職人技光る“皇室愛用ブランド”が廃業――「デパート」「通販」の台頭で消えゆく伝統【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

雅子さまが着用した“ローブデコルテ”、女性皇族のファッション事情

――前回、「御用達品」の制度についてお話をうかがいましたが、今日は女性皇族のご用達ブランドについて詳しく教えてください。

堀江宏樹(以下、堀江) この秋は、新帝陛下の即位にともなう儀式がたくさんあり、皇族の方々のさまざまな姿を目にする機会が多かったと思います。

 特に、雅子さまを始めとする、女性皇族のお姿は華やかでしたね。平安時代以来の歴史を持つ、正式名は「五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)」、一般的には「十二単」と呼ばれる有職装束。それから洋装の中で最高の格式を誇る「ローブデコルテ」などのドレスは、みなさんの目を引いたことでしょう。

――雅子さまが着用なさった「ローブデコルテ」は、人気があったようです。そもそも「“ローブデコルテ”って何?」ということで、ネットでも検索順位が一気にはね上がったとか。

堀江 「ローブデコルテ」とは、襟元を大きく開けて、首筋から肩あたりまでを見せるデザインのドレスです。その歴史は長く、シンプルにまとめると、第二次世界大戦後以降の欧米の社交界で最高の格式を持つ礼装として着用された、ドレス。デザインは、いわゆる「十二単」のように「こういう形でなくてはならない!」という縛りは厳密にはなく、雅子さまのローブデコルテは襟が大きく波打ち、フリルみたいになっていますね。このデザインには、襟まわりの過度な露出を控えるという目的があるのだと思いますよ。ただし、女性皇族方のローブデコルテの色は白か淡い単色に限定されており、これは男性皇族が、ホワイトタイ(いわゆる燕尾服)で正装なさる時の、白いタイの色に合わせるためといわれます。

――男性の正装を意識して、コーディネートされているのですね。皇室ゆかりの京都府・上賀茂神社での結婚式では、これまた皇室ゆかりのローブデコルテを着用できるプランが非常に人気になっているそう。前回から皇室御用達ブランドについてお話をうかがっていますが、やっぱり影響力があるんですね。

堀江 あと女性皇族のファッションで、毎回注目を集めるモノといえば、独特なお帽子でしょうか。トランプ大統領が来日された時も、みなさまいろいろな帽子をかぶっておられました。ああいう帽子は、ドレスに合わせて、専門の高等技術を持つ帽子職人がいるお店に別にオーダーするんですよ。

 今は廃刊になっている「angle」(主婦と生活社)というタウン情報誌の1980年(昭和55年)10月号に、女性皇族御用達の帽子店として、千代田区・麹町の「ベル・モード」が挙げられています。31年(昭和6年)から皇室との御縁が始まり、現在でも(少なくとも)紀子さまの帽子は「ベル・モード」が作っているそうです。

 昭和天皇の皇后である香淳皇后は、当時の店主・筒井光康さんがテレビ出演すると、ちゃんと見てくれて「筒井、今朝テレビに出ていましたね」と一言くださる、「お優しい方」だったそうです。生まれながらに人の上に立つような方でしたから、この方に尽くしたい! という職人魂を掻き立てるのがお上手だったようで……。

 ちなみに男性皇族の場合は「金洋服店」のように、定番的存在がある一方、女性皇族の衣服やドレスについて明確な御用達はないようですね。当然ですが、好みは人それぞれですし、時代によっても変わるからでしょう。

――前回、「御用達制度」は54年(昭和29年)に廃止されたと聞きましたね。「とらや」のように、皇室御用達のブランドを今も保持しつづけるお店がある一方で、商いを畳んでしまうお店もあるのでしょうか。

堀江 かつて、雑誌やテレビに御用達店の代表のように登場していた店も、けっこうな割合でひっそりと潰れてるんですね。今回調査して、驚きました。代替わりで、御用達認定された当時のご店主が引退、カリスマ性が薄れたら、それで経営が危なくなるお店も多いみたい。

 もちろん老舗の中の老舗として営業を続けているお店も多いのですが、例えば美智子さまがとりわけ愛用なさっていたという銀座の草履のお店「小松屋」は、2017年中にひっそりと閉店してしまっています。昭和の頃、ご店主・小松長作さんは、お客さんの足に少しだけ触れるだけで、その人にぴったり合った草履と鼻緒が作れるという特殊技能の持ち主だったそうです。美智子さまが皇室に嫁がれるという時、小松さんは美智子さまの実家・正田家から「娘に草履を作ってほしい」と頼まれたといいます。その際、美智子さまにも「足を触らせてください」というと、美智子さまのお母さまに叱られてしまったそうです(笑)。理由を説明し納得してもらった後、完成した草履は「一日中履いても、少しも疲れませんでした」と美智子さまからの感想が届くほど素晴らしい物になったそうな。その後、ずっと美智子さまは「小松屋」をご贔屓になさっていたようなのですが……。

――そんな名店も消えてしまったのですね。

堀江 昭和後期くらいから、皇族の方もデパートで買い物するケースが増えてきたのも無関係ではないかもしれません。かつてはそれこそ小松屋みたいな専門店でのみ、皇族のお買い物はされていたそうです。

 73年8月1日号の「女性セブン」(小学館)によると、デパートは「高島屋、三越、大丸、松屋」が主だといい、家具や装飾品はデパートで。その他の消耗品(食材など)は専門店で……というスタンスだったそうです。

 現代では、専門店よりもデパートなどの利用比率は増えているかもしれません。あるいは通販なども場合によってはありうるのではないでしょうか(笑)。2015年6月4日号の「セブン」が、佳子さまのタンクトップ姿を掲載し、話題になりましたが、一説に女子大生に人気の「ローリーズファーム」や「ローズバッド」といったブランドの服だといわれます。けれど、そういうブランドが御用達の看板を掲げるわけでもありませんしね。

――衣服や装飾品には流行がありますよね。いくら“皇室愛用”というブランド価値が付いていても、一般受けしなければ人気がなくなってしまうかも。それに比べ、食材のお店などは安泰なのでは?

堀江 皇室の方も“個人”として買い物をしているだけで、その店のパトロンではない。なので、店側の経営が何らかの理由で困難になれば、消えてしまいます。

 例えば、皇室に長年、お米を納入し続けたことで知られる、文京区・目白台の小さな米屋「小黒米店」も最近、閉店してしまったようですね。グーグルマップで住所を調べてみたら、2019年の初夏の時点にはあったお店の土地が、現在は不動産屋に買われ、彼らの手で売りに出されていました。

 ちなみに、小黒米店は戦後、店主の米えらびのセンスが高く買われ、皇室に米を納めることになったそうです。また、皇室の方々が食べているお米は10キロ3260円の「標準米」(※標準米制度は2004年に廃止)だったそうな。調べましたが、1980年時点での米の平均価格はこれくらいでした。

 御用達業者になった理由でもある、「店主の米選びのセンス」が生きるのは、年に限られた機会だけだといい、そのうちの1つがお正月用のもち米だったとか。もち米には、「標準米」が存在せず、「良いもの」を納入できたそう。皇室が買うものは、実質的に最高級品が中心なのですが、質素を主とするということで、お米の場合は“平均価格”の「標準米」。それも、皇室からはあまり精白せず、玄米に近い黒っぽいお米を(おそらく健康上の理由で)望まれたため、それを納入していたそうです。

 ほかの御用達業者がいかにも高級な店構えなのに対し、在りし日の小黒米店は、本当に街中のお米屋さんそのものの外見で、それが面白いという理由で、時々テレビに取り上げられたりしていました。ただ、今は閉店してしまっていますから、別の業者が、皇室にお米を納入しているのかも……。

――御用達だったお店が、いつしかまったく違う業種に鞍替えしちゃうケースなどは?

堀江 それもあるようで、青山にあった高級肉店の「吉橋」がその一つ。御用達になった経緯からして面白くて、23年(大正12年)頃に、お店の前に馬車が止まり、皇居から来た宮内庁の役人が「御用を命じる」とか言って、その場で御用達になっちゃったようです。昭和後期には毎月4キロ、松阪牛のロース肉などを納めていたそう。

 高級肉店と書きましたが、「吉橋」は昭和の後期になっても牛肉しか取り扱わないお店だったようですね。宮家などからオーダーがあった時のみ、鶏肉や豚肉は取り扱うのだとか。73年8月1日号の「セブン」の記事で、「吉橋」に取材した記者によると「三笠宮家のお子さまは鶏肉がお嫌い」だとかいう情報が得られたそうです(笑)。

 その後、「吉橋」は日本初の24時間営業を導入した、青山の高級スーパー「ユアーズ」内に店舗を移動。「ユアーズ」閉店後は、赤坂に移動、業種を肉屋から、すき焼き屋に変えて「よしはし」と名乗り、ミシュランから一つ星をもらったそうです。ただ、この「よしはし」も2017年には閉店。その後は御用達の店「吉橋」の伝統を継いだ形の営業はないようで、御用達業者の歴史は途絶えてしまったようです。

「宮内庁御用達」は怪しい制度!?  “皇室ブランド”にあやかるアウトな商売とは【日本のアウト皇室史】

 
 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

「宮内庁御用達」は廃止された制度!?

