願望を語ることさえ許されない…「アラサー女=結婚狙いだから怖い」という風潮に物申す!

みなさんこんにちは、みほたんです。先日、私より少し年下の女の子からこんな話を聞きました。友人主催のBBQに行った時のこと。まぁ所謂合コン的なノリだったらしく、女性は20代後半、男性はアラフォーで全部で15人くらい集まったそうです。彼女から見て、女性陣は見た目レベルもコミュ力も高くて好印象、男性陣は残念な見た目の上に全然喋らないし、最終的には女性陣が頑張って盛り上げるという無銭キャバクラ状態に。正直「この人たちこの歳で独身なの納得だわ!」って感じだったらしいのですが、ひとりの男性と話しているとこんな言葉が飛び出したそうです。

「付き合う女の子は25歳までって決めてるんだよね。25歳以上の女は結婚を狙ってくるからダメ!」

はあ? 別に結婚願望がまったくないならいいんですよ! あと、単純に「若い子好きだからそれ以上は無理」とかだったら、それはもう自由にしてくれ! って感じで。そもそも、その男に女から追いかけられて困っているような雰囲気はないわけで、勝手に「アラサー女=怖い」みたいなイメージを作りあげて逃げているだけですよね。なんなら、逃げている自分に酔ってる可能性だってあります。っていうか、狙われて何が困るんだよ! 彼女いわく「見た目も残念で、話が面白いわけでもなくて、めちゃくちゃ稼いでるわけでもない。狙われるって40歳相応の微々たる財産だけでしょ! それくらい狙われとけよ!」とのことでした。

ちょうどその頃、マッチングアプリ関連のツイートで同じように「28歳以上の女は結婚を迫ってくるから絡まないほうが身のため」みたいな発言を見ていたので、「何なんだろう、その風潮!」と、ちょっとカチンときました。

うーん、確かにね。マッチングアプリにハマりだした2年前より「イイね」の数や、メッセージがじゃんじゃん来る、みたいなのは減っているように感じます。絡んで来てくれる男性の年齢も35歳以上が格段に増えたし、若いといえば20歳、21歳の逆に何も考えていない層……。これってもしかして、私も「アラサー婚活モンスター」として危険視されているっていうことなのか!?

BBQに参加した彼女も、他でもそういう発言を聞くらしく「もはや最初から、結婚願望ありません! って言わないとダメなのかな」「マッチングアプリのプロフィールにそう書いたほうがモテるかも」「でも別に、結婚したくないわけじゃなくて、焦ってないし成り行きに任せますって感じなんだけどな……」「恋人は欲しいしね……」と2人でしばらく頭を抱えました。

そもそも、結婚願望を見せることは「悪」なのか?

過去に「元彼が仕事を辞めるタイミングで別れを切り出される」ってことが二回ありました。「仕事を辞めるし、将来も決まってないから、これ以上一緒にいても意味ないでしょ」とか「自分は結婚に向いているとは思えない」とか勝手に結論を出されてフラれました。いやいや、わかってますよ。他にも問題はあるけど、面倒だからそう言っていたり、もしくは自分のことで精いっぱいだから、ひとりにしてくれって意味もあるんでしょうね。でも、そのあたかも「君は結婚したそうだけど、俺には出来ないから別れたほうがいいよね、別れよう」みたいな「俺は悪者じゃない」スタンスが頭に来る!

その後、「いや、ちょっと待て、そもそも私がいつ結婚してくれって言った!?」という疑問が頭をよぎりました。話を掘り下げてみると、「またあの子も結婚だ、次はあの子が結婚だって言ってたじゃん」とか「結婚式から帰ってきて、『自分の時はこうしたいなー』とか言ってたじゃん」とか、そういうところを勝手に拾い上げてくるんですよ。それくらい言わせてくれや!! 私は結婚式は神前式がいいし、でも憧れの映画みたいにサプライズで『All You Need Is Love』を演奏されるのも憧れるし、二次会はライブハウスでやりたいし、ゆくゆくは子供だって欲しいんじゃ~!! 何なの? そういうことを語るだけで悪なの? 怖いって言われるの? そんなの、辛いよ……!

そういう豆腐メンタルな男に限って、孤独になった時や将来に不安を覚えた時に、手頃な女や過去の女に「ずっと独身だったら貰ってよ」とか「最終的にはお前と結婚するかもな」とか言ってくるんですよ。これはマジです。でも、そういうメンヘラ男に絡まれる女はどこまでも優しいので「一緒に行き遅れようね~」とか「嫌だけどそれも楽しいかもね~」とかお望み通りの慣れ合いの返事をしてあげます。笑った絵文字を返していても、顔は真顔で。

なぜ日頃は結婚願望をひた隠しにして、相手の望む時だけ都合よく見せてあげなければいけないのか。男はみんなそういう女が好きなんですか? メンヘラ男だけ? 結局私がそういう男とばっかり付き合ってるメンヘラ女だから? ちょっと、自分の鬱憤が爆発してしまいましたが、言いたかったことは「アラサーだからって怖がられたくない」。私たちだって普通に男の子と遊びたいし、出来れば幸せになりたい、そしてゆくゆくは結婚だってしたい。それを夢見て頑張ってる姿をバカにしたり、勝手に怖がって逃げないでほしい。

とりあえず、「ずっと独身だったら貰ってよ」とか都合良いこと言って来た奴全員覚えてるからな! 私が本当に困ったらスクリーンショット送りつけてやる! 責任取れよ!

願望を語ることさえ許されない…「アラサー女=結婚狙いだから怖い」という風潮に物申す!

みなさんこんにちは、みほたんです。先日、私より少し年下の女の子からこんな話を聞きました。友人主催のBBQに行った時のこと。まぁ所謂合コン的なノリだったらしく、女性は20代後半、男性はアラフォーで全部で15人くらい集まったそうです。彼女から見て、女性陣は見た目レベルもコミュ力も高くて好印象、男性陣は残念な見た目の上に全然喋らないし、最終的には女性陣が頑張って盛り上げるという無銭キャバクラ状態に。正直「この人たちこの歳で独身なの納得だわ!」って感じだったらしいのですが、ひとりの男性と話しているとこんな言葉が飛び出したそうです。

「付き合う女の子は25歳までって決めてるんだよね。25歳以上の女は結婚を狙ってくるからダメ!」

はあ? 別に結婚願望がまったくないならいいんですよ! あと、単純に「若い子好きだからそれ以上は無理」とかだったら、それはもう自由にしてくれ! って感じで。そもそも、その男に女から追いかけられて困っているような雰囲気はないわけで、勝手に「アラサー女=怖い」みたいなイメージを作りあげて逃げているだけですよね。なんなら、逃げている自分に酔ってる可能性だってあります。っていうか、狙われて何が困るんだよ! 彼女いわく「見た目も残念で、話が面白いわけでもなくて、めちゃくちゃ稼いでるわけでもない。狙われるって40歳相応の微々たる財産だけでしょ! それくらい狙われとけよ!」とのことでした。

ちょうどその頃、マッチングアプリ関連のツイートで同じように「28歳以上の女は結婚を迫ってくるから絡まないほうが身のため」みたいな発言を見ていたので、「何なんだろう、その風潮!」と、ちょっとカチンときました。

うーん、確かにね。マッチングアプリにハマりだした2年前より「イイね」の数や、メッセージがじゃんじゃん来る、みたいなのは減っているように感じます。絡んで来てくれる男性の年齢も35歳以上が格段に増えたし、若いといえば20歳、21歳の逆に何も考えていない層……。これってもしかして、私も「アラサー婚活モンスター」として危険視されているっていうことなのか!?

BBQに参加した彼女も、他でもそういう発言を聞くらしく「もはや最初から、結婚願望ありません! って言わないとダメなのかな」「マッチングアプリのプロフィールにそう書いたほうがモテるかも」「でも別に、結婚したくないわけじゃなくて、焦ってないし成り行きに任せますって感じなんだけどな……」「恋人は欲しいしね……」と2人でしばらく頭を抱えました。

そもそも、結婚願望を見せることは「悪」なのか?

過去に「元彼が仕事を辞めるタイミングで別れを切り出される」ってことが二回ありました。「仕事を辞めるし、将来も決まってないから、これ以上一緒にいても意味ないでしょ」とか「自分は結婚に向いているとは思えない」とか勝手に結論を出されてフラれました。いやいや、わかってますよ。他にも問題はあるけど、面倒だからそう言っていたり、もしくは自分のことで精いっぱいだから、ひとりにしてくれって意味もあるんでしょうね。でも、そのあたかも「君は結婚したそうだけど、俺には出来ないから別れたほうがいいよね、別れよう」みたいな「俺は悪者じゃない」スタンスが頭に来る!

その後、「いや、ちょっと待て、そもそも私がいつ結婚してくれって言った!?」という疑問が頭をよぎりました。話を掘り下げてみると、「またあの子も結婚だ、次はあの子が結婚だって言ってたじゃん」とか「結婚式から帰ってきて、『自分の時はこうしたいなー』とか言ってたじゃん」とか、そういうところを勝手に拾い上げてくるんですよ。それくらい言わせてくれや!! 私は結婚式は神前式がいいし、でも憧れの映画みたいにサプライズで『All You Need Is Love』を演奏されるのも憧れるし、二次会はライブハウスでやりたいし、ゆくゆくは子供だって欲しいんじゃ~!! 何なの? そういうことを語るだけで悪なの? 怖いって言われるの? そんなの、辛いよ……!

そういう豆腐メンタルな男に限って、孤独になった時や将来に不安を覚えた時に、手頃な女や過去の女に「ずっと独身だったら貰ってよ」とか「最終的にはお前と結婚するかもな」とか言ってくるんですよ。これはマジです。でも、そういうメンヘラ男に絡まれる女はどこまでも優しいので「一緒に行き遅れようね~」とか「嫌だけどそれも楽しいかもね~」とかお望み通りの慣れ合いの返事をしてあげます。笑った絵文字を返していても、顔は真顔で。

なぜ日頃は結婚願望をひた隠しにして、相手の望む時だけ都合よく見せてあげなければいけないのか。男はみんなそういう女が好きなんですか? メンヘラ男だけ? 結局私がそういう男とばっかり付き合ってるメンヘラ女だから? ちょっと、自分の鬱憤が爆発してしまいましたが、言いたかったことは「アラサーだからって怖がられたくない」。私たちだって普通に男の子と遊びたいし、出来れば幸せになりたい、そしてゆくゆくは結婚だってしたい。それを夢見て頑張ってる姿をバカにしたり、勝手に怖がって逃げないでほしい。

とりあえず、「ずっと独身だったら貰ってよ」とか都合良いこと言って来た奴全員覚えてるからな! 私が本当に困ったらスクリーンショット送りつけてやる! 責任取れよ!

