「自分がホントの天皇」稀代のニセ皇族“熊沢天皇”現る! 56歳、雑貨屋店主の一生と“禁断の野望”

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

堀江宏樹(以下、堀江) 第二次世界大戦後、日本各地で約20人の自称・天皇が出現していたってご存じですか?

――ええっ!? 初耳です。どういうことですか?

堀江 「偽天皇」たちですね。それぞれの家に受け継がれた系図や文物をもとに、自分の正統性を主張するわけですが、専門家が調べれば、すぐにカタがつくケースが圧倒的多数でした。

 そもそも天皇家の歴史は「万世一系」(ばんせいいっけい)、古代から現代までの約2000年間、男系相続によって受け継がれてきました。つまり、同一の家系の中で、「正統後継者」によって、皇位は継承されてきたのです。しかし、皇位継承でモメたことは史上何度もありました。一番大変なことになったのは、「南北朝時代」といわれる14世紀半ばの一時期です。

――歴史の教科書で習ったことはありますね……。あまりよく覚えていないですが(苦笑)。

堀江 14世紀半ばの約57年間、日本には2つの皇室がありました。それが南北朝時代です。後嵯峨天皇(第88代)という方が、2人いた有力な皇子のどちらを自分の後継者にすると決められぬまま亡くなったのが災いしました。2人いた皇子は、母親も同じだし、それぞれが後深草天皇(第89代)、亀山天皇(第90代)というカタチで天皇も経験しています。実力同等の2人は真正面から争うことになります。兄弟が亡くなったあとはその子孫たちが、軍事勢力をも巻き込んで日本中で内乱を生んでしまったのでした。おまけに乱世ということで、天皇の皇子であろうが、伝記が詳しくわかっていない方々もこの頃はたくさんおられます。しかも人間関係が複雑。

 ですから、このあたりの皇族は、偽系図を作る素材としてはもってこいだったと思われます。今回からお話する通称「熊沢天皇」は、南朝時代のある皇子を先祖に持つと主張する偽天皇でした。ちなみに一気に20人ほども出たので、「雨後のタケノコ天皇」とすらいわれた偽天皇たちですが、熊沢天皇はその中でもっとも人気があったとされます。

――戦後のドサクサに紛れて……ということでしょうが、背景が気になります。

堀江 敗戦の翌年である昭和21年(1946年)のお正月には、昭和天皇による「人間宣言」が行われています。そしてその直後の1月18日、熊沢天皇のマスコミデビューが、英字新聞「Pacific STARS&STRIPES」で行われました。「星条旗」という意味を持ったこの日刊新聞は全編英語で、日本と韓国で無料配布されていたアメリカ軍の機関紙です。つまり、熊沢天皇の「デビュー」時期は周到に計算されていたのかもしれません。ただ、熊沢天皇の記事の見出しは「Says He’s Emperor」……「自分がホントの天皇だという男あらわる」という、嘲笑めいたニュアンスが込められていました。

 熊沢天皇こと、熊沢寛道(くまざわ・ひろみち)は当時56歳。すでに頭は禿げ上がり、現代の感覚では70代にも見えますね。本業は、名古屋市千種区内での洋品雑貨屋「日の出や」の経営です。雑貨屋の店主としての平凡な人生に疲れ、天皇に「ジョブチェンジ」したくなったのかもしれませんね。

――天皇に転職ってなかなか斬新ですね。

堀江 熊沢家はもともと愛知が本拠地の資産家一族のようです。基本は広大な土地持ちの農業経営者で、ときどき商業というイメージ。熊沢家は、総本家、本家、分家に細分されていました。しかも同じ熊沢一族なのに、各家によって家紋がまるで違うという、かなり不思議な特徴があります。『天皇の暗号』という本によると、愛知県・一宮市の時之島という地域の熊沢家は2つあり、「上(かみ)の熊沢」の紋はなんと「葵」。尾張徳川家のお膝元で、堂々と葵の御紋を使っているのでした。そして「下(しも)の熊沢」の紋は、さらに驚いたことに、「十六弁の菊」!!

――天皇家の菊の御紋と同じということですか?

堀江 いや、正確には天皇家の御紋は八重の十六弁の菊なので違います。また、明治になって一般人の使用が禁止されるまでは、この手の菊の御紋が皇族以外の人に使われるケースもありました。しかし、葵の御紋は……江戸時代には、徳川家の一族でも使用が制限されるほど厳密に管理されていたのです。熊沢家がいつからこれらの御紋を使っているのかも含め、正確な由来は僕が調査した限りでは不明でした。まったくの謎です。

 それにしても総本家から分家に至るまで、家の数が多い。また地域ごとに本家が存在しており、本当の庶民であれば、こんなことはあり得ません。土地と財産があるから、できることです。後の熊沢天皇こと熊沢寛道は、熊沢の分家の出身。そして、複数存在した本家のひとつの当主だった熊沢大然(くまざわ・ひろしか)に子どもがいなかったので、彼の養子となります。そして、熊沢大然の野望を引き継いでしまうことになるんですね。

――その野望って、もしかして……?

堀江 そう。「民間から皇族へ!」という、禁断の夢の実現への野望でした。

――どえらいことになってきましたが、次回につづきます!

天皇が女官の顔を“ペチョペチョ”舐める!? 皇后さまの嫉妬爆発、「女の園」の日常風景【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

――前回から引き続き今回も、女官が経験した御内儀での出来事をまとめた“問題の書” 『椿の局の記』を読んでいくわけですが、この本の主人公ともいえる坂東登女子は、明治天皇から直々にスカウトを受け女官となったんですよね。さらに大正天皇からも寵愛を受けたそうですが、そうなると坂東登女子はほかの女官たちからは嫉妬されたりはしなかったのですか?

堀江宏樹(以下、堀江) 皇后さまはともかく、ほかの女官たちから嫉妬されたとかいう記述は出てきませんねぇ。興味深いのは、父親から受けた厳しい「しつけ」の甲斐あって、「女の園」宮中に上がっても先輩女官から嫌われたり、いじめられたりすることがなく、無事だったそうです。

 そのしつけ内容というのが凄まじいんですよ。小学校に上がる前の幼い女の子の手が、真冬にしもやけで、原文によると「ぶくぶくにはれて」もなお、玄関をぬれ雑巾で拭く日々の掃除はやめてはいけないし、誰かに代わってもらうこともできない。そもそも掃除ができなければ、学校にも行かせてもらえなかったのだそうです。

「どんなことで女は不幸せになるかもわからんから、それに耐えられるように、精神を養わなければいかん」と父親には言われたそうです……。父母に逆らうことは絶対厳禁で、叱られたときに言ってよいのは「恐れ入ります」の一言だけ。宮中で女官の先輩から注意されたときも、「はいっ。恐れ入ります。気をつけます」と言うだけで何事もこらえつづけたところ、「本当にすなおなお子さんやな」と好評だったとか。

――皇室とも関係の深いお家柄のお姫様なのに……。

堀江 そういう女性ほど世間的には「お姫様」でも、実際は「家の奴隷」として生きざるを得ないわけです。少なくとも当時は。常に高い身分にふさわしい品位が必要とされる世界なのですね。坂東登女子が実際に経験したことですが、肺炎で入院していても、身じろぎひとつせず、高熱が出ても唸らないように静かにしているとか。それを上流の女性の証しである「行儀の良さ」だと考え、死ぬ気で実行しているのです。

――今の私たちと比べるのは間違いだとわかってはいても、そこまで徹底していると怖くなってしまいます。

堀江 それこそが「女の道」であるというふうに彼女は実家で教えられ、立派な女官となるべくしつけていかれたのでしょう。実際、彼女の実家である梨木家は、女官を輩出しつづけたお家柄ですしね。

――逆に庶民のほうが、生き方という点では自由だったということでしょうか。

堀江 まさに。彼女の場合は宮中ともゆかりの深い旧家に生まれ、さらには明治天皇のスカウトがあったことから、自分も女官になる人生しかあり得ませんでした。そして、同じようなことは、多かれ少なかれ、大正天皇の皇后となるべく思春期以降を過ごしてきた貞明皇后にもいえます。

 貞明皇后の坂東登女子への嫉妬はなかなか激しいものだったようですが、それはある意味で仕方ないことのように僕には思えます。皇后として、皇子を合計で四人も生んで育てるという大仕事を成し遂げたというのに、大正天皇の気持ちがフラフラっと別の女性に向かおうとしているのを感じてしまうと、別に具体的な浮気をしたとかいうのでなくても、とにかくおつらいのでしょう。

――自分の人生すべてを否定されたような気持ちになってしまう感じでしょうか。

堀江 そうなんです。ただ、貞明皇后の夫は「天皇」ですから、やりきれない不満や怒りはどうしても女官に向かってしまうわけですね。ちなみに坂東登女子いわく、大正天皇と貞明皇后は「けんかなんかしたことないですね」、だそうです。お互いに「ご忍耐があらしゃる」……夫婦ともにお互いのことを気遣い、我慢強かったというんですが、やはり天皇とて生身の人間ですから、貞明皇后のことをいくら大事にしていても、お気に入りの女官ができてしまったりもしました。

 また、坂東登女子は「大正天皇は病弱である一方、抜群にご聡明で、とくに何事もたちどころに覚えてしまう記憶力はすごいものだった」とも言っています。その一方で、天皇は「お茶目さん」だった、と。ユーモアがあるということですが、「お茶目さん」なところが強く出すぎてしまうこともありました。

 たとえば食事の給仕を「お気に入り」の坂東登女子にやらせているとき、彼女の腕を(冗談で)ぎゅっと握って離さない、とかね。それを貞明皇后は近視気味ということもあったにせよ、ものすごい形相で凝視しているのだそうです……(笑)。

――夫である天皇と女官のたわむれを見せつけられるなんて、貞明皇后にとっては食事どころではないくらいにイヤな気分ですよね?

