LGBTペンギンを棚から外せ! 米国で禁書扱いされる創作童話・児童文学

――前記事では海外での童話の規制事情を紹介してきたが、実は創作童話や児童文学の締め付けも厳しいみたいで……。

 何百年も前の童話の中には今の価値観だと許されないような表現や描写もあるだろう。その結果、前記事でも紹介したような排除運動が起きているわけだが、憂き目にあっているのは童話だけではない。

 米国では図書館や学校に対して行政ではなく、保護者がクレームを申し立て、特定の地域だけで禁書にされた創作童話や児童文学がある。わかりやすいのは、人種差別的だという『ハックルベリー・フィンの冒険』や、反キリスト教的だとしてやり玉に挙げられていた『ハリー・ポッター』シリーズだろう。一方で、イマイチよくわからない理由で禁書に指定された本もある。

 例えばディズニー映画でもおなじみの『クマのプーさん』は06年にカンザス州の一部地域において「動物が人間の言葉を話すという表現は神への侮辱」という理由で、禁書になっている。また、カンザスつながりでいえば『オズの魔法使い』は「子どもに無利益であり、子どもを臆病にさせる」という理由で、シカゴやテネシーなどの図書館や学校で禁止されたこともある。

 さらに、ニューヨークの動物園で赤ちゃんペンギンを育てる2羽の雄ペンギンの実話を描いた『タンタンタンゴはパパふたり』(日本語版・ポッド出版)という絵本は、05年の出版以降、多くの保守的な地域で「LGBTQIA+コンテンツだから」という理由で禁書となった。ちなみに、シンガポールでは14年に国立図書館で破棄処分されている。

 そして昨年も同じような理由で、『にじいろのしあわせ~マーロン・ブンドのあるいちにち~』など、LGBT理解と個性の尊重を訴える児童書や絵本が何冊も禁書扱いされた。「宗教」や「教育」という名目なのかもしれないが、大人の思惑で子どもたちから本を取り上げていいのだろうか。

――学校や図書館から童話を取り上げる動きはスペインに限ったことではない。ここでは各地で行われている童話の追放運動を見ていこう。

●ディズニー版ですらNGなの?

カタール

2016年、SEKインターナショナル・スクール・カタールという私立学校に通う生徒の保護者が、学校の図書館に置いてあったディズニー版『白雪姫』は「性的な描写を連想させ、イラストや文章が教育上好ましくない」という理由(どのシーンかは不明)で、カタール最高教育審議会(SEC)にクレームを申し立て、SECは学校側に本を撤去するように命じた。「The Guardian」紙によると、性的、もしくは品位を欠くという理由で、コンテンツに検閲が入ることはカタールでは珍しくないという。


●「相手の同意なしのキス」は有害

イギリス
 

2017年、ニューカッスルの学校に通う息子が借りてきた『いばら姫』を現代版に描いた児童文学を見た保護者が、同書で描かれている「眠っていて意思表示ができない女性にキスをするという行為は、『相手の同意なしに性的行為に及ぶ』というレイプの根本的問題と重なる」として、学校の教材から外すべきだと主張。ツイッターでも問題のページを開いた写真と「#MeToo」のハッシュタグを用いて問題提起したが、彼女のクレームに対しては多くの反対意見が上がった。


●行政が主導して童話を排除?

オーストラリア 

2017年、メルボルンがあるビクトリア州政府は、学校や幼児教育にジェンダーバイアスを見直す教育プログラムの一環として、教室内にあるおもちゃや絵本の中に、男女のステレオタイプを助長するようなものがあれば排除すると、一部報道で伝えられた。このプログラムが実行されることで『シンデレラ』、『美女と野獣』、『ラプンツェル』などの童話が教室から撤去されると問題視されたが、州政府は「童話を締め出すことはあり得ない」と説明した。


●そもそも禁書が多すぎる!

