宗教にハマッたイギリス人の夫が暴行、臨月間際で馬乗りに……【別れた夫にわが子を会わせる?】

 『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第8回 田中千恵美さん(仮名・30代)前編

 クリニックに勤務する田中千恵美さんは30代。7歳と4歳という2人の女の子を、両親のバックアップを得ながら育てている。外国人の夫とは一緒に暮らしていない。夫とはどこで出会い、なぜ結婚し、そして別れてしまったのか?

■宗教にハマっている英会話講師の誠実さに惹かれ

「別居している夫は、イギリス出身の白人です。年は私と同じぐらい。職業は英会話学校のバイト講師です。彼とは日本で、友達のツテで知り合いました。10年ほど前のことだから、20代後半の頃。私自身、留学したことがあって英語が話せるので、出会ったときから意思疎通にはまったく問題がなかったです。友人として彼と付き合うようになってわかったのは、ナチュラル系といいますか、“健全なヒッピー”という感じの人だということ。お酒は飲まないし、タバコも吸わない。カルトというほどではないですけど宗教にハマっていて、バイブルのようなモノを熱心に読んだり、瞑想にふけったりしているんです」

 彼女はなぜ、そんな変わった外国人とお付き合いすることになったのだろうか?

「彼には、相談できるような友人がいなかった。異国で1人きりって大変じゃないですか。だから、かわいそうだと思って、何かと気にかけてあげていたんです。すると彼に熱烈に好かれてしまい、交際を申し込まれました。私には、そのとき恋愛感情はありませんでしたから、『真剣にお付き合いしたいんだったら、その証拠を見せてほしい』って無理難題を彼に言ってみたんです」

 すると、彼は「見せたいものがある」と言って、数日後、田中さんの前に現れた。

「血液検査の結果を持ってきたんです。性病はもちろん、ほかの病気もシロ。ロマンティックさのかけらもないですよね。だけど、むしろそこがよかった。彼のまっすぐな行動に胸を打たれまして、信頼感といいますか、はっきり言うと、恋愛感情を持つようになったんです。それ以来、彼と真剣に交際するようになりました」

 田中さんは彼と同居を始める。資産家の両親に買ってもらい、彼女が一人住まいをしていたマンション。そこに彼が転がり込んできた。

「同居して思ったのは、彼がとても誠実で真面目な人だということ。家事は積極的にやってくれますし、きちょうめん。それでいてメンタルが弱い一面もありました。イライラしてパニックになったり、物に当たったり。ときには自分の腕をナイフで切ったりするんです」

――彼のメンタルの弱さは、どこからきていたのでしょうか?

「生い立ちに一因があるのかもしれません。彼はイギリスの田舎町出身なんです。住んでいるのは白人ばかり。外部の人が入ってきたら警戒するという、保守的で閉鎖的な土地柄なんです。父親は元軍人。冷戦の時代に、国内外の基地を転々としていたらしいです。一時期、アルコール依存症で、彼は父親からよく暴力を振るわれていたそうです。向こうの両親によると、小さい頃、ちょっと難しい子だったようですし、高校時代はいじめられていたそうです。実際、彼本人から『ずっと自殺願望があった』と聞いています。

 その後、彼は2000年ぐらいに来日します。生きづらさを克服するために、世界中のあらゆる宗教に興味を持つようになったそうで、そのひとつが仏教だったんです。そこから、東洋の文化、そして日本という国へと興味が広がっていったのだとか」

――同棲から結婚に至ったきっかけは何でしたか?

「夜の営みのとき、宗教上の理由なのか、避妊具の装着を毎回拒否されました。そうして回を重ねているうちに、自然と子どもがデキてしまったんです。妊娠がわかったとき、そのまま子どもを産むかどうか、頭を抱えました。仕事でキャリアを積んでいきたいって思っていたからです。それですぐ、妊娠したことを彼に伝えると、彼はたちまち血相を変えて言うんです。『千恵美とおなかの子どもを殺して、俺も死ぬ!』って。私、まだ別に堕ろすとは言っていないのにですよ。

 怖くなったり、嫌いになったりしなかったのかって? それはないです。むしろ、その真剣さに惚れ直しました。生まれてくる子どもに、それだけ愛情を注いでくれているんだって、わかりましたから。それで私、産む決心がついたんです」

 その後、2人の人生は急展開していく。

「出産より先に、結婚式を行いました。式場や日取りを決めたり、彼の両親をイギリスから呼んだり。身重なのに、大急ぎで準備して大変でした。

 その後、入籍して、晴れて夫婦となったんですが、前途は多難でした。彼がそれまで勤めていた英会話学校を辞めたり、別の学校に移籍したりと、仕事が不安定だったんです。しかも、そこにうちの両親が介入してきて、『もっと待遇のいいところに勤めなさい』って、やぶから棒にわざわざ言うんですよ。私を心配するがゆえの行動なんでしょうけど、正直、迷惑でした。

 おかげで、彼が精神的にきつい状態になってしまって、マンションの壁を殴ったり蹴ったり、ナイフで冷蔵庫に傷をつけたりと、物に当たり始めたんです。そして、ついに私に危害を及ぼすようになりました」

――実際、どんな被害に遭ったのですか?

「拳で私の頭をぽかぽか殴ったり、腕や足を蹴ってきたり。そうして散々暴力を振るった後に、ふっと我に返って『ごめんね、ごめんね。そんなつもりじゃなくて』って、誠意を込めて謝ってくるんです。だけど、顔は絶対に狙ってこなかった。周囲にバレるのを恐れていたようです。ずるいですよね。殴るきっかけは、だいたいは私の発言です。『もう別れたい』って私が言った後、決まって手を出されましたから。私のことが好きすぎるんですよ」

 田中さんの被害は、暴力に限らなかった。

「臨月に近い頃でしょうか。彼が馬乗りになって腕を殴ってきた後、服を全部脱がされて、変な話……犯されたのです。夫婦間でおかしな話ですが、その時は一方的で恐怖を感じました。そのとき警察には行ってないです。他人には言い出せないという気持ちと、そのような形でしか表現できない彼を救ってあげたいという気持ちで、いっぱいだったんです」

 田中さんは嫌がる彼を説得して、精神科のある病院に半ば無理やり、連れて行った。

「医師は心が落ち着く、軽い精神薬の処方箋を出してくれました。本当はもっと強い薬を出したかったようですが、西洋医学を信用しない彼が、断固拒否したんです。それでも、その薬もかなり効きまして、彼の精神状態は次第に安定していきました」

 ようやく平静を取り戻した田中さん夫婦。千恵美さんはその後、無事に出産、娘と親子3人で暮らし始めた。

「彼はとても献身的に、育児に励んでくれました。私の代わりに徹夜でミルクをあげて、私を寝かしてくれたりね。このまま穏やかに過ごしていけるのかと期待しましたが、長続きしませんでした。実は彼、処方されていた薬を勝手に中断しちゃってたんですね」

 1年後、我慢の限界が訪れる。

「子どもが1歳になった頃、彼がナイフを振り回したんです。子どもに危害が加わらないようにって思って、とっさに子どもに覆いかぶさりました。幸い、ナイフで刺されることはなかったんですけど、背中を拳やナイフの柄みたいなものでボコボコに殴られたんです。

 なんとかスキを見つけて、友人に電話をしました。すると友人からの通報を受けた警察が、うちまで駆けつけてくれたんです。その後、彼と私は別々のパトカーに乗せられて警察署まで行って、別々に事情聴取を受けました」

 警察で田中さんは、事件の概要を一通り話した。

「その後、警察官に言われました。『あなた、子どもと一緒に、シェルターに逃げたほうがいいよ。旦那は傷害罪でお縄にして、母国に返したほうがいい』って。でも、子どもにとっては血を分けた実の親ですからね。自分の父親が犯罪者だってわかったら、子どもがかわいそうじゃないですか。暴力っていっても頻繁にあるわけではなくて、3カ月に1回ほどのことですし。それに私、やっぱり彼のことが好きでしたし。だから、警察に『立件しないでほしい』ってお願いしたんです」

――では、すぐに同居を再開したのですか?

