ヘンリー王子&メーガン妃、ついに離婚危機! 騒がせ夫妻の2023年まとめ(後編)

 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 今回は毎度おなじみヘンリー王子とメーガン夫人の近況を眺めていきます。

――前回から、ヘンリー王子とメーガン妃の近況についてあれこれ考察してきましたが、やっぱり雲行きがあやしいようで……。2018年のロイヤル・ウエデイングを頂点にその後は右肩下がり、最近ではついに離婚危機がささやかれるようになりました。

堀江宏樹氏(以下、堀江)英王室評論家のサラ・ロバートソンが、メーガン妃がヘンリー王子と距離を置いて、一人で活動しはじめる段階に入ったという趣旨の発言をしています。ヘンリー王子も、ガミガミうるさい妻から身をひそめるための隠れ家をすでに持っているようだという噂は根強いですよね。

――別居ですか。最近のメーガン妃は、ヘンリー王子を伴わず一人でパーティにも出席し、楽しんでいるご様子。さらにアメリカにおける四大芸能事務所のひとつであるWME社とも契約したというのです。女優復帰を考えているのでしょうか?

堀江 メーガン妃が暴露好きなのは映像業界に知れ渡っていますから、そんな人をもう一度テレビや映画業界が受け入れるとは思えません。当人も分厚い台本を覚えたりするより、もっとラクに大金を稼げるような……それこそ、オプラ・ウィンフリーのようなバラエティ番組の司会者とかそういう方面を望んでいるのでは?

 もちろん、もう少し社会問題などの好みの方向に寄せて、メーガン妃は活動するつもりだとは思いますが。

――女優時代のメーガン妃は、『スーツ』など話題のドラマに登場する程度には実力と知名度のある女優ではありましたが、ハリウッドのトップ女優として注目される存在では到底ありませんでした。

堀江 しかし、英王室のヘンリー王子と結婚することによって、彼女の知名度は全世界的なものになったのです。仮に王子と結婚せず「女優メーガン・マークル」として頑張り続けた場合の何十倍、何百倍、何千倍もの知名度を、「メーガン妃」としての約5年の活動の結果、彼女は獲得することができました。

 しかし、自身が考えるほど、彼女のプロデューサーとしての能力は高くはなかったようですね。前回も話した通り、Spotify(スポティファイ)社のポッドキャスト番組はスタートして即打ち切りになっていますし、Netflix社のドキュメンタリー番組『ハリー&メーガン』も、尺が長いだけで完成度は大したことがありませんでした。予告編においては、二人が王室とパパラッチの被害者だと主張したいがあまり、パパラッチに襲われている場面を入れ込もうとしたのですが、実はその映像は偽物だと暴露されたり、かなりイタいことになってしまっています。

――『ハリー&メーガン」の予告編の一部で、パパラッチの集団が2人にカメラのレンズを一斉に向けているように見える映像は、実際は『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』(2011年)のプレミア試写会映像の使いまわしでした。つまり、ヘンリー&メーガンの映像ですらないということですね。

堀江 彼らはメディアの被害者であるように情報操作を行おうとして、無様に失敗してしまっているわけです。

――メーガン妃とヘンリー王子は今年5月16日の夜、ニューヨークで「きわめて強引なパパラッチ」たちの車から「2時間以上」もカーチェイスされたとの被害声明を発表していますね。

堀江 パパラッチたちの集団に囲まれ、夫妻の乗っているタクシーが移動しづらかっただけ、というのが真実のようです。2時間、乗り合わせただけのお客のヘンリー王子とメーガン妃を守るため、パパラッチによる危険な追撃を交わし続けるタクシー運転手なんて、アクション映画の中にしかいないような気もします。「降りてくれ」といわれるでしょうし、ニューヨークの街中でそんな長時間、走り回れるハズがない。

――さらにヘンリー王子は6月上旬、イギリスにおいて行われた裁判において、電話の盗聴をされて個人情報が抜き取られたと、確たる証拠もないままで断言しました。おまけに証言台で声をつまらせ、涙ぐんだりして……。

堀江 現実世界とは少しズレた歪んだ世界に、彼は住み始めているのかもしれません。さすがにメンタルが心配です。

――それもメーガン妃のプロデュースミスの結果と見てよいでしょうか。

堀江 ヘンリー王子は、長身で筋肉質。タフな印象ですが、きわめて繊細で脆(もろ)い心を抱えている方です。メーガン妃と共に「英王室とその伝統に虐げられた有色人種の元・ハリウッド女優と、その夫の王子」を、リアリティショー的に演じ続けるうちに、役柄に飲み込まれてしまったのかも……。

――満身創痍にも見えるヘンリー王子に対し、メーガン妃は無傷のようですね。

堀江 彼女の本質は、誰かがクリエイトした脚本を与えられ、それを演じる女優にすぎないのです。しかし、現在は『ハリー&メーガン』というコンテンツに関しては、彼女自身がクリエイトせねばならない。その大役をメーガン妃はこなしきれていないのです。

 従来の王室批判と炎上路線では、ヘンリー王子の自伝『スペア』の評価が低迷していることからも、コンテンツとして賞味期限切れが見えてきた、とさすがの彼女も気づいているはずですが。

――メーガン妃本人も、もう少しセルフプロデュースがうまければ、ここまで嫌われることもなかったかもしれません。なにかブレーンというか、いい脚本を書いてくれる人はいなかったんでしょうか……?

堀江 メーガン妃は炎上商法の天才と呼ばれました。それで彼女は有名となりましたし、誰からも知られていないより、憎まれていても、顔と名前を覚えられているほうがいい。そういう世間からの「評価」を、彼女は鵜呑みにしてしまったのでしょう。

 ヘンリー王子が、自身のドラッグ愛好歴まで暴露した『スペア』の内容を、メーガン妃はもっと確認すべきだったという声はあります。しかし、読書家ではないヘンリー王子のかわりに、少なくとも台本を読むのには慣れているメーガン妃が、内容を逐一チェックしなかったわけがありません。

 J・R・モーリンガーというやり手のライターに依頼し、王子が話す「回想」をまとめさせたが、メーガン妃は「スキャンダルも名声のうち」といういつもの感覚でドラッグ関係のエピソードもカットさせなかったのではないかな……と考えられます。しかし、結果はメーガン妃の期待を裏切るもので、世間をただ呆れさせてしまっただけのようです。

――あるいはヘンリー王子を故意に落ち目にさせ、その時期に自分が芸能事務所に再所属する。そして芸能ビジネスへの本格復帰を目指そうと動き出す……などのプランが彼女にはあったのかもしれません。

堀江 メーガン妃ならやりかねないニオイはしますよね。その一方でヘンリー王子は、イギリスの家族に、大変な不義理を重ねています。

――先日のロンドンで開かれた裁判では、王室を指す時、「機関」という単語を使い、突き放して表現したようです。

堀江 かつては「毒になる親」チャールズ王に翻弄された結果、父親にとってのヘンリーは「毒になる子」になったことがすべての原因なのですが、ヘンリーがいつまでも過去を乗り越えた大人になれていないところも大きな問題なのでしょう。今や、被害者を名乗る加害者となり果てているようにも見える。

 そんな病めるヘンリー王子にとって、最大の理解者を演じ続けてくれたメーガン妃は、理想のパートナーになれたのだと思います。しかし、二人の蜜月も終わりが近づいている印象ですね。ヘンリー王子の名声に寄生しているうち、自らも名声を手に入れたメーガン妃は、自力で羽ばたける段階に入りました。

――あの派手好きな夫妻が結婚5年目を祝うパーティを、なぜか今年は行わなかったようです。

堀江 もはやメーガン妃は自分が目立つために、ヘンリー王子と一緒にいる必要はないと判断したのかもしれません。ここで、ヘンリー王子の前に、以前のメーガン妃同様に「よき理解者」を演じてくれる女性が登場すれば、5年目の浮気ならぬ5年目の離婚の可能性も濃厚となってくるかも。そうすれば、彼らのリアリティショーも低迷から一転、面白くなりますね。

 本当にメーガン妃がこの先、芸能事務所に籍を置きつつ、クリエイターとしてもやっていくつもりなら、それくらい仕掛けてほしいものですよ!

――不穏な結びになってしまいましたが、半年前にはまったく考えられなかった方向に突き進んでいくハリー&メーガンの行方を、これからもウォッチしていきたいものです。

ヘンリー王子、自伝でドラッグ告白! メーガン妃の迷走際立つお騒がせ夫妻の近況(前編)

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――2023年も半分が終わりましたが、最近のヘンリー王子とメーガン妃については、どのようにご覧になっていますか?

