妊娠中にエリート夫の浮気現場に遭遇! 警察の前で「DV妻」呼ばわりされ……

singlemother15a『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第15回 小松めぐみさん(仮名・40代)の話(前編)

「結婚前、夫は前妻にDVを受けたと言っていたので、『残念な人に当たっちゃったね』と言って慰めていました。ところが、彼は自分の浮気が発覚したとき、私のことを『こいつはDV妻』と言いだし、警察の前で嘘をついたのです」

 歯科医の小松めぐみさんはそう話す。小松さんは妊娠がわかって結婚し、子どもが2歳のときに別居。離婚したのは子どもが4歳のときだったという。彼女はいったいなぜ夫から「DV妻」と言われたのか? なぜ2年も別居をしていたのか?

■彼のことは“何か変だな”と思いつつ、目をつぶって結婚

――旦那さんとは、どのようなきっかけで出会ったのですか?

 実はそれまでの7年間、別の男性と一緒に住んでいました。彼とはすごく仲が良かったし、人として尊敬もしていましたが、彼はどうしても子どもを欲しがらなかった。当時、私は30代半ば。「このままいくと、子どもがいない人生になっちゃうな。子どもが産める相手を見つけよう」って思ったとき、信用できる知人から男性を紹介されました。「前の奥さんに恵まれなかったんだけど、中身はすごくいい人だから」って。それが元夫。会ってみたら、子どもを作ることに反対しなかった。それで、早まって結婚してしまったんです。

――どんな人ですか?

 背がスラッとした、絵に描いたようなハンサム。両親は欧米人だけど、彼は日本生まれの日本育ち。両親の都合で中学校から大学院までは英語圏に住んでいたので、バイリンガル。大学と大学院では1人暮らしをしていて、就職のタイミングで日本に戻ってきたらしい。会社では早くから出世していて、そのうちにヘッドハンティングされて、外資系の会社の上層部を転々としていたみたいです。

――まさに典型的なセレブですね。結婚前にデートはしたんですか?

 1年弱お付き合いして、その間に妊娠がわかりました。いわばデキ婚です。子どもが産みたいという前提だったので、彼のことは“何か変だな”と思いつつも、目をつぶって結婚しました。

――夫として相容れない部分があったのですか?

 元夫はDV被害者としてメディアに出たことがあって、そのとき「妻が台所のお皿を全部割って暴れた」とコメントしたそうです。実際、日常生活でもそういう話はしていました。「この風景を見ると前の妻を思い出してつらい」と言って急に泣きだしたりするんです。私はあっけにとられつつ、「残念な人に当たっちゃったね」と言って慰めるしかなかった。

――そのときは、彼のことを信じてたんですか?

 信じていました。彼が嘘をついてるなんて、当時は知る由もなかった。仕事柄、さまざまなタイプの患者と付き合いますので、人と接することには慣れています。だけど彼は両親が外国人で、「自分のアイデンティティはどこだ」という悩みを抱えていました。私はそれまで彼のような人とあまり接したことがなくて、日々一緒に暮らす中でも、彼の人間性を見抜けなかったんです。

――「嘘をついてる」とすると、DVというのは彼の被害妄想なんでしょうか?

 自分自身の思い込みを本当のことだと、記憶をすり替えてしまうんでしょう。彼自身、私にすごく攻撃を受けたという感覚は本当でしょうから。

――どういうことですか?

 例えば、トイレットペーパーが芯だけになって、そのままになってたときのこと。「切れたら自分で交換して」と言ったら顔色が変わったということがありました。あのとき、彼は、私のお願いに傷ついてしまったみたい。

――なぜそれで傷つくのか、理解できないです。

 彼はエリート家系の育ちで、いわゆるお坊ちゃん。お手伝いさんがこまごまとした世話は完璧にやってくれるけど、しつけはしない。だから、世の中の常識がわからないまま大人になったんです。

――大学に入ってからは、ずっと1人暮らしだったんですよね。

 いえ。彼のそばには、常に女がいたんです。大学生や大学院生のときだって、1人暮らししているとはいっても、付き合ってる女性にすべての家事をやってもらってたし、その後もずっとそうです。彼は典型的なハンサム男ですから、女が途切れなかった。誰かにやってもらってたから、生活をするための常識が身につかなかった。だからこそ、私に注意されただけで傷ついたんです。

――わからないんだったら、聞けばいいだけなのに。

 アメリカの教育を受けて、リベラルを自負してるんです。だから上っ面では進歩的。だけど根の部分では「白人の自分は、黄色人種の妻より偉い」って思い込んでて、自然と私を見下してた。刃向かいはしないけど、いちいち偉そうでした。例えば、ケンカしたときに「俺は台所の床も拭いたし、トイレットペーパーも替えたぞ。なのに何が不満なんだ」って、わざわざ勝ち誇るように言うんです。「自分の家なんだから、やって当然でしょ」って言い返したら、「うーん」とか言って頭を抱えてました。プライドは高いけど、打たれ弱い人なんです。

――子どもが生まれる前に、こういった家庭を作っていきたい、という理想像はあったんですか?

 子どもをインターナショナルスクールに入れて、国際感覚が身につくように育てていこうとは言っていました。だけど実務的な話になると「海外旅行やパーティーに連れていって、君たちを楽しませてあげる。僕は頑張って働くから、支えてね」などと言って、肝心なルールの取り決めの話から逃げちゃうんです。

――なんだかフワフワしてますね。

 妻は、人形のようなお飾りでいてほしいってこと。外の人たちに自慢できる肩書だったり学歴だったり見た目だったりを、彼は私に求めていた。

――例えば、どんなことですか?

 政財界の重鎮が出席するというパーティーに招待されたときのことを思い出します。招待状が届いた途端に、「ドレスを見に行こう」と言って、六本木の高級ブティック街に連れていかれました。「これ似合うよ」と勧められて、何十万、いや何百万円もするドレスを次々と試着させられました。

――それで買ったんですか?

 それが、彼は払ってくれないんですよ。戸惑って「買ってくれないの?」って聞いたら、やれやれとあきれた様子。「そうやって女たちは、みんな俺のお金をあてにするんだ」と、いきなり悲劇のヒーロー気取りです。「わかった。じゃあ買わなくていい」って言ったら「安っぽいドレスじゃおかしいよ。みんなすごいドレスで来るんだから」と必死になって引き留めて私に買わせようとする。結局、買わずに、成人式のときの振袖でパーティーに行きましたけどね。

――家計は、どうしていたんですか?

 家賃は全部彼が払っていましたけど、それ以外はうやむやでしたね。私自身、稼ぎがあったし、出産休暇に入っても貯蓄がありましたから、彼の収入を頼りにする必要がなかった。彼はその点、甘えてましたね。ドケチなので。

――妊娠中は、どうだったのですか?

 妊娠8カ月の頃、一悶着ありました。その頃、私は土日に、車で30分のところにある実家へ帰っていましたが、実家から戻ってくると誰か知らない人が家に入ってる気配があって、「これは絶対、女を連れ込んでるな」と踏んだんです。それで私、その次の週末、実家に帰ったと見せかけて、前触れもなく自宅に戻り、解錠して中に入ってみました。すると案の定、家の中に知らない女がいるじゃないですか。「これ、どういうこと!?」と私は言いました。もしかすると、ドスが効いた声だったかもしれません。

――旦那さんは悲劇のヒーロー気取りですか?

 いえ。力ずくで私を家から追い出そうとしました。私はおなかが大きい状態です。抵抗して暴力を振るわれたり、転んだりしたら大変なことになる。そう思って、引っ張られるままずるずると、靴を履いていない状態で玄関の外に出されました。それで元夫は何をトチ狂ったのか、「なんで勝手に来たんだ! 警察を呼ぶぞ」って大声を出す。ところが私は、「呼びたいなら呼べば。私、暴力も何も振るってないし。何の落ち度もないってことを警察に説明できるから」と言って動じない。引くに引けなくなった彼は警察を呼びました。

 駆けつけた警察官2人に元夫は、「家の中に仕事関係の女性がいるけど、仕事の打ち合わせなんです。なのに、浮気と勘違いした妻が、家の中で暴れ狂ってしまったんです。お巡りさん、こいつはDV妻なんです。早く逮捕してください」と、興奮した様子で言うのです。それに対して私は「暴れてませんよ。家の中を見てきてください。争った形跡はないはずですよ」と言いました。

 2人の警察官は、膨らんだ私のおなかを見て状況を察し、そのうち1人が元夫に向かって冷静に言いました。「あなた被害者なんでしょう? まずは被害届を出してくれますか? でないと何もできないですよ」と。一方、私には、「奥さん、一旦、この場を離れたほうがいいですよ」と言うんです。私は警察官の助言に従って、実家へと帰りました。

(後編へつづく)

「父親は早く死んだらいい」ゴミ屋敷で3年間の家庭内別居の末、離婚した女性の壮絶体験

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第14回 山本裕子さん(仮名・40代)の話(後編)

 看護師として勤務していた都内の大学病院の入院患者だった男性と退院後に交際を始め、3カ月で結婚の話に。Uターン就職したいという夫の実家がある東北へ移住したものの、義父母はもちろん、盛大な結婚式を挙げた4カ月後に出戻りした義妹からも冷たい仕打ちに遭う。その後、長男、長女を出産し、一軒家を購入するが、家事も育児もせず、妻をこき使う夫は変わらなかった。自分の両親は結婚を反対していたため、挨拶にも行かずじまいだったが、老後の面倒を見てもらおうと、九州から、目と鼻の先に引っ越してきた。しかし、その実の両親との関係も改善せず、精神安定剤を飲んで泣いてばかりいた。

(前編はこちら)

■夫が、甥の借金の連帯保証人になろうとした

――家庭内別居を3年続けながら、離婚裁判を戦ったそうですね。その発端は何だったんですか?

 義妹の息子(夫の甥)が漁協に就職した後、3年前の5月、夫が変なことを言いだしたんです。「保証人になるから、ハンコと印鑑証明持ってこい」って。何のことかと思ったら、「甥が140万円でローンを組んで車を買うらしい。だったら僕が連帯保証人になってあげたい」って。しかもその申込書、“○○ファイナンス”って書いてある。これは明らかにサラ金です。

――親である義妹が買ってあげたらいいのに……。

 彼女は息子を産んだ後、親戚のコネでいろいろ仕事していました。だけど続かなくて、家賃を滞納したり、借金取りから逃げるために居留守を使ったりしてたんです。車を買ってあげるお金なんか、彼女にあるはずがない。だから兄である夫が甥の親代わりってことで、車を買ってあげようとしたみたいです。身内愛が強いから。でも、私からしたら、とんでもない話。百歩譲って買ってあげるにしても、中古で十分だし、サラ金を使う必然性もない。下手したら、利息が膨らんで家を取られかねない。だから私、夫に言ったんです。

「連帯保証人になるってことの重さをわかってるの? それとも今後もし甥が『家を買ってよ』って言ったら、家の保証人にだってなるつもりなの? 車よりも10倍20倍の額になるよ」
「なるに決まってるだろ! 俺は親代わりなんだから」
「私は、そこまではできない。自分の子どもが一番だから。あなたがそう言うのなら、もう一緒にはいられない」
「そうですかそうですか。だったら離婚すればいいんですね。僕は弁護士いっぱい知っているんだから」
「保証人になるのも断って!」

 そんなとき、当時高3の娘が帰ってきたんですよ。帰宅早々、異様な修羅場です。緊迫感に娘は耐えられなくなって、かわいそうに泣きだしてしまいました。そんな娘を気にかけるどころか、夫は背を向けて電話をかけ始めました。

「ごめんね。保証人になれないんだ」

 すごく申し訳なさそうに、電話で言ってるんです。そのときからです。家庭内別居が始まったのは。

――その後の同居生活は、どうなったんですか?

