もう、再販制いらなくないか? 電子書籍で漫画が売れて講談社は絶好調!

 出版不況という言葉も挨拶のようになり、もはや斜陽産業といわれる出版業界。そうした中で、講談社の決算発表が注目を集めている。純利益が前期の64%増加という好調ぶりを示しているからだ。

 2月21日に発表された2018年11月期の単独決算で、講談社は純利益で前期比64%増の28億円。売上高は2%増の1,204億円となったとしている。

 この利益増の理由は、電子書籍が好調なことだ。紙のほうは雑誌・書籍ともに前年を下回っているのだが、デジタル分野の売上高は34%増の334億円だった。けん引役は漫画を中心とする電子書籍で44%増の315億円となっている。いまだ、普及しているのかどうかもはっきりせず、足踏みが続いているように見える電子書籍だが、漫画に限っては、もはや紙に変わって主流になっているといっても過言ではない。

「すでに、漫画では電子書籍が紙と同時発売されるのは当たり前になりました。買いにいく手間もありませんし、紙に比べて若干安価だったり、販売サイトによってはポイントも獲得できます。何より紙の本に比べてかさばらないという利点は大きく、電子書籍が格段に有利なのは間違いないでしょう」(漫画編集者)

 さらに電子書籍の普及を後押ししているのは、頻繁に行われる割引きキャンペーンだ。現在、AmazonのKindleストアでは講談社の電子書籍が最大で実質半額になるセールを実施しているが、漫画ではこうしたキャンペーンが頻繁に行われている。紙の本は再販制の存在ゆえに、割引が困難。対して、割引が容易な電子書籍は、出版社が値段を下げてでも売りたい話題作を扱うのに適したシステムとなっている。

「紙の本は定価で販売することが常識でしたが、もし広く読者を獲得しようとするならば、期間限定のセールが実施されてもよいはず。今の時代、定価販売にこだわるような再販制を維持する必要もないんじゃないかと思います」(同)

 やはり、電子書籍が出版業界を次のステージへと移行させるカギとなるのか。
(文=大居候)

長野県で天皇陛下に出会う話『アホウドリの人生不案内』

「アホウドリ」を自称して、あちこちの妙な人を訪ねることに人生の多くの時間を費やしたルポライター・阿奈井文彦。76年の生涯の中で、けっこうな数の本を上梓しているが、自称である「アホウドリ」を冠したタイトルの本が多いあたり、けっこう自分のやりたいことだけをやりまくった人生といえるだろう。

 その中の一冊である『アホウドリの人生不案内』(百人社)。おそらく、ここで取材した相手のほとんどは、すでにこの世の人ではなかろう。中には、取材して雑誌の記事にした頃には意気揚々だったが、単行本に収録するにあたって連絡を取ると亡くなっていたという人もいる。

 ともあれ「アホウドリ」の中に、どういった興味が湧いたのか。心惹かれるままに、日本列島あちこちの市井の人々へと取材の記録は綴られていく。かれこれ20年も前から自分の葬式の準備をしっかりと整えているという熊本の老人。この道ウン十年のタクシー運転手。はたまた、長嶋茂雄やら山口百恵やらと、たまたま有名人と同姓同名だった人を訪ねて、その人の人生を聞く。あちこち、妙な人を訪ね回って「アホウドリ」は、時には天皇陛下にも出会う。

「アホウドリ」が天皇陛下に出会ったのは、長野県は上田市の郊外。最寄り駅は下之郷駅とあるから別所線の沿線である。そこには確かに平屋の“皇居”があった。出会った天皇陛下は、御年32歳。無遅刻無欠勤で上田市内の印刷会社へと通っている。

 いやいや、正気を失ったかと思えば違う。陛下が語るのは祖父からの教え。明治天皇の皇子であった祖父は、暗殺を避けて平民となり、この地に至ったというのである。

 世を忍ぶ仮の姿で、毎日印刷機を回している陛下。「アホウドリ」は、そんな人となりを、懇切丁寧に綴っていく。批判もなければ、称讃もなく。ただ、丁寧に。ともすれば「どうでもいいや」の一言で終わる話は、その精緻な文体によって、温かみを得る。

 単に個人の面白さをネタにするのではない。市井の人々への真摯な視線が、そこにはある。
(文=昼間たかし)