米国各地 

上のコラムでもいくつか紹介しているが、米国では図書館に対して、「この本を置くな」と市民団体からクレームが寄せられたり、学校が指定する課題図書にも「こんな本を子どもに読ませるな」と保護者が噛みつくことがあり、これまでに数多くの本が禁書扱いされてきた。童話もご多分に漏れず、90年にはカリフォルニア州の2つの校区で『赤ずきん』の「子どもなのにワインを持っている」イラストが問題視されて禁書となった。(月刊サイゾー7月号『ヤバい本150冊』より)

出版界の“勝ち組”講談社でもささやかれ始めたリストラのウワサ

 マスコミ業界に吹き荒れる不景気風は、超大型台風に発展しつつあるようだ。

 全国紙の一角を占める産経新聞が社員の1割に及ぶ大規模リストラに踏み切ったのに続き(参照記事)、かねてから経営不振がささやかれてきた毎日新聞も経営刷新の大ナタを振るうことが明らかになった。

「毎日は、産経と同じく社員の1割に当たる200人規模の早期退職を募集するようだ。8月の時点ですでに67人の幹部が応じたとされており、さらには新聞の降版 を早める改革にも乗り出す構えのようです。残業代の抑制にもつながるため、現場からは『実質的な賃金カット』との声も上がっている。いち早く経営のスリム化を図った産経も、今年中に40代にまで対象範囲を広げた2回目の早期退職募集に踏み切る構えで、新聞業界の再編はさらに進みそうです」(大手紙社会部記者)

 かつてマスコミ業界に君臨した新聞の没落は、ITの大波にのまれる「紙媒体」の終焉を象徴するかのようだが、業界内ではある大手マスコミ企業のリストラ話が取り沙汰され、波紋を呼んでいる。

 事情を知る出版関係者が声を潜めて言う。

「リストラ計画がウワサされているのは講談社です。この計画は、経営中枢で極秘に進められているようで、社内でも限られた者にしか知らされていないそうです」

 講談社といえば、小学館、集英社と並ぶ 日本有数の総合出版社として知られる。1909年に「雑誌王」の異名を取った野間清治氏が前身の「大日本雄弁会」を創業。創業から110周年を数える現在に至るまで創業家の野間一族が経営権を握っており、戦後に講談社出身者によって創設された光文社や日刊現代、キングレコードなどと「音羽グループ」と呼ばれる企業グループを形成している。

 かつて経営の屋台骨を支えた写真週刊誌「フライデー」や「週刊現代」が販売不振に陥って久しいものの、累計発行部数が8,000万部に達するメガヒットを飛ばした『進撃の巨人』や2018年にアニメ化されて話題を呼んだ『転生したらスライムだった件』など、コミック部門で安定的にヒット作をリリースしており、出版業界の中でも順調な経営を続けているようにも映るが……。

「すぐに経営が傾くような事態は考えにくいですが、講談社は平均年収1,000万円という社員の厚遇ぶりで知られている。ライバルの小学館、集英社も事情は同じですが、その2社は社員数が700人台にとどまり、給与水準を低く抑えた編集部門に特化した別会社を立ち上げるなど、経営のスリム化にいち早く動いていた。それに対して講談社はいまだに900人超の社員を抱えており、出版社にしては珍しく年功序列型の給与体系を維持していることから、人件費の負担がより大きい。さらに政府が掲げる働き方改革に積極的に呼応しており、社員のワーク・ライフ・バランスの向上を進めている。その結果、社員一人当たりの生産性が低下したという指摘もある。10月中期退職者の消費増税によって売り上げはさらに冷え込むことが予想されるなか、経営立て直しのために早期退職者を募集することになりそうだ」(前出関係者)

 メディア業界を揺るがす地殻変動は、新聞業界に続き、出版業界にまで波及し始めたのか――。

(文=響泰三)

昼飯と共にほとばしる本音『ビジネス・ランチをご一緒に』

 こんな本があったのか。なんで、今まで読んでいなかったのだろう。

 ノンフィクションやルポルタージュを読むときに古い本、いわば、このジャンルの古典を読みつぶそうという理由は、ほかでもない、方法論を真似たいからである。パクリではない。使われている取材手法や描写の方法を、現代の別のテーマに当てはめてみるとどうなるだろうかと思っているのだ。

 なにせ、だいたいの方法論なんてものは、過去に発明され尽くしている。それをどのようにアレンジメントするかで、また新しい作品を生み出すことができるはずである。

 で、そのためにとさまざま本を読んでいるのだが、まだ読んでいない、知りもしない本もわんさか。

 このロン・ローゼンバウム『ビジネス・ランチをご一緒に』(東京書籍)もそうである。

 この本、まだ事業家だった頃のドナルド・トランプを取材していることで評価されている。それも重要だけれども、もっと重要なのはローゼンバウムの取材手法。

 それは、さまざまな人と一緒に昼飯を食べながら、テープレコーダーを回しっぱなしにしておくというもの。

 なんてこった。こんな単純な誰でも思いつきそうな方法なのに、今の時代にやっている人を見たことはないぞ。一緒に昼飯を食べながら話をしていると、どんな大物も口が軽くなったり、ふっと警戒心が戻ったり。その瞬間、その一瞬をローゼンバウムは見逃さない。

