沈黙と笑顔を巧みに使い分ける「恐るべし秋篠宮」――インタビュー録『秋篠宮』に見る混迷

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――今回からは、5月に発売された話題の書『秋篠宮』(小学館)を、堀江さんと分析していきたいと思います。著者は秋篠宮さまと長年親交を持っているジャーナリストの江森敬治さん。本作は、眞子さまの結婚問題などで揺れた時期の秋篠宮さまに、江森さんが5年密着、37回もの取材を経て書かれたそうです。

堀江宏樹氏(以下、堀江) そのわりには情報が薄いのが気になりました。この本の最大のセールスポイントは、日本中を巻き込んでしまった眞子さまと小室さんの結婚問題を、秋篠宮さまがいかに捉え、行動したのかを、宮さまご自身の言葉で明らかにするという点だったはず。小学館の公式サイトにも「人間・秋篠宮の心奥に迫る唯一無二のインタビュー録」「平成から令和の代替わりに臨み、長女の結婚問題に揺れた」といった言葉があります。

 天皇陛下に近い弟宮が、こうしたメッセージを発するのはきわめて異例で、いわば宮さまの“禁断の肉声”が聞ける……と、読者は期待したのでしょう。

 しかしふたを開けると、眞子さんの結婚問題については週刊誌やネットに漏れていた情報と、ほとんど変わりない内容でしかなかった。Amazonなどのレビューが荒れ狂っていますが、その理由は、このあたりにあると思われます。

――天皇陛下が『秋篠宮』に不快感を示された、という報道がニュースサイト「デイリー新潮」に出ましたが。

堀江 「デイリー新潮」の記事によると、国民に公正・公平たるべき皇族……それも、秋篠宮さまはいまや皇位継承権第一位の重い立場なのに、江森さんという一人のジャーナリストを優遇した部分を、陛下は問題視なさったとされています。

――マスコミに批判的な姿勢をとっていながら、マスコミの手を借りたことも問題視されているようです。

堀江 それについては、秋篠宮さまはご自分のお考えを、一人のジャーナリストを通して世間に公表することで、すこしでも客観性を獲得できるのではないか……と狙っていたのかな、とも思いますよ。そういうことより私が気になったのは、宮さまの堂々たる曖昧さですね。

――堂々なのに、曖昧なんですか? 矛盾しているような。

堀江 本書を一読すれば、納得していただけると思います。眞子さまと小室さんの結婚問題に対し、日本中で巻きおこったネガティブな反応に対し、どう思うか尋ねられても、秋篠宮さまは謎めいた態度を取りつづけ、江森さんもそれに翻弄されてしまっているんですね。

堀江 しかも、江森さんはそうした宮さまの言動に自分の感想・分析をはさむことなく、こうして公表してしまっているのです。とにかく淡々と描写されているだけのように読めるので、一般読者としては、「そんなことしか聞けないの?」とか「あなたはジャーナリストなのに、しかも国民の声を伝えられる貴重な立場にいながら、議論すらできなかったのか」などと不満を募らせ、結果的に裏切られたような思いに囚われてしまうのでしょう。

 でもそれは、江森さんも実は同じ。あえて言葉にされていない部分に、大きな意味が含まれている点で、本作はノンフィクションというより随筆というべきなのかもしれません。

――言葉を使わない上級なやりとりへの理解が求められているのですね。これは理解のポイントかもしれません。

堀江 情報量が少ないのは、オフレコ指定の部分も多かったのでしょう。しかし、先ほどもお話したように、秋篠宮さまが、不機嫌な沈黙と素直な笑顔を巧みに使い分け、江森さんをコントロールしていることがわかります。出し抜かれた江森さんによる「恐るべし秋篠宮」なんて表現さえ出てきますからね(38ページ)。

――江森さんと秋篠宮さまは、取材者と取材対象という垣根を超えた、個人的な付き合いを31年以上にわたって続けておられるのだそうですが、それなのにコントロールされてしまった?

堀江 そうなんです。宮さまが“お友達記者”に自分を弁護させようとしたのでは、という批判もありましたが、まったく違います。秋篠宮さまを全面的に援護する書物ではありえないですね。江森さんご自身が、そういう秋篠宮さまに翻弄された一人の国民というメッセージを文章の端々から発しているんです。遠回しながら、宮さまに対する批判ということにもなりますね。驚くべきことですが。

 しかし、私は装丁のほうにびっくりしてしまいましたね。

――白い無地のカバーに、黒いシンプルな字体で「秋篠宮」などとあるだけですよね。皇室本の定番は、カラフルな表紙で、御本人のお写真が掲載されるのが定番なのに。

堀江 江森さんの旧著『秋篠宮さま』(毎日新聞社)も、大きなトカゲにまたがる宮さまのお姿が表紙でしたよね。それにくらべると『秋篠宮』の装丁は、あまりに素っ気なさすぎるんじゃないか……と思っていたのですが、ある時、すごいことに気づいて「あっ」と声を上げてしまいました。

 カバーを取ると、独特のオレンジ色が覗いているんですよ。あのオレンジ色こそ、皇嗣もしくは皇太子しか纏うことができない、黄丹袍(おうにのほう)の「禁色(きんじき)」なんです。その文脈で考えていくと、白は袴(=ズボン)の色ですね。黒は靴や冠の色です。

 国民の反対に気づいていながらも、自分の意思を貫いたり、長年親交のある記者に対しても曖昧な態度を取る。そういうところも含めて「これが秋篠宮のすべてだ」「これが秋篠宮という人だ」って装丁からして言い切っちゃってるのが『秋篠宮』なのです。読者がどの程度、そういう「ウラ」に気づいているかはわかりませんが……。

――ちょっと背筋がヒヤッとしましたよ、無言のメッセージに。そして第一章のタイトルが「混迷」。あの騒動を感じさせますね……。

堀江 この章の内容は、眞子さまと小室さんの結婚問題についてです。『秋篠宮』という本の中で、世間のみなさんが一番知りたいと思っていたことが、いろいろ述べられている「はず」なのでした。しかし例によって、明確な言葉では我々の知りたかった情報に触れることはできません。いろんな意味で「混迷」ですね。

――内容を追っていくと、いきなりネガティブなことが書いてあります。

堀江 2017年5月に眞子さまの婚約内定がNHKニュースで「特ダネ」として報道されました。以来、「当初、国民も祝意を持って受け止めた」ものの、小室さんの身辺情報が次々に暴かれていく中、「懐疑的な視線が目立つようになってきた」と江森さんがまとめています。

 江森さんもかつては「毎日新聞」の皇室担当記者でしたから、過去の「皇太子と雅子妃、秋篠宮と紀子妃の結婚は切れ目なく盛り上がり続けた」という印象を持っているので、今回の報道は異常だとすぐに感じたそうです。

――江森さんは、小室さんという人物やそのご家族に、皇女との結婚相手にはふさわしくない何かを見出されたということですか?

堀江 そうですね。さすがにそこまでハッキリ書かれてはいませんが、江森さんが小室さんが理想的な人物だとはいえないと思っていたのは明らかです。

 「2017年6月、婚約内定報道後初めて、私は秋篠宮と会うことになった」と取材がはじまったことが書かれているのですが、江森さんはこの日、意識して約束の時間よりもだいぶ早くに宮邸を訪れたようです。

――それはなぜなんでしょうか?

堀江 「秋篠宮が眞子内親王の相手男性(=小室さん)に対して不満を抱いているかもしれないと思ったからだ」とありますね。私の推測ですが、不機嫌なときの宮さまとのやりとりは、相当大変なんでしょうね。だから、事前に取材現場に早く乗り込んで、宮邸の空気を確かめたかったのでしょう。この日の江森さんは、部屋に置かれている剥製の鳥に睨まれているような気になるほど、ナーバスでした(笑)。

――江森さんが、宮さまを恐れているのでしょうか?

堀江 そうなんです。この本のキャッチコピーに「皇族である前に一人の人間」とありますが、やはり皇族である秋篠宮さまに対し、一般人は至近距離で接すると、緊張を覚えてしまうものなのでしょう。それに加えて、不機嫌なときの宮さまが端的に怖い方なのではないか、と私には思われました。

 しかし、驚いたことに、この日の宮さまは予想に反して、上機嫌で「にこやかだった」。江森さんの想像は裏切られました。眞子さまと小室さんとの「婚約内定を(秋篠宮さまが)喜んでいる」と感じたのでした。

――次回につづきます!

雅子さまに向けられた「常磐会」の視線ーー皇后の座をめぐる「学習院VS聖心女子VS東京大学」の混戦

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――前回は学習院高等科を卒業した女性だけが入れる同窓会組織「常磐会」のお話をしていただきました。歴代の皇后陛下を輩出してきた組織とのことで、聖心女子出身の美智子さまが登場した際には、相当なアンチ活動を行っていたとか……。それだけに、浩宮さま(現・天皇陛下)のお妃こそは常磐会会員から、という悲願があったようですが。

堀江宏樹氏(以下、堀江) しかし、結果はご存じのように常磐会ではありませんでした。当時の週刊誌を調べたら、東大出身の雅子さまはダークホースだったようですね。

 美智子さまの時代の争いは「学習院VS聖心女子」でしたが、雅子さまの頃には東大が加わり、三つ巴の混戦状況になっていたのがわかります(笑)。この「貴族(学習院)VSその他」という対立構図は、美智子さま時代から引き続き、受け継がれていました。

 昭和61年(1986年)5月1日号の「週刊サンケイ」に掲載された記事は、その名も「学習院VS聖心の争いを尻目に 東大生・徳川冬子さんが浩宮妃に選ばれる確率」。「名門、徳川家の出身で大学教授の父母を持つという理想的な家庭環境」の徳川冬子さんが「“最有力”の名に恥じない令嬢」として紹介されています。当時の徳川さんは、東京大学文学部史学科3年に在学中で、ご両親はともに大学教授というお血筋でも、頭脳の点でもエリートな方でした。

 ちなみに、浩宮さまのお相手選びは宮内庁がかなり熱心に行っており、「かつて東宮侍従を務め浩宮殿下の教育担当でもあった浜尾実氏」によると、「浩宮さまの大学卒業時には数百人いた候補の女性が、(今や)数十人に絞られた」という事実を認めています。

――秋篠宮さまが、紀子さまを自力で見つけたのとはかなり違うんですね。

堀江 しかし、現天皇陛下はこの当時から「自分で結婚相手を選びます」と公言なさっていました。要するに宮内庁が、おせっかいな親戚みたいに女性を押し付けてきていたようです(笑)。そしてその中に徳川冬子さんが含まれていた、という感じでしょう。

 興味深いのは、雅子さまも東大卒、ハーバード大学留学経験を持つエリートでいらっしゃいましたけど、そういう浩宮さまの“お好み”を宮内庁はちゃんと掴んでいたことですね。そして、それでも当時の宮内庁はやはり、旧華族の令嬢をプッシュしたかったのかもしれません。

――東大の徳川冬子さんがうわさになった時、「浩宮妃はウチから!」と息巻いていた学習院の常磐会はどういう反応を?

