月収20万円のサラリーマンに嫁いだ皇女、「週3」で東京プリンスホテルに勤務!? 結婚10年目の知られざる「所得事情」

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――戦後の日本の空気を華やかにした、注目の女性皇族・清宮貴子さま。昭和天皇の末娘(五女)にあたられます。貴子さまの結婚相手は、「民間人」であるだけでなく、現在でいえば年収200万円台のサラリーマン男性でした。お二人の新婚生活はどうなったのでしょうか?

堀江宏樹氏(以下、堀江) 皇女という「雲の上」の存在が、清貧サラリーマンの家庭に嫁ぐことになった面白さもあり、新婚のお二人の周りはマスコミの記者だらけとなりました。新婚旅行先だった宮崎にも当然のように報道陣がついてきていたのです。

――まるでストーカーめいていますね。

堀江 しかも旅路の様子まで、生放送の番組で取り上げられようとしていました。戦後に復活しはじめた皇室の人気を支えた元・皇女としては、マスコミからの要請をそう簡単に蹴るわけにもいきませんからねぇ……。

 宮崎へは神戸から船旅でしたが、その様子が1時間に渡って生中継されたのです。しかも、途中に「便秘薬」のCMが流れたことも大きな話題になりました。

――結婚式を生放送したタレントは知ってますが、新婚旅行を生中継とは……。昭和の芸能マスコミの勢いというか下品さというか、すさまじいですね(笑)。そしてCMは便秘薬ですか(笑)。

堀江 読売テレビの悲願の企画で、貴子さんサイドからのOKは出たというのに、スポンサーが放送日の数日前まで付かなかったそうなんですよ。島津さんと貴子さんを追い回している番組のスポンサーになると、逆に会社のイメージが悪化するだろう……と企業側が遠慮したようです。それでもなんとか出資してくれることになったのが、「関西の製薬会社」で、便秘薬のCMになってしまったという(苦笑)。

 ちなみに昭和中期の頃、宮崎は日本にいながらにして南国情緒が味わえる場所として有名で、新婚旅行に行く人も多かったのですよ。しかし、当地に到着しても出迎えの人があまりに多かったので、予定どおり大分の高崎山でサルを見たり、別府の名所“地獄めぐり”もできなかったり。貴子さんは旅の疲れもあって、不機嫌そうだったと「週刊公論」(1960年5月17日号、中央公論社)では報じられています。

――なんだか、おかわいそうですね……。一生に一度の思い出なのに。

堀江 旅行後、テレビ番組『スター千一夜』(フジテレビ系)に出演した貴子さんは、今後も旅行などしたら大変なことになるだろうと予測し、「いつになったら二人きりになれるのでしょう」とも発言しておられます。

 しかし、結婚から約10年が経過した後も、貴子さんの人気は衰えぬままでした。31歳になった貴子さんは、新しいチャレンジとして、東京プリンスホテルでお仕事を始められたのです。東京プリンスホテルの地下には高級ショッピング街「西武ピサ」があり、その中でも特に一流品の品々を特別なお客様にお勧めする「ロイヤル・サロン」での接客、その名も“サロン・アドバイザー”が貴子さんのお仕事です。

――皇族として一流品に接して成長なさった貴子さんの見識が生かされる職場ということでしょうか。

堀江 まさにそうですよね。「女性セブン」(小学館)、1970年11月26日号の記事「島津貴子さんの評判と実力」によると、お店での呼ばれ方は“様”づけで、“島津様”。職場からは(契約社員なのに)通勤用のハイヤーが出されるという厚遇ぶりでした。貴子さんは自分で運転して通勤したいと希望なさっていたようですが……。

――販売員ということは成績も重視されますよね?

堀江 入社1カ月目にして、来客数が大幅に増え、サロン全体の売上金額も2割上がったそうですよ。貴子さんの勤務日は毎週火、水、木の午後1時~5時まで。契約社員なのですが、宮内省が「元・皇女が、一般企業に就職するのは考えものだ」と発言したり、社会全体で賛否両論を生んだ就職ではありました。

 ただ、貴子さんは「時間がなくなったために、かえって家事がキチンと進むようになった」と発言、お家の仕事と外での勤務を両立させ、それを生活の活気に変えていた様子です。

――ご主人の島津さんはどういうご意見だったのでしょうか?

堀江 貴子さんが仕事をするのは島津さんの了解を得てのことです。ちなみに結婚当初、銀行マンとしての島津さんの年収はボーナスをいれたところで、現在の貨幣価値では300万円もなかったようですが、お二人の結婚から10年たつと、随分と事情が変わっていますね。

堀江 島津さんが芝税務署に申告した「所得」は「527万円」にハネあがっています。所得=手取り額といえるでしょう。日本銀行によると「昭和40年の1万円は、令和2年の約2.0万円」とされますので、現代なら(単純計算で)1000万円以上の手取りが島津さんにはあったというわけです。

 貴子さんの就職も、そのお給料を島津家の家計に回すものとしてではなく、女性として自分の生き方を模索したいと思ってなされたことだと説明されていますね。主婦が家の外で仕事をするのに、いちいち夫の顔を立てねばならない時代だったのだなぁ、と思われてなりませんが。

――しかし、島津さんは一般人なのに、具体的な所得の数字がスッパ抜かれているのが恐ろしいですね(笑)

堀江 昭和のマスコミの勢いはすごいですね(笑)。当時の島津さんは、すでに日本輸出入銀行の経理課長に出世なさっていらっしゃいました。当初は1年契約だったようですが、現在でも貴子さんはプリンス・ホテルの職員としての籍を残しておられるという情報もあります。

――名実ともに、自由奔放な“末っ子キャラ”でいらしたのですね。華やかな人生を駆け抜けた貴子さん。今年で82歳を迎えられたそうですが、いつまでもお元気で!

昭和天皇の娘、“月収20万円”サラリーマンと結婚で皇室人気上昇! 「逆に好印象」だったお相手の経歴とは?

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――今回からは、昭和天皇の末娘(五女)にあたられる清宮貴子(すがのみや・たかこ)内親王の結婚についてお話いただきます。資料集めで世田谷の「大宅壮一文庫」に行ってきたのですが、昭和天皇の皇女がたの中で、もっとも人気があったというウワサは本当だったと思いました。貴子さん、ほとんどアイドルのような扱いをマスコミから受けていたんですよ。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 十代のころから、全国の少女たちの“憧れ”として君臨しておられましたからね。ご愛読の雑誌だった「新女苑」(実業之日本社、 1955年3月号 )には、編集部からの質問に「側近の方」を通して、16歳の貴子内親王がお答えになった記事が掲載されています。

 これによると、天皇陛下を「おもうさま」、皇后陛下を「おたあさま」と、御所言葉でお呼びになっていることがわかります。現在の天皇陛下も、少年時代、美智子様のことを宮中では「おたあさま」と呼んでおられたそうなので、これは宮中の伝統といえるでしょう。

 ちなみに和服を着る時以外、「化粧品は使用しておりません」とのこと。

――「新女苑」は「少女の友」(同)と並び若い女性に人気の雑誌だったそうで、いまだと「Seventeen」(集英社、現在は不定期刊行)や「ニコラ」(新潮社)が近いように思います。そこで特集される皇女がいるなんて、びっくりでした。この記事にはほかにも「相撲が好きです」とありますね。愛子さまも相撲ファンで有名ですよね?

堀江 はい。 “血”というものを強く感じてしまいます。

――ご成長後は「ファッションリーダー」として、ものすごい影響力がおありだったと聞きます。

堀江 インフルエンサーであったことは間違いありません。服だけでなく髪形にも注目が集まったとか。16歳の時、すでにデパートに通ってウィンドウショッピングをして、デザインの研究をなさっていただけありますね。

 1958年、19歳になった貴子内親王は、お姉さまがたと暮らしていた呉竹寮(くれたけりょう)を出て、皇居内にある通称“清宮御仮寓所”なる平屋の建物に一人暮らしを始めておられ、そこから学習院大学のイギリス文学科(現在の英語英米文化学科)に通学なさっていました。

 この年の「週刊読売」(読売新聞社、58年4月20日号)の貴子内親王のインタビュー記事には、有名なニックネームである“おスタちゃん”の呼び名がすでに見えますね。「す」がのみや「た」かこ、というお名前から一文字ずつ取って“おスタ”なのですが、スターという意味も含んでいると思われます。

――後に夫となる島津久永さんとの婚約会見では、「私が選んだ人を見てください」と発言して話題となられたとか……。

堀江 女性が男性にプロポーズという形で“選ばれる”のが普通だった、上流社会の結婚の常識をくつがえすようなインパクトあるご発言ですよね。ただ史実では、婚約会見でその有名なセリフ「選んだ人を見てください」を言ったわけではないようですよ。

 59年3月2日、貴子内親王は単独で記者会見をお開きになりました。その場で婚約が発表されたりはしていません。すでに島津久永さんが婚約者に内定済みという事実はあったようですが。

 この時、まだ20歳で、学習院の学生だった貴子内親王は記者から「好みのタイプは?」と聞かれ、その答えとして「わたくしの選んだ人を見ていただきます」とおっしゃったそうなのです。

 こういう質問が来ることを想定しておられたようで、さすがは“おスタちゃん”、マスコミ馴れもアイドル級です(笑)。しかし、なかなか大胆な発言ということは理解しておられたようで、「島津さんがどう思うかしら」と気にしていたという周囲の証言も「週刊明星」(59年4月5日号、集英社)には載っていますね。

――「明星」! まさにアイドルだったのですね。

堀江 そしてその会見から17日後の3月19日、貴子内親王が島津久永さんという「サラリーマン男性」と婚約なさったということが世間に発表されたのでした。当時は皇太子殿下(現・上皇さま)が、正田美智子さん(現・上皇后さま)とご結婚なさる1カ月前です。

 敗戦後、皇室の人気は少々低迷していました。しかし、おスタちゃんと皇太子殿下のご結婚という相次ぐ慶事が、皇室人気のV字復活につながる出来事の一つになったと言えるでしょう。

――貴子内親王は、マスコミ対応もお手の物でいらっしゃったと(笑)。

堀江 昭和天皇の内親王がたはお美しい方ばかりなのですが、輝くような強いスターオーラをお持ちだったのが、貴子内親王という方だったと思われますね。

 そんな貴子さんが(薩摩藩主の分家にあたり、佐土原藩主を務めていた)島津家の出身とはいえ、成城学園の実家から駅まで毎朝自転車を飛ばし、小田急線で電車通勤しているメガネにスーツのサラリーマン・島津久永さんを「選んだ」ということは、ひときわ大きなニュースとなりました。

 こういってはなんですが、貴子さんのお相手にしては地味に見えたのでしょう。

――たしかに地味ですね。芸能界では人気女優が一般男性と結婚、というケースがまれにありますが、往々にして“一般”とは言い難い経歴だったり、お金持ちだったりします。

堀江 しかし、島津さんはそういうわけでもなかった。「日本輸出入銀行」の銀行員であり、世田谷の高級住宅地である成城学園にお住まいとはいえ、そのご自宅の土地は借地、家屋は兄上の所有物です。お母様の久子さんは裁判所の調停員でしたが、二人あわせて一家の月収は(当時のお金で)3万円ほどだったとか。

 当時の大卒初任給が1.1万円だったといわれますが、島津さんの月給はこの時、1.3万円だったそうです。現代なら月収20万円ちょいで、手取りが10万円後半。ボーナスはあったでしょうが、現代でいうなら年収300万円には足りないくらいだったと推察されます。

――渡米前、都内の弁護士事務所に勤務していたころの小室さんの推定年収よりも低いかもしれませんね?