――最近、ネットで話題になったのですが、「宮内庁御用達」ってもう廃止された制度なんですよね? いまだに、その言葉を全面に押し出している商品もあるような気がしますが……。

堀江宏樹(以下、堀江) そうですね。そういう公的な制度は、1954(昭和29)年にすでに廃止されているのです。

 驚くかもしれませんが、「宮内庁御用達」という日本語自体、“怪しい”んですね。「皇室への納入品」と、“役所”である「宮内庁への納入品」は異なる単語で呼ばれています。皇室への納入品だけが「御用達」。役所である宮内庁への納入品は「御用」。だから、「宮内庁御用達」と言ってしまっている時点で日本語的にもおかしいし、要するにそういうふうに宣伝すればするほど、「怪しい」のです(笑)。

――そんな明確な違いがあったなんて驚きです。皇室ブランドが商品の付加価値になると思うから、「宮内庁御用達」と名乗るのでしょうか?

堀江 そうですねぇ。現代の日本で、「宮内庁御用達」を自称する商品は、「皇族の方が“一度”、買ってくれた」だけの物とか、へたすれば「プレゼントすると申し出をして、結果的に皇族の方に受け取ってもらえたことがある」程度のものも多いそう。コマーシャルには絶対に出演してくれない“セレブリティーの中のセレブリティー”ですから「ご愛用の品になりたい!」という、店側の思いがすごいのでしょう。

 江戸時代の参勤交代中、大名が滞在している旅館に商人たちが押しかけ、われ先に献上品を押し付けようとしたという話と似ているな、と思ってしまいます。

――献上品ですか。もらえるのであれば、もらっておけば良いのでは?

堀江 それが“タダ”では済まないのです。「わざわざ自分に品物を献上しに来た庶民の好意に応える」という形で、チップという名の支払いをしなくてはいけないのですよ。そして、チップのせいで相場以上に高めになるのです。さらに、「○○様に献上した」という事実ができてしまうので、それを相手側の商業活動に利用されてしまうことも。だから、江戸時代の大名に押しかけ献上された品物の大半は、そのまま返品されたようです。

 ちなみに江戸時代の天皇家の権威は近畿地方に「ほぼ」限定されており、この手の押し売りのような献上品攻めに遭うことはなかったようです。誰に人気が集まるかは時代によって変わりますからね。

 なお、現在の御用達業者の中には、「いくらで、こういう品を皇室に納入している」と情報を明かす店もありますが、トップシークレットにしている場合も多々あります。

――明治維新の後は、武士よりも天皇家がカリスマ性を持ったから、「皇室御用達」の看板を求める業者が増えたというわけですね。御用達になるには、どういう条件が必要だったのでしょうか?

堀江 日本で御用達という、ある種の“ブランド制度”の開始は1891(明治24)年。御用達になることは皇室が認めたという意味になり、産業奨励政策の1つだったようです。開始当時はまだ数少なく、日本橋の「魚屋荒木平八」、それからびっくりしちゃうんですが、イギリス・ロンドンのビスケット会社「トントリーパーマ」なる業者の2つが、皇室の御用達に認定されています。残念ながら、この2つの業者は現存しないようですが。

 制度が始まった当初は、宮内庁のお役人から「『御用達』の店になりなさい」という命令が下れば、「御用達店」になれたようです。が、時がたつにつれ、厳しい条件が課されるようになりました。お店の経営者一家に対して、親子三代にわたる家庭環境と思想歴、病歴などのチェックをするんですよ。製造担当者や職人にも、身体検査、検便、それから外出制限、禁酒、禁欲(!)なども課されるようになりました。それでも御用達制度の最盛期は1951(昭和26)年。この時は85軒にまで拡大していたそうです。そして54年、御用達制度は突然の廃止を迎えたという。

――最盛期が51年(昭和26年)。制度廃止が54年(昭和29年)だから、そのわずか3年間ですよね。何があったのでしょうか?

堀江 具体的な理由は公表されていませんが、日本中の業者から「ウチも御用達業者にしてください」という売り込みが激しくなってしまい、皇室ひいては宮内庁が困ったからではないか、と。この頃は、皇室の人気が大衆レベルで大いに盛り返しつつあった時代です。51年といえば、現・上皇后の美智子さまと現・上皇さまとの結婚が内々に決定した頃でもあります。また、上皇さまの妹君・清宮貴子内親王(当時)は、いわゆるファッションリーダーとして日本中から人気がありましたね。

――皇室の人気や権威にあやかりたい業者は、現在でもたくさんいるのですね。

堀江 そうですねぇ。御用達制度廃止前から取引が続いている業者“のみ”が、いわゆる宮内庁御用達を現在でも名乗っても良いと言われます。しかし、そういう業者ほどホームページの片隅に控えめに「皇室にも納品しております」的な情報を載せているだけなんですよね~。

 例えば江戸時代になる前から、御所にお菓子を納め、天皇家に付き従うような形で東京にやってきた「とらや」は、ホームページに「後陽成天皇の御在位中(1586〜1611)より、御所の御用を勤めています」とさらっと書いているだけ。

 しかし、庶民たちが雲の上の人々である皇室の方々ご使用の品に興味津々だったのは今も昔も同じで、雑誌やテレビなどでもたびたび取り上げられました。例えば、今は廃刊になった「angle」(主婦と生活社)というタウン情報誌。1980年10月号の「天皇家の衣食住を支える人、店、品 宮内庁御用達型録(カタログ)」という記事が面白いので、見てみましょうかね。

――この前即位なさった、新天皇陛下が成人の時に着用した燕尾服も作った「金洋服店(きん ようふくてん)」が掲載されていますね。現在も高級テーラードのお店として渋谷の広尾で営業しているみたいです。

堀江 もともと華族や皇族たちの口コミが皇室に流れ込んだ形で、段階的に御用達ブランドとなったそうですね。73年8月1日号の「女性セブン」(小学館)によると、現・上皇さまのスーツは「金洋服店」ですが、ワイシャツは本駒込にある「加古シャツ店」で「全て」あつらえておられるそうで、シャツには「P.A」のイニシャルが刺繍されたとか。プリンス・アキヒトということですね。「加古シャツ店」は現在も営業なさっているようですが、あくまで地元密着のお店ということでしょうか。ホームページなどは設けておらず、詳しいことはわかりませんでした。

――次回は、12月28日更新予定。女性皇族のご用達ブランドについては、また次回お話したいと思います。

天皇の“愛人”だった女官たち……知られざる皇室ロマンスと女の牢獄【日本のアウト皇室史】

 
 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

天皇による“愛人女性”の青田買い!?

――前回のラストでは、戦前の御所に仕えていた女官たちの“秘密”の私生活に、お話がおよびました。

堀江宏樹(以下、堀江) ただね、上級女官になればなるほど、御所暮らししていたことの記録をほとんど公(おおやけ)にはしていません。しかし、前回も出てきた大正天皇生母の柳原愛子(やなぎわら・なるこ)こと「早蕨典侍(さわらびのすけ)」さんは、姪の柳原白蓮(やなぎわら・びゃくれん)に、いろいろぶっちゃけトークしちゃってるんですね。

――柳原白蓮といえば、NHKの連続テレビ小説『花子とアン』で女優・仲間由紀恵が演じた、主人公の「腹心の友」・蓮子(れんこ)さんのモデルでしたっけ。

堀江 そうそう! 大正天皇の従姉妹にあたる公家華族出身の女性なんですけど、政略結婚させられた夫を捨て、若い恋人と駆け落ちしたりするから、華族から除名されちゃった「不良」です。だからというか、因習には縛られないんですね、白蓮さんは。

 叔母の柳原愛子がこっそり語った御所の内実を、彼女は書き残してくれています(笑)。例えば、美少女として有名だった柳原愛子には10歳を過ぎたころから、御所、つまり明治天皇から「私の女官にならないか?」というお誘いが頻繁に来たそう。これは天皇による“愛人女性”の青田買いみたいなもの。しかし、天皇の本当の目的に気付いた父親が、申し出を拒むのですね。娘にはちゃんと“正式”に結婚させてやりたい、と。すると明治天皇ではなくて、「明治天皇の母君にあたる英照皇太后にお仕えしないか?」と持ちかけられ、断れなかったといいます。

――そんなに熱意を伝えられたら、断れないかも……。そして? 

