパ訪問の女官リストに、今城さんの名前が入っていないことを入江氏が皇后さまに告げた6月10日、「(皇后さまが)大変ご機嫌だった」という、ある意味、謎めいた記述が出てきます。また、6月16日に今城さんの罷免の決定が、入江氏から皇后さまに対面で伝えられたのですが、皇后さまは「なんの御抵抗もなく御承知」だったそうな。

――え、皇后さまはそんなにドライだったんですか? ショック……。それで、今城さんの反応は?

堀江 今城さんはこうした皇后さまの態度……つまり、皇后さまに自分がまさか「切られる」という事態をまったく想定していなかったようです。

 げんに皇后さまに解任が伝えられた翌日の6月17日、今城さんに入江侍従長の部下から解雇決定が伝えられると、今城さんは狼狽して「もう5、6年つとめようと思っていたのに」と口走ったそうです。

 今城さんの悲嘆をよそに、皇后さまはこの日「大変御機嫌」だったそうですよ。翌7月30日には、「魔女がいないのでさっぱりした気分」と日記に書いている入江が上機嫌ならわかるのですが……。

――皇后様、どういうお気持ちだったのでしょうか? 謎めいたそのお心に迫ります!

天皇陛下を味方につけた侍従長、女官を追放! 宮内庁に渦巻く“男の嫉妬”が生んだ悲劇

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

前回まで……昭和時代、皇后さまの信頼を一身に集めながらも、宮内庁から「魔女」と呼ばれた女官・今城誼子さん。宮内庁の権力者、入江相政侍従長はその今城さんを憎々しく思い、あることないことを宮中で触れ回り、ついには皇后さまを新興宗教に傾倒させた犯人として、晒し上げるという暴挙に出ました。そしてついに、魔女狩りに断行するのです。

――前回は、天皇皇后両陛下の寵愛を女官・今城誼子さんに奪われたと感じた入江相政侍従長の“男の嫉妬”が、魔女狩りにつながったというお話でしたが……。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 皇后陛下の寵愛を、女官・今城さんに奪われたと入江氏が感じていたというエピソードがあります。

 入江氏は、あの藤原定家の血を引く、旧華族の出身です。「歌の家」の生まれでしたから、それにもプライドを持っています。もともと宮中の新年恒例行事である「歌会始」で、皇后様のお歌を清書する役割は入江氏だったのに、それをある時以降は「今城誼子に書かせる」と言われ、大ショックを受けていたそうです。

 ただ、この話は皇室ジャーナリストの河原敏明氏の主張で、どうやらその出所は今城誼子の養女だった美佐恵さんという女性であり、入江氏の日記ではなさそうなことを考えると……。

――どの程度まで信頼できるかという話でもありますね。

堀江 そこなんです。入江氏が今城さんを魔女として追放した後、今城さんはマスコミとの接触を絶ったまま亡くなりましたから……。

 宮中関係者しか知り得なかった、一連の魔女問題の情報が世に出始めたのは、平成になってから。すでに亡くなっていた入江氏のご子息の手で『入江相政日記』(朝日新聞出版)の刊行が始まってからなのでした。

 理由はともかく、魔女こと今城さんの女官解任は、入江氏とその周辺の間で練り上げられ、昭和天皇の了承を得た上で、計画されました。しかし、今城さんには寝耳に水の出来事で「私、どうして辞めさせられるの?」と周囲に聞いてまわるほどだったとか。

――今城さんに気づかれないよう、極秘裏に計画が実行されていたのがわかりますね。

堀江 解雇理由は、入江の日記によると「お供がいけないといふのに、置いておけないといふ理由」だったそうです。曖昧な表現ですが……この頃、天皇皇后両陛下はヨーロッパ訪問を控えていました。

 「そのお供には、今城さんが問題人物だから連れてはいけないし、そんな問題人物を、入江侍従長など“押さえ”が効く人物が留守中の宮中にも置いてはおけないから、今城さんには辞めてもらった」というような意味になると思われます。

 なぜ、ここまで入江氏が今城を問題人物として警戒しているのかといえば、皇室ジャーナリストの河原氏によると、宮中祭祀の場である宮中三殿にもエアコンなどの空調設備を取り付けようとした入江氏を、今城さんが「そんな神聖な場所に釘を打つことは許されない!」と止めさせたとか、今城さんが何やら神がかりな理由を付けて、歯痛の皇后さまを医者に診せようとしなかったとか、そういう“積み重ね”があるのですね。

――今城さんは、宮中の中でも強火の“祭祀至上主義者”で、入江は逆に“祭祀より別のおつとめを”という主義だと、前回に聞きました。理想の皇室像が異なるだけに、やることなすこと全部が癪だったのかも。

堀江 入江氏の胸の内を推測すると、例の性格、価値観の今城さんを外国なんかに連れて行ったら、宮中にいてもこの調子なのに、どんなトラブルが巻き起こるか! というものでしょう。

 昭和天皇も、今城さんにはあまりよい印象をお持ちではなかったことが推測されます。当初は、ヨーロッパ外遊に連れて行くべき女官として「魔女はどうもいけない(略)と(入江氏が昭和天皇に)申しあげたら、そのとおりだと仰せになった(『入江相政日記』昭和46年2月22日)」というくらい、天皇陛下も今城さんを警戒していたのです。