堀江 イヤな空気があまりに漂ったときは、天皇から身を引いたようです。玉突き場(ビリヤード場)に、「ささっ」と避難しちゃうのが常だったそうで。しかし、そこにも坂東登女子をお召し出しになり、「追っかけっこ」を運動代わりになさることもあったとか。

 テーブルの周りで2人で鬼ごっこするわけですが、その時天皇に捕まってしまうと、原文によると「ペチョペチョペチョッとこういうとこ(頬)おなめんなる」……大正天皇がふざけて、坂東登女子のほっぺをペロペロしちゃうという(笑)。彼女いわく、ものすごくイヤで「気持ち悪うて気持ち悪うて」だったそうですが……。

――それって完全にアウトですよね!

堀江 そう。「お茶目さん」では片付かない、完全にアウトな行為ですね(笑)。でもこの時、坂東登女子のトークが実にキラキラしているような気がするんですよ。やけになめらかに危ない逸話もぽんぽん出てきて、話が進んでいるように見受けられます。まぁ、ワタシにそれだけ魅力があったから……的なマウンティングを感じずにはいられない箇所ですね。

 たとえば闘病中の大正天皇がソファにお座りになるというとき、クッションを用意してさしあげなくてはいけないのですが、貞明皇后じきじきにクッションをあてがうと、それを天皇は「節子(=さだこ、貞明皇后のこと)ええよ」、と。この時代、皇室や宮家、そして多くの公家たちは東京ですでに暮らしているのですが、いまだにプライベートでは完全に京都弁というか、御所言葉だったりしたようですよね。そして、御所言葉にありがちな裏表のある感じでコミュニケーションが取られていました。

 「節子、あなたがしなくていいよ」という言葉は表面的にはやさしいけど、「あなたじゃないほうがいいから、坂東登女子を呼んで」と大正天皇は本音では嫌がっている。それが貞明皇后を不機嫌にさせるというようなことがあったそうな。皇后の不機嫌さについては、坂東登女子いわく「更年期障害があらしゃる」とのことでしたが、ほかにはヒステリー気味だったと言いたかったのでしょうか。原文表現によると「ちょっとおきちがいさんみたいにおなりになった」こともあったそうで。

――「おきちがいさん」ですか……。

堀江 はっきり言いますよね(笑)。それでも、坂東登女子は貞明皇后とは身分が違うけれど、自分たちが同じ女性で、大正天皇のお側にいる者として、気持ちの底にはシンパシーがあるわけです。貞明皇后が、焼け火箸(!)で、女官をいじめたというウワサまで広がると、それを坂東登女子は、率先して否定してまわっています。要約すれば「嫉妬しているときのあの方のお言葉はたしかにひどいけど、手を出すような方ではありません!」と。まぁ、そういう言い方ですが(笑)、貞明皇后のことは本質的にすごい方だと尊敬していますから。

 貞明皇后も坂東登女子には本能的に激しく嫉妬してしまうけれど、本心では彼女のことは信頼できると思っているから、嫉妬して怒った直後でも、皇后の御用を勤めるときの坂東登女子には「まぁ本当に、なめるようにやさしいおことば下さる」とか。まぁ……、「なめるように」という表現に、毒を感じなくもないですが。

 とはいえ「今恐ろしいことをおっしゃってならしゃった(貞明皇后の)おみ口で、又こんなにかばって頂いてもったいないと思って」しまう坂東登女子でした。

――皇后と女官もなかなか濃い関係なんですね。

堀江 いかにも「女の園」って感じがしますよね。大正天皇のご病気が重くなられ、言語障害も進み、最終的には「あっ」という、溜息のような声ひとつでも病床の天皇が何を望んでおられるかを坂東登女子だけが察知できたとか。貞明皇后にとっては、まさに嫉妬してしまう場面でしょうが、それでも坂東登女子の手助けなしに、自分だけでは絶対に大正天皇のご意思はわからないので、彼女に恩義も感じておられたようです。

 大正天皇が48歳の若さで崩御なさり、昭和天皇が即位してしばらくした後、坂東登女子は女官の職を辞したそうですが、昭和26年に貞明皇后が崩御なさるという時、夢で知らせのようなものを受け取ったそうです。やはり二人に特別な絆はあったのでしょうね……。

天皇が「ビビビ」ときた3才の少女を勧誘!? 女官スカウト、知られざる波乱の実態

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

堀江宏樹(以下、堀江) 前回までは山川三千子の『女官』に基づき、明治・大正天皇時代の宮中の“奥”の世界を覗き見してきました。

 “奥”の世界を歴史用語でいえば、「御内儀(おないぎ)」です。御内儀とは、宮中における天皇家の方々の居住空間。私的空間のことです。そこに仕える女官たちは、「御内儀で見聞きしたことは、外部に決して漏らしてはいけない」と先輩女官たちなどから教えられていたのですが、昭和~平成にかけ、元・女官だった女性たちによる証言がいくつか残されてはいます。彼女たちが女官だったのは明治後期~大正時代にかけてです。

 そして、彼女たちの勇気ある証言によって、われわれは大正時代の御内儀という秘密の世界の姿を知ることができるのでした。山川三千子の『女官』で見る大正天皇は、ほかの女官たちからは「お茶目」でフレンドリーな方として知られた一方、山川三千子に執着し続け、彼女からは少し怖がられた存在でした。このような経緯を記した『女官』には多少暴露本的な側面があるのですが、それ以上に過激な“問題の書”が別に存在しているんですね。

――さらなる“問題の書”とは!?

堀江 その書物の名前は『椿の局の記』。大正天皇時代に、天皇・皇后両陛下にお仕えする女官として宮中にあがった、京都出身の坂東登女子(ばんどうとめこ)さんという方の談話を、御所言葉の研究という観点から方言研究家の山口幸洋氏がまとめたものです(以下敬称略)。

 坂東登女子、旧姓・梨木登女子(なしのきとめこ)は明治25年に京都で生まれました。ご実家は、京都の梨木神社(なしのきじんじゃ)の神職を勤めるお家柄で、貴族とか公家とは少し違いますが、宮中とのご縁も代々深かったとのこと。彼女の父は明治天皇のお手紙を代筆したりする「右筆」(ゆうひつ)の仕事をしていました。その関係で東京に天皇が引っ越しなさった後も宮中とのやりとりは続き、明治28年には父に連れられ、坂東登女子も上京。彼女は当時まだ3歳でしたが、そこで明治天皇に面会しました。

 明治天皇にはよほど「ビビビ」とくるものがあったのでしょうか。彼女が6~7歳になると天皇から「あの娘を女官(正確には女官見習い)にさせたいから、東京によこしなさい」というお誘いが熱心に来たそうです。

――どうして明治天皇は「この娘を女官に!」と確信なさったのでしょう?

堀江 さぁ……明治天皇の判断基準は本能的というか、とにかく独特だったようで、たとえばほかの女官志願者たちを落として、例の『女官』の山川三千子を合格させたのも明治天皇の鶴の一声だったそうです。

 ほかのお嬢様たちは面接でスラスラと受け答えしているのに対し、山川三千子は返答がうまくできませんでした。逆にそれを「無口なところがいい」と評価したのが明治天皇だったそうです。まぁ、女官という仕事に知性は必要ですが、基本的には天皇・皇后の手足のように滅私奉公する仕事ですから……。ただ、美しく、知的であれば良いというものでもなかったのでしょうね。

 『椿の局の記』によると明治天皇が「あの方(ほう)よこせ」「あげあげ」とおっしゃったそうですが……おわかりでしょうが、この場合の「あげ」はテンションの話ではありません。「娘を宮中にあげろ」、「早く出仕させなさい」という要請ですね。坂東登女子の父君は、娘はまだ幼いので……と言いつつも、実家で行儀見習いをみっちり彼女に叩き込み、厳しくしつけました。明治天皇が崩御、大正天皇が即位なさった大正元年、坂東登女子は二十歳で宮中にあがります。

 これは、当時の結婚適齢期ですね。だから、彼女の父親の「計算」がありそうです。老いた明治天皇のお側に仕えさせるより、「もしも」を期待して、お若い大正天皇のお側に出仕させたいというような……。まさにこの時、『椿の局の記』によると、彼女はいきなり「権典侍(ごんのてんじ)」……つまり大正天皇の側室候補として女官のキャリアをスタートさせることになったんですね。

――波乱の幕開けですね!