無自覚な性差別を強化する広告は、そこに描かれた「人間」を見る者もまた「人間」であることを失念している

 若い女性を主人公に起用した広告・PR(2015年の『ルミネ』や昨年の『資生堂 インテグレート』CM、鹿児島県志布志市のふるさと納税PR動画『少女U』(うなぎのうな子)、昨年より展開している東急電鉄の社内マナー啓発キャンペーン『私の東急線通学日記』等)への批判が吹き荒れる昨今。イラストとして描かれた東京メトロのイメージーキャラクター『駅乃みちか』や三重県志摩市の観光PRキャラクター『蒼志摩メグ』(海女さん)といった萌えキャラへのバッシングも相次いだ。

 上記事例の批判内容の大枠は、女性への性差別的・性的な表現、表情に対する反発である。それらが“公共の場に現出する”事実への非難、嫌悪、問題視等を加味すると、事例が広告・PRだからこそ寄せられた批判といえる。

 我々は、スクール水着姿で「養って」と訴えるうなぎ少女や、アダルトゲームの登場人物のように見える(その可能性を伴う)キャラクターが、公の場にしれっと登場する社会で生きている。件のCMは、社会人経験の少ない若い女性が、自らの年齢や容姿を悲観する(男性上司によって悲観させられる)描写をフックに、ファッションや化粧品の購買を促す。広告の都合でわざわざ“残念バイアス”をかけられた虚構の女像が、企業利益や市政のプロモーションに利用価値を見いだされる。そのような残念な状況に対し、抗議の声があがらない方がおかしいと、当方は捉える。

 とはいえ、主にインターネット上にて可視化される意見は、批判ではなく個々の感想であったり、言い掛かりや憂さ晴らしの投稿も含まれていたりと、とかく雑多である。個々が問題視する焦点も、インターネットとの向き合い方も、当然ながら人それぞれに異なる。その実に多角的な各論の紹介については、すでにインターネット上で散見されるので控え、この場では“上記事例が広告だからこそ嫌われる理由”を考察してみたい。

疑いも意図もない性差別広告

 まず、上記事例は、ジェンダーギャップがなかなか解消されない日本人の気質の映し鏡である。その気質とは、男尊女卑の潮流をくむ性差別の精神そのものではない。社会に実在する性差別を前に、「それが差別」と気付かぬまま、自覚も悪気も意志もなく、公然と性差別を行うに至る“無頓着さ”を示す。

 上記事例には、批判の声があがってようやく広告主が性差別の観点と対面した共通点がある。各位は批判を受け、「性差別の意図はなかった。配慮が足りなかった」と釈明した。それが本意ならば、問題の根幹には、事例の表現と性差別の接点を想像することさえできない“疑いのなさ”がある。

 広告制作者は、社会に実存する偏見や性差別に疎いのだろうか。しかし、多くのスタッフが関わる制作過程において、インターネットであっさり炎上するほど安易な表現に対し、疑問をもつ者もいたのではないかと推測する。その際、企画の再精査はしたのか。危機管理の観点も含めて、異議を唱える者はいなかったのか。仰る通り配慮が足りないとはいえ、それなりの配慮は一応したのか。検討の必要性はなしと判断したのか。必要性があるという発想自体、なかったのか。「性差別の意図はない」というが、それでは一体、どのような意図があるかといえば、もちろん“広告”である。

 昨今の広告・PRは、インターネット上での話題性を重視している。よって、有象無象の反応が現出することも織り込み済みのはずである。特にメディアにおける女性の扱い方、そのデリカシーのなさについての様々な意見は当のインターネット上に所狭しと氾濫している。事前に、それこそ意図的に参照しない手はない。参照した結果、話題作りの炎上狙いで、性差別表現を利用したならば、正々堂々「悪用だ」と糾弾できる。が、特に意図も作為も疑問もなく、無頓着に“性差別”に接触した挙げ句、怒られてしょんぼり撤回した広告群には、「だったら、はなから作るなよ」というセンスのない悪口以外、かける言葉が見つからない。意図せずとも、性差別表現であると指摘される広告を世に放った事実は揺るがない。

無意識に性差別に加担する広告

 自らの言動が性差別(表現)につながる疑いをまるでもたない者が、性差別に加担する。疑問をもっても無視する者が、社会に性差別を放置する。この差別の当事者意識の欠落が、日本の男女格差問題に通底するポイントであると私は捉える。

 差別意識がないまま差別に加担する者は、自分に意識はない事実を根拠に「自分は差別していない」と認識する。しかし、自分目線の事実(主観)を根拠に、大多数の人間によって構成される事実(世界)を無自覚的にスルーして良い道理は通用しない。

 主観と世界の往復によって、人間は客観を伴う当事者性を育成する。主観の意図と世界の解釈に隔たりが生じる時、集団の一員としての自分の立ち位置を俯瞰視してみると、これまで自分が見ていた主観の視野はまさしく狭小な世界の一部であり、肉眼視できない自分の背中やお尻も含めて、人々は自分を認識していることが明確に分かる。

 よって、自分の前面も背面も知る世界の人々に「おまえの背面はどうなっているのだ」と問われた際、「知りませんよ、だって私の目には自分の体の前面しか見えない」と言い逃れすることはできない。背面は確かに、世界に存在するのだから。

 人間は、世界の反応により、これまで主観の守備範囲には存在しなかった事象への“無関心”“無自覚”“無知”を知る。自分が、ある事象への差別や侮蔑を間接的に引き起こしていると気付いた時、世界の一部としての当事者性が研磨される。

 自分の背中で行われている事象に対し、当事者としての自覚を持たない者に、改善を促すことはなかなか難しい。促したところで、自分の背中は自分のものではなく、世界の他人事と認識する者の頭の中には、主観の“関心”はあっても、他者の目によって発見される“無関心”への気付きは存在しない。改善するべき問題自体も“見えない=ない”。存在していないので、疑問も生じ得ない。差別意識がない以上、自分の背中が性差別に加担していたとしても、自分自身は性差別の当事者ではない。かくして、他人事の透明マントで甘やかした当事者性の欠落が、この世に、広告に、性差別や男女格差を放置するに至る。

女性を貶める広告と人間の距離

 無頓着ゆえに炎上する種の性差別広告は、“広告”と大きく書かれた人体の前面、目視できる範疇のみを当事者として管轄する一方で、わざわざ“残念バイアス”をかけて貶めたスク水少女や萌えキャラや自己肯定感を社会に削がれた若い女性像を背面にがっつりと背負った当事者性を認めない。

 むしろ残念女性像を乱雑に捕獲し、その全面に乱暴な文字で“広告”と書き、首に紐を着けて世界を歩かせ、怒られたら文字のみ消してトンズラする、見世物搾取の感もある。なぜ、こうした広告・PRが横行するかといえば、制作当事者各位が、人間の雑な扱い方に疑問を感じていないからだ。あるいは、丁寧に精査する必要性がないと判断したからだ。なぜか。これまでの広告・PRの方法論は、そこまで熟慮しなくとも成立したからである。

 インターネットが普及する以前、広告と見る者の間にはそれなりの距離があった。テレビCMも街のPRポスターも“意図せずばったり遭遇する”類いの出会いものであり、能動的に遭遇するにはそれなりの労力を要した。人々は日常会話にて、話題の広告やその好き嫌いについて語り合うが、そのパーソナルな感想が制作当事者の耳目に触れる機会はないに等しい。

 個々の好き嫌いの範疇を越え、社会に悪影響を及ぼすと問題視された広告については、苦情、抗議の直電がクライアント企業やPR主の広報課の元へ寄せられる。結果、公開中止となった実例は数あるが、そもそも電話番号を調べ、かけ、ダイレクトに怒りをぶつける活動にはエネルギーがいる。そこまでするほどの執着がない場合、「普通に嫌い」といった悪口を言うのみで、気楽に無視をする。その程度の距離感が許された。

 インターネットを通じた情報化社会の発展に伴い、広告を含めた数多の情報と人間の距離はぐっと近づいた。企業は、既存媒体よりも安価に、より多くの人々に話題性を訴求できるインターネットでのPR展開に意欲を出す。広告代理店は、動画の再生回数やSNSでのリツイート数をもってクライアントに注目度の高さを証明する。

 そしてインターネットを日常利用しているユーザーは、かつてと変わらぬ日常会話をSNSで行い、ブログ等にて抗議も個人の感想も分け隔てなく発信する。もっともネット上の会話は、対面交流の建前が不要かつ匿名性や悪意の露呈も含まれるため、日常同様とは言い難い。が、多くの異なる価値観をもつ“モノ言う人間”の実態自体は何も変わらない。個々に異なる意見を一挙に見渡せる場が生まれただけだ。

 意見の発信も気軽に行えるようになった。その内容の是非はさておき。エネルギーを要する“抗議”(イベント)と気楽な“感想”(日常)の距離も解消され、暇つぶしのクレームを含めた多様な日常の声が、広告制作者やクライアントにも直接届く時代が訪れた。その批判的な反応(今に始まったことではない)に際し、「まさか、ここまで批判されるとは、予想もしなかった」と驚く制作当事者の反応こそが、街場の意見に頓着せずとも成立してきたこれまでの業態の日常の質を露にする。

当事者の主体を隠すな

 現在の広告屋が対面しているのは、媒体の確保や旧来のクライアントワーク、役所のPR課内の擦り合わせのみではない。「人間」である。特にインターネットユーザーは、双方向的なコミュニケーションに慣れている。広告もコンテンツも記事も私論も、すべて情報と看做し、SNS等での拡散や反応を介して人々と交流を行う。よって「人間」を無視した一方的な情報提供の方法論は、嫌われやすい。

 また、情報と人間、ユーザー同士の距離が縮まる交流過程において、各情報に現れる人物像との距離も近づく。好きなタレントやモデルといった実在の有名人のみならず、映画やドラマの主人公、虚構の二次元キャラ、その作者、匿名希望者等、インターネット上の日常で遭遇する人物像に身近さや愛着(時に粘着)を感じやすくなる。

 つまり、ユーザーは情報の中の人物像を、自分と距離の近い人間として見る。その前面に“広告”“虚構”と書かれていようとも、背面も含めた全体像が人間として不快ならば、「雑に扱ってくれるな。不快だ」と述べる。同時に、不快な描き方をする広告主や制作当事者にも、「人間性を疑う」と苦情が寄せられる。曖昧模糊としたイメージの印象操作は「胡散臭い」。そもそもユーザーはインターネットの利用者であり、特定の広告の消費者ではない。よって、利益誘導や話題性獲得のための広告メソッドをゴリ推しするPRは「おまえの商売のカモ扱いするな」と叱られる。

