平成という時代が生んだ歌姫・浜崎あゆみ

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析!

<過去記事はこちらから>

 さて、いよいよ平成も終わり。そしてこの連載も、今回でひとまず終了となる。ご愛読いただき、ありがとうございました。

 最後を飾るのは浜崎あゆみである。

 気がつけば彼女も40代になっている。近年は活動のペース自体がかつてほどではなく、当然のこととはいえ、浜崎がもはやベテランの域という事実には時間の流れを感じてしまう。そう書きたくなるほど、往年の彼女は時代を引っ張り、時代の象徴であり続けた。特に1998年のデビューから2000年代前半までの数年間は本当にすさまじかった。

 思い出してもらう、また知らない人には知ってもらう意味合いも込めて、まずは浜崎のヒットソングを並べてみよう。なにせ売れた曲が多すぎるので、ほんの一部になってしまうが。

 まずは99年の大ヒット「Boys & Girls」。<輝きだした><はばたきだした>と、ポジティヴな思いがインパクトのある曲だ。浜崎が完全にブレイクしたのはこの曲だったという印象が強い。ちょうど20年前か……。

 このリリースが99年7月で、9枚目のシングルなのだが、彼女のデビューは前年の4月である。つまり、ほぼ2カ月に1枚のペースでシングルを出していたわけで、最初からものすごいペースだったことがわかる。エイベックスも相当気合が入っていたのだろう。

 で、先ほどの曲から11カ月後に出たのが「SEASONS」。これでもう16枚目のシングルである。

 しかし当たり前だが、若いな~。

 同じ2000年リリースの「M」。高揚感たっぷりのクリスマスソングだが、引き締まったトーンが強い。<愛すべき人>の存在が唄われるのと同時に<終わり>を示唆させる歌でもある。

 そして01年の「evolution」。激しく細かいビートが異常なテンションを助長していく ナンバーだ。歌詞には、自分たちが<生まれついたこと>への思いがあふれている。

 さて、ここに挙げた曲以外にも言えることだが、浜崎の歌には常になんらかの翳りのようなものが垣間見える。それはヴォーカルに感じられることもあるし、曲調がそうさせている場合もある。ただ、象徴的なのはやはり歌詞だ。それも何かを背負っていたり、あるいは欠落感を抱えていたりと、重たさを感じさせる言葉が多い。

 そもそもがデビュー・アルバムのタイトル曲「A Song for xx」からすでに<居場所がなかった 見つからなかった>と唄っていた人である。

 浜崎は物心ついた時から父親がおらず、シングルマザーの家庭で育っている。そして小学生の頃から地元の福岡でタレント活動をしたり、その後は女優やグラビアアイドルとしていろいろな動きをしてきたが、どれもうまくいかないままだった。

 それが歌手としてやっていくことになり、自分で歌詞を書くようになった。そこで自分の背景にあるものや考え方を反映させていく中で、自身の根本にあるものを出すようになったのだろう。それだけに彼女の歌は非常にエモーショナルである。当時は「エモい」という表現もなかったのだが(洋楽ロック界では、もしかしたら出てきていたかも )。

 もともとが魅力的なルックスの持ち主で、シンガーとして大成したあとにはファッションリーダーにまでなった人だ。また、歌声も芯があり、力強い。そしてその上に、彼女はリアルにすぎる言葉も持っていたのだ。その言葉の生々しさが、より多くの人の心を射抜いていった。

 その歌は、基本的には、自分探しの要素が強い。曲によっては<あなた>との関係が唄われるので、自分「たち」探し、でもあるだろうか。そうしたところに心境を重ね合わせたファンが、数多く生まれたということだ。

 僕は、この頃にこういった重たさを持つ歌がヒットしたことには、90年代のカルチャーからの流れを感じてしまう。たとえば90年代の洋楽シーンはニルヴァーナやKORN、それにレディオヘッドなど、トラウマや自身のネガティヴな部分を炸裂された音楽が人気を博し、ロックの勢力図を変えていった。こうした潮流は、日本の音楽シーンにも本人のリアルを唄う形で反映されていった。夢や愛やファンタジーを唄うのでなく、身を切るような痛みや悲しみを唄うこと。当時のMr.Childrenもへヴィな歌を唄うようになっていったし、スガシカオや中村一義といった、当人の裏側までを描くような歌がスタンダードになっていった。

 そして浜崎の歌の世界にも、そうした時代の流れを感じる。彼女の歌は、リアルを唄う時代性の中から生まれたものだった。

 ところで今回、彼女の歌を聴いていて気づいたことがある。先ほどのような心の内が描かれた曲には、彼女自身の生きざまや考えが反映されていると思われるのだが……驚くべきなのは、どの歌も、言葉が決して難しくないということだ。

 優れたアーティストは、時に文学的な言葉をつづったり、比喩や暗喩など、あえてわかりにくい表現を使うことがある。ひどく複雑なレトリックを使う人だっているほどだ。しかし、浜崎の歌には高尚そうな表現がなく、基本的にはストレートに、ズバッと刺さるような言葉ばかりである。それで心模様を表現するわけだから、やや抽象的になるところはあるにしても(それが歌詞の面白さでもあるが)、聴いていて、理解不能! みたいな箇所がない。これはすごいことだ。それゆえに、彼女の歌は広く聴かれたのだと思う。

 時代性とのリンクという点では、まだある。

 たとえば<ふたり>のことを唄った「Who…」も人気の高い歌だ。

 この歌は、00年代初頭に氾濫したケータイ小説の中で特に高い支持を受けた『恋空』(スターツ出版)のストーリーの中でも重要な役割を果たしている。この事実が象徴するように、浜崎は当時の若い女の子に絶大な人気があった。それはもう教祖のような存在で、あの頃の彼女への熱い視線はほとんど社会現象とまでいってよかった。

 そこまでの人気を得て、時代を牽引した浜崎については、文化論的な側面から語られることも多い。それだけ世相を反映した存在だったといえる。

 わけても01年、アルバムのリリース日をメーカー側によってあえてぶつけられた宇多田ヒカルとの一騎打ちは語り草になっている。これによって浜崎と宇多田の比較論のような見方はよりいっそう強くなった。

 ただ、そうした前段があっただけに、数年前に宇多田ヒカルのトリビュート盤で「Movin’ on without you」を唄ったことは大きな話題になった。この歌に心を動かされたファンは多かっただろう。それはもしかしたら、宇多田のほうのファンにも。

 それから04年には、エイベックスのお家騒動があり、そこでの浜崎のリアクションも大きな注目を浴びた。これによって同社の株価が激しく動いたことも、当時の彼女の影響力を物語っている。

 ただ、一時そんなにまで存在が大きくなり、時代の先頭を走った浜崎は、このところは巨大な波を起こすことがない。近年の彼女は、芸能ゴシップや、それに主にネット界隈で、むしろ批判を浴びることで矢面に立たされがちである。

 だいたいが、ちょっと何かをしたとか、人前に出た程度でニュースになる存在の人である。そこにネガティヴな見方が入った際のバッシングは本当に激しい(それは「とりあえず何か叩ければいい」というようなスタンスの報道が多い)。

 あのバッシングの激しさ、悪趣味さは、人気の反動という言い方で済まされないほどだ。その背景についても考えてみたが……浜崎が、若い女性の文化や風俗に深くコネクトしていたことも、ある層からは快く思われていない節を感じる。そう、いまだに、だ。

 ただ、それは彼女が一時代を築いたことの(マイナスの側面ではあるが)証明であるのは間違いない。そして、時代を代表する歌姫のひとりだったという事実もまた、間違いない。

 平成という時代をタイムカプセルに詰め込むとしたら、その中に浜崎あゆみのCDは、絶対に入れておかなければならない。

 彼女の歌は、それぐらいの、破格のものだった。

●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
阪神タイガース、ゲッターロボ、白バラコーヒー、ロミーナ、 出前一丁を愛し続ける。
妻子あり。
Twitterアカウントは、@you_aoki
 

誤解されたからこそ売れた? THE YELLOW MONKEYの根底にある“シリアスな表現衝動”

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析!

 平成の終わりとともに、実はこの連載の終了も接近中……カウントダウン!

 今回はその平成を彩ったロック・バンド、THE YELLOW MONKEYについて。19年ぶりになるオリジナル・アルバム『9999』がリリースされたばかりである。僕も、いま発売中の「音楽と人」で彼らにがっつりインタビューをし、原稿を書いているので、ぜひご一読を。

 と、本題の前に。このTHE YELLOW MONKEY、通称「イエモン」と呼ばれているが、実はこの言い方、90年代当時はあまり公には口にされなかった。ファンや関係者の間で使われていたところも少しあるものの、なんか違う気がして、僕も原稿で使った記憶がない(当時は彼らの記事をたくさんは書いてなかったが)。イエモンは、ほんとに非公式な呼び方で、しかもあまり腑に落ちないものだったというか……この感じ、古参のファンじゃないと、わかってもらえないか。

 ただ、2013年にファン投票によるベスト盤『イエモン』がリリースされてからは公認になった気がして、それからは安心して呼ぶようになった次第。なので、ここでもイエモンと呼ぶ。

 さて、最近よく目にするのはこのCM。

 いや、カッコいい。ただ、「吉井さんひとりじゃなくバンドで出してほしかった!」という意見を多数耳にしていて、そこは僕もまったく同感。わかりやすくしたいのはわかるが、メンバー4人がそろってたらもっとカッコ良かったと思う。

 で、ここで使われてるのは「天道虫」という曲。まさにライヴ映えするロック・ナンバーだ。

 これと、ドラマ『刑事ゼロ』(テレビ朝日系)の主題歌だった「I don’t know」の2曲がアルバムからのリード曲的な存在と言えるだろうか。

 この歌のビターな感覚、実に今のイエモンのモードという感じだ。アルバムでも最後を締めくくる曲になっている。

 だが、こうした新曲たちを聴き、イエモンを「なんとなく知っている」レベルのリスナーだと、「ん~?」という印象を受けるかもしれないな、と予想する。なぜなら90年代、音楽シーンを突っ走っていた時期の彼らとはイメージが異なるところもあるからだ。特にヒットシングルを連発していた頃を思うと。

 ではそうした楽曲を元に、当時をざっと振り返ってみよう。

 イエモンのCDセールス上の初のトップ10ヒットは、1995年の「太陽が燃えている」。それ以前から見ていた自分は、これで彼らの人気がお茶の間レベルに接近したのを実感したものだ。

 翌96年の夏リリースの「SPARK」も高いセールスを記録した曲。今もライヴで演奏されることが多い。

 バンドの表現力がさらにスケールアップした「楽園」。

 ポップなメロディが耳に残る「LOVE LOVE SHOW」。

 そして圧巻の「BURN」と、名曲が次々とリリースされていったのだった。

 これが97年までのこと。この数年間は彼ら自身がメジャー化を図り、それが見事にハマッた時期だった。立て続けに聴くと、音楽シーンの中で一時代を築いたバンドのすごみをあらためて感じる。

 4人のルックスも華やかで、すごくセクシーだ。そこには音も含め、グラムロックをはじめとしたクラシック・ロックの影を見ることができる。しかも、歌メロには歌謡曲的な匂いがあって、そこが多くの人に支持を得た理由のひとつだろう。当時は渋谷系的な、洗練された音楽が好まれる傾向にあったが、イエモンはその風潮に真っ向から立ち向かい、成功を収めたのだった。

 で、そう、こうした黄金期のシングル群と比べると、このところの楽曲には、ポップな感覚や突き抜けた音というより、空気感や質感、そしてそこに込められたものを味わう作品が主体になっている感がある。いわばシリアスめの傾向にある、というか。あくまでシングルやリード曲レベルでの印象に絞ると、だが(昔も今も、アルバムにはさまざまな方向性の楽曲がある)。

 ただ、あえて記しておこう。イエモンは出発点からシリアスな表現衝動を抱えていたバンドなのである。

 今回の新作『9999』での彼らも、大人に……50代になったイエモンの真摯なスタイルを貫いていて、素晴らしいと思う。そこには「I don’t know」で唄っているように、人生の残り少ない時間を必死に生きようとする男たちの姿があるのだ。

 そして「こんなにヒット曲を並べておきながら、あれが入ってないじゃん!」と思っている人の声が聞こえてきそうなので、そのリンクを張ることにする。このバンドにとって重要なナンバーであり、また日本のロック史上に残る名曲の「JAM」である。

 彼らは16年に再集結/再始動したのだが、その年末の『紅白』に出場した際にこの「JAM」を唄っている。元のシングルが出たのは96年2月で、先ほどの快進撃の序盤のあたりだ。飛行機事故を伝えるアナウンサーのくだりの歌詞が話題になった(そして今でもここについてあれこれ言われることの多い)楽曲である。