堀江 その時、大正天皇から与えられた女官名が「椿」で、後に彼女は「椿の局(つばきのつぼね)」と呼ばれるようになります。ただし、当時すでに大正天皇とその皇后・貞明皇后の間には、後に昭和天皇となられる皇子たちが3人も誕生していました。

 だから、権典侍として仕事をしていても、実際のメインの仕事内容は側室候補というより、お毒味ばかりだったそうです。食事に毒が入っていないかを調べるというアレですね。そもそも、貞明皇后が夫を婚外恋愛からガッチリとガードしており、夫が関心を示す女官たちにもキツく当たるケースがちらほらありました。山川三千子も、貞明皇后から生意気で大嫌いな女だと言われたと『女官』に書いていますね(笑)。

 椿の局こと坂東登女子は、同僚の女官たちの中でも大正天皇からあきらかに寵愛されていたようで、その分、貞明皇后との軋轢も激しかったようです。「権典侍」の身分のまま彼女を置いておけば、本当に大正天皇の側室になってしまうと貞明皇后は危惧したようです。こうして貞明皇后が嫉妬をあらわになさるため、宮中全体の雰囲気が悪くなってしまったのだとか。これが影響したのか、坂東登女子は自分の意志で上級女官である「権典侍」から、いわば雑用係のような「命婦(みょうぶ)」に官位を下落させてまで、いわゆる“ジョブチェンジ”をしました。もともと彼女自身は最初から権典侍ではなく、掃除とかお金の整理とか、雑用的なことをやらせてほしいと希望はしていたようですが、実家と宮中の間で権典侍となることは勝手に決まってしまっていたようです。

――そこまでしても女官を続けるあたり、さすが明治天皇が見込んだ女性かもしれませんね。波乱万丈の坂東登女子の女官生活については次回に続きます!

天皇に口説かれた女官が“本音”暴露! 皇后様に上から目線で問題発言!?【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

――前回までは、大正天皇にグイグイ迫られていた女官・山川三千子についてうかがってきましたが、そんな彼女もついに女官を退官する時がきたのですね。

堀江宏樹(以下、堀江) 大正3年(1914年)のことです。退官の挨拶を聞いた時、大正天皇の皇后である貞明皇后はうれしそうで「大嫌い」と公言していた彼女にもやさしかったそうです(笑)。

――ライバルが減った! という感覚でしょうか。

堀江 はっきりいうとそうですね。ご自分の深い嫉妬心に悩んでおられたのは事実ですから。大正天皇の女官たちに対する“無邪気”な態度に翻弄された皇后様ご本人が一番お苦しかったとは思いますが……山川三千子も、「二度と女官になることはない!」と言って、宮中を去っています。ところがその後も、大正天皇は、山川三千子の結婚式の様子を、山川の実弟に頼んで報告させようとしたり、それを知った山川が気味悪がったり……と、ひと悶着がありました。しかし、大正15年(1926年)、つまり彼女が宮中を退いてかなりたった後のことですが、大正天皇が亡くなられたと知ると山川三千子は「ご不幸な陛下」に「ご同情もうしあげる」と、涙をさめざめと流しているんですね。

――「ご同情」という言い方がなんとも……。

堀江 大した上から目線ですよね(笑)。山川三千子は貞明皇后からも「大嫌い」な「生意気な娘」と評されていましたし、最後までわだかまりがあったのかもしれません。

 こうして山川三千子は、大正天皇から「写真をくれ」と言われたり、天皇の彼女への好意にピンときた皇后から激しく嫉妬されるような時間を過ごしたわけです。が、自分が別の男性との幸せな結婚生活を送るようになると、結局は大正天皇が「ご不幸な方だから、これくらいのことはお許ししてさしあげなきゃ」という思いのほうが強かったのかもしれませんね。大正天皇が「ご不幸」だと彼女が考える理由として、天皇が次のような発言をしたということが山川三千子の回想録『女官』には出てきます。原文ママで引用しますと、

「わたしを生んだのは早蕨(=柳原愛子典侍)か、おたた様(=昭憲皇后)から生まれた大清(おおぎよ)だと思っていたのに」

 歴史好きには有名な発言です。大正天皇は明治天皇と昭憲皇后を非常に尊敬していたので、「母と慕ってきた皇后陛下ではなく、自分が側室から生まれた子だったという事実に大正天皇は強いショックを受けた」と今日では解説されますね。しかし、より「オリジナル」に近いであろう言葉遣いで見ると、注目すべきポイントがやはり別にあるな、と。

 気になるのは、「自分は大清ではなかった」という部分です。大清とは天皇家、皇族の方々のこと。つまり、自分がそれ以外の臣下の腹から生まれたのが残念! というようなことを、いくら戦前の身分社会にせよ、公言してはばからない大正天皇に山川三千子は「違和感」を抱いたようだし、彼女と同じ感想を持つ女官が、ほかにもいたということなんですね

 たしかに大正天皇は自分の「出生の秘密」に深く傷ついたはずです。それを知らなかったのは、ご自身だけだった、つまり他人には公然の秘密だったという事実も含めて。しかし、山川三千子が言いたいのは、はっきりとそれを天皇(もしくは皇太子として)が口にしてしまうことは、「軽率だったのではないか?」ということでしょうね。ご自分では子どもを成すことができなかった昭憲皇后を深く傷つけ、大正天皇の生みの母である早蕨典侍こと、柳原愛子典侍にも、おそらくこの発言によってつらい思いをさせてしまっていますしね。もちろん、明治天皇だってお悲しかったはず。ご自分がショックをいくら受けたところで、こういうことはデリケートな問題なのだから、そこは黙って耐えるべきであった、声にしたところで、誰も幸せにはなれないのに……と山川三千子は言いたかったのではないでしょうか。

 山川三千子の大正天皇への「違和感」は、そのお人柄が天皇という重責を担うべき方にしては「軽すぎる」というところに尽きるようです。それこそ前にもお話ししたように、山川三千子にとって大正天皇は「人間的すぎた」のでしょう。しかし山川三千子は、大正天皇よりも貞明皇后に厳しい目を向けていますね。

――夫の非は妻の非というアレですか?

堀江 そうですねぇ。現代でも卑劣な皇室バッシングって、皇室に嫁入りした立場の女性皇族に向かって浴びせられることが大半じゃないですか? 男性皇族は叩きにくいのでしょう。なんだかあれと構造は似ている気がします。

 大正天皇の崩御後、貞明皇后は皇太后となります。そして皇太后は崩御なさるまでの長い期間をずっと喪服で過ごされました。しかし皇太后が「黒衣の人」となった理由は、亡き大正天皇に対して「ざんげのお心持ち」が皇太后の中にあったからではないかと山川三千子は言うのです。またしても、大した上から目線ですよね(笑)。貞明皇后は山川三千子よりも8歳ほど年上です。すべての意味で目上の皇后様に対してもズバズバと意見を言ってしまうんだから、ほんとすごいですよね。

 山川はその後も「天皇があられたればこそ、皇后に(貞明皇后は)なられたのですから」などと言ってのけ、ほかにも「お内儀では(=私生活では)あまり何事も(大正天皇の)思召のようにならず、時には御不満のご様子などもあるとやら(略)いとど御同情申し上げてはおりましたが、こんなにお若くて崩御になろうとは夢にも思いませんでした(山川三千子『女官』)」なんてことも。これを要約すれば、皇后は天皇を自由にさせてあげなかった。何の欲求不満かは知りませんが(笑)、天皇をくすぶらせていた。そんな態度は妻としてよかったのか? ということでしょう。

 御自分を生んだ女性が皇后陛下ではなかった事実にショックを受けた大正天皇は、自発的に側室を持とうとしなかったと一般的には言われます。ただ、史実でそのお姿を追う限り、大正天皇は山川三千子のみならず多くの女官にフレンドリーに接し、貞明皇后を嫉妬させつづけてもいました。一方で、それでも側室的存在が最後まで出現しなかったのは、貞明皇后が夫の女性関係を厳しく監視し続けていた「成果」ともいえるでしょう。ただ監視については、明らかに行き過ぎであって、皇后としても越権行為だったのではないか……と山川三千子は考え、『女官』に記しているようです。

――自分は大正天皇からアプローチされても、断固拒絶だったのに?

堀江 そう! ひとりの女性としての彼女は「ほかに想う男性がいる私は、天皇様のアプローチを受け入れることはできない」と拒絶しています。一方、女官としては「皇后様は嫉妬なさったりせず、天皇様の自由にさせてあげたらよかったのに」などとほのめかしている。ひとりの女性としての感覚と、女官としての感覚が2つに、見事に引き裂かれている。ちょっと困った人ですね(笑)。

 歴史好きの人たちの間では、『女官』は「知る人ぞ知る」といった問題の書です。しかし、こういう問題となる部分はページ数にすると全体の4分の1程度。本の一番最後の部分だけですが、この印象が非常に強い本ではあります。

――『女官』については山川三千子が貞明皇后に向かって、女としては私のほうが上だといわんがばかりの「マウンティング」を行っているというレビューもネット上で散見されますよね。

堀江 はい。しかし問題とされる箇所も、実際に読んでみれば、そこまでではなかったですね。ちなみに、山川三千子は皇后様より、先輩や同僚に対してはあからさまに辛辣なのです。自分の「世話親」で、大正天皇の生母だった柳原愛子については女官としても、側室としても「ちょっと中途はんぱ」な存在と言い切っていますね。「身体も小さく誠にじみな性格」とか、どうしてこんな女の人が明治天皇に愛されたのかしら、とでも言いたいかのようです(笑)。

 他にも「柳内侍」と呼ばれていた女官が「美女で才女」と今の世間では評されているのに、山川はイライラを隠しません。彼女のことを「才女ではあったのでしょうが、どこから誰が見たらお美しかったのか」などと言い捨てているので、まぁ……。ただ、明治~大正時代の宮中には「柳内侍」という女官はおらず、柳権掌侍、後には柳掌侍になった小池道子の書き間違え、もしくは記憶違いでしょうか。