 そうなのだ。夕食だとか夜の酒席と違って、

 大物に限らず昼食時の語らいでは、なぜか饒舌なったり、本音をポロリと漏らしてしまう人は多いもの。筆者も、これまでそうして得た一言を作中に挿入したり、これから書こうとしていたりする。

 でも、ここまでじっくり昼食に重点を置いてという方法は思いつかなかったな。さて、これを現代にアレンジするなら、どうしよう。
(文=昼間たかし)

実は初めて読んだ『復讐するは我にあり』

 物書きとして自分を律するために読むのは、最近古典ばかりである。

 古典といっても別に『万葉集』を読んでいるわけじゃない。ノンフィクションの古典である。ノンフィクションだとかルポルタージュと呼ばれるジャンルの作品を立て続けに書こうと悪戦苦闘はしているけれども、これはなかなか苦しい作業である。ひとつのことを取材しても解釈はさまざま、アウトプットの方法は無限。ああ、それに取材の時のスタンスもいろいろとある。

 筆者は、四十を回ったけど、いまだ顔つきが年齢に追いついている気がしない。なので取材に出かける時は、服装からしても工夫をしないと取材相手に対峙するには精神性に欠ける。

 そりゃ、高名な○○先生の活動とか作品を絶賛し、応援するだけで面白おかしく書いてみたり、文字通りの「御用」をするならそれでも構わない。そっちのほうが「自分は○○先生と仲良しなんだぜ」と狭い界隈でヘゲモニーを握って、矮小な自尊心くらいは満たせるかもしれないけれど、そんなことをしたいわけじゃないからねえ。

 と、平成の終わりに読んでいたのは佐木隆三の実際の連続殺人事件を題材にしたノンフィクション小説『復讐するは我にあり』(講談社)。これ、映画はすごかった。いや、映画を見直したので、そういや原作本は読んだことがなかったなと取り寄せたのだ。

 映画のほうは緒形拳と三國連太郎の鬼気迫る演技。そして、倍賞美津子と小川真由美のエロスが光る。その原作は映画に比べると意外にあっさりしている。

 ひたすら淡々と、連続殺人犯である榎津の犯罪を時系列で追い、そこに絡む人々の人間模様を描いていく。映画を先に観ると、綴られる時系列の動向は印象が薄い。でも、それが構成の妙技。ひとつひとつの人間模様が絡み合っていくうちに次第に味を濃くしていくのだ。いわば、ページをめくるごとに味が煮詰まって濃くなっていく感じ。

 一見、ひとつひとつの出来事がさらっと記されているがために、その犯罪がごく身近に起きているように感じさせる。ワイドショー的だったり、覗き見的だったりするものとは違う作品の魅力がここにある。なるほど、映画化権をめぐってトラブルが発生したことも頷ける。

 果たして、今の時代にここまで熱のこもった作品がいくつあるのか。そう考えると、やはり古典ばかりを読みたくなる。
(文=昼間たかし)

幻冬舎・見城徹社長、“出版界のご法度”実売数さらしで「#幻冬舎」運動が始まる!?

 作家の津原泰水氏が、幻冬舎のベストセラー『日本国紀』(著・百田尚樹)の無断盗用について指摘したところ、同社から刊行予定だった文庫本の出版が取りやめになったと訴えている問題。幻冬舎側は「文庫化を一方的に中止した事実はない」と主張するも、津原氏は自身のTwitterで、同社の担当編集者から送られたという「(文庫化は)諦めざるを得ない」などと書かれたメールの画像を公開。泥沼化している。

 これに対し、幻冬舎の社長・見城徹氏が16日、反撃とばかりにTwitterに投稿した文面が物議を醸している(現在は削除)。

「津原泰水さんの幻冬舎での1冊目。僕は出版を躊躇いましたが担当者の熱い想いに負けてOKを出しました。初版5000部、実売1000部も行きませんでした。2冊目が今回の本で僕や営業局の反対を押し切ってまたもや担当者が頑張りました。実売1800でしたが、担当者の心意気に賭けて文庫化も決断しました」