堀江 それが面白いんです(笑)。コメント主の名前が書かれていないのが残念ですけど、とある常磐会会員は「徳川さんは(略)東大生といっても、学習院高等科出身ですから常磐会員なんです」と、徳川さんが“身内”だとアピール。一方で、聖心女子大卒業生の「宮代会の有力会員」は、「私どもは本当に(学習院などへの)対抗意識はないんです」。

 ちなみに、こういうお妃候補は、名前が世間に出た人は選ばれないというジンクスがあるようで、結局、徳川さんもそういうことになってしまいましたね。徳川さんはご結婚なさって松方さんとなられ、現在、東京大学史料編纂所の准教授として研究者の道を歩んでおられます。

――最近では秋篠宮家が東大との距離を縮めようとしている様子が感じられますが、この頃からある意味、東大との関係は深かったのですね(笑)。

堀江 ちなみに雅子さまは高校が田園調布雙葉です。雙葉も昭和時代の常磐会の会員の目の敵だったそうですよ(笑)。

 学習院のごあいさつとして有名だった「ごきげんよう」を、「雙葉(幼稚園)の子供たちが、道で“ごきげんよう”といっている」のを聞いて、マネされていると感じ、「特権を侵害されたような色」を顔に浮かべていた(「日本の孤島『常磐会』 学習院出の純血種女性」/「週刊朝日」昭和33年=1958年12月28日号)などと書かれていますね。とにかく常磐会は常磐会会員しか認めない、孤高の存在なのかもしれません。

――浩宮さまの女性のタイプなどは、うわさになったりしたのですか?

堀江 この記事によると、浩宮さまは「昔は、竹下景子や柏原よしえが好み」とおっしゃっていたけど、「そういうタイプは卒業して、今は、留学先の部屋に飾ってあったジェーン・フォンダのような細面でスラリとした人がいい」とおっしゃっていたとかなんとか(笑)。しかし、浩宮さまのおっしゃるお妃の条件が、外見はともかく「語学ができ、スポーツや音楽に理解があり、控えめであるけれど必要なときには自分の意見をいえる人」であり、それはまさに母上である美智子さまのような人なのだ……と。

――柏原よしえは有名ですけど、竹下景子もそうだったんですか。しかし、皇太子妃に選ばれたのは雅子さまでした。美智子さまとはちょっとタイプが違うような……。

堀江 まぁ、皇室記事には「それ、どこからの情報?」みたいなものも多いということの証しですね(笑)。

 常磐会にお話を戻すと、学習院の卒業生は本当に愛校心が強く、そして皇室を敬愛しているイメージがありますよね。しかし、浩宮さまの結婚問題がマスコミを賑わしていた昭和63年(1988年)3月号の「歴史読本」(KADOKAWA)に掲載された「『学習院』の内側」という、作家・夏堀正元さんの記事によると、「昭和37年に東大その他の大学とともにおこなった世論調査では、学習院大生が、天皇制に関して『好意をもっている者』が7パーセントしかいない」と指摘しているんですね。

――皇室に好意がある学生が、たった7%ですか!

堀江 しかも「反感をもっている者」が30%もいるんですよ。ちなみに「いちがいにいえない(=好意も反感もない)」が27パーセント。逆にいえば46%もの学生が「わからない」って答えた比率が一番多いということなんですけどね。

堀江 昭和30年代といえば、美智子さまの皇太子妃決定やご結婚、その後の常磐会メンバーが主犯者と目される“美智子さまいじめ騒動”などがあった時期です。学習院全体でいえば皇室への好意が7パーセントしかない一方、常磐会の中では120パーセントが皇室支持で、皇室への愛で溢れかえっていた落差を考えると、非常に興味深いといわざるをえません。

 まぁ、この「『学習院』の内側」という記事を書いている夏堀さんは、皇室や貴族文化に対して非常に辛口でいらっしゃるので、その思想傾向が反映されているのでしょうけれど、常磐会を「女性がしがみつきたがる特権意識、名誉心の権化」などと言い捨てているのは、現代だったら相当に反感を買うでしょう(笑)。

――うわー、すごく嫌な感じ。言わんとすることはわからなくもないですけど。

堀江 昭和30年代は、1950年代後半~60年代に相当しています。これは20世紀でももっとも革命志向だった時期で、イギリスでも日本でも、世界各地で君主制が危機にさらされていた時期です。

 君主制とは過去の遺物なのか、あるいはまだ現役といえる制度なのかを、国民が王族・皇族のあり方を観察し、“試験”していたような空気が流れていたと思います。そんな時代だからこそ、常磐会の会員たちはいっそう一致団結したのでしょう。それを閉鎖的だの、日本の孤島とか秘境とかマスコミにいわれたところで、意にも介さず、皇室を守ろうとしていたのでしょうね。

――そんな厳しい空気の中、日本では美智子さまが皇太子妃に内定したことで、一気に皇室への好感度が上がりました。

堀江 そうです。逆に美智子さまを支持しなかったとされる常磐会の好感度は下がりましたが、美智子さまも常磐会の当時のメンバー女性も共に体を張って、皇室を世間の嵐から守ったとも考えられます。

 今回、常磐会に関して実にさまざまな記事を読みましたが、そして、その大半で悪役として登場させられていた常磐会の人々ですが、私は逆に女性の芯の強さを見せられたような気になりました。さまざまな人々に支えられ、皇室の今があるのだな、と感じましたね。

「美智子さまいじめ」の主犯だった、学習院「常磐会」とは――皇太子妃の座をめぐる“アンチ活動”

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! アンチ活動

――今回からは知る人ぞ知る、「常磐会」についてお話を聞かせていただきます。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 常磐会は、学習院の高等科を卒業した女性限定の同窓会組織です。公式サイトによると「名称の『常磐会(ときわかい)』はいつまでも変わらないこと、あるいは木々の葉が常に緑であることの意」だとか。創設が明治28年(1895年)といいますから、長い歴史を持っています。

 昭和時代までは歴代の皇后さまが総裁をおつとめになられ、「総会」は毎年1回、明治天皇の皇后だった昭憲皇太后の誕生日の5月28日に行われているそうです。

――皇室との関係がとても深いことがわかりますね。

堀江 総会の様子を記した昭和中期の文章によると、「会場のメイン・テーブルには皇后席をはじめ旧宮家の席がもうけられている。その周辺には戦前派の有力な会員がむらがり、いきおい、戦後派の若い会員とははなればなれになってしまう」(「日本の孤島『常磐会』 学習院出の純血種女性」「週刊朝日」昭和33年=1958年12月28日号)」。

 これを書いたのはジャーナリストの大宅壮一なんですが、独特の悪意が感じられる一文になっています(笑)。良家出身というバックグラウンドは同じでも、世代差は隠せないようですね。

――会の雰囲気が厳かというか、特殊というか……。学校のOGの集まりとは思えない面々です。皇后陛下が常磐会の総裁を務められるとのことですが、美智子さま、雅子さまは学習院出身者ではないですよね?

堀江 そういう理由で、常磐会に総裁は現在置かれておらず、会長がそのトップということになります。最近、三笠宮家出身の元皇女である近衞甯子さんから、旧皇族夫人である竹田恭子さんに会長職が受け継がれました。なんにせよ、皇族・旧皇族にゆかりのある方が選ばれるという傾向は変わりないようですね。

 この常磐会が特殊なのは、参加資格が限定されていることなのです。戦後にできた女子短大や学習院大学の女性卒業生は、入ることができません。女子短大や学習院大の女性卒業生は、学習院の男子卒業生の団体「桜友会」に入るという、かなり斬新なことになっているのです。

――幼稚園〜高校の間に入学した女性生徒のみが入会できる狭き門、なのですね。

堀江 昭和47年(1972年)6月24日号の「微笑」に掲載された「浩宮妃は常磐会から… 高貴なる秘境・女子学習院同窓会『常磐会』の内幕をさぐる」と題された記事から引用すると、「もともと学習院は、幼稚園からの一貫教育をめざす学校。天皇家の例をみてもわかるように、どうしても学習院でなくてはならない人たちは、まず幼稚園に入り、小、中、そして高等科へとすすむ。途中から入学試験で入ってくるのは、むしろ“外様”。貴族の血は、下へ行くほど濃いのである」。

 しかし、幼い頃から学習院で教育を受けた男性卒業生も同じなんですが、あえて女性だけで固まっているというあたりに常磐会が「高貴なる秘境」と呼ばれ、世間からは好奇の目で見られ続けた歴史がうかがえるような気がします。

――昭和時代は、皇后さまを総裁に、旧華族、旧皇族の女性がズラリと役員を務めていますね。名家出身の女性しか入れませんという排他的な空気は、なかなかキツいものがあります。

堀江 大奥じみた雰囲気はありますよね。ただ、世間から悪意の目を向けられすぎているのでは、と感じる点もありました。

 たとえば、先ほどお話した大宅壮一の記事によると、聖心女子大出身の美智子さまが皇太子妃に決定したというニュースを聞いた常磐会メンバーは、うちの会員の中から皇太子妃が出るはずだと信じ込んでいたので、「ひどくプライドを傷つけられて、『いかに皇太子さまのご希望とはいえ、(美智子さまが)ご遠慮してお断り申し上げるべきだった』という意見が、有力会員の間を支配したという」。

 ほかには「理事の肩書をもつ某老女のごときは、いたってテレビ好きで、特に皇族関係のニュースときたら、画面にかじりつくように見入っているのだが、この日に限り、テレビにお尻をむけて、一日中スイッチを切りっぱなしにしていたという」。

――なるほど、常磐会VS聖心女子という構図が描かれたんですね(笑)。

堀江 入江侍従長(当時)によると、常磐会の会長を長年勤めていた松平信子さんは、常磐会出身者ではない美智子さまが皇太子妃に決定したことに憤激しました。しかも、発表直前まで秘密にされていたのが腹立たしいというのです。

堀江 昭和30年代に皇太子殿下(現・上皇様)の御教育参与(=教育係)として、御所でも勤めていた「保守派の大物」である松平さんが大反対することは見えていたので、妨害工作などできないように事前まで隠されてしまっていたようですね。

 その松平さんの手先のようにして動いていた一人が、柳原白蓮さんだといいます。柳原さんは旧華族の出身ですけれど、富豪の男性を捨てて、貧しい弁護士志望の男性のもとに走るなど、奔放な恋愛事件を起こしたことで、華族の肩書を捨てさせられているんです。

 それでも、歌人として上流社会で人気だったからでしょうか、13歳で華族女学校(現・学習院女子中等科)に入学するも、在学中に最初の夫と結婚、妊娠して中退という在学履歴だけは抹消されずに済んで、常磐会の会員名簿には残り続けられたのかもしれません。普通なら、不倫などが世間に知れ渡ると除籍処分を受けてしまうこともありえるのですが。

――名声がある人物に関しては無罪放免、ということでしょうか。結構、俗っぽいOB会ですね。

堀江 そんな彼女も皇太子妃時代の“美智子さまいじめ”の主犯だといわれていますね。しかし、吉原の遊女だった女性が、廓(くるわ)から逃げ出し、「自主廃業」するのを手伝うなど(参考:森光子『吉原花魁日記 光明に芽ぐむ日』朝日文庫)、先進的な社会運動家としての顔も柳原さんは持っていたわけです。

――美智子さま排斥運動にそんな柳原さんが加担するのは、矛盾している気がします。

堀江 そうなんですよね。常磐会のメンバーにとって、皇室は最高のスターであり、なにもかも崇め奉るような特別な存在であるべきだったのかもしれませんね。生まれた家が(旧)皇族・華族ではないことはよほど許せなかったのでしょう。もしくは、自分より上位の方々……たとえば松平さんからの排斥運動参加要請を断るようなことは、とてもできなかったのかもしれません。

 柳原さんは、戦前に華族の身分を奪われてしまったような奔放な女性ですし、戦後、ご存じのように華族という身分は消失しています。しかし、柳原さんアイデンティティとしては、高貴な生まれであるという自負心は消えずにあったでしょうし、自分より立場も、身分も上の松平さんから「常磐会出身ではない女性が皇太子妃になるなんてあってはならないことよ。有名人の貴女に協力していただきたいわ」などと頼まれたら、拒めなかったのでは……。

――それにしても、当時の常磐会、相当に美智子さまへの敵対心が渦巻いていたのでは? 常磐会以外の人間が皇后陛下になられたわけですし。

堀江 本当はどの程度のものだったかは、関係者による信頼できる証言がないので、なんとも……なんですがね。でも「(美智子さま)反対派による結婚妨害の火の手は婚約成立後は『美智子妃いじめ』に姿を変えて燃え盛る」(塩田潮『昭和30年代 「奇跡」と呼ばれた時代の開拓者たち』)とか、書籍でも確定事項として取り扱われ、それに校正から特にツッコミが入ることもないという珍しいことになっている話ではあります。

 松平さんは、この連載で以前、紹介した皇太子殿下(当時、現・上皇さま)に帝王学を授けた一人とされるアメリカ人女性・ヴァイニング夫人をサポートしていたそうです。そして松平さんが、皇太子殿下の結婚相手としてプッシュしていたのは旧皇族出身の北白川肇子さんでしたから、美智子さまに決定したことで、他ならぬ、この自分の意志がムシされたと立腹してしまったといわれています。

 そして、昭和天皇の皇后である香淳皇后や旧皇族の梨本伊都子さんなどの、もちろん常磐会会員の有力者を巻き込んで、アンチ美智子さまの活動を繰り広げたとかなんとか。ただ、昭和天皇が皇太子殿下と美智子さまのご結婚に、理解をお示しになったら、表立って大反対の空気を出すことは控えたとされてはいます。

――松平さん、かなりの厄介人物ですね。とにかく、常磐会から皇后を出すというのが悲願なんですね?