 もしかしたらわざと間違えることで、「私の記憶にも残らない小物の女だったわ!」と山川三千子は言いたいのかもしれませんが(笑)。それにしてもこの『女官』という本、女だけの世界は一筋縄では生きてはいけないことがよくわかる書でしたね。ご興味を持った方は、ぜひ、実物をお読みください。ハラハラ・ドキドキできる箇所もありますよ。

天皇に口説かれた女官が“本音”暴露! 皇后様に上から目線で問題発言!?【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

――前回までは、大正天皇にグイグイ迫られていた女官・山川三千子についてうかがってきましたが、そんな彼女もついに女官を退官する時がきたのですね。

堀江宏樹(以下、堀江) 大正3年(1914年)のことです。退官の挨拶を聞いた時、大正天皇の皇后である貞明皇后はうれしそうで「大嫌い」と公言していた彼女にもやさしかったそうです(笑)。

――ライバルが減った! という感覚でしょうか。

堀江 はっきりいうとそうですね。ご自分の深い嫉妬心に悩んでおられたのは事実ですから。大正天皇の女官たちに対する“無邪気”な態度に翻弄された皇后様ご本人が一番お苦しかったとは思いますが……山川三千子も、「二度と女官になることはない!」と言って、宮中を去っています。ところがその後も、大正天皇は、山川三千子の結婚式の様子を、山川の実弟に頼んで報告させようとしたり、それを知った山川が気味悪がったり……と、ひと悶着がありました。しかし、大正15年(1926年)、つまり彼女が宮中を退いてかなりたった後のことですが、大正天皇が亡くなられたと知ると山川三千子は「ご不幸な陛下」に「ご同情もうしあげる」と、涙をさめざめと流しているんですね。

――「ご同情」という言い方がなんとも……。

堀江 大した上から目線ですよね(笑)。山川三千子は貞明皇后からも「大嫌い」な「生意気な娘」と評されていましたし、最後までわだかまりがあったのかもしれません。

 こうして山川三千子は、大正天皇から「写真をくれ」と言われたり、天皇の彼女への好意にピンときた皇后から激しく嫉妬されるような時間を過ごしたわけです。が、自分が別の男性との幸せな結婚生活を送るようになると、結局は大正天皇が「ご不幸な方だから、これくらいのことはお許ししてさしあげなきゃ」という思いのほうが強かったのかもしれませんね。大正天皇が「ご不幸」だと彼女が考える理由として、天皇が次のような発言をしたということが山川三千子の回想録『女官』には出てきます。原文ママで引用しますと、

「わたしを生んだのは早蕨(=柳原愛子典侍)か、おたた様(=昭憲皇后)から生まれた大清(おおぎよ)だと思っていたのに」

 歴史好きには有名な発言です。大正天皇は明治天皇と昭憲皇后を非常に尊敬していたので、「母と慕ってきた皇后陛下ではなく、自分が側室から生まれた子だったという事実に大正天皇は強いショックを受けた」と今日では解説されますね。しかし、より「オリジナル」に近いであろう言葉遣いで見ると、注目すべきポイントがやはり別にあるな、と。

 気になるのは、「自分は大清ではなかった」という部分です。大清とは天皇家、皇族の方々のこと。つまり、自分がそれ以外の臣下の腹から生まれたのが残念! というようなことを、いくら戦前の身分社会にせよ、公言してはばからない大正天皇に山川三千子は「違和感」を抱いたようだし、彼女と同じ感想を持つ女官が、ほかにもいたということなんですね

 たしかに大正天皇は自分の「出生の秘密」に深く傷ついたはずです。それを知らなかったのは、ご自身だけだった、つまり他人には公然の秘密だったという事実も含めて。しかし、山川三千子が言いたいのは、はっきりとそれを天皇(もしくは皇太子として)が口にしてしまうことは、「軽率だったのではないか?」ということでしょうね。ご自分では子どもを成すことができなかった昭憲皇后を深く傷つけ、大正天皇の生みの母である早蕨典侍こと、柳原愛子典侍にも、おそらくこの発言によってつらい思いをさせてしまっていますしね。もちろん、明治天皇だってお悲しかったはず。ご自分がショックをいくら受けたところで、こういうことはデリケートな問題なのだから、そこは黙って耐えるべきであった、声にしたところで、誰も幸せにはなれないのに……と山川三千子は言いたかったのではないでしょうか。

 山川三千子の大正天皇への「違和感」は、そのお人柄が天皇という重責を担うべき方にしては「軽すぎる」というところに尽きるようです。それこそ前にもお話ししたように、山川三千子にとって大正天皇は「人間的すぎた」のでしょう。しかし山川三千子は、大正天皇よりも貞明皇后に厳しい目を向けていますね。

――夫の非は妻の非というアレですか?

堀江 そうですねぇ。現代でも卑劣な皇室バッシングって、皇室に嫁入りした立場の女性皇族に向かって浴びせられることが大半じゃないですか? 男性皇族は叩きにくいのでしょう。なんだかあれと構造は似ている気がします。

 大正天皇の崩御後、貞明皇后は皇太后となります。そして皇太后は崩御なさるまでの長い期間をずっと喪服で過ごされました。しかし皇太后が「黒衣の人」となった理由は、亡き大正天皇に対して「ざんげのお心持ち」が皇太后の中にあったからではないかと山川三千子は言うのです。またしても、大した上から目線ですよね(笑)。貞明皇后は山川三千子よりも8歳ほど年上です。すべての意味で目上の皇后様に対してもズバズバと意見を言ってしまうんだから、ほんとすごいですよね。

 山川はその後も「天皇があられたればこそ、皇后に(貞明皇后は)なられたのですから」などと言ってのけ、ほかにも「お内儀では(=私生活では)あまり何事も(大正天皇の)思召のようにならず、時には御不満のご様子などもあるとやら(略)いとど御同情申し上げてはおりましたが、こんなにお若くて崩御になろうとは夢にも思いませんでした(山川三千子『女官』)」なんてことも。これを要約すれば、皇后は天皇を自由にさせてあげなかった。何の欲求不満かは知りませんが(笑)、天皇をくすぶらせていた。そんな態度は妻としてよかったのか? ということでしょう。

 御自分を生んだ女性が皇后陛下ではなかった事実にショックを受けた大正天皇は、自発的に側室を持とうとしなかったと一般的には言われます。ただ、史実でそのお姿を追う限り、大正天皇は山川三千子のみならず多くの女官にフレンドリーに接し、貞明皇后を嫉妬させつづけてもいました。一方で、それでも側室的存在が最後まで出現しなかったのは、貞明皇后が夫の女性関係を厳しく監視し続けていた「成果」ともいえるでしょう。ただ監視については、明らかに行き過ぎであって、皇后としても越権行為だったのではないか……と山川三千子は考え、『女官』に記しているようです。

――自分は大正天皇からアプローチされても、断固拒絶だったのに?

堀江 そう! ひとりの女性としての彼女は「ほかに想う男性がいる私は、天皇様のアプローチを受け入れることはできない」と拒絶しています。一方、女官としては「皇后様は嫉妬なさったりせず、天皇様の自由にさせてあげたらよかったのに」などとほのめかしている。ひとりの女性としての感覚と、女官としての感覚が2つに、見事に引き裂かれている。ちょっと困った人ですね(笑)。

 歴史好きの人たちの間では、『女官』は「知る人ぞ知る」といった問題の書です。しかし、こういう問題となる部分はページ数にすると全体の4分の1程度。本の一番最後の部分だけですが、この印象が非常に強い本ではあります。

――『女官』については山川三千子が貞明皇后に向かって、女としては私のほうが上だといわんがばかりの「マウンティング」を行っているというレビューもネット上で散見されますよね。

堀江 はい。しかし問題とされる箇所も、実際に読んでみれば、そこまでではなかったですね。ちなみに、山川三千子は皇后様より、先輩や同僚に対してはあからさまに辛辣なのです。自分の「世話親」で、大正天皇の生母だった柳原愛子については女官としても、側室としても「ちょっと中途はんぱ」な存在と言い切っていますね。「身体も小さく誠にじみな性格」とか、どうしてこんな女の人が明治天皇に愛されたのかしら、とでも言いたいかのようです(笑)。

 他にも「柳内侍」と呼ばれていた女官が「美女で才女」と今の世間では評されているのに、山川はイライラを隠しません。彼女のことを「才女ではあったのでしょうが、どこから誰が見たらお美しかったのか」などと言い捨てているので、まぁ……。ただ、明治~大正時代の宮中には「柳内侍」という女官はおらず、柳権掌侍、後には柳掌侍になった小池道子の書き間違え、もしくは記憶違いでしょうか。

 もしかしたらわざと間違えることで、「私の記憶にも残らない小物の女だったわ!」と山川三千子は言いたいのかもしれませんが(笑)。それにしてもこの『女官』という本、女だけの世界は一筋縄では生きてはいけないことがよくわかる書でしたね。ご興味を持った方は、ぜひ、実物をお読みください。ハラハラ・ドキドキできる箇所もありますよ。

天皇が女官にストーカー行為!? ご執心ぶりに皇后様も“憤怒の形相”【日本のアウト皇室史】

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

大正天皇は「人間的すぎる」?

――前回、女官の山川三千子が大正天皇に対して、厳しい目線を向けていたという話が出ましたが、これはなぜなんでしょう?