 だんだん皇后さまと距離を取らせるようにして、後に穏便に辞めてもらう程度の判断だったのが、皇后さまが「やはりヨーロッパに、今城も同行させたい」と何度も何度も主張するにつけ、皇后さまの背後の今城さんの存在を感じた入江氏が本気で怒ってしまい、最終的に、今城さんには「今、辞めてもらおう!!」となっていったことが、彼の日記からはわかります。

――偉い人を怒らせると怖いんですね~。

堀江 入江氏に何度拒絶されても、皇后さまが今城さんをヨーロッパに同行させたがったことは事実なんです。入江氏はそれを今城さんの入れ知恵であり、皇后さまに「私ぬきで皇后さまは本当に大丈夫なんですか!?」などと脅していたように、「感じていた」ことも推測されますね。そして手を焼いた入江氏は、ついに昭和天皇を味方につけます。

 たとえば、こんな文章が彼の日記に出てきます。皇后さまと入江氏が「今城さんを連れて行くか、行かないか」でバトルになった結果、皇后さまが「仕方ない」と折れたことを、昭和天皇に入江氏が伝えたところ「そんならよかったとの仰せ」(昭和46年4月3日)。

 しかしその後も、やはり今城さんの同行について考え直してほしいと皇后さまは問題を蒸し返し、入江氏が昭和天皇に相談したところ「そんなに言ふことを聞かなければやめちまえ」と仰ったそうな(4月9日)。ちなみに、これは今城さんだけでなく、皇后さまも「(旅行は)やめちまえ」という意味ではないでしょうか。

――素顔の昭和天皇、「そんなら」とか「やめちまえ」とか、意外に江戸っ子口調で頼もしいですね(笑)

堀江 恐らくですが、昭和天皇も、信心深い皇后さまを籠絡し、「祭祀をもっと重視してください」と迫ってくる今城さんの過剰な伝統重視について、つらいものをお感じだったのではないか……と。そもそも天皇の一番の“つとめ”である祭祀問題に、一人の女官が、皇后さまを経由してにせよ、ここまで迫ることが許されるのかどうかという問題でもありますね。

 昭和天皇の母宮で、昭和天皇に対して「祭祀には熱心さが足りない」と批判的だった貞明皇太后がまるで甦って、宮中祭祀を強いているかのような印象を、今城誼子という女官に感じていたのかもしれません。実際、今城は貞明皇太后の御所に勤めていた女官でしたからね。

――問題は根深いわけですね。みんないろいろと我慢していた不満が、何かをきっかけに一気に表面化して、爆発的に今城さん解雇につながっていく……。

堀江 天皇陛下の了解と共感を得た入江氏によって、今城さんの解任の話はトントン拍子で進み、昭和天皇が「魔女を去らしめることを早くやれ」と、催促なさった記録もあります(『入江相政日記』4月27日)。

 結局、この年、ヨーロッパ訪問が終了して少し落ち着いた7月30日付けで、今城さんはクビになってしまうのでした。女官としての最終出勤日は29日で、両陛下への御挨拶などをこなしたそうです。「これが最後という日、皇后さまはお部屋で泣いていらっしゃった(女官・久保八重子さんの証言)」ともいいます。

 しかし、解せないこともあるのですね。皇室ジャーナリストの河原氏の主張は、今城さんが辞めさせられ、ガックリと来た皇后さまは認知症などの体調不良が一気に進んだという論調なのですが、入江氏の日記を見ていると事態はそう単調ではありません。

――もしかして、皇后様と今城さんが、本当に一心同体ではなかったというようなことですか?

堀江 はい。たとえば、今城さんが女官を辞める約1カ月前のことです。今城さんは出勤しているものの、皇后さまの身の回りのお世話をするのは別の女官にだんだんとシフトさせられていました。

 ヨーロッパ訪問の女官リストに、今城さんの名前が入っていないことを入江氏が皇后さまに告げた6月10日、「(皇后さまが)大変ご機嫌だった」という、ある意味、謎めいた記述が出てきます。また、6月16日に今城さんの罷免の決定が、入江氏から皇后さまに対面で伝えられたのですが、皇后さまは「なんの御抵抗もなく御承知」だったそうな。

――え、皇后さまはそんなにドライだったんですか? ショック……。それで、今城さんの反応は?

堀江 今城さんはこうした皇后さまの態度……つまり、皇后さまに自分がまさか「切られる」という事態をまったく想定していなかったようです。

 げんに皇后さまに解任が伝えられた翌日の6月17日、今城さんに入江侍従長の部下から解雇決定が伝えられると、今城さんは狼狽して「もう5、6年つとめようと思っていたのに」と口走ったそうです。

 今城さんの悲嘆をよそに、皇后さまはこの日「大変御機嫌」だったそうですよ。翌7月30日には、「魔女がいないのでさっぱりした気分」と日記に書いている入江が上機嫌ならわかるのですが……。

――皇后様、どういうお気持ちだったのでしょうか? 謎めいたそのお心に迫ります!