 良くも悪くも個々の人間性が丸出しになっている状況において、登場人物の女性をわざわざ貶める一方的な脚色が未だまかり通ると思っているのは、「人間」との距離が遠く、旧来の広告メソッドとの距離が近い広告屋のみだ。広告屋が残念女性像を担ぐのは、メソッドの慣習においては正当化されているからである。つまり、広告屋以外の人間には無効である。

 登場人物を貶め、辱める事態に無頓着でいられる者は、社会の格差や差別にも無頓着である。意識的・無意識的と関わらず、女性蔑視観をもつ者は、男性優位社会に慣れた男性のみとは限らない。冒頭の事例の中には、女性が指揮を執った案件も含まれている。

 明確な意志をもって蔑視する者もむかつくが、性差別の観点を疑わない無頓着さが性差別への加担を招く、無意識的なケースが個人的にはもっとも質が悪いと考える。なにより、当事者性が不明瞭なうえに、自覚も覚悟もない。ついでに責任も回避するゼロサムゲームの方法論が薄気味悪い。

 私は当事者である主体を隠さない。よって、最後に、冒頭に記した『若い女性を主人公に起用した広告・PR(中略)への批判が吹き荒れる昨今』の一文に訂正を入れたい。他人事を写生する記事文として「批判が吹き荒れている」と記したが、私は能動的に批判を行う当事者である。正しい表現は、「私が、批判を吹いて、荒らしている」となる。

 その他諸々、手前勝手な持論を展開しているが、私には執筆当事者としての自覚と責任がある。自分事の主体性を社会全体の森に隠し、「私が」の主語を「(その他多勢の)批判が」へとすり替え、社会の実状として発言する方法論は、言責を放棄したうえで自己正当化を企てる卑怯者の逃げ口上と心得る。

 もっとも広告は言論とは異なる大規模な宣伝媒体であり、大人の事情も守秘義務も生じる。さまざまな立場、セクションの人材が多勢集うグループワークである以上、誰か1人が責任を明示したくともできない状況は理解する。しかし、責任を明示しようがないからこそ、主体性を隠して責任回避して良し、当事者性も自覚も薄らぼんやりしたままで良しとする風潮がまかり通るようならば、一言お伝え申し上げたい、「大きな広告の森に隠れてんじゃねえよ性差別野郎、表に出ろ」と。

 この混沌とした情報化社会にて、「私は」、「捉え方はユーザーひとりひとりの解釈にお任せする。が、当方が責任と自信をもって発表する持論はこれだ」と記す。主体性を明示したうえで堂々と我が意を放つ。それが現代の情報発信者の誠意だ。

「ルールではなくマナー」東急電鉄マナー啓発キャンペーンの伝わらなさ

 2016年11月に「車内化粧篇」で物議を醸した東急電鉄のマナー向上キャンペーン「わたしの東急線通学日記」が、再び話題になっている。

 シリーズ広告の「わたしの東急線通学日記」は、仁村紗和が演じる、大学進学のために地方から上京してきたばかりの女性が主人公だ。東急線での通学中、目にしたマナー違反に怒ったり、うっかりマナー違反をしてしまう自分に気づいたりし「誰しもマナー違反をしてしまう可能性がある」ということを学んでいくストーリーになっている。これまで、歩きスマホ篇、車内化粧篇、整列乗車篇、荷物篇、音漏れ篇、座席篇の6篇が発表され、主に東急沿線駅構内へのポスター掲示と動画が公開されてきた。

 今回注目されているのは、2017年1月に公開された「座席篇」。座席篇のポスターでは、東急線に乗車している主人公が座る姿の美しい女性に気が付く動画のシーンが切り取られ、「ヒールが似合う人がいた。美しく座る人だった。」というコピーが添えられている。美しく座るその女性の横には、脚を組んで座る男性と大股を開いて座る男性が座っている(コピーテキストを見せるためか、男性の姿は少しぼかされている)。これまでの5篇と違い、今回はマナー違反をする人ではなくマナーの良い人が中心に据えられているのが特徴だ。

 ポスターに対しては、「なぜマナー違反をしている人に直接訴えないのか」「女性ばかりが『美しさ』を求められているように感じる」「マナー違反している人が、このポスターを見て『直そう』と気付くと思えない」といった批判がみられた。なぜ直接マナー違反者に焦点をあてなかったのか、その理由を東急電鉄の広報担当者に聞いた。

「連続するシリーズの広告の中で、座席篇は、マナー違反についてその改善を訴えるだけでなく『良いマナーに触れたときには、気持ち良く感じる』ということを伝える回にしました。結果として良いマナーのお客さまが増え、より多くのお客様に気持ち良く電車をご利用いただけると考えたためです」

 東急電鉄の思いは、なぜ上手く伝わらなかったのだろうか。

◎ユーザーを信じすぎた啓発クリエイティブ

東急電鉄が座席篇で見せたかったのは「マナーが良い人/悪い人」の対比だ。しかし、2点の見誤りがあって、ユーザーが疑問を感じるクリエイティブになってしまった。

 1つは、座り姿の美しい人を表現する際に「ヒールの似合う人」とジェンダーに触れる表現を使ってしまったことだ。ヒールを履くのは女性だけではないという見方もできるが、座席篇のポスターに登場しているのは女性であろう。女性ジェンダーをメインコピーで打ち出してしまったせいで「マナーが良い人/悪い人」の他に「女性/男性」という性別対比の文脈が生まれてしまった。

 そのせいで、昔から「女の子なんだから脚を閉じて座りなさい」と教育されてきた女性たちの反感を買った(批判者にはもちろん男性もいる)。体格差や周りの目に怯えて大股開きや脚組みをする男性に注意できず、日々我慢を強いられているストレスもあるだろう。怒りというよりも「迷惑しているのはこちら(女性)なのに、マナー違反者には指摘せず、ヒールを履いて美しく座ることまで鉄道会社に強いられなければいけないのか」という落胆を感じた人が多かったのではないだろうか。

 座席篇への批判の中で「なぜ東急は女ばかりに訴えかけるのか」という意見があったが、それは誤解である。「わたしの東急線通学日記」では過去に、音漏れ篇、歩きスマホ篇で主人公が若い男性をダンスで非難する姿が描かれている。また整列乗車篇では、中年の男性に対してもマナーダンスを踊っている。シリーズで見ると、東急電鉄が女性にばかりマナー違反を指摘しているわけではないことがわかってもらえるだろう。

 もう1つは、ユーザーの善意や良心を信じすぎていた点だ。

 東急電鉄のマナー啓発ポスターのコピーには、音漏れ篇で「ダサい」、車内化粧篇で「みっともない」、座席篇で「美しい」と、個人の主観的な美醜の感想と受け取れる言葉が使われている。

「『マナー違反を見たお客様が感じる気持ち』を表現することで、お互いに配慮することの大切さに気付いていただきたい、共感していただきたい、という主旨でシリーズを制作しています」

 東急電鉄の意図としては、コピーで表現したのはあくまで主人公の気持ちだった。

「どんなにカッコいい音楽を聴いていても、音漏れしてたらダサいなあ(自分も気をつけよう)」
「あの女性は、座っている姿がきれいだな。ヒールも似合っていて素敵だな(私もああなりたい)」

 見る人にそんな共感が生まれることをはかり、マナー意識の向上を狙ったのだ。ユーザーには、主人公と同じ視点に立つことが求められていた。

 しかし、電車内で主人公と同じように気付きを得られる思考を持つ人は、すでに日常生活の中で気付きを得ている。日常で気付きを得られない人は、ポスターを見ても気付けない。前者のマナー意識ばかりが向上してしまい、マナー意識に差が生まれてしまっているのが現状だ。実際に隣に座っている人の不快感に気付けない人も、ポスターを見れば気付いてくれる(かもしれない)。そんなことがあるだろうか。東急電鉄がユーザーの良心を信じてくれたことは嬉しいけれど、現実はそう上手くはいかない。

 Twitterでは、批判者に対して「東急側の意図が汲めない方がおかしい」と指摘する人もいた。だが、今回は批判者の多くが東急の意図を理解していたと思う。その上で、やはり「このアプローチでは、届いてほしい人に届かない」と感じたため、声が上がったのだろう。

 東急線を利用する男性にもポスターを見てもらった。彼はすぐにこのポスターの意図を理解し、ぼかされている足癖の悪い男性2人の姿にも気が付いたそうだ。この啓発で電車内のマナーが改善されると思うか聞いてみた。

「でも、もしマナー違反をしている人に行動を変えてほしいならば、もっとインパクトがあって尖った表現にしないと目に留まらないと思う」

 東急電鉄は広告制作で意識した点について「インパクトを与える表現を目指した」と答えた。そのインパクトも、マナーを意識している人ばかりが食らい、マナー違反をしている人がノーダメージでは困ってしまう。

◎期待し合う鉄道会社とユーザー

〈マナーの基本は、相手を思いやり、尊重する心を、自然でスマートに実践することです。〉
(『改訂版「さすが!」といわせる大人のマナー講座』p.16)

 マナー啓発の難しい点は、思いやりや人を尊重する心を持ってもらうように誘導しなければならないことである。ただ「○○してはいけません」というだけだと、マナー啓発ではなく命令やルールの徹底になってしまう。実際にマナー違反をしている人びとに対して、この言葉はどれほど響くだろうか。そう考えると、東急電鉄のポスターが表現しようとチャレンジしていたのは、まさに「思いやりの醸成」だった。単に「大股開きはやめましょう」だと、マナーではなくルールの話になってしまうからだ。制作者は、マナーとは何かについてよく調べたのだと思う。

 反面、そんな悠長なことは言っていられないというのがユーザーの心情だった。

 東京で暮らしていて、電車内で他人に「迷惑だなあ」「困るなあ」と思ったことがない人は少ないだろう。1人で1.5人分もスペースを使うような大股開きでの着席、脚を組んで他人を蹴ってしまったりつまづかせたりすること。注意するのは怖いし、注意しても「何が悪いんだ」と逆切れされたら嫌だ。インターネットでは「男は睾丸を冷やす必要がある」「女と違って男の脚は勝手に閉じないんだ」とトンデモな言い訳まで出てくる始末だ。そんな現状に嫌気がさしていた人たちに「鉄道会社側がきちんと注意してくれたらいいのに」という願いがなかったとは考え難い。

〈「マナー」「礼儀」は社交上の心、「エチケット」「作法」は社交上の型や常識的なルールのことであり、それらが車の車輪のように整い、バランスよく発揮されてこそ相手とよりよい人間関係が築けるのです。〉
(『改訂版「さすが!」といわせる大人のマナー講座』p.17)

 ユーザーの良心や善意を信じ、啓発による「気付き」でマナー改善していきたい鉄道会社。電車内で生じるストレスに疲れ果て、鉄道会社や警察などにルールの徹底を願うユーザー。今回の座席篇では、そんなお互いの期待がすれ違ってしまった。ユーザーの善意に頼るマナーと、鉄道会社が主導するルール。互いの信頼のためには、その境界をはっきりさせ役割分担することが必要だ。