堀江宏樹(以下、堀江) 山川三千子の大正天皇にきつめの点数を付けている理由はいろいろありますが、明治天皇に比べ、大正天皇のお姿は、すくなくとも山川三千子にとっては、「人間的すぎた」のであろうと思います。

――「人間的すぎた」とは……? 

堀江 女官として「天皇そして皇后に何を求めるか」なんですね。初対面の女官をナンパして、写真をねだるなんて天皇としてどうかと思うし、皇后様はナンパされた私に気遣うどころか正面から嫉妬してくるし……しかも明治天皇の崩御からそれほど時間もたってもいないこの時期に! というのが山川三千子の不満の源です。

 一方、山川三千子が敬愛する昭憲皇太后(=明治天皇の皇后)は、明治天皇が崩御なさると、ご弔問に訪れた方々の前では涙をほとんど見せたりせず、努めていつものように振る舞い続けておられました。

 しかし、着替えの間で山川三千子と二人きりになると、「私が悲しいのは誰よりも一番でしょう。しかし私が泣きくずれていては、後のことがどうなると思いますか」と言って、ハンカチに顔をうずめた……という描写が『女官』には出てきます。昭憲皇太后の振る舞いは、人間的というより神々しいですよね。自分の感情は押し殺し、穏やかに振る舞うことで、カリスマ・明治天皇の崩御にざわめく周囲の人の不安を取り除こうとなさっていたわけです。

 ところが、それとは対照的なのが大正天皇でした。山川三千子への大正天皇のアプローチは止まりません。喪に服している昭憲皇太后が隣にいるのに、「歌を教えてあげるから、私と一緒に歌いなさい」などと持ちかけたり。歌わない山川三千子をヨソに天皇は大声で歌ってくれたそうですが、調子外れの音痴だったそうです(笑)。

 陰湿なセクハラなどではありません。でも、それゆえにはっきりと「やめてくれ」とは言いにくく……というか戦前の身分社会で、天皇陛下の御好意を拒絶するのは、さすがの山川三千子にも厳しいものがあり、だんだんと彼女は滅入ってしまいました。

 これを見かねた昭憲皇太后が間に入ってくれて、なんとか天皇のお戯れから解放されることが何度かあり、ついには「大正天皇が昭憲皇太后のところに来た時は、山川三千子は病欠扱いにするから対応しないでよい」というルールまで宮中では作られる始末でした。

 ――天皇に言い寄られることで、天皇との関係がこじれてしまった女官・山川三千子。こんな状態では、女官としては勤めにくくなったのでは?

堀江 たしかに、山川三千子はこの頃、「あの生意気な娘(=山川)は、私は大嫌いだ」と皇后様が言ったという報告を、同僚の女官から受けています。しかし、それだからといって、明治天皇の時のような女官同士の争いみたいなことはなかったようですね。わりと同情票のほうが多かったのかも。やはり、大正天皇はちょっと面倒くさい方だという共通認識が女官同士にはあったのでしょうか(笑)。

 こうして、相変わらず大正天皇にグイグイ迫られながらも、山川三千子は昭憲皇太后のお傍で女官を続けています。しかし、もうすぐ25歳だし、誰かと結婚したほうがいいのかなぁ、でも明治天皇を喪った昭憲皇太后さまの寂しそうなお姿を拝見していると、自分だけ幸せになっていいものかなぁ……などと悩みのつきない日々でもありました。

 この時、ウラで大正天皇は、山川三千子についていろいろと調べていたようなのですね。そして山川三千子にとっては大先輩にあたり、「世話親」と呼ばれる、いわば宮中での親代わりの女官を動かして、彼女との距離を縮めようとしてくるのです。

――ストーキングじゃないですか、それって。

堀江 まぁ、今ならそういうことでしょうかね(笑)。山川三千子の世話親は、大正天皇の生母である柳原愛子です。一時期は明治天皇の権典侍(ごんのてんじ)で、いわゆる側室でした。

 しかし、柳原愛子は大正天皇となる皇子を出産した後は側室を辞退し、典侍(編註:宮中の女官の最高位)の職に復帰していたのです。大正天皇は実母の柳原愛子が山川三千子の「世話親」でもあることに気づき、柳原に手伝ってくれと訴え、山川三千子への自分の恋心を成就させようとしていた形跡があります。

 大正天皇は柳原愛子を説得、昭憲皇太后に仕える山川三千子を自分のそばに異動させようと考えたようです。その結果、山川三千子は柳原愛子から、大意でいうと「あなたはまだ若いんだから大正天皇のところに行ったほうが出世にもなるし、結婚のとき、女官としての職歴はアピールポイントになるからいいわよ」的に、大正天皇直属の女官になることを何度か勧められもしました。

 しかし、彼女はそれを断りました。「こちらさま(=昭憲皇太后)のところで私がご不要な女官であれば、実家に帰させていただきます」と言うわけですが、それは「大正天皇のお傍で働かねばならないくらいなら、私は辞めます」という意味なんですね。

 やさしく親しみやすいお人柄で、女官からの人気が高かった柳原愛子もこのときばかりは、ムッとしたらしく、冷たく「そうですか」と言ったそうな(笑)。

――大正天皇の山川三千子へのご執心はそんなにすごかったんですね。そうなると、大正天皇の皇后である貞明皇后はお気づきになって、ずっと我慢なさってたのではないですか?

堀江 それが、かなりの「バトル」があったようなんですね。大正天皇からのアプローチはとにかくずっと続きました。昭憲皇太后の居室をひっきりなしに訪ねてきて、そのたびに、山川三千子を呼び出し、お話などなさるのです。さらに困ったのが、大正天皇が貞明皇后とご一緒のときですら、山川三千子を呼び出し、親しく接することもあったそうです。

 同僚の女官からも「ちょっと(山川さん)、皇后宮様のおみ顔を御覧なさい(やばいことになっているわよ)」……という指摘が入るほど。皇后陛下のお顔に憤怒の形相が浮かんでいたのですね。

――いくら大正天皇のお気に入りでも、皇后様に嫌われてしまっては、山川三千子も大変ですね。女官として宮中にはいづらいのでは?

堀江 それが、この頃、山川三千子にはすでに心に決めた男性がいたのですね。だからそれで平気なところがあったみたいです。寿退社ならぬ寿退官してやるぞ、的な。

 山川三千子は休日にひとりで出かけた美術館である男性と偶然に出会います。それは、旧・会津藩家老の家柄にあたる山川黙(やまかわしずか)という男性で、彼女はもともと彼の養母とも知り合いだったのです。養母同伴にせよ、デートもしています。それ以後、彼のことが好きでたまらなかったようで、昭憲皇太后が亡くなった大正3年(1914年)に女官生活にピリオドを打った山川三千子は、そのまま黙と結婚したのです。その後の山川三千子については、次回に続きます。

――次回は3月28日(土)更新です!

大正天皇は“変わり者”か? それとも“お茶目”か? 女官たちが語る「遠眼鏡事件」【日本のアウト皇室史】

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

大正天皇の不思議な趣味

――前回は、新米女官の山川三千子が、いきなり大正天皇からお声がけという名のナンパをされ、誰もいない廊下でジリジリと距離を詰められたという絶体絶命な場面まで話していただきました。その後結局、2人はどうなったのですか?

堀江宏樹(以下、堀江) 身の危険を感じた山川三千子は、とっさの判断で鍵のかかる小部屋に逃げ込み、そこにちょうど通りかかる人もいたため、事なきを得たそうです。ちょっと尻すぼみな展開で、がっかりしちゃいましたかね(笑)。

 ここで問題に思えるのは、この天皇の行動を“フレンドリー”と捉えるか、もしくは“ガッツキすぎている”と感じるか……。それは男性として大正天皇を見た時、彼を魅力的だと自分が感じられるかどうかで変わることですね。

 そもそも、山川が大正天皇からジリジリと近づいてこられたのは、彼女自身の写真を持っていないかと大正天皇に尋ねられ、それに対して山川が「一枚も持ちあわせておりません」と断ったりしたから。大正天皇としては、「まさかそういうわけでもないだろう、お前は嘘をついているのではないか」などと、真相を追求したくなったからでしょう。それが追い詰めるという行動に出てしまい、山川は大正天皇のことが怖くなってしまった、と。

――しかし、初対面でいきなり写真を求められても……というのはあるかもしれません。

堀江 写真問題についてですが、たしかに大正天皇のご趣味のひとつが、関係者の写真のコレクションだったことは事実です。

 コレクションには女官たちの写真もありましたが、外国人男性である公使などにも同じように初対面で「写真をくれ」と、カジュアルに頼むのが常でした。だから、特に山川三千子だけが異様な申し出を受けていたというわけでもないんです。

 たとえば別の女官で椿の局と呼ばれていた坂東登女子によると、「お上はとってもお茶目さん」であり、そのお茶目さを示すエピソードとして、外国人の公使がくると大正天皇が、「煙草やる、煙草のむか」といって煙草を差し出し、「そいでもう『写真をくれ』っと仰せんなるの、じきにね。『写真、以後、くれね』っておっしゃる」(坂東登女子の談話集『椿の局の記』)というものが紹介されています。

 なお、このセリフの部分、原文のままで引用しましたので若干、読みづらいかもしれません。

――なんだか独特な言葉遣いの会話ですね。

堀江 大正時代に女官として宮中に勤めていた坂東登女子(ばんどうとめこ)いわく、このトツトツとした感じこそ、いわば男性版の御所言葉だったそうです(『椿の局の記』)。

 また、大正天皇の話し方と昭和天皇は似ていた、とも言われています。第二次世界大戦が終戦を迎えるにあたり、昭和天皇が「玉音放送」のためにスピーチを録音させましたが、その時の天皇の話し方が独特だといって庶民は驚いたものです。しかし、宮中で、高貴な男性はああいう話し方をするほうが、むしろ普通だったと坂東登女子は言うのです。高貴な人があまり滑らかにペラペラしゃべると、品がない話し方になると思われていたのかもしれませんね。

 さて、お話を戻します。宮中の女官たちの一般的な見解としては、明治天皇とは異なり、大正天皇は非常にフレンドリーな方で、女官たちに気軽に話しかけたり、写真をもらったりしていたようです。お茶目さんとして、宮中では通っていたくらい。だからこそ、山川三千子の拒絶は大正天皇にとってはショックだったのかもしれませんね。それこそ「なんでダメなの!?」って、彼女につめ寄ってしまうほど。

――山川三千子は、『女官』を読む読者にわざと異様な印象を与えるように、情報操作していると考えてもいいのでしょうか?