堀江宏樹氏(以下、堀江)混迷、ですね。Spotify(スポティファイ)社から2000万ドル(約29億円)もの報酬と引き換えに、ポッドキャストのトーク番組を制作する契約をしていたメーガン妃とヘンリー王子ですが、6月15日にわずか1シーズンで打ち切られてしまったことが話題となりました。

 表向きには、巨額の報酬に足る数、内容の番組を、メーガン妃とヘンリー王子が制作しなかった。もしくは制作できなかったことを問題視したSpotify社が、契約を打ち切ったとされていますが、単純に人気がなかったのでしょう。打ち切りが公表された直後、厳しい表情のメーガン妃の写真が報道され、夫妻の芸能関係のプロデュースは、大方の想像通り、彼女がしているとピンときた人も多いと思います。

――Spotify社の幹部でもあるビル・シモンズからはさらに「ペテン師」とまで攻撃されています。

堀江 シモンズいわく「『メーガンとヘンリーがSpotifyを去る』という交渉に、私も関わりたかった」。さらに「酔っ払っているときなら、ポッドキャストのアイデアについてヘンリーとZoomで話した時のことを話そう。私の最高のストーリーの1つだ」などと発言しており、ヘンリー王子との打ち合わせで決まった内容を、メーガン妃が妨害して作らせなかったという背景も透けて見えるようです。有言不実行だからペテン師。まぁ、この番組を僕は聞いていないので、なんともいえないのですが……。

――Netflix社との契約は続いているようですが、この先、どうなることやら……。かつては「炎上商法の天才」と呼ばれてきたメーガン妃ですが、従来の方向では行き詰まりが見えてきたようですね。

堀江 もともと炎上商法コンテンツを作ることで、儲け続けるつもりはなかったのかもしれません。ヘンリー王子とメーガン妃が、テレビ番組のインタビューに答え、イギリスの王室から人種差別を受けたなどと訴え、世界中の注目を浴びたCBS放送『オプラ・ウィンフリー・ショー』のときは、夫妻はギャラを一銭も受け取っておらず、テレビ会社からの報酬はすべてオプラの会社に入金されたというニュースも目にしました。

――そうだったんですか!? でもその後、ヘンリー王子とメーガン妃は、それこそNetflix社の『ハリー&メーガン』というドキュメンタリーのタイトルばりに、二人でコンビを組み、英王室に対する不満を世間にぶちまけ続ける見返りとして、巨額のギャラを受け取るようになったのは事実ですよね。

堀江 はい。ただ、夫妻の中にも、本当に炎上商法で食べていくことに対する躊躇(ちゅうちょ)はあったと思います。メーガン妃が、ヘンリー王子が想像以上に金を持っておらず、「すくなくとも億単位の資産があると思っていたのに……」と発言をしたことも話題になりましたが、本当に稼げるセレブ相手の派手な生活を維持するには、炎上商法しか手段がなかったというウラ事情があるのでしょうね。

 興味深いのが、イギリス王室の公務を引退しアメリカに移住した際、夫妻はアーチウェル財団という団体を設立したのですが、この財団は当初、彼らの慈善活動などの拠点となると説明されていたはずです。しかし今年の3月に、ヘンリー王子とメーガン妃夫妻が1週間あたり1時間しか慈善活動には携わっていない記録が暴露されています。

 今から遡ること、4年ほど前の雑誌「ELLE」(2019年10月号/ハースト婦人画報社)において、「ロイヤルウーマンたちの社会貢献」と題された記事が掲載されているのですが、ここで取り上げられている、メーガン妃のまともなこと!

 ヘンリー王子との結婚前から、社会活動に熱心だったメーガン妃は、「インドでは月経が始まると学校に衛生設備がないため中退してしまう少女たちが多い」と知って、インドの教育機関に働きかけ、衛生設備の設置を目指す運動をしていることが書かれています。

――社会活動に熱心だったころの話を聞くたびに、ただのスキャンダルメイカーになってしまった現在との隔世の感がありますね。

堀江 本当に彼らは「芸風」について考え直したほうがよいですよね。昨年、ヘンリー王子が出版して不評を買った自伝『SPARE』は、優秀なゴーストライターとして知られるJ・R・モーリンガーという人物に依頼して書かせた(らしい)本なのですけれど、メーガン妃がエリザベス女王に対面した際、膝を深く折って「カーテシー」と宮廷で呼ばれる古風なお辞儀をきれいにできたので、その場にいた人々から褒められた……などとあるんですよね。

――Netflix社で制作された『ヘンリー&メーガン』という番組において、女王に対するカーテシーや、それを作法通り行う人たちのことを「中世みたい!」と小馬鹿にして、大炎上したメーガン妃なのに? と思う方も多いでしょうが、あれには彼女なりの計算があったのでしょうね。

堀江 メーガン妃の計算では、あの場面では旧弊な王室を攻撃し、若い世代からの共感を呼ぶつもりだったのでしょうが、世界中から叩かれまくったので「やっぱり、私もちゃんとできていたという風に訂正させよう」と変心したのかもしれません。「あまり好んで読書しない」と公言しているヘンリー王子ですし、あの『SPARE』という本のプロデューサーも、メーガンであると見たほうがいいでしょうから、彼女に都合よいようにいろいろと変更されたのだと考えられます。

――しかし、同書において、ヘンリー王子はなぜかドラッグ愛好者だった過去まで堂々と公言、違法薬物に厳しいアメリカでの生活ができなくなるのではないか? という報道もありました。

堀江 ドラッグの使用という過去のあやまちを告白して、王族とて一人の弱い人間だと訴えたかったのでしょうか。しかも、かつて非常に人気があったドラマ『フレンズ』に出演していた女優コートニー・コックスの邸宅にヘンリー王子が宿泊して、そこで怪しいキノコ入りのチョコをパクついて、自分の顔が歪んで見えるほどのドラッグ体験をした……とか、あれだけ自分のプライバシーにうるさいのに、他人のプライバシーには無頓着なところには失笑してしまいます。

 このようなスタンスの『SPARE』は英語圏内において、発売1日で40万部も売り上げるなど好成績だったようですが、ヘンリー王子の好感度はさらに下がってしまいました。これもおそらくメーガン妃のミスプロデュースだったように思いますが、そのメーガン妃がヘンリー王子と距離を置き始めたという報道が、6月になってから出始めているんですね。非常に興味深い話なので、深掘りしようと思います。

 次回に続きます。

『皇室アルバム』カメラマンの証言から読み解く!“メディアと皇族”関係性悪化の歴史

 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――テレビ好き、映画好きで知られる昭和天皇。とくに晩年、天皇の身辺に仕えていた侍従の卜部亮吾さんが「陛下(=昭和天皇)は皇室アルバムの大変熱心な視聴者であられ、都合で観られない時にはビデオにとって必ずご覧になっている」(「天皇一家を60年記録する民放番組『皇室アルバム』制作者が語る、時代とともに変わる皇室とメディアの距離感」/「ORICON NEWS」2019年3月14日)と公言するほどでした。そもそも『皇室アルバム』(TBS系)とは、いったいどのような方々の手で、作られている番組なのでしょうか?

堀江宏樹氏(以下、堀江)一貫して毎日新聞社の子会社である「毎日映画社」で制作されています。もともと宮内庁のOBが始めた会社などというわけでもなければ、名門出の子弟・子女が集う会社というわけでもなさそうですね。

――ちょっと意外ですね。

堀江 同社が『皇室アルバム』を請け負うようになった経緯は公表されていませんが、昭和45年(1970年)から、カメラマンとして制作に携わっておられる大谷丕昭(おおたに・ひろあき)さんの証言が過去に何度か雑誌やテレビ番組の中で紹介されています。

 平成2年(1990年)の雑誌記事によると、この時点で「入社二十年目」と紹介されている大谷さんの経歴の詳細は書かれていないものの、昭和23年(1948年)生まれであろうと想像されます(「ご成婚スペシャル おめでとう 秋篠宮さま・紀子さま」/「サンデー毎日」1990年7月15日号)。大学を卒業してすぐに毎日映画社に入社なさって、その後、ずっと『皇室アルバム』にかかわってきたので、皇室の方々との距離感がきわめて近いのですね。

 例えば秋篠宮さまはご成人までは「礼宮さま」と呼ばれていらしたのですけれど、大谷さんは「アヤちゃん」と呼ぶほどの“親しさ”でした。時には、セパタクローという当時の日本ではあまり知られていなかった競技を、秋篠宮さまから誘われて大谷さんもプレーしたこともあったそうです。

 撮影中にも秋篠宮さまが「大谷さん、久しぶりです。お元気でしたか」などと話しかけながら近づいてくることもあったそうで、それはさすがに「何も足さない、何も引かない」姿勢で皇族方を取材する『皇室アルバム』の撮影基準でも、残念ながらボツ映像になってしまったとのこと。

――逆に特ダネだった気もしますが……。秋篠宮さまと長年親交がある記者として、江森敬治さんが『秋篠宮』(小学館)などのご著書をまとめられましたが、それ以上の深い話が大谷さんからは引き出せそうですよね。

堀江 実際、秋篠宮さまが紀子さまに熱烈な恋をしていたとき、すでに大谷さんは「宮さまの結婚相手はこの女性だ」とピンと来ていたそうです。会話の端々に「紀子ちゃん、紀子ちゃん」という名が出てきたと大谷さんはおっしゃるのですが、そんなことがわかってしまうほど、秋篠宮さまはずっとカメラを回されている、つまり現在の“リアリティショー”を先取りするような環境でお育ちになったということかもしれません。

 しかし、当時はメディアのほうが……あるいは『皇室アルバム』の毎日映画社という会社の品格なのかもしれませんが、婚約発表まで公表は慎もうという態度で接しておられたそうです。

――メディア側が、現在では考えられないような、紳士的な対応を見せていたのですね!

堀江 先日、とある雑誌で秋篠宮家を秘密主義だとする記事が出たようですが、少なくとも平成初期の秋篠宮さまは「お兄さま(現・天皇陛下)の皇太子さまなら、決してしないような、そんなこと(=カメラマンにも親しげな反応)をされる方です」とありますので、最近は取材者としてのメディア側、もしくは皇族がたの両方に大きな変化があったのでしょうね。

――毎日映画社で『皇室アルバム』制作に携わる小金沢輝明さんという方によると、平成5年(1993年)頃、皇太子さま(現・天皇陛下)と雅子さまのご婚約発表あたりから、映像撮影の時間やアングルに厳しい制限が(おそらく宮内庁側から)課されるようになったとのこと。

堀江 もう少し、報じる側のメディアと、報じられる側の皇族がたに亀裂が深まった背景を深掘りした情報があるとよかったのですが、その背景が具体的にわかる記事が見つかりませんでした。良心的なテレビ番組を代表する『皇室アルバム』の名カメラマン・大谷さんが、皇族方のプライバシーについて、自発的に(?)口をつぐむようになった事態にこそ、すべてが集約されているのかもしれませんが……。

 大谷さんによると、『皇室アルバム』用に皇族方が展覧会においでになったところを撮影するなら「(以前は)入られてからお帰りになるまで撮影できましたが、今は入場してから二分間だけとか、後ろ姿はだめとか、すべてにおいて厳しくなっています」。この厳しすぎる基準こそ、現在の宮内庁、ひいては皇族がたのメディアへの不信感のあらわれなのでしょうか。