 例えば、イギリス鉄道警察(BTP)では性的迷惑行為を取り締まるキャンペーン「Report It To Stop It」(通報してやめさせよう)を展開した。

 キャンペーンサイトの中で「通報する際に、それが犯罪行為なのか、そもそも故意だったのかを証明する必要はありません。BTPがあなたに代わって調査します」と役割分担を明確にしている。ユーザーに望むことと、鉄道会社側(この場合は鉄道警察側)の対応範囲がわかりやすい。

 日本の鉄道会社も、まずはぜひ「ここまではルールでなんとかします、ここからはみなさんのマナーで解決してほしい」という意思表示をしてもらいたい。きっとその方が、ユーザーに当事者意識が芽生えるし、鉄道会社を頼りやすくなるはずだ。

◎ユーザーをハッと気付かせる勇気

 多くの人にハッと気付いてもらう広告クリエイティブは難しい。

 特に交通機関という公共の場では、年齢や性別、教育の深度などバックグラウンドの違う人がごちゃ混ぜに存在している。そのため、ターゲット設定が難しく、狙う的が広すぎるために「刺さる広告」を作るのは至難の業である。

 東急電鉄は、「わたしの東急線通学日記」の動画でダンスを用いた理由について「印象に残るようインパクトのある表現を取り入れた」と回答した。確かにインパクトはあったが、そのインパクトの力を生かしきれず、ユーザーがハッと気付く体験を得られなかったのが残念だ。

 ユーザーの良心や善意を信じる東急の姿勢は素敵だ。しかし、見る人の心を刺しハッと気付かせるためのインパクトを持つ広告を作りたいならば、制作者側には、ターゲットをグッと絞る勇気も必要だ。

むらたえりか

「ルールではなくマナー」東急電鉄マナー啓発キャンペーンの伝わらなさ

 2016年11月に「車内化粧篇」で物議を醸した東急電鉄のマナー向上キャンペーン「わたしの東急線通学日記」が、再び話題になっている。

 シリーズ広告の「わたしの東急線通学日記」は、仁村紗和が演じる、大学進学のために地方から上京してきたばかりの女性が主人公だ。東急線での通学中、目にしたマナー違反に怒ったり、うっかりマナー違反をしてしまう自分に気づいたりし「誰しもマナー違反をしてしまう可能性がある」ということを学んでいくストーリーになっている。これまで、歩きスマホ篇、車内化粧篇、整列乗車篇、荷物篇、音漏れ篇、座席篇の6篇が発表され、主に東急沿線駅構内へのポスター掲示と動画が公開されてきた。

 今回注目されているのは、2017年1月に公開された「座席篇」。座席篇のポスターでは、東急線に乗車している主人公が座る姿の美しい女性に気が付く動画のシーンが切り取られ、「ヒールが似合う人がいた。美しく座る人だった。」というコピーが添えられている。美しく座るその女性の横には、脚を組んで座る男性と大股を開いて座る男性が座っている(コピーテキストを見せるためか、男性の姿は少しぼかされている)。これまでの5篇と違い、今回はマナー違反をする人ではなくマナーの良い人が中心に据えられているのが特徴だ。

 ポスターに対しては、「なぜマナー違反をしている人に直接訴えないのか」「女性ばかりが『美しさ』を求められているように感じる」「マナー違反している人が、このポスターを見て『直そう』と気付くと思えない」といった批判がみられた。なぜ直接マナー違反者に焦点をあてなかったのか、その理由を東急電鉄の広報担当者に聞いた。

「連続するシリーズの広告の中で、座席篇は、マナー違反についてその改善を訴えるだけでなく『良いマナーに触れたときには、気持ち良く感じる』ということを伝える回にしました。結果として良いマナーのお客さまが増え、より多くのお客様に気持ち良く電車をご利用いただけると考えたためです」

 東急電鉄の思いは、なぜ上手く伝わらなかったのだろうか。

◎ユーザーを信じすぎた啓発クリエイティブ

東急電鉄が座席篇で見せたかったのは「マナーが良い人/悪い人」の対比だ。しかし、2点の見誤りがあって、ユーザーが疑問を感じるクリエイティブになってしまった。

 1つは、座り姿の美しい人を表現する際に「ヒールの似合う人」とジェンダーに触れる表現を使ってしまったことだ。ヒールを履くのは女性だけではないという見方もできるが、座席篇のポスターに登場しているのは女性であろう。女性ジェンダーをメインコピーで打ち出してしまったせいで「マナーが良い人/悪い人」の他に「女性/男性」という性別対比の文脈が生まれてしまった。

 そのせいで、昔から「女の子なんだから脚を閉じて座りなさい」と教育されてきた女性たちの反感を買った(批判者にはもちろん男性もいる)。体格差や周りの目に怯えて大股開きや脚組みをする男性に注意できず、日々我慢を強いられているストレスもあるだろう。怒りというよりも「迷惑しているのはこちら(女性)なのに、マナー違反者には指摘せず、ヒールを履いて美しく座ることまで鉄道会社に強いられなければいけないのか」という落胆を感じた人が多かったのではないだろうか。

 座席篇への批判の中で「なぜ東急は女ばかりに訴えかけるのか」という意見があったが、それは誤解である。「わたしの東急線通学日記」では過去に、音漏れ篇、歩きスマホ篇で主人公が若い男性をダンスで非難する姿が描かれている。また整列乗車篇では、中年の男性に対してもマナーダンスを踊っている。シリーズで見ると、東急電鉄が女性にばかりマナー違反を指摘しているわけではないことがわかってもらえるだろう。

 もう1つは、ユーザーの善意や良心を信じすぎていた点だ。

 東急電鉄のマナー啓発ポスターのコピーには、音漏れ篇で「ダサい」、車内化粧篇で「みっともない」、座席篇で「美しい」と、個人の主観的な美醜の感想と受け取れる言葉が使われている。

「『マナー違反を見たお客様が感じる気持ち』を表現することで、お互いに配慮することの大切さに気付いていただきたい、共感していただきたい、という主旨でシリーズを制作しています」

 東急電鉄の意図としては、コピーで表現したのはあくまで主人公の気持ちだった。

「どんなにカッコいい音楽を聴いていても、音漏れしてたらダサいなあ(自分も気をつけよう)」
「あの女性は、座っている姿がきれいだな。ヒールも似合っていて素敵だな(私もああなりたい)」

 見る人にそんな共感が生まれることをはかり、マナー意識の向上を狙ったのだ。ユーザーには、主人公と同じ視点に立つことが求められていた。

 しかし、電車内で主人公と同じように気付きを得られる思考を持つ人は、すでに日常生活の中で気付きを得ている。日常で気付きを得られない人は、ポスターを見ても気付けない。前者のマナー意識ばかりが向上してしまい、マナー意識に差が生まれてしまっているのが現状だ。実際に隣に座っている人の不快感に気付けない人も、ポスターを見れば気付いてくれる(かもしれない)。そんなことがあるだろうか。東急電鉄がユーザーの良心を信じてくれたことは嬉しいけれど、現実はそう上手くはいかない。

 Twitterでは、批判者に対して「東急側の意図が汲めない方がおかしい」と指摘する人もいた。だが、今回は批判者の多くが東急の意図を理解していたと思う。その上で、やはり「このアプローチでは、届いてほしい人に届かない」と感じたため、声が上がったのだろう。

 東急線を利用する男性にもポスターを見てもらった。彼はすぐにこのポスターの意図を理解し、ぼかされている足癖の悪い男性2人の姿にも気が付いたそうだ。この啓発で電車内のマナーが改善されると思うか聞いてみた。

「でも、もしマナー違反をしている人に行動を変えてほしいならば、もっとインパクトがあって尖った表現にしないと目に留まらないと思う」

 東急電鉄は広告制作で意識した点について「インパクトを与える表現を目指した」と答えた。そのインパクトも、マナーを意識している人ばかりが食らい、マナー違反をしている人がノーダメージでは困ってしまう。

◎期待し合う鉄道会社とユーザー

〈マナーの基本は、相手を思いやり、尊重する心を、自然でスマートに実践することです。〉
(『改訂版「さすが!」といわせる大人のマナー講座』p.16)

 マナー啓発の難しい点は、思いやりや人を尊重する心を持ってもらうように誘導しなければならないことである。ただ「○○してはいけません」というだけだと、マナー啓発ではなく命令やルールの徹底になってしまう。実際にマナー違反をしている人びとに対して、この言葉はどれほど響くだろうか。そう考えると、東急電鉄のポスターが表現しようとチャレンジしていたのは、まさに「思いやりの醸成」だった。単に「大股開きはやめましょう」だと、マナーではなくルールの話になってしまうからだ。制作者は、マナーとは何かについてよく調べたのだと思う。

 反面、そんな悠長なことは言っていられないというのがユーザーの心情だった。

 東京で暮らしていて、電車内で他人に「迷惑だなあ」「困るなあ」と思ったことがない人は少ないだろう。1人で1.5人分もスペースを使うような大股開きでの着席、脚を組んで他人を蹴ってしまったりつまづかせたりすること。注意するのは怖いし、注意しても「何が悪いんだ」と逆切れされたら嫌だ。インターネットでは「男は睾丸を冷やす必要がある」「女と違って男の脚は勝手に閉じないんだ」とトンデモな言い訳まで出てくる始末だ。そんな現状に嫌気がさしていた人たちに「鉄道会社側がきちんと注意してくれたらいいのに」という願いがなかったとは考え難い。

〈「マナー」「礼儀」は社交上の心、「エチケット」「作法」は社交上の型や常識的なルールのことであり、それらが車の車輪のように整い、バランスよく発揮されてこそ相手とよりよい人間関係が築けるのです。〉
(『改訂版「さすが!」といわせる大人のマナー講座』p.17)

 ユーザーの良心や善意を信じ、啓発による「気付き」でマナー改善していきたい鉄道会社。電車内で生じるストレスに疲れ果て、鉄道会社や警察などにルールの徹底を願うユーザー。今回の座席篇では、そんなお互いの期待がすれ違ってしまった。ユーザーの善意に頼るマナーと、鉄道会社が主導するルール。互いの信頼のためには、その境界をはっきりさせ役割分担することが必要だ。

 例えば、イギリス鉄道警察(BTP)では性的迷惑行為を取り締まるキャンペーン「Report It To Stop It」(通報してやめさせよう)を展開した。

 キャンペーンサイトの中で「通報する際に、それが犯罪行為なのか、そもそも故意だったのかを証明する必要はありません。BTPがあなたに代わって調査します」と役割分担を明確にしている。ユーザーに望むことと、鉄道会社側(この場合は鉄道警察側)の対応範囲がわかりやすい。