 連帯保証人になると夫が言いだしてケンカになった後、半年以上波風を立てないよう普段通りにしていました。というのも、娘の大学受験が終わるのが、その年の12月だったからです。ただ、そういう事情を夫は知りません。だから5月以降、いきなり家庭内別居状態となりました。

――それぞれ、どこに住んでいたんですか?

夫は1階のダイニング(15畳)と2階の4部屋のうち3部屋。私たち3人は、1階の6畳間に固まって住みました。娘は私とずっと一緒に6畳間にいて、受験勉強もコタツでずっとやってました。

――旦那さんとの会話は?

 まったくありません。何か不満があって、私が直接言ったら「弁護士を通してください」って言われておしまい。同じ家にはいるんだけど、何から何まで別でした。洗濯機の洗剤とか、そのうちティッシュペーパーまで別にするようになりました。トイレはさすがに共用。だから私が結局、掃除してました。

――一緒の家にいて、攻撃したりされたりはしなかったんですか?

 トイレのドアにヘアクリームが塗りたくられてたり、髪の毛を切ったものを風呂場にまかれたりと、夫からの嫌がらせが続きました。だけど一番こたえたのは、ダイニングにある大型液晶テレビ(52インチ)の音を最大限で、しかも部屋の照明を完全に落としてのシアターモードで、夫が見ていたってこと。しかもダイニングはモノで埋まってた。ペットボトルや空き缶、各世代のデスクトップパソコン5~6台。彼の大学時代のテキストすべてとか。6畳間とキッチン以外はゴミ屋敷状態でした。

――食事は、どうされていたんですか?

 鶏肉を2キロとか買ってきて、チャーハンと唐揚げと鶏チリ、鶏の南蛮煮、鶏シュウマイを作ったり。ミンチを何キロも買ってハンバーグを10個とか、まとめて作ったり。食費はひとり一食100円と切り詰めました。そのとき夫は事実上、お金を入れてくれなくなってたから。

――真っ暗な中、料理は旦那さんがいる前を運ぶわけですね。

 それでもね、ダイニングにいてくれたら、まだよかったですよ。夫がいたのはキッチンとダイニングの間なんです。彼が在宅中はずっとそこにいるんだけど、「通るよ」という言葉のやりとりすら、その頃はなくなってて。彼が陣取ってると、事実上キッチンは使えない状態だったの。夫は何を食べてたかって? お弁当とか買って食べていたみたい。

――3年間ずっとそういう生活が続くって、想像がつかないですが……。

 それこそ夫に放火されて、夫以外、焼死ということだってありうる状態でした。何をされるかわからないし不安なので、3人で固まって6畳間で寝ました。私と娘はシングルベッドで、息子はコタツでね。

――それに加えて、調停や裁判でのやりとりがあったんですね?

 同居しながらの離婚裁判とか調停って、本当に大変。裁判所には別の車で行き、裁判なり、調停なりを終えた後、同じ裁判所から出てきて、それぞれ別の車で移動するんです。それで、帰ってきたら、ずっと夫がいるわけ。気持ちが休まらない。

――離婚に至るまでの経緯を、お話しいただけますか?

 その年の12月。娘の受験が終わった後、近くにある法律事務所を訪問しました。20万円を支払って、弁護士に解決をお願いしたんです。目的は協議離婚の実現。だけど、夫の方が一枚上手でした。というのも、夫は保険会社のトラブル対応係で、のらりくらりかわすのが上手なんです。裁判所での振る舞い方も心得ている。それで、私がお願いした弁護士も、まんまとやられました。

――どういうことですか?

 先ほど「家にはお金を入れてくれなくなった」と話しましたが、弁護士は夫との間で「毎月15万円を振り込む」と取り決めてくれたものの、振り込み先が彼の通帳になっていたんです。夫は家に生活費を入れているふりをして、全部自分で使っていました。だから、私と子ども2人は、私の収入(手取り14万円)だけで暮らすしかなかった。

――よく飢え死にしなかったですね。

 家のローンは終わってましたが、本当に毎日がギリギリでした。それで途中、もうダメだと思って、夫に「離婚してください」と土下座したこともあります。すると、夫に鼻で笑われました。そして、椅子に座ったまま足をぶらぶらさせて、「弁護士の先生に聞いてみないとね~」って、バカにしたように言うんですよ。

――よく心が折れませんでしたね。

 いえ、とっくに折れてますよ。ストレスまみれ。精神安定剤をどれだけ飲んでたか。その日、娘が手を握って一緒に寝てくれなかったら、たぶん一睡もできなかったと思う。その頃はほんときつくて、夫が出勤していなくなると、ひたすら皿を割りまくりました。破片が飛び散らないよう、段ボールの中でね。あとは職場の仲間ですね。看護師仲間とバカを言い合ったりすることで、気分転換ができた。

――その後は、どうなりましたか?

 半年後となる2年前の6月、人づてで別の弁護士を紹介してもらい、会いに行きました。その弁護士先生、顔を合わせたとき、「どうぞおかけください。話は聞いてます。大変でしたね。私でよかったら、お話を聞かせください」と言ってくださった。それを聞いて、せきを切ったように涙が出てきました。でも泣いて、すごく気持ちが楽になりました。精神安定剤なんかより、ずっと効きます。まさに“神対応”です。

――裁判は、どういうふうに進んでいったんですか?

 6月に相談に行って、さっそく7月に離婚調停が始まった。3回やって不調。その後、離婚の件は裁判になりました。親権を争っているわけでもないし、DVでもない。案件として、深刻さはそれほどでもない。だけど、一向に解決しなかった。

――なぜですか?

 夫が頑強に解決を阻んだからですよ。夫は親戚の手前、離婚だけは避けたかったみたい。のらりくらりと話をそらしたり、逐一、証拠の提出を要求したり。裁判官が読み間違えたら大声で指摘したりして、裁判が一向に進まないように妨害を繰り返したんです。裁判沙汰になるような、面倒な人身事故の担当を20数年やっているから、裁判所は彼にとっては“自分の家の庭”同然のところなんです。老獪のひとことです。

――結局、まとまったのはいつですか?

 同時に進行していた婚姻費用調停は、半年後に先にまとまりました。それで毎月11万円が、私の口座に入ってくるようになりました。そこからは生活が楽になって、貯金ができるようになりました。一方、離婚裁判の方は、ほぼ1年かかりました。結審したのは昨年の9月末のことです。ローンが終わっている2階建ての家は、私と子ども2人のもの。子どもは月5万円の養育費が2人分。ただ上の子は、大学を卒業する今年3月末まで。娘はまだ先なので、そのときまでですね。

――それで、旦那さんはすぐに出ていったんですか?

 また、ごねだして振り出しに戻ったら大変です。だから、年末までの努力目標としました。

――彼が家を去っていったのはいつですか?

 最後の最後、昨年の大みそかです。私たちは道向かいの両親の家にいて、彼が出ていくのを待ちました。軽トラを借りて、彼1人で作業して引っ越していきました。出ていったのは大みそかの夜9時でした。最後の最後まで、家を使い倒して出ていきましたね。ゴミがぶちまけられてて、家全体が正真正銘のゴミ屋敷になってました。

――彼が出ていった後の生活はどうでしたか?

 年が開けて元日の朝、ウォーターベッドからナメクジが大量に出てきて、ぞっとしました。だけど、これまでつらかった3年間を考えると、大したことはなかったです。意を決して駆除しました。2階の部屋のうち1つを残して3つを彼が使ってたんですけど、出ていった後、3日3晩ほとんど寝ずに掃除しました。

――ゴミは、どのぐらいありましたか?

 リサイクルショップの人には、軽トラで3往復してもらいました。お金になったものもあったので、差し引きマイナス3万円ほど。あとは全部ゴミ捨て場へ持っていきました。段ボール箱で30箱ほどと、ゴミ袋数十袋。夫のものだけじゃなくて、いらないものは全部捨ててリセットしたんです。いわば人生の一大断捨離という感じです。

――3日たって部屋が片づいた後、心境の変化はありましたか?

 朝起きて、物音を立ててもいい幸せ。ご飯をテーブルの上で食べられる幸せ。本当に何もかもが幸せ。テレビのリモコンを持って、子どもたちと一緒に何を見ようかとチャンネルを選ぶ幸せ。そういう当たり前のことが、幸せに感じられます。私、今人生で一番幸せだと思う(笑)。

――お子さんたちの様子はいかがですか?

 娘なんか、あまりの解放感からか、冬なのに家の窓を開けっぱなしにして馬鹿笑いしたり、ヘンテコな踊りをしたりしてますよ。父親に対しては、裏切られたって気持ちが大きかったみたい。だから、3年間の仕打ちについては当然恨んでます。

 息子は、もっとドライです。私が「弁護士に頼もうか」って話をしてたとき、「割り切って、生活費入れてもらってたらいいんじゃない?」と冷静に言い放ってましたもの。私が十数年前に「別れたい」って話してたときから、「覚悟してたし、父親のことはそう見てた」って、離婚後に話してくれましたから。

 ともかく、今になって言えるのは、3人で結束したからこそ、この3年間を乗り越えられたってことです。だから、子どもたち2人との絆はものすごいですよ。

――今後、子どもを父親に会わせますか? 

 息子は23歳で、娘は20歳。もう2人とも大人だから、会いたければ会いに行けばいいし、連絡も取ればいい。だけど、子どもたちにしたって、そんな気持ちはさらさらないみたい。「早く死んだらいい」って言ってるぐらいだから。怖いのは、彼が病気になったときです。15年以上、1日3回風邪薬を飲み続けていたぐらい呼吸器がおかしいんです。タバコの吸いすぎ。このままだと、持病の肺気腫が悪化する。そのとき子どもたちに「助けて」と言ってくるかもしれない。

――この先、元夫と会うのは嫌ですか?

 私は二度と会いたくないし、風のうわさでも、彼がその後どうなったか……とかすら聞きたくもない。ただ、彼は保険会社の人だから、うちの病院に仕事で電話をかけてくるんですよ。本人から。お互い、相手のことはわかっているけど、名前は名乗らない。それで「はい担当者に代わります」と言って電話を渡します。つまり、お互いに名乗りはしないけど、会話はしてるわけ。そんなふうに、大人な対応をさせてもらってるんです。

 婚姻費用調停後、入ってきた月11万円ずつの貯金を使って、近々、家をリフォームする予定です。どんな家にするか、いろいろ考えるのが楽しいですね。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『〈日本國〉から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

「義母がくれたのは、3万1000円のガスレンジだけ」訛りの強い東北で、四面楚歌の結婚生活

 『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第14回 山本裕子さん(仮名・40代)の話(前編)

「今考えると彼は、研究所で試験管を持ってたときの方が人間くさかった。少なくとも今のような冷酷さはなかった――」

 そう話すのは、看護師の山本裕子さん。彼女には23歳の息子と20歳の娘がいる。そんな彼女は、夫と同居しながら離婚裁判を戦ったという体験の持ち主。3年にわたる家庭内別居、離婚後のシングルマザー生活について話を伺った。

■付き合い始めて3カ月もしないうちに、結婚の話が

――旦那さんと知り合ったきっかけを教えてください。

 東京の医療系の短大を卒業して、都内の大学病院に勤務していたとき、そこに、夫となる男性が入院してきました。彼は7つ年上の理系で、当時、民間企業の研究所で働いていました。

――入院した理由は?