 出版界のご法度ともいえる“実売さらし”に対し、内田樹氏、高橋源一郎氏、平野啓一郎氏、藤井太洋氏、町山智浩氏をはじめ、万城目学氏、住野よる氏といった、幻冬舎と付き合いのある作家たちからも「やりすぎだ」「見るに堪えない」といった非難の声が多数寄せられている。

 反響の大きさに、見城氏もさすがにヤバいと思ったのか、17日昼頃、問題のツイートを削除。「編集担当者がどれだけの情熱で会社を説得し、出版に漕ぎ着けているかということをわかっていただきたく実売部数をツイートしましたが、本来書くべきことではなかったと反省しています」と釈明している。

「そもそも実売数は社内秘で、著者にまで知らされることはほとんどない。売れていれば問題ありませんが、売れていない場合、著者が他の出版社で本を出す際の営業妨害になりますからね。それに書籍は著者、編集、営業、広報が一丸となって売るもので、今回の見城さんの行為は、自社の力不足を世の中にさらしているのと変わりない。特に営業部員は赤っ恥でしょう。企業倫理も疑われますよ」(書籍編集者)

 そんな中、見城氏、並びに幻冬舎から過去、被害に遭ったという作家たちも声を上げている。

 花村萬月氏は、見城氏がまだ角川書店の編集者だったころ、「小説は最後しか読まない。それでヒットが出せる」などと放言していたと暴露。また、小野美由紀氏は、デビュー作『傷口から人生。メンヘラが就活して失敗したら生きるのが楽しくなった』の執筆前、印税は10%と明言されていたのにもかかわらず、校了直前に「企画会議に8%で通したから8%でいい?」と言われ、出版できなくなることを恐れて、この条件を泣く泣くのんだことを告発。さらに、渡辺浩弐氏は『ブラックアウト』の印税が2%だったという。

 作家と作品にリスペクトをもたない見城氏の実態が露呈した、今回の騒動。もちろん、幻冬舎には良識ある編集者も多いが、今後、こういった「#幻冬舎」運動は加速していくとみられ、作家離れや不買運動に発展する可能性も否定できない。

 果たして見城氏は、この騒動をどう収めるのか――。今後の動向に注目だ。

平成の終わりに花柳幻舟【後編】

■前編はこちら

 幻舟に「テロリスト」としての情熱を吹き込んだのは間違いなく彼女の人生である。旅芸人の父と共に生きた幼少期、幻舟は差別と不条理とを理屈ではなく、自らの血肉にして学んだ。

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旅回り先で生まれた私は、「旅役者、河原乞食」とからかわれ、行く先々で疎外されてきました。
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 今となっては、これもまた歴史の彼方に消えてしまいつつあるが、かつて日本列島のあちこちには、放浪する人々がいた。今日はあっちの町に、それから数日を過ぎれば向こうの町へと。土地に居着かぬ旅芸人を、娯楽に飢えた土地の人々は歓迎すれども、決して心の底から受け入れることはない。

 どの本を読んでも、その幼少期の記憶が形を変えて幾度も触れられているところをみると、幻舟の人間としての軸は、そうした体験にあるのは間違いない。でも、そうした虐げられた恨みが幻舟の軸というのは、いささか違うと思う。それよりも幻舟を形作ったのは、芸に生きる父親の背中であったのだと思う。なんらかの強大なものと戦うことにのみ、人生を費やそうとしたのではない。芸を通じて命を燃やす方法。その独特の芸風の表出が家元襲撃であり、爆竹テロだったのであろう。

 幻舟の本は数多あるけれども、表面に記されたイデオロギーを額面通りに読んでは読み解けない。それは、読者サービスである。『はだしのゲン』を描いた中沢啓治は、初期は「週刊少年ジャンプ」(集英社)の読者に合わせて、ドキツク、下品に原爆の惨状と庶民の生き様を描いた。後年、共産党系の雑誌に連載が移行してからは急に日本の戦争責任問題を挿入されている。それと同じようなものなのだ。