 日本の鉄道会社も、まずはぜひ「ここまではルールでなんとかします、ここからはみなさんのマナーで解決してほしい」という意思表示をしてもらいたい。きっとその方が、ユーザーに当事者意識が芽生えるし、鉄道会社を頼りやすくなるはずだ。

◎ユーザーをハッと気付かせる勇気

 多くの人にハッと気付いてもらう広告クリエイティブは難しい。

 特に交通機関という公共の場では、年齢や性別、教育の深度などバックグラウンドの違う人がごちゃ混ぜに存在している。そのため、ターゲット設定が難しく、狙う的が広すぎるために「刺さる広告」を作るのは至難の業である。

 東急電鉄は、「わたしの東急線通学日記」の動画でダンスを用いた理由について「印象に残るようインパクトのある表現を取り入れた」と回答した。確かにインパクトはあったが、そのインパクトの力を生かしきれず、ユーザーがハッと気付く体験を得られなかったのが残念だ。

 ユーザーの良心や善意を信じる東急の姿勢は素敵だ。しかし、見る人の心を刺しハッと気付かせるためのインパクトを持つ広告を作りたいならば、制作者側には、ターゲットをグッと絞る勇気も必要だ。

むらたえりか

女性を殴り、腹を切り裂くドラマを「ポリコレ棒」でぶん殴らない理由『ウエストワールド』

 昨年トランプが大統領選で勝利をおさめたのを契機に「ポリコレ疲れ」という言葉が日本でも口にされるようになった。排他的、差別的表現批判に反発する物言いが目立つようになり、自分の好む創作物が女性や子供、マイノリティの権利を侵害していると批判される煩わしさを「ポリコレ棒でぶん殴られる」という言葉で表現する人が現れ始めた。どうやら彼らは自分たちこそが“被害者”であると認識しているようだ。少女を性的オブジェのように扱う表現をしても、それは架空のキャラクターに対して行われるものでそもそも「被害者はいない」、果ては「実際にある現実を描いているだけだ」と彼らは主張する。そんな人たちを見ていると私は現在アメリカHBOで制作・放送され大絶賛されているドラマ『ウエストワールド』をいやおうなく連想するのだ。

 このドラマは作家マイケル・クライトンが70年代に脚本、監督した映画のリメイク版である。ウエストワールドとは開拓時代の西部地方を舞台にした、近未来の体験型テーマパークだ。そのテーマパークで繰り広げられるドラマは、ホストと呼ばれるAIを搭載した人工人間によって再現されている。この中で多額の入会費を払って会員になっている富裕層らしきゲストたちは、現実世界で従っているモラルなどかなぐり捨てあらゆることを実行するのが許されている。懸賞金がかけられたお尋ね者をなぶり殺し、遺体と笑顔で記念撮影をすることも、街はずれのひなびた家につましく暮らす清楚な美女を、恋人の目の前で犯すこともできる。そもそもその美女の「結ばれる未来を待ち望む恋人」もその悲劇性を強調するための「設定」なのだ。彼女の平穏や幸福は特権階級であるゲストに破壊されるためにあり、彼女は突然にすべてを奪われ凌辱されるためにその世界に存在しているのである。

 そのことがよくわかるのは、彼らが記憶を持たないという点にある。「私は私である」と思える人間のアイデンティティは記憶の集積によって作られる。生まれてからの経験によって、体験した衝動や反射的行動の記憶によって、とっさの行動が可能になり何を好ましく思い何を疎ましく思うかが決定される。しかし人工人間であるホストは傷つけられたり犯されたり殺されたり、モノのように扱われるたびに記憶を消去され、まっさらの「道具」として蘇る。だから彼らには「自己」というものがない。あったとしてもそれは開発者のフォード(アンソニー・ホプキンス)とアーノルドが「神」として取り上げてしまう。

ホストの真の開発者アーノルドは人間の心の発達過程を階層としてとらえ、下から記憶、直感的判断、自己利益と上がっていき、頂点にあるものを自由意思である「意識」と考えた。これは米国の心理学者ジュリアン・ジェインズが『神々の沈黙』(紀伊國屋書店)の中で提唱した二分心論にもとづくものだ。

 ジェインズは古代ギリシアの叙事詩『イーリアス』を引き、その中で当時の人々が心や意識という言葉を用いず、行動を起こす動機が全て「神の声」によって表現されていることを指摘した。何らかの行動を起こすための感情や合理的思考である「意識」とは言語の発達により生み出されたもので、古代の人にはそれが心の中の「声」として捉えられたというのだ。実際に子供が成長する発達過程を観察しても、人間の抽象的概念を操作する思考は視覚的書き言葉ではなく聴覚的な話し言葉である内言によって構成されると心理学では考えられており、統合失調症の症状である幻覚の特徴は、幻視ではなく、自分の思考が他者の声として知覚される幻聴にある。さらに問題解決や推論といった認知機能障害を持つ脳損傷患者の多くが言語の聴覚処理を司る左側頭葉に機能障害を負っていることが報告されている。

 アーノルドは「神」としてホストたちから「意識」を奪うために、その入り口である「記憶」を封じ込め、さらにあらかじめ彼らの行動を規制するプログラムを頭の中に響く「声」としてコードしたのである。

(以降、ネタバレが含まれます。ドラマの本質的な面白さを損ねるものではなく理解を深めるための考察ですが、気になる方は本編をご覧になってからお読みください。)

 しかしアーノルドは世界の美しさを素直に希望につなげていく素朴な心を持たせたホスト、ドロレス(エヴァン=レイチェル・ウッド)に接していくうちに、あることに気がつき始めた。自分がピラミッドのように考えていた人間の心は実は円形の迷路のような形をしており、そこに放たれたビー玉のようにいつしかホストたちも「意識」の存在する中心にたどり着いてしまうということを。つまり、人間の「自由意思」とは誰かが与えたりするものではなく、あらかじめ全ての人間の心の中に存在するのだというテーマをこのドラマは内包しているのである。そしてフォードがいみじくも指摘したように、ミケランジェロが「アダムの創造」の右奥に置いた神を脳のシルエットを用いて描いたことを考えても500年も前から人類はそれに気づいていた。

アーノルドは、ホストたちが人の心を持ったまま「モノ」として扱われる悲劇が到来することを悟り、自分の死を持ってウエストワールドの閉園を訴えるが、パートナーのフォードはそれに応じなかった。しかし目の前で娘を殺されたホストのメイヴ(タンディ・ニュートン)がPTSD症状を発し、記憶抹消後もその記憶が何度もフラッシュバックしたように、「芽生え」はそこかしこで起こっていた。そこに流れるのはドビュッシーの「Reverie(白日夢)」。字幕では夢幻と訳されていたがこの場合起きていながら見る夢、「白日夢」と訳した方が適切ではないかと私は考える。

 精神分析家ビオンは、突然に物事を理解できたり、ひらめきが生じる現象を、人間は起きていながらも無意識においては夢を見ていて、その中で無意識から意識に概念をのぼらせる過程を繰り返し、思考を形成していると説明し、その精神機能を“Reverie”と名づけている。またPTSD治療では、夢を見ている際の急速眼球運動を人為的に再現しながら外傷的記憶の想起を行うことで、人格への記憶の統合を促す。苦痛を伴う突然の記憶の想起は、ホストたちがいつしか「意識」にたどり着き、自ら自由を獲得するようアップデートするプログラムReverie(レヴェリー)であったのだ。ドロレスやメイヴは目覚めていながらも、血を流し、肉が切り裂かれる痛みを伴った記憶が侵入的に蘇る「白日夢」を繰り返し見る。そう、外傷的な痛みを伴う記憶が自己に統合されてはじめて、人間は自分の深奥に至り、「自我」私は私であるという意識を獲得するとこのドラマは示唆している。

 しかし人は、自由意思をもつ人をモノ化(Objectify)することを止めない。差別的表現はよく「それによって不利益をこうむる人間はいないのだから差別などそもそも存在しない」「確かに差別につながる表現であるが、それを意図したものではないので罪はない」と擁護される。これらは互いに矛盾した意見であるが、同じ問題について同じ人物から発せられることも少なくない。はっきりしているのは彼らがそれを「たいしたことではないと考えたい」ということである。それはこのウエストワールドの客や開発者たちがこのホストたちは「道具」として扱われるために生まれてきたのだからモノとして扱っても構わないという欺瞞を弄しているのに似ている。

 女性の自立という話をしている時に必ず「男と女は別の生き物だ。それぞれに性別役割がある」「男に依存したい女性だっているはずだ」「勉強ができない、男に依存するしかない弱い女の子を差別した発想だ」と反論してくる人がいる。しかしヒトの心とは何かと哲学や科学にもとづいて実験的に考察したこの作品が示唆するのは、個人を救うのは他者による救済を意味するロマンティックラブではないということだ。

 感受性の豊かな美しい心を持ったホスト、ドロレスは何十年もの間繰り返し犯され殴られ刺され「モノ」として扱われる。完全に消えることのない記憶に苛まれながら唯一の救いをある善良な男性の心に求めた。しかし彼もまた彼女を「Objectify」することから逃れられず、その愛は年月によって朽ち果ててしまう。彼女は自分を苦しみから解き放つ導きを求め、庇護者たるアーノルドを探しさまよう。しかしその果てに「迷路の中心」で出会ったのは他ならぬ自分自身だったのだ。そして彼女は銃を取る。自分の生の目的が何であるか彼女は気づき「自分を他人から取り戻」したのだ。愛されること、庇護されることとひきかえに自分がどんな人間であるかを他人に決めさせてはいけないのである。

 ホストたちの逆襲を人間の側から恐怖としてしか描かないアンドロイド版ジュラシックパークに過ぎなかったオリジナルを、HBOとJ.J.エイブラムスそしてジョナサン・ノーランはよくここまで膨らませた、と私は感嘆した。旧作では「目覚め」るのはユル・ブリンナー演じる男性ホストのみなのだが、今作では反乱の前線に立つのは二人の女性ホストである。そしてアーノルドに関する謎についても我々のステレオタイプに基づく先入観を利用したある仕掛けが施されている。これはハリウッドの意識の変化を意味している。マジョリティは、自由を求めるマイノリティによる反乱の“被害者”ではなく、むしろ彼らを抑圧している加害者なのだ。そしてマイノリティを通じ人間の普遍的問題を描くことで、我々マジョリティもまた偏見や抑圧と闘う力を取り戻すというフィクションに課せられた役割をこの作品は見事に果たしている。