皇后さま、新興宗教の“教祖”に心酔!? 宮内庁が問題視した「教団」と、皇室の知られざる事実

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

前回まで――昭和時代、皇后さまに愛されながらも、宮内庁から「魔女」と呼ばれた女官・今城誼子さん。その後、宮中では密かに「魔女狩り」が行われ、今城さんは追い出されることになるのですが、その背景には宮内庁の権力者・入江相政侍従長の独断が働いていたようで……。

宮中の「魔女狩り」と新興宗教

――これまで、昭和天皇の人間宣言のウラで起こっていた「宮中の魔女狩り」ミステリーに迫ってきました。「魔女」と呼ばれた女官の今城さんは「祭祀」を重視するタイプで、宮内庁の権力者・入江侍従長の描く“開かれた皇室”像とは折り合いが悪かったとのことでした。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 宮中祭祀をなにより大切にすべきと考える今城さんは「魔女」どころか、実は「聖女」なんです。しかし、昭和40年代の宮内庁は、入江相政侍従長の考える「新しい天皇のありかた」の支持者と、今城女官の考える「古い天皇のありかた」の支持者に、分断されてしまっていました。

 それだけならまだしも、今城さんの態度に怒りを感じた入江氏はついに昭和天皇を頼り、「魔女狩り」に着手するのでした。

――おお、ついに「魔女狩り」を迎えるのですね。

堀江 決定打となったのは、天皇皇后両陛下の戦後初になるヨーロッパ訪問の問題でした。天皇皇后の外遊は公式発表がなされるまでは絶対の機密事項として取り扱われるのですが、当事者である皇后さまが、女官であった今城さんに、ヨーロッパ行きの話をしてしまったようなのです。

 今城さんがフランス語の勉強をにわかに開始したので、それを怪しんだ新聞社に、ヨーロッパ訪問の発表前に情報をすっぱ抜かれてしまった……少なくとも入江氏はそう主張しています。通常なら、今城さんにはその責任を取って退いていただくことになりえますが、皇后さまが今城さんを「ヨーロッパに随行させたい」と執心なさり、今城さんナシなら「私はヨーロッパには行かない」とまでおっしゃる事態となりました。

 こうして皇后さまと入江氏のガチバトルが勃発です。最終的に、入江氏は「今度の御旅行(のメイン)はお上(昭和天皇)なので皇后さまはそのお供、おやめになりたいなら仕方ない、ただ理由としてはすっかりすっぱぬくほかない、もういい加減におやめになったら」などと申し上げたそうです。

――だいぶワイルドな言葉遣いですね。「すっぱぬく」って、でもなにを?

堀江 この魔女問題を著書で取り上げられている皇室ジャーナリスト第1号の河原敏明氏いわく、これは今城さんが皇后さまを神道系の新興宗教「誠の道(真の道)」に勧誘しようとしていた疑惑を、マスコミにリークするぞ、という意味だそうです。

――ちょっと待ってください。新興宗教に皇后を勧誘ですか? 急に話がいかがわしくなってきました。

堀江 当時、「真の道」という新興宗教に、皇后さまを入信させようと今城誼子さんが手引きしたと入江氏は考え、それに怒っていたというのが河原氏の主張です。

 実際、昭和42年2月4日の入江氏の日記には「保科さん(=女官長)から聞かされた所によると魔女の行くのは『誠の道』と言う集団の由」とあり、入江氏は、魔女が通う(と入江氏らが信じた)教団を問題視していることがわかります。

 しかし、皇室ジャーナリスト・河原氏の実地調査によると、「真の道」の教団幹部からは「皇室やその関係者とはつながりがない」との明言が得られました。

――今城さんは濡れ衣であったと。でも、火のないところに煙は立たぬといいます。少なからずそんな気配があったとか?

堀江 ちなみに「真の道」、そして今城さんに関係なくても、皇后さまが別の新興宗教に強い関心をお寄せになっていたことは事実のようなんですね。

 旧皇族で、皇后さまにとっては実の姪にあたる久邇正子さんが信者だった、「大真協会」という新興宗教の教祖・椿麗寿という方がすごい霊能者だったそうなんです。一説には、皇后さまも入信なさっていたとか……。

――ひえー。

堀江 そんな余談もありながら、結果的に今城さんを連れずに皇后さまはヨーロッパに旅立つのですが、当地でイヤリングとネックレスなどをどこに収納したかわからなくなり、大騒ぎになったそうです。

 ところが大真協会の信者だった松園英子女官経由で、椿教祖の霊視を受けると、教祖の霊視した場所とほとんど違わない場所でネックレスなどは見つかったとか……。

――見つかっちゃったんですか! というか、新興宗教の信者は今城さんではなく、その松園という女官だったんですね……。

堀江 そうです。でも不可思議なことですが、河原さんいわく、入江氏の怒りは松園英子女官には向かわなかったようです。松園さんは入江氏のお気に入りだったとか。

 さて、失くしものを超遠隔霊視で発見した椿教祖さんに皇后さまはすっかり魅了されてしまったようです。その抜群の霊力の込められたサケの切り身などを、同じく信者だった松園英子女官経由で宮中に運び込み、皇后さまはお食べになっていたようですね。