堀江 僕はそう思います。そもそも、彼女が宮中の秘密を公開してはいけないというタブーを破り、昭和35年(1960年)になって回想録『女官』を書いたのは、彼女自身が「汚名返上」したかったからではないでしょうか。

「大正天皇の愛人だった」と世間から言われつづけた自分の評価を覆すべく、「いくら相手が天皇だからといって、言い寄られたところで、私がなびくわけもない!」と主張したかったのでは? 女官を退官後、彼女は武蔵高校・武蔵大学などで重職を勤める男性の妻となり、いわゆる名士夫人として知られるようになりました。だからこそ、世間から痛くもない腹というか、「過去」を探られるのが心外だったのでしょうね。

――なるほど。このナンパエピソードの書き口は山川さんの名誉のために書かれたのかもしれないんですね。では実際の大正天皇の人物像について、堀江さんはどのような印象を持っていますか?

堀江 大正天皇は、非常に聡明な方なんですよ。外国人が苦手だった明治天皇に比べ、大正天皇は国際派。当時の政治・経済・文化の世界で第一公用語だったフランス語にも通じておいででした。しかも、見たもの、読んだものをたちどころに記憶していくという特殊なまでの力がおありでした。

 ご病弱ではありましたが、気持ちはしっかりとしていて、多少の体調不良くらいでは「風邪と言うなよ」、つまり、風邪扱いしてくれるなよといって、公務をなさる方だったんですよ。これを聡明といわずして……と思うのですが、どうでしょうか。

 聡明で思い出したけど、大正天皇が帝国議会に出席なさった時、「勅語」つまり、ご自身の「おことば」の原稿の紙を丸め、望遠鏡のようにしている姿を見せた……などの逸話がありますよね。ご聡明とは程遠かったのでは?というような失礼な風説が、今日に至るまで伝わっています。

 歴史的には「遠眼鏡事件」などと専門用語化しているくらいですが、そういうことがあったとされる時期やシチュエーションにも諸説がある状態です。

――諸説とはどのような?

堀江  たとえば、この事件が起きたのは最初に議会に出席した時というのが山川三千子説ですが、ほかの女官は何回目かの出席の時だったと断言しています。いろいろな説があるため、一種の都市伝説では? というような声もあるのですが、そういう天皇の行為は本当にあったと僕は考えています。それも何度もあったのでは、と。

 実は大正5年くらいから、大正天皇には言語障害のような症状が多発しはじめます。大正時代の医学は、現代よりもだいぶ劣っているので、正確な病名はわかりません。当時はただ「御脳病」などと公表されていました。だからこそ、ウワサに尾ひれがついて、大正天皇は「深刻なご病状」ではないか……なんていう声もあった。

 少なくとも、スピーチ原稿で遊んでいるように見える姿を、謹厳実直な明治天皇だったら絶対に見せたりはしませんよね。だから、臣下が必要以上に仰天してしまった、と。

 山川三千子の婚家である山川家でも、大正天皇の「遠眼鏡事件」が、深刻に語られていたという記述が『女官』には出てきますね。山川三千子はその場で大正天皇の擁護すらしないのがまたアレというか、彼女らしいのですが(笑)。

 一方、その山川三千子とほぼ入れ替わりのように、大正時代の宮中で女官を勤めていたのが、大正天皇が「写真、以後、くれね」という独特の言葉遣いで話していたと証言した坂東登女子です。大正天皇も「遠眼鏡事件」について世間で悪く言われていることを知り、気になさっていたと彼女の回想録『椿の局の記』の中で語っています。

――大正天皇もお気の毒ですね。

堀江 本当にその通りです。坂東登女子いわく、大正天皇は「私は以前、勅語の巻紙を開いてみたところ、上下が逆になっていたので恥ずかしい思いをした。だから上下が合っているかを事前に確認しただけなのだが」と言っておられたとか。

 ただ、あまりに何パターンも「遠眼鏡事件」については語り継がれているので、女官たちから「お茶目さん」といわれていた大正天皇は、自分がいろいろ言われていることを理解した上でブラックユーモアというか、ギャグのようにやってみせたこともあったのではないか、と思います。おそらく、何回も。そしてその都度、ギャグとしては歴史的な滑り方をして、周囲は恐れおののいてしまったので逆効果だったということかもしれません……。

 このようにさまざまな理由があって、大正天皇は日本国内では人気が高くはありません。外国のほうが研究が進んでいるくらい(フレドリック・ディキンソン 『大正天皇 一躍五大洲を雄飛す』)。

 それはともかく父帝とは違う天皇の像を大正天皇は作ろうと努力なさっており、それが身分を超え、誰にでもフレンドリーな態度にも反映されたのであろう、ということだけは推察できます。

――そんな大正天皇に対して少々厳しい目線を持っていたのが山川さんなんですね。ではそもそも、大正天皇の何が、山川三千子にはピンとこなかったのでしょうか? 次回に続きます。

明治天皇の”スペオキ”女官は「口ベタなとこが逆にいい」!? 女の嫉妬渦巻く宮廷の側室【日本のアウト皇室史】

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

――明治天皇は、原則的に、同時期に複数の女官を側室にはしなかった。それが後宮の暗黙の掟掟として存在していたのでは、というお話を前回伺いました。新しい側室ができるということは、前の側室はクビになるということですよね……。

堀江宏樹(以下、堀江) そうですね。理由はさまざまですけど、天皇と女官の話し合いで側室としての進退は決まるみたいですよ。たとえば、大正天皇のご生母となった柳原愛子(やなぎわらなるこ)は、明治6年(1873年)に、明治天皇の権典侍になりました。そして彼女は明治12年(1879年)、のちの大正天皇となる明宮(はるのみや)親王を幸運にも授かります。

 しかしそれまでに、二人のお子さまが夭折する悲しみも味わいました。また、「産後の肥立ちが悪い」などの理由で、明宮親王誕生後は、権典侍の職を辞退……つまり側室を辞めさせてほしいと明治天皇に訴え、その願いを叶えられました。

 妊娠・出産にダメージを感じやすい体質の話もありますが……もしかしたら、同僚の女官から、妬まれたりするのがイヤだったのかも。しかし、側室のお役目を辞退した後も柳原愛子と明治天皇の仲は、天皇が晩年になっても良好で、親密ですらあったようです。ちょっとした贈り物を、ものかげに呼び出して柳原愛子に明治天皇がお渡しになる姿が目撃されています(坂東登女子『椿の局の記』)。

 明治天皇は、ほんとうに仲が良い女官には女官名とは別に「あだ名」を与えるクセがあり、柳原愛子は「ちゃぼ」と呼ばれていました。側室たちの中では、数少ないケースです。ま、「ちゃぼ」とは観賞用の小型のニワトリの品種名であろうと推測され、普通の仲の良さでは相手から嫌がられてもしかたありません。それを普通に受け入れてしまう柳原愛子と明治天皇は信頼関係はとても深かったのでしょうね。

――それは女官たちもザワついてしまいますね。楽ではなかったという女官生活、争い事の記録などはないのですか?

堀江 明治41年(1908年)から25年間、御内儀に出仕する男性役人「仕人(つこうど)」として勤めた小川金男という人が「昔は(略)廊下に蛇を投げ込んで、気に喰わぬ相手の女官に悲鳴を上げさせた」という宮中に伝わっていた逸話を書いています。

 ウワサの類が語り継がれたもので、それが生じた時期は定かではないにせよ、明治天皇がより女性関係にアクティブだった明治初期のお話でしょうか。さすがに蛇が廊下にいるのは見ていないにせよ、小川金男は女官同士が大声で相手の悪口を言い合っている姿をよく見たそうですよ。

――口ゲンカですか!?

堀江 それが微妙に違うんです。女官たちは大嫌いな相手がいま、そこにいることをわかった上で、あえて素知らぬ顔をして、大声をあげて相手に聞こえるように「あの女は、こういう理由でほんとに気に食わないわ!」などと罵るのだそうです(笑)。それが何度も何度もあったそうな(小川金男『宮廷』)。

 天皇ではなく皇后と、ある女官が「親密」に見えても、別の女官たちからは激しく嫉妬されてしまいました。山川三千子が『女官 明治宮中出仕の記』(講談社)で語るところによると、皇后陛下と仲良く話をしているところを見られてしまうと、「新入りのクセに、皇后様に取り入るなんて末恐ろしい女だこと!」などと先輩女官からネチネチ言われたそうです。それこそ蛇のような執拗さでお互いを監視しあっている女社会の闇ですね。

――山川三千子さんは、明治天皇からはどう扱われていたのでしょうか?