堀江 毎日のように明治天皇は、英照皇太后のところにご機嫌を伺いにやってきて。結局、それは柳原愛子狙いということが誰の目にも明らかになり、2人は恋仲に……。

 愛子は明治天皇との間に2人の皇子と、1人の皇女を生んだけれど、そのうち2人の皇子は幼くして亡くなってしまいます。すると、御所では「『小倉の局』なる女官の祟りだ」とささやかれたそうです。

――「小倉の局」とはなんでしょうか?

堀江 都市伝説ですね。とある天皇に愛された、小倉家出身の女官というくらいしか、わかりません。彼女は別の女官と同時期に妊娠し、天皇から「一刻でも早く皇子を生んだ方を皇太子にする」と言われていました。しかし、その争いに半日の差で負けてしまい、その後、あれこれあって、「天皇家を七代にわたって呪ってやる~。世継ぎの皇子一人を残し、あとの子の生命は全部いただく~」などと言って、(皇位を狙えないように)すでに出家させられていた息子と共に自害したそうな。
 
 「小倉の局」の呪いを恐れる宮中関係者は多くいて、明治初期、和宮 の母君だった中山慶子という女官が、正式に神社でお祀いをしています。和宮は明治天皇の叔母にあたり、十四代将軍・徳川家茂と政略結婚した方ですね。悲劇の皇女といわれます。 しかし、御所が京都から東京に移動した後も、例の「小倉の局」がらみの呪いというか、呪いの伝説は明治時代の御所でも現役で語られ続けました。それはある意味、御所で暮らす女官たちの社会が、いかに閉鎖的だったかという表れかもしれません。

――この頃、ほかにもたくさんの皇子・皇女が亡くなっていたそうですね。

堀江 そう。これが明治初期の話です。西洋文明に触れ、どんどん近代化していく世間と、明治維新以前と変わらない閉鎖的な宮中の世界のギャップを感じてしまいます。

 後の大正天皇となる皇子を柳原愛子が生んだのが、明治12年のこと。彼女は「呪い」のプレッシャーを打ち破ったのでした。ま、「呪い」っていうけど、実質は呪いにかこつけた「人災」。廊下に油を垂らして、妊娠中のライバル女官が滑って流産するように画策したとか、呪いの人形が御所内の大きな木に打ち付けてあるとか、なかなか香ばしいんですね。

――東京・世田谷にある大宅壮一文庫で見つけてきた、1968年6月10日号の『週刊サンケイ』(産業経済新聞社)に、「豆を入れた麻袋を水にひたして放置、豆がはちきれて潰れそうになる」のを、「お腹の子が無事に外には出られなくするためのおまじない」として黒魔術的に行っている女官がいたと書いてあります。あまりにも、ホラーな話に震えてしまいそう……。

堀江 柳原愛子も「私は顔では美しく笑っていても、心はいつでも泣いている」的なことを白蓮相手に言ったそうです。ただ、自分が苦労したからなのか、周りの人には優しく接したので、身分を超えていろいろな人たちから慕われました。身分の低い女官たちは、上級女官の前で敬服したり、そもそも視界に入らないようにものかげに隠れたり、いろいろしなくてはいけないのですが、柳原愛子は「おかまいなく、おかまいなく」といってフレンドリーに接したそうな。

 そんな彼女も、明治天皇が崩御なさってからは東京・四谷信濃町に一軒家を構えて移り住んだそうです。ドラマなどでは「側室」でも、男子を生むと威張っていますが、実際はそういうわけにはいきません。使用人は使用人、実質的には大正天皇の実母でも、身分は皇后陛下直属の女官、つまり使用人にすぎないのです。だから明治天皇が崩御なさると、皇太后様の手前、肩身が狭かったのだと思いますね。ただ、御所の外に出た後も、展覧会で女性のヌード画を見た際、「おいど(=御所言葉で、おしりの意味)を出して、まぁ~」などと言ったそうです。

――西洋画ですかね。御所の中では、見る機会が少なかったのでしょうか?

堀江 おそらく。一生涯を女官で過ごしていたのだもの、世間の基準からはズレてしまっていても当然ですわな。フジテレビ系で放送されていた、ドラマシリーズ『大奥』以上に引いちゃうような“女の牢獄”っぽい世界でしたから。

――ということは明治天皇もおモテになったとか!? ますます御所内がドラマ『大奥』みたいになってしまいそう……。

堀江 明治天皇は長身でカッコよかったみたいですよ。あと名実ともに肉食天皇だった。675年、天武天皇が最初の「肉食禁止令」を出し、牛や豚、鶏などの肉を食べることが残虐だとして禁止させています。食べてもいいケモノの肉もあったりするし、徹底されていなかったようですが、約1200年間、天皇の肉食はおおむね禁止されていました。

 それが解禁になったのが、明治天皇の時代。1872年のことです。お肉がすごくお好きだったといい、そしてというか、かなり“精力的”でもあった、とか(笑)。天皇と肉食についての話は、また別の機会に……。

――高身長といっても、どれくらいあったのですか? 

堀江 数字的には170センチ位だといわれていますが、当時の男性の平均身長は160センチなかったようですから、高い方ですね。幕末の有名人の中では、長身だとされる坂本龍馬も実際はそれくらいだったと言われます。明治期の日本で、明治天皇のお姿をお目にかかることができる人はかなり限定されていました。一方で、日本滞在中の外国人たちの前には、わりと気軽に姿を見せたようですが。

 例えばアメリカから来た外国人教師の娘、クララ・ホイットニーが書いた日記には、天皇の姿を間近に見たという経験が何回か登場し、彼女は明治天皇を「誰よりも背が高くていらっしゃる」などと書かれています。ちなみに、クララは勝海舟の息子の妻になりました。

――イケメン天皇に女たちが翻弄されるって、まさにフジテレビの『大奥』めいた御所の世界ですね。でも、御所は昭和天皇のお声掛かりによって、改革することになったんですよね?

堀江 昭和天皇の「後宮改革」と言われるもので、戦前と戦後の2回行われています。大正天皇は、皇后にぞっこんでしたし、昭和天皇になる皇子などお子様は全員、皇后がお産みになりました。大正天皇は実母が本当に母だと思っていた昭憲皇太后ではなかったと知って、大ショックだったようです。

 “公式”には愛人を持たなかった大正天皇時代の後宮は、一見“クリーン”でしたが、逆に闇深いところでした。女官の一部には、せっかく縁談を断ってまで未婚、そして処女のまま御所に上がったというのに、天皇からのお声掛けもないまま朽ち果てていく人生に嫌気がさした人もいます。そのような女官と、宮中の侍従など男性職員が恋仲になってしまうケースもあり、密かに問題になっていたのです。あと、実際には大正天皇にも、女官との恋のウワサはあったみたいですが、その話は長くなるのでまた別の機会にお話します。

 それらを熟知した昭和天皇は即位後、「後宮改革」を断行。具体的には、(特に上級)女官が天皇の愛人候補生として、御所に上がるという制度自体をなくしてしまったのでした。ほかには、前回出てきた源氏名とか、そもそも典侍などといった女官のクラス分けも廃止することに。

――大正時代まで、「女官」には天皇の“愛人”もしくはその候補生という、ウラの意味が期待されていたんですよね?

堀江 ぶっちゃけ言うと、そうです。だから彼女たちは未婚=処女のままで御所に上がるわけです。そして、実家にもほとんど戻れず、御所内で人生を過ごしていたのですが、昭和天皇の「後宮改革」以来、女官といわれる人々の大半が通勤制に変更されました。

 ようするに、女官から“愛人”のカラーはなくなり、宮内庁の“女性職員”に生まれ変わったということ。また、女官の人数も、明治期の御所では総数300人以上いたものの、かなり減少したし、御所の上級女官の大半が未亡人……つまり、人生経験が豊富な、年長の女性こそが女官には望ましいというふうになったというのも「時代だなぁ」と言わざるを得ません。

 ちなみに、かつては女性皇族付きの女官に指名されると、なかなか断れなかったみたいです。しかし、現・上皇后様こと、美智子様の皇后時代には「畏れ多い」などと言いながらも、激務だというウワサが世間に漏れているため、各方面から辞退者が相次ぎ、なかなか決まらない時期もあったようですよ。これも「時代だなぁ」といわざるを得ませんね(笑)。

――次回は、12月14日更新予定です!