堀江 ……というように週刊誌などではされています。皇后だけでなく、当然、宮妃も常磐会から出るんだという空気はあったようです。さきほどご紹介した「浩宮妃は常磐会から…」の記事では、常磐会理事の木村清子さんのコメントによると「義宮さまの妃殿下が、旧華族の津軽華子さまにきまったとき、何人かの外部の人から“皇太子妃では負けたけど、今度は勝ちましたね。おめでとう”という電話をいただきました」とあります。

 ただ、この部分をよく読むと「外部の人から」とありますよね。週刊誌などマスコミでは、閉鎖的な印象をうける学習院の常磐会が、他大学の卒業生の女性たちと争っている姿を作り出されているわけですが、そういう作られた雰囲気に呑まれた、あくまで外部の人が「今度は勝ちましたね」などといってお祝いの電話をわざわざかけてくる……そういってるようにも聞こえます。

――「本当は私どもも、そういうことに拘泥いたしてはおりませんのですけども、ホホホ、外部の方々が盛り上がってしまって、ホホホ」みたいな本音を匂わせているってことですか?

堀江 そうですね(笑)。常磐会を扱った昭和時代の週刊誌記事の中では、常磐会の有力者の談話を掲載しているものも多いのに、「常磐会から次の妃殿下を!」というような意気込みを熱く語る、実名の談話を見る機会がないのです。日本人は本音と建前を別にしているということもありますが……。

――ところで、特殊な空気を出している常磐会とは距離を置いている卒業生もいたりするのですか?

堀江 昭和くらいまでの価値観では、芸能界に入ることは上流階級出身の女性にとっては「身を落とす」行為だとされました。だから、小津安二郎の『東京物語』でおばあさん役を演じたり、老け役女優として有名だった東山千栄子さんは「終戦までは、総会への出席もご遠慮していました。戦後はぜひ出席してほしいといわれ、皇后さまにもお声をかけていただきましたが、何かきゅうくつで、好んで(常磐会の総会には)でかけません。格式ばっていますでしょ」とズバッと否定していますね。

 ちなみに、柳原白蓮さんのように、卒業はしていなくても幼稚園から高等科のいずれかに、何年かでも在学していれば、常磐会への入会資格は生まれるようです。とくに有名人になった女性には常磐会のほうから入会のお誘いも来るようです。

 旧・伯爵家の姫で、学習院高等科在学中の15歳のとき、「第一期東宝ニューフェイス」に応募、4,000人の中から合格資格を勝ち取った昭和の美人女優・久我美子さんによると「わずらわしく思えるので、はいらないことにしています」。

――みなさん辛辣ですね(笑)。

堀江 久我さんは、「クラス会のかたがたとはよく集まりますけど」と言っているので、クラス会≠常磐会なんですね。やはり常磐会の特別な空気は学習院出身者の女性でも好き・嫌い、向き・不向きがあることがわかります。

悠仁さまはどうなる? 昭和天皇から今上天皇まで授けられた「帝王学」と、秋篠宮家の考える教育の現在

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――昭和までの歴代の陛下と学習院の関係は意外と距離があったとわかり、びっくりしています。一方で、幼い浩宮さま(=現・天皇陛下)が幼稚園に進まれる際、「学習院は長い間皇室のご恩をこうむってきた」と学習院幼稚園を選んでいただくよう、安倍能成院長(当時)がアピールしていたそうですが……。

堀江宏樹氏(以下、堀江) ちなみに、昭和中期までに皇族のお子さま方は幼稚園に行くケースが増えてきていたようですが、皇位を継ぐとみなされるお子さま(※皇太子と呼ばれるのは小学校高学年くらいの年齢で所定の儀式を終えてから)だけは幼稚園には行かず、御所内で特別な教育を受けてから学習院初等科に入学するものだと考えられていました。

――昭和天皇は学習院初等科を卒業後、中等部には進まずに、多岐多様な授業カリキュラムを御所で5人の学友と受け続けたと聞きましたが、その皇子にあたられる現・上皇さま(平成の天皇)は、どんな教育をお受けになったのでしょうか?

堀江 上皇さまは、学習院大学に入学した最初の天皇にあたられます。そもそも学習院大学が発足したのは昭和24年(1949年)で、上皇さまが16歳のときに新設された大学です。ちなみに上皇さまは父宮である昭和天皇とはことなり、学習院の中等科、高等科に通いながら御所で個人授業をうけて「帝王学」を修めることになったといわれています。その講師の一人がアメリカ人女性で、日本では“バイニング夫人”として知られる、エリザベス・J・G・ヴァイニング(Elizabeth Janet Gray Vining)でした。

――アメリカ人から君主のあり方について学ぶというのは斬新ですね!

堀江 昭和天皇がアメリカからやってきた教育施設団に感銘を受け、国際的な視野を持つ将来の天皇を育成したいと考えた末の人選だったといわれています。いちおう名目としては英語の個人授業だったようですが、ヴァイニングは上皇さまに自身の意思を明確にすること。そして、憲法を遵守し、国民とともに存在する近代的な君主像……つまり象徴天皇として生きていくための心構えを、長い立憲君主制の歴史を持つイギリス王室などを例にとって伝えたとされています。

――へー知りませんでした。たしか、イギリス王室のエリザベス2世も、子どもの頃からほかの学科は二の次で、憲法を個人授業で叩き込まれて育ったといわれますよね。

堀江 そうなんです。熱烈な君主主義者の多いイギリスではなく、アメリカ人の女性を教師にすることで、中立的な視野が獲得できると昭和天皇は考えたのかもしれません。ヴァイニングの任期は1年の予定でしたが、彼女は人柄も良いので、学習院中等科の英語教師として大人気となり、足掛け4年あまりの日本滞在となりました。

――ヴァイニング夫人がアメリカに帰国後、上皇さまは新設された学習院大の政治学科にご進学となったわけですね。

堀江 しかし、上皇さまは公務のせいで進級に必要な出席日数が足りず、それこそ皇族としての特権というか、見逃しも受けることができず、このままでは留年してしまう……となった時、なんと大学を退学なさってるんですね。

――ええっ?

堀江 中退より留年のほうが問題視されるという価値観は、現代人のわれわれにはないかもしれません。上皇さまはその後、聴講生として、大学卒業までのカリキュラムを学習院大で修了なさったので、宮内庁のホームページには「学習院大学教育ご修了」という記述になっていますね。

――となると、学習院大学に入学、そして正式な形で卒業なさった最初の天皇は現・天皇陛下ということになりますか?

堀江 はい。現在の天皇陛下こと今上陛下は学習院の大学院時代、イギリスのオックスフォードのマーティンカレッジの大学院にも留学していますね。今上陛下の「帝王教育」は学習院高等科時代には始まっていたとされています。

 毎週一回のペースで、父宮(現・上皇さま)と共に昭和天皇を訪問して、お話をうかがうと同時に、同じ頃から学習院大学名誉教授だった児玉幸多から歴代天皇についての個人授業もお受けになったとのことです。

堀江 ちなみに、歴代天皇が崩御した日に、天皇家では「式年祭」と呼ばれる儀式を内々で行う習慣があります。昭和時代には、「式年祭」の前日に天皇が学者を招いて、明日、祭事を執り行う天皇についての個人授業を受けるのだそうです。現在も同じような形で続いているかはわかりませんが……。

――明治から現在の天皇陛下にいたるまで、皆さまがお受けになられた教育のうち、公開されている一部の情報をお話いただきましたが、学ぶ場所もその内容も本当にバラバラなんですね。ここに共通点は見いだせるのでしょうか?

堀江 おそらく、明治時代以前はここまで皇太子の教育がバラバラということはなかったと思うのです。ただ、明治維新の後、日本の天皇は世界中の国々と交流を持つようになり、日本の中だけに収まる存在ではなくなりましたよね。

 とくに昭和天皇以降、国内や世界情勢はもちろん、そしてヨーロッパの君主たちとも対等に付き合える存在となるためのカリキュラムが、その時々の問題意識を反映して課されていると感じました。

 また、明治時代以降、父帝から皇子に皇位は継承されており、その関係性において、帝王学が授けられていったことが(すべては情報公開されてはいないものの)推測されますね。

――となると、今後というか現在の帝王学の状況が気になるところです。

堀江 現天皇陛下には愛子内親王しかおられません。女性天皇が誕生しないと想定すると、皇位はまず秋篠宮家の当主である文仁親王、そして、そのお子さまである悠仁親王に継承されるという流れになると思います。

 現天皇を叔父に持つのが悠仁親王ですが、叔父と甥というのは少々、距離がありますし、どのように帝王学が伝授されているのかは気になるところだなと思いました。

 帝王学というのは、皇太子にだけ、帝位経験者から伝えられていくものです。天皇陛下より、秋篠宮さまは上皇さまとの距離が近いと書かれていることを見るのが多いのですが、もしかしたら、皇嗣殿下である秋篠宮さまこと文仁親王に、上皇さまから一子相伝式に帝王学の伝授も行われているのかもしれません。

――悠仁親王が帝王学を学ぶようになるのは、皇嗣殿下こと文仁親王への伝授が終わってから、ということでしょうか? 

