「どこに暮らしているのかもわからない」別れた夫が躁うつ病でも、子どもと会わせたかった

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第11回 大杉千秋さん(仮名・41歳)の話 (心を病んでしまった夫・後編)

 卒業パーティーで声をかけられた大学の同級生と、誕生日が1日違いであることがわかって、1年後の誕生日に再会する。その後、友人からの連絡をきっかけに彼に電話すると、うつであることを明かされる。外に連れ出そうと誘ったことから交際が始まり、結婚。夫を支えながら働く日々を送る中で、長男が誕生したが、彼のうつはひどい状態だった。

(前編はこちら)

■夫はうつ病ではなく、躁うつ病だった

――彼は回復していったんですか?

 長男が生まれてしばらくすると突然、元気が出てきたので、治ってきたのかなと思ったら、急にヒュッと躁になったんです。いったん躁状態になると、あらゆることが変わります。顔つき、服装の好みといった見た目のほか、性格や話し方まで一変し、もともとはすごく優しくて穏やかな人なのに、すごく怒りっぽくて自信に満ちあふれているみたいな感じになりました。それから、眠らなくなり、どんどん痩せていったんです。

――うつ病じゃなくて、躁うつ病(双極性障害)だったんですね。

 躁状態のときのほうが、一緒にいるのがつらいんです。何が起こるかわからないし、私も何をされるかわからない。殴ったりしてくることはなかったんですが、すぐキレるんです。「オレは、なんでもできる」という万能感にあふれているので、階段を自転車で上れると錯覚して、上って落ちて大けがをしたりとか。病院で携帯を使って警備員に注意され、逆ギレして怒鳴ったり。「作品の材料だ」と言ってはゴミ捨て場から物を拾ってきて、家中ゴミだらけにしたりしました。

 暴言を吐いたり、何かとひどいことをして、他人を怒らせるんです。なので、友達もどんどん離れていき、私は「病気のせいだから勘弁してほしい」と、頭を下げて回りました。

――大変だったんですね。

 その後、1〜2カ月して、またうつになり、また1〜2カ月して躁になり……というサイクルを繰り返していきました。私は仕事があるので、彼を1人にしなくてはならない。それが心配なので、入院してもらい、たまに会いに行ったりしていました。2〜3カ月たって、また出てきたり……ということを何回か繰り返しましたが、病院に入ってくれるのは、だいたいうつのときだけでしたね。

――もはや、普通に生活することが難しくなったんですね。

 3〜4年ぐらいたったときに、障害年金(病気やケガによって生活や仕事などが制限されるようになった場合に受給できる年金)というものの存在に気がつき、区役所で「躁うつ病で申請したい」と申し出たところ、受理されました。

――生活費は千秋さん持ちですか?

 基本的には折半にしていましたが、たまに夫のお金がなくなると、1万円とか、お小遣いをあげていました。夫は障害年金を隔月で14万円くらいもらっていたので、完全に無収入になることはなかったです。

――子育ての状況は、どうだったんですか?

 その頃、長男は実家で育ててもらってて、そこから保育園に通わせていたんです。夫が障害者認定をされていたので、保育料も平均的でした。それが、離婚した途端に4万円も上がったんです。母子家庭であることよりも障害年金受給者であることの方が査定に大きく影響したんですね。

――離婚するきっかけとなった出来事はなんですか?

 躁状態が何カ月も続いて、私の精神の限界を迎えたからです。亡くなった彼の父親が生前に残した200万円を、彼の了解を得た上で、私が管理していました。ところが躁状態になったとき、「200万円、盗ったろ。返せ!」って、すごい剣幕で言われたんです。私、怖くなっちゃって。急いでATMで下ろして、全額彼に渡しました。そのお金は、2カ月持たなかったですね。病院で知り合った人にいろいろ物を買ってあげたり、免許も持っていないのに50〜60万円するバイクを買ったり。Tシャツを大量に買って配ったり。その頃の口癖は「オレは救世主だ。みんなを助けられる」でした。

 あと、200万円のうちの数十万を使って、小型犬を買ってきました。その犬は家中にウンチをするのですが、それを彼は全く処理しないんです。たまに帰宅すると、私の布団がウンチまみれ。臭いもひどくて。もう一緒にいられないな……って思うようになりました。

――どうやって離婚に至ったんですか?

 “躁状態になったときに言う言葉”というのを、ネットで見つけたんです。「オレだけは神様の声が聞こえる」「映画を撮る」とかいろいろありましたが、彼は一通り、すべて言いました。その中の1つが「離婚する」だったんです。それを言われたときの配偶者の正しい対処法は、「病状が安定するまでは適当に流しなさい」というもの。だけど、彼から「離婚する」と言われたとき私、次男を出産した1週間後でしたので、あまりにも疲れていて、「うん」って言ってしまいました。後から、お義姉さんに、離婚をとどまるようお願いされたんですけど。

――それでも離婚に踏み切ったんですか?

 その頃、お義姉さんとお義母さんと彼が3人で、温泉旅行に行ったんですよ。その途中だったかな。お姉さんから電話がかかってきたんです。「ごめんなさい。あんなにおかしくなってると思わなかった。よく我慢したね、7年も。もしこれで弟が自殺しても、千秋ちゃんのせいじゃない。もう離婚していいよ」って。それで、次男が生まれてちょうど1カ月で別れました。

――別れるときは、どんな感じでしたか?

 「俺の邪魔をするな。おまえがすべて俺から奪っていった。病気になったのは、おまえのせいだ」って、すごい剣幕で言われました。とても怖かったです。そして彼は、家賃の安いところに引っ越していきました。お金もないだろうし、しばらくは私が食事を届けたりしてましたが、怖くて次第に足が遠のいていったんです。

 見捨てちゃったような感じで、とても悲しくて……。でも、すごく怖くもあるんですよ。別れてから1〜2年の間は、夫同様、背の高い男性が遠くから歩いてきたり、電車内で似た背格好の人がいると、視線を上げられませんでした。

――養育費とか面会のルールは決めたんでしょうか?

 いくらがいいか彼に聞いたところ、子ども2人だからってことで「月2万円」って紙に書いてくれました。「毎月必ずその額ではなくて、たとえ1円でもいいから、毎月、子どもたちの口座に振り込んでほしい。払える額を払ってくれればいいから」と、彼には話したんです。毎月、100円のときもあるけど、1万円のときもあって――という感じで払ってくれていたら、子どもたちが後で通帳を見たときに、「常にお父さんは、僕たちのことを忘れないでいてくれたんだ」と思えるじゃないですか。その話をしたところ、彼は「わかった」って言ってくれましたが、支払ってくれたのは、最初の月だけでした。

――彼に、子どもを会わせていますか?

 別れるとき私、考えたんです。子どもの将来を考えると、定期的に父親と会っておいた方がいいんじゃないか? って。それで彼に、「お願いだから、月1回でも会ってくれないか」って言いました。すると「俺は妻と子どもを捨てるんだ」と言うんです。彼はSNSにも「俺は妻と子を捨てた」と書いていましたし。そのとき私、どう返していいかわからなかった。すごく考えて、「元気でいてね」という言葉しか返せませんでした。それが最後のやりとりです。それ以来、一切連絡を取っていないですね。

 もともとはすごく穏やかで優しい人なので会わせたいのですが、躁状態のときだと、子どもにとってつらいことになってしまうんじゃないかと心配で、会わせられないです。今、彼がどこに暮らしているのかもわかりませんし。今後も、ずっと会うことはなさそうですが、彼には幸せでいてほしいなと思っています。

ーーーーーーーーーーーーーーー

 ここまでで、末っ子誕生について紹介していないのには理由がある。大杉さんの話には、まだ続きがあるからだ。それについては、次回に記してみたい。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

「うつ病の夫は長男の誕生も喜ばなかった」大学の同級生と“運命の再会”を経て結婚したが……

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第11回 大杉千秋さん(仮名・41歳)の話 (心を病んでしまった夫・前編)

「子どもは3人います。15歳の長男、8歳の次男、そして4歳の三男です。だんご三兄弟みたいに、いつも身を寄せ合っています」

 大杉千秋さん、41歳。テレビ局勤務の女性だ。2度の結婚を経て、いま、2度目の離婚をしようとしている。お子さんたちの話をするうれしそうな表情からは想像しにくい大変な過去が、彼女にはあった――。

■同級生の夫とは誕生日が1日違いで「これは運命だね!」

――出会いからお話ししてくれますか?

 私は六大学の1つに通っていました。夫となるAとは同級生。普段は、のほほんとして呑気な雰囲気なのに、壇上に上がって芸をして、みんなを笑わせる。そんな目立つ学生でした。一方、私は結構地味でマイペースで、彼とは対照的なタイプです。私にとって彼は、自分にないものを持っている天才。手が届かない存在――そんな憧れに近い思いがありました。

――話をするきっかけは、あったんですか?

 あるときキャンパスで「○○テレビに受かった千秋さんでしょ」って声をかけられて、それ以来、話すようになりました。

――まだ友達の1人という感じですね。何か接近するきっかけは?

 卒業パーティーで、再び彼に声をかけられました。「千秋ちゃん、誕生日いつ?」「○月×日」「びっくり。1日違いだよ。これは運命だね! じゃあ、来年誕生日に、どこかで会って乾杯をしようよ!」半信半疑だったんですが、約束しました。

――実際に再会されたんですよね?