21世紀に復活するヴァレリー・ソラナスと「男性皆殺し協会」──『I SHOT ANDY WARHOL―ポップカルト・ブック』

 日々、ネットで情報を見ていると、なんだかんだと論争を目にする。いかに自分の主張が正しいか、一歩でも後退すれば完全敗北かのごとく信者を煽動し、苛烈な意見を繰り返す論争。いったい、なんの利益があるのかわからないが、妙な使命感を持った主張が止まらない人は絶えることがない。

 でも、それを目にするたびに、とても平和な世の中であることに安堵するのだ。そりゃそうだ、どんなに主張が対立しても、相手が徒党を組んで攻めてくる、あるいは斬り合いとか撃ち合いが始まるなんてことは、そうそうない。

 中国の春秋戦国時代とか、さまざまな説客が入り乱れたわけだけど、一言でも言い間違えたり、言葉に詰まれば首を斬られたり、釜ゆでにされたり。ああ、日本でも江戸時代以前は、そんな感じだ。そう考えると、とても平和だ。

 さてさて、そんな平和な時代でも、やっぱり緊張感は必要。時には、肉体言語で言論の自由を振りかざす人がいないとは限らないからだ。

 そう、この『I SHOT ANDY WARHOL―ポップカルト・ブック』(早川書房)のヒロインであるヴァレリー・ソラナスのようにね。この本は1996年の映画『I SHOT ANDY WARHOL / アンディ・ウォーホルを撃った女』のシナリオに解説を加えた本。1968年6月3日、アンディ・ウォーホルを撃った女・ヴァレリーの人生の履歴をまとめたものである。

 ウォーホルを撃ったということで歴史に名を残したヴァレリーの人生というのは、かなりハードなものだ。両親の喧嘩が絶えない上に、父親から性的虐待を受けたりして、早くから非行に走ったヴァレリーは、寄宿学校を経て大学へと進む。彼女はそこでレズビアンとしての自覚を持つが、まだ時代は1950年代末。理解者を求めてたどり着いたのは、ニューヨーク。とはいえ、大都会といえども、そうそう承認欲求を満たしてくれる人に出会うことなどできるはずもない。売春婦をしたりして糊口を凌ぎながら、熟成されていくのは、世の中への憎悪。とりわけ男性への怒り。そうして彼女は一人で組織を立ち上げる。名付けて<Society for Cutting Up Men>。

 日本語訳すれば、男性切り刻み協会。もっと砕けた意訳をするなら「男性死ね死ね団」とか「男性皆殺し協会」といったところか。そして、その思想を「SCUMマニフェスト」として自費出版する。英語版のウィキペディアには詳細な解説が書いてあるし、ネットを探せば全文を読めるんだが、その思想はいわばブチ切れたフェミニズム。

 一部の女の味方をするヤツと同性愛者を除いて、男どもは皆殺しというわけである。この「SCUMマニフェスト」は、なんかとんでもないヤツが現れたなという感じで注目もされて、
出版の依頼も来たのだが、ヴァレリーはそれに満足せずに、ウォーホルを撃ちにいくというわけである。

 その話は別として、やっぱり思うのは歴史は繰り返すということだ。「#Metoo」やら、なにやらが盛んになった時、あれ、またそんな終わった論争を持ち出すのかと筆者は思った。キャサリン・マッキノンなんかが主張した、ポルノをレイプの教科書だと非難するような主張はとうの昔に論破されたと思ってた。

 でも、歴史は繰り返す。同じような主張は形を変えて復活し、また同じことが繰り返されるというわけだ。その流れの途上にいる現在、そろそろまたヴァレリーみたいなヤツが現れてくるのは必然だ。

 いやいや、そんなマジ●チにはとっとと退場願いたいというなら、もうSNSとかブログとかはやめて、ネットは見て楽しむだけに制限すればいい。どんな形であれ、世間に自分の主張を開陳するということは、どんな攻撃をされるやもわからないという緊張感の中にある。

 その緊張感があるからこそ、またペンを(パソコンで書いているけど)を走らせる。
(文=昼間たかし)

こういうのを書かないとライターじゃない『ジョー・グールドの秘密』

 前にも触れた、柏書房のジョゼフ・ミッチェル作品の全訳。12月に『ジョー・グールドの秘密』が刊行されたので、これで完結である。

 なんと、これでこの素晴らしい作品集もおしまいか。あまりに残念なので洋書の『Up in the old hotel』を取り寄せたら、辞書みたいなのが届いた……生きている間に読もう。