堀江宏樹(ほりえ・ひろき)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。2019年7月1日、新刊『愛と欲望の世界史』が発売。好評既刊に『本当は怖い世界史 戦慄篇』『本当は怖い日本史』(いずれも三笠書房・王様文庫)など。Twitter/公式ブログ「橙通信

「吉原の遊女と皇室の女官は似てる」? “下世話すぎる”昭和の皇室記事を紐解く!【日本のアウト皇室史】

  皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

“下世話すぎる”昭和の皇室記事

――この前、東京・世田谷にある大宅壮一文庫に出かけて、今から70年くらい前の皇室記事を読んだんですけど、かなりびっくりしました。タイトル「禁じられた女 皇居の奥に仕える女官の生態」ってなんだかすごいんですよ。

堀江宏樹(以下、堀江) サイゾーウーマンの編集さんって、大宅壮一文庫に出入りするんですねぇ。熱心でよろしいことです! で、「禁じられた女」かぁ……独身のまま、男性を知ることもなく、御所にて朽ち果てていくケースもあったとかそういう含みを持たせたいのでしょうか。もしくは手出し不可能な「ミカドの女たち」というようなイメージを抱かせたかったのかなぁ。意味深ですね。 

 でも、実際の内容は、小森三千代さんという、戦前戦後の一時期を皇居で「下女(げめ)」として過ごしたことのある女性のインタビュー記事。掲載雑誌を見てみて。1953年10月臨時増刊の「改造」とかいてあります。戦前の「改造」は、現在も発刊している「中央公論」とも張り合うくらい売れた雑誌ですが、この頃は廃刊も間近、発行部数は低迷していました。左翼系の「進歩的な」論調を売りにしていたのですが……。この記事も表向きは「身分の高低で人間を分断するのは、すごく非人間的な行為だ!」という論調をつらぬいているようですが、読み込むと「皇室の私生活をなんとか知りたい!! いわゆる『菊のカーテン』の向こう側に行きたい!!」といった下世話な好奇心がバリバリと感じられる内容なのですね。

――このインタビュー記事は、昭和の大ジャーナリスト・大宅壮一氏が52年に出版した『実録・天皇記』(鱒書房)という本の内容について、女官経験者の女性に真偽を問う、という内容ですね。大宅氏は「吉原の遊女と、皇居の女官が本質的に同じだ」って言い切っていて、それにこのインタビューを受けている小森さんという方も、明確に否定してないのが気になります……。ホントのところ、どうなんでしょうか?

堀江 もともと大宅壮一って「戦後、強くなったものは靴下と日本の女」みたいなことを言ってのける人ですからね。とりあえず「言っとけ」式の、今でいう炎上商法の書き手だと思いますよ。しかも、この記事が出た頃は、まだ赤線が廃止されていないので、吉原の遊女はもっとナマナマしい存在だったはず。確かに時代を下るにつれ、遊女って映画『吉原炎上』に出てくるように、「いくら豪華な衣装を着ていても、しょせんは虐げられた悲しい女たち」、みたいな存在になってしまうんですが、もともとは「フリーランスの女官」というような意味さえありました。まぁ、はるか昔、平安時代の頃の話ですが。遊女とはセクシー産業の女というより、優雅に遊んで暮らせる女というようなニュアンス。でも、彼女たちのそういう雅な生活を支えているのは、男たちの財源なんですね。

――つまり高級愛人業の女性ということ?

堀江 そうそう。想像してくださいな。お姫様として生まれても、生活のスポンサーがいなくなるケース、ありうるでしょ? つまり親が失業したり、早く死んだり、きょうだいが稼げなかったりして。そういった時に、彼女に有力な結婚相手がいなければ、お姫様としての生活が維持できなくなっちゃうんですね。容貌が悪ければ、ほかのお姫様の召使いになるしかないけど、自分に自信があれば、愛人業でもして自力で稼ぐかー! という。それが遊女。

――宮中の女官になるという選択肢もあるのに、根性はないんですか?(笑)

堀江 そうだね(笑)。でもね、平安時代、例えば紫式部とかの時代の上級女官は「女房」って呼ばれるんだけど、彼女たちには雇い主から現金支給がほぼなかった、とも言われている。

――えー! それってアウトなブラック企業と同じじゃないですか

堀江 高価な衣装とかは、仕えているお姫様が着ていたものなどを頂けて、それを現金化することはできるかもしれない。ただ、平安時代の宮廷のキャリアガールなんて見栄えはいいけど、少なくとも効率的に稼げる職場というわけではなかったと言われています。

 後の時代には、パトロンの男性に応援されながら芸能の道を続ける女性たちを、遊女と呼ぶようになりました。「芸能の道=愛人の道」、みたいな生き方になっちゃうんですけどね。そして彼女たちの多くは、女性のリーダーに率いられる形で思い思いのところに住んでいたものの、豊臣秀吉の時代にそれでは「風紀が乱れる」とのことで、一カ所に集められることになった。それが、最初に作られた京都市内の遊郭。そして、この時期以降、男性が遊女たちの統率者になるわけです。まぁね、風紀とかいっても、いろんな女性と一カ所で会える方が男性には楽だからでしょうが(笑)。その後の江戸時代には、遊女たちを男性の都合で一カ所に押し込める傾向が、さらに強くなります。当時の日本で、幕府公認の遊郭は江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町という3つだけで、各地に点在していた遊郭は、存在が黙認されているだけのモグリ営業でした。

 で、話が戻って、大宅氏が言いたかったのは「御所という閉じられた空間の中で、ミカドからいつの日か愛され、お子様を宿す幸福を待ちわびるだけが女官の生活なら、遊郭に閉じ込められ、客を待つだけの遊女と変わらないんじゃないですか~」ということみたい。そもそも江戸時代、幕府が公認した三大遊郭で働く高級遊女の営業イメージは、“大金さえ払えば”会いに行けるお姫様なんですよ。本物のお姫様には庶民は会えないから(笑)、養殖モノのお姫様=遊女で好奇心を満たす、と。

――CDに握手会の参加券を封入している、“会いに行けるアイドル的”な?

堀江 まさに。女官と遊女が同質とは、さすがに言いすぎでアウトという感じはしますけどね。

――さらに、この記事の中で大宅氏は、吉原の中で使われていた「くるわことば(廓言葉)」と、皇居(御所)で使われている「御所言葉」が本質的に同じ、みたいなことを言っているのですが。

堀江 そうですねぇ……。『実録・天皇記』を取り寄せて読んでみましたが、いかにも戦後すぐの時期に書かれた本っぽいなぁと。皇室を侮辱しただけで犯罪になる「不敬罪」が廃止されたのは47年なので、この本が出版された52年といえば、それこそ「“禁じられた”ミカドの後宮を、がっつり書いてみたいんだー!」という、ジャーナリスト魂が燃えたぎってる印象を受けます。

 さて、御所言葉の例を挙げると、われわれ庶民のことは「下方(したかた)」と言いました(笑)。「すましもの」といえば、飲み物じゃなくて「洗濯」。「おつこん」が「酒」。「おかちん」が「お餅」……などなど。確かに、吉原も御所も閉鎖的な社会ゆえに、その構成メンバー同士が小さな世界を作るので、そういう時には、言葉遣いが独特になったりするものです。ただね、安野モヨコの漫画・『さくらん』(講談社)にも出てきたけど、「私」のことを「わっち」というような吉原特有の「廓言葉」は、ナマリがきつい田舎から出てきた女の子が出自を隠すための工夫だったりしたので、御所言葉とは目的が違うかなぁ。一方、御所言葉は「われわれ女官は特別な存在でございます!」という自負だと思うんですよね。

――また、御所内で明治天皇のご側室は、“源氏名”で呼ばれていたと大宅氏は書いています。大正天皇の生母である柳原愛子(やなぎわら・なるこ)さんは「早蕨典侍(さわらびのすけ)」、竹田宮や北白川宮などを生んだ園祥子(その・さちこ)さんは「小菊典侍(こぎくのすけ)」という名前で呼ばれていたとか。このような別称は、“最上位の遊女”を意味する、吉原の「太夫(たゆう)」と同じ意味なのでしょうか。