 さて、家元襲撃から4年後の1984年、テレビドラマ『花柳幻舟獄中記』がテレビ朝日系列で放送された。主演は本人である。事件の当事者が本人役を演じるなんてことは、果たして今の時代に可能だろうか。昭和から平成へとなり、最後の10年あまりの間に、勢いを失った世情は、極めて窮屈なものになった。かつては、舞台の上にいる時には称讃され、それ以外の時には蔑まれていた芸を生業にする人たちにも、一般民衆と同じ尺度でモノを見て語る機会が与えられ、それが「常識」となった。

 いったい、いつの時点で世の中は「常識」を変えたのだろう。記憶をたどれば90年代はそうじゃなかった。90年代には数々の「悪趣味」が礼賛され、さまざまな文化が生まれていたのを覚えている。ところが、平成の終わりになって、その当事者たちも含めて皆、口を揃えて「あれは、間違いだったのだ」と反省の言葉を口走るようになっている。

 先日から、ピエール瀧はあたかも存在を抹殺されたかのような扱いを受けている。一部には、それに対する批判はあるものの、瀧を擁護するような論調はどこにもない。かつて勝新太郎が「パンツに……」といって、世間もまあしようがないなとなったようなムードはどこにもない。世間が、そんなムードになることがあるとすれば、物故した人物に対してだけである。

 余裕がなく普遍的な価値観が当たり前かのような窮屈さの中で平成は終わろうとしている。平成が終わるのではない。昭和から連綿と続いてきた戦後の終止符が、これなのだ。

 もはや、日本も衰退は避けられないような雰囲気に包まれ、重苦しい。でも、それだからこそ、みんなどこかで願っているはずだ。

 理屈をこねくりまわすのではなく、情念のままに自分だけをベースにして、世を騒がせる人の登場を。

 爆竹ではない、新たな形で。
(文=昼間たかし)

平成の終わりに花柳幻舟【前編】

 いよいよ平成が終わる。5月1日から令和になる。そんな時代の転換点を前に花柳幻舟が死んだ。碓氷峠の手前にあるめがね橋から落ちて。享年77歳。

 ひとつの時代が終わった。

 今まで、まだどこか絵空事だった昭和から平成というひとつの時代が終わることを認めざるを得なくなった。

 メディアの取り上げ方はさまざまだった。とりわけテレビは抑え気味で「舞踊家の~」と、通り一遍な説明で、その死を報じた。より詳細だったのはスポーツ新聞や週刊誌。そこでは「家元襲撃」「即位の礼で爆竹投げ逮捕」「爆竹テロ」などインパクトのある言葉が躍っていた。

 そう、バブル景気の真っ只中だった昭和天皇の崩御と、まもなく上皇となられる今上陛下の即位の礼へと至る時代。バブルの狂乱と相まって状況は混沌としていた。日本が、混沌とした中で何かをつかみ取ろうという情熱を持っていた最後の時代。札束が舞う日常の中で、片隅に追いやられていた左翼と右翼と、左右では表現できないさまざまな熱情を抱えた人々が、何かのきっかけを欲していた時代。幻舟が、即位の礼のパレードがさしかかる南青山の路上で天皇制を批判するビラをぶちまけて、爆竹を投げつけたのはそんな時代であった。1980年、家元制度の打倒を叫び花柳流家元の花柳寿輔を斬りつけた幻舟。

 家元制度批判が天皇制へと接続される主張をある人は喝采し、ある人は罵倒した。

 幻舟の主張するところは、彼女の著書の中に幾度も綴られる。『修羅 家元制度打倒』(三一書房)、『小学校中退、大学卒業』(明石書店)など。数多の著書の中で、そうした理屈が綴られる。

 彼女の綴る天皇制批判には、まったく共感は湧かない。むしろ彼女自身も、そうした言葉を述べながらも、なんかの活動家のように精緻に理屈をまとめていたというわけではない。それらに怒りの感情を昂ぶらせることで、自らの人生への輝きを生み出そうとしていたのではないか。文章からは、幻舟自身も気づいていないであろう、そんな意識が垣間見えるのだ。