 しかし皇后さまが、この手の宗教団体に熱心に接触していたのも、宮中の侍医(医師)が治せない、昭和天皇の顔面痙攣などの症状を椿教祖の祈祷で和らげたくて……という願いがあったがゆえのようです。久邇正子さんの証言によると、ほかに昆布やウニ、スジコなどにも椿教祖が霊力を込めて献上していたそうです(「女性セブン」1999年1月1日号)。

――霊力のこもっているアイテムが、海鮮物なのが独特ですね(笑)

堀江 日本各地からの皇室への献上物が書かれた、平安時代初期の書物『延喜式』にもスジコ(正確にはスジコを孕んだサケ)が、「内子鮭(こごもりのさけ)」として登場するので、献上品については、『延喜式』にインスパイアされているのかもしれません。

 ただ、これはすべての霊能者にいえることかもしれませんが、「大真協会」の椿教祖の治癒の祈祷に怪しい部分もなかったわけではないのです。また、こういう宗教に皇后さまが本当に入信までしていたかどうかはグレーゾーンなのですが、傾斜していたことは事実なのですね。

 入江氏はそんな皇后さまの行動を警戒しており、調査をしていたけれど、もともと彼の中では魔女である今城誼子さん経由だという証言が得られると、その真偽を追究することなく、一気に彼女を悪者に仕立て上げ、宮中から追放するという荒っぽい手段に出たようですね。

――要するに今城さんは、皇后さまの新興宗教に接近という“問題行動”を煽動している人物として、スケープゴートにされたということですか?

堀江 そうですね。祭祀を重んじる今城さんの主張に行きすぎはあったでしょうけれど、入江氏の問題視する皇后さまの”宗教かぶれ”の原因が今城さんだったわけではない。しかし、入江氏はとりあえず、これを良い機会として、今城さんを切り捨てることを画策しはじめた……というのが皇室ジャーナリストの河原氏の主張であり、僕もそれに納得はしています。入江氏は、今城誼子さんに嫉妬していたともいいますね。

――男の嫉妬ですか!! 次回に続きます。

女官と皇后VS侍従長のバトル開戦!? 皇室の難題「おつとめ」めぐり、宮中が大荒れのワケ

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

前回まで――昭和時代、宮中では「魔女狩り」が行われていた。「魔女」として追放されたのはひとりの女官。そのウラで手を引いていたのは、マスコミに持て囃された人気者、侍従長・入江相政氏でした。この入江氏によって、一人の女官が「魔女」と呼ばれ、宮中を追い出されることになるのですが、その結末を呼ぶことになった両者の“バトル”とは……?

――昭和天皇は、歴代天皇の中でもナンバーワンといわれるほど、宮中祭祀にご熱心だったのですね。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 実は、昭和天皇が祭祀にひときわご熱心になったのは、敗戦してからなのです。それまでは、祭祀に必須の長時間の正座ができず、母宮にあたる後の貞明皇太后から注意をお受けになったことも。

 一方、その貞明皇太后が祭祀に熱心になったのは、関東大震災が起きたり、大正天皇が若くして脳の病で崩御なさった後からのことです。ここから何か、見えてくることはありませんか?

――何か、凶事や不祥事があると、それを皇室の祈りでカバーしなくてはならないというようなことですか?

堀江 そうなんです。すべてに対する責任を、皇室の方々は身を持ってお感じになりがちで、その重責は計り知れないこともわかります。

 令和時代の皇室も、平成の時代よりは、宮中祭祀に距離があるという報告を読んだことがあります。これは、明治以降、何回目かの皇室のチャレンジでもあるのです。とにかく宮中祭祀は非常に難しい問題なのです。

――その難題である祭祀が、魔女狩りにつながっていく……と。

堀江 昭和時代、皇后様のお気に入りでありながら、一部からは魔女と呼ばれた女官・今城誼子さんが、宿敵である入江侍従長と直接バトルした記録はありません。それを今城さんが避けていたような気配はあります。

 今城さんは、自分の主張――「祭祀には絶対に手を抜いてはならない」を通すために、当時、すでに体調不良だった皇后様を説き伏せるのです。そして、自分の主張を皇后様の主張として、入江侍従長に「祭祀をやれ」などとぶつけてくるわけです。

 宮中はタテ社会ですから、皇后様の意向となれば入江氏も従順にならざるを得ない。そういう戦い方で、自分の意見を通そうとしてくる今城さんが、入江氏にとっては不愉快だったのかもしれません。

――直接は言わない、言えない、というのが宮中っぽいですね。

堀江 侍従長のほうが、ひとりの女官よりも立場は上ですしね。一方、皇后さまも侍従長ではなく、天皇陛下と直接に祭祀については対話なさったらどうか、と読者は思うかもしれません。

 しかしそれは、われわれ民間人の感覚。とくに祭祀という天皇のきわめて重要な“おつとめ”に関して、皇后が何か天皇にアドバイスをする、もしくはお願いするというのは絶対NGの越権行為なのです。

 そんな中、昭和45年(1970年)の5月30日には、皇后さまと入江侍従長の間に激しいバトルがあったそうです。原因は、年に2回に減らされた、宮中祭祀の一つである「旬祭」を、毎月に戻してほしいという(今城さんの意向を受けた)皇后様に対し、入江侍従長が反論したこと。

――あら、しっかりと反論したのですね。

堀江 当時、天皇皇后両陛下の戦後初のヨーロッパ外遊に向けての準備などもあって、時間的に祭祀を増やすことは無理という理由を、入江氏いわく「洗いざらい申しあげ」たのだそうです。

 「天皇陛下の祭祀の時間を増やしたいのはなぜですか?」と入江氏が質問すると、皇后さまからは「日本の国がいろいろと、をかしい」(原文ママ)ので「それにはやはりお祭りをしっかり遊ばさないといけない」とのことでした。

――日本の国がおかしい……つまりその責任は、昭和天皇のご祭祀が足りていないから、その神罰だという考えでしょうか?