 しかし同時にこのドラマはポリティカルコレクトネスに反した表現にも満ちている。女性の顔を拳で殴り腹をナイフで切り開き、男性がおもちゃのように犯される場面すらある。しかし私はこのドラマを「ポリコレ棒でぶん殴」ろうとは思わない。なぜならこの作品は“意図的に”弱者たちが蹂躙されている「現実」を批判的に描き、人間は自由意思をもって生まれたというテーマを内包しているからだ。ひるがえって日本のフィクションはどうか。社会にあふれかえる「現実」をただただ無批判に、むしろ耽溺するように描くにとどまっているのではないか。私たちに心地よさを与えてくれることだけが名作の条件ではない。アメリカのドラマはそこまで進化しているのである。

(パプリカ)

「舐め犬」に心ゆくまで性感帯を舐められたい! 舐め犬探しの旅がはじまったキュウ

みんな「舐め犬」って聞いたことあるキュウ?
なめいぬ? なめけん? どちらの呼び方が合ってるのかの正式名称は分からないキュけど、あたしは「なめいぬ」と呼んでいるキュウ。

そう、世の中には「舐め犬」と呼ばれる人がいるキュウ。
俗に「クンニをすることが好きな男性」のことを舐め犬と呼ぶのキュウ。
「舐め犬」で検索すると、自称舐め犬男性のTwitterアカウントやブログが出てくるキュウ。
「バター犬」と呼ぶ人もいるキュウね。

あたしが「舐め犬」という存在を知ったのは数年前、中村うさぎさんが何かの媒体で舐め犬について喋っていたのを読んだことがきっかけキュウ。
なんて分かりやすいネーミングなの! と思いつつ、すぐ検索したキュよね。

◎実はたくさんいる自称「舐め犬」たち

Twitterで、一人の舐め犬アカウントが目に留まりその人のTLを見てみたキュウ。

自己紹介によれば関東近郊在住・サラリーマン・長身の男で、「そんな風には見られないですね、って言われます」と書いてあったキュウ。
ちゃんと更新もしているし、人間がやってる生きたアカウントなんだな~と思ったキュウ。
いかにも舐め犬風な見た目じゃないのであれば(勝手に舐め犬がキモ見た目のMおじさんって偏見で想像していたキュウ)、連絡してみたいキュウ……! と思いつつも勇気が出ず、何も行動を起こさないまま数年が経ったキュウ。

こういうオッサン来たらイヤキュウ~~~

2016年の年末に向けて、冬の寒さがより一層増してきたある日、あたしはふと舐め犬のことを思い返したキュウ。

「そうだ、舐め犬に会ってみよう」

冬の乾燥で股間も乾いていたあたしは数年ぶりに「舐め犬」で検索をしてみたキュウ。

Twitterで検索をかけると、以前検索したときよりも舐め犬アカウントが増えている印象キュウ!
SNSの普及バンザーイ☆ 舐め犬を選べるじゃねぇかキュウ!

キュキュウ! 数年前に着目したいた舐め犬アカウントもまだ健在してるキュウ!(アイコンの画像は変わっていたキュけどね)
こやつは正真正銘の舐め犬キュウね、何年も舐め犬活動していて!

そいつ以外にも、あたしが気になった舐め犬アカウントがいくつかあったキュウ。
キーワードは私生活が滲み出ている感。
エロ目的とはいえ、ネットの情報だけで知り合うのはやっぱり怖いキュウ~!!
ツイートから、その人柄が垣間見えるような、なおかつ優しそうな人物を選出しないといけないキュウ。

まずひとつ、サラリーマン臭が滲み出ているアカウントを発見。

「働いてばっかで社蓄だな~」
「忙しくてクンニ全然してない>_<これじゃ、ただの社蓄アカウントだ。泣」

と頻繁にツイートしている内容を見て、なんとなく微笑ましい気持ちになったキュウ。
わかるキュウ~~仕事が忙しすぎて本来やりたいことが出来ない世知辛い気持ち!
こやつ、あたしの舐め犬候補リストに追加キュウ~~!!

ただし、気になることがひとつだけ……。

プロフィール欄にM男と書かれてあり、ソフト~ハードまでMプレイいけるのだそうキュウ。
鞭や蝋燭、アナルプレイまでイケるクチらしいキュウ。
あたしはクンニやパイ舐めなどの超ソフトなものしか求めていないから、この人のM魂に付いていけないキュウ~。
まぁ、自分はソフトなのしか求めてません! って、ちゃんと自己主張すれば良いだけの話だけどキュね……。

◎挿入が嫌いな粗チンの「舐め犬」

次に、社畜より気になるアカウントを発見したキュウ。

年齢はアラサー、会社員、長身細身、年齢より若く見られるって言われます、と書いてあるキュウ。
男の「年齢より若く見られる」は鬼門キュウ~! 男は客観性に欠ける奴が多いキュウ(しQペディア調べ)

Twitterに貼られているブログを開いてみると、女性とのプレイ体験談をいくつか書いてあり、時系列や内容を見ても嘘八百ではなさそう……と推測できる感じだったキュウ。

一番気になったのは自己紹介のページにあった「挿入が嫌い」というワード。

そ、そ、挿入が嫌いだとキュウ……!? なぬ。
自分はチンコが小さい、と親告していて、挿入が嫌いな理由はそこにあるんじゃないかと推測されるキュウ。

「挿入じゃなくてクンニをしてもらいたいから舐め犬と出会いたいのに、挿入をしたがる男に当たったらクソ面倒キュウ~!」なんて思っていたあたしには、挿入が嫌いだという、この舐め犬は魅力に感じたキュウ。
粗チンだと自らさらけ出している心意気も気に入ったキュウ~~。

この舐め犬(Aとするキュウ)のブログ記事を漁ると、あたしの心にグサッとささった記事があったキュウ。
それは「舐め犬であることを友人にカミングアウトした」という内容。

「今まで隠してたんだけど、自分舐め犬なんだ」と告白し、舐め犬としてどんなプレイをするのが好きか等を友人に話したら、ドン引きされ、結論としてカミングアウトしてはダメだった、と書いてあったキュウwww

わざわざ言う必要あったキュウ……? どうしても開示したくて我慢ならなかったキュウ? 性癖は自由キュウ! ドン引きするのもまた自由だけどなキュウ!

なんとなくこの舐め犬Aの人柄の良さというか、こういうダメな内容含めて悪い奴じゃない感じがして、あたしはこの舐め犬Aにメールを送ろうと決意したキュウ。

舐め犬Aのブログにはメールを送る前に読んで下さい、という注意事項があったので、それに従って、あたしは自己紹介を交えながらしてもらいたいプレイ内容も書いたキュウ~。

してもらいたいプレイ内容って、日頃頭の中でぼんやりとは妄想したり考えたりはしているけど、
人に伝えるために文章に起こす作業って今までしたことないから、なんだか1人でモジモジしてしまったキュウ~~!
あたしって意外とU★BU~~~★

『クンニをたくさんしてもらいたい願望がありつつも、今まで言うことができずにいたので思い切ってメールしました』
『裸になって肌の触れ合いをしたり、おっぱいをたくさん触られたり舐められたりもされたいです』

と、書いたキュウ~~。恥ずかP~~~。

返信が来るかも分からないし……などと自分に言い聞かせ、とりあえず送ってしまったドキドキの余韻に浸っていたら、夜遅い時間にも関わらず早速返信がきたキュウ!!

犬『メールありがとうございます! 舐め犬にメールをするのが初めてで、しかも自分を選んで頂いたなんて嬉しいです。要望も了解しました。是非よろしくお願い致します。』

ひとまず第一関門クリアーって感じがしたキュウ。
この後の展開は、どうしたらいいキュウ? と思いつつ、返信。

しQ『もう会う日程を決めたほうがいいでしょうか? それともメールのやりとりをしてからの方がいいでしょうか?』
犬『しQさんのお好きな方で構いませんよ♪ 自分はどちらでも大丈夫ですので』

メールのやり取りをしてから会うっていっても面倒くさいし……(←おい)、このまま勢いで会っちゃったほうがいい気もするキュけど、変な人だったらどうしよう~でもメールやり取りしても変な人かどうかは直接会ってみないと分からないキュウ~~。

あたしは自分の直感を信じて、この勢いで会う約束をしてしまうことに決めたキュウ。
舐め犬に遭遇したあたしは、どうなってしまったのか?

後編へ続キュウ!

「舐め犬」に心ゆくまで性感帯を舐められたい! 舐め犬探しの旅がはじまったキュウ

みんな「舐め犬」って聞いたことあるキュウ?
なめいぬ? なめけん? どちらの呼び方が合ってるのかの正式名称は分からないキュけど、あたしは「なめいぬ」と呼んでいるキュウ。

そう、世の中には「舐め犬」と呼ばれる人がいるキュウ。
俗に「クンニをすることが好きな男性」のことを舐め犬と呼ぶのキュウ。
「舐め犬」で検索すると、自称舐め犬男性のTwitterアカウントやブログが出てくるキュウ。
「バター犬」と呼ぶ人もいるキュウね。

あたしが「舐め犬」という存在を知ったのは数年前、中村うさぎさんが何かの媒体で舐め犬について喋っていたのを読んだことがきっかけキュウ。
なんて分かりやすいネーミングなの! と思いつつ、すぐ検索したキュよね。

◎実はたくさんいる自称「舐め犬」たち

Twitterで、一人の舐め犬アカウントが目に留まりその人のTLを見てみたキュウ。

自己紹介によれば関東近郊在住・サラリーマン・長身の男で、「そんな風には見られないですね、って言われます」と書いてあったキュウ。
ちゃんと更新もしているし、人間がやってる生きたアカウントなんだな~と思ったキュウ。
いかにも舐め犬風な見た目じゃないのであれば(勝手に舐め犬がキモ見た目のMおじさんって偏見で想像していたキュウ)、連絡してみたいキュウ……! と思いつつも勇気が出ず、何も行動を起こさないまま数年が経ったキュウ。

こういうオッサン来たらイヤキュウ~~~

2016年の年末に向けて、冬の寒さがより一層増してきたある日、あたしはふと舐め犬のことを思い返したキュウ。

「そうだ、舐め犬に会ってみよう」

冬の乾燥で股間も乾いていたあたしは数年ぶりに「舐め犬」で検索をしてみたキュウ。

Twitterで検索をかけると、以前検索したときよりも舐め犬アカウントが増えている印象キュウ!
SNSの普及バンザーイ☆ 舐め犬を選べるじゃねぇかキュウ!

キュキュウ! 数年前に着目したいた舐め犬アカウントもまだ健在してるキュウ!(アイコンの画像は変わっていたキュけどね)
こやつは正真正銘の舐め犬キュウね、何年も舐め犬活動していて!