――なぜ後ろ姿が撮影NGなのか、ちょっと疑問ですよね。ここ30年の皇室番組、皇室報道のマンネリ化と、そして一部の報道の過激化につながっているのは、宮内庁が皇族がたと国民の間に入ってしまって、情報の出し惜しみをするようになった部分も大きいかもしれませんね。

堀江 そうですね。何がそういう制限のきっかけとなったのか、興味深いですよね。かつては暴風雨に見舞われ、帽子や傘が吹き飛んでしまう昭和天皇のお姿を撮影し、それが堂々と放送されていた時代もありましたが、このように比較的自由な皇室報道がなされていた昭和を経て、平成以降はプライバシー問題などにかこつけ、報道内容に制限をかけたことで、皇族がたの“神秘化”が再び行われていったとも考えられますね。

 また、“神秘化”=“神聖化”ともいえます。近年では、小室圭さんが眞子さんのお相手にふさわしいのかどうかという日本中を揺るがす議論も、逆に昭和の頃なら、発生しづらかったのかもしれない……などと感じてしまいました。

――この問題についても、カメラマン・大谷さんはなにかご存知かもしれません。しかし、完全に沈黙を守っておられます。

堀江 それこそ、民放最長寿番組である『皇室アルバム』の制作者にふさわしい格調高さの反映でしょうか。最近になって、宮内庁が新設した「広報室」が稼働しはじめたようです。しかし、初代室長は、警察庁出身の藤原麻衣子氏ということで、そのご経歴からして、ものものしい感じがします。

 国民に皇族がたの情報を伝える既存のフォーマットとして、いずれも民放番組ではありますけれど『皇室アルバム』をはじめ、地上波では現在3つの「皇室番組」がレギュラーで放送中です。早朝の放送で『皇室アルバム』同様に高齢者以外に視聴者を想定していないようではありますが、フジテレビの『皇室ご一家』と日本テレビの『皇室日記』です。後者は92年に放送開始した『皇室グラフィティ』を前身に持ちます。

――前身番組のほうが、なんだか新しい空気感を反映したタイトルですね。

堀江 おそらく“若き皇族”として秋篠宮さまと紀子さまの人気が高かった当時に、新しい皇室番組を目指して開始されたのでしょうけれど、90年代前半の宮内庁が打ち出した、皇族方を撮影する際の厳格なルールが災いして、保守化せざるをえなかったのではないかと思われます。

 地上波での3つの番組に加え、BSフジで「皇室のこころ」がレギュラー放送され、テレ東では「皇室の窓」が不定期放送されています。宮内庁内に新設された「広報室」が独自に情報発信することも結構ですが、これらの「皇室番組」の再活用も考えられていくとよいですね。

昭和天皇は朝ドラ『純ちゃんの応援歌』のファンだった! 皇室が愛したテレビドラマたち

 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――前回からご長寿番組『皇室アルバム』と天皇家の関係について考察してきました。昭和40年代、ソニーから世界初の家庭用ビデオレコーダーシステムが発売されましたが、その価格は現在の貨幣価値でなんと100万円くらいに相当。しかし、侍従を通じて『皇室アルバム』のファンであることを公言するだけでなく、大のテレビ好きだった昭和天皇は惜しげもなく、それらを、しかも複数台購入なさっています。しかし、予約録画は宮内庁の侍従の方々の仕事だったとか……。

堀江宏樹氏(以下、堀江)侍従の方も忙しいときは録画を忘れる、もしくは失敗するというミスを犯すこともあったそうですが、謝罪を受けた昭和天皇が興味深いコメントをお残しになっていて、「カラーのがくるからいいよ テレビ局の方にはいわなくてよい カラーでみた方がよいと寛大なお思召しに感激する」(『昭和天皇最後の側近 卜部亮吾侍従日記』)と。天皇陛下も内心がっかりなさったでしょうけど、周囲の方々にはお優しかったのですね。

――「カラー」とはどういうことでしょうか?

堀江 私が調べた範囲ですが、昭和40年代のテレビ放送はすでにカラーだったのですが、録画用のビデオテープには白黒とカラーの両方あったようで、白黒のほうがお安かったようなのです。ですから、昭和天皇は節約として、日常的な録画は白黒テープで行っていたということではないでしょうか。

 そして「カラー」というのはカラーのビデオテープで録画されたものを指すのでしょう。おそらく、『皇室アルバム』など最重要録画番組などは、別の環境で、ご家族のどなたか、別の誰かに録画させていたのではないでしょうか。いずれにせよ、天皇が『皇室アルバム』の熱心なファンであったことがうかがえる一節で、非常に興味深いですね。

――ほかに昭和天皇が熱心に視聴していたとされるテレビ番組はありますか?

堀江 『水戸黄門』(昭和44年=1969年~)や『大岡越前』(昭和45年=1970年~)という「勧善懲悪モノ」の時代劇も大好きでいらっしゃったそうです。そして注目すべきはNHKの「朝の連続テレビ小説」、いわゆる「朝ドラ」の熱烈なファンで、亡くなる寸前まで、山口智子さんや、唐沢寿明さんが出演した『純ちゃんの応援歌』を楽しまれていたそうです。放送途中で天皇は崩御なさったので、最終回まではご覧になれませんでしたが……。

――天皇陛下と「朝ドラ」って、なかなか意外な取り合わせですね。

堀江 そうですよね。コメディドラマの類も、かなり好んで見ておられたようです。晩年の昭和天皇にお仕えした侍従の一人、中村賢二郎さんの著書『吹上の季節―最後の侍従が見た昭和天皇』には、「毎週火曜日夜八時TBS放送の『遊びじゃないのよこの恋は』がチャールズ皇太子両殿下宮中晩餐会の中継放送のため休みとなる旨を申し上げると『(昭和天皇は)そう聞いていた。』と仰る。いつ聞かれたのか」とあります。

 このドラマ、正確には『遊びじゃないのよ、この恋は』(TBS系列/)というタイトルで、昭和61年に放送されました。井森美幸さんがヒロイン・デビューをとげたラブコメディです。ウィキペディアによると「ベテラン刑事を父に持つ新米婦人警官と、足を洗い医者を目指そうとする若きヤクザの素朴な純愛をコミカルタッチで描いている」内容だとか。

――昭和天皇がこのドラマの放送スケジュールを、さまざまな人から聞いて、そこまで注目していたことはすごいと思いますね(笑)。余談ですが、井森美幸さんは第9回「ホリプロタレントスカウトキャラバン」のグランプリで、オーディション中、伝説となった「井森ダンス」を披露したことで知られています。そして、満を持して『遊びじゃないのよ、この恋は』でデビューなさっているのですよね。

堀江 昭和天皇からも注目されてしまう、強い輝きが当時の井森さんにあったのでしょうか……。

――ほかには昭和天皇は映画もお好きだったと聞いています。お忍びで映画館まで足を運ばれたのでしょうか?

堀江 さすがに映画館ではありませんが、皇居の中に、映画フィルムを再生できるホールがあって、それをご利用だったようです。吹上御所の玄関ホールには映写設備がありました。また、当時の宮内庁の庁舎3階の講堂はふだんは記者会見などに使われていたそうですが、映写設備もあったので、天皇陛下のための映画館にもなったのだとか。

 以前はレンタルビデオのお店が街のあちこちにありましたよね。しかし、昭和天皇は、当時の庶民がビデオテープをレンタルしたように、映画会社からフィルムを借りてご覧になっています。

 昭和45年度(1970年)に天皇がご覧になった映画は、なんと200本以上。20世紀フォックス社からは1本につき300円のレンタル代で、52回。現在の貨幣価値で換算すれば、2000円前後といえるでしょうか。意外にお値打ち価格のような気がします。ほかには、日本映画新社、読売映画社、理研映画社の各社からも同じ料金で52回分のフィルムのレンタルを行ったそうです。娯楽映画もご覧になったようですが、記録映画、ニュース映画などをとにかく好んでおられたとのこと。

――年間200本もの映画をご覧であったというと、映画評論家になれるくらい、映画がお好きだったということですね。

堀江 そういえるでしょう。録画したテレビ番組は就寝前のリラックスタイムにご覧になっていたという記録がありますが、映画鑑賞は、昼間のご公務の合間でしょうか。娯楽作品より科学映画、そして記録映画がかなり多いことを考えると、社会情勢を知る窓口として、映画を利用していただけでなく、昭和天皇の中で、日常的なテレビのニュースより、映画というメディアへの信頼度が高かったと考えられます。

 映画を見に行ったら、ニュース映画が本編の“前座”として上映されたりしていた、戦前の習慣が戦後も残っていたともいえるでしょうが……。

昭和天皇も熱心な視聴者だった? 民放最長寿番組『皇室アルバム』の歴史的背景を考察

 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――昭和34年(1959年)10月の放送開始から、今年で64年という民放最長寿番組の伝統を誇る『皇室アルバム』(現在の毎日放送)について、考察していこうと思います。実はこの番組、昭和天皇も熱烈なファンでいらしたとか?

堀江宏樹氏(以下、堀江) 放送開始した年の4月に上皇さまのご成婚という歴史的な慶事があり、戦後低迷していた皇室人気がV字回復したといわれています。放送は毎週月曜日、夜21時45分からの15分間で、毎週欠かさず放送され、その頃の視聴率は20%を超えていたそうです。昭和50年(1975年)の3月末までの放送時間は、21時台~22時台というプライムタイム帯に設定されました。視聴率は初期に公開されただけで、その後は秘密にされているようですが、プライムタイムで放送されていた頃は、それなりの数字をあげていたのでしょう。

――『皇室アルバム』といえば、今だと早朝にやっているイメージですよね。しかし、この頃からメイン視聴者は高齢者に想定されていたとか?