堀江 はい。それでも宮内庁では問題にならなかったのです。小室さんと同じく、島津さんもお父様を早くに失い、いわゆる“母子家庭”でしたが、ヘタに背伸びして贅沢な暮らしをしようとしていなかったことが、逆に好印象だったと推察されます。

 背広は3着しか持っておられませんでしたが、それらを大事に着回しているし、当時まだ高価だった自家用車も「購入予定ナシ」と島津さんは明言なさっています。そんな島津さんのことを戦後に没落した華族・皇族などを指す「斜陽族」の典型という人もいました(島津さんは元・伯爵家の出身)。

――それでも、島津さん自身あまり気になさっているような様子はないですね。マイペースを貫いておられる感じ。それが本当の高貴さといえるかもしれませんが。例の「週刊明星」の記事も、「発表翌日、昨日までと少しも変らない島津久永氏」と彼の写真にはキャプションが付いていますね(笑)。

堀江 ちなみに婚約発表日、島津さんはお母様の久子さんと共に、皇居内にある呉竹寮を初訪問なさったそうです。すでにお住まいは先ほどお話したとおり、別の平屋になっていたのですが、呉竹寮のほうが広いですからね。

 報道陣たちが殺到し、彼らに取り囲まれつつ、貴子内親王の手料理を初めて島津さんは召し上がったそうですよ。

 貴子内親王は、テレビで鶏肉料理を実演してみせるなど、相当な「お料理自慢」だったそうですが、この日は照れてしまって「(私が担当したのは)味付けだけですわ」などと「ごけんそん」だったとか……。

――かわいらしいところもおありなんですね(笑)。

堀江 発表の記者会見まで結婚情報は絶対にバレてはいけない! ということが皇室との取り決めだったらしく、島津さんと貴子さんとの結婚話は本当に誰にも知られていない、寝耳に水のお話だったそうです。島津さんの会社の方は、婚約内定のニュースにすごく驚いたのだそうですよ! 

 ――次回に続きます。

昭和天皇の娘が「タバコ屋の看板娘」に!? 青年実業家と結婚したプリンセス、知られざる日常生活

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

昭和天皇の娘が「タバコ屋の看板娘」に!? 青年実業家と結婚したプリンセス、知られざる日常生活の画像1

――このところ、昭和時代の皇女にまつわる結婚事情についてうかがっています。前回は、昭和天皇の第3皇女、和子内親王のスキャンダルだらけだった結婚生活をお話しいただきました。

堀江 今回は、昭和天皇の第4皇女、順宮厚子(よりのみや・あつこ)内親王の結婚生活についてです。1951年(昭和26年)7月、厚子内親王(21)と、池田隆政さん(24)の婚約が発表されると世間は驚きました。池田さんは旧・岡山藩主の家系に嫡男として生まれた方で、世が世なれば「大名家の若様」です。

 しかし、池田さんはこの時すでに青年実業家として成功を収めていました。しかも彼が営んでいるのは牧場で、「皇女が岡山の牧場主に嫁ぐことになった!」ということでより大きなニュースとなったのです。

――牧場主がお相手ですか! 

堀江 厚子さんの父宮である昭和天皇は、池田さんを高く評価していたようですね。昭和天皇も学者として、動植物に興味が深い方でしたから。

 明治維新後の池田家は、居城だった岡山城のお堀の一部を埋め立て、造成した広大な土地を有していました。しかし、その中から1万坪を売って、戦後に課された莫大な財産税を支払わねばなりませんでした。所有権が残った、岡山市内の西北部・京山の斜面にある5,000坪の土地を使って、池田さんは自分の牧場を開くことにしたそうです。

――ムツゴロウさんの動物王国のようですね。

堀江 本当に。珍しい動物の飼育にまで手を伸ばしていたわけではないようですが、51年8月1日号の「アサヒグラフ」(朝日新聞社)によると、牧場にいるのは乳牛4頭、豚25頭、ヤギ12頭、鶏700羽あまり。鶏の卵から生まれた瞬間にヒナの性別を判別するためには経験で得たカンが必要なのですが、池田さんは24歳にして、それを体得していたそうです(笑)。さすが「人間より動物のほうが好きだ」と公言するだけの方ですね。

――趣味と実益を兼ね備えた人生を歩んでおられたのですね。素敵です!

堀江 「アサヒグラフ」のカメラマンが、池田さんをまるで“牧場のプリンス”のように撮影していますね。池田牧場で働く所員は10人、獣医が2人。経営、販売などすべてに池田さんは関わっていたそうです。ご自宅では犬だけでもセッター、シェパード、スピッツ、ポメラニアンなど10数頭を飼い、鳥もお好きで50羽以上飼育。しかも「増産した分は岡山のT百貨店小鳥売り場で」売りさばいて儲けを得ていたとか……。

――堅実でいらっしゃいますね~(笑)。頼もしいけど、自分だけの世界をもっておられる男性なので、そこに厚子さんが妻として入るのにはご苦労があったのでは?

堀江 池田さんは気遣いのできる、非常に愛情深い方だったようです。どんな証言よりもお金の使い方で、その人の価値観は見えてくると私は思うのです。池田さんたちは、牧場の敷地内に暮らしていたのですが、「裏の家の物干し」から、しかも見下ろすようにして厚子さんの生活風景が覗けてしまうことを避けるため、「ブードアール」を新築なさったそうです。

――ブードアール?

堀江 これはフランス語でいう“boudoir(ブドワール)”でしょう。ヴィヴィアン・ウェストウッドの香水の名前でも有名だけれど、貴婦人の寝室すぐそばのプライベート空間のことです。こういう言葉がサラッと出てくるあたり、池田さんは学習院出の貴公子だなぁと感じてしまいました。

 しかも、池田さんは昭和天皇が見込んだ男性なのですよ。実は宮内庁が選定した候補者は池田さんだけでなく、入江侍従長(当時)の51年1月の日記によると、徳川家の一族や、鍋島家の男性たちが候補になっていた中で、池田さんに決まったというのです。

――錚々たるメンバーの中で、ムツゴロウ的な池田さんが選ばれたのは意外です。

堀江 正式なお見合いは一度だけでしたが、それ以前に岡山に厚子さんが出向き、池田さんと会って、彼の牧場も見学するといったカジュアルな面会が一回ありました。厚子さんも乗り気でしたが、昭和天皇が池田さんこそ厚子さんにふさわしいと感じておられ、皇族会議も経ずに「即断」なさったそうです。昭和天皇も動植物に造形の深い方でしたから、ご自分と同じ学究肌のニオイを池田さんにもお感じだったのかもしれませんね。

――順調に始まったように思える厚子さんと池田さんの結婚生活ですが、その後はどうなったのでしょうか?

堀江 「週刊読売」(読売新聞社)53年7月19日号によると、厚子さんの結婚に際して支給された一時金は600万円ほどだったそうです。ただ、これも和子内親王の場合と同じように、あくまでお手元に置いておくお金として扱われ、事業に使われるようなことは一度もなかったそうです。ちなみに池田さんは、岡山の菓子メーカー「カバヤ」に動物園のスポンサーなどになってもらっていますね。

――厚子さんも池田さんのお仕事を手伝ったりしていたのですよね?

堀江 はい。先程紹介した、「週刊読売」の記事には「タバコ屋の看板娘になった厚子姫」とも書かれていますね(笑)。53年の時点で、池田さんは牧場とは別に「池田産業動物園」もオープンさせています。この動物園のお土産屋で厚子さんの売るタバコが、大人気商品だったのです。

――かつては皇室が功労者をねぎらう目的で贈っていた“恩賜のタバコ”というものがあったそうですね。禁煙ブームで2006年に廃止されてしまったのですが。

堀江 当時、厚子さんが売っていたのは特に菊の御紋が入ったタバコというわけでもなかったのですが、それでも大人気だったのだから面白いものですよね。

 厚子さんは59年4月5日の「週刊読売」でインタビューに応じ、「別に東京が恋しくもありませんので、すっかり住みついてしまったといえましょう」と、「ぽつぽつと言葉少なげに」語っておられます。大変なことといえば、動物相手の仕事なので、池田さんだけでなく、厚子さんも予定が立てづらい生活が続いていたそうです。「タバコ屋の看板娘」以外にも、牧場や動物園の仕事に厚子さんが関わっていた空気が感じられますね。ちなみに厚子さんは歌手の島倉千代子の大ファンでした。

――池田さんとのご夫婦仲はよかったのですか?