「いえいえ。それはさすがにないです。かといって、マンションは私の名義ですからね。明け渡すつもりはありませんでした。そこで、警察に協力してもらって、彼に退去を言い渡してもらったんです。すると彼はおとなしく従って、近くにある友人の家に、居候として引っ越していきました」

(後編へつづく)

別居婚4年で離婚、弁護士の初仕事は自分の養育費調停【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第7回 山崎庸子さん(仮名・36歳)後編

 大学の同級生とロースクール在学中に結婚した山崎庸子さん。司法試験を受けるため別居生活だったが、受験勉強中に妊娠出産。公務員の夫は2カ月の育児休暇を取り、子育てに尽力してくれた。しかし、その育休をきっかけに義父母との関係が悪化。さらに夫との仲もこじれていった。出産後半年で離婚が頭をよぎったものの、受験生だったため、封印して円満な別居生活を続けていた。ところが、初の司法試験は不合格。子連れで浪人生活を送ることになる。

(前編はこちら)

■息子の3歳の誕生日を祝うことなく協議離婚

 転機となったのは息子がちょうど3歳になった2011年の3月初旬だった。

「北陸から引き上げて東京で夫と同居しようと話が進んでいました。幼稚園と延長保育を駆使すれば、東京でも子育てと勉強を両立できるだろうと。ところが、2月ごろ彼が『同居に実は不安があるんだ』と言い始めたんです。新居の賃貸契約や退去の手続、退園の連絡が進んでいるのに、です。不安があるという感情だけ言って、じゃあ具体的に、どうするのかという話にはならない。だんまり。それが、北陸で一緒に過ごした最後の時になりました。

 本当は、3月初旬の息子の誕生日のころにも来る予定はあったんです。一緒にお祝いしようかと。でも、連絡が乏しい。結局、本当に来なくて、息子の誕生日を一緒に祝うこともしなかった」

 息子の誕生日から一週間あまり。東北に津波が押し寄せた。いわゆる東日本大震災である。

――震災が発生したときは大丈夫でしたか?

「東北の被災地ほどではないにしても、少し揺れたし、ちょうど手伝いに来てくれる予定だった母が乗っている電車は一晩動かず、大変でした。連日被災地のニュースも見て、日本の異常事態だと感じながら、東京に転居するまでの準備をし、一日一日過ごしていました。

 そんな折に、彼が珍しく、嬉々とした様子で電話をかけてきたんです。『被災地応援辞令を受けて、被災地に行ってくるね。だからあとはよろしく』って。これにはあっけにとられました。さも、同居できなくなることが心底うれしいといわんばかりの雰囲気があふれていました。

 よくよく確認すると、いきなり、被災地に行ってしまうわけではなかったみたいで、彼は渋々と同居を受け入れることになったのですが、同居生活の準備の話は一切できないままでしたね。震災という局面に接して感じたのは、『後悔のない人生を生きなきゃ』という強い思いでした。つまり、離婚する決意を固めたんです」

 3.11発生から約1カ月後の4月に、晴れて離婚が成立した。

「ただ届けを出しただけの協議離婚です。東北行きの正式な辞令がなかなか下りなかったため、最低限の協議はできました。養育費という名目では素直に払いたくなかったようで、幼稚園代(教育料、教材費、延長保育料など)の平均、毎月5万円弱を彼の口座から引き落とす形で、実質的に養育費5万円を負担してくれることになりました。

 離婚はしたけども、初めての同居生活は、試験が終わる5月半ばまで続けていました。彼も、受験に配慮してくれたようです。解決先延ばし癖があっても、心底嫌なことには行動が早い。いつのまにか転居先を見つけていて、早々に同居を解消しました。そのあと、辞令通り、東北で滞在したこともあったようだけど、数週間で戻ってきたようです」

 3.11と離婚という大きな節目を経て挑んだ、2度目の試験は、また不合格だった。実家のサポートを受けながら幼稚園児の息子を育て、離婚した元夫と息子の面会交流をさせつつ、自身は、司法試験予備校の教材作成のバイトで生計を立て、最後の試験に挑戦する。翌年合格、11月末からは司法修習生となった。

「司法修習に行く先輩たちを見ていたら、全国のどこに配置されるかわからないと知っていました。でも、私は息子がいたからか、第一希望の関東での修習がかないました。自宅から修習を受ける各施設までは1時間の距離。これなら子どもを幼稚園に通わせることが可能でした。修習の内容ですが、民事裁判、刑事裁判、検察、弁護士の実務修習と起案の指導を中心とした集合研修があり、その後、最後の国家試験を合格して、なんとか法曹資格を得ました。2013年には晴れて弁護士となることができました」

――弁護士になって最初に手がけた案件はどんな案件でしたか?

「自分の養育費調停が、弁護士になってからの事実上の初仕事だと思います。息子が小学校に入った途端、一切支払わなくなってしまったんです。正論を説いたところで、解決を先延ばしにする癖は、離婚前と同じだとわかっていたので、協議の場に元夫を引っ張り出さなければならないって思い、すぐに調停の申し立てをしました。申立手続きは全て自分1人で用意し、途中の主張書面も力のこもった大作を提出したんです」

 実際の調停の場で、元夫はいくつかの主張をした。それは、すでに毎月5万円を3年間、トータルで180万円の幼稚園代として払ってきたということや、平均年収は3,000万円という弁護士の平均所得の高さについてだった。

「彼はできる限り少額しか払いたくない様子でした。一方、私は彼のいう180万円を逆手にとって次のように言いました。『これまで毎月5万円が実質的な養育費として、合意に基づいて支払われた実績がある。この合意を変更する事情はほかにはなく、合意どおり毎月5万円が支払われるべき』と。

 弁護士の所得に関する指摘については無視です。調停委員も相手にしていなかったと思います。業界全体が、変動していて、年収3,000万円を超える人も中にはいるかもしれないけど、弁護士一般の年収ではないのはもちろん、現に、そのとき弁護士になりたての私に関しては、そもそも所得が少ないことを、給与証明書を提出して示していましたから」

 息子同伴の第一回調停の後、久々の父子再会が実現する。

「とにかく私としては、唐突に払わなくなったことに怒り心頭ではありました。それとは別に、たまたま学校が振替休日だったために同伴していた息子と、調停終了後、父子が再会することになりました。調停委員の目の前で、お互いに笑顔がはじけて再会するのですから、その後の進行上、印象に残る場面になったと思います。

 再会の場で彼は、養育費を払っていないのに平然とした調子で『面会交流は続けていこう』とか言って、私の気持ちなんて何もくみ取りません。それどころか『今月泊まりに来ないか』とまで言い始めた」

――2回目の調停の場は?

「彼は、遅刻して出頭したので、待ち時間が長くなり、協議が進みません。私のイライラも募ります。『5万円払ってくれないと、もう面会交流させない』って強く断言してやりました。すると、子どもを夫と会わせようと奮闘してくださった調停委員が私を説得しようとしてきました。

『面会交流はお子さんのためのものですからね。わかっているでしょ、先生』って。私はすっかり悪母です。カッとして『養育費だって子どものためだろうがっ!』って喧嘩ごしの荒々しい口調で、悪態をつきました。裁判所を離れたあとも怒りは収まらず、その勢いのまま、自宅で息子に手紙を書かせました。『養育費を払ってください。5万円約束通り払ってください。嘘つかないでください』って(苦笑)。本当はこんなことしちゃいけないと重々、仕事柄知っているんですけどね。そのぐらい彼の態度にも裁判所の正論にも怒ってたんです」

――3回目の調停は?

「裁判官が出てきて、彼に直々に説得をしてくれました。調停の場合、最後の挨拶に来るぐらいの役目なんですが。弁護士が代理人を立てずに本人調停、しかもその弁護士が暴れてるというのが珍しかったんでしょうし、子どもがしばらく父親に会えなくなるかもと危惧したんでしょう。修復不可能にならないようにってことで、裁判官が彼を説得してくれました。

 その結果、養育費は5万円だけでなく、月イチの面会交流を妨げないという条項を盛り込むことで落ち着きました。養育費は20歳までではなく、22歳までもらえることになりました。大学時代、お互い親に面倒をみてもらっていたから、我が子が大学を卒業するまではちゃんと面倒を見ることについて、争いはなかったです。

 でも元夫婦は今後、よほどじゃない限り連絡は取らないという約束もしました。彼の希望ですが、私も大歓迎です。だから面会交流の日程調整の協議も、息子の携帯で息子自身が連絡調整するから、私は楽なんです。もちろん、いつ会うかは把握していますし、息子も私に予定を教えてくれます。こんな感じでストレスない形で、今後も面会が続いていくんだと思います」

――面会交流はどんなふうに行っていますか?