 視力が、かなり失われていたんです。それで数カ月入院しました。私が担当だったんですが、良い意味で粘り強い、悪く言えばねちっこい性格。枯れ木みたいに細くて背の高い人でした。

 入院中に、「(視力が悪くなった)原因を知りたいから、医学書を貸してほしい」と頼まれて、ナースステーションにある本を貸したら、必死にずっと読んでいました。落ち込んだそぶりは一切なくて、調べることに没頭してるんです。「この人は真面目な人だな。問題から逃げない人なんだな」と思って好意を抱きました。

――お付き合いを始めたきっかけは?

 目が回復して退院した彼が、病院に挨拶に来たんです。「その節はありがとうございます」って。立ち話をしてるうちに、「じゃあ1回外で会いましょうか」ってなったんです。それで毎週とか会ってたのかな。

――お付き合いしてるうちに接近していったということですか?

 3カ月もしないうちに結婚の話が出ました。そのときは「東京で」という話だったのに、いつの間にか「Uターン就職する」って言い始めた。「親戚付き合いはしなくていい。俺、オマエを守るから」って言うんです。

――ずいぶん急な展開ですね。

 東北の小さな町で育って、理系の大学を出た研究者ですから、それまでは順風満帆。ところが目をやられて挫折して、故郷に帰りたくなったみたいです。

 結婚について私が九州の実家に電話したら、両親に強硬に反対されました。私は一人娘で、うちの両親は気が強いので、電話でケンカになっちゃって、最後は「勝手にするったい!(勝手にしなさい!)」と電話口で怒鳴られました。2人して挨拶に行けばよかったんですが、ずいぶん怒ってるし、展開が急だったってこともあって、行かずじまいとなってしまいした。

 彼の新しい職場は、大手保険会社の地元支社。勝手に話が進んでて“あれ?”って思ったけど、私は昭和の女だから、男の仕事には口を挟みたくない。それに私、看護師だから、どこでも仕事ができると思ってたし。ついていくことにしました。

――どこに住み始めたんですか?

 彼の実家から車で30分ほど離れた、隣町のアパート。まずは看護の仕事を探そうとしました。だけど、こちらの訛りが予想以上に強いので、ひとまず断念。そんなとき、妊娠がわかりました。それで就職はいったん諦めて、無理くり籍を入れたんです。彼の両親から私の両親への挨拶もなし。長男の結婚なのに、結婚式はしてくれないし、新婚旅行も行かずじまい。なんにもない。義母がくれたのは、3万1000円のガスレンジだけ。

――親戚付き合いは、しなくてよかったんですか?

 いえ。話はまったく違ってました。親戚付き合いの連続です。籍を入れてから1カ月後には、夫の妹の結婚式がありました。300人ほどが出席する盛大な式。私は留袖を着せられて、親戚の1人として手伝いをさせられました。だけど、その場で誰も私のことを知りません。だから会う人会う人、「○男(夫)の妻です」と挨拶して回りました。ご祝儀は10万円。夫が勝手に包んでいました。私ら、義妹から何ももらってないのにね。

――義理の妹さんとの待遇差はひどいですね。

 しかも義妹は、たった4カ月で離婚して、実家に帰ってきたんです。あれだけ盛大な結婚式をやったのに。その後、義妹は実家の近くで1人暮らしを始めました。だけど実家には入り浸ってましたね。ご飯は自分で作らずに、親に作らせて持ってきてもらってたようです。両親や夫、そのほかの親戚たちに「働かなくていいよ」って言われて、みんなに守られた、甘えた生活を送ってるわけ。私は大いに不満でしたが、気がついたら彼女も妊娠してた。しかも私よりも先に、結婚した年のうちに産んじゃってました。

――一方で、山本さんのお子さんはどうなったんですか?

 年明けには臨月。だけど、生まれる前が大変だった。何が大変かって? 冬の雪かきですよ。普通は父親がやるんだけど、夫は一切やらないんです。

――では、雪かきは誰が?

 私がやるしかなかった。前年の春に妊娠がわかったとき、慣れない雪かきを、まさか臨月ですることになるとは思ってもみなかった。

――流産したら大変ですよ。

 いえ。夫はそんなこと、まったく気にしない人なんです。2月にいよいよ出産ってときだって、立ち会うはずがない。産んだのは病院です。会陰切開で生みました。夫や夫の親戚のお見舞いは、結局なかった。

――病院から帰った後は、どのような生活でしたか?

 息子を出産後、1週間ぐらいで病院からアパートに戻ったんですが、家の中はコーヒーとかの空き缶があちこちに転がってる状態。彼が一向に動こうとしないので、赤子を抱いたまま掃除し始めたんです。すると夫は、「あー焼き鳥食べたい。焼き鳥買ってきて」って言うんです。

 それで私、結局買いに行かされましたよ。車の免許を持ってなかったし、雪もなかったから自転車。痛くてサドルに座れなかったから、立ちこぎ。なんでこんな人と結婚しちゃったんだろって後悔しましたよ。だけど、子どももできちゃったからね……。

――でも、その後、家を建てたんですよね。それはなぜですか?

 家を建てて責任感が増せば、自然と変わってくれるんじゃないかって思ったからです。22年前かな。夫が「生まれ故郷の町に、どうしても帰りたい」と言ったのが発端で、息子が1歳になったときでした。土地の購入には私が独身のときに貯めた1000万円弱を使いました。上物(建物)は2500万円。彼の名義でローンを組んで建てました。

――それで、旦那さんは変わりましたか?

 いえ、一向に変わりませんでした。子育てひとつ取ってもそうです。彼は「おむつ換えしてる」と胸を張ってましたが、とてもとても。おむつを「はい」といって手渡ししてくれるだけ。インフルエンザで私が約40度の熱を出していたときなんて「裕子さん、(赤ちゃんが)うんちしてるみたい」と言っておろおろするだけ。絶対、自分は手を出さないんです。

――その分、義父母が面倒を見てくれたのではないのですか? 実家がそばですよね。

 それもなかった。面倒を見てくれたり、かわいがってくれることは、ほとんどなかったです。その一方、4カ月で離婚して戻ってきた義妹の子は、親戚みんなからかわいがられてました。

――旦那さんは長男ですよね。跡継ぎだってことで大事にされるのでは?

 こちらでは、そういう感覚はまったくないのです。私の子どもたちなんて、親戚からクリスマスプレゼントをもらったことすらない。一方、義妹の息子(義理の甥)は、毎日小遣い1000円をもらってた。よそ者が産んだ子どもも、よそ者だっていうわけです。

――義理の妹さんは、別れた夫から養育費をもらわなかったんですか?

 そうなんです。別れた夫から養育費とかもらったらいいはずなのに、見栄を張って、それはしないわけ。その分、私たちの方に降りかかってきた。「結婚式に行く自分たちの洋服を買ってくれ」とか言って、何かあるたびに、義母や義妹から10万円を要求されました。そのたびに私が「不公平だからダメ。無理」と夫に言って断ると、夫は「うちのやつがダメっていうから」って申し訳なさそうに電話で報告してるんです。

――自分の家族よりも、実家が大事なんですね。

 娘が生まれるときもそう。よりによって、予定日に親戚の結婚式の受付を引き受けてたんです。それを聞いて私、「私に何かあったらどうするの!?」って問い詰めたんです。すると彼、「じゃ息子(当時3歳)を連れて行けばいいだろ! オマエは勝手に産んだらいいじゃないか!」って。

――家族として大事にされていないんですね。とすると、家にお金を入れないとか、そんな仕打ちもありましたか?

 それはなかったです。生活費として、毎月25~26万円は入れてくれていました。

――その後は、専業主婦だったんですか?

 息子が生まれた後は、養鶏場でバイトしていました。方言が理解できなかったので、看護師は難しかった。だけど娘が生まれてしばらくたった頃には、方言が理解できるようになっていました。それで、娘が学校に入るタイミングで看護師に復帰しました。子どもが2人になって、家計のやりくりに不安を感じるようになってたし。夫に「復帰したら、家のことを少し手伝ってもらうけどいい?」って聞いたら、なんて言ったと思います? 「いいんじゃないの。オマエの仕事が増えるだけだから」って言うんですよ。

――九州にいたご両親との関係は、どうなりましたか?

 それが、結婚して6~7年後(2000年頃)、九州で経営していた店を畳んで、こっちに引っ越してきたんです。私の家と目と鼻の先の、道路向かいの家。私、一人っ子なんで、老後の面倒を見てもらいたかったみたい。それで今度は、両親からも責められるようになりました。「オマエがうまくいっとるごと信じとったたいね。ほんなこつこのザマは何ね?(オマエがうまくいっていると信じていたのに。本当にこのざまは何だ?)」って。

――山本さんのご両親と旦那さんの関係はどうでしたか?

 両親はこっちの家族観が理解できなくて、夫や彼の実家に対して怒ってました。とはいっても、直接、彼らに言えるわけでもない。だから、私に文句ばかり言うんです。「オマエの夫はおかしか」って。すぐそばに住んでるのに、ギクシャクして、両方の家族の間に会話はまったくなかった。

――四面楚歌ですね。

 ほんとそう。しかも、義父母や義妹からはお金の無心をされてばかり。どこにも頼ることができなくて、私、精神安定剤を飲んで、「別れたい」って独り言を言いながら、毎日泣いてました。
(後編へつづく)

「子どもを元夫に会わせるのは、自分のため」慰謝料も養育費もなく離婚した妻の思い

singlemother13b『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第13回 尾崎豊美さん(仮名・47歳)の話(後編)

 20代後半で一目惚れした、バツイチの男性と結婚。長男を妊娠中、夫には700万円もの借金があることが発覚。夫の服を売ったほか、食品のまとめ買いや、子ども服をすべて友人からのお下がりで済ますなどして節約し、サラ金4社の借金を数年かけて返済した。しかし、子育てに一切関わらない夫は、次第に暴力を振るい始め、三男が生まれて長男が学校で荒れだすと、「お前の育て方が悪い」といって殴るので、離婚を考えだす。

(前編はこちら)

■私を殴る夫に、長男はおびえるようになった

――豊美さんが叩かれたとき、子どもたちはどういう反応でしたか?

 私が叩かれている姿を見て、「パパがママをいじめてる」と認識したようです。それ以来、長男は父親のことをすごく毛嫌いするようになった。それでも、会話までは拒否してませんでしたけどね。

――とすると、旦那さんと息子さんの関係は、そのまま大丈夫だったんですか?

 いえ。その後、長男は、夫におびえるようになりました。夫が珍しく「外行くか」って誘ったことがあったんです。そのとき長男は勉強中で「終わるまで待ってて」って答えたんです。すると、途端に夫が腹を立てて、「行くのか。行かねえのか」って怒鳴りながら、テレビのリモコンで長男を殴りつけたんです。殴られてからというもの、長男は夫が帰ってくるたびにビクビクするようになっちゃった。そんな長男の姿を見て私、「急いで決着をつけないと」って思いました。

――その後、家から旦那さんを追い出して、離婚したのですか?

 いえ。その前に1回、私が子どもたちを連れて、多摩にある私の実家に帰ってます。その間、彼は1年間にわたり、この一軒家にひとりで生活していました。

――お父さんが買ってくれた家なのに、豊美さんは自ら出て行ったんですね?