 大学を卒業した次の年の誕生日、彼は約束の場所に、ワインとホールケーキを持って現れました。社会人になって1年目の、緊張の多い日々の中に訪れた、とてつもなく楽しい時間でした。彼の発した冗談からの再会でしたので、次に会う約束などしない方が、素敵な感じがしました。縁があったら、また会えるかもね、という……。なので、それきりしばらく会うこともありませんでした。

――それから、どのように結婚に至ったのですか?

 当時、彼は激務で知られた建築事務所で働いていました。そこには私の友人もおり、彼女が私に電話をしてきたのです。「A、今どこにいるか知らない? みんな○○に電話しているんだけど、全然出ない」って言うんです。ところが私が試しにかけたら、彼があっさり電話に出ました。そして、過労でうつになり、家にこもっているということがわかりました。
「あまりそういうのよくないと思うから、出てきなよ」「うん……」。待ち合わせをし、船に乗せました。ただ船に乗っているだけだったんですが、うつ状態にはちょうどよかったようで、静かに喜んでいました。その後も、リハビリのつもりで誘い、本当にたまに会っていました。

――大学時代の雰囲気は残っていたんですか?

 その頃の彼に昔の陽気な雰囲気はなく、ほとんど廃人でした。でも、やっぱり面白い部分は残っていたので、楽しかったです。

――どうやって、彼とお付き合いを始めたんですか?

 何度か会っていて、数カ月たった頃に、彼に言いました。「私はAのことが好きだけど。もし付き合う気がないんだったら、もう二度と会わないわ。今日が最後ね」って。すると彼は、「え! じゃ、付き合おう!」と答えたんです。彼からしてみれば、そのときの私は、唯一会える、癒やされる相手だった。なのに、突然「会えない」って言われたら、「うそっ!」ってなりますよね。そんなつもりはなかったけど、今思えば脅しみたいですよね(笑)。

――どんなお付き合いだったんでしょうか?

 彼の方がどんどん私を頼るようになってきて、気がつくと、母と子みたいな関係になっていました。私自身の自己肯定感が低いせいもあると思うのですが、「おいしいもの食べさせてあげたい」とか「どこかに連れて行ってあげたい」とか「喜ばせたい」とか、すごく頑張っちゃって。すると、さらに彼から、どんどん頼られていきました。

 その頃、彼は会社を辞めて、フリーになっていました。関東の実家に暮らして、うつ病の治療を受けながら、少しだけ仕事を受けているという状態です。収入はわずかしかなかったので、デートといっても、大衆的な食堂でご飯を食べたり、公園でバドミントンをしたりと、素朴な感じでしたが、楽しかった。私自身、ぜいたくが好きじゃないので、それが性に合ってたんでしょうね。

――結婚はいつ?

 すごく結婚したかったんです。子どもも、すごく欲しかった。「結婚するんだったら、私は2人姉妹なので、子どもは絶対2人欲しいな」と言っていました。彼は、「じゃあ、かなえるよ。結婚しよう!」って言ってくれました。だけど彼自身、結婚したり、子どもを持ったりすることに積極的だったかというと、わかりません。

 クリスマスの日でした。彼の方から「結婚しようか?」「しようしよう♪」ってノリで、1週間後の元日に籍を入れちゃったんです。両親は双方とも喜んでくれ、同居が始まりました。

――うつ病になった彼との結婚生活は?

 うつだとすごく疲れやすいので、重い荷物は全部私が持つようにしたり、どこか行くにも休めるルートを考えたり。マッサージをしたり、料理をしたり、彼を笑わせようと、サプライズを仕込んだりしていました。とにかく彼に、心にも体にも良い生活をさせれば、病気はいつか治ると信じていたのです。

――千秋さん自身は、会社に出勤していたんですよね?

 はい。だけど出勤するとき、「寂しいから行かないでほしい」って、よく懇願されました。1人になることを、とても嫌がっていたのです。心配でしたよ。だけど、それでも出勤しないわけにはいきません。後ろ髪を引かれながら、仕事に出かけて、帰宅すると、真っ暗な家の中でずっと待ってるってことがしばしばでした。

――家事はしてくれたんですか?

 疲れやすいので、あまりできなかったですが、ただ、買い物とかは気持ちよくやってくれてました。「役に立つことならやりたい」と言ってくれて。

――お子さんは、いつ生まれたんですか?

 結婚して1年半後に、長男が誕生しました。そのとき彼はうつ真っ盛りで、生まれても喜びを表すとかはなかったです。むしろ、子どもが生まれたことがプレッシャーになって、うつがひどくなっていた印象です。それで長男が生まれて間もない頃、夫が長男を抱っこして、「自宅の屋上に日光浴させに行く」と言ったことが何度かありました。その時、夫が長男を投げてしまわないか、内心真っ青でした。

――屋上まで、ついていったんですか?

 「ついていく」とか言うと、傷つけちゃうかもしれない。だから、言えなかった。「お願いだから投げないで」と、祈るような気持ちで待っていました。

(後編につづく)

「ヒモ男だったけど、子どもは会わせるべき」バツ2女性が3人の子を育てて気づいたこと

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

 アルバイトをしながら、趣味の旅行にたびたび出かけていた星野由貴さんは、しょっちゅう辺境へ出向く特殊な職業の年上男性と結婚するも、その奔放さについていけず、1年で離婚。年下のサラリーマンと再婚し、女の子をもうけたが、この男性も趣味である旅行のために仕事を辞めてしまう。その後、彼女の親族が経営する会社に就職したものの、星野さんは義母との関係悪化をきっかけに別れを決意。離婚したのはミレニアムのころ、次女が生まれてすぐのことだった。しかし、2番目の夫との仲は今も良好だという。

(前編はこちら)

第10回 星野由貴さん(仮名・50歳)(後編)

 もともと美術系の学校に通っていた星野さん。二度目の離婚後、その腕を見込まれた彼女は、4歳と1歳の娘2人を保育園に預けて、美術関係の仕事をするようになった。そんなふうに、子育てと仕事で忙しい毎日を続けていた彼女の前に、2000年代の前半、同世代のCさんが現れた。

「シンクタンクで働いたり、国際会議のコーディネートをやったりしているCを、共通の知り合いから紹介されました。Cの学歴はすごいし、英語もぺらぺら。そんな彼であれば『一緒になったら、稼いできてくれるんじゃないか』って、下心を持っちゃったんです。私は三流高校で進級できるかどうかって感じの成績でしたから、高学歴というだけで尊敬しちゃって、惚れちゃった。それで、お付き合いするようになりました」

 しかし、相性は決してよくないということに、星野さんは次第に気がついていく。

「前の2人もそうですが、反応が冷淡。私が『こんな嫌なことがあった』って怒りながら言うと、『そんなの相手にするな』って怒り返してきて、まるで共感がない。それに、お礼を言うときは『どうも』、謝るときは『すいません』ですからね。全然、気持ちがこもってない感じなんです。だんだん『私に合わないな』『そろそろ会うのをやめよう』って思うようになったんです」

 ところが、そんなとき、事態は後戻りできない方向へ急転する。00年代半ばのことだ。

「Cの子を身ごもっちゃったんです。彼にはもちろん伝えたんですが、Cは『どうしたいの?』って言うだけで、心配なんかしてくれませんでした。私、すっかり落ち込んで、『望まれない子なんだから堕ろそうか』って考えが頭をかすめたほどです。だけど、やっぱり産むことにしました。命あるものを無駄にできないじゃないですか。まして自分の子ですし」

 当時30代後半だった星野さんと、小学校、保育園に通う娘2人の計3人が住んでいた一軒家に、出産の少し前から、Cさんが同居するようになる。

「妊娠した私のケアのために同居したわけではないですよ。単にCの都合です。彼はそのころ、住む場所もなかったんです。お金がないから、家賃は払えない。かといって、実家には帰りたくなかったんです。同居にあたってCには生活費の負担を求めたんですが『ないものはない!』と言って、開き直られました。光熱費、食費、家賃を払わせたか? まさか。一切払ってくれませんよ。なのに、ずるずる居座られちゃった。籍は『信用できる人じゃないな』って思ったんで、入れていません。幸か不幸か、娘たちはすぐ、Cに懐きました。それを見て、『同居されても、まあいいか』って諦めたんです」

 居候というか、まるでヒモですね。そのころCさんは、働いてなかったんですか?

「シンクタンクで働いてたんですが、よりによって出産直前のタイミングに辞めちゃった。退職金が出たはずですが、一切くれません。だから検診、出産、入院と、出産にかかる費用は全部私持ちでした。ひどいでしょ? 早く見切って追い出せばよかったんだけど、子どもができたんだし、またちゃんとした仕事に就いて、そのうち生活費をたくさんくれるんじゃないかって期待しちゃった。その後、お金を入れてくれたかって? いやいや。バイク便のバイトこそ始めたんですが、稼いだ分はやっぱり一切くれませんでしたよ」

 Cさんとの子は男の子だったんですよね。息子さんが生まれてからの家の雰囲気は、どうでしたか?

「まだ愛想があればよかったんですが、会話は相変わらず面白くない。世間話のひとつもできないし、冷淡です。基本的には穏やかではありますけど、私がけっこうカッカする方なので、そうした態度を目の当たりにすると、彼は不機嫌になって舌打ちをするんです。息子が通っている保育園の運動会のときなんか、ひどかったですよ。朝早く起きてお弁当の準備をしてて、うっかり包丁で手をずばっと切ってしまって、シンクが真っ赤になってしまったんです。ちょうど彼が起きてきて、あくびをしながらひと言、『またか』ですよ。とにかく反応に温かみがなくて、ケンカが絶えなかった。

 娘たちとの関係も同様です。息子が生まれた後、娘たちは息子と自分たちに対するCの接し方が違うってことに、気がつくようになったんです。それで、みるみるCと娘たちの心の距離が出てきてしまいました」

 彼は、家事とかで挽回しようとかしなかったんですか?