堀江 これは、明らかに間違いです。そもそも、江戸初期をのぞき、吉原に太夫はいません。正確には最初期の吉原にはいたけど、格式が高すぎたためにお客から敬遠され、絶滅した人種です(笑)。京都の嶋原など伝統を重視する遊郭には太夫の称号は残り、高級遊女の代名詞として“太夫”が用いられました。太夫とは、芸の道を極めた存在に与えられる称号が源流です。現代でもいますよ。太夫と呼ばれるには性別は関係なく、例えば人形浄瑠璃で声を担当している男性の中でも特に“名人”とされる人は「〇〇太夫」と呼ばれますね。

 そこからも推察できると思うのですが、高級遊女のお仕事っていうのは、性を売るというより、芸能なんですわ。理想化された恋の幻想をお客に演じ、魅せてあげる“女優業”なんですね。江戸時代、女性は歌舞伎など舞台に立つことを禁じられていたので、お座敷で台本なし、濡れ場ありのお芝居をしてあげるといったイメージ。だから、高級遊女と遊ぶ代金は高かった……と。くわしくは拙著の『三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大坂新町』(幻冬舎)をお読みください。

 で、御所における「早蕨典侍」などの源氏名が、なぜ吉原遊女の源氏名っぽいかというと、江戸城の大奥のマネをしているからなんです。それこそ「瀧山」など、大奥の女中の名前は、〇代目・瀧山というように受け継がれていくものでした。

――歌舞伎役者の名前みたいですね!

堀江 そう、まさにそういう感じ。それに対し、京都時代の御所では女性の実家の名に、女官としての役職をくっつけて、○○典侍というように呼んでおり、特に源氏名はありません。ところが一説に、300人以上いた女官たちが、京都から江戸城・大奥があった場所にお引っ越ししてくると、御所の人々も江戸の大奥の風習を引きついでしまった……という。皇后じきじきの発案だったともいわれますが、それが明治時代以降の女官にも“源氏名風”の名前が反映されたのでした。源氏名風の名前で呼ばれる高級女官たちの仕事は、天皇・皇后両陛下の生活全般を取り仕切ることです。それで月給は250円ほど。かなりの高給取りでした。

――これって、現代の金額で考えると、どれくらいの価値なんでしょうか?(笑)

堀江 現代日本の貨幣価値で月収100万円くらい。当然ですが、国民の平均給与以上です。明治30年の小学校教員のサラリーが月給8円の時代ですよ? 明治期の御所には30人以上の典侍がいたそうです。この記事「禁じられた女」で語っている小森さんは、そういう上級女官たちの身の回りのお世話などをするべく、上級女官たちから自前で雇われていた「下女(げめ)」だったわけです。小森さんのようなスタッフを雇うためにも高給だったのでしょう。
そして、このような高級女官たちの中に天皇と秘密のロマンスを経験、お子様を授かる方もいた……ということなんですね。

――そんなにもお給料が高かったら、志望する女性も多そうですね。

堀江 第二次世界大戦以前の上級女官、もしくは上級女官を目指す人々は、だいたいが公家や武家など身分の高い家に生まれた、若い独身女性です。御所にあがるには、まずツテがなくてはいけません。「叔母がかつて女官としてお勤めしていた」というような“コネ”ですね。御所からお声掛かりを受けた後、臨時採用、試用期間を経て、本採用といった流れ。ヘタしたら、生涯の全てを御所の奥で過ごすことに。女官とは「“秘密”の『菊のカーテン』の向こう側で全人生を送ってもよい」、そういう覚悟なくして就けない仕事だったということですね……。

――そこらへんもなんだか大奥っぽいですね。現代の天皇家の歴史について書かれた本と比べると、『実録・天皇記』はあきらかにスタンスが違うように感じました。

堀江 「戦後のドサクサにまぎれて出しました感」があって、そこらへんはスリリングで面白い。秋篠宮邸に出かけ、悠仁親王に歴史の出張授業も行っている、昭和史研究家で作家の半藤一利氏いわく、『実録・天皇記』は大宅壮一の本の中でも一番、“面白い”のだそうですよ。大宅氏本人にもそう伝えたそうです(笑)。ただ、大宅氏の分析には、戦前は絶対タブーとされてきた天皇の私生活などのテーマをとにかく面白く読んでもらうため、炎上商法に似た「言い捨て」が目立ちます。歴史的な背景はそこまで考察されていない感じはしましたね。

――次回は、11月30日更新予定。「肉食天皇」こと明治天皇時代の御所内での“禁断の人間関係”についてお伺いします。

堀江宏樹(ほりえ・ひろき)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。2019年7月1日、新刊『愛と欲望の世界史』が発売。好評既刊に『本当は怖い世界史 戦慄篇』『本当は怖い日本史』(いずれも三笠書房・王様文庫)など。Twitter/公式ブログ「橙通信

「殺害疑惑」「僧侶とセックス」天皇と皇太后をクビになったヤバすぎる親子【日本のアウト皇室史】

  
 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

殺害疑惑で天皇をクビ……ドSすぎる狂王の悲しき人生

――10月22日、「即位の礼」に行われましたね。前回のお話に出てきた「高御座」が、テレビに映し出されるたびに、花山天皇と女官が“セックス”したという強烈なエピソードを思い出してしまいましたが、堀江さんはどのようにご覧になりましたか。

堀江宏樹(以下、堀江) 前日夜から降り続いていた雨が、儀式がはじまったらやみ、虹まで出ましたよね。新帝陛下のカリスマに敬服する思いです。儀式当日まで心配されていた台風20号もいつの間にか温帯低気圧に変わったし、さすがは「日の御子」……。天皇家の血脈、そしてパワーは新帝陛下にも確実に受け継がれているなぁと感じた人も多いのでは。天皇を支えるパワーの源は、ミステリアスな存在に秘められた“カリスマ性”であり、それは理屈とか科学とかでは説明できない“スピリチュアル”な力ですね。

――カリスマ性に問題があった場合、退位につながることはあるのしょうか?

堀江 「狂王退位」という強烈な逸話が残っている、陽成天皇(第57代)のお話は有名。『小倉百人一首』に歌が選ばれる優秀な歌人としての一面と、驚くほど粗野で、不安定な面を兼ね備えた方でした。ちなみに、百人一首をテーマにしたコミックエッセイ・『超訳百人一首 うた恋い。』(メディアファクトリー)では、悪ぶった影のあるイケメンとして描かれているものの、実際は奇行がひどく、裸にした商人を塔に登らせた挙げ句、矢で射殺したり、縄で縛った女官を池に放り込んで溺死させたこともあったそうです。

―――ドSというか、まさに狂王! 「こんな天皇は嫌だ」という大喜利の答えにありそうな奇行の数々……。

堀江 陽成天皇は、生後3カ月で皇太子となり、数え年9歳の若さで天皇に即位します。陽成天皇の母君は、権勢を誇っていた藤原家の“お嬢様”・藤原高子(ふじわらのたかいこ)。母親の藤原家の手厚いサポートあっての幼年即位でしたが、彼の内面は荒んでいたようです。

 先ほどお話したように、暴力的なエピソードをお持ちの陽成天皇ですが、退位させられた理由は、なんと「殺人」。陽成天皇が15歳の時、彼の乳兄弟(ちきょうだい)が、宮中で撲殺されました。乳兄弟とは、陽成天皇の乳母の子。つまり、彼にとっては兄弟のように育てられた存在です。その乳兄弟を殴殺したという嫌疑を、事件現場の状況証拠からかけられたのでした。しかし、周囲からの“忖度”が働き、「犯人捜しはしないけれど……陽成天皇、あなたにはとりあえず退位していただく」ということになりました。つまり「天皇にふさわしくないからクビ」です。その後、亡くなるまでの65年間を、陽成上皇として過ごすのですが、裏を返せば人生の残りの膨大な時間を、無為無策のまま生きていかざるを得なかったのです。

 奇人だった一方で、彼は相当な文化人だったとも言われます。彼の代表歌といえば、『百人一首』にも選ばれた「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる」という有名な歌。「筑波山の峰から落ちる水が、たまりたまって川になるように、あなたへの恋心は、積もり積もって淵のように深くなる」といったくらいに意訳しておきましょうか。でも、彼の歌はこの一首が残されているだけで、理由はわからないものの、それ以外は何もありません。

