“恐怖”と“不安”の炎上に意味はある? 小籔千豊の「人生会議」ポスター問題

 厚生労働省が制作した『人生会議』のPRポスターがなかなかの勢いで炎上した。患者団体や遺族から大きな批判を呼び、予定されていた自治体へのポスター発送は中止。ホームページへのPR動画の掲載も見合わせることになった。ポスターに起用された芸人の小籔千豊氏は、出演したテレビ番組で「責任を感じる」などとコメントしているようで、気の毒といえば気の毒な話ではある。確かにポスターで見せた小籔氏の“死人っぷり”はなかなかのインパクトがあったが、何か悪いことをしたわけではないし、そkに責任を感じる必要もないだろう。ただ、この人生会議の普及啓発事業を吉本興業が4,070万円で委託契約していたなんて話を聞くと「ほう、またまた行政にがっちり食い込んでうまいことやってますな」という気分にさせられることもまた事実。なんだかんだで厚生労働省、吉本興業に対する風当たりは強いものとなった。

そもそも物議を醸した「人生会議」とは何なのか?

 そもそも人生会議とは何なのか。厚労省によると「もしものときのために、あなたが望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取組」のこと。要するに、自分が死ぬときにどのような対応を望むのか、ちゃんと事前に話し合っておきましょうね、という啓発活動だ。こうした取り組みは国際的に「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」と呼ばれている。この認知度をより高め、普及させていくために厚労省はAPCの“愛称”の公募を行い、去年11月30日に“人生会議”という名称を使うことを選定・決定したそうだ。ちなみに、この11月30日は「いい看取り・看取られ」の意味で“人生会議の日”になったそうだ。その感覚もちょっとどうかと思う。小籔氏はこの愛称“人生会議”の選定委員にもなっていた。

 問題のポスターは、病院着を着た小籔氏が鼻に酸素吸入チューブをつけた姿でベッドに横たわり、家族に自分の思いを伝えられなかった後悔を明かして「人生会議しとこ」と呼びかけている。コピーは以下の通り。

“まてまてまて
俺の人生ここで終わり?
大事なこと何にも伝えてなかったわ
それとおとん、俺が意識ないと思って
隣のベッドの人にずっと喋りかけてたけど
全然笑ってないやん
声は聞こえてるねん。
はっず!
病院でおとんの
すべった話
聞くなら
家で嫁と子どもと
ゆっくりしときたかったわ
ほんまええ加減にしいや
あーあ、もっと早く
言うといたら良かった!
こうなる前に、みんな
「人生会議」しとこ

命の危機が迫った時、
想いは正しく伝わらない”

 ポスターは全体的に青白い色調で、小籔氏の顔色も悪い。表情も奇妙に歪んでいる。体に重ねられた心電図のような波形は徐々に小さくなって平坦になり、小籔氏の手には家族らしき人の手が添えられている。もろに“死”のイメージを全面に打ち出していて、冒頭でも触れたように非常にインパクトの強いビジュアルだ。ただ、このネガティブで強烈な印象と比して、その“心の声”は妙に軽い。「死の床で父親のすべった話を聞かされて恥ずかしい」と言われたところで笑えるはずもなく、このバランスのいびつさが、ポスターを見た人になんとなく居心地の悪さを感じさせるのだろう。見た人にインパクトを与える意図があったのだとすれば、それは成功しているが、そのインパクトの強さゆえに多くの人から批判を浴びる結果になってしまった。

 報道やTwitterなどをざっと見てみるだけで、「患者、家族、当事者への配慮を欠いている」「遺族を傷つける可能性がある」「APCを誤解させる」「脅しとも取れる内容」「不安を煽る」「死を連想」「お笑いは不必要」「ふざけすぎ」など、さんざんな言われようである。まあ、確かに現在進行系で闘病中の患者やその家族、あるいは病気やケガで家族を亡くしたばかりの遺族が見たら、いい気持ちはしないだろう。その強烈な死のイメージにショックを受け、不安や恐怖、憤りを感じる人もいるかもしれない。その一方で、「考えるきっかけになる」「メッセージが伝わる」「ポスター批判は表現の抑圧」「ギリギリを攻めている」「当たり障りのないポスターなら見向きもされない」など、ポスターについて肯定的な意見やポスター批判に対する批判も数多く見られる。

 人生会議に対する批判には、終末期医療や延命治療を放棄させることで医療費削減の画策しているなんてものもあるが、それはさすがに穿ち過ぎだろう。結果として医療費の削減につながることを想定していたとしても、APC自体はその意義が周知され、普及されていくべきだと思う。自分の死について考えることはあっても、その死に方について人と話し合う機会はあまりない。人生の最終局面で心残りがないようにするために自分がどのような死を迎えたいか、家族や恋人、友人といった人々と思いを共有するために話し合いをしておくことは大切なことだし、いざというときにも役立つはずだ。

 問題はこのポスターがそうした重要性を訴え、啓発につながるものになっているかどうかだ。

 ポスターを批判するコメントのなかにはストレートに「小籔が嫌いだからイヤ」などと感情的な嫌悪をポスター批判に一緒にしているものもあって、「そりゃあんまりだ」と思ったのだが、これは意外と今回の炎上の本質を突いているかもしれない。念のため先に言っておくが、小籔氏のルックスや属性、芸人としてのスタンスにはまったく関係ない。ここで言及したいのは、ポスターを見た人に沸き起こる感情と、ポスターの内容紹介でも少し触れた小籔氏の“表情”だ。
眉間にしわが寄り、睨むような視線はまっすぐにこちらを見つめ、口角は鋭く上がっているが、そこに“笑み”はまったくうかがえない。なんとも絶妙な表情だ。

 怒りや悲しみ、喜びといった“情動”はたやすく人に伝染する。人間の脳にはミラーニューロンと呼ばれる神経細胞があり、無意識のうちに目の前の相手の感情を読み取って影響を受ける。つまり、楽しそうな笑顔を浮かべている人が目の前にいたら、自然と自分のなかにも「楽しい」という感情が湧いてくるということだ。もちろん、悲しみや怒りなども同様に影響を受ける。

 では、ポスターの小籔氏の表情にはどのような感情を読む取ることができるだろう。笑っているのでもなければ、怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。要は「何を感じているのかわからない」のである。正体がわからないものに直面したとき、多くの人は不安や恐怖を感じる。このポスターを見たときの「なんかいやな感じがする」という“感じ”は、小籔氏の絶妙な“死”の表現が呼び起こしているのではないだろうか。もちろん、これは直観的な反応なので「とくに何も感じない」という人もいる。だから、この感覚的なレベルでは議論は当然噛み合わない。

 ネガティブな感覚を呼び起こす表現が悪いわけではない。しかし、啓発ポスターとしてメッセージを広く伝え、何かしらの行動を促すような役割を期待されているケースでは話は別だ。今回のポスターの目的は「自分の死に向き合って、それを家族や大切な人と話し合っておこう」という呼びかけであり、そうした習慣の認知の向上、普及の拡大だ。しかし、今回のポスターを見たときに強く訴えかけてくるのは、人生会議の大切さ、有益さではなく、全体を覆う圧倒的な“死”のネガティブイメージだろう。

 これは誰がどう見ても思いがけない突然の死を嘆く臨終の場面だ。そこに「こういう後悔のある死に方をしないために人生会議をしましょうね」という意図が込められているのだろうが、果たしてその意図は有効に働くのか。認知神経科学者ターリ・シャーロットの著書『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』を読むと、どうやら今回のポスターはあまりうまい手法とはいえないようだ。