そいつ以外にも、あたしが気になった舐め犬アカウントがいくつかあったキュウ。
キーワードは私生活が滲み出ている感。
エロ目的とはいえ、ネットの情報だけで知り合うのはやっぱり怖いキュウ~!!
ツイートから、その人柄が垣間見えるような、なおかつ優しそうな人物を選出しないといけないキュウ。

まずひとつ、サラリーマン臭が滲み出ているアカウントを発見。

「働いてばっかで社蓄だな~」
「忙しくてクンニ全然してない>_<これじゃ、ただの社蓄アカウントだ。泣」

と頻繁にツイートしている内容を見て、なんとなく微笑ましい気持ちになったキュウ。
わかるキュウ~~仕事が忙しすぎて本来やりたいことが出来ない世知辛い気持ち!
こやつ、あたしの舐め犬候補リストに追加キュウ~~!!

ただし、気になることがひとつだけ……。

プロフィール欄にM男と書かれてあり、ソフト~ハードまでMプレイいけるのだそうキュウ。
鞭や蝋燭、アナルプレイまでイケるクチらしいキュウ。
あたしはクンニやパイ舐めなどの超ソフトなものしか求めていないから、この人のM魂に付いていけないキュウ~。
まぁ、自分はソフトなのしか求めてません! って、ちゃんと自己主張すれば良いだけの話だけどキュね……。

◎挿入が嫌いな粗チンの「舐め犬」

次に、社畜より気になるアカウントを発見したキュウ。

年齢はアラサー、会社員、長身細身、年齢より若く見られるって言われます、と書いてあるキュウ。
男の「年齢より若く見られる」は鬼門キュウ~! 男は客観性に欠ける奴が多いキュウ(しQペディア調べ)

Twitterに貼られているブログを開いてみると、女性とのプレイ体験談をいくつか書いてあり、時系列や内容を見ても嘘八百ではなさそう……と推測できる感じだったキュウ。

一番気になったのは自己紹介のページにあった「挿入が嫌い」というワード。

そ、そ、挿入が嫌いだとキュウ……!? なぬ。
自分はチンコが小さい、と親告していて、挿入が嫌いな理由はそこにあるんじゃないかと推測されるキュウ。

「挿入じゃなくてクンニをしてもらいたいから舐め犬と出会いたいのに、挿入をしたがる男に当たったらクソ面倒キュウ~!」なんて思っていたあたしには、挿入が嫌いだという、この舐め犬は魅力に感じたキュウ。
粗チンだと自らさらけ出している心意気も気に入ったキュウ~~。

この舐め犬(Aとするキュウ)のブログ記事を漁ると、あたしの心にグサッとささった記事があったキュウ。
それは「舐め犬であることを友人にカミングアウトした」という内容。

「今まで隠してたんだけど、自分舐め犬なんだ」と告白し、舐め犬としてどんなプレイをするのが好きか等を友人に話したら、ドン引きされ、結論としてカミングアウトしてはダメだった、と書いてあったキュウwww

わざわざ言う必要あったキュウ……? どうしても開示したくて我慢ならなかったキュウ? 性癖は自由キュウ! ドン引きするのもまた自由だけどなキュウ!

なんとなくこの舐め犬Aの人柄の良さというか、こういうダメな内容含めて悪い奴じゃない感じがして、あたしはこの舐め犬Aにメールを送ろうと決意したキュウ。

舐め犬Aのブログにはメールを送る前に読んで下さい、という注意事項があったので、それに従って、あたしは自己紹介を交えながらしてもらいたいプレイ内容も書いたキュウ~。

してもらいたいプレイ内容って、日頃頭の中でぼんやりとは妄想したり考えたりはしているけど、
人に伝えるために文章に起こす作業って今までしたことないから、なんだか1人でモジモジしてしまったキュウ~~!
あたしって意外とU★BU~~~★

『クンニをたくさんしてもらいたい願望がありつつも、今まで言うことができずにいたので思い切ってメールしました』
『裸になって肌の触れ合いをしたり、おっぱいをたくさん触られたり舐められたりもされたいです』

と、書いたキュウ~~。恥ずかP~~~。

返信が来るかも分からないし……などと自分に言い聞かせ、とりあえず送ってしまったドキドキの余韻に浸っていたら、夜遅い時間にも関わらず早速返信がきたキュウ!!

犬『メールありがとうございます! 舐め犬にメールをするのが初めてで、しかも自分を選んで頂いたなんて嬉しいです。要望も了解しました。是非よろしくお願い致します。』

ひとまず第一関門クリアーって感じがしたキュウ。
この後の展開は、どうしたらいいキュウ? と思いつつ、返信。

しQ『もう会う日程を決めたほうがいいでしょうか? それともメールのやりとりをしてからの方がいいでしょうか?』
犬『しQさんのお好きな方で構いませんよ♪ 自分はどちらでも大丈夫ですので』

メールのやり取りをしてから会うっていっても面倒くさいし……(←おい)、このまま勢いで会っちゃったほうがいい気もするキュけど、変な人だったらどうしよう~でもメールやり取りしても変な人かどうかは直接会ってみないと分からないキュウ~~。

あたしは自分の直感を信じて、この勢いで会う約束をしてしまうことに決めたキュウ。
舐め犬に遭遇したあたしは、どうなってしまったのか?

後編へ続キュウ!

妄想・幻覚もひとつの「現実」である・統合失調症患者の「現実」とゆらぎ――卯月妙子『人間仮免中』『人間仮免中つづき』

 初めて自殺未遂をしたのは中学3年生。20歳で結婚し出産するも、ほどなく夫の会社が倒産。借金返済のためにホステス、ストリップ嬢、そしてAV女優として働き、スカトロ系などの過激なAVなどに出演したことでカルト的人気を獲得。代表作は、排泄物や吐瀉物やミミズを食べる『ウンゲロミミズ』。しかしその後、夫が投身自殺し、幼少期から悩まされてきた統合失調症が悪化。自傷に他傷、・殺人欲求などの症状により精神病院に入退院を繰り返し、新宿のストリップ劇場では、舞台の上で喉を掻っ切り公開自殺未遂――壮絶な経歴を持つ漫画家・卯月妙子によるコミックエッセイが2012年刊行の『人間仮免中』(イースト・プレス)とその続編で昨年12月に刊行された『人間仮免中つづき』(小学館)です。

 『人間仮免中』は、「統合失調症」を患う作者と、内縁の夫・ボビーとの生活をユーモラスに描いた漫画ですが、その内容は、統合失調症の陽性症状である幻覚や妄想に、躁状態での歩道橋からの飛び降りによる顔面崩壊……と波乱万丈。しかしこの漫画は、いわゆる「闘病記」や「統合失調症の体験記」といったものではありません。読み手の側からどんなに異様に見えたとしても、これは「卯月妙子の生活」そのものを描いた作品なのです。

 作者は生活のなかで、さまざまな幻覚・妄想を体験します。電車に乗れば、車内の中吊り広告に刷られた「卯月妙子死刑確定」「卯月妙子転落の人生を暴く!!」などという週刊誌の見出しが目に飛び込んできますし、突如として「自分にはカリスマ占い師の素質がある。だからなんでも分かるのだ」という妄想に取り憑かれたりもします。そして投身自殺をはかったあと、入院先で彼女が突入していく妄想の世界も壮絶です。作者を殺す場面をネット配信しようとたくらむ終花看護師(おそらく作者の妄想上の人物)と病院の職員たちの「ボビーとのエッチな合成写真を作って、実名と一緒に公開しよう」「エキサイトに献花台の無料レンタルサイトがあるから(ありません)、卯月妙子のサイトも作ってやろう」という会話。病院内でいきなり卯月妙子のAV上映会が始まったり、同意書を書かされたボビーも病院で一緒に殺されることになったり、謎の占い師が卯月妙子の死ぬまでの運勢を生中継で占いにきたり……とにかく因果関係のめちゃくちゃな、狂った世界が彼女を取り巻いているのです。そんななかで彼女は殺されることになっているわけですから、当然ものすごく恐ろしい。読んでいると、無性に不安な気持ちを掻き立てられます。しかし同時に、どこか吉田戦車の不条理ギャグ漫画のような滑稽さもあって、読者は混乱の渦に巻き込まれたまま、ページをめくることになるのです。

 作者の見ている世界は、いわゆる「正常な」人びとが日常的に見ているものとは大きく異なっています。常識にのっとって考えれば、彼女の見ている世界は「妄想」や「幻覚」――つまり「誤った考え」や「誤った知覚」であると言えるでしょう。しかし彼女にとって、それらはひとつの「現実」なのです。他人と、それも大多数の人間とは別の「現実」を生きること。そして自分にとっての「現実」が、ともに生きる他人には受け入れられないのだとしたら、それはとても苦しいことのように思われます。

「正しい現実」と「誤った妄想」?

 しかし、作者を介護する母親や恋人のボビーは、彼女の見ている世界を否定しません。すずなり荘という物件に住む母親を、隣人の漆原容疑者なる人物が殺そうとしているという妄想に襲われた作者が「すずなり荘にはもう行かないで! 隣に住んでるのは漆原容疑者だよ!!」と支離滅裂な内容の手紙を渡しても、「そんなバカなことがあるわけがない」などとは決して言わないのです。「すずなり荘はとっくに解約して、今はウィークリーマンションに泊まってるから大丈夫だよ!」と、母親を心配する作者の気持ちを汲んだ受け答えをしています。

 また、病室で寝ている状態にも関わらず、劇場の楽屋にいるという認識をしている作者が「お母ちゃん今朝は楽屋に来てくれたのにごめんね。私はSMの仕事で何度も鼓膜をやぶいていて、お母ちゃんがつけたテレビの音がどうしても耐えられないの」という手紙を書いたときにも、そこに書かれていることが正しいか/誤っているかを問題にするのではなく、彼女にとっての「現実」を自分たちの「現実」と並び立つものとして尊重し、彼女が今どのように感じているのか、何を望んでいるのかを汲み取ろうとしています。

 恋人のボビーも、彼女が見たり聞いたりしているものが幻覚であることを指摘しつつも、それが彼女にとっての「現実」なのだということを認めています。『人間仮免中つづき』において、作者はしばしば幽霊の姿を見ていますが、ボビーは「霊っていうのは(統合失調症の)陽性症状だよ。あなたが自己保存のために作り出した世界だ」と言いながらも、恋人が彼らのためにお経をあげることを止めさせたりはしません。彼女にとっての「現実」と、自分にとっての「現実」との間にはズレがあるけれども、それを当然のこととして受け入れているのです。