 で、当時、僕の知り合いで、後追いでこの「JAM」を知った人が、「ああいう歌を唄うバンドなんだね。かなり意外だった」と言っていたのを覚えている。

 その声を聞いて、あぁなるほど、と思った。なにせド派手で豪快なイメージの強かったであろうバンドだ。それが飛行機事故のあたりの表現を含みながら、自分と世界(社会)との距離を唄おうとしていたことが意外に思われるのは当然とも思った。この「JAM」を書いた背景についてヴォーカルの吉井和哉は、前年に阪神・淡路大震災やオウム関連の事件などがあって、あまりに不安定だった社会状況にも影響されたと話している。

 また、シングルに限っても、90年代後半に発表された「球根」や「離れるな」、それに「バラ色の日々」など、張りつめたトーンを持つ歌や、人がどうにか生きようとする姿が見える楽曲はある。

 思えばイエモンは、バンドの根本からして、非常にシリアスなところから始まっている。それは、メインのソングライターである吉井の資質に負うところが大きい。幼い頃に父親を亡くした彼は、そうした喪失感を埋める思いも抱えながら音楽に向かい、人生を捧げてきたのだから。

 また、僕はこの「JAM」について意外だったという声を聞いた一件から、イエモンは人によって評価やイメージが大きく異なることを認識した気がする。まあ「なんとなく知ってる」程度のリスナーとコアなファンとの認識の落差が大きいのは音楽ファンあるあるで、人気ロック・バンドは特にそういうものだが。イエモンの場合はこのギャップが特大だと感じてきた。で、あえて言い換えるなら、イエモンはそのイメージ的なギャップを引き受けたまま突っ走ってきたバンドである。

 これはメンバーが今でもよく話すことだが、インディからメジャー初期は、周囲から「ヘンなヴィジュアル系」「変わったヴィジュアル系」と呼ばれることが多かったのだという。イエモンはヴィジュアル系という場所にはいなかったバンドなのだが、メイクをしたりグラマラスな衣装を着たり、グラムやハードロックがベースだったり、あるいは前述のように歌謡曲的でポップなメロディもあったりして、共通する部分がなくはない。ただ、棲み分けとしては違う。

 だから、アングラでダークな作風が主体だった初期は、そうした「ヘンなヴィジュアル系」的なところがドロドロと流れていた。仮にメロディは明るめであっても、どうしても後ろ暗い、みたいな。

 参考までに93年、メジャー2枚目のシングル「アバンギャルドで行こうよ」のMVを。

 さらにこの前に出た「Romantist Taste」のMVもダークで、非常に良い。ただ、これは生まれたての両生類やらヌメッとした爬虫類やらがたくさん出てくる閲覧注意気味のやつなので、リンクを張るのはやめとく(大丈夫! 興味ある! という方は、ぜひ探してみてください)。

 ともかく、彼らがメジャーにのし上がる前夜には、こうした時代があった。そういう意味では、イエモンは常に変わりながら進んできたバンドなのだ。ただ、根っこのところは変わっていない。そしてそういう姿勢は、再集結後の今も続いている。

 だからこのバンドにとってイメージのギャップとか誤解なんて、ずっとつきまとってきたものなのだ。また、いい意味で誤解されたからこそ売れたという側面もあるだろう。ただ、現在の4人は、そうした誤解が生じないような状況で音楽を奏でていると思う。

 さて。イエモンが、特にロック・ファンに与えた影響は絶大で、それは01年の活動休止後に、身にしみてわかった。その頃たまたま知り合った人や仕事を一緒にした子、若いバンドマンとかで「イエモン、大好きなんです」「すごいファンなんですよ」という話をされることが多々あったのだ。

 しかもそれを言ってくるのは思った以上に男が多く、そのたびに彼らは「実は好きです」的な、隠れファンだったような言い方をしてきたものだ。そして共通するのは、ことごとく90年代のイエモンを生で見たことがない、という話である。

 これは当時のイエモンの女性人気のすごさを示している。あの頃の彼らのライヴのお客さんはほとんどが女性で、どんなに会場がデカくても、男なんて数パーセント程度。そんな状態が当たり前に感じつつ、僕は「男にも、もっとウケていいはずだよなー」と思っていたのだが、やはり男性ファンも多かったのだ。ただ、男だと一緒に行く友達がいるかどうかとか、チケットを取ろうにも女性の行動力のほうが上回ったりで、難しい面があったのだろう。

 それが16年の再集結後のコンサートには、大人の男性ファンも相当な割合で足を運んでいる。ちなみに、ライヴ中に吉井が女性ファンに向けて「みなさんの黄色かった声援が、今は茶色っぽくなってますよ」と言ってたことがあったな(笑)。また、親子連れのお客さんもいたりして、それもほほえましい。これはベテランのアーティストほどよくある光景ながら、イエモンは活動していない時期が長かっただけに、ちょっと感慨深い。

 そういえば俳優の山田孝之も、10代の頃にイエモンがすごく好きだったのにライヴが見られなかったと言っていた。テレビドラマの『山田孝之の東京都北区赤羽』(テレビ東京系)の中で、カラオケで「カナリヤ」を唄っていたな……。

 01年に活動休止をしたのは、音楽の方向性も、またメンバー間の関係性も混沌としてしまったことが大きな要因だったが、今のバンド内の雰囲気は良好で、いい状態で音楽に臨めているようだ。ただ、現在の作品には、彼らなりの引き締まった思いが込められている。そして、それは生きることについてのものである。

 今度のアルバムを通じて、このバンドが一貫して表現してきた大切な何かが、聴く人たちに伝わることを願う。

●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
阪神タイガース、ゲッターロボ、白バラコーヒー、ロミーナ、 出前一丁を愛し続ける。
妻子あり。
Twitterアカウントは、@you_aoki
 

昭和から平成、そして令和へ……時代と共に突っ走し続ける松任谷由実

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析!

 新しい元号が決まった。この数日は、そのニュースでもうおなかいっぱいである。当連載は元号が切り替わるのを前提に始まったのだが、いざこうして決まると「平成、ほんとに終わっちゃうんだな~」という気がする。

 さて、今回は松任谷由実について書く。

 ただ、ユーミンを平成時代のJ-POPとして捉えることに違和感を持つ大人も多いのではないかと思う。なにせ彼女のデビューは1972年で、元号でいうと昭和47年。その頃から多くのヒット曲や優れたアルバムを多数世に出しているアーティストだ。つまり昭和から平成、それに次の令和の時代も活躍し続けるであろう存在なのである。

 昭和時代から今に至るまで、最前線で活動を続けているアーティストたち……たとえば井上陽水、小田和正、矢沢永吉、山下達郎、中島みゆき、長渕剛、サザンオールスターズ、などなど。こうした超ベテランたちを「平成のJ-POP」という視点だけで語るのは、ちょっとムリがあるわけだ(このうちのユーミンと桑田佳祐が昨年末、平成最後の『紅白』のトリを飾ったのは記憶に新しい)。

 それでも今回取り上げようと考えた理由には、彼女が平成に入って放ったヒットソング群もやはり時代を象徴していたもので、また今も精力的に活動を行っているから。そしてもちろん、今のユーミンも魅力的だと思ったからである。

 では平成以降のユーミンの楽曲で、特に知られているであろうものを書き連ねてみよう。

 まず、平成元年である1989年には「ANNIVERSARY~無限にCALLING YOU」がヒットしている。

 1993年には「真夏の夜の夢」が大ヒット。佐野史郎が「冬彦さん」を演じた衝撃のドラマ『誰にも言えない』(TBS系)の主題歌で、チャートの1位を獲得した。妖しく、しかもダンサブルでもある、見事なポップナンバーである。

 翌94年には「Hello,my friend」がリリースされている。こちらはドラマ『君といた夏』(フジテレビ系)の主題歌で、これまた首位を奪取。曲を覆う叙情性が素晴らしい。

「春よ、来い」も同じ94年のヒット曲で、これは同名のNHKの朝ドラの主題歌。またまた1位に輝いている。日本的な情緒が心に残る名曲だ。

 ほかに、平成のユーミン曲には「輪舞曲(ロンド)」、石川ひとみが唄った「まちぶせ」のセルフカバーもあったし、数字的にスマッシュヒット級の楽曲まで入れれば、まだまだある。

 さらにユーミンの歌はジブリ映画を通じても広く親しまれていて、89年には『魔女の宅急便』のテーマソングに「ルージュの伝言」と「やさしさに包まれたなら」が起用された。いずれも彼女の初期の楽曲である。

 さらに2013年、同じくジブリ映画『風立ちぬ』の主題歌として「ひこうき雲」(1973年のデビュー・アルバムのタイトル曲)が使われている。うちの娘も、こうしたシブリ作品に触れたことでユーミンの歌を覚えた。

 と、リバイバルヒットも含め、なんだかんだで平成時代にもユーミンはたくさんのヒット曲を出しているのである。確かに、新作に限れば往時のような勢いはなくなってはいるものの、楽曲のクオリティ自体は落ちていない。

 僕は去年の年末にチケットの争奪戦の末、ユーミンのライヴに行くことができたのだが、たくさんの名曲が並んだセットリストの中では最も新しい(といっても数年前の)曲もいい歌だなぁと思いながら聴いたものだ。

 ただ、ユーミンの場合は80年代の躍進があまりに目覚ましく、今もってそのインパクトのほうが印象深いのも事実だろう。とにかく、あの頃の彼女は無敵だったように思えた。

 僕が会社勤めをしていた80年代後半から90年代初めまでは、特にOLのみなさんがユーミンに心酔していた。それはもう、音楽を作るアーティストとしてだけでなく、恋愛の教祖のような存在として……なんて今言って、どのぐらいわかってもらえるだろうか。若い世代には伝わりづらいか。

 うちのカミさんも「DESITINY」の歌詞の<どうしてなの 今日にかぎって/安いサンダルをはいてた>のくだりを(いまだに)強調する次第である。知らんがな。

 毎年、年の瀬が迫るとクオリティの高いアルバムをリリースし、その間にはヒット曲を出し、そしてゴージャスな演出のツアーを行うユーミンは、まさに時代の象徴だった。彼女の作品やありようをバブル景気と共に語る見方は過去にされてきたと思うが、経済が右肩上がりの時代背景とユーミンの音楽とは本当に寄り添っているかのように感じられたものだ。この傾向は80年代中盤~後半にかけて特に顕著だったし、先ほど紹介した中でも、やはり90年代の途中までのシングルにはそんな時代の空気が反映されていた感がある。

 もっとも、今とあの頃とでは、女性が置かれた立場も違う。世の中に昭和の考え方が厳然と続いていた平成初期でも、ユーミンのように強さを前面に出すような女性の生き方は、風当りもかなりキツかったのではないだろうか。言い換えれば、ユーミンはそうした女性像のパイオニアのひとりとして戦ってきたとも捉えることができる。

 彼女は、時代と共に突っ走っていた。それこそ、平成の時代に使われ始めたJ-POPという言い方も、ユーミンのたたずまいと違和感なくハマっていたと思う。世間には、平成の初期まではバブルの残り香が漂っていたのだ。

 転機は……やはり1995~96年か。日本では、95年に阪神・淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。ユーミンは96年に荒井由実(初期)時代の楽曲をライヴで演奏し、これがのちに創作への姿勢や活動ペースに影響を与えていった。

 この何年かの彼女は、自分のペースで作品作りを続けている。だが、ユーミンの歌が、平成のJ-POPの一翼を担っていたのは、間違いない。

 さて、話は先ほどの、僕が年末に観に行ったライヴに戻る。

 このツアーは、ユーミンが長い期間をかけて行っているTIME MACHINE TOURの一環で、彼女のデビュー45周年を記念してのもの。これはまだ続行中だ。なんと今回はベスト選曲のセットリストで、しかもステージでは過去のライヴで行ってきた演出まで再現されているのだ。そこだけでも見どころが非常に多いコンサートだった。

 なんたってユーミン45年の歴史と名曲群が次々と襲いかかってくるのだから、そりゃ感動しないわけがない。歌や演出を懐かしく感じるベテランのファンも多いだろう。僕も「ずいぶん若い頃にこんな曲書いてたんだなー」とか「このサウンドも今の時代にあえて再現してるのかー」などと思いながら過ごした、非常に面白く、また、楽しい体験ができたライヴだった。

 ただ、僕個人はすごくひさしぶりにユーミンを観たものだから、あまり偉そうなことは言えないのだが……このツアーで、というか、数年前から彼女に対してシビアに向けられている意見がある。声のコンディションがあまり良くないことだ。

 僕が観た日のユーミンのヴォーカルは、それほど悪い状態ではなく、人によっては全然気にならないレベルだったと思う。ただ、中には(公演日によっては)とても手厳しく指摘しているリスナーもいるし、年末の『紅白』出演が決まった時にまでどこかでそうした意見を見たほどだった(こちらの生放送の本番は問題なかったと思うが)。

 もちろん、いろんな意見があるのはわかる。だが、長い時間をかけて行われるそのライヴを見ているうちに、僕はあのステージにはユーミンの覚悟のようなものがあった気がした。

 声の状態なんて、観客より本人のほうがよく把握しているに決まってる。なんといっても、そもそも完璧主義の人だ。鋼のような意志とパワーがあったからこそ彼女はあの喧騒の昭和から平成の時代を高速で駆け抜けられたのだと思うし、だからこそ今ここでそうした現実に直面していることを重く受け止めていないわけがない。