堀江 はい。池田さんの厚子さんに接する姿勢は「皇女とて同じ人間」というものでした。ただそれゆえか、動物園内の土産物屋での仕事も、なかなか大変だった模様です。寒い時期の厚子さんの両手は「ヒビ、アカギレでいっぱい」だったとか。冬でも暖房がほぼない状態で、店内には火鉢がひとつあるだけ。しかし、厚子さんが店に立つと売り上げはグンとあがりました。

 59年頃になると、すでに動物園には閑散期である冬の休日1日で5,000人を超える入場者があったそうです。行楽シーズンでは、その倍以上の入場者数を誇りました。それには「厚子さんに会えるかもしれない!」というお客さんもたくさん含まれていたことでしょう。

――厚子さんと、ほかの皇室の方のご交流は続いていたのでしょうか。

堀江 機会あるごとに、東京の両陛下のおられる東京へ、厚子さんはお出かけになっておられたそうです。また皇族がたが岡山に公務でいらっしゃる時は、厚子さんがエスコートなさるということもしばしばあったそうです。63年(昭和38年)、厚子さんは敗血症で岡山大学病院に入院していたことがあるのですが、当初、公務が忙しくてお見舞いにいけなかった天皇皇后両陛下が、少女時代から厚子さんがお好きだったスープを、宮中の大膳部のシェフに作らせ、それを魔法瓶にいれて侍従の手に託した、という記事もありますね(「ヤングレディ」63年10月7日)。

 その後、厚子さんのもとに両陛下が「おしのび」で岡山までお見舞いにおいでになるのですが、この時ばかりは、娘として両陛下に厚子さんが甘えるところが目撃されています。「とくに恋しくない」と口ではおっしゃっていても、寂しさはあったと思いますね……。

――昭和天皇のお子様の中で、地方在住は厚子さんだけでしたよね?

堀江 そうなんです。この時、厚子さんは無事回復に向かわれます。しかし、今度は88年(昭和63年)、昭和天皇の容態が急変すると、厚子さんは動物園の事務所で記者会見した後、池田さんとともに上京するのですが、この時も心配で眠れなかった……とおっしゃっていました(「週刊読売」88年10月9日)。

 なお、厚子さんはちょうどこの年、88年から、伊勢神宮祭主の職を引き継がれています。2017年に黒田清子さんに“バトンタッチ”するまで、その仕事を長く続けておいででした。これは最近のことですから、覚えておられる読者も多いでしょう。

――はい。清子さんの前に長く務められていたお方だったんですね。

堀江 ちなみに実は女性祭主は厚子さんで3人めでした。他家に嫁いだ(元)女性皇族の職務の一つのように感じている方もいるでしょうが、比較的新しい伝統です。

 現在、厚子さんは90歳になられています。池田さんが2012年に亡くなった後も池田動物園の伝統は続いていますが、コロナ禍ということもあって入場者が減少してしまい、経営が苦しいと報じるニュースを目にしました。昭和の空気が残っている貴重な場所になっているようなので、お近くの方は訪問してみてはいかがでしょうか。

 

眞子さまの結婚生活の行方は? エリート夫が愛人女性と“変死”……夫婦生活で不幸相次いだプリンセス

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――ついに眞子さまの年内結婚が報じられました。結婚後はニューヨークで生活し、一時金は受け取らないといわれています。急転直下に事態が動きました。

堀江宏樹(以下、堀江) 表面化したタイミングが最悪だったと思います。100年近く前の話ですが、9月1日は関東大震災の日。当時は皇室も甚大な被害を受けました。しかも、きたる11日は眞子さまの母宮である紀子さまのお誕生日で、会見も予定されているという時です。「娘を守れていない」とおっしゃっていると伝え聞く母宮が、眞子さまの代わりに矢面に……ということでしょうか。

――眞子さまは皇女としての結婚に関連する儀式や、巨額の一時金を辞退なさるというご意向だそうですが……。

堀江 問題はそこではありません。一時金とは“皇室を離れることにはなったが、かつては皇族であった方の品位を守るために支給されるお金”です。

 結婚を強行することの代償として、儀式や一時金の辞退を持ち出し、それで世間と交渉なさるかのような行為は、ご自分で「私は皇女にはふさわしくない行いをしている」とおっしゃっているに等しく、「守られるべき品位が私にはもうありません」とお認めになったも同然なのです。

 ご自分の意志として表明するより、皇族会議の結論として与えられ、それを受け止めるという形態をとったほうがよほど良かったと思います。まぁ、ご本人は辞退の意向でも支給自体は行われるでしょう。ただ、それを寄付するしかなくなるあたりに事態は落ち着きそうですが。

――眞子さまは30歳という節目にこだわられているのでしょうか?

堀江 普通の女性として人生をやり直したいと思われているのでは。おそらくその中には普通に結婚し、何人かのお子様のママになりたいというご希望があるのだと思います。「小室さん以外に、もっといい男性がいるのでは」などと他人は気軽に言うでしょうが、次の方がすぐに見つかるとは限りません。むしろ、今回のことで難しくなったと思います。

 眞子さまは一人の女性として叶えたい人生像がおありで、それには妊娠、出産、育児といったタイムリミットのあるファクターが含まれているのでしょうね。自由という意味では大きな制限を受けざるを得ない皇族の暮らしから一日も早く抜け出したいという強いご希望がおありなのだとも、お見受けします。

――「公」を重んじ、「私」のことは最後に……という皇族の振る舞いと私たちが認識していることとは真逆の行いのように思えますが。

堀江 そうですね。国民がこれだけ反対している中での結婚強行は、皇室史上まれに見るスキャンダルです。皇室へのダメージは大きいですね。折り目正しい印象しかなかった日本の皇室のイメージが海外で変質しうる事件ですし、なにより、アメリカに渡った眞子さまと小室さんのご夫婦が、“第2のヘンリー王子とメーガン妃”になる可能性も否定できません。

 この先、眞子さまがご自分の選んだ道でご苦労なさっても仕方がないでしょう。しかし、かつてないスキャンダルを残して皇室を去っていった内親王の父宮として歴史に名を残す秋篠宮さま、そして将来の天皇と目されている悠仁さまがお気の毒ですね。

 そして、こんな時に、結婚相手の男性によって最悪の人生トラブルに巻き込まれたプリンセスについてここで取り上げねばならないのも、運命的な流れかもしれません。

――前回から、昭和天皇の第3皇女である和子内親王の結婚についてお話を伺っています。一介の主婦となるべく、家事の修行を積まれた和子さんは、ついに3回目の縁談で、鷹司平通(たかつかさ・としみち)さんとの結婚を決められましたが、新婚生活はどうだったのでしょうか?

堀江 最初は、とても良かったのです。さすがに元・侍従長の百武三郎さんのお家に1年間“ホームステイ”しただけのことはあったようですよ。宮内庁の経費で派遣されてきた女官と女嬬(にょじゅ)、つまり、家事指南役のメイドと、家政婦の2人が当初いたそうなのですが、それも約10カ月で御所に戻ってしまったほど、和子さんの家事スキルは高かったようです。

――和子さんの夫になられた平通さんのご経歴、お人柄は?

堀江 1959年(昭和34年)の「週刊読売」(読売新聞社)4月5日号には、「 東大工学部卒の技術屋で教養、趣味とも一流人」とありますが、 実際は大阪理工科大学(現近畿大学)卒業だそうです。

 しかし、現代日本でいうワンルームとはニュアンスがかなり異なり、「23平方メートルくらい」の一部屋で書斎、食堂、応接室、居間を兼用。そこにはピアノ、テレビ、食卓、ソファーなどが置いてあったそうな。つまり、ダイニングキッチンですね。1階にはほかに応接間や、女中部屋がありました。2階にご夫婦の寝室などはあったのだと思われます。

――なかなかブルジョワ風な生活ですよね?

堀江 はい。ちなみに自家用車はあったし、古くから鷹司家に仕えていた女中が2名いたそうです。ただし「週刊読売」によると、これが当時の「一流会社の中堅幹部」の普通の生活で、特に贅沢といえるわけでもなかったようですね。

――そうなんですか!? 女中部屋というと、最近ではセレブ向けの広いマンションの間取りで時々見るくらいな気がしますが、この頃は普通にあったものなのでしょうか?

堀江 地方のお宅から「行儀見習い」ということで、娘さんが都会の大きなお宅に滞在し、女中として働きながら家事のイロハを習うというようなシステムは(特に戦前には)よくあったものですよ。

 山田洋次監督の『小さいおうち』って映画があったでしょう。松たか子さん演じる主婦が「奥様」と呼ばれ、黒木華さん演じる年若い女中さんから慕われるお話でしたね。旧華族である鷹司家の事情はさすがにそれとは違うようですが。

 鷹司家の敷地には「離れ」と呼ばれる建物もあり、そこには平通さんのお母さん、つまり和子さんにとっては義母にあたる方が暮らしていたそうです。もともと1日2食だった平通さんにいつの間にか合わせるような形で、和子さんの生活も変わり、また愛飲家であった夫に合わせるように、お酒とは無縁の生活を送ってきた和子さんも、紅茶にウィスキーを垂らしたり、寝酒も嗜むようになった、とありますね。うーむ。

――え、ダメですか? なかなか微笑ましい光景のように私には思えるのですが……。

堀江 このお酒というファクター、後に起きる“悲劇”を知っている者としては、不吉の前兆を感じずにはいられないのですね。

 例の59年の「週刊読売」の記事にも触れられているように、当時で約9年間の結婚生活の間に、お二人に「はじめは流産、つぎは生後間もなく死亡」など、お子様関係の不幸が相次いで起き、それ以来、「おめでた」と呼べることは起きていなかったのです。

 「これが幸福な鷹司家における唯一の不しあわせである」と記事はサラッと言っていますが、お二人の間に何か、深刻なトラブルがその後、発生していたようなニオイがするのです。

――思わせぶりな言い回しですね。もったいぶらないで教えてください!

堀江 「心中だった」と考えられる死を鷹司平通さんは、バーのマダムだった女性と迎えてしまっているのですね。昭和天皇の愛娘の夫の死ということもあり、各新聞では「事故死」という報道になっていますが、読売新聞は「変死」とハッキリ報道しています。

――ええっ!?

堀江 夫の死を知らされた和子さんの取り乱し方は激しく、宮内庁から入江相政侍従が即座に派遣されたそうです。

 事件が起きたのは、66年(昭和41年)1月のこと。1月26日、和子さんと暮らす自宅の徒歩圏に住んでいる、愛人女性・前田美智子さんの家から鷹司さんは戻らず、28日夕方、彼女の家で、しかも二人とも「全裸で」亡くなっていることが判明したのです。

 前田さんは、鷹司さん行きつけのバー、銀座「いさり火」のマダムであり、千駄ヶ谷の鷹司邸の近所に住んでいました。これが偶然、もともと近所だったとは考えにくいですよね。

――二人の関係が深まり、鷹司さんとすぐに会えるよう、女性が家の近所に住むようになってしまった……。

堀江 夫にそういう女性がいることは、和子さんも恐らくはご存知でしたが、立場上、騒ぐわけにもいかず、受け入れざるを得なかったのかもしれません。かなりのご苦労が和子さんにあったと推察されます。また、不幸にも和子さんが経験なさった刑事事件は、夫の変死だけではないのですね。

――えっ、まだあるのですか?