 というわけで、あちこちで「ジョゼフ・ミッチェルすごいよ」と言い回っているTwitterなんかを見ると、ちらほらと言及している人はいるのだけれども、実のところ語り合える人には、まだ出会わない。

 ジョゼフ・ミッチェル作品のすごいところは、まず名文。翻訳家も腕の見せどころであるが、とにかく描写が美しい。今はもう見ることのできない過去を、とことんきれいに描いている。

 でも、そこじゃないのだ。きれいに書くだけならば、ほかにも優れた書き手はたくさんいると思う。そこで描かれていることは、丹念に訪ね歩いて聞いた話である。レコーダーもない時代に。

 これ、並大抵の努力じゃできない。

 古くからある頑固そうな店主のいる酒場であるとか、漁船の船長だとか。ちょっとばかり「取材に来ました~」と話を聞いても、そんなに話は出てこない。何度も通って、じっくりと話を聞いて、ようやく出てきそうな話ばかりである。

 で、考えるわけだ。この作品集を褒めているだけじゃダメだということを。こういう文章を書けばいいのにということだ。

 なぜ、そんなことをここで書くかといえば、最近はよく編集者にいわれるのだ。「ライターいませんかねえ」と。

 これだけネットが発達して、文章を書いている人が多いというのに、これには驚きである。

 なんでも、取材して書くことのできるライターというものが、とにかく足りないらしい。

 いや、取材といってもレコーダーを机に置いて、聞いてきたことをまとめるだけなら誰でもできる。その聞いた話を、うまく読み物へと昇華させることのできる書き手は、とにかく足りないのだと。

 ああ、そうなんだ。インパクトのあることや、面白おかしいことを書くのは誰にでもできるだろう。でも、取材して書くのは、やっぱり技能。テクニックじゃない、情熱だ。

 情熱が尽きないように、泥水でもすすって腹を膨らませて。今年も書くしかないのだね、2019年。
(文=昼間たかし)

いかなる長編も、始まりはちょっとした興味『A Writer’s Life』

 この連載、基本的に過去に読んだことのある本について書いている。読んだことのある本のうち、100人にしかわからない本についてである。ホントに100人にしかわからないかどうかなど、わかりようもないのだけれど、周囲に読んだことがある人もいないから、きっと100人もわかっていないような気もする。というわけで、好きなように書いているが、一人でも興味を持って本を読む人がいれば幸いである。

 さて、今回紹介するのは、まだ読んでいる途中の本。ゲイ・タリーズの『A Writer’s Life』である。

 なんで読み終わってないかって? この本は難しいのだ。なんたって、英語で書いてあるのだから。この本、常盤新平が亡くなる前に、扶桑社から出てた文芸誌「en-taxi」のコラムで言及しているんだけど、いっこうに日本語訳が出ない。きっと、永遠に日本語訳なんて出るはずもないから、原書を取り寄せるしかない。

 昨年の秋頃から、どうしようもなく最悪な筆者の英語力で必死に読んでいる。文学的な英文って、なんでこんなに関係代名詞や何やらで長いのか。おまけに辞書に載っていない単語もあるので、読めているのか読めていないのか。それでも、なんとかエッセンスを吸収しようと読んでいる。

 本書で綴られるのは、これまでのタリーズの物書きとしての生活。タイトルは翻訳すると「作家の人生」か。いや、これまでのタリーズの作品を読むと「Writer」の部分が単純に「作家」とも言い難い。

 ともあれ、語られるのは人生でもあり、何げない日常の生活でもある。なぜかって、話があちこちに飛ぶのである。

 最初、てっきり一代記かと思って読み始めた。冒頭で、ウチのオヤジはイタリア移民の仕立て屋で~という話から始まったからである。そこから、いきなり自分が取材したスポーツ選手へと話が飛ぶ。

 かと思えば、ニューヨーク・ヤンキースの試合をテレビで見ていた話が始まる。そのまま、野球の話が進むのかと思えば、チャンネルを変えて1999年のサッカー女子ワールドカップの話へ。それも、準優勝した中国チームの選手の話へと。

 ともかく固有名詞にも戸惑う。サッカーの話をしていたのに「bikini for Sports Illustrated」とか書いてあったので、なんだかわからなくなって、Googleに聞く。『スポーツ・イラストレイテッド』というスポーツ雑誌があって、毎年、水着特集号があるのだと知る。とにかく、さらっと有名人の名前が出てきたりするのだが、その人を知らないので、ひとまず調べる……。そんなことをしていれば、読んでいてもなかなか先に進まない。