堀江 当時の日本人の家庭生活といえば、一家につきテレビ一台でしょう。番組にチャンネルを合わせるのが高齢者であったところで、寝る前の一家団らんの時間に、お茶の間で家族みんなで『皇室アルバム』を見てから、みんなで就寝していたという感じでしょうか。

 番組の放送時間が朝に変わったのは、昭和52年(1977年)4月から。土曜日の朝9時半からの15分番組となりました。平成15年(2003年)3月まではこの時間帯に放送され、同年4月から今日までは、日曜日朝6時半というさらに早朝の時間帯に移動して放送され続けています(関東地区では土曜5時15分~)。

 興味深いのは民放の番組であるにもかかわらず、視聴率に関係なくスポンサーがいる限り、作り続けねばならない番組という位置づけであることです。テレビ局の関係者に視聴率を聞いても「別の部署に聞いてくれ」とタライ回しにされたり、回答をはっきり拒否されるそうですよ(笑)。

――現在でも「菊のカーテン」で手厚く守られているのですね。そんな『皇室アルバム』のスポンサーというと?

堀江 時代を反映し、かなりの移り変わりがあります。ある調査によると「70年までは日本生命の一社提供、80年代~(20)03年までは高島屋の一社提供、その後、資生堂の一社提供となった。しかし、10年頃からは、TBSではドクターリセラの一社提供、制作局である毎日放送では皇潤とドクターリセラの2社提供、そして地方局ではローカルスポンサーをつける場合も」(『皇室アルバム』は寿命を伸ばせるか!? 今、必ず見るべき!?皇室番組レビュー/「月刊サイゾー」2012年01月号)とあります。平成22年(2010年)頃に、番組の存続危機があったのかもしれませんね。

――放送当初から、昭和天皇は『皇室アルバム』の熱心な視聴者だったようですね?

堀江 昭和天皇にとっては、戦後、国民からの皇室支持率の上昇を肌で感じられるうれしい番組だったのではないでしょうか。当初は皇族方の肉声を伝える番組づくりを目指していたようです。資料を見ていると、90年代くらいまでは、皇族の方々を撮影する際の基準も、現在に比べるとかなりゆるく、自由だったようです。

 昭和36年(1961年)には、秋田の国体に昭和天皇が出向かれたのですが、激しい雨風に晒され、駅のホームで突風にも見舞われたため、お帽子が飛びそうに……。昭和30~40年頃に『皇室アルバム』の映像制作担当の毎日映画社の堀内泰子さんという方の証言ですが、あわてて天皇が左手で帽子を押さえたところ、右手の傘が壊れ、変形してしまったそうです(『皇室アルバム』ロングランの舞台裏/『週刊現代』1965年9月発売号)。しかし、放送ではそのままの映像を流したそうですよ。

――台風のときの天気予報コーナーのレポーターみたいなトラブルに昭和天皇も巻き込まれておいでだったんですね。あきらかに放送事故なのに、どうしてそんな映像を流したのかと宮内庁がクレームを入れてきそうですが……?

堀江 放送を見た昭和天皇が「おもしろい映像だったね」とおっしゃったことで、宮内庁からの抗議はなかったといわれています。

「この番組(『皇室アルバム』)は、何も足さず、何も引かずをコンセプトとしてきました」(「皇室アルバム」を救った昭和天皇の一言/「文藝春秋」3月号 2012年02月10日発売)との関係者の証言通り、昭和40年代は、現在の天皇陛下(当時、浩宮さま)が小学生の時代で、毎年夏は浜名湖(静岡県)で水泳をしたり、ソフトボールをしていたそうなのです。遊び相手は地元の子どもたちでした。

 雅子さまとご結婚後、浩宮さまが静岡を訪問したとき、昔の遊び相手だった小学生たちも招かれ、両殿下と旧交を温めたエピソードもあります。ヒットを打って一塁に走ってきた浩宮さまに足を踏まれてしまったという男性のトークも再対面の場で披露され、みなさん、笑顔になったとか。『皇室アルバム』の映像アーカイブで調べたら、本当に浩宮さまがその子の足を踏んでいたそうです。

――本当に皇室の方の生活を、カメラでかなりの長時間、撮影することが許されていた時代があったのですね。

堀江 現在は、プライバシーの問題とか、コンプライアンスが厳しくなって、撮影許可のない子どもは撮ってはいけないそうで、愛子さまの運動会の映像も、お一人で走っている姿しか撮れないそうです。映像のマンネリ化はどうしてもまぬがれず、番組の行く末が気になりますね……。

――それとは対照的だったのが、放送開始直後の昭和の『皇室アルバム』でしたから、昭和天皇も欠かさず、熱心にご覧になっていたのでしょうね。

堀江 そうですね。それと昭和天皇は、公人としての自覚が大変におありでした。ご自分の立ち居振る舞いが、天皇としてふさわしいものであるかをチェックするためのツールとして、『皇室アルバム』を重視していたとも考えられます。

 昭和天皇はスピーチをするとなると、テープレコーダーで録音し、何度もリハーサルしておられたという記録もあります(奥野修司『極秘資料が語る皇室財産』、以下『皇室財産』)。現在ならスマホでも撮影できてしまいますが、昭和後期の家電技術では動画撮影は気軽には難しかったようです。

 まぁ、そもそも昭和天皇の「テレビ好き」は超有名で、昭和40年代、かなりの額の設備投資をして、家庭用に発売開始されたソニーのビデオレコーダーを一式でご購入という記録があります。昭和43年(1968年)には「御用度費」として、「ソニービデオレコーダー一式」を31万3000円で購入なさいました。これは世界初の家庭用ビデオレコーダー「CV-2000」であろうと推測されます。

 それから、昭和45年(1970年)には「ソニービデオデンスケ」も33万5000円でご購入との記録もあります。これは「ポータブルビデオレコーダー(DVK-2400)」のことだそうですが、当時の大卒の国家公務員の初任給は昭和43年で2万3996円~2万5302円程度。昭和40年代の1万円は、現在の6~8万円との説もあり、そうなると大卒のお役人の月給10倍以上、ヘタしたら年収くらいにも相当する家電を2つも購入、並行して使っていたことなりますね(以上『皇室財産』)。昭和天皇はいわゆる「ソニー派」でいらしたご様子です。

――ポータブルビデオレコーダーとは? 聞き慣れない単語ですね。

堀江 調べてみたら、ポータブルビデオレコーダーとは、いわゆる「8ミリビデオカメラ」の先祖というべき家庭用の撮影機材でした。DVK-2400は肩掛けの本体にケーブルでビデオカメラを繋いで使っていたようです。ご自身が被写体になることだけでなく、映像を撮影することにも強い興味がおありだったのですね。ただ、天皇がご自分でこれをお使いになっていたかは不明です。

 ビデオレコーダーのほうも、昭和天皇はご自分では録画予約はなさらず、『皇室アルバム』などの録画担当は侍従たちだったようですが、時々忘れてしまったり、録画できていなかったりしたそうです。その時の天皇の反応などはまた次回に……。

昭和天皇は大量の整髪料を消費していた? 知られざる天皇家の“みだしなみ事情”

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――前回までは、昭和天皇のプライベートマネーの使い方を探ってきました。中でも元・皇女の方々に対する、金銭支援には驚きました。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 今回の一連のお話で参考にさせていただいている奥野修司さんの著書『極秘資料は語る 皇室財産』(文藝春秋、以下『皇室財産』)によると、それは京都の伝統文化ではないかとのことでしたが、長年、京都在住だった故・瀬戸内寂聴さんが、祇園などの花街には愛情や好意といった目に見えないものを、お金という目に見える形で贈ることが文化として確立されているとお話になっていたのを思い出してしまいました。

 高級な旅館に泊まるときは「心付け」と称したお金を、仲居さんにお渡しする習慣は、現在でも比較的多くの層に残っているとは思いますね。

――ただ、元・皇女の方々への昭和天皇の金銭支援は、庶民には異次元の規模でしたね。

堀江 あれらの出費が天皇家のプライベートマネーである「内廷費」の中から行われていたのは興味深いです。戦後は、宮内庁OBの方が私的に筆写したリストが流出するようなことがない限り、われわれはその使い道について知る術がなかったので……。

――戦後とおっしゃいましたが、戦前は公開されていたのですか? 意外です。

堀江 そうですね、少しずつ公開されていたようです。ただ、戦前の天皇家は、宮内庁の職員に委託する形ですが、株式や証券などに賢く投資し、現在のお金で何千億円の規模の年収が毎年ありました。

 たしかに元本は公金といえるお金ですが、自分で稼いでいるので、他人から使い道をとやかくいわれる筋合いがないといえます。だから、堂々と公開できたのでしょうね。他にも昭和天皇が何を必要とされていたかを、内廷費のリストからは知ることができます。

――謎に包まれた皇族の私生活に触れることができますね。

堀江 はい。お金の使い道ほどその人らしさを雄弁に語るものはありません。今回はより生活に密着した出費についてお話しましょう。

 前回は昭和天皇ご夫妻の「御服費」について触れましたが、これはスーツやアウター、儀式で着用なさる御装束など高額の品が中心でした。

 昭和天皇の侍従だった、戸原辰治さんの遺品にあった資料「内廷会計歳出予算概算要求書」(昭和44-45年度)によると、それ以外の衣服についての記録もあります。ワイシャツ、ネクタイ、靴下、帽子、靴などは「御服費」とは別に「御身廻品」として分類されているのが興味深いですね。興味深いのは1年分としてスリッパが12足計上されていること。

――1カ月に1足ですか?