堀江 和子さんは68年(昭和43年)8月22日深夜に、千駄ヶ谷の自宅に忍び込んできた暴漢に襲われています。

 そして、血まみれになりながらも男の腕を振りほどいたところ、そこに駆けつけた警察官によって救われるという経験をしたんです。この事件について「週刊女性」(68年9月7日号/主婦と生活社)が詳しい記事をあげており、それによると真野勝美という「精神異常」の男が“カネ欲しさ”で鷹司邸に侵入した、と。

――そこが和子さんのお住まいということには気づいていなかった?

堀江 そうですね。刃物を持っている男に羽交い締めにされながらも、和子さんが激しく抵抗したことで、男の右手の指が切れて出血したそうです。それで男は戦意喪失しましたが、和子さんも左手のひらを切るけがを負いました。そして、両者ともども血まみれで呆然としているところに警察官が到着したとのことですね。

 「キャーッ」という和子さんの悲鳴を聞いて、女中の鈴木玲子さんが110番通報してくれたのが良かったようです。もともと、和子さんが嫁ぐ際、「泥棒に気をつけて」という昭和天皇の言葉が、現実になってしまったのでした。

――わずか2年の間に、事件に2回も遭遇してしまった和子さん。その後はどうお暮らしになったのでしょう?

堀江 鷹司さんの死から4年目にあたる69年、「女性自身」(1月27日号/光文社)に和子さんのご学友だった久松純子さんという方が、和子さんのインタビュー記事を寄稿なさっていますね。ちょうど、鷹司さんが亡くなった時期に発売の号を狙って記事が掲載されています。

 これによると、「つらいつらい思い出も、いまは遠く」とのことで、穏やかな日々を和子さんが過ごしていることがわかります。母宮である皇后さまは公務がお忙しい中でも、ご自分で育てられた大輪のバラの花を、和子さんのもとに定期的に届けられている様子が描かれているなど、母娘の交流は結婚後もしっかり続いていることもわかりますね。

 ちなみにこの記事が掲載された頃、和子さんには、すでに「どこにでもお一人でお出かけできる」行動力と、明るい笑顔が戻っていたそうです。

――皇室と民間という違いはあっても、母娘の絆は変わらないものですね。その一方で、眞子さまの決断や今後の生活について、紀子さまはどう受け止めておられるのか気になってしまいました……。

堀江 ご両親の心からの納得を得ていないご結婚の例は、近代以降の皇女がたにはあまり見受けられないことなので、想像が付きませんよね。

 秋篠宮家のご夫妻は、眞子さまがご結婚なさった後もお近くにいてくださるとよいと考えておられたとよく言われますね。ご結婚後は皇族の身分ではなくなりますが、黒田清子さんのように眞子さまにも皇室行事に協力していただく未来を思い描かれていたのではないか、と。

 しかし、小室さんがニューヨークで就職し、眞子さまも海を渡ってしまった場合、ご夫妻の”夢”は叶わなくなります。なにより何か問題が眞子さまの身の上に起きていても、肉親として手助けすることすら難しくなってしまうのです。

 さまざまな結婚に関する記事を目にしましたが、現代の眞子さま・小室さんのお二人を包むような険しい空気は改めて異例と感じた次第です。皇室の歴史においても、今回の騒ぎは大きなターニングポイントになりそうですね……。

 さて、次回は動物園長と結婚なさった皇女のお話です! お楽しみに。

皇室が揺れた、プリンセスの結婚延期と「破談」! 「巨額の一時金」と3人のお相手候補の行方は?

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――今回からお話いただくのは、昭和天皇の三女にあたる孝宮和子(たかのみや・かずこ)内親王のご結婚生活ですね。

堀江宏樹氏(以下、堀江) はい。和子内親王の人生は、本当にドラマティックなものでした。そしてこの方ほど、マスコミから注目される結婚生活を経験した皇女は、過去にはいなかったでしょう。ご成婚まで何回もお相手が浮上しては消え、を繰り返していますからね。そしてご結婚後も、本当にいろいろと事件がおありでした。

――ご結婚されるまでに、どんな方が内親王のお相手候補になってきたのですか?

堀江 これがかなり複雑な経緯をたどっているのですね。

 天皇の娘である内親王の嫁ぎ先は皇族であるべき、という昔ながらのルールに基づき、戦後の1946年、16歳になっていた和子内親王の結婚相手として、賀陽宮邦寿(かやのみや・くになが)王のお名前が挙がっています。これが1人目のお相手候補でした。

 しかし、和子内親王の母宮である香淳皇后が結婚に反対を表明なさいました。香淳皇后には、賀陽宮家の家風にお気に召さない点があったこと。そして、結婚するのに16歳はあまりにも早いのではないかという声もありました。

――しかし、お相手の名前が世に出てしまった後で婚約を取りやめるのは、困難も多いのでは?

堀江 このときも、今回の眞子さまの件同様、「結婚延期」とまずは表明されました。すぐに縁談が潰れることはなかったんです。これにも注目したいですね。結婚延期が、破談希望の婉曲表現として使われているからです。

――眞子さまと小室さんの「結婚延期」にも、そういう意味が込められていたのでしょうか?

堀江 恐らく……。話が脱線しますが、日本国憲法には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」という文言があります。現代の眞子さまと小室さんのケースでも、結婚を考える当人たちの意思が反映されていなくてはならず、秋篠宮さまも「結婚を延期させる」以上の実力行使はできない、というご事情はあるかと思われます。

 和子内親王の結婚延期中には、昭和天皇も、「(旧)皇族に皇女が嫁ぐ」というルール自体が、血縁の近さなどが理由で問題という態度を明確に示され、和子内親王と賀陽宮家との縁談は解消されました。これ以降、皇女の結婚相手は、必ずしも皇族に限らないでもよいということになります。

――昭和天皇のそうした意向が、ルール変更の背景にあったんですね。

堀江 しかし、天皇家と血縁的に、そして生活文化的にも近い皇族の男性とは異なる、それ以外の家庭の男性との結婚ともなれば、皇女がたにもそれなりの覚悟というか、準備が必要なのではないか……ということを、木下道雄侍従次長(当時)が進言しています。

 こうして天皇家の未婚の3人の内親王がたは、ご両親である両陛下からの自立を促す目的で、皇居内にあった「呉竹寮(くれたけりょう)」と呼ばれる建物内で共同生活を送ることになりました。すでに長女である成子内親王は東久邇宮家に嫁いでいるので、和子内親王が、妹お二人を監督なさったようです。

――呉竹寮ってはじめて聞きました。寮という名の通り、自活が基本だったんですか?

堀江 建物が老朽化し、すでに取り壊されてしまっていますから、現代ではあまり知られていないのも当然かもしれませんね。50年(昭和25年)2月号の「改造」という雑誌によると、毎週土曜日が母宮である香淳皇后の公式訪問日でした。それ以外でも、たとえば金曜日が母娘そろって同じ先生にピアノを習う日だったので、平均で週3回ほどは呉竹寮内で母娘は面会しておられますね。

 それでも主には姉妹だけでの生活であり、家事も共同で行いました。炊事は3人の内親王でこなし、献立も姉妹会議で決定。50年時点ですでに内親王がたが家計はすべてご自分でやりくりし、家計簿もお付けになっていたとのこと。

――へー! かなり具体的に嫁入り修行をなさっていたのに驚きです。

堀江 そうなんですよ。その中でも、一番お姉さまにあたる和子内親王がリーダーシップを発揮していたのであろうと想像されます。

 というのも、48年(昭和23年)、学習院の専修科を卒業なさった和子内親王が嫁入りする前に、「一主婦としての教育をさせてやりたい」というご意思を昭和天皇が強く打ち出され、その結果、和子内親王は天皇の元侍従長だった百武三郎(ひゃくたけ・さぶろう)という方のご家庭に約1年間、“ホームステイ”なさることが決まりました。

 百武さんは戦争時の空襲で幡ヶ谷にあった自宅が全焼していたので、神奈川県藤沢の片瀬海岸の別荘で当時暮らしていました。しかし、和子内親王の“ホームステイ”先に選ばれたとなると、片瀬から、皇居のそばの紀尾井町にあった宮内庁官舎に引っ越してきたそうです(笑)。

――なかなか大変だったのですね……。

堀江 両陛下が公務の合間に、和子内親王のご様子をお訪ねになる場面も百武さんの念頭にはあったのだと思います。実際に、皇后様の電撃訪問はあり、そういう時にはミツマメを作ってなんとかしのいだそうです。ちなみに家事修行に励む和子内親王の姿を「女中奉公」と呼ぶ人もいたようですね(『改造』、1950年2月号)。

――女中奉公! それにしても急なお客様のおもてなしに、ミツマメですか(笑)。確かに主婦力は磨かれそうです。

堀江 和子内親王はそのようにして、「掃除、洗濯、料理から買い物まで主婦の心得を学び(岸田英夫著『侍従長の昭和史』、朝日新聞出版)」、百武さんのご家族と共に、『鐘の鳴る丘』などのラジオドラマを聞いて楽しみました。2020年前期のNHK朝ドラ『エール』で主人公の古山裕一(作曲家・古関裕而がモデル)が、ハモンド・オルガンを生放送内でBGMとして演奏していた姿を思い出す人もいるかもしれません。まさに、あの放送を和子内親王も聞いていた、と。

――ちなみに和子内親王には、次のお相手候補はいなかったのですか?