――いっそう闇を感じてしまうエピソードですね。でも、どうしてそんな悲しい結末になってしまったんですか。

堀江 母君・藤原高子から狂気めいた血脈を受け取っていたのかもしれませんねぇ。彼女は、名門武家の一つである「清和源氏」の祖・清和天皇(第56代)の元に、中宮(≒皇后)として嫁ぎます。高子は結婚前から、その美貌を人々に見せつけていたといい、公卿・国司の子女の中から、5人の未婚の少女が選出される「五節(ごせち)の舞姫」に抜てきされました。そして、宮中の儀式・新嘗祭(にいなめさい)で、舞い踊ったそうです。当時、「五節の舞姫」に選ばれることは、とても名誉なことだったといい、権力者の男性の目に止まれば、良縁にも恵まれますからね。その結果、高子は一族の思惑通り、清和天皇の心を射止め、結婚することになりました。ちなみに、そこにいた男性たちは、あまりの彼女の美しさに、熱を出してしまったという、ウソみたいなエピソードも残っています(笑)。

――それだけ美しかったら、男性もたくさん近づいてきそうですね。

堀江 高子は恋愛体質で、“肉食系”だったと言われていますが、こんな逸話が残っているんですよ。結婚後、数え年で16歳になった高子は、8歳年下の清和天皇をほったらかして、「絶世の色男」と言われている在原業平と愛の逃避行をしたんです。つまり、不倫の“駆け落ち”の旅。少年のお相手は退屈だったのでしょう。結局、藤原一族の手で、彼女は連れ戻され、何事もなかったかのように清和天皇の元に送り返されます。そして、成長した清和天皇との間に生まれたのが、後の陽成天皇こと貞明(さだあきら)親王でした。高子は、二条后(にじょうのきさい)と呼ばれ、人々の尊敬を集めるようになったものの、また奇行に走ります。後宮で権力を得た高子ですが、貞明親王を授かった時の祝いの席に、元カレ・在原業平を呼び、親しく接するという、大胆な行動を取るんです。誰もが、恋人同士だったことを知っているんですよ。どこか狂的に見えませんか?

 ちなみに『百人一首』に採用された、在原業平の歌は、その時に詠まれたもの。ここでは、割愛しますが、未練どころか、高子への現役の愛情を感じさせる“熱烈”な恋歌なんです。

――夫・清和天皇から見て、高子はさぞかし扱いにくい妻だったでしょうねぇ。

堀江 資料によると、清和天皇は31歳という若さで、お亡くなりになっています。自由すぎる妻に、ストレスが溜まったのでしょうか。ただ、高子は、陽成天皇のほかにも、重要な皇子たちを生み、清和天皇の血統を次の世代につなげたので、その点では苦労はなかったかもしれません。 
 
 話は少々、脱線しますが、清和天皇は妹の件でも苦労しています。妹・恬子(てんし)内親王は神に仕える“斎宮”として、三重・伊勢で静かに過ごしていました。が、そこに例の在原業平が高子との破局後、傷心旅行で伊勢に訪れ、恬子内親王とデキてしまったのです……。歌物語・『伊勢物語』に出てくるエピソードですが、どうやら実話だったとか。

――妻と妹が、同じ男を好きになるなんて、清和天皇がかわいそうになります。

堀江 しかも、在原業平の色男ぶりに心がざわついた恬子内親王が、美しい10月の朧月夜の深夜に「夜這い」をかけたといいます。歴史学者・角田文衛の緻密な論考もあるので、僕の妄想というわけではありませんよ(笑)。そして、ワンナイトラブの結果、恬子内親王は見事にご懐妊。その子は、学者の家柄である高階家に養子に出され、高階師久(たかしなのもろひさ)として一生を送りました。

――在原業平って、歴史や古文の時間に聞いたことがある名前でしたが、なかなか激しいエピソードを持っている方だったんですね。

堀江 なんせ日本史を代表する色男ですからねぇ。ちなみに高子は、50代の時にも恋愛事件を起こし、その罪によって「廃后」つまり、皇太后を“クビ”にされています。彼女は自分が建てさせた東光寺の座主(代表者)だった善祐(ぜんゆう)といったお坊さん“たち”と男女関係に陥ったそうな。

――複数形!? 高子、50代でも現役バリバリ……。寺を建ててくれたパトロンの皇太后から迫られたら、お坊さんたちも断れないでしょうしね……。お坊さんたちは、どうなってしまったのでしょうか? 

堀江 善祐は伊豆に流刑にされました。当時の感覚でいうと、処刑より一等軽いだけの“重罪”。それにしても高子は、欲望に忠実すぎる人生を送っていますよね。当時の感覚では40代が引退の年齢とされているので、50代はかなりの老女ということになります。「生涯現役」といった感じの、意味“パワフル”と言える、しかしだいぶアウトな一面を、息子・陽成天皇は受け継いだのかもしれませんね。

堀江宏樹(ほりえ・ひろき)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。2019年7月1日、新刊『愛と欲望の世界史』が発売。好評既刊に『本当は怖い世界史 戦慄篇』『本当は怖い日本史』(いずれも三笠書房・王様文庫)など。

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女性関係で天皇をクビ!? 儀式中のセックス疑惑――“タブーなし”の皇室事情【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

神聖な場所でもセックス!? 女性関係が原因で“クビ”になった天皇とは

――ふとした疑問なんですが、天皇の職務を「お仕事」として考えた場合、会社を“クビ”になったかのような辞めさせられ方をした天皇はいるのでしょうか?

堀江宏樹(以下、堀江) 何人かおられますが、その前に天皇の「退位問題」についておさらいしておきましょうか。古代の日本では、天皇に一度即位すると、その職務は亡くなるまで続きます。つまり、「終身在位」ということ。政治家から見て、都合の悪い天皇を無理やり退位させたり、天皇自身の気まぐれによる退位を防ぐために、そういうルールだったのでしょう。天皇の即位・退位は国家の問題ですからね。 

 そんな伝統があった中、“女帝”・皇極天皇(第35代天皇)が、最初の生前退位を敢行しています。645年、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷を皇室の敵として討ち取った「大化の改新」という大事件を見て、皇極天皇は「この政治の流れや大変化に、私では対応できない……」と判断したようですね。こうして彼女は退位し、弟の軽皇子(かるのみこ)が天皇として即位したのでした。

――たしか、“女帝”は適任の男性皇族がいない場合や、次期天皇が若すぎる場合などの“中継ぎ”としての役割が多かったんですよね。皇極天皇も自身の役目を終えたと判断したからなのでは?

堀江 いや、それはちょっと違うかな~。皇極天皇以前にも女帝はおり、一度即位したら「終身在位」するルールは守られていました。有名なエピソードに、長生きしすぎた“女帝”・推古天皇(第33代天皇)のケースがありますね。彼女の甥は、あの有名な聖徳太子こと廐戸皇子(うまやどのみこ)で、彼は推古天皇から皇位を受け継ぐつもりだったと言われます。推古天皇は、当時の平均寿命と同じぐらいの39歳で天皇に即位した後も元気で、平均寿命の2倍近くの75歳まで長生きしました。結局、その間に廐戸皇子は失脚してしまい、仏教マニアになってスピリチュアル系の世界に埋没せざるを得なくなったわけです。そして、まだまだ推古天皇がお元気なうちに、彼の生命が尽きてしまったという……。

 話は戻って、皇極天皇が生前退位の先例を作って以来、さまざまな理由で退位したがる天皇は増加し、結局、江戸時代の光格天皇(第119代天皇)までの歴代天皇のうち、約半数が生前退位を経験ということになりました。その中には、いわゆる“クビ切り”のような形で退位した天皇もいますよ。

 その一人が、平安時代中期の花山天皇(第65代天皇)。この方は、武闘派の不良少年みたいなところがある方で、“本能”にも忠実でした。今年行われた、天皇陛下の即位の儀式にも登場した、古来より即位の儀式に使われる特別な「高御座(たかみくら)」という台の上で、布がカーテンのように目隠しとして張りめぐらされていることをいいことに、馬内侍という女官と“セックス”していたそう……。花山天皇の腰の動きに合わせ、儀式用にかぶっていた、特殊な金属製の装飾がついている冠が、“ちゃらん、ちゃらん”と音を立て、周囲にはバレバレだったとか。その後、儀式はなんとか開始されましたが、その途中で花山天皇はその特別な冠を「暑い!」といって投げ捨てたという。

――俳優・原田龍二が週刊誌に報じられた「カーセックス不倫」をしのぐ、ヤバさ……。おまけに、儀式で使用する神聖な冠を投げ捨てるなんて、どうかしてますね!