 いや、そうやって亀の歩みで読み進めながらも気づくのは、ちょっとしたきっかけで取材に入るというタリーズの手法。もう「なんとな~く、興味を持ったので会いに行ってみました」というリラックススタイル。

 そうやって、会ってみて作品になるものも、ならないものもある。でも、会って話を聞いていれば、いつかは作品になるかもしれない。

 やっぱり、人に会って書くということをやめてはいけないと考える2019年の始まりなのである。
(文=昼間たかし) 

権力への警戒心を失った出版業界……静止画ダウンロードの違法化を出版業界が支持する理由

 昨年来、海賊版サイトへの対策として提案された著作権を侵害する静止画ダウンロードの違法化への動きが注目を集めている。

 これは、昨年の海賊版サイト対策を議論した有識者会議「インターネット上の海賊版対策に関する検討会議」の中で提案されたもの。すでに文化庁では次期通常国会への著作権法改正案の提出を目指して検討に入っている。

 12年の著作権法改定で違法コンテンツと知りつつダウンロードした場合には、処罰することが反対論を抑えて成立している(2年以下の懲役若しくは200万円以下の罰金)。この時も、違法コンテンツかどうかの判別の問題などは先送りされたままだった。今回の静止画ダウンロード違法化は、それよりもさらに厳しい判断基準となる。

 日々ネットを利用していれば、誰がアップロードしたかわからない画像を、自分のパソコンやスマホに保存したことのない人は、ほとんどいないだろう。そうしたこともすべて違法とされてしまう。さらにいえば、パソコンやスマホを持っていれば誰もが違法にダウンロードをしている「容疑者」とされてしまうわけである。

 そうした「監視社会」を一歩進める危惧のある法律といえるのに、これまでこうした問題には積極的に異を唱えてきた出版業界の動きは鈍い。

 というのも、静止画ダウンロードの違法化には、出版業界でも賛成するものが多いからだ。賛成する人々が焦点にしているのは、海賊版サイト。それらを撲滅するためには、法によってもたらされる弊害は関係ないという意思表示のようにも見える。

「ここ数年で、出版業界の権力に対する警戒心は薄くなっていると言わざるを得ません。静止画ダウンロードが違法化されてしまえば、国民の誰もが法律違反の容疑者として警察の捜査対象になる可能性があります。そうした権力の拡大に対して、出版業界は常に警戒心が高かったはずなのですが、そのように考えを働かせている人は次第に減っているのです」(出版社幹部)

 かつては、出版社というのは学生運動経験者であるとか、何かしら権力に対して警戒心を持つ人々が多く在籍しているものだった。ところが、もうそうした人々は引退していく時代。よくも悪くも「権力のヤバさ」を知る世代がいなくなっている。それが、静止画ダウンロード違法化を支持してしまう背景にはある。
(文=ピーラー・ホラ)

いよいよ消費税は10%へ……軽減税率も適用されず、出版業界はどうなるのか

 今年10月、いよいよ消費税の10%引き上げが実施される。この引き上げに対して、さまざまな業種で軽減税率、すなわち消費税率の据え置きを求める動きがあった。

 中でも、その動向が注目されたのは出版業界であった。

 出版業界では、軽減税率が適用される新聞同様の措置を求めて与党への活発な働きかけを行った。そうした中で注目を集めたのは、出版業界は軽減税率の対象にしてもらうために「有害図書」は適用外とする、新たな自主審査機関の設立まで提案したことだった。

 これに対しては「出版業界は、表現の自由を捨てるのか」という猛烈な批判も起こった。

 もちろん、出版業界の提案も、すべてが無理筋というわけではない。既に、消費税タイプの税金制度を導入している国では、同様に「出版物でもポルノは適用外」と実質的な「ポルノ税」を導入している国もあるからだ。

 これは「表現の自由」にも絡む問題であるが、ポルノは表現物ではなく、オナニーのオカズのための実用品という概念が主流の国もある。そうした国では、ポルノ税という形での導入も、すんなりと受け入れられているようだ。