「月イチで会う日は最寄駅で朝9時に会って、16時半か17時半まで。聞くところによれば、月1回2時間という相場からすれば、十分充実しているかもしれません。どこに行ったか聞けば、近くにある漫画図書館でずっと過ごしたり、映画を見に行ったり、遊園地に行ったりと息子が教えてくれます。

 一方、泊まりの面会については、もっと丁寧に交渉してくれたら、私は全然、宿泊旅行とかもOKなんです。だけど息子がNGです。元夫は再婚していて、その再婚相手を必要以上に毛嫌いしてて『会うのが嫌だから。泊まりは絶対嫌だ』って言ってるんです。

 向こうが提案してくるのなら、彼側の祖父母の家に行くとかもやってもいいと思います。息子も小学校の高学年になるし、ずいぶん成長しましたからね、冒険させてもいいと思っているんです。これだけいい子に育ってますよというのを見せつけてやりたいです」

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

別居婚4年で離婚、弁護士の初仕事は自分の養育費調停【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第7回 山崎庸子さん(仮名・36歳)後編

 大学の同級生とロースクール在学中に結婚した山崎庸子さん。司法試験を受けるため別居生活だったが、受験勉強中に妊娠出産。公務員の夫は2カ月の育児休暇を取り、子育てに尽力してくれた。しかし、その育休をきっかけに義父母との関係が悪化。さらに夫との仲もこじれていった。出産後半年で離婚が頭をよぎったものの、受験生だったため、封印して円満な別居生活を続けていた。ところが、初の司法試験は不合格。子連れで浪人生活を送ることになる。

(前編はこちら)

■息子の3歳の誕生日を祝うことなく協議離婚

 転機となったのは息子がちょうど3歳になった2011年の3月初旬だった。

「北陸から引き上げて東京で夫と同居しようと話が進んでいました。幼稚園と延長保育を駆使すれば、東京でも子育てと勉強を両立できるだろうと。ところが、2月ごろ彼が『同居に実は不安があるんだ』と言い始めたんです。新居の賃貸契約や退去の手続、退園の連絡が進んでいるのに、です。不安があるという感情だけ言って、じゃあ具体的に、どうするのかという話にはならない。だんまり。それが、北陸で一緒に過ごした最後の時になりました。

 本当は、3月初旬の息子の誕生日のころにも来る予定はあったんです。一緒にお祝いしようかと。でも、連絡が乏しい。結局、本当に来なくて、息子の誕生日を一緒に祝うこともしなかった」

 息子の誕生日から一週間あまり。東北に津波が押し寄せた。いわゆる東日本大震災である。

――震災が発生したときは大丈夫でしたか?

「東北の被災地ほどではないにしても、少し揺れたし、ちょうど手伝いに来てくれる予定だった母が乗っている電車は一晩動かず、大変でした。連日被災地のニュースも見て、日本の異常事態だと感じながら、東京に転居するまでの準備をし、一日一日過ごしていました。

 そんな折に、彼が珍しく、嬉々とした様子で電話をかけてきたんです。『被災地応援辞令を受けて、被災地に行ってくるね。だからあとはよろしく』って。これにはあっけにとられました。さも、同居できなくなることが心底うれしいといわんばかりの雰囲気があふれていました。

 よくよく確認すると、いきなり、被災地に行ってしまうわけではなかったみたいで、彼は渋々と同居を受け入れることになったのですが、同居生活の準備の話は一切できないままでしたね。震災という局面に接して感じたのは、『後悔のない人生を生きなきゃ』という強い思いでした。つまり、離婚する決意を固めたんです」

 3.11発生から約1カ月後の4月に、晴れて離婚が成立した。

「ただ届けを出しただけの協議離婚です。東北行きの正式な辞令がなかなか下りなかったため、最低限の協議はできました。養育費という名目では素直に払いたくなかったようで、幼稚園代(教育料、教材費、延長保育料など)の平均、毎月5万円弱を彼の口座から引き落とす形で、実質的に養育費5万円を負担してくれることになりました。

 離婚はしたけども、初めての同居生活は、試験が終わる5月半ばまで続けていました。彼も、受験に配慮してくれたようです。解決先延ばし癖があっても、心底嫌なことには行動が早い。いつのまにか転居先を見つけていて、早々に同居を解消しました。そのあと、辞令通り、東北で滞在したこともあったようだけど、数週間で戻ってきたようです」

 3.11と離婚という大きな節目を経て挑んだ、2度目の試験は、また不合格だった。実家のサポートを受けながら幼稚園児の息子を育て、離婚した元夫と息子の面会交流をさせつつ、自身は、司法試験予備校の教材作成のバイトで生計を立て、最後の試験に挑戦する。翌年合格、11月末からは司法修習生となった。

「司法修習に行く先輩たちを見ていたら、全国のどこに配置されるかわからないと知っていました。でも、私は息子がいたからか、第一希望の関東での修習がかないました。自宅から修習を受ける各施設までは1時間の距離。これなら子どもを幼稚園に通わせることが可能でした。修習の内容ですが、民事裁判、刑事裁判、検察、弁護士の実務修習と起案の指導を中心とした集合研修があり、その後、最後の国家試験を合格して、なんとか法曹資格を得ました。2013年には晴れて弁護士となることができました」

――弁護士になって最初に手がけた案件はどんな案件でしたか?

「自分の養育費調停が、弁護士になってからの事実上の初仕事だと思います。息子が小学校に入った途端、一切支払わなくなってしまったんです。正論を説いたところで、解決を先延ばしにする癖は、離婚前と同じだとわかっていたので、協議の場に元夫を引っ張り出さなければならないって思い、すぐに調停の申し立てをしました。申立手続きは全て自分1人で用意し、途中の主張書面も力のこもった大作を提出したんです」

 実際の調停の場で、元夫はいくつかの主張をした。それは、すでに毎月5万円を3年間、トータルで180万円の幼稚園代として払ってきたということや、平均年収は3,000万円という弁護士の平均所得の高さについてだった。

「彼はできる限り少額しか払いたくない様子でした。一方、私は彼のいう180万円を逆手にとって次のように言いました。『これまで毎月5万円が実質的な養育費として、合意に基づいて支払われた実績がある。この合意を変更する事情はほかにはなく、合意どおり毎月5万円が支払われるべき』と。

 弁護士の所得に関する指摘については無視です。調停委員も相手にしていなかったと思います。業界全体が、変動していて、年収3,000万円を超える人も中にはいるかもしれないけど、弁護士一般の年収ではないのはもちろん、現に、そのとき弁護士になりたての私に関しては、そもそも所得が少ないことを、給与証明書を提出して示していましたから」

 息子同伴の第一回調停の後、久々の父子再会が実現する。

「とにかく私としては、唐突に払わなくなったことに怒り心頭ではありました。それとは別に、たまたま学校が振替休日だったために同伴していた息子と、調停終了後、父子が再会することになりました。調停委員の目の前で、お互いに笑顔がはじけて再会するのですから、その後の進行上、印象に残る場面になったと思います。

 再会の場で彼は、養育費を払っていないのに平然とした調子で『面会交流は続けていこう』とか言って、私の気持ちなんて何もくみ取りません。それどころか『今月泊まりに来ないか』とまで言い始めた」

――2回目の調停の場は?

「彼は、遅刻して出頭したので、待ち時間が長くなり、協議が進みません。私のイライラも募ります。『5万円払ってくれないと、もう面会交流させない』って強く断言してやりました。すると、子どもを夫と会わせようと奮闘してくださった調停委員が私を説得しようとしてきました。

『面会交流はお子さんのためのものですからね。わかっているでしょ、先生』って。私はすっかり悪母です。カッとして『養育費だって子どものためだろうがっ!』って喧嘩ごしの荒々しい口調で、悪態をつきました。裁判所を離れたあとも怒りは収まらず、その勢いのまま、自宅で息子に手紙を書かせました。『養育費を払ってください。5万円約束通り払ってください。嘘つかないでください』って(苦笑)。本当はこんなことしちゃいけないと重々、仕事柄知っているんですけどね。そのぐらい彼の態度にも裁判所の正論にも怒ってたんです」

――3回目の調停は?

「裁判官が出てきて、彼に直々に説得をしてくれました。調停の場合、最後の挨拶に来るぐらいの役目なんですが。弁護士が代理人を立てずに本人調停、しかもその弁護士が暴れてるというのが珍しかったんでしょうし、子どもがしばらく父親に会えなくなるかもと危惧したんでしょう。修復不可能にならないようにってことで、裁判官が彼を説得してくれました。

 その結果、養育費は5万円だけでなく、月イチの面会交流を妨げないという条項を盛り込むことで落ち着きました。養育費は20歳までではなく、22歳までもらえることになりました。大学時代、お互い親に面倒をみてもらっていたから、我が子が大学を卒業するまではちゃんと面倒を見ることについて、争いはなかったです。

 でも元夫婦は今後、よほどじゃない限り連絡は取らないという約束もしました。彼の希望ですが、私も大歓迎です。だから面会交流の日程調整の協議も、息子の携帯で息子自身が連絡調整するから、私は楽なんです。もちろん、いつ会うかは把握していますし、息子も私に予定を教えてくれます。こんな感じでストレスない形で、今後も面会が続いていくんだと思います」

――面会交流はどんなふうに行っていますか?