 そう、ここで思い出すのはロープシンの『蒼ざめた馬』(岩波現代文庫ほか)。ロープシンは本名をボリス・サヴィンコフというロシアの革命家であった。革命家というが、実態は否定的な意味でなく「テロリスト」である。社会革命党(エスエル)に所属し、党指揮下の組織である社会革命党戦闘団を率いた。この社会革命党戦闘団は、滅茶苦茶な組織である。とにかく帝政ロシアの要人を爆弾で吹き飛ばし暗殺することに血道を上げる。党の指導など話半分にしか聞きはしない。おまけにサヴィンコフと共に団を率いたエヴノ・アゼフは内通者。自ら要人暗殺を計画し成功させながらも、同時にその情報を秘密警察に流している。もう、滅茶苦茶である。

 滅茶苦茶だけどつじつまは合う。なぜなら、彼らにとって手段と目的は転倒……いや、混沌としたものだから。目指すところは帝政ロシアの打倒かもしれない。でも、そんなことは些末なこと。やるべきことは要人暗殺。いずれは自分が逮捕されて死刑になるやもしれない。その明日をも知れぬ緊張感に身を置くことが自己目的化している。明日をも知れぬ緊張感が輝かせる人生の価値を味わうこと。ただ、それだけが目的となっているのだから「テロリスト」以外、なにものでもない。現にサヴィンコフは十月革命が起こると亡命し、ソビエト政権を打倒すべくイギリスの情報部とも手を結び、反ソ活動にいそしんだ。しかし、ついにはゲーペーウー(GPU:国家政治保安部)が遂行した彼を逮捕するための壮大な作戦によって人生を終えた。

 結局、理論は後付けであり、自分の情熱を燃やすための言い訳みたいなものにすぎない。幻舟とはそういう人なんだと思う。
(文=昼間たかし)

給料・手当の目減り止まらず、若手社員20人が退社……マスコミ地盤沈下で“勝ち組”共同通信社にも不穏な動き 

 新聞業界に大逆風が吹いている。その象徴が、全国紙の一角を占める産経新聞の苦境だ。

「部数減に歯止めがかからず、広告収入は減少の一途をたどっている。2月には、社員の約1割に当たる180人のリストラを断行。それでも経営の先行きには不透明感が漂っており、中堅・若手社員が次々と社を去っている状況です」(同社関係者)

 なにより関係者に衝撃を与えたのが、業界団体「日本新聞協会」が公表した、来年の新卒採用者の数である。

「ほかの全国紙が数十人規模の新卒社員を確保する中、産経はわずか2人。しかも、そのうちの1人は入社を辞退し、内定式には1人しか顔を見せなかったという話です。社内では『来年以降、会社が存続するのか』と不安の声が渦巻いています」(同)

 ただ、崖っぷちに立たされているのは、産経だけではない。インターネットの隆盛に押され、新聞は業界全体が総崩れしているのが実情だ。新聞協会の調査によると、2000年に約5,370万部あった新聞発行部数は、昨年には約3,990万部に。1,000万部以上の部数減は、最大手の読売の発行部数を超える数字である。

 さらに、この地盤沈下の流れは、新聞のみならず、通信社にまで広がっている。

「日本には時事と共同、2つの通信社があります。もともと時事は経営基盤が弱く、数年前から資産の切り売りや社員数の抑制、経費削減など経営のスリム化に動いていました。一方の共同は、時事と比べて加盟社が圧倒的に多く、安定経営を続けてきましたが、最近、雲行きが怪しいようです」(広告代理店関係者)

 株式会社である時事と違い、加盟社が資本を出し合う社団法人として運営されている共同は、社員の待遇もよく、マスコミの中でも「勝ち組」に分類されてきた。しかし、ここにきて、業界全体に見られる退潮のあおりを受ける場面が見られるようになってきたのだという。

「これまで支給されていた手当が次々と廃止になり、給料も徐々に目減りするようになってきたそうです。それに、この1年で若手社員が20人ほど辞めました。社内にも将来を悲観視するムードが漂っているといいます」(同)

 業界内では、東京五輪後に新聞業界のガリバーである読売が時事を吸収合併し、通信社の事業に乗り出すというウワサも、まことしやかにささやかれている。

「読売が通信社を兼ねるようになれば、価格競争が始まる。そうなると、共同は一気に経営は苦しくなり、現在のような取材体制を保つのは難しくなります。経営陣は、かなり危機感を持って状況を注視しているはずです」(先の代理店関係者)