堀江 一定期間、その授業を受けたからといって、それだけで「帝王学を修了しました!」などと軽々しく終わるものではないでしょうし、一生をかけて学び続けるものなのかもしれませんが……。

 また、これまでのお話を聞いていると、帝王学とされるものも非常に多種多様なカリキュラムによって形成されており、ご本人もしくはお父様が「これが帝王学だ」と考えたものが、帝王学の実情というような推測もできますね。

――正解はないし、間違いもない、ということですね。

堀江 以前、このコラムの連載の中で、典型的な上流階級出身の子どもたちに囲まれて暮らすのではなく、幼稚園から大学までさまざまな家庭出身の子どもたちの中で暮らすことが、悠仁親王への帝王学だと秋篠宮家では考えられているのではないか……ということを私はお話しました。

 ただ、この度、保阪正康さんの記事(「天皇家の教育」全内容、『新潮45』2002年1月号)を読む機会があり、考えが少々、変わってきました。明治以降の歴代の天皇も十代後半の頃……つまり中学・高校時代に帝王学の授業を受けはじめているのですよね。

――なるほど。悠仁親王はこの春から高校生なので、ちょうど今の時期にあたりますが、勉強が忙しくて、帝王学に割く時間はあるのか? と疑問ですが……。うわさによれば、東京大学もしくはそれに類する難関大合格を目指しているそうですから。

堀江 そのとおり。かくいう私も受験戦争経験者で、内部進学ではなく、一般受験で早稲田大学の第一文学部に入りました。20年以上も前の話になりますが、あの当時、模試の合格判定C評価を得るにも偏差値68の学部でしたから、より高い合格確率を得ようとするなら偏差値70以上は必要で、実際の試験も倍率10倍以上でした。

 東大が復活させた推薦入試制度がどんなものかはよくわかりませんが、それを利用するにも偏差値70以上の高校で悠仁親王はトップの成績を維持する必要があると想像されます。また仮に推薦ではなく学力試験を受ける場合、文類では理科や社会はそれぞれ2科目必要とされ(2021年時点)、受験時間は倍増します。

――高学歴志望のほかの学生さんと混じって受験で四苦八苦することこそが、悠仁さまの帝王教育の一貫だと秋篠宮さまはお考えかもしれません。

堀江 眞子さまの結婚に際しても「失敗する権利すらないのはかわいそう!」とする記事が出ていましたよね。悠仁親王の場合はそれに加えて「苦労する権利」の話でしょうか。苦労といえば聞こえはいいけれど、人間としての基盤を築くべき十代の貴重な時間の大半を、学校の勉強だけに費やすことになってしまいますから……。

 人間としての基盤を築くことって、宇多田ヒカルの言葉でいう「人間活動」だと私は解釈しているのですが(笑)、それが受験などの理由で人よりも遅れてしまった人は、20代以降、自分で自分を育て直す必要がでてきたりして、わりと厄介なのですよ。

 悠仁親王がどういうお方なのか、われわれに公開された情報はあまりに限定されていますが、参考文献から不適切ととらえかねない引用を行ったり、皇族特権の使用をうわさされる推薦入試で難関高校に入ってしまったり……。正直、不安があります。そもそも東大を目指すとして、そこになにか目的があるのでしょうか? 

――大企業に有利に就職する、官僚を目指すというわけもないでしょうし。

堀江 東京大学の教授の誰それに師事したいということもいえますが、学習院の中等科、高等科に通いながら、天皇陛下がなさったように個人教授を受けるのでは不十分ということなのでしょうか。

 例えば、高等科までは学習院で、大学も内部進学するだろうと見られていたのに、ある日突然、東大を受けに来ている悠仁親王姿が学力試験の会場で目撃され、そのまま合格してしまう……というシナリオであったなら、世間もここまで否定的にはならなかったと思うのですよね。

――私立である学習院に比べ、国立の東京大学は定員に相当シビアですよね? もちろん不合格の可能性もあります。

堀江 そうなんですよ。昔の話ですが、昭和天皇の第一皇女・照宮成子さんの結婚相手で、(旧皇族の)東久邇盛厚さんが戦後に東大受験をしているのですが、東大は「学力不十分」として彼を容赦なく落としていますしね……。

 受かれば、「私(の子)は落ちたのに!」という根強いアンチが生まれるだろうし、落ちてしまっても、皇族に必須の「カリスマ性」を支える神秘性が恐ろしく目減りしてしまうことになり、頭の痛い話だと思いました。いずれにせよ、東大進学はうわさ話にすぎませんが、帝王学のゆくえを考えると、今後の展開が気になるばかりです。

参考:保阪正康 「天皇家の教育」全内容 (『新潮45』2002年1月号)

秋篠宮家、悠仁さまの進学はどうなる? 天皇をめぐる歴代の教育問題、授業についていけず1年で中退のケースも

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――今回は前回に続いて、明治以降の天皇家と学習院の関係についてお話いただけるとのことですが。

堀江宏樹氏(以下、堀江) はい。幕末の光格天皇によって発案された学習院の歴史は、その孫にあたる孝明天皇の時代に具体的なスタートを切りました。しかし、孝明天皇の皇である、(後の)明治天皇は学習院には一度も通ったことがありません。

 前回もお話したように、貧しい公家の子弟のための学校組織が学習院であり、当時も皇族やステイタスの高い公家の生徒は自邸に師匠を招いて家庭教師してもらうのが通例だったからです。

――学習院=天皇家の人々が必ず通う学校というわけではないのですね。

堀江 そうです。ちなみに明治天皇(今回は幼名である迪宮ではなく、理解しやすさの観点を重視し、少年時代から明治天皇とお呼びします)は高名な学者の伏原宣輸(ふしはら・のぶさと)らを御所に招いて、漢学の基礎にあたる“四書五経”の教授を受けています。

 少年時代の明治天皇は『三国志』、(平家物語の異本である)『源平盛衰記』、『太平記』など歴史創作物を自力で楽しみながら読むようになり、“ご学友”と歴史の英雄たちの話で盛り上がったそうな。個人授業を受ける時に御所に複数の子どもたちが呼ばれ、明治天皇と同じ授業を受けていたわけですね。

 なお、欧米文化の知見を取り入れた近代的な政治学や軍事学の個人授業は、明治天皇が東京に移動した後に本格的に行われています。

――ということは、明治天皇は一度も学校に通われなかったのですね!

堀江 そうなんです。学習院大学が誕生したのは昭和24年(1949年)で、それ以前の世代は学習院には高等科(=高校)まで通って、各地の帝国大学などに進学するケースが大半だったということですね。なお、学習院高等科の卒業生は成績と運が良ければ、東京帝大、京都帝大にも推薦入学することもできました。

――悠仁親王も東大に推薦入試で入学しようとしているといううわさがありますが……。

堀江 長い間、推薦入試制度のなかった東京大学が、平成28年度から推薦入試を復活させることになったが、それは東大進学を志している悠仁親王への忖度では……などと語られるアレですね。

 ただ、戦前の推薦制度は、少し事情が違いますね。戦前では、学習院を含む各地の高等学校の卒業生が「僕は○○大の○○学部に行きたい」という希望を大学に出すところから始まります。しかし、本当に無試験で推薦入学できるのは、その○○大の○○学部が不人気で定員割れを起こしている場合に限られました。

 たとえば学習院高等科に入学した三島由紀夫(本名・平岡公威)の場合は、超人気学部だった(東京)帝国大学の法学部を志望し、厳しい筆記試験を勝ち抜いた末に入学資格を得たということになります。

――そうなんですね。天皇家で最初に学習院に行った方は?

堀江 天皇の皇子で、最初に学習院という学校に入学したのは大正天皇ですね。しかし、初等科を卒業した後、中等科に進学したものの、わずか1年で体を壊して退学してしまっています。当時の学校教育にありがちだったツメコミ式の教育が合わなかったようですね。中等科=現在の中学というわけではなく、現在の高校での授業内容に相当することをやっていたので、いろいろと難しかったようです。

――中学で退学して以降は、やはり御所で学ばれたんですか?

堀江 将来の帝として、明晰な頭脳を持つことが求められていた大正天皇です。その後も教育は彼の私邸である東宮御所で続き、明治20年代後半からは、お住まいに各分野の師匠を招いての個人授業を受けていくことになります。

 和歌や漢文の作文といった、天皇に伝統的に教えられてきた分野の教養も明治天皇の強い意向で授業をつけましたが、近代的な学問でいうと歴史や地理などが、集中的に講義されました。フランス語もかなり勉強しています。

 ただ、学習院時代の授業とはことなり、数学や理学(=理科)といった理系の授業はありませんでした。推測ですが、大正天皇は純粋な文系で、理系の成績は苦手で、よろしくなかったのかもしれません。

 さらに大正天皇は病気がちだったので、授業も中止になることが多かったようですが、授業の時間がなくなったことで余計にツメコミ式になってしまい、かなりご苦労なさったと伝わっています。秋篠宮家以前から、将来の天皇をめぐる教育問題はいろいろと起きていたのですね。

――ただ、そうした教育関連の問題は外からは見えなかったのですよね。

堀江 そうですね。将来の天皇が学習院を、早い話、学校の厳しいカリキュラムをこなすのに体がついていかず、中等科1年で中退せざるを得なかったというのも現在であれば大スキャンダルだったでしょう。まぁ、現在では中学校は義務教育なので中退できませんけれど。

 現代日本では、○歳くらいまでに大学を卒業しているのが普通、といった卒業と年齢についてのルールみたいなものがありますよね。現在でも外国では、30代前半くらいまで学生でいる人もいるし、戦前の日本でもそういう傾向は結構あったと思います。しかし、皇室の教育は違ったようです。

 大正天皇は、最小限の年数で膨大な量のカリキュラムをこなさねばなりませんでした。つまり、将来天皇になると目される皇子、つまり皇太子だったからこそ、それだけの厳しい期待に応えねばならなかったということがわかります。

――勉強まみれの酷な環境でおかわいそうです。そんなカリキュラムを作ったのは、やはり担当教師なんでしょうか?

堀江 実は教育カリキュラムは先生である学者たちが決めたものではなく、東宮職の役人たち(現在でいえば宮内庁の皇太子付きのお役人たち)がすべて決定していました。

堀江 大正天皇は彼らに大変な不審感を抱き、全員クビにして新しく入れ替えようとしたそうです。ところが、父宮である明治天皇が「ダメだ」と厳しく彼を諌めました。ただでさえ学校についていけずに中退して、家で授業を受けているというのに、そのカリキュラムにすらついていけなくなったら、それを決めた役人を放り出すことなどありえない、許さない、と。

――現在の秋篠宮家だけでなく、天皇家の教育では父宮が大きな主導権を握っている伝統があるようですね。

堀江 はい。秋篠宮さまはかつて学習院大以外の進学先を希望なさったが、父宮である現・上皇さまは断固反対を貫かれたというようなお話もありますよね。秋篠宮さまも悠仁親王の父宮として、ご子息の進学先を学習院以外にも決定したのだろうし、それこそ東大も狙えるような名門進学校にするという決定もお下しになったのだろうなぁ、と思えてしまいます。

――昭和天皇と学習院はどういう関係だったのでしょうか?

堀江 昭和天皇と学習院の関係も、あまり深いものではないのです。昭和天皇は小学校に相当する学習院初等科を卒業しただけで、中等科には進みませんでした。そして13歳から19歳にかけては東京・高輪の東宮御所につくられたご学問所にて、5人のご学友たちと共に個人教授を受けることになりました。

 それゆえ、一部の人からは「昭和天皇に“帝王学”がご学問所にて授けられた」とされるわけです。

――明治天皇、大正天皇に続いて、わりとあっさりした関係ですね。しかし、どうして中等科には進まれなかったのですか? 

堀江 学習院に漫然と通うだけでは将来の天皇の教育としては不十分。将来の天皇のための特別教育プログラムを組む必要があると周囲が考えたのでしょう。

 ご学問所での授業は当時、学習院長だった乃木希典の発案でした。大正天皇には体系だって伝えられることがなかった軍事の知識のほか「倫理、国文、漢文、歴史、地理、地文、数学、理化学、博物、フランス語、習字、美術史、法制経済(大竹秀一『天皇の学校』筑摩書房)」という、多岐にわたった、意欲的なカリキュラムが組まれていました。しかし、これをこなすのはかなり大変だったとは思います。

――大正天皇の教育からさらに輪をかけてハードになっていませんか? 前々から構想されていたのかも。

堀江 そうなんですよね。ほかにも体操、馬術などの実技もありましたし、杉浦重剛という教育者から君主の心構えも「倫理」という授業の中で叩き込まれました。

――そんなスパルタ教育を7年間にもわたって、昭和天皇は耐え抜いたのですね!