「月イチで会う日は最寄駅で朝9時に会って、16時半か17時半まで。聞くところによれば、月1回2時間という相場からすれば、十分充実しているかもしれません。どこに行ったか聞けば、近くにある漫画図書館でずっと過ごしたり、映画を見に行ったり、遊園地に行ったりと息子が教えてくれます。

 一方、泊まりの面会については、もっと丁寧に交渉してくれたら、私は全然、宿泊旅行とかもOKなんです。だけど息子がNGです。元夫は再婚していて、その再婚相手を必要以上に毛嫌いしてて『会うのが嫌だから。泊まりは絶対嫌だ』って言ってるんです。

 向こうが提案してくるのなら、彼側の祖父母の家に行くとかもやってもいいと思います。息子も小学校の高学年になるし、ずいぶん成長しましたからね、冒険させてもいいと思っているんです。これだけいい子に育ってますよというのを見せつけてやりたいです」

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

司法試験の勉強中に出産、別居婚の夫が育休2カ月半取ったが……【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第7回 山崎庸子さん(仮名・36歳)前編

「大学卒業後に法科大学院(ロースクール)に行ったり、出産したりということがあって、司法試験を目指すと決めてから合格するまでにトータルで10年以上かかったでしょうか。新司法試験は2度の不合格の後の3度目で合格しました。もともと弁護士業と子育てを両立するつもりでした。先に子宝に恵まれたんです」

 都内某所。とある法律事務所にて、山崎庸子弁護士に話を聞いていた。彼女のもとを訪れたのは、これまでに彼女が担当した離婚事件についての概略を聞きたかったわけではない。山崎さん自身のシングルマザー体験について伺いたかったからだ。

■大学時代の同級生との別居結婚

「出会いは大学生のときでした。彼は大学1年生のときの同級生。お互い、地方から出てきて一人暮らし。そういうカップル、周りにはたくさんいました。最初は友だち付き合いでしたけどね。夫婦別姓のこととか女性の社会進出とか教育問題といった社会問題のスタンスがしっくりくるということもあって、急接近していきました」

 それぞれ大学を卒業し、山崎さんはロースクール、彼は大学院を卒業後に公務員とそれぞれの道へ進むころに結婚する。

「彼は東京で就職しました。一方、私は司法試験合格を目指し、北陸で受験勉強。初めての“遠距離”でした。彼の住む東京ではなく、北陸にしたのは、奨学金がもらいやすかったからです。もし出産したとしても、この地域は待機児童問題とは無縁のようでしたし」

 山崎さんは、ほどなく妊娠。おなかが大きくなっていく中の受験生活であった。

「受験勉強よりも、ママ友づくりに必死だったかもしれません。それがないと子育てのやり方もわからないと思ったんです。私の予定日は2月末。その時期は臨月で、ロースクールの期末試験に向けて勉強しているころ。期末試験を無事に終えられるかな、終えてから産めるかな、とそんな感じでした。

 別居しながらも夫とは夢に向かって一丸となって頑張っていました。それは『庸子が司法試験に合格すれば生活の形が好転する。だからお互い頑張らなきゃ』というものです。私は日に日に大きくなるおなかを抱えながら受験勉強をする生活でした。一方、彼は彼で職場にかけあって、2カ月半という長期の育児休暇を許可されました。男性の育児休暇取得率は今でも数%しか実現していませんからね、まさに先駆けですよね。そんな意識の高い彼が私は頼もしかった」

 山崎さんは司法試験という夢を諦めず出産もする。夫は育休をとって専ら子育てに励む。別居しながらも、2人は共通の夢に向かって挑戦を重ねていた。関係は良好だった。

 円満だった別居生活が揺らぎ始めたのは、いったいなぜなのだろうか?

「発端は九州に住む彼の両親による提案でした。子どもが生まれる2週間前に、夫の父親からいきなり電話がかかってきて、唐突にですよ、『1年間ぐらい育ててやろうか』って言われたんです。無事生まれるかどうかわからず、心配で頭がいっぱいなのに、『なんだ、その“育ててやろうか”っていう上から目線は!』って感じでムカムカしました。臨月を迎えている初産の妊婦で、とにかく感情が高ぶりやすい時期でもありましたから」

 彼の両親の発言の意図は、彼の育児休暇取得のインパクトに起因していた。

「息子が育休を取ることで昇進に響くんじゃないか――と心配していたことが、後でわかっていきました。しかし、そのとき真意がわからなければ後の祭りです。

 とにかく、なんの説明もなしに『育ててやろうか』という電話があまりに強烈でした。それでも、私がやり過ごして、なんとか無事に子どもを産んだらチャンチャン、という感じで解決するのかと思っていました」

 山崎さんが出産したのは、期末試験後のことだった。

「試験を無事に終えた後、ロースクールの近くにある、妊婦検診を受けていた病院で、春休みの期間中に息子は生まれてきてくれました。2008年のことです。新学期に入ってからは、四国に住む私の母や東京の彼に、北陸までわざわざやってきてもらって、産褥期(産後まもなくの回復期)を乗り切りました。

 息子の子育ては全然苦労しませんでした。ニコニコして、よく寝てくれる育てやすい子でしたから。勉強しなきゃいけないので、しょっちゅう母乳をあげられなかったし、あまり母乳が出ないという悩みはありました。なのでミルク頼りではありましたけど」

 新生児を育てながらの受験勉強。サポートがあるとはいえ、そんなにはかどるものだろうか?

「さすがに勉強は進みませんでした。新学期が始まると、週4日連日で学校に行き、後は3連休。学校に行く日にしても、朝から晩まで存分に勉強するというのではなく、お昼くらいで授業を切り上げ、あとは子育てというふうにスケジュールを組んでいました。授業に行った後のおさらいもしません。ただ、試験に落ちない程度には頑張りましたけどね。そんな生活を送っていましたので、受験生活の中でもそのころ、一番成績が悪かったですね。

 出産後も育児をしながら受験勉強を続けることが何とかできていました。ただ、出産前にこじれていた義理家族との関係は、修復することはありませんでした。誕生した長男に会いに来るのか、お祝いをするのかしないのかで、またもめてしまったんです。それで、両家の親同士の関係もひどくなってしまいました。母親同士の電話で、怒号が飛び交ったそうです。後始末どころか、どんどん溝が深まっていきました」

――夫の育休はどうなったのか? 彼の両親との関係がこじれたために、取りやめたりはしなかったのだろうか?

「元の宣言通り、2カ月半、育休を取ってくれました。おむつを替えたり、寝付かせたり、ミルクを作って飲ませたりと子育てに励んでくれました。その間は夫と子ども2人きりの時間もあったのですが、ママがいなくて泣くこともあるので、それこそ私が1人で育児するより、苦労したと思うんです。母親である私は、だっこしておっぱいをあげておけば泣かせずに済むところがありましたが、男性は、そうはいかないからですね。結局、この2カ月半が、夫が長男と同居した唯一の期間となってしまいました。期間限定だとわかっていたからこそ、円満に過ごせるよう、義両親とは距離を置き、家族3人が仲良く過ごすことを目指してお互い必死だったと思います。育休終了後は、別居生活でしたが、月イチのペースで私たちに会いに来ていました」

 夫のそんな奮闘とは別に、2人やそれぞれの家族との関係は、より一層、壊れていく。

「結局、夫の家族は生まれた孫には半年近くも会いに来ませんでした。もちろん、関係修復のために努力はしました。だけど、何をやってもダメで解決の目はまるでなく、育児をしながら受験勉強をしていくために、平穏な生活を守るには、彼の家と関わるのはもうやめようという落ち着き方しかないのだと考えました。

 でも、義父母との関係だけでなく、夫は、私の親との関係まで損なってしまいました。ささいなことがきっかけだったとはいえ、誤解を招くことが重なって、双方歩み寄りができないところまで、追い詰められていったのです。

 その一方で、彼は東京から北陸まで、月に1回は、私たち親子に会いに来てくれました。2カ月半の育休の成果なのか息子は彼に懐いていて、毎月1回くらいしか会わないのに、彼が来たら笑顔をこぼしていて、『パパと息子の絆を断ってはいけないし、保っていかねば』と会わせるごとに思っていました」

 そうした父子との関係とは裏腹に、2人や双方の両親との関係は悪化の一途をたどった。

「一人暮らしで寂しかったのか、彼はお酒に逃げるようになっていました。しかも、酔うと、次々と暴言を吐いてくるのでタチが悪い。困難について話し合うとき、だんまりを決め込んでしまうという癖も相変わらずで、もう辟易という感じでしたね。全てのトラブルに通じますが、だまりこんで解決を先延ばしにするので、ますます修復困難になっていくのです。

 出産から半年後の時点で離婚が頭によぎっていました。離婚の話をしたときの言葉は忘れられません。彼は、『息子のことを覚えて生きるのはつらい、だから息子のことを忘れるために養育費は払わないね』と言うのです。私は乳児を抱えた受験生、要は無職でしたからね。彼と離婚するには一筋縄じゃいかないなと直感しました。だから、離婚という二文字は封印し、円満な別居生活を過ごしていたと思います。

 変な話ですが、北陸での暮らしは、実質的な母子家庭生活ですが、すっかり満喫していました。保育園の運動会等の行事にも参加していましたし、そのころには信頼し合えるママ友もできていました。

 夫婦問題は一時的に凍結して受験勉強に励み、それとともにひと月に1回、彼が会いに来れば、表面的にはそこそこ仲良くして――といった感じで、ロースクールの卒業や受験に向けて頑張りました」

 初受験は、受験会場最寄りのホテルに、母子三世代で泊まり込んでの子連れ受験までしたが、地力が足らず、不合格であった。浪人して再受験することを決め、北陸での生活が続いていた。

(後編へつづく)

認知した「隠し子」発覚……夫は15年間、2つの家庭を行き来していた【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第6回 根本みゆきさん(仮名・61歳)後編

 30年前、地方転勤が多い1歳下のゼネコン社員と結婚した根本みゆきさんは、長年、不妊治療をしていたが、子どもが授からず、41歳のとき、生まれたばかりの男の子を引き取った。夫は最初、子育てに協力的だったが、1時間半ほど離れた町へ単身赴任になると、徐々に帰ってくる頻度が減っていき、1カ月に一度になった頃、浮気が発覚。それは息子にも知られるところとなり、夫婦の距離は開いていった。夫には、認知もしていた「隠し子」がいたのだった。

(前編はこちら)

■戸籍謄本を取り寄せ、夫に離婚を突きつける

 3年前に離婚に至ったときの経緯は、どうだったのだろうか?