 それでもユーミンは日本中を回り続けている。そこには並々ならぬ、なんらかの思いがあるような気がして仕方がないのだ。

 思うのは、ユーミンは自分が長きにわたって生み出し、唄ってきた大切な歌の数々を、これだけの規模(今回のツアーの会場はいずれもアリーナ)で、しかも全国各地で披露できる機会は、今後そうそうはないと考えているのではないか、ということだ。

 年齢に触れる失礼をあえて許してもらいたいが、いまユーミンは65歳である。ステージでは、それもウソじゃないかと思うほど、すさまじいパフォーマンスを見せてくれる。歌も振り付けもダンスも全開で、手抜きなんて一切なし。体を目いっぱい張り、精神を目いっぱいみなぎらせながら数時間のライヴに挑んでいるのである。昔も、今も。

 ユーミンは僕より、ひと回り以上、上の世代のアーティストだ。それでも自分を追い込むようにしながら、あそこまでのレベルのものを今なおクリエイトし続けようとする姿勢に対しては、感服とリスペクト以外の感情が浮かんでこない。

 そこには、ここまでの長期間突っ走ってきて、途中でそのスピードはいくぶん緩めたものの、それでもまだまだ戦い続けているアーティストの姿が見えてくる。そしてそれはバブルの時代には見えてこなかった松任谷由実像であったりする。

「文句あるんだったら、あなたもここまで来てみなさいよ。これだけのこと、ほかの誰がやれるっていうの?」

 ……いや、ユーミンはこんな野暮なことは言わない。それはわかってる。

 ただ、今のステージに、彼女の矜持が見えるのは間違いない。

 この日本では、恋愛観も、経済状態も、何よりも人生観が大きく変わった。あの頃とは。

 しかしそれでも、少なくとも大人世代は、現在のユーミンの姿からも何かを感じられるはずである。

 ユーミン。やはり、そして、今もって、とんでもないアーティストである。

●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
阪神タイガース、ゲッターロボ、白バラコーヒー、ロミーナ、 出前一丁を愛し続ける。
妻子あり。
Twitterアカウントは、@you_aoki
 

デビュー曲から規格外! 平成という時代を駆け抜けたSPEEDの光と影 

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析! 

 昨年末、仕事でとあるジャズ系のクラブを訪れた時のこと。その店に掲示されていたのは島袋寛子のライヴの案内だった。明けて2019年の早々にソロでのライヴをするという告知だったのだ。

 これ以前に今井絵理子や上原多香子が、あまり気持ちのよくない話題でマスコミを騒がせていたのを耳にしていたところだった。だから大人になった島袋を見て、連鎖的にSPEEDのことを思い出してしまったのだ。いつかこの連載であの子たちのことを書かないとな、と思った次第である。

 僕は25年ほどこの仕事をしているが、小学生、どころか、中学生相手にインタビュー取材をしたことすらほとんどない(アイドルの仕事をたくさんしているライターやジャーナリストなら珍しくないかもしれないが)。

 唯一の例外が、SPEEDへの取材だった。それもデビュー直後、2枚目のシングル「STEADY」のリリース時。彼女たちが勢いを一気に増していく頃だった。

 取材の目的は雑誌内のクリスマス向けの企画ページで、4人と話したのはこのシングルが出たのと同じ、1996年の11月だったと思う。都内のスタジオの中にそれこそクリスマスツリーのセットが作られて、彼女たちがそこにたたずんで撮影をするという状況。インタビューの内容としては、それぞれのクリスマスの思い出とか、グループでは何をしたとか、そんなゆるい話だ。

 デビューしたばかりの4人本当に若くて……というか、幼くて、まったくスレてなかった印象が残っている。何しろ無邪気だった。あと、みんな、小さかった。当たり前だが。

 そしてそれは、4人それぞれの個性が見えた時間でもあった。今井絵理子は明るくて社交的で、この中では一番アイドルっぽかった。集合インタビューでは声の判別をつけるために最初にレコーダー(当時はカセットテープ)に向かって名前を言ってもらうのだが、今井の最初の声が小さかったので、僕が「あっ、もう1回!」とお願いしたら、「今井絵理子で~す!」とものすごく明るく、おどけて言ってくれた。キュートだし、グループの中心でやっていく素質がある子だろうなと、すぐに感じた。

 島袋寛子は、明るくはあるのだが、話をしているさまは、とてもナチュラルだった。頑張って笑うようなことはないし、どちらかというとクール。でも前向き。当時この中では唯一の小学生(6年生)だったが、そんなイメージはあまり受けなかったほどで、やや落ち着きも見えた。

 上原多香子は、存在感が薄かった。ほとんど話さないし、主張することもゼロ。僕はその時、「この子、かわいいけど、性格は地味なのかな。もしかしたら暗いほう?」と感じたくらいだった。あとで1ページ分の記事を仕上げたら、彼女は2回ほど、それも短く発言しただけで、大丈夫かな? と思ったくらいだ(雑誌にはそのまま載った)。後年、たいへんな美女へと成長を遂げた時に「一番地味だったあの子だよな?」と驚いたものだ。

 そして新垣仁絵は、島袋とは違う意味でナチュラルというか、かなりマイペースな雰囲気の子だった。話はちゃんとしてくれるけど、これまた頑張って笑顔を作るようなこともほとんどなく、むしろ淡々としている。あんなに踊る子なのに、ふだんは落ち着いてるのか、と思った。

 こうして各人を見ると、あまり明るくなさそうだが(笑)、それは僕が場を強引に盛り上げるようなインタビュアーじゃないからかもしれない(活字媒体の書き手は、だいたいそういうもんだ)。撮影に入ると、クリスマス風の衣装になった4人は、にこやかだった。若々しく、元気なグループの陽性のエネルギーが、スタジオの中心で輝いていた。その時の写真の出来があまりに良くて、試し撮りを見たマネージメントのスタッフが「写真チェックはなしで大丈夫です」と編集者に言っていたほどだ。今みたいに画像データをPCで直すこともないし、まだ、ゆるい時代だったんだな。それに、SPEEDというグループを取り巻く環境も、おそらく。

 ただ、こうして思い出すと、取材の場での彼女たちの姿は、グループの本質の一端だった気もする。なにしろSPEEDは沖縄アクターズスクールの出身。つまりこの連載でも書いた安室奈美恵やDA PUMP、それにMAXと同じ出自を持つのである。ダンスが好きで、幼い頃からそれを志してきた子たちが集まったグループなのだ。

 ただ、いざデビューして芸能界というところに来ると、ダンスや歌だけやっていればいいわけではなく、それなりの対応力を身につけることが求められる。TVカメラの前ではおどけた姿ができたらいいだろうし、人に面白がられるトークもすべきだろう。それが本分ではないものの、要求される場面で応える能力はあっていい。

 そういうことも、彼女たちは徐々に体得していったに違いない。僕が受けた、決して明るすぎない4人のイメージは、デビュー直後の、まだ無邪気でもよかったタイミングゆえのものだろう。

 さて、SPEEDのデビューはこの少し前の1996年の8月、シングル「Body & Soul」にて。その頃から彼女たちは並のグループとは違う印象があった。何においてもレベルが違ったのである。

 この歌は、ギターのカッティングはシックの「おしゃれフリーク」を彷彿とさせ、そうして連ねられるファンキーな感覚に乗っていく島袋と今井のヴォーカルが秀逸である。当時「これ唄ってるの、ほんとに小学生か!?」と驚いたものだ。のちに多数のカバーも生んだ曲であり、いきなり大ヒットを記録した。プロデューサーは伊秩弘将で、彼の存在もここからクローズアップされていく。

 2枚目のシングルは先ほどの「STEADY」で、今度は横ノリの楽曲で実力を示した。もともとSPEEDは当時のアメリカのR&Bで大人気だったTLCに憧れを持っており、この曲のミディアム寄りのリズムにはその傾向が見られる。時おり聴こえるピーヒョロロ~みたいなキーボードの音色はGファンクを意識しているはずで、そのくらいSPEEDの音楽性にはR&Bやファンクの影が大きかった。そしてそれを小中学生が唄って踊っているという事実が、めちゃくちゃセンセーショナルだったのだ。

 SPEEDは、名曲をどんどん世に送り出していく。歌詞も話題になったのは「Go! Go! Heaven」。伊秩の詞は、あざとさ直前のところでそれをポップに昇華させるバランスがあるが、時々「そこまで唄わせるんか!」ってものもありで、しかしそれもSPEEDには合っていた。そこには彼女たち自身のテーマ、たとえば枠をはみ出して生きること、自分たちにとって大切にしたいことなどが反映されており、リスナーはSPEEDの実像と重ねながら楽しむことができたのだ。

 デビュー曲のニュアンスをさらに発展させたかのような曲は「Wake Me Up!」。この頃の彼女たちは、こういうファンキー感がほんとにお得意だ。ちょうどこの歌の頃にライヴを見る機会があり、それはじつに爽やかな、気持ちのいい空間だったことを記憶している。

 この頃になるとSPEEDの存在は一般レベルにまで知られていて、歌やダンスとは別に、ファッションにも注目が集まっていた。当時はストリートファッション全盛で、その波はそれこそローティーンにまで押し寄せつつあり、子どもたちもクールな雰囲気の服を着るようになっていた。僕が渋谷の街中でお茶をしていた時、ちょっとカッコいい服を着た子どもたちが通りを歩いていて、それを見た隣の席の大人たちが「SPEEDみたいな格好してるよね」なんて言ってたのを覚えている。そんな時代だったのだ。

 そしてSPEEDをトップグループの座に押し上げたのはデビュー2年目に放った「White Love」だ。クリスマスというモチーフが若さとみずみずしさ、その一方で、せつなさも漂わせながら、ひとつの実を結んでいる。結果的にこの曲はダブルミリオンというSPEEDのシングルの中で最大のセールスを記録した。

 1998年の初頭には「my graduation」をリリース。満を持しての卒業ソングで、もはや貫禄すら感じられる。

 ただ、あとで知った話だが、グループの活動については、もうこの時期から伊秩をはじめとしたスタッフたちがどうしていくべきなのかを考えていたようだ。確かにあまりに急激に成長した彼女たちは休むことをずっと許されず、さまざまなことが飽和状態になっていた感を受ける。

 この段階では「ALL MY TRUE LOVE」がいい出来の歌だと思う。

 ただ、もはや新鮮味はなく……いや、それはキャリアを重ねれば当然のことなのだが、その代わりの突破口になる何かも見えてこない。相変わらずヒットを飛ばしていたSPEEDだが、それが少しずつ落ち着きを見せ始めた時期でもあった。

 やがてメンバーのソロ曲、そしてソロ活動も始まり、グループの一体感は低下していった。そうなってからも活動を続けたものの、結局SPEEDは2000年の春に解散という節目を迎えることになる。

 以降の彼女たちは、それぞれの活動の合間に再結成~再活動を幾度か繰り返しており、新作も出している。若さいっぱいの言葉とメロディが躍動するあの歌を、大人の年齢になった彼女たちが唄うと、どんなふうに感じるものなんだろう? 再結成のライヴを見たりしたファンは、そんな時の流れを実感したことだろう。

 現在は4人が4人とも、あまりにそれぞれの道を歩んでいて、最初に書いたような報道が多いことを思うと、彼女たちがまた集まり、唄って踊るようなことは難しいのかなと……思ったりする。

 ただ、このことは書いておこう。

 間違いなくSPEEDは、日本の音楽史上に残るローティーン・グループだった。近年、とくにスポーツや将棋といった世界で10代前半の子たちが稀有なパワーを見せているが、J-POPにはSPEEDがいたのだ。その事実は強調しておきたい。

◆「平成J-POPプレイバック!」過去記事はこちらから

●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
阪神タイガース、ゲッターロボ、白バラコーヒー、ロミーナ、 出前一丁を愛し続ける。
妻子あり。
Twitterアカウントは、@you_aoki
 

気鋭のアーティストを積極的に起用し、名曲を続々リリース! 平成J-POP史におけるSMAPの功績

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析! 