堀江 御所は建物が半端なく広く、お部屋からお部屋に移動といっても、庶民の家の比にならないくらいの距離をウォーキングなさるからだと思いますよ。ただ、昭和天皇はきわめて節約意識の高い方で、ボロボロになったスリッパを周囲が「交換なさったら」というと、「まだ履ける」とお怒りだったとか……。だから、12足というのは周囲がそれくらいに一度はお替えいただきたいという周囲の願いにすぎないのかもしれません。

 他にも「いかにも御所らしい出費」と思われたのは、やや大量だと思われる蚊取り線香です。1年で5箱くらい。昭和43年までは蚊取り線香で、それ以降はベープマットになっているのですが、それでも1年で3箱くらいの消費量だったそうです。

――蚊取り線香ですか。御所の周辺は自然豊かですからね……。

堀江 今でも皇居では蛍が見られるといわれ、そういう風流な側面だけ強調されているけれど、蛍がいれば当然のように蚊もすごいでしょうし[F1] 、宮内庁の方によると、クモやヤスデもすごく多いのだとか。夏に外を散策すると、天皇といえども蚊の猛襲を受けてしまうそうで、宮内庁のお役人が見ているだけでも、蚊が、傍目にもハッキリと見えるほど、陛下にたかっているのがわかったそうです。

――逆に言うと、江戸時代の徳川将軍家の人々も同じように蚊には悩まされていたということでしょうね。

堀江 そうですね。いわゆる江戸城(江戸時代には、江城、千代田城と呼ばれていました)の跡地に現在の皇居がありますから、その手の虫に悩まされる生活事情は同じでしょう。江戸時代では夏になると、大奥の部屋に巨大な蚊帳が吊るされ、その中で生活していたようなものだという話を聞いたことがありますよ。

 お話を戻して、いかにも皇族らしい出費として興味深かったのは、大量の整髪料を昭和天皇が使っておられたということです。それも、「チック」という種類の整髪料をご愛用でした。

――チックですか! 女性の間ではタイトなお団子ヘアにするとき、一糸乱れぬように髪の毛をピシッと整えるのにうってつけだと評判になり、リバイバルブームが最近は起きているようですが……。

堀江 昭和天皇は、そのチックを年間10本も消費なさったそうです。僕はこの整髪料について知りませんでしたが、ポマードよりも強い整髪力がある一方、普通にシャンプーしただけでは落ちにくいそうですね。そのせいか、昭和天皇がご愛用だったシャンプーは「オイルシャンプー」だったので、みなさんが化粧落としをする感覚で、頭髪を洗っていたのでしょう。

――なぜ昭和天皇は、チックをそこまでしてご愛用だったのでしょうか?

堀江 その疑問への回答として、『皇室財産』には、平成29年まで上皇さまの理髪師を、10年間勤めた大場隆吉さんの談話の情報が引用されています。

 いわく「どんなに御髪が乱れても、人前で触って直されることは(マナーの観点から)絶対にありません」とのこと。上皇さまご愛用の整髪料は資生堂の「ブラバス」というヘアリキッドで、「髪がベタベタになるほどおつけになります」とのこと。4回、つけては乾かし、つけては乾かしをして整えておられたようですね。

 昭和後期、秋篠宮さま(当時、礼宮さま)の乱れた髪を紀子さまが直してあげている写真が話題になったので、皇族たる者、髪の毛はピシッと固めねばならないというルールは若い世代には引き継がれていないのかもしれません。

――廃れる習慣というものも、伝統重視の皇族の生活にもやはりあるということでしょうね。皇后さまはどんな化粧品などをお使いだったのか、記録はありますか?

堀江 はい。しかし、皇后さまという高い地位の方にしては、ずいぶんと質素でびっくりしたのです。経費でいうと「クリーム5種12個(単価1800円)」というのが基礎化粧品を指しているらしくて、おそらく朝用・夜用の美容液の類も含まれているのだろうと推察します。

――それにしても、ひとつあたり2000円前後の基礎化粧品や口紅ですか。当時、私の祖母や母でもそれくらいは使っていた気がしますよ。

堀江 口紅は1本当時の価格で1500円。これを1年で3本。ほかには整髪料として、「加美の素(※正確な製品名は加美乃素)」など。加美乃素シリーズは、皇后さまのお気に入りだったようです。昭和後期になると、ハイクラスな化粧品がどんどん登場しましたが、そういうものはお使いにならなかったようです。

 対照的な話になりますが、19世紀末のオーストリアのエリザベート皇后は美容に命をかけていたこともあって、化粧品などはほぼすべてが特注品でした。具体的な金額はわかりませんが、それと比べると驚くほど堅実でいらっしゃいますね。

 化粧品というものは、化学の研究の進歩とともに、20世紀後半になって飛躍的に品質向上し、値段も一気に下がったのです。エリザベートやマリー・アントワネットは、現代日本のコンビニ化粧品の足元にも及ばないレベルの化粧品しか使えなかったという話があるのですが、エリザベートがウィーン宮廷薬局に特注した基礎化粧品のクリームも、レシピを見ると、バラ水にラノリンや無塩バターをくわえて撹拌(かくはん)したものにすぎず、昭和の皇后さまは値段はリーズナブルでも、確実にそれ以上のクオリティの美容ライフを送っておられたのではないかと思うんですけれどね……。

 今回は昭和天皇ご一家の身の回り品について、内廷費のリストから振り返りました。

天皇家は贅沢嫌い? 1年で購入したスーツは2着だけ…昭和天皇の質素なお金の使い方

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―――今なお、10億円以上の個人資産もあるとされる皇室。その一方で、毎年、国庫から天皇家に支給されている内廷費・宮廷費といったお金はどのように使われているのでしょうか?

堀江宏樹氏(以下、堀江) その前に前回までのおさらいですが、公的な出費に使われるのが宮廷費です。それとは反対に、「天皇・上皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもの」の総称が、内廷費とよばれる区分で、これが皇室のプライベートマネーといえるでしょう。特に何に使ったかを公表する必要はなく、神秘のベールで守られています。

 令和5年度の内廷費は3億2400万円で、宮廷費は61億2386万円です 。ちなみに令和3年度と内廷費は同じですが、宮廷費は激減していますね。世間の経済状況を反映するといわれますが、コロナ禍を反映ということでしょうか。これほどまでに大きな変化があるとは個人的に驚きです。

 また、世間に対して説明が必要な経費のほうが多く割り振られているところに、戦後の日本における天皇家や皇族の位置づけがうかがえますが、この秘密の内廷費について、昭和天皇の時代、昭和40年代の帳簿が発見されているのです。

 宮内庁職員の故・戸原辰治さんが、備忘録として個人的に書き写したものだと思われますが、これを見ると、いかに昭和天皇やそのご家族が、普段の生活を質素に行っておられたか、具体的にわかるのです。

――驚きました。前回や前々回では、皇室の関係者に多額のお金をばらまく独特の贈答文化があって……というお話でしたから。

堀江 私が推測するに、天皇家が身内や、自分に仕えてくれる人に多額のお金を配った目的は、「愛」の可視化なんでしょうね。その一方、ご自分は贅沢なんてしなくてよい、という感じです。他人を潤すために、身銭を切る感覚とでもいえば、おわかりになるでしょうか。

 ばらまくようなお金の使い方をする人は、贅沢好きという固定観念がありますが、昭和天皇に関しては、まったくそういうことはありません。昭和天皇の内廷費の使い道が明らかになっているのは、昭和40年代という経済が好調だった時代のものです。何千億円以上もあった戦前の収入と比べると、目減りしたという印象はあるでしょうが、株式・証券が中心だった昭和天皇の個人資産は、バブル時代にはかなり増大したと考えられます。

 しかし、天皇にはそれで贅沢していたということもありません。お金に対する感覚が、圧倒的にキレイで、超越的なんですね。おそらく、日本に一大事が起きた時のために、なるべく増やして、蓄えておこうという感覚でおられたのではないか……とも想像されます。

――そんな昭和天皇のお金遣いが、昭和後期の内廷費の使い道からわかる?

堀江 はい。ちなみに昭和40年代の1万円は、現代日本の6~8万円に相当すると、奥野修司さんの『皇室財産』(文藝春秋)では考えていますが、これら貨幣価値は、何を基準とするかで大きく変わります。日本銀行の見解では昭和40年の1万円を、今のお金に換算すると4.3万円くらいになるそうです。このように諸説あるということは最初に申し上げておきます。

 さて、前掲書によると昭和45年度、昭和天皇が内廷費のうち「御服費」で購入した衣服は「背広7着・単価6万5000円」とあります。すべて「三つ揃いの背広」で、「冬2、合3、夏2」で、三越か高島屋の外商に注文なさったそうです。担当者が皇居にやってきて、昭和天皇ご本人の衣服の趣味を熟知した、宮内庁のお役人と打ち合わせしたのでしょう。

 当時の昭和天皇はお風呂に入った後も、パジャマを着るまでの時間はスーツ姿で過ごしておられたという驚きの証言もあります。だから、毎年7着ほど新調なさっていたようですね。昭和天皇は、一着あたり9万円の上着の「オーバー」を、修繕しながら10年着続けたとか、同額の燕尾服用の「オーバー」も同様に18年間使ったといいますから、衣服を大切に扱っておられたことがわかります。

 この年の昭和天皇が買った衣服の中で、もっとも高額だったのは「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」。天皇しか着用が許されない、いわゆる「禁色(きんじき)」の装束で、当時の価格で「93万300円」。当時の1万円=現在の6万円として考えれば、558万円……。こういう装束は、儀式でしか着用なさいませんが、クリーニングはできない布地ですから、傷んだとなれば、買い替えをするしかないのでしょうね。

――皇后さまがどんな服をお求めになられたかという記録はありますか?

堀江 この年の皇后さま(香淳皇后)も「スーツ」を外商で購入し、一着あたり6万円払った記録があります。しかし、年間で「スーツ」の新調は2着、「ワンピース」が3枚、「ツーピース」が2着だけですね。

――皇族方は写真に映るたびに違う服を着ておられる印象です。当時の皇后さまが新しく1年に買った衣服が少ない気がするのは、古い服をリフォームさせたということなのでしょうか。あるいは天皇家の個人資産から購入なさったり……?