 本書に紹介されている認知神経科学の実験によると、将来的に何かを失ったり、後悔したりするなど、「報いを受けるかもしれない」という警告は、人を行動に駆り立てるよりも、逆に「何もしない状態」にしてしまうことが多い。これは脳が何か悪いことを予測したとき、直感的に凍りついたり、退かせたり、放棄したりする“ノー・ゴー反応”を引き起こすからだという。逆に人を行動に導こうとするのであれば、“ご褒美”となる何かしらの喜びやポジティブなものを予期させるほうがうまくいくそうだ。つまり、人生会議の啓発ポスターは死の恐怖や不安を煽り、いざという後悔を警告するのではなく、人生会議をしておくことで受けられる恩恵をアピールするべきだったのだ。もちろん、“死”が前提の題材である以上、それが難しいものであることは承知しているが、そこはクリエイターとしては腕の見せどころだったというものだろう。こうして他人が後からゴチャゴチャいうのは簡単だということも承知しているけれど。
 こうして炎上したことによって、人生会議の存在を知ったという人は多いだろう。それは認知の向上という点では意味があったのかもしれない。しかし、人の頭に残るのは「“炎上案件”としての人生会議」だろう。そうしたネガティブな印象は簡単に拭えない。このポスターの影響で制作側の意図通りに「よし、人生会議やってみようか」と思う人はほとんどいないのではないだろうか。結果、誰も得をしていない。

 今回のポスター問題に限らず、今の社会は恐怖と不安のキャンペーンで満ちている。ポジティブな未来を期待させるものはなく、どこもかしこも暗い未来の暗示と「そうなるのが嫌なら……」という脅しと警告ばかりだ。そんな薄ら寒い空気のなかで多くの人は凍りついている。日本人の幸福度なんて、そりゃ低くなるだろうという話だ。

(文=堀田功)

その“夢”は現実に何をもたらすのか——嘘と混乱の東京オリンピック

 前代未聞の大失敗に終わった『FYRE』という音楽フェスティヴァルがある。その惨状をテーマにしたNetflix制作・配信のドキュメンタリー『FYRE: 夢に終わった史上最高のパーティー』を見たという人も多いだろう(Huluでも同テーマで別作品のドキュメンタリーが配信中)。

『FYRE』は「バハマの離れ島で開催されるラグジュアリーな超豪華フェス」という触れ込みで、SNSで強い影響力を持つセレブやインフルエンサーにガンガンPRさせまくり、大きな話題を呼んで高額なチケットも発売直後に完売。ところが、運営がとにかく杜撰で雑でテキトーだった。規模がふくれ上がっていく一方で、アーティストのブッキング、会場設営や観客の宿泊施設、食事、交通手段の手配など、すべてがデタラメなまま強引に推し進められ、最終的に開催当日になってすべてが中止。期待を胸にやってきた観客はカオス状態の会場に放置された。結果、ソーシャルメディアで大炎上を遂げて、逮捕者まで出る始末となったのである。

 開催当日までには実にさまざまな問題が発生するわけだが、主催者であるビリー・マクファーランドは場当たり的な対応しかせず、面倒なことは下の人間に投げっぱなし。『FYRE: 夢に終わった史上最高のパーティー』はそのひどさを余すところなく映し出す。見ているうちに「こんなの失敗するに決まってるだろ」と呆れ果て、振り回されっぱなしの現場スタッフに同情して思わず胃が痛くなりつつ、他人事だから笑えてしまう。「いやあ、本当にひどい話だ」と。ただ、なんだかこの惨状は実はちょっと他人事でもないような気もする。今、私たちは『FYRE』をはるかに上回る規模のイベントが歴史的な大失敗へと突入していく過程をリアルタイムで経験しているのではないか。そう、東京オリンピックである。

 2013年9月8日の招致決定以来、今回のオリンピックに関してはとにかくろくな話がない。というか、信じられないレベルのろくでもない話ばかりが底抜けに続いている状況だ。

 そもそも招致の段階からいろいろとデタラメだった。当時、東京都知事だった猪瀬直樹氏は「世界一カネのかからない五輪」と誇らしげだったが、当初約7340億円とされていた開催費用は、いまや関連予算を含めると3兆円オーバーの見込み。当初の見積もりの4倍だ。いくらなんでも見通し甘すぎではないか。

 そして、後になって数多くの問題を引き起こすことになった東京の会期中の気候に関するアピール。「天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候」などと言っていたわけだが、東京都民なら誰でもわかるように大嘘である。東京の夏は死人が出るほど暑い。

 さらに、今回の招致をめぐっては贈収賄疑惑まで出てきた。当時の招致委員会理事長だった竹田恒和氏が東京への賛成票を不法に買ったとしてフランス司法当局の捜査対象になっているという。もう何から何までインチキである。

 その後も東京オリンピックをめぐるトラブルや珍騒動は手品師の口から出てくる万国旗のように次々と終わりなく発生していった。ざっと振り返ってみたい。

 まずケチがついのが、公式五輪エンブレムの盗用問題。すったもんだの末に当初の佐野研二郎氏による当初のデザインは却下されて再公募するハメになった。

 新国立競技場の建設も最初から波乱続きだった。すでに決定していたザハ・ハディト氏案を「予算がかかりすぎる」という理由で急遽撤回。全体予算が当初の予定から4倍にも膨れ上がり、新国立競技場建設をめぐる混迷を思い返せる今となってみれば、「むしろ、そのままでよかったんじゃないか」という気がしなくもないが、結局、新たな設計計画で建設が進められることになる。その直後、聖火台スペースをつけ忘れたと聞いたときはさすがに笑うしかなかった。建設用の木材の無償提供呼びかけをして批判されまくったり、建設作業員の過労自殺という取り返しのつかない悲惨な出来事も起きたりしている。

 そんなこんなで完成が間近に迫ってきた新国立競技場だが、五輪終了後の“後利用”についてあまり考えずに作ってしまっているため、巨大な維持費の採算を取れる見通しは立っておらず、ただ赤字を垂れ流す“五輪の負の遺産”となることがほぼ決まっているようだ。なんともやりきれない話である。

 そして失笑の嵐を巻き起こしたのが“暑さ対策”だ。五輪組織委員会の森喜朗会長は「暑さはチャンス」などと相変わらずズレたことを言っていたが、結果的にチャンスどころか今回の東京オリンピックのダメなところをこれでもかとばかりに見せつけることになった。

 マラソンコース沿道にある商業施設やビルの出入り口を開放して冷気を外に流そうという“クールシェア”案の他力本願ぶりは「え? それ本気なの?」という感じだったが、小池百合子東京都知事が打ち出した“打ち水作戦”には本気で脱力させられた。そんなものであの酷暑がどうにかなると本気で思っているのか。ついでに、“浴衣”“よしず”の活用なんてことも言っていたけれど、真剣に聞いている人はどのぐらいいたんだろう。300キロ分の氷を降雪機で降らせる人工雪実験も「本当に大丈夫なのか東京都」と世間を騒がせたが、気温は下がらず、ただ服や席を無駄に濡らせるだけで、普通に考えたらそりゃそうだろうという結果に終わった。

 新国立競技場の冷房設備は、なぜか安倍首相の鶴の一声で設置されないことが決定したので、かち割り氷を配るとかいう本末転倒な話になっていたが、そもそもなんで安倍首相がそんなことを決めてしまうのかという話である。「会場周辺に朝顔の鉢を並べて視覚的にも涼しく!」という案が発表されたときに誰もが「ダメだこりゃ」と思ったことだろう。

 森会長の「東京オリンピックのレガシーのひとつにしたい」という、いつもの寝言でサマータイム導入なんてことも議論されて本気で心配したが、ここはちゃんと断念できて本当に良かった。

 暑さ対策の一番の切り札とされたのが、マラソン・競歩コ−スの遮熱舗装。24億円という資金を投じて実施されてしまったそうだが、なんとこれが逆効果。温度が下がるのは路面だけで、高い位置では普通のアスファルトより温度が高くなって熱中症のリスクは高くなってしまうという。さすがに驚いた。どうしてやってしまう前にしっかりと検証しなかったのか。

 次から次へと“バカげた”というほかない対策が打ち出され、その度にどうしようもない無力感に襲われた。そして、迷走に迷走を重ねた末、ご存知のようにマラソンと競歩はIOCの判断によって札幌開催が決まってしまったわけだが。こんな無様な話もそうない。とはいえ、招致段階で東京の気候について嘘をついていたことがそもそも悪いわけで、IOCの判断、ましてや札幌市を責めるのは筋違いというものだろう。さようならコンパクト五輪。