 珍しくジャニーズ絡みの仕事をちょっとだけした。発売されたばかりの雑誌「音楽と人」4月号の表紙巻頭が関ジャニ∞で、僕はその記事の中で錦戸亮くんにインタビューをしている。

 錦戸くんに取材するのは実は2回目で、10年ぶり。その時は、彼と斉藤和義くんとの対談の司会だった。錦戸くんが音楽好きだとよく理解できた対談になって、取材後には握手をしてもらったものだ(今回はあちらが忙しそうでもあり、握手しそびれた)。

(と、ここまで書いたところで、錦戸くん脱退? の報道が……! なんと。青天の霹靂。驚いた)

 で、自分がジャニーズ関連の仕事をしたのは、これ以外ではあと2つくらいで、いずれも雑誌の連載の中でのものだった。ひとつはV6のゲーム(プレステの1の頃だったはず)について書いたのと、もうひとつはSMAPのライヴレポートである。その時のSMAPの最新シングルが「KANSHAして」だったので……1995年? もう24年も前になる。

 ということで、まさに平成という時代を彩ったアイドルグループ、SMAPについて書くのが今回である。

 先ほどのSMAPのレポは、こちらが提案して記事にしたものだった。横浜アリーナと日本武道館のライヴを観たのだが、本当に完成度の高いショーで、感心したものだった(いま思うと、場所はドームではなかったんだな)。

 アイドル、それも男性グループについていつもは仕事をしていない自分が、当時はSMAPにそれくらい関心を惹かれていた。彼らの存在が画期的であると考えていたからだ。

 とはいえ、僕がSMAPをいつ認識したのかはあまり覚えていない。彼らの曲はたまに耳に入ってくる程度で、なんとなく「SMAPというグループがいるな」程度だったと思う。ただ、「あ、この子たちはちょっと違うな」とはっきり感じた時があった。

 それはシングル「$10」だった。作詞が林田健司と森浩美で、作曲は林田。編曲は、これも林田とCHOKKAKUのタッグである。当時の自分はこの林田のこともよく知らなかったのだが(発売は1993年の11月……音楽について書く仕事を始める前のことなので、大目に見てほしい)、ヒットチャートの中でこの「$10」がめちゃくちゃカッコ良く聴こえたのだ。

 疾走するリズムをかき立てるファンキーな感覚。メンバー間で絶妙に唄い分けていくコンビネーションと、そのパワー。サビは彼らのヴォーカルが一斉に飛びかかってくるかのようで、じつに颯爽とした迫力があった。楽曲自体は歌詞にシャレというかわかりやすいダブルミーニングをかませていて、それを彼らが唄うと、華やかさと爽やかさの両方が弾けるような感覚があった。

 ダンス・ポップをこんなにも開放的でキャッチーなものに昇華させるSMAP、けっこうすごいんじゃないか? そんなふうに素直に思わせる何かを感じたのだ。

 しかし、この時点で彼らはデビューから2年以上が経過しており、シングルも10枚目と、それなりのキャリアを築いてはいた。早くからブレイクしたわけではない分、それだけの下積みができていたのではないかと思う。

 この頃のSMAPの音楽性はダンサブルなポップス、特にファンキーなサウンドに対して意識的だった。林田&CHOKKAKUの「君色思い」はあの「君の瞳に恋してる」を彷彿させるノリがあるし、「Hey Hey おおきに毎度あり」はヘンな大阪弁とともに当時のR&Bの感覚が匂う。シンセなんてPファンクぽいし。そしてこの曲で彼らは初めてセールスチャートの1位を獲得したのだった。

 これ以降はもう出す曲出す曲が大ヒットで、それがどれもクオリティの高い曲ばかりで、こちらも楽しかった。「オリジナルスマイル」の明るい躍動感は聴いていてすごくポジティヴな気持ちを押し上げてくれたし、先ほどのようなファンキーな勢いを持つ楽曲としては「がんばりましょう」「たぶんオーライ」「KANSHAして」などなど……当時、新曲を聴くたびに感服したものだ。

 そして僕は、この時期にSMAPのライヴを観たわけだ。原稿では彼らのファンキーさと、それにおいては最年少でありながら香取慎吾の声やたたずまいが大きいことを書いた覚えがある。

 こんなふうに自分は音楽的な部分が先に入ってきたのだが、主にテレビ番組で触れる彼らの印象も、それまでのアイドルグループとは違うものが感じられた。特に驚いたのは、メンバーがグループから離れ、それぞれが別の場所に行き、そこで自分の個性を発揮していたこと。グループの中の個人が単体で雑誌の表紙になったり、ひとりだけどこかの番組に出てキャラを発揮することは、それ以前の芸能界ではそれほど盛んではなかった気がする。ここはマネジメントの秀逸さでもあるし、それに応えたメンバーの力でもあるだろう。

 で、そうしてバラバラで出ている彼らに、どこか「隣の兄ちゃん」的な親しみやすさがあるのも大きかった。よく言われることだと思うが、かつては手の届かない存在であることこそアイドルだったのが、80年代以降は、まるで隣に住んでるとか、クラスにもいそうなお兄ちゃんやお姉ちゃんのような親しみやすさが魅力だとされる傾向が出てきた。90年代に人気を得たSMAPもその流れにあって、バラエティ番組やトークでは飾らないキャラを見せるなど、「なんだ、彼らも普通の若者なんだな」と思われるような一面を見せることが多かった。そしてそれは歌の中で、決してカッコ良くない、それこそ毎日を頑張ってる市井の人間の日常を唄っていたことともつながっていた。

 ただ、逆説的だけど、やはり彼らはアイドルグループで、そんな普通っぽさを持っているはずの若者たちが、ひとたびカメラの前に、あるいはステージの上に立てば、正真正銘のトップアイドルの輝きを放つわけである。その見え方のバランスがすごく新しいな……と当時は思ったものだった。

 アイドルポップには門外漢の自分だし、しかも今さら、決して偉そうに言うつもりはない。ただ、SMAPのあり方は、日本のアイドルグループにおける革命だったと思う。

 で、彼らはたくさんのいい曲をどんどん世に出していった。「しようよ」や「俺たちに明日はある」も良かった。さっきの「KANSHAして」、それに「青いイナズマ」が素晴らしかったので、その後、作曲者である林田健司のライヴに行ったこともある。

「SHAKE」や「ダイナマイト」もダンサブル路線の秀逸作。「ダイナマイト」なんて、歌の中で誰かの声が裏返ったりしているのに、そこもイキにしているところには彼らの勢いと自信すら感じる。

 それからSMAPの制作スタッフは、作家ばかりではなく、気鋭のソングライターを起用する姿勢も優れていた。山崎まさよしの「セロリ」なんてその最たるものだ。スガシカオが作詞、川村結花が作曲をした「夜空ノムコウ」も同じく。そう、ファンキーさが裏テーマのはずのSMAPが、そうした音が得意なスガに、この曲では詞を依頼したのだ。そして<あれからぼくたちは>から始まる詞は、SMAPのメンバーたちも徐々に大人になっていく事実を感じさせてくれた。初期の曲では、笑顔や友情などを唄っていたのに……。このことは彼らの歌に親しんできたファンも、感じ入るものが少なからずあったのではないだろうか。

 ほかに、99年のシングル「Fly」の作曲はマグースイムというバンドの野戸久嗣が手がけている。当時、小さなライヴハウスで彼らの歌を聴いていた身にとって、こうした大抜擢には本当にビックリした。ミディアム・テンポの渋いファンク・サウンドで、下敷きになっているのはスライ&ザ・ファミリー・ストーンだろう。また、だいぶあとになるが、2013年の「Joy!」は赤い公園の津野米咲が書いたりと、SMAPは制作面でそうした着眼点も優れていた。仮にコンペの結果であったとしても、だ。

 大人の年齢になっていった彼らはこのあとも「世界に一つだけの花」をはじめ、「らいおんハート」「ありがとう」など、名曲をたくさん出していった。そしてそれに国民の多くが親近感を抱いていたと思う。

 で、僕がここまで彼らを評価してきた事柄について、もしかしたら違和感を持つ人もいるかもしれない。そんなん普通じゃん? とか、当たり前のことじゃないの? みたいなふうに思う人もいるんじゃないかと。

 けど、これらのことの多くには、かなりの部分をSMAPがトライし、チャレンジを重ね、開拓し、そこから世間のスタンダードになったことも多いのだ。彼らの成果がその後のアイドルやポップスの先駆となったことはたくさんあって、その影響には無視できないほどの大きさがあるはずである。

 最後に、ちょっと蛇足かもしれないが、SMAPがいかに親しまれていたかを痛感した話を紹介しておく。

 ご存じの通り、このグループの長い歩みの間にはいろいろあって、メンバーが世間的によろしくない行為をしたこともある。その中で、酔っぱらいすぎて、公園で服を脱ぎ、「裸で何が悪い!」と叫んだ騒ぎがあったのを覚えてる人も多いだろう。まあ草なぎ剛なのだが。

 この事件があったのが、2009年の4月下旬のこと。で、僕はその直後に、取材で東北のロック・フェスティバルに出かけた。春の仙台の山間で行われるARABAKI ROCK FEST.という、日本のロック系のバンドやアーティストが大挙して出演するフェスである。

 おかしかったのが、この年のそのフェスのライヴ中のMCで「裸で何が悪い!」という言葉を使うバンドが続出したことだ。フェス自体は丸2日間にわたって行われ、当時のステージは4カ所あったはずだが、僕が目撃しただけでも4組がライヴの合間にこの言葉を発していた(つまり、もっと使われていたかも?)。そして、そのたびにお客さんからは大きな笑い声が起こっていたものだ。

 ただ、このセリフは、決してその件をギャグにするだけじゃなく、雰囲気としては「SMAPという日本を代表するようなスーパーアイドルでも、あんなふうに羽目を外してしまうことだってあるんだもんね」みたいに、かなりの親近感を持って使われていた感がある。中には「あんなさ、酔っぱらって裸で騒ぐような奴なんて、俺の周りにウジャウジャいるよ?」と、まるで<草なぎくんも俺たちと同じじゃんな!>と言わんばかりに話すミュージシャンもいた。まあ怒髪天の増子直純なのだが。

 SMAPは日本人にとって、本当におなじみの存在なんだな、と。いま思い返すと、まさしくそうだったと確信できる件である。

 SMAPは日本のお茶の間をにぎやかにし、そして平成という時代のエンタメ界の最前線に君臨したアイドルグループだった。それも、まずは音楽の、楽曲の質の高さがあってのものだったはずだ。彼らみたいなアイドルがいたことは忘れないでいようと思う。

 いや……忘れないだろうな。それは誰しもが。SMAPを好きだった人はもちろんのこと、好きじゃなかった人でさえ。

 彼らはそれくらい、大きな存在だったから。

●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
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妻子あり。
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自由奔放なヴォーカルで一世を風靡! ”元祖ギター女子”川本真琴、インディーズで新境地

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析! 

 先日、宇多田ヒカルの<歌姫ってなんなん>というツイートが話題になった。

 発端となったのは、おそらく11日にTBS系でOAされた番組『歌のゴールデンヒットー昭和・平成の歴代歌姫ベスト100ー』。彼女はたぶん、この番組内で、CDやレコードの売り上げで“歌姫のランキング”を決めたことに対して触れたのだと思う。

 僕もこの番組をなんとなく観ていた。当連載で過去に登場した安室奈美恵は4位、ZARDは3位にランクイン。

 で、今日取り上げる人はどうだったかというと……あら? ランク外? そうかー。大ヒットした曲もあるけど、そもそもリリースの数自体がそこまで多くなかったから、シングルの売り上げの集計をしても、そこまで数字が行かないのかなと。

 と解釈しながら、川本真琴について書きます。

 彼女のデビューは1996年のこと。デビューから、いきなり衝撃的だった。なにせ1stシングル「愛の才能」の作曲、アレンジ、プロデュースは岡村靖幸。その楽曲のファンキーさだけでもかなりの魅力がある上に、川本の歌声もルックスも、じつにキュート。結果、この「愛の才能」はスマッシュヒットを記録し、彼女はデビュー早々、音楽シーンの最前線へと躍り出たのである。

 川本は、その年の秋に2枚目のシングル「DNA」をリリース。さらに翌年の「1/2」、そのまた次の年の「桜」と、ヒットを連ねていった。この間には最初のアルバム『川本真琴』も出し、これはCDチャートの1位を奪取するほどのセールスを残している。

 川本の歌にはいくつかの特徴がある。歌声は、ちょっとロリータっぽくも、またアニメ声っぽくもあるハイトーン。その声や本人の風貌と絶妙なブレンドを見せるのは、青さや若さを感じさせる歌詞の世界だ。当時の彼女は20代前半だったが、<明日の一限までには 何度もkissしようよ>(「愛の才能」)といったように、歌詞の面では大人になる手前の少女の心情が鮮烈に反映されていた。しかも、その詞はまるで早口のように言葉が詰め込まれていて、これによって生まれる性急さが感情のスピードを加速させている感覚があった。

 また、アコースティック・ギターをかき鳴らすイメージもフレッシュだった。この頃はギター女子なんて言葉もなく、もちろんYUIが出てくるよりもぜんぜん、前の時代。「川本真琴=アコギ」のイメージは、初期の頃から彼女の個性として定着した。

 そしてメロディや曲全体に感じられる、自由で、のびのびとした感性。たとえば「1/2」や「桜」のような楽曲のイメージの広がりには、ほかのどんなアーティストでも表現することができない独自性がある。

 で、この頃からなんとなく感じていたのは、彼女はどこかナチュラルな……天然なところがある人ではないかということ。それは当時、ファンの方も感じていたのではないだろうか。