堀江 はっきり言うとそうです。実際、この頃の入江氏の日記(『入江相政日記』朝日新聞社)には、デモのため、宮内庁からの退庁時間が後にずれるというような記述もしばしば出てきます。学生運動も盛んだったころですね。皇居の中にいても、世間がザワついていて、それがあまり皇室にとって好ましいものではないことはヒシヒシと感じられたはずです。

 戦後、皇室は外国からの圧力を受け、伝統の多くを変えざるをえなくなりました。皇族の一部を臣籍降下させたように、このままでは皇室自体もいつか淘汰されてしまうのではないか……という恐れは確実にあったと思います。

 ただ、70代を迎えた昭和天皇には健康不安が高まっており、われわれが想像している以上に大変な祭祀の儀式にどこまで付いていけるかどうかの不安が出てきていました。

 ちょうど平成の時代、退位問題を話し合った有識者会議で「公務などはほかの皇族にまかせ、天皇は宮中で祭祀を行っていらっしゃれば十分」といったような、祭祀を比較的軽く受け取っているような“有識者”の声が多数出たことを思い出しますが、むしろ「逆」なんですね。

――祭祀ほど厳しく大変なものはない、ということでしょうか……。

堀江 そうです。たしかに第二次世界大戦後、天皇皇后両陛下および皇族の方々の「ご公務」と、「宮中祭祀」は完全に別枠になりました。また、両陛下の「いのり」こと宮中祭祀については、内容がほとんど一般公開されない神聖なものですから、両陛下以外の方は、ほとんど理解できなくて当然かな、とは思いますが……。

 現代は、さすがに多少の変化があるかもしれないのですが、儀式が執り行われるのは、なんの空調設備もないお部屋です。厳寒・酷暑関係なくそこで、何時間も正座のままで、しかも形だけこなすのではなく、精神を集中しての儀式が続くのですね。

――すでに健康不安のあった昭和天皇にとっては、儀式は大変なものであったと想像できます。

堀江 儀式の途中、正座を続けているのが困難になって、前にうつぷしてしまわれるというような“事故”もあったそうです。こういうこともあって、入江侍従長は祭祀より御研究所での学者としての「おつとめ」を重視したところがあります。一種のすり替えですね。学者としての活動も、古来から重視されてきた天皇の「おつとめ」ではありますが。

 「お上(=天皇陛下)はお大事なお方、お祭りもお大事だが、お祭りの為にお身体におさわりになったら大変」という入江侍従長に対し、女官の今城に影響された皇后陛下は「私が(天皇陛下ができないなら、そのかわりに祭祀を)やろうか」とまでおっしゃったこともあったそうです(昭和45年の大みそかの入江氏の日記に書かれた“補遺”より)。

 いくら皇后陛下であったところで、女性が執り行えない儀式というものが、宮中には厳然としてあります。昭和天皇ご本人も儀式を簡略化することに対し、非常に難色を示されたのですが、入江氏の説得を受け入れざるをえなかったのです。

――民間では、形式よりも心が大事などとも言うのですが、皇室では通用しませんか?

堀江 その考えは皇室の祭祀ではまったく通用しません。心が変わってしまっているから、形式を簡略化しようとする=ラクしようとすると考える厳しい世界です。

 ただ、「儀式を強化すべき」と言っていた、自他ともに厳しい貞明皇太后も、還暦を過ぎてからは、儀式途中に粗相がありうるだろうから、それでは神様には申し訳ない、控える、ともおっしゃっていたそうです。

 平成時代の天皇陛下のご退位の問題も、煎じ詰めれば、この手の自粛とは無縁ではないでしょう。要するに、古来の儀式を厳然と執り行うには気力・体力が必要で、やはりこの手の問題を重視すればするほど、天皇が高齢となった場合の退位は必然的な問題となってくるのかもしれない、と私などは思うのですが……。

 このことが、今城さんと入江侍従長の間にあった大きな溝なのでした。

――次回に続きます!

宮内庁職員は「両陛下への態度が馴れ馴れしすぎる」と女官激怒! 大騒動を呼んだ宮中「魔女狩り」ミステリー

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 前回まではこちら

宮中の「魔女狩り」ミステリー

――前回までは、新興宗教にかぶれ、スピリチュアル的なトランス状態に陥った元・女官長の島津ハルが昭和天皇の「短命」などを予言、それに宮中が激震したという「島津ハル事件」についてお話しを聞いてきました。

堀江宏樹 今回からは、昭和中期の宮中を”魔女”と呼ばれた女官が騒がせていた件について、お話ししたいと思います。最終的には”魔女狩り”されちゃうんですけどね。

――魔女狩りとは穏やかじゃないですね。その魔女と呼ばれていたのは、いったいどういう方だったのでしょうか?