堀江 まぁ、この逸話が出てくるのは平安時代後期~鎌倉時代に成立した、説話集『江談抄』など。「説話集」って、今風にいうと「ほんとにあった○○な話」的な意味になるのですけどね(笑)。 この時、花山天皇は17歳。この手の荒ぶるエピソードが全て真実なのかは、わからないものの、女性関係はやりたい放題だったことは本当。この頃、朝廷の若手メンバーは素行がホントに荒れていまして、「花山天皇に自分の女を取られた!」と思い込んだ藤原伊周(ふじわらのこれちか)たちから、花山天皇は矢で襲撃されたり。

――「女」が原因で、殺されそうになったんですか!?  

堀江 そう。いわゆる「長徳の変」ですね。でも本当は誤解で、実際は藤原伊周のお付き合いしている女性の“妹”と、花山天皇はデキていただけなのです。ただ、火のないところに煙は立たないという言葉通り、それまで女性関係でブイブイいわせていた花山天皇は疑われ、その疑惑ゆえに殺されそうになったという。ちなみに本来であれば、藤原伊周は天皇殺しを企てた罪で処刑されてもおかしくないものの、花山天皇の恩情で九州に流刑されました。

――荒ぶる天皇の存在は、臣下の人生や権力の構図まで変えてしまうわけですね。

堀江 荒ぶりまくっていた花山天皇ですが、19歳の時には早くも「オレの最愛の女が死んだ」という理由で退位を意識するようになりました。というのも、お産の最中に彼女が亡くなったのです。花山天皇は最愛の女性を失い、意気消沈すると同時に、天皇を辞めて出家、彼女の菩提を自分で弔ってやろうと決意していたのです。そんな、肩を落とす花山天皇の姿を見た、家来・藤原道兼は「自分も世の中にウンザリしているから、一緒に出家しないか」と持ちかけます。しかし、これは「こんな花山天皇にはついて行けない」という臣下による陰謀だったのです……。歴史物語『大鏡』によると、藤原道兼から一緒に出家しようともちかけられた花山天皇は、誰にも相談せず宮中をホイホイッと脱出してしまいました。そして、そのまま京都郊外のお寺で自分だけ出家させられ、退位もするという状況に追い込まれます。肝心の藤原道兼はというと「やっぱり父・藤原兼家の顔を見てからでないと、出家できません~」などと言って逃げていったそうです。この頃、出家してしまえば、還俗することは基本的にできません。荒ぶる武闘派ヤンキーのような花山天皇でも、この時はさめざめと「道兼は私を騙したのね……」「嘘をついて、ハメたなんて怖い」と号泣したそう。高校などの古文の教科書にもよく出てくる逸話なので、ぼんやりと覚えておられる方もいるかもしれませんね。

――藤原道兼の「出家するする詐欺」にハメられ失脚。一般企業に例えると、同僚にハメられ、自分はクビや左遷。ハメた側の同僚は出世コースまっしぐらという感じですか……。平安時代後期までの天皇家は、藤原家に権力を握られていたんですね。あまりにも、花山天皇が気の毒なのですが、その後はどうされたんですか?

堀江 出家後は仏門修行に励み、和歌に明け暮れたといいます。歌人として優れており、多くの和歌を残しました。

――次回は11月2日更新です! 引き続き“クビ”になった歴代天皇についてお伺いします。

堀江宏樹(ほりえ・ひろき)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。2019年7月1日、新刊『愛と欲望の世界史』が発売。好評既刊に『本当は怖い世界史 戦慄篇』『本当は怖い日本史』(いずれも三笠書房・王様文庫)など。
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天皇の落とし子とされる「一休さん」、50歳下美女と驚きのセックスライフ!?【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

セックス、肉食……宗教のタブーに切り込む「一休さん」の奔放さ

――前回に引き続き、室町時代の天皇・後小松天皇の御落胤(父親に認知されない庶子、私生児)かもしれない一休さんこと、臨済宗の僧侶・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(1394~1481)についてお話をうかがいます。一休さんが「天皇の子どもかもしれない」というウワサは朝廷も黙認し、現在でも、京都・酬恩庵一休寺にある一休さんの墓所は、宮内庁が管理しているんですよね。また、一休さんの母親は、天皇からの寵愛を受けるほど、恋愛能力が高く、そのDNAを受け継いだ一休さんも“エロい”大人になったのでは? というお話で終わっていました。

堀江宏樹(以下、堀江) そうですね。では早速、大人になった一休さんについてお話することからはじめましょうか。

 5歳で京都・安国寺で出家、仏門に入った一休さんですが、数え年25歳で悟りを得るまでは迷走する日々が続きました。25歳のある夜、闇夜に響くカラスの鳴き声を聞いて、「姿は見えなくてもカラスはちゃんといるように、見えない仏様も実在している。私たちの心の中に……!」と悟ったわけです。「人は自分の心のままに」。それこそ「“ありのまま”に生きればよい」とね。しかし、悟りを開いたはずの一休さんですが、僧侶にはご法度とされていた“飲酒”や“肉”を口にしていたそうなんです。さらに、煩悩が宿るとされていた髪の毛も剃らずに伸ばし、女をバンバン抱くようになったとか……。当時でも臨済宗は、結婚・妻帯はおろか恋愛禁止ですし、女性とのセックスも絶対にダメ。

――「ありのままに」はいいですけど、ちょっと意味をはき違えているような……。

堀江 そのほかにも「女には飽きた。今度は男(=美少年)だ!」というようなことも言ってたみたい(笑)。いろんな意味で“肉食系”、“ヤバい”人物といったイメージが湧いてくると思いますが、実は当時の仏教界を皮肉るための“パフォーマンス”だったという説もあるんです。一休さんは寺の住職の座に収まろうとはせず、常に民衆と同じボロボロの衣を身にまとい、彼らと共に暮らしていたと伝えられます。その行動には、民衆に寄り添わず、心を救おうとしない仏教界の重鎮への「批判」が込められていたのでしょう。

――一休さんに“奇人”のイメージがついてしまいそうでしたが、民衆の心に寄り添う素晴らしい僧侶だったようで、ホッとしました。

堀江 “しかし”というか、“だからこそ”というべきなのか……。一休さんは詩集『狂雲集』の中で、70代後半を迎えた彼を慕う、20~30代の盲目の美女・森女(しんにょ)との性愛の日々を漢詩につづり、披露しています。50歳ほど歳の離れた森女とのセックスについて、『婬水(いんすい)』という漢詩で、セキララに表現したと言われていますが、よく引用される一節に「美人の陰、水仙花の香(かほり)有り」というがあるんです。現代訳すれば「君のアソコは水仙のかおり」。「陰」を「かげ」または「いん(つまりアソコの意味)」と読むかは、読者の品性に任せられるってことですが、“エロ”の中にも気品を感じませんか(笑)? また、別の箇所には「口に清き香、満(み)つる」といった表現があり、これは“ディープキス”とまでいかなくても、森女の息の香りがわかるほどに“密着”している様子であると読み解くことができます。ま、どう転んでも“エロス”に満ちた漢詩であることは間違いないですし、一休さんが“スケベ”だったのは明らかですけど。

――当時の70~80代といえば、現在の90~100歳くらいに相当すると考えられるので、かなりの高齢者。漢詩まで用いて“五感”をフル活用するセックスって、体力・気力をものすごく必要としそう……。

堀江 逆に感心しちゃいますよね~。ただ一休さんは、単に“エロ”かったのではなく、“盲目”の森女に語り聞かせるために書いていたと推察できます。俳優・原田龍二や、お笑いトリオ・東京03の豊本明長のように、性欲が全面に押し出されたLINEのトーク画面のスクリーンショットが世に出回るのとはわけが違う(笑)。一休さんのエッチな漢詩については、ロマンティックというか官能的な感じがしますよね。小説家・瀬戸内寂聴のどの本だったか失念しましたが、とある女性と恋におちた老紳士いわく、「老いらくの恋は、肉体的なセックスをできないからこそ、気持ちが極まる」という一節を読んだことがあります。一休さんのエロティックな漢詩も、それと同じ匂いがするんですよね。

 話はそれましたが、現役の僧侶にもかかわらず、“性的”な文章を書いてしまう一休さんは、88歳で亡くなっています。そして、森女のその後はよくわかっていません……。

――一休さんは、森女と官能的な日々を送る以外に、どのような晩年を過ごされたんですか?