「(相手の女からだと思われる)いたずら電話が続いていました。うんざりして、警察に相談に乗ってもらったんです。すると『くれぐれも関わってはいけませんよ。あなたには何の落ち度もないんですから』って助言されただけ。かといって、おとなしく何もしないのでは、不安や不満が抑えられない。そこで私、いよいよ確かめることにしたんです」

 根本さんが夫の戸籍謄本を取り寄せると、知らない女の子の名前の下に“認知”と記されていた。生年月日も記してあり、計算すると、女の子は11歳。認知した年月日と照らし合わせると、3歳のときに認知したことになる。

「すぐに離婚することを決めました。それが3年前の春です。たまたま、数日後には、夫が1カ月ぶりに転勤先から帰ってくる予定でした。というのも、その日が私の誕生日だったからです。その日なら、面と向かって離婚を伝えられます」

 数日後、根本さんの誕生日に、夫が予定通りに帰ってくる。

「謄本を突きつけて、『一体どうなってるの?』って強い調子で迫りました。『この女の子誰よ? 母親は、あんたが一緒に住んでる女でしょ』と問い詰めたんです。すると『誰だよ、それ。知らねえよ。いい加減なことを言って、ふざけるんじゃねえよ』って逆ギレされました」

 根本さんはひるまなかった。

「『明日専門家を呼んで、あなたとは終わりにしますから。そのつもりでいてください』って、たんかを切ったんです」

 夫は1日中、家にいたが、2人にもはや話すことはなかった。その口論が、夫婦で直接交わした最後のやりとりとなった。

 夫婦の最後の話し合いのとき、当時高校生だった息子さんはどうしていたのか?

「『ママはパパと大事な話があるから、近所の人の家に行って待ってて。後で迎えに行くから』と言って、息子には家を離れてもらってました」

 その後、息子さんを迎えに行き、2人で自宅に戻ると、そのまま根本さんの部屋に入って、2人きりの誕生会を開いた。根本さんのために、息子さんはバースデーケーキを買ってきていた。

「ケーキを箱から出して、ロウソクを立てて火をつけます。“ハッピーバースデー・トゥ・ユー〜”って歌ってくれてね。私がロウソクを吹き消しました。ナイフで切り分けて、それぞれの皿の上に置きました。

 ここまで終えてから、息子に大事な話を切り出しました。『ありがとうね。ママうれしいよ。それでね今日、なんでパパと3人で祝わないかわかる?』って聞いたらね。息子はじっと真剣な表情で、私の顔を見ました。

『実はね、ママはパパとお別れするのよ。結婚をやめるの』
『うん……』
『パパとママ、どっちについて行きたいか、自分で選んでいいんだよ』

 息子は一切動揺したりすることもなく、間髪入れずに答えました。『そんなの、決まってるよ。ママと一緒にいるよ』って。

『ああそう? でも、今までみたいに贅沢はできないよ。大丈夫?』
『うん、わかる』

 ほんと、この子いい子だなと思った。確かに、血のつながった子どもではないですよ。でもね、本当にこの子ってステキに育ってくれたと思ってありがたかったし、うれしかった。これまで息子を大事に育ててきたかいがありました」

 根本さんが58歳になったタイミングで行われた、彼女と息子さんだけのささやかな誕生日パーティーは、2人にとって人生の新たな出発を記念してもいたのだ。

「やっと離れられるという解放感と息子に祝ってもらった喜び、今後の生活への不安と期待と、ケーキを口にしながら、いろんな感情が頭の中に渦巻いていました。一抹の寂しさもあったのかもしれません。だって、夫とは愛し合って結婚したんですよ。『幸せにするよ。落ち着いた生活をしよう』って言ってくれたのに、こんな結末なのですから」

 その後、根本さんは夫を完全に追い出しにかかった。どちらが家を出るかという話し合いもなかった。

「夫にはもうひとつの家庭があるわけだし、人としてやってはいけないことを私や息子にしてきたわけだから。夫が出て行って当然です」

 根本さんは、玄関の鍵を交換し、夫の荷物をすべて車庫に置いた。鍵を換えたのは、家の権利書などといった重要書類を、勝手に持ち出されるのを防ぐためだった。

「夫は車庫に荷物を取りに来ていたようです。直接のやりとりはありません。あとは全部弁護士を通してましたから」

 根本さんは、離婚届を、夫が女や娘と住む家に送った。すると捺印とサインのされた書類が、すんなり送り返されてきた。

「それを役所に持っていき、受理されました。法廷で争ったりはしていません。協議離婚です。息子はまもなく17歳になろうとするころでしたから、養育費に関しては、成人式を迎えるまでの3年余りだけ」

 女に慰謝料を請求したものの、働いていなかったので、結局、夫が肩代わりすることになった。

「一括で払えないからということで、夫の年収の3分の1に相当する額を、月割りの3年分割で払ってもらいました。夫は女と15年間、2つの家庭を維持していたので、本当にお金がなかったんでしょうね」

 自宅は根本さん、車は夫が引き取った。

「『俺が買ったものだから返せ』っていう主張でね。もう15万キロも乗ってた車ですから二束三文でしょ。だから『はい、どうぞ』って」

――別れた後の生活は、いかがですか?

「直後は悩みましたよ。だけど今は、すっかり落ち着いてます。別れてよかったです。女手ひとつでの生活ですから、贅沢はできないですよ。でも、小さな幸せを継続していくことはできるかな。息子も今やもう大学3年生になってて、バイトしながら頑張ってます」

――息子さんがそれだけ大きくなれば、自分から父親に会いにいけますよね?

「もう離婚しちゃってるし、私自身、夫と接触を持ちたいと思っていない。虐待したのだから、息子には会わせたくないですし。だけど、立派に育ってくれましたからね。体だけじゃなくて、精神的にも大人です。(息子が夫と)会っても構わないし、会うかどうかは彼次第です。息子の気持ちに任せます。だけど息子自身は、会いたいという気持ちは持っていないんです。それははっきりしています。『パパの子じゃない』ということです」

――生まれたときのことは伝えるつもりはありますか?

「息子が独り立ちするときや、彼女ができて結婚するタイミングで、『あなたはこうだったのよ』って言ってもいいかもしれない。だけど、今のところは、伝える気はありません。だって私たち、“実の親子”なんですから」

 血のつながりだけが、愛情のバロメーターなのではない。根本さんと息子さんの絆の強さを知り、そのことを痛感させられた。今後も2人は、どんな困難があっても乗り越えていくだろう。幸せを祈るばかりだ。

認知した「隠し子」発覚……夫は15年間、2つの家庭を行き来していた【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第6回 根本みゆきさん(仮名・61歳)後編

 30年前、地方転勤が多い1歳下のゼネコン社員と結婚した根本みゆきさんは、長年、不妊治療をしていたが、子どもが授からず、41歳のとき、生まれたばかりの男の子を引き取った。夫は最初、子育てに協力的だったが、1時間半ほど離れた町へ単身赴任になると、徐々に帰ってくる頻度が減っていき、1カ月に一度になった頃、浮気が発覚。それは息子にも知られるところとなり、夫婦の距離は開いていった。夫には、認知もしていた「隠し子」がいたのだった。

(前編はこちら)

■戸籍謄本を取り寄せ、夫に離婚を突きつける

 3年前に離婚に至ったときの経緯は、どうだったのだろうか?

「(相手の女からだと思われる)いたずら電話が続いていました。うんざりして、警察に相談に乗ってもらったんです。すると『くれぐれも関わってはいけませんよ。あなたには何の落ち度もないんですから』って助言されただけ。かといって、おとなしく何もしないのでは、不安や不満が抑えられない。そこで私、いよいよ確かめることにしたんです」

 根本さんが夫の戸籍謄本を取り寄せると、知らない女の子の名前の下に“認知”と記されていた。生年月日も記してあり、計算すると、女の子は11歳。認知した年月日と照らし合わせると、3歳のときに認知したことになる。

「すぐに離婚することを決めました。それが3年前の春です。たまたま、数日後には、夫が1カ月ぶりに転勤先から帰ってくる予定でした。というのも、その日が私の誕生日だったからです。その日なら、面と向かって離婚を伝えられます」

 数日後、根本さんの誕生日に、夫が予定通りに帰ってくる。

「謄本を突きつけて、『一体どうなってるの?』って強い調子で迫りました。『この女の子誰よ? 母親は、あんたが一緒に住んでる女でしょ』と問い詰めたんです。すると『誰だよ、それ。知らねえよ。いい加減なことを言って、ふざけるんじゃねえよ』って逆ギレされました」

 根本さんはひるまなかった。

「『明日専門家を呼んで、あなたとは終わりにしますから。そのつもりでいてください』って、たんかを切ったんです」

 夫は1日中、家にいたが、2人にもはや話すことはなかった。その口論が、夫婦で直接交わした最後のやりとりとなった。

 夫婦の最後の話し合いのとき、当時高校生だった息子さんはどうしていたのか?