 そんなこんなで予算はどんどん増額されていく一方、「人にだけは絶対に金は使わん」という決意が見えてくるほど、何もかもがボランティア頼りになってしまったわけだが、ボランティアについても問題だらけである。先日は都内の中学・高校にボランティア人数が割り当てられて、半強制的に参加要請があったことが判明したが、これはもうボランティア(志願)ではなく、“動員”だ。「ボランティアのユニフォームが絶望にダサい」とか「シャイニングブルー・トウキョウってなんだよ」なんて笑っていた頃が懐かしい。医療スタッフや通訳、運転、メディア対応といった専門的なスキルが必要なスタッフもすべて無報酬、宿泊や交通費は自己負担のボランティアでかき集めるとのことだが、その作業条件の厳しさから“ブラック・ボランティア”などと揶揄もされているが、それも当然だろう。

 この他、雨が降ってしまったら大腸菌ウヨウヨの海上競技会場、選手村のダンボールベッド、会期中の渋滞解消のために首都高値上げ&通販自粛呼びかけ、観客の自撮り投稿禁止などなど、まだまだいくらでも挙げようと思えば挙げられる気もするが、とにかくこれほどまでに問題が噴出して止まらないイベントってあるのだろうか。もう国威の発揚どころか、逆に日本のダメなところの見本市、その衰退っぷりを大々的に発信しているような状況だ。誰かどうにかしてくれと思うが、いったい誰が責任者なのか、それがわからない。いかにも日本らしい話であるし、そこが一番怖いポイントでもある。

 冒頭で紹介した『FYRE』の主催者ビリー・マクファーランドは最終的に集団訴訟を起こされ、有罪が確定して6年の禁固刑が確定した。東京オリンピックはもちろん『FYRE』のような詐欺事案とはまったく異なるし、仮に大失敗に終わるようなことになっても誰かが刑事罰を問われるようなことはないはずだ(あ、竹田元会長は除く)。しかし、多くの人が「これ、このままで大丈夫なのか?」という危惧を抱いたまま、うまく対処できずに開催に向けて突き進んでいる状況は『FYRE』と共通しているといえるだろう。

 責任の所在もよくわからないまま、混乱を撒き散らしてつつ、開催へのタイムリミットは近づいている。来年、私たちはこの祭典のなかにどのような光景を目にするのだろう。そして、祭りが終わったあと、残るものは。

“美しい国”における責任、それは風船のように宙を漂う


せき‐にん【責任】

①責めを負ってなさなければならない任務。引き受けてしなければならない義務。

②(━する)事を担任してその結果の責めを負うこと。特に、悪い結果をまねいたとき、その損失などの責めを負うこと。

出典:『精選版日本国語大辞典』

“責任”とはどういう意味なのか。もちろん、一般的に使われている責任という言葉の意味はわかるが、例によって軽すぎる安倍晋三首相の「任命責任は私にある」の言葉にうんざりして、「この人、責任を取るってどういうことか考えたことあるのだろうか」など改めて感じたので、そもそもの意味を辞書アプリで調べてみた次第だ。

閣僚の不祥事と疑惑はもはやお約束

 閣僚が不祥事で更迭という事態はとくに珍しいというわけではなくなってしまったが、9月11日の第4次安倍第2次改造内閣の成立からわずか1ヶ月半、立て続けに2人の閣僚が辞任するというのは、さすがに異例の事態といえるだろう。

 10月25日に辞任した菅原一秀前経済産業相は地元でのメロンやカニの贈与疑惑が浮上して批判が続く中、秘書が有権者の通夜で香典を渡していたことが「週刊文春」(文藝春秋)に報じられたことが決め手となり、その翌週31日に辞任した河井克行法相は妻で参院議員の河井案里氏がウグイス嬢に法定上限を超える報酬を渡していたことが同じく「週刊文春」に報じられたことがきっかけとなった。いずれも公職選挙法違反の疑いがあるわけだが、どうせ立件されないだろうし、されても不起訴に終わることは見えている。いつものパターンだ。

 ここで、これまでのパターンを振り返ってみよう。2012年12月の第2次安倍内閣発以降、辞任した閣僚は河井氏で10人目だ。

 まずは2014年10月の小渕優子経済産業省(肩書は当時。以下同)。後援会メンバーの観劇費用など不透明な政治資金支出をめぐって辞任。東京地検特捜部による家宅捜索が入る前に電動ドリルでパソコンのHDDを物理的に破壊するという大胆な手口には大いに驚かされたものである。小渕氏と同日、初登庁の日に出迎えが少ないことに怒って帰るという器の小ささを見せつけた松島みどり法相が選挙区で似顔絵入りうちわを配布したことが問題となって辞任。2015年2月は金銭スキャンダルを連発した西川公也農相が辞任。2016年1月に辞任したのは甘利明経済再生担当相。これを賄賂と言わずしてなんというレベルの疑惑だったが、不起訴処分に。2017年4月に辞任した今村雅弘復興相は、講演で東日本大震災について「まだ東北でよかった」というまともな頭をしていたらまず出てこない失言を放って辞任。同年7月は稲田朋美防衛省。「“武力衝突”と“戦闘”はどう違うのか」などと、なんとも日本らしい禅問答のような議論も懐かしい南スーダンPKO部隊の日報隠蔽問題で辞任した。2018年2月に辞任した江崎鉄磨沖縄北方担当相は健康上の問題が辞任の理由になっているが、就任直後に自身の担当分野なのに「北方領土問題に関しては素人」、閣僚としての国会答弁について「しっかりお役所の原稿を読ませていただく」などと発言していることを考えれば、そもそもの大臣としての資質に疑問は残る。そして、今年4月に辞任した桜田義孝五輪相が8人目。思わず「コントかよ!」と言いたくなる珍問答を次々と繰り広げて国を湧かせたことはまだ記憶に新しい。
 
 以上のそれぞれに任命責任があったことを踏まえての第4次安倍第2次改造内閣も、今回の有様になっているわけだ。

 安倍首相は菅原・河井両氏の辞任について「任命責任は私にあり、こうした事態になってしまったことに対しまして国民に深くお詫びを申し上げます」「河井大臣を法務大臣に任命したのは私であります。こうした結果となりその責任を痛感しています。国民のみなさまに深く心からお詫びしたい」と記者の前でコメントしたわけだが、ここまで響くものがまったくないお詫びもそうそうない。またなんかゴニョゴニョ言っているなぐらいのものである。河井氏辞任時のコメント後、記者たちの前から去ろうとしたときに「具体的にどのようなかたちで責任を取るのか」と問いただされたのだが、「国民の皆様の信頼を回復をして、しっかり行政を前に進めていくと、そのことにおいて責任を果たしていく。よろしいですか」と不機嫌そうに早口でまくしたてて行ってしまった。まったく具体的じゃないし、何も言っていないも同然である。まあ、質問にまともに応えられないのもいつものことなので、みんな慣れたものであろう。そこに慣れてはいけないとも思うけれど。

 安倍首相はきっと「任命責任は私にある。お詫びしたい」といえば責任を取ったことになると思っている。というか、たぶん責任を取るということについて、とくに何も考えていない。

 2017年6月5日の衆議院決算行政監視委員会では、次のような象徴的なやりとりがあった。加計学園問題について安倍首相が同年3月13日の衆議院予算委員会で「もし(私が)働きかけて決めているなら責任を取る」と発言したことに対し、民進党(当時)の宮崎岳議員に「責任とはどういう意味か。どんな責任を取るのか」と問われて、しどろもどろになりながら例によって関係のないことを延々と喋り続けた挙げ句、委員長から「責任とは何かという質問にお答えください」と急かされて、結局「(責任の)中身についてはあえて申し上げる必要はない」と答弁。なんじゃそら。

