「フィギュア萌え族」「Nice boat.」からは隔世の感すらあった“座間9人遺体事件”をめぐる報道

 とりあえず「マンガ・アニメが悪影響」といって、お茶を濁すのは過去のこととなりつつあるのか。

 座間市の「9人遺体事件」をめぐり、連日さまざまな報道が流れた。こうした猟奇的な事件は世間の耳目を集めるものだが、報道できる材料は限られている。そこで、一通りの報道の後に語られるようになるのが、犯行の原因や背景といったもの。大衆は犯行の原因を求めることで犯人は自分とは違う世界の人間だということを確認し、胸をなで下ろす。一部メディアは、犯行の原因を単純化し、絞り込むことで大衆に安心材料を与える。いわば共犯関係が成立しているわけである。

 だからこうした事件の時に、なにかと便利に使われるのが「猟奇的なマンガ・アニメ」などサブカルチャーの影響という表現である。

 ところが、今回の事件では、そうした報道は驚くほど出ていない。

「週刊文春」(文藝春秋)は、ネットでの予告動画で関係者の証言として「(白石隆浩容疑者は)アニメ見るのが好きだった。『ひぐらしのなく頃に』『School Days』とか」という言葉を報じたが、本誌では使われなかった。

 さらに自民党の山本一太参議院議員は、5日に出演したフジテレビ系『新報道2001』の中で「ゲーム感覚でやっている」「猟奇的なアニメの影響」と発言。これは、一部で物議を醸したが、本格的な炎上を前に山本議員がニコニコ生放送で「一世一代の失言だった」と謝罪したことで沈静化している。

 山本議員は、自民党のクールジャパン戦略推進特命委員長。発言した後で早々と謝罪したのは、同僚からも何かしらのアドバイスをされたことは想像に難くない。

 過去、猟奇事件にまつわるマンガ・アニメの扱いから比べると、情勢が大幅に変わっているのは確かであろう。

 すでにひと昔以上前の出来事になり、覚えている人も減っているだろうが21世紀に入っても猟奇事件に絡みマンガ・アニメが妙な形で取り上げられる騒動は幾度もあった。

 2004年に発生した奈良小1女児殺害事件では、ジャーナリストの大谷昭宏がテレビ番組の中で、事件の犯人を「いわゆるロリコンではなく<フィギュア萌え族>である」であると発言。その後犯人は逮捕されたが、犯人宅から発見されたのは、スクール水着に少女の下着を詰め込んだ謎のフィギュア(?)だけであった……。

 この「フィギュア萌え族」発言をめぐる問題では、一部メディアや人士からの批判も大きく展開された。それは現在から見ると、ひとつの転換の契機であったとも思われる。

 00年代にもうひとつ注目されるのは、07年に発生した『School Days』『ひぐらしのなく頃に解』などアニメの地上波放送が中止されるに至った京田辺警察官殺害事件である。これは当時16歳の少女が警察官の父親を手斧で斬りつけて殺害した事件であった。

 この事件を受けて、放送中であった『School Days』『ひぐらしのなく頃に解』に事件を想起させる表現があるということで、放送が中止されたのである。中でも『School Days』は、卑劣な主人公が、ようやく殺される最終話が放送中止になり、代わりに放送された海やボートの映像に、ネット上で「Nice boat.」とコメントが付いたことなどで大きな話題となった。

『School Days』の放送中止の問題で、より注目したいのは、中止から1週間後に原作ゲームを制作するOverflowの主催により最終話上映会が開催されたこと。これは、古来より大衆文化が持っていた、批判や弾圧に対しては網の目をくぐるようにして反撃するという歴史性が、マンガやアニメにも浸透してきたことを示すものといえるだろう。

 さて、今回、座間の事件に関してマンガやアニメに絡めた報道は確かに少ない。ただ、それは「マンガやアニメが社会的な地位を得て、認知された」からというわけではない。インターネットをはじめ、さらにわかりやすく「民衆の敵」として餌食にされるものが登場したからである。現に、今回の事件ではTwitterそのものの危険性を、なんの疑問もなく語る者もいる。

 結局、表現物というものは、常に何かをきっかけに権力や民衆に批判され弾圧される現象から逃れることなどできない。そこには、長い歴史がある。筆者も先年『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)の中で、この歴史性について触れた。批判報道が減ったなどと一喜一憂する前に、まず歴史を学んでおきたいところである。
(文=昼間たかし)