 ただ、それは日本では到底受け入れられる主張ではなかった。

 何より、どこから税金を取るのかは国家の裁量。そこに民間組織が絡むことは大前提としてできるわけもなかった。結局、批判を浴びた揚げ句、昨年12月に明らかにされた与党税制改正大綱からは、出版物は軽減税率から除外されることになったのである。

 実際、軽減税率が適用された、されないによって出版物の売上に変化が起こり得るのか。それには、首をかしげる人のほうが多い。

「コンビニでの雑誌コーナー縮小に象徴されるように、雑誌をなんとなく買うような読者は少なくなっています。意思をもって本を買う人は、2%くらいの税金の増減はさほど気にしないのではないかと思うんです」(編集者)

 結局、この動きも時代の変化に戸惑ってばかりいる出版業界の迷走だったのか。
(文=ピーラー・ホラ)

出版市場はピーク時の半分以下……もはや雑誌はオワコンで新たな時代へ突入

 情報を得る手段としての雑誌は終焉を迎えようとしているのか。

 出版科学研究所の発表によれば、2018年の紙の出版販売額は約1兆2,800億円台になると見込まれているという。前年度に比べて6.4%の落ち込み。1996年に2兆6,563億円だった市場規模は、いよいよ半分以下となる見通しだ。

 この内訳をみると、書籍は約6,900億円、雑誌が約5,800億円を占めている。いずれも前年からはマイナスで、書籍は12年連続、雑誌に至っては21年連続で前年割れになる。

 中でも出版業界が危惧しているのは、雑誌の低迷だ。長らく日本の出版は雑誌を主体として流通網を築いてきた。ほぼ毎日、書店へと配本される取次経由の雑誌の流通網に、書籍も乗っかっているというものだった。ところが、雑誌の落ち込みによって、毎日、書店に本を運ぶコストも問題となり、取次が出版社に負担を求めるなど、さまざまな問題が起こっている。

 いずれにしても、紛れもなく雑誌がオワコンとなっている状況下、漫画を含めた週刊誌の落ち込みは明らかだし、気がつけば月刊誌もかなり数を減らした。読み物を主体にした月刊誌は、もう数えるほどしか存在しない。昨年、さまざまな意味で話題になった「新潮45」(新潮社)も、どの読者層をターゲットにしているのか、いったいどんな人が読んでいるのか、とらえどころのない雑誌へと迷走していた。

 もはや、そうした雑誌で得ていた情報がネットへと移行したことが明らか。ゆえに、ニュースサイトをめぐる情勢も変化してくると見られる。

「ニュースサイトは、そのネット特性から、まず単純に目を引いて、とにかく“バズる”ネタを追い求める傾向にありました。しかし、次第に読者も慣れてきています。これからは、より“読ませる”記事をつくっていかなければ、飽きられてしまうことになるでしょう」(編集者)

 かつての雑誌が持っていたクオリティをニュースサイトは持つことができるのだろうか?
(文=ピーラー・ホラ)

どうでもいい出来事ゆえに、どうでもよくない……シリーズ:ジョゼフ・ミッチェル作品集

 さて、前回の続きからで、柏書房から刊行されたジョゼフ・ミッチェルの作品集についてである。

 このミッチェルという書き手が、名文かどうかは原書を読んでいないので、筆者もわからない。筆者、読めないなりにノンフィクションなどは原書ではどう書いてあるのかと、何冊も取り寄せて読んだりしている。だいたい、どの文章も難しい。やたらと接続詞やら、関係代名詞で言葉をつなげているのは当たり前。学校の英語の授業でいわれたかもしれない「英米人の言葉は短い」というのは、大嘘である。

 その上で、この作品が優れているのは、ミッチェルの選んでいる題材である。

 とにかく、市井の人や、街の奇人変人を、ミッチェルは丹念に描写している。表題作にもなっている『マクソーリーの素敵な酒場』は、21世紀の現在も存在する老舗の酒場が舞台の作品なのだが、初代からの店主のエピソード。そして、客達の様子を克明に描いていく。

 収録作の『レディ・オルガ』で描くのは、生まれながらに長いひげを生やしていたために、人生の長い期間を見世物小屋の見世物として生きていた女性の人生。

『さよなら、シャーリー・テンプル』に収録されている『ジプシーの女たち』では、長らく警察でジプシーの取り締まりを担当した警察官を軸に、アメリカにどうやってジプシーが流れてきたのかについて、その家系の系統から、犯罪の手口までもを克明に描いている(註:あくまでのその時代の視点である、念のため)。