 まあ、やっぱりとくに何も考えていなかったのだろう。

 そもそも、閣僚の任命責任について安倍首相が本気で考えているようなら、今回のような人事にはならなかったはずだ。菅原・河井両氏ともに以前からさまざまな疑惑が噂されていたことは有名だ。彼らの入閣の背景には菅官房長官の強い推薦があったという。組閣において、国益や国民の生活向上よりも、“お友達”で固めることのほうが優先されるのだから“適材適所”が聞いて笑わせる。加計学園問題のキーパーソンである萩生田光一氏の文科相就任なんて、適材適所どころジョークにもならない。同大臣の「身の丈」発言は大騒ぎになって英語民間試験を延期せざるを得なくなったわけだが、この延期決定も毎日新聞によれば『首相周辺は今回の決断について、『萩生田氏を守るために、試験見直しを野党に差し出した』と表現」したというから国民を舐めきっている。というか、首相周辺ってどこなんだろうか。いずれにせよ、受験生よりも大臣の首のほうが大事というわけである。しかし、それでとくに政権支持率が下がらないのだから、まあ舐められても仕方がないといえば、仕方がないともいえるが。

「責任を取る」ということは、冒頭に掲げた辞書的な意味合いでいえば、②の「悪い結果をまねいたとき、その損失などの責めを負うこと」だろう。この意味において安倍首相は数々の“任命失敗”の責任を取っているかといえば、否と言わざるを得ない。口先だけでお詫びしたところでちっとも凝りていないことは誰の目にも明白だし、むしろ、政治の混乱による損失などの責めを負っているのは国民だ。

 行動経済学者ダン・アリエリーは、著書『ずる嘘とごまかしの行動経済学』などで、不品行などの“ごまかし”が社会的に感染するという研究結果を発表している。人間は自分と同じ社会集団の誰かが、道徳、倫理的に逸脱した行動を取るのを見ると、それに合わせて自分の道徳的指針を微調整して、それを許容範囲内の規範として取り入れてしまうそうだ。ちなみに、その誰かが“権威のある人物”の場合、引きずられる可能性はさらに高くなるという。今の日本の総理大臣からして、この状況。なるほど腑に落ちる。責任という言葉の意味は変わったのだ。

 立場が上に行けば行くほど、本来ならば責任を取るべき人物の責任は曖昧になっていく。その口から発せられた途端、“責任”はふわふわと宙に放たれた風船のように飛んでいき、やがて所在がわからなくなる。恐らく、それはどこかで破裂して飛散し、“自己責任”という名の見えない圧力となって下々の世界へ落ちてくるのだろう。国民の生活においては、いまや貧困も格差も病気も出産も育児も教育も老後も被災も自己責任。そのプレッシャーに市井の人々は思考と行動を萎縮させていく。“美しい国”どころか、すっかり“痛ましい国”だ。果たして、その責任はどこに?

“美しい国”における責任、それは風船のように宙を漂う


せき‐にん【責任】

①責めを負ってなさなければならない任務。引き受けてしなければならない義務。

②(━する)事を担任してその結果の責めを負うこと。特に、悪い結果をまねいたとき、その損失などの責めを負うこと。

出典:『精選版日本国語大辞典』

“責任”とはどういう意味なのか。もちろん、一般的に使われている責任という言葉の意味はわかるが、例によって軽すぎる安倍晋三首相の「任命責任は私にある」の言葉にうんざりして、「この人、責任を取るってどういうことか考えたことあるのだろうか」など改めて感じたので、そもそもの意味を辞書アプリで調べてみた次第だ。

閣僚の不祥事と疑惑はもはやお約束

 閣僚が不祥事で更迭という事態はとくに珍しいというわけではなくなってしまったが、9月11日の第4次安倍第2次改造内閣の成立からわずか1ヶ月半、立て続けに2人の閣僚が辞任するというのは、さすがに異例の事態といえるだろう。

 10月25日に辞任した菅原一秀前経済産業相は地元でのメロンやカニの贈与疑惑が浮上して批判が続く中、秘書が有権者の通夜で香典を渡していたことが「週刊文春」(文藝春秋)に報じられたことが決め手となり、その翌週31日に辞任した河井克行法相は妻で参院議員の河井案里氏がウグイス嬢に法定上限を超える報酬を渡していたことが同じく「週刊文春」に報じられたことがきっかけとなった。いずれも公職選挙法違反の疑いがあるわけだが、どうせ立件されないだろうし、されても不起訴に終わることは見えている。いつものパターンだ。

 ここで、これまでのパターンを振り返ってみよう。2012年12月の第2次安倍内閣発以降、辞任した閣僚は河井氏で10人目だ。

 まずは2014年10月の小渕優子経済産業省(肩書は当時。以下同)。後援会メンバーの観劇費用など不透明な政治資金支出をめぐって辞任。東京地検特捜部による家宅捜索が入る前に電動ドリルでパソコンのHDDを物理的に破壊するという大胆な手口には大いに驚かされたものである。小渕氏と同日、初登庁の日に出迎えが少ないことに怒って帰るという器の小ささを見せつけた松島みどり法相が選挙区で似顔絵入りうちわを配布したことが問題となって辞任。2015年2月は金銭スキャンダルを連発した西川公也農相が辞任。2016年1月に辞任したのは甘利明経済再生担当相。これを賄賂と言わずしてなんというレベルの疑惑だったが、不起訴処分に。2017年4月に辞任した今村雅弘復興相は、講演で東日本大震災について「まだ東北でよかった」というまともな頭をしていたらまず出てこない失言を放って辞任。同年7月は稲田朋美防衛省。「“武力衝突”と“戦闘”はどう違うのか」などと、なんとも日本らしい禅問答のような議論も懐かしい南スーダンPKO部隊の日報隠蔽問題で辞任した。2018年2月に辞任した江崎鉄磨沖縄北方担当相は健康上の問題が辞任の理由になっているが、就任直後に自身の担当分野なのに「北方領土問題に関しては素人」、閣僚としての国会答弁について「しっかりお役所の原稿を読ませていただく」などと発言していることを考えれば、そもそもの大臣としての資質に疑問は残る。そして、今年4月に辞任した桜田義孝五輪相が8人目。思わず「コントかよ!」と言いたくなる珍問答を次々と繰り広げて国を湧かせたことはまだ記憶に新しい。
 
 以上のそれぞれに任命責任があったことを踏まえての第4次安倍第2次改造内閣も、今回の有様になっているわけだ。

 安倍首相は菅原・河井両氏の辞任について「任命責任は私にあり、こうした事態になってしまったことに対しまして国民に深くお詫びを申し上げます」「河井大臣を法務大臣に任命したのは私であります。こうした結果となりその責任を痛感しています。国民のみなさまに深く心からお詫びしたい」と記者の前でコメントしたわけだが、ここまで響くものがまったくないお詫びもそうそうない。またなんかゴニョゴニョ言っているなぐらいのものである。河井氏辞任時のコメント後、記者たちの前から去ろうとしたときに「具体的にどのようなかたちで責任を取るのか」と問いただされたのだが、「国民の皆様の信頼を回復をして、しっかり行政を前に進めていくと、そのことにおいて責任を果たしていく。よろしいですか」と不機嫌そうに早口でまくしたてて行ってしまった。まったく具体的じゃないし、何も言っていないも同然である。まあ、質問にまともに応えられないのもいつものことなので、みんな慣れたものであろう。そこに慣れてはいけないとも思うけれど。

 安倍首相はきっと「任命責任は私にある。お詫びしたい」といえば責任を取ったことになると思っている。というか、たぶん責任を取るということについて、とくに何も考えていない。

 2017年6月5日の衆議院決算行政監視委員会では、次のような象徴的なやりとりがあった。加計学園問題について安倍首相が同年3月13日の衆議院予算委員会で「もし(私が)働きかけて決めているなら責任を取る」と発言したことに対し、民進党(当時)の宮崎岳議員に「責任とはどういう意味か。どんな責任を取るのか」と問われて、しどろもどろになりながら例によって関係のないことを延々と喋り続けた挙げ句、委員長から「責任とは何かという質問にお答えください」と急かされて、結局「(責任の)中身についてはあえて申し上げる必要はない」と答弁。なんじゃそら。