堀江 内親王の“ホームステイ”が終わるころでしょうか、49年(昭和24年)には読売新聞上に、和子内親王と京都の東本願寺の大谷光紹(おおたに・こうしょう)さんとの縁談が内定したという記事が載ります。しかし、これは後に「誤報」として取り消されることになりました。和子内親王が「すぐに取り消して」と強い意思を示されたそうです。

 大谷家は乗り気だったそうですし、新聞に記事が出たという時点で、かなりのところまで話は詰められていたことは想像できるのですが、和子内親王が最終的に大谷さんとの結婚をお望みにならなかったそう。これが2人目のお相手候補でした。

――うーん、それは複雑な事情がありそうですね。

堀江 結局、その翌年、和子内親王のご結婚相手は公家の中でも最高の家格を誇る「五摂家」のひとつ、鷹司家の御曹司である平通(としみち)さんで決定しました。そして、50年(昭和25年)1月下旬には世間に情報公開もなされました。

 しかし、鷹司平通さんは当時、交通博物館にお勤めで、メガネにスーツの“普通”のサラリーマン。そのお住まいは千駄ヶ谷の一軒家ですが、「カキ根も門もない」、「車一台やっと通れる路地の突き当り」に位置する“小さな家”で、「モルタル塗り二階家」だったそうです。59年(昭和34年)の「週刊読売」(読売新聞社)4月5日号の記事に詳しく書かれていますね。

――旧華族とはいえ、当時はすでに民間人であり、サラリーマンをしている方のお住まいをかなり詳細に記してしまっていますね(笑)。

堀江 皇族の結婚相手にプライバシーはないというか、そういう報道形式がこの頃すでに確立しているのは興味深いですよね。現在の小室さんが次々と過去を暴かれているのと同じ空気を感じなくもないですが……。
 
 ちなみに、和子内親王の結婚に際し、「皇室経済法」で支給された一時金は489万5千円でした。7人家族の東久邇家に支給された総額が675万円ですから、和子内親王が天皇の皇女であること、そしてインフレが起きていた時期とはいえ、現在の貨幣価値に換算すると、なかなかの巨額といえるでしょう。

――次回に続きます!

皇族で1億円以上支給されても「お金がない」!? サラリーマンと結婚した“プリンセス妻”、特売品と内職の生活だった?

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――前回は昭和天皇の弟君、三笠宮崇仁親王の第2女・容子(まさこ)さまの結婚騒動についてうかがいました。今回からしばらくは、昭和天皇の娘、皇女についてお聞きしたいです。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 昭和天皇には5人の皇女がおられました。夭逝なさった久宮祐子内親王以外の4人の内親王が成人し、そして結婚もなさったということですね。というわけで、トップバッターは“長女”の照宮成子(てるのみや・しげこ)内親王です。

 まだ戦前の1943年、成子内親王は、東久邇宮盛厚(ひがしくにのみや・もりひろ)王と結婚なさいました。お相手は「天皇の娘(内親王)は、皇族の男性に嫁ぐ」という古くからのルールに従い、宮内省(当時の宮内庁)内で慎重に人選がされたことがわかっています。ちなみに成子さまのご結婚について、世間一般ではとくにニュースにはならなかったようですよ。

――今だったら大ニュースになりますよね。報道が規制されていたということでしょうか?

堀江 それもあるでしょうが、結婚相手はあくまで皇族男性の中から選ばれるということで、「意外なあの方に決定!」というようなニュース性が乏しかったのでしょう。

 しかし、戦後すぐ、東久邇宮家は「臣籍降下」の対象となり、自活の道を探らねばならなくなります。

 東久邇盛厚さんは、戦前は軍人で、陸軍士官学校を卒業なさっているのですが、戦後、旧皇族は「公職追放」の対象でしたし、日本軍は敗戦と共に解体されましたから軍人を続けることは不可能なのです。それで東大を受験なさるわけですが、不合格。

――皇族でいられないどころか軍人にもなれず、大学生にもなれない……。そんな苦境が?

堀江 戦前なら無条件合格だったともいわれましたが、皇族の男性は特に理由がない限りは軍人になることが定められていましたからね……。ちなみに1922年(大正11年)以前は、学習院高等科を卒業した男子生徒は、帝国大学に無試験入学が可能でした。「各地の帝国大学に欠員があれば」という条件付きでしたが。

――学習院OBにはそんな恩恵もあったんですね。いいなぁ~。

堀江 不合格後も東久邇さんの学業への意思は変わらずで、3年間を東大経済学部の聴講生として過ごし、後には日本銀行に就職します。しかし、石炭化学に関心を募らせ、銀行は退職していますね。

 59年(昭和34年)年4月5日号の「週刊読売」(読売新聞社)には「”プリンセス妻” 天皇家の四人娘とその夫たち」という記事が掲載されました。この中で、東久邇さんは「北海道炭礦汽船」という会社に転職、社長室に社長秘書として勤務していることが書かれています。「(社長の)欧米視察旅行にも(近日中に)同行することになっている」とのこと。

――10何年前まで、皇族だった人を部下として雇い、秘書になってもらうなんて、なんだか落ち着かないかも。

堀江 逆に雇う側のほうが緊張しそうですよね(笑)。このように、旧皇族の中でもっとも社会的に成功した一人とされる東久邇さんですが、この記事が書かれた時にはすでに港区麻布永坂町という「都内でも最高級の住宅地」にお屋敷を構えておられました。

 ご近所には大女優の高峰秀子氏や、東洋レーヨン(現・東レ)会長、ブリヂストン社長などの邸宅が立ち並んでいたとのこと。

 戦後、落ちぶれてしまった旧皇族・華族たちが多かった中で、こうした地位を確立なさったのは、とても立派なことです。しかし、東久邇さんの妻として、成子さんは「経済問題」、つまりお金のことで何度もケンカをしたと言っていますね。

――港区の高級住宅地でのセレブライフなのに、お金の問題があった?

堀江 昭和天皇の娘として成子さんは御所で育ち、結婚するまでご自分でお金をやりくりした経験がまったくなかったそうです。成子さんいわく「私は勘定がわからないものですから、そんなに使ったとも思わないうちに、いつのまにか予算がなくなってしまい、主人(=東久邇さん)は私が浪費するといってしかるのです」とか。

――典型的なお金持ちのお嬢さんらしい発言です。

堀江 ただ、別の見方もありますね。東久邇さんが会社にお勤めを始める前、東大の聴講生だったころなどは当然ながら家計は厳しかったそうなのです。

 49年(昭和24年)夏には、雑誌『暮しの手帖』(暮しの手帖社)に、NHK朝ドラ『とと姉ちゃん』のヒロインのモデルになった大橋鎭子から依頼され、「やりくりの記」というエッセイを寄稿。少しでも安い商店の特売に通い、内職もして、家計を回していたと成子さんは発言していますね。

――ええっ。本当にそこまでギリギリの生活をなさっていたのでしょうか……?

堀江 うーん、これにもいろんな見方があるのですが。

 たとえば現在の女性皇族の方が結婚なさる時に支給される「一時金」。現在ではだいたい1億円以上の金額が用意されることが多いようです。一時金は皇族の身分を離れる方に「生活の品位を保つ」目的で支給されるお金で、単純な生活資金というより、ガードマンを永続的に雇っていくお金だったり、そういう安全保障に使われるものだと説明されることもありますね。

――眞子さまと小室圭さんについても、その「一時金」が世間の関心を買っていますね。成子さんの時代は支給されなかったのですか?

堀江 一時金がらみでは、面白いお話があるのです。戦前の皇族は、庶民の家計の何百倍もの豊かな生活を送るのが普通でした。この連載での梨本宮伊都子妃の回でも触れたように、莫大な「皇族費」が支給され、経済的な特権がかなり与えられていましたから。

 ただ、戦後になると、それらの特権のすべてが消え去ってしまいます。さらに戦後には重い財産税が課され、困窮する皇族も多かったのです。そんな中でさらに「臣籍降下」が行われ、東久邇宮家も皇族の身分を奪われることになりました。

 しかし、ピンチはチャンスとはよくいったもので、この「臣籍降下」によって、旧皇族となった家には家族数に見合った「一時金」が与えられており、その額がなかなかすごいのですね。

――結婚以外にも、一時金が与えられるケースがあるのですね!

堀江 そうなんですよ。47年に成立した「皇室経済法」をもとに、東久邇家の7人には当時のお金で675万円が与えられました。企業物価指数(日本銀行本店ホームページ)の数字をもとにすると、戦後すぐの1万円は、現在の貨幣価値で190万円ほどに相当します。当時の675万円は12億8250万円となり、お一人あたりに単純計算で1億8321万円が支給されたということですね。

――現在の内親王方のご結婚で支給される一時金の2倍とはいえないまでも、現代より割高な気が……。

堀江 ちなみに現在の女性皇族の一時金も、同じ「皇室経済法」をもとに算出されています。話が脱線しますが、小室さんがニューヨークの弁護士事務所に職を見つけ、日本には帰らない予定との発表が最近、ありましたよね?

――”小室問題”が新たな燃料を得て、いっそう激しく燃え上がりはじめた感があります。

堀江 眞子さまだけでなく、秋篠宮さまも小室さんの出世の足がかりに利用された被害者という見方もある一方、ネットには「世間を騒がせた責任を取って、秋篠宮家の方々は全員、臣籍降下を!」などと息巻く方の姿さえ見られます。

 ただ、こういうケースでも一時金は出ますからね。万が一、現実となってしまったら、小室家の警護などにかかった経費どころではない巨額のお金が動くことになるでしょう(苦笑)。

 さて、東久邇盛厚さんと成子さんのご夫婦に話を戻すと、まだお二人の身分が皇族だった45年に、長男・信彦さんが誕生していました。コロナ関係の給付金でもそうだったように、家族が多ければ多いほど、「お得」だったことは当時でも言えたのではないでしょうか(笑)。

堀江 ……ということで、たしかにこの手の一時金は生活費にはできないお金なのだ、とよく説明されるのですが、有利なスタートを東久邇家は切れていたのではないかな、と想像されるのですよね。ただ、巨額の貯金を持ってはいるが、それは簡単には手を付けられない種類のお金ゆえに、安いお店で買い物するなどの「やりくり」を成子さんがする必要もあった、というような。

――戦前に味わっていた豊かさとは比べ物にはならないけれど、それなり以上の生活の保証はあった上で、お金の「苦労」も一応はあったよという程度のお話なんですね。

堀江 たしかに、港区の一等地にある300坪のお屋敷に自家用車を完備、お手伝いの女性も複数名いる生活は、ふつうのサラリーマンでは不可能でしょうね。

 だからこそ、というか成子さんも旧皇族の交流を目的とした「菊栄親睦会」などの例会には必ず出席、社交界にも顔が効き、たまにはテレビやラジオにも出演するという、典型的な上流婦人としての暮らしを戦後でも楽しむことができたのです。

 昭和天皇の内親王がたの中で、(旧)皇族男性と結婚したのは成子さんお一人でした。しかし、臣籍降下時の一時金などの支給金を受けることができたのも、早くに結婚なさっていた成子さんお一人であり、東久邇家にとっては不幸中の幸いと呼べる事件だったのではないかな……と。

 しかし、幸せな日々は長くは続かず、60年、体調不良で入院した成子さんが実は末期がんであることが判明し、その年の内にお亡くなりになったのでした。

――次回は、三女の孝宮和子内親王のお話です。お楽しみに。

皇室から「手切れ金」が支払われた可能性? 婚約発表で“元カレ”が「結婚させてくれ」と申し入れ、プリンセスに大問題勃発!