堀江 その可能性もありますが、皇后様は、古い衣服もリボンやボタンを付け替えるなどして大事にしておられたという記録があります。

 あと、この年は靴5足(単価1万円)、ハンカチ12枚(単価800円)、眼鏡(単価2万円)なども購入されたとあります。女性皇族の正装である、ローブ・デコルテなどのドレスについては「特別御服費」として計上されており、「ローブ・デコルテ1着/200000円」という記載がありますが、当時でも20万円(=現在の120万円)でローブ・デコルテを新調することはできず、これは修理、もしくは戦前の女性皇族が遺されたドレスを修復しただけではと考えられるそうです。

 ほかにも、毎年のように宝石をリメイクさせていたようです。その費用がひとつあたり15万~30万円(=現在の90万~270万)程度。こうなってくると、いくら古いものを大事に長く使うことはわかっても、やはり庶民の経済感覚とはかけ離れてくるような気がしますね(笑)。

――眞子さまや佳子さまがティアラを数千万円ほどでお作りになられたといいますが、公費である宮廷費から作ったものなので、結婚した後は持っていけないというお話でしたよね。

堀江 愛子さまはティアラの新調をなさらないままですが、ティアラは維持・管理するだけでもそれなりの費用が発生する宝飾品ではないでしょうか。結婚で皇室を離れた方のティアラをリフォームして活用なさるのも、「伝統を受け継いでいる者」という良いアピールになる気がします。

「権利があるからといって、贅沢はしない」という価値観は、戦後だけでなく、きわめて裕福だった戦前の天皇家にもすでに強く見られました。明治42年(1909年)、当時30歳だった皇太子殿下(後の大正天皇)のために、立派な東宮御所が建築されたのですが(現在の迎賓館赤坂離宮)、完成した建物を見た明治天皇による「こんな立派なのはもったいない」との発言もあって、大正天皇は紀州藩が江戸時代に使っていた古い建物で暮らし続けたそうです。

 昭和天皇は、新婚後のお住まいとされた霞ヶ関離宮が、関東大震災で倒壊したため、この豪華な東宮御所にて短期間暮らしたそうですが、お気に召さなかったようです。昭和天皇は「赤坂離宮はぜい沢だし、暖房の石炭は随分とかかるし(略)そんないやな所にいって国民に贅沢してるといふ感を与へることは困る」とおっしゃったそうです(田島道治『拝謁記』岩波書店)。

――広くて光熱費がかかるし、国民に嫌われてしまう贅沢さで溢れている、というわけですね。

堀江 尊い身分で、しかも大富豪であるにもかかわらず、ご自身が贅沢することに消極的な日本の天皇家のあり方は、他国の王族・皇族とはかなり違うような気がします。

――他の王族たちとは異なり、贅沢を好まない日本の皇室の姿勢もあって、東宮御所は海外からの賓客をもてなす迎賓館になったのですね……。それにしても、秋篠宮家の佳子さまが、リノベーションだけで40億円以上かかったという新御殿には移らず、10億円かけて建てた仮の御殿でご家族と離れ、お住まいになるというニュースが最近、話題になりました。

堀江 佳子さまの一人暮らしは、秋篠宮家への“反抗”という側面も否定できないでしょう。ご真意は測りかねますが、国民へのアピールだと思います。10億円の邸宅に一人暮らしというのも凄まじい贅沢だという声があるのはわかりますが、やはり皇族の皆様が“日本の顔”であることを考えると、そして住まいがその人の顔を作りあげることを考えると、何もかも、庶民っぽくなってしまわれることのほうが弊害のように感じます。

――3回にわたって、皇室の方々のお金の使い方の特徴や、経済感覚について考えてきましたが、質素倹約主義のようでいて、庶民には考えられないような巨額を費やし、何かをなさったり……やはり分析が追いつかないほどのミステリアスな存在であると感じました。

堀江 それこそが皇室のカリスマの源なのでしょうね。

皇族のリストラ手当は30億円!? 天皇家に代々続く破格の”贈答文化”、その内情

 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

堀江宏樹氏(以下、堀江) 前回は、秋篠宮家による、眞子さまへの金銭支援が、小室圭さんの資格浪人時代はもちろん、これからも行われるだろうということを、皇室特有の贈答文化の歴史から考えました。

――眞子さまは皇籍を離れるに際して、1億円以上の一時金の受け取りをなさいませんでした。もし、現在、秋篠宮家から眞子さまへの金銭支援があるとしたら、これが関係しているのかも。

堀江 そうですね。「より手厚く、支援は行うべきだ」となっているのかもしれません。

 戦前でも、皇籍を離れる皇族には、元・皇族としての品位を保つためのお金として、一時金が支払われました。しかし、その額が、戦前は桁外れに凄かったのです。もともと当時のお金にして135万円でしたが、昭和になってから「高すぎた」という理由で100万円に改められました。しかし、それでも現在の貨幣価値では30億円に相当するという説も……(奥野修司『極秘資料は語る 皇室財産』文藝春秋、以下『皇室財産』)。

 宮内庁が一時金を支払うのですが、当時の宮内庁は、天皇が自身の経済力で運営しているような組織でしたから、実質的には天皇から支払われたと見ていいでしょう。

 大正天皇には、皇后さま(貞明皇后)との間に4人の男子のお子様がおられ、それぞれが健康に成長なさっていたので、江戸時代末から明治初期を生きた、 伏見宮邦家親王を祖とする11の宮家には、大正・昭和の時点で戦後の「皇籍離脱」にあたる「臣籍降下」の勧告がなされました。

 これらの宮家は、天皇家の男性に万が一の事態が起きたときの保険的な存在なのですが、当時これらの11の宮家の方々は、現代の貨幣価値で年間何億円もの贈与を昭和天皇から受け、完全に扶養されている状態で……だから天皇の経済的負担を軽くするため、彼ら傍系の皇族のリストラが企てられたのです。

――当時、皇族を辞める方はいらっしゃったのですか?

堀江 いいえ。そもそも皇族を辞められることになったのは、明治になってからのことで、明治40年の皇室典範増補時の記録として、この時に臣籍降下した方が1名おられたとか。莫大な一時金だけでなく、株、証券など生活の基盤となるオプションもオマケされていたそうです。庶民の感覚では、30億円「も」もらえると考えてしまいますが、この頃の皇族方にとっては、天皇家からもらえるお金の10年分くらいにしか相当しないのですね。

 戦前の皇族費は、昭和11年の時点で総額111万5360円、今なら約33億円程度です。昭和天皇の弟君2人には、秩父宮費(13万円)、高松宮費(11.5万円)、それから(三笠宮)崇仁親王費(8万円)など、天皇にとくに近い血縁の方には、破格の皇族費が毎年、支出されていました。

 さらに明治天皇のお子様などを含む、11の宮家にも年平均10万円ほど(現在の3億円相当)が支払われていましたし、それ以外でも天皇陛下のポケットマネー=内廷費からのボーナスが折に触れてありました。

――まさに雲の上の世界! 戦前「現人神」と崇められた時代の天皇家のカリスマは、高い経済力が作り出したものともいえそうですね。それに比べると、天皇・上皇両陛下などすべての皇族方をいれても、皇族費は「令和4年度は、3億2,400万円」と宮内庁のページにはありますが……。

堀江 だいぶ減ってしまいましたが、皇族がたの金銭感覚のベースは、現在においても、雲の上のままなのかもしれません。まぁ、それでよい部分もあるのでは? 金銭感覚があまりに庶民的になってしまえば、カリスマなど感じられない気もします。

――先程、戦前においては実質的に天皇おひとりですべての宮家を支えていたということでしたが、どれくらいの収入が天皇家にはあったのでしょうか?

堀江 戦前の昭和天皇の時代の皇室には、毎年の余剰金……つまり、収入からいろいろ使って、残ったお金だけで500億円程度あったとされます。これだけでも、現在においても世界的な大富豪の一人とされる、イギリス王室の年収くらいの額です。それをさらに株式などの投資にまわして稼いでいたそうですよ。

――戦前の天皇家の収入の内訳は?

堀江 明治時代から、天皇家の所有物ということになった山林などが生み出す利益や、宮内庁のお役人に委託してはじめた株式、証券などの利益などなどです。明治以前の天皇家はかなり貧しく、具体的にはお酒も水で薄めたものしか飲めないし、食卓に焼き鮭が出されたら、その皮まで余すことなく全部食べてしまうような生活だったそうですが、そこからいきなり豊かになったんですね。

 しかし、ばく大なお金を手に入れられるようになったから、贅沢三昧(ざんまい)というわけでもなかったようです。「大正デモクラシー」以降は、社会をよくしようと運動を始める運動家が増えたので、天皇家としては彼らを支援したり、お寺や神社、学習院などの学校施設に寄付したり……。

 天災が起きれば、天皇家は自身も被災していても、巨額の「お救い金」を出さねばなりません。関東大震災に際し、当時22歳の昭和天皇(正確には、闘病中の大正天皇の代わりを務める摂政宮)による見舞金は、当時の額面で1,000万円。今ならなんと300億円規模の寄付でした。

 実は、こういう出費に制限が出るほど、天皇家が扶養している宮家への支払いが大きくなっていたので、現在でいう「30億円あげるから、臣籍降下してくださいよ」という「お願い」が各宮家に送られていたのですが、昭和にいたるまで一人しか賛同者が得られなかったのです。

――たしかに黙っていても、毎年、3億円がもらえる権利の身分から離れようという人はいないでしょうね……。

堀江 はい。大正時代以降、多くの皇族たちがヨーロッパなどに外遊しましたが、実はその豪華な滞在にかかる費用の大半を各宮家は出しておらず、天皇家がほぼ全額を負担していたのでした。それで天皇家の経済負担を減らすために「宮家の海外旅行は原則1年以内、費用は年額20万円(=現在の20億円)」というルールが作られたそうですが、それも凄い話ですよね。

――現在の皇族費は「令和5年度は、3億2,400万円」だそうですが、これでも本来ならば少なすぎるということでしょうか?