堀江 「自由」を愛した一休さんですが、晩年は後土御門天皇から、皇室とゆかりの深い京都・大徳寺を再建、住職になるようお願いされ、断りきれなかったという記録が残っています。それが、なんと80歳の時! 5年かけて寄付金を募り、なんとか大徳寺を再建したものの、その2年後に一休さんは亡くなりました。また、一休さんが亡くなって約10年後。 一休さんを開祖として建てられた京都・真珠庵が再建されました。応仁の乱で燃失していたのを、一休さんを慕う堺の豪商が建て直してくれたのです。また、そこで一休さんの十三回忌、三十三回忌が行われた際、森女と思われる女性が、お布施をしたという記録が残っているんですよ。

――一休さんのことを、本当に慕っていたんですね~。いろいろと“濃い”人生を送ってきた一休さんですが、そんな彼のDNAを受け継ぐ、お子さんはいたんですか?

堀江 御落胤などウワサがつきまとう星の下に生まれた一休さんですが、彼の子孫を“称する”人物はいます。一休さんの庶子で、母親は不明。臨済宗の僧侶になって、法名を紹偵(しょうてい)といいます。一時期、一休さんの弟子だったそうですが、素行が悪い人だったみたい。もしかしたら、天皇も一目置く一休さんの“ビッグネーム”を利用しただけなんて説もあるとか。

 それにしても、一休さんの「背景」を知ってしまったら、あのかわいらしいアニメを、二度と純真な気持ちでは見られなくなりますね(笑)。アニメに出てくる「将軍さま」こと足利義満も、実は孫の一休さんのことが気になるあまり、会いに来まくってるのかもしれない!? とか思えてしまって。

 ちなみに、一休さんの最期の言葉は「死にたくない」だったとか……。性欲と生命力の強さは比例するんですかね。

――次回は10月19日更新です!

堀江宏樹(ほりえ・ひろき)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。2019年7月1日、新刊『愛と欲望の世界史』が発売。好評既刊に『本当は怖い世界史 戦慄篇』『本当は怖い日本史』(いずれも三笠書房・王様文庫)など。
Twitter/公式ブログ「橙通信

隠し子疑惑、流血事件! 天皇と国民的アニメ『一休さん』の接点とは?【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

“天皇家の策略”と国民的アニメ『一休さん』の深い関係

堀江宏樹(以下、堀江) NHK連続テレビ小説『なつぞら』を見ていると、主人公・なつ(広瀬すず)が夫・坂場和久(中川大志)のことを「いっきゅうさん」って連呼していますよね。その光景を見るたびに、国民的アニメ『一休さん』を思い出す読者も多いのではないでしょうか? いきなりですが、アニメのモデルになったと言われている、「史実」の一休さんって、室町時代のとある天皇の御落胤(父親に認知されない庶子、私生児)だったという有名な仮説をご存じですか?

――堀江さんの著書、『天皇愛』(実業之日本社)でチラッと読んだことがありますが、詳しくは知りません。

堀江 一休さんこと、臨済宗の僧侶・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(1394~1481)。今回は読者になじみ深い「一休さん」の名前で彼を呼びますが、彼の実父は室町時代の「後小松天皇」だったという仮説があるんです。一休さんの後半生には、すでにこのウワサが世の中にじわじわっと広まっていたようで、一休さんが亡くなって13年目くらいに、公家・東坊城和長(ひがしぼうじょう・かずなが)が、自身の日記『和長卿記』で「秘伝だけど、一休和尚は後小松天皇の私生児だ。でも、世間はこのことを知らない……」といった意味のことを書き記しました。東坊城和長は子孫に伝えようと日記に書いたものの、いつの間にか世間に広まり、朝廷もこのウワサを黙認したのです。現在でも、京都・酬恩庵一休寺にある一休さんの墓所は、宮内庁が管理していますし、墓所には皇族の出身であることを示す「菊の御紋」が付いています。

――それでも、御落胤のウワサが事実かどうかはわからないのでしょうか?

堀江 文献的に見た場合、決定打に欠けていて。その上で、一休さんがいくら有名人だったにせよ、天皇家が“仮説”を半公認のように扱われていることは驚きです。ただ、それには“天皇家の策略”があったと僕は推測していて、「衰退していた天皇家の“カリスマ性”を一休さんの知名度や話題性を借り、復活させようとしたのでは?」と考えています。わかりやすくいえば、意外な新メンバー加入で、人気を盛り返そうとするアイドルグループみたいな感じかな。

――天皇家も人気を気にする時代だったんですね。“歴史”や“血”といった意味では、現在の皇室とつながっているものの、考え方があまりにも違いすぎますね。

堀江 仮説といえば、一休さんの父親という説がある後小松天皇も、実は足利義満の子どもだったのかもしれない……という恐ろしいウワサがありますよ! これは、昭和の有名歴史作家・海音寺潮五郎の仮説なんですがね。

――「火のない所に煙は立たぬ」という有名なことわざがありますが、当時の上流社会は、“性愛”が乱れていたため、さまざまな仮説も生まれたのでしょうか。

堀江 “お盛ん”だったことはたしかなようで、理由の一つと言えます。系図上では、後小松天皇の父親は後円融天皇であるものの、後小松天皇の誕生にも“ウラ”があると囁かれているんですよ。後円融天皇の同い年のいとこに、通称・金閣寺などを建造した室町幕府第三代将軍・足利義満がいるんです。勘が鋭い方はお気付きになるかもしれませんが、2人は後宮の女官を奪い合ったりしていたとか。

――権力を持つ男性は、本能的に肉食化が加速するんですかね。

堀江 足利義満は、後円融天皇が愛した女性たちを我が物にしていったようなので、かなりの肉食系ですね。そして、嫉妬を爆発させた後円融天皇は、義満と関係を持った後宮・三条厳子(さんじょう・たかこ)に、ケガをさせる流血事件を起こしたというエピソードも残っています。ちなみに三条厳子が出産したのが、一休さんの父親“かもしれない”後小松天皇。

――血気盛んな時代とはいえ、さすがに臣下の義満が後宮の女性たちに手を出すなんてアウトなのでは? そんなことをしたら、大事な皇統が乱れる可能性もありますし、当時はDNA鑑定もないのに……。

堀江 平安時代以来、天皇家は第百代で滅亡するという“都市伝説”が、日本中で広まっていました。歴史用語でいえば「百王論(ひゃくおうろん)」と言います。「天皇家の終わり=日本の終わり」と考える人もいたでしょう。

 第99代目の天皇が、足利義満にひどい目に遭わせられた後円融天皇。天皇家の威厳・カリスマ性が衰退していく一方で、足利義満は天皇以上に人を惹きつけ、骨太な人物ではあったと言われています。足利義満は後円融天皇にも、かなりの圧で接していたという記録まで残っており、「天皇家を乗っ取ろうとした」などとも言われているんですよ。その後、足利義満は、第100代目の天皇・後小松天皇の在位中に突然死を遂げましたが、それくらいの出来事では、天皇家の勢いを盛り返すことはできません。そんな時に、元・皇子の肩書をもつ一休さんが登場したら……。天皇側も調査したはずですが、可能性が少しでもあれば、一休さんを血縁者として黙認、つまり身内に取り込み、弱りつつある天皇家のカリスマ性を補強したかったのでしょう。

――御落胤の一休さんが、本家を乗っ取るとは考えなかったのでしょうか?

堀江 一休さんは、正当な後継者にはなれない庶子(本妻以外の女性から生まれた子)ですからね。出家もしているし、安心といえば安心。まぁ、これは歴史エッセイストの僕の想像ですが。

 一説によると、一休さんの母上様は、日野家という高い身分の公家出身だったといい、並みいる後宮の女官たちを出し抜き、後小松天皇の寵愛を勝ち取ったそう。ただ、彼女の幸運に嫉妬した、ほかの女たちから命を狙われるほどになり、生まれた子ども(後の一休さん)と共に後宮から逃げ出さざるをえなくなりました。それにしても、このストーリーはなんだか美化されすぎていて、怪しいんですけどね~。

――そして、史実の一休さんは成長後、かなりエロい人になったとか……。天皇からの寵愛を受けるほど、恋愛能力が高そうな母親のDNAをバッチリ受け継いだんでしょうね。

堀江 一休さんはケタ外れのカリスマの持ち主ですし、「英雄色を好む」ということわざ通り、エロスの方面もすごい気がします。『源氏物語』でもその手の資質は、母の桐壺更衣から息子の光源氏に見事に遺伝していますね。

 お話が良いところにさしかかりましたが(笑)、詳しくは次回に続きます。

――次回は10月5日更新!

堀江宏樹(ほりえ・ひろき)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。2019年7月1日、新刊『愛と欲望の世界史』が発売。好評既刊に『本当は怖い世界史 戦慄篇』『本当は怖い日本史』(いずれも三笠書房・王様文庫)など。
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