「『ママはパパと大事な話があるから、近所の人の家に行って待ってて。後で迎えに行くから』と言って、息子には家を離れてもらってました」

 その後、息子さんを迎えに行き、2人で自宅に戻ると、そのまま根本さんの部屋に入って、2人きりの誕生会を開いた。根本さんのために、息子さんはバースデーケーキを買ってきていた。

「ケーキを箱から出して、ロウソクを立てて火をつけます。“ハッピーバースデー・トゥ・ユー〜”って歌ってくれてね。私がロウソクを吹き消しました。ナイフで切り分けて、それぞれの皿の上に置きました。

 ここまで終えてから、息子に大事な話を切り出しました。『ありがとうね。ママうれしいよ。それでね今日、なんでパパと3人で祝わないかわかる?』って聞いたらね。息子はじっと真剣な表情で、私の顔を見ました。

『実はね、ママはパパとお別れするのよ。結婚をやめるの』
『うん……』
『パパとママ、どっちについて行きたいか、自分で選んでいいんだよ』

 息子は一切動揺したりすることもなく、間髪入れずに答えました。『そんなの、決まってるよ。ママと一緒にいるよ』って。

『ああそう? でも、今までみたいに贅沢はできないよ。大丈夫?』
『うん、わかる』

 ほんと、この子いい子だなと思った。確かに、血のつながった子どもではないですよ。でもね、本当にこの子ってステキに育ってくれたと思ってありがたかったし、うれしかった。これまで息子を大事に育ててきたかいがありました」

 根本さんが58歳になったタイミングで行われた、彼女と息子さんだけのささやかな誕生日パーティーは、2人にとって人生の新たな出発を記念してもいたのだ。

「やっと離れられるという解放感と息子に祝ってもらった喜び、今後の生活への不安と期待と、ケーキを口にしながら、いろんな感情が頭の中に渦巻いていました。一抹の寂しさもあったのかもしれません。だって、夫とは愛し合って結婚したんですよ。『幸せにするよ。落ち着いた生活をしよう』って言ってくれたのに、こんな結末なのですから」

 その後、根本さんは夫を完全に追い出しにかかった。どちらが家を出るかという話し合いもなかった。

「夫にはもうひとつの家庭があるわけだし、人としてやってはいけないことを私や息子にしてきたわけだから。夫が出て行って当然です」

 根本さんは、玄関の鍵を交換し、夫の荷物をすべて車庫に置いた。鍵を換えたのは、家の権利書などといった重要書類を、勝手に持ち出されるのを防ぐためだった。

「夫は車庫に荷物を取りに来ていたようです。直接のやりとりはありません。あとは全部弁護士を通してましたから」

 根本さんは、離婚届を、夫が女や娘と住む家に送った。すると捺印とサインのされた書類が、すんなり送り返されてきた。

「それを役所に持っていき、受理されました。法廷で争ったりはしていません。協議離婚です。息子はまもなく17歳になろうとするころでしたから、養育費に関しては、成人式を迎えるまでの3年余りだけ」

 女に慰謝料を請求したものの、働いていなかったので、結局、夫が肩代わりすることになった。

「一括で払えないからということで、夫の年収の3分の1に相当する額を、月割りの3年分割で払ってもらいました。夫は女と15年間、2つの家庭を維持していたので、本当にお金がなかったんでしょうね」

 自宅は根本さん、車は夫が引き取った。

「『俺が買ったものだから返せ』っていう主張でね。もう15万キロも乗ってた車ですから二束三文でしょ。だから『はい、どうぞ』って」

――別れた後の生活は、いかがですか?

「直後は悩みましたよ。だけど今は、すっかり落ち着いてます。別れてよかったです。女手ひとつでの生活ですから、贅沢はできないですよ。でも、小さな幸せを継続していくことはできるかな。息子も今やもう大学3年生になってて、バイトしながら頑張ってます」

――息子さんがそれだけ大きくなれば、自分から父親に会いにいけますよね?

「もう離婚しちゃってるし、私自身、夫と接触を持ちたいと思っていない。虐待したのだから、息子には会わせたくないですし。だけど、立派に育ってくれましたからね。体だけじゃなくて、精神的にも大人です。(息子が夫と)会っても構わないし、会うかどうかは彼次第です。息子の気持ちに任せます。だけど息子自身は、会いたいという気持ちは持っていないんです。それははっきりしています。『パパの子じゃない』ということです」

――生まれたときのことは伝えるつもりはありますか?

「息子が独り立ちするときや、彼女ができて結婚するタイミングで、『あなたはこうだったのよ』って言ってもいいかもしれない。だけど、今のところは、伝える気はありません。だって私たち、“実の親子”なんですから」

 血のつながりだけが、愛情のバロメーターなのではない。根本さんと息子さんの絆の強さを知り、そのことを痛感させられた。今後も2人は、どんな困難があっても乗り越えていくだろう。幸せを祈るばかりだ。

認知した「隠し子」発覚……夫は15年間、2つの家庭を行き来していた【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第6回 根本みゆきさん(仮名・61歳)後編

 30年前、地方転勤が多い1歳下のゼネコン社員と結婚した根本みゆきさんは、長年、不妊治療をしていたが、子どもが授からず、41歳のとき、生まれたばかりの男の子を引き取った。夫は最初、子育てに協力的だったが、1時間半ほど離れた町へ単身赴任になると、徐々に帰ってくる頻度が減っていき、1カ月に一度になった頃、浮気が発覚。それは息子にも知られるところとなり、夫婦の距離は開いていった。夫には、認知もしていた「隠し子」がいたのだった。

(前編はこちら)

■戸籍謄本を取り寄せ、夫に離婚を突きつける

 3年前に離婚に至ったときの経緯は、どうだったのだろうか?

「(相手の女からだと思われる)いたずら電話が続いていました。うんざりして、警察に相談に乗ってもらったんです。すると『くれぐれも関わってはいけませんよ。あなたには何の落ち度もないんですから』って助言されただけ。かといって、おとなしく何もしないのでは、不安や不満が抑えられない。そこで私、いよいよ確かめることにしたんです」

 根本さんが夫の戸籍謄本を取り寄せると、知らない女の子の名前の下に“認知”と記されていた。生年月日も記してあり、計算すると、女の子は11歳。認知した年月日と照らし合わせると、3歳のときに認知したことになる。

「すぐに離婚することを決めました。それが3年前の春です。たまたま、数日後には、夫が1カ月ぶりに転勤先から帰ってくる予定でした。というのも、その日が私の誕生日だったからです。その日なら、面と向かって離婚を伝えられます」

 数日後、根本さんの誕生日に、夫が予定通りに帰ってくる。

「謄本を突きつけて、『一体どうなってるの?』って強い調子で迫りました。『この女の子誰よ? 母親は、あんたが一緒に住んでる女でしょ』と問い詰めたんです。すると『誰だよ、それ。知らねえよ。いい加減なことを言って、ふざけるんじゃねえよ』って逆ギレされました」

 根本さんはひるまなかった。

「『明日専門家を呼んで、あなたとは終わりにしますから。そのつもりでいてください』って、たんかを切ったんです」

 夫は1日中、家にいたが、2人にもはや話すことはなかった。その口論が、夫婦で直接交わした最後のやりとりとなった。

 夫婦の最後の話し合いのとき、当時高校生だった息子さんはどうしていたのか?