 夫が長男をリモコンで殴った頃から、私は心身共にガタガタでした。顔面麻痺に加えて失語症にもなって、もはや限界。そんなとき、父が「家はそこだけじゃないぞ。戻ってこい」と救いの手を差し伸べてくれました。そうして親に甘える形で、私と子ども3人は、実家に住み始めたんです。その頃、私は在宅ワークで収入を得ていて、そこから家賃や食費を親に渡していました。

――決着をつけるべく、旦那さんと話し合いをされたのですか?

 やりとりは、主にメールで行いました。私のほうから「もう限界、別れて」って離婚を切り出すと、夫は渋りました。「別居のままでいいから、離婚はしないでくれ」って。「無理です」と短く返信したんです。

――別居中、旦那さんと子どもたちの関係は、どうだったのでしょうか?

 月に1〜2回のペースで会わせていました。でも、夫の発言を境に、会わせなかった時期もあります。というのも、別れ話の最中、夫は私にこんなことを言ったんです。「『離婚したい』っていうのは俺の意思じゃない。本当に離婚するっていうなら、おまえが慰謝料を払うべきだし、子どもには会わせろ。だけど養育費は払わないからな」って。

 離婚を切り出さざるを得ないぐらいに私たちを追い詰めておいて、『俺の意思じゃない』って、よく言えたものですよ。これには、震えるほどの強い怒りを覚えました。頭にきた私は、それから3カ月ほど連絡を絶ったのですが、すると子どもたち3人それぞれに、「なんで最近パパと会えないの?」「このままずっとパパに会えなくなるの? やだよ、そんなの」などと言われたんです。

 それを聞いて私、思いました。「なんだったんだろう? この10年以上。借金を返してきて、一生懸命あんたたちのためにと思って頑張ってきたのに、なんで『パパ、パパ』なの?」ってやるせない気分になって、下戸なのに私、ワンワン泣きながら浴びるようにお酒を飲み続けて、泣いて泣いて泣きまくったら、明け方になってしまっていました。

 夜が明けていく中、私、達観したんです。親は子どもから愛されている。父親と母親、子どもにはどちらも大事だと。床に就く前に、夫にメールしました。「養育費も慰謝料もいらないから、家から出て行って。その代わり、子どもたちとは好きに会っていい」って。するとすぐに、承諾する旨の返事がきました。そうして、あっさり協議離婚が成立したんです。

――別れた後の心理的な変化はありましたか?

 「今後は、自分が頑張ればいいんだ」っていうことに気がついて、すごく気持ちが楽になったんです。だからなのか、子どもには「離婚して、ママもパパも優しくなった」と感謝されました。だけど、もし夫が調停や裁判を起こしてきたりして長引いたら、私もアウトだったかもしれない。

――面会は、どのような調子で行っていますか?

 リモコンで殴られたことがある長男は当初、夫に会うことを怖がっていました。それでも次第に警戒心が解けていくと、長男が面会の段取りをリードするようになりました。連絡は、夫と主に長男が話をつけてるようです。面会させて帰ってきたときに子どもの様子がおかしいといったことはないですが、「なんでパパとママは一緒に住めないの?」と何回か言われたりはします。そのときは、「地球がひっくり返っても、ママは無理。その分、いっぱい会っていいから」と言ってます。

――面会をさせて、つらくなることはありませんか?

 当初はつらかった。「なんでこんなに喜んで帰ってくるんだろう?」とか「また夫だけいいとこ取りか」とか、面会させるたびに、そんなふうに気持ちがザワザワしていました。なので面会ごとに、エステに行ったり、友達とおいしいものを食べに行ったりして、あえて気を紛らわせていました。

――その後も、ずっと会わせているんですか?

 2年ほど前、夫が急に「子どもに会わなくていい」って言いだしたことがありました。たぶん彼女ができたんでしょうね。しかも、「一軒家を売りたい」って言って、それだけの理由で調停を起こされました。離婚したときは「家は私に譲る」という約束だったのに。

――そこで初めて調停なんですね。

 私、悔しくて、裁判所の調停室でワンワン泣いてしまいました。すると見かねた調停委員が、夫を注意してくれたみたいです。「今、調停をするのは、『子どもに会わせてくれ』っていう人がほとんどですよ。なのに、あなたは好きに会わせてもらって、しかも養育費も払わずに済んでるのに『家を売りたい』って主張する。いったいどういうことですか!」って。

 調停は「家は売らない」という結論で終了しました。それまで口約束だった取り決めを公正証書化し、そこには「家は私に譲渡する」という項目が含まれています。面会交流の項目も入れました。ただ、それは「最低でも夫は月に1回は子どもに会わなければ、罰金を科す」というものでした。結果的には、旦那が『家を売りたい』と言ってきたことで初めて、離婚後の約束を証書にまとめることができました。

――調停後の面会は、どのような感じですか?

 日曜日が多いかな。ご飯を食べに行きますね。長男と次男はもう大きくなっているので、昼間はパパと出歩くのは気恥ずかしいみたい。三男はもちろん、喜んで昼間から会いに行きますよ。それで夕飯には、長男と次男が合流するんです。夏なんかは一緒に、夫と泊まりでG県に行ってきたりしますよ。元義母からは、今でも電話は来ます。

――旦那さんとのやりとりはあるんですか?

 ほとんどないですが、連絡するとき、別にためらいはないです。子どもたちの父親ではあるけど、私にとっては過去の人だから。ここまで気持ちを整理するのに4年かかりました。定期的に淡々と会わせていくことで、私の中のわだかまりを消化していったんだと思う。

――今の生活はどうですか?

 育ち盛りの子どもが3人いると、何かしら出費が増えてしまって大変。だけど、結婚してたときみたいに耐えてないので楽です。家計が大変な分、子どもたちにはかわいそうな思いをさせてて、申し訳ないです。それでも学費だけは出してあげようって決めています。

――今後は何をしたいですか?

 子どもを元夫に会わせるのは、別れた後、幸せになるため。つまりは自分のためだということを、関わっている面会交流支援を通じて伝えたいです。「会わせたくない」という気持ちはすごくわかる。だけど、そのまま1人で抱え込むのは負担が大きすぎますよ。だから、私が支援している人たちには、「会わせ続けることが自分の新しい一歩になるし、自分の人生を生きることにつながるよ」って伝えています。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『〈日本國〉から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

<取材協力者募集>
この連載の取材にご協力いただける方を募集しています。夫と別居または離婚して子どもを育てているお母さん、子どもと夫との面会状況についてお話をお聞かせいただけると幸いです。下記フォームよりご応募ください。

ご応募はこちらから

「妊婦なのにOL時代の服を着ていた」三男を抱えながら、節約して夫の借金700万円を返済

singlemother13a『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第13回 尾崎豊美さん(仮名・47歳)の話(前編)

「長女を妊娠してまもなく、夫に700万円の借金があることがわかりました。節約に節約を重ねて完済しても、ねぎらいの言葉はありません。それどころか、私を見下すようになりました」

 学校事務員で面会交流支援団体びじっと職員の尾崎豊美さんは高校生2人、中学生1人の子ども3人を1人で育ててきた。元夫に養育費や慰謝料は請求していない。なのに存分に会わせているという。どういうことなのか?

■レストランで一目惚れした男性と知り合って半年で結婚

――旦那さんになる男性とは、どうやって知り合ったんですか?

 東京で専門学校を卒業した後、OLとして働いていました。夫になる人は、友達と一緒に出かけたレストランの店員でした。福山雅治をきゃしゃにした感じの人かな。バツイチで、私よりも3歳上。事故で幼子を亡くしています。そのことで、前の奥さんと折り合いが悪くなって離婚したんだそうです。

――好きになったのは、どちらだったんですか?

 話をして、あっ、と思ったというか。ビビッときたというか。それは、お互いがそうだったようです。彼のお父さんはすでに亡く、お姉さんは体が不自由でした。そんなふうに肉親や子どもを失うつらさを知っている人だからこそ、結婚や家庭というものをわかってるはず。だから大丈夫。彼となら幸せになれる、って思ったんです。

――アプローチは、どちらからですか?

 夫が「豊美じゃないとだめだ。豊美がいなかったら俺は死ぬ」って、そんなことを言うんです。そこまで言ってくれる人だから、守ってくれるはず、って思っちゃった。知り合って半年で結婚しました。春に知り合って数カ月でお互いの実家に挨拶に行き、秋には同居を始めたんです。そのタイミングで婚姻届を提出して、年明けに式を挙げました。20年ぐらい前のことです。当時、私は20代後半という微妙な年齢でした。

――新婚生活は、どうでしたか?

 それなりに甘い生活だったんだと思います。新居は、彼の勤務先であるレストランにほど近い、都心の物件。同居してしばらくは、私も働いていました。給料の半分ずつをお互い出し合って、あと半分ずつは貯金をしようっていう約束で、その通りにやっていました。

――出産願望はあったんですか?

 もちろん。3人は欲しいと思っていたし、すぐにでも欲しかった。だけど、なかなかできなかったんです。妊娠がわかったのは、結婚して2年近くたってから。ちなみに仕事は、妊娠して1カ月ほどで辞めました。つわりがひどくて、仕事が続けられなくなったんです。

――妊娠後、旦那さんは頑張って働いて、生活費をを豊美さんより多く入れてたんですか?

 つわりがひどくて働けない私の代わりに、彼がたくさんお金を入れてくれるのかと期待したら、入れる額がそのままだったんです。「これじゃ、生活していけないよ」って言って、問い詰めたら、多額の借金を抱えてるってことを打ち明けられたんです。その額は約700万円。額の大きさに、開いた口がふさがらなかった。

――なぜそんなに借金が膨らんだんですか?

 彼は、以前働いていた某アパレル会社で営業をしていました。その会社で、業務成績を上げるために、自腹で靴を買っていたんです。それに金遣いが荒くて、派手好きな人だってこともわかってきました。だから、余計に借金が膨らんでしまった。ちなみにその借金、全部サラ金で、大手の4社から借りていました。

――借金を目の前にして、どんなことを考えましたか?

 それでも、別れようとは思わなかったし、堕ろそうという気持ちも起こらなかった。入籍してから2年近くかかって、やっと授かった子だったので。だから、別れずに借金を返していくことを考えました。

――借金は、どうやって返済したんですか?

 返済プランを考えて、それを実行しました。夫が借りているすべての業者に電話をかけ、利率や借りている額を聞いていきました。当時はまだ個人情報保護法が成立してなかったので、「家内です」と言えば、どこのサラ金業者でも教えてくれました。そして利率の一番低い会社で新たにお金を借りて、高い会社の借金を返済していきました。

 2人の持ち物を売ったりもしました。クローゼットがすべて埋まるほどあった夫の靴や服。また、高価で必要のないもの、使ってないものは、すべて売りに出しました。当時は、すごく文句を言われましたけどね。

――ほかに具体的には、どういう節約をしたんですか?

 肉や魚などの生鮮食品を、肉のハナマサなどの業務用食品店で、月に数回、まとめ買いしていました。そうやって、なるべく買い物に行かないようにしていたんです。あとは、まったく洋服を買わなくなったり。最終的に3人できた子どもたちの洋服は全部お友達からのお下がりで、何ひとつ買ってあげていません。買ったのは、妊娠してるときに着てた緩やかなワンピースぐらい。服がないので、妊婦なのにOL時代の服を着たりしてました。

――旦那さんは、子育てにどうやって関わったんですか? 子煩悩でしたか?