堀江 そうなんです。次回に続きます。

参考:保阪正康 「天皇家の教育」全内容 (『新潮45』2002年1月号)

皇室ブランドの「学習院」、そもそも“獄道者”予備軍の救貧学校だった!? イメージと大違いの史実

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――現在も「皇族・華族の学校」としてのイメージが強い学習院について、今回はその歴史を振り返っていただこうと思います。

堀江宏樹氏 学習院の歴史を語るには、最初に幕末の京都において、ときの帝・光格天皇が公家の子弟を集め、教育を行う場を作らせ、それを「学習院」と名付けたというところから始めるべきでしょう。

――うわ、すでに庶民の及ばぬ特別感が出ている気が……。

堀江 しかし、ここで近代のヨーロッパやロシアの文学に出てくる“貴族学校”のようなものを想像すると大間違いなんです。日本の伝統では、お金のある家、ステイタスの高い家の子どもたちは、学校になど行かず、自邸にしかるべき専門家を招いて、家庭教師してもらうのです。

 学習院は、平安時代に存在し、その後、火事にあって以来、再建されなかった「大学寮」と呼ばれる公家の学校の復活を目指した組織として幕末に誕生しました。

 要するに、明治維新以降、「皇族・華族の学校」として輝いた学習院と、貧しい公家の子どもに最低限の教育を与えるために作られた幕末の学習院とは、名前だけ同じで中身はまったくの別モノと言ってよいのですね。

――では、いまの学習院とも別モノなんですか?

堀江 はい。今日までつづく学習院の歴史には、大きな転換点が少なくとも2回ほどあります。将来の天皇と目される悠仁親王を一度も学習院に通わせなかった秋篠宮家の決断が、3回目の転換点になりうるかもしれませんが、これはまた別の機会に語りますね。

 お話を、幕末の学習院に戻しましょう。ちなみに光格天皇は、現役の天皇の皇子だったわけではありません。いわば直系が絶えてしまったので、傍系の宮家から皇統を継ぐことになった方です。そういう帝ほど伝統復興に熱心な傾向があるんですね。それを考えると、秋篠宮家とも立場が少し似ているかもしれません。

 1928年、学習院が発行した『開校五十年記念 学習院史』の最初の章には、幕末時代の学習院の姿を回想した文章がありますが、これは多くの方には驚きの内容でしょう。

 多くの「華冑(=公家)子弟の教育は万事に不十分」で、「中には懶惰に流るゝ者も少なからざりし(=まともに勉強もせず、獄道者になってしまう公家の子どもたちもたくさんいた)」という状況でした。「光格天皇はいたくこのことを御軫念遊ばされし(=ご憂慮なさった)」がゆえに、学習院をお作りになったとあるわけです。

 まっとうな学問も受けられぬまま成人し、それが原因で、まっとうな職を朝廷で得ることもできない公家たちの子どもたちのための、いわば救貧学校として生まれたのが学習院だったということになります。

――イメージが全然違います。獄道者予備軍が集められた学校だったんですね(苦笑)。その『開校五十年記念 学習院史』という本が出た1928年時点で、学習院がまだ50年の歴史というのは、幕末から数えると少し短い気がするのですが。

堀江 京都の救貧学校時代のことは、明治以降の“シン学習院”と、その流れを引き続く、現行の学習院の中ではいわゆる“黒歴史”であり、カウントしていないのかもしれません。ただ、21世紀ともなれば、「江戸時代、公家の子弟のために天皇が作らせたのが学習院のはじまり」なんて聞くと、一般人は背景がわからないので、特別感しか出ませんよね。それをうまく現在に至るまで宣伝に利用しているのだと思います。

――そんな学習院のその後の歴史は?

堀江 弘化4年(1847年)3月、京都御所の敷地内に「学問所」の建物がようやく完成、講義がはじまったそうです。すでに光格天皇の孫にあたる孝明天皇(明治天皇の父宮)の治世がはじまっていました。

 その後、明治2年(1869)年、明治天皇が京都から東京に移ると、臣下の公家たちの多くもそれに付き従いました。また、この頃、明治維新に協力した人たちだけでなく、明治以前に公家や大名だった家の子孫たちのことも日本の特権階級として「華族」と呼ぼうと決まり、華族たちの子弟を中心にした教育機関が現在の千代田区神田の錦町に設立されることになったのです。

 それで、明治10年(1877)年10月に、この“華族学校”がようやく開校するとなったとき、明治天皇が「学習院という名前にしなさい」という旨の決定をして、学習院の名前が受け継がれることになったのです。だから、これが学習院の最初の大きな転換点ですね。

――でも、教育機関側としては、貧乏公家のための学校だった学習院の名前を、もしかしたら引き継ぎたくなかったのかもしれませんね。

堀江 ありうる話だと思いますよ。ちなみにこの頃の学習院は男女共学でした。先進的でしたが、生徒には「男女七歳にして席を同じゅうせず」という古い倫理観を払拭できないご家庭が多く、女生徒は少なかったようです。

 そういうことで、華族の生徒たちが中心に通う「華族女学校(=女子学習院の前身)」が明治18年(1885年)に開設された、と。

堀江 また、明治17(1884)年、開校当初は私立学校だった学習院は、宮内省(当時)管轄の官立学校になっています。要するに皇族の長である天皇と、天皇を取り囲む皇族・華族をはじめとした超特権階級の子どもたちが集まって教育を受ける場所としての学習院と、その教育文化を国が率先して保護するという姿勢を見せたのです。

――すごい特別待遇! 現在の学習院は、その輝かしい歴史と伝統を引き継いでいるのですか?

堀江 そうです。しかし、いくら皇族・華族の学校として学習院がスタートしたところで、華族というものは一枚岩ではなく、経済格差がすごくありました。明治維新後もやっぱり中流以下の公家の子弟は貧しく、学校に通うことが難しかったという話もあります。華族だから誰でも学習院に通えたという話ではないというエピソードですね。

――当たり前ですが、お金に困る華族もいたんですね。

堀江 そういえば、往年のNHK朝の連続ドラマ小説『花子とアン』で、仲間由紀恵さんが好演していた蓮子(れんこ)というキャラのモデルは、大正時代に実在した柳原白蓮(やなぎわら・びゃくれん、大正天皇の従妹)です。

 史実の彼女は十代で公家の北小路家の男性と政略結婚しました。しかし、夫婦仲が悪く、息子を授かったもののすぐに離婚しているのです。息子は婚家に取られてしまいました。

堀江 ところが、その息子が就学する年齢になっても北小路家の経済状況がおもわしくないので、それを憂慮した白蓮は息子を京都から東京・目白の自宅に呼び寄せ(彼女はすでに宮崎龍介という男性と再婚していた)、そこから彼を学習院に通わせたという話もあります。公家の中でも相当な格差があったというお話です。

 ほかにも現代の我々が考えるような学校や教育の常識は、戦前・戦後をとわず、天皇家の教育事情に関していくと通用しないことが多いようです。天皇家の教育に(歴史的に継続した)伝統など存在しないと言い切れるほどでした。

 次回から詳しくお話していきます。

秋篠宮家が「推薦入試」にこだわり続ける事情――学習院のほかは「不合格」だった佳子さまに見る“事実”

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――なぜ、秋篠宮家だけは学習院に対して距離を明確に置いたのでしょうか? 悠仁親王の進学問題以前から、眞子さま佳子さま共に大学で学習院を選んでいません。

堀江宏樹氏(以下、堀江) その理由は今日まで公開されていません。まぁ、学習院が私立の教育機関である以上、秋篠宮家が子弟を入学させなかった理由を語ることは、営業妨害にあたりますから、今後も語られることはないでしょう。

 しかし、考えねばならないのは、学習院大学以外の教育機関を秋篠宮家のお子様が受験なさるときには、つねに「推薦入試」が選択され続けている事実です。これについては、皇室特権を駆使して合格を勝ち取ろうとしていると解釈する方も世間には多いようですが、それは少し言いすぎかな、と感じました。

 本来、個人としての優劣がハッキリとしてしまうことを、皇族は絶対に避けねばならないのです。前回お話したように、「神秘であること」こそが皇族のオーラの源泉だからです。そもそも、なぜ上皇さまが研究テーマが魚類のハゼになったかというと、ほかに研究者が少なく、競争が少なく、評価制度がわかりにくいことがあったとされます。おそらく、秋篠宮さまが一時期没入しておられたナマズというテーマも同じように決まったのだと思われますね。

――興味深い考察です。皇族の方々は好んでマニアックな趣味をお持ちかと思っていましたが、そうした学者の世界の競争をあえて避けているのかもしれないんですね。

堀江 その点、入試は合格・不合格がもっともハッキリと決まってしまうものです。常に連戦連勝であるならともかく、将来の天皇だと目される悠仁親王を競争の渦に放り込むという秋篠宮家の選択は、大胆すぎたと思います。

 この大胆さは、相当に当主である秋篠宮さまのご意見が反映されているのではないのかな、と。クリントン大統領の歓迎晩さん会より、タイの田舎で行われたナマズ関連の儀式を重視したころから、秋篠宮さまは自分が正しいと思ったことを貫き通す方ですから、今回の悠仁親王のお受験の件も……。

 その一方、秋篠宮家は「推薦入試」にこだわり続けています。これをズルいと見る人もいますが、「世間に対し、優劣がハッキリとしてしまうことを皇族は絶対に避けねばならない」という“ルール”に対する秋篠宮家なりの配慮なのかもしれません。しかし、正直に申し上げて、よろしくない選択だったと思います。斬新さの追求と、神秘さの護持の良いとこ取りなどできませんから。

――悠仁親王も推薦入試制度を利用されました。お茶の水女子大付属高校から、他校に男子生徒を進学させるための推薦入試制度である「提携校進学制度」を利用、筑波大学附属高校に進学。併願はなし。「提携校進学制度」についての詳細は世間に公表されていません。

堀江 ただ、悠仁親王は皇族特権で合格したというわけではないと思うのです。実力で認められたから合格したと考えるほうが客観的には正しそうです。

堀江 こういうことを掘り返すのは失礼とは承知ですが、秋篠宮家の佳子さまは2014年、大学進学の際、学習院大の内部進学試験に合格した以外、他大の入学試験(詳細不明)は全て不合格だったそうです。しかし、学習院大以外に行きたいという佳子さまの強い意志で、学習院は中退。結果的にICUにAO入試という推薦入試で合格した、ということになっています。

 ここから見えるのは、いくら皇族が入学を希望しても、実力が足りなければ容赦なく落とされる事実です。前回お話した故・篠沢秀夫学習院大学名誉教授の証言とも矛盾していません。

――推薦入試は在学中の成績が大きな評価軸になるとはいえ、学力試験の結果が悪ければ落とされてしまいますよね?

