「美し過ぎる銭湯絵師」勝海麻衣氏がライブペインティングイベントにおいて、イラストレーター猫将軍氏の作品に酷似した絵を描いた騒動は収まる気配を見せない。東京五輪に合わせ都が展開する文化イベント『Tokyo Tokyo FESTIVAL』のうちの一つが銭湯のペンキ絵のアートプロジェクト『TOKYO SENTO Festival 2020』だ。そこから勝海氏は「このイベントにあわせプロデュースされた存在なのではないか」という疑惑もネット上でささやかれている。勝海氏騒動の裏にある問題を考えていきたい。
そもそも、銭湯は減っている――銭湯に行ったことがないのに銭湯が懐かしいのはなぜか
東京オリンピックに合わせ、日本文化を世界に発信したいという思惑はよくわかる。リオオリンピックの閉会式でもバトンを渡された安倍晋三首相がマリオのコスプレをしていたが、アニメや漫画、ゲームといった「クールジャパン」の方がよほど銭湯より外国人にとってもメジャーだろう。
しかし一方で、こういった文化についていけなかったり、拒否感を示す層も一定数いるのはわかる。オタクであっても、国が主導となりクールジャパンを展開することを嫌がる人もいるだろう。一方で「銭湯」は真逆の強さがある。老若男女にフィットできるノスタルジーがあるのだ。「三丁目の夕日」は令和でも強い。
しかし「銭湯のノスタルジー」といいつつ、私は一度も銭湯に行ったことがない。スーパー銭湯や健康ランドしか行ったことがなく、こういう人は少なくないはずだ。
※銭湯は都道府県ごとに入場料の規定があり、東京都の場合大人は460円。一方スーパー銭湯や健康ランドなどは値段の規制がない。
なぜ銭湯に行ったことがないかというと、近所にないからだ。そして事実、銭湯の数は減り続けている。東京都の情報サイト「東京くらしWEB」を見ると、平成17年には1,025あった東京都内の銭湯は、29年には562軒と、12年でほぼ半減している。
行ったことのない場所、したことのない経験に懐かさや情緒を感じるのは人間の想像力のすばらしさでもあるが、ノスタルジーをくすぐられて、なんかいい、となった状態は思考停止にもつながりかねないという過去の事例に「江戸しぐさ騒動」がる。
江戸しぐさとはNPO法人江戸しぐさが提唱・普及しているもので、雨の日に道ですれ違うとき、互いの傘を外側に傾け相手が濡れないようにする「傘かしげ」などが紹介されており「江戸時代の商人たちのマナー」としてACジャパンのCMでも紹介された。「いい話」ではあるのだが、江戸時代にそういったしぐさが実在していたという歴史的証拠はない、と騒動になったのだ。
アニメや漫画やゲームは嫌いな人もいる。一方「何か懐かしくて、歴史的な情緒があって好ましいもの」の前では多くの人は「なんかいいよね」になってしまう。実際の銭湯に一度も行ったことがないのに、数十年続いた銭湯の最後の一日がテレビで放送されると、体験したことがない懐かしさが失われてしまうことに涙するのだ。
そのノスタルジー自体は何ら悪くないが、一方で、金を稼ごうとする人にしてみれば、受け取る側が深く考えなくなりがちなノスタルジー領域はビジネスチャンスになるのではないだろうか。
もちろん銭湯にかかわる人たちのほとんどは真っ当に仕事をしているのだろうが、今回の騒動には「銭湯のノスタルジー」が利用された体は感じる。
そもそも、銭湯絵師はすでに複数いる中でなぜ勝海氏というニュースターが必要だったのだろうか。銭湯絵師としての実績が不足していた勝海氏は、すでに銭湯絵師として活躍してきた丸山清人氏の弟子、見習いという体で紹介されていた。(※現在勝海氏と丸山氏の師弟関係は解消されている)。
産経新聞のニュース記事『現役モデルの大学院生、銭湯絵師に弟子入り』によると、勝海氏が丸山氏に弟子入りしたのは平成29年9月。2年もたたない間に、多くのメディアが勝海氏を取り上げ、ビーツ・エレクトロニクスのイヤフォンのCMに出るなど、露出が激増する。しかし「弟子」がこれほどピックアップされる芸術ジャンルはなかなか他が思い浮かばない。
このため「失われゆく日本のノスタルジー、銭湯。銭湯絵師として活躍してきた高齢の師匠の想いを、現役藝大生が引き継ぐ。そして東京五輪に関連するプロジェクトに抜擢される(しかも美人)」というストーリーありきで進められているのではないかという疑惑もささやかれているのだ。
これはあくまで疑惑だが、もしこの疑惑を成し遂げようとするなら、いち大学生である勝海氏一人の働きでは無理だろう。さまざまな後ろ盾がいたはずだ。そしておそらく、そういった後ろ盾にとっては、すでに活躍している現役の銭湯絵師たちよりも「美し過ぎる銭湯絵師見習い」の方が「イケる」と思ったのだろう。
このような騒動に発展し、勝海氏は今後、表舞台には出てくるのはかなり難しくなるはずだ。一方で、この「美し過ぎる銭湯絵師プロジェクト」を画策した人たち(疑惑だが)が無傷なら、勝海氏だけが矢面に立たされすぎではないかと思う。
結局「美し過ぎる〇〇」は誰も幸せにしない
今回の騒動の根底に感じるのは「美し過ぎる〇〇」の風潮の罪深さだ。脚光を浴びるのは「美し過ぎる〇〇」、つまり「若くてかわいい女子」じゃないとダメな風潮は若くてもかわいくない女子を絶望させるし、若くない人を絶望させるし、男性も絶望させる。
一方で「美し過ぎる〇〇」は若くてかわいい女子にとっては朗報なのかと言えば、若くてかわいいだけでもダメで、美し過ぎる「〇〇」である必要があるのだ。「銭湯絵師」などノスタルジーもあって最高の「〇〇」だろう。さらに勝海氏の場合美しさの根拠として「モデル」であることと、学術的根拠として「東京藝大院生」がある。勝海氏のプロフィールに並ぶ字面はとんでもなくハイクオリティだ。
勝海氏が院に在籍する東京藝大には東京五輪と相性のよさそうな日本画や和楽器を専攻している学生もいそうだが、そういったものはおそらく、取り上げる側からしてみれば「普通すぎて面白くない」のだろう。銭湯絵を選んだ勝海氏自身もそういったことに自覚的だったのかもしれない。
だが「美し過ぎる〇〇」における「美しさ」は「若さ」とイコールといってもよく、若さなど日々失われていく。1994年生まれの勝海氏が、本来絵を描いていればいいはずの銭湯絵師なのに、己の美しさの期限に対して焦りがあったのだとしたら、結局「美し過ぎる〇〇」は誰も幸せにしないのだろう。
どんな絵を描いたのかという「コンテンツ」でなく誰が描いたかという「キャラクター」が重視される。そしてキャラクターは若く美しい女性で、ギャップがあるほど目を引くから「美し過ぎる銭湯絵師」になる。こういったことに頼ったり、加担することの反省がない限り、また別のシーンで第二、第三の勝海氏が生まれるのではないだろうか。
(文/石徹白未亜 [https://itoshiromia.com/])