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――今回からしばらくは、昭和天皇の内親王たちのご結婚事情について、お話をうかがいたいと思っています。かつては皇族がたのお相手選びは宮内庁が大きな権限をもって行っていたんですよね? 

 しかし、紀宮さまと我々がお呼びしていた時代の黒田清子さんについては、お兄さまがた(現・天皇陛下や、秋篠宮さま)とも親交があった男性・黒田慶樹さんと再会、その1年後にご婚約という流れでのご結婚だったと思います。平成時代にはすでに、宮内庁が(女性の)皇族方のお相手選びに積極的には関与しないようになっていたのでしょうか。

堀江宏樹氏(以下、堀江) そういう傾向はあると思います。それでも、現代日本を騒がせている“小室さん問題”のような規模の大トラブルが、皇族がたの過去のご結婚の際に起きたことは、これまでは「ほぼ」なかったのですよ。

 ただ、それは今回の眞子さま・小室さん問題のように大炎上するケースが、過去に一度もなかった「だけ」と言えるのかもしれません。留学先で、その手の問題を起こす皇族がたもおられましたからね。

――とある女性皇族の方が、留学先のイギリスでSNSに大胆な日記を書いていたということが近年、話題になりましたよね(笑)。

堀江 そうですね。ちょっと話題になる程度で、あとは秘密裏に処理されてしまうのが常なのですが。それでも、中には深刻な展開を見せたこともありました。

 これは明治時代の男性皇族の悲しいお話です。

 1872(明治4)年からドイツ・ベルリンに留学し、軍学を学んでいた北白川宮能久親王という方がおられました。その宮様が、とあるドイツ貴族の女性と恋愛、秘密裏に婚約していたことが明治9年に明らかになったのです。

 しかし、日本の皇族と海外の貴族女性の結婚には、明治天皇や朝廷の面々から猛反対があり、能久親王は涙ながらに単身帰国せざるを得なかったという事件がありましたね。

――留学先のドイツに最愛の恋人の女性を残し、日本に帰らざるを得なかった留学生……森鴎外が『舞姫』という小説に書いていた話みたいですね。

堀江 ちなみに明治時代には、オーストリアの皇室にも連なる貴族の男性ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が、日本人の庶民女性、青山みつと恋愛結婚するというケースもありました。これは男女逆ならあり得なかった気がするのです。

 あくまで個人的な見解ですけれど、もし、眞子さまと小室さんの性別が入れ替わっていたとしたら、ここまで大炎上したのかな、とも考えてしまいます。結婚において、女性より男性に高いステイタスを求める傾向って今でも根強いですからね。

 ここで思い出したのですけれど、こういう興味深い逸話も昭和時代にありました。昭和天皇の弟君にあたる、三笠宮寛仁親王殿下の第2女・容子(まさこ)内親王が、1973(昭和48)年3月からスイスとフランスにそれぞれ1年ずつ留学なさっていたとき、パリでフランス人青年と恋愛問題をおこされたといううわさですね。

――うわさ、ですか。

堀江 あくまで、うわさです。パリで容子内親王がお暮らしになっていたころ、日本人留学生たちから、フィリップ・ギャル氏という画家の卵の男性を紹介され、一時期、とても親密になったというのです。容子内親王と彼の馴れ初めには異説もありますが、それは後ほど。

 容子内親王は、タバコもお酒も豪快に嗜まれることで一時期有名だったのですが、それもすべてギャル氏から教わったそうですよ。

――ギャル氏とは、どんな方だったのでしょうか? 

堀江 「週刊新潮」(84年7月5日号)の「三笠宮妃殿下『スイスご訪問』でもう一つの『悪い情報』」という記事によると、人間の顔をかなりデフォルメして描く画風だったそうです。

 外見は、記事の写真で見る限り、宗教画のキリストのような長髪にヒゲが印象的。80年代にはすでに絶滅寸前だった“ヒッピー”っぽさもありますね。整ってはいるけど神経質な顔立ち、175センチ程度の身長、物静かな性格だそうです。

――名前はギャルでも中身は陰キャですか。

堀江 容子内親王は、そんなギャル氏を伴侶として意識することはなく、彼をフランスに置いて日本に帰国。裏千家の茶道家元の弟にあたる、千政之さんという日本人男性と結婚なさったのでした。千さんは容子さんより5歳年下です。これまでは皇女の結婚相手は、年上の男性が選ばれるケースが多かったのですが。

 しかし、年下の男性との結婚について聞かれた容子内親王は、「私は精神的なレベルが低うございますから」と冗談めかしてお答えになったことも有名になりました。これが83(昭和58)年のこと。

――お相手男性のお家柄も立派ですね。容子さんのコメントも素敵じゃないですか。

堀江 結婚後すぐに容子さんは懐妊なさるほど、ご夫婦仲はとても良いものでした。また、容子さんは茶道の勉強も熱心に始められていました。

 ところが、お二人の婚約が発表された同年4月、フランスから例のフィリップ・ギャル氏が来日、三笠宮家に「容子さんと結婚させてくれ」と申し入れて大問題になったそうです。この時、マスコミは気づかず、騒ぐことはありませんでしたが、同年7月頃にはすでに報道関係者に情報は漏れていたそうです(「週刊新潮」84年7月5日号)。

――ええ! 『舞姫』の男女入れ替え版みたいな展開じゃないですか。

堀江 そうなんです。この時、関係者がギャル氏を説得、帰国させることには成功しました。そして、容子さんは千さんと無事結婚なさったのですが、それに不服なギャル氏が“何らかの要求を行い”……つまり、自分の気持ちを弄んだ保証を金銭でしてほしいというようなことを言い出した、と。

――それは手切れ金みたいなことですか? なかなか大胆な要求じゃないですか。

堀江 そのうわさに真実味を与えたのが、この年の7月……具体的には84(昭和59)年7月6日~24日までの19日間、完全プライベートのスイス旅行に三笠宮百合子妃がお行きになったことです。当時、スイス・ジュネーブには三笠宮ご夫妻の長女で、近衛家に嫁がれた甯子さんとそのご家族が滞在されておられ、みなさんにお会いになるための旅行……という説明が公式にはなされました。

――公式には、というと?

堀江 はい。そもそも、皇族がプライベートの海外旅行を行うこと自体が、過去に例がほとんどなく、旅先についての宮内庁のアナウンスも怪しかったのです(笑)。百合子妃が「フランス、イタリアにも足を伸ばされるかもしれない」などと発表されていましたから。

 また、この百合子妃のスイス訪問の約2カ月前のこの年5月、「なぜか」容子さんの夫君である千政之さんが、これまたお供も連れず、単独でフランス・パリに「外務省関係の用事で」旅行しているのです。

 本当に外務省の仕事なら、単独旅行はありえないはずと、裏千家関係者の間で話題となりました。ここから見えてくるのは、当初は容子さんの夫君・千さんが、妻の元カレであるギャル氏に面会、「妻や、その実家にもう関わらないでください」と頼んだけれど、ギャル氏が納得しなかったので、今度は母親の百合子妃がフランスに乗り込み、くすぶり続ける問題の火種を鎮火した、という“ストーリー”です。

――なんだか大変な話ですが、どの程度ウラは取れていたのでしょうか?

堀江 うーん、どうでしょう。一番面白いのは、容子さんの姉君である近衛甯子さんが、ギャル氏とおぼしき男性をスイスで見たことがある……つまり、ギャル氏と容子さんのご縁は、容子さんがパリに留学する以前に滞在していたスイスに彼がやってきた時、すでに始まっていたのかも、と両者の関係を認めつつも、「失礼ながら、その方なら容子の好みではないと思いますよ」と、うわさをバシッと全否定しておられるのです。

――お姉さまもギャル氏と面識があるんですね。でも付き合ってはないと。

堀江 一方で、当時フランスに留学していた匿名の日本人画家は、ギャル氏と容子さんの「付合いの深さは相当なもの」と断言。苦学生だったギャル氏と仲間たちにとって容子さんが「金ヅル」で、貧乏学生たちが容子さんを「プリンセス、プリンセス」と持ち上げ、飲み代を払わせていたことを証言しているのでした。

 ほかにもギャル氏が容子さんとの写真を持っており、どうやら人に見せていたことがわかる証言もあります。その写真は「かなり親しげ」で、他にも公開されると、まずい情報をギャル氏に容子さんは握られてしまっていたのかも……という話なのですね。

――眞子さまが小室さんと破談できないのも、破談なんてしたら彼から不都合な情報が公開される恐れがあるからでは、という説もよく囁かれますよね。

堀江 そういう話は、皇女の恋愛や結婚にはつきものなのでしょうか。ちなみにギャル氏は1983年にも来日し、銀座の「都留満喜」画廊というところで3日だけ個展を開いたそうです。そこに婚約したばかりの容子さんが訪れたとのうわさも。婚約後の身で、元カレの個展に訪れたので「ヒンシュクを買った」という話もありますが、何らかの交渉をご自分で行おうとしていたのかもしれません。

 ただ84年以降、ギャル氏の影は三笠宮家の周辺から完全に消えたらしく、週刊誌にもその名が上がるようなことはなくなったようです。そもそも、百合子妃がギャル氏にお会いになったなどのウラがないため、すべてが推測ともいえますが、母宮の勇気が愛娘を守った……なんて“ストーリー”も想像してしまいますね(笑)。

――ギャル氏のその後は?