堀江 魔女と呼ばれたのは、大正時代から皇室にお仕えしていた、旧華族、公家出身の女官・今城誼子(いまき・よしこ)さんという方です。

 この方、僕はとても立派な方だと思います。世間で「魔女」というと、グラマラスでセクシーな女性のイメージ。もしくは、妖術で人心をたぶらかす妖婆のようなイメージを勝手に抱いてしまいますけれど、今城さんはまったくそれとは別。彼女について書いている、皇室ジャーナリスト第1号の河原敏明氏の書籍で拝見する彼女の面影は、まるでベテランの女教師みたいな感じなのですよ。小学校の頃、こういう厳しい独身の女性の先生いたなぁ~という。

――たしかに今城さん、お写真で拝見するかぎり、カッチリとした洋服の着こなしですね。長めのスカート、分厚いタイツにパンプス、そして白髪交じりのショートカット。到底、魔女には見えないのですが?

堀江 魔女どころか、厳格な方なのだろうなぁということは想像できますね。そんな今城さんを魔女呼ばわりしたのは、昭和天皇の侍従長として有名だった入江相政(いりえ・すけまさ)氏。彼の日記は『入江相政日記』(朝日新聞社、全6巻)として刊行され、ご子息の入江為年氏の監修のもとに、ほぼ全文が公開されていると思われます。

 それらのうち、昭和45年~47年頃の日記に魔女、魔女、と憎々しく今城さんのことが書かれているのですね。普通に女官として勤務しているときには「今城」と書かれているのですが、入江氏の気に入らないことを主張してきたときには「魔女」と呼ばれていることが、注目点として挙げられます(笑)。それで、魔女=今城とハッキリわかる部分は、編者が伏せ字にしてあるという。

――悪口としての魔女かぁ(笑)。島津ハルさんのような皇室に関する“予言”はしないのですか?

堀江 「○○しなければ不幸になる」という、スピリチュアル風な警告はあったと思います。

 宮中祭祀……つまり、皇室に伝わる宗教的な儀礼をもっと熱心にしないと、日本と皇室の行末は暗い……というようなことをどうやら、今城さんは当時の皇后さま(のちの香淳皇后)に吹き込んでいたらしい、と入江氏の日記からは読み取れるのです。

 入江氏は人の好き嫌いが強かったといいます。ただ、基本的にはジョークはわかるし、度量も広い方だと思いますよ。宮妃候補の女性を華族の男が寝取るというあらすじの、三島由紀夫『春の雪』を読んで、「なかなかおもしろい」なんて日記に書いていますしね(笑)。しかし、そんな彼の目のカタキになってしまったのが今城さんでした。

――当時の週刊誌を大宅壮一文庫で調べたのですが、まだ皇室報道のタブーがあったからか、同時代の民間には「魔女狩り」について、一切漏れていなかったようですね。

堀江 それを聞いて、意外に思いました。現在の宮内庁で、誰が侍従長をなさっているいうことはあまり知られてはいないのではないか、と思いますが、入江氏は当時、「宮内庁の顔」でしたし、世間一般においても有名人でした。そして相当にマスコミ対応に馴れていましたからね。皇室の情報をみごとに統制していたことがわかります。公家出身の入江氏は生粋の宮廷政治家ですね。宮中内の人脈を使って、極秘裏に、見事に魔女狩りを成功させたのですから……。

――当時の週刊誌などに入江氏は、昭和天皇のご日常などについて記したコラムを多数寄稿していますよね。うつみ宮土理さんのトーク記事にも出ていたりする(笑)。明るく楽しいキャラに見せていて、ウラでは気に食わない女官を追い出すとは、なかなか怖い人ですね。

堀江 入江氏が一番好きなのは御自分。そして僅差の第2位が昭和天皇だという印象を得ました。昭和天皇に陰日向なく尽くしている御自分が一番大好き!! というような方ではあります。これについてはまた機会を改めて……。

 でも、そういう入江氏の貢献なしに、「人間天皇」とか「開かれた皇室」といった戦後、とつぜん言われ始めた概念……これは一種のスローガンでもあるのですが、その実現はできなかったと思うんですよ。シャイな方で、おしゃべりが達者というわけではなかった昭和天皇の代理人として、天皇の素顔を入江氏はコラムにして、世間にアピールしまくりました。

――そういう入江氏の態度、私には多少の違和感がありました。

堀江 今城さんも、入江侍従長のそういう姿勢に疑問をもつ方だったと思われます。

 今城さんは若い頃から、伝統重視で知られる貞明皇太后のところで働いていたのですが、ここは戦後になっても、京都に天皇がいた時代の御所言葉が守られていた。貞明皇太后のところに用事に行った、昭和天皇の女官が感化されて、「ごきげんよう」ではじまる挨拶さえ長々しく続くような御所言葉で話していると、昭和天皇が「そんな世間で使われていない言葉で話すものじゃない!」とイラつきをあらわにした事件もあったそうです。