「『ママはパパと大事な話があるから、近所の人の家に行って待ってて。後で迎えに行くから』と言って、息子には家を離れてもらってました」

 その後、息子さんを迎えに行き、2人で自宅に戻ると、そのまま根本さんの部屋に入って、2人きりの誕生会を開いた。根本さんのために、息子さんはバースデーケーキを買ってきていた。

「ケーキを箱から出して、ロウソクを立てて火をつけます。“ハッピーバースデー・トゥ・ユー〜”って歌ってくれてね。私がロウソクを吹き消しました。ナイフで切り分けて、それぞれの皿の上に置きました。

 ここまで終えてから、息子に大事な話を切り出しました。『ありがとうね。ママうれしいよ。それでね今日、なんでパパと3人で祝わないかわかる?』って聞いたらね。息子はじっと真剣な表情で、私の顔を見ました。

『実はね、ママはパパとお別れするのよ。結婚をやめるの』
『うん……』
『パパとママ、どっちについて行きたいか、自分で選んでいいんだよ』

 息子は一切動揺したりすることもなく、間髪入れずに答えました。『そんなの、決まってるよ。ママと一緒にいるよ』って。

『ああそう? でも、今までみたいに贅沢はできないよ。大丈夫?』
『うん、わかる』

 ほんと、この子いい子だなと思った。確かに、血のつながった子どもではないですよ。でもね、本当にこの子ってステキに育ってくれたと思ってありがたかったし、うれしかった。これまで息子を大事に育ててきたかいがありました」

 根本さんが58歳になったタイミングで行われた、彼女と息子さんだけのささやかな誕生日パーティーは、2人にとって人生の新たな出発を記念してもいたのだ。

「やっと離れられるという解放感と息子に祝ってもらった喜び、今後の生活への不安と期待と、ケーキを口にしながら、いろんな感情が頭の中に渦巻いていました。一抹の寂しさもあったのかもしれません。だって、夫とは愛し合って結婚したんですよ。『幸せにするよ。落ち着いた生活をしよう』って言ってくれたのに、こんな結末なのですから」

 その後、根本さんは夫を完全に追い出しにかかった。どちらが家を出るかという話し合いもなかった。

「夫にはもうひとつの家庭があるわけだし、人としてやってはいけないことを私や息子にしてきたわけだから。夫が出て行って当然です」

 根本さんは、玄関の鍵を交換し、夫の荷物をすべて車庫に置いた。鍵を換えたのは、家の権利書などといった重要書類を、勝手に持ち出されるのを防ぐためだった。

「夫は車庫に荷物を取りに来ていたようです。直接のやりとりはありません。あとは全部弁護士を通してましたから」

 根本さんは、離婚届を、夫が女や娘と住む家に送った。すると捺印とサインのされた書類が、すんなり送り返されてきた。

「それを役所に持っていき、受理されました。法廷で争ったりはしていません。協議離婚です。息子はまもなく17歳になろうとするころでしたから、養育費に関しては、成人式を迎えるまでの3年余りだけ」

 女に慰謝料を請求したものの、働いていなかったので、結局、夫が肩代わりすることになった。

「一括で払えないからということで、夫の年収の3分の1に相当する額を、月割りの3年分割で払ってもらいました。夫は女と15年間、2つの家庭を維持していたので、本当にお金がなかったんでしょうね」

 自宅は根本さん、車は夫が引き取った。

「『俺が買ったものだから返せ』っていう主張でね。もう15万キロも乗ってた車ですから二束三文でしょ。だから『はい、どうぞ』って」

――別れた後の生活は、いかがですか?

「直後は悩みましたよ。だけど今は、すっかり落ち着いてます。別れてよかったです。女手ひとつでの生活ですから、贅沢はできないですよ。でも、小さな幸せを継続していくことはできるかな。息子も今やもう大学3年生になってて、バイトしながら頑張ってます」

――息子さんがそれだけ大きくなれば、自分から父親に会いにいけますよね?

「もう離婚しちゃってるし、私自身、夫と接触を持ちたいと思っていない。虐待したのだから、息子には会わせたくないですし。だけど、立派に育ってくれましたからね。体だけじゃなくて、精神的にも大人です。(息子が夫と)会っても構わないし、会うかどうかは彼次第です。息子の気持ちに任せます。だけど息子自身は、会いたいという気持ちは持っていないんです。それははっきりしています。『パパの子じゃない』ということです」

――生まれたときのことは伝えるつもりはありますか?

「息子が独り立ちするときや、彼女ができて結婚するタイミングで、『あなたはこうだったのよ』って言ってもいいかもしれない。だけど、今のところは、伝える気はありません。だって私たち、“実の親子”なんですから」

 血のつながりだけが、愛情のバロメーターなのではない。根本さんと息子さんの絆の強さを知り、そのことを痛感させられた。今後も2人は、どんな困難があっても乗り越えていくだろう。幸せを祈るばかりだ。

養子を迎え、育児に協力的だった夫が単身赴任で浮気【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第6回 根本みゆきさん(仮名・61歳)前編

「夫は、相手女性の子どもを認知していたんです。判明したときには、すでに8年もたっていました。認知は夫の戸籍謄本を取って発覚したんですけど、それによって、これまでの疑問が全部晴れました」

 そう話すのは、東北で介護士をしている根本みゆきさん。彼女には、今年成人式を迎えた息子がいる。夫の隠し子問題が原因で、離婚したのは3年前のことだという。

■不妊治療の末、わが子が家にやってきた

 根本さんは30年前に結婚した。夫は、地方転勤が多い1歳年下のゼネコン社員。夫婦は長年、不妊治療をしていた。根本さんは子宮筋腫、夫は精子が平均の4分の1しかなかった。

「実は私、自分で産んでいないんです。授からなかった。それで41歳のとき、生まれたばかりの男の子を引き取ったんです。

 というのも、不妊治療を受けていた病院から『赤ちゃんを見に来ませんか』と連絡をいただきまして。2人で駆けつけたんです。生後まだ2日。母親は15歳の少女。産んだものの、育てられないとのことでした。とてもかわいい子でね、『この子を育てよう』と、夫とすぐに意気投合しました。そして私の妹からベビー用品のお下がりをもらった後、生後10日で男の子を家に迎えました」

 いきなり引き取って育て始めるのは、大変だったのではないか?

「おむつを何時間かごとに交換しなきゃならないじゃないですか。そんなことさえ知らなかった。赤ちゃんの抱き方すらわかってなかったし、なぜ泣くのか、どうやってあやしたらいいのかってことも、最初はわからなかった。戸惑いの連続でしたが、自分たちの子として育て上げるんだという共通の夢がありましたからね。子育てを苦だとは思わなかった。

 夫は、子育てにかなり協力的でした。私から指示を出して、いろいろ手伝ってもらいました。でも、それは夫のためでもありました。ただでさえ仕事で家を出ている時間が長いんですから、小さいときからちゃんと世話をして、密な交流をしておかないと、しっかりとした父子関係が作れないでしょ」

 そのうち根本さんの夫が単身赴任となる。夫婦の自宅から車で1時間半ほど離れた町で、通える範囲だったが、夫は自宅から通勤しようとしなかった。

「当初は毎週末、帰ってきていたんですが、2週間に一度、3週間に一度、さらには1カ月に一度と、帰宅間隔が次第に空いていきました。滞在時間は短くなり、日帰りということもありましたよ。帰ってくるときの表情も、次第にひどくなっていきました。笑顔が次第に消え、気がつくと、夫の顔は鋭い顔つきになっていました」

 2人は、夜の営みはもちろん、会話すらしなくなっていく。夫は根本さんに用件があるとチラシを4等分にした紙に「今日は会議があるので、朝4時半に出ます」などとメモを残したという。

「異変を感じるようになったのは、いつかしら? 服に口紅がついていたり、カットバンが2つぐらい首に貼ってあったり……。女の影が現れ始めたんです。

 浮気だと確信したのは、夏に一緒にプールへ出掛けたときでした。背中の左右両側に4本ずつのミミズ腫れがあって。『引っかいたかもしんない』って、夫はニタニタしながら言うんです」

 それは、相手女性からの無言の挑戦状であった。

「女の行動は、だんだんと大胆になっていきました。いたずら電話はしょっちゅう。ワン切りに無言のガチャ切り、果ては堂々と偽名を使って夫を呼び出すほどです。電話をかけてきて、『ご主人様はいらっしゃいますか?』って。電話に出た夫は女に責め立てられているのか、ずいぶん恐縮した様子で返答してるんですよ」

■心当たりのない、ホテルからの不審な電話

 相手女性の挑発はさらに続いた。離婚する4~5年前だから、今から7~8年前のこと。ホテルから家に、心当たりのない電話がかかってきた。

「『先日、奥様がお泊まりになったときに、フリルのついた下着をお忘れでしたよ』というのです。私は女の仕業だと、すぐにピンときました。『家に送ります』とホテルの従業員が言うので、待つことにしました。ところが5日、10日と待っても、一向に届かないんです。

 後日、こちらからホテルへ改めて電話をかけたら、別の従業員が出て、『〇〇様から電話があって〇〇様の方へお送りしました』とのことでした」

 下着の一件は、夫が帰宅したタイミングで伝えたという。

「するとね、彼、見え透いた嘘をつくんです。『△△建設の××夫妻(がホテルに泊まったとき)に俺が名前を貸したんだ。そのときスカーフを忘れたんだ』って。頭にきたので、彼に言ってやりました。『あなたとの関係がギクシャクしているのって、その人が原因だから。私、その人と直接話したい。どこの誰!』って。すると夫は途端にオロオロして、『それだけはやめてくれ』って哀願されました」

 浮気のことが、息子さんの耳に入ったりはしなかったのか?