 というのは……1998年の春、渋谷公会堂でのライヴのこと。原稿を書くために川本のライヴを初めて観に行った僕は、そこで奇妙な光景に対面したのである。曲の合間のMCで彼女は「今日はずっと、最後に<パンチョ>って付けてしゃべろうかな」と笑いながら言ったのだ。そして以後、ステージ上で彼女は「次の曲はなんだっけパンチョ?」「今日はいい感じだねパンチョ」というふうに、語尾にパンチョを付けて話し続けた。その意図はよくわからない。きっと、なんとなくだったんだと思う。

 終演後、レーベルであるソニーの担当の方に通されて、川本本人と、ほんの一瞬だけあいさつができた。間近で接近した川本真琴は本当にかわいかった。そしてお互いにドリンクを手にしていたので、「今日のライヴはとても楽しかったです。パンチョ」と言うと、彼女も「パンチョ」と返してくれて、グラス(プラカップだけど)で乾杯した。

 この日の演奏は、とても良かった記憶がある。ただ、僕の中では、川本の渋公ライヴは「パンチョ」という言葉の思い出のほうが強く残っている。

 で、当時、川本は確かに時代を代表するシンガー・ソングライターとして君臨していた……のだが。ハタから見ていて気になったのは、どうにも安定しない活動ペースだった。

 まだデビュー数年のアーティストにしては、作品ごとのインターバルがやけに長いこと。ある程度のライヴやメディア露出をしたと思いきや、その後プッツリと沈黙が続くこと。すでに人気アーティストだったから、いろんな方面からの仕事の話は多かったはずなのに、こうして沈黙する状態が続くばかりだった。おかげで本人の姿どころか、テレビや街中でも曲を耳にすることが徐々に減り、川本、大丈夫か? と思ったりしたものだった。

 結論を言うと、この90年代後半から2000年代の初頭にかけて、川本は自分のペースで音楽に向かうことに苦慮していたのではないかと思う。たぶんスタッフ側はもっと仕事をしてほしかっただろうけど、彼女本人はそこまで多作なほうでもないし、スケジュールを詰め込みたいわけでもない。このナチュラルなアーティストには、メジャーでの活動の仕方があまり合わなかったのではないだろうか。

 その後、2001年の春に、川本は2枚目のアルバム『gobbledygook』のリリースのために、ひさびさにメディア露出をしている。デビュー・アルバムから、なんと3年9カ月ぶりの2作目だ。その雑誌インタビューを読んでいたら、このインターバルについて川本自身は「長いですよね。特に9カ月ってのが長いですよね」と答えていて、僕は誌面に向かってツッコまざるを得なかった。いやいやいや! 9カ月でなく、3年のほうが長いでしょ! あの天然ぶりは健在だったのである。

 ただ、このアルバムから、川本の動きはまた鈍化していった。当時は把握していなかったのだが、9枚目のシングル「ブロッサム」を最後に、メジャーとの契約が終了。それ以降、彼女は表舞台から去ってしまった。

 それから時が経過し、川本のことを忘れかけていたゼロ年代の半ば頃のことだ。彼女がインディーズのアーティストたちと活動しているというウワサが耳に入ってきた。数年の潜伏期間を経て、再び動き始めているようだった。

 05年の暮れには、シンガー・ソングライターの豊田道倫のアルバム『東京の恋人』に参加していて、驚いた。豊田は非常に生々しい歌を唄うシンガーだが、このタイトル曲は名曲で、その後半でほんの少しだけ聴こえる川本のコーラスはあまりに優しくて、じつに感動的だった。

 川本は、豊田のこのアルバムの発売記念ライヴにもゲスト参加していて、僕はそこでひさびさに彼女の姿を見ることができた。川本は、東京のインディ・シーンのミュージシャンたちに混じって、確かに舞台にいたのだ。

 この頃から彼女は、たとえばタイガーフェイクファという名義でリリースするなど、自分なりの新たな活動の仕方を展開するようになる。

 やがて僕のところに、そうしたミュージシャンたちと交流する川本に取材する話が来て、インタビューすることになった。時は2011年になっていた。その場所が、あの渋谷公会堂のすぐ近くのカフェだったのだから面白い。

 あらためて対面した川本は30代後半になっていたが、相変わらずきれいで、かわいかった。そして会うや否や、「前に会ってますよね?」と言われて、ビックリした。うーん、会っているといえばそうだけど、13年前に渋公でパンチョ乾杯したのはほんの一瞬だったので……。「まあ、そうですけど、えーと」と言いながら、たぶん彼女の記憶違いではないかと思った。で、「そこの渋公でライヴした時に、語尾にパンチョって付けて話してましたよね?」と尋ねたところ、そのことを覚えていて、「言ってた」と笑う彼女だった。

 実家のある福井に住み、そこから時々、東京など別の土地まで行って唄ったりしているという川本は、のびのびしていて、居心地が良さそうだった。そういう感じで音楽に向き合いたかったのかな、と思った。

 あれから数えても、もう8年。それ以降も川本はインディーズをベースにしながら活動を続けてきている。

 14年には神聖かまってちゃんの「フロントメモリー」にヴォーカルで参加。かまってちゃんと川本……精神的に大人の世界になじめないまま、それでも生き続けるアーティスト同士の、あまりにハマりすぎの共演だった。この時のライヴも最高だったな。

 16年はリリースが多かった。これは夏に発表した「ホラーすぎる彼女です」。

 ほかのミュージシャンとの交流も盛んで、「川本真琴withゴロニャンず」名義での活動もしている。

 これも16年秋の「ドーナッツのリング」。

 そしてこの年には、メジャーのコロムビアからデビュー20周年記念盤であるセルフカバー集『ふとしたことです』をリリース。これには「愛の才能」「1/2」、ファンからの人気が高い「やきそばパン」も収録されている。

 この時期、川本は音楽誌のインタビューで、こんな発言をしている。

「活動を休んでいた頃は、やっぱり葛藤もありました。でも、今ではそういう時間が持ててよかったと思ってるし、こうしてまた来年もいろいろやれたらいいなって。でも私、ホント先のことが考えられないんですよね(笑)。ぜんぜん計画的じゃないし、これからもきっとそんな感じなんだろうな」

 今の彼女の歌を聴いて驚くのは、声の魅力が変わっていないことだ。どこか子どものような、そして自由奔放なヴォーカルは、90年代当時から、いや、それどころか、さらに大きな魅力を放っている。そしてアコギもさることながら、幼少期から習っていたというピアノを弾きながら唄うのも、現在の川本のスタイルとなっている。

 で、いろいろ調べていたら、なんと彼女、今週末の24日(日)に下北沢のシェルターでライヴをするとのこと。後藤まりことの2マンのようである(この2人、昔、雑誌で対談してたな)。

 なんかPRっぽいけど、まったくの偶然で、でもせっかくなので、ここに載せておくことにする。気になる方は、ぜひ(チケットは→https://eplus.jp/sf/detail/2793330001-P0030001 )。

 ともかく川本が今、自分らしいペースで音楽を続けている。それこそテレビの歌番組とかで見かけるようなことはないし、今の彼女はあの頃とは違う。成長もしているし、自分自身のやり方を身につけているのだから。

 90年代の頃とはまた違った、でも今なりの川本真琴のスタイルで、唄い続けていってほしいと思う。

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●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
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メディア露出もライブ活動も一切なし! 「CD至上主義」を貫いたZARDが今でも愛されるワケ

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析! 

 倉木麻衣がZARDの坂井泉水と共演した。2月1日の『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)での一幕である。曲は「負けないで」だった。

 その時に見た倉木には「大人になったなぁ」と思ったのだが、坂井のほうはひとつも変わっていなかった。それはそうだ。彼女は故人で、使われるのはいつだって若い頃の映像だからだ。そう、もちろんこのコラボは、2人の映像と音声を編集し、合成した上で実現したデュエットである。ただ、とにもかくにもビーイングに所属するシンガー同士が、長い時間を超えて共演したわけである。

 この「負けないで」は、ZARDが活動を停止してからもう何十年もたっているのに、今でも広く愛され続けている曲だ。うちの子どもも、テレビに映る2人の女性シンガーと一緒に、楽しそうに唄っていた。

 今回は、このZARDについて書こうと思う。

 ZARDといえば、90年代以降の日本の音楽シーンを代表する存在である。ヒット曲も多数。ただ、その印象がリアルにつかみづらいのは、歌番組に出たりライヴをしたり、あるいはプロモーションやキャンペーンでメディアに露出したりということが、初期の一時期を除いて、基本的にはなかったためだ。裏を返せば、そのぐらいZARDはレコーディング作品こそ最重要という姿勢を貫いていた。

 僕は、あまりにも完成度の高いその音世界が気になって、ZARDについての原稿を音楽情報誌「WHAT’s IN?」(エムオン・エンタテインメント)に寄稿していたくらいだった。ただし残念ながら、坂井にインタビューしたことも、接見したことも、ない。こちらからアプローチしたことといえば、メール……じゃなくて、当時だからFAXでの質問票を介した、文章上のみのインタビューくらいだ。だから歌を聴きながら、果たして彼女はどんな人なのかを考えたものだった。

 そんな仕事をしていた関係で、周りから時々、坂井についての話が間接的に入ってきた。といっても、大したことではない。ある出版社の方は、雑誌の取材を受けるために彼女が来社したことがあったそうで、「それらしい女の人をチラッと見かけましたよ。思ったよりも小さかったな」と教えてくれた。それだけだ。

 ZARDのアーティスト写真を撮ったことがあるというカメラマンさんは、撮影の合間に坂井とちょっとだけ話をしたという。「普段は何をしてるんですか?」と訊いたところ、彼女は「詞を書いてますね」とだけ答えたらしい。「いかにも」な話すぎて、こちらとしてはひとつも盛り上がらなかった。

 そのぐらい坂井泉水という存在は、誰に対しても、近くなかった。ZARDといって多くの人の頭に思い浮かぶヴィジュアルは、どこかアンニュイな坂井の像だろう。写真の多くはソフトフォーカスで、映像にしてもあまりクリアーではなくて、表情は豊かではなくて。その画の中で、彼女が道にたたずんでいても、ステージで唄っていても、またレコーディングの風景だとしても、遠い世界にいる人のような感じがいつもしていた。

 もっとも、このあたりは……テレビ出演やライヴもしていたデビュー当初はそうでもなかったことを思うと、だんだんとイメージ戦略化していった気配がある。この世に確かに存在しているのに、ミステリアスであるというか。

 さて、90年代の前半はガールポップと呼ばれたジャンルが人気を博した時期でもあった。谷村有美や久宝留理子、永井真理子に森高千里……。それまでのシンガー・ソングライターとも、またアイドルとも違う、まさにJ-POPの時代にふさわしい、新しいタイプの女性アーティストが大挙して現れた頃だ。

 しかし、ZARDはそのシーンとも完全に距離を置き、独自の道を歩き続けた。なにせメディア露出もライヴ活動もせず、その世界はひたすらスタジオでクリエイトされるのみ。これだけ孤高のままメジャー・シーンを突き進んだアーティストも、そうはいない。

 そして今聴いても思うのだが、ZARDはとにかくクオリティの高い作品群を残している。ZARDの代名詞といえば、やはり先ほどの「負けないで」になる。1993年にリリースされたこの6枚目のシングル曲は、ZARDにおける大きな出世作でもある。だが、これ以外にも名曲、秀作は数多い。

 僕個人の感覚では、8枚目のシングル「揺れる想い」のインパクトのほうが強かった。坂井の清涼感あふれるヴォーカルが映えるポップチューンだ。この頃くらいまでは特にそうなのだが、ZARDの出発点はバンド編成で、それもブリティッシュ・ロックをベースにしたサウンドが主体だった(「負けないで」のアレンジはダリル・ホールの「ドリームタイム」を想起するが)。これが徐々に坂井のひとりユニットのように変化していったわけだが、ともかくその音と、彼女が唄うポップ・メロディとが見事に融合していた。

 もっともビーイング制作なので、ZARDの音も優秀なスタジオ・ミュージシャンたちが集って奏でられたものだ。それだけ練り上げられたサウンドで、それがよくできすぎている……完結しすぎているせいなのか、ZARDが音楽好きの知人関係で話題になった記憶がない。

 当時、ロック好きの友人が、たまたま僕が書いた記事を見たらしく、「青木くん、ZARDなんかの原稿書いてるの?」と言ってきたことがあった。まあ、確かにJ-POPのド真ん中を行ってるメジャー・アーティストで、しかもビーイング所属というのは、当時は、特にロック界隈ではそんなにいいイメージはなかった(まあB’zが昔も今も別格なのはさておいてだ)。彼が、ZARDの良さがピンとこなかったのも理解できる。完成度が高くて面白みがない、というところだと思う。

 ただ、ZARDはビーイングの中ではちょっと文科系寄りで、坂井の歌声や詞も内省的なところがあったりして、僕はそこに惹かれていた。「負けないで」は人生の応援歌だなんて言われたりするが、ZARDにはもっと繊細な心模様を唄っていたり、主人公がなかなか踏み出せない心境を吐露する歌もあったりして、その微細な描写も優れている。