 どれも思うのは「これ、どうやって取材したんだろう」ということである。当然、その時代に現代のようなレコーダーなどないので、話を克明にメモしたのはわかる。それだけではない。

 どういったきっかけを得て、長時間を共にしたのだろうか。

 どのテーマも「取材させてください」と、相手に時間を割いてもらって、材料が集まるものではない。登場する人物たちと長い時間を過ごすことが必要だ。なにより、当時の視点では「そんなこと取材して、何か意味あるの?」と思えるような価値のない人や出来事を、作品になった時に価値あるものにしているのである。

 最初から、メジャーな人物に触れるのでもなく、世間の人が注目する事件を扱うのではない。ここに、ミッチェルという人物の輝きがある。

 輝きはあるというけれど、いま、これを日本語訳して、多くの人が手に取るかと思えば疑問だ。ネットで検索してもジョゼフ・ミッチェルという名前は、いまだウィキペディアも存在しない。

 ところが、SNSを見る限り、読んだ人は確実に絶賛の言葉を記しているのである。

 わかるだろうか。人は求めているのである。丹念な取材と書き手の視点を。そして、冒険でも事件でもない市井の人の物語を。
(文=昼間たかし)

元メイドで女探偵、そんな属性を詰め込んでもダメか? ジャクリーン・ウィンスピア『夜明けのメイジー』

 柏書房というのは、歴史書を多く出している老舗の出版社。

 そんな出版社が手がけたのがジョゼフ・ミッチェルの作品集。2017年2月に出版された『マクソーリーの素敵な酒場』から始まった作品集は、18年12月の『ジョー・グールドの秘密』まで全4冊で完結した。

 ジョゼフ・ミッチェルという人物は、これまでほとんど知られていなかった書き手である。1908年生まれで96年に没しているから、すでにかなり過去の人である。しかも、精力的に活動したのは38年に『ニューヨーカー』のスタッフライターになってから10年、20年足らずのこと。

 その作品は、日本ではほとんど知られてこなかった。本のオビでは、作家・常盤新平が絶賛したことを大きく記している。その絶賛は本物で、ミッチェルが死んだ96年に常盤は、『オールド・ミスター・フラッド』を訳して翔泳社から上梓している。

 その常盤も2013年に没しているから、すでに5年。けっこう、この損失は大きいものである。

 全力で、まだ日本語訳されていないアメリカのノンフィクションや小説。そして、名編集者を紹介し続けたのが、常盤新平という人物の大きな功績である。

 そんな人物がいなくなってしまったもので、ネットでリアルタイムに情報は入手できるのに、文化の断絶は大きくなってしまった。以前に、この連載で取り上げたゲイ・タリーズの『A Writer’s Life』を常盤は雑誌コラムでも絶賛していたのだが、その絶賛が広まらぬうちに没してしまったから、そもそもそんな本があるという人も少ないし、とても日本語訳など出版されるような状況ではない(注:筆者は、できない英語でようやく3分の1くらい読んだのだが、もし「読みました」という人がいたら、絡んでください)。

 この「まだ、日本語にはなっていないんですけど、こんな面白い本があるんですよ~」と、紹介するような識者が減ってしまった状況というのは、けっこうヤバイと思う。いや、まず日本語の本を読むだけでも、一生のうちに読める本の数は年間発行点数の一割にも満たないと思うのだが、これに外国語の本を加えると、本当に読める本というものは少ない。

 それに、翻訳されたシリーズものでも中断は、当たり前にある。

 ふと先日、05年にハヤカワ・ミステリ文庫から出たジャクリーン・ウィンスピアの『夜明けのメイジー』という作品を思い出した。

 これは、新米の女探偵がヒロインなのだが、このヒロイン、探偵にして元メイドという、なかなかの属性。そして、舞台は第一次世界大戦後のロンドンと、いろいろ刺激してくれる要素がある。さまざまな賞も得ている作品なので、これは続きとか作者のほかの作品が翻訳されていないものかと思ったら、ない。でも、ないのは日本語訳だけの様子。そこで検索して見ると、英語圏では人気シリーズになっているそうで、昨年まで16作品が刊行されている。

 ようは、売れなかったのか邦訳版の刊行は続かなかったようだ。また、文化の断絶の状況に気づいた。

 で、話そうと思っていた、ミッチェルについては、次回ということで。
(文=昼間たかし)