 まあ、やっぱりとくに何も考えていなかったのだろう。

 そもそも、閣僚の任命責任について安倍首相が本気で考えているようなら、今回のような人事にはならなかったはずだ。菅原・河井両氏ともに以前からさまざまな疑惑が噂されていたことは有名だ。彼らの入閣の背景には菅官房長官の強い推薦があったという。組閣において、国益や国民の生活向上よりも、“お友達”で固めることのほうが優先されるのだから“適材適所”が聞いて笑わせる。加計学園問題のキーパーソンである萩生田光一氏の文科相就任なんて、適材適所どころジョークにもならない。同大臣の「身の丈」発言は大騒ぎになって英語民間試験を延期せざるを得なくなったわけだが、この延期決定も毎日新聞によれば『首相周辺は今回の決断について、『萩生田氏を守るために、試験見直しを野党に差し出した』と表現」したというから国民を舐めきっている。というか、首相周辺ってどこなんだろうか。いずれにせよ、受験生よりも大臣の首のほうが大事というわけである。しかし、それでとくに政権支持率が下がらないのだから、まあ舐められても仕方がないといえば、仕方がないともいえるが。

「責任を取る」ということは、冒頭に掲げた辞書的な意味合いでいえば、②の「悪い結果をまねいたとき、その損失などの責めを負うこと」だろう。この意味において安倍首相は数々の“任命失敗”の責任を取っているかといえば、否と言わざるを得ない。口先だけでお詫びしたところでちっとも凝りていないことは誰の目にも明白だし、むしろ、政治の混乱による損失などの責めを負っているのは国民だ。

 行動経済学者ダン・アリエリーは、著書『ずる嘘とごまかしの行動経済学』などで、不品行などの“ごまかし”が社会的に感染するという研究結果を発表している。人間は自分と同じ社会集団の誰かが、道徳、倫理的に逸脱した行動を取るのを見ると、それに合わせて自分の道徳的指針を微調整して、それを許容範囲内の規範として取り入れてしまうそうだ。ちなみに、その誰かが“権威のある人物”の場合、引きずられる可能性はさらに高くなるという。今の日本の総理大臣からして、この状況。なるほど腑に落ちる。責任という言葉の意味は変わったのだ。

 立場が上に行けば行くほど、本来ならば責任を取るべき人物の責任は曖昧になっていく。その口から発せられた途端、“責任”はふわふわと宙に放たれた風船のように飛んでいき、やがて所在がわからなくなる。恐らく、それはどこかで破裂して飛散し、“自己責任”という名の見えない圧力となって下々の世界へ落ちてくるのだろう。国民の生活においては、いまや貧困も格差も病気も出産も育児も教育も老後も被災も自己責任。そのプレッシャーに市井の人々は思考と行動を萎縮させていく。“美しい国”どころか、すっかり“痛ましい国”だ。果たして、その責任はどこに?

何がなんだかよくわからないまま金を払い続ける「増税パンチドランカー」

社会と日常、その狭間。あまり明るくなさそうな将来におびえつつ、なんとなく日々を過ごしてしまっている小市民的な視点から、見えてくるものを考える。

 消費税の税率が10%に引き上げられた。あわせて“軽減税率”“キャッシュレス決済ポイント還元”“プレミアム付き商品券”などという、よくわからないものが暮らしのなかに出現した。いや、プレミアム付き商品券については使っている人を見たことも聞いたこともないので、とくに出現していないのかもしれない。とりあえず、今のところは痛税感よりも「なんかよくわからないな」という割り切れない感じと戸惑いのほうが大きいのではないだろうか。

消費税増税の反動の景気対策に2兆円超!?

 軽減税率の対象品目について、すべて完璧に理解している人はきっといないだろう。ラムネのフタ部分のオモチャ笛が“一体資産”とされて軽減税率の対象にならないとか、テイクアウトとイートインをめぐるゴタゴタとか、「もうどうでもいい」という気になって当然だ。店舗によって異なるキャッシュレス決済サービス、還元ポイント率をすべて把握している人もきっといない。とりあえず、これまで同じように買い物をして、たまにレシートを確認して商品によって税率が8%だったり10%だったり、ポイントが還元されていたり、いなかったり、するのを見て「へえ……」と軽い無力感を覚えるぐらいしかできない。麻生太郎財務大臣は消費税増税にともなう混乱について、「日本人の計算能力は極めて高い」から「ないと期待している」と述べたそうだけれど、計算能力の問題ではないよね。そもそも麻生大臣自身、かつて軽減税率について「面倒くさい」と言っていたはず。経団連の中西宏明会長もポイント還元制度について「やり方が難しく、どのように機能するかは正直わからない」といっていたので、私たちが面倒くさくてよくわからないと感じるのも当然だろう。

 まあ、軽減税率やキャッシュレス決済ポイント還元がまったくもって意味不明でいかにバカバカしいものであるかは、増税前からさんざんっぱら指摘され続けてきたし、その事態の混迷っぷりも嫌というほど見せつけられてきた。それでも実際に始まったら少しは慣れてくるのかな、なんて思っていたけれど、やっぱり全然そんなことはなかった。これからもずっと「よくわからないな」というぼんやりとした嫌な感じを抱えたまま慣れることなく、増税した消費税を払い続けていくことを思うと、厭世的な気持ちにならざるを得ない。

 消費増税は“社会保障の充実と安定化”のためということで、実際に社会保障費が年々上がっていって大変なことになっているということは嫌というほど聞かされている。しかし、今回の消費税増税分のうち社会保障費に充てられるのは、そのうちの一部でしかなく、それも軽減税率実施に必要な財源でほとんど帳消しになるとか、その財源を確保するために社会保障費からも1000億円回されるとかいう報道に接すると、わけのわからないものが余計にわからなくなってくる。さらに、消費税を増税すると当たり前だが消費が冷え込むということで、件のキャッシュレス決済還元やプレミアム付き商品券といった景気対策に2兆円を超える金が投入され、もろもろのコストを計算すると、増税で見込まれる増収を超えてしまうそうだ。「へえ……」と思ったね。

 数兆円という巨額が動くなかに埋もれてしまいそうだが、キャッシュレス決済ポイント還元やプレミアム付き商品券の広報・宣伝費に約74億円が計上されていることも、なかなかどうしてという感じである。なんと、この予算で政府公認の“ゆるキュラ”も作られているそうだ。いったいどこにいるんだ。このゆるキャラについて会見で記者に問われた麻生財務大臣は「知らねぇな。その内容は詳しく知らない」と答えており、そりゃ担当大臣が詳しく知らないのなら誰も知らんわ。

 一部で話題になった経産省公式「ポイント還元対象店舗検索アプリ」の地獄のような使い勝手の悪さと不具合の多さ、その有様もまさに悲惨の一言だ。ポイント還元制度が終わるのは来年6月。このまま機能が改善されることもなく、自然消滅的にひっそりと消えていきそうだが、たいして炎上していないのは、ほとんどの人がアプリを使っていないからだろう。このアプリ開発には74億円のうち、いくら使われたのか。このアプリだって一応は国を挙げてのプロジェクトのはずなのだが。日本の技術後進っぷりがもの悲しい。

消費税増税を歓迎しているのは……

 まあ、そんなこんなで一般市民としては消費税が増税されて良かったことなんて何ひとつないように感じてしまうのだが、この増税について「非常に良いことだと歓迎する」と堂々と言ってのけたのが、ポイント還元が難しくてよくわからない経団連の中西会長である。これは当然、財政健全化を念頭に言っているわけだが、よく指摘されているように法人税は消費税が導入されてからどんどん減税。消費税の増税と反比例するように法人税が減っていて、言ってしまえば肩代わりしているようなものである。そりゃ財界は歓迎するだろうよという話だ。しかし、消費税増税が景気にマイナスなことはわかりきっているのに、この言い草。結局、日本の経済がどうなろうとも輸出で儲けている大企業中心の財界にはどうでもいいということなんだろう。そもそも、日本の賃金が全然上がらないのだって、企業経営者が労働者の給料を上げず、株主に還元もせずにただ内部留保を積み上げていることも大きな要因になっているはずだ。もはや、この人らは“庶民の敵”といっていいのではないか。