――昭和天皇のほうが御所言葉を拒否されたのですか。NHK連ドラの「花子とアン」でも「ごきげんよう~」で挨拶を始めるのには、相手の幸せを祈るという言霊的な意味があると言っていたような……。

堀江 御所言葉の元々の目的もそれですね。ただ、「○○さんは、今日もごきげんよろしゅう、あらしゃって……」とか本当に長いんですよ、ご挨拶だけでも(笑)。それに昭和天皇は科学者でもいらっしゃるので、ご疑問をお感じだった、と。ただ、晩年の昭和天皇の周囲でも御所言葉の名残は生き残っており、健康検査で天皇の採尿というとき、「おじゃじゃ」を取るとかいうのです。

――おじゃじゃ(笑)?

堀江 まぁ、それはまた後の機会に。皇太后が崩御なさった1951年(昭和26年)以降、今城さんは宮中に転任し、天皇・皇后両陛下のもとで働くことになりました。かなり空気が違ったようで、「両陛下への態度が馴れ馴れしすぎる!」と宮内庁職員に怒っていたという記録もありますね。これは今城さんの養女の美佐恵さんという方の証言ですが。

 一方で、天皇皇后両陛下も戦前にくらべると、非常に民間との触れ合いが盛んになっていた。しかし、天皇がもっとも重視すべきは、ご公務と称して、日本全国に顔を見せてまわることではなく、「宮中祭祀では?」という考えは、当時の保守的な知識人の中にはありました。

――なんだろう、アイドルファンの不満と近いですね。テレビ出演とコンサート、どっちがアイドルの本分なの? と意見が分かれるところのようです(笑)。

堀江 三島由紀夫なんかはね、天皇の仕事は、「お祭り、お祭り、お祭り(※祭祀の意)」であって、いわば神聖天皇から、人間天皇となってしまった、戦後の昭和天皇には批判的でした。アイドルでいえば、テレビ出演で不特定多数にコビを売るようなことはやめてくださいと(笑)。
そんな天皇なら宮中で殺して、自分も自害したいなどと三島は言っていたそうです(笑)。敬愛をこじらせてしまったのでしょう。

――一緒に死んでしまいたい、なんて(苦笑)。

堀江 今城さんが入江氏から魔女と蔑まれるのは、入江氏にとって宮中祭祀はいくら大事でも、天皇の命と引き替えにすべきような問題ではないと考えていたからでしょう。

 昭和天皇の健康維持を重視する入江侍従長には、「健康を犠牲にしてでも、天皇には祈ってほしい、それが天皇の第一のつとめであるから……」という今城さんは魔女に見えた。また、心身の健康を崩されがちだった皇后陛下を、まるで洗脳=マインドコントロールして迫ってくる今城さんは、入江氏にはいっそう苦々しく思えた。だから彼女を魔女呼ばわりしてしまったのでしょう。

――皇室らしいスピリチュアルな問題に絡んでいるのが、魔女事件の本質なのですね。その後、侍従長がどのように魔女狩りを行ったのか……? 次回に続きます!

皇后の縁戚が「不敬罪」で逮捕!? 天皇家を揺るがした“新興宗教”スキャンダル【日本のアウト皇室史】

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

 前回まで――戦前、大名華族・島津家の令嬢として生まれ、親族の男性と幸せな家庭生活を送っていた島津ハルさん。30代の頃から、教育者、学校経営者としても活躍していた島津さんは、宮内省からのスカウトを受けて転職、女官となりました。宮中でも調子よく出世しつづけ、良子皇后の女官長に、史上最年少の48歳で就任できた約40日後、異変が起きました。夫の急死によって愛も、仕事も、“全て”を島津さんは失ってしまったのです――。

堀江宏樹 そんな彼女の心のスキマを埋めたのは、自称・霊媒師の女、角田つねでした。「島津さんには特別な霊力がある」とおだてられ、自分を「神の生まれ変わり」だと思いこんでしまった島津ハルは、あやしげな新興宗教の幹部になったのでした……。

――スピリチュアル沼に沈み込んでしまっていますが、島津さん、本当に大丈夫なのでしょうか?

堀江 まったく大丈夫じゃないです。前世商法ってスピリチュアル系の常套手段なんでしょうけど、島津ハルは、天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ)という、『古事記』では最初に登場する、まさに天地の歴史がこれから始まるよ! という時に出てくる神様の生まれ変わりに仕立て上げられてしまいました。

――ひえー!