堀江 フランス語で「ギャル」という読み方の姓名をいくつか検索してみたのですが、フィリップ・ギャルという画家の情報は、ネット上では見つけられませんでした。また、現在、銀座に「都留満喜」という画廊はどうやら閉廊したらしく、そこから情報をたどることも不可能でしたね。

――誰にでも恋愛関係のトラブルって起きうるものですが、それが皇女という特別な身分ゆえに生じていたとすると、なんだか理不尽だな、と思ってしまいました。

2万坪の豪邸から、新居は飯田橋の2部屋アパート! “主婦”になったプリンセスの結婚・離婚・再婚のお相手男性

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

▼前回▼

――ときの皇太子殿下(現・上皇陛下)と美智子さまのご成婚パレードに、複雑な想いを抱いたという旧皇族・久邇通子さん。激動の昭和を生き抜いた元・プリンセスです。民間出身ながら皇太子妃になられた美智子さまと、旧皇族出身ゆえに民間人の男性との結婚もままならない自分……。立場の違いに泣きたくなりそうです。

堀江宏樹氏(以下、堀江) しかし、このまま家で鬱々としていても仕方ないと考えるのが、前向きな通子さんという女性でした。通子さんは「働く女性」となることを決意し、津田義塾で英文タイプを専門的に習いはじめます。後には首席という優秀な成績で卒業、大協石油(現・コスモ石油)に入社したのです。

 いまだ親族から結婚は許されないものの、学習院大学で出会った永岡義久さんとのデートも続いていたそうです。しかし、二人がお付き合いをはじめて5年半もの月日過ぎようとしていました。

 結婚に反対したまま通子さんの父・朝融さんが肝硬変で倒れ、近親者の取り計らいで通子さんと永岡さんの結婚が決まりました。意識不明の父の枕元で婚姻届の用紙を二人で書いたそうです。新居は飯田橋の2部屋のアパートでした。

――2万坪の渋谷の豪邸に生まれたプリンセスの新婚新居としては、侘しいですね……。

堀江 この頃すでに永岡さんはサラリーマンになっていました。通子さんも働きながら、主婦としても一生懸命にがんばるのですが、悲しいことに同居するほど「性格の不一致」は広まり、二人の結婚生活は4年で終わってしまうのです。

――5年半付き合っても「性格の不一致」で離婚ですか……! プリンセスの離婚となると揉めそうですね。

堀江 それが結婚するより格段に難しくなかったようで、その後の通子さんは大井町のアパートに移り、自活を続けたそうです。いくら働く女性とはいえ、女性一人暮らしというものが経済的に厳しかった当時、立派だといえるでしょう。しかも、裕福な結婚相手に恵まれた兄弟姉妹に経済的に頼ることも絶対にありませんでした。

 ちなみに通子さんと別れた永岡さんと思われる男性が、晩年に『もう一度、一緒にあの坂を』(幻冬舎)という書籍を出しておられますね。内容は東京にたくさんある坂と、それにちなんだ文豪の逸話のようです。会社員になった後も文学部で学んでいたことを、忘れなかったようです。

――坂道好きで有名なタモリが読んだら、すごく喜びそうな本ですね(笑)。

堀江 その後、通子さんはとある専門図書の輸入会社に転職するのですが、ここで6歳年下の酒井省吾さんという後輩男性に仕事を教えるうち、彼から慕われるようになります。

――あらら、新しい恋の予感!

堀江 そうなんですよね。ただ、酒井さんは学習院大の学生だった永岡さんにくらべ、本当に庶民的な男性だったようです。愛知県岡崎出身で、お父さんは牛乳販売店を営んでいる方だそうです。上智大学の哲学科出身ですが、入るのに3年浪人……。バイトしながらだったので、勉強時間が取れなかったのかもしれません。

 大学在学中もバイト三昧で、実家からは「月1万円だけ」の仕送りだったとか。ちなみにこれらはすべて通子さんが、河原敏明さんという皇室ジャーナリスト第一号のインタビューに語っていることです。

――昭和30年代ですよね。その頃の1万円ってどれくらいの価値があったのでしょうか?

堀江 僕も気になって調べたのですが、現代の貨幣価値で15万円は超えていると思います。昭和30年代のヒットソングに「13800円」というものがあり、これは後にムード歌謡の帝王といわれたフランク永井さんの最初のヒットソングらしいのですけど、当時の大卒男性の初任給の平均額なんだそうです。

 ……となると、当時の1万円はかなりの大金ということですね。牛乳販売店経営のお父さん、仕送りをよく頑張られたのだなぁと思います。

――酒井さんのパーソナリティーはどんなタイプですか?

堀江 酒井さんは、まじめな学者タイプ。ドイツ語と英語が得意で、輸入業務に生かしていたそうですね。その後、酒井さんと通子さんは急接近していきます。ただ、本当の庶民・酒井さんとの結婚に反対という通子さんの兄弟姉妹は、かなりいたそうです。しかし、長兄である久邇邦昭さんが、彼は「なかなかしっかりした、好感のもてる男性です」と認め、結婚を許可してくれました。

 ところが……ヒルトンホテルで昭和41年に開かれた会費制の披露宴パーティには、久邇家の面々は誰一人参加してくれず、通子さんの学習院時代の友人が1人だけだったとか。酒井さんも、彼のお母さん1人が来ただけで、あとはすべて会社の方だったそうです。

 どうも牛乳屋を営む酒井さんのお父さんとしては、旧皇族の女性とわが息子の身分違いの結婚に大反対だったようだし、そんな方々と親戚づきあいする自信などないというのが本音のようでしたね。

――せっかく再婚となったのに、それは寂しい……。

堀江 結局、昭和50年代に皇室ジャーナリスト第一号・河原敏明さんの取材に応じた時、酒井さんは出版社設立という夢の実現を目指し、失業給付を受けながら暮らしておられた、とのことです。

堀江 それでも通子さんは「人間の幸福が、金や権力だけにあるのなら、上流階級の人たちはみな幸福いっぱいのはずですが、現実はむしろ逆ですね。(略)最高に幸福です。心から満足しているんです」とコメントしていますね。

 本当の幸せを追い求めた通子さんの生涯は、虚栄とは対極の生き方に貫かれていたと思います。ある意味で、生粋のプリンセスらしさの持ち主だったともいえるでしょう。

 ちなみに酒井通子さんは現在もご存命のようです。一方、出版社設立を目指した酒井さんの足あとをその後、ネットでたどることはできませんでした……。

――どうか幸せにお暮らしになっているとよろしいのですが。

皇太子のお后候補から一転! 結婚に苦労したプリンセスの“彼氏”と複雑すぎる家庭事情

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

――これまで2回にわたって愛新覚羅慧生(あいしんかくら・えいせい)さんの悲恋についてうかがってきました。慧生さんのほかに結婚に苦労なさったプリンセスが、昭和時代にはおられると聞きましたが……。

堀江宏樹氏(以下、堀江) そうですね。今回お話したいのは、激動の昭和を生き抜いた、旧姓・久邇通子さんという旧皇族の女性のお話です。

――久邇家といえば、前にも出てきた久邇宮家ですよね?

堀江 はい。運命が一族に共通しているのなら、久邇家(旧・久邇宮家)は結婚問題で代々モメるということになっているのかもしれないと言えるほど、騒動が尽きないんですね。

 久邇通子さんは昭和8年のお生まれ。過去の連載内では、さんざんな取り上げ方になってしまいましたが、婚約破棄問題を引き起こした朝融王の第3女です。東京・渋谷にあった2万坪の大豪邸(現在の広尾、聖心女子大がある場所)で生まれた通子さんは、生粋のプリンセスといえるでしょう。しかし、その家庭事情は複雑でした。

――もしかして、朝融王はご結婚後も女性に対して“ヤンチャ”だったということですか?

堀江 例の婚約破棄スキャンダルの直後、元・婚約者の酒井菊子さんが前田利為(まえだ・としなり)侯爵にめでたく嫁いだと聞くと、「自分も負けていられない」という謎の闘争心が朝融王の中に芽生え、焦りだします。しかし、すべてを知った上で受け入れてくれた、伏見宮家の知子女王と結婚することができました。知子女王の父宮の「理解」にも助けられたようです。

 ところが……元号が大正から昭和に変わったころ、屋敷の侍女に朝融王は手を出し(一説には襲いかかり)、子どもを産ませるという大事件を起こしています。詳細は不明ながら子どもは侍女と引き離され、ある農家に養育費として大金を与えるかわり、養子に出されることになりました。子どもを養子に出すというのは、娘を少しでも有利な条件で結婚させたいからという、侍女の父親の希望でもあったそうです。

 ただ、その侍女はいったん実家に戻されていたものの、宮家へ舞い戻り、その広大な敷地内に一軒家を与えられて暮らしていた時期もあるようです。

――それは側室になったということですか?

堀江 いや、そういうわけでもなさそうですね。仔細は不明ですが、誰かと結婚させられる形で、その侍女は再び宮家から姿を消しました。すべては体面維持のためでしょうね。

 知子女王との間に授かったお子が二人つづけて女の子だったため、侍女に手を出した理由として、朝融王が「男の子がほしくなった」からと釈明されることもありますが、それでは世間の理解を得るには難しいものがあります。しかし、知子女王は、この侍女との一件についても「自分の父には知らせてくれるな!」と夫・朝融王を庇いました。

――知子女王の立派さに対し、朝融王は、まったくなんて言ったらいいのか……。

堀江 繰り返しますが、今回お話するプリンセス・久邇通子さんが、こういう家庭にお生まれになったのは昭和8年のこと。彼女がこの事件について知ったのはさすがに成長後でしょうが、ご自分の家庭に対して非常にクールなコメントをしているのが気になります。

 しつけは乳母と母親の両方から厳しくされる一方、ほかの兄弟姉妹たちとの交流はなく、食事もそれぞれが部屋で取るし、みんなで顔を合わせて食事するということも、「年に何回もありませんでした」とのこと。14歳の時に母・知子女王が亡くなるのですが、密接な交流がなかったから「悲しさはほとんどありませんでした」とさえ言い切っていますね。

 その約4カ月後、久邇宮家は臣籍降下し、皇族ではない民間人となりました。戦前、2万坪以上あったお屋敷の土地や屋敷の大半は、すでに聖心女子大学に払い下げられていました。

――運命が一変したのですね。

堀江 そんな通子さんの身辺に新聞記者たちが現れ出したのは、彼女が学習院高等部の3年生くらいから。彼女はいとこにあたる現・上皇陛下のお后候補に、宮内省のお役人の手によって、ご自分はまったく知らないうちにされてしまっていたのでした!