庶民はニンジンの皮を食べて増税を乗り切ろう

 そして、経団連と仲良しの日経新聞は消費税増税に対して「ニンジンの皮を食べて乗り切れ」という記事を掲載。金がないのであれば普段は捨てているところを食べればいいじゃない!って、パンがなければ菓子を食べろといったマリー・アントワネットのほうがマシではないか。ちなみに日経新聞は甚大な被害をもたらした台風19号を受けて「『もう堤防には頼れない』国頼みの防災から転換を」という記事も掲載している。災害が起きても国や行政に頼らず、自分で自分の身を守ろうというのだが、いったい何のために私たちは税金を払っているのだろう。ちなみに、この台風19号が日本列島を荒らし回っている最中、安倍政権は社会保障費の1300億円圧縮の検討を開始したそうだ。

 サンドバッグか。日々つましい暮らしをしている庶民はもう殴られっぱなしでK.O.寸前だ。既存のルールをぶち壊して価値観をひっくり返してしまうジョーカーのような存在も現実には出現しない。なすすべもなく、お上がいつの間にか決定したことにただ従い、それが当たり前になって何も感じないパンチドランカー状態。そして、よくわからないまま増税した消費税を払い続けるのだ。

何がなんだかよくわからないまま金を払い続ける「増税パンチドランカー」

社会と日常、その狭間。あまり明るくなさそうな将来におびえつつ、なんとなく日々を過ごしてしまっている小市民的な視点から、見えてくるものを考える。

 消費税の税率が10%に引き上げられた。あわせて“軽減税率”“キャッシュレス決済ポイント還元”“プレミアム付き商品券”などという、よくわからないものが暮らしのなかに出現した。いや、プレミアム付き商品券については使っている人を見たことも聞いたこともないので、とくに出現していないのかもしれない。とりあえず、今のところは痛税感よりも「なんかよくわからないな」という割り切れない感じと戸惑いのほうが大きいのではないだろうか。

消費税増税の反動の景気対策に2兆円超!?

 軽減税率の対象品目について、すべて完璧に理解している人はきっといないだろう。ラムネのフタ部分のオモチャ笛が“一体資産”とされて軽減税率の対象にならないとか、テイクアウトとイートインをめぐるゴタゴタとか、「もうどうでもいい」という気になって当然だ。店舗によって異なるキャッシュレス決済サービス、還元ポイント率をすべて把握している人もきっといない。とりあえず、これまで同じように買い物をして、たまにレシートを確認して商品によって税率が8%だったり10%だったり、ポイントが還元されていたり、いなかったり、するのを見て「へえ……」と軽い無力感を覚えるぐらいしかできない。麻生太郎財務大臣は消費税増税にともなう混乱について、「日本人の計算能力は極めて高い」から「ないと期待している」と述べたそうだけれど、計算能力の問題ではないよね。そもそも麻生大臣自身、かつて軽減税率について「面倒くさい」と言っていたはず。経団連の中西宏明会長もポイント還元制度について「やり方が難しく、どのように機能するかは正直わからない」といっていたので、私たちが面倒くさくてよくわからないと感じるのも当然だろう。

 まあ、軽減税率やキャッシュレス決済ポイント還元がまったくもって意味不明でいかにバカバカしいものであるかは、増税前からさんざんっぱら指摘され続けてきたし、その事態の混迷っぷりも嫌というほど見せつけられてきた。それでも実際に始まったら少しは慣れてくるのかな、なんて思っていたけれど、やっぱり全然そんなことはなかった。これからもずっと「よくわからないな」というぼんやりとした嫌な感じを抱えたまま慣れることなく、増税した消費税を払い続けていくことを思うと、厭世的な気持ちにならざるを得ない。

 消費増税は“社会保障の充実と安定化”のためということで、実際に社会保障費が年々上がっていって大変なことになっているということは嫌というほど聞かされている。しかし、今回の消費税増税分のうち社会保障費に充てられるのは、そのうちの一部でしかなく、それも軽減税率実施に必要な財源でほとんど帳消しになるとか、その財源を確保するために社会保障費からも1000億円回されるとかいう報道に接すると、わけのわからないものが余計にわからなくなってくる。さらに、消費税を増税すると当たり前だが消費が冷え込むということで、件のキャッシュレス決済還元やプレミアム付き商品券といった景気対策に2兆円を超える金が投入され、もろもろのコストを計算すると、増税で見込まれる増収を超えてしまうそうだ。「へえ……」と思ったね。

 数兆円という巨額が動くなかに埋もれてしまいそうだが、キャッシュレス決済ポイント還元やプレミアム付き商品券の広報・宣伝費に約74億円が計上されていることも、なかなかどうしてという感じである。なんと、この予算で政府公認の“ゆるキュラ”も作られているそうだ。いったいどこにいるんだ。このゆるキャラについて会見で記者に問われた麻生財務大臣は「知らねぇな。その内容は詳しく知らない」と答えており、そりゃ担当大臣が詳しく知らないのなら誰も知らんわ。

 一部で話題になった経産省公式「ポイント還元対象店舗検索アプリ」の地獄のような使い勝手の悪さと不具合の多さ、その有様もまさに悲惨の一言だ。ポイント還元制度が終わるのは来年6月。このまま機能が改善されることもなく、自然消滅的にひっそりと消えていきそうだが、たいして炎上していないのは、ほとんどの人がアプリを使っていないからだろう。このアプリ開発には74億円のうち、いくら使われたのか。このアプリだって一応は国を挙げてのプロジェクトのはずなのだが。日本の技術後進っぷりがもの悲しい。

消費税増税を歓迎しているのは……

 まあ、そんなこんなで一般市民としては消費税が増税されて良かったことなんて何ひとつないように感じてしまうのだが、この増税について「非常に良いことだと歓迎する」と堂々と言ってのけたのが、ポイント還元が難しくてよくわからない経団連の中西会長である。これは当然、財政健全化を念頭に言っているわけだが、よく指摘されているように法人税は消費税が導入されてからどんどん減税。消費税の増税と反比例するように法人税が減っていて、言ってしまえば肩代わりしているようなものである。そりゃ財界は歓迎するだろうよという話だ。しかし、消費税増税が景気にマイナスなことはわかりきっているのに、この言い草。結局、日本の経済がどうなろうとも輸出で儲けている大企業中心の財界にはどうでもいいということなんだろう。そもそも、日本の賃金が全然上がらないのだって、企業経営者が労働者の給料を上げず、株主に還元もせずにただ内部留保を積み上げていることも大きな要因になっているはずだ。もはや、この人らは“庶民の敵”といっていいのではないか。

庶民はニンジンの皮を食べて増税を乗り切ろう

 そして、経団連と仲良しの日経新聞は消費税増税に対して「ニンジンの皮を食べて乗り切れ」という記事を掲載。金がないのであれば普段は捨てているところを食べればいいじゃない!って、パンがなければ菓子を食べろといったマリー・アントワネットのほうがマシではないか。ちなみに日経新聞は甚大な被害をもたらした台風19号を受けて「『もう堤防には頼れない』国頼みの防災から転換を」という記事も掲載している。災害が起きても国や行政に頼らず、自分で自分の身を守ろうというのだが、いったい何のために私たちは税金を払っているのだろう。ちなみに、この台風19号が日本列島を荒らし回っている最中、安倍政権は社会保障費の1300億円圧縮の検討を開始したそうだ。

 サンドバッグか。日々つましい暮らしをしている庶民はもう殴られっぱなしでK.O.寸前だ。既存のルールをぶち壊して価値観をひっくり返してしまうジョーカーのような存在も現実には出現しない。なすすべもなく、お上がいつの間にか決定したことにただ従い、それが当たり前になって何も感じないパンチドランカー状態。そして、よくわからないまま増税した消費税を払い続けるのだ。

ナイジェリア入管収容者の”ハンスト餓死”事件と茹でガエル

社会と日常、その狭間。あまり明るくなさそうな将来におびえつつ、なんとなく日々を過ごしてしまっている小市民的な視点から、見えてくるものを考える。

 茹でガエル理論、茹でガエル現象、茹でガエルの法則などと呼ばれる警句がある。主にビジネスシーンで使われてきたものらしい。

 カエルを残酷にも熱湯に落とし入れると、もちろんすぐに飛び出して逃げる。しかし、常温の水に入れて少しずつ熱していくと、カエルは微妙な温度の上昇を見過ごして行動を起こさず、気づいたときには息も絶え絶えで動けなくなり、そのまま茹で上がってしまう——。

 環境の変化を敏感に感じ取っていかないと、いつしか「座して死を待つのみ」みたいな致命的状況に陥ってしまうから注意しましょうね、という話である。

茹でガエル理論は日本社会そのものに当てはまる?