堀江 おそらく秋篠宮家としては、佳子さまのような不合格結果が「将来の天皇」である悠仁親王の進学では絶対に起きないよう、少しでも合格確率を上げるべく、当日の試験の点数だけでなく、高校の成績も多いに反映される推薦入試を選択したのだと思います。

 しかし、その推薦制度も悠仁親王のために作られた特別な制度ではないか? という疑惑がかなり前から生じていますし、そういう声のある制度を利用したことは、悠仁親王の未来にとって、有利な選択にはつながらなかったのではないかな……と考えてしまうのです。

――悠仁親王については、幼稚園の時点から一度も学習院で学んだことがないという、明治に東京に学習院という教育機関が設立されて以来、最初の皇族になりそうですよね。

堀江 これに対し、学習院側は当然のように悲憤慷慨していますね。前回も紹介した『文藝春秋』(2011年2月号、文藝春秋)に掲載された篠沢さんの手記「誰よりも深く愛子さまの教育を憂う」において、篠沢さんは「(悠仁親王を秋篠宮家が)お茶の水女子大付属幼稚園に通わせるかどうかは御自由」だと語っています。

 しかしその一方で、「秋篠宮ご夫妻には、学習院が日本の歴史と皇族教育に果たしてきた役割だけは、しっかりとご認識いただきたい」と言ってから、学習院と皇室の絆の歴史について滔々と語りはじめているのです。

――なんだか振られた相手からの恨みの手紙みたいですね(笑)。

堀江 まさに。ただ、その学習院が果たしてきた「皇族教育」のあり方とはどんなものだったかというと、篠沢さんが皇族の子弟の教育を担当したわけではないのでしょうけれど、混沌とした印象をこの記事から受けたのです。

 たとえば記事のタイトルに「愛子さまの教育を憂う」とあったわけですが、これは皇太子(当時)一家のご長女・愛子さまと学習院初等科の同級生の男子との間にトラブルが起き、愛子さまが一定期間、通学できなくなったと報道された時期に発表された手記なんですね。

堀江 当時、学習院長だった波多野敬雄氏は週刊誌のインタビューに「わんぱく坊主を見て怖がっちゃうような環境で(愛子さまは)育てられているわけですから、それは学校が直すというよりも、ご家庭で直していただかないといけない」と発言しているのです。

 この発言の解釈はやめておきます。本当にわんぱくな男の子がクラスにいたという「だけ」で、いじめではなかったとする学校側の主張の正誤については、部外者である我々は何もわからないからです。ただ、これを篠沢さんは「皇族だからといって学習院は特別扱いはしない」ことの例だと考えているようですね。

――なんだか釈然としないところがあります。

堀江 ここからはさらにモヤモヤしてきますよ(笑)。同記事では、篠沢さんはこうも言っているのです。「皇室の第一の役割は宮中祭祀であり、それを次代に滞りなく伝えていくことだ。それ以外のことは『まぁまぁ』でいいのです」。

 これは愛子さまと(当時の)皇太子家のみなさんに宛てられたメッセージではあるけれど、このあたりに秋篠宮家が、悠仁親王の進学先として学習院という教育機関を幼稚園から高校に至るまで選ばなかった理由が端的に表れてしまっているような気もしたのですよね。

――なんとも、二枚舌ですね。学校では皇族の子弟を特別扱いはしないから、「ほかの児童と問題を起こしたら、ご家族で問題を解決させるようにもっていかねばならない」としつつも、「皇族は祭祀が本当は大事なのだから、教育についてはほかの児童みたいに高い目標を掲げすぎなくてもよい」というのは……。

堀江 そうなんです。「お子さんが、何らかの理由で学校に多少行けない時期があったところで、そんなにカリカリしなくても大丈夫」くらいのメッセージを、おおらかに伝えたかったのかもしれませんが……。

 たしかにこの記事を書いた時、篠沢さんはALS(筋萎縮性側索硬化症)の闘病中で、人工呼吸器を喉にとりつけているので、すでに自力では発声できない、つまり声を出すこともできない状態で、ベッドの上で一日の大半を過ごしている状態でした。なので、体調は万全とはいいがたい。文章の論旨に矛盾があったところで、それを指摘すること自体、ヤボなのかもしれませんが、やはり……というのはありますよね。

――そういう背景を知ると、「まぁまぁ」とは言えないハイレベルな教育を、子どもたちに授けようとしている秋篠宮一家の決断は興味深く思えました。

堀江 「まぁまぁでいい」なんて言われ、あるいは思われているというのは、すべての皇族の子弟に対する学習院側の姿勢にもつながるような気がしてなりません。そういう態度で見守られていて、プライドが許すのかという問題は人間として絶対にありますからね。

 秋篠宮家は兄宮である現・天皇陛下から皇統を受け継ぐべき存在です。だからこそ、将来の天皇だと目されるご自分の皇子に、東大卒という特別なオーラをまとわせたいのでしょうか……。

堀江 しかし……学習面での優劣を公開しすぎると、「神秘性」は消えてなくなります。

 現在においても日本で君主制が支持されているのは、皇族方にはほかの人々にはない「神秘性」があるからで、それに多くの国民が強い魅力を感じているからです。理屈とか論理と、そうした「神秘性」は完全に別と思いますね。日本の皇室だけでなく、たとえばヨーロッパの王族を見ていても、理屈は同じです。

 たとえば、進学問題に四苦八苦する将来の天皇というのは、あまりに人間的すぎないでしょうか? 超然としすぎていても人気がなくなってしまうので、人間としての側面を公開するにはさじ加減が難しいのですが。

――秋篠宮家は「皇族は学習院に行くものだ」という、世間がなんとなく伝統にしてしまったことを覆してしまいましたが……。

堀江 思い出したのですけど、グスタフ・マーラーというクラシックの作曲家が「伝統とは怠惰のことだ」と発言しているのですが、秋篠宮家の家風もそれに近いのかもしれませんね。高い理想を持つことは素晴らしいのですが。伝統とは適切な距離を置いて付き合うことも本当は大事だと思いますよ。

 思えば、過去にもそうした野心的な傾向のある天皇は何人かおられました。形骸化した朝廷、腐敗した鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は、「朕が新儀は未来の先例たるべし」(『梅松論』)と発言しました。「私が行う新しい政治は、未来の人々には貴重な先例として振り返られるだろう」という意味で、先例のない政治を目指しましたが、結局、大失敗して、後醍醐天皇の打ち出した「新儀」は跡形もなく消え去ってしまいました。

 21世紀の日本において、天皇そして皇族という存在に人々は何を夢見ているのか。それに応える「新儀」でないかぎり、未来は暗いといえるかもしれません。

 

秋篠宮家が避け続ける「学習院」、知られざる皇族の関係ーーかつては「ウチにお入りになるのが自然」発言も

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――眞子さまの結婚問題のほとぼりが冷めたと思ったら、今度は悠仁親王のご進学問題が勃発。秋篠宮家に対する世間の風当たりはさらに強まってしまったような……。てっきり、学習院に進学するのが皇室の伝統かと思っていました。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 「伝統」とは本来、何を指すのか実に曖昧な言葉ではあります。しかし、21世紀になっても、日本の人々は皇室の方々には「伝統的であってほしい」と願っていますよね。ところが、それとは逆に昨今の秋篠宮家は前例のないことばかりを繰り返してしまっています。

 将来の天皇と目される悠仁親王の“実家”がそういうことでいいのか……と、国民の不安は掻き立てられているのでしょう。まぁ、秋篠宮家からすれば、先例に従わなかっただけで、他人が口を挟むのは止めてほしいというのが本音だとは思うのですが……。

――悠仁親王が入学なさる筑波大学附属高校は、一説に偏差値78の超進学校です(ちなみに学習院高は偏差値68)。ほかの学生が2~3倍の倍率でしのぎを削りあい、入学資格を勝ち取ろうとしているのに、学習院“にも”席を用意されている“はず”の悠仁親王が、そんな“特権”を持たない他学生たちを出し抜いてわざわざ入学することに、世間は疑問を感じるのでしょう。私もやはり理解しにくいです。

堀江 世間では「学習院=皇族の学校」となっているようですね。ただ学習院側も皇族方を受け入れてきたと誇らしげに語る一方、皇族の席をいつでも用意してお待ちしている、などとは一言もいってはいません。

 多くの教職員は、この問題に沈黙していますが、昭和のテレビ番組『クイズダービー』(TBS系)で有名になった学習院大学フランス文学科の名物教授、故・篠沢秀夫さんは「裏口入学など皇族でもありえない」と断言していますね。

 2011年2月の「文藝春秋」(文藝春秋)に掲載された篠沢さん(当時・学習院大学名誉教授)の手記「誰よりも深く愛子さまの教育を憂う」によると、皇族に関して「入学についての特別扱いや裏口入学はない(略)。入試の結果だけで判断を下す(略)」と明言しています。「多分皇族児童が今まで皆受かっているのは、成績がいいからだ」という表現まで出てきますね。

――「多分」というのがちょっと引っかかりますね(笑)。

堀江 本当に(笑)。学習院大は皇族の子弟が継続的に入学している歴史を持ち、他大とは異なる高いブランド性を獲得できています。なにより高級感が出ますし、入学希望者を順調に確保できるところもあるでしょうから、より熱心に皇族に勧誘をかけた歴史は明らかだと思うんですよ。

堀江 戦前の学習院は国立もしくは公立に相当する”官立学校”でしたが、戦後は一介の私立の学校組織となりましたので、入学者が減ればやっていけません。そんなところに「ウチにくれば、皇族の御学友になれるかも」と受験生にアピールできるのは大きな強みですよね。

 大学のブランドイメージ向上の鍵である皇族方に「ご入学ください」と勧誘を行い、試験を受けた皇族の子弟に「やっぱり実力が足りないので不合格です」と拒絶できるかな、という疑問はありますよね。

――篠沢氏によると、皇族児童が学習院に全員合格しているのには、特別扱い云々とは違う理由があるそうですね? 

堀江 はい。「(学習院付属の)幼稚園の試験は皇族児童には、やりやすいのだ。まず、親の手を離れる。ここで嫌がって泣いたら、それだけでもう、落第(=不合格)。皇族児童は平気だ。別室で、教員の指示で色々な動作をするだろう。皇族児童は、教員を別の女官くらいに思って平然と言う通りに動作するだろうから、丸が沢山付くのではないか?」などと篠沢さんは分析なさっています。

――なるほど、学力以前の部分ですね(笑)。ところで、内部でエスカレーター進学するより、外部から学習院に入学することのほうが困難だと聞きます。

堀江 はい。ちなみに学習院の幼稚園、初等科、中等科、高等科を篠沢さんの子どもさんは3人とも受けていますが、幼稚園から入れたのは長女の方だけ。あとは長男の方は中学受験、高校受験とチャレンジするものの、一度もご縁がなかったとのことです。OB・OGどころか大学の教職員の子どもまで、学習院は入学希望者を実力が足りなければ容赦なく落とすところなんだよ、とおっしゃりたいのだと思います。

 また、「完全な『エスカレーター式』ではない」とも篠沢さんは明言していますね。とくに大学に入る時は「各学科の定員の一定割合(略)推薦を受け入れるが、それを越えると選定をする」。つまり、試験を受けさせられ、その結果次第で「進学に当たって、(ハシゴを)外される者があるのだ」などとも書いています。

――学習院高校から大学へエスカレーター式に上がれるのは「三分の一だったか」という、これまた曖昧な書き方と捉えられる表現をしているのが、またもや少々気になりますが……(笑)。

堀江 そうなんですよ(笑)。まぁ……なんらかの忖度はあっても当然かと思います。学習院という教育機関の「特別」なイメージは、皇族方が通われている学校という事実から生まれているのは否定できませんから。

堀江 ただ、学習院=皇族の学校と言い切れるわけでは名実ともにないんですね。歴史的な情報を補足しておくと、先ほどお話したとおり、第二次世界大戦後、学習院はGHQからのテコ入れを受け、戦前のように公立の教育機関ではなくなりました。

 戦前は、確かに「皇族・華族の学校」のカラーが強かったのですが、戦後はそういうわけでもない、というのが正しい理解です。戦前でさえ、実家の身分が平民……つまり皇族・華族の出身ではない三島由紀夫(1925
−70、本名・平岡公威)が高等科を卒業するまで学習院で過ごしています。その後、三島は東大に学力試験を受けて入っていますが。

――学習院は、戦前でさえ皇族・華族「だけ」の学校であったことは一度もないんですね。

堀江 そうです。皇族の方々が学習院に行く理由は、「それが家風だから」というしかない気がするのです。みなさんのお知り合いにも、「うちはおじいさんの代から慶応の幼稚舎へ……」みたいな家風のご一家がいらっしゃいませんか? それと同質ではないか、と。

 明治時代の東京に学習院という、最上流階級の子弟のための教育施設が開かれて以来、現代にいたるまで皇族方の多くがそういう学習院の“伝統”に惹かれ、お子様がたを受験させてきたという「だけ」のようですね。

――学習院を避け続ける秋篠宮家に我々が感じる違和感のようなものは、代々同じ学校を卒業してきたのに、「うちは違うところに通わせるよ」とか言いだした親戚に感じる疑問と、同じような感じでしょうか。しかし、学校側としては皇族を迎えるための警備や待遇といったノウハウがないところに入学してきてもらっても荷が重いのでは?