 「俺は仕事を優先するから」って明言していて、離婚するまでの間、子育てにまったく関わらなかった。私にどれだけ熱があっても、彼は寝ていましたから。子どもが成長していくにつれ、鉄棒、キャッチボール、補助なしの自転車と、いろいろ付き合ってあげるじゃないですか。そういったことは、普通父親がやりますよね。だけど、うちは別。それらは3人とも全部、私が付き合いました。

――旦那さんはその分、仕事熱心だったんですか?

 飲食の仕事で、勤めては辞め、勤めては辞めを繰り返していました。プライドが高いし、困難なことがあると逃げちゃう人なので、人間関係で衝突したりすると、すぐ辞めちゃってた。長男が生まれてからすぐ、彼の実家のある関東北部のG県で飲食店に就職したんですが、そこも1年弱で辞めました。そうやって退職を繰り返しても、飲食業界は求人が多いので、なんとかなってたんです。もちろん、辞めるごとに、給料は下のランクからになりますけどね。

――職を転々とするたびに、引っ越してたんですか?

 G県のホテルを彼が1年弱で辞めてからは、多摩にある私の実家に引っ越しました。でも、実家にいたのも1年ほど。というのも、次男が生まれたからです。それからは、新婚時代に住んだあたりに、また引っ越しました。その後、父が二階建ての一軒家を買ってくれてからは、別居中のとき以外、ずっとここに住んでます。

――次男誕生後の生活は、どうだったんですか?

 今は健康そのものなんですが、生まれた頃、次男は体が弱くて、何度も手術を繰り返していました。それで私、落ち込んじゃって、よく泣いてました。夫は慰めるどころか「そんなふうになるんだったら、子どもなんて産むな」って怒鳴るんです。腹が立って「そんなこと言ったって……」って言い返したら、「かわいくねえな」って怒鳴りながら、平手打ちされてしまって、私は口の中を切ってしまって、そのとき「この人とは、ずっと一緒にはいないかも」って考えが、頭の中をよぎりました。

――借金は、いつ返し終わりましたか?

 北京オリンピックが開催された年に三男を産んで、それからまもなく借金を返し終わりました。限界まで節約したことで、少しぐらいねぎらいの言葉があるかと思ったら、まったくない。それどころか、見下したような話し方と態度でした。たとえば食事時に、料理が気に入らなかったのか、いきなりキレて「こんなもの食えるか」って怒鳴りながら、茶碗やお皿を投げ捨てたことすらありました。

――以前のように、旦那さんから暴言を吐かれたり、叩かれたりしたのでしょうか?

 もちろんされました。三男が生まれて、私がつきっきりになっていたとき、長男が若干荒れちゃったんです。通っていた小学校は、そんな長男の異変を把握していたようで、ある日、学校から連絡があって「発達検査を受けるように」と伝えられました。学校から言われたことを泣きながら夫に伝えると、「お前の育て方が悪いからだ」って素っ気なく言われたんです。「全部が全部、私のせいにばかりしないでよ」と泣きじゃくりながら言い返したら、「かわいくねえな」って怒鳴られて、叩かれたんです。そのとき私、「この人とは終わった」って直感的に思いました。

(後編へつづく)

「妊婦なのにOL時代の服を着ていた」三男を抱えながら、節約して夫の借金700万円を返済

singlemother13a『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第13回 尾崎豊美さん(仮名・47歳)の話(前編)

「長女を妊娠してまもなく、夫に700万円の借金があることがわかりました。節約に節約を重ねて完済しても、ねぎらいの言葉はありません。それどころか、私を見下すようになりました」

 学校事務員で面会交流支援団体びじっと職員の尾崎豊美さんは高校生2人、中学生1人の子ども3人を1人で育ててきた。元夫に養育費や慰謝料は請求していない。なのに存分に会わせているという。どういうことなのか?

■レストランで一目惚れした男性と知り合って半年で結婚

――旦那さんになる男性とは、どうやって知り合ったんですか?

 東京で専門学校を卒業した後、OLとして働いていました。夫になる人は、友達と一緒に出かけたレストランの店員でした。福山雅治をきゃしゃにした感じの人かな。バツイチで、私よりも3歳上。事故で幼子を亡くしています。そのことで、前の奥さんと折り合いが悪くなって離婚したんだそうです。

――好きになったのは、どちらだったんですか?

 話をして、あっ、と思ったというか。ビビッときたというか。それは、お互いがそうだったようです。彼のお父さんはすでに亡く、お姉さんは体が不自由でした。そんなふうに肉親や子どもを失うつらさを知っている人だからこそ、結婚や家庭というものをわかってるはず。だから大丈夫。彼となら幸せになれる、って思ったんです。

――アプローチは、どちらからですか?

 夫が「豊美じゃないとだめだ。豊美がいなかったら俺は死ぬ」って、そんなことを言うんです。そこまで言ってくれる人だから、守ってくれるはず、って思っちゃった。知り合って半年で結婚しました。春に知り合って数カ月でお互いの実家に挨拶に行き、秋には同居を始めたんです。そのタイミングで婚姻届を提出して、年明けに式を挙げました。20年ぐらい前のことです。当時、私は20代後半という微妙な年齢でした。

――新婚生活は、どうでしたか?

 それなりに甘い生活だったんだと思います。新居は、彼の勤務先であるレストランにほど近い、都心の物件。同居してしばらくは、私も働いていました。給料の半分ずつをお互い出し合って、あと半分ずつは貯金をしようっていう約束で、その通りにやっていました。

――出産願望はあったんですか?

 もちろん。3人は欲しいと思っていたし、すぐにでも欲しかった。だけど、なかなかできなかったんです。妊娠がわかったのは、結婚して2年近くたってから。ちなみに仕事は、妊娠して1カ月ほどで辞めました。つわりがひどくて、仕事が続けられなくなったんです。

――妊娠後、旦那さんは頑張って働いて、生活費をを豊美さんより多く入れてたんですか?

 つわりがひどくて働けない私の代わりに、彼がたくさんお金を入れてくれるのかと期待したら、入れる額がそのままだったんです。「これじゃ、生活していけないよ」って言って、問い詰めたら、多額の借金を抱えてるってことを打ち明けられたんです。その額は約700万円。額の大きさに、開いた口がふさがらなかった。

――なぜそんなに借金が膨らんだんですか?

 彼は、以前働いていた某アパレル会社で営業をしていました。その会社で、業務成績を上げるために、自腹で靴を買っていたんです。それに金遣いが荒くて、派手好きな人だってこともわかってきました。だから、余計に借金が膨らんでしまった。ちなみにその借金、全部サラ金で、大手の4社から借りていました。

――借金を目の前にして、どんなことを考えましたか?

 それでも、別れようとは思わなかったし、堕ろそうという気持ちも起こらなかった。入籍してから2年近くかかって、やっと授かった子だったので。だから、別れずに借金を返していくことを考えました。

――借金は、どうやって返済したんですか?

 返済プランを考えて、それを実行しました。夫が借りているすべての業者に電話をかけ、利率や借りている額を聞いていきました。当時はまだ個人情報保護法が成立してなかったので、「家内です」と言えば、どこのサラ金業者でも教えてくれました。そして利率の一番低い会社で新たにお金を借りて、高い会社の借金を返済していきました。

 2人の持ち物を売ったりもしました。クローゼットがすべて埋まるほどあった夫の靴や服。また、高価で必要のないもの、使ってないものは、すべて売りに出しました。当時は、すごく文句を言われましたけどね。

――ほかに具体的には、どういう節約をしたんですか?

 肉や魚などの生鮮食品を、肉のハナマサなどの業務用食品店で、月に数回、まとめ買いしていました。そうやって、なるべく買い物に行かないようにしていたんです。あとは、まったく洋服を買わなくなったり。最終的に3人できた子どもたちの洋服は全部お友達からのお下がりで、何ひとつ買ってあげていません。買ったのは、妊娠してるときに着てた緩やかなワンピースぐらい。服がないので、妊婦なのにOL時代の服を着たりしてました。

――旦那さんは、子育てにどうやって関わったんですか? 子煩悩でしたか?

 「俺は仕事を優先するから」って明言していて、離婚するまでの間、子育てにまったく関わらなかった。私にどれだけ熱があっても、彼は寝ていましたから。子どもが成長していくにつれ、鉄棒、キャッチボール、補助なしの自転車と、いろいろ付き合ってあげるじゃないですか。そういったことは、普通父親がやりますよね。だけど、うちは別。それらは3人とも全部、私が付き合いました。

――旦那さんはその分、仕事熱心だったんですか?

 飲食の仕事で、勤めては辞め、勤めては辞めを繰り返していました。プライドが高いし、困難なことがあると逃げちゃう人なので、人間関係で衝突したりすると、すぐ辞めちゃってた。長男が生まれてからすぐ、彼の実家のある関東北部のG県で飲食店に就職したんですが、そこも1年弱で辞めました。そうやって退職を繰り返しても、飲食業界は求人が多いので、なんとかなってたんです。もちろん、辞めるごとに、給料は下のランクからになりますけどね。

――職を転々とするたびに、引っ越してたんですか?

 G県のホテルを彼が1年弱で辞めてからは、多摩にある私の実家に引っ越しました。でも、実家にいたのも1年ほど。というのも、次男が生まれたからです。それからは、新婚時代に住んだあたりに、また引っ越しました。その後、父が二階建ての一軒家を買ってくれてからは、別居中のとき以外、ずっとここに住んでます。

――次男誕生後の生活は、どうだったんですか?

 今は健康そのものなんですが、生まれた頃、次男は体が弱くて、何度も手術を繰り返していました。それで私、落ち込んじゃって、よく泣いてました。夫は慰めるどころか「そんなふうになるんだったら、子どもなんて産むな」って怒鳴るんです。腹が立って「そんなこと言ったって……」って言い返したら、「かわいくねえな」って怒鳴りながら、平手打ちされてしまって、私は口の中を切ってしまって、そのとき「この人とは、ずっと一緒にはいないかも」って考えが、頭の中をよぎりました。

――借金は、いつ返し終わりましたか?

 北京オリンピックが開催された年に三男を産んで、それからまもなく借金を返し終わりました。限界まで節約したことで、少しぐらいねぎらいの言葉があるかと思ったら、まったくない。それどころか、見下したような話し方と態度でした。たとえば食事時に、料理が気に入らなかったのか、いきなりキレて「こんなもの食えるか」って怒鳴りながら、茶碗やお皿を投げ捨てたことすらありました。

――以前のように、旦那さんから暴言を吐かれたり、叩かれたりしたのでしょうか?

 もちろんされました。三男が生まれて、私がつきっきりになっていたとき、長男が若干荒れちゃったんです。通っていた小学校は、そんな長男の異変を把握していたようで、ある日、学校から連絡があって「発達検査を受けるように」と伝えられました。学校から言われたことを泣きながら夫に伝えると、「お前の育て方が悪いからだ」って素っ気なく言われたんです。「全部が全部、私のせいにばかりしないでよ」と泣きじゃくりながら言い返したら、「かわいくねえな」って怒鳴られて、叩かれたんです。そのとき私、「この人とは終わった」って直感的に思いました。

(後編へつづく)

「元夫が今後再婚しても、親子関係は継続してほしい」障害のある子を守りたい元妻の願い

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第12回 東智恵子さん(仮名・51歳)の話(後編)

 学生時代に出会った男性と結婚。大学の助手になった夫とともに関西に移住し、半年後、長男を出産。産後半年で仕事を再開し、順風満帆に見えたが、2人目の子はなかなか授からない。6年の不妊治療を経て、長女を出産したものの、身体や知能に障害を持っていた。この頃から、夫との間に溝ができ始める。

(前編はこちら)

■障害がある娘の教育について、夫と私との考えが全然違った

――障害がある娘さんの小学校生活は、どのような感じだったんですか?