 水面下で広がる不穏な動きは、マスコミが大再編時代に突入しようとする前兆なのか――。

市井の人々を追う価値を改めて知る『東京湾岸畸人伝』

 なかなか市井の人を取材するのは苦労するものである。だって「何を目的に……?」とか言われることもしばしばあるからだ。

 とうとうと、取材する理由とか情熱を語ることができるとは限らない。だって、なんとなく関心があって、どういうふうに書くのか。それをどういう媒体で発表するのか。何も決まっていないままに取材が始まることも、たびたびあるからだ。

『東京湾岸畸人伝』(朝日新聞出版)では、築地のマグロの仲卸、横浜港の沖仲仕、馬堀海岸の能面師、木更津の寺の住職、久里浜のアル中病棟の広告アートディレクター、羽田の老漁師と、東京湾岸に暮らす市井の人々の人生を追っていく。

 この山田清機という書き手の筆致は見事。名前からしてハードボイルドな雰囲気だけど、この本といい『東京タクシードライバー』(同)といい、ハードボイルドな文体と行動で、取材対象の人生と生き様とを追っていく。

 うっすらとテーマ性は見えるけど、それよりも書き手の興味が情熱が光る。なんというか、自分しか出会うことができなかったであろう取材対象に、どんどん惹かれていくのを隠さないのである。

 どの章も、オシャレとはまったく無縁であることは言うまでもない。でも、この泥臭さこそが湾岸の片隅にある人生をキラリと光らせているのだ。

 実のところ、この本に出会ったのは、たまたまであった。ふと、ネットで見つけた書評を読んで「こんな本があったのか」と、すぐに購入したのである。

 こうした本。書き手の興味を出発点として、無名の人々を追っていくノンフィクション。それは、今は決して主流にはなり得ていないだろう。でも、ノンフィクションの本質とは、こうした作品にあるということを、改めて教えてくれるはずだ。
(文=昼間たかし)

虚実ない交ぜで記される特務機関の戦い『特務諜報工作隊 秘録 雲南の虎と豹』

    『特務諜報工作隊 秘録 雲南の虎と豹』(番町書房)

 時に1944年。重慶軍の攻勢に拉孟・騰越は玉砕。インパール作戦は失敗に終わり、ビルマ・シャン高原は風雲急を告げていた。

 そういう状況の中で、制空権を奪い次々と工作員を落下傘で送り込む英中と戦うために組織された雲南機関の諜報戦を描く物語。

 という内容が記された本が、『特務諜報工作隊 秘録 雲南の虎と豹』(番町書房)なのだが、回想録かと思いきや、どうも違う。後書きを読むと「ノン・フィクションは時にフィクションになり、フィクションはまたノン・フィクションになり、人間の感情は複雑に揺れ動くものだということをしみじみと感じた次第」と記されている。

 著者の丸林久信は、ビルマ戦線を生き延びた後に、戦後は黒澤明の映画のチーフ助監督を務めたことなどで映画史に名を刻む人物。どこまでが、真実かはわからぬが、自身が体験したビルマでの戦いが反映されたのが、この本ということか。

 この番町書房という出版社は、虚実ない交ぜの戦記読み物を多数手がけていた出版社なのだが、この本は特に煽りがスゴイ。「雲南の虎と豹の対決」「日・中・英入り乱れての諜報合戦」。そんな知られざる戦争の記録が……と、読み始めたら、まったく期待を裏切られる。

 現地の朝鮮人慰安婦といい仲になって逢い引きを繰り返したり、現地人の信頼を勝ち取るために村の娘と結婚したり。

 おまけに、各国の特務機関が入り乱れる高原のシーンは奇妙だ。たとえ敵の工作員に遭遇しても、しめたとばかりに撃ってはならない。なぜなら、周囲の現地人こそが、敵方かもしれないから。結果、英国側の工作員であるゴードン中佐とは、何度も邂逅し奇妙な友情が芽生える。

 ただ、いくら現地人を味方に付ける工作を行っても戦況は挽回されない。度重なる敗北に気の立った将校は、特務機関の意志を一顧だにしない。情報収集のために泳がしていた人物を、後先考えずに処刑してしまう。自暴自棄になった兵隊は、現地の娘を犯そうとする。

 ほんと、どこまでが事実なのかが判然としない状況が書き綴られる本。ただ、明日をも知れぬ戦場だというのに、描かれる風景は、どこか平和だ。そんな一時の平和を描写できるのも、著者自身の体験が記されているゆえか。
(文=昼間たかし)