堀江 先述の篠沢さんいわく、「皇族生徒についての学校の対応を、自分勝手に決定できるとは、皇族の親は考えていない。それは正しい。勝手にはできない」ともあります。皇族だからといって、特別な優遇を入学後も受けられるわけではないという意味です。これに関しては、どんなに学習院側や、皇族がたが否定しようと「いや、そんなハズはない!」と世間には言われつづけるとは思うのですが。

 その一方で、現・天皇陛下こと「浩宮さま(当時)」の幼稚園進学時期に合わせて、学習院付属幼稚園が“復活”したのはミエミエでした。

 1947年(昭和22年)に廃止となっていた同幼稚園ですが、63年(昭和38年)4月、浩宮さまの入園とともに復活。ただしこれは皇族からの要請ではなく、学習院側の自発的な企画で、それに浩宮さまが(というより、そのご両親が空気を読んで)「乗っかってくれた」というあたりが正しい見方のようです。

――学習院ってずっと幼稚園があったわけではないのですね?

堀江 戦後になって一時期、途絶していたようです。45年(昭和20年)に戦災に遭ったことと、47年(昭和22年)に学習院が一介の私立学校である「財団法人学習院」となったことをきっかけに、幼稚園は廃止されてしまっていました。

 しかし、学習院側は浩宮さまが「(小学校に行く前に)幼稚園に通うらしい」という情報を聞きつけ、ちょうど幼稚園を復活させるよい機会になると考えたようで、浩宮さまにご入園いただきたいというラブコールを、さかんに送りまくったようです。こういう時に学習院関係者の口から出るのが、「ウチは皇室の学校」というような言葉ではないか、と分析します。

――「日本」という雑誌の63年(昭和38年)1月号には、学習院付属幼稚園の再開について知らせる記事が掲載されています。いわく世間で「浩宮幼稚園」などとあだ名がつき、全国から宮さまの御学友にウチの子をしたいと熱望する親御さんからの問い合わせが殺到していたそうですよ。

堀江 幼稚園の理事の小山氏は「宮さまをお迎えするために作るわけではなかったが、こちらに幼稚園が出来る以上、ウチにお入りになるのが自然だと思います」と明言していますね。

 また、当時の学習院大の安倍院長が理事会に提出した内容として「学習院は長い間、皇室のご恩をこうむってきたが、浩宮さまをお迎えすることは、日頃のご恩に報いるまたとない機会である」という「趣旨」が紹介されています。

――大変な意気込みと鼻息がこちらにまで感じられます(笑)。しかし、秋篠宮家だけはそうした「空気」を読まなかったんですね。

堀江 世間が秋篠宮家に対して、大丈夫かなと感じている不安はまさにそこなんですね。国民の多くは、学習院や、皇族方の進学について深い知識があるわけでもない。しかし彼らは「古き良き伝統とともにあっていただきたい」という夢や願いを皇族方に見つづけているのです。それなのに、国民より秋篠宮家のほうがむしろ斬新というか革命的なんですね。これはある意味、ものすごくシュールなことです。

 結婚や進学という人生の大事なイベントにおいて、まったく先例を重視しない秋篠宮家のあり方、そこに国民の不安が募っている。また、斬新なことをすると、その選択をした理由について説明を求められてしまいます。皇族方の持つ強いオーラは、その神秘性にあります。言葉を尽くして自分のあり方を説明すると、神秘性は失われてしまうものですから……。

――続きは3月26日公開

秋篠宮さまの“プロポーズ美談”は全部ウソ――報じられた内容と報道されなかった真実

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――今回もジャーナリスト・江森敬治さんの著書『秋篠宮さま』(毎日新聞社)を、堀江さんと読んでいきたいと思います。この本は、世間で流布されている秋篠宮さまに関する報道に、自ら反論している1冊とのことでした。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 今回のテーマは秋篠宮さまが語る、ご家族の女性たち、そしてパパとしての宮さまの姿です。紀子さまと秋篠宮さまの交際やご結婚については、とりわけ多くの伝説がマスコミの手で作られすぎたことがわかります。

 1985年4月、秋篠宮さま――正確にはご成婚までは“礼宮さま”でしたが、今回の記事ではわかりやすさを重視して、“秋篠宮さま”とお呼びします――は学習院大学内の書店で、紀子さま(当時、川嶋紀子さん)と偶然、出会いました。

 5月には早くも両陛下(現・上皇ご夫妻)に紀子さまをご紹介、赤坂御所で皆でテニスをして楽しむ仲に発展。さらに翌年6月26日、秋篠宮さまはJR目白駅近くの交差点で信号待ちを紀子さまとしている時に、プロポーズを敢行しています。その時、紀子さまは「少し考えさせてください」と宮さまにおっしゃったそうです。

 お二人の結婚が正式に決定したのは、89年1月に崩御なさった昭和天皇の喪中期間中のことで、同年9月12日の皇室会議でした。しかし、「少し考えさせてください」とおっしゃった紀子さまから「はっきりした返事」はないまま、ご成婚となったのです(笑)。

――ええっ!?

堀江 驚くべきことに、宮さまいわく「自然にそのままというか、私もよく覚えていません」だそうで。さすがに照れくさいので、“自然な流れで……”的なセリフで、詳細を明かすのを避けたいだけなのかもしれませんが(笑)。

 ただ、このお二人の場合は、本当に息が合って、とくに言葉を使って理詰めに状況を共有しなくとも、トントン拍子にすべてが進んでいったのかも……とも思われます。それにしても大学在学中に、しかも出会って約1年でプロポーズって、昭和においても珍しいハイペースではないですか?

――眞子さまと小室さんも2012年に出会って、13年にはすでにプロポーズがあったそうですが……。

堀江 おっと、そうでしたね。プロポーズといえば……アラフォー以上の年齢の方は、秋篠宮さまと紀子さまの馴れ初めから結婚までをアニメ化した『平成のシンデレラ 紀子さま物語』という15分の短編映像を覚えていないでしょうか? 

 思えば、眞子さまのご結婚では、この手のお祝い特番みたいなのって一切なかったですよね。あれだけマスコミは大騒ぎしていたにもかかわらず。眞子さまと小室さんの馴れ初めもいつかアニメにまとめてほしいものですよね(笑)。

――『平成のシンデレラ~』って、お二人のご結婚を祝福する、フジテレビ系の番組内で流れたアニメでしたっけ?

 堀江 はい。その後、パッケージ化されて発売にはならなかったそうですが、妙に記憶に残っており、YouTubeで偶然発見して見直してみたところ、いろいろと面白かったです(笑)。宮さまからプロポーズされていた紀子さまが、星空を背景に「喜んでお受けします!」とお返事になるシーンがクライマックスですが、ああいうのも全部ウソのようですね(笑)。

堀江 ちなみに、秋篠宮さまが紀子さまとの結婚を反対されてしまい、「もし彼女と結婚できなければ、私は皇籍離脱する!」と訴えたという話も有名ですが、あれも根も葉もないうわさだとか。宮さまご本人が「あれは完全に作った記事です」とバッサリ否定しておられます。

――恥ずかしながら、本当にあったことだと思いこんでいました。

堀江 実は、私もです。お二人のご結婚時にはまだインターネットもなく、テレビの報道や雑誌はこの手の情報を知るための唯一の手段だったじゃないですか。だからちょっとでも行きすぎた記事が出たら、それが真実だとみんなが完全に思い込んでしまっているのでは? 

 秋篠宮さまは当時から、この手の被害をマスコミから受け続けた皇族といえるかもしれません。

――眞子さまの結婚を控えた時期も、とくに雑誌関係は秋篠宮家の方々を追いかけ回し、車の中でうつむいていたら、それだけで「苦悩のご表情」と書き立てたり、なかなか先走ったことをしていましたよね。

堀江 あの風潮を批判する記事をサイゾーウーマンで載せたことはよかったと思います。さすがに行き過ぎでしたからねぇ。ちなみに、昭和天皇の喪中に紀子さまと婚約なさったことについては、批判の声もあったようですが、少なくともご両親の両陛下、宮内庁からネガティブなことを秋篠宮さまが言われたことなどはなかったそうです。

――眞子さま、佳子さまがお生まれになってからもさまざまな報道がされたと思うのですが、それについて宮さまは本の中でなにかコメントなさっていますか?

堀江 娘の結婚ついて、「大学時代に相手を見つけておかないと(その後、相手を見つけるのは難しい)」と、『秋篠宮さま』の著者である江森さんに向かって語ったこともある宮さまでしたが、本書『秋篠宮さま』が出版された98年の時点では、「今は女性の結婚年齢もまちまちですから」というふうにお考えを変化させておられたことが読み取れます。

 この時、まだお相手が見つかっていなかった紀宮さま(現・黒田清子さん)の「お考えを支持する立場」だったからかもしれませんが、たとえば、「(秋篠宮家のお子さまも当時)女の子二人(だけ)だが、結婚よりも自分の興味なり仕事というものを優先させたほうがむしろ良いのでは」とお考えだったのは興味深いですね。

――しかし結局、眞子さまは大学時代にお相手、つまり小室さんを見つけ、その後は博物館や研究所などにお勤めになったりしたものの……。

堀江 そうですね。かなり結婚一筋で20代を突き進んだという感覚は否定できませんよね。子どもは親の理想どおりにならないのが普通ではありますが……。

 秋篠宮さまは「結婚しても自分のやりたいことができるかもしれないし、それもまた、その時の状況に応じて柔軟に対処」すればよいよ、ともおっしゃっています。眞子さまのケースもそういうふうになると良いな、と思ったりもしますよね。

――どのような子育てをなさっていたかに言及はありましたか?