堀江 そもそも彼女が並み居るライバルを押しのけて採用されたのは、明治天皇の鶴の一声でした。あまり口が達者ではなかったところが逆に天皇には好印象だったようです。

 それだからといって明治天皇から言い寄られるようなこともなく、純粋によい主従関係だったようですね。山川三千子によると、明治後期の頃は高等女官の私室である「局(つぼね)」に、明治後期の頃、明治天皇がこっそり出かけるなんてことは、絶対になかったとのことです。

 ところが、別の女官の記録によると、むかし明治天皇の権典侍だった女性……たとえば、大正天皇の生母である早蕨典侍(さわらびのすけ)こと柳原愛子さんなどは、明治天皇から事あるごとに手招きされ、ものかげに呼ばれてちょっとした贈り物を渡されている姿が目撃されていたそうです(『椿の局の記』)。

 一方で、山川三千子は明治天皇夫妻の大ファンでしたが、それは明治天皇がダンディなのに、女性関係には(すくなくとも当時は)「清潔」だった点が、彼女の最大の萌えポイントだったみたいですね。明治天皇が「早蕨(さわらび)」こと柳原愛子に贈り物をしている姿について言及しているのは、山川の後輩女官で、「椿の局」といわれた坂東登女子という女性です。先輩にあたる山川三千子がそういう天皇の姿を見ていないはずもない。しかし、そういうのは清潔な明治天皇のイメージを損ねると彼女は思ったから、書かないんでしょうね。

 ほんとに清潔すぎて、昔から情愛を示すようなことが何もなければ、明治天皇には皇子も皇女もお生まれにはなってはいないのですが(笑)、そこらへんについて山川三千子はいっさい触れません。そんな山川三千子ですが、大正天皇夫妻には非常にシビアな目を向けているのです。

――山川さんは、大正天皇から好意をほのめかされたのですか?

堀江 はい。でもその時、彼女はかなりはっきりと大正天皇の好意を退けているのです。大正天皇(正確には当時はまだ皇太子ですが、今回はわかりやすいように、大正天皇とお呼びします)との「出会い」は、明治45年(1912年)7月30日の明治天皇崩御の後におとずれました。

 大正天皇は当時、まだ青山御所にお住まいでしたが、皇居にご出勤なさるようになられていました。廊下ですれちがった山川三千子に、大正天皇が「まさかのお声がけ」をなさったというのです。

――まさかの?

堀江 そう。当時の山川三千子は、宮中の仕事をはじめてまだ日の浅い女官です。そういう目下の女官ほど、宮中の廊下は天皇が通るであろう時間を避け、あらかじめ用事を済ませてしまうなど、高位の方々の御目につかない工夫をしなければなりませんでした。それが身分社会のマナーです。もし天皇にバッタリ出会ったところで、女官は廊下のすみに立って、黙礼しつつ、天皇が通り過ぎるのを待つだけです。女官からお声がけをする、もしくは天皇からお声がけをされてしまうなどということは、基本的にありません。

 ところが、大正天皇に廊下でバッタリ出くわしてしまった山川三千子に、大正天皇はお声がけをなさいました。しかもロクに彼女のことを知りもしないのにしつこく話しかけてきたわけですね(笑)。いわゆる「ナンパ」です。すくなくとも山川三千子はそう感じました。

 「お前は絵が上手だってね」とか「では何か歌がうたえるだろう」……などと会話の糸口を探るべく、山川三千子が「違います」「歌えません」などと言っているのに、しつこく絡んだうえ、天皇は本題を切り出されます。それは「(おまえは)自分(=山川)の写真を持っていないか」というものでした。しかも、このやり取りの最中、ジリジリと彼女は後退し、一方で彼女を追いかけるように、一歩ずつ距離を詰めようと近づいてくる大正天皇のお姿があったそうな。

――山川三千子さんの大ピンチですが、次回につづきます!

天皇に仕える女官は “プロ彼女”? 「お世継ぎ」「添い寝」と女の争い【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

“モテた”明治天皇と選ばれし側室

――前回伺った、明治時代の宮中のお正月のエピソードでは、天皇皇后両陛下と女官たちが「大きな家族」のようだったというお話が印象に残りました。想像以上に和やかというか、ほのぼのしているというか……。そういう雰囲気の中で、天皇から好意をほのめかされた女官もいるのでしょうか? その場合どうなってしまったのか気になります。

堀江宏樹(以下、堀江) 抜け駆けする同性に厳しいのが女社会ですからね(笑)。例のお正月の光景が出てくる回想録『女官』(実業之日本社)(※)を書いた山川三千子という女性が女官になったのは、明治後期のことです。モテモテだった明治天皇がすでに中高年の域に入られ、女性関係も落ち着いていたからこそ、女官たちもノンビリしていられた……と考えたほうが良さそうですね。

※『女官 明治宮中出仕の記』(講談社)として現在は文庫化

――山川三千子さんってどんな方だったのですか?

堀江 山川三千子は、明治25年(1892年)、久世通章(くぜみちあき)の長女として京都に生まれました。公家華族の出身、子爵令嬢という非常にステイタスの高い女性です。ただ、生家の家庭事情は複雑だったとか。お父上の通章子爵は婚外恋愛が激しい方でしたから。家庭事情が複雑だった人ほど、男女関係について禁欲的になるか、あるいは柔軟になるか、その二択のような気が僕にはするのですが、山川三千子は確実に前者でした。

 そんな彼女が女官として宮中に出始めたのは18歳の時、明治42年(1909年)のこと。窮屈な京都の実家を離れ、東京で「自活」したかったからのようですね。宮中での女官を夢見て面接試験に合格、主に明治天皇と皇后の両陛下にお仕えし、大正3年(1914年)には退官しました。

 知的な彼女が明治・大正時代の宮中生活を記録してくれたのは、後世の我々にとって、はかりしれない価値があることでした。ただ、その記録『女官』の中にはなかなか刺激的な部分も含まれるのですね(笑)。

 明治天皇はたくさんの皇子・皇女の父君となられましたが、その母親は全て皇后ではなく、側室扱いの女官たち。しかし、明治天皇は自分より三歳年上の昭憲皇后に敬意と愛情をもって接し続けました。二人は終生、仲睦まじいご夫婦だったのです。

 しかしご成婚から何年たっても皇后に、ご懐妊の兆しが現れないため、どうしてもお世継ぎを得なくてはならないということで慣例に従い、権典侍(ごんのてんじ)もしくは典侍(てんじ、ないしのすけ)と呼ばれる高等女官の何人かが、天皇の「側室」となったわけです。

――権典侍と典侍の違いを教えてください。

堀江 ものすごく乱暴な説明ですけど、権典侍の方が側室となる確率はかなり“高め”です。天皇にお目通りがかなう高等女官であれば、天皇のお手つきになる可能性はどの役職にもあるのですが。

 また、権典侍には天皇に添い寝する「夜伽(よとぎ)役」という、大事なお役目がありました。天皇のお側近くに仕える存在であるべきという観点から、自分の私室である「局(つぼね)」に引きこもりがちで、外出もまれだったそうです。いわば「プロ彼女」ですね。現代でも、アイドルとか俳優の“彼氏”から、ときたま来るお誘いの連絡を逃したくないので、家でずーっと待ってる女性、いますよね。ああいう感じ。

 典侍の方が権典侍よりも、キャリアウーマンのカラーは強く、また格上の存在ですが、典侍が天皇の側室となることもありました。

 側室的な女性は、なんだかんだいって嫉妬されますし、女社会において肩身が狭い。それに天皇のお側近くに仕えた人々の語った言葉から、明治天皇がいかに魅力的な男性であったかは明らかなんですね。例えば女官たちだけでなく、お側近くで御用を勤めた「侍従職出仕(じじゅうしょくしゅっし)」という役職の少年たちの目にも、明治天皇は「理想の男性」として映っていたようです。

 侍従職出仕として仕えた坊城俊良による『宮中五十年』(講談社)には、「正装に威儀を正された陛下の、一段と晴れやかな、輝く竜顔のおん美(うるわ)しさ、私は今でも、ときどき思い出しては、恍惚となるのである」なんて熱烈な一節が出てきます。10歳くらいの男の子にもこれだけ魅惑的なんだから、明治天皇の微笑みは、女官たちにとってどれほどキラースマイルだったことか……(笑)。まぁ、天皇と恋愛関係にはなり得ない少年だったからこそ、「恍惚となった」という本音が後に書けたのでしょうが。

――そんな明治天皇は、お肉がお好きだったと聞いたことがあります。女性関係でも相当な「肉食」でいらっしゃったのでしょうか。

堀江 いや、それがね、明治天皇はモテモテなのに、真面目でいらっしゃるんですよ。

 明治天皇のご生母は中山慶子(なかやまよしこ)という女官です。彼女は、明治天皇にとって父君にあたる孝明天皇の典侍でした。『女官』によると、中山慶子典侍は、明治天皇が女官の誰かを側室にしなきゃという時に「いくら天皇さまだからといって、御自分の御勝手ばかり遊ばしてはいけません。こういうことは本人(=女官)も得心の上、これと(天皇が)お定めになった人以外に召されることは断じてございませんように」と“御忠告”なさったのだそうです。要するに同時並行で複数の女官を側室にするな! ということですね。モラルを問いたのでしょう。