「Cは、勉強ができても、まるで応用力はない人。どうしようもない人なんですよ。例えば『野菜をさっとゆでて』ってお願いしたら、『何リットルの水に対して何秒間か? 1秒なのか10秒なのか』とか言うんです。そんなマニュアル人間なので、家事とか育児とかは任せずに、たいていは私がやっちゃってました。たまには洗濯を任せたこともあったんですが、仕上がりがひどかった。しわくちゃだし、生乾きで、子どもたちのタオルが全部雑巾臭くなりましたね(笑)」

 Bさんみたいに、せめて貯蓄すればよかったですね。

「家事や育児はできないし、お金は全く入れないしで、私、Cのこと、普段から思いっきりバカにしてました。でも、そういった私の言動が、彼のプライドを思いっきり傷つけたんでしょうね。彼に『バカ、バカ』ってずっと言ったり、手を出したりしました」

 そうした星野さんの“激しい態度”が効を奏したのか。途中から、Cさんは家にお金を入れるようになる。

「途中から、5万円ぐらいは入れるようになりました。でもそれは、自分の居住費込みですからね。最後の方は、16万円入れてくれてました」

 月16万円もくれたら、許す気になったんじゃないですか?

「それよりストレスの方が大きかった。Cを追い出して、そのたびに実家に戻り、また戻ってきて……というのを、最後の何年間かはずっと繰り返してました。同居している間、しょっちゅうケンカしてましたからね。それに娘たちが、とにかくイライラしてました。娘たちにとって、Cは“気持ち悪いおじさん”扱いでした。そのころ2人とも思春期でしたからね。よけい反発が激しかったのかも。結局、Cとは7~8年一緒に住んだけれど、本当に後悔してますね。もっと早く追い出せばよかったって。その後、お金は、今も毎月5万円ずつ受け取ってます。息子の養育費ではありますけど、払ってくれなかった時代の分をもらってるという感じですね」

 それぞれの父親と子どもたちとの関係はどうなのか?

「小学校の高学年になった息子は今、卓球にはまってて、卓球関係の世話はすべてCに丸投げしてます。だから、それで頻繁に会ってます。日曜日の夜とか、卓球が終わった後、一緒にご飯を食べたりとかで、月3回ぐらいは会ってるかも。そんな感じなので、わざわざ面会をさせたりする必要はないですね。『私その日都合悪いけど、都合どう?』って感じで、息子を預けて、楽をさせてもらってます。一方、娘たちは、長女が大学生、次女は高校生と、もうすっかり成長しちゃったので、Bと会うのは年に数回とかです。必要があれば、今でも会いますよ。去年、長女が車の免許を取った直後は、Bが助手席に座って、いろいろ教えてましたからね」

 子どもに会わせるということについては、わだかまりはないのだろうか?

「相手が嫌いだから会わせないでいると、自分自身がすごく損をする。全部自分で抱え込んじゃったら、自由がなくなって、もっとしんどくなるじゃないですか。実際、私、Cに対してむかついて何カ月間か会わせなかったときは、子育ては丸抱えで、ひとときも休めなくて大変でした。

 私の経験則上、別れてもやっぱり、元の夫たちとは会わせるべきだと思います。肩肘を張って会わせずにいたら、その分、自分に跳ね返ってくるじゃないですか。預かってもらってたら自分も楽ができるし、養育費だってもらいやすくなるし」

 元夫たち同士の仲は、どうなのだろう?

「うちは普通とかなり違ってて、例えばこないだ母の米寿のお祝いがあったんですけど、そういうときに夫たちも呼ばれたりするんですよ。息子の保育園の運動会にもBとC、2人ともが来て、1人がビデオで1人は写真を撮ってるんです。2人のおかげで私、息子と親子競技に出ることができました。2人とももう、アラフィフのおじさんです。BとCの仲? 2人とも写真が趣味なので、その話で気が合うみたいですよ。一方、Aは還暦も近いのに、相変わらず自由です」

 子どもたちは、どんなふうに育っているのか?

「先ほども話した通り、長女は大学生。次女は高校生、そして長男は小学校の高学年です。これから年々、学費がかかっていくのが悩みの種です。Bが娘たちの学資保険に入ってくれていたのですが、それだけでは足らなくて、貯金を崩して、なんとかやってます。私自身そんなに勉強ができなかったし、子どもに高学歴も求めません。ちゃんと働いて自分で稼いで、自分の力で生きてほしいな。望むのはそれだけです」

 これまでの結婚生活を振り返って、星野さんは今、何を思うのか?

「悪口ばかりですいません。でも、元夫たちは本当に残念な人だから(笑)。私は私でかまってちゃんですよね。B以外は、普通を求めて、普通から一番遠い選択をしてしまいました。やっぱり見る目がなかったんですね、私」

 そう言って反省しつつも、星野さんの表情は明るさに満ちていた。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

会社を辞めて旅に出た夫と離婚、でも「娘から父親を奪う権利はない」と葛藤するが……

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第10回 星野由貴さん(仮名・50歳)(前編)

「事実婚を含めて3人の男性と同居したんですが、3人が3人とも私のことをまともにかまってくれなかったし、家事も育児もやってくれなかった。男を見る目が、私にはなかったんですね(苦笑)。普通にサラリーマンで、家事も育児も手伝ってくれる旦那さんの話を聞くと、『そんな人が世の中にいるんだ……』って、うらやましく思ってます」

 そう話すのは、3人の子を1人で育てている、星野由貴さんである。バックパッカーだったという彼女は、これまでにどんな半生を歩んできたのだろうか?

■辺境を歩いて回る夫についていけず

「高校の後、美術系の学校を出てからは、飲食店でバイトして、アジアとかヨーロッパ、中近東に出掛けるという生活を繰り返していました。同じ趣味を持っている同世代の旅仲間と集まって飲み食いしたりして、わいわいと、よくつるんでいたんです。結婚したのは、そのうちの1人でした」

 最初の夫Aさんは、世界の辺境へしょっちゅう出向く、特殊な職業の人であった。

「Aと結婚したのは、1990年代の前半のこと。そのころ私はまだ20代半ば、彼は30代前半でした。もっと一緒に人生を歩んでいくものと思ってたんですけど、彼があまりに奔放すぎて、ついていけなかった。彼は彼で、私を自由にさせておくのが愛情だって思ってたみたい。私の親族が経営する会社に就職したけど、名ばかり就職。辺境へ出向くのは相変わらずで、置き去り状態。しかも彼は子どもを欲しがらなかった。ぶっちゃけ、方向性が違いすぎてました」

 そんなAさんについていけず、1年ほどで離婚。

「今も近所で暮らしてて、たまに街中で会ったら普通に世間話をする程度かな。自由すぎるぐらいに自由な人だったけど、その後、まさか音楽で身を立てるなんて思ってもみませんでした。元気にやってるみたい」

 星野さんは数年後、サラリーマンである年下のBさんと結婚する。

「自由人ばかりの旅仲間の中で、Bは数少ないサラリーマン。一緒にいて楽だし、何より収入が安定しているというのが魅力でした。ぶっちゃけ嫌いなところはなかったんですが、すごい好きという感じでもなかった」

 Bさんとの結婚生活は、どうだったのか?

「結婚した96年のうちに妊娠、そして翌97年の香港返還の日あたりに長女を産みました。当時、Bはサラリーマンで私は主婦と、役割分担がしっかりあったので、Bに家事や育児を求めてなかった。それは当たり前だと思ってたし、むしろさせちゃダメだと思ってました。やってくれたこともあったけど、お手伝いレベルでしたよ」

 では、Bさんが生活費をまかなっていたということだろうか?

「Bの収入のうち5万円を彼のお小遣いとして手元に置いて、残りは彼の口座に毎月貯蓄していました。私は不動産の収入が月に十数万あって、そちらを月々の生活費に回していたんです。だから生活費は私が全部出してました。不公平じゃないかって? そうやってやりくりして、彼の収入の大半が資産としてたまっていったので、私的にはそれでOKでした。実際、そのお金は一戸建てを買う資金に回してくれましたし」

 家事や育児は星野さん。生活費も星野さん。そこまで許せてるのに、その後離婚。いったいBさんのどこが気に入らなかったのだろうか?

「一緒に暮らしてて、『なんだか冷たいな』って思うようになったんです。実際、遊び友達の方が優しいし、気を使ってくれた。『なのにBは、なぜこんなに私に冷たくて無関心なんだろう?』って。

 その後、安定収入が突然なくなったことに、なにより腹が立ちました。Bはサラリーマンを辞めて、ヨーロッパへ1人で出かけちゃったんです。しかも彼、帰ってきた後、よりによって、私の親族がやってる同業の会社に転職したんです。彼からすれば、旅に出る前から当て込んでたんでしょうけど、決まったときは嫌だったなあ」

 失礼ですけど、離婚するほどではないんじゃないですか?