堀江 そうともいえます。戦前のような規模の収入を失った昭和天皇は、貧民の救済など社会支援に使えるお金がなくなったことを嘆いておられたそうです。敗戦後には、GHQの指導が入り、財産は10分の1に減らされてしまいました。天皇家のカリスマを目減りさせる目的もあったようです。戦後すぐの時点で天皇家の総資産は、現金や株式・証券などすべて含めて、当時のお金で37億円でした。昭和22年、GHQの指導で、その9割にあたる33億円が没収されることになり、国庫におさめられたそうです。

――『皇室財産』によると、これらの額が現在ならいくらか知りたい人は、3000をかけるそうですが……天文学的な高額です。

堀江 戦後の昭和天皇の手元に残されたのが、当時のお金で1,500万円でした。戦後は、宮内庁のお役人がこの元手で投資を再開し、昭和天皇の個人資産を増やしていったのです。戦後も高景気が続き、昭和天皇が崩御したときの個人資産が18億7,000万円あったそうです。

 現・上皇さまは、4億2,800万円を相続税として支払い、それを相続なさいました。しかし、昭和天皇の遺産の大半が株式・証券で、バブル経済の破綻以降、日本経済は低迷したままで、現在では10億円程度に目減りしてしまったのでは……といわれています。

――上皇様は「生前退位」でしたが、今上陛下は財産の相続をなさったのですか?

堀江 少なくとも現時点で、相続なさっておらず、したがって相続税も発生していないですね。というか、天皇家も相続税を支払うことに個人的には驚きましたが、これらの個人資産から得られている利益の使い道こそ、まったくの謎……。真のブラックボックスです。国庫から支給される皇族費・内廷費・宮廷費といった経費とは別ですからね。奥野修司さんの『皇室財産』という本でも、この問題は完全にノータッチで、われわれ外部者が知りうることはないと思います。

――やはり庶民の感覚では理解しづらい世界ではないということがよくわかりました……。

眞子さまへの金銭援助は小室さんが就職しても続く? 天皇家“個人的出費”の歴史を紐解く

 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 

――先日、ニューヨーク在住の小室圭さんが晴れて弁護士として活動を開始し、年収も3倍以上になったといわれています。それまでも弁護士事務所に勤めているものの、法律事務職員だったので、物価高のニューヨークにおいて、それなりに暮らすには足りない額の年収だったといわれています。小室さんが、眞子さまのご実家である秋篠宮家から何らかの金銭援助を受けているのではないかという噂は根強くありましたよね。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 2022年5月に発売された、ジャーナリスト・江森敬治さんの著書『秋篠宮』(小学館)でも、眞子さまの結婚問題についての言及がありましたが、秋篠宮家による小室夫妻への金銭援助に関する情報はゼロ。質問された形跡さえありません。

――それは、なぜなのでしょうか?

堀江 絶対NG項目だったのでは?  だからこそ、秋篠宮家が金銭援助をおこなっていた可能性は高いし、また、小室さんが弁護士として勤務しはじめても、金銭援助は続くと思われます。

 昭和天皇に長く仕えた宮内庁職員の戸原辰治さんが残した史料をもとに書かれた、ノンフィクション作家・奥野修司さんの著書『極秘資料は語る 皇室財産』(文藝春秋、以下『皇室財産』)を読んで、その印象は強まりました。

 この本では、戦前・戦後の昭和天皇のプライベートマネーである「内廷費(ないていひ)」の使い道が調査され、語られているのです。

 プライベートマネーですから、何に、どういう形で使ったかを、公表する義務はありません。その中から、皇室を結婚によって離れ、民間男性の妻となった元・皇女の方々を中心に昭和天皇が少なからぬ額の金銭援助を、平たく言えば「お小遣い」という形で継続していた記録があるのです。『皇室財産』筆者の奥野さんは、こういうお金の使い方は、皇室に受け継がれている独特の贈答文化の表れではないかと考えておられ、それゆえ秋篠宮家から小室さんと結婚した眞子さまへの援助もあるのではないか、と推論しておられます。

――内廷費について詳しく教えてください。

堀江 宮内庁の説明を借りると、「天皇・上皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもの」の総称が内廷費です。これに対し、公的な出費に使われるとされるのが宮廷費。両者の区分は曖昧という指摘もありますが、令和3年の内廷費は3億2400万円で、宮廷費は118億2816万円です。

 一方、天皇家以外の皇族の方々には皇族費が支払われます。宮家の当主の方、妃殿下、そしてお子様がたにそれぞれ決められたお金が支払われています。たとえば、2020年に皇嗣となって以来、秋篠宮さまには毎年9150万円が、紀子さまには1525万円が支給されているそうです。お二人のお子様がたにも支払われているので、眞子さまが嫁いだ現在も、秋篠宮家全体で見れば1億円以上ですね。

 天皇家の内廷費、そして宮家に支払われた皇族費の両方が、どのように使われたかというデータは公表されません。

――宮家でも公開されないのに、それ以上にガードが堅そうな天皇家の内廷費……つまりプライベートマネーの使い道がわかってしまった経緯が興味深いですね。

堀江 その通りで、天皇によって内廷費がどのように使われたかについては、宮内庁の重役ですら、ほとんどが知らず、知ろうとすることも怖がって避けるそうです。つまり、タブーなんですね。しかし、昭和天皇に長年仕えていた戸原さんが、おそらく自身のための備忘録として、写していた記録の中に、天皇が親族に与えていた「御内儀費」……つまり天皇から家族に配られた「お小遣い」についてもわかってしまう詳細な記述が発見されたのです。

 これを見ると、昭和45年、公家の名門・鷹司家の男性に嫁いだものの、夫がバーのマダムと心中してしまった鷹司和子さんには毎月12万円、年額144万円が与えられています。和子さんは、亡き夫のお義母様の面倒も見ておられましたから、額が多いのでしょう。

 一方、岡山の実業家に嫁いだ池田厚子さんには年2回だけ、12万円が与えられました。真冬でも寒い売店に立って、タバコを売ったり、苦労なさっていたようですが……。

 また、ご主人が銀行にお勤めで、御本人も西武系の商業施設で勤務している島津貴子さんには、毎月2万円、年額24万円が与えられています。昭和45年だけでなく、これらの支出は毎年継続していたのでしょう。

――元・皇女の方々に与えられた金額に根拠はあったのでしょうか?

堀江 すべては陛下の思し召し次第でしょう。当時の皇后さま(香淳皇后)にも毎月5万円、年額60万円が私的に贈与されていたし、若くして亡くなった第一皇女・照宮さんの遺児である東久邇信彦さんにも毎月5万円、年額60万円が与えられています。注目すべきは、東久邇家は戦後、皇族の身分を離れ、臣籍降下した際にも相当額の一時金を受け取り、当主の男性は稼げるサラリーマンで、都内の一等地に邸宅を構えておられました。つまり、かなり裕福だったはずですが、支援は続いたという。

――それはなぜなのでしょうか?

堀江 われわれは宮家というと独立した所帯であるように考えますが、現在でもそういう意識は皇族の方々には希薄なのかもしれませんね。とくに戦前の天皇家は莫大な資産を有し、10以上あった宮家のすべてを扶養している状態に近かったそうです。戦後は国が皇族それぞれに皇族費を渡すシステムに切り替わったのですが、戦前のような扶養意識が天皇の中に残ったようですね。昭和40年代の1万円は、現在の6~8万円に相当すると『皇室財産』では考えており、名目上は「お小遣い」でも、庶民にとっては相当な額が、民間男性と結婚し、その扶養家族となり、皇女の身分を失った方にも毎年、降り注いでいたと考えられます。

――……となると、毎月12万円、年額144万円が与えられていた鷹司和子さんの「お小遣い」は、1年で864万円~1152万円だったということですか!?

堀江 はい。しかし、貨幣価値の比較は難しいのですが、『皇室財産』に敬意を払い、本稿では6倍ということにしておきます……。

 注目すべきは、これらの出費を記録する帳簿の記載なんですね。たとえば「鷹司和子へ」ではなく「孝宮へ」とあることです。すでに身分は皇女ではなく、民間人なのですが、昭和天皇の中では娘たちはずっと内親王のままで、親として援助しつづけるべき存在だったということなんです。

――だからこそ、昭和天皇のお孫さんにあたる秋篠宮さまにも、こうしたお金の使い方は受け継がれていてもおかしくはない、と? となると、上皇さま・上皇后さまや、今上天皇陛下から、小室夫妻への援助もあった、もしくはあるのでしょうか?

堀江 はい。可能性はありますよね。昭和天皇のように、プライベートマネーから家族に「お小遣い」を与えるという習慣を、秋篠宮さまが受け継いだかどうかを断言することはできませんが、可能性は高いと思います。皇室には独特の贈答文化の伝統があると『皇室財産』は語っています。

――独特の贈答文化ですか。

堀江 これも昭和の頃の話ですが、皇族がたがお互いを訪問しあう場合、たとえ親子であったところでも、当時の額面で何万円相当のお金……あるいはそれに相当する金額のお品を持参するのが伝統であり、マナーだったそうです。

 戦後になっても昭和天皇には、ご家族やご親類とお会いになる時、当時でいう3~6万円程度を、お土産として、お渡しになる習慣があったようです。参考までに、年次統計のホームページのデータによると、昭和34年=1968年の大卒サラリーマンの初任給の平均額は3万600円だったとのこと。また、みなさまのお宅でご飯が出されたりすると、その場で、また別にお金を渡すということでした。もちろん天皇ご自身は財布をお持ちにならないので、お付きの方がお渡しになるのですが。

―― 一度のご訪問で、それだけのお金がばらまかれていたのですか! これは今日にいたっても受け継がれていたりするのでしょうか。

堀江 おそらく。皇室の伝統のひとつですからね……。とにかく、戦前の皇族は、超越的な存在の証として、お金を配りまくりました。昭和天皇の母宮に当たられる貞明皇后のお金の使い方を見ていると、やはりそうなのですね。前にこのコラムでも取り上げたことがある昭和天皇の名物侍従長・入江相政さんの証言を高橋紘氏の解説をもとにまとめると、昭和天皇からのメッセージを貞明皇后に直接にお伝えすると、皇太后が、労をねぎらうべく「お返し」として、おそらく現金か、高価なお品をくださったそうです。

――現在の皇室でも、そういう贈答文化はどのように受け継がれていると思いますか?