 それでも、実際に同時複数妊娠発覚みたいなパターンが1度だけありました。それは明治天皇が20代になったばかり、つまりごく若い頃のお話。詳しくいえば明治6年(1873年)頃に典侍だった葉室光子と橋本夏子のケースですが、2人とも子供は死産、ご本人も亡くなってしまっています。

 その後の明治天皇ですが、お子さまの生まれ方を見ていると、1人の女官とのみ、ある時期まで集中的に関係を持ち、子どもを授かっていくというのが常道だったようです。ただ、そういうルールがあったところで、女官同士の争いは隠然と存在していたようで、明治天皇ご本人がこういう御製(=天皇の和歌)を作って、女官たちに自粛を求めていますね。

「むつましく 枝をかわせて 咲く梅も さかり争う 色はみえけり」一見、仲良さそうに咲いている梅の花々にも、お互いをライバル視して争う気配が感じられるものだ。女官同士、仲良くしてくれよ、とでも意訳しておきましょうか。天皇の後宮のことを昔から「御内儀(おないぎ)」と呼びましたが、御内儀生活は楽ではありませんでした。

 次回は、2月8日更新予定。天皇に“言い寄られる”女官についてお話したいと思います。

皇室の“知られざる”お正月事情――天皇陛下は大忙しでも女官は「朝から日本酒」!?【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

――皇居の一般参賀は今年も多くの人で賑わいました。お正月は、皇族の方々のお姿を見る機会が多くありますよね。最近は、皇室関係の特番もなぜか増えていますし。

堀江宏樹(以下、堀江) 皇室の方々には、晴れ晴れとしたオーラがありますよね。だから「お正月の顔」にふさわしいのかも。ちなみに、1月2日に皇居で行われた「新年一般参賀」は、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)から始まった新しい皇室行事で、特別な事件や事故などの事情がない限り、毎年行われているようですね。

 お正月の天皇陛下は、本当にお忙しく過ごされているかと思いますが、これって伝統的なことなんですね。天皇陛下は元日も午前5時くらいから、平安時代から続く「四方拝(しほうはい)」と呼ばれる、いわば“秘密の儀式”を執り行われておいでです。

――「四方拝」ですか。一般的には聞き慣れない名前かと。

堀江 明治時代以降、宮中にいた女官の回顧録にも頻出するのですが、内容についての記述はゼロ。辞書には「天皇が元日の朝、天地四方(など)を拝する儀式」出展:『日本大百科全書』(小学館)とありますが、詳細は口外されることがなくて不明。

 江戸時代以前は公家の屋敷などでも行われていたようですが、公式に現在も続いているのは、天皇家だけのようですね。時代や資料によって開始時間は異なりますが、だいたい午前4時~午前5時半には始まるようです。儀式内容を推理すると、新年を迎えた世界に、天皇が日本人代表として「今年もよろしくおねがいします」というご挨拶をしているのではないかと。八百万(やおよろず)の神様たちに、「今年は災厄が起こらないように」と祈るイメージで間違えてはいないと思われます。――明治時代のお正月、天皇皇后両陛下は、伝統的な装束姿だったのでしょうか?

堀江 例の「四方拝」の儀式の時、天皇陛下は天皇しか着ることのできない「黄櫨染(こうろぜん)」という色の束帯をお召しだそうです。しかし、臣下の前に姿を現すとなると、最初から両陛下ともに“洋装”なんですね。「文明開化」した明治時代、古くから伝わる伝統的な朝廷装束について実は否定的。同時代にヨーロッパで使用されていた宮廷服の方が、重視されていたことは確かなんです。

 天皇陛下は記録によれば「大元帥の大礼服」。わかりやすくいえば、明治天皇の御真影として知られている、あの絵のようなお姿だったそうです。ちなみに大礼服とは、最高の正装という意味。皇后陛下も「マント・ド・クール」と呼ばれる、ドレスを大礼服として着ておられました。現代の女性皇族の最高の正装は「ローブ・デコルテ」ですが、「マント・ド・クール」は、何メートルにも及ぶ長い裾を引きずった、さらにゴージャスなデザインのドレスですね。

 こちらの著書『明治150年記念 華ひらく皇室文化 −明治宮廷を彩る技と美−』(青幻舎)の表紙中央のドレスが、明治天皇の皇后・昭憲皇后が1912年(明治45年)の新年に着用なさったと伝えられる「マント・ド・クール」です。

 当時、日本の刺繍は世界最高峰の技術として知られており、このドレスにも菊の花々の刺繍がふんだんにあしらわれています。この本には「糸菊」のデザインだと解説されていますが、本当は「奥州菊」と言うべきですね。江戸時代に上方(関西)で作られ、東北地方で発達した品種の菊です。いわば和洋折衷的なデザインのドレスなんですが、昭憲皇后が当時の日本と世界を結ぶ存在だったことを感じられます。また、ダイアモンドのついたティアラやネックレス、腕輪などをキラキラと輝かせておられる皇后のお姿は、女官たちの心をそれはときめかせました。

――では、そんな女官たちはどんな衣服を着用していたのですか?

堀江 お正月は女官たちも朝から洋装でドレス姿だそうです。みなが揃って、新年を祝う朝の御膳をいただくのですが、これが和食なんですね(笑)。詳細は残念ながら残されていませんが、普段よりも皿数が多く豪華でした。朝から日本酒が出たり、甘く煮たゴボウ、白味噌を焼いたお餅で挟んだ伝統的なお菓子「お焼がちん」が出たそうです。ドレス姿でお餅を食べている姿って、想像したら微笑ましいですね。そして、朝の御膳が終わると、“女官長”など身分の高い職員たちが、お祝いの言葉を申し上げるため天皇皇后両陛下の前に、整然と一列に並びました。

――天皇皇后両陛下の前でご挨拶って、なんだか緊張しちゃいそう……。

堀江 ご挨拶の内容ですが、「御機嫌よう、いよいよ(両陛下が)お揃い遊ばしまして、何の何の申し分さまもあらせられず、ご機嫌よく成らせられます御事、ありがたくかたじけなく存じ上げます」というもの。意訳すると「両陛下や皆様がお正月を何の問題もなく、ご機嫌よくお過ごしになられていること、これって本当にありがたく幸せなことですよね」という感じかな。

 実は上の挨拶は、女官同士で交わした新年の挨拶の一部。しかし、高位の女官が両陛下にするご挨拶も同じようなものではないかと思われます。NHKの連続テレビ小説『花子とアン』で連発していた「ごきげんよう~」のオリジナルといってよいかな。覚えてる方、いらっしゃるといいけど。明治天皇は儀式の進行が滞ると、みるみる不機嫌になったそうです(笑)。

 さらに面白いのが、新年ということで、よりゴージャスに正装している女官の化粧は、普段よりザツになりがちだったということ。当時の宮中は、電灯が使える部屋も限られており、女官たちは朝4時~5時くらいには起きて、薄暗い灯火の下ですばやく身支度をしなくてはなりません。だから女官のお正月のお化粧は、普段よりも粗くなりがちで、明るくなってからお互いの化粧がヘンなことに気づき、笑いあったりしていたとか。また、朝からお酒が出るので、ついつい酔っ払った女官同士でひと悶着あったりもしたそうです。

――戦前の宮中って、もっとピリピリしてるのかと思ったら、意外に和やかな雰囲気なんですね。

堀江 天皇・皇后両陛下を中心とした「大家族」みたいな、ほのぼのとした雰囲気が宮中に漂っていたようです。こうした「内輪」での新年の挨拶が終わると、次は外国の公使や、政治家たちに天皇皇后両陛下は謁見するべく、正殿に向かわれたとのことです。皇后陛下の「マント・ド・クール」の裾は何メートルもあるので、その裾を学習院に通っている学生の中から選ばれた、特にかわいい6人の少年たちが捧げ持ったそうです。彼らの役職は「御裳捧持(おんもほうじ)」といい、紺のビロウドの制服を着ていました。半ズボンに白いタイツ、そして帽子といった装いで、『宮中五十年』 (講談社)という著書の表紙の少年たちが、まさに「御裳捧持」です。

――本当に、選ばれし雲の上の存在というか、華麗なる世界ですね。

堀江 うっとりしちゃいますよね~。戦前の女官をはじめ宮中の職員たちは、華族など選ばれた人たちだけ。一般参賀はまだありませんから、庶民が天皇皇后両陛下に新年のご挨拶をできる機会は限られており、新年に和歌を作ってお送りする程度でした。現在でも「歌会始」では、お題が毎年発表され、さまざまな歌詠みの方々のお歌が集まりますが、これは1874年(明治7年)以降の伝統です。

 さて、このような宮中生活を知るについては、良い本があります。明治天皇と昭憲皇太后に仕えた女官・山川三千子(旧姓・久世三千子)さんという女性の手記が『女官 明治宮中出仕の記』(講談社)というタイトルで文庫化されています。山川さんは女官として宮中にお勤めになる時、「どんな些細な事柄も、親兄弟にさえ話してはならないのですよ」と先輩女官から教えられたそうなのですが、何か思うことがあったらしく、1960年には『女官』と題した書籍を出版なさいました(笑)。

 サイゾーウーマンの読者には「女官」という存在に興味がある方が多いようですね。今回みたいに、ほのぼのとしているだけではすまない女官生活、“女の園”のウラ事情についても触れられているので、次回からこれをもとに少しずつお話できるとよいな、と考えています。本年も何卒、よろしくお願いいたします。