「ほかにもありますよ。正月にBが『中国に鉄道の写真を撮りに行く』というので、その間、関西にある彼の実家に孫を見せに行ったんです。すると、義母に面と向かって『あんた肥えてる』と言われて、嫌がらせをされました。娘の世話をするために席を外して戻ってきたら、食事を片づけられていたり、私にだけ鍋の肉が入ってなかったり。確かに私、そのとき今よりぽっちゃりしてましたよ。だけど、あんまりじゃないですか。それで、そのことを帰国したBに伝えたら、『気のせいだよ』ってひとこと言われただけで、なんの同情もされなかった。私、それで心が折れました。基本、嫌いなところがない分、そういった何げない発言が、すごく心に響いちゃったんです」

 20世紀が終わるころ、次女が誕生する。その直後、関係は破綻してしまう。

「別れ話を切り出したのは、次女が生まれてからです。ある時、『離婚しましょう』って、ケンカした勢いで言ってしまいました。彼は、私が言いだしたら聞かないタチだってことも知っていたので、反対はしませんでした。『子どもを引き取って実家へ戻る』とは言われましたけど、結局は夫だけが家から出て行きました」

 養育費や面会などの取り決めはしたのだろうか?

「私の都合で別れてもらったという形なので、慰謝料はなし。養育費もなしということにしました。面会の回数とかは特に決めませんでしたが、会わせないという気持ちもなかった。というか、私が娘たちから父親を奪う権利なんかないじゃないですか。だから別れた直後も、かなり頻繁に会わせてました」

 どのぐらいの頻度で会わせていたんですか?

「少なくとも月に数回。Bが2人をあちこちに連れて行ってくれたり、私が映画を見たいときに預かってもらったり。あとは一緒にクリスマス会をやったり、お誕生日会をやったりしてました。正月とかお盆とか、娘2人を関西に連れて行ってくれたので、その間、私は息抜きができました。あれは助かった」

 Bさんと別れてしばらくした後、星野さんは4歳と1歳の娘2人を保育園に預けて、仕事に出るようになった。一方、Bさんはその後どうしているのか? 2人の関係は、どうなったのだろうか?

「彼が毎月、貯蓄に回していた分は、離婚後、まるまる自分の小遣いとして使ってるみたいです。海外旅行に行ったり車を買ったりしてましたから。それを聞くにつけ、『なんだよ自分だけ』って、だんだんムカムカしてきちゃって。別れて2年後ぐらいにお願いして、それ以降、養育費として月5万円ずつもらうようになりました。彼の仕事? 私の親族が経営している会社に、今も真面目に通ってますよ」

 面会時の様子からして、星野さんとの仲は離婚後も比較的良好だということは察したが、まさか今も親族の会社で働いているとは……。

「勢いで別れちゃったけど、別れる必要はなかったなあ」

 星野さんはBさんとの関係を後悔しながら、そう言った。

(後編へ続く)

「一生会わなくてもいい」「養育費は払わない」“産後うつ”になった夫と離婚【別れた夫にわが子を会わせる?】

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第9回 松田亜美さん(仮名・38歳)後編

 中性的な雰囲気を持つ9歳年下のヨガ教室アシスタントの男性と、付き合い始めて半年で妊娠。結婚して彼の実家で同居を始める。出産に備えて、夫はがむしゃらに働いたが、アルバイトを掛け持ちして、疲労でうつになってしまう。

(前編はこちら)

■妻ではなく夫が「産後うつ」になる

 彼に覇気はなく、発言はマイナス思考。病院には行っていたが、薬は飲んでいなかった。自分の殻に閉じこもり、ゲームばかりするように。そんなとき、松田さんは出産を迎える。

「10月末の出産でした。彼は立ち会ってくれました。双方の両親に、助産院の場所を連絡したんですけど、陣痛が急に強くなり、5時間ぐらいで生まれてしまって、間に合わなかった。産んだとき、彼には『ありがとう』って、お礼を言われました」

――生まれた後、3人はどこで暮らしたんですか? 彼のうつは回復しましたか?

「産後、私は実家で過ごしました。肥立ちのキツイ時期に、彼の両親と過ごすのは精神的に無理だったんです。その代わり、彼に私の実家に来てもらいました。彼自身は『大丈夫』って言っていたんですが、全然ダメでした。私の両親との関係が気まずかったようで、気が休まらなかったみたい。だから、彼のうつは一向に治る兆しを見せませんでした」

――出産直後から別居していたんですね。

「翌年の6月ぐらいまで、8カ月ほど私は実家にいました。彼は相変わらずうつでした。どちらかの実家に3人で住もうとしたんですが、双方とも相手の親とか家がダメでしたね」

――3人が一家水入らずで暮らすことはなかったんですか?

「私が実家を出た後、3人で暮らしました。彼の両親に引っ越し費用を何十万円か借りて、都下に引っ越したんです」

――それは、うまくいきましたか?

「むしろ逆です。言い合いになって、怒りで打ち震えるようになって、双方が物を投げたりしました。当時、彼はまだうつ状態で無職。もともと無気力なんですが、家事や育児を何もしてくれない。自分だけ先にご飯を食べ終わると、スマホのゲームをしだすんです。そして夜中になると、借りてきたDVDを彼はひとりで見ていました。そんな感じなので、どんどん仲が悪くなっていって、一緒に住み始めて半年ぐらいで結局、別居したんです」

――最終的に、別れようと思ったきっかけは何ですか?

「一昨年の12月にすごく仲が悪くなって、寝るのも別々の状態となりました。その頃から子どもが夜中に吐くようになってしまって、いま思えば自家中毒だったんでしょう。一方、彼は寝たら絶対に起きない人なので、『(家事も子どもの世話も)なんで私ばっかりやらなきゃならないのよ』っていう気持ちが強まっていきまして、彼の失敗一つひとつに対し、怒りを募らせていったんです。

 それで、年明けから、お互いにすごい剣幕でののしり合いました。そんなことが毎日続いた果てに、彼が実家に帰ってしまったんです。その間も、ずっと子どもの具合が悪かった。私はひとりで毎日、具合悪い子どもを看て、吐いて汚れた服を洗濯して……という繰り返しの生活を送ったんです。

 それで1回、母親にヘルプに来てもらいました。そのとき『今後どうするか、はっきり決めたら?』と言われたんです。それで私、はたと考えました。彼が戻ってきたとしても、やり直せるかどうかわからない――って。そして、市役所に電話で離婚して引っ越したい旨を伝え、支援を受けられるか相談に乗ってもらいました。可能とのことだったので、後日、訪問して、その場で離婚の決意を固めたという感じです」

――離婚することを、彼にはどうやって切り出したんですか?

「彼が戻ってきたときに言いました。ちょうど私が実家に帰る予定にしていたタイミングです。去年の1月中旬のことでした。以前の夫婦ゲンカで、離婚という話が出ていたので、離婚届はすでに記入と捺印が終わっていました。それを最終的には、彼が市役所に持っていったんです」

――そのとき、養育費や親権、面会といった話はしましたか?

「親権は私。養育費は『経済力がないので払いません』と彼は言っていた。『私が受け取るんじゃなくて、子どもに受け取る権利があるんだ』とは何度も言ったんですけどね。すると、彼は私に『子どもに一生会わせたくないって言うんなら、一生会わなくてもいい』とまで言いました。振り返ると、そんな言葉が出てくるぐらいにお互い仲が悪かったんだなって思います」

――その後は、お子さんと2人で暮らしたんですか?

「そうです。実家のそばのアパートに、息子と2人で引っ越してきました。まだ1歳半頃でした。私は働きたいんですが、息子は怒ったり泣いたりが、すごく激しいんです。

 ほどなく父が交通事故で寝たきりになり、母親を頼ることもできなくなってしまいました。かといって保育園は激戦区なので、なかなか入れない。そんなわけで、多動気味の息子の面倒を一日中ずっと見てるだけの毎日です。

 一方、彼は、仕事でペアを組む15歳くらい年上の女性と付き合うようになったそうです。収入も安定し始めたんだとか」

――離婚後の面会は、どうしていますか?

「会わせたほうがいいのかなという気持ちと、私ばっかり大変な思いをしているんだから会わせたくないという気持ちとの間を揺れ動いていました。でも、やっぱり子どもにとっては実の父親なので、たまには会わせたほうがいいかなって思ったんです。

 昨年10月の誕生日には、彼から『息子に会いたい』と連絡があったので、会わせました。別れて以来、養育費を一銭も払ってないのに、虫がよすぎますけどね。

 3人で食事に行って、その費用は全部払ってくれました。今年の5月ぐらいに、一度子どもを預かってもらったことがあるんですが、そのときはおもちゃを買ってくれて、お金も少しもらいました。そのぐらいです。金額は3万円でした」

――今後は、どのような形で会わせますか?

「今年も息子の誕生日が近づいてきているので、また連絡があるんじゃないですか? あと、面会ではないんですが、息子の世話で私がいっぱいいっぱいになるときがあるので、そんなときは『預かって』ほしいって、こちらから連絡します。実際には『(預かる代わりに)今後はお金で』と言われて、一度断られましたけどね。ひどいでしょ。

 その後、私から彼に連絡をしたんです。するとまた子どものおもちゃを持って数日後に来てくれて、ちょっと話をしたり、数時間うちにいましたね。やっぱり子どもが覚えてるので、実の父親が一番です。とはいっても、彼とやり直そうっていう気持ちはまったくないです。彼に新たな相手がいるということもありますから、私が望んでも無理なんですけどね」

――父親のことを、これからどうやって子どもに伝えようと考えていますか?

「彼が帰った後、息子に『お父さんは?』って聞かれたんです。『お父さんはいつもいないよ。ときどき会うだけでしょ』って答えました。息子はふーん、という感じで、それ以上特に何もなかった。今後も、そのときと同じように答えるつもりです」

――これから子育てのプランはあったりしますか?