 しかし当時、皇太子だった明仁親王と通子さんには、文化祭などで会った時に挨拶を交わす程度、つまり顔見知り以上の関係はありません。高校の時に一度、明仁親王の車に乗せて送ってもらったことがある程度だったそうです。しかしある時、通子さんはお后候補から自分が外れたことを、記者が来なくなったことで気づいたのでした。

――またもや運命の転変ですね。候補から外れたのはどうして?

堀江 いとこ同士の結婚であることを、明仁親王が問題だとお考えになったのと、学習院大学の聴講生となって文学を学んでいた通子さんには、永岡義久さんという恋人が出来たという情報が共有されていたからのようですね。

――やはり大学はプリンセスにとって貴重な出会いの場なんですね!

堀江 本当に。永岡さんとの恋愛が表沙汰になることを家族が嫌ったからか、たった1年で通子さんの大学通いは終わってしまいます。二人は隠れるようにして、月2、3回のデートをしているだけでした。

 ちょうどその頃、明仁親王と正田美智子さんがご成婚なさって、パレードをしている映像をテレビで見ていた通子さんは、お祝いの気持ちとともに「号泣したくなった」といいます。というのも、民間出身ながら皇太子妃となり、美智子さまと呼ばれるようになったあの方と、旧皇族出身で、民間の男性との結婚を阻まれ、鬱々と暮らす自分との落差に悲しくなったからだそうですよ。

―――それは悲しくもなってきますね。民間からプリンセスに”成り上がった”美智子さまの一方で、自分はもはや皇族でもなければ、民間人にもなれない……。いったい、通子さんはどんな結婚を迎えるのか? 続きます!

眞子さまより日本を騒がせた、プリンセスの“恋”と“婚約トラブル”! モメまくった結婚問題が迎えた「悲劇」

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

前回まで……秋篠宮眞子さまの結婚をめぐる騒動がいまだ解決していない現在。昭和中期にも、結婚問題でモメにモメて、日本を騒がせたプリンセスの恋がありました。清朝のラストエンペラー・溥儀(ふぎ)の姪に当たる、愛新覚羅慧生(あいしんかくら・えいせい)という女性と、そのお相手で青森出身の大久保武道の恋物語と、ついに訪れた悲劇とは……?

ダメな男に「ゾッコン」だったプリンセス

――慧生さんは、大久保さんのどこに魅力を感じていたのでしょうか?

堀江宏樹氏(以下、堀江) 世間にはダメ出しされてしまうような、不器用でダメなところが、逆に誠実に感じられ、よかったようです。彼女自身の手紙の言葉でいえば「服装なんてあまり(大久保さんは)おかまいにならないし、人にたいしてもわりあいにそうでしょう。(略)私は(大久保)武道様のそういう根本的なあたたかさが好きなのです。失礼ながら、下品な言葉で云えば『ゾッコン参って』います」。

――「ゾッコン」ですか(笑)!! 

堀江 自分との「違い」に強く惹かれてしまうのは、いつの世のプリンセスにも共通することかもしれませんねぇ。ちなみに、こんなことも慧生さんは手紙に書いていますね。

 「人を愛すると云うことは、人間の感情を動かすもっとも大きな動機であってみれば、愛する人と行動をともにしたいという傾向性は本能的な激しい推進力をもつものですから、それを押さえることは本当に苦しいでき難いことでございます」。

 この文、小室さんとの結婚に猛反対を受けた眞子さまが2020年11月に発表された手記の一節、「結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」の部分と、なんだか似ていますよね。ま、小室さんについては、なんでも器用に一応はこなせるというか、大久保さんとは真逆の印象ですが。

――「禁じられれば禁じられるほど……」という恋心のプロセスは、確かに似ているかもしれません。

堀江 そうですね。しかし、大久保さんが慧生さんのお見舞い目的にせよ、他人さまの家庭にアポなしで押しかけ、長時間いすわった様子を、慧生さんの暮らす嵯峨家の人たちは「図々しい」と言って嫌いました。

 1956年12月30日のことです。女中のいるようなお家でもお正月準備が忙しい頃ですし、そういうときに“突撃来宅”はダメだ、ということくらいわかるはずですが、恋する大久保さんに「常識」は通用しませんでした。

 慧生さんが風邪だと知ると、帰省中の青森から夜行に立ちっぱなしで乗って、東京についたらその足で嵯峨家に突入してしまったのですね。

堀江 慧生さんも、表面的には家族に「図々しいわね」などと調子を合わせながら、「そんな自分が哀れで、布団をかぶって泣いちゃったわ」(青弓社『にっぽん心中考』佐藤清彦)などと、学習院の同窓生で、親友の木下さんという女性には本音をもらしたとか……。

 この時、慧生さんはご自分の家族のことを「お家の人」などと呼んでおり、彼女の中で、大久保さんとは一心同体のようになっているのに、実の家族との心の距離は確実に生まれていたのは見逃せません。

――大久保さんのそういう性格は、なかなか他人には理解しづらいでしょうね。常識で熱烈な恋心を語ることはできないとはいいますが……。

堀江 お二人が学習院そばの目白駅近くの蕎麦屋で話し合い、「婚約」したのが1957年2月のこと。大久保さんは慧生さんに銀のブローチを贈り、慧生さんは彼にネクタイを贈ったそうです。慧生さんには、大久保さんからエンゲージリングも贈られていたようです。ご家族の手前、リングをはめていることは少なかったようですが。

 慧生さんは大久保さんがそのラフすぎる服装のせいで、周囲になじめないと考え、紺色のスーツを作るようにアドバイスしました。そして、その服装に合うネクタイを選んでプレゼントしたようです。ズボンを穿く前には、布団の下に敷いて寝るとシワが取れるのよ、などのアドバイスもしていますね。

――すでに奥さまみたいですね。

堀江 こうして秘密の恋が人知れず深まっていく中、なんらかの深刻な変化が大久保さんの中で起きたのが同年12月1日とされます。残念ながら、詳しくはわかりません。彼には「血にまつわる性の悩み」があったと、曖昧な理由が公表されているだけですが、愛人を作るような実の父親を軽蔑する大久保さんが結婚し、子どもを持つことになれば、父親から引き継いだ“淫蕩の血”が、わが子にも流れる……というようなことが恐ろしかったのではないか、と推測します。

 この時、大久保さんは20歳(ちなみに慧生さんは19歳)。ちょっと頭でっかちすぎるかなぁ、と思ってしまいますが……。いずれにせよ、大久保さんの自殺願望が、急速にこの時期に高まり、後には引けなくなったようです。

 ちなみに先ほど紹介した、「人を愛すると云うことは、人間の感情を動かすもっとも大きな動機」という文章が慧生さんによって書かれたのは11月になってから。二人の仲が熟してきていた最中のことでした。

――なんだか危険な雰囲気になってきましたね。この先の展開が怖いです。

堀江 大久保さんには昔から自殺願望があり、実家からライフルを東京に持ってきていたようです。そして同1957年12月4日の朝、自宅を何気なく出ていった慧生さんが二度と生きて帰ることはありませんでした。大久保さんと慧生さんの二人の遺体が、天城山で発見されたのです。

堀江 二人を載せたタクシーの運転手が、天城山に到着したのが同4日の午後3時すぎのこと。彼は、帰りの最終バスの時間が午後6時であると気にする慧生さんの姿を証言しています。心中しようとしている人が、帰り道を気にするわけもありません。また、「今なら間に合うから引き返そう」と大久保さんに訴える慧生さんの姿についての証言もあります。

 諸説ありますが、慧生さんは大久保さんと一緒に死のうと思って天城山に向かったのではなく、1人にしておけば、愛する大久保さんが確実に死んでしまうので、それを命がけで止めようと同行したのではないか、と僕には思えます。

――しかし、お二人が天城山から戻ってくることはなかった、と。

堀江 残念ながらそうです。行方不明になった彼らに対し、二人の実家は「生きて帰れば、交際を認める」などの宣言を出しましたが、時すでに遅し。

 二人の遺体が発見されたのは12月10日のこと。慧生さんは大久保さんからもらった銀のブローチをつけ、大久保さんは慧生さんが贈ったネクタイと、彼女のアドバイスで作ったスーツを着て亡くなっていました。

 大久保さんが慧生さんのこめかみをライフルで打ち抜き、その後、自分も……ということでした。顔に白いハンカチがかけられた慧生さんを、大久保さんは腕枕するようにして、二人の遺体は木の下に横たわっていたといいます。当初、慧生さんの左手薬指には大久保さんから贈られたリングが光っていましたが(12月11日、朝日新聞)、葬儀の時には彼女の家族の手で抜かれていたようです。

――その後、慧生さんのご家族は?

堀江 慧生さんには思うところがあって、嵯峨家には遺書などは残しませんでした。実家と、大久保さんのことでトラブルになっていたのでしょう。実際、学習院の寮の先生に書いた慧生さんの遺書が、嵯峨家に貸されている間に、勝手に燃やされてしまったという事件がありました。これは慧生さんと実家の関係を推測できる、いざこざでもありますね。

 二人の書簡も大久保家にまとめて送られ、1961年に『われ御身を愛す―愛親覚羅慧生・大久保武道遺簡集』として書籍化されています。

 事件当時、慧生さんの父上である溥傑さん(“ラストエンペラー”溥儀の弟)は、中国の共産党政権によって勾留されていましたが、風の噂で娘の死を知っていたようです。溥傑さんをはじめ、愛新覚羅家では心中だったと考える一方、嵯峨家の主張はストーカーによる誘拐殺人で、拳銃で脅された結果のものだったということになっています。

――心中とストーカー誘拐殺人では、まったく事件の質が違いますね。嵯峨家の大久保さんへの憎しみめいた感情がひしひしと感じられます。

堀江 お二人がもはやこの世の人ではないので、真実はわかりません。しかし、世間的にはものすごく衝撃的な事件となり、恐らく現在の小室さん問題以上に騒ぎを呼びました。『天城山心中 天国に結ぶ恋』(1958)年などというタイトルで、映画化され、大ヒットとなったのです。

――昭和時代のプリンセスの厳しい結婚事情については、次回に続きます!