 入学予定の小学校に障害児のサポートについて聞いたところ、「障害児学級に入る」という選択肢を示されました。これは、別室で先生が個別指導をするというもの。ここに入って6年間勉強したら、娘が将来、集団生活をすることができなくなるんじゃないかと思いました。しかも「途中での変更はできない」と校長先生が言うんです。それはマズいと思い、私は学校に「普通学級に入れてほしい」と、強く要望しました。すると幸い、希望が通り、娘は普通学級に入ることになりました。しかし、現場では異論もあったようで、担任の先生からは、後から「障害児学級に変更すべきです」と、何度も言われましたね。

――先生側が強く言うのは、何か理由があるんですか?

 娘が生まれた頃に、神戸で、障害児などが犠牲になった連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)がありました。あの事件以降、健常児と障害児を分けて教育すべきだという考えが、全国各地の小学校で広がっていきました。分けずに教育すると、障害児がいじめられ、被害感情や疎外感を募らせて、ゆがんだ大人になるから――というのが、その理由でした。いじめっ子はいましたけれど、学年主任が対応に慣れていたからか、その後、高学年で転校するまで大きな被害を受けることはありませんでした。

――娘さんは実際、学校になじめていたんでしょうか?

なにしろ娘は性格が真面目ですし、素直なんです。覚えるのは苦手で、しゃべり方はたどたどしかったですけど、成績は、さほどは悪くはなかった。小学校のときは風邪などで何度か休んだこともありましたが、中学高校では皆勤賞でした。

――大勢の中で障害児を育てるという東さんの教育方針は、旦那さんにも共有されていたんですか?

 それがね、元夫と私との考えが、全然違ってたんです。私が娘を障害児学級に入れるのを学校に断ってからは、教育方針の違いがもとで、元夫との仲が一気に悪くなってしまいました。それ以来、元夫は私に対して「娘を虐待している」「オマエはサイコパスだ」と、しばしば言うようになったんです。伴侶に向かってそんなことを言うのって、どうかしてますよね? それで私、元夫は頭が変になったんじゃないかと思って心配しました。

――夫婦間の問題を、第三者に相談したことはないんですか?

 元夫が精神科病院や児童相談所に「行こう行こう」としつこく言ったので、しぶしぶ付き合ったことはあります。元夫の相談内容は、「妻による娘への虐待を、なんとかしてほしい」ということでした。私が娘を病院へ連れていったり、牛乳を飲ませたりするのが虐待だという不可解な主張したんですよ。「なんとかしてほしい」と元夫が懇願するのを見て、相談員さんは「娘さんを預かりましょうか?」と、助け船を出してくれました。ところが元夫は、その提案をなぜか断りました。

 元夫のそうした反応に、相談員さんは内心、あきれてしまったようです。元夫が席を外したタイミングで「旦那さんは何を考えているのか、よくわかりませんね」と、こっそり私に耳打ちしてきましたから。その後、私は東京に学校事務の仕事が見つかったので、娘を連れて家を出ました。娘が小5のときでした。

――それはまた突然ですね。家を出たのはなぜですか? 

 夫が精神病になり、仕事をクビにされたら、子どもたちを養えなくなると思ったからです。 だけど家を出るとき、私は離婚を望んではいなかったんですよ。別居して冷却期間をつくれば、夫は普通に戻ると思ったんです。

――息子さんは、連れていかなかったんですね。

 息子はそのとき、関東にある某進学校で寮生活をしており、私と娘が東京に移ってからは、たまに会い、一緒に食事をしたりしました。ところが翌年、息子はいきなり姿を消してしまったんです。元夫が息子に対し、「母親が妹を虐待している」という嘘を吹き込んで洗脳したんでしょう。そういえば、ちょうど、息子は大学に入学する頃でした。

――それは単に、大学に進学するから、寮を出ただけのことでは?

 それもあるかもしれません。だけど急にいなくなってしまいました。1年ぐらいすると、メールすら来なくなりました。

――東京に住むようになってからの生活は、どのようなものだったのでしょうか?

 月1回は、奈良の家に帰っていました。私がかなりの資金を出して買ったマイホームですからね。あの家こそが、私や娘の家です。私たちが家を出る前、元夫は部屋にこもりっぱなしでしたが、私たちが東京に移住してからは、態度が変わりました。一時的に帰ってくると、協力して掃除をしたり、食卓を一緒に囲んだりするようになったんです。関係がこれで回復するかなと期待しました。

 ところがある日突然、家の鍵を替えられて、入れなくなりました。それは、別居して1年半後のことです。「なぜ入れてくれないの?」と元夫へメールしたら「おまえは娘を虐待する。家に入れたら、どんな嫌がらせをされるかわからない」といった抗議のメールがすぐに届きました。

――旦那さんの主張の意味が、よくわからないですね。それで、家に入れなくなった後は、どうしたんですか?

 東京に戻った後、弁護士を立てて、調停の申し立てを行いました。家に入れてほしいということと、婚姻費用(離婚前に支払う、子どもの養育費と妻の生活費)の請求。6年前のことです。私は奈良の家に住む権利があるのに、追い出されたんですから。でも、その頃は、離婚をする気持ちはまったくありませんでした。

――旦那さんの主張は?

 「ひどい浪費をしていた」「ヤクザも行っている病院に娘を連れて行く」「娘に薬物を飲ませるという虐待をやっている」「妻自身、サイコパスで精神科へ通院していた」といった荒唐無稽な嘘が、陳述書に記されていました。その一方、財産分与や親権、離婚といった要求については何ひとつ記されていないんです。元夫は弁護士を立てていなかったので、元夫自身が書いているはずなんです。なのに文体がいつもと違って、粗雑で長々としたものでした。

 その後、裁判所から「妻と娘を家に入れなさい」という決定が下されました。それで、家に入れてもらえましたし、婚姻費用も払ってもらえることになりました。ところが、また鍵を替えられて、入れなくなりました。それで再び調停を起こしました。

――その後の調停の様子は?

 合計3回、調停をやったんです。最後の調停では、すでに離婚を考えていたので、財産分与の項目を加えました。元夫の主張は、一貫して変わりません。私による娘への虐待とかサイコパスとかいった虚偽の申し立てを、相も変わらず並べ立てていたんです。彼は、ぶるぶる震えていたそうで、それだけ追い込まれていたのかもしれません。ちなみに3回目は9カ月もかかりました。これで調停はすべて終了です。1回目の調停開始から、6年がたっていました。

――終了というのは、どういうことですか?

 離婚が成立し、財産分与の問題が解決したんです。家を建てるときに使った私の父の保険金を返してもらい、マイホームは元夫だけのものになりました。もうあそこに行くことはありません。離婚が成立したので、婚姻費用ではなくて、養育費という名目で娘に毎月支払ってもらうことになりました。離婚して、私なりにすっきりしました。夫にしても将来、私を養わなきゃいけないということがなくなって、すっきりしたでしょうね。だけど、長年、調停を続けて、正直疲れました。調停をすると、実生活のかなりの時間が失われます。たとえ勝っても、失うものが多すぎますよ。こういうことをしていると、人生が無駄になってしまいます。

――家に入れなくなった後の、息子さんとの関係は?

 3回目の調停の最中に、弁護士さんが見つけ出して、会ってきてくれたんですよ。それでやっと様子がわかりました。息子は大学を卒業して、会社員をしているそうです。なぜ今でも会いたがらないのかが、私にはわかりません。やはり元夫から私の悪口をずっと聞かされていたという事情が影響しているのではないかと思いますけど。

――旦那さんから、「娘に会いたい」という要求はないんですか?

 それがまったくないんです。かといって、元夫の娘への愛情がなかったわけでもない。こっちに引っ越したばかりの頃は手紙をよく寄越していましたし、一時的に止まりはしましたが、その後は養育費をちゃんと払ってくれてますし。

――今、旦那さんに思うことは?

 恨みはありません。ただ陳述書のオリジナルを書いたのは誰だったのか、なぜ嘘八百を並べるような文章を許容したのかってことに関しては、真相を知りたいですね。元夫が今後、再婚したりしても、親子関係は継続してほしいです。元夫には、音信不通になった私たちと息子の仲を元に戻してほしいし、娘にも関わり続けてほしい。一応、身辺自立はできていますが、それでも娘は、ややハンディがあります。彼女を守れるのは、家族しかいないです。

 夫と別れてもなお、東さんは親子の絆を信じて生きている。夫婦の絆は途絶えても、親子の絆が修復されることを私は祈っている。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

<取材協力者募集>
この連載の取材にご協力いただける方を募集しています。夫と別居または離婚して子どもを育てているお母さん、子どもと夫との面会状況についてお話をお聞かせいただけると幸いです。下記フォームよりご応募ください。

ご応募はこちらから

生まれてきた娘には障害があった――家事もする大学助手の夫との生活は順調に見えたが……

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第12回 東智恵子さん(仮名・51歳)の話(前編)

「ある日突然、家の鍵を替えられて、中に入れなくなりました。それは別居して1年半後のことです。『なぜ入れてくれないの?』と元夫へメールしたら、『おまえは娘を虐待する。家に入れたら、どんな嫌がらせをされるかわからない』という抗議のメールがすぐに届きました」

 そう話すのは、東智恵子さんである。そもそも、なぜ別居したのに、家に入ろうとしたのか? なぜ夫から「虐待する」と言われているのだろうか? 詳しい話を聞く前に、まずは生い立ちから伺っていった。

■大学のサークルで知り合った、おとなしい男性と結婚

――ご出身はどちらですか? どんな子ども時代だったのですか?

 北関東で生まれました。うちの父が高校の数学教師だった関係で、その県内各地を転々としながら育ちました。東京大学か大学の医学部に入ることを父からは期待されていて、それに応えるべく、私は勉強に励みました。しかし、東大は不合格。都内中堅大学の理系学部に入学しました。

――旦那さんとは、どうやって結婚に至ったんですか?

 元夫とは、大学のインカレサークルで知り合いました。もう30年以上前のことです。メンバーの中では、比較的二枚目。静かに本を読んでいるのが好きな、おとなしい哲学者タイプでした。私の兄がおせっかいでうるさい人なので、それとは真逆のタイプである彼に惹かれていきました。この人と結婚すれば、平和で落ち着いた暮らしができるんじゃないかなって思って、元夫を結婚相手として意識するようになっていったんです。そして、数年間交際したのちに結婚しました。私が教師として就職した頃のことです。

――子どもが生まれるまでは、どのような結婚生活だったんですか?

 結婚当時、元夫は大学院生で収入がなかったので、生活費の多くは私が賄っていました。2年後、彼が関西の大学に助手として採用されることになったのを機に、私は教師を辞めてついていったんです。もともと教師には向いてなかったし、ちょうど妊娠したこともあって、教壇を降りることにためらいはありませんでした。元夫が就職して半年がたったタイミングで、長男が生まれたんです。

――子育ては大変だったのではないですか?