 Twitterでワード検索などしてみると、この茹でガエル現象をビジネスシーンについてではなく、今の日本社会そのものに当てはめている人が多い。日本社会に生きる私たち自身が徐々に茹でられているカエルということだ。

 そう言いたくなる気持ちは、わかる。毎日のように「おいおい、ちょっと待てよ。そりゃないだろ」と呆れ果てたり、憤慨したりせざるを得ないようなニュースばかりで、いい加減にこちらとしても慣れてくるというか、「はいはいまたですか」という気持ちになってくる。そして、「もはやどうにもなりませんな」と、どうでもよくなってきてはいないか。実際のところ、どうすることもできないわけだし。

 しかし、そんな薄らぼんやりした茹でガエル状態になっていても、ときどき「うわっ、熱っ!」と、気づかされることがある。これ実はかなりやばいことになっているんじゃないか、と思わず目を開かれるのだ。

 最近そんな思いをしたのは、今年6月に入管施設で収容中のナイジェリア男性が“餓死”していたというニュースだった。

 朝日新聞が10月1日付で「入管施設での外国人死亡は餓死 入管庁「対応問題なし」(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191001-00000031-asahi-soci)と見出しをつけて報道した記事によると、今年6月に長崎県の大村入国管理センターに収容されていた40代のナイジェリア人男性が死亡。その死因を出入国在留管理庁(入管庁)がようやく公表したのだが、なんとハンガーストライキによる“飢餓死”だったという。

 21世紀の日本でハンスト餓死。衝撃的だ。飢餓いう状態は精神的にも身体的にも想像を絶する苦しさに苛まされると聞く。ハンストは長期収容に対する抗議と、健康上の問題などから入管施設からの一時的に釈放される仮放免を求めてのものだったというが、そこには壮絶な覚悟と恐らくは怒り、絶望があったのだろう。しかし、より衝撃的でのけぞるような思いをしたのは、その“飢餓死”に対して入管庁が「対応に問題はなかった」と表明していることだった。

 いや、そんなわけないから。

 ひとりの人間が飢えて死んでいる。

 自分たちが管理運用している施設に収容している人間が、その管理運用のあり方について文字通り命がけの抗議をして、その抗議を無視した結果として彼は死んだのである。問題がないわけない。 

 餓死したナイジェリア人男性が施設で具体的にどのような処遇を受けていたかは明らかではないが、入管の収容者に対する待遇のひどさはこれまでにも幾度となく問題視されてきた。収容者の自殺や自殺未遂、自傷行為が相次ぎ、今回の事件の他にもハンストが起きている。そうした入管行政のあり方を見直し、餓死という結果に終わる前に処遇改善をはかるという道もあったのでないか。

 結局、「何もしない」という決断をくだした入管庁の言い分としては、本人が職員の警告に応じずに治療を拒否したから問題がなかったということだが、目の前で人が餓えて衰弱のままに死んでいくのを見過ごして「問題がなかった」というのは、法的な手続きに問題がないということだろうか。では、「問題がない」と決定を下した人は、それを人としても問題はなかったと心から言えるのだろうか?

 こうした入管庁の態度と同じように衝撃的だったのが、事件に対する“世間”の態度だった。

 先に挙げた朝日新聞の記事はYahoo!ニュースに転載されて、数多くのユーザーが事件についてコメントを投稿している。コメント欄のトップには“オーサー”としてフリージャーナリストの志葉玲氏のコメントが掲載され、法令に基づいた収容者の健康や命に対する入管庁の責任や長期収容による二重刑罰といった法的な問題点を指摘している。しかし、ユーザーのコメントの多くは「対応に問題はない」と入管庁に同調を示したもので、「すぐに強制送還すればよかった」「餓死も自業自得」などという意見が目立った。こうしたコメントを寄せている人たちにとって、不法滞在という罪を犯した外国人犯罪者は、餓死という悲惨な最期を遂げたところで同情に値しない存在なのだろう。

 餓死したナイジェリア人男性は施設内で“サニーさん”と呼ばれて慕われていたという。西日本新聞の記事によると、サニーさんは皆が親切、穏やかと口をそろえる人物で、同部屋で過ごしたことのあるフィリピン人男性は「兄のような存在。食事が足りない時には分けてくれた」とコメントをしている。

 サニーさんには日本人女性との間にできた子供がいる。帰国を拒んでいたのは「出国すると子供に会えなくなる」からだという。ちなみに日本で生まれたこの子供は、もちろん日本人だ。

 自分の子供との再会を望んでいたサニーさんはなぜハンストという抗議をせざるを得なかったのか。その背景にどんなことがあったのか。徐々に衰弱して死に向かうなかで、サニーさんはどんなことを思ったのだろう。

 すべては想像でしかないが、きっと、その人生にはひとりの人間として、悲しみや苦しみ、怒り、そして喜びがあっただろう。サニーさんは窃盗などの罪で実刑判決を受けて服役もしている。恥辱、悪意、葛藤、後悔——そんなネガティブな感情に溺れるような思いをしたことがあるかもしれない。その一方で、自分の子供の誕生を寿ぎ、その小さな体を抱いて、そのか弱さと温かさに目を細めて笑ったこともきっとあっただろう。

 Yahoo!ニュースにコメントを寄せた多くに人にとっては、“自業自得のハンストで餓死した外国人犯罪者”に過ぎないかもしれないが、その人生には暗闇もあれば、輝きもあり、それは私たちひとりひとりとまったく変わらないかけがえのないものであったはずだ。

 サニーさんの収容期間は3年7ヶ月に及んだ。

 1977年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件で、当時の福田赳夫首相は「人命は地球より重い」と述べて、テロリストの要求に従った。その是非はさておき、現在の日本では人命よりも“自己責任”のほうが重そうだ。

 社会学者の故・山岸俊男はいくつかの著作のなかで、心理学の“臨界質量”という概念を使って人々の社会的行動を説明している。信号無視、自転車の違法駐輪、学校のいじめ……どのような現象であっても、実は集団の大半は“周りのみんな”の行動に合わせて行動をしている。例えば、誰かひとりが信号無視をしても、ほとんどの人はそのまま信号を守る。しかし、信号無視をする人が少しずつ増えていき、ある“一線”を超えると、「みんながやっているんだから自分も……」と一斉に信号無視をしてしまう。この集団の行動を分ける分水嶺となる比率が“臨界質量”だ。

 サニーさんの餓死を報道した記事に投稿された入管庁に同調する多くのコメントには、自己責任論と他者への不寛容、権威主義がひそんでいることが読み取れる。そこに自由や平等といった理念、そして人権を尊重し、弱者への共感はほとんど見られない。そうした傾向はこの件に限らず、社会全体にも蔓延しつつあるだろう。“臨界質量”を超える日も近いかもしれない。私たちが水に入れられたカエルだとすれば、その水の温度はもはや火傷する寸前くらいにまで高くなっているのではないか。

 実際のところ、常温から少しずつ茹でられたカエルは水が熱くなったらさっさと逃げ出すそうだ。そりゃそうだろう。カエルと比べるのはどちらにとって失礼なのか、という話だが、より問題なのはカエルと違って、こちらはさっさと逃げ出すことができないことだ。

 ちなみに臨界質量の“潮目”は、社会集団のトップやリーダー的な存在の態度に影響されて変わることがあるという。例えば、熱血教師が「いじめは絶対に許さない」と常日頃から公言し、いじめが起きたら断固たる処分を下す。そうして生徒から得ることができれば、「いじめは絶対にしない」という“良い子”を増やすことはできなくとも、周りに合わせて行動する大多数の生徒の気持ちにわずかながら“良い影響”を与え、結果的にいじめの臨界質量が下がっていくのだ。