堀江 島津は元・女官長ですから、神道系宗教団体の“人寄せパンダ”としては最適な存在でした。それだけでなく、島津は自分を神の生まれ変わりとして、危ない御神託を連発するようになるのですね。多くの信者たちの前で、まだ生きている人の生き霊、故人の霊などを問わず降霊させ、その人からのメッセージを伝えていたようです。

 これが島津ハルを幹部とした神道系の新興宗教「きよめ会」もしくは「きよめの会」の主な活動だったとか。今でも誰それの守護霊が語る……とかいう某団体の教祖による本が出ているじゃないですか。ノリはあれと似ているかもしれません。しかし、島津の団体の主要テーマは「天皇家はどう変わるべきか」だったわけです。

――それは、ちょっと危ない気がしますね。

堀江 運悪く、というか、ちょうど昭和10(1935)年ごろのことです。昭和11年、“昭和維新”を唱える青年将校による軍事クーデター「2.26事件」が起きる直前のこの時期、あちらこちらで新興宗教の弾圧も始まっていました。

 スピ業界だけでなく、軍隊の内部でも、当時の天皇家、そして昭和天皇のあり方に対する不満がマグマのように高まり、噴き出しつつあった……といえると思います。これはまた、次回以降に詳しくお話ししますね。

 島津ハルと、彼女を「神」に仕立て上げた霊媒師・角田つねが相継いで不敬罪で逮捕されたのが昭和11年8月のことでした。

 島津は良子皇后の縁戚にあたる女性ですから、警視庁としても苦渋の判断だったのですが、

「昭和天皇は本当の天皇ではない」
「昭和天皇の弟である高松宮が後を継ぐべきだ」
「昭和天皇は十五年後に崩御なさる」

 などの「神告」を口にして憚らず、そのウワサは島津が女官を辞めてしばらく経つ宮中でも響き渡っていたそうです。昭和天皇の側近だった木戸幸一の日記には、何度も島津ハルの名前と「神告」が登場し、頭を痛めている様子がうかがえます。

――まさか天皇家の身内のような女性を、「不敬罪」で逮捕せねばならなくなるとは思ってもみなかったでしょうね……。

堀江 島津ハルは神がかりになって、信者たちの前で「大正天皇の侍従の霊が現われた」と宣言、「彼は、自分が貞明皇太后(大正天皇の皇后、裕仁天皇の母)の愛人だったと、言っています」とか、高松宮様の「生き霊」が現れ、「私の母は、貞明皇太后ではなく、大正天皇のお手つき女官だ」とか。

――どえらいことを口走っていますが、何が目的なのでしょうか?

堀江 貞明皇太后に対する批判でしょうね。謎の脳病で若くして崩御なさった大正天皇の皇后だったのが、貞明皇太后です。早すぎた天皇の死は「神罰」であり、その責任が貞明皇太后にあると考えてしまったのでしょう。

 この手のアウトな発言を、垂れ流しつづけた結果が不敬罪による逮捕でした。ちなみに島津ハルの支持者は上流階級に多く、そのお告げは、民間にはほとんど知られていませんでした。しかし、その反面、宮中には影響が広がっていました。もともと、宮中はこの手のスピリチュアルな何かに感化されやすい素地があったのでしょうし、島津は元・女官長ですからね。

――以前、このコラム連載の中で山川三千子さんの『女官』を取り上げましたが、あの中でも貞明皇后は批判されていましたよね。山川さんも高位の女官でした。

堀江 この問題は根深いのです。また機会を改めて触れる必要がありそうですね。

 逮捕された島津ハルは涙を流しながら、「日本を救う道は昭和天皇の弟宮の高松宮様が天皇になるしかない」などと拘置所の中でもしゃべり続けていたそうです。しかし、さすがは元・教育者のインテリ女性というべきか、霊媒師・角田つねによる「お前は神の生まれ変わりだ」という洗脳が解けたのは意外に早い時期でした。

――教育者として実績を出せるくらいですから、本当はマジメで責任感が強い女性なんでしょうね。

堀江 女官長のキャリアと、愛する夫を同時に失った時、島津の心には大きな穴が空いたといえます。その穴を埋めるにはよほどの大きな“使命”が必要だった。だからこそ、「日本の危機を救えるのは、神の生まれ変わりのあなただけ」みたいに霊能者を自称する女から煽られると本気にしたのでしょうね。思えば気の毒な女性です。

 拘置所の中で、スピリチュアル関係以外の人と、取り調べという形にせよ、対話する中で島津は自分を神だとは思えなくなり、正気を取り戻しました。その結果、彼女は不起訴処分に。

 しかし、その後は精神病院に強制入院させられ、そこで半年を過ごしました。

――島津さんが理性を取り戻したのに精神病院行きとは皮肉です……。あえて伺いますが、島津さんの予言が当たったことは?

堀江 それがね……ちょっと怖いなって思えるものはあるのですよ。

 「神政は昭和14(1939)年にはじまり、昭和20(1945)年に成就する」という島津の「神告」がそれなんですけど、どう思いますか? 具体的に“神政”が何かはわかりませんが、この期間は第二次世界大戦の時期に相当します。日本の参戦は、昭和16年(1941年)の「真珠湾攻撃」以降なのですが……。

――敗戦によって、日本全体が、そして皇室のあり方も大きく変わりましたよね。

堀江 そうなんです。島津ハルはその後、表立った活動が出来なくなり、昭和45(1970)年に92歳で亡くなりました。

 彼女が創立メンバーの一人だった鶴嶺女学校の伝統は、現在、鹿児島玉龍中学校/高等学校に受け継がれているようです。しかし、ネットで見る限り、島津ハルの名前は完全に校史からは消されてしまっていますね……。

 昭和時代の宮中には島津ハルのような神がかりの女官が、まだほかにもいました。次回以降、「魔女」と呼ばれた女官のエピソードをお話しいたします。