「養育費は、可能なら欲しいです。彼も仕事がノッてきたそうで、払える状態みたいですからね。息子が大きくなってきて、手がかからなくなったから、そろそろ働き始めないと、とも思ってます。

 息子を成長させるには、やはり男性との関わりがあったほうがいいでしょう。だから、息子と遊んでくれる男の人がいてくれたらなって思います。それは新しいパートナーでもいいし、恋愛抜きの関係で、子どもと一緒に遊んでくれるだけの人でもいい。今、私に交際している相手はいないですけどね」

 別れのショックから立ち直りつつある松田さんは、問題点を冷静に見つめつつ、将来のことを前向きに語った。彼女に良い未来が切り開けることを、筆者は心から願っている。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

<取材協力者募集>
この連載の取材にご協力いただける方を募集しています。夫と別居または離婚して子どもを育てているお母さん、子どもと夫の面会状況についてお話をお聞かせいただけると幸いです。下記フォームよりご応募ください。

ご応募はこちらから

「一生会わなくてもいい」「養育費は払わない」“産後うつ”になった夫と離婚【別れた夫にわが子を会わせる?】

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第9回 松田亜美さん(仮名・38歳)後編

 中性的な雰囲気を持つ9歳年下のヨガ教室アシスタントの男性と、付き合い始めて半年で妊娠。結婚して彼の実家で同居を始める。出産に備えて、夫はがむしゃらに働いたが、アルバイトを掛け持ちして、疲労でうつになってしまう。

(前編はこちら)

■妻ではなく夫が「産後うつ」になる

 彼に覇気はなく、発言はマイナス思考。病院には行っていたが、薬は飲んでいなかった。自分の殻に閉じこもり、ゲームばかりするように。そんなとき、松田さんは出産を迎える。

「10月末の出産でした。彼は立ち会ってくれました。双方の両親に、助産院の場所を連絡したんですけど、陣痛が急に強くなり、5時間ぐらいで生まれてしまって、間に合わなかった。産んだとき、彼には『ありがとう』って、お礼を言われました」

――生まれた後、3人はどこで暮らしたんですか? 彼のうつは回復しましたか?

「産後、私は実家で過ごしました。肥立ちのキツイ時期に、彼の両親と過ごすのは精神的に無理だったんです。その代わり、彼に私の実家に来てもらいました。彼自身は『大丈夫』って言っていたんですが、全然ダメでした。私の両親との関係が気まずかったようで、気が休まらなかったみたい。だから、彼のうつは一向に治る兆しを見せませんでした」

――出産直後から別居していたんですね。

「翌年の6月ぐらいまで、8カ月ほど私は実家にいました。彼は相変わらずうつでした。どちらかの実家に3人で住もうとしたんですが、双方とも相手の親とか家がダメでしたね」

――3人が一家水入らずで暮らすことはなかったんですか?

「私が実家を出た後、3人で暮らしました。彼の両親に引っ越し費用を何十万円か借りて、都下に引っ越したんです」

――それは、うまくいきましたか?

「むしろ逆です。言い合いになって、怒りで打ち震えるようになって、双方が物を投げたりしました。当時、彼はまだうつ状態で無職。もともと無気力なんですが、家事や育児を何もしてくれない。自分だけ先にご飯を食べ終わると、スマホのゲームをしだすんです。そして夜中になると、借りてきたDVDを彼はひとりで見ていました。そんな感じなので、どんどん仲が悪くなっていって、一緒に住み始めて半年ぐらいで結局、別居したんです」

――最終的に、別れようと思ったきっかけは何ですか?

「一昨年の12月にすごく仲が悪くなって、寝るのも別々の状態となりました。その頃から子どもが夜中に吐くようになってしまって、いま思えば自家中毒だったんでしょう。一方、彼は寝たら絶対に起きない人なので、『(家事も子どもの世話も)なんで私ばっかりやらなきゃならないのよ』っていう気持ちが強まっていきまして、彼の失敗一つひとつに対し、怒りを募らせていったんです。

 それで、年明けから、お互いにすごい剣幕でののしり合いました。そんなことが毎日続いた果てに、彼が実家に帰ってしまったんです。その間も、ずっと子どもの具合が悪かった。私はひとりで毎日、具合悪い子どもを看て、吐いて汚れた服を洗濯して……という繰り返しの生活を送ったんです。

 それで1回、母親にヘルプに来てもらいました。そのとき『今後どうするか、はっきり決めたら?』と言われたんです。それで私、はたと考えました。彼が戻ってきたとしても、やり直せるかどうかわからない――って。そして、市役所に電話で離婚して引っ越したい旨を伝え、支援を受けられるか相談に乗ってもらいました。可能とのことだったので、後日、訪問して、その場で離婚の決意を固めたという感じです」

――離婚することを、彼にはどうやって切り出したんですか?

「彼が戻ってきたときに言いました。ちょうど私が実家に帰る予定にしていたタイミングです。去年の1月中旬のことでした。以前の夫婦ゲンカで、離婚という話が出ていたので、離婚届はすでに記入と捺印が終わっていました。それを最終的には、彼が市役所に持っていったんです」

――そのとき、養育費や親権、面会といった話はしましたか?

「親権は私。養育費は『経済力がないので払いません』と彼は言っていた。『私が受け取るんじゃなくて、子どもに受け取る権利があるんだ』とは何度も言ったんですけどね。すると、彼は私に『子どもに一生会わせたくないって言うんなら、一生会わなくてもいい』とまで言いました。振り返ると、そんな言葉が出てくるぐらいにお互い仲が悪かったんだなって思います」

――その後は、お子さんと2人で暮らしたんですか?

「そうです。実家のそばのアパートに、息子と2人で引っ越してきました。まだ1歳半頃でした。私は働きたいんですが、息子は怒ったり泣いたりが、すごく激しいんです。

 ほどなく父が交通事故で寝たきりになり、母親を頼ることもできなくなってしまいました。かといって保育園は激戦区なので、なかなか入れない。そんなわけで、多動気味の息子の面倒を一日中ずっと見てるだけの毎日です。

 一方、彼は、仕事でペアを組む15歳くらい年上の女性と付き合うようになったそうです。収入も安定し始めたんだとか」

――離婚後の面会は、どうしていますか?

「会わせたほうがいいのかなという気持ちと、私ばっかり大変な思いをしているんだから会わせたくないという気持ちとの間を揺れ動いていました。でも、やっぱり子どもにとっては実の父親なので、たまには会わせたほうがいいかなって思ったんです。

 昨年10月の誕生日には、彼から『息子に会いたい』と連絡があったので、会わせました。別れて以来、養育費を一銭も払ってないのに、虫がよすぎますけどね。

 3人で食事に行って、その費用は全部払ってくれました。今年の5月ぐらいに、一度子どもを預かってもらったことがあるんですが、そのときはおもちゃを買ってくれて、お金も少しもらいました。そのぐらいです。金額は3万円でした」

――今後は、どのような形で会わせますか?

「今年も息子の誕生日が近づいてきているので、また連絡があるんじゃないですか? あと、面会ではないんですが、息子の世話で私がいっぱいいっぱいになるときがあるので、そんなときは『預かって』ほしいって、こちらから連絡します。実際には『(預かる代わりに)今後はお金で』と言われて、一度断られましたけどね。ひどいでしょ。

 その後、私から彼に連絡をしたんです。するとまた子どものおもちゃを持って数日後に来てくれて、ちょっと話をしたり、数時間うちにいましたね。やっぱり子どもが覚えてるので、実の父親が一番です。とはいっても、彼とやり直そうっていう気持ちはまったくないです。彼に新たな相手がいるということもありますから、私が望んでも無理なんですけどね」

――父親のことを、これからどうやって子どもに伝えようと考えていますか?

「彼が帰った後、息子に『お父さんは?』って聞かれたんです。『お父さんはいつもいないよ。ときどき会うだけでしょ』って答えました。息子はふーん、という感じで、それ以上特に何もなかった。今後も、そのときと同じように答えるつもりです」

――これから子育てのプランはあったりしますか?

「養育費は、可能なら欲しいです。彼も仕事がノッてきたそうで、払える状態みたいですからね。息子が大きくなってきて、手がかからなくなったから、そろそろ働き始めないと、とも思ってます。

 息子を成長させるには、やはり男性との関わりがあったほうがいいでしょう。だから、息子と遊んでくれる男の人がいてくれたらなって思います。それは新しいパートナーでもいいし、恋愛抜きの関係で、子どもと一緒に遊んでくれるだけの人でもいい。今、私に交際している相手はいないですけどね」

 別れのショックから立ち直りつつある松田さんは、問題点を冷静に見つめつつ、将来のことを前向きに語った。彼女に良い未来が切り開けることを、筆者は心から願っている。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

<取材協力者募集>
この連載の取材にご協力いただける方を募集しています。夫と別居または離婚して子どもを育てているお母さん、子どもと夫の面会状況についてお話をお聞かせいただけると幸いです。下記フォームよりご応募ください。

ご応募はこちらから

9歳下男性と交際半年で妊娠。義父母と同居するも夫がうつに……【別れた夫にわが子を会わせる?】

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第9回 松田亜美さん(仮名・38歳)前編

「妊娠して結婚して出産して、ちょっとしたら離婚しちゃったみたいな感じです。いま振り返ると、凝縮された3年間でした。知り合いの占い師に『天中殺だ』って言われてたんですが、当たってましたね」

 中央線の某駅近くにある日当たりのいい1DKで、松田亜美さんは当時を振り返った。彼女は、まもなく3歳になる、活発な男の子を育てている。4年前、独身OLだった彼女は、「このまま結婚せずに、年を取っていくのかな」と思っていたというから、人生が劇的に動いた3年間だったことがわかる。いったい何があったのか?