 もちろん、その逆もまた起こりうる。アメリカでトランプ大統領当選後にヘイトクライムが増加している事実をみれば、さもありなんという感じである。さて、我が日本では……思い半ばに過ぎるといったところだろうか。

「この人ってそっちだったのか…」新たな“地雷”を増やしていく社会的分断

社会と日常、その狭間。あまり明るくなさそうな将来におびえつつ、なんとなく日々を過ごしてしまっている小市民的な視点から、見えてくるものを考える。

「え、君は南京大虐殺が本当にあった出来事だと思っているの?」

 ちょっと前に酒場にいたとき、一緒に飲んでいた人にそう訊かれて一瞬かたまってしまった。その人とは年に数度、酒場で顔を合わせる程度の仲で、とくに親しいというわけではなかったけれど、会えば会ったでたわいもない話をしながら楽しく酒を酌み交わすぐらいの関係だった。50代後半の気のいいおじさんで、とあるクリエイティブな仕事でしっかりとした実績があり、周りからもかなりの評価と信頼、尊敬を得ているような人である。

 こちらとしても、それなりの好印象と敬意を抱いていたわけで、そんな人のそんな発言に驚いて言葉が出てこなかったのだ。

 実際、なんて答えればいいのか。「そんなことをいう人だと思っていなかった」という思いでいっぱいだったのだが、話を合わせないとその場の“空気”は間違いなく壊れるだろう。ちょっとした緊張感が走るシーンではある。

そういう人だったのか——いや、そういう人になってしまったのか

 しかし、まあこちらも酔っていたこともあって、「そりゃあったでしょう。被害人数には諸説あるみたいだけれど、日本政府も認めているわけだし」と適当に返事をした。すると、それが意外だったのか、今度は向こうが一瞬言葉を止めた。そして「いや、でも当時の状況を現実的に考えてみれば……」と、ちっとも現実的ではない妄想のようなことを語り出し、やがてせきを切ったように朝日新聞の悪口を言い始めた。

 そういう人だったのか——いや、そういう人になってしまったのか。そんな思いでネット空間に溢れ返っている、どこかで聞いたような与太話が展開されていくのを貝になって聞き流していた。

 いいかげんにしてくれよという気持ちが態度に表れていたからか、なんとなくお互いに「この話はもうやめよう」という雰囲気になり、酒の席の会話によくあるように話題はふわふわとまた別のところへ移っていったけれど、場の空気はどこかしらけたものとなり、その人とはそれからもなんとなく疎遠になってしまった。

 ここ数年、予期せぬところで「あ、この人ってそっちだったのか」という経験をしたことがある人は案外多いのではないだろうか。職場、取引先、酒場、友人関係、そして家庭——どんな場でもそれは起こりうる。久しぶりに帰省したら親が“そういう人”になっていた、なんて話はもはやよくある笑えない笑い話の定番のひとつだ。

 相手が自分の親だったり、遠慮なくものがいえる人だったりする場合、“そんなこと”を言い出したときに「は? ちょっと待て、今なんて言った?」というモードに入ってしまうこともある。しかし、経験のある人にはわかるだろうけれど、ここで相手に道理というものを諭そうとしても得るものはなにもない。

 相手は相手で“自分が正論だと感じること”を言い募り、たいていの場合は議論は意味のある”止揚”どころか単なる口ゲンカに発展する。時にはどちらかがその場で客観的事実や証拠になるようなものをスマホなんかで提示して、相手の矛盾を指摘したり、バシッと論破したりしてしまうこともあるかもしれない。
 
 しかし、そんなケースでも論破されたほうが「そうか、この件については自分が間違っていたな。もっと広い視野を持たなくては」なんて考えを改めることはない。まず間違いなく「ちくしょう、腹立つなこのやろう。だからこういうこというやつは嫌いなんだよ」と余計に反感を高めている。家に帰ったあとは必死に反証となる仮説や理論を探しまくるだろう。

 そして、広大なネットの世界ではどんな荒唐無稽な話であっても、それが正しいと主張する“証拠”はいくらでも見つかる。それが、本当に証拠になるものかどうかはさておき。いずれにせよ、意見を衝突させてケンカになるか、気まずい空気に耐えて何とか話題を変えるか、そのどちらかしかない。同じ場所にいるはずのふたりは、そのときからある意味で違う場所に自分たちが立っていたことに気がついてしまうのだ。

 ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ右と左にわかれるのか』(紀伊国屋書店)やダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)などの本を読むと、こうした立場の違いは、理性による合理的な判断で決まるのではなく、より根源的な情動、直観によって決定されるそうだ。

 だから、合理的なものであっても批判をされたら腹が立つし、仮に客観的な証拠などの材料をもって立場を変えるように説得されたとしても、納得できるどころか反発しか生まれない。「自分の立場が正しい」と論理ではなく情動、直観で信じているため、相手がどうしようもないひとでなしに思える。そして冷静に始まったはずの議論は熱を帯び始め、やがてケンカに発展して、その場の空気と時にその後の人間関係をも壊すのである。

 その場にいる人を“自分たち”と“あの人たち”に分断させるようなセンシティブな話題は、いわば見えないところに埋められた地雷のようなものだ。そして、いまやそんな地雷はあらゆるところに埋まっているし、その種類は増え続けている。Twitterの一部界隈やYahoo!ニュースのコメント欄なんかは、そんな地雷が爆発炎上したあとの見本市だ。

 安倍政権を支持するかしないか。トランプ大統領を評価するかしないか。れいわ新選組は? それともNHKから国民を守る党については? 中国や韓国に対する態度、原発問題、米軍基地、同性婚に夫婦別姓、著名人の不倫や不祥事、スキャンダル。混んでる電車にベビーカーを持ち込むのは有りか無しか。ワクチン接種の是非、家事育児の取り組み方、ワーク・ライフ・バランスに賃金格差。果ては掛け算の順序からハンコを捺す角度まで、人々は実に多様なイシューで自分と立場を異なる相手を批判しまくっている。時にそれは大きな炎上騒ぎになって、ある種のガス抜きにすらなっている。“正しい立場”から、“間違っているやつ”を叩くのは快感だから。

 匿名性がある程度は保たれているネット社会とは違い、現実の社会では地雷はそんなに爆発炎上することはない。空気を読むことに長けた“大人”たちは、会話をしながら誰もがそろそろと「このへんは危ないな」と地雷がありそうなポイントを避けていく。ときどき、ふと気を緩めた誰かが、そんな地雷を踏みかける。その場にちょっと緊張が走る。たいていの場合、周りで空気の読める気の利いた誰からがうまく話題をそらして事なきを得る。でも、誰かがさらに地雷を踏み込むこともある。「いや、そんなわけないでしょ」という感じで始まる地雷の爆発は、たいして大きなものを破壊するわけではない。先にも書いたように、その場の空気とその後の人間関係の機微ぐらいのものだ。時に取り返しがつかないほど関係が壊れることもあるけれど。

 もちろん、その程度の爆発であっても、じゅうぶん過ぎるほど面倒くさい。だから、覚悟を決めた活動家でもない限り、誰もが会話をしているときは無意識のうちに地雷を避けている。そうやって気を使うこと自体を面倒くさいと感じつつ。ときどき「いったいどうしてこんなことになってしまったんだろう?」と感じることがあるかもしれない。でも、答えは出ないし、何かできることがあるわけでもない。だから、より面倒くさい事態が起きないよう、これまで通りに地雷のありそうなポイントを探りつつ、そこを避けていく。

 でも、そうした地雷を避けて無関心を装うこともまた、現代の社会的分断を推し進めている要因のひとつといえる。リアルな空間で目の前にいる人が、誰かを差別したり、抑圧したり、虐げたり、それに加担するようなことを言い始めたときは、どれだけ面倒くさくても「それは間違っている」と、あえて地雷を踏むことも必要ではないだろうか?

 それがどれだけ不毛な結果に終わることが予想できたとしても。そのとき、爆発を防いで次の一歩へとつながるのは 相手を批判し、打ち負かそうとする論理ではなく、他者へのポジティブな想像力と共感性になるだろう。