 私たちを取り巻く「現実」は、刻一刻と変化していくものです。しかし同時に、「現実」の中心にいると思われている自分自身もまた、つねに変動し続けている存在なのだということは、しばしば忘れられがちです。いつでも自分を確かな存在として信用していて、移り変わるのは周りだけだと思っているし、意味や価値のない、無方向な変化を認めたがらない。だから人は齧ったリンゴが酸っぱいときには「このリンゴは外れだ」と考えてしまうのですし、自分の味覚が変動していることなど思いもよらないのです。人の言うことを聞き間違えて、相手の意図とはまったく違う話を頭の中に作り上げてしまうことだってありますし、カーテンをお化けだと見間違えて恐怖を感じることだってあるでしょう。そのとき私たちの「現実」は、私たち自身の変動――それも成長や経験、自分の意思による変化だけではない、「ズレ」や「ゆらぎ」という不安定で一見役に立たないものによって、たやすく揺れ動いてしまうのです。「何かがおかしい」と感じたときには、周囲ではなく自分が変動しているのかもしれない。でも、周囲が変化している場合もある。そう考えると、自分が感じている「現実」が、そしてなにより自分自身が、とても頼りないものに感じられるのではないでしょうか。自分とは違う「現実」の捉え方をしている人のことを、「異常だ」「間違っている」などとは、とても言えなくなってしまいます。

すごいのは「メンヘラの人生」というコンテンツではない

 作者のように何らかの精神疾患を抱えた人びとは、その人生が強烈であればあるほど、いわゆる「メンヘラ」という用語で表されるようなコンテンツとして消費されがちです。現に、『人間仮免中』を評価するレビューの多くは、作者自身の「壮絶な人生」に焦点をあてたものでした。しかし、『人間仮免中』がすぐれて力強い作品であるのは、作者・卯月妙子の人生が壮絶なものであったから――という単純な理由ではないように思われます。

 一度でも読んだことがある人ならば身に覚えがあると思うのですが、この漫画は、読み手の精神を非常に疲れさせるものです。ひとたび本を開けば、ジェットコースターに乗せられたかのような猛烈な勢いに取り憑かれて読んでしまうのに、ページをめくってみると驚くほど進んでいない。読んでいるうちに不安定な気持ちになって、乗り物酔いのようなめまいすら感じてしまう。このような奇妙な現象が起こる理由として、作者の描く世界が、私たちが日常用いている「現実」を読み解くためのコードにのっとっていないから、ということが挙げられます。それはたとえば常識や規範と呼ばれるものであり、こうしたコードがあるからこそ、私たちはある出来事についていちいち深く考えなくとも、ほとんど自動的にそれを解釈し、物事をパターン化・あるいはカテゴライズして捉えることができるようになっているのです。

 ところが『人間仮免中』において描かれる世界では、そのような便利なコードはほとんど通用しません。 常識のコードをひとつひとつ外しながらでないと読み進めることができないのです。今まで自分たちが信じて頼ってきたものを手放すわけですから、どんどん「現実」が、自分が分からなくなる。これは間接的に作者の統合失調症の症状を体験しているのだと言えます。この漫画がいわゆる「闘病記」や「体験記」という体裁を取っていないことも大きいでしょう。『人間仮免中』は、読者に分かりやすく統合失調症の症状を説明し、理解を求めるという類のものではありません。「健常な」人びとに理解を求める「体験記」は、完全に「健常な」言語で書かれるものですが、この漫画の作者は、むしろ「患者の」言語と「健常な」言語のバイリンガルとして「統合失調症」を伝えています。だからこそ、私たちはこの作品を読んでこんなにも心が、感覚が揺さぶられる。つまり、『人間仮免中』という作品の最も優れた、特有な点は、卯月妙子という女性の「壮絶な人生」ではなく、読者の「現実」をゆらがせる、彼女の「筆力」なのです。

 また、常識や規範のコードが通用しないというのは、作者を取り巻く人びとのありようにも言えることでしょう。「1に、この世にあること! 2に、快くこの世にあること! 生き様なんて5番目だ!!」というボビーの台詞にもあるように、ボビーや母親をはじめとする周囲の人びとはみな、「正しく生きる」ことよりも、卯月妙子という個人が「快く生きられる」ことを大切にしており、一見はちゃめちゃで、とても常識的とは言えないものの、温かく愛に満ちた関係を作者と築いていることが彼女の漫画からは伝わってきます。

 彼女を取り巻く人々が、漫画の中で温かく描かれていること。これもまた、「彼女の周囲の人びとが彼女を愛している」という事実だけに回収されるものではありません。娘のためにダメな医師を怒鳴りつけ、退院早々彼女が吸いたがっていた煙草を「退院したばかりなんだから」とも言わずに差し出してくれた母親。こうした思いやりも、作者がなんとも思わなければ、作中であのように描かれることはなかったはずです。そして、癇癪持ちで型破りで、でも照れ屋で情に厚くて涙もろくて、卯月さんが大好きなボビー。作中で描かれる彼の姿は、とてもかわいい。ボビーという人間を、漫画の登場人物としてしか知らない読者にも、涙が出るほど愛おしいと思わせてしまう。これもまた、卯月妙子の「筆力」によるものでしょう。

 この本を読んだ人は一様に、「これは、愛の物語だ」と口にしてしまいます。ですが、やはりこれも、卯月妙子という人の人生を指す言葉ではないように思います。愛しい出来事・愛しい人びとを、作品の中に愛おしく描くこと――彼女はそれに間違いなく成功しています。それこそが漫画家・卯月妙子の何よりの愛の証であり、『人間仮免中』という作品を、「愛の物語」たらしめているものなのです。
(文・餅井アンナ)

こんなシーンでエロいと感じちゃうなんて! 自分でも驚く意外な興奮ポイント

性的なものが表現されていても、エロいと感じるかどうかは人それぞれです。さらに、それで性的興奮を覚えるかも人によります。

 春画ブームで盛り上がっている2014年末、関連するトークショーにいくつか行ったのですが、「春画は猥褻か」というテーマに対し、ある識者(どなたかは失念……)が「春画が描かれた時代と現代とでは“エロのコード”が違うので、今、これを見て興奮する人は少ない」といった主旨のことをお話されていました。たしかに春画で「エロいなぁ、いいなぁ」と感じても、それは性的興奮に直結するものではありません。アダルト動画やコミックを見たときに感じるようなムラムラは覚えないのです。

 明言はされませんでしたが、法律で猥褻とは「いたずらに性欲を興奮または刺激させ、しかも普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道徳観念に反するもの」とされているので、ゆえに春画は猥褻ではない、という意味だと受け取りました。現代人でも春画で思いっきりハァハァする人がいないとはいいませんが、それは圧倒的に少数派だろうと私も思います。

 ここのところ、自分自身の「エロのコード」について考えさせられることが立て続けにありました。

知らない外国語を聞いているよう

 ストリップの世界では近年、「BLストリップ」という新ジャンルが登場しています。先日初めて鑑賞の機会があったのですが、私にはまったく無縁の世界だと感じました。女性の肉体でBLを表現するという、とても倒錯的かつ複雑なジャンルでファンも相当数いるようなのですが、私にはBLそのものに対してエロスやムラムラを感じるコードがないので、そのエロ圏内に入っていけないのです。

 BLが一大市場であることは言うまでもなく、その宝の山を愉しめない自分をちょっと残念にも感じます。歴史が長いジャンルですから表現の幅も広く、ライトなものからハードなものまで、お好きな方にとってはよりどりみどり。おそらくストリップを観たことがない方でも、そのステージは萌えポイント、エロスポイントをいくつも見出すことができるのでしょう。けれど、BLジャンルにおけるエロのコードをまったく持ちあわせていないと、単純にどこで何を感じていいのかわからないのです。その良し悪しを評したいのではなく、知らない国の言語をひと言も聞き取れないのと同じ状況だということです。

 その一方で、自分でも意外なところで「エロのコード」が反応した出来事がありました。これまで、性暴力や性犯罪を思わせる表現を見ても、私はそこにエロスを感じないしムラムラしないと思い込んでいました。なのに、ある作品を観たときに思わず心のチンコが反応してしまったのです。

 それはピンク映画ながら、昨今注目を集める“AV出演強要問題”に対するひとつのアンサーを示す作品で、ヒロインは、過去に一度だけ「自分の意志で」AVに出演したことのある女性です。10年後、その事実を知る人物に執拗につきまとわれることになりますが、彼女は過去と対峙し、乗り越えようとします。

 そこにもうひとり、AV出演経験がある女性が登場するのですが、こちらの彼女は強要されてAV女優となったのでした。ヒロインに会いにきて、その忌まわしい過去を消したいと訴えるのですが……。

 途中、差し挟まれる「その女性のAV出演シーン」がエロいのです。性的興奮を誘われるのです。通常のピンク映画では、モザイクやぼかしといった処理を避けるため基本的に結合シーンを映さないのですが、そのシーンのみ、“あえて”AVさながらにモザイクがかけられ「本番行為」が表現されていました。しかも男性2☓女性1の3Pで、アクロバティックな体位や、2穴挿入などかなりハードな内容です。

“お仕事”としてアンアン喘いではいますが、作中の彼女にとっては「やりたくない仕事」です。屈辱です。合意なく無理に性行為をし、それをカメラで撮られているわけですから、彼女は被害者で、本来はあってはならない行為です。そんな場面を見て興奮してしまうとは……自分でも驚きました。もちろんすべてストーリー上のことで、女優さん本人は自分の意志で映画に出演し、濡れ場を演じているわけですが。

自分のコードを自覚していたい

 どうやら私のなかには「AVにおける表現技法」に慣れ親しんでいて、さらには「嫌がる女性が強引にヤラれているシチュエーションに欲情する」コードがあるようなのです。これは、PC(ポリティカルコレクトネス)的にはアウトかもしれません。でも、人は正しいことでばかり欲情するとは限りません。正しさを押しつけられるとかえって萎える場合もあるでしょう。

 言うまでもなく、リアルな「強要事件」や性暴力、性犯罪の表現であれば興奮しません。シンクロして、つらすぎて、思わず目をそらすかもしれません。あくまでも高度なファンタジーとして見せてくれているから、私も刺激されるのです。このシーンも、彼女の「境遇」を見せるためのものであって、彼女を「貶める」ためのものではありませんでした。同じファンタジーでも、あまりに生々しい表現……観ている人を、そして女性そのものを害するような表現であれば、私の脳内チンコは反応しないと言い切れます。

 私が最初からそういうコードを持っていたかというと、そんなことはないと思います。AVという文化に親しむ(女性としては、結構観ているほうでしょうから)うちに生じた、あるいは強化されたものだと考えられます。

 女性としておかしいのだろうか……とは思いませんが、ただ、限度はあると感じます。私のなかでこのコードがさらに強化されて、ほんとうに暴力的なシーンで興奮するようになるとしたら、それはとても怖いことです。そのためにも、自分のなかにこうしたコードがあることに自覚的でいたい、と思うのです。

 みなさんも自分のなかにあるエロのコード、掘り下げて見ませんか? 意外なもので興奮してしまう自分がいるかもしれませんよ。