堀江 戦前のような額ではないにせよ、おそらく。しかし、皇族の方々としては、宮中に受け継がれる贈答の伝統を引き継いだつもりでも、今日では国民からの支持を失いかねません。だからこそ、江森敬治さんの『秋篠宮』では質問自体がシャットアウトされたのでは?

 眞子さまに対しても、われわれが感じる以上に、ごくごく自然に援助のお金が秋篠宮家から支払われていたし、今後も支払われると考えてよろしいと思われます。

――次回から、秘密のベールで隠された天皇家の支出について分析していきます。お楽しみに。

Netflixドラマ『ザ・クラウン』よりも非情な王室! 本当にあった「親類見殺し」の過去を紐解く

 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 今回はイギリス王室の描き方をめぐり視聴者の間で物議を醸しているテレビドラマ『ザ・クラウン』(Netflix)の第5シーズンについて、堀江氏に聞きました。

堀江宏樹氏(以下、堀江) 前回から、「いろいろと問題作だった」との評が多いNetflixのオリジナルドラマ『ザ・クラウン』の第5シーズンについてお話しています。

――「親戚を見殺しにして、それによって王室の安定を試みる」という話が、第5シーズンには登場していたとのことですが?

堀江 そうですね。1994年、エリザベス女王とフィリップ殿下は、当時すでにソビエト連邦ではなくなったロシア連邦を訪問、1918年に革命勢力の手で惨殺された元・皇帝一家の追悼儀式に参加するという形で描かれていたと思います。ドラマでは過去の「回想」として、1917年当時の英国王・ジョージ5世が家族の意見によって、いとこにあたる前・ロシア皇帝ニコライ2世(ロマノフ朝第14代皇帝)とその家族を見捨てる非情の判断をするという形で描かれていました。

――睡眠中だったニコライ夫妻が、革命軍の兵士に叩き起こされ、処刑現場に連れて行かれる際、勘違いして「私のいとこのジョージ5世が軍艦をよこしてくれたのだ!」「これで助かった」とぬか喜びするシーンですよね。その後の銃殺シーンがやけにリアルで衝撃的でした……。

堀江 ジョージ5世とニコライ2世はいとこにあたり、愛称で呼びあう仲でした。また、ニコライの妻(前・ロシア皇后)のアレクサンドラも、実は親戚の女性で、面識があるのです。1917年初頭、ジョージ5世も前皇帝夫妻の亡命受け入れに賛成していました。しかし、同年3月~4月になってジョージ5世は態度を翻し、「ニッキー(ニコライ2世)一家を受け入れない」と言い出したのです。

――なにが国王を変心させてしまったのでしょうか?

堀江 保身でしょう。当時のイギリスは保守党と自由党の対立に加えて、左派勢力である「労働党」が強くなっており、自由党左派のロイド・ジョージ首相は王族・貴族たちにきわめて厳しい態度を取っていました。そういう世論に逆らって、ロシアから前皇帝夫妻とその子供たちを、親族のよしみでイギリスに迎え入れたりしたら、英国内から「反動的なイギリス王室なんて要らない!」という声が上がることを警戒してしまったようなのですね。しかし、その経緯がドラマで描かれた以上に、エグいのです。

 ロシアの革命政府とイギリス政府の間で、すでに前皇帝の受け入れが決定していたのに、心変わりした英国王は「ダメだ」の一点張りでした。ロイド・ジョージ首相ですら亡命については賛成していたのに。ロシアとイギリスの周囲が英国王をなだめたのですが、やはり「前皇帝は亡命させられない」との最終通告をロシア側に伝えることになりました。

 そういう動きがロシアとイギリスの間にあるという情報をつかんだレーニンは、「皇帝一家など生かしておいたら、今後、革命の妨げになる」といきりたち、その結果、前皇帝だけでなく一家全員が「これほど多くの遺体がこれほどひどく損傷された例を私は見たことがありません」といわれるような酷い殺され方をしたのです。これは遺骨調査を行ったコリヤコヴァ博士の言葉ですね。

――イギリス国王としての王冠を守るためでしょうが、言葉を失うような非情さですね……。

堀江 ロシアで革命が起きてしまったのは、やはり前皇帝に大きな問題があったからですが、その罪のほとんどを(前)皇后が被ることになった点は、さらなる問題といえるでしょうね。

 ドイツとイギリスの血を引くアレクサンドラ前皇后は、ドイツ生まれではありますが、諸事情あって6歳から12歳までイギリス王室で育てられた女性なのです。英王室とは血縁関係にありました。しかし、それでもジョージ5世は見捨てているのです。彼女は現代風にいうと“怪しい宗教”にのめりこんでいました。ラスプーチンという超能力者に依存していたのです。また、当時のイギリスはドイツと戦争中です。アレクサンドラには、ドイツのスパイという噂が根強くありました

――でも、さすがにそれは噂ですよね? 

堀江 はい。しかし、庶民の噂とかイメージに想像以上に王室が振り回されていることは興味深いですね。イギリス王家の名前も元来は、ザクセン=コーブルク=ゴータ家だったのですが、これではイメージが悪いということで、第一次世界大戦を契機に、現在のウィンザー家に改名しています。

――それにしても、日本でありがちな妃殿下に責任のすべてを押し付ける考え方って外国でも強いんですね……。

堀江 そうですね。ジョージ5世は、親戚であるアレクサンドラ、そして仲がよかったはずの「ニッキー」の死に何を感じたのでしょうか。心情を克明に伝える記録は例によって、ありませんが。

 1917年当時は、第一次世界大戦の末期にあたり、イギリス・フランス・ロシアは「協商国」として友好的関係にありました。私もふくめ、庶民は「政治」より「人情」でものを判断しがちな気がします。窮地の親戚を受け入れたほうが、いくら左派勢力が強くなった時代でも、王室の支持率はあがりそうな気はするのですが。

 ドラマでは、親族の女性が、乗り気のジョージ5世に「皇帝の受け入れはやめたほうがよい」とほのめかすようにした……という流れでしたが、史実ではジョージ5世の強い拒絶を、彼の家族も、政治家たちも覆すことができなかったようです。『ザ・クラウン』では、王政という「システム」を守るためなら、非情になることもいとわないエリザベス女王や、それに傷つく家族たちの姿が描かれていますが、そういうホームドラマ的な内容のさらに上をいく、つらい決断がちょうどエリザベス女王の祖父の時代には起こっていたんですね。逆にいうと、その時、エリザベスが女王という立場にあったのなら、彼女がそれを決断しなくてはならなかったかもしれない。

――やはり王族に生まれ、王族として生きていくことは、きれい事ではない苦労の連続なんですね。

堀江 特に国王ともなると、普通の神経の持ち主ではやっていけないでしょうね。なお、ドラマでは、革命勢力に惨殺されたロマノフ一家の遺骨が発見され、そのDNA鑑定に、エリザベス女王の夫であるフィリップ殿下が協力し、女王もロシアで行われたロマノフ一族の鎮魂式典に参加したという流れでした。史実でもその通りなのですが、なぜロマノフ一家の問題なのに、英女王や英王室のメンバーが出てくるのか? と思ったりしませんでしたか?

――まさかロマノフ一族は皆殺しだった……とかじゃないですよね?

堀江 そういうわけではなく、ロマノフ一族の末裔たちはアメリカ、イギリス、そしてスペインなどヨーロッパ各地に散らばっているのですが、大きく分けて3派に勢力が分散し、お互いを牽制しあっています。また、一族には発掘された遺骨のDNA鑑定に必要な血液などの提供を拒否する人もいたわけです。「エリツィン大統領の要請だかしらないが、彼が新生ロシアをアピールしたいから、過去への謝罪を形だけ行いたいといっている。その政治の道具になんかされたくない」という一念ですね。

 ロマノフ一族の、生々しい怨嗟と拒絶に対し、実際にDNA鑑定に血液を提供したフィリップ殿下は、ロシアで殺されたアレクサンドラ皇后の近い親戚にあたる存在ですから、若干、中立的な立場といえるんですね。

――だから、フィリップ殿下の血液がDNA鑑定に使われ、その妻で英女王のエリザベスが、ロマノフ皇帝一家の追悼儀式でもフィーチャーされたわけですね。

堀江 ジョージ5世は、アレクサンドラ皇后の妹で自分のいとこでもあるバッテンベルグ家(当時の名称)のヴィクトリアという女性に手紙を書いて、「親愛なるヴィクトリア、あなたの愛する妹とそのいたいけな子供たちが悲惨な最期を遂げたことについて(略)心痛の思いでいっぱいです(略)」などと言っているのですが、殺された妹・アレクサンドラの気持ちを考えると、「愛する夫ニッキー(=ニコライ2世)が死んだ後も自分だけ生き残ることは決して望みはしなかったであろう」とか「そして美しい娘たち」も、たとえ家族と共にその場で殺されていなかったとしても、その後では「死を選んだほうがましだと思ったに違いありません」ということなのでしょう。

――ジョージ5世は自らの強い意思で、彼らを見殺しにしたのではないですか(苦笑)。それは伝えたり謝ったりしないんですね。

堀江 そうです。都合いいなぁと思いますよね。『ザ・クラウン』では君主は、とくに大事なことに関しては曖昧なメッセージしか発せられないということになっていますが、それを地でいく感じで、王族の人生は時と場合によって、本当にハードモードになりうるし、そういう決断を迫られることのない庶民は本当に気楽でいいという話かもしれません。

 ニコライ2世夫妻の子供たちの中で、アナスタシア皇女だけは惨殺を生き延びていたのでは……という声はありました。すると「私はアナスタシアだ」と言い切る(詐欺師の)女性が現れたり、その自伝がハリウッド映画になったりもしましたけれど、本当はごく早い時点で、イギリス王室はロマノフ一家全員の死の情報を掴み、それを受け入れていたようですね。ただ、世間には知らないフリを続けていただけで……。

――本当はそんな背景があったのですね。ドラマでは描かれなかったウラ事情にこそ、英王室特有の秘密主義が垣間見えた気がします。