■ヨガ教室のアシスタントと恋に落ちる

「5年前、ヨガ教室に通いだしたんです。教えるのは女の先生で、彼はそのアシスタント。教室に通っている生徒は当時、全員女性で、そのクラスにいた男性はひとりだけでした。その男性が後の夫です。年は私よりも9歳下で、中性的な雰囲気の人でした」

――女の園に男がひとり。そんなところに男性がいて、違和感はなかったんですか?

「ヨガの練習をしているとき、先生やアシスタントが『脚上げて』とか『ひねって』とか言いながら生徒の体を触って、ポーズを矯正することがあるんです。アシスタントの彼も生徒の体を触るんですけど、中性的な人だってこともあって、誰も違和感を持たなかった。彼は体の仕組みにすごく詳しいし、ヨガのポーズならなんでもできちゃう人なので、触られるのを嫌がるどころか、みんな感謝していました。生徒の信望は厚かったです」

――松田さんが彼を好きになったきっかけは何ですか?

「ヨガに専念したくて会社を辞めたんです。オーガニック製品を扱っているその会社は、商品も素敵だし、働いていて楽しかった。だけど体力勝負だったり、休みが取りづらかったりして、行くのがつらくなっていって、衝動的に辞めたんです。でも、辞めたら途端に、お金のことが心配になってきた。そこで彼に相談したら、『今、貯金があるのに、ないって思い込んでる。ネガティブなことにばかり気持ちが向いてるよ』って言われて、はっとしました。それがきっかけで尊敬の気持ちが、恋心へと転化したんです。それで、私から『お付き合いしてもらえませんか』って告白したんです。ふられましたけどね」

――なぜふられたんですか? 中性的とのことですけど、もしかするとゲイ?

「ゲイではないです。女性と付き合った経験がほとんどなかったらしくて、男女交際に興味が持てなかったとか。つまり根本的なところで、人に心を開けてなかったんです。彼が小さい頃、母親が2回離婚した関係で、親戚中をたらい回しにされた時期があったと聞きました。一方、彼がヨガを始めたのも、母親の影響だと話していましたね。良くも悪くも、彼は母親の影響を強く受けて生きてきたんです」

――彼自身は稼げていたんですか?

「ヨガの先生というのは、ほんとにピンキリ。そのうち彼は、収入的にはキリのほう。先生のアシスタントをしたり、自分で教えたりするんですが、収入はフリーター以下。だけど、体の仕組みについてはすごく詳しい。ちょっと体を触っただけでも、ここの筋肉が張ってるとか、たちまち当ててしまうんです。ただ、そうした技術の高さが、収入につながっていかなかった」

――ところで、ふられた後はどうなったんですか?

「教室で彼と話し込んでいるうちに、波長が合うようになりまして、気がつけば交際を始めていました。4年前の10月頃のことです。いったん付き合いだすと彼は積極的になり、彼の方から強く結婚を望むようになりました。経済的なことで不安はありましたが、私も結婚について彼の考えに基本的には賛成。そして、付き合いだして半年ほどで妊娠しました」

 結婚を決めた2人は、双方の両親に報告する。

「うちの両親に、妊娠したことを話したんです。結婚したいということも含めて。すると私の父は『ハーッ』ってため息をついてから、『なんでわざわざ苦労しなきゃいけないんだ!』って言いました。彼の経済力のなさを知っていたので、当然かもしれませんが。

 一方、彼の父親は彼の経済力や労働意欲のなさを知っているので、私に対して恐縮しているというか、将来のことを心配していました。『責任は取ります』と、きっぱりお話しされたのを覚えています」

――「責任」って何ですか? 「堕胎の費用は出す」とか、そんな話?

「違います。彼に生活力がないので、実家に一緒に住むということです。家賃はお金がかかりますからね。川崎にある彼の実家に同居することになりました。そこは3DKのマンション。もともと彼が自室として使っていた、6畳の部屋をあてがわれました。もちろん彼も同じ部屋。棚があって、布団を敷いたらもういっぱいという狭さでした」

――その後は、ずっと同居したんですか?

「基本はそうです。だけど、うまくいかなかった。お母さんは、私が掃除機をかけた後、わざわざ、また掃除機をかけたりしてるんです。悪気はないかもしれないけど、いい気はしないですよね。

 しかも、ご両親は彼をダメな息子と見なしているようで、きつい言い方で叱るんです。それがすごく嫌でした。好きで一緒になった人が、目の前で叱られるんですから。そうしたことの積み重ねから、そのうち義父母と一緒に住むのが耐えられなくなってきたんです。それで、川崎の彼の家と都内の自分の実家との間を、行ったり来たりするようになりました。翌年の8月中旬には、出産休暇に入ったんです」

――当時、彼はどんな毎日を送っていたんですか?

「かなりがむしゃらに働いていました。朝5時に起きて、6時から都内でヨガを指導して、それで午後、川崎に戻ってきて、夕方から午後11時まで、地元のジムで働いてました。その一方で、子どもの体の動きに関するDVDを借りてきて、『こうやって寝返りを打つんだ』と勉強するなど、育てる気満々の様子でした。

 ところが、そんなペースで働いていたせいか、彼は体調を崩しちゃった。アルバイト扱いなので、いくら働いても自立できないという徒労感にさいなまれたみたいです。そうしたことから、徒労感と疲労とでパンクし、うつになっちゃったんです。私が臨月を迎える頃です」
(後編へ続く)

子どもが「パパ、もうやめて」――復縁するも、夫の暴力は止まらず【別れた夫にわが子を会わせる?】

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第8回 田中千恵美さん(仮名・30代)後編

 友人の紹介で英会話講師のイギリス人と知り合い、真面目な人柄に惹かれて交際を始めた田中千恵美さん。妊娠を機に結婚したものの、夫の仕事に対する田中さんの両親の口出しなどをきっかけに、彼が暴力を振るうようになる。臨月に近い頃、夫にレイプされた田中さんは、彼を説得し、精神科へ連れて行く。投薬治療により、しばらくは落ち着いたものの、子どもが1歳のときに、夫がナイフを振り回したため警察沙汰になり、別居することになった。
(前編はこちら)

■カウンセラーの警告を無視して、面会交流を始めてしまう

 2人は復縁に向け、カウンセリングを受け始める。

「担当してくれたカウンセラーの先生には『お互いの気持ちがちゃんと落ち着くまでは、一緒に時間を過ごすのはカウンセリングの間だけ。それ以外では会っちゃダメ』と警告されていました。だけど、彼のほうが我慢できずに電話をかけてきて、『子どもに会いたい』って電話口で泣きながら言うんです。それを聞いて私、たまらなくなりました。同居中、彼は父親として、すごくしっかりやってくれてましたし、子どものことは溺愛してましたからね。子どもと会えないことは地獄の苦しさでしょう。子どもに直接手を出したわけじゃないですし、何より父子関係が良好だったという事情から、わざわざ引き離す必要はないって思ったんです」

 田中さんはカウンセラーの警告よりも、彼に対しての心配が勝ってしまったようだ。面会交流を勝手に始めてしまう。

「なんだか私、彼のことがいたたまれなくなって、電話を切った後、彼にメールしたんです。『毎週末の日中、会っていいよ。ただし家には入れないし、私とも引き渡しのとき以外は直接話さないこと』って。以来、週末の朝、彼がやってくるようになりました。ドア越しに『行ってらっしゃい。午後×時になったら戻ってきて』って感じで子どもを送り出しました」

――面会させて大丈夫だったのですか? 約束は破られませんでしたか?

「私が取り決めた面会ルールもちゃんと守って、夕方には帰してくれるんです。もちろん、彼は平日に保育園とかに勝手に会いに行ったりもしませんでしたしね。給料が25万円しかないのに、養育費を毎月10万円振り込んでくれていたこともうれしかった。そうした信用の積み重ねで、彼への警戒心が緩んでいきました」

 その後、田中さんは、予定よりも早い復縁を決意してしまう。

「カウンセリングを受けている効果なのか、別居直後よりも、彼はだんだんと穏やかになってきてました。と同時に、健康状態がよくないのか、日を追うごとに痩せていったんです。日々、私が彼と子どもを自由に会えなくしていることで、こうなってしまったのかなって、ちょっと自分を責めるようになりました。暴力を振るわれたのにそんなふうに思うんですから、彼をまだ愛してたんでしょうね。

 そうして1年後、私は同居を了承しました。カウンセラーからは『まだ早いからダメ。同居はやめなさい』と、きつく言われました。5年ぐらいカウンセリングを受けてからようやく復縁というのが、一般的らしいんです。だけど私、カウンセラーの警告を聞き入れず、一緒に住み始めたんです」

――復縁後の生活は、どうだったのですか?

「申し上げたように彼はきちょうめんで真面目でした。一緒にいたらいたで楽しい。はじめの半年間ほどは穏やかに過ごしていました。だけど、また3カ月に1回ほどの暴力が始まりました。壁を蹴って穴を開けたり、私を殴ったりと、爆発するんです。しかも、夜の営みもほぼ強制的で、避妊もなかった。それで、もう1人デキちゃったんです。また女の子でした。カウンセラーのアドバイスを聞かずに復縁をした手前、仲良くやっている素振りを見せるしかありませんでした。

 上の子のときと違ったのは、育児に熱心でなかったということ。長女のときは夜通しミルクをあげてくれたのに、下の子のときは『夜泣きするから寝られない』と言って、カッとするだけでした」

――再び別居に至ったのは、なぜでしょうか?