堀江 世間のパパのように、お子さまがたをお風呂に入れてあげたりなさっていたようですよ。ちなみに幼少時の眞子さまと佳子さまは仲良しなぶん、たくさんケンカもなさったとのこと。また、眞子さまは「絵を描いたり、切り絵をしたりとかが非常に好き」。少女時代では、佳子さまのほうがお父さまからの「動物好き」の要素を受け継がれていたそうです。

――そうなのですね。佳子さまの動物好きは初耳でした。

堀江 すべての教育は、お子さまの意思を尊重することに尽きる、という宮さまのモットーに沿って行われていたようですね。宮さまご自身が「両親に感謝することは、私の好きなことをずっとやらせてくれたということ(略)私の好きな分野をずっと歩かせてくれた」と、ご友人におっしゃった言葉にも表れているような気がします。

 「帝王教育」のための“教科書”が天皇家には伝統的にはないというのは、やはり事実のようですが、一般家庭の父母が子どもの興味を広げるのを手伝うように、天皇家でもご両親のお勧めに沿って、お子さまの関心の幅は広がっていったのかな、と。

――興味関心の面では、のびのびと成長できる環境だったのですね。

堀江 ちなみに、好奇心旺盛で、のめりこみやすいが、ある時期が来ると、興味が移り変わっていくという宮さまの性格は、小学校高学年の頃、「おもしろいよ」と父宮(現・上皇さま)から勧められた『南総里見八犬伝』を読み、次いで「八犬伝」の“元ネタ”といえる『水滸伝』に熱中した時期にはすでに明らかになっていました。この時、わずか10歳です。学生時代から宮さまは趣味が「おじんくさい」といわれ続けたそうです(笑)。

――「おじんくさい」(笑)。

堀江 こうした古典・歴史好きの渋い少年時代を経て、前回、ご紹介した御所のペットのオオトカゲとのふれあいがあって、「小学校低学年のころ」、ペットのテンジクネズミを池で泳がせたら、冬だったので心臓麻痺で死んでしまったのを父宮(現・上皇さま)に知られ、池に放り込まれたり、タヌキやイルカに噛みつかれた流血事件も経験なさりながら、生物学に開眼、現在に至る……という流れがあったそうです。

――冬の池にほうりこまれた事件って、本当だったんですね!

堀江 はい。この本が、ネットでも有名な逸話として知られていることの情報ソースだったんだ、と気づくことは多かったですよ。

 眞子さま、佳子さまの成長ストーリーは、宮さまご自身の体験ほど鮮明に描きだされてはいませんが、宮さまがお育ちになったご家庭のように、お父さまが中心となって、一家が自然に集まり、まとまっていくような環境が現在でも秋篠宮家にはあると考えてよいでしょう。

 しかし、そういう牧歌的といえるようなイメージを打ち出してきた秋篠宮家ですが、実は隠れた一面もずっとあったのでは、と思ってしまう事件が最近起きています。

 例の悠仁さまの作文問題ですね。筑波大付属高への合格以上に世間からの注目をはからずも浴びてしまいました。将来の天皇と目される悠仁さまは、ご本人の意思がどうこう以前に、ご両親の多大なる期待のもと、名実ともに実力派のエリートという肩書を得るためのスパルタ教育を受けていたのかもしれません。

――「お子様の意思を尊重することに尽きる」という秋篠宮さまの教育方針が、悠仁さまの場合はどうだったのかというお話ですよね?

堀江 はい。眞子さま、佳子さまの時ほど、秋篠宮さまによる悠仁さまの子育て論の披露は行われていない印象があるので、いつかそういう本も出版されたらいいな、とも思いました。

――やはり悠仁さまのケースは、姉宮とは異なっているのでしょうね。

堀江 そうでしょうね。

 悠仁さまは筑波大付属高には推薦入学なさったようですが、例の作文コンペもその対策の一つだったのでしょう。「優れた成績を修めねばならない」という重圧が、参考書籍と悠仁さまの文章が酷似した問題に影響したことは間違いないと思うんですよね。やるせないことですが。

 「酷似」という表現自体に事を荒立てたくない関係者の苦悩が表れていますが、これ、ものすごい炎上になり得た大事故だと私は思っています。

 過去の皇族方の進学問題についても、機会を改めてお話しできるとよいですね。

秋篠宮さま、タイ渡航に関するマスコミ誤報に反論! 「週刊誌の方は自分たちはウラを取っている」というが……」

「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――前回から秋篠宮さまと個人的なお付き合いのある、ジャーナリスト・江森敬治さんのご著書『秋篠宮さま』(毎日新聞社)を堀江さんと一緒に読み解いています。本書の中で宮さまは自らを「インドア系」と称するなど、週刊誌に作られたイメージに反論なさっておられるのですよね?

堀江宏樹氏(以下、堀江) はい。本書のあちこちで、宮さまはご自分を「外出は嫌い」とおっしゃり、インドアの社交嫌いだと主張なさっています。しかし、すべてはこの本の最後に出てくる、“最大の誤報”に反論するためのようですね。

――マスコミの誤報ですか? 詳しく聞かせてください。

堀江 1996年4月、秋篠宮さまは当時アメリカ大統領であったクリントン氏を歓迎する宮中晩餐会を欠席し、タイに渡航なさいました。これを「公」を軽んじ、「私」を重んじた行為と見なしたマスコミから宮さまは激しく叩かれたのでした。

 江森さんの所属する「毎日新聞」でも、「ナマズのためなら」という見出しで記事が出ましたし、この問題のマスコミ対応を担当した宮内庁による「(宮さまのタイに行きたいという)意思を尊重し、熟慮の末、不本意ながら決めた(※要旨)」というコメントも発表されました

――なぜ「そこまでしてもタイに行きたがるのか?」と思ったマスコミが、宮さまの本命はナマズではなく、タイにいる愛人女性なんだろう、と騒ぎだした……という一件ですね。

堀江 しかし、本書ではそれはすべて誤報である、と。たしかに宮さまへのセクハラでもあるし、タイという国や、そこの人々を侮辱したとも受け取られかねないですよね。秋篠宮さまはかなりお怒りで、当時から、真正面の反論をなさっています。

 宮さまご本人が1996年11月の記者会見で語られた内容、それから宮さまの同行者だった、赤城攻大阪外国語大学教授(当時)のコメントをまとめると、私的なナマズ研究が主目的ではなかったようですね。

 タイ国政府農業・協同組合省からの招待を受け、タイ北部のチェンラーイという県で、1年に1回だけ行われる、「プラー・ブック(メコンオオナマズ)」という巨大ナマズの捕獲儀式を宮さまが見学するべく、アメリカ大統領の晩餐会が決まるよりもはるか以前から、タイ・日本の両国で予定を組んで調整してきたことだったのに……というのが事情だそうです。

――へぇー。そうなると報道の見え方も違ってきますね。

堀江 当時の宮さまは皇族という立場から、魚と人や社会の関係を考察する研究をつづけられていました。つまり、その研究を通じて、国際親善に努めるというのが主目的だったのです。

 宮内庁の長官からも、「予定通り、タイに行って問題なし」と判断された案件だったようですが、宮内庁全体でいうと、ローカルなタイの祭事の見学より、アメリカの大統領の訪日の晩餐会に皇室の中心人物として参加してほしかったという“本音”もあったのでしょうね。そのあたりが「(宮さまの)意思を尊重し、熟慮の末、不本意ながら決めた」という言い方につながったのでしょう。

――マスコミがアメリカ大統領よりタイのナマズ、あるいは愛人女性を重んじたと騒ぎ、そのクレームを宮内庁が受けることになったのですよね? その“責任”から逃れたいという宮内庁の本音が「不本意ながら決めた」というコメントだった?

堀江 はい。それにしても宮さまは約束を重んじられる、義理堅いお人柄でいらっしゃるのですね。タイの方々は大いに喜んだそうです。宮さまがおっしゃるように「クリントン米大統領の宮中晩さん会(※原文ママ)に出席した以上に国際親善の役割を果たしたと思っています」というのは正しいのでしょう。

 しかし、「間違えていない」とご自分が感じたことは、誰に何を言われても押し通してしまう傾向が、宮さまにおありかもしれませんね。本書の中では、「あまり社交が得意ではない」とお認めになっておられますが、それは言い換えれば、不器用なところがおありになる、ということでもあります。

――お話から少しズレますが、世間が反対した小室さんとの結婚を断行した眞子さまと被るところがあると感じてしまいました。

堀江 本質的な部分において、秋篠宮さまと眞子さまの父娘には、そういう類似が見られるかもしれません。

 マスコミが作ったイメージとは異なる、というと失礼でしょうが、ご本人はとても真面目で、実直でいらっしゃるぶん、損をなさっているのかも……と感じるところはありますよね。

――世間的な人気を得るため、“賢く”立ち居振る舞いすることを宮さまはお好みにならないのだな、と本書の行間から感じます。

堀江 そうですね。さらには、「公」と「私」の問題が、ずいぶんと前から宮さまについてまわっているのだな、とも……。「公」と「私」という“二人の自分”のせめぎあいに翻弄されるのが、皇族(王族)の宿命ともいえます。しかし「公」の自分を重んじなくてはならないし、そうすべきだというのが、伝統的な皇族のあり方ですし、世間もそれを期待してしまうのです。

 余談ですけど、結婚によって皇族の身分を失う、(眞子さまのような)女性皇族の結婚は、果たして本当に「公」の問題といえるのか、というのは正直なところ、ありますよね。しかし、その結婚が皇室全体に与える余波の大きさを考えると、「公」の問題といわざるを得ない、というのが私の考えではありますが……秋篠宮家の判断は、それとはまた違ったのかもしれません。

――紀子さまのお父様で、先日お亡くなりになった川嶋辰彦さんが、御所に怒鳴り込んで、天皇陛下(現・上皇様)に秋篠宮さまの女性関係を問いただしたというような記事も、当時は出たみたいですね。

堀江 秋篠宮さまだけでなく、天皇陛下(現・上皇さま)がその報道を明確に否定なさったし、川嶋さんご自身も、自分が御所に行ったのは「95年9月以降ない」と認めている。しかし、うわさだけは根強く残る……。

堀江 秋篠宮さまは、本書が刊行された98年6月の時点の話ですが、宮内庁はホームページを作るべきということを主張なさっていますね。今なら「もっと詳細な」ホームページを作るべき、と換言できるかもしれません。

 宮さまが過去に指摘なさったように「報道室というのはありますけれど、広報室というのはない」という事態は、今でも同じようです。「報道室」内に広報担当部署は存在しているみたいですが。

――「いろいろな皇族が出かける先に一人くらい宮内庁職員を派遣して、その様子を紹介してみせるのもいいと思う。宮内庁もアドレスをつけておけば、いろいろな意見だとかが入ってくるのではないでしょうか」とも秋篠宮さまはおっしゃっていますね。

堀江 報道機関ではなく、宮内庁が、皇族の情報をより早く、詳細かつ正確に世間に発するべきという考えですよね。もしこれが眞子さまの結婚問題以前に実現していたのなら、ここまで大炎上もなかったかもしれませんよね。

 本書でも、宮さまは週刊誌の取材姿勢に疑問を強くお感じで、「週刊誌の方は自分たちはウラを取っている。絶対間違いない。有力な情報源がある」というばかりで「まったくないことを書く」のをやめないとおっしゃっています。

――よく似たご発言が、眞子さまの結婚に関する宮さまの談話にもありました。

堀江 はい。お話がまたもやズレるのですが、思い出したことがあります。昭和の頃から、皇室の方々とも交流を持つ芸術家の方が、この連載をお読みくださって、知人を通じて“思い出話”を語ってくださったのです。

 その方のご自宅が、とある女性皇族の方も参加している、いかがわしいパーティの会場になっているとの“誤情報”を書きたてられたそうです。

――それ、大問題じゃないですか!?

堀江 秋篠宮さまの「愛人女性がタイにいる」説もセクハラですが、こっちはさらにアウトですよね。たしかに、その芸術家の方のお宅はサロン化しており、その女性皇族ふくむさまざまな方が出入りしていたのは事実です。しかし、記事にあるような怪しいパーティが行われていたわけではありません。

 この記事でもあきらかなように、ある皇族が出入りしている、という部分までは確かに週刊誌も「ウラは取っている」けれど、家の中で何が起きているかとか「見えなかったこと」については、編集部の推論だけで埋めてしまっているケースが多いのではないか、とも改めて感じました。このお話は、また後日、取り上げる予定です。

 この手の報道に「反論」をすればキリがないから、皇族(王族)は「ノーコメント」を貫くのが全世界で通例になっていますが、もう少し、広報の問題に対して、宮内庁関係者は知恵を絞るべき時期かもしれませんね。