 こうした楽曲の世界は、作を追うごとに研ぎ澄まされていった。「もう少し あと少し…」「きっと忘れない」「この愛に泳ぎつかれても」「こんなにそばに居るのに」「あなたを感じていたい」「愛が見えない」「サヨナラは今もこの胸に居ます」「マイ フレンド」「Don’t you see!」「永遠」……。音の傾向もアメリカン・ポップスやソウルなど、多彩に拡大していった。自分としては、そんなに有名な曲でもないけど「風が通り抜ける街へ」の、その名のとおり、風通しのいいポップ・センスが特に好みだった。

 こうした楽曲に加え、坂井の歌声と美貌も相まって……そう、女子フェロモン満載の歌世界によって、ZARDはヒットを出し続けた。先ほど繊細な心模様と書いたが、ZARDの歌には内面に強さを抱えた女性の姿が見える瞬間も多く、それもまた坂井の凛とした声質に合っていた。思えば90年代頃までは、映画でもマンガでもアニメでも小説でも、やや強気な女性像のほうがウケる傾向が強かった。もっとも、これもステロタイプ的な女性観ではあるのだが……。今ZARDを聴き返すと、当時の坂井泉水に、そんな時代背景までが重なって見える。

 こうしてZARDはメディアや人前に出ないスタイルのまま、活動を続けていった。99年に一度だけライヴを行っているが、それは本当に例外的なものだった。

 しかし2007年、坂井が亡くなったというニュースがいきなり流れ、世間に衝撃が走る。

 彼女はがんの治療のために長らく入院していて、その院内で転落死したというものだった。本当に驚いた。享年は40と報道されたが……それもリアルに響かなかった。いや、事実として解釈しようとはするのだが、やはりそれだけ違う世界にいる人のような感覚があったからだ。何しろ時を経る中で、「この娘も大人びたな」とか「成長したんだな」みたいな、普通のアーティストならこちらがいくらでも持つような感慨が一切ないままだったのも大きい。

 だから、そもそも病気だったとかも……彼女が入院生活を送っているとか、薬を飲んだりしている光景すら、想像がつかない。当時はそれを自分の頭で必死に理解しようとしたものだった。こうした悲しみに包まれながら、ZARDは活動を終えていったのだった。

 今思えば、坂井が亡くなったことで、ZARDのイメージは神格化されたように感じる。ZARDの音楽が時代を超えて訴求し続ける要因のひとつには、このこともあると思う。

 しかし、なんといっても一番の理由は、ZARDの音楽に息づく普遍性だろう。残された作品の中には時代性がうかがえるアレンジ(シンセやギターの鳴りは、いかにも90年代だ)や言葉もあるが、基本的には時や場所など関係なく響くポップスである。時流に左右されずに聴ける歌ばかりだし、その中で人の心のスキ間に入ってくる言葉が多いと思う。

 07年以降のZARDはここまでの間、残された音源や編集盤のリリースはしてきたものの、それ以外のことは基本的には一切しないままでいる。そこはスタッフたちもあの頃のZARDのままでファンの記憶にとどめられることを望んでいるのではという気がする。

 今回の倉木とのコラボも、あくまで番組内での企画だ。ZARDは、坂井泉水の歌は、今のまま、みんなの心に、それぞれのものとして残っていくのが、僕もいいと思う。

 でも、彼女の姿を何年ぶりかにテレビの画面で見たことは、昔のさまざまな記憶を呼び起こしてくれた。そして思い返した。一度だけでいいから、彼女の姿を生で見たかったことを。あの歌を生で聴きたかったことを。

 この思いは、たくさんのファンの方々も、きっと同じはずである。

●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
阪神タイガース、ゲッターロボ、白バラコーヒー、ロミーナ、 出前一丁を愛し続ける。
妻子あり。
Twitterアカウントは、@you_aoki

番組絡みの企画盤CD全盛期の90年代、”音楽デュオ”猿岩石はなぜ売れた?

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析! 

 有吉が、たとえばマツコの隣で鋭くツッコんだり、うまいことフォローしたりする、ああいうポジションに就いたのは、いつぐらいからだっけ?

 テレビを観ててなんとなくそう思い、ざっと調べたら、2008年頃からのようだ。かれこれ、10年以上か。これだと、若い子は猿岩石なんて知らないだろうなー。

 てことで、今回は猿岩石のことを取り上げてみる。

 有吉弘行(「ひろいき」と読むのね)は90年代後半、ヒットチャートをにぎわせた人気デュオのひとりだった。まあそれ以前に、彼と森脇和成による猿岩石はお笑いコンビだったのだが。

 もっとも、94年に結成した当初の彼らは、格別知られた存在ではなかった。それが有名になったきっかけは、当時の人気バラエティ番組『進め!電波少年』(日本テレビ系)でいきなり世界旅をすることになり、この企画が大ウケしたことである。

『電波少年』は何かとムチャをすることで視聴率を稼いでいて、アポなし(←この言葉を定着させた番組でもある)の突入企画が多かったりして、その無謀さが面白く、僕もたまに観ていた。思えば、後続番組含め、けっこうな数のキャラ立ちのいいタレントを輩出したものだ。松本明子、松村邦洋……と、挙げだすとキリがないので、省略する。

 無名だった猿岩石は、この番組で何をするのか知らされぬまま香港に行かされ、そこからロンドンまで、ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断する旅に出ることになる。96年4月から半年間にわたったこの旅の様子は継続的にOAされ、回を重ねるごとに2人は人気を得ていった。当然、貧乏旅で、このことは同番組以降、日本から海外へバックパッカー的な放浪をする動きを後押ししたはずだ。で、さらにこうした旅は若い世代の「自分探し」的な志向とリンクしていったと思うのだが……これも省略。そろそろ音楽の話をしよう。

 猿岩石が日本に帰ってきたのは同年10月のこと。そこで今度は歌手デビューすることになり、わずか2カ月後の12月に最初のシングルが発売される。それが「白い雲のように」だ。

 いま聴いても、いい曲である。なにしろ作詞は藤井フミヤ、作曲は藤井尚之という、元チェッカーズの兄弟コンビ(F-BLOOD)だ。そしてプロデュースは秋元康である。

 この曲のポイントはフォーク的な曲調にある。当時、「フォーキー」と呼ばれ始めていたものだ。前回取り上げたシャ乱Qでも「空を見なよ」(95年)がフォークロック調だったし、猿岩石と同じ96年に、ブレークしたてのウルフルズが「そら」を出している。もろフォークソングだと、アコースティック・ギターで繊細に、しんみりと、みたいなイメージが一般的だが、フォーキーというのは歌心があり、アコースティックでメロディアス、というところか。この頃、渋谷系やロック・シーンではサニーデイ・サービスやキリンジのような存在が最前線に出てきつつあった。90年代のJ-POPは分厚い音の、にぎやかで華々しい楽曲が多かったが、音楽界の一部ではこうしたフォーキーな曲調が支持されつつあったのだ。

「白い雲のように」で藤井兄弟は、猿岩石の2人の歌声を非常にうまく作品に還元している。有吉と森脇の歌唱力に特筆すべきところはないが、素朴かつストレートな響きを持ち、飾ることのないキャラクターがよく表れている(あくまで番組を通じての彼らの印象だが)。特に有吉は、歌わせると、それなりに映える声質だ。

 曲の構成は、1コーラスと間奏のあと、2コーラス目はないままサビのリフレインになるなど、極力シンプルに作られている。そしてフミヤによる歌詞では<見えない未来を夢みて><風に吹かれて消えてゆくのさ>といったフレーズが秀逸。この言葉には、テレビの企画で急に人気が出て、でもここから先はなんの保証もないんだよな~、と思っていそうな2人の心境をダブらせながら聴ける。それが口ずさみやすい、叙情的なメロディに乗ってるのだから、ファンにはたまらなかっただろう。

 ところがこの歌、そのファン以外にも波及していくのだ。「白い雲のように」は、発売当初の売り上げはそこそこだったのが、徐々にチャートを昇り始め、最高で3位を記録するほどのヒットとなる。ということは、番組からのファンがワッと買っただけでなく、世間で聴かれるうちに「けっこういいじゃん」と思われていったってことだ。

 そして同曲は、最終的にはなんとミリオン・セールスを記録し、97年の日本レコード大賞新人賞まで獲得。歌を含めた楽曲として、高い評価を得たのである。

 ちなみに、このシングルのカップリングは「どうして僕は旅をしているのだろう」という曲だ。どうしてって、そりゃ~番組の企画に乗ったからだろ! というツッコミ待ちのようなタイトル。こうした番組や彼らの状況を含めた歌詞表現はこの後、続くことになる。

 さて、猿岩石というか、主にはおそらく周囲のスタッフたち、か。彼らはここから怒涛のリリース・ラッシュを敢行していった。「白い雲のように」から3カ月たたない間に、次なる新曲「ツキ」をリリースした。

 作曲はALFEEの高見沢俊彦で、この曲調もフォーキー。「白い雲のように」の路線を、ちょっと強めのタッチでうまく継続している。歌詞では<HEY! HEY!>の繰り返しが印象的で、そのあとの<どうにかなるだろう きっと うまく行くさ>というあたりは、やはり彼らの立場を照らしてしまう。そして前作に続く、先のわからない、でも大丈夫と思いたいという心境は、当時の日本の人々の心理に合ったのではないかと思う。90年代後半は、あらゆる価値観が激変し始め、まさに混沌に突入していった時代だった。

 なお、作詞は高井良斉だが、これ、実は秋元康のペンネームなのだ。70年代、学生の頃から構成作家や作詞家として活動してきた秋元にとって、テレビとのマッチアップを絡めた創作はお手のものだったに違いない。

「ツキ」もうまく大ヒットし、猿岩石は音楽活動でもすっかり調子に乗ってしまった。今度は2カ月も空けずに新曲「コンビニ」。ファミリーマートのCMタイアップ曲で、R&B~AORのフレイバーが漂うミディアム・バラードだ。

 この曲調も、有吉のヤサ男っぽい歌声がとても合っている。ただ、僕はこの曲自体、まったく記憶にない。そこそこ売れているのだが、前2作ほどは心に残らなかったのかな。

 で、次もまた2カ月空けずに、「君の青空」「声が聴こえる」の両A面シングルが出る。これは猿岩石with VERSUS名義で、VERSUSというのは女性のお笑いコンビだそうだ(知らなくてすみません)。ちょっとフォーキー路線に回帰した感じである。

 と思ったら、これに続く「オエオエオ!」はレゲエのリズム。作曲はバブルガム・ブラザーズのBro.KORNで、編曲はCHOKKAKUだ。気合が入っているのがわかる。

「オエオエオ!」と同じ日には初めてのアルバムを出しているが、そのタイトルは『まぐれ』。プロデューサーはやはり秋元氏で、このネーミングセンスには、とんねるずっぽいノリを多分に感じるな……。そう、とんねるずこそ、テレビ発の企画から歌を量産したコンビだった(彼らについては機会があれば、また)。

 そして猿岩石は、97年の末にはクリスマスソング「Christmas」を出している。LUNA SEAの河村隆一が作曲したラブバラードである。

 とまあ、短い間に音楽面でも意外といろいろなアプローチをしているのだな……とは思うが、どちらかというと、セールスが少しずつ下がるにつれて迷走していってる、と言ったほうが正しいか。まあ、もともと音楽的な下地がない人たちが、最初は自分たちにフィットする歌が歌えたとはいえ、以降にそんなにたくさんの引き出しがあるわけがない。

 で、このCDのリリース・ラッシュは98年6月のシングル「初恋」まで続く。なんと1年半で9枚ものシングルを出したのだ。そりゃネタも尽きるだろう。

 そして最後のシングルは99年、次の10枚目「My Revolution」(渡辺美里のカバー)までだった。彼らの音楽での人気も、ここまでだったということか。

 この数年後の04年に猿岩石は解散し、有吉は長い低迷期に入ることとなる。しかし、再ブレーク後の彼の活躍は、言わずもがなだろう。

 かたや、相方の森脇は芸能界とは別の仕事を転々としながら、一昨年にタレントとして復帰していた。YouTubeには今の彼が作るチャンネルも開設されている。ただ、現在の活動ぶりは……どうなのだろう。

 と、音楽デュオとしての猿岩石をざっと回想してみたが、とにかく「人気があるうちに売ってしまおう」感のすごさにはあきれるばかりだ。なにせ、この短気間の彼らはCDだけでなく、『電波少年』関連の本やタレント本、それに写真集まで出しているのだから。

『電波少年』の系列からは猿岩石のほかにも、番組の内容に関連したCDがけっこう出ている。この後には『雷波少年』からヒットを飛ばしたサムシングエルスというバンドもいた(元から音楽活動をしていた人たちだが)。ただ、彼らも一時的な盛り上がり感が強く、やはりはやり廃りが反映されやすいテレビ界の影響をもろに受けている。

 もっとも、この90年代の終わり頃……つまりCDがよく売れていた時期までは、俳優やタレント、スポーツ選手など、そこそこ名の知れた人はよく歌手デビューしていて、テレビとか、それにラジオも、番組絡みの企画盤は非常に多かった。そのぐらい電波メディアの影響力が大きい時代だったわけだが、猿岩石はその中で傑出した成果を残したといえる。

 ただ、あだ名をつけるのがうまいとか、毒舌がすごいとか、その他もろもろ、有吉が今ほどのキレ者で、才能のある人だとは、当時なんとなく観ていただけの僕はまったく気づかなかった。もちろん、コンビ解散後の時期に彼が芸を磨いたのはあるのだろうけど……人生はわからないものだ。

 そして先が見えない気持ちを歌で唄っていた2人だが、今では芸人としての活動ぶりが、こんなにも違うというところにも、また人生を感じてしまった次第である。

●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
阪神タイガース、ゲッターロボ、白バラコーヒー、ロミーナ、 出前一丁を愛し続ける。
妻子あり。
Twitterアカウントは、@you_aoki
 

コテコテの浪花男から敏腕プロデューサーへ……平成J-POP史における、つんく♂の軌跡

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析! 