「下の子が1歳ぐらいになったときに、彼が殴りかかってきたんです。子どもに危害が及んだら大変だと思って、下の子にとっさに覆いかぶさって、背中を殴られ続けたんです。すると上の子が『パパ、もうやめて』って言いながら私に覆いかぶさって、私を守ってくれたんです……」

 そこまで言ったところで田中さんは、それまでこらえていた涙が、両方の目からあふれ出し、「ご、ごめんなさい」と言ってハンカチで目を押さえた。

――上の子は大丈夫だったんですか?

「上の子に手が出る前に、彼は手を止めました。暴力がやんで、ほっとしました。だけど、私、そのとき悟ったんです。『もうダメだな』って。『もう離婚しよう』って。それでまた家を出て行ってもらいました」

 以来、田中さんは子どもたち2人と暮らしている。住んでいるところは、独身時代から住み続けているマンションだ。彼には週1回のペースで子どもに会わせている。復縁は、もはや考えていない。

――離婚はしたのですか?

「いいえ、まだです。折り合いがつかないですから。というのも彼、『離婚したくない。まだやり直せる。子どもたちと一緒にいたい』って、電話やメールで伝えてくるんです。私自身、早く離婚したいんですが、調停をしたりして無理に進めようとは思いません。家を知られてますからね。弁護士の書いた主張を読んだ彼がカッとしたら、何をするかわかったものじゃありません。とにかく彼を怒らせないこと。そうして穏便に時が過ぎ去るのを待つしかない。3年たつと、離婚要件が満たされるそうですからね」

――父親のことは、子どもたちにどういうふうに伝えているのですか?

「聞かれたときだけ答えます。ちなみに、上の子に聞かれたときには『ちょっとパパは心の病気なんだよ。心の病気でお薬を飲んだほうがいいんだけど、イライラしちゃうときがあるんだよ』とか、そんなふうに言ってます。下の子はね、まだ小さいし、私が彼に殴られてるのを見てないので、だからあんまり、まだわかってない」

――彼は子どもたちに、田中さんのことをどう言ってるのでしょうか?

「悪く言ってるようですね。面会から帰って来た後、『パパが殴ったのは、ママのせいなんだね』って、上の子が言ったことがありましたから。それを聞いても私、彼のことを悪くは言いません。優しく『ママも悪いときがあるんだよ』って言うだけです」

――離婚が成立しても会わせますか?

「それは続けるつもりです。イギリス人だから子育てには一家言持っていて相談に乗ってもらえるし、教育とか子育てといった点で、いてくれたほうが何かと助かりますしね。夫としてはダメですけど、パパとしての彼は尊重してるんです。別れたからといって、切り離す必要はないのかなって思います」

――最後に、今後の展望は?

「離婚したいという気持ちは、ぶれてないです。愛情は、もはやないです。別に恋人を作ってくれたら楽に離婚できるんですが、そうはうまくいきませんね。だから、事を荒立てずに、穏便に3年待つしかないですね。子どもが元気に育ってくれているのがなんといっても励みになるし、元気のもとなんです。子どもたちのために頑張るしかないですね」

 暴力を振るわれ続けても、田中さんの彼への愛は続き、子どもが2人できた。そんな彼への愛情は、もはやなくなってしまった。しかし、田中さんと彼の愛情は、2人の子どもたちに今後ずっと絶えることなく注がれていく。それは間違いないだろう。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

子どもが「パパ、もうやめて」――復縁するも、夫の暴力は止まらず【別れた夫にわが子を会わせる?】

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第8回 田中千恵美さん(仮名・30代)後編

 友人の紹介で英会話講師のイギリス人と知り合い、真面目な人柄に惹かれて交際を始めた田中千恵美さん。妊娠を機に結婚したものの、夫の仕事に対する田中さんの両親の口出しなどをきっかけに、彼が暴力を振るうようになる。臨月に近い頃、夫にレイプされた田中さんは、彼を説得し、精神科へ連れて行く。投薬治療により、しばらくは落ち着いたものの、子どもが1歳のときに、夫がナイフを振り回したため警察沙汰になり、別居することになった。
(前編はこちら)

■カウンセラーの警告を無視して、面会交流を始めてしまう

 2人は復縁に向け、カウンセリングを受け始める。

「担当してくれたカウンセラーの先生には『お互いの気持ちがちゃんと落ち着くまでは、一緒に時間を過ごすのはカウンセリングの間だけ。それ以外では会っちゃダメ』と警告されていました。だけど、彼のほうが我慢できずに電話をかけてきて、『子どもに会いたい』って電話口で泣きながら言うんです。それを聞いて私、たまらなくなりました。同居中、彼は父親として、すごくしっかりやってくれてましたし、子どものことは溺愛してましたからね。子どもと会えないことは地獄の苦しさでしょう。子どもに直接手を出したわけじゃないですし、何より父子関係が良好だったという事情から、わざわざ引き離す必要はないって思ったんです」

 田中さんはカウンセラーの警告よりも、彼に対しての心配が勝ってしまったようだ。面会交流を勝手に始めてしまう。

「なんだか私、彼のことがいたたまれなくなって、電話を切った後、彼にメールしたんです。『毎週末の日中、会っていいよ。ただし家には入れないし、私とも引き渡しのとき以外は直接話さないこと』って。以来、週末の朝、彼がやってくるようになりました。ドア越しに『行ってらっしゃい。午後×時になったら戻ってきて』って感じで子どもを送り出しました」

――面会させて大丈夫だったのですか? 約束は破られませんでしたか?

「私が取り決めた面会ルールもちゃんと守って、夕方には帰してくれるんです。もちろん、彼は平日に保育園とかに勝手に会いに行ったりもしませんでしたしね。給料が25万円しかないのに、養育費を毎月10万円振り込んでくれていたこともうれしかった。そうした信用の積み重ねで、彼への警戒心が緩んでいきました」

 その後、田中さんは、予定よりも早い復縁を決意してしまう。

「カウンセリングを受けている効果なのか、別居直後よりも、彼はだんだんと穏やかになってきてました。と同時に、健康状態がよくないのか、日を追うごとに痩せていったんです。日々、私が彼と子どもを自由に会えなくしていることで、こうなってしまったのかなって、ちょっと自分を責めるようになりました。暴力を振るわれたのにそんなふうに思うんですから、彼をまだ愛してたんでしょうね。

 そうして1年後、私は同居を了承しました。カウンセラーからは『まだ早いからダメ。同居はやめなさい』と、きつく言われました。5年ぐらいカウンセリングを受けてからようやく復縁というのが、一般的らしいんです。だけど私、カウンセラーの警告を聞き入れず、一緒に住み始めたんです」

――復縁後の生活は、どうだったのですか?

「申し上げたように彼はきちょうめんで真面目でした。一緒にいたらいたで楽しい。はじめの半年間ほどは穏やかに過ごしていました。だけど、また3カ月に1回ほどの暴力が始まりました。壁を蹴って穴を開けたり、私を殴ったりと、爆発するんです。しかも、夜の営みもほぼ強制的で、避妊もなかった。それで、もう1人デキちゃったんです。また女の子でした。カウンセラーのアドバイスを聞かずに復縁をした手前、仲良くやっている素振りを見せるしかありませんでした。

 上の子のときと違ったのは、育児に熱心でなかったということ。長女のときは夜通しミルクをあげてくれたのに、下の子のときは『夜泣きするから寝られない』と言って、カッとするだけでした」

――再び別居に至ったのは、なぜでしょうか?

「下の子が1歳ぐらいになったときに、彼が殴りかかってきたんです。子どもに危害が及んだら大変だと思って、下の子にとっさに覆いかぶさって、背中を殴られ続けたんです。すると上の子が『パパ、もうやめて』って言いながら私に覆いかぶさって、私を守ってくれたんです……」

 そこまで言ったところで田中さんは、それまでこらえていた涙が、両方の目からあふれ出し、「ご、ごめんなさい」と言ってハンカチで目を押さえた。

――上の子は大丈夫だったんですか?

「上の子に手が出る前に、彼は手を止めました。暴力がやんで、ほっとしました。だけど、私、そのとき悟ったんです。『もうダメだな』って。『もう離婚しよう』って。それでまた家を出て行ってもらいました」

 以来、田中さんは子どもたち2人と暮らしている。住んでいるところは、独身時代から住み続けているマンションだ。彼には週1回のペースで子どもに会わせている。復縁は、もはや考えていない。

――離婚はしたのですか?

「いいえ、まだです。折り合いがつかないですから。というのも彼、『離婚したくない。まだやり直せる。子どもたちと一緒にいたい』って、電話やメールで伝えてくるんです。私自身、早く離婚したいんですが、調停をしたりして無理に進めようとは思いません。家を知られてますからね。弁護士の書いた主張を読んだ彼がカッとしたら、何をするかわかったものじゃありません。とにかく彼を怒らせないこと。そうして穏便に時が過ぎ去るのを待つしかない。3年たつと、離婚要件が満たされるそうですからね」

――父親のことは、子どもたちにどういうふうに伝えているのですか?

「聞かれたときだけ答えます。ちなみに、上の子に聞かれたときには『ちょっとパパは心の病気なんだよ。心の病気でお薬を飲んだほうがいいんだけど、イライラしちゃうときがあるんだよ』とか、そんなふうに言ってます。下の子はね、まだ小さいし、私が彼に殴られてるのを見てないので、だからあんまり、まだわかってない」

――彼は子どもたちに、田中さんのことをどう言ってるのでしょうか?