「息子が小学5年のとき、仕事を終えて帰ってきた私に、不思議なことを言うんです。『うちにも犬がいるけど、パパは違うところにも犬を飼ってるんだね』って。写真を撮ろうとして、夫の携帯電話をいじっているうちに、知らない犬小屋に入った知らない犬の写真を見てしまったそうなんです。写真は、女の家の飼い犬だったんでしょう。それでつまり、夫は向こうに家を構えてるってことがわかってしまい……」

--息子さんは、浮気の証拠を偶然見てしまったんですね。なんとふびんな。

「それどころか、夫は息子にひどい仕打ちをしていたんです。私が気づいてあげればよかったんですが、当時は気がつかなかった……」

 気がついたきっかけは、中学校に上がるときに行った机の掃除だったという。

「引き出しがあまりに汚いので、中のモノを全部出させたんです。一番奥に入っていたのが、小学1年のときに私が買い与えたファインディング・ニモのメモ帳でした。

 そこには『パパのバカ』とか『パパがぼくの耳をいたくしたとか』『あんなやつ死ね』『だいきらい』といった言葉が殴り書きしてあった。SOSを出していたかもしれないのに、なんで気がついてあげられなかったのか。後悔の念で涙が止まらなくなりました……。

 そういえば、息子が小学校高学年の頃、耳の上の角のところが紫色に変色していたんですよ。治る暇なく、常にです。それで『どうしたの?』って聞いたら『ミニバスケやっててけがした』って言ってたんです。『痛くない』っていう言葉をうのみにしてたし、深刻に捉えてなかった……」

 夫は息子への関心を失っていたのか、休日に帰ってきて近くへ息子と出掛けても、息子を残して、よくふらっと消えたという。

「息子は傷つきますよね。そうしたことが積み重なっていったからか、中学に入る頃、『僕はパパにとって大事ではないんだ。僕はパパがいない子だ』って言うようになりました」

--パパがいない? 血のつながった実の父親の存在に気がついていたからこその発言ではないのですか?

「いや、それはないです。知らないですから。パパとママの子じゃないかもって思って調べたとしても、証拠は出てこないはず。生後10日目で引き取ってから、ずっと一緒なんです。彼は、私を本当のお母さんだと思ってるに違いないです」

(後編へつづく)

養子を迎え、育児に協力的だった夫が単身赴任で浮気【別れた夫にわが子を会わせる?】

わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第6回 根本みゆきさん(仮名・61歳)前編

「夫は、相手女性の子どもを認知していたんです。判明したときには、すでに8年もたっていました。認知は夫の戸籍謄本を取って発覚したんですけど、それによって、これまでの疑問が全部晴れました」

 そう話すのは、東北で介護士をしている根本みゆきさん。彼女には、今年成人式を迎えた息子がいる。夫の隠し子問題が原因で、離婚したのは3年前のことだという。

■不妊治療の末、わが子が家にやってきた

 根本さんは30年前に結婚した。夫は、地方転勤が多い1歳年下のゼネコン社員。夫婦は長年、不妊治療をしていた。根本さんは子宮筋腫、夫は精子が平均の4分の1しかなかった。

「実は私、自分で産んでいないんです。授からなかった。それで41歳のとき、生まれたばかりの男の子を引き取ったんです。

 というのも、不妊治療を受けていた病院から『赤ちゃんを見に来ませんか』と連絡をいただきまして。2人で駆けつけたんです。生後まだ2日。母親は15歳の少女。産んだものの、育てられないとのことでした。とてもかわいい子でね、『この子を育てよう』と、夫とすぐに意気投合しました。そして私の妹からベビー用品のお下がりをもらった後、生後10日で男の子を家に迎えました」

 いきなり引き取って育て始めるのは、大変だったのではないか?

「おむつを何時間かごとに交換しなきゃならないじゃないですか。そんなことさえ知らなかった。赤ちゃんの抱き方すらわかってなかったし、なぜ泣くのか、どうやってあやしたらいいのかってことも、最初はわからなかった。戸惑いの連続でしたが、自分たちの子として育て上げるんだという共通の夢がありましたからね。子育てを苦だとは思わなかった。

 夫は、子育てにかなり協力的でした。私から指示を出して、いろいろ手伝ってもらいました。でも、それは夫のためでもありました。ただでさえ仕事で家を出ている時間が長いんですから、小さいときからちゃんと世話をして、密な交流をしておかないと、しっかりとした父子関係が作れないでしょ」

 そのうち根本さんの夫が単身赴任となる。夫婦の自宅から車で1時間半ほど離れた町で、通える範囲だったが、夫は自宅から通勤しようとしなかった。

「当初は毎週末、帰ってきていたんですが、2週間に一度、3週間に一度、さらには1カ月に一度と、帰宅間隔が次第に空いていきました。滞在時間は短くなり、日帰りということもありましたよ。帰ってくるときの表情も、次第にひどくなっていきました。笑顔が次第に消え、気がつくと、夫の顔は鋭い顔つきになっていました」

 2人は、夜の営みはもちろん、会話すらしなくなっていく。夫は根本さんに用件があるとチラシを4等分にした紙に「今日は会議があるので、朝4時半に出ます」などとメモを残したという。

「異変を感じるようになったのは、いつかしら? 服に口紅がついていたり、カットバンが2つぐらい首に貼ってあったり……。女の影が現れ始めたんです。

 浮気だと確信したのは、夏に一緒にプールへ出掛けたときでした。背中の左右両側に4本ずつのミミズ腫れがあって。『引っかいたかもしんない』って、夫はニタニタしながら言うんです」

 それは、相手女性からの無言の挑戦状であった。

「女の行動は、だんだんと大胆になっていきました。いたずら電話はしょっちゅう。ワン切りに無言のガチャ切り、果ては堂々と偽名を使って夫を呼び出すほどです。電話をかけてきて、『ご主人様はいらっしゃいますか?』って。電話に出た夫は女に責め立てられているのか、ずいぶん恐縮した様子で返答してるんですよ」

■心当たりのない、ホテルからの不審な電話

 相手女性の挑発はさらに続いた。離婚する4~5年前だから、今から7~8年前のこと。ホテルから家に、心当たりのない電話がかかってきた。

「『先日、奥様がお泊まりになったときに、フリルのついた下着をお忘れでしたよ』というのです。私は女の仕業だと、すぐにピンときました。『家に送ります』とホテルの従業員が言うので、待つことにしました。ところが5日、10日と待っても、一向に届かないんです。

 後日、こちらからホテルへ改めて電話をかけたら、別の従業員が出て、『〇〇様から電話があって〇〇様の方へお送りしました』とのことでした」

 下着の一件は、夫が帰宅したタイミングで伝えたという。

「するとね、彼、見え透いた嘘をつくんです。『△△建設の××夫妻(がホテルに泊まったとき)に俺が名前を貸したんだ。そのときスカーフを忘れたんだ』って。頭にきたので、彼に言ってやりました。『あなたとの関係がギクシャクしているのって、その人が原因だから。私、その人と直接話したい。どこの誰!』って。すると夫は途端にオロオロして、『それだけはやめてくれ』って哀願されました」

 浮気のことが、息子さんの耳に入ったりはしなかったのか?

「息子が小学5年のとき、仕事を終えて帰ってきた私に、不思議なことを言うんです。『うちにも犬がいるけど、パパは違うところにも犬を飼ってるんだね』って。写真を撮ろうとして、夫の携帯電話をいじっているうちに、知らない犬小屋に入った知らない犬の写真を見てしまったそうなんです。写真は、女の家の飼い犬だったんでしょう。それでつまり、夫は向こうに家を構えてるってことがわかってしまい……」

--息子さんは、浮気の証拠を偶然見てしまったんですね。なんとふびんな。

「それどころか、夫は息子にひどい仕打ちをしていたんです。私が気づいてあげればよかったんですが、当時は気がつかなかった……」

 気がついたきっかけは、中学校に上がるときに行った机の掃除だったという。

「引き出しがあまりに汚いので、中のモノを全部出させたんです。一番奥に入っていたのが、小学1年のときに私が買い与えたファインディング・ニモのメモ帳でした。

 そこには『パパのバカ』とか『パパがぼくの耳をいたくしたとか』『あんなやつ死ね』『だいきらい』といった言葉が殴り書きしてあった。SOSを出していたかもしれないのに、なんで気がついてあげられなかったのか。後悔の念で涙が止まらなくなりました……。

 そういえば、息子が小学校高学年の頃、耳の上の角のところが紫色に変色していたんですよ。治る暇なく、常にです。それで『どうしたの?』って聞いたら『ミニバスケやっててけがした』って言ってたんです。『痛くない』っていう言葉をうのみにしてたし、深刻に捉えてなかった……」

 夫は息子への関心を失っていたのか、休日に帰ってきて近くへ息子と出掛けても、息子を残して、よくふらっと消えたという。

「息子は傷つきますよね。そうしたことが積み重なっていったからか、中学に入る頃、『僕はパパにとって大事ではないんだ。僕はパパがいない子だ』って言うようになりました」

--パパがいない? 血のつながった実の父親の存在に気がついていたからこその発言ではないのですか?

「いや、それはないです。知らないですから。パパとママの子じゃないかもって思って調べたとしても、証拠は出てこないはず。生後10日目で引き取ってから、ずっと一緒なんです。彼は、私を本当のお母さんだと思ってるに違いないです」

(後編へつづく)