 つんく♂の影がないなあ、と。大みそか、『紅白歌合戦』を観ながら、思った。

 平成最後の紅白は、サザンというか桑田佳祐とユーミン(+サブちゃん)の共演があり、かたや米津玄師や2019年早々に注目度がピークを迎えるであろうあいみょんなど、大ベテランから新勢力までが魅力を発揮した。最後を飾った歌が「勝手にシンドバッド」だったこともあり、むしろ昭和の匂いのほうが強めに残ったが、これは視聴者層を考えると仕方ないか。

 たぶん平成時代をテーマにした構成案もなくはなかったと思うが、仮にそれにこだわっていたら、何かとスケールダウンしたり、いろいろと足らないところが出てきていたに違いない。

 さて、J-POPという呼び方は平成の初期に生まれたものである。それだけに今回の紅白でこぼれ落ちてしまったJ-POPの才能は数多く存在する。

 冒頭の「つんく♂の影がないな」という感想は、そんなことを思う中で湧き出てきた。彼が率いたシャ乱Qはもとより、ハロプロ勢も不在。というか、モー娘。だってずっと出てないんだな、紅白。

 そう感じてしまうくらい、つんく♂はJ-POP全盛期を牽引した存在である。そして、昔と今とで、彼ぐらいイメージが変わった人も珍しいと思う。

 なにせ、世間に知られ始めた頃のつんく(当時は♂マークがなかったので、しばらく省略して書く)は……つまり、最初にシャ乱Qで出てきた頃の彼のイメージは、あまり良くなかった。かといって嫌悪感を覚えるほどでもなかったが、音楽ファンとしては、どうにもチャラそうな印象があったのだ。

 僕がシャ乱Qを知ったのは、音楽について書く仕事に就く前の、90年代の初め頃。TVの深夜番組か何かで演奏する彼らを観て、どこか水商売的なバンドのムードやその歌に「これ、歌謡曲だよな」と感じたものだ(当時を覚えている方ならわかってくれるだろう)。ライヴハウスで活動をしてきたというが、ロック・バンドらしさはあまり感じなかった。大阪時代にはウルフルズ(もちろん彼らも有名になる前だ)とも対バンしていたらしいが、ウルフルズに比べ、シャ乱Qをロックとして捉える見方はほとんどなかったと思う。まあ、それは今も大差ないか。

 デビューからしばらくは下積みのような低空飛行を続けた彼らだが、地道な努力が実って、スマッシュヒットを放つ。それが94年初頭に出た「上・京・物・語」だった(下の動画、歌のスタートは1:39頃~です)。

 この歌は当時の人気TV番組『浅草橋ヤング洋品店』(浅ヤン)のエンディング曲に選ばれた。この次作シングル「恋をするだけ無駄なんて」も同じく『浅ヤン』で起用されている(1:06頃~)。

 もっとも僕個人は「おお、シャ乱Qもやっと売れ始めたか」なんて感慨に浸ったわけでもなかった。最初の印象の延長で、相変わらず歌が好きになれなかったからだ。ベタで、コッテコテで、やっぱり歌謡曲のアクの部分を抽出してるみたいで。この、人情というか、過剰に人間くさいところが苦手だったのだ。それも、表面的なところでなく、心の根っこまで掘り起こされるくらいの感情が込められているのが。

 しかも、つんくを筆頭に、メンバーの見た目もケバケバしく、それはもう関西の最も濃い部分をあえて盛っているかのように見えた。何もかもが下世話なバンドじゃないか、と。僕は関西の大学に通ってたし(詳細は後述)、親戚も多いし、なんたって阪神ファンなので、かの地の風土は大好きなのだが、時たま出会う個性が強烈すぎる人にはついていけないことがあるのだ。

 そうこうしているうちに、シャ乱Qはついに大ブレークを果たす。1994年秋、世間に認知される決定打となったのが「シングルベッド」だった(1:04頃~)。

 前述した、僕がどうにも苦手な部分をさらに濃厚にしたラブ・バラードだ。涙、失恋、未練……もはや歌謡曲というより演歌に近い。この歌でシャ乱Qは見事にヒットチャートの上位進出を遂げたのである。

 それ以降の彼らはあらゆるメディアに露出するようになり、メンバーのキャラクターやバンドの背景もだんだんと知られるようになっていった。そんな中、何かの記事で彼らが近畿大学の出身であることを知り、驚いた。そう、僕と同じ大学なのである。マジかいな!? まあシャ乱Qのほうが数年下で、僕とはほぼかぶってないくらいだけど。しかも、さらにのちにわかったのは、つんくは僕と同じ経営学部の学生だったということ。MIPS(当時の学生向けのコンピュータールーム)とか使うてたんかなぁ。僕は入り浸ってました。

 とはいえ、僕は相変わらずつんくに親近感を覚えたわけでもなく、「シングルベッド」のヒットについても冷めた目で見ていた。それどころか、下積みの時期には、自分たちの曲を有線放送に電話リクエストしていたという、これまた浪花節的なエピソードが聞こえてきたりして、「ま~たまた、コッテコテなことしよってからに」などと思っていた。

 ところが次に、洋楽好きとしてはソソられるヒット曲が出たのである。翌95年の「ズルい女」だ(1:04頃~)。

 ホーンのフレーズがインパクトのある曲で、この繰り返しがじつにカッコいい(サンプリング的だとも感じたほどだ)。また、バンドが奏でる分厚いリズムは、当時のハウス・ミュージックを通過したUKロックの影響さえ感じさせた。歌やメロディは相変わらず歌謡チックだが、「アゥ!」と叫ぶつんくは、もしかしたらプリンスを意識していたのだろうか。

 そして曲の大きなポイントは、彼のファルセットだった。サビ頭の「♪Bye-Bye ありがとう さよなら 愛しい恋人よ~」の「さ」のところで声を裏返らせている。歌謡曲の色気を、そして自分のチャームポイントをよくわかっているんだなぁと思った。

 シャ乱Q、案外やるやん。そう思ってたところに、今度は自分のツボをさらに突かれるタイプの曲が来てしまった。「空を見なよ」である(0:47頃~)。

 メロディも親しみやすいこの曲だが、僕が惹かれたのはギターの音色だった。これ、もろにフォークロックと呼んでいいサウンドである(60年代のザ・バーズとかね)。シャ乱Q得意のコテコテではなく、ちょっと叙情的な歌。作曲はギタリストのはたけで、なるほど納得だ。シャ乱Q、こんな叙情的な音が作れるんか? と驚愕したものだった。

 このへんから、シャ乱Qのサウンドへの視線を変えざるを得なくなった。そう思うと、「上・京・物・語」なんかは繊細なギター・サウンドが明らかにU2の影響下にあるし、粘っこいキーボードもニューウェイヴ的だと気づく。

 どの曲も歌メロは歌謡曲だし、大っぴらにロック・バンドを気取ってはいないし、彼らが目指していたのはロック・ファンよりも大衆的な層からの支持だっただろう。なのに音楽的には、じつに巧妙に洋楽ロックを取り入れていたのだ。もっと早く気づかんかい、という声が聞こえてきそうだが、当時の僕はやっと今の仕事を始めたくらいだったのだ。それに言い訳めくが、このバンドについては先入観があまりに大きすぎた。

 こうなると、もう次の曲が楽しみになってきたくらいである。濡れしょぼったメロディを持つ「My Babe 君が眠るまで」のギターのカッティングが響く音像は、ザ・ポリスの「ロクサーヌ」を意識しているに違いない(0:28頃~)。

 96年春のシングル「いいわけ」の焦点は、ハードなサウンドも際立っているが、むしろディスコ的なリズムの感覚に注目したい。これは、のちのつんく♂のプロデュース・ワークでも生かされるからだ(0:30頃~)。

 こうしてヒットを連ねていくシャ乱Qが気になってしょうがなくなった僕は、この頃、取材という名目で彼らのライヴを日本武道館に観に行った。あくまで興味本位的ではあったが、生での演奏を一度体験しておきたかったのだ。

 そのステージは本当にエンタテインメント性にあふれていて、彼らはお客さんを楽しませることに全力を尽くしていた。歌や演奏が優れていたのはもちろん、クライマックスではキーボードのたいせいが宙吊りになり、上空でグルグルと回転するというすさまじい演出があった。

 何をバカなことやってんだよ! とツッコみたくもなったが、冷静に振り返れば、KISSだって宙吊りになったりはしているわけで。そうしてみると、あのケバい衣装はグラム・ロックとかニュー・ロマンティックを独自に解釈したもの? なんてふうにも思えてくる。また、そうして体を張ってでも盛り上げようという意思は、叩き上げの彼ららしさでもあるように感じた。

 また、この頃、確か音楽雑誌の『GB』(ソニー・マガジンズ)で見かけたつんくのインタビューで、せっかく使いこなしていた携帯電話をなくしてしまったという話をしていたのを覚えている。そこには多くの女性の連絡先を入れていたようで、彼はそれらが自分の手元から全部なくなったことを残念がっていた。そんなふうに「ズルい女」ならぬ「チャラい男」を気取るつんくには、ちょっとしたプロ根性を感じたものだ。まあ内心、「ま~たまた」と警戒はしていたのだが。

 ともかく、自分たちの音楽やパフォーマンスを徹底的に磨き、そこで徹底的に突き抜けたことで、シャ乱Qは大成功を手に入れたのだと思う。

 しかし、シャ乱Qの人気も90年代の後半には落ち着き、バンドとしての動きは徐々に静かなものになっていった。メンバーは個々の活動に入っていく中、つんくは今度はプロデューサーとしての手腕を発揮し始める。

 そこでの最大の成功例がモーニング娘。だった。今回は彼およびシャ乱Qに特化した記事なので詳しくは書かないが、このグループが1999年にリリースした大ヒット曲「LOVEマシーン」(もちろん作詞・作曲はつんく)がアイドル・ポップの枠を大きく超えた名曲には間違いない。

 2000年から「つんく♂」表記となった彼は、こうしたプロデュース・ワークでもヒットメーカーとなった。特にサウンド面は、前述のディスコ・ビートへの志向が特徴のひとつとなっていた。といっても、つんく♂が網羅する音楽的なレンジは幅広いもので、コテコテとかベタではないポップソングもたくさん世に出していったのである。

 この後、つんく♂はソロで作品を出したり、シャ乱Qが再び活動したりもあったが、その頃の彼は昔のイメージからはかなり変わっていた。先見の明を持ち、新しい才能を発掘~育成し、数々のグループやユニットをヒットに導く売れっ子プロデューサー。また、会社という組織を運営する有能なビジネスマンとしての評価もされるようになっていったのだ。

 そんな最中だった2015年の春、衝撃的な発表がされる。つんく♂は喉頭がんによって声帯を失い、歌うどころか普通に話すこともできなくなったというのだ。この件は、彼がプロデュースした近畿大の入学式で発表され、大きなニュースとなった。

 当時のことは、同年秋に出版された彼の著書『だから、生きる。』(新潮社)にもつづられている。つんく♂はそれまでも本を何冊か出しているが、この『だから、生きる。』にはシャ乱Qのことからプロデューサー/ビジネスマンとしての姿勢、さらに闘病記とともに、家族への思い、そして彼個人の内面についても多く書かれている。その中には、読んでいて、腑に落ちる点も多かった。

 病気についてはツラく生々しい描写もあり、じつにリアル。それこそ「ズルい女」のファルセットの「さ」が思うように歌えなくなった時のことなんかも書いてある。それからシャ乱Qをはじめとした彼の行動原理には、ロックへのこだわりが強くあること。これは精神論的な側面が強く、非常にユニークだ。また、すべてにおいて高いプロ意識を貫いていて、その仕事への徹底ぶりはじつに力強い。いずれにしても、他の大多数と並ぶのをよしとしない意思は、シャ乱Qをはじめ、すべての彼の活動に通底していると感じた。

