『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?
第11回 大杉千秋さん(仮名・41歳)の話 (心を病んでしまった夫・後編)
卒業パーティーで声をかけられた大学の同級生と、誕生日が1日違いであることがわかって、1年後の誕生日に再会する。その後、友人からの連絡をきっかけに彼に電話すると、うつであることを明かされる。外に連れ出そうと誘ったことから交際が始まり、結婚。夫を支えながら働く日々を送る中で、長男が誕生したが、彼のうつはひどい状態だった。
■夫はうつ病ではなく、躁うつ病だった
――彼は回復していったんですか?
長男が生まれてしばらくすると突然、元気が出てきたので、治ってきたのかなと思ったら、急にヒュッと躁になったんです。いったん躁状態になると、あらゆることが変わります。顔つき、服装の好みといった見た目のほか、性格や話し方まで一変し、もともとはすごく優しくて穏やかな人なのに、すごく怒りっぽくて自信に満ちあふれているみたいな感じになりました。それから、眠らなくなり、どんどん痩せていったんです。
――うつ病じゃなくて、躁うつ病(双極性障害)だったんですね。
躁状態のときのほうが、一緒にいるのがつらいんです。何が起こるかわからないし、私も何をされるかわからない。殴ったりしてくることはなかったんですが、すぐキレるんです。「オレは、なんでもできる」という万能感にあふれているので、階段を自転車で上れると錯覚して、上って落ちて大けがをしたりとか。病院で携帯を使って警備員に注意され、逆ギレして怒鳴ったり。「作品の材料だ」と言ってはゴミ捨て場から物を拾ってきて、家中ゴミだらけにしたりしました。
暴言を吐いたり、何かとひどいことをして、他人を怒らせるんです。なので、友達もどんどん離れていき、私は「病気のせいだから勘弁してほしい」と、頭を下げて回りました。
――大変だったんですね。
その後、1〜2カ月して、またうつになり、また1〜2カ月して躁になり……というサイクルを繰り返していきました。私は仕事があるので、彼を1人にしなくてはならない。それが心配なので、入院してもらい、たまに会いに行ったりしていました。2〜3カ月たって、また出てきたり……ということを何回か繰り返しましたが、病院に入ってくれるのは、だいたいうつのときだけでしたね。
――もはや、普通に生活することが難しくなったんですね。
3〜4年ぐらいたったときに、障害年金(病気やケガによって生活や仕事などが制限されるようになった場合に受給できる年金)というものの存在に気がつき、区役所で「躁うつ病で申請したい」と申し出たところ、受理されました。
――生活費は千秋さん持ちですか?
基本的には折半にしていましたが、たまに夫のお金がなくなると、1万円とか、お小遣いをあげていました。夫は障害年金を隔月で14万円くらいもらっていたので、完全に無収入になることはなかったです。
――子育ての状況は、どうだったんですか?
その頃、長男は実家で育ててもらってて、そこから保育園に通わせていたんです。夫が障害者認定をされていたので、保育料も平均的でした。それが、離婚した途端に4万円も上がったんです。母子家庭であることよりも障害年金受給者であることの方が査定に大きく影響したんですね。
――離婚するきっかけとなった出来事はなんですか?
躁状態が何カ月も続いて、私の精神の限界を迎えたからです。亡くなった彼の父親が生前に残した200万円を、彼の了解を得た上で、私が管理していました。ところが躁状態になったとき、「200万円、盗ったろ。返せ!」って、すごい剣幕で言われたんです。私、怖くなっちゃって。急いでATMで下ろして、全額彼に渡しました。そのお金は、2カ月持たなかったですね。病院で知り合った人にいろいろ物を買ってあげたり、免許も持っていないのに50〜60万円するバイクを買ったり。Tシャツを大量に買って配ったり。その頃の口癖は「オレは救世主だ。みんなを助けられる」でした。
あと、200万円のうちの数十万を使って、小型犬を買ってきました。その犬は家中にウンチをするのですが、それを彼は全く処理しないんです。たまに帰宅すると、私の布団がウンチまみれ。臭いもひどくて。もう一緒にいられないな……って思うようになりました。
――どうやって離婚に至ったんですか?
“躁状態になったときに言う言葉”というのを、ネットで見つけたんです。「オレだけは神様の声が聞こえる」「映画を撮る」とかいろいろありましたが、彼は一通り、すべて言いました。その中の1つが「離婚する」だったんです。それを言われたときの配偶者の正しい対処法は、「病状が安定するまでは適当に流しなさい」というもの。だけど、彼から「離婚する」と言われたとき私、次男を出産した1週間後でしたので、あまりにも疲れていて、「うん」って言ってしまいました。後から、お義姉さんに、離婚をとどまるようお願いされたんですけど。
――それでも離婚に踏み切ったんですか?
その頃、お義姉さんとお義母さんと彼が3人で、温泉旅行に行ったんですよ。その途中だったかな。お姉さんから電話がかかってきたんです。「ごめんなさい。あんなにおかしくなってると思わなかった。よく我慢したね、7年も。もしこれで弟が自殺しても、千秋ちゃんのせいじゃない。もう離婚していいよ」って。それで、次男が生まれてちょうど1カ月で別れました。
――別れるときは、どんな感じでしたか?
「俺の邪魔をするな。おまえがすべて俺から奪っていった。病気になったのは、おまえのせいだ」って、すごい剣幕で言われました。とても怖かったです。そして彼は、家賃の安いところに引っ越していきました。お金もないだろうし、しばらくは私が食事を届けたりしてましたが、怖くて次第に足が遠のいていったんです。
見捨てちゃったような感じで、とても悲しくて……。でも、すごく怖くもあるんですよ。別れてから1〜2年の間は、夫同様、背の高い男性が遠くから歩いてきたり、電車内で似た背格好の人がいると、視線を上げられませんでした。
――養育費とか面会のルールは決めたんでしょうか?
いくらがいいか彼に聞いたところ、子ども2人だからってことで「月2万円」って紙に書いてくれました。「毎月必ずその額ではなくて、たとえ1円でもいいから、毎月、子どもたちの口座に振り込んでほしい。払える額を払ってくれればいいから」と、彼には話したんです。毎月、100円のときもあるけど、1万円のときもあって――という感じで払ってくれていたら、子どもたちが後で通帳を見たときに、「常にお父さんは、僕たちのことを忘れないでいてくれたんだ」と思えるじゃないですか。その話をしたところ、彼は「わかった」って言ってくれましたが、支払ってくれたのは、最初の月だけでした。
――彼に、子どもを会わせていますか?
別れるとき私、考えたんです。子どもの将来を考えると、定期的に父親と会っておいた方がいいんじゃないか? って。それで彼に、「お願いだから、月1回でも会ってくれないか」って言いました。すると「俺は妻と子どもを捨てるんだ」と言うんです。彼はSNSにも「俺は妻と子を捨てた」と書いていましたし。そのとき私、どう返していいかわからなかった。すごく考えて、「元気でいてね」という言葉しか返せませんでした。それが最後のやりとりです。それ以来、一切連絡を取っていないですね。
もともとはすごく穏やかで優しい人なので会わせたいのですが、躁状態のときだと、子どもにとってつらいことになってしまうんじゃないかと心配で、会わせられないです。今、彼がどこに暮らしているのかもわかりませんし。今後も、ずっと会うことはなさそうですが、彼には幸せでいてほしいなと思っています。
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ここまでで、末っ子誕生について紹介していないのには理由がある。大杉さんの話には、まだ続きがあるからだ。それについては、次回に記してみたい。
西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。