「悪く言ってるようですね。面会から帰って来た後、『パパが殴ったのは、ママのせいなんだね』って、上の子が言ったことがありましたから。それを聞いても私、彼のことを悪くは言いません。優しく『ママも悪いときがあるんだよ』って言うだけです」

――離婚が成立しても会わせますか?

「それは続けるつもりです。イギリス人だから子育てには一家言持っていて相談に乗ってもらえるし、教育とか子育てといった点で、いてくれたほうが何かと助かりますしね。夫としてはダメですけど、パパとしての彼は尊重してるんです。別れたからといって、切り離す必要はないのかなって思います」

――最後に、今後の展望は?

「離婚したいという気持ちは、ぶれてないです。愛情は、もはやないです。別に恋人を作ってくれたら楽に離婚できるんですが、そうはうまくいきませんね。だから、事を荒立てずに、穏便に3年待つしかないですね。子どもが元気に育ってくれているのがなんといっても励みになるし、元気のもとなんです。子どもたちのために頑張るしかないですね」

 暴力を振るわれ続けても、田中さんの彼への愛は続き、子どもが2人できた。そんな彼への愛情は、もはやなくなってしまった。しかし、田中さんと彼の愛情は、2人の子どもたちに今後ずっと絶えることなく注がれていく。それは間違いないだろう。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

宗教にハマッたイギリス人の夫が暴行、臨月間際で馬乗りに……【別れた夫にわが子を会わせる?】

 『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第8回 田中千恵美さん(仮名・30代)前編

 クリニックに勤務する田中千恵美さんは30代。7歳と4歳という2人の女の子を、両親のバックアップを得ながら育てている。外国人の夫とは一緒に暮らしていない。夫とはどこで出会い、なぜ結婚し、そして別れてしまったのか?

■宗教にハマっている英会話講師の誠実さに惹かれ

「別居している夫は、イギリス出身の白人です。年は私と同じぐらい。職業は英会話学校のバイト講師です。彼とは日本で、友達のツテで知り合いました。10年ほど前のことだから、20代後半の頃。私自身、留学したことがあって英語が話せるので、出会ったときから意思疎通にはまったく問題がなかったです。友人として彼と付き合うようになってわかったのは、ナチュラル系といいますか、“健全なヒッピー”という感じの人だということ。お酒は飲まないし、タバコも吸わない。カルトというほどではないですけど宗教にハマっていて、バイブルのようなモノを熱心に読んだり、瞑想にふけったりしているんです」

 彼女はなぜ、そんな変わった外国人とお付き合いすることになったのだろうか?

「彼には、相談できるような友人がいなかった。異国で1人きりって大変じゃないですか。だから、かわいそうだと思って、何かと気にかけてあげていたんです。すると彼に熱烈に好かれてしまい、交際を申し込まれました。私には、そのとき恋愛感情はありませんでしたから、『真剣にお付き合いしたいんだったら、その証拠を見せてほしい』って無理難題を彼に言ってみたんです」

 すると、彼は「見せたいものがある」と言って、数日後、田中さんの前に現れた。

「血液検査の結果を持ってきたんです。性病はもちろん、ほかの病気もシロ。ロマンティックさのかけらもないですよね。だけど、むしろそこがよかった。彼のまっすぐな行動に胸を打たれまして、信頼感といいますか、はっきり言うと、恋愛感情を持つようになったんです。それ以来、彼と真剣に交際するようになりました」

 田中さんは彼と同居を始める。資産家の両親に買ってもらい、彼女が一人住まいをしていたマンション。そこに彼が転がり込んできた。

「同居して思ったのは、彼がとても誠実で真面目な人だということ。家事は積極的にやってくれますし、きちょうめん。それでいてメンタルが弱い一面もありました。イライラしてパニックになったり、物に当たったり。ときには自分の腕をナイフで切ったりするんです」

――彼のメンタルの弱さは、どこからきていたのでしょうか?

「生い立ちに一因があるのかもしれません。彼はイギリスの田舎町出身なんです。住んでいるのは白人ばかり。外部の人が入ってきたら警戒するという、保守的で閉鎖的な土地柄なんです。父親は元軍人。冷戦の時代に、国内外の基地を転々としていたらしいです。一時期、アルコール依存症で、彼は父親からよく暴力を振るわれていたそうです。向こうの両親によると、小さい頃、ちょっと難しい子だったようですし、高校時代はいじめられていたそうです。実際、彼本人から『ずっと自殺願望があった』と聞いています。

 その後、彼は2000年ぐらいに来日します。生きづらさを克服するために、世界中のあらゆる宗教に興味を持つようになったそうで、そのひとつが仏教だったんです。そこから、東洋の文化、そして日本という国へと興味が広がっていったのだとか」

――同棲から結婚に至ったきっかけは何でしたか?

「夜の営みのとき、宗教上の理由なのか、避妊具の装着を毎回拒否されました。そうして回を重ねているうちに、自然と子どもがデキてしまったんです。妊娠がわかったとき、そのまま子どもを産むかどうか、頭を抱えました。仕事でキャリアを積んでいきたいって思っていたからです。それですぐ、妊娠したことを彼に伝えると、彼はたちまち血相を変えて言うんです。『千恵美とおなかの子どもを殺して、俺も死ぬ!』って。私、まだ別に堕ろすとは言っていないのにですよ。

 怖くなったり、嫌いになったりしなかったのかって? それはないです。むしろ、その真剣さに惚れ直しました。生まれてくる子どもに、それだけ愛情を注いでくれているんだって、わかりましたから。それで私、産む決心がついたんです」

 その後、2人の人生は急展開していく。

「出産より先に、結婚式を行いました。式場や日取りを決めたり、彼の両親をイギリスから呼んだり。身重なのに、大急ぎで準備して大変でした。

 その後、入籍して、晴れて夫婦となったんですが、前途は多難でした。彼がそれまで勤めていた英会話学校を辞めたり、別の学校に移籍したりと、仕事が不安定だったんです。しかも、そこにうちの両親が介入してきて、『もっと待遇のいいところに勤めなさい』って、やぶから棒にわざわざ言うんですよ。私を心配するがゆえの行動なんでしょうけど、正直、迷惑でした。

 おかげで、彼が精神的にきつい状態になってしまって、マンションの壁を殴ったり蹴ったり、ナイフで冷蔵庫に傷をつけたりと、物に当たり始めたんです。そして、ついに私に危害を及ぼすようになりました」

――実際、どんな被害に遭ったのですか?

「拳で私の頭をぽかぽか殴ったり、腕や足を蹴ってきたり。そうして散々暴力を振るった後に、ふっと我に返って『ごめんね、ごめんね。そんなつもりじゃなくて』って、誠意を込めて謝ってくるんです。だけど、顔は絶対に狙ってこなかった。周囲にバレるのを恐れていたようです。ずるいですよね。殴るきっかけは、だいたいは私の発言です。『もう別れたい』って私が言った後、決まって手を出されましたから。私のことが好きすぎるんですよ」

 田中さんの被害は、暴力に限らなかった。

「臨月に近い頃でしょうか。彼が馬乗りになって腕を殴ってきた後、服を全部脱がされて、変な話……犯されたのです。夫婦間でおかしな話ですが、その時は一方的で恐怖を感じました。そのとき警察には行ってないです。他人には言い出せないという気持ちと、そのような形でしか表現できない彼を救ってあげたいという気持ちで、いっぱいだったんです」

 田中さんは嫌がる彼を説得して、精神科のある病院に半ば無理やり、連れて行った。

「医師は心が落ち着く、軽い精神薬の処方箋を出してくれました。本当はもっと強い薬を出したかったようですが、西洋医学を信用しない彼が、断固拒否したんです。それでも、その薬もかなり効きまして、彼の精神状態は次第に安定していきました」

 ようやく平静を取り戻した田中さん夫婦。千恵美さんはその後、無事に出産、娘と親子3人で暮らし始めた。

「彼はとても献身的に、育児に励んでくれました。私の代わりに徹夜でミルクをあげて、私を寝かしてくれたりね。このまま穏やかに過ごしていけるのかと期待しましたが、長続きしませんでした。実は彼、処方されていた薬を勝手に中断しちゃってたんですね」

 1年後、我慢の限界が訪れる。

「子どもが1歳になった頃、彼がナイフを振り回したんです。子どもに危害が加わらないようにって思って、とっさに子どもに覆いかぶさりました。幸い、ナイフで刺されることはなかったんですけど、背中を拳やナイフの柄みたいなものでボコボコに殴られたんです。

 なんとかスキを見つけて、友人に電話をしました。すると友人からの通報を受けた警察が、うちまで駆けつけてくれたんです。その後、彼と私は別々のパトカーに乗せられて警察署まで行って、別々に事情聴取を受けました」

 警察で田中さんは、事件の概要を一通り話した。

「その後、警察官に言われました。『あなた、子どもと一緒に、シェルターに逃げたほうがいいよ。旦那は傷害罪でお縄にして、母国に返したほうがいい』って。でも、子どもにとっては血を分けた実の親ですからね。自分の父親が犯罪者だってわかったら、子どもがかわいそうじゃないですか。暴力っていっても頻繁にあるわけではなくて、3カ月に1回ほどのことですし。それに私、やっぱり彼のことが好きでしたし。だから、警察に『立件しないでほしい』ってお願いしたんです」

――では、すぐに同居を再開したのですか?

「いえいえ。それはさすがにないです。かといって、マンションは私の名義ですからね。明け渡すつもりはありませんでした。そこで、警察に協力してもらって、彼に退去を言い渡してもらったんです。すると彼はおとなしく従って、近くにある友人の家に、居候として引っ越していきました」

(後編へつづく)