 ほんとに熱い男なんだなぁ、と思った。ただ、初期のイメージを持っている自分からすると、やっぱり「ま~たまた」と警戒もしてしまうのだが(すみません)。

 そして、ちょっと蛇足的な話ではあるのだが……15年にこの本が出てから、しばらくあと、つんく♂を間近で目撃したことがあった。

 あれは3年と少しだけ前の、秋だった。障がいを持つ子どもたちを支援するNPO法人「勇気の翼」の主催イベントが開かれることを知り、筆者はそこに家族で参加した。そもそもこの団体についてはハロー!プロジェクトも支援しており、ハロプロのメンバーも参加する予定になっていた。

 会場にわりと早めに到着した僕たちは、前から4~5列目に座った。イベントは「勇気の翼」の理事である細川元総理の夫人、佳代子さんのあいさつから始まったのだが……彼女が「今日、つんく♂さんがここに見えてるそうです」と言ったのだ。

 そして彼は手を挙げた。つんく♂本人が、そこにいたのだ。それは最前列の、ど真ん中の席だった。つまりそこは、これから出し物をする子どもたちの正面になる席で、僕のほんとに数列だけ前という場所だった。驚いた。

 イベントは数時間にわたって行われ、子どもたちの歌やファッションショーなどが開かれていった。そこにハロプロの女の子たちも入って、子どもたちと交流する。つんく♂はイベントの最初から最後までずっと、子どもたちに拍手を送っていたのである。

 その後ろ姿を時々見ながら、思った。忙しいだろうに、大変だろうに、大したものだなあ、と。つんく♂の活動の全容まではとても把握していないけど、こういう福祉的な側面を持つ場にも参加するんだな、と感心した。

 思えば生の彼を初めて見たのは、この20年近く前の、武道館以来だった。あの頃とはさまざまなことが変わっていたのだ。

 と、自分にはそういうこともあったりで、この長い間に、つんく♂へのイメージはかなり変化したという次第である。

 時間というのは、さまざまなものを見せてくれる。最初はよくわからない人だったり、いい印象がなかった奴でも、そこからの出来事やドラマによって、その人間の本質的な部分や根本、あるいは成長した姿を見せてくれたりする。

 あのチャラい男にしか見えなかったシャ乱Qのつんくが、今ではミュージシャン、プロデューサー、ビジネスマンとして有能で、しかもひとりの人間としても魅力的なつんく♂に感じられるのだから。これは僕だけじゃなくて、世の中的にもきっとそうだと思う。

 なんとなくでしかシャ乱Qを、つんく♂を見ていなかった自分が、今さら偉そうなことを言うつもりはない。それに、繰り返しになるが、先日の紅白で振り返られなかった平成のポップスは、シャ乱Qやハロプロ関連以外にも、たくさんある。ただ、つんく♂の影の不在を感じて、ちょっと残念な思いがよぎったのは、確かだ。

 あれこれと好きなことを書いたが、音楽やその活動を通じて、これだけ多くの思いを巡らせ、感じさせてくれた、また人生についてまで考えさせてくれたつんく♂には、感謝している。

●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
阪神タイガース、ゲッターロボ、白バラコーヒー、ロミーナ、 出前一丁を愛し続ける。
妻子あり。
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DA PUMPはデビュー当時から“ダサかっこいい”路線だった!? m.c.A・Tの敏腕プロデュース力

平成が終わろうとしている今、90年代に始まったJ-POPの流れがひとつの節目を迎えている。あのアーティストの楽曲はなぜ、ヒットしたのか? 音楽ライターの青木優が徹底分析!

 それにしてもDA PUMPの「U.S.A.」を聴かない日がない、平成最後の年の瀬である。

 TVやラジオだけでなく、彼らが出演するCMでもこの「U.S.A.」(を模した曲)が使われてるので、そりゃ毎日耳にするのも無理はない。

 

 わが家ではTVを観ててこの曲が始まろうものなら、娘はすぐさま立ち上がって踊り、関節が外れそうな勢いで脚を蹴り出す。カミさんも「昔、代々木(体育館)でライヴ観たんだよね~。でも、いつからこんなに人数増えてたの? あ、インベーダー! インベーダーゲーム!!」と毎回口走る。いちいち大騒ぎである。

 この冬は忘年会や新年会などの余興でこれを踊る人が続出していると思われるので、せいぜいケガをされないよう祈る。

 ところで、この曲について僕は、今年6月の発売当初からちょっと独特の動きがあると感じていた。その頃、たまたま見た情報番組で、ISSAがこの曲のことを「最初は♪カ~モンベイビーアメリカ、って歌詞が恥ずかしかったんですけど」とコメントしていたのだ。で、この時期すでに「ダサかっこいい」という表現がされ始めていたフシもある。

 この、一見マイナスイメージを導きそうな言い方は、DA PUMPの……もっと言えば、売り手サイドの本気度を、むしろ感じさせた。それを、メディアを通じて発信することでインパクトを残し、話題をさらおうという姿勢。今回の大ヒットは、それが見事にハマッたわけだ。

 だが、この曲について回っている「ダサかっこいい」イメージ。実は、これはDA PUMPというグループが隠し味的に携えてきた感覚ではないかと思う。いや、熱心なファンで気を悪くされた方がいたら、申し訳ない。これはあくまで、楽曲の印象の話である。彼らというグループでなく、歌のほうで。

 その前に、まず「U.S.A.」が「ダサかっこいい」と言われている理由について触れよう。この原曲がユーロビートだからだ。オリジナルは1992年にジョー・イエローというアーティストが発表したもので、DA PUMPがユーロビートを唄うのはこれが初めてだという(なお、彼らがユーロビートの歌をカバーした背景としては、昨年、同じライジングプロダクションの先輩である荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー」のリバイバルヒットが大きかったようだ)。

 今回の「U.S.A.」はアレンジにEDM的な意匠をほどこして今風に仕立てているが、原曲のいかにもユーロビートな軽いノリは生かされている。「ダサかっこいい」という言い方には、それに対する照れというか、「そんなクールな曲じゃないけど、それでもこのノリ、いいでしょ?」というエクスキューズ(≒言い訳)を感じさせる。

 で、DA PUMPについてだが、彼らの音楽性を語る上では欠かせない人物がいる。m.c.A・Tこと、富樫明生だ。彼は同グループが「Feelin’ Good –It’s PARADISE- 」でデビューした1997年から現在にかけて、もう20年以上も深い関係性を保っている音楽プロデューサーである。

 僕は、DA PUMPの音楽に潜む「ダサかっこいい」感じは、この富樫に起因していると思うのだ。といっても今年、DA PUMPのことを初めて知った若い子も多い現状を思うと、富樫およびm.c.A・Tにも説明が要るだろう。

 m.c.A・Tは90年代に、まずはソロ・アーティストとしてブレークを果たしている。1993年のデビュー曲「Bomb A Head!」はスマッシュヒットを記録。ビッグヒットをしたわけではないが、何しろ記憶に残る曲だった。m.c.A・Tといえばボンバヘ! というくらいである。

 彼の音楽の特徴は、クラブサウンドを取り入れたビートの感覚と、そこにノリのいい歌とラップを乗せていること。しかも、曲自体はポップというか、ちょっと歌謡曲的ともいえるくらいの強いアクがある。そして黒いサングラスをかけた本人は、かっこいい……というのとは違う雰囲気。どことなくユーモラスでもある。ただ者でないことは明らかだ。

 m.c.A・Tはその後もヒット曲を出し、J-POPの中では売り上げなどの数字以上の印象を残していった。1995年には<超ハッピー スーパーハッピー のりのり!>という必殺フレーズが躍る「SUPER HAPPY」をリリース。また、同じ年の「ごきげんだぜっ!」も彼の代表的なヒットナンバーだ。これは3年後にDA PUMPが「ごきげんだぜっ! ~Nothing But Something~」の曲名でカバーして、本家以上にヒットさせている。

 こうして90年代半ばまでのm.c.A・T全盛期の楽曲を振り返ってみると、ハッピーとか最高とか、ごきげんとか気持ちいいとか、ミもフタもないことばかり唄っている。もっともこれは彼のキャラクターのみならず、景気が良かった時代の名残で、お気楽感のほうが多分に大きいだろう。で、m.c.A・Tはそれに見合うだけの、いわばイケイケ(死語)な音楽をクリエイトする才能だったと思う。

 そして彼はヒップホップやテクノ、ハウスなどの要素をうまく取り入れているわけだが、その切り口が決してマニアックに陥ってない。非常に、というか、過剰なまでにキャッチーであり、ポップだ。ことにm.c.A・T名義では、先ほどのユーモラスですらあるルックスも相まって、下世話に近いほどの大衆性を放っている。

 そう。m.c.A・Tこそが、まさに「ダサかっこいい」アーティストだったのではと思うのである。

 ただ、この人が秀逸だったのは、自身が富樫明生というプロデューサーの立場になると、その「ダサい」と「かっこいい」の割合をうまく調合していたことだ。つまり富樫は、ことDA PUMPのプロデュースにおいては、「かっこいい」感覚を重視した。90年代にこのグループが放った代表的なヒットソングのほとんどは「かっこいい」=二の線、もしくは研ぎ澄まされたポップ路線である。

 たとえば「Rhapsody in Blue」などはギターの音色が開放感を演出しているし。

「Crazy Beats Goes On!」も躍動するビートが気持ちいい。

 ビゼーのメロディの引用と歌謡メロディが細分化されたリズムに映えるのは「Com’on! Be My Girl!」。

 コブシも回らんばかりのISSAの唄い回しが刺さる「if…」。

 いずれの曲も、当時のやや先端を行く(しかし行きすぎていない)サウンドと、富樫(m.c.A・T)独特のアクのあるメロディとが融合している。またラップが取り入れられている曲が多いのも、その頃の「かっこいい」ポイントのひとつか。DA PUMPの楽曲においては、あくまで「かっこいい」ことが重視されてはいるが、富樫はそこにベタな……そう、「ダサい」匂いを混ぜていた。これは巧妙だと思う。

 こうした一連の中でも僕が特に感心したのは「We can’t stop the music」だった。DA PUMPについてそんなに関心を持ってなかった自分だが、1999年リリースのこの歌には大いに惹かれた。とにかく、めちゃファンキーなのである。

 ソリッドなギターのリフ、腰の入った重めのビートはジャネット・ジャクソンの「リズム・ネイション」(スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「サンキュー」をサンプリングした曲だ)すら彷彿させる。オーオーオ、というシャウトには、プリンスがライヴで好んで使っていたコール&レスポンスを思い出さずにいられない。こんなふうに曲の最初から最後までファンキーなフレーズを執拗に重ね続ける曲は、J-POPでは稀有だった。やるじゃんDA PUMP! やるじゃん富樫! と思ったものだ。

 こうして基本的にはR&B路線、時にはポップ、時にはファンキーと、サウンド面でもなかなかのものを見せていたDA PUMPだったが、それ以降、今年の復活劇に至るまでには長い苦労の時代があったようだ(これについては各所で語られているので、関心のある方はチェックしてほしい)。

 『NHK紅白歌合戦』には16年ぶりの出場になるらしく、ISSA以外のメンバーは初出場。何しろグループの人数も最初の4人から、3人→9人→8人→現在の7人と、変遷をたどっている。そりゃあ「いつの間に7人に?」と思う向きがいるのも当たり前だ。すまないことに、僕もそうだったけど(もう7年もこの編成らしいのだが)。

 で、DA PUMPひさびさの大ヒットがカバー曲ってことは、富樫はどうなったの? と思わずにはいられないのだが、ご安心を。「U.S.A.」はDA PUMPにとってなんと3年8カ月ぶりにCDで発売されたシングルだったのだが(今の時代、シングルをフィジカルで出すこと自体が激減している)、このカップリングに「Take it Easy」というm.c.A・T作の楽曲がちゃんと入っているのだ。

 そして、これもどこかのTV番組で観たのだが、メンバーたちは今でも富樫を師と仰いでいるという話をしていたものだ。

 ともあれ、今年のDA PUMPの活躍は、成功のあとに苦労があって、それがここに来てまた脚光を浴びたというドラマがある。だから「U.S.A.」のヒットに格別なものを感じる人も多いだろう。4人時代の彼らを記憶している大人世代ならば、特に。そしてそのそばには、歌の中に「ダサかっこいい」感覚をずっと忍ばせてきたm.c.A・Tこと富樫の存在があったのは、間違いないと思う。

 かく言う僕も「U.S.A.」を聴くたびに右手で「いいねダンス」のポーズ。やってます。

●あおき・ゆう。
1966年、島根県生まれ。男。
94年、持ち込みをきっかけに音楽ジャーナリスト/ ライター業を開始。
洋邦のロック/ポップスを中心に執筆。
現在は雑誌『音楽と人』『テレビブロス』『コンフィデンス』『 ビートルズ・ストーリー』『昭和40年男』、
音楽情報サイト「リアルサウンド」「DI:GA online」等に寄稿。
阪神タイガース、ゲッターロボ、白バラコーヒー、ロミーナ、 出前一丁を愛し続ける。
妻子あり。
Twitterアカウントは、@you_aoki