 いえ、全然大変ではなかったです。あまり泣かずにニコニコしている、それでいて食欲は旺盛という、絵に描いたような育てやすい子どもだったんです。というか、あまりに手がからないので、息子が生後半年の頃、仕事を見つけて働くことにしました。

 幸い、ソフトウェア開発の会社に採用されたので、働き始めたんです。そこは女性や若い人が多く、マイペースで働ける職場でした。夕方に帰れる労働環境で、私に向いていると思いました。

――働きながらだと、旦那さんに育児をサポートしてもらうことも必要になってきますよね。

 日中は、近所の保育園に世話を託し、熱を出したりしたときは、ベビーシッターさんやファミリーサポートにお願いして乗り切りました。夫は、息子をすごくかわいがりましたね。私へのサポートも積極的で、助かりました。例えば、私が疲れて起きられないときは、代わりにおむつを替えてくれたり、ミルクや離乳食を与えてくれたりしたんです。いま考えれば、元夫自身、働く母親のもとで育てられた経験があるので、男が家事をするということに拒否反応がなかったんでしょうね。

――その後は、どうなったんですか?

 2人目が欲しかったんですが、なかなかできませんでした。それで何年も不妊治療を続け、長男が生まれてから6年目に、やっと妊娠したんです。私たちはそれを機に生活環境を変えました。私は離職し、夫、長男とともに、奈良の新居に引っ越しました。

――長男のときと同様に、妊娠を機会に住環境を変えられたんですね。では、第二子の出産後について、話をお聞かせください。

 引っ越してから半年で生まれてきてくれたのかな。女の子でした。長男は生まれたときから元気いっぱいでしたが、長女は、長男とは様子がまるで違ったんです。取り上げてくれた助産師さんが見せてくれた娘の体はふにゃふにゃしていて、手足に力が入っていませんでした。普通、赤ちゃんは、手をぎゅっと握っていますが、いつも伸ばしていたんです。それでも、生まれてきてくれた喜びと、産み終わったことから来る安堵感で、これからどうしようとか、そんなことは、そのとき一切思わなかったですね。それで、後日、医者に告げられたのは、低緊張(筋緊張低下症)という病名でした。

――体の障害があったんですね。とすると、育ち方は健常児とどのように違いましたか?

 首の据わりが遅かったり、ハイハイができなかったりしました。動かせる部位はどんどん増えていきましたが、それでも体の動きは普通の子に比べてゆっくりでした。外出すると怖がって、公園に連れていっても遊具で遊ばないし、じっとしていて、声をかけないと私のほうには来ないんです。

 娘が障害で苦しまないよう、私は復職した仕事の傍ら、日々娘のリハビリに付き合いました。トランポリンや鉄棒や水泳を続けていくうちに、娘は体力をつけていき、小学校の中学年にはマラソン大会で完走できるまでになったんです。

 娘の成長は、知能面でも遅れていました。発語は遅くて、4歳ぐらいになっても、「これ」とか「あっちあっち」とか二音節しゃべるのがやっとで、なかなか会話にならなかった。保健師に勧められたこともあって、教育委員会が主催する“ことばの教室”に通わせたんです。そこへの送り迎えこそは元夫がやりましたけど、それぐらいですね。元夫がやってくれたのは。

――その頃、旦那さんと息子さんは、どのような様子でしたか?

 娘が小学校に入る頃、長男は中学生。学業も優秀で、体も頑丈。病気ひとつしない子どもでした。夫は助教授、そして教授と、着実に昇格し、それとともに収入も増えていきましたが、その頃から、私との関係は冷めていき、次第に自分の部屋にこもるようになりました。食事は一緒には食べず、私が作ったものを部屋まで運んでいたんです。家事は一切やらず、子どもたち、特に娘の養育は私に任せっきりでした。

(後編へつづく)

貸した1,200万円を返さず、養育費も払わない“モラハラ夫”には、子どもを会わせたくない

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第11回 大杉千秋さん(仮名・41歳)の話 (プライドと劣等感の間で揺れる夫・後編)

 躁うつ病の前夫と離婚して数年後に出会った、7歳下の男性と結婚。彼の両親に挨拶した直後から、暴言や暴力が始まり、日常生活ではレストラン並みの食事や、お掃除ロボ状態を強いられた。前夫との子どものことも嫌っていた。

(前編はこちら)

■夫に1,200万円貸したが、1円も返してくれない

――末っ子は、いつ生まれたんですか?

 3年前です。私は彼に、常に別れを提案し、彼はそれを却下し続けていました。そんな中で生まれたんです。子どもに対しても離れて見ているだけで触ろうとしないので、「なんで?」って聞いたら、「俺はどうせこの子と別れるんだろ」って、投げやりに言うんです。だったら、本当に別れてくれたらよかったのに……。末っ子が泣くと、そのたびに怒られるから、なるべく泣かせないように、夜中も細心の注意を払っていました。

――じゃあ、かわいがっていなかったんですか?

 かわいがってるというイメージだけは、醸し出していましたよ。末っ子の写真を、Facebookにのっけていましたから。育児は、まったくしませんでしたね。例外は、自宅でパーティーをやったときですね。20人ほど来て、人数分の料理を私1人でずっと作り続けてたので、末っ子の世話にまで手が回らなかった。だから、しょうがないなって感じでオムツを取り替えてくれて。友人たちへ向けたパフォーマンスに見えました。「イクメンだねぇ~」と友達に言われて、うれしそうでした。普段は頼んでも舌打ちしていたのにですよ。

――そのほか、何かひどい出来事はありますか?

 実は私、夫に1,200万円貸してます。結婚して1年ぐらいがたった頃、大きい仕事をトントンとやり、彼に300万円貯金ができたんです。その貯金を使って、さらに証券会社にお金を借りて、何倍もの相場を張ったのが、きっかけでした。いわゆる信用取引です。「信用だけはやめて」と言ったら「絶対に損はしない。お前は黙ってろ!」と怒鳴られました。

 夫は、どんどん損失を膨らませていきました。証券会社に返すお金もなくなり、私が貯めていた長男の受験資金なども含めて夫にかすめ取られ、ずるずると1,200万円貸していました。しかも、その後、株価が回復するに違いないという大底値で、なぜか彼は手を引いてしまったんです。

――家を出るきっかけとなった出来事は何ですか?

 夫と末っ子と私の3人で住んでいたマンションが老朽化で取り壊されるということで、立ち退くことになりました。それで私は彼に、「今度こそ、これを機会に別れるつもりよ」と伝えました。しかし、彼はその言葉を本気にせず、「まあいいから、いい物件を探してよ」と言うだけでした。

 なかなか彼の出している条件(広さ・家賃)に合う物件が見つからなかったのですが、そのうち不動産業者が勧めてきたのが、母と長男・次男が暮らしているマンションの別の部屋だったのです。そして立ち退き期限ぎりぎりに、夫と末っ子とともに、実家とは別フロアに引っ越しました。荷作りや荷ほどきは、すべて私任せでした。2週間、私が1人で片付け続け、地道にきれいになっていきましたが、私が出て行くと決めたとき、まだまだ荷物が積み上がっていて、私や末っ子の荷物を持ち出せていない状態でした。それもあって、彼は私がまさか出て行くとは思わなかったんでしょう。

――何があったんですか?

 引っ越しが済んで半月後に、家を出たんです。その日は保育園のイベントに行く途中で、「おまえは頭が悪い!」と、いつものように怒鳴られました。それで私、悲しくなってしまって「こんな気持ちで、保育園の楽しい会に参加はできないな」って思ったんです。「私は行きません。あなた、行きたいんだったらどうぞ」と彼に言って、末っ子を彼に預けました。

 彼が2~3時間その会に参加している間に、私は新居に戻って、別フロアの実家に荷物を移動させました。彼は、私の物を嫌がっていたので、私は自分の荷物は極力少なくしていたんです。なので、荷物を出すのは簡単でした。

 私が荷物を運び出した後も、彼は「どうせ帰ってくる」くらいに思っていたのでしょう。私が末っ子を連れていくのを普通に見ていました。それに、末っ子だけ置いていかれたとしても困るでしょうし。Facebookの投稿で彼の不在を確認して、残した荷物を何回かに分けて出したんです。私が出ていった後、部屋は、みるみるうちにゴミ屋敷になっていきました。私がいないと、お酒の空き缶と、デパ地下とかで買った高いお総菜の残りが入ったままの生ゴミや、脱ぎ捨てた服や下着が、床にどんどんと積み上がっていたんです。

■養育費の支払いを拒否している状態

――別れてから、子どもを一度も会わせていないのですか?

 いいえ。私が出て行ってから2カ月間ぐらいは、週末に会わせてました。会いたいか彼に聞いて「会いたい」と言えば、私名義の車を貸して「行ってらっしゃい」って、そんな感じ。

 最後、彼が末っ子に会ったのは昨年末でした。その日は出かける予定だったんですけど、子どもが熱を出してしまって行けなくなったんです。すると、珍しく彼の方から会いに来ました。末っ子は、玄関先で彼からビスケットを受け取ると、すーっと離れてしまったんです。私は彼が怒るのが怖くて、「パパにありがとうは?」って促したら、息子が「ありがと」と彼の顔も見ずに言って、お兄ちゃんにビスケットを見せに走り去ってしまいました。それが、彼が末っ子に会った最後でした。その後、彼から、「末っ子に会いたい」という申し出は一度もありませんでした。

――その後、離婚に向けて調停を起こされたんですか?

 そうです。私からは離婚調停を。それに伴い、彼は面会交流と親権の調停を、それぞれ申し立てています。彼は年末以来、末っ子に一度も会いに来ないどころか、連絡すらしてこなかったのに、なぜ今さら面会を申し立ててきたのか、謎に思いました。暴力や暴言を一切否定したり、株に関しては「夫婦で協力してやっていたから、借りたお金を全額返す必要はない」と主張したり。彼は嘘ばかり言っています。

――養育費は、もらっているんですか?

「経済的につらい状況だから、払いたいけど払えない」といって、支払いを拒否している状態です。だけど別れる前に、「おまえには払いたくない」と言ってましたからね、それが本音でしょう。養育費は私のためじゃなくて、子どもの成長のためにあるのにね。

――千秋さんは、今後、子どもを彼に会わせる気がありますか?

 会わせたくないです。彼の顔を思い出すと、私をにらみつけている顔しか思い浮かばず、気分が悪くなります。今も自宅が近いので、会ってしまうのではないかと、毎日おびえながら暮らしています。そんな理由から、調停中も顔を合わせないように、調停員さんに計らっていただいてるんです。

 彼が末っ子を連れているときに、何度もけがを負わせています。Facebookに気を取られていたのが原因だったり、末っ子を持ち上げて高い所から落としてしまったりしたんです。感情を抑えられない暴力的な性格や、いきなり泣きだしたりといった数々の奇行を思うに、会わせたら、子どもが危険にさらされるのではないかという心配が拭えません。だから、調停員さんや調査官さんには「面会はさせたくない」と伝えています。

 どうしても会わせなければならないのなら、第三者機関を間に入れて、第三者の立ち会いの下での面会交流を望みます。その際の費用はすべて彼持ちで、というのが条件です。一方、夫のほうは「別居から2カ月間、2人で会っていたのに、それはおかしい」と主張しています。確かにその間、直接会わせていました。だけど、渦中にいるときって、それが異常な状態だっていうことに気がつかないですからね。

――末っ子と上の2人との関係はどうなんですか?

すごくいいですね。15歳、8歳、3歳。だんご三兄弟みたいに、いつも身を寄せ合っています。長男と次男は、末っ子が大好きで、「○○を取られてたまるか。僕らが○○のお父さんだ」って一人前なことを言っています。ここ数年で長男と次男も成長し、いろんなことがわかるようになりました。夫のことをハッキリと敵視していますね。調停に行くときも「ママがんばってね」と応援してくれます。よくわかっていない末っ子も一緒になって、「ママがんばれー!」と言ってくれますよ。

――二度の離婚を振り返って、いま思うことは何でしょうか?

 ひと言で言うと、面白い経験。過ぎてしまえば、どんな大変な経験も、忘れてしまいがちかな。だけど良かったことだけは、割と覚えています。2番目の夫とは良い思い出が少ないので、そのうち、ほとんど忘れてしまいそうですね。離婚を通じて確信したのは、自分に一番近い人を幸せにできないと、自分も幸せにはなれないということです。

――子どもたちには、どんなふうに育ってほしいですか?

 “立派な大人”よりも“誰かの幸せをつくり出せる人”になってほしいですね。今後は子どもたちが好きなことを見つけて邁進できる環境を(精神的にも経済的にも)整えてあげようと思って、日々頑張っています。将来、私の親としての役目が終わる時まで、子どもたちそれぞれの思いに寄り添い、一緒に悩んだり、喜んだりして、生きて行きたいです。

西牟田 靖(にしむた やすし)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒。旅行や近代史、蔵書に事件と守備範囲の広いフリーライター。近年は家族問題をテーマに活動中。著書に『僕の見た「大日本帝国」』『誰も国境を知らない』『日本國から来た日本人』『本で床は抜けるのか』など。最新巻は18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)。数年前に離婚を経験、わが子と離れて暮らす当事者でもある。

<取材協力者募集>
この連載の取材にご協力いただける方を募集しています。夫と別居または離婚して子どもを育てているお母さん、子どもと夫との面会状況についてお話をお聞かせいただけると幸いです。下記フォームよりご応募ください。

ご応募はこちらから

躁うつ病の前夫と離婚後に出会った7歳下の再婚相手は、暴言・暴力ばかりの“モラハラ男”

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第11回 大杉千秋さん(仮名・41歳)の話 (プライドと劣等感の間で揺れる夫・前編)

「毎日怒鳴られると、自尊心がすべてなくなってしまうんです。どうやったら彼に怒られずに済むか。そればかり考えて生きていました」

 そう話すのは大杉千秋さん。41歳、テレビ局勤務の女性だ。大杉さんは、離婚後、2人の男の子とともに、関東某県にある実家で暮らしていた。躁うつ病(双極性障害)の夫と別れた後、何があったのだろうか?

※1人目の夫の話
「うつ病の夫は長男の誕生も喜ばなかった」大学の同級生と結婚したが……
「どこに暮らしているのかもわからない」別れた夫が躁うつ病でも、子どもと会わせたかった

■親に紹介した直後に、彼の態度が急変

――離婚後はどのような状態でしたか?

 何年かは精神的にすぐれない状態でしたが、だんだん元気になってきて、仕事でもプライベートでも精力的に動けるようになりました。

 離婚して数年たった頃に行った震災復興のチャリティーアート展で、目を惹く作品を見つけて購入しました。その作者が、後に結婚する彼だったんです。7歳年下の男性で、私が「とても素敵ですね。家に飾りたいです」と言うと、うれしそうにしていたので、名刺交換しました。

――彼とは、どうやって交際に至ったんですか?

 その年の後半、震災復興番組の制作で、CGの外注先として、たまたま彼と一緒に仕事をすることになりました。岩手県でのロケにも同行してもらい、そのロケで彼と急接近したんです。割とすぐに彼のほうから「結婚を前提に付き合おう」と言ってきました。

――その後の交際は順調だったのですか?

 それから1カ月の間、彼は車でいろんなところに連れて行ってくれたんです。自分が純粋に楽しむことなんて、もう何年もしていなかったときに突然訪れた楽しい時間だったので、「神様からのプレゼントなんじゃないか?」と奇跡的なものを感じていました。その時期、彼はとても優しかったので、私も彼のことが好きになっていたんです。そして、付き合い始めて1カ月後、2人で九州へ行って、彼の両親に結婚の挨拶をしました。ただ、入籍はまだです。籍を入れたのは、妊娠が判明した後の、その年の年末でした。

――ともかく、ずいぶん急な展開ですね。

 それだけではありません。九州への挨拶旅行の帰り、彼の態度が急変したのです。飛行機の中で、突然シカトが始まりました。「えっ?」って感じです。いま考えると、親に紹介した時点で、もう自分のものになったと思ったのかもしれません。

 以後、彼の態度は明らかにおかしくなっていきました。一緒に買い物していると突然いなくなったり、会った瞬間からシカトしたり、急にしゃがみ込んで長時間動かなかったり、前触れもなくシクシク泣き始めたりしたんです。その都度、何か私に問題があるのかなと思って、戸惑うばかりで、徐々に「また精神病の人なのかな、困ったな……」と思うようになりました。

――同居の経緯を教えてください。

 都内のマンションを賃貸契約したのを機に、私と彼が住む新居からスープの冷めない距離に、私が貯金をはたいてマンションを購入し、関東近県から私の両親と2人の息子たちに引っ越してきてもらいました。彼が私の実家に同居することは到底無理だったので、私の両親と彼の双方の事情を考えたら、その方法がベストでした。

――彼との生活は、どうだったんですか?

 シカトされたり、急にシクシクと泣かれたり、さらには些細な原因で怒鳴られることが増えてきたので、「もう無理。別れたい」と彼に言いました。すると突然、彼が「わーっ!」と叫んで、私を突き飛ばしたんです。いま考えると、そのとき逃げればよかったって思うんですよ。だけど彼と円満に別れたくて、ずるずると共同生活を続けてしまいました。

――暴力は、その後もあったんですか?

 首を絞められたり、蹴られたり、髪の毛をつかまれたまま、隣の部屋まで引きずられたり、投げられて足を強打して歩けなくなったり。そういった身体的な暴力は、3年の結婚生活のうち6~7回ありました。

 そのほか、私が夜中にひどい腹痛を起こし、「救急車を呼んで」と頼んでいるのに、「うるさい! 黙ってろ!」と怒鳴られました。体温が34度まで低下し、翌朝、病院に駆け込んだら、お医者さんに「なんで救急車で来なかったんですか?」と言われました。

――言葉の暴力はどうでしたか?

 暴言や威嚇、罵倒は毎日ありました。「おまえは頭が悪い、おまえは何もできない、おまえの価値観はくだらない」といった言葉は毎日言われましたし、千秋と呼ぶ代わりに「おまえ」「ブス」「デブ」「ババア」などと呼ばれていました。

――ひどいですね。彼の生い立ちを教えていただけますか?

 九州のサラリーマン家庭に生まれた彼は「この子は賢い」「天才」と、ちやほやされて育ったそうです。東大・京大が当たり前の進学校から中堅の大学に進学し、卒業後はフリーランスで、写真を撮ったり、映像を作ったりするのを仕事にしていました。高校時代の友人は、医師や弁護士や官僚などになっていたので、Facebookから垣間見える友人たちの裕福な暮らしぶりに、彼は嫉妬していたようです。

――コンプレックスですか?

 はい。実際、彼は私に「俺も勉強すれば東大ぐらい入れた」とか、よく言っていました。かなりのコンプレックスがあったようです。彼はFacebookに向かって生きていて、自分の投稿に「いいね」があまりつかないと、不機嫌になって、私に八つ当たりしました。私と出かけていても、Facebookに何か書き込みがあると、すべてそっちのけで返信に全力を傾けるんです。同級生などに、成功していると思われたかったのでしょう。Facebook上で演出された彼の暮らしは、まるでセレブでした。現実世界よりも、Facebookで演出した自分の暮らしこそが大切なようでした。

――贅沢ぶりをFacebookで見せびらかすんですね。

 そうなんです。彼は、欲しいと思った物は我慢ができませんでした。贅沢で高価な物ばかり好み、たとえば2万円とかするシャンパンを平気で買ってくる。そのグラスだってめちゃくちゃ高い。着るものも、十数万円もするジャケットや数万円のシャツを買ったりする。そして買った物を撮影して、アップしていくんです。

――撮影方法にも、こだわっていそうですね。

 はい。Facebookに載せる写真を撮るのに自宅で大きなストロボをたいて、レフ板まで当てるんです。旅行のときなんて、三脚や重たいレンズ(3種類)を常に持たされました。レンズを出すのに手間取っていると「お前がノロノロしてっから、光が変わったろうが!」って怒鳴られたり、「レフ(板)の当て方が違う!」と怒鳴られたりと、完全なアシスタント状態でした。

――家では、どうでしたか?

 毎日の家での食事には、レストランクオリティを求められました。前日の残り物を混ぜて出すのは御法度。同じ料理を月に2回出すと、「こないだ出たばっかりやろ!」と怒られました。盛り付けにも厳しかったです。「工夫が感じられない」からとシクシク泣きだされたときには、困惑しましたし、ぞっとしました。とにかく、食事を出して文句を言われない日はなくて、つらかったです。でも、私はどんなに仕事が忙しくても、疲れていることを理由に食事を作らなかった日はないですね。彼が怖かったので。

――そのほかの家事については、どうだったんですか?

 洗濯、皿洗い、掃除と、すべて私任せ。なのに、いろいろ口を挟まれました。洗濯の仕方が気に食わないと叩かれたり、食器に臭いがついてないか、食べるときに確かめられたり。服にしろ食器にしろ、高価な物が多いので、取り扱いには注意を強いられました。チリひとつ落ちていただけでも「汚ねえな!」って怒られるので、掃除は常にしていたんです。お掃除ロボ状態ですが、私が掃除している姿を見ると、汚い物を見るような目で「貧乏臭えな」となじられるから、いつも彼が寝た後に、寝る時間を削って掃除していました。怒られるのが怖くて、夢中になって掃除していたら、朝になったこともあります。

――その頃の生活費の分担は、どうしていましたか?

 アバウトですが、折半でした。夫が家賃、私が食費や雑費という分担で。夫は自分だけが家賃を払っているからと、私のことを「居候」と呼んでいました。夫と私の支出額は、ほぼ同額だったのに。ちなみに彼の年収は、私と付き合う前は150万円くらいだったようです。私と結婚していた3年間は収入がなぜかあって、1,000万円あった年もありました。だけど、入ってきたらすべて使っちゃうので、貯金はゼロでした。

――彼は、2人の子どもたちとは、どのように接していたんですか?

 1~2カ月に1回とかしか会わないのに、会うと必ず子どもの写真を撮っては、Facebookにアップするんです。それでイクメンと呼ばれたいんです。そして子どもたちと会って別れた後は、「おまえの育て方が悪いから、あんなやつになったんだ」って毎回2時間ぐらい説教されました。

――2人の子と彼との関係はどうなんですか?

 彼は子どもたちを嫌っていて、子どもたちにも口うるさかった。特に次男を嫌っていて、次男と初めて会った後には、「あいつは俺の目を見ない。俺のことを馬鹿にしている」と言ってました。そのとき次男はまだ、オムツが取れたばかりの、赤ちゃんっぽさの残る子どもなのに。長男は私と夫の関係を見抜いていて、「ママは向こうの家にいるときは泣いている気がする」と、母に言ったらしいんですよ。確かにその頃、私の心の中は常に